現実のたてる音/パレ・ド・キョート「序」

【長過ぎる枕】

尋牛序一

從來不失 何用追尋    
由背覺以成疎 在向塵而遂失 
家山漸遠 岐路俄差   
得失熾然 是非鋒起

I Looking for the Cow

She has never gone astray, so what is the use of searching her? We are not on intimate terms with her, because we have contrived against our inmost nature. She is lost, for we have ourselves been led out of the way through the deluding senses. The home is growing farther away, and byways and crossways are ever confusing. Desire for gain and fear of loss burn like fire, ideas of right and wrong shoot up like a phalanx.

第一に牛を探す まえがき

 はじめから見失っていないのに、どうして探し求める必要があろう。覚めている目をそらせるから、そこにへだてが生じるので、塵埃に立ち向かっているうちに(牛を)見失ってしまうのだ。故郷はますます遠ざかって、わかれみちでたちまち行きちがう。得ると失うとの分別が、火のように燃えあがり、是非の思いが、鋒のほさきのようにするどく起こる。


返本還源序九

本来清浄 不受一塵
觀有相之榮枯 處無為之凝寂
不同幻化 豈假修治
水緑山青 坐觀成敗

IX Returning to the Origin, Back to the Source

From the very beginning, pure and immaculate, he has never been affected by defilement. He calmly watches growth and decay of things with form, while himself abiding in the immovable serenity of non-assertion. When he does not identify himself with magic-like transformations, what has he to do with artificialities of self-discipline? The water flows blue, the mountain towers green. Sitting alone, he observes things undergoing changes.

第九にはじめに帰り源にたち還る

 はじめから清らかで、塵ひとつ受けつけぬ。仮りの世の栄枯を観察しつつ、無為(涅槃)という、寂まりかえった境地にいる。空虚な幻花とは違うのだ、どうしてとりつくろう必要があろう。川の水は緑をたたえ、山の姿はいよいよ青く、居ながらにして、万物の成功と失敗が観察される。

廓庵師遠/慈遠「十牛図」(英訳:鈴木大拙/現代日本語訳:柳田聖山)

 

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伝 周文作:相国寺

 

平櫛田中の代表作とされるものの一つに「尋牛」がある。岡倉天心(覚三)を会頭とし、平櫛田中、米原空海、山崎朝雲、加藤景雲、滝沢天友、森鳳声の6名が、1907年(明治40年)10月に結成した木彫研究団体「日本彫刻会」の第5回展に出品された高さ50センチに満たない小品である。

「日本彫刻会第5回展」が行われた1913年(大正2年)9月には、その「日本彫刻会」の会頭であった岡倉天心が死去している(1913年9月2日)。同作に伝えられるエピソードとして、その原型――田中の「彫刻」は、まず塑像原型を作り、それを石膏型に起こした後に、星取法で木材に写して木彫とする――を見た天心がそれを高く評価し、「フランスの若い彫刻家に見せたい」と言ったとも伝えられている。井原市立田中美術館の作品解説に拠れば、田中は「尋牛」をテーマとした事について「何年も彫刻を業としているが、いまだに真の彫刻が分からない私自身の姿だ」と言ったともされている。

言うまでも無くこの「尋牛」は、中国宋代の臨済宗楊岐派の禅僧・廓庵師遠とその弟子の慈遠によって書かれた禅籍である「十牛図」に由来している。日本で「十牛図」と呼ばれているものは、例えば「未牧」 「初調」 「受制」 「迴首」 「馴伏」 「無礙」「任運」「相忘」 「獨照」 「雙泯」から成る太白山普明禅師の「牧牛図頌」等のそれではなく、この臨済宗楊岐派の廓庵和尚/慈遠和尚によるものを指している。こうした廓庵による「十牛図」の事実上の標準化は、数ある「仏教国」の中でも極めて例外的であり、その一事を以ってのみ「外国文化」である仏教受容史的な側面も含め「日本特有」である。

「十牛図」は “Ten Bulls(Der Ochse und sein Hirte)" として「西洋」社会にも知られてはいるものの、その「作者」が中国語読みの “Kuòān Shīyuǎn” ではなく “Kaku-an" という日本語読みで通っているのは、偏に鈴木大拙氏等の日本人の翻訳紹介によるものである。事実上「日本特有」が「世界標準」になったのである。

この「日本特有」の廓庵/慈遠「十牛図」の受容のされ方は、そのまま「日本特有」の――少なくとも或る時代までの――精神的バックボーンの一部を形成してはいるだろう。嘗ての日本の知識人の知的常識/素養として――「寺」という機関に代表される「仏の教え」が、永く日本に於ける精神形成装置の重要な一つであったが故に――漢籍や仏典は位置していた。

当然「古来」的な日本人である平櫛田中の頭の中には「十牛図」の「説話」の全てが入っていただろうし、同様に現代日本人に比すれば相対的に漢籍や仏典に親しかった岡倉天心もまた、「尋牛」のタイトルを以ってその全体を想像した事であろう。両者ともそうした「教養」の中にあったのである。

小平市平櫛田中彫刻美術館の「音声解説」では事実上「十牛図」全十図の内の第六の境位である「騎牛帰家」までしか触れられてはいない。そこでは「この作品には肝心の牛の姿はありませんし、山も草も表現されてはいません。けれどもその分、わたしたちが造像力を働かす事によって、作品の世界は無限に広がって行きます。皆さんも是非その様に鑑賞してみて下さい」としているが、そもそもが「十牛図」に於ける「尋牛」が、「牛」を彫刻的な形で表す事の不可能な境位――谷岡ヤスジ氏の「尋牛」の様な次元を跨いだ表現も彫刻には不可能――である事は、田中にしても天心にしても「常識」であった事だろう。

「十牛図」は「自己実現」の書であるとも言われる。「牛」に見立てられているのが「真の自己」、それを探し求める「牧人」が「真の自己とは何であるかという問い」であるとも言われる。但しその「真の自己」は、巷間言われるところの所謂「自分探し」に於ける「本当の自分」を(直ちに)意味するものではない。

「十牛図」に於いて「真の自己」を表しているのは、「牛」と「牧人」が共に画面から消えた第八「人牛倶忘」、第九「返本還源」、第十「入鄽垂手」の三つの境位になる。即ちここでの「真の自己」とは、何も描かれないもの、川のほとりの花の咲いた木、老人が童子に話して聞かせる事の三態になる。「何者かになる事/何者かであろうとする事」を目指す現代の多くの――通勤電車の戸袋で広告している様な――「自分探し」では、こうしたものを「本当の自分」とする事はまず無いだろう。

「十牛図」が三次元表現される場合、伝統的には第六「騎牛帰家」、即ち(人から見て)牛の背中に乗って笛を吹きながら/(牛から見て)笛を吹く人を背中に乗せながら、元いた場所へ帰る姿を表現する事が多い。それを「彫刻」に当て嵌めれば、「彫刻家であろうとする事」と「彫刻の何たるか」が一体となった様という事にはなるが、田中はそれを避けて「彫刻の何たるか」を探し求める最初の段階である「尋牛」に留まり続ける。

況してや「彫刻の何たるか」を消す(第七「到家忘牛」)事も、「彫刻家であろうとする事」と「彫刻の何たるか」の双方を消す(第八「人牛倶忘」)事も、「彫刻家であろうとする事」と「彫刻の何たるか」を消す事でその「背後」の「現実」が顕現する(第九「返本還源」)事も、手をぶらりとさせて何もせずに子供と話す(第十「入鄽垂手」)事も、田中は自らの姿としては表現し得なかった。それは偏に田中が近代に「目覚め」させられた「彫刻家であろうとする」病に罹患した者だったからであり、また凡そ近代以降の芸術家の多くが「芸術家であろうとする」者であるとすれば、「芸術家であろうとする事」と「芸術の何たるか」を共に消し去らない境位に留まらねばならない。何故ならば、近代以降の芸術家というのは「芸術家であろうとする事」と「芸術の何たるか」の分裂から生じる緊張状態に留まり続ける事を制作の原動力とする遅延(「いまだに真の彫刻が分からない」)の別名だからだ。

それに対して観者は「芸術」に属さない者であるが故に「芸術の観客であろうとする事」から自由になれる可能性を持つ。また「芸術の何たるか」からも自由になれる可能性も持つ。従って「芸術家であろうとする」者の「先」を行く事も可能だ。但しそれは何らかの形で「芸術」を経た上での話ではある。芸術展に行って――多かれ少なかれ何らかの形で「芸術の何たるか」を追い求めに行き(「尋牛」)――そこで「芸術の何たるか」の「跡」や「姿」を「対象」として発見する(「見跡」「見牛」)も、「芸術の何たるか」を自分のものにしようと悪戦苦闘する(「得牛」)も、「芸術の何たるか」を己のものとしたと感ずる(「牧牛」)も、「芸術の何たるか」と己が一如となったと思い込んで家路に就く(「騎牛帰家」)も良しである。しかしその一方で、芸術展で「芸術の何たるか」や「芸術の観客であろうとする事」を敢えて消し去る(「到家忘牛」「人牛倶忘」)も、「現実」の中に「芸術の何たるか」がそのまま存している事を見る(「返本還源」)も、傍らの子供とずっと話している(「人牛倶忘」)も良しなのである。

「現実のたてる音」という芸術展のタイトルを目にして頭に思い浮かべたのは、「十牛図」に出て来る数々の音である。例えば「尋牛」の「頌」に登場する音は「晚蟬吟(秋のおくれ蝉の声)」である。

頌曰
 茫茫撥草去追尋 水闊山遙路更深
 力盡神疲無處覔 但聞楓樹晚蟬吟

Alone in the wilderness, lost in the jungle, he is searching, searching!
The swelling waters, far-away mountains, and unending path;
Exhausted and in despair, he knows not where to go,
He only hears the evening cicadas singing in the maple-woods.

頌って言う
 あてもなく草を分けて探してゆくと、川は広く山は遥かで、ゆくてはまだまだ遠い。
 すっかり疲れ果てて、牛の見当もつかぬようになって、あやしい楓の枝で鳴く、秋のおくれ蝉の声が、耳に入ってくるばかり。

(英訳:鈴木大拙/現代日本語訳:柳田聖山)

 

あのマルティン・ハイデガーは、ドイツ語訳された「十牛図」に関心を示し、特に第九「返本還源」がアンゲルス・シレジウスの詩を彷彿させるとしている。

Die Rose ist ohne Warum. 

Sie blühet, weil sie blühet.
Sie achtet nicht ihrer selbst,
fragt nicht, ob man sie siehet.

薔薇は何故無しに有る、
それは咲くが故に咲く。
それは自分自身に気を留めないし、
ひとが自分をみてゐるか否かと、問ひはしない。

Angelus Silesius “Der cherubinische Wandersmann"
アンゲルス・シレジウス「ケルビンの如き遍歴者」(辻村公一訳)

 

「現実のたてる音」展へは、秋のおくれ蝉の声を聞く様に聞きに行こうと思った。秋のおくれ蝉は何故無しに鳴く。秋のおくれ蝉は鳴くが故に鳴く。それは自分自身に気を留めないし、ひとが自分をみてゐるか否かと、問ひはしない。

「パレ・ド・キョート」イベントもまた、秋のおくれ蝉の声の様にも秋の虫の音の様にも、或いは降り続く雪の音の様にも騒がしいものかもしれない。しかしその複雑な騒がしさは、虹色に回折する静けさに通じるのだろう。

念為だが、これは「芸術家であろうとする」者の話ではない。翻って「芸術に勤しもうとする」者の話でもないのである。

 【長過ぎる序了】

 

 【続く

躱す

馬鹿もほどほど いい加減にしろよ

オケが終っても歌っています
あること無いことはじからポイポイ
口先だけでゴロだけ合わせ
あたしゃ歌手です いい加減にしろよ......
お風呂の加減はいかがです?
いい加減です

 

所ジョージ「いい加減にしろよ」

 

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展示室に入ると早速「躱す」をされてしまった。会場である CAS の展覧会情報に掲載されている椎原保氏や谷中佑輔氏の作品のイメージを抱えて行くと、果たしてそこにあったのは(取り敢えず現象的には)それらとは全く異なるものであった。全く以って「躱す」である。

但しその当該ページには、それぞれの作家が「躱す」事が予め書かれてはいる。

谷中は自身の身体と自らがつくりだす彫刻とに向き合い、よじ登り、食べ、叫ぶ。 他方、椎原は、丹平写真倶楽部のメンバーであった父・椎原治(1905-1974)と向き合う。 亡き父が残した散逸しつつある資料の整理と、自身の日常との重なりのなかで、向き合う。

CAS は「CAS」と「CAS Annex」で構成されているらしい。本展は入口入ってすぐの「本館」が谷中佑輔氏のエリア、左に折れた「別館」が椎原保氏のエリアになっている。

極めて大雑把な上っ面で言えば、「本館」は粘土の部屋であり、「別館」は写真の部屋である。昇降機の無いこのビルの3階のギャラリーに1トンの粘土を運んだという事が、この展覧会に興味のある人間の間では話題になっていたりもする。

果たして1トンの粘土で何が作れるだろうか。横綱白鵬の実物大原型ならぎりぎり6体は作れる。しかし換言すればたったの6体しか作れないとも言える。現役時代の六代目小錦八十吉(最高位東大関)ならば、4体を作る事は出来ない。アパマンショップの店頭に設置されている青い小さな象=「住む象くん」の原型を、1トン程度の粘土で作れるかどうかは極めて怪しい(以上それらを「無垢」で作るという前提に於いて)。

「1トンの粘土」に親しんだ事の無い人間は、「1トンの粘土」という字面を前にして「ええええっ! 1トンも!!!」となるであろうし、その一方で粘土まみれの人生を送っている人間なら「ああ、1トンぽっちか」と思ってしまう物理量である。「1トン」という数字は「多」と「少」のダブル・ミーニングを有している。因みに自分は後者の側にいる。

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粘土と写真(機材)というのは、極めて妖しい誘惑を放つものだ。全くそれらは「うずうず」させられるメディアなのである。
 
人は粘土の前に立つと何かを作らねばならない気にさせられてしまう(これは幼児期から特に教えた訳でもないのにそうなる)。「創世記第二章」には「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった(ז וַיִּיצֶר יְהוָה אֱלֹהִים אֶת-הָאָדָם, עָפָר מִן-הָאֲדָמָה, וַיִּפַּח בְּאַפָּיו, נִשְׁמַת חַיִּים; וַיְהִי הָאָדָם, לְנֶפֶשׁ חַיָּה.)」とあるが、その人は「土のちり」に水を含ませた粘土的な土で出来ているのかもしれない――神にとってはそれが最も造形し易い。アダム(אָדָם)という名もまた「土」と「人」のダブル・ミーニングである。何だろうか。かたどり(形象)へと誘惑する粘土の放つこの人類史的な妖しさは。であればこそ、少なからぬ芸術家は、その妖しい「うずうず」から何とか距離を取ろう(躱そう)と悪戦苦闘するのである。
 
カメラもそうだ。カメラを渡されれば何かを写して残さねばならない気にさせられる(幼児にスマートフォンを渡せば、すぐさまカメラアプリでホームボタンを押し、その結果を確かめる)。何だろうか。かたどり(形・撮)へと誘惑するカメラの放つこの妖しさは。であればこそ、少なからぬ芸術家は、その妖しい「うずうず」から何とか距離を取ろう(躱そう)と悪戦苦闘するのである。
 
「いたずらに殺気を帯び凄気を浮かべ(「受難の村正」柴田南玉:「講談全集」大日本雄弁会講談社:1928-29)」ているが故に「斬る」という思念(邪念)を吸い、それを持てば人を斬らずにはいられなくなる刀を「妖刀」と称したりもするが、「妖かし」という点では粘土もカメラも「妖刀」と違わぬ、「作る/撮る」という思念(邪念)を吸って人を狂わせるマテリアル/メディアなのである。「躱す」展の「鑑賞」ポイントの一つは、芸術家のこれら「妖かし」への抗いであろう。

「形」の誘惑から逃れようとする粘土がある。しかし何をどうやってもそれは「形」になってしまう。1歳児位しかそこからスマートに逃れる術は知らない。身体を持たない筈の神(即ち神に於いては彫刻は身体性と関わりが無い)ですら「形」の誘惑を逃れられない。彫刻という邪念を振り払うにはどうすれば良いのか。粘土に於けるこの会期は一種の「修行」を見せるものである。そして確かに「修行」は「形」を見せるものではない。結跏趺坐(例)は外から鑑賞する為の「形」ではない。

本展の会期中、粘土には様々な意味の不純物が混ぜられる。極めて現実的に言って「形」を作る為の造形材料の扱いとしてはかなり乱暴に思えたりもする。それは水彩画家が絵を描きながら、そのパレットに唾を吐き続ける様なものかもしれない。そして唾を混ぜた絵具を、紙に移して行くという因業は止む事は無い。水彩画家はまずは「描かねばならない人」なのだ。粘土に於いても同断である。

しかし粘土は水彩絵具とは異なる。通常の場合、型取りまでの中間項でしかない粘土には再生の儀式がある。会期中に1トンの内の数キログラムは「乾燥」という形で失われて行く。粘土に対して特別の関心が無い者ならそのままにしておいても全く平気だが、粘土に人生の首根っこを掴まれた者は、そのカチカチになってしまった粘土に水を含ませ、粘土練り機に通す事を殆ど反射的にしてしまう。何故ならばカチカチの状態では「形」を作るのに不適だからだ。全く以って因業な話ではないか。そしてその因業がまるまる会場で見られるのである。

そうした因業は、壁の十字やモーター仕込のものからも現れる。乾燥によってひび割れた粘土の奥から、その「形」を保持する為の角材(粘土彫刻の極めて悲しき内骨格)が見え始めて来てしまうのだ。そしてその因業をまるまる受け入れつつ、この「修行」は行われ続ける。

全能の神ならば、「形」と「粘土」との間にある関係に決着を付ける為に、「呪われし粘土よ 地上から去れ」と言いつつ、地上から全ての「造形」に適した粘土を瞬時に消し去ってしまう(或いは全ての粘土を業火によって「焼き物」にしてしまう)かもしれない。この地上から一切の粘土が無くなれば、或る種の彫刻はそこで全て終わるからだ。しかし因業にこそ生きる全能ならぬ人間は、「造形」に「使える」粘土を、再度「造形」に「使える」様にと、粘土を練る事でそれを細々と再生する道を採ったのである。

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「別館」にあるのは、インフォメーションの「椎原保」作品とは異なり、作家の父親である「椎原治」氏(1905〜1974)の写真の関連である。そこは恰も「椎原治記念館」の趣すらある。

その展示室内には椅子が3つ程置かれている。これらに座って大いに腑に落ちる気になれるのであれば、その人は大いに腑に落ちれば良いだろう。

ベスト判という懐かしいフォーマットが見える。木製の引き伸ばし機の電源コードは袋打ちでプラグは丸型。コンタクトプリントの中のパフォーマンスの様な事をする美大生は今は相対的に少ない。しかしノスタルジーに陥ってはならない。それでは「別館」が「浪花千栄子」の貼ってある「昭和酒場」になってしまう。この「別館」への入口付近には、そうしたノスタルジーを戒める文言が貼ってあったりもする。そしてそれは写真の因業論としても読める。1976年中に書かれただろうその全文を引用する。

福野輝郎

 

 1930年代の一人の作家の、ここに現前している営為の痕跡は、ともすれば、記憶にしまわれた映像が引きずり勝ちの、あの懐かしさと云う萎えたロマンティシズムをそれ自身が断罪している。見る者は、殊更、時代背景としてのシュルレアリズムや、それが前衛と云われたかも知れない手法の奇矯さに関心を寄せる必要もない。その目新しさを、「失われた時」に限定する権利はいまなおわれわれにはなく、知られざる世界の構成に向けて、あらゆる領域の詩的言語がようやく孤独な作業を始めたと云うこの「現実の時」の中で、その映像はやはり新しいのである。
 事物を写しとる機械は、この作家にあって文字通りの写実の道具とはならなかった。写す行為は事物を巧妙に写しとることによって完結すると云う、あの自然主義の傲慢さはそこには一切ない。眼はそのような完結への計略に開かれてはいず、ただ事物のもつ存在の抽象性に集中している。
 この抽象性への透視こそ、終りのない運動の持続として、何よりもこの作家の写す行為を支えているのだ。決して眼に淫することのないその視線は誠実であり、恣意的な、いわゆる抽象への誘惑からも自由である。
 埋蔵さながらに、日々絶えざる腐蝕にさらされた物質としての紙片の表層から、ちょうど印画紙があの暗闇の液体の中で次第にその画像を鮮明にしてゆくように、覗かれ、あるいは覗かれてしまっていた世界は、いま半世紀を経て、見る者の前にこの上もなく明るく立ち現われている。

 

「眼はそのような完結への計略に開かれてはいず、ただ事物のもつ存在の抽象性に集中している。この抽象性への透視こそ、終りのない運動の持続として、何よりもこの作家の写す行為を支えているのだ。決して眼に淫することのないその視線は誠実であり、恣意的な、いわゆる抽象への誘惑からも自由である」。妖かしへの抗い。そしてこれは隣室の粘土に向けられた言葉の様にも読める。「交わす」。

上掲引用文は、1977年の「椎原治回顧展」(1977年1月6日〜29日)の三つ折パンフレットの中葉に印刷されているものだ。その左に1940年の「椎原治」氏の言葉が記されている。

 繪畫と同じ道を寫眞は何時までも進んでゆくべきではない。繪畫の影響に依って進歩した寫眞は、最早繪畫と違った別の、寫眞としての、軌道にのるのが本當ではないか。

 道具――あらゆる藝術を表現する手段又は方法はマテリアルを決定する。偉大なる藝術作品の上にはこれは確定的なものではないが、又道具を適當に使ふ事は偉大なる藝術作品を作成する根源となり素材と道具を最もよき條件に置く事がその作品の價値を高める。以上の様な意味で寫眞のゆくべき道は決定され、よりよき理想に向かって邁進する時代は既に現代でなければならぬ。

 

丹平写真集 “光” 昭和15年6月発行より

 

この文章を会場でつらつらと読んでいたら、その中頃に回転軸が見付かった。「適當」という単語である。この時代に於けるこの文章中の「適當」は、「 ある状態目的要求などにぴったり合っていること。ふさわしいこと(スーパー大辞林)」の意味で用いられている筈だ。しかし今ではそれを「テキトー」と書ける様な、実に高田純次的な意味として流通する事が多い。「いい加減」と同様のダブル・ミーニング。

この昭和15年の文章の「適當」を「テキトー」に置き換えてみると、その文章の全体の意味が180程も変わってしまう。「道具をテキトーに使ふ事は偉大なる藝術作品を作成する根源となり素材と道具を最もよき條件に置く事がその作品の價値を高める」。後段の「最もよき條件」が「テキトー」によって、確定的な「点」としてのものではなくなる。高田純次の「テキトー」もまた「躱す」芸なのであり、それは障害物によって発生する回折的なゆらぎとして現れる。

かいせつ【回折】

(名)スル
〔 diffraction 〕
波動の伝播が障害物で一部さえぎられたとき,障害物の影の部分にも波動が伝播してゆく現象。障害物の大きさと波長が同程度のとき顕著になる。音波電磁波光 X 線のほか,電子線中性子線などの粒子線でも,その量子力学的な波動性のために回折が起こる。

 

スーパー大辞林

 

粘土の「適當」やカメラの「適當」を、粘土の「テキトー」やカメラの「テキトー」にし続ける。それが一番「楽」なのではないだろうかと「修行」を見ていて思った。「簡単」ではないが。

すくなくともいまは、目の前の街が利用するためにある

【枕】

「枕」は仮定の話になる。

或る古書店で古い洋書を買ったとする。その本がどういう経緯でこの店先に流れ着いたのかは判らない。そのページを捲って行くと、二葉の写真プリントが挟まれていた。

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裏書めいたものは無い。一体何時頃の写真だろうか。少なくともカラーフィルムが発明されてからのものである事は確かだ。ここは何処なのだろう。撮影者は何処の誰だろう。そして何を思ってこのショットを撮ったのだろうか。

【枕】終わり。

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東京・恵比寿の waitingroom で、「すくなくともいまは、目の前の街が利用するためにある」展を見た。

同展プレスリリース(PDF)
http://www.waitingroom.jp/japanese/exhibitions/2015/doubles_vol1/07122015_waitingroom_doublesPR.pdf

奥の部屋の一面の壁全面に大きく「引き伸ばされて」いる写真があった。広大な牧草地。十数頭の牛。所謂「引き」で撮られた画面内にある何れのものに対しても、特段に関心の中心化を図っていない様に見えるこの写真の撮影は、この展覧会に「アーティスト」としてクレジットされている人によるものなのだろうか。

それにしては、余りにも「訴え掛けよう」とする姿勢の見えない写真だ。何らかの形での「訴え掛け」がその「存立」の根本にある「アーティスト」の写真には、多かれ少なかれそうしたものが――判り易い/判り難いを問わず――含まれているものではあるだろう。しかしこの写真は「訴え掛け」の在処を示そうとするものでも、また「訴え掛け」の不在を示そうとするものでも無さそうだ。言わばこの写真は、そもそも「『写真』にする」意志というものが欠けている様に見える。

極めて安手のテレビドラマに、ハンカチに染ませた「クロロフォルム」を嗅がされて誘拐されるという定形があるが、この大きく引き伸ばされた牧場の写真は、その失神状態から冷め、後ろ手に縛り上げられ監禁されている誘拐アジトの窓から見た風景の様にも思える。のんびりした牛の声が不安をいや増しにする。そこが何処であるかの情報に乏しい風景。ここは一体何処だろう。人の話し声もしない。何処の国かも判らない。

やれやれこれはまたまた極めて難儀な「写真」だなと展覧会場で途方に暮れていたところ、親切なギャラリーの方が、わざわざこちらに寄って来られて、この撮影者が誰であるかを明かしてくれた。それは作家の御祖母であられるという。それを聞いた事で「途方に暮れた」は終わり、それに代わる形で「より途方に暮れた」が始まった。「武田雄介」という「アーティスト」による「写真」ではなく、その「祖母」による写真。困惑をより深める為の親切。

「祖母」という一般名詞の持つ罠。「祖母」とは、基準となる者から直系2親等の「上流」に位置する「女性」を意味している。その基準を満たしていれば誰でも「祖母」になる。同じ長谷川町子キャラの「磯野フネ(サザエさん)」と「伊知割石(いじわるばあさん)」は――それぞれ「フグ田タラオ」「伊知割マコト/伊知割サナエ/伊知割ツトム」にとって――「祖母」である。「右寄り」の政党に投票し続ける「祖母」もいれば、「左寄り」の政党に投票し続ける「祖母」もいる。一日の多くの時間をオカンアートの制作に費やす「祖母」もいれば、Adobe Lightroom を立ち上げつつ次の個展のプランを構想している「祖母」もいる事だろう。

Wikipedia「祖母」を検索すれば、「直系2親等にあたる女性や高齢の女性についてはおばあさんを参照」とあり、「おばあさん」の項目へと飛ばされる。この「おばあさん」がまた極めて厄介な一般名詞だ。「おばあさん」には二重の「ジェンダー」が被せられている。「女性」という「ジェンダー」と、「老人」という「ジェンダー」だ。Google 画像検索で「おばあさん」を検索すれば、その二重の「ジェンダー」を被せられた人々の画像が表示される。

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「作家の祖母の方が撮られた写真です」。その言葉を聞いて、この Google 画像検索に表示されている様な人がカメラを構えている――どちらかと言えば微笑ましい印象の――姿がすぐにも想像されてしまう。しかし勿論それは「祖母」という言葉の罠だ。その「祖母」は、その写真を撮影した時点では、まだ「祖母」になっていないうら若き20代の女性だったかもしれないのに。しかしそうであっても「作家の祖母の方が撮られた写真です」は誤りではない。「作家のおばあさんの方が撮られた写真です」ですら「正確」な表現である。

勿論根掘り葉掘り問えば、その「祖母」がどの様な人であり、またその写真の撮影時期や撮影場所、撮影意図すら知る事が出来たかもしれない。しかしこの写真は「『祖母』の方が撮られた写真です」のままにしておくのが良い様な気がする。

極めてつまらない話にはなるが、「現代美術/現代アート」の世界には「拾ったもの」を作品に使用する系譜というものがある。「流木」アートや「廃品」アート的な作品を作る人は、何処の町にも必ず一人はいるだろう。「コラージュ」に使用される「コレ」された数々の「パピエ」は或る種の「拾ったもの」になるだろうし、少々の無理を承知で言えば「レディメイド」もまた「拾ったもの」の系譜にあると言える。そうした「拾ったもの」系譜の作品に対して、「近代的な主体概念を超克する」的な解釈――表現者本人によるもの含む――が常に被せられ(て解釈の消費をされ)るというのもまた、「現代美術/現代アート」の世界では極めて良く見掛ける、永遠に続くかと思われる日常風景である。

この「武田雄介」という人の、これまでの「インスタレーション」を見ての印象もまた、何処かで「拾ったもの」感のするものだった(その全てが買い求められ、或いはそれを構成するものの幾つかが「作られている」ものであったとしても)。その「インスタレーション」と呼ばれ得る何かを前にした観客は、何処かしら「途方に暮れる」感に向き合わされたものだ。それは「拾ったもの」――例えば「コーヒー缶」や「古タイヤ」や「手放された玩具」等――を使い、誰もが見知っている「ティラノサウルス」のイメージに「昇華」させて行く様な類の「アート」では無い。寧ろそれは、誰かがコーヒー缶を蹴り続けた挙句に道路端の凹みに嵌ってしまい、そのままで放置されている様な――しかし「道路端の凹みに嵌ってしまった」といった「事件」の起こり様を読み取る事が可能である様な――ものだ。

ここにあるのは、撮影者の情報が欠落している「拾った写真」として現れている。牧場の写真の向かって右隣の人物を撮った写真は、その相対的な「高精細」から判断して(その判断は間違っているかもしれない)字義通りの「拾った写真」ではなさそうだが、しかしそこには「私はここを拾った」的な切り取りがされている。そこを「アーティスト」が「拾った」理由は判らない。単純に元写真の天地のそれぞれ「中央」部分というのはあるかもしれない。その一方で、その「拾った」部分を「中央」にする為に、「全体」の写真の構図が決定されているという捻転が存在している様にも思える。

しかしそれもこれも判らないままにして、「より途方に暮れる」という状態に置かれ続けているのが良いのだろう。

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未だ京都の冬が残っていた2015年3月の話。「京都芸術センター」2階の “Speaking in Tongues(Aernout Mik)" を見た後に、「PARASOPHIA特別連携プログラム」の「鳥の歌」展を見るという事にした。

アーノウト・ミックを見終わり、階下に降りるとそこには校庭の向う側にある展示を最初に見て欲しいという内容の掲示がされていた。数十メートル離れた校庭越しの展示室(以後「第一室」とする)と思しき部屋の扉には、何らかの文章が書かれた紙が貼ってあるのが見えた。しかしそこに何が書かれてあるのかはこの距離では明らかではない。展示の指示通りにそこまで歩いて近付いて行くと、その紙に書かれた文言の内容が明らかになった。機器故障の為にこの部屋の展示は取り止めになったという意味の事が書かれている。最初に見て欲しいというものを省いて次のもの(「第二室」)を見る訳にも行くまい。その日は「鳥の歌」を見る事を止めた。

次に京都芸術センターの「鳥の歌」に行ったのは2週間後位だろうか。2週間というのは「機器」のテクニカルなそれなりの安定性が確保され、ベータ公開状態が解消されるだろうマージンを勘案してのものだ。果たして何事も無かったの如く「第一室」のそれは動いていた。

聞き様によっては他愛の無い話が、3面のスクリーンから交互に流れて来る。3つの「他愛の無い話」。この手の話は何処かで聞いた記憶がある。ああそうか、自分の母親が話していた、父親との馴れ初めの話だ。見合いの場で二人きりになり、それから見合い会場を出て近所の公園か何かを歩き、そこのベンチを若い女性(やがて自分の「母」になる)に譲る際に見せた若い男性(やがて自分の「父」になる)の些細な――しかし間が抜けている――行動に、「この人は良い人だ」と確信したといった様な話だった。

その話は自分の中では一回しか聞いた記憶が無いものの、しかし今でも鮮明に覚えている。その時、目の前の人は「母」である事から離れていた。同時にその話の中に登場する若い男の人(やがて自分の「父」になる)もまた。その目の前の「母」を着た「娘」の話す「他愛の無い話」はまた、「歴史」的には「第五福竜丸」と同じ頃の話でもある。しかしそれも「『時代』としては」なのではある。

確かに京都の「鳥の歌」では、三つの「他愛の無い話」があってこその「第二室」の「資料」だった。その「資料」の中には、相対的に若い男女が寄り添う写真もあった。「他愛の無い話」と「時代」。或いは「時代」と「他愛の無い話」。それは「時代」の中にある「他愛の無い話」なのだろうか。それともそうした「時代」に、完全には添い寝する事の無い(或いは「添い寝」を何処かで拒否する)「他愛の無い話」なのだろうか。

今回の waitingroom の展示では、京都の「第一室」に於ける様な「他愛の無さ」は後景に下がっていた。京都の「第二室」から派生しただろうこの展示は、そうした「他愛の無さ」に覆い被さっていた「時代」を、相対的に前景にする。

日本統治時代」の地図がそこにあった。巡り巡って、今は台湾人の「ノスタルジー」の対象でもあるらしいその地図の山間部を見て、ああここに隣室の写真の牧場があるのかもしれないと妄想した。

そして、何処とも判らない牧場(もしかしたら「台湾」かもしれない)に於ける「他愛の無い話」に思いを馳せた。「第一室」の「おばあさん」達が、まだ「娘」だった頃に話されていた様な。

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本の中に挟まれた「写真」は、或る女性によって1930年代の末頃に撮られた写真である事までは判った。その時、その女性は「他愛の無さ」からそれを撮影しただろう。そしてその数年後に彼女は「妻」になり、その直後に「自殺」するのである。

「鳥肌実」

ここ数年はテレビのアンテナをすっかり折っている。最後に長時間テレビ番組を見たのは、アナログ停波から数年前の2007年頃だ。従って、それ以降のテレビの「有名人」は、自分にとっては「無名人」である。

商店の店頭等でしばしば見掛ける、揃いの格好をして笑顔を振り撒いているお嬢さん達は、巷間「有名人」とされているらしいのだが、それが何という名前の人なのかは知らない。プロ野球全球団の監督の名前を答えよと問われても「知るかそんなもん」である。

世間で言うところの「ジジイ」の平均年齢には達していないと思うものの(まだ「優先席」を譲られた経験は無い)、年端の行かない幼児から「バカ!」とか「ウンコ!」とか「ジジイ!」とかの捨て台詞を投げ掛けられる程度にはすっかり「ジジイ」である。

従ってなのかどうなのかは判らないが、所謂「サブカルチャー」の流行に対する感受性/嗜好性は、未だ「ジジイ」の「ジ」ですら無かった頃(約40年前とする)に比べれば、アンテナの感度は随分と低くなっていると自覚はしているし、また今は敢えてかなり低めのチューン値にしているという事もある。

大体「ジジイ」はそういうものを期待されていない存在ではあるだろう。「ジジイ」が持てる資産に飽かせて観光バスをチャーターして大挙押し寄せ、ガレキを買いまくって「荒らし」て行くワンフェスというのは、少なくとも現時点では悪夢に見えるに違いない。

これが恥ずべき事なのかどうかは判らないが、この9月12日まで「鳥肌実」という名前の人物が存在している事を知らなかった。理由は流行に対するアンテナの感度が低い「ジジイ」だからだ。それが物議を醸す可能性を持つ名前である事も知らなかった。理由は以下同文だからだ。

鳥肌実」って誰だ。

そう思っていたら、すぐさま「鳥肌実」氏の「ヘイトスピーチ」が YouTube にアップされている事を知らせる公開ツイートが、リンク付きで「ジジイ」の TL の最上部に現れた。それを9月12日の午前中にリツィート経由で見た自分は、今まで知りもしなかった「鳥肌実」氏の「ヘイトスピーチ」に、いとも簡単に無料で触れる事が出来たのである。

自分はもうすっかり頑固な「ジジイ」であるから、誰でも容易にアクセス可能な「鳥肌実」氏の「ヘイトスピーチ」を見て、その「主張」にハートを鷲掴みにされる事は無かった。前後を切られた件の無料動画で判断する限りは、「面白い『芸』」にも見えなかった。しかしその一方で、この Twitter の公開ツイート上で剥き出しにされた無料公開の「鳥肌実」氏の「ヘイトスピーチ」のリンクを踏むのは、それが Twitter である限り頑固な「ジジイ」ばかりではないだろうなとも思った。それ以降も、この「ヘイトスピーチ」動画へのリンクは、相変わらず間欠的に Twitter 上で剥き出し状態にされている。

9月12日中に(「芸人」としての「賞味期限」を十数年前に過ぎたとも一部にされている)「鳥肌実」氏という存在を何となく把握した気に取り敢えずなり(「正確」なものであるかどうかは判らない)、それから「鳥肌実」氏全般に関する俄勉強を経て(過去には東北芸術大学にも武蔵野美術大学にも多摩美術大学にも日本大学芸術学部にも京都嵯峨芸術大学にも呼ばれていた事を知った)達した印象は、「『パレ・ド・キョート』に於ける(現在の)『鳥肌実』」というのは「『旭山動物園』に於ける(現在の)『鳥肌実』」を目指しているのではないかというものだった。即ち「『(現在の)鳥肌実』の行動展示」である。

「現在の『鳥肌実』」氏が「野獣」であると仮定した上で言うならば、その「野獣」を「博物学」的な「行動展示」の対象として見るというのには様々な条件が必要にはなる。その最も重要な条件は「野獣」を「動物園」内に確実に留めておく事になるが、その条件は取り敢えずは満たされていた様な気がする。少なくとも「野獣」状態にある「鳥肌実」を伴った「散会」等が市中で「ライブ」で行われたりしない限りは。

他の条件としては観客の「姿勢」が挙げられるが、この条件は結構ハードルが高い。即ち飽くまでもそれを「研究対象」として見る事を、3,500円也を払う事でそれを見る権利を獲得した「パレ・ド・キョート」の観客は期待されている。

ARTZONE" は、京都では「知る人ぞ知る」空間ではあるが、同時に「知らない人には全く知られていない」空間でもあり、単純な数字上の比率から言えば後者のウェイトが圧倒的である。東京で言えば、そこは(その経営母体を問わなければ)「NADiff a/p/a/r/t」みたいなものだろうか。

そんな場所にわざわざ出掛けようというのは、大抵は「その筋」(所謂「アート」系)の人であり、また「その筋」の人というのは、その多くは信条的には「リベラル」寄り(或いはどっぷり)の人達であるという勝手な思い込みがある。

飽くまでも印象ではあるが、多くの「その筋」の方々は、Twitter で「桜」方面の人達をフォロー(決して皆無とは言わない)していないだろうし、或いは死んでもフォローするものかと思われている方々も多かろうとは思う。「鳥肌実」氏の「ヘイトスピーチ」(「芸」であるか否かは問わない)程度で、その信条が簡単に揺らいでしまうという方は、そもそも “ARTZONE" という場所には縁が無いのではないかと思えたりもする一方で、しかしそれもまた蓋然性の内にはある事は否定出来ない。自らを智者であると任じている人間が、往々にして煽動に対して脆弱であるという例を幾らでも見て来ている人生だ。

仮に「鳥肌実」氏が「研究対象」になり得たとしても、それでも「鳥肌実」自体が諸所に現れる事自体を許し難いとする方が、3,500円也の観客の中におられる可能性を全くのゼロであるとする見方があるとすれば、それはそれで「誤っている」認識と言えるだろう。

兎にも角にも、「パレ・ド・キョート」の場から「鳥肌実」の名前は削除された。削除されるに至った具体的な経緯は必ずしも明らかではないし、「パレ・ド・キョート」に於ける「鳥肌実」氏の具体的な「行動」がどの様なものになるかも結局判らなかったが、いずれにしてもその削除に「鳥肌実の存在が悪」と考える正義感が果たした役割は大きい。そしてここから先の正義感の行く先としては、拡散されまくっている「閲覧注意」の動画の削除をこそ YouTube に働き掛け続けて行く事になるのだろう。

 

資料「鳥肌実の『パレ・ド・キョート』出演を巡るツイート」
http://togetter.com/li/890169

窓と壁

【前説 1/3】

悲しくも人類にしか出来ない暴力の形。

Sirens of the lambs : Banksy

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 【前説 2/3】

 “Güterwagen" =「貨物のワゴン」。このドイツ語は、日本語では通常「貨車」と訳される。

ポーランド南部の小さな村ブジェンジンカ(Brzezinka)村境沿いのユデンランペ(Judenrampe)に、数十年インストールされているこの年代物の “Güterwagen" は二軸車である。スポーク車輪の軸受の上には、相対的に簡便廉価なサスペンション・システムであるリーフスプリングが渡されている。決して乗り心地が最上であるとは言えない。しかし「客車」ではない「貨車」であるから、この「貨車」を走らせていた者にとってそれは問題とはならなかったのだろう。

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これと似た型式の「貨車」の内部はこうなっている。「貨物(Güter)」が「窓」を必要とする事は「無い」。この羽目板二枚分の開口部は「窓」ではなく、最低限の「換気」の為のものだ。この開口部に有刺鉄線を巡らせたケースもある。開口部から「貨物」が車外に「飛び出して」しまう事を防ぐ為にだ。 

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他の型式のものには「貨物」への監視塔が備えられているものもある。

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ブジェンジンカ村の「貨車」は、上掲ストリートビュー左手のポイントで左側の支線に入り、170R 前後の左カーブを100度強曲がり、この村で唯一の直線道路、ウリツァ・オフィアル・ファシズム(Ulica Ofiar Faszyzmu)とゲートを潜って、操車場を備えた施設に到着する。直近のオシフィエンチム(Oświęcim)駅で「仕分け」され、窓の無い「貨車」の中で生き残った者は、そこから再び窓が殆ど無いか、或いはそれが全く無い「働けば自由になれる(Arbeit macht frei)」が掲げられた建物へと収められて行く。

「窓」を奪って「貨物」にするという、悲しくも人類にしか出来ない暴力の形。そこからそれは始まっている。

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【前説 3/3】

嘗て東京の恩賜上野動物園に「ブルブル」という雄ゴリラがいた。1957年(園長:古賀忠道=初代)に同園に推定4歳でカメルーンから「来園」し、同園の「ズーストック計画」事業の一環である「ゴリラ・トラの住む森」エリアが東園にオープンした翌年の1997年(園長:斉藤勝=10代)に、その生涯を閉じた(推定44歳)ウェスタンローランドゴリラ(西ローランドゴリラ)である。

日本の動物園史に於いて、第二次世界大戦敗戦直後の国民的動物園アイドル――占領下の日本国有鉄道が特別仕立ての象列車を走らせた――が、名古屋・東山動物園に生き残っていたアジアゾウの「マカニー」と「エルド」(1937年に同園が木下サーカスから購入した4頭=「アドン」「エルド」「マカニー」「キーコ」の内の2頭。「アドン」と「キーコ」は栄養失調等による衰弱死)やインドのネール首相(当時)から贈られた上野動物園の「インディラ」であるとすれば、1955年の「事故」による名古屋の2頭の象の表舞台からの退場後は、東京の「ブルブル」もその役の一端を担っていた。

ゴリラは非常にセンシティブな動物の一つである。「ブルブル」は、1970年前後に一時期自傷行動に陥っていた。自らの体毛を毟り取ってしまうのだ。食餌を含めたゴリラの飼育ノウハウが日本の動物園でまだ確立されていなかった試行錯誤の時代。「ブルブル」と一緒に暮らしていた雌ゴリラが「リウマチ」と見立てられた症状に罹ってしまう。その治療の為に雌ゴリラが隔離状態に入った為に、その「別離」のストレスから「ブルブル」の自傷行動は始まったとされている。

1971年、「ブルブル」のストレスを低減させようと、飼育関係者がバックヤードの彼の「寝室」に設えたのが、当時一般家庭の普及率が20%前後だったカラーテレビ(19インチ:大卒初任給の5ヶ月分前後の値段)だった。彼に与えられた番組は「野生の王国」(古賀忠通氏監修:主題歌は昭和40年代の日本を象徴する音でもある「シンガーズ・スリー」)や「野生の驚異」、後にプロ野球、プロレス、キックボクシング、ハクション大魔王いなかっぺ大将帰ってきたウルトラマン、ドラマ等といったものであった。

果たして「ブルブル」は「テレビ漬け」のゴリラになって行く。「野生の王国」や「野生の驚異」以外の番組には全く興味を示さなかったというが、それら「野生もの」(テレビサイズの判り易い物語を作る為の脚色/編集あり)の「ドキュメンタリー」は、 9時30分〜17時、及び定休日(月曜)といった、開園時間――それは来園者からの好奇混じりの「監視」の視線を浴び続ける時間(「休憩」無し)である――外という「オフ」の時間を、そこでしか過ごせない「窓」の無い「寝室」に於ける「窓」の代替物であった。21世紀の今ならば、「畜舎」に Wi-Fi を引き、ゴリラに iPad やニンテンドーが渡されていたかもしれない。

f:id:murrari:20110402010206j:plain電波によって運ばれたものの表示に依存する「ブルブル」。野生の何百万倍もの量の人間の視線を集める「博物学」の対象にされて生き続けるという、悲しくも人類にしか出来ない暴力の形からそれは始まっている。

 【前説終わり】

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走る美術館「現美新幹線」

 

 JR東日本では、世界最速の芸術鑑賞「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」の運転を2016年春頃に、上越新幹線「越後湯沢〜新潟間」で予定しています。

 

本列車では、
注目のアーティストがこの場所のために制作した現代アート、地元の素材にこだわったスイーツやコーヒーを提供するカフェ、沿線に広がる車窓など、様々な魅力をご用意しております。

 

新幹線で移動しながら現代アートを鑑賞するというユニークな演出をぜひ体験してみてください。

 

http://www.jreast.co.jp/genbi/

 来年(2016年)の「春頃」から、「世界最速の芸術鑑賞」を謳う「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」が越後湯沢〜新潟間を走るという。営業キロ134.7kmを50分弱で結ぶ区間である。ミニ新幹線規格のE3系という、JR東日本で余りに余った車両の再利用になる。「アートキュレーション」は「SCAI THE BATHHOUSE」及び「TRUE Inc.」、総合プロデュースは「TRANSIT GENERAL OFFICE INC.」という「東京資本」によるものだ。

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「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」の編成図はこうなっている。

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JRは「下り」線の行き先方向から1号車が始まる決まりになっている。従って東京(「上り」方面)を背にした新潟(「下り」方面)に近い方から、11号車の「松本尚」氏、12号車の「小牟田悠介」氏、13号車の「paramodel」(キッズスペース)と「古武家賢太郎」氏(カフェ)、14号車の「石川直樹」氏、15号車の「荒神明香」氏、16号車の「ブライアン・アルフレッド」氏という6両編成(2M4T)になっている。

11号車の「松本尚」車は、通常のE3系を相対的に小改造のまま使用する様だ。12号車の「小牟田悠介」車、14号車〜16号車の「石川直樹」車、「荒神明香」車、「ブライアン・アルフレッド」車は、下り進行方向右側の窓を塞ぐ改造がされて「壁」になっている。上掲動画の車窓風景は、この「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」で見る事は可能にも思える(素通しガラスの場合)が、その反対方向の車窓風景はデッキに立たない限り見る事が出来ない。

一方13号車の「paramodel・古武家賢太郎」車では、それらの車両の窓とは反対側が開けられているものの、そこは「paramodel」による「キッズスペース」部分に限られていて、車両の残り半分の「古武家賢太郎」氏のエリアである「カフェ」は、その座席周囲以外は全くの窓無しである。

この図面(恐らく実際の設計と大きな変更点は無い)から読み取れるのは、この「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」を利用する乗客に、なるべく「車窓」から見える外の世界を見させない様にする工夫がされているという事である。11号車の「松本尚」車に、どの様に「アート」作品がインストールされるのかは判らないが、他の(「paramodel」エリアに集まる事を許された「キッズ」以外を除く)車両では、乗客が「車窓」を背にする座席配置になっている。それは鉄道車両に設えられた「壁」に掛かる「芸術」の「鑑賞」に極めて適した座席配置であり、且つ「壁」に掛かる「芸術」の「鑑賞」以外には全く適さない座席配置である。

これは例えば、米アムトラックスーパーライナー・ラウンジ車の、室内に背を向けて「車窓」から見える外の世界を見るのに最適化された外向きの座席配置とは全く正反対のものだ。

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果たして「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」の窓は通常車両の様に素通しだろうか、或いは採光の為にのみ存在するスモークの入ったものになるのだろうか。同じE3系の改造車で、同じ6量編成(S51編成)のE926形「新幹線電気・軌道総合試験車(East i)」――所謂「ドクターイエロー」。車体色は黄色ではない――は、この「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」より窓数が多い。測定機器を積載する車両であるのに。

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いざこの「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」が現実化した際には、そうしたものは排除されてしまうのかもしれないが、しかしこの「現在検討中のイメージイラスト」に描かれている「パース」図の、「壁」部分下部のグレーに塗られた「腰板」の存在こそが、この高速鉄道車両に「現代アート」を持ち込もうとする欲望の形とその限界を、極めて良く表しているとも言えるだろう。その意味で、この些かも「現代アート」的ではない「腰板」こそは、この「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」から決して外してはならないものの様な気がする。

仮にそれが、「腰板」を外された全くの「ホワイトキューブ」になったとしても――それが多少見難くなるだけで全く同じであるとは思うが――「現代アート」→「現代アートであるからこそ壁の存在は必要条件である」→「E3系に遮光性の高い壁を設ける改造を施す」という判断の流れは、恐らく動かし難く既定のものだったと想像される。結果的に「現代アート」→「現代アートであるからこそ壁の存在は必要条件ではない」とはならなかったのである。

しかし窓無しの車両は、外からは「貨車」の様にも見えてしまう。そこで蜷川実花氏による晴れやかな花火でラッピン(wrap in=覆い隠す)する事が必要とされたのだろう。確かにそれで「世界最速」の「貨車」のイメージは払拭されるかに思える。但し所謂「ラッピング」を施された貨物列車(先頭機関車のみ)というのは過去に存在している。

この「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」に於いて「壁」が「現代アート」の必要条件の一つであるとすれば、他には何が必要だろうか。「監視員」というのはどうだろう。この「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」にインストールされた作品が、同時に動産的な価値を有するものであるとして、その場合「作品に手を触れないで下さい」と書かれていても、動産的価値を毀損する=手を触れてしまいそうになる様な観客/乗客に対して彼らが必要であるとすれば、やはり各車両にそれは配されるべきであろうか。或いは、監視カメラで観客/乗客を集中管理すべきであろうか。その場合、センサー仕掛けのアラームが車内に鳴り響いたり、回転灯が回ったりするというアイディアも有りかもしれない。そうした一連の「監視」には、鉄道警察官を割り当てるべきか。しかし現実的にはセンサー入り防弾ガラスの向こう側に作品を置くのが最もコスト安になるだろう。勿論一切を監視しないままに任せ、通勤電車の車内広告に対するのと同じ様なセキュリティ・レベルにしておくというのも、それはそれで「現代アート」ではある。

「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」が走れば、全ての「展示」を見たくなるというのが、この列車をわざわざ選ぶ人間の人情というものだろう。多くの観客/乗客が、この50分弱の間に目の前の1メートル前後(恐らく90センチ〜120センチ程度)の幅の通路を11号車から16号車までの「展示」を移動して見て回るのである。「通路」に対して向けられたシートに座る自分の直前を、次から次へと他車両の観客/乗客がやって来る。大きな作品に対しては、引いて見たくもなるというのも人情だから、その場合は「ソファー」に座る自分の膝先に他の観客/乗客が迫って来る事にもなるだろう。「ガイドツアー」すらあるかもしれない。この通路は通勤電車のそれ以上に「往来」なのである。

「芸術」の「鑑賞」の場は眠りこける場ではない。そもそも「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」のシートは、「ソファー」をイメージしている為に――近距離通勤電車のシートと同じ長手方向に並ぶ――リクライニングしない。この観客/乗客が行き交う落ち着かない場所で、しかもテーブルの無い状態で弁当を食べる訳にもいかなかろう。但しロングシートの通勤電車でそれを食べる事の出来る人間は別だ。

(たったの)50分間を「芸術」の「鑑賞」に浸ってもらうという名目で、敢えて Wi-Fi もコンセントも付けないという事はあるだろうか。確かに「美術館」や「ギャラリー」の展示室内では充電は不可能ではあるし、そこでスマートフォンタブレット端末を取り出すのは美的に躊躇わさせられる。況してやここでラップトップコンピュータ(この席では文字通り膝上に載せての使用になる)を取り出して見積書を作るなど以ての外とされるだろう。

試しに “train lounge" で画像検索を掛けてみると、世界各国の鉄道ラウンジ車両内に於ける「ソファー」の使用例がヒットする。

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これらの多くで重要視されているのは、互いの「顔」を向き合わせた「会話」だ。互いの視線の正面には相手の「顔」があり、その背後にパノラミックな「窓」がある。「順番」としてはそうだ。

何よりもこれらは番号を振られた座席ではない。基本的にラウンジ車両の「ソファー」はチケット販売時に割り当てられた座席ではなく――それらの席は別に存在する――「空き」を見つけて座る椅子だ。

「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」の「ソファー」は指定席なのだろうか。その場合、どの席が人気が高いだろう。

f:id:murrari:20151022222959p:plain従来通りのシート配列の11号車の各席は指定席かもしれない。一方、12号車〜16号車の「ソファー」はどうだろう。それは「空き」を見つけて座る席なのだろうか。即ち乗車チケットは潜在的な「立席」である自由席の形で販売され、観客/乗客は椅子取りゲームの様に「空き」を争奪するといった様な。であれば「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」のシートは通勤電車のそれと同じものになる。

それは “Fine art" が壁に掛かっている列車だったこのモスクワの通勤メトロと、構造的には全く同じだ。

外国メディアが差し出すマイクに向けて、動画内のロシアのコミューター(乗客?観客?)氏は言う。"I use this line often and it's nice to see these pictures. I hope it makes art more accessible to young people,"(私はこの3号線をちょくちょく使っているけど、この様な絵画を見る事が出来るのはとても良いね。こうしたものがある事で、若い人達がより芸術に親しめる様になれればと思うよ)。

今から半年後の「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」が開通した初日、これとそっくりな「感想」が日本のテレビでオンエアされるのは確実だろう。仮に実際にそれが出て来なくても、テレビ局の編集室や新聞社のPC上で、その様に「要約」すれば良い。そしてその「乗客の声」を以って、報道は「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」の「予定稿」通りの「成功」を伝える事になる。

動画の車内の乗客の様子が極めて興味深い一方で、動画の最後のホームのカメラから見た「芸術を見る人達」のバックショットも、中々に良い味を出していると言える。そして「GENBI SHINKANSEN(現美新幹線)」は、その外側を覆うラッピングも含めて殆どこのメトロと同じものになる(コンテンツだけ異なる)のである。

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それにしても、何故に「アート」は人々の「正面」に「壁」として立ちはだかり、その視線を我がものにしようとするのか。「背後」であり続ける「アート」というのは無いのだろうか。

引込線2015

台風の影響による大雨の日に「引込線2015」の会場に行った。


車を「旧所沢市立第2学校給食センター」奥の駐車スペースに止めると、フェンスを隔てた畑ではこの雨にも拘らず、農機で土を掘り起こし始めているところだった。ファンタズムに陥り易い自分は、駐車スペースからその農機を操っている人の位置へと飛び、自分もまた畑仕事をし始めていた。ほんの少しだけ手を休め、ふと顔を上げると暇そうな男が車の脇に立ってこちらを見ている。嫌な視線だ。それを一瞥し再び農作業に戻る。同時に暇そうな男の元に魂が帰って来た。雨は降り続く。


給食配送車の荷台高さから決定されているヤード/フロアの高さまでコンクリート階段で上る。それは嘗てここで働いていた人達も、その一日の仕事の始まりに登る階段だったのだろう。その受付で記帳して「展覧会を見に来た人」になる。展覧会に於ける記帳というのは、それ自体が通過儀礼だ。


1階のトイレの周囲の展示物から見始めて、そのまま1階の展示物をぐるりと回り、それから2階に向かう。階段の壁に掛かっている作品を首を不自然に曲げて見ながら階段を登り切ると、果たして2階の廊下で行われる筈のパフォーマンスは行われていなかった。「パフォーマー」はこの日はここに来ないらしい。廊下の壁際には「物」が置かれていた。



2階の部屋毎の展示物を、街中の所謂「ギャラリー」で行われている展覧会程度に時間を掛けて見る。1階に設置されているものを含め、この「旧所沢市立第2学校給食センター」にある作品の幾つかは、再度何処かの「ギャラリー」や「美術館」で見られるかもしれないという印象を持った。参加作家の中には既にそのスケジュールを「ToDo」項目に入れている者もいるかもしれない。


それらを見終わった後、「展覧会を見に来た人」という衣装を脱ぎ捨て、「パフォーマー」不在の2階の廊下の窓から階下をぼうっと眺めていた。ピントを外した目で見るここからの眺めは悪く無い。呆けていたその時間は、映像作品を除く全ての作品の前に立っていた時間よりも遥かに長いものだった。たった今、下の階で「展覧会を見に来た人」のマナーを守って凝視して来た「作品」の数々が、その前に立って見ていたのとは全く異なる「風景」として見えている。



末永史尚氏の手によるもの、白川昌生氏の手によるもの、多田佳那子氏の手によるもの、五月女哲平氏の手によるもの、保坂毅氏の手によるもの、中山正樹氏の手によるもの…。それらが互いのテリトリーを侵さずに、それぞれの棲息の場に収まっている。互いに互いを食い合う事も、互いが互いを飲み込む事も無い、不活性で平和な環境。2階の廊下窓から見えたのは「深海」だった。


現実の深海魚が、高水圧で低水温、その個体維持の為に得られるエネルギー源は浅海で生じたものの僅かな沈降物(余剰としてのマリンスノー)という、「極限」極まり無い様にしか思えない環境――人間の尺度からすれば「何でわざわざこんな環境に棲むのだろうか」という思いを払拭出来ない――に棲むに至った理由は、深海魚でない身にとっては判らないし、当の深海魚に聞いてみたところでやはり答えは得られないだろう。


それでも敢えて当の魚を代弁しようとする人間による「説」はあるもので、その最も伝統的なものは、生存競争の激しい浅海に居場所を確保出来ずにドロップアウトした魚種が、極めて消極的ではあっても「安定」的な環境とも言える深海に落ち着ける様に撤退的な形で進化したというものである。人間界に於いてはこの「説」はどうやら「時代遅れ」らしいのだが、しかしそれが「誤り」なのかどうかは、当の魚ならぬ、況してや神ならぬ人間なので判らない。


現実の深海魚に対して「ここは快適な場所ですか?」というインタビューを試みたとして、底生性の現生魚類なら「ここしか知らない」に通じる様な、また深海から中層まで(浅海に深海魚が行くには、自身深海の環境に適応し過ぎた為に、そこに行く事自体が不可能だ)を行ったり来たりの遊泳性の魚類なら「悪くないっすよ」に通じる様な答えが帰ってくるかもしれない。


では、この「旧所沢市立第2学校給食センター」という「深海」に集まっている者のそれぞれは、「ここは快適な場所ですか?」という質問にはどう答えるだろう。ここは彼等にとって「約束の地」なのだろうか、それとも何かの「帰結の地」なのだろうか。美しい魂がここに彼等を集らせたのだろうか、それとも何らかの事情がそうさせたのだろうか。そもそもこの場所は、彼等に受け入れられているのだろうか。いずれにしても、彼等がここで生まれた者ではない事は確かだ。


正直なところを言えば、こうした場所に於ける「発表」行為を「挑戦」の形で評価したくはない。仮に「挑戦」をこそ真っ先に評価されたい「発表」行為があるとしたら、それに対しては何も言う事は無い。そうした「挑戦」は、どう転んでも「発表」と「場所」の関係の凡庸な「感想」、翻って「発表」と「場所」それぞれの凡庸な「観念」をしか導き出せない気がする。


雨の音しか聞こえない「海底」の、嘗ては人が過ごす事の無かった暗鬱な一角(ここが稼働していた頃は、そこには処理された「死体」があったと想像される)から、遠い声で繰り返される映像を伴わない「これはわたしのちではありません」が、「これはわたしの地ではありません」に聞こえて来た。それは時々「これはわたしたちの地ではありません」になり、「これはあなたの地ではありません」になる。やがてその声から「整形」された「表面」が剥がれて行き、「これはわたしの地ではありません」は「切実」なものの様にも感じられる「声音」になって行った。


ほんの一瞬「これはわたしの地ではありません」や「これはわたしたちの地ではありません」が、あの「難民」の人達の口から出ているという妄想が頭を過ぎった。同時に「これはあなたの地ではありません」が「難民」の人達が向かう先の人達の口から出てきている妄想も。「難民」の人達が「落ち着く」先々で、実際これからこの様な会話の「レッスン」が行われて行く事だろう。


「これはわたしの地ではありません」は、元々は「これはわたしの血ではありません」だった。考えてもみれば、このセンテンスを発しなければならないシチュエーションというのは、警察の取り調べや刑事事件の裁判位しか思い付かない。知らない言葉が飛び交う取調室や法廷で、「これはわたしの血ではありません」をその言葉で言わねばならなくなる事。それもまた「レッスン」だ。そして妄想は消えた。


改めて「海底」を見る。ここにいるのは「逃げて来た人」なのだろうか。それとも「拓きに来た人」なのだろうか。質問の核心は恐らくそこだ。そして非情にも、質問の相手は孤独な魚ではなく社会性を営む人間なので、その質問はその人達に向けられると同時に、それを見る人達(畑を耕す人含む)にも向けられる。「あの人達どう見える?」。

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一旦「海底」に背を向け、再び2階の「展示室」に入る。それらの部屋には「外部」に向けた窓がある。


機能する事を止めてしまったこの建物の2階の窓から見えるのは、左から所沢市役所 障害者福祉施設かしの木学園、所沢市立松原学園、三菱食品・キャリテック中富集配センター、所沢市民武道館、埼玉西協同病院、まばらに建つ住宅、所沢聖地霊園の敷地を囲う樹々といったところだ。家々を囲む防風林が常緑樹や竹ではなく欅であるところからして、紛れも無く関西とは全く異なる関東平野の郊外の典型的な風景である。その時、隣地の畑の土の掘り起こしは半分以上終わっていた。それらをテート・モダンのカフェから臨むテムズ川越しのシティ・オブ・ロンドンを見る様に暫く眺めていた。



セントポール大聖堂を正面に見る、“overlooking the riverside" が売りの Tate Modern Café は、それ自体が美術館展示とは独立した形で存在するロンドンの人気観光スポットだ。寧ろこのカフェが無ければ、テート・モダンの魅力は半減してしまうかもしれない。それはテート・モダンに限らず、ここ20〜30年に新設・改装された美術館には、魅力的な眺望を持つレストランやカフェが必ずと言って良い程に設けられていて、寧ろ今日的な意味で良い美術館の条件の一つとして「眺めの良いレストラン/カフェ」の設置が上げられそうですらある。


「緑豊かな皇居を望む立地」の L'art et Mikuni(国立東京近代美術館)、「ガラス越しの夜景が幻想的な空間を演出」の BRASSERIE PAUL BOCUSE Le Musee(国立新美術館)、「豊かな緑と外光が注ぎ込む心地よい空間」の MUSEUM TERRACE(東京都美術館)、「四季折々の風景を楽しめる最高の空間」の LE JARDIN(世田谷美術館)、「中庭に面したガラス張り」の Cafe d'Art(原美術館)、「都心とは思えない豊かな緑が目に飛び込んできます」の NEZUCAFÉ(根津美術館)、「緑を眺めながらのティータイムをお楽しみください」の カフェテリア TARO(岡本太郎美術館)、「一色海岸を望む絶好の眺望」の ORANGE BLEUE(神奈川県立近代美術館葉山館)、「平家池を見下ろす最高の場所」の PINACOTECA(神奈川県立近代美術館鎌倉館)、「イタリア語の『美しい眺め』という店名どおり、窓からの景色を楽しみながらお食事ができるレストラン」の Belvedere(川村記念美術館)……。首都圏の主要美術館の飲食施設とその売り文句はこうなっている。因みにパリの「ポンピドーセンター」の “Georges" のプレザンタシオンも “surplombant la capitale(首都を見下ろせる)" だ。


原美術館の Cafe d'Art の説明文にはこうも書かれている。「アートで心が満たされたら、カフェ ダールでゆったりとしたひとときをどうぞ」。これは「アート」と「カフェ」に於ける質的な「相乗効果」を意味するものであろうか。しかし仮に「心が満たされた」と「ゆったりとした」が、量的な多寡の関係にあるものとしたらどうだろう。即ち「心が満たされた」という「お腹一杯、もう入りません」的なインプットの飽和(注)状態を、「ゆったり」という飽和に達しない状態――新たなインプットの場所を確保する為の――に「戻す」場所が、美術館に併設されている「眺めの良いレストラン/カフェ」の「ガストロ(胃袋)」的な「消化」機能であるとしたら。


(注1)ほうわ【飽和】(名)スル ① 最大限度まで満たすこと。また,最大限度まで満たされていること。「大都市の人口は―状態に達している」 ② ある条件下で,一定量に達すると外部から増大させる要因が働いても,それ以上には増えない状態。(スーパー大辞林


たった今見て来た展覧会を、購入したばかりのカタログを手に反芻する施設が美術館内に必要であるとしても、それは四方を壁に囲まれた穴蔵バーの様な場所――方丈なホワイトキューブでも良い――でも良いのである。恐らくその方が「アートで心が満たされた」パンパンの状態をそのままの形でキープし易いだろう。何故ならば釈迦の悟りを邪魔するマーラ(注2)の如くに魅力的に迫って来る――取り敢えず「アート」とは直接の関係が無い――「眺望」に気を取られなくて済む(現実的に言って「感動」の半分以上は「眺めの良いレストラン/カフェ」の「眺望」に持って行かれるだろう)からだ。であるにも拘らず「眺めの良いレストラン/カフェ」が、今般の美術館にとって必須条件の様にされるのは何故か。


(注2)尤も「アート」が「マーラ」の側にあり、「眺望」が「悟り」の側にあるとする事も出来る。

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例えば所沢市の「学校給食の調理員」の仕事があったとして、それが契約社員(月給17万5000円)の場合は、勤務時間が朝の7時から夕方16時までの実働8時間、パート採用(時給830円)の場合は、朝の9時から15時までの実働5.5時間であったとしよう(以上、給与や労働時間等の数字は例)。


午前6時台に外階段を上がってタイムカードを押し、朝の7時からその日の献立の仕込みに入る。11時前後の各学校への配送作業が終わると数十分の昼休み――食事はその日の献立が支給されるので、近隣の日高屋松屋マクドナルドに行く必要は無い――になり、以後はその日の片付け作業や食器の洗浄、翌日の献立の仕込みの時間となり、午後の何処かで10分程度の休憩を挟んだ後に終業となる(以上、作業内容やタイムテーブルは例)。


稼働していた頃の「所沢市立第2学校給食センター」で働く人に自らを同一化してみれば判る事だが、この建物の1階部分と2階部分は、全く性格の異なる空間である。それを極々簡単に書けば、1階は「労働」の空間で、2階は(一時的にではあっても)「労働」から開放される空間という事になる。


所沢市立第2学校給食センター」の1階にも窓は存在するが、それは採光目的以外のものでは無く、従って「所沢市立第2学校給食センター」の仕事に従事する者が、この建物の1階では「労働」で「心を満たされた」状態をキープさせられる――「労働」以外に目を向けさせない――様に設計されているのである。それは近代以降の生産現場に共通する特長だ。


一方「休憩」や「昼休み」の時間には、2階の部屋で――「休憩」や「昼休み」に1階に留まり続けるのは、衛生面からも推奨されないだろう――過ごす事になる。そこにある窓は、1階の採光目的の窓とは大きく性格を異にする。それは――飽くまでもその窓の持つ意味の方向性としては――美術館に於ける「眺めの良いレストラン/カフェ」の窓と「同じ」ものである。「労働時間」内に「労働」で「心を満たされた」飽和状態にあるここで働く労働者に、「四季折々」の畑や欅等といった「外部」に建物を開く事で(極めて相対的ではあるが)「ゆったりとしたひととき」を過ごさせる様に設計されているのだ。


こうした「職場」内に於ける空間特性の「メリハリ」というものは、「作品の制作(work)」とは別レイヤーにある、現金収入を得る為の「労働(labor)」で禄を食まなければ生存出来ないほぼ全ての現代美術アーティストが、常日頃から親しんでいるものであろう。


仮にその「労働」の場所が、例えば例年の「引込線」展にも大いに関係の深い「武蔵野美術大学」の「鷹の台キャンパス」であったとして、同キャンパスの「鷹の台ホール」A棟2階の「食堂」、「12号館」地下1階の「食堂」、同館の「談話室MAU」、「4号館」1階の「エミュウ」前の「カフェテラス」等は、「授業」や「制作」の場からは「質」的に切り離されている場所である。


そこもまた「所沢市立第2学校給食センター」の2階フロア同様、「労働」で「心を満たされた」飽和状態にある「美術大学」の賃労働者に(も)、「ゆったりとしたひととき」を過ごさせる空間なのであり、一つの「サイト」に於いて特性的な「メリハリ」を付ける事は、これもまた近代以降の生産環境に於ける「職場」空間の設計上の必須要件である。

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所謂「サイトスペシフィック・アート」の「サイト」は何を意味するのだろうか。例えば「引込線2015」の会場の「場所」は、――「学習」すれば判る様に――確かに「給食センター」の「跡地」ではある。もう少し深く「学習」すれば、当地の郷土史を紐解いて得たもの――例えば「織物の町」であったり「基地の町」であったり――を「サイトスペシフィック・アート」の縁とするかもしれない。一方で現在のそこは「所沢市」の「中富」――決して「日吉町」ではない――であり、その中でも前述した窓から見えるものや、団地や大型ショッピングセンターや老人保健施設や斎場や大型霊園や浄水場等に周囲を囲まれた場所でもある。


しかし何よりもこの「所沢市立第2学校給食センター」と名指された一つの「場所」には、前述した様に特性的に無視し得ない振幅が存在する。「美術館の展示室」と「美術館のレストラン」が、同じ「美術館」の建物の中にあるにも拘らず全く異なる特性の空間である様に、「『労働』する身体」として自らを内面的に律しなければならない1階と、「『労働』する身体」を1レベル分だけ脱ぐ(但し「拘束」はされる)事を許す空間である2階が、同じ「所沢市立第2学校給食センター」という一つの建物に同居している。「労働」を軸にするだけでも、これだけの特性の幅があるのだ。そして現実的には、一つの「場所」は、常に様々なレベルの特性の差異が層になった形で束ねられている複雑性を有している。センサー感度をマックスにして見て行けば、この「所沢市立第2学校給食センター」にも多数の空間特性を読む事が出来るだろう。


その意味で、それぞれの特性を持つ空間に於けるそれぞれの1メートルは異なるものなのである。「造形」の目からすれば、それらは全く同じに見えるかもしれないが、ここで働いていた人が「給食」労働に向き合わされ立たせられていた2平米の床と、「給食」労働を一時忘れ寝転がれていたりもしただろう2平米の床は全く異なるものだ。そうした空間的特性の差異にこそ「サイト」の本質は宿り、であればこそそれは一般的に「場所」とされている空間的な局所性に「サイト」は縛られるものではない。


些か詭弁めくが(ここまでもずっと詭弁だったが)、その意味で逆説的な形で「所沢市立第2学校給食センター(稼働時)」の2階と “Tate Modern Café" は、「空間的位相」の「場所」として「同じ」である。「特定の場所」はそれ故に個別的に閉じておらず、空間的にも時間的にも常に開かれている。それは延いては同じ位相にある他のあらゆる「特定の場所」とも――それはそれぞれ自分達の家の中に於ける「特定の場所」にも――繋がる。だからこそそれは「普遍」なのである。「普遍」は決して1メートルがどこでも「同じ」という意味ではない。


美術館に「眺めの良いレストラン/カフェ」がある事で、美術館もまた様々な空間特性が束ねられている複雑性を有する様になった。それは生活の全体系から導き出されたのかもしれない。その全体系の中で「アート」はどの様に「ある」べきか。或いはどの様に「ある」ものが「アート」と呼ばれるものか。それは物理的に「アート」が「ある」事とは必ずしも一致しないのである。


美術館の「展示室」とは空間的特性が異なる美術館の「眺めの良いレストラン/カフェ」に、「リクリット・ティラヴァーニャ」や「ユナイテッド・ブラザーズ」等の「料理」が入り込む余地は無い。それらは「展示室」の中で「『アート』から降りる」的な振る舞いを見せる馴れ合いの演技をしてさえいれば良いのだ。「眺めの良いレストラン/カフェ」の様に、それらの「料理」が数十年間毎日の様に黙々と供され続けるという事は無い。それは「展示室」から始まる「事件」を「成立」させようとする意志に基づくものであり、「事件」の「成立」を「展示室」の関係者が確認したと同時に終わってしまう「展示室の料理」だからだ。


美術館の「眺めの良いレストラン/カフェ」は、美術館の中にあっても「アート」とは確実に一線を画した上で、料理以外の何物でもないものを料理以外の何物でもないものとして供し続けるというのが、その最大の存在理由なのである。その窓から見えるもの――「生活」や「天体」等――が「アート」と直接的には無関係である様に。ここに「展示室」から越境して「アート」が入って来る事は、広義の「アート」の為にもレストラン/カフェの全力を上げて阻止すべき事なのだ。そうでないと、狭義の「アート」によって、生活全体のエクスペリエンスは確実に痩せ細ったものに変えられてしまうだろう。

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2度目に「引込線2015」に行った時は花曇りだった。畑には誰もいなかったが、畝は出来ていた。今回の訪問は見逃していた2階廊下の「パフォーマンス」を見る事が目的だった。


痩身の60歳のおじさんが、廊下に置かれていたステンレス製の物を集め、その内「ランプシェード」とおじさんが呼ぶ、収得によって彼の手になった物がその顔に被せられた。それからステンレス製の調理器具をそこにSカンで吊るして行く。その姿はまるでミツバチで顔面に髭を作って行く養蜂家の様である。それらを吊るす間、おじさんは喋りっ放しだ。その内容は他愛も無いと言えば他愛無い。


それからその蜂髭おじさんならぬステンレス髭おじさんは、その視界をステンレスで極端に狭められた目で歩き始め、テレビ回転台の上に立つ。そしてテレビ回転台に関するやはり雑談めいた他愛の無い話をしながら、手を広げて自らの体を腰や膝を使って回転させる。そして一回転すると「はいこんな感じです」といった感じの、何とも締まらない締めの言葉で「行為のような演技をすることに間違いないだろう」を「終了」させる。


その後は他愛の無いエピソードが雑談的に語られる。「パフォーマンス」で使用していたステンレスのおたまが、家の台所から無断拝借した物である事。家人がそのおたまが台所から消えた事でちょっとした騒ぎになった事。その無断拝借が、Facebook か何かに誰かがアップロードした映像によって、家人にバレてしまった事。仕方が無いので本日限りを以って、このおたまはこの会場から姿を消さざるを得なくなった事。それが笑いを取ろうとする様な語り口ではなく、淡々とした報告の形でおじさんの口から発せられている。それは「美術」の「パフォーマンス」と言うよりは、何処か「テーブルマジック」の様なものの様に思えた。


雑談も尽きてダラダラとした形で「行為のような演技をすることに間違いないだろう」は今度こそ「終了」し、おじさんはその舞台道具を片付ける。再びそれらは廊下の壁際に置かれるものの、その置き方に審美性が関係している訳では全く無さそうだ。それは単に剥き出しの「収納」場所であり、何処までもが「必要」でしかないインストールなのである。おじさんに聞くと、本来は廊下の奥のシャワールームにそれらを「隠す」形で「収納」していたが、それを一々奥から出すのが面倒臭いので、この廊下に置くようになったとの事であった。


他の殆どのオブジェクティブな作品は、その置かれ方に多かれ少なかれ審美性が関わっている。まるでここで審美性を発揮しなければ、彼等の「アーティスト」としてのアイデンティティは崩壊し、生きてはいられない様な強迫性すら見えて来る。その中にあって、この廊下の壁際に集められているものだけは別だ(注3)。「必要」だけがそこにあるのである。


(注3)但し他の「参加作家」が「必要」で作り上げた「収納」としては、「プラットフォーム(配送車に積み込む給食の搬出口)」及び利部志穂氏の「離れ」を「作品」の展示空間とする為に移動したこの「遺構」の備品(スタイロ板や車椅子等)がそれに当たる。


その「必要」は、この「所沢市立第2学校給食センター」の数々の備品にも、その「必要」に於いて唯一呼応している様に思えた。「必要」によって運ばれ、「必要」によってインストールされた回転鍋や食器洗浄機や収納庫や数々のパイピング類。本来的な「サイト・スペシフィック」というのは、こうした肩の力(強迫観念)が抜けたところで実現されるものかもしれない。

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身も蓋も無く言えば、参加者の「やる気」に殆どを依存した展覧会である以上、次回の「引込線」展があるのかどうかは判らない。あったとしてもこの会場が使われるのかどうかも判らない。


その上で言うならば、仮想的な次回展のこの会場の2階は「美術」とは全く関係の無い「ラウンジ」としても良いのではないか(Wi-Fi ゲートは欲しい)と思った。その上で飲食が供されるのであれば(実際には難しいだろうが)、それは「アート」とは一線を画したものであるべきであろう。そこに無理矢理「アート」を入れ込む必要は無いし、そこに「アート」を入れ込まないメリットをこそ採るべきかもしれない。


そこで他愛の無い「テーブルマジック」等が行われるのも、会話によって「疑似恋愛」が成立してしまうのも悪くはない話ではないか。

エンバレイン(中に入れる)


世界は、2020 年に東京で
ひとつの TEAM になる歓びを体験する。
すべての人がお互いを認め合うことで
ひとつになれることの
その大きな意味を知ることになる。

その和の力の象徴として、このエンブレムは生まれました。

すべての色が集まることで生まれる黒は、ダイバーシティを。
すべてを包む大きな円は、ひとつになったインクルーシブな世界を。
そしてその原動力となるひとりひとりの赤いハートの鼓動。

オリンピックとパラリンピックのエンブレムは、
同じ理念で構成されています。

オリンピックエンブレムは、
TOKYO、TEAM、TOMORROW の T をイメージし、
パラリンピックエンブレムは、
普遍的な平等の記号 = をイメージしたデザインとなっています。

2020 年はもうそこに来ています。
このエンブレムのもとに
ひとつになって
すばらしいオリンピック・パラリンピック
つくりましょう。


次に世に出る2020年東京オリンピックのエンブレムがどういうものになるのかは勿論知る由も無いが、しかし「著作権」自体に対する自らの立ち位置が、必ずしも明確とは言い難い(自身にその網が掛けられそうになる時には大いに反発する一方で、他人に対してはその網を率先して掛けて回る)少なかなぬ人々を含む「世論」の「勝利」によって撤回される事になったあのエンブレムと、同じ「問題」を再び抱え持ってしまう可能性はある。


ここで「問題」としているのは、多くの目がそこに注がれ、議論のリソースが多く割かれた「パクリ」といった様な事とは全く関係無い。件のアートディレクター氏のエンブレムが、最終的に全くの「潔白」であった事が証明されたとしても、それでもそれは依然として「問題」なのである。


その「デザイン」が「独創」であろうが「剽窃」であろうが、「優れて」いようが「劣って」いようが、「デザイン」に対する判断が「専門」によるものであろうが「門外」によるものであろうが、そのレベルとは全く異なる「問題」があのエンブレムには存在していた。それを煎じ詰めて言えば「リエージュ劇場」のロゴと「同じ」になってしまったという事である。しかし再度言うが、その「同じ」は、互いの形象が相似しているといった様な、ネットやメディアで指摘され続けた意味では全く無い。

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リエージュ劇場」のロゴは “Theatre de Liege" の “T" と “L" の「モノグラム」である。一方、件のエンブレムは “Tokyo" の “T" を表していた。理由は “Tokyo Olympic" だったからである。東京五輪大会組織委員会によるエンブレム発表時のステートメントに記されていた、このエンブレムが “T" である理由=「TOKYO、TEAM、TOMORROW の T 」の “TOKYO" 以下の “TEAM" と “TOMORROW" が、後付の付会であると思わない者は、余程に可憐な感性を持つ人間以外は殆どいないだろう。


改めて言うまでも無く、件のエンブレムは、まずは何よりも “Tokyo" の “T" を表していた。一方の「リエージュ劇場」は “Theatre de Liege" “T" と “L" を表していた。それが「同じ」という事なのであり、だからこそその「同じ」に大いなる「問題」があるのである。

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東京市成立100周年の1989年6月1日に制定され、26年後の現在も使用されている “Tokyo" の “T" を表すシンボルマークがある。



底辺部は、点Cを通り、直線ABに平行な直線とする。
〔シンボルマークの意味するもの〕
東京のアルファベットの頭文字「T」を中央に秘め、三つの同じ円弧で構成したものであり、色彩は鮮やかな緑色を基本とする。
これからの東京都の躍動・繁栄・潤い・安らぎを表現したものである。


http://www.reiki.metro.tokyo.jp/reiki_honbun/ag10100071.html
(東京都例規 第1遍 総規・第1章 総則・第1節 通則「東京都のシンボルマーク」:平成01年06月01日 告示第577号)


一般に「イチョウマーク」とも呼ばれているこのシンボルマークは、嘗ての東京都清掃車や現在の都道ガードレールにあしらわれている「イチョウマーク」と混同されていたりもするが、しかし実際にはそれらは同じものではなく、後者のデザインソースは「都の木」である「イチョウ(注1)」であり、前者「東京都シンボルマーク」はアルファベットの “T" である。東京都の例規的には、その指定色は「鮮やかな緑色を基本とする」というざっくりしたものになっている。因みに東京都のサイトに掲載されているシンボルマークの色は、「C48 M0 Y38 K42(マンセル近似値例:10.0GY 5.3/10.6)」というものであった。その “T" に「これからの東京都の躍動・繁栄・潤い・安らぎ」という付会が添えられている。


(注1)「イチョウ」は「神奈川県の木」や「大阪府の木」でもある。


2007年11月16日、韓国・中央日報紙は、「日 도쿄, 대구백화점 심벌마크 베꼈다?(日本の東京都が、大邱百貨店のシンボルマークを盗用か?)」と報道した。


인구 1300만의 거대도시 도쿄도(東京都)의 심벌마크와 대구를 대표하는 중견 유통업체인 대구백화점의 CI(Corporate Identity)가 형태는 물론 색깔까지도 구분이 어려울 정도로 비슷하다.


人口1300万人の巨大都市・東京都のシンボルマークと大邱(テグ)を代表する中堅流通業者・大邱百貨店のCI(Corporate Identity)は、形はもちろん色までも区別が難しいほど似ている。


한글元記事: http://article.joins.com/news/article/article.asp?Total_ID=2949438
同日本語版: http://japanese.joins.com/article/913/92913.html?sectcode=&servcode= (注2)


(注2)その後半でキム氏(김씨)に変わってしまう、大邱百貨店勤務のユン某氏(윤모씨)の東京でのエピソードが紹介されたハングル版記事(김용범 기자 署名記事)の最初の段落は、日本語版では割愛されている。


韓国・慶尚北道道庁所在地である大邱(대구:テグ)市の現在の公式アルファベット表記は “Daegu" だが、以前は “Taegu" であったという。その登場が東京都のシンボルマークよりも3年1ヶ月早いとする大邱百貨店(대구백화점)のシンボルマーク(1986年5月1日〜)もまた、その頭文字 “T" をデザインソースとし、「両手を上に伸ばした状態で太陽が上る姿を形状化したもので、新しい希望・顔・出発を意味する(두 손을 위로 뻗친 상태에서 태양이 떠오르는 모습을 형상화했으며 새로운 희망ㆍ얼굴ㆍ출발을 의미한다)」という付会が付されている。



両者のシンボルマークの形象が「似ている」というのは紛れも無く事実だろう。大邱百貨店のシンボルマークの指定色は「C81 + M4 + Y78(マンセル近似値例:10.0GY 8.0/16.7)」となっているが、これは東京都の例規にある「鮮やかな緑」に(彩度の高さが「鮮やか」であるとすれば、大邱百貨店のそれは東京都のものよりも「鮮やか」である)合致する為に「同じ」だ。そして何よりも、両者がそれぞれの頭文字である “T" をメインのデザインソースとする点で「同じ」である。


東京都のシンボルマークには、大邱百貨店には無い、下半分を構成する1/4円弧を描き出す中心位置の「ずれ」(円の直径の左右それぞれ1.5/100)がある。「これからの東京都」に対する「これまでの東京都」を表現する箇所が、極めて短くもありながら「線(円の直径の3/100長の直線)」になっている東京都のシンボルマークに対し、一方の大邱百貨店のものはそこが「点(ゼロ)」であるところに両者の大きな/小さな「差異」がある(注3)。


(注3)韓国 Wikipedia の「大邱百貨店(대구백화점)」に掲載された同百貨店のシンボルマークとされる画像のファイル名は “Symbol of the prefecture of Tokyo (represents a ginkgo leaf)" となっていて、実際にもそれは大邱百貨店のシンボルマークではない。


中央日報の記事では、今回の一連の「騒動」を考える上でも注目すべき記述がある。それは「하지만 같은 업종에 있는 기업도 아니어서 법적 대응은 고려하지 않고 있다(同じ業種の企業でもないので法的対応は考えていない)」という箇所である。「同じ業種の企業でもない」。「差異」はこうしたレイヤーにも存在する筈だった。

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最初に件のエンブレムが登場した時、何故にそれはよりによって “T" なのだろうと思った。歴代近代オリンピック(夏季/冬季)のエンブレムデザインはこうなっている。



1896年の「アテネオリンピック」から始まり、2018年の「平昌オリンピック」までのものがここにある。この平昌の後に2020年の「東京オリンピック」が来る予定になっている――開催1年前の1939年に中止になった1940年「東京オリンピック」、及び同年「札幌オリンピック」の様にならなければ、そこに5年後の「東京オリンピック」のエンブレムが入る事になる。


このリストの一番最後に件の “T" のエンブレムを入れてみる。するとたちまちその特殊性に気付く事だろう。仮に開催都市の頭文字をタイポデザイン化したエンブレムが全ての大会のものであったならば、そのクロノロジーの骨格はこうなる。



しかし実際にはそうしたデザインは例外的である。アルファベットを使用したその唯一の例外(注4)は、ケベック解放戦線(FLQ)による「オクトーバー・クライシス」から6年後の1976年に、カナダ・ケベック州の最大の都市で開催された、「モンレアル(モントリオール)オリンピック」だった。アフリカ22ヶ国と中国が参加をボイコットした大会である。


(注4)1980年の「レークプラシッドオリンピック」のエンブレムは、“Lake Placid" の “L" を表していると見る事も可能だが、取り敢えずそれは明言されていないという事で割愛している。


ケベック州公用語はフランス語だ。そしてその開会宣言は「カナダ女王」でもあるエリザベス2世だった。ユニオンジャックを排除した “Maple Leaf" のカナダ国旗が制定されてから11年後のオリンピックのエンブレムは、“Montréal(仏語表記)/Montreal(英語表記) " 共通の頭文字である “M" がデザインソースだ。この “M" はそうしたヒリヒリとした状況の、極めて政治的な判断に基づく「落とし所」の一つなのである。


来る2018年の「平昌オリンピック」のエンブレムもまた、開催地名がデザインソースである。但しそれはアルファベットではなくハングルのそれであり、平昌(평창=ピョンチャン・PyeongChang)の「평」の子音を表す「ㅍ」(アルファベットの “p" に相当)と、「창」の子音を表す「ㅊ」(アルファベットの “ch" に相当)をそれぞれ抜き出してデザインされている。さしずめ東京オリンピックのエンブレムに「欧米文化」の “T" ではなく「と」や「ト」を使用する様なものであろうか。「漢字」の「東」だと「漢人」90数%で人種構成される国のものにも見えてしまうだろうし、何よりもそれはこうなってしまう事が見えている。



紋章ノ意義
本紋章ノ表現スル意義ハ「日本東京」ニシテ、意匠ハ日輪ヲ中心トシテ光芒六方ニ放射ス、即チ六合ニ光被スル


http://www.reiki.metro.tokyo.jp/reiki_honbun/ag10100051.html
(東京都例規 第1遍 総規・第1章 総則・第1節 通則「東京都紋章制定ニ関スル件」:昭和18年11月08日 次長通牒官文発第574号)


いずれにしても「欧米文化」のアルファベットを使用しないというのは、それはそれで一つの見識であると言えるだろう。


平昌と同様に、開催地名の表記文字をデザインソースとしながら、アルファベットを使用しなかった大会に、2008年の「北京オリンピック」がある。そのエンブレムは「舞い踊る北京(舞动的北京)」であり、漢字の「北京」の「京」が踊っている形を、「中国」文化の「印章」の形で表したものだった。


20世紀末までの「インターナショナル」に対する認識からすれば――今回の東京の “T" の様に――「北京オリンピック」は “Beijing" の “B" 、「平昌オリンピック」は “PyeongChang" の “P" をエンブレムに使用したかもしれない。しかし21世紀の彼等はそれをしなかった。21世紀の非欧米語圏に於けるオリンピックは、アルファベットの「文化」を「ローカル」化する事を図るのである。

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オリンピック憲章の「第5章 オリンピック競技大会(5 The Olympic Games)」を読むと、その「Ⅰ. オリンピック競技大会の開催、組織運営、管理(I. CELEBRATION, ORGANISATION AND ADMINISTRATION
OF THE OLYMPIC GAMES)」の「規則 33 付属細則(Bye-law to Rule 33)」の「1. オリンピック競技大会開催の申請−申請都市(1. Application to host Olympic Games – Applicant Cities:)」の「1.3」 にはこう書かれている。


1.3 Should there be several potential applicant cities in the same country to the same Olympic Games, one city only may apply, as decided by the NOC of the country concerned.


1.3 同じオリンピック競技大会の開催を目指す都市が1つの国に複数ある場合は、 その国の NOC が決定する 1 都市のみが立候補申請できる。


東京(2020年夏季オリンピック開催)と、広島(2020年夏季オリンピック国内候補)と、長崎(2020年夏季オリンピック国内候補/広島との共催を断念)が、同じ年のオリンピックに同時に立候補する事は出来ないという事である。一国に一都市。立候補以降は招致で国を割るべからず。であれば、国内調整以降の2020年第32回オリンピック競技大会(「東京オリンピック」)"は、事実上「日本オリンピック」という事にもなる。「札幌オリンピック」や 「長野オリンピック」が、事実上「日本オリンピック」であった様に。


であれば、“T" ではなく “Japan" の “J" を使用するという手も無いではない。佐野研二郎氏が作成した “J" をサルベージすれば、それはこういうエンブレムにもなるだろう。



(C) Kenjiro Sano


形の収まりが余り良くない様にも思えるし、亀倉雄策氏の「DNA」が大分薄まってしまってもいるが、しかしそれは仕方が無い。出来上がりの経緯が、ピンで立つ “T" とは全く異なるものだからだ。“TOKYO 2020" の下に入るべきマークは、大人の事情で割愛している。


1964年の「東京オリンピック」(亀倉雄策氏デザイン)、そして1972年の「札幌オリンピック」(永井一正氏デザイン)は、それらが「日本オリンピック」である事を(“J" ではなく)「日の丸」で表現していた。


オリンピックというのは国際的な行事であるが、開催地は日本である。東京である。そこでこのシンボルを作る思想として、日本を強く印象づけること。(中略)。私は少しも迷わず日の丸を選んだ。日の丸の赤が日本だと思ったからである。


亀倉雄策「曲線と直線の宇宙」


「開催地は日本である。東京である」という亀倉雄策氏(1924年、9歳の時に生誕地である新潟県西蒲原郡吉田町から東京府北多摩郡武蔵村境に「上京」)の同心円的な畳み掛け。それは正に、「本紋章ノ表現スル意義ハ『日本東京』ニシテ、意匠ハ日輪ヲ中心トシテ光芒六方ニ放射ス、即チ六合ニ光被スル」という「東京都紋章」の思想を受け継いでいるとも言える。この畳み掛けのズームインは、「東京」にしっかりと据え付けられている/「東京」から離れる事の無いズームレンズによるものだ。

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「国旗」や「国章」をデザインソースとする、即ち「国家」をイメージさせる大会エンブレムも、開催地の頭文字同様に少数派だ。日本はそれを過去2回(1964年東京と1972年札幌)行っている。他には西側諸国が参加ボイコットした「モスクワオリンピック」の次の大会である、東側諸国が参加ボイコットした1984年の「ロスアンゼルスオリンピック」のデザインソースが星条旗だが(1932年の「ロスアンゼルスオリンピック」も星条旗がモチーフ)、それ以外には見当たらない。1936年の「ベルリンオリンピック」のアドラー(黒鷲)は、ナチスドイツの国章とは直接の関係は無いだろうが、その「歴史」的な「正当」性をアピールするのには多少なりとも寄与した事だろう。


戦後初の夏季大会である「ロンドンオリンピック」のエンブレムは「ビッグベン」だった。以後「ヘルシンキオリンピック」の「ヘルシンキ・オリンピックスタジアム」、「メルボルンオリンピック」の「オーストラリア地図(メルボルンの位置に刺さるトーチ)」、「ローマオリンピック」の「狼の乳を吸うロムルスとレムスの像」と来て、「東京オリンピック」の「国旗」が登場する。それ以降「メキシコオリンピック」「ミュンヘンオリンピック」は開催地を全く感じさせないものになり、再び「札幌オリンピック」で「国旗」の登場。それから「モンレアルオリンピック」の「頭文字」と「ロスアンゼルスオリンピック」の「国旗」を例外として、夏季冬季共に再び開催地の特性を感じさせない「ユニバーサル」なデザインが続く。そして “T" エンブレムによる開催都市の「頭文字」とそこに隠された「国旗」の復活があった。


ここで上掲亀倉雄策氏の言葉の一部を変えてみる。


オリンピックというのは国際的な行事であるが、開催地はアメリカである。ロスアンゼルスである。そこでこのシンボルを作る思想として、アメリカを強く印象づけること。(中略)。私は少しも迷わず星条旗を選んだ。星条旗の赤と青と白と星がアメリカだと思ったからである。


見事なまでに「ロスアンゼルスオリンピック(1984)」のエンブレムを説明するものになるではないか。亀倉雄策氏のあの「東京オリンピック(1964)」のエンブレムは、冷戦時代の「ロサンゼルスオリンピック(1984)」のエンブレムに正しく受け継がれている。そう仮定して見てみると、「ロサンゼルスオリンピック(1984)」のエンブレムは、二つ(一つは白紙撤回)の「東京オリンピック」のエンブレムの鏡像である事が判る。

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1940年に開催予定だった「東京オリンピック」のエンブレムはこういうものだったらしい。



五輪に富士山である。「日本」らしいと思う者がいるかもしれないし、当時も当然そう思われていただろう。但し当時の「日本」とは、「ダイバーシティ」を「インクルーシブ」なものとはしないこういうものだったのである。



参照:下道基行 “Torii"


富士山を描く前に、「日本」に於ける富士山以外の地への想像力しなければならない。桜の花(染井吉野)を描く前に、「日本」に於ける桜の花(染井吉野)以外の地を想像しなければならない。鳥居を描く前に、「日本」に於ける鳥居以外の地を想像しなければならない。そうしたものの持つ「らしさ」が、暴力的に働いてしまうケースがあり得る事への想像力。だからこそ多くの国のオリンピック大会のエンブレムデザインは、「らしさ」に陥らない様に「ユニバーサル」を指向せざるを得ないのである。

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件の “T" エンブレムは、世界中にその製品を送り出そうという企業(例えば「トヨタ」)のロゴにはそのままの形では使えない。「日の丸」(それが単に「赤い丸」以外の何ものでなかったとしても)が付いている車を、日本人以外の人間が抵抗無く買うかどうかを想像すれば良い。「トヨタ」の多くのアメリカ工場には「日の丸」は上がっていない。TSUTAYA の “T" ロゴに「日の丸」はどうだろうか。結局あのエンブレムは、東京都のシンボルマークや都章にのみフィットするデザインなのだろう。


エンブレムから「日の丸」や「富士山」や「桜の花」や「舞扇」や “T" の要素を取り去ったその時、「ダイバーシティ」を「インクルーシブ」に受け入れてくれそうな(問答無用で「出て行け」とは言われなさそうな)、「同質」である事を強要されない市民社会なのだというイメージを持たれるかもしれない。その「ダイバーシティ」には、恐らく「難民」といった人達も含まれるだろう。


「日の丸」や「富士山」や「桜の花」や「舞扇」や “T" が「日本」や「東京」の世俗的なシンボルであったとして、エンブレムはそれをシンボルとしてしまう世俗の囚われを表すものである。オリンピックのエンブレムは、その開催国の国民(世俗)が「国」や「市民」というものをどう捉えているのかを、如実に表してしまう恐ろしいものなのである。