木魚を叩きながら僧侶の口から誦せられる日本的様式美(注2)の「しきそくぜーくう、くうそくぜーしき、じゅそうぎょうしきやくぶーにょぜー(yad rūpaṃ sā śūnyatā,yā śūnyatā tad rūpam,evam eva vedanāsaṃjñāsaṃskāravijñānāni.)」は、「死者」に「言い聞かせる」ものであるというよりは、「聞いてっか?そこのおまいら」である。葬儀会場で簡易なルビ振り「経典」を渡され、参列者が僧侶と共にそれを唱和するのは、そこに書かれている事を「生者」の側にいる者に宛てる為だ。司祭がバイブルの一節を引いたりするのも「聞いてっか?そこのおまいら」であり、賛美歌の聴者はそれを歌う者なのである。誰でもない「あなた」に宛てている様に書かれているものの宛名の一つが、それを発しそれを聞く自分自身であるという構造をそれらは持つ。葬儀とは「生」と「死」の「総合」後の「生者」に対するセルフ教化の装置なのである。
306本だった柳は現在は80本にまで減っているという。それを増やそうという話(「『ボトナム通り』リニューアルプロジェクト」)もあるが、それは「柳」の意味の「反転」を伴うものだ。同プロジェクト事務局を担当する「一般社団法人 グローバル・ピース・ファウンデーション・ジャパン」(GPF)の「ビジョン」は、“One Family Under God" であり、GPFの創設者・理事長はムン・ヒョンジン(문현진:文顯進)氏である。
「(新潟地震)当時来日していたデューク・エリントンが、新潟市の惨状を聞き、ハワイ公演をキャンセルしてまで、東京にて新潟地震救済募金募集の特別コンサート(注:東京新宿厚生年金会館)を行い、収益金をすべて新潟市に贈りました」というのは事実である。「美談」と言えるだろう。但しその「美談」は東西冷戦下に於ける「美談」でもある。「新潟市の惨状」をエリントンに「伝えた」のは、「新潟アメリカ文化センター」のセオフィラス・アシュフォード館長だった。アメリカ文化センターの前身はGHQ/SCAP民間情報教育局(Civil Information and Education Section。以下CIE)下のCIE図書館(Civil Information and Education Information Center)であり、後年それはアメリカ合衆国広報文化交流局(United States Information Service。以下USIS)に吸収される。折しも当時の新潟の行政(県政・市政)は、相対的に親ソ連、親北朝鮮だった。「ボトナム通り」の命名者は、第43、44代の新潟県知事である北村一男氏である。
土地の者ではない人間/余所者が、これ以上当地の「アート」の「事情」に首を突っ込んでも些かの実りもない。従って目に付いたファクトのみを記する事にした。これらをして、定冠詞付きの "The Art of Niigata"「ザ・新潟のアートシーン」であるか否か、それを代表するもの或いははその全てであるか否かについては、土地の「事情」に疎い余所者は沈黙するしかないもの──それ以上でもそれ以下でもないもの──として見るしかなく、「事情」の周囲に形成される「界隈」にも一切の興味も無いが故に、そのジャッジメントは面積10k㎡の島──その狭小なエリアにすら「公共」は存在する──の中に住む島民間で行われるに如くはない。
再び寺町ベルトの広大な墓場を抜け、西堀通、古町通を越えて一筋目を入って行く。「安兵衛」という飲食店の暖簾を潜る。同店の壁に貼られたメニュー、手許のメニューのいずれもが、日本語のみで書かれている。インバウンド向けとしての主要言語である英語も無いし、中国語も無いし、ハングルも無い。或いは新潟で働く人向けのフィリピン語も無ければ、インドネシア語も無く、ロシア語も、ウルドゥー語も無い。少なくともここは「Замедли скорость!آہستہ کیجئے۔ گاڑی کی سپیڈ」(「スピード出すな」)という看板が立ち、「مسجد ميناء نيغاتا」(イスラミックセンター新潟)のモスクがあったりもする新潟東港の様な場所ではないという事なのだろう。
「作品」を作り始めた頃──半世紀前だ──、中央線沿線の社会科学系の古本屋でルードヴィヒ・ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」("Logisch-Philosophische Abhandlung")を買った。あの有名過ぎる命題 7 の "Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen."(「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」)の直前の命題 6.54 にある、"Er muss sozusagen die Leiter wegwerfen, nachdem er auf ihr hinaufgestiegen ist."(「梯子を登った後には梯子を捨てなければならない」)は、そのままその後の自分の「作品」観──「『作品』は『梯子』たるべき」を決定付けている。即ち自分にとっての「作品」とは何処までも「疑似命題」なのだ。「疑似命題」としての「梯子」が焼失した。今回の事態は巨視的にはそういう話なのである。故にフェティッシュの対象になり得ない「梯子」を再制作するという事も無い。
彼の墓碑に書かれたセンテンスを捩って言えば、「されど作品を制作するのはいつも他人ばかり」("D’ailleurs, c’est toujours les autres qui le font.")こそが、「マルセル・デュシャン」という「キャラクター」の最大の意味であり、且つ20世紀の美術が到達した「認識論的断絶」(「心象」→「構造」)の前にあっては、多かれ少なかれ「現代美術」の「アーティスト」にとって「作品を制作するのはいつも他人ばかり」が己が存在の「条件」なのだ。その結果として「喪失」に対する「悲嘆」の属人的「所有」性に与しない事が、デュシャン、及び彼に「続く」者にとっては最低限の「倫理」として共有されなくてはならない。
It stands to reason that art works are made by art workers, but in this searching account of artistic labor in the 1960s and 1970s, Julia Bryan-Wilson shows us that reason is supplanted by ambivalence and ambiguity as artists grappled with the massive upheavals wrought by feminism, the student movement, and the Vietnam War. The art made in the wake of these social transformations toggles between reform and revolution, and the definition of 'artist' has not been the same since.
—Helen Molesworth, Houghton Curator of Contemporary Art, Harvard Art Museum
ジュリア・ブライアン゠ウィルソン(Julia Bryan-Wilson:1973〜)が、2009年に University of California Press から出版した "Art Workers: Radical Practice in the Vietnam War Era" の邦訳書「アートワーカーズ 制作と労働をめぐる芸術家たちの社会実践」(フィルムアート社)刊行を「記念」してのイベントである。イベントの設え的には、3月14日の京都(京都芸術センター)が第1回目、3月17日の東京(東京藝術大学)が第2回目というものになっていた。
原書の副題の ”Radical Practice in the Vietnam War Era”(「ベトナム戦争時に於けるラディカルな実践」)は、邦訳書では「制作と労働をめぐる芸術家たちの社会実践」に置き換えられている。日本の論者による章毎の解題が新たに付された同訳書であるが、1960年代から1970年代のアメリカ美術に於ける「ラディカルな実践」について書かれた2009年(ベースは2004年)刊行の日本語訳が、2024年に出版される──即ちジュリア・ブライアン゠ウィルソンの論考と考察の対象との間に30年から40年の時間差があり、且つそのオリジナルの出版から15年後に出た邦訳書とその対象となった営為との間には半世紀以上の時間と社会状況の差がある──という事で、その変更もまた、解題を付す事と同様「いまの日本の読者を取り巻く状況に接続するであろう地理的・時間的距離を鑑み」(訳者あとがき)の成せるものだろう。
(注3)同書の沢山遼氏による同書第2章「カール・アンドレの労働倫理」(”Carl Andre's Work Ethic”)の解題、「カール・アンドレの階級闘争」には、「一九七〇年のアート・ストライキの集会を記録した写真でアンドレは労働者のシンボルとして青いツナギ(注内注:それは大村の制作時、搬入時のデフォのスタイルでもあった)を着ている。が、そのツナギは、労働者のツナギそのものではない(労働者のツナギのようには汚れていない)。」とあり、それが「コスプレ」である事を示唆している。同書の第3章「ロバート・モリスのアート・ストライキ」では、「愛国」労働者による "hard-hat riot"(「ヘルメット暴動」)を報じるニューヨーク・タイムズの記事「建設労働者が戦争反対派を襲撃」(”War Foes Here Attacked by Construction Workers":1970年5月8日)を引用している(訳書175〜176ページ、原書110ページ)が、その「建設労働者」の「ほとんどが茶色のツナギを着てオレンジと黄色のヘルメットを被」っていた("most of them wearing brown overalls and orange and yellow hard hats")という。それもまた「労働者のシンボル」としての「コスプレ」であるには違いない。尚この「ヘルメット暴動」の発端になったのは、1970年5月4日の「ケント州立大学銃撃事件」であり、ベトナム反戦運動のアイコンの一つにもなった「ジョン・ファイロの遺体の前で叫び声を上げるメアリー・アン・ベッキーノ」の写真は、同年の「第10回日本国際美術展 人間と物質」展(「第10回東京ビエンナーレ」)に出品されたリチャード・セラとカール・アンドレの共作「豚はその子を食べてしまうだろう」( "The Pig Will Eat Its Children")にも使用されている。因みにこの「なりすましとしての労働者」──「コスプレ」──問題に対する「アンサー・ソング」として、「前章」の「小汚い」関連は書かれている。
(注4)例えば同書第3章「ロバート・モリスのアート・ストライキ」("Robert Morris's Art Strike")──原書の表紙に採用された、「『シガーを咥えた』ロバート・モリス(「アーティスト」)と『労働者諸君』」のホイットニー美術館に於けるインストール写真も掲載されている──ではロバート・モリス自身の「懺悔」を紹介している(訳書149ページ、原書89ページ)。
Morris himself has recently looked back at this moment, admitting the sexism implicit in the equating of outsize sculpture, heavy labor, and masculinity: "The minimal artists of the sixties were like industrial frontiersmen exploring the factories and the steel mills. The artwork must carry the stamp of work--that is to say, men's work, the only possible serious work, brought back still glowing from the foundries and mills without a drop of irony to put a sag in its erect heroism. And this men's work is big, foursquare, no nonsense, a priori."
嘗てのツイッタランドには「tsudaり」という「文化」があり、この手の「美術のシンポジウム」にも「tsudaり」の御方が現れて、そこで何がどう議論されていたのかの「状況の一端」──飽くまで報告者の目を経由した「一端」──をテキストベース、或いはショート動画付きで「中継」する事で、会場から遠隔に住む者にも、理解の手掛かりを与えてくれるものだった。勿論その手掛かりは手掛かりでしか無く、後の主催者側による情報公開とセットでなければ意味を成さないものではある(注6)。しかしその「tsudaり」の「文化」も今ではすっかり廃れ──イーロン・マスクの X が仕様(ポスト数制限や時系列表示壊乱等)も含めてその様なものではなくなった──、そうこうしている内に情報の鮮度を気にして躊躇が始まり、結局それはツイート/ポストされる事も無くなり、結果としてこの種の催し物は空間の限界に絡め取られて蛸壺化、サークル化がいや増しに増す。
(注6)今回のイベントは映像に収められ、やがて公開される予定であるという事を聞いた。
京都の回では1969年の Guerrilla Art Action Group(GAAG)によるパフォーマンス、通称「血の海」("Blood Bath")も紹介されていて、それはその3日前の3月11日の国立西洋美術館をダイレクトに想起させるものではある(東京でこれが映写されたかどうかは判らない)が、ル・コルビュジェの美術館から遠く離れた京都では、それに対する言及は全く無かった。「アートワーカーズ」から引く。
情報と調査を用いた実践をもっとも生々しく用いた作品のひとつに、一九六九年に行われたGAAGのパフォーマンス《近代美術館理事会からのロックフェラー家全員の即時退陣を求める声明》(A Call for the Immediate Resignation of All the Rockefellers from the Board of Trustees of the Museum of Modern Art)──通称《血の海》(Blood Bath)がある。このアクションでは、四人のアーティスト(ジャン・トーシュ、ジョン・ヘンドリクス、ポピー・ジョンソン、シルヴィアナ)がニューヨーク近代美術館のもっとも混雑する時間帯のロビーに集合した。何の警告もなく四人は互いの服を引き裂き始め、隠し持っていた二ガロン(約七・六リットル)近い血が入った袋を破裂させながら、支離滅裂な叫び声を上げた。アーティストたちは血まみれで半ば身ぐるみを剥がされ、ビラが散乱する床に横たわった。ここで撒かれたビラは、ロックフェラー家とその一族が支援する美術館が「軍事機構のあらゆる側面に関与する自分たちの野蛮さをカムフラージュするために芸術を利用している」と非難するものだった。(中略)GAAGのビラには、スタンダード・オイル社やマクドネル・エアクラフト社など、ナパーム弾やその他の戦争用弾薬を製造する企業とロックフェラー家との金銭的な関わりを詳細に記した三つの調査の概要が含まれている。(中略)GAAGが希求していた可能性はジャーナリズムに似ていた──《血の海》は、美術館の可視性のネットワークに頼り、それを利用することで、美術館の悪を過剰なまでに強調する。このアクションは、美術館という空間のなかで行われて初めて意味をなすものであった。制度的な枠組みによって、GAAGの批評は読解可能になるのである。
One of the most graphic uses of informational and investigative practices occurred in 1969; this was GAAG's performance A Call for the Immediate Resignation of All the Rockefellers from the Board of Trustees of the Museum of Modem Art, known simply as Blood Bath. In this action, four artists (Jean Toche, Jon Hendricks, Poppy Johnson, and Silviana) gathered in the peak hours in MoMA's lobby. Without warning, they began ripping each other's clothes off, screaming incoherently as they burst concealed bags filled with nearly two gallons of blood . As the artists sank to the floor, bloodied and half-stripped, they lay amid scattered leaflets that accused the Rockefellers and the museum they supported of using "art as a disguise, a cover for their brutal involvement in all spheres of the war machine." (...) GAAG's flyer included a three-point summary of research that detailed the Rockefellers' financial involvement with corporations that manufactured napalm and other war munitions, including Standard Oil and McDonnell Aircraft. (...) The visibility they craved was akin to journalism- Blood Bath functioned with a kind of excessive insistence on the evils of the institution precisely as it relied upon and exploited the museum's networks of visibility. This action made sense only when performed within the spaces of the museum; the institutional frame made GAAG's critiques legible.
(訳書283〜285ページ、原書184〜187ページ)
「地元」東京であるから、"the Vietnam War Era" ならぬ "the Israel–Hamas War Era"(仮)に於ける今回の件に関する言及なり質問なり何なりは、何らかの形で出てくるのではないかと想像させる(注7)。そうなった場合「研究者」である──或いは「研究者」である事を離れた──ジュリア・ブライアン゠ウィルソンはそれにどう答えるだろう。
(注7)東京の会場では、西洋美術館の一件に関して「言及があった」という X のポストはあったものの、それがどの様な形のどの程度の「言及」なのかは現時点で不明である。
2024年度の小学校の教科書(小学5年生算数:東京書籍)に、大谷翔平(ロサンゼルス・ドジャース)がフィーチャーされるという。大谷翔平が日本の義務教育の教科書に取り上げられるに至るには様々な理由があるだろうが、その大きなものの一つは、「(日本)国民」にとって彼が「偉人」であり、その「偉人」性を担保するのは、「世界一」のベースボール・リーグであるアメリカの Major League Baseball(以下 "MLB")のトップクラスに──暫定的に──彼が位置するまでに「成功」し「勝利」者の側にいるからだろう。
(注7)2019年にバービードール(マテル)の "The Inspiring Women" シリーズでリリースされたローザ・パークス(下掲画像)。「公民権運動」のスタートになったバス車内をプリントしたボックスには "Rosa Parks" の名の下に「公民権活動家」("Civil rights activist")と記されている。パークスの彫像は全米各地に存在するが、その最も代表的なものは、連邦議会議事堂内の国立彫像ホールに収められているものだ。一方バービードールの日本的展開である「リカちゃん」もまた「移民」の血を引く者である。演奏活動ウィドウであるが故に実質シングルマザーで7児の母である香山織江に育てられた「リカちゃん」(Licca Kayama:香山家次女)。その父親の Pierre Kayama(ピエール香山:旧姓ミラモンド)は、「フランス国籍を持つ指揮者で王家の末裔」という設定以上は不明である。1967年(昭和42年)に11歳だった Licca Kayama が、昭和の日本の白樺小学校で「あいのこ」呼ばわりをされて「イジメ」に逢ったという設定は無いが、その一方で「アクティヴィスト」が「リカちゃん」の世界に入る事も無いだろうし、故に「お人形遊び」から「人権」に思いを馳せる事も無いだろう。
ロビンソンの伝記映画 "42" の冒頭部、白人の球団役員に「ニグロ・ボールプレイヤー」入団を提案する場面に於ける「プラグマティスト」ブランチ・リッキー(演:ハリソン・フォード)の台詞。"New York's full of Negro baseball fans. Dollars aren't black and white. They're green. Every dollar is green."(「ニューヨークは黒人野球ファンで一杯だ。ドル紙幣は黒でもなければ白でもない。緑だ。どのドルも緑なのだ。」)。
37歳でベースボール・プレイヤーとしての現役を引退した後に、ロビンソンは公民権運動に深く関わる事になる。マーティン・ルーサー・キング・ジュニア の "I Have a Dream!" 演説でも知られる「ワシントン大行進」にも、アクティヴィスト・ジャッキー・ロビンソンは参加している。キングは、“Jackie Robinson made my success possible. Without him, I would never have been able to do what I did.”(「ジャッキー・ロビンソンが、私の成功を可能なものにした。彼がいなければ、私がしてきた事は決して出来なかっただろう」)と語っている。
(注9)"Fourteenth Amendment to the United States Constitution"(「アメリカ合衆国憲法修正第14条」)を永年骨抜きにしてきた "Separate but equal"(「分離すれども平等」)という法原理が、"equal" (「平等」)を詭弁的に扱い、ジム・クロウ法の後ろ盾になっていたのは皮肉な話である。ニグロ・リーグは、「分離すれども平等」による産物の一つである。
(注11)2020年代になっても、アメリカ美術界に於ける/アメリカ美術界ですら事実上のカラーラインは崩れてはいない。以下の記事では、美術館館長の採用には、社会的・職業的「ネポティズム」がものを言い(”museum directors are more likely to invite individuals already in their social and professional circles”/「美術館館長は、既に社交界や仕事上の付き合いのある人物を採用する傾向が強い」)、そこには “racially stratified.” (「人種的階層」)の存在が認められるとある。洋の東西を問わず、「美術」が如何に「グローバル」を僭称しようとも、未だに閉鎖的内集団が斯界の人事を左右する近代以前の段階にある事をまざまざと示している。
(注15)Charities Aid Foundation(CAF)の調査、"World Giving Index 2023" によれば、日本の「人助け度」は142カ国中139位であり、"HELPED A STRANGER" カテゴリーに至っては、日本は「イスラエル」(例)の半分以下、「ミャンマー」(例)等を含むアジアで最下位である。大谷翔平が「道徳」の教科書に載る「私たちの社会」でしばしば唱えられるのは、「新しい公共」という名の自助>共助>公助の不等式であり、その不等式に於いて「人助け」は、特に「される」事(例:生活保護や支援活動)に於いては「不道徳」的行為であるとすらされる。因みにこの調査では、インドネシアが世界最高の "generous country" とされているが、そのインドネシア(嘗ての「大東亜共栄圏」地域)は経済発展が目覚ましいが故に、近々の OECD国入りが確実視されている。恐らくインドに続いて10年以内に GDP で日本を抜き去るだろう。
ペルー共和国の実際は「ペルー」ではあるものの、それでも曲がりなりにも「外国」(日本)にルーツを持つアルベルト・フジモリが大統領として一時(いっとき)認められた国である一方で、「女性初」の首相が間欠的に待望されたりもする「私たちの社会」ではあっても、リシ・スナクやバラク・オバマの如き「『移民』初」の Head of government の実現性は現実的にかなり低く、永遠に実現しないとすら考えざるを得ない。例えばこの「フォトレポート」のタイトルである「現代日本の『移民』たちのフォトレポート」を、写真や文章はそのままに「現代日本で永遠に総理大臣になれない人たちのフォトレポート」とするだけで、様々な「現代日本」の構造的「障壁」が明らかになる。
この誌面には「共生」の語がしばしば登場する。しかし「共生」にはベネフィットとハームのバランスによって利害関係の種別が必ず存在する。「共生」はそれだけを唱えてさえいれば良い「題目」ではない。仮に「題目」であれば、「全てのジェンダーは『共生』の状態にある」とも、「『分離すれども平等』も『共生』の形である」とも、「嘗ての Major League Baseball と Negro League baseball は『共生』関係にあった」とも、「私たちと技能実習生は『共生』している」とも、「イスラエル人とパレスティナ人は『共生』している」とも嘯く事が可能だ。セクシストやレイシストの口から「共生」という言葉が出てきたとしても何ら不思議な事ではない。
Elle : C'est beau, hein... Cet homme avec son chien... Regardez : ils ont h même démarche. Lui : C'est vrai. Vous avez entendu parler du sculpteur Giacometti ? Elle : Oh ! oui, j'ai trouvé très beau ! Lui : Vous ne savez pas ?Ila dit une phrase extraordinaire. ..lia dit : « Dans un incendie, entre Rembrandt et un chat, je sauverais le chat. » Elle : Oui, et même : « Je laisserais partir le chat après. » Lui : C'est vrai ? Elle : Oh ! oui, c'est ça qui est merveilleux justement... non ? Lui : Oui, c'est très beau. Ça veut dire : « Entre l'art et la vie, je choisis la vie. » Elle : C'est formidable. Pourquoi m'avez-vous posé cette question ? Lui : Sur Giacometti ? Elle : Oui Lui : À propos de... du monsieur, là, avec son chien.
折しも年賀状の季節でもあった。潰れた家の住人にも、焼けた家の住人にもそれは届く。「あけましておめでとう」というのは、そもそもは年を跨いでサバイブしてきた者に対する寿ぎの言葉だ。即ち「あけましておめでとう」の英訳の最適解は「HAPPY NEW YEAR」ではなく、「I AM STILL ALIVE」であり、それを読んでいる/読める状況にある者に対する「YOU ARE STILL ALIVE」であり、再度それを日本語に変換すると「生きてるだけで丸儲け」になるのではないか。「グリーフケア/グリーフワーク」が成立する最も根本的な条件は、何を置いても険しさを伴う「STILL ALIVE」なのだ。