中井輪:「庶民烈伝」/「Rin Nakai 20 JUN - 9 AUG」

中井輪「庶民烈伝」/「Rin Nakai 20 JUN - 9 AUG」

京都の大原にある「AIR大原」を7ヶ月ぶりに訪れた。前回最後の訪問は昨年(2025年)の11月9日。「大村益三(おおむら・ねこ)」として参加した「カムバック!紅葉祭 同時開催展」(会期:11月8日〜11月9日。企画:長谷川新。以下「同時開催展」)の2日目(最終日)だった。

「カムバック!紅葉祭 同時開催展」

「同時開催展」初日(2025年11月8日)の中井輪「予告絵」インストレーション・ビュー。その左右の棚の上に乙たろうの「壺」。左に小沢裕子の「語呂合わせ」、手前に大村香琳の「象棋(チュンジー)」

「同時開催展」2日目(2025年11月9日)の中井輪「予告絵」のインストレーション・ビュー。左から小沢裕子、乙うたろう、中井輪。手前に少しだけ大村香琳が写っている。

2026年6月20日から8月9日(長崎原爆投下の日!)まで、「AIR大原」では、その「同時開催展」に「予告絵」を出していた中井輪の個展「庶民列伝」(注1)が開催されている。同展のフライヤーに採用されている画像は「同時開催展」の1日目のショットである(注2)。今回は「庶民列伝」展の初日(2026年6月20日)に大原入りした。「同時開催展」の最終日の大原は雨。そしてこの「庶民列伝」展の初日も雨だった。

「庶民烈伝」フライヤー1

「庶民烈伝」フライヤー2

(注1)会期:2026年6月20日(土)〜8月9日(日)。川端五条の半兵衛麩ビル・ホール Keiryu でも、同じ会期で中井の個展「Rin Nakai 20 JUN - 9 AUG」が開催されている。

(注2)「同時開催展」2日目は雨になり、展示作品が雨に当たる懸念があった為に、初日とは別の場所(母屋二階の一室)に移された。

同展フライヤーには、キュレーターの長谷川新の文章が書かれている。引く。

小説家の深沢七郎(1914-1987)は、短編集『庶民烈伝』のなかで、ひとりのおばあさんについて書いています。広島の原爆によって家族を殺され、失明し、独居老人・障害者となった彼女は、それでも頑なに生活保護を受給せず、補償運動にも参加せず、「手が動く限りは」と按摩で生計を立てています。彼女は、被爆の瞬間に見た閃光を「七色に輝く雲」と呼び、そのなかに神様がいたと信じています。光を浴びたことによって、おばあさんは眼球を焼かれ視力を失うわけですが、にもかかわらず、彼女はそれを自身が変化した契機であるとし、その実感を強く握りしめて生きています。このおばあさんを「悲惨」で「不幸」であるとし、「支援対象」でしかないとみなす眼差しこそが貧困なのであり、中井輪は、こうした「庶民」の生の強さと尊厳に深い衝撃を受けたといいます。大量殺戮兵器と映画の光学的経験を安易に結びつけることは慎まねばなりませんが、それでも、このような生がありうるのだということを、中井は制作と展覧会をとおして、考え抜こうとしています。

中井の油彩画は、映像記録と不可分であり、習慣として固定化される手前の人間の身振りに着目するところから始まります。近作では、自身の父の姿を記録する試みや、友人たちに特定の設定や状況、脚本を与えて演じてもらうなど、演出を介したアプローチを行ってきました。現在はとりわけ、ささやかな映画の自主上映会を定期開催し、映画を鑑賞する人々の姿を撮影・再構成し、油彩画へと昇華する試みを続けています。

スマートフォンで動画が矢継ぎ早に消費され、絶え間ない自己主張が求められる現代において、ひとつの映画に夢中になっている人の身体は特異な存在感を放ちます。鑑賞者たちは各々の姿勢で光を受けとめようとし、スクリーンの光に釘付けになり、照らしかえされ、いわばすべてが光であるような世界へと溶け出していきます。その姿勢は、真剣な眼差しを向けているように見えて、どこか退屈さや疲労を孕み、力の置きどころに迷い、重心を傾かせてぎこちなく硬(こわば)っています。中井はそのような受動的で、緩慢で、光のゼロ度にまで収束しているかのような身体をじっと観察し、次のように書いたことがあります。ーーしかしそれでも観客は、疲れることと光を受けとめることのあいだで、後者を選び続ける。

本展会期中には野外上映会やワークショップも開催予定です。また、半兵衛麸ビル2F(京阪五条駅下車すぐ)においても、KYOTO INTERCHANGE主催で中井輪の個展「Rin Nakai 20 JUN - 9 AUG」が同時開催されます。あわせてご高覧いただけますと幸いです。

深沢七郎の「庶民烈伝」三「安芸のやぐも唄」から一部を引く。

「ひょっと」
 おタミは自分の姿に気がついた。義理だとか、恩だとか言っていた息子の茂雄とは全然、違っている自分に気がついたのである。息子も娘だちもいなくなったし、孫だちもいないが、ただ1ツ、おタミはかたく抱いているものがあったのである。あの七色の雲が現れたときから、ただ1人で生きていくことしかないのである。死んでいくことも怖れないが、1人だけで生きていくことも怖れない。なにも怖れない自分のちからをかたく抱いているのである。
「あの雲は」
 とおタミのめくら(原文ママ)の眼はあのとき天に現れた七色の雲を思い浮かべた。1人でなにも怖れなく生きていくのを知ったのはあの雲の現れたときからである。
「あの雲ン中には」
 とおタミのめくらの眼には赤い、黄色い、青い、紫の巨大な虹の入道雲が映っていた。
(あの雲ン中には神様が)
 とおタミは思った。手は客の肩をもんでいた。耳は街の行進の騒ぎを聞いていた。瞼には巨大な七色の雲が映っていた。雲の中には1人で生きることを教えてくれた不動明王のような神が住んでいるのだと気がついた。

「庶民烈伝」深沢七郎:中公文庫 p.127-128

この「おタミ」(「庶民」)の「境地」は、殆どの家族/係累を広島の原爆で失い、社会的コードに縛られなくなった事による「本来」的な自己の魂の解放というべきものだろうか。ここに付箋1

そして中公文庫の深沢七郎「庶民烈伝」のカバーに書かれた「周囲を気遣って本音を言わずにいる」のところに付箋2

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【枕:レジデンス】

戦争が終わりに近づく頃には、アメリカのB29という爆撃機が編隊を組んで大原の上空を飛び去っていきました。その度に私たちは授業や作業を中止して待避しました。農作業の時間も多く夏休みも五日ほどしかありませんでした。

「大原校の歴史」京都大原学院
https://ohara-gakuin.jpn.org/ohara/gakkou/rekisi/rekisi.htm

中井輪の2つの個展が開かれている京都は、最初の原爆投下の有力候補地(注3)の一つであったものの、最終的にそれから外れた事でも知られている。2023年公開の映画「オッペンハイマー」(監督:クリストファー・ノーラン)の1945年の暫定委員会(Interim Committee)のシーンで、ジェームズ・レマー演ずる陸軍長官のヘンリー・スティムソンが ”I've taken Kyoto off the list due to its cultural significance to the Japanese people. Also, my wife and I honeymooned there.It's a magnificent city."(「私がリストから京都を外した。日本人にとって文化的意義が大きい。実は新婚旅行で京都に行った。本当にすばらしい街だ。」:配信版日本語吹き替え書き起こし。以下同)と語っているが、この台詞は後の「神話」に基づいた映画人による創作である(注4)

(注3)1発目の原爆投下地の候補は、最終段階で京都、広島、新潟に絞られた結果、広島が選ばれる事になる。2発目の予定地は軍需工場の多い小倉だったが、決行日当日の天候を見た「現場判断」で長崎に変更される。

(注4)"Henry Stimson didn’t go to Kyoto on his honeymoon” : Restricted Data / A Nuclear History Blog : Alex Wellerstein
https://blog.nuclearsecrecy.com/2023/07/24/henry-stimson-didnt-go-to-kyoto-on-his-honeymoon/

中井輪「庶民烈伝」展が開かれている「AIR大原」(注5)のある大原は、「満州事変」から始まる所謂「十五年戦争」の末期には、京都市内の小学校の疎開先の一つだった。大原(当時は京都市ではなく京都府愛宕郡大原村。1949年4月1日に京都市に編入)に疎開してきたのは、「京都市立西院国民学校」(現「京都市立西院小学校」)の3年生以上の児童148名、教員9名。彼等の分宿先は、天理教若狭分会、阿弥陀寺、遮那院、正円寺、宝勝院であり、その学童達が通学したのは現在の「京都大原学院」(小中一貫校。当時は「大原国民学校」)である(注6)。これらのいずれもが「AIR大原」の周辺にある。

「京都大原学院」通用門付近(京都市左京区役所 大原出張所)に建てられた「京都市編入五十周年記念植樹」の碑

「京都大原学院」正門

寂光院へと向かう道から見える「京都大原学院」。手前は高野川。

(注5)言うまでもないが、「AIR大原」の「AIR」は「アーティスト・イン・レジデンス」の略である。先頃発売された「美術手帖」2026年7月号の特集は「21世紀の現代アート事典」だった。同特集は大きく7つのパートで構成され、その内のパート5が「オルタナティブはどこにある?」である。

複数の執筆者が持ち寄った文章で構成されたこのパートを纏めるのは、岩田智哉と今回の2つの中井輪個展のキュレーターの長谷川新だ。その「オルタナティブはどこにある?」の項目の一つに(当然の事ながら)「アート・イン・レジデンス」がある。書き手は小田井真美。「辞書引き」的にそれを引いてみる。

アート・イン・レジデンス(以下、AIR)は、アーティストの創造的活動の発展や継続を支える仕組みであり基盤でありネットワークである。『アーティストの一時的な滞在とその活動を受け入れる個人や団体』と『一時的にある場所・地域に滞在し活動するアーティスト』でAIRは成立する。(…)近年増加傾向のアーティストを含む多様な事業者の活動や経費負担型AIRは、創造的活動の研鑽と同時に、地域内プレーヤーの連帯やケアの性質を帯びる。それらはコミュニティの自律性を醸成しながら、各地に存在し、互いに繋がりあっている。

蛇足ではあるが、筆者もこの「オルタナティブはどこにある?」パート内の、「見えづらさ/残りづらさ」(中本憲利執筆)中で言及されていたりする(PR)。

「美術手帖」2026年7月号111ページ。

(注6)「京都市学校歴史博物館」サイト「戦争に伴う学童疎開の記録」右京区
https://www.edu.city.kyoto.jp/rekihaku/about/sokai/ukyou.html

京都市の学童疎開が始まったのは、1945年1月16日に現在の京都女子大学近傍の馬町にB29から20発の250ポンド爆弾が投下(死者34人、負傷者56人:京都府記録)された事により、その必要性がにわかに高まったからだ。その後、現右京区西院春日町(同年3月19日)、太秦(同年4月16日)、京都御所(同年5月11日。銃撃)、西陣(同年6月26日)が空襲に遭う。「西院国民学校」の疎開が始まったのは同年3月25日からであり、それは同校所在地でもある「西院春日町」が爆撃(午前7時半頃。人的被害無しとされる)されてから約1週間後の事である。その後西院小学童の大原「レジデンス」は敗戦から2ヶ月後の10月17日まで7か月程続く。

仮に原爆投下地のリストから京都が除外されずにいたとしたら、大原はどうなっていた事だろうか。広島と同じ地上600メートルで「リトルボーイ」が炸裂していたとして、投下予定地だった梅小路機関区転車台(標高27メートル)との間に大原界隈で最も高い山の一つである瓢箪崩山(標高532メートル)を挟んでいても尚、それの放つ「光」は「爆心地」から約17キロ離れた大原の学童(存命であれば現在80代から90代)にまで届いた事だろう。そして児童達は「光」の方向に上る「突然現れた大きい入道雲」(注7)を、瓢箪崩山越しに目撃する。

(注7)深沢七郎「『庶民列伝』その三『安芸のやぐも唄』」。

ニューメキシコ州ソコロで行われた世界最初の核実験のコードネームは、J・ロバート・オッペンハイマーが命名した ”Trinity"(「三位一体」)であり、それは「神様」──「庶民烈伝」の「おタミ」のそれとは全く違うだろうが──の領域をも暗示させるものだ。同映画の暫定委員会のシーンでは、「原爆」の「威力」についてキリアン・マーフィー演ずるオッペンハイマーにこの様に語らせている。”Yes, but don't underestimate the psychological impact of an atomic explosion. (...). Dropped from a barely noticed B-29, the atomic bomb will be terrible revelation of divine power."(「ええ、ですが、原爆の爆発による心理的な影響は非常に大きいと思われます。(中略)B-29から密かに投下される原子爆弾は、神のようなすさまじい力の出現と取られる。」)。”the psychological impact" に付箋3

一方でオッペンハイマーが、後にキャサリン・“キティ”・オッペンハイマーになる女性に「量子力学」を説明する場面では、”our bodies, all of it. It's mostly empty space. Groupings of tiny energy waves bound together."(「僕たちの体も、すべてはほぼ空っぽ。小さなエネルギーの波の束だ。」)と語る。それを上掲ステートメント中の「すべてが光であるような世界」とペアで付箋4

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【AIR大原】

今回の中井輪の個展は「AIR大原」と「半兵衛麩ホールKeiryu」という2つの会場での「同時開催」だ。或る意味でそれらの空間は対称的な性格を持つ(注8)。その「両極」なスペースで一人の作家の個展が同時に行われる事。それが今回の「中井輪」展全体の「核心」の一つである様な気がする。更にどちらを先に見るかで、その印象は大きく異なるという気もする。しかしその「両極」の中間に位置するのは「作品」という「物理」であり、それが「両極」に見えているものをパタパタと開けたり閉めたりする一つの蝶番──その「開け閉め」によって「両極」は不確実化する──になるとも想像する。結局のところ、どちらから入ろうとも、最終的に行き着く先は同じという事にはなるのだろうが、それでも体験の「順番」というものを殊更に軽視してはならないとも思う。

(注8)その一つの現われが、会場内の作品の布置や作品のデータを示す「会場マップ」にも現れている。「AIR大原」のそれと「半兵衛麩ホールKeiryu」の最大の相違点の一つは、後者には前者には無い「作品価格」が記されているところにある。

「庶民烈伝」展会場マップ

「Rin Nakai 20 JUN - 9 AUG」展会場マップ

筆者の選択は「AIR大原」を先に見るというものだった。元々が民宿「三千院道」だった「AIR大原」は、基本的に襖と畳で構成された日本家屋である。それは即ち、所謂「油彩画」にとって「アウェー」な空間である事を意味する(注9)。こうした場所──「美術」の「圏外」(注10)──でこそ、キュレーションの妙味を見せてくれるのが、この「街のキュレーター屋」の「得意」とするところだと思っていたりするから、相対的に「ホワイト・キューブ」(注11)である「半兵衛麩ホールKeiryu」の展示よりも、そちらを先に見ておきたかったからという理由が大きい。

(注9)日本の近世と近代の境目に位置し、そのポジションを限りなく自覚していた高橋由一が、自らの「油彩画」に施した様々な工夫は、「近代以前」の日本家屋への自作のフィッティングを模索したものだ。

(注10)現実問題として、「AIR大原」の建物は「借用」しているものである為に、その「原状」保全が求められる。従って「美術」の100%思い通りにはならない場所だ。ほぼほぼそこは、展覧会場として「二条城」(例)の様な性格を持つ場所であり、基本的に壁や柱に釘を打ったり、襖を含む壁に大穴を開けたり、そこに直描きをしたり、床を剥がしたりは出来ない。長谷川新が自称する「街のキュレーター屋」の「街」とは、「美術」の「圏外」をも含むものの意があると当方は解している。

(注11)ここでの「ホワイト・キューブ」は「美術」を展示するのに最適化された壁面──それが白かろうが黒かろうが打放しコンクリートであろうが──を持つ、「美術」主導で整備された空間という意味でのそれである。

京都バスの大原女

京都市営地下鉄「国際会館」駅から京都バス19系統の人になり、「野村別れ(里の駅大原)」で降車して「AIR大原」へと向かう。バス停近辺の「飛び出しくん」には「首」や「手」がもがれているものがある。

以上2点は晴天の別日(2026年6月28日)に撮影

これらは学童の代わりに交通事故に遭った「身代わり地蔵」という事なのだろうか。されどその「首」は元に戻される事はなく「手」は地面に落ちたまま晒され/放置されている。

「大原名物」とされる「しば漬け」に使用される事の無かった赤紫蘇(注12)の葉が散乱する建物を過ぎる。

(注12)大原の「しば漬け」に使用される赤紫蘇は、発色や香りの鮮やかな「ペリルアルデヒド型」と呼ばれる品種に限定されていて、徹底した自家採種と交雑防止の管理が行われている。

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宿は不穏だ。

宿は、家を離れてはいるものの、目的地に到着している訳でもなく、常に「途中」に存在するリミナル(liminal:閾・境界)な空間であり、日常ではない一方で新しい秩序にも属していないが故に、秩序が一時停止した状態を好むホラー作品の多くの舞台になってきた。

宿は家の機能を模倣するが、しかしそこは誰の家でもなく、他人が昨日まで使用し、明日には別人がそこに寝泊まりする匿名的な空間である。そこには、前の宿泊客の「記憶」或いは「死」すらも見えない形で堆積している。誰が来ても良いが、誰が消えても良い場所。まさにホラー好みのする「非-場所」(”Non-lieu”:マルク・オジェ)。それが家(身近な存在/場所:ハイム ”heim")の反転である「不気味なもの」(ウンハイムリッヒ ”unheimlich":ジークムント・フロイト)としての宿だ。親しみやすく慣れ親しんだ筈のハイムリッヒ(heimlich)の擬態の中で、抑圧された無意識が顔を出し、恐怖や違和感を覚えるホラーの宿。果たしてこの「AIR大原」の建物はベイツ・モーテル(「サイコ」:アルフレッド・ヒッチコック)なのか、オーバールック・ホテル(「シャイニング」:スタンリー・キューブリック)なのか。

雨の「AIR大原」/民宿「三千院道」

「宿」(過去完了形も含め)を展覧会の場所にするというのは、或る意味で極めて「真っ当」な方法論とも言える。展覧会は作品が最終的に落ち着く場所ではなく、その目的地である他所──美術館収蔵なのか、コレクター収蔵なのか、或いは元あった場所に帰るのか──へ行くまでのリミナルな場所だ。展覧会の度に、ベッドメイクによってピンと張られたシーツの様にスペースは整えられ、「あなたの居場所ですよ」と作家とその作品を迎えてくれるのだが、「会期」が終わればその痕跡は消去されて、新たなシーツと取り替えられる。

言わば時限性としての展覧会に「展示」されている作品もまた、時限性であるところの「投宿」(レジデンス)の状態にある。そこが「ギャラリー」であれ何であれ、「閾・境界」(リミナル)としての展覧会の場所は、「宿」の様な「非-場所」であるが故に、その場所を通過する過去と未来の作品(「旅行者」)達の「記憶」(或いは「死」)の間に、常に既に挟まれている。

ーー

玄関の引き戸を開けて中に入ると、三和土の先は旅館お約束の上がり框である。框の手前の式台に、幾度となく他人が足を通してきたスリッパが複数列で置かれているところも、民宿時代を彷彿とさせるものだ。

「AIR大原」の玄関付近

通常の旅館では、大荷物を持つ人間の動線確保上、そこが狭いロビーであれば余りごちゃごちゃと物を置かないものだが、宿泊施設としての用を最優先のものとしない「AIR大原」では一転「応接」の場と化している。左右にソファー(右のソファはトイレのドアを塞いでいる)。その奥に左右両側に繋がる開口部と昇降の為の階段。不穏。何処かで見た風景が頭を過ぎる。

「シャイニング」の一場面。2018年公開の「レディプレーヤー1」(監督:スティーブン・スピルバーグ)でもこのシーンはリフレインされている。

幻視の赤い洪水のエレベータードアの場所に、中井輪の金沢美術工芸大学大学院修了制作の「モデル」(2023年)が見えている。

「大原女」

「いわさきちひろ」

「大原女の写真額」(注13)や「いわさきちひろの複製画」(注14)といったこの館の先住者達の間を抜けて、その絵へと近付いて行く。それは壁面に掛けられた形でインストールされているのではなく、民宿時代の玄関帳場(注15)の受付台の上に置かれ、帳場の開口部を隠す形で立て掛けられた状態にある(注16)。即ちそれは「投宿」的な時限性を隠さない形でそこに存在している。

「モデル」。

立て掛けインストール

帳場からのビュー。「モデル」の裏面が見える。そこにもタックスが打たれている

(注13)平安末期以来の「柴・薪」の行商人である「大原女」の装束は、時代と共に変化している現在広く知られているこの「大原女」の装束は、彼女等が徒歩で売り歩く──その販売エリアの南端は八条通付近までであり、「半兵衛麩ホールKeiryu」の辺りは彼女等の嘗ての行商(徒歩)圏内にある──「柴・薪」の需要が、近代に入っての産業変化に伴う燃料販売店の増加、海運等の発達による仕入先の変化、電気・ガス(プロパン含む)が普及した等の理由で落ち込んだ頃にフィックスされた「観光」的な「様式」である。因みに大原の南の集落である八瀬もまた「柴・薪」行商人の里だった。

需要激減の「柴・薪」に代わる大原の産業として、他でもないその需要低下をもたらした日本の「産業革命」(産業構造の変化)がもたらした「庶民」の食生活向上(日常的に白米が食卓に上がる)に合わせた形で、「香の物」(白米の伴)である「紫葉漬け」の製造・販売が取って代わられる。

(注14)「つば広帽子の少女」。原画は1970年頃。

(注15)「旅館業法施行令」の第一条第二項に於いて、一定の規模を持つ宿泊施設には玄関帳場の設置が義務付けられていて、その受付台は幅1メートル以上、壁までの奥行30センチ以上と定められている。

旅館業法施行令
https://laws.e-gov.go.jp/law/332CO0000000152/

(注16)これは実際には「釘をなるべくこの建物に打ちたくない」という「借り手」としての現実的な事情によるものではある。

画中の物語としては、横長の画像を収めようとするカメラが三脚に据えられていて、そのレンズは左の人物の顔に向いているかに見える。それがこの絵の中の「モデル」という事だろうか。であれば、このカメラで収められた画像を「作品」として発表し、その結果他者を表象する権利を持つ「作者」として認知されるのはこの右側の人物なのだろうか。しかし「モデル」も「作者」も、恐らく「作者」の側に位置する「スタッフ」然とした中央の人物も、この絵に於いては全て「見られる者」としての「モデル」だ。「モデル」の多重性。そしてここで最上位の「見る者」としてあるのは、この3名を写真に撮り、それを作品化(油彩画化)する画家である。

「モデル」の右方向の壁には3点の「小品」(いずれも2022年)が見える。

左から「シアターⅢ」「シアターI」「シアターⅡ」

アントナン・アルトーが出演している事でも知られる、ジャンヌ・ダルクの「異端審問」を取り上げた1928年のフランス映画「裁かるるジャンヌ」(監督:カール・テオドア・ドライヤー)(注17)の投影を、講義机が並べられた部屋で見ている観客は、スクリーン一杯に映されたジャンヌ・ダルク(演:ルネ・ファルコネッティ)よりも希薄な「幽霊」("Phantom")(注18)の様な存在の様にも見える。ここでの中井は、その早描きの技術を遺憾無く発揮し、画中の全てが何らかのエネルギーの粗密である/でしかない(付箋4に飛ぶ)様な画面を作り出す。こちらの3点は壁に掛けられていて、それは一般的な作品展示の方法論として直ちに「異端」ではない。

(注17)「裁かるるジャンヌ」(”La Passion de Jeanne d'Arc")

(注18)"Phantom"(「幽霊」、「幻影」、「心象」、或いは「映像」、または「見掛け倒し」の意)が、英語圏の数々のものの名前に採用されているというのも興味深い。ロールス・ロイスの最上級リムジンの名に与えられているのがこの「見掛け倒し」("Phantom")であり、ベトナム戦争に於けるアメリカ軍の主力戦闘機マクダネル・ダグラス F-4 の愛称も「見掛け倒し」("Phantom")だ。

因みに「AIR大原」に隣接するサバゲー・フィールド「キャンプ大原」では、ベトナム戦争を「ナム戦」と略す。

「ナム戦」の「ちょっとユルめ」のイベント

中井輪「庶民烈伝」展の直前には、「米帝バーガー」も供されたという「ナム戦イベントOSHINAM2026」というイベントが同所で行われた。そのインフォメーションにある「モブ」という語は、「庶民烈伝」の「庶民」とも重なるものであろうか。

大原の「しば漬け」の「名店」として「土井志ば漬本舗」、「志ば久」と並び称せられる「辻しば漬本舗」は、その「ナム戦」による特需(「ベトナム特需」)が下支えをした「いざなぎ景気」時の1970年の創業である。「名店」の中で一番の「老舗」である「土井志ば漬本舗」は、日清戦争の清からの多額の賠償金による特需で、日本の重工業に於ける近代化が開始された(例:「官営八幡製鐵所」の操業開始)1901年の創業であり、「志ば久」は十五年戦争敗戦の年である1945年創業だ。「しば漬け」が産業として浮上する切っ掛けは、いずれも「戦争」とそれによる「景気浮揚」なのである。

「運動イメージ」と「時間イメージ」("L'image-mouvement", "L'image-temps”)の二巻からなる「シネマ」("Cinéma")で、ジル・ドゥルーズはドライヤーの同映画に見られる ”visage"(「顔」)の "paysage"(風景)化に注目する。それは極端なクローズアップにより、「顔」から社会的機能を剥ぎ取り(注19)、白黒の抽象的な強度の場としての「風景」へと変貌させているというものだ。

(注19)「脱領土化」:"déterritorialisation" :Deleuze = Guattari。付箋1付箋2に飛ぶ。

「シアターⅢ」

「シアターⅠ」

「シアターⅡ」

この3点の中央にある「シアターⅠ」では、観客がスクリーンに極端に近づき、「風景」としての「顔」を間近に観察する姿が描かれている。そして早描きのラフなストロークで描かれる事で、「堅固」/「充実」が画面から消え去ってしまったこの「シアター」三部作では、純粋なエネルギー強度のマッピングとしての「風景」が、恰もジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーの「雨、蒸気、速度──グレート・ウェスタン鉄道」(例)の様に出現する。

『雨、蒸気、速度──グレート・ウェスタン鉄道』1844年、ナショナル・ギャラリー所蔵

左側の「シアターIII」では、その茫漠としたエネルギーの負圧の中に、こちらを見る視線が感じられる。投影されたジャンヌ・ダルクの「首」もこちらを見ている。不穏。

それから再度「モデル」の方向へと相対し、玄関帳場カウンター下のキャビネットの中を確かめてみる。ここに「蒐集」されているものは、「AIR大原」の建物のオーナー(サバゲー・フィールド「キャンプ大原」のそれでもある)の私物がメインであり、一部はキュレーターやアーティストが持ち込んだものの「コラボレーション」だ。

オーナーのものとしては、「アンダーワールド」の「パールズ・ガール」LP、「ジャニス・ジョプリン」のベストアルバムLP、楠みちはる「シャコタン☆ブギ」、えんどコイチ「死神くん」、魔夜峰央「パタリロ!」、さいとう・たかを「サバイバル」、岩明均「骨の音」、かわぐちかいじ「ジパング」、吉田終生「YASHA」、弘兼憲史「取締役 島耕作」(注20)

「モデル」下のキャビネット

(注20)膨大な私物(多くは埃を被った/しかし捨てられてはいない「記憶」)の中から「キュレーター」側による選定済。一人の人物のこれらの私物に見られる振幅の大きさを以て、オーナーの「人となり」といったものを単純な形で固定化する事は可能だろうか。

そこに「美術」関係者(こちらは複数者)が集めただろう、「美術手帖」2026年7月号「21世紀の現代アート事典」、植草甚一「植草甚一コラージュ日記 東京1976」、中西豊子「女の本屋の物語」、近藤竜男「ニューヨーク現代美術: 1960-1988」、「スローイング・スパゲッティ at 御殿山生涯学習美術センター」図録、新潟市美術館「式場隆三郎:脳室反射鏡」展図録(付箋5)、岩名泰岳図録、近代画説(No.13 - No.16を纏めて製本したもの。美大図書館蔵書)(付箋6)、サントリー「山崎蒸溜所貯蔵梅酒ブレンド スーペリア」、WISS(注21)ラベルのスコッチ・ウイスキー(「WISSky」。インデペンデント・ボトラーによるシークレット・ディスティラリー)の瓶。

(注21)「WISS」は京都府南丹市八木町を活動拠点にする「KISS」のコピーバンド。恵比寿映像祭2023のコミッション・プロジェクトで荒木悠が発表した「仮面の正体(海賊盤)」(コミッション・プロジェクト特別賞)に彼等が「出演」している。
https://www.yebizo.com/2023/jp/program/1676

「Super Shy」

その「WISSky」の上、「パタリロ!」の左に、中井輪の一部限定冊子作品「Super Shy」(2024年)がある。聞いたところでは「『変』なポーズ集」との事だ。パラパラと捲る。それは「『変』なポーズ集」というよりは、「『変』とされるポーズ集」なのかもしれないと思った。「『変』であるもの」と「『変』でないもの」との境界は、実は曖昧だったりするし、それらは反転しもする(注22)

(注22)例えばASD(自閉スペクトラム症)の人の感覚世界は、「健常」とされる者の感覚世界とは異なる。彼等には「異常」と感じられてしまう世界を、「健常」な人間は「正常」な環境として受け入れている。当人の持つ「能力」の如何によっては、「健常」の「正常」は耐え難い「異常」に感じられるものでしかない。https://distance.media/article/20230620000028/

そして左側の「大広間」からも不穏な視線がこちらに向けられている。

大広間

「上映Ⅰ」

オイルライターの火を翳した役所広司がそれだ。この役所広司は、1997年公開の黒沢清の「ホラー映画」、「CURE」(注23)中のそれである。役所が演じる刑事の高部賢一が、隔離施設の独房に監禁された萩原聖人演じる連続殺人事件の重要参考人・間宮邦彦と「対決」する場面だ。画中画内の高部の顔は、映画内で座っていた高さとほぼ同じであり、画中の観客はベッドに座る間宮の位置にいる。

(注23)同映画タイトルの「CURE」は、当初は「伝道師」となる予定だった。その公開は「ポア」(治療/救済)でも知られる「教団」によって引き起こされた「地下鉄サリン事件」の2年後である。

高部:どうした?ライターがないと喋れないのか。ほら。
間宮:すごいよあんた。

催眠術によって操る者と操られる者の形勢逆転の様に見えるこのシーン。しかしそこで実際に行われたのは、間宮から高部への「伝道師」(殺人教唆者)の引き継ぎだった。ライターの火は他者をして殺人の実行へと誘導する催眠術に於ける「凝視誘導」トリガーの一つ。しかしこの場面では、間宮は別のトリガーである水(雨漏り)を使用する事で、高部を「伝道師」へと変貌させる。「善良」な人間が殺人を犯す事で、社会化された「善良」に隠された「本来」的な自己の魂を解放させる(付箋1付箋2に接続)「治療」/「救済」(cure / poa)の連鎖の中に、間宮に「すごい」とその「才能」を認められた高部もまた放り込まれる。

間宮:その水があんたを楽にする。気持ちいい。空っぽだ。生まれ変われ。俺みたいに。

後に殺人者となる内科医・宮島明子(洞口依子)との会話のシーンでは、間宮はこういう事を言っている。

間宮:前は俺の中にあったものは、今、全部外にある。だから先生の中にあるものが俺には見えるんだよね。その代わり俺自身は空っぽになった。

共に付箋4へ接続。

催眠導入の光を翳した役所広司を映した四角い光圧が、5人の観客を照射している光景を描いた「上映Ⅰ」(2025年)。実際の映画「CURE」のこのシーンの瞬間、これらの「観客」の様な反応やポーズをするという事は「珍しい」と言えば「珍しい」。光の照射によって硬直した身体をより硬直させているといった風にも、或いはポーズ人形(木偶)にポーズを取らせ、それを配置したかの様にも見える。

付箋5の式場隆三郎が、昭和12年に刊行した「絶對安眠法」の「不眠症の理學的療法」章に「映畫催眠法」という項目がある。

映畫催眠法

 音樂が眠りを誘ふことは、誰でも知つてゐる。ところが、映畫の與へる强ひ視覺作用と、トーキー應用による聽覺作用を併せて、治療に役立てようとする試みがソヴエトで行はれた。
 この研究は五ヶ年前からモスクワのスハレブスキイ敎授(注24)によつて進められ、最初に完成させたのは「催眠療法」と題したものである。映寫幕によつて觀客に催眠術をかけて、ねむらせようとする方法である。映畫は三卷からなり、第一卷は酒精(アルコール)中毒の家庭、社會、產業などに及ぼす害毒の解剖であり、第二卷は醫者がアルコール中毒患者に催眠術をかけてゐる光景で、これによつて觀者を催眠術の豫備狀態にひきいれ、第三卷では映寫幕上の醫者が観者全体に、直接催眠術を施すことになる。勿論トーキーで、音樂と言葉を巧みに使ふもので、視覺と聽覺の刺戟によって催眠術をかけるわけである。

式場隆三郎「絶対安眠法」中央公論社
https://dl.ndl.go.jp/pid/1047560

(注24)

全ての悩み事を頭から追い払い、私を見てください。
音楽と、ゴングの柔らかな音が聞こえてきます。
気分は良くなり心が落ち着いてきます。リラックスしています。
周囲のことは一切気になりません。

ラザール・マルコヴィチ・スハレブスキー『精神医学および神経病理学におけるパソキノグラフィー』(1936年)

ソ連のこうした試みは結局頓挫するものの、映画というメディアは、もとよりセルゲイ・エイゼンシュテインが興味を持ち続けていた様に「催眠」的である。付箋3に接続。

同時にこの中井輪の絵に描かれた「CURE」の役所広司は鏡像である。それは役所が「利き手」ではないだろう「左手」でライターを持っている事からも明らかだ。

「CURE」の役所広司

では画家は実際に鏡を使ってこの絵を描いたのだろうか。しかしそうではあるまい。キャビネットの中にあった付箋6「近代画説」14(「特集:明治回顧」2005年)の巻頭エッセイ、森田恒之の「右前自画像の消滅 ー 写真を見て描くことはいつから悪になったのかー」が、それを「解く鍵」の一つになる。Photoshop による客観の反転。それを見て描くことは「悪」なのか。そして「鏡」もまた、ホラー作品で重宝される装置であり、それは「場所」を占めない、「こちらの世界」と「あちらの世界」の「境界」(リミナル)である(注25)

(注25)映画「CURE」で殺人が行われる場所の多くは、「公」と「私」の境界上にある。「ホテル」、「交番」、「公衆トイレ」、「病院」、「ファミレス」。小学校教師と精神科医の「自宅」を別にして、「恐怖」はそうした境界上の場所で行われる方がより強くなる。

「コインランドリー」

 

「上映Ⅰ」の斜向かいに、「みつむらクリーニング小松駅前店」に併設のコインランドリーの店内で円陣を組む「コインランドリー」(2023年)がある。この季節には使用される事のないストーブの上にそれはインストールされている。この絵のすぐ右には作品を掛けられそうな壁があるものの、その壁は「二条城」のそれである。作品の左右に立て掛けられた茶色く着色された木材は、そうした場所でキャンバスを壁掛けする為の「補助具」(注26)なのだが、結局それはここでは使われる事はなく、使用されなかったものとして、「コインランドリー」に寄り添う形になっている。

(注26)それは例えば2025年に二条城で行われた「アンゼルム・キーファー:ソラリス」展で、彼の巨大絵画を展示する際に使用された特製のステンレス・フレームの様なものである。

「アンゼルム・キーファー:ソラリス」展

この作品は、先程の冊子「Super Shy」にも掲載されている「写真」の写しだ。ここでも付箋6の「近代画説」の「右前自画像の消滅 ー 写真を見て描くことはいつから悪になったのかー」に接続する。

「Super Shy」の当該写真

大広間の入口入って左奥に「上映Ⅰ」と同じ「画中画」構造を持つ「ドアガラス」(2025年)がある。絵の一番奥のレイヤーが「裁かるるジャンヌ」を描いた「シアターⅡ」。こちらは「画中画中画」だ。リミナルのレイヤーがより「ミラーハウス」の様に多重化している。

大広間左奥

「ドアガラス」

この日は「ドアガラス」斜め上の天井の黒カビが生えた箇所から雨漏りがしていた。赤い桶(注27)はそれを受け止める為のものだ。桶の中にポタポタと雨が滴り落ちている。

(注27)赤い桶では受け止めきれないとなったのか、後にそれはより大きな黄色い桶に置き換えられている。

雨漏り

先述した様に「CURE」の中で滴り落ちる「水」というのは催眠術の導入メソッドだ。先程の「上映Ⅰ」のライターの火、そしてこの現実の雨漏りで発生する連続音。既に何処かで「行かねばならない」という暗示を掛けられて展覧会を見に来た観客は、ここでそれらのトリガーで深い催眠に掛けられるのだろうか。展覧会という催眠術、或いは催眠術としての展覧会。「見なければならないもの」として現れるもの。「しかしそれでも観客は、疲れることと光を受けとめることのあいだで、後者を選び続ける」のである。

「ドアガラス」から反対側を見る。

「観客Q」

「ドアガラス」の対面、大広間の入口入って右奥の、ベニヤ板の灰汁が染み出してしまった仮壁上に「観客Q」(2026年)がある。ステートメントに書かれている「受動的で、緩慢で、光のゼロ度にまで収束しているかのような身体」の「顔」がそこにあるとも言えるが、或る意味でそれは「催眠」の技術でもある「映画」を見てしまった者の表情でもある。これは「CURE」の役所広司を始め、戸田昌宏の小学校教師、でんでんの交番勤務の警官、洞口依子の内科医、うじきつよしの精神科医、中山俊の若い刑事らが催眠術(治療)に掛けられた後に見せる表情の様にも見える。

更にその感を強くさせるのは、それが「胴体」から切り離されている「首絵」(仮)(注28)であるところにある。今日、商品としての「油彩画」を求める需要の最大ボリュームの一つと言えば「肖像画」の市場(注29)だ。自らが「写真」化される事では飽き足りず、画家を雇用していた嘗ての王族の様な気分を、金色に額装された「油彩画」という「形式」(注30)で味わいたい客層というものが確かに存在する。その「肖像画」の現在の日本での「頂点」とも言えるのは、永田町の自民党本部8階ホールに掲げられた歴代自民党総裁を描いたそれ(注31)だろう。

(注28)中井輪の「首絵」は、所謂 ”headshot" や ”bust”、或いは浮世絵の「大首絵」や「大顔絵」よりも、遥かに「首」の「絵」である。

(注29)例:https://w-elegance.o.oo7.jp/newpage3.html

(注30)それは技法的な「形式」である以上に、自らが他人を使役し労働させる(描かせる)事で、自らの姿を「永遠」化出来る存在である事をアピールする社会的な「形式」なのである。「肖像画」は社会階級的な労働の物神としても顕現する。

(注31)その歴代総裁の「肖像」を描いた油彩画に見守られる形で「自民党総裁選挙」が行われる。
https://takumima21.sakura.ne.jp/portrait.html

しかし試しに、その「自民党総裁」の「肖像画」の一つでも、この中井輪の「首絵」同様に「首」のみにトリミングしてしまったらどうだろう。ほぼほぼ原寸大の歴代「自民党総裁」の「首」のみが並ぶ自民党ホール。そこで明らかになるのは、多くが「トーキング・ヘッド」から「アッパー・ボディ」で描かれる「肖像画」は、「首」と衣服やポーズで社会性を表す「胴」がペアになって初めて成立する「形式」であるという事だ。或いは社会性というのは「司令」を与える「脳」が収まる「首」と、その「司令」を受け取る「胴」が「繋がった」状態でのみ成立可能なものなのである。従って「首絵」は「首」と「胴」が切り離された「死体」の絵に限りなく漸近する。

「近代画説 13」から迫内祐司「戦時下における美術制作資材統制団体について」

そしてまたこの「観客Q」も付箋6の「近代画説」に接続している。「近代画説」13(「特集:[画塾]と[美術学校]」2004年」)の迫内祐司「戦時下における美術制作資材統制団体について」に記された、戦時中に配給切符無しで自由に購入可能だった限定色の絵具(注32)のみを使って、この絵は描かれているとの事だ(同様の絵具で描かれた作品は「半兵衛麩ホールKeiryu」で展示されているものの中にもある)。この絵を描いている時の画家のパレットの上は、「戦争画」の時代(注33)のそれである。

(注32)2026年もまた「戦時中」である。2026年の「物資不足」はカルビーのポテトチップスやかっぱえびせんやフルグラの袋から「色」を失わせた。現在の日本の塗料メーカーの塗料は、それに加えて「コストプッシュ・インフレ」の中にある。インフレとは「通貨価値の下落」を意味するが、「購買力低下」という形で事実上の「物資不足」(手に入れたくても手に入らない)が起こっているとも言える。

(注33)現在、大原の特産品/土産物として知られる「しば漬け」(紫葉漬け)は、戦時中は物資不足で塩や樽の確保が難しく、また食糧増産の国策の中にあって「贅沢品」「嗜好品」であるそれは生産の制限を受け、自家消費のものだけを細々と生産していた。十五年戦争末期、産業としての「しば漬け」は壊滅の状態にあった。「戦没画家」である靉光は戦時中の物資不足の中「ドロでだって絵が描ける」と言ったとされているが、大原から比叡の山々を挟んだ滋賀の戦時中の新聞(「滋賀新聞」:1945年8月7日。広島原爆投下の翌日)には、「土を食ひませう 如何です? 戦時食生活の徹底版」という記事が載っていた。土を食さねばならないという認識すら生まれる時代に、白米とのペアが最も望まれる「香の物」(しば漬け)でも無い。大原に住む者も、大原に疎開してきた児童も「食う」為の作物(例:さつまいも)を日々「増産」していた。

いずれもが社会的な制約(貸借関係)の中でインストールされた4点の「油彩画」の大広間を出て、ジャンヌ・ダルクの横を奥に入ると、そこに双子の少女の姿は無かったものの、十分なまでに不穏な廊下が姿を表す。

廊下

廊下の双子

廊下の入口にも「催眠術」に掛けられた「首絵」である「観客N」(2026年)がある(壁に釘で掛けてある)。

「観客N」のある廊下

「観客N」

その斜め前の半ば「物置」と化した部屋には「ダイニング」(2024年)があった。「相部屋」(=「公」と「私」の「リミナル」)感がするインストール。「立ち入り禁止」とされていてこの部屋には入れない。画中の男女二人の、頭の位置が低い方のみが「エプロン」をしているというところも大いに不穏である。

相部屋の「ダイニング」

「ダイニング」の向かいの部屋

向かいの客室に、映像作品「鑑賞者ら」(2026年)があるとリストにはあったものの、この日その撮影(「パフォーマンス」)が「半兵衛麩ホールKeiryu」で行われる(ここの訪問から2時間後)為に「カミング・スーン」状態だった。スクリーン下部の左右を、壺と獅子の置物が手持ち無沙汰気味にテンションを掛けている。

稼働していないスクリーン

その右手前の畳の上に、「置かれた」状態でインストール(注34)されている「観客M」(2026年)。そしてスクリーンと対面する壁にインストールされた「観客L」(2026年)がある。

(注34)他の形のインストールも検討されていたとの事。

スクリーンに対面する廊下側の壁。上が「観客L」、下が「観客M」

「観客M」は手のアップ。それは恰も「デッサン」で用いる、敢えて社会的コードを極力外した──象徴的「意味」を持たない──「手」の石膏像(人体彫刻から切り離された「手」)の様にも見える。

「観客M」

SNSでアイコン化までしている饒舌な「いいね!」(サムズアップ:例)(注35)の対極にそれはあり、手話的なコードで言えばこれはほぼほぼ「無言」だ。そしてこれもまた「首」から切り離された「身体」の一部の様に見えなくもない。「首」から送られる信号から遮断された「手」が、少し前に見た「飛び出しくん」の落ちたそれをも想起させる。

(注35)最近の SNS の「いいね!」はより細分化されていて、例えば Facebook では「いいね!」(Like)、「超いいね!」(Love)、「大切だね」(Care)、「うけるね」(Haha)、「すごいね」(Wow)、「悲しいね」(Sad)、「ひどいね」(Angry)という7パターンが用意されている。投稿への反応者は、この7つばかりの「社会的身振り」のパターンの中に、自分を無理矢理当て嵌める事を日々強いられる。

「観客L」

「観客L」も「催眠」に掛けられた人の「首絵」なのだが、そのインストールに、先程の「コインランドリー」の「脇侍」的な木材が使用されている。その木材を適度な長さに切り、それを日本家屋の「鴨居」/「長押」等に「掛ける」形で「油彩画」を「無理なく」インストールする為の「補助具」として使用している。高橋由一も悪戦苦闘した日本家屋のコードに従った「善良」に基づく「暫定解」なのだが、結果としてこれもまた極めて不穏である。「首」から上へと伸ばされた一本線。それは現実と妄想の「リミナル」を描いた映画「CURE」で、高部が「見た」妻・文江(中川安奈)の縊死死体(首吊り死体:高部の潜在的な願望)の幻影とも重なってしまう。

相部屋の「アパート」

 

襖を開けた隣室には、「アパート」(2022年)が「ダイニング」同様「相部屋」状態に置かれている。こちらも手前の半畳以外は「立ち入り禁止」の部屋である。この絵に登場する包丁は、映画「CURE」の有名なラストシーン(包丁を持ったファミレス店員が淡々と上司の「殺害」へと向かう)を想起させたりもする。或いは母親への依存が強過ぎるノーマン・ベイツ(アンソニー・パーキンス)のそれなのか。いずれにせよ、その伝で言えば、包丁を蝶板に相対している二人は、互いにそれぞれ「善良」ではあるのだろう。「善良」と「善良」の間にあるもの。その包丁が、映画「オッペンハイマー」の原子爆弾であっても、或いは十五年戦争時の中国に於ける実戦(中国人殺傷)を半ば即物的に描いた映画「海軍爆撃隊」(1940年:東宝映画)(注36)の爆撃機(注37)であっても、沖縄戦を描いた「ハクソー・リッジ」(2016年)で「善良」の人が所属する軍隊が持つ火炎放射器であってもなのだろうか。

(注36)同映画は現在、「ゴジラの円谷英二が…」的な扱われ方をされるものであり(時に「円谷監督」作品扱いすらされる。この映画での圓谷の肩書は「特殊技術」であり「特技監督 円谷英二」は1955年から)、それは「ゴジラ」(1954年)に始まる一連の「怪獣映画」やテレビの「ウルトラ」シリーズ等の成功から遡行された視点である。円谷英二(圓谷英二)という名前は、戦後のそれらの商業的成功が元になって「神格化」(或いは「作者化」)される。

筆者は1980年代後期から2000年代初めまで、円谷英二の流れを汲む東宝「特撮」映画のパートタイムのモブ・スタッフ(「東宝映像美術」の下請け。当然エンドロールに名前は出ない)でもあったが、80年代頃の砧撮影所にはまだ「天皇」や「国宝」や「神」等と呼ばれる「神格化」された存在がゴロゴロしていた(例:操演、背景画等)。

昭和から平成に掛けて制作に携わった「特撮」映画「ガンヘッド」(1989年公開)の巨大プロップ(高さ6メートル)が収められた第10ステージ(撮影は第8ステージがメイン)の隣には、「黒澤天皇」の「夢」(1989年公開)のオープンスタジオがあった。「黒澤天皇」のジャガーが砧に到着すると空気は一変する。個人の不可侵的「神格化」は時に「伝統化」に繋がり、技術的なプログレスを停滞させもする。終わるべくして終わるものはこうして終わる。「夢」の撮影時にはジョージ・ルーカスやスティーブン・スピルバーグが「黒澤組」の現場を訪れていたが、一方で彼等が乗り越えてしまった「伝統芸能」を伝承する我々の制作現場で、彼等の姿を見た記憶はない。

「夢」も「ガンヘッド」も、その制作時に天皇裕仁の崩御があり、日本社会の一部では「下血」報道から始まる「自粛」の中で、天皇の新たな統治的前景化が起きていたものの、「黒澤天皇」の「夢」も、或る意味で「円谷天皇」の「皇統」の中で制作された「ガンヘッド」も、その制作が止まるという事は無かった。「海軍爆撃隊」の映画制作をドライブしたのは最終的に「天皇」という「機関」だったが、1980年代の後期には映画制作を止め断念させるまでの力は同じ「天皇」(「象徴」)には無かったのである。

(注37)

納涼映画会──「海軍爆撃隊」を野外上映する

中井輪「予告絵2」(2026年)

https://x.com/rob_art/status/2071501857873076429

8月1日に「AIR大原」で行われる「海軍爆撃隊」の「納涼映画会」のメインビジュアル(画:中井輪)に登場する機体は、映画内でその「活躍」が描かれた爆撃機である九六式陸攻(三菱重工・中島飛行機製)ではなく、アメリカの双発旅客機ダグラス DC-3(1936年運用開始)をベースにした零式輸送機(昭和飛行機・中島飛行機製。エンジンは三菱「金星」に換装)である。DC-3は本国アメリカでは軍用輸送機C-47として使用され、当時連合国のアメリカの同盟国であるソ連では、同機はソ連製エンジン(シュベツォフ M-62)に換装され、Li-2という軍用輸送機になっている(その後ソ連及び東側諸国で運用される)。ダグラス・マッカーサーが厚木に降り立った時の機体(「バターン」)は、DC-3の後継機である4発エンジンのダグラス DC-4の軍用輸送機版のC-54Bである。戦前のDC-3と、戦後のDC-4(「自由主義」国の機体。パンナムや日本航空等で使用される)という対照がそこにある。

「海軍爆撃隊」は、「戦い」(「海軍爆撃隊」から「ウルトラファイト」まで)の描写と不可分な形式である「特撮」の「誕生」でもあった。それは「戦い」の描写以外に、事実上「特撮」の出る幕は無いという事でもある。そして同時に「特撮」は「戦い」によって「死んでいく」側から求められる事は無い。

「アパート」の対面の部屋(実質「物置」)に、「首絵」である「観客O」(2026年)がやはり縊死体的に吊るされている。ここも「立ち入り禁止」の「相部屋」であるが、流石にこの部屋に入ろうというのは無理である。

「観客O」の部屋

「観客O」

その斜向かいには「父とライチ」(2025年)。フォークに刺したライチを持つ「父の手」が吊るされている。皿とフォークと手とライチによる、半ばインスタレーション的な「構成」がそこにある。

「父とライチ」

それから洗面所に入り、ロッカーの上に「父と腕」(2025年)。この「腕」が何をしようとしているのかは、その先が「切られて」いて分からない。

ロッカー

「父と腕」

そして2つの洗面台を跨ぐ形で立て掛けられた「Y夫妻」(2024年)。

「Y夫妻」

「Y夫妻」のこの「奇妙」なポーズは、「色鉛筆を選んでいる」写真から、色鉛筆を消去したものだという。その結果それぞれの手が宙に浮き、恰もそれはマリオネットの手の様でもある。「手」という「首」同様の「創造」と「支配」の象徴が、その自由意志の根拠を消去される事で「死体」化する。

こうして中井輪「庶民烈伝」展の「最奥部」(「特別出演」の「小松均」は別)まで到達し、再び不穏な廊下と不穏なロビーを通り、「ナム戦」で理不尽に奪われる命に抗議し続けた「いわさきちひろ」や、「死」に漸近したボロボロのタイヤ(「バーストして帰る」2025年:松下みどり。傍らにモータースポーツの「レジェンド」の著書がインストールされている)等を横目に外に出る。

相変わらずの雨。観光客の数を相対的に少なくさせる雨は、ここが叡山線(1925年〜)や乗合バス(1920年代後半〜)に頼る観光の地である遥か以前に、「生」と「死」が静かに交互する生活の地である事をより印象付ける。四方の山から山霧が上がっている。到着する頃には「パフォーマンス」が行われている筈の五条の「半兵衛麩ホールKeiryu」へと向かう。

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【半兵衛麩ホールKeiryu】

「非‐場所」──誰が来ても良いが、誰が消えても良い場所──である「都」として歴史の長かった京都は、その聚散の多さの分だけ、モブも含めた「死」が堆積した不穏な街である。実際、京都市内(特に洛中)の何処へ行っても「死」に纏わる旧跡ばかりだ。

「半兵衛麩ホールKeiryu」がある場所はまた、その正面に見える鴨川の一帯が、嘗て「六条河原」(五条大橋から正面橋辺りまで)と呼ばれる刑場だった(注38)。中井輪の2つの展覧会が始まった翌日(6月21日)放送のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟」では、織田信長(小栗旬)に謀反を起こした荒木村重(トータス松本)への見せしめの一環として、妻の荒木だし(山谷花純)をこの「六条河原」で斬首処刑したシーンが流れた。太刀を下ろされ切断されるだしの「首」が地上波に流れる(シルエット表現)。「信長公記」には、その「シーン」が記されている(注39)

(注38)半兵衛麩ホールKeiryu から400メートル程南へ行った正面橋付近には「元和キリシタン殉教の地」の碑がある。1619年10月6日に当地で52名のキリシタンが火刑(ジャンヌ・ダルクと同じ)に処せられている

「元和キリシタン殉教の地」

(注39)ドラマではこの「信長公記」に基づく描写がされていた。

たしと申はきこへ有美人也古しへはかりにも人にまみゆる事無を時世に随ふならひとてさもあらけなき雑色共之手にはたり小肘つかんて車に引乗らる最後之時も彼たしと申車より下様に帯しめ直し髪高/\と結直し小袖之ゑり押退て尋常に切られ候是を見るより

https://ja.wikisource.org/wiki/%E4%BF%A1%E9%95%B7%E5%85%AC%E8%A8%98#%E5%B7%BB%E5%8D%81%E4%BA%8C-%E5%8D%81%E5%85%AB

物理的な刑執行(斬首)の後は、社会的な刑執行の梟首(晒し首:獄門)である。六条河原──或いは三条河原──に、嘗ては胴体と切断された「首」が晒され(注40)、京の人々は「統治」技術としての死体毀損(社会的地位の毀損)を、或る種の「エンターテイメント」として見ていた──パリのコンコルド広場(例)やルーアンのヴィユ・マルシェ広場(例)も同じ──のであり、それはミシェル・フーコー的に言えば「誰を生かし、誰を殺す事が出来るか」という政治的メッセージの受け取りでもあった(付箋3に接続)。梟首は近代以降は「梟示」(きょうじ)と名を変えて存続するものの、正式には1879年に廃止された(近代以降の廃止である為に、梟首/梟示の写真は多く残る)。因みに江戸時代から明治に掛けての「斬首」・「梟首」は「庶民」に対する刑罰であり、高位の者のそれではない。

(注40)その「首」が盗まれたりしない様に不寝番をする民や、「首」や「胴体」を「後処理」する民というのも京都には存在した。それが現在に至るも解消され切っていない京都の社会的な非対称性を作り上げてきたとも言える。

「キリスト教」が題材の多くを占める「西洋美術」もまた、「殉教」的な「死」を多く描く。磔刑は勿論、斬首をテーマにしたものもある。多くは「サロメ」(注41)として描かれる「洗礼者ヨハネ」の「首」も「西洋美術」の重要なテーマの一つだ。

(注41)「庶民烈伝」展のリリース文にあった深沢七郎の「庶民烈伝」の盲目の老女が登場する章「安芸のやぐも唄」の次章が「サロメの十字架」である。

ルーカス・クラナッハ『サロメ』(1531年)

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不穏な京都の不穏な場所に建つ「半兵衛麩ホールKeiryu」の人になる。「庶民烈伝」のそれと重なるところが多いものの、こちらのリリース文も上げておく。

中井輪の制作は、映画の上映会から始まります。映画を観にやってきた参加者たちは、各々の姿勢で光を受けとめようとします。こうして「鑑賞者」となった人のからだは、スクリーンの光に釘付けになり、スクリーンの光に照らしかえされ、いわばすべてが光であるような世界へと溶け出していくのですが、中井はそうした鑑賞者のからだを油彩画へと保存するのです。

光を受けとめるからだは、それ自体が光点の集合であるし、映画に夢中になっているとも言えるのですが、見方によっては、無力で、無防備で、疲弊しているようでもあります。力の置きどころに迷い、重心は傾き、筋肉のこわばりを悪化させている。からだはたんに「ままならない」。中井はこの「ままならなさ」のなかに、からだが「光点」でしかないことに、私たちの生の輪郭を押し広げ返す契機を見てとっています。

映画を観ることがひとつの「生き延び」になっている。油彩画の制作が、微動だにしないからだの、思いがけない底しれなさの、肯定になっている。中井が描く人々は、特殊な状況にあるのでも特別な存在なのでもなく、迂闊なことを言えば、私たち全員がこうなのであり、ここにこそ、人間を語りだせるリアリズムがあるとさえ言えるのだと思います。

なお、今回はAIR大原galleryでも個展「庶民烈伝」を開催しています。あわせて、ご覧いただけますと幸いです。

長谷川新(ゲストキュレーター)

https://www.kyotointerchange.com/post/rin-nakai

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「Rin Nakai 20 JUN - 9 AUG」

半兵衛麩ビルの螺旋階段を上がっていくと「ホワイト・キューブ」が出現する。「AIR大原」の「宿」とは違い「美術」では「見慣れた」風景だ。

展覧会の初っ端──螺旋階段から上がった場合の──の右壁に大きな作品の「首絵」がある(注42)

(注42)これらを含めてこの会場の作品の制作年はいずれも2026年。

右から「上映IV」「観客E」「観客D」「観客A」「観客C」「観客B」「観客F」。奥は「観客I」

「観客E」

「観客D」

「観客A」

「観客C」

「観客B」

「観客F」

「上映IV」も含め、「首絵」のいずれもが低めの位置に掛かっている。実測した訳では無いが、「首絵」の下端の高さは1メートルそこそこだろう。その高さに「首」が並んでいる。誤読の権利を最大限行使した上で言うならば、これは晒し首の「獄門台」(注43)の高さ(地上3尺5寸=約106cm)(注44)の様にも思える。六条河原の真っ只中の地で、その高さに「首」が並ぶ図。不穏。

(注43)「獄門」とは平安時代の平安宮の外にあった「検非違使」(現在、京都府警のマスコットキャラ「ポリスまろん」──警視庁の「ピーポくん」の様なもの──のイメージソースになっている)に隣接していた「左獄」(現在の京都府庁の辺り)の門(平安時代の梟首場所)から来ている。

(注44)江戸時代の「獄門台」は厳密に規格化されていて、長さ6尺(180cm)の4寸(12cm)角の梅財を、地上高3尺5寸(106cm)、埋め込む地下部分2尺5寸(76cm)の状態に立て、そこに厚さ2寸(6cm)、幅1尺(30cm)──現代の宿泊施設の玄関帳場の受付台と同じ寸法──の板を渡し、それに五寸釘を数本「逆さ釘」にしたところに「首」を刺して固定する。更に「首」の安定性を高める為に左右に粘土が盛られる。台の長さは1人用が4尺(120cm)、2人用が6尺(180cm)、3人用が8尺(240cm)と定められる。その伝で言えば、5人用だと12尺(360cm)という事にはなる。(尺寸とメートルの換算は全て「約」)

「上映Ⅳ」

「上映IV」は「首」と「胴体」が繋がってはいるものの「首絵」同様「催眠」の顔である。

会場の奥には、黒くカジュアルな衣装で統一された3人(注45)が立っていて、画家の人はマンフロットの三脚に据えられた「カメラ」(注46)でそれを捉えている最中だった。これが「パフォーマンス」である。3人の俳優に画家がどの様な指示を出しているのかは、良く聞こえない/全く聞こえない。

(注45)髙木創太蛭田絵里香藤原美保の俳優3名。

(注46)SONYのカムコーダー(FX2)。

俳優の3人が最初の仕事を終え、画家もその記録を一旦中断すると、奥のスペースが「解放」される。取り急ぎ「観客F」のその先を見て回る。

入った先の右壁、エレベーター脇の壁に「観客P」、奥の柱の3面に時計回りに「観客K」、「観客G」、「観客H」。そして最奥部の壁に「観客I」がある。そのいずれもが、やはり「獄門台」の高さにインストールされている(内「観客K」と「観客G」の2点は「手」)。

エレベーター横の「観客P」

「観客P」

柱にインストールされた「観客K」(右)と「観客G」(左)

「観客K」

「観客G」

柱の「裏」の「観客H」

「観客H」

「観客K」は左手、「観客G」は右手であり、その中間の上部に仮想の「首」があるのだろうか。

右から「観客K」「観客G」「観客I」

「観客I」

「観客I」は窓に最も近く、光量の大きい外光は、その作品「背後」の壁の状態を余す所なく伝えてくれる。「過去」に行われた展覧会の痕跡を極めて丁寧に消去はしているものの、完全にそれは消えてはいない。パテ跡はパテ跡として光線の具合によっては現れたりもする。ここが「宿」と同じリミナルな空間である事を再認識させられる。前掲の文章をリフレインする。「展覧会の度に、ベッドメイクによってピンと張られたシーツの様にスペースは整えられ、『あなたの居場所ですよ』と作家とその作品を迎えてくれるのだが、『会期』が終わればその痕跡は消去されて、新たなシーツと取り替えられる。」。

「観客I」を背にすると、窓の構造柱の下に「首」が落ちているのを発見する。

「落首」(おちくび)

はてさてこれはどういった趣向のインストールかと思い、そのまま眼を上に上げると取り残された三脚のその先の壁はこうなっていた。

絵画の消去

作品リストと照合するに、落ちている「首」はどうやら「観客J」であり、あの3人の俳優はこの作品が消去された壁を見て演技をしていたという事になる。大倉の「Y夫妻」の反復。

再び最初の部屋に戻る。新たな「パフォーマンス」のテイクが始まっている。それを一通り見物してから会場を後にする。

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【AIR大原】

画家が「夜っぴて」動画編集をした映像作品が、「カミング・スーン」だった場所に来ているとの事で、展覧会2日目に再度「AIR大原」に向かう。前日までの雨ではなく、時々降雨したりもする曇天。

道々に同じ政治家のポスター。「首絵」を回避する工夫(饒舌)が「意識」を持った「首」の周りに施されている。

一方でこちらはまた別の統治的工夫が見られる。「首」の主ではない者による「晒し」。「刑」は既に始まって/終わっているかの様だ。

「駐在所情報」の「落とせスピード!落とすな命」は、あの「満身創痍」の「飛び出しくん」の声でもあるだろう。

ーー

民宿の、ジャンヌ・ダルクの奥の不穏な廊下を曲がってすぐの8畳間の客室は、この日は映写室として機能していた。壺も獅子も与えられた仕事をきっちりしているスクリーンに、「半兵衛麩ホールKeiryu」で撮られた約4分半程の映像作品「鑑賞者ら」が流れている。中井輪のタイトル命名規則に従い、登場している3人の俳優(蛭田、藤原、高木)をそれぞれ「観客イ」「観客ロ」「観客ハ」とする。

オープニングから3分半は、それぞれの「首絵」的ショット。最初に「観客イ」、次に「観客ロ」、それから「観客ハ」の「首絵」が1分程度で切り替わる。時にそれは「死」(「催眠」)の顔であり、時にそれは過剰なまでに「生」(「覚醒」)の顔になる。「死」と「生」の切り替わりの多くは、それぞれの横にいる他人との関わりの有無で、スイッチが入ったり切れたりする。

3分強を過ぎた辺りでそれは引きの絵になり、画面左から「観客イ」「観客ロ」「観客ハ」の横一列の並びになる。この一列は、3人が「鑑賞」している絵が掛けられた壁面と平行関係にあるだろう事が伺い知れる。そして「観客ハ」の後ろにある「首絵」(「観客I」)が、4人目の「鑑賞者」の役割を果たしている。4つの「死顔」の絵が続いた後、「観客I」以外の3人は再度過剰な「生」へと移行する。その一部始終を「観客I」は無言で「鑑賞」する。「画中画」。そして再び「死顔」の揃いとなる。

カメラはラスト5秒で、エレベーター近くへと移動し、3人の背中越しのショットになる(注47)。彼等/彼女等が見ていた壁面には、あのキャンバスを壁掛けする為の木片だけがある。

(注47)ここに「出演」しているカメラは、この画を収めているソニーと同機種ではなくオリンパスOMなのだが、そのオリンパスのレンズ光軸の延長線は3人の足下であり撮影者も不在である。不穏。

こうして不穏の相乗となった「AIR大原」を出て、星野太氏との「トークイベント」があるという2回目の「半兵衛麩ホールKeiryu」へと向かう。

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【半兵衛麩ホールKeiryu】

あの木片だけだった壁面に、前日「落ちて」いた「観客J」が、「獄門台」の高さへと「戻って」いた。

「観客J」

それを確認してから星野太氏と画家のやり取りを聞く。会場からの声で「作品の位置が低い」的な質問が上がる。別の質問としては、「釘(タックス)が中途半端な打ち付けで終わっているものが多いのは何故か」といった内容の質問も出る。いずれもこの展覧会に何かしら不穏なものを感じ取ったからこそ出たものだろう。

目立つ釘

「釘が見える」事は、2つの個展の全ての中井輪作品が、「額装」されずに展示されているという非常に重要な部分を突いた指摘だ。「額装」せずに展示するキャンバスの一般的な張り方は、キャンバス地を木枠の後ろまで折り込み、それを「タッカー」(エアタッカー含む)で止めていくというものだが、中井輪はそれをせずに「釘」の存在をそれとして見せている(注48)のである。新たな宿題が出た気もする。

(注48)「AIR大原」の「モデル」の裏側からも明らかな様に、中井輪作品のタックス打ちは「過剰」である。その「過剰」は何から来るものか。

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半兵衛麩ホールKeikyu を出る。相変わらずの曇天。「晴」と「雨」の境界としての気象/境界の意味しかない気象。京都には曇天が良く似合う。

 

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追記(2026年7月20日)

7月19日に「AIR大原」を再訪した際、8月1日に同所の駐車場で開催される「納涼映画会──『海軍爆撃隊』を野外上映する」のパブリシティに使用された中井輪の「最新作」である「予告絵2」のオリジナル油彩画が新たに加わっていた事を確認する。

「予告絵2」

 

西澤諭志「世界無名戦士の日」

京都の川端五条の「半兵衛麩五条ビル」の2階にある「ホールKeiryu」で展覧会が開かれている。「写真家」西澤諭志の「世界無名戦士の日」という展覧会(注1)だ。「外出」前の予備知識としてプレスリリース文を頭にインプットしておく。

(注1)会期:2026/4/18(土)〜 6/5(金)。当初は5/24(日)までの会期だった。

西澤諭志「世界無名戦士の日」
Satoshi Nishizawa: Day of the World’s Unknown Soldiers

本展は写真家 / 映像作家の西澤諭志(1983年生)による関西では初となる個展です。展示は写真と映像によって構成されます。これまで西澤の作品を見たことがないという方にも、ぜひお越しいただきたく思っています。展示タイトルは、埼玉県の越生(おごせ)で毎年行われている「世界無名戦士之墓慰霊大祭」を中心に撮影・編集された映像作品からとられています。

少なくない人がそうであるように、西澤も、日常の大半を賃労働に費やし、その隙間を縫って撮影をしています。昨年の個展では、そうした姿勢を漫画『賭博破戒録カイジ』にでてくる「1日外出券」になぞらえました。「外出」において、西澤はさまざまな土地の資料館、博物館、体験施設、史跡などを訪れるのですが、そこでの彼は作家であると同時に、鑑賞者でもあり、もっといえば「見学」をする者として現れています。文字通り、「見て、学ぶ、ことがある」人として。

このように書くと、ある種の慎ましさに裏張りされた現状維持に聞こえるかもしれません。あるいは、ゆるやかに下降する日常のやり過ごし方を自虐的に語っていると感じたかもしれません。しかしそうではないのです。西澤は、写真家が「視覚の更新」をおこなう存在だと言い切ります。そこでは、労働も見学も、写真がもつ「誰かの視覚を更新する力」を手放す口実にはなっていません。「見て学ぶこと」と「自分で決めること」が、写真には等しく含まれていて、限られた時間のなかでそれらを存分に行使するーー西澤はただそのように、自分の体を仕向けているのです。

無署名ではあるものの、恐らく今回の展示のキュレーターの手になる文章である。その後に「写真家」のものになる署名文が続く。

1.見ること

誰かのものの見方が変われば、それはその人が生まれ変わったに等しい。大げさだろうか。不味いと思っていた食べ物が美味しく感じるようになる。馬鹿にして真面目に見てこなかったものを真剣に眺めてみる。美醜の価値判断が絶対でないことに気づく。敵視していたものがそうは見えなくなる。

何かを無視する、貶す、捨てる、壊す、殺す。新しいものの見方が、誰かのそんな判断を躊躇させたとしても、それはまだ大げさだと言えるだろうか。

こういう変化の分岐点は、おそらく誰の身の周りにも転がっていると思うのだが、もし気づかず通り過ぎてしまう人がいたときは「ここであなたは生まれ変わったのだ」と指をさして言いたい。「あなた自身がこれを選んでそれに賭けたのだ」と言いたい(私自身が通り過ぎそうになったときは写真がそうしてくれるかもしれない)。

選んだ道が正しいかどうかより、その分岐点の質感を忘れないために。たとえ間違った選択でコテンパンにされても、その質感を手放さなければ次はきっとよりよい方を選んで進める。

2.記念すること

悲しい記憶があったとしても、ずっと悲しい顔をすることはできない。そこで生きていく人がいる以上、そこを悲しいだけの場所にするわけにはいかない。

たとえどんなに不真面目に見える記念方法になったとしても、適度に忘れ去れるようにしておく必要がある。それでも一度知ってしまった以上は、それがトゲのように刺さって微かに不快にさせ続け、必要なときに取り出せるようになる。

西澤諭志

プレスリリース
https://drive.google.com/file/d/1IMcJ09vrzGz8qvNhcW-W-XRF6-IYlAUy/view?pli=1&fbclid=IwY2xjawQsRppleHRuA2FlbQIxMQBzcnRjBmFwcF9pZBAyMjIwMzkxNzg4MjAwODkyAAEeBKvXv5zUj_ie44r_LEtIwjkeu25fvVTYAEueiIVoTCKRkAp3KCXnk7fYEY0_aem_dvHrZRuKxrF1ixUufDCnMw

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【枕】

この展覧会の会場である「ホールKeiryu」のある「半兵衛麩五条ビル」(注2)。それは「半兵衛麩」という「京麩」や「ゆば」製造企業の私設スペースである。その「半兵衛麩」のサイトに行くと、その「『京都』ぶり」をアピールするバナー動画に出会える。その「ロングVer.」とされるものがこれだ。

(注2)元々この建物は「大きいサイズの服メンズ専門店 GRAND-BACK グランバック」の店舗だった。2020年に同店が閉店した後、内外の改装を経た2022年に「半兵衛麩本店(販売店舗)」としてオープンしている。

動画は「ニデック京都タワー」を画面中心に据えた地方都市京都の俯瞰ショット(注3)から始まる。そこから松原橋(旧五条橋)から下流方向に見る鴨川を背景に「ここ京都で元禄二年(1689年)初代玉置半兵衛が麩屋を始めた」に続く。問屋町通沿いの「半兵衛麩」社屋(注4)を挟み、暗めの空間に並ぶ「おくどさん」をバックにした「家訓『先義後利』」=「義を先にして利を後にするものは栄える」に、フィンガースタイルのガットギター演奏を被せている。「格子」や「井戸」や「紙垂」や「つくばい」や「おくどさん」等々を、手慣れた映像「編集」によって、見る者に「京都の伝統」の中にある「京麩屋」を感じさせるパッケージにしている。

(注3)「京都タワー」越しに「京都桂川つむぎの街グランスクエア」や「イオンモール桂川」が見える角度から映されているところから、カメラのポジションは東山の高い位置──「京都タワー」(地上31メートル)よりも若干高い──から、画の圧縮効果が高い「望遠レンズ」で撮られたものだろう。この俯瞰ショットの「切れている」画面右下側に「半兵衛麩本社」がある。

広く知られている様に、京都市は建築物の「高さ制限」(10m〜31m)を設けている。その理由は「景観の保全」であるが、実際に得られている「景観」は、映っている筈の渉成園や東本願寺や東寺が埋没してしまっているこの俯瞰ショットに明らかな様に、好き勝手に設計された「低層ビル」の連なりという、特別美しいわけでもない典型的な地方都市のそれである。モンタージュで「京都の美」を見せ付ける動画の「編集」はどうすれば良かったのか。その一つはこの俯瞰ショットの不採用だったのかもしれない。

(注4)「半兵衛麩」の元々の本社屋(「半兵衛麩ビル」隣)は、京町家とモダン洋館建築のキメラ合体である。「格子」「井戸」「紙垂」「つくばい」「おくどさん」は、この社屋内で撮影されている。

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「世界無名戦士の日」展が行われている「半兵衛麩ビル」というのはこうした建物だ。

早速ネタバラシ──画面右下の「透かし」で明らかではあるが──をすれば、この「写真」は「実際」の「半兵衛麩ビル」とその周囲の状況の「そのまま」を写し出したものではない。Google Gemini(注5)に「京都の川端五条に建つ『半兵衛麩ビル』を描画して」というプロンプトの「回答」(出力)がこれなのである。

(注5)同じプロンプトを ChatGPT と Claude にも上げてみたが、「ネタ」的に最も「使える」ものになったのが Gemini (2026年5月現在のバージョン2.5)の「回答」だった。

Gemini に「この『回答』に至る『ソース』を提出せよ」というプロンプトを当ててみたところ、こうした「釈明」が帰ってきた。

1枚目の画像が生成されるにあたり、AI(画像生成モデル:Nano Banana 2)がベースにした「3つのソース(情報源)」は以下の通りです。

実は、構造的な意味では2枚目よりも1枚目のほうが実際の半兵衛麩五条ビルに近いという、AIのちょっとした空回りの裏事情もあわせて明かします。

「1枚目」

1. 実際の「半兵衛麩五条ビル」の断片データ
AIの学習データの中に、実在する「川端五条の半兵衛麩」に関する情報がピンポイントで含まれていました。
実際の店舗は、歴史ある京町家や洋館の奥に、交差点に面した「一面ガラス張りの近代的な3階建ての五条ビル」が建っています。1枚目でAIが「ガラス張りのモダンな多層ビル」を出力したのは、この実際のビジュアルデータをソースとして引っ張ってきたためです。

2. 「川端五条」という地名の景観データ
プロンプトに含まれていた地名から、AIは自身が持つ「京都のストリートビュー概念」を合成しました。

交差点のすぐ横を流れる「鴨川」

そこに架かる「五条大橋」

背景に広がる「東山の山並み」

京都の川沿いを象徴する「柳の木」や「着物姿の通行人」

これら「五条川端といえばこれ」という視覚的ソースを、ビルの背景や手前の道路にレイアウトしています。

3. テキストの和風マッピング
ユーザーから指定された「半兵衛麩」という文字情報を正しく認識し、それを「老舗の店舗にふさわしいデザイン」として出力するため、看板や紺色の暖簾に文字をマッピングするパターンデータを適用しました。

💡 ちょっとした裏話:1枚目のほうが現実に近かった?
1枚目は、実際の「ガラス張りのモダンなビル」という要素をちゃんと拾えていました。しかし、2枚目で「もっと現実に合わせて(ストリートビューを参考に)」と言われた際、AIは「おっと、京都の老舗だからガラス張りじゃなくて、もっと歴史ある木造建築(町家風)にするべきだったか!」と勘違いし、2枚目をあえて全面ウッド調のレトロ建築に変えてしまいました。

実際の半兵衛麩ビルは「近代的なガラスビル×伝統」が見事に融合した建築なので、1枚目の「ガラス基調に木目ルーバー」というアプローチのほうが、皮肉にも最初のベース構造としては現実に近かった、というAIなりのソース解釈の変遷がありました。

「鴨川」「五条大橋」「東山の山並み」「柳の木」「着物姿の通行人」といった「『五条川端といえばこれ』という視覚的ソース」を寄せ集めて出力したと白状する Gemini。利用者である人間の「見たいもの」──そして「見たいもの」を欲する「愚かさ」──を、これまでになく「効率」的に「見せてくれる」技術としての AI 。シャノン・ヴァロー的に言えば、それは過去参照に基づく過去の再生産装置としての「鏡」なのである。

この「鏡」による出力を、果たして「写真」(「寫眞」)(注6)と呼ぶべきか否かは一旦置いておくとしても、事実として生成AIの出力は運用的な意味で「写真」として受け入れられている。伝統的な意味での「写真」("Photograph")(注7)──動く「写真」含む──に混じり、光学的手段に一切依存しない、結果ありきの「編集」しか存在しない「『写真』の様なもの」(或いは「『光画』="Photograph" の様なもの」)が、SNSや広告等を通じて大量に生産=消費され、それらの混在は既に「環境」化していると同時に、「真実を写すもの」としての「写真」の「信憑」性を下げ、写し出されたものの「実在」性も疑われ気味なものになっている。そして厄介な事に、一般的に求められるところの「『真実』らしさ」──例:「『京都』らしさ」──というのは「サービス精神」旺盛なこちら側の方に存在したりするのである。2020年代の江戸川コナン/工藤新一は、推理を始めるよりも先に、その「犯行現場」の「写真」が「記録されたもの」であるのか「描かれたもの」なのかの「鑑定」をしなければならないのだ。

(注6)「寫眞」は元々中国絵画の用語である。「寫眞」(xiě zhēn)の語が中国の文献に最初に現れたのは、6世紀北斉の「顔氏家訓」とも、5世紀南北朝時代の宋の劉義慶が編纂した「世説新語」であるとも言われている。8世紀唐の詩人、杜甫の「丹青引贈曹将軍覇」には「必逢佳士亦寫眞」(汝の肖像画を描くにふさわしい人物に必ず出会うだろう)の記述がある。この詩にもある様に、中国絵画の用語としての「寫眞」は、描かれた人物が恰もそこにいるかの様に思わせる(真実の容貌や神韻の忠実な再現である)「肖像画」を意味する。「寫」されるその「眞」には、「神仙」的な中国イデア的宇宙観も含まれている。近代以前の日本のエスタブリッシュな知のベースである中国文化を反映し、例えば1650年の「大猷院殿御実紀」では、江戸幕府三代将軍徳川家光が穫った鴨の絵を描写した幕府絵師(画工)狩野探幽に対して「寫眞」の語が使用されている。「水邸前の溝水にて、斑毛の鴨とりし殺生方安藤十左衛門定朝、鳥見田澤杢右衛門正次、網奉行小出勘右衛門定勝、時服一づゝかづけらる。餌指一人、銀三枚下さる。又画工狩野探幽守信して、その鴨を寫眞せしめらる」。また杉田玄白・前野良沢の書とされる「解体新書」でも、そこに掲載された解剖図等に対して「寫眞」の語が使用される。西洋撮影術の紹介者でもある司馬江漢は、そのテクノロジーに対して「寫眞」の語を当てたりもしていた。こうして「寫眞」は、 "photograph" が輸入されたばかりの日本で、撮影術関連を表すものとして転用される。

(注7)写真の発明者の一人とされるジョセフ・ニセフォール・ニエプスは、自身の発明物に「ヘリオグラフィ」("héliographie")の名を付けた。「ヘリオグラフィ」は、「ヘリオ」(太陽:hélio)と「グラフィ」(描画:graphê)の合成語であり「太陽で描く」を意味する。「光(photo)」と「描画(graphê)」の合成語である "photography" を提唱したのはジョン・ハーシェル(John Herschel)である。

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実際の「半兵衛麩ビル」はこの様なものである。

しかしこの「ストリートビュー」もまた「編集」の結果としての画像なのだ。「ストリートビュー」は複数のカメラを搭載した「ストリートビューカー」(「トレッカー」等含む)が収集した画像データを、「スティッチング」や「ジオレファレンス」等のアルゴリズム解析でバラバラの画像の間にある「/」を除去し、「シームレス」な「1枚」の360度画像に「マージ」したものである。しかし現状は、その「布置関係」を「シームレス」な見た目にする「マッピング」のアルゴリズムが上手く働かず、結果ガタガタとした不連続な画像になってしまったり、事物が多重化したり、極端なディストーションが掛かってしまったりする事もしばしばだ。

例えば米軍のキャンプ富士/陸上自衛隊の滝ヶ原駐屯地(注7)の「ストリートビュー」はこういうものである。ここで目立つ「エラー」としては、道路手前のゼブラゾーン等の白線や道路の亀裂が上手く繋がっていない事だ。他にも細かい「マージ」上の「エラー」がこの画像には存在するだろうが、その数々の「エラー」に目を瞑ったままこれを「寫眞」として受け取るというのが、すっかりスレてしまった21世紀初頭の「写真」体験という事になるのだろうか。

(注7)何故「そこ」なのかについては後に明らかになる。

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【紀行】

「半兵衛麩ビル」(「五条ビル」)の二階で行われている「世界無名戦士の日」展の会場に向かうのに、ヴァルター・ベンヤミン的に言えば、近代的「効率」の象徴である「母」("Mutter")の歩調に遅れない様にと川端五条角の「正面」入口から入るのではなく、敢えて問屋町通沿いの「半兵衛麩」の「京町家」エリアから「半歩遅れて」(注8)入る事にした。バナー動画に登場する諸々の実物をこの目で「ゆるり」と「見学」したかったのだ。これもまた、見えない「アーケード」に覆われ、「魅力」的な媚を売る商品が散りばめられているこの地方都市を、「亀(Schildkröten)を連れて散歩する遊歩者(Flaneur:見学者)」「夢想じみたレジスタンス(träumerischen Resistenz:見学者)」となってそぞろ歩くというところだろうか。

(注8)"Ich hatte nämlich die Gewohnheit angenommen, immer um einen halben Schritt zurückzubleiben."(「というのも、私はいつも(母から)半歩ほど後ろに下がる習慣がついていたからだ。」)
「一九〇〇年ごろのベルリンの幼年時代」(原題:"Berliner Kindheit um Neunzehnhundert") から”Bettler und Huren"(「乞食と娼婦」)章:ヴァルター・ベンヤミン

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「半兵衛麩」の「ゆば工場」の斜向かいにある「京町家」の「連子戸」の前に立つと、たったそれだけの事でそれはスルスルと開いた。戸を開け閉めする専門職がそこにいる訳ではない。その建物を通り過ぎる者には伝統的な「木戸」に見える一方で、その建物を利用する者には近代的サービスとして現れる、センサーとモーターで動作する「自動ドア」という二面性を有したものである。この「日本の伝統的意匠を持つ自動ドア」の存在だけで、インバウンド YouTuber にとっては格別の「美味しいネタ」(例:「日本の伝統的な美と現代テクノロジーの融合」)になり得るだろう。

事実上「博物館」である京町家エリアで、「天照大神」の「時代」──放射性炭素年代測定法の対象外──から続く「家系図」を見たりした後、「展示」品としての「おくどさん」の前を通る。「博物館」内「博物館」である「お辨當箱博物館」の「展示」品を、「雨宮庸介」の「林檎型林檎入」を含めて見たりする。

「京町家」の「勝手口」から外に出れば、「京町家」「洋館」「五条ビル」「なま麩工場」に囲まれた「坪庭」(注9)になる。そこには「つくばい」や「井戸」や小さな「関守石」がインストールされている。「つくばい」も「関守石」も、本来は「聖」と「俗」を分かつ機能を持つものだが、ここにあるそれらはその「機能」を失っている「展示」品ばかりだ。そもそもが「坪庭」自体が「俗」の側に位置するものだから、そこに「聖/俗」の境界を意味するものを配置するのはひとえに「編集」の術が成せるものと言える。わざわざ従業員──賃労働者:幼少のベンヤミンの目に映った "Bettler"──が働く洋館の「バックヤード」をガラス張りにして、従業員ごと「公開」/「展示」するという「編集」すらもそこには存在する。そうした ”violation" の疑いのあるものを「京都の気遣い」と受け取る向きもいるという。インバウンドも含めて、京都に旅する者のほぼ全ては、京都に近世以前──ほぼほぼ中世:"human rights" 成立以前──を求め、京都人はその「ニーズ」を商売に活かす算段を日夜模索する。「過去参照に基づく過去の再生産装置」の生成に勤しむ京都。いずれにしてもバナー動画に登場する諸々の実際はそうした世界線に於ける「展示」品であったという確認は得られた。

(注9)そこにインストールされている「石塔」(「井戸」近く)は、「大倉集古館」のもの(例)とは違い、「政治」的に「セーフ」である印象を持つ。

「五条ビル」の「勝手口」から「半兵衛麩」の販売店舗に入る。ここにも「見学者」の好物である麩に関する古文書等が「勝手口」付近に展示されている。売り場の階上から、エドワード・エルガーの「サリュ・ダムール」("Salut d'Amour":「愛の挨拶」)が聞こえてくる。チューバやトロンボーンやサキソフォンやグロッケンシュピール等の中に、主旋律担当の一つがリコーダーというところからして、これは恐らく中学生による演奏だろう。

参考演奏

「グルテンフリー」が前景化しがちな人間にとっては、売り場の商品の半分以上は目に止まるものではなく、京都では強力な競合他社(注10)が多い大豆由来のものに目が行く。持ち帰りの為の保冷剤や保冷バッグ必須の複数の商品をピックアップしてレジへと向かう「旅行者」(注11)達の間を抜けて、店奥の人目に付かないエレベーターの人になる。エレベーターの籠の中で、保冷剤不足(注12)と戦争という現下──2026年2月28日のアメリカ・イスラエルによるイランへの「先制攻撃」以降──の「世界」の下部構造に思いを馳せる。「世界無名戦士の日」展への道のりとしては悪くない「展開」だと無言で独り言つ。

(注10)「湯葉弥」「ゆば長」「湯波吉」「三田久」「ゆば庄」等

(注11)保冷剤の冷却効果の「保ち」が「旅行者」の時間を管理──帰路を急がせる──する。

(注12)保冷剤の中身はナフサ由来の高吸水性ポリマー、或いはカルボキシメチルセルロース+水で、その包装材はPE(ポリエチレン)やPP(ポリプロピレン)といったものになる。

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【見学】

キングサイズ(「カイザー」なサイズ)の体格を持つ者向けの店である「グランバック」時代には「正解」の一つだった筈のエレベーターが2階に着きそのドアが開くと、そこは果たして展覧会場のほぼほぼ「奥」──しかも「トイレの隣」──だった。正面には大きなガラス窓。右にも左にも「奥」がある(注13)

(注13)画像左の壁に見えている作品は「皇居前広場/大嘗宮」(2022年:「組写真」)

「展覧会」の「正解」的な入口が、「芳名帳」が置いてある場所──ここからは「左奥」──だと仮定すれば、ここはその「正解」から遠く外れて、或いはキュレーションが想定していた動線をも「裏切る」入口なのかもしれない。それもこれもそれが「順路」に大いに依存する展覧会であるならばだ。しかしこの展覧会が、幼少のベンヤミンにとっての「カイザー・パノラマ」(Kaiserpanorama)、即ち「どこから旅を始めても構わない」("daß gleichviel galt, bei welchem man die Runde anfing")(注13)の様なものならば話は別だ。進入路の複数性が「パサージュ」の特徴の一つであるとしたら、それもまた「フラヌール」たらんとする者にとっては好都合と言えなくもない。

(注13)前掲書 "Kaiserpanorama"章

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「エレベーター出口」から左に目を転ずれば、結婚式場を彷彿とさせる「優美」なスタッキングレセプションチェアが二脚設えられている。音がするそこにふらふらと向かうと、ソニーの液晶モニターとヤマハのポータブルPAシステムのスピーカー(注14)とミキシングコントローラーが見える。それが今回の展覧会タイトルにもなっている作品「世界無名戦士の日」(注15)──本展に出品された二つの映像作品の内の一つ──の設えである。階下まで響くエルガー(注16)はここから聞こえているものだ。

(注14)こちらも「優美」な置台の上に置かれている。更に「細倉鉱山」の「坑道/隧道」を「模した」とも思えるホールの回廊の「どん詰まり」(エレベーターから見て右奥)にある、もう一つの映像作品「マインパーク」(「坑道/隧道」が売りの一つ)を映し出す三菱製のモニタ──トイレの出入口の動線を微妙に避けている位置にある──も、同様の「優美」な置台の上にある。加えてこちらは「籐製」の衝立が背後にある。

そうした「優美」がある一方で、「雑」な箇所を「作って」いるところもある。例えば「芳名帳」の横にある本展の紹介記事が掲載された「京都新聞」は、「アイロン」を掛けずに「読んだそのまま」を投げ置いてあるかの様だ。この「優美」と「雑」の振幅もまた本展の特長である。

(注15)「世界無名戦士の日」(展示版) 18分 2026年

(注16)演奏は越生町立越生中学校吹奏楽部。上掲画像のモニタ内に、テントの下で演奏する中学生が映っている。
https://ogosechu.blogspot.com/2024/05/5111.html

「世界無名戦士の日」というのは、埼玉県入間郡越生町の大観山頂に建つ鉄筋コンクリート3階建ての霊廟である「世界無名戦士之墓」(1955年完成)に於いて、(基本的に)毎年5月第2土曜日に行われる「世界平和を祈念し、世界無名戦士之墓慰霊大祭並びに越生町戦没者追悼式」を指している。その日の夜には花火大会が行われ、越生町役場前の駐車場や道路には屋台が林立するものの、この作品ではその「夜の部」の「祭」は収録されていない。その「世界無名戦士之墓」は、「国土の歴史的景観に寄与しているもの」として2020年に「登録有形文化財」に登録されている。

参考:「世界無名戦士之墓(せかいむめいせんしのはか)」越生町
https://www.town.ogose.saitama.jp/kamei/kaikei/1513744425763.html

「西澤諭志」のカメラは、「慰霊大祭」や「戦没者追悼式」といった「式典」を撮影するには必ずしも「好適」なポジションに位置している訳では無く、寧ろ意識的にそれを外してすらいる様に見える。時々この「世界無名戦士の日」動画の画面内に別の「カメラマン」が映り込んでいるが、彼等こそは「首長の挨拶」や「中高校生による追悼文読み上げ」等の──「後世に残すべき」──「ベストショット」をきっちりとカメラに収め、「正史」を求める「クライアント」に「納品」する事を生業にする者だろう。一方「西澤諭志」は、「マジョリティ」の中で「主題」とされるものから常に距離を置き、寧ろ「主題」であるものを絶対的な「差異」の中に放り込んでしまう。当然「正史」を差し出し、「正史」的な反応を惹起する気など彼には毛頭ない。

そこで行われているのは、「英霊」も「世界無名戦士之墓」も「埼玉県知事」も「越生町長」も「遺族代表」も「参列者」も「エルガー」も「中学生」も「稚児」とその「保護者」も「万国旗」も「号砲/花火」のあれやこれやも全て含めて、「コンテキスト」に基づいた「意味」ある「連関」として同居可能と思われていたものを一旦バラバラにし、それらを乾いた──「意味」生成を欠いた──カット割り、即ち「/」で強引に繋ぎ直すというものだ。

越生町の慰霊施設で採集された映像だけではなく、沖縄や台湾や靖国神社や富士山本宮浅間神社や福島県の個人宅等で拾われた映像素材──多くは先の「戦争」や「天皇」に関するもの──までも動員して繋ぎ直したその先にあるのは、結果的に本来ちぐはぐであったものをよりちぐはぐなものに見せているという「モンタージュ」の「敗北」である。即ちセルゲイ・エイゼンシュテインの「オデッサの階段」──共産主義に距離を置こうとする体制から危険視される様な──「プロパガンダ」にまで至る──或いは「半兵衛麩」の動画の様に「販売促進」にまで至る──の様な「編集」的「成功」には至らない「未満」のものであり、翻ってこの展覧会の全体を通して感じられるのもまた、様々な「未満」が露出した多重的な「敗北」である。

勿論「写真家」が言う様に映し出された場所の多く──或いは全て──が「敗者」の場ではあるものの、それだけではなく、「モンタージュ」の「敗北」(例)に見られる様な、「写真家」としての「敗北」を通して「写真」の「敗北」をもプレゼンテーションする形になっている。即ち「敗者」には「被写体」だけではなく、「写真」とそれを「撮る者」も含まれる。そして恐らくこの「写真展」会場に来てしまう「観客」もまた「敗者」なのだ。

例えば「アメリカ海兵隊キャンプ富士・陸上自衛隊滝ヶ原駐屯地」(制作年2025年、撮影年2024年:上掲画像)(注17)という作品について、「写真家」は複数ショット(「コンタクトシート」)を Adobe Photoshop の "Photomerge” 機能で「パノラマ」化したものだと語っていた。その「操作」の結果が、「写真」の「敗北」として「露わ」になっている箇所の一つが、画面の左にある電柱が上部でバッサリ切れているところだ。

(注17)同展の多くの作品が、複数の場所を「/」で繋げるタイトルを持つ中、これが「・」になっているのは、そもそもがこの場所自体が「敗戦」後の日本の「/」──ここでは J.G.S.D.F./U.S.M.C.──構造を有しているからだ。

他にも大阪府豊中市の「瑞穂の國記念小學院」(「瑞穂の國安倍晋三記念小學院」)を「写し」た「大阪府豊中市 野田中央公園/(撮影場所不明)」(制作年2025、撮影年2022/不明)でも、このレガシーな機能による「時制」を超越した継ぎ接ぎ作業(例:飛行機の「挿入」)が行われていると語っていた。

他の作品でもそうした「操作」が行われているのだろう。「富士」の写真はその「敗北」を「敗北」のまま、誰の目にも判る形で差し出している。数年前の 生成AI が出力した手の「デッサン」の「狂い」が判りやすかった様に。

そもそもが「レタッチ」に容易に接続可能な「デジタルカメラ」(注18)を撮影に使用する時点で、「写真」は「敗北」の道を突き進むしか無い運命にある。”Photoshop"(例)は「写真」の「敗北」を加速化させる最も代表的、且つ一般的なツール(注19)の一つだ。「画像編集」時代に自らを定位させるアンドレアス・グルスキーは、「写真」の「敗北」をネタにする「写真家」の一人であり、彼もまた ”Photoshop-er" なのだが、そもそもデュッセルドルフ美術アカデミーの学徒であったグルスキーが師事したベルント・ベッヒャー/ヒラ・ベッヒャーの「タイポグラフィ」が、前世紀の「写真」の「敗北」の水先案内の役目の一つを果たしている。そしてこの「世界無名戦士の日」の「写真家」も、「敗者」の場所の収集に勤しむ──ベッヒャーの「給水塔」の様に──「タイポグラフィ」的形式手段に自らを落とし込んでいる。「提示」によって「給水塔」という意味的同一性が失われてその差異が可視化される様に、「戦後」という言葉の同一性が一旦解体され、そこにあるのはバラバラになったものの「/」(”et":ジャック・デリダ)で繋がれた「提示」である。

(注18)「デバイス」的には、フィルムと印画紙の発明によって、「事後」的な「レタッチ」が容易に入り込む──銀版、湿板、乾板等では事実上「レタッチ」は不可能──事が可能になった現在の「写真」世界に於いて、20世紀以降の「カメラ」は事実上「入力/出力デバイスの一つ」の位置に「格下げ」されたのである。21世紀に至っても尚「カメラ」と呼ばれている「デバイス」の「地位」は、現在事実上「多次元の環境スキャナ」というものでしかない。そして「多次元の環境スキャナ」という中間的な存在様態を最も具現化しているのは、「写真」に於ける「画像データ」入出力の「サプライ」の中間に「カメラ」が位置するしかない事を隠さない「スマホカメラ」である。その意味で「スマホカメラ」こそが、現在最も「存在」的/「社会」的に「純粋」(己が存在に忠実)な「カメラ」と言える。21世紀的な「写真論」の中核にあるべきは、例えば「撮影機会の一般化」である「オスカー・バルナック」であり、「発表機会の一般化」である「フィリップ・カーン」であり、「描画機会の一般化」である「ジョン・フォン・ノイマン」等なのだ。

(注19)その ”Photoshop" ですら、「一般的」だったのは精々2010年代の後半辺りまでであり、現在では「画像」関連の数々の「スマホアプリ」──自動的に「美人」(目の大きさ、口の大きさ、顔の大きさ、肌の美しさ、足の長さ等々を「マシマシ」)にしてくれる的な──によって、 「手作業」の ”Photoshop-er" (”Photoshop" 使用者)を確実に前時代的存在にしてしまったのである。同時に「スマホアプリ」──生成AIを含む、世代的には ”TikToker" 以後のZ世代が「環境」として親しむもの──が環境化され切っていない世代(1990年代生まれ以前)が語る「写真論」もまた、すっかり前時代的なものになってしまったのである。

「西澤諭志」は、折口信夫が「神の敗北」を問い掛けた日本の「戦後」に、「政治的問題」となった地に吸い寄せられる様に撮影の場所を求める。順不同で記せば、嘉手納、辺野古、伊江島、成田、豊中、水俣、東海村、福島、2020東京オリンピック/パラリンピック選手村、皇居前広場、大嘗宮(注17)、靖国神社遊就館、東京都戦没者霊苑、大潟村、シャクシャイン像跡、細倉鉱山、キャンプ富士/陸上自衛隊滝ヶ原駐屯地、各地の「平和」に関する施設等々といったところだ。

(注17)今回の「世界無名戦士の日」展のキー・ヴィジュアルになっている。

それらはマトリョーシカの様に、小なる「敗者」が相対的に大なる「敗者」──その最大の「敗者」が、その「地位」を「主権の存する日本国民の総意に基づく」(日本国憲法第一条)とされる現「象徴天皇」(注18)である──に包みこまれている場所だ。即ち第二次世界大戦の「敗北」、或いは日本近代という(西洋文明への)「敗北」が、この列島の「国民」とされる我々を形作っている事がこの上なく露呈してしまった場所──そしてこの「列島」に住む我々が、多かれ少なかれ「痛み」を感じる場所として「共有」されている──に、「写真家」の嗅覚は働くのである。

(注18)戦前の「天皇」もまた、「西洋列強に伍する日本」(「敗者」である「アジア」からの離脱)の構築の為に再構成された存在である。

ヴォルフガング・ティルマンスの様に、「西澤諭志」は「コンタクトシート」(注19)をバラバラに会場にインストールする訳では無いが、しかし伝統的な見方では「組写真」とも見られるそのフレーム内で、それと同様の事が行われていると見る事も出来る(注20)。そして会場全体からすれば、「天皇」/「在日米軍」/「自衛隊」/「水俣」/「大潟村」/「選手村」/「成田」/……(et et et et.....)が、様々な形の「連続」と「非連続」の境界線で「提示」されているのだ。

(注19)「コンタクトシート」としての「コンタクトシート」は、会場内の平台に置かれた4冊の「ファイル」の中にある。

(注20)その「組写真」は、所謂「グラフ誌」の様な「編集」的「成功」を指向するものではない。
参考:「伝説のプロパガンダ・グラフ誌『FRONT』のデザイン――『復刻保存版 FRONT』解説より」じんぶん堂
https://book.asahi.com/jinbun/article/15247306

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今どき「写真」を「信頼」する様な「可憐」な観客は、「公民館」(例)で行われている「写真サークル発表会」の様な展覧会に行けば良い。そこでは20世紀までの「写真」について安全/安心に「盛り上がれる」気分になれる場所だ。しかしこの「世界無名戦士之墓」展に限らず、現下の「写真」の「敗北」「未満」「不信」、或いは「死」の時代に生きている事を自覚している者による「展覧会」には、快適に「盛り上がれる」余地は全く無く、ただ「トゲ」の様にそこにあり、その「トゲ」が刺さったまま、観客は相変わらずの「敗者」としてトボトボと帰るしか無いのである。

そして帰り道にスマホを開けば、そこには何処にいるのか分からない/いないのかも分からない魅力的な人物が、存在するのかどうかも分からない商材を売り込んでくる動画がひしめき合っている。「敗者」である事を自覚する者は、それを「そっ閉じ」するしかない。

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追記:ここに上げた画像の全ては「撮って出し」ではなく、 ”Photoshop" で「修正」「加工」されたものである事を明かしておく。その中にはレガシーな「シフト撮影」のシミュレーションも入っている。

福田尚代「あわいのほとり」

福田尚代氏の仕事については、これまで当ブログでも3回程書いてきた。その最後は2014年4月20日付の「MOTアニュアル2014 フラグメントー未完のはじまり」だったが、以後も折を見ては同氏の作品を見てきた。

基本的に今でも福田氏の作品に対する見方は当時と変わっていない。その作品が「小さくある」(=「極小である」)という事は何なのか。そこからのスタートに常になる。

福田氏の仕事のみをメインに書いたものとしては、2013年7月16日付の「『本の梯子』『慈雨 百合 粒子』『秘密の湖』」があり、そこで殆ど語り尽くされているとも言える。それは今回の「あわいのほとり」でも変わらない。まずはその2013年の文章を若干の改変をしつつ再掲する。

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休憩ヲ為サシムルニハ左ノ號令を下ス
「休メ」
此號令ニテ生徒ハ姿勢ト動カザルトニ意ヲ留ムルコト無ク片足ヲ舊位二置キ其場二立チテ休息ス
「休メ」ノ號令アルトキノ外随意二動クヲ得ズ又休憩中ト雖談話シ或ハ猥リニ位置ヲ離ルルコトヲ禁ズ
注意 休憩は遊戯二アラズ故二隣生ト戯レ或ハ見苦シキ容姿ヲナスコトナク兩手ハ成ルベク腰二取ルヲ可トス



「小學實驗兵式體操書」櫻井第惠 編(同文館 1898年)
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/860085

画像:「圖入 兵式體操繁範 巻一」生田清範 編(金港堂 1886年)より
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/843791

初代文部大臣である森有礼(有禮)氏が、学校教育に「兵式体操(體操)」を導入したのは1886年(明治19年)である。森有礼氏は学校を「道具責メノ方法」であるとした。「號令」を合図として行われる「休メ」は、「遊戯二アラズ」なものとして、「不動ノ姿勢」である「氣ヲ着ケ」とセットになった別形態の「氣ヲ着ケ」であり、記号としての「休憩」である。

身体の運用への綿密な取締りを可能にし、体力の恒常的な束縛をゆるぎないものとし、体力に従順=効用の関係を強制するこうした方法こそが、≪規律・訓練discipline≫と名づけうるものである。

「監獄の誕生」ミシェル・フーコー:新潮社・田村俶訳

森有礼氏の言う「道具責メノ方法」というのは、人格(主体)の改造としての教育を「精神」面から行うのではなく、「身体」を強迫的にコントロールする事によって行う事を意味している。森氏自身の「郷中」時代や "Brotherhood of the New Life(新生社)" 時代の体験を通して、それが主体の改造に最も効率的な方法である事を氏は良く知っていた。"Compulsory Education" の日本語訳は、今日では「義務教育」となっているが、当時の訳は「強迫教育(近代中国同)」であり、その意味で森有礼氏は「兵式体操」を「強迫体操」であるとしていた。

政治的領域に投じられた「休憩」、記号としての「休憩」の形には、所謂「体育座り」というものもある。

古くからの日本語の用法でいえば、これは子どもを「手も足も出せない」有様に縛り付けている、ということになる。子ども自身の手で自分を文字通り縛らせているわけだ。さらに、自分でこの姿勢を取ってみればすぐ気付く。息をたっぷり吸うことができない。つまりこれは「息を殺している」姿勢である。手も足も出せず息を殺している状態に子どもを追い込んでおいて、やっと教員は安心する、ということなのだろうか。これは教員による無自覚な、子どものからだへのいじめなのだ。

「思想する『からだ』」竹内敏晴:晶文社

少なからぬ者が「安楽な座法」であると認識するまでに「身体」に「刻印」された「自己強迫装置」である「体育座り」が一般化したのは、一説には1958年(昭和33年)の文部省による通達からとも言われている。以降、女子生徒の「体育座り」がしばしば性的興味の対象とされるのは、「手も足も出せない」ところにあるからかもしれない。現在の教育現場の「体育座り」に対する声には、こういうものがあった。

(略)
・体育座りをすると、背筋が伸び姿勢がよい。視線が上を向く。
・体育座りでは、手を組むので、手悪戯しない。
・体育座りは、狭い範囲に子どもを集めることができる。
・あぐらでは、視線が下に行く。背筋が曲がってしまう。
(略)
・体育座りは、だらだらしない。だらだらした雰囲気を起こしにくい。

「体育座りについて考える」
http://homepage1.nifty.com/moritake/taiiku/suwari.htm(注:現在リンク切れ)

「休メ」では、「談話」や「猥リニ位置ヲ離ルルコト」や「隣生ト戯レ」や「見苦シキ容姿ヲナスコト」が「精神」的に禁じられ、「体育座り」では、「手悪戯」や「視線が下に行く」や「背筋が曲がってしまう」や「だらだらした雰囲気」が「身体」的に封じられている。換言すれば、「監獄の誕生」で被監視者である囚人に自身の行動監視を内発的に行わせる「一望監視装置(パノプティコン)」を例出したミシェル・フーコーが言うところの「権力の網目」が恐れているのは、それら「禁じられたもの」や「封じられたもの」の諸行為であるという事になる。そしてその「反 = 権力の網目」的な「身体」の在り方の中に「手悪戯」が入っている事に注目したい。

「手悪戯(手いたずら)」をオンライン辞書で調べると、Weblio 類語辞典(注:現在は記述無し)に行き当たった。

意義素・用例
 小物・危険物などを弄ぶ
類語・縁語
 手いたずら(する) ・ (手先で)遊ぶ ・ (〜に)さわる ・ (面白半分に)いじる ・ いじくる ・ (指で)ひねくる ・ (切符を)もみくちゃにする ・ 手なぐさみとして〜 ・ (風が髪を)なぶる ・ 火遊びする

「コトノハ○×」(注:現在サービス停止)の「手いたずら」には、「常習犯」や「情緒不安定」の記述を見る事が出来る。授業中の「消しゴムカス集め」や「ペン回し」等は、森有礼氏の「学校令」以後の日本の教育現場では「学習障害」の代表的なものともされ、またそれらは「発達障害」とすら強迫的に思わせられる事もあって、近代的「医療」機関による「診断/矯正」の対象とされたりもする。しかしそれらが「学習障害」や「発達障害」とされるのは、当然の事ながら「学習」や「発達」という概念が「発明」されたここ最近の話に限られる。


「てあそび」「てすさび」「ていじり」「てわるさ」「てまぜ」「てもずら」「てずくな」「てわすら」「てわさ」「てわっさ」「てわっしゃ」「ててんご」「てちんご」「てまんご」「いんごまんご」(地方名略、順不同)等々、「方言」による「手悪戯」はバリエーションに富んでいる。それらの「手悪戯」を表す言葉の中には、「手仕事」の意味をも持つケースが少なくない。「手悪戯」という語の両義性を残している「地方」では、「悪戯」もまた「仕事」だ。そこでは「悪戯」の「悪」は「悪」では無い。

「手悪戯」は、「遊び」の4つの分類であったりもする「アゴン(競争)」、「アレア(偶然)」、「ミミクリ(模倣)」、「イリンクス(眩暈)」のいずれにも該当しない。「手悪戯」は「遊び」を分類したロジェ・カイヨワが認める「正式」なそれからも疎外されているという事なのだろう。

しかし幾らか【枕】が長くなってしまった。この辺りで【本題】に入る事にする。

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昨年の「横浜市民ギャラリーあざみ野」での「あなたの船の往くところに」(注:現在リンク切れ)に続き、今年(注:2013年)に入ってからも「福田尚代」氏の作品を幾つか拝見した。3月に京都の二条城近くにあるボイラー関係の会社の敷地内にある「ギャラリー・モーネンスコンピス」で、かなもりゆうこ氏との二人展「本の梯子 -Book Ladder」展を見たのを皮切りに、先月6月7日に終了した東京・神田の「小出由紀子事務所」での「慈雨 百合 粒子」(現在リンク切れ)展。そして同日に回った水天宮の「ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション」の四人展「秘密の湖」でのものだ。

それら四つの展覧会の、「福田尚代」氏の仕事を紹介した箇所を、それぞれのサイトから引く。

福田は、書物のページを丹念に折り込むことによって、最後に残された言葉から立ち現われる世界を変容させる《翼あるもの》シリーズで、言葉への探求を試みています。(横浜市民ギャラリーあざみ野)
http://artazamino.jp/event/scg20121125/(注:現在リンク切れ)

言葉とかかわりながら制作を続ける福田尚代(ギャラリー・モーネンスコンピス)
http://kompis.exblog.jp/19615676/

書物や郵便物などを材に用い、「読むこと」と「書くこと」をめぐって点滅する思索を、刺繍や穿孔など強迫的ともいえる手仕事によって表現する稀有な作家です。(小出由紀子事務所)
http://www.yukikokoide.com/exhibition/2013/2013_0507.html(注:現在リンク切れ)

言葉、書物、文房具を素材に、既成の文学にはない、はるかな物語を紡ぎだす福田尚代。(ミュゼ浜口陽三・ヤマサコレクション)
http://www.yamasa.com/musee/exhibitions/20130518-0811/

いずれの紹介文にも「言葉」に関する、或いは「言葉」という語そのものの記述が見られる。月刊誌「すばる」2013年8月号の、保坂健二朗氏による「秘密の湖」展の展評(注:現在リンク切れ)も、最終的には「言葉」へと着地させる形になっている。確かにこの作家の重要な仕事として、本人によるサイト(注:旧サイト)のタイトルにもある「回文」が存在しているのは紛れも無い事実であるし、これらの展覧会に出品されたオブジェクティヴな仕事にも、「書物(含「文庫本」)」「原稿用紙」「けしごむ」「栞紐」(以上「秘密の湖」カタログ表記に基づく)等といった、何らかの形で「言葉」に「接して」いるが故に、「言葉」を「連想」させてしまうものが多く使用されている。従って「言葉」を軸に、この作家の仕事の多くに言及していく事が、「『福田尚代』論」の「常道」である事は否定出来ない。敢えてこの文章でもそうした「常道」に乗って行くというのは、あり得る選択ではある。

但しそうなると、例えば「本の梯子 -Book Ladder」展、「慈雨 百合 粒子」展、「秘密の湖」展に出品されていた、自身の「素描」とそれに「刺繍」を施した作品(「言葉の粒子」)、「少女漫画」に「刺繍」を施した作品(「残像/日光写真」)、或いは「色鉛筆(≠鉛筆)」を素材とした作品(「煙の骨」)等が、その分析の網の目からどうしても零れ落ちてしまう。「言葉」という方法論的前提を崩さず、それらの「言葉」とは縁遠そうな作品を、「見なかった事」または「言及しない事」にすれば、話は極めて簡単になるし、そこまで雑な方法を取らないまでも、それらを「派生作品」や「関連作品」という位置に落とし込めば、「言葉」を分析の軸とした方法論的整合性は保たれるかもしれない。

しかし正直なところ、「回文」を含む「福田尚代」氏の作品に対して、個人的には「言葉」という語が即座に浮かんで来ない。寧ろそれらを表出させるに至った「『身体』の在り方」の方が見えて来てしまうのだ。だからこそ、この作家に不似合いに見えるだろう内容の「枕」を長々と書いた。そしてその「『身体』の在り方」は、自分には「手悪戯」のそれと重なり合って見える。「静謐」と形容される事の多い「福田尚代」氏の作品だが、自分の目には寧ろ限りなく「苛烈」なものに思えるのだ。

「福田尚代」氏の作品が作られるのに主に使用されている「身体」部分は、手の親指と人差指と中指といったところだろう。薬指と小指の使用率は限り無くゼロの様な気がする。当然、肩から先の上腕全体の動きも少なく思える。更にその三本の指は、それぞれの先端が全て重ね合わされている事が多いだろう。即ちそれは「摘む(つまむ)」という形だ。針を「摘んで」刺繍や穿孔をする。栞紐を「摘んで」それを解す。彫刻刀を「摘んで」けしごむや原稿用紙や色鉛筆の芯に彫刻を施す。けしごむを「摘んで」文字を消す等々。

親指と人差指と中指の交差箇所の先を注視する「視線」。それが「福田尚代」氏の「目」だろう。その「目」が、特徴線だけになった「けしごむ」に「ちぎれたりいろいろなことが起きている」ことを見たり、切り抜かれた「原稿用紙」に「ゆがんでいる」ことを見たり、「色鉛筆の芯」に「砂浜に散らばっているちっちゃい貝殻」を見たり、解された「しおり」に「ちっちゃい貝殻が散らばっている」のを見たりする。

参考:対談「福田尚代と福永信の小さな一時間」
https://realkyoto.jp/blog/talk_fukuda_fukunaga_yamasa/

「福田尚代」氏のサイトの「略歴」を見ても、そこは「摘む『身体』」で充満している。ここでの「福田尚代」氏の「身体」のほぼ全ては、親指と人差指と中指を表している。そしてここで重要だと思われるのは(現在の「回文」はどうなのだか判らないのだが(〈追記〉参照)、「言葉」の仕事が「鉛筆」や「万年筆」等の「筆記具」で書かれているというところだ。当然物体としての「筆記具」は、「キーボード(流石にこのサイトを「作る」に当っては使用すると思われるが)とは異なり「摘む」ものである。即ち「福田尚代」氏と「言葉」との接点もまた、常に「身体」的な「摘む」を接点としてのものになっている。

「福田尚代」氏の言葉に頻繁に登場する「粒子(粒)」という言葉。「粒子」を「粒子」として手に取ろうとすれば、それは必然的に「摘む」形になる(料理に於ける「塩ひとつまみ」の様に)。「一握の砂」は「粒子」的ではない。寧ろ「粒子」的なスケールからすれば、「一撮(ひとつまみ)の砂」ならぬ「一握(ひとにぎり)の砂」は、まだまだ「大きい」ものである。そしてこれは飽くまでも想像だが、「福田尚代」氏の「目」には、「言葉」は物理的な「粒子」として見えているのではないだろうか。「パングラム作家」にとっての「仮名葉」の様に。そしてその「言葉」の「粒子」の一つ一つを「摘み」、それを頭の中に算盤を置く暗算者の如くにイメージして並べ替えて行く。それが「福田尚代」氏の「回文」と呼ばれているものなのではないだろうか。それは丁寧な上にも丁寧に並び直された「粒子」なのだ。

「『摘む』身体」や「『摘む』視線」は、誰もが共有するところのものだが、時にそれは禁じられる対象になったりもする。「言葉」を読む事が「文意」を読む事とされるところでは、「言葉」を「粒子」と見る「視線」は排除されもする。「言葉」を専ら「伝達」機能に還元するところでは、そうした「視線」は「情報」的な「生産性」の足枷にもなる。「近代文学」を始めとする「言葉」に於ける「体育座り」は其処此処にある。そして「近代美術」を始めとする「美術」に於ける「体育座り」もまた、其処此処に存在する。

真っ直ぐ前を見ろ。視線を落とすな。こちらに注意を向けろ。うろうろと歩き回るな。勝手な言葉を発するな。手悪戯などというつまらないものよりモ、正面に見えていル素晴ラシキモノの内容ノ方が遥かに重要ダ。そして表ハサレテイル意味を最大限ニ受け入レテ自分のモノトセヨ。コレハ遊戯二アラズ。

だからこそ「福田尚代」と名指されている「身体」は、金輪際「静謐」なのではなく、徹頭徹尾「苛烈」なものなのだ。

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〈追記〉その後作家御本人からツイートがされた。

@omuraji 今でも回文は紙にペンで書きます。ちなみにPCも指三本で操作する者なので、サイト作成にも近いことが言えます(笑)

https://twitter.com/fukudanaoyo/status/357095098451890176

 

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記事「MOTアニュアル2014 フラグメントー未完のはじまり」では、アンリ・ファーブルと小さな昆虫の関係に於ける「微細な世界との幸福な距離感」を軸に「『此岸と彼岸を行き来』する瞬間を観客に共有させてもくれた」とも書いた。福田氏は他にもこうした「2つの世界」について、「在/非在」「これらは物であり物でなく、存在すると同時に存在しません」「遠大と極小」とも書く。

その「2つの世界」の境界を表すのは「/」であったり「と」であったりする。「と」は一旦置いておくとして、そもそも「/」は「言葉」なのだろうか。折り畳まれた文庫本「翼あるもの/岬」から現れ見えている鍵括弧や句読点(「」、。)等の「約物」は、永遠に音声化される事のない概念的「境界線」(「境界表現」)である(注1)。即ちそれらの「境界線」や「界面」は「線」や「面」であるだけに、書記言語でのみ可能な表現(注2)であり音声言語に変換される事はない──即ち「読め」ない(注3)

(注1)「と」に代表される「助詞」もまた、そこで世界が折り畳まれる「不可視」的な「境界表現」と言えるかもしれない。

(注2)空間内で3次元的に「話される」手話(Sign Language)には括弧の表現が存在する。

(注3)「AI読み上げ」の最初のチューニングの一つは、「約物を読まない」にあるだろう。

書記言語は不可避的に「場所」を持ってしまう運命にある。即ちそれは空間「座標」の中に存在するものだ。ジャック・デリダは、「座標」的な「場所」を持たず、人称に帰する意識や思考のダイレクトなアウトプットとされる音声言語(パロール)が、西洋の知の歴史に於いて「本質」的なものとされ、一方書記言語(エクリチュール)はそれを「書き留めた」ものでしかないとされて音声言語の「下位」の位置に永く置かれていたとした。

もう少しだけデリダを引き摺って書けば、しかし記号として物理的に残り続ける書き言葉こそが、発話的な「コンテキスト」──「改変」不可──を切断し、別の文脈で無限に展開される「反復」の可能性(itérabilité)を開くのである。福田氏がページを折り畳み、文字に刺繍を施し、或いはそれを穿孔し、時に消しゴムであったり栞であったりの「改変」を伴った「反復」が可能になるのは、それが物理空間内に存在する書き言葉の世界にあるからだ。「言葉」が「粒子」であるのなら、必然的にそれがどれ程に「素粒子」であったとしても尚、物理的存在なのである。

「回文」もまた書き言葉の世界でのみ成立するものだ。試しに音声言語しか存在しない文化で「回文」が作れるかどうかを想像してみれば判るだろう。「回文」は「言葉」の一つ一つを、「ひらがなつみき」の様に「音」の単位でバラバラ(「粒子」)にしたものをそれぞれ複製し(折り返しの1文字=「あわい」が加えられる事もある)、ペアの一方を逆順に並べてみてその中に何かしらの新たな「言葉」を発見して、元々の「言葉」が「切れていた」位置をずらし、そこに漢字の意匠を施したりする事で「意味が通る」文章を「形成」させたりする。それはそうした「操作」が可能な書き言葉でしか出来ないものだ。

「昇順」/「逆順」が可能なのはそれが空間的なものだからだ。時間的な「順行」/「遡行」では「回文」は事実上不可能だ。音声の「トマト」が「双方向性を持っている」ものとして認識されるのは、脳内で書き文字に変換しているからであり、実際「トマト」はテープの逆回し的なものでは「トマト」にならない。「回文」は「読み上げ」に最も適さないものの一つだ。福田氏の「回文」集は永遠に Amazon の Audible になる事はないだろう。即ちそれは「回文」が物理的空間を前提にした表現である事を示唆するものである。

どこまでも物理的な仕事であるから、それ故に「小さくある」事が可能であり、且つそれこそが重要なのだ。「2つの世界」を分かつ、概念的であると同時に現れとしては物理的な「約物」的世界に漸近するには、「小さく」なってアプローチするしかない。引用した13年前の文章で、「(福田氏の作品に対して)『言葉』という語が即座に浮かんで来ない。寧ろそれらを表出させるに至った『「身体」の在り方』の方が見えて来てしまう」というのはそういう事なのである。

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今回の神奈川県立近代美術館 鎌倉別館の「あわいのほとり」に出品された作品は既視のものが多い。その中で初見だったものの一つに、東京藝術大学の大学院の修了作品であるという「不忍、蜘蛛の糸」というタイトルの、縦が183mm、横が430mmという「大作」(東京都現代美術館蔵)があった。「蓮」の文字が40万回書かれているというその作品の後に「回文」に邂逅し、その3年後に福田氏は渡米している

福田氏のサイトの「『慈雨 百合 粒子』展のためのノート」にはこうある。

《漂着物》926個の彫刻されたけしごむ  2001-2013

20代の後半は、美術からも故郷からも遠く離れた異国の森で言葉を集めて暮らしていた。やがて帰国すると、けしごむへ彫刻をはじめた。言葉を消しながら自らも消えてゆく姿に、仮の形をとどめたくなったのだろうか。あるいはむしろ、私自身がとどまるために、必要な行為だったのかもしれない。

「美術からも故郷からも遠く離れた異国の森で言葉を集めて暮らしていた」。「停電」によって一瞬にして消失してしまう「立派な絵」(小崎哲哉氏との対談)の様な「大作」は福田氏のその後から事実上消えている。

実はこの鎌倉の「あわいのほとり」の2年前の2024年の6月29日(注4)に、千葉県船橋市にある Kanda & Oliveira で開催された福田尚代個展「ひとすくい」を見ている。今回のカマキンの展覧会にも出品されている作品が出ていた展覧会だ。数々の媒体にも取り上げられていたその展覧会について何かしら「書こう」という気持ちではいたものの、結局書く事はしなかった。

(注4)その日は前年の暮れに焼失した自分達の「アトリエ」の、明け渡しの為の片付けが事実上終了し、その慰労会が行われた日でもある。「猛火」という切断的な「/」の介入によって「彼岸」のものになってしまった仕事場/作品置場を前に、「大作」を作る必要性からこの場所を借りた20代を思い返す。そして再び「大きさ」を伴う作品を作る事は無いのだろうとも。その慰労会を早々に抜けて昼下がりの船橋の人になった。

その大きな理由の一つは、天井が高くフラットな光源の何処までも明るいそこ──福田氏は「海辺の洞窟や⼤きな船のようだ」と感じたという──に出されていた作品の幾つかのインストールが、「福田尚代」の仕事の見せ方として相応しいのかが今ひとつ掴めなかったからだ。これらの作品は、相対的に「小さな」箱で「小さく」、そしてそれを「近く」に見せ、それらとの密やかな「対話」が観客に可能であるからこそ生きるものなのではないか。

観客がその四方を歩き回れる「回廊」を最小限確保した、床面の数メートル四方のスクエアで展開されていた「大作」然とした船橋の光景的な「漂着物」(「漂着物/海辺の洞窟」)は、鎌倉ではガラス越しの壁面展示ケースに収まって「漂着物/波打ち際」──「波打ち際」=「境界線」「界面」──となっていた。

試しに自分の身体をその壁面展示ケースの搬入/搬出口である「ドア」部分に当ててみると、ガラス面と壁面の間は、古代からの長さの単位である「キュビット」(肘から中指の先までの長さ)の範囲内に収まっている。ガラス面から最も遠いものでも「手が届きそう」──脳内で観客はそれを「手にする」事が出来る──な「微細な世界との幸福な距離感」が再び帰って来ている。

「ひとすくい」展では極端に低い位置にあって、足下を見下ろす様な形になっていた「翼あるもの」等も、ここでは顔の近くまで引き上げられ、やはり「近い」ものになっている。見上げたところにあった「大きさ」を伴った淡い色調の「回文」は、ここでは相対的に密やかな投影に変わっている。作品との「近さ」は、船橋の輝度の高い部屋とは真反対の、暗い部屋(注5)のスポット照明的なライティング──航空機の読書灯(リーディングライト)の様な──によっても強化されている。この「あわいのほとり」展のインストールは、相対的に「大きな」箱で「福田尚代」を見せる最適解の一つなのではないか。

(注5)今回「回文」が投影の形になっているのはその為だろう。

「/」という「あわい」(「境界線」、「界面」)。「あわいのほとり」の「ほとり」とは、何処まで行っても「此岸」/「彼岸」の「此岸」側のものである。「彼岸」は「そのもの」としては知覚されないものだ。「あわい」は勿論「波打ち際」という「穏やかなもの」として認識可能である一方で、切断的な「断崖絶壁」もまた「あわい」ではある。「あわい」を眼の前にした物理世界たる「此岸」にいる者は、それでも何とか「向こうの世界」に近付こうと、「/」というボリュームを持たない非在に無限に漸近しようとする。

「あわい」には「死」が付き纏う。「ほとり」は「死の淵」の「淵」である。「死は不断に事物的に出来する『事例』」ではないと「存在と時間」のマルティン・ハイデガーは言ったが、「あわい」を前に自らの「死」の「ほとり」に立てる事が出来るかが、「福田尚代」を見る者に求められる「苛烈」ではないのか。

前本彰子「月読 ー 明けない夜」

【紀行】1983

その画廊に行く目的は、近く参加する写真のグループ展に関して予め現場の下見をしておく必要があったからだ。上野毛の多摩美大学院を出てからは、真木画廊、田村画廊、画廊パレルゴン、駒井画廊、スタジオ4Fといった、インデペンデント寄りの神田のギャラリーでもっぱら発表してきた。不案内な銀座で発表する最初がその画廊という事になる。営団地下鉄有楽町線銀座一丁目駅から、名鉄メルサ/東京セントラル美術館の脇の道を東に歩いて昭和通りに出て右に曲がる。銀座2丁目の「喫茶室ルノアール 銀座昭和通り店」に隣接するビルの1階にその「コバヤシ画廊」はあった。狭隘な通路を奥に入る。

搬出・搬入の日ではなかったから、画廊では個展が開かれている最中だった。神田では見掛けない名前の作家だった。神田の美術の相対的に「ソリッド(solid)」な──物理的な意味ではなく「コンストラクティブ」な)──世界に比べると、「ホロー(hollow)」(中空)な作品である事が印象的だった。

目的は下見だったから、その作品に背を向けたまま、作家がいない事を良い事に、そのグループ展の企画者とああだこうだと場所取りの協議を重ねた。「後の打ち合わせはルノアールで」となり展示室を後にするものの、画廊にいる間「中空」なそれから何かがずっと聞こえていた気がしていた。それが何なのかが気掛かりになり、「横田ビル」を出る前に今一度作家の名前を確認する。「前本彰子」というのがそれだった。

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【紀行】2026

土曜日の銀座通りは歩行者天国だった。インバウンドを含めたエトランジェばかりの路上には、何処にも暗さが影を落としていないように見える。しかし一旦この人達がそれぞれのホームグラウンドに戻った時、それぞれの形で暗さが頭をもたげるのだろう。その暗さがどこから来るものかはそれこそ人それぞれだろうが、確実にそれはどこかでマクロな世界と構造的に繋がっているものである。「ブラジルの1匹の蝶の羽ばたきはテキサスで竜巻を引き起こすか?」という問いがバタフライ・エフェクトの始まりだが、その方向性を逆にすれば「テキサスの竜巻はブラジルの1匹の蝶の羽ばたきに影響を及ぼすか?」という事になる。そしてその答えは Yes だ。

昭和通り沿いにあった「コバヤシ画廊」が現在地に移転して40余年になる。その「ヤマトビルB1」で自らの個展を行って(注1)からも同じ時間が過ぎている。そして「前本彰子」という名前を知ってからもほぼ同じ様な年月が経っている。この40余年の間に、松屋デパートを別にして銀座3丁目の現「コバヤシ画廊」の周囲の店は殆ど入れ替わっている。この築古のビルの1階ですら、数十年に渡って残り続けたテナントは一つとして無い。このビルの階上にあった画廊も今は無くなっている。その様に新陳代謝が激烈な商業地に40余年の画廊である。時に自作を伴いつつ幾度となく昇り降りした階段を下っていく

(注1)1980年代から1990年代に掛けての「コバヤシ画廊」は、画廊空間を半分に仕切って2つ(時に3つ)の展覧会を同時開催するという事が多かった。同画廊での最初の個展(1985年)は、入口から見てその右半分の部屋で行われた。

折れ曲がった階段(注2)を降りると「芳名帳」が置かれている。そこに今回の前本彰子の個展「月読 ー 明けない夜」のDMが置かれている。そこではたと気付く。これはあの40数年前の昭和通り沿いの展覧会場に「聞こえていた何か」の回答ではないのか。

(注2)それはまた「大作」の搬入に苦労するという事を意味する。そこでは狭い交差点を大型バスが曲がる様な「技術」が要求されるのだ。

この黒バックに「中空」のドレスと文字列が配置されたDMで想起されたのは、萩尾望都や大島弓子等が開発した、マンガの所謂「モノローグ」表現である。戯れに脳内で、黒字に白文字を多用した萩尾望都の手法で、眼前の作品に今回のステートメントを重ねてみる。

月読 ー 明けない夜

もう長いあいだ世界は深い闇と悲しみの中
みなが非力の裾を引き摺り歩く

とはいえ夜明けがまだ来なくとも、私たちは月を見ることはできましょう
どんな暗闇の中にでもなにか輝くものはあり、ほんのり灯る光はある
幾重の絶望と暗闇の中にも一瞬煌めく時はある

闇に呑まれず微かな光に目を凝らし、自分の瞳も猫の目よろしく輝かせればよい
それぞれが光るものになればよい

今宵は私が月になる

「中空」のドレスから感じられる「声」。「前本彰子」は常にオーディブルなのだ。1983年にも存在していたその「声」は、一義的には「私はここにいる」という自己存在の主張だ。1980年代段階の日本で「私はここにいる」をベースにした表現は少なかったし、事実上今でもそれは多くはない。しばしば「美術」では「私はここにいる」を作品で表明する事が「下位」のものとされてきたという事もあるだろう。寧ろ自らの「声」ではなく、もっともらしい「借り物」の「語」──例えば「美術史」や「美学」──を操る方が「上位」的な振る舞いだとされてきたところがある。

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「前本彰子」に惹かれ言及するのは圧倒的に「女」が多い。(注3)「男」が全くいない訳では無いが、恐らくそれは「女」が書くものとは根本的にどこか異なっていて、どこか決定的なところで「芯」を外してしまう(注4)。あるいは初めから「男」である者には「無縁」のものとして、「前本彰子」について興味を示す事をせず、寧ろ自分が「前本彰子」に興味を持たない事自体に過剰な意味を持たせたりする。

(注3)「前本彰子」の「店」である「ストロベリー・スーパーソニック」(東京都杉並区高円寺南3丁目60−1)の客の「男・女」比もまた同様である。

(注4)従ってこの文章も「『芯』を食っていない」可能性が大いにある。

些かの遠回りをする。

単純な図像レベルで言えば「前本彰子」の「中空」のドレスに、アンゼルム・キーファーの「中空」のドレスを重ねて見てしまう「向き」も皆無ではないだろう。ここに上げた画像は、2025年3月31日(月)~ 6月22日(日)に掛けて京都二条城の二の丸御殿台所、御清所等で行われた「アンゼルム・キーファー:ソラリス」展からのものだ。同展には都合7点(台所に3点、中庭に4点)程の「中空」のドレスが出品されていたと記憶する。

このキーファーの「中空」のドレスから「私はここにいる」の「声」が聞こえるかといえばそれは No だ。キーファーのドレスはキーファー作品の為の「動員」的な位置にある。もう少し踏み込んで言えば、それは「男」(キーファー)による「道具」としての「女」なのである。あらかじめ「声」を奪われ、その「声」が発せられていた筈の「頭」や「顔」が存在したところに「男」(キーファー)の「おもちゃ」──「天秤」、「二重螺旋」、「天球儀」等々──が「挿入される」だけの「ヴォイド」(「穴」)が、この「中空」のドレスなのだ。

そのキーファーの京都の展覧会が「ソラリス」(“SOLARIS”=太陽)と題されていた事に象徴的な様に、彼はどこまでも「アポロン」(“Apollōn"=男性神=秩序=統治=支配)側の人なのである。「ナチスの記憶」──「良き『父性原理』」の崩壊──を自らの制作に於いて最大限政治利用したアンゼルム・キーファーのドレスの「女」は「太陽」=「男」に利用されるだけの存在だ。

一方で日本では「太陽神」は「アマテラス」(天照大神)の女性神であり、且つ「皇祖神」とされている。明治以前には「国学者」レベル以外では解読不可能だった、渡来文化の文字(漢字等)によって8世紀に成立した書である「記紀」(注5)を、「国民」全体のものとしての「正史」として「再設定」して最大限に政治利用したのが明治以来の「男」達であり、以後「父性」的な近代日本の統治は完成してきた。現在各所で麗々しく掲げられている「天照大御神」の額が最終的に示しているのは「女」ではなく「男」であり、従って明治以降の「日本神話」は「『男』の世界」(注6)のものである。

(注5)「古事記」と「日本書紀」の成立年はわずか数年と言われている。その数年の間に、特に「神々の誕生」の経緯、神格が大幅にぶれているのは何故か。「古事記」では「ツクヨミ」は「イザナギ」(「男」)の「身体」から発生した「三貴神」の一人とされ、一方「日本書紀」では「イザナギ」と「イザナミ」の「婚姻」によるものである事を匂わせていたり(神代紀第五段)、「男」の「持ち物」(白銅鏡)から発生したもの(異伝)であったりと今ひとつはっきりしない。その「口伝」を編集する際に発生する「はっきりしなさ」こそが、「記紀」という「政治的産物」としての「書」(スクリプト)に見られるのである。

(注6)参考:拙ブログ「アンチ・アクション」では「男の世界」について書いている。
https://murrari.hatenablog.com/entry/20260509/1778294413

今回の「前本彰子」の展覧会タイトルには「月神」、及び「農耕神」である「月読」が召喚されていた。「月読=月讀」(ツキヨミ/ツクヨミ)は、「漢字」(「男」文化)で書かれた「記紀」的には「太陽神」である「天照大神」程には言及がされず重要視されていない神だ。「ツキヨミ」を祀る社も存在はするものの、それは「太陽神」(「天照大神」)の社に「従属」(注7)する扱いである。「アマテラス」が「天」や「高天原」、即ち “universe"(宇宙全体)を司る権限を持つ神であるのに対し、「ツクヨミ」は “universe" の外部である「夜の世界」を任されたに「過ぎない」神なのだ。或る意味でそれは「前本彰子」の「出発点」の一つを表してはいないか。「ツクヨミ」の様に、「『男』の世界」から多重に「過ぎない」とされるからこその、外側に向けた「スパイク」(今回の「月読」作品)を有する「私はここにいる」なのではないか。

(注7)例として、伊勢神宮では「外宮別宮」、京都の松尾大社では「摂社」。月読神社は「安産守護の社」ともされ、それはまた「次世代に繋ぐ」=「次世代を作る」である。であればこそそれはまた「再生産」を最上位とする「農耕社会」であるところの「日本」に於ける「農耕神」ともされるのである。

今回の「月読」で「前本彰子」は「大作」を「夜」の世界の者にし、「ツクヨミ」のポジションに自らを重ね合わせる事を宣言した。月の様に、猫の目の様に、微かな光を集め、それを「反射」して「光る」ものとしての。最近の「前本彰子」作品は、小さな社=「神棚」を使用する事も多いが、それは近代日本の「男」社会が最大限に利用するところの、例えば「伊勢神宮」(例)に於ける「本宮」(「男」)的なものではなく、それこそ「ツクヨミ」的なもの(「外宮別宮」や「摂社」)(注8)(注9)を表しているのではないか。

(注8)「伊勢神宮」の「神宮司庁」(明治期に作られた)による「外宮別宮」解説。
https://www.isejingu.or.jp/asset/pdf/download/pamphlet_tsukiyomi_naiku.pdf

(注9)今回「安産守護」、「農耕神」である「ツクヨミ」に自らを重ねた「前本彰子」は、今回のステート文にも見られる様に、常に「次世代」との関係を持とうとする。「ストロベリー・スーパーソニック」の活動もその一環と言えるだろう。

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1989年の「ベルリンの壁」崩壊が、20世紀的な所謂「現代美術」(「西・北・男美術」)(注9)にもたらした「ハルマゲドン」と引き換えに、「私はここにいる」が21世紀の「現代美術」の基底を成すところにまで至っている。即ちそれは「南」的な「私はここにいる」であったり、「民族」的な「私はここにいる」であったり、「社会階級」的な「私はここにいる」であったり、「ジェンダー」的な「私はここにいる」であったりが、今日の「美術」に於ける最優先的な「価値」であるという「ポスト・ベルリンの壁」であり、それはまた「前本彰子」(例)が意味を持ち始める時代という事でもある。

(注9)「西・北・男美術」=東西の西側、南北の北側、男女の男側の美術

「前本彰子」が展示される東京国立近代美術館の「所蔵作品展 MOMATコレクション」は今月(2026年5月)の26日から始まるが、その「第12室」の解説文はこうなっている。

12室 イメージ:内なる力

ここに集められた作品に現れる身体は、断片的であったり、実体がなかったり、どこかうつろです。毛髪を用いて作られた白井美穂の作品、自身の存在や身体への不安や葛藤から生まれた前本彰子の亡霊のようなドレス、男性への恐怖心を克服するために、男性器を増殖させた草間彌生のソフトスカルプチャー。村上早の描く顔のない人間や傷ついた動物は、作家の心の奥底に眠る不安やトラウマとつながっています。意識と無意識、覚醒と眠りのあいだを漂うように横たわるイケムラレイコの少女。ミリアム・カーンの描く輪郭のない難民たちは、帰る場所を失い彷徨いつつ歩みを進めています。これらの作品における身体のイメージは、空虚でありながらも、抑圧や不安、痛みや恐怖を受け入れながら生きようとする内に秘めた力を感じさせます。また、ビル・ヴィオラの映像作品《映り込む池》では、時間の経過と共に男性の身体が画面から消えていきますが、その消失によってこそ、映像に力強い緊張感が生まれています。

この東近美の「第12室」(2026年5月26日〜9月13日)にあるのは、いずれも「私はここにいる」の数々と言って良い。事実として「マイノリティ」排除社会である「『男』の世界」の走狗となりがちな「美術館」が言うところの「うつろ」や「空虚」は、それを「エピソード」的なものとしてのみ差し出すしかないのだろうか。その「うつろ」や「空虚」からは「声」が発せられているのだ。

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「男」の視線によるスティグマ(例:「超少女」)から常に遠ざかろうとする「前本彰子」を、どの様に見て(「見ない」を含め)、どの様に「語る」(「語らない」事を含め)べきか。それは直接的には「男」に突きつけられ、また「『男』の世界」に生きる「女」にも突きつけられている。そして「前本彰子」は(も)、その「声」によって「ブラジルの1匹の蝶の羽ばたきがテキサスで竜巻を引き起こす」事を信じる者なのである。

「アンチ・アクション」

【紀行】

1910年の開業(箕面有馬電気軌道)時からの「伝統」であるとされている「マルーンカラー」の阪急電車(京都線ー神戸線)に乗り、兵庫県立美術館まで「アンチ・アクション」展を見に行く。

同じ「本州」内ではあるものの、それでも当方の居住地から豊田市美術館までは片道14,000円弱(新幹線利用)で4時間弱、東京国立近代美術館までもほぼ同額の交通費(新幹線利用)で同じ様な時間が掛かる。それぞれの美術館に行くだけで「一日仕事」だ。今回片道540円で徒歩も含めて1時間半の兵庫県立美術館にこの展覧会が巡回したので「これ幸い」的に赴いた。

館が違えば、多かれ少なかれ展覧会の「見え」の印象が異なるものになる──出品作の異同もある──という事を重要視する「美術」な向きもいるにはいるが、少なくともこの展覧会に関して当方はそうしたものの見方には一義的に与しない。個々の美術館学芸員の「キュレーション」に於ける御苦労と御工夫を見るよりも重要視するべきは他にある。それは「作品」の中に入り、作品内の「ゲーム」の「規則」と「文法」、それを可能にする諸「条件」に分析的に「参加」する事だ。

当初の予定では東京国立近代美術館の巡回展が2月8日までに終わり、兵庫県立美術館の巡回展は2月28日からの予定だったものの、そこから1か月弱後の3月25日からの会期(〜5月6日)に変更された。その数十日の開始日の遅れとそれによる会期の大幅短縮についての説明は公式にはされていない。

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阪急京都線大阪梅田行きの「特急」電車は、高架駅である茨木市駅を出た後に、一旦地上のレベルにまで下がる。「HK-69」という駅番号を与えられた茨木市駅の隣の駅は「HK-68」の南茨木駅(注1)だ。阪急電車の頭上を走る大阪モノレールとの乗換駅という交通の要衝ではあるものの、阪急電車の「特急」はこの駅を通過する。

(注1)2018年6月18日に発生した「大阪府北部地震」で、震度6を記録した茨木市にある同駅は、駅舎が損壊し一時全列車通過となった。

その南茨木駅前には、茨木市出身であるヤノベケンジの巨大な像(「サン・チャイルド(No.3)」:全長6.2メートル、重量約800キログラム)が「恒久」設置されている。南茨木駅を高速で通過する阪急の「特急」からは、ごく一瞬その存在を目に止める事が可能だ。

この巨大な「パブリック・アート」を、「アンチ・アクション」展への旅程の最初に目撃したというのは、或る意味でそれへと至る「前章」に当たるのではないかと思ったりもした。というのも、「パブリック・アート」に於ける「パブリック」の条件は、「アンチ・アクション」で「対項」(暫定)的な「問題」として設定されている「アクション」──「男性性」としての──とも接続するからだ。そして「男性性」の発現となるしかない「パブリック・アート」(注2)の中にあっても、取り分けこの「巨大」に「建って」/「勃って」いる像(注3)は「『男』の子向けのおもちゃ」的なモチーフに溢れたものである。

(注2)「パブリック」は政治哲学的には「中立」的で「普遍」的な領域として語られる。しかし「公共圏」は、実際には女性やプロレタリアートや移民や植民地の人間を排除して成立してきた「ホモソーシャル」である。「公共性」=「誰にでも開かれている」という理念それ自体が、実際には「特定の主体」(=近代ブルジョワ男性)の視点を無理矢理に普遍化したものだ。「パブリック・アート」の「パブリック」とは些かも中立的なものではなく、既にジェンダー化された政治空間である。特に「パブリック・アート」が「巨大」(/「誇大」)な形で「公共」の「前」に「求心性」(英雄性)を伴って現れているものであればある程、その「男性性」の傾向は輪を掛けて強くなる。

(注3)「上から見守る像」「像の下にいる人々を包摂する」「危機から『守る』主体」を象徴するという時点で、「サン・チャイルド」は「危険を制御し、人々を守る主体」という男性的自己像と親和的な位置にある。即ち、典型的な父性的・保護的主体の象徴的表現が、「サン・チャイルド」という、「批判」の対象外とされる「子ども」の意匠を纏った「男」そのものの像なのである。南茨木の個体とは別個体の、右手に「岡本太郎」を持つ「サン・チャイルド(No.1)」が、福島市の「子育て支援施設」である「こむこむ館」で「炎上」(2018年)したのも、それが「男」剥き出しの「巨大」な「子ども」の姿であった事が原因の一つなのではないか(マケット公開段階では「炎上」しなかったという)。

https://bijutsutecho.com/magazine/news/headline/18353

十三駅(HK-03)(注4)で、阪急京都線よりも車両の幅が数十ミリ狭くなる阪急神戸線に乗り換え(注5)、兵庫県立美術館の阪急電車での最寄り駅(注6)である王子公園駅(HK-14)を目指す。

(注4)十三(じゅうそう)を歌った最も有名な楽曲が、藤田まことが作詞作曲し自らも歌う「十三の夜」(1971年)だ。1番の歌詞が、阪急神戸線/宝塚線/京都線を歌い、2番が宝塚線、3番が神戸線という「各駅停車阪急電車の旅」的な「御当地ソング」である。「藤田まこと」という関西を「代表」する「庶民派」の俳優・歌手が歌う、関西ローカルの「情緒」を歌った同楽曲内で印象的にリフレインされるのは、「十三のねえちゃん(娘ちゃん)」──しばしば曲タイトルと誤認される──である。

関西地方の「日常会話」で多用される「ねえちゃん」は、一見「庶民」的な親称に見えるものの、実際には──「庶民」的であるが故に──極めて強い社会的非対称性に基づく語である。即ち関西で言われるところの「ねえちゃん」は、「男性」から「女性」──そこに事実的な「売買」関係に於ける非対称性も加わる──への一方的呼び掛けとして使用される事が多く(「女性」から発せられる際は、多くは「ねえちゃん」に「お」が付く「おねえちゃん」である)、目の前にいる一人の他者を年齢・社会的地位を曖昧化しつつ「男」の側から「名を奪われた若い女性」として括るものだ。

藤田まことという関西の「男」の「庶民派」を「代表」する人物の楽曲に於ける「十三のねえちゃん」という称呼には、女性を個別人格ではなく類型化し(ジェンダー)、自らを保護的主体にする親しさ──マンスプレイニング的「優しさ」を伴う──の形で相手に対する敬意を剥奪し(言語)、「十三」という地名から女性の職業を聞く者に推定させ(職業ステレオタイプ)、労働を性的・情緒的サービスに還元し(身体化)、飲食業・接待業に対する階級的ラベリングを伴い(クラス)、「ノスタルジー」や「(庶民的)情緒」によって批判を回避する(文化装置)という、「昭和」の「人権」感覚が煮詰められた楽曲でもあると言えるだろう。その楽曲をクリエイト/パフォームする藤田まことによって広められた「十三の夜」は、音盤や放送やカラオケの形で「庶民」(「男」)の世界観を強化する。

今回の「アンチ・アクション」展の「学術協力者」である中嶋泉が学んだリーズ大学(英:University of Leeds)で教鞭を執っていたグリゼルダ・ポロックは、その著書 ”Vision and Difference: Feminity Feminism and the History of Art" (1988。邦訳:「視線と差異:フェミニズムで読む美術史」)で、「印象派」の作家がモチーフとした「エリア」の、作家の男女別の「地図」(GRID)を提出している。

印象派の「男」の作家(巨匠:Old Master。”Old Mistresses" の対概念)による作品、例えばエドゥアール・マネの「高級娼婦」が描かれた「オランピア」や「フォリー・ベルジェールのバー」、エドガー・ドガの「舞台裏の踊り子」(パリ・オペラ座の定期会員の「男」=アボネ:abonné──ドガもその一人だった──が「踊り子」に「今夜」の「愛人」になる事をしきりに持ち掛けている)等を例に、そうした「女買い」をベースとした「男」の空間(「公」的な場、乃至は「公」的な場と「私」的な場からの避難所としての「堕ちた女(Fallen woman)」の場。「夜の公共空間」)と、「女」の空間(ベルト・モリゾやメアリー・カサットが描いた様な「レディー(Ladies)」の場)というブルジョワジー的な多重的非対称性は、世紀を跨いで極東の「庶民派」の藤田まことで変奏されたのである。

印象派のそれらの絵が、事実上鑑賞者を男性と想定していたとすれば、藤田まこともまた自らの楽曲の聴取者をその様なものとして想定していたのだろう。

(注5)阪急電鉄に京都ー神戸への直通路線が存在せず、十三(或いは大阪梅田)でスイッチバックの様に折れ曲がっているのは、それぞれの路線の前身が別会社──神戸線・宝塚線=神宝線は「箕面有馬電気軌道」→「阪神急行電鉄」(「創業」者「小林一三」の「直系」路線)、京都線は「傍系」/「外様」の「新京阪鉄道」──であった事に主による。両路線の軌間は同じ1,435 mmの標準軌だが、車両規格が異なる為に京都線車両と神戸線車両の相互乗り入れは出来ない(幅狭規格の神宝線車両を京都線で走らせる事は可能。例:神宝線車両である7000系使用の京都線「雅洛」)。因みに東京の京王電鉄の京王線(系統)と井の頭線も同様の来歴を持つものの、阪急とは異なり軌間も異なる(京王線1,372mm=馬車軌間、井の頭線1,067mm=狭軌)。

(注6)鉄道駅で兵庫県立美術館へ最も近いのは、阪神電鉄の「岩屋」駅(HS-30)である。続いてJRの「灘」駅(JR-A60)が近く、阪急線の「王子公園」駅(HK-14)は同美術館から最も遠い。

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在来線の中では六甲の山並みに最も近い(=標高が高い)阪急神戸線の「王子公園駅」を降りる。JRの跨線橋(灘橋:通称「灘のタカバシ」)経由で海側に降りていくコースを選択する。

やがてJR灘駅前に到着すると、「灘の森テラス」と名付けられた駅前広場に「パブリック・アート」が7点程(2026年4月現在:昨年度は9点だったという)インストールされている。ここは神戸市立王子動物園から兵庫県立美術館までの「道」(途中JR灘駅構内を通る)、「ミュージアムロード」(2010年〜)(注7)の中間地点に当たるらしい。

(注7)「平成22年4月、蓑豊氏が兵庫県立美術館館長に就任した。蓑氏は金沢21世紀美術館で金沢新駅舎と美術館を結ぶ道を「ミュージアムアベニュー」としてパブリックアートを設置するなどの取り組みをされていた。これは美術館には『無料ゾーン』というものが大切であるという考え方に基づくもので、蓑氏はこの考え方を兵庫県立美術館でも取り入れたいと思い、兵庫県立美術館から神戸市立王子動物園までの道路を『ミュージアムロード』にしてもらいたいと考えた。」
兵庫県立美術館~神戸市立王子動物園エリアにおける 「ミュージアムロード」整備と活性化の取組み :都市活力研究所
http://www.urban-ii.or.jp/kou2/_pdf/UII_letter_19.pdf

因みに金沢の「アベニュー」の実際の呼称は「ミュージアムアベニュー」ではなく「金沢アートアベニュー」である。

兵庫県の説明によれば、「灘の森テラス」は「①神戸市ゆかりの若手作家の発表機会の創出・②六甲ミーツアート作品・作者の紹介」というものである。それぞれのアーティストは、行政の手を借りてそこを通行する市民に対して自作を披露する。その中には「市民」に対する「啓蒙」の心根を有している者もいるだろう。

この日の幾つかの「パブリック・アート」には、空缶等が「インストール」されていた。それは現実的な市民(「路傍」)からの「パブリック・アート」に対する「応答」の一つではある。市民社会的な理念的「公共」(ユルゲン・ハーバマス的な)である以前に、群衆管理の対象(ミシェル・フーコー的な)としての「公衆」(crowd/population)(注8)の場所なのだから、或る意味でこうなるのは致し方のない事だ。「歴史の超越」を発明したブルジョワ階級(財産を持つ/教養を持つ/男性である)が是とする「パブリック・アート」は、「『公共』空間の芸術」を謳いながら、実際にはそこを行き交う「公衆」の景観管理の「統治」装置である(同時に「公衆」を作品の「景色」の一部にする)。その「公衆」管理(衛生管理/人口管理/都市管理)とその尖兵である「パブリック・アート」に抵抗する、「統治」技術としての「公共」概念との反りが合わない「公衆」による一つの形が、飲料の空容器を「傍らに置く」(「供える」)という儀式的な振る舞い──物理的破壊行為に至らない──であるとも言える。そして些か「物語」として「完成」され(過ぎ)ているとも思えるのは、この駅前広場にインストールされた「パブリック・アート」作品の一つのタイトルが、「空瓶」(「空瓶 sky bottle - Kobe -」)というところにある。「統治」としての「空瓶」の脇に、「抵抗」としての「空瓶」だ。

(注8)例えば「公衆トイレ」は “Public Tolet" の日本語訳である。“Public Art" を「公共アート」ではなく「公衆アート」と訳してみれば、より「生政治」的な実情に即したものになる。因みにハングルでも「公衆トイレ」には「공중」(公衆)、「パブリック・アート」には「공공」(公共)の使い分けがされている。中国語はどちらも「公共」だ。

2023年に大学を卒業した「若手作家」の、卒業年制作の FRP 作品の貼り合わせ部分の現状はこうなっていた。黒カビすら生えていたりする。「展示期間」は2027年3月まで。「統治」の側にその身を置く事を欲する者(作家含む)は、こうした姿を「公衆」に晒してはならないのではないか。ここには「FRP のプロ」──車のエアロパーツを作ったり、船体を作ったり、ユニットバスを作ったり──も「公衆」として通るのだ。

この駅前広場から海側に真っ直ぐ(実際には緩い逆S字)下っていく「ミュージアムロード」(「灘駅前線」)の先に、建物の上に派手な「カエル」を乗せている兵庫県立美術館が見える。

「灘の森テラス」から100メートル程下った阪神線の岩屋駅前には松永勉の「風舞」が設置されている。制作年は1990年(1995年の「阪神・淡路大震災」以前:「第12回神戸須磨離宮公園現代彫刻展」入選作)(注9)で、「阪神・淡路大震災」からの「文化の復興」を謳う「ミュージアムロード」でも、古参/古層の「パブリック・アート」である。そしてそれに敗けじと駅舎も「アート」を着用している。

「ミュージアムロード」のバナー・フラッグにも使用されたこのカラーリングは、2011年に美術館の上にインストールされた「カエル」のそれを反復しているという。2013年までは極めて地味だったこの駅舎に、翌年から次第にこの「カラー装飾」が施され、2015年に現在の状態になった。この「風舞」の前で、2010年12月18日に「ミュージアムロード命名式典」が行われ、その際に安藤忠雄が神戸市に寄贈した50本のコブシの内の1本の植樹が、建築家本人の「御手植」の儀式によって行われている。

(注9)「神戸須磨離宮公園現代彫刻展」の第1回目(1968年)には、関根伸夫が「位相‐大地」を出している。

歩道橋で片道6車線の国道2号線を渡ると、次なる「パブリック・アート」の出現だ。「HAT神戸・灘の浜ファニチャーアート」という市営・県営住宅区を含むこの一帯は、北川フラムがディレクションに関わっているとの事だ。「ファーレ立川」な感じが「ぽい」と言える。

その薄汚れた表示版──「統治」の「サスティナビリティ」には興味が無さそうだ──から数十メートル海側に歩いていくと、「舟形をしたサヤエンドウの天蓋に、港や工業地域という神戸の地域性を踏まえた、機械産業の時代とバイオテクノロジーの融合を象徴した」という、椿昇の "PEASE CRACKER" の「巨大」が歩道の中央にインストールされている。点字ブロックを頼りにする者が、この緑色のビーンズに躓きはしないだろうかとハラハラしてしまう。

その「お披露目式」(2014年3月29日)で、作家は「作品を見て感じることは人それぞれ。色んな考え方を問うものとして、この作品を設置しました。」と語っている。この「問う」の主語は「誰」に帰するものになるのだろうか。また「作品の下にはベンチもあり、背もたれもある。日よけにもなるので、ベンチに座って休んだり、歓談していただければ。」とも語っているが、その弁は2025年の「大阪・関西万博」に於ける藤本壮介の「大屋根リング」への批判を躱す方法論としてリフレインされている。

この作品を含め、「ミュージアムロード」に設置されている「巨大」な「パブリック・アート」の作者は事実上ほぼ100%「男」だ。そしてそのインストールは、これもまた事実として「土建」の手を借りる事が必要十分条件になる。コンクリートミキサー、クレーン、フォークリフト、ジャックハンマー、ランマー、ホイールバロウ(ネコ)等(注10)を操作するヘルメット装着の「男」達──これらの作業への「女」の進出は、現在に至るも事実上皆無──が集結する「男」の「労働」の「現場」の存在がここにある(注11)。「巨大」を欲する「男」の「アーティスト」は、「男」の「労働」の頂点に君臨し、オーケストラのマエストロ(「師」「巨匠」)の如く振る舞い、彼等(「労働者諸君」)に「指示」を出す。そしてその設置決定にも、行政等の多くの「男」が関わるのだ。

(注10)それらの重機や工機の「スケールモデル」は、「『男』の子向けのおもちゃ」の定番でもある。

(注11)ジュリア・ブライアン = ウィルソン(Julia Bryan-Wilson)著の「アートワーカーズ 制作と労働をめぐる芸術家たちの社会実践」(フィルムアート社。原題 “Art Workers: Radical Practice in the Vietnam War Era" )には、ロバート・モリスが自らフォークリフトを操作して、自らの「巨大」作品を「搬入」する「マッチョ」な写真が掲載されている。ここで言われている「ベトナム戦争時代」に唱えられた「芸術労働者」の「労働」もまた、「土建」に直結する「『男』の労働」の事実上の別名だったと言えるだろう。

参考:ロバート・モリスによるフォークリフトによる「搬入」風景。
https://www.interviewmagazine.com/art/the-last-interview-with-sculptor-robert-morris

「公共」に資する「最適解」であると「素朴」/「粗略」に「信憑」──或いは意図的な「公共」と「公衆」の「錯誤」──されている「巨大」の波状攻撃。むせ返る様な「男」の体臭がする「ミュージアムロード」を下っていくと、その「終点」に位置するのが兵庫県立美術館(安藤忠雄=「男」設計)だ。その最上部にインストールされているのが、大阪・道頓堀で太鼓を叩いている「くいだおれ太郎」様の三角帽子を被ったフロレンティン・ホフマン(Florentijn Hofman:「男」)作の、「巨大」なカエルのバルーン彫刻 "Kobe Frog"(通称「美かえる(みかえる)」)(注12)である。「男」のカエルの右前足が、「女」の展覧会の告知看板を隠しているというのも中々に象徴的である。

(注12)オンラインアートプラットフォームである Ocula の "Kobe Frog" の作品/作家紹介ページから。”oddly oversize ‘toy’ that alienate and unsettle through their sheer size and use of materials”(「その巨大なサイズと素材の使い方によって、人々を疎外し、不安にさせる、奇妙なほどに巨大な『おもちゃ』」)。「疎外」と「不安」の「パブリック・アート」という「おもちゃ」(一体「誰」の為の)。
https://ocula.com/art-galleries/whitestone-gallery/artworks/florentijn-hofman/kobe-frog/

この日は、このカエルバルーンの空気圧も低下気味だった。萎み始めた巨大カエルから大量の水滴が落ちている。その落下の直撃を受けない様にと、その真下にはカラーコーンで仕切られた一角があるものの、水滴は容赦なくその外へも降り注いている。確かに「疎外」と「不安」がここにはある。

何処までも続く「ホモソーシャル」としての「『男』の世界」(「マンダム」)(注13)が一旦ここで終わり、水滴の攻撃を躱しつつ「アンチ・アクション」の展示室へと入る。

(注13)因みに化粧品メーカーの「(株)マンダム」("MANDOM":大阪)は、前身の「丹頂株式会社」時代の1970年に「マンダム」という男性向け化粧品を発売。「マッチョ」を売りにした俳優チャールズ・ブロンソンと、アメリカ白人(保守層)の精神的古層の一つである「カントリーミュージック」の歌手ジェリー・ウォレスの楽曲("Lovers Of The World":邦題「マンダム〜男の世界」:日本限定リリース)を起用したテレビCM(演出・監督は大林宣彦)が大いに当たり、資生堂の MG5 のシェアを奪うまでのヒット商品になった事により、翌年の1971年に商号も「丹頂」から「マンダム」に変更した。化粧品「マンダム」の当初のコンセプトは、"MANDOM" = "Man Domain" であり、「男の支配領域/男の領土」を表していた(現在は "Human & Freedom” に変更されている。”Human" を ”MAN" に約めるという伝統的な地雷を踏みながら)。CMを通じてテレビから流されたジェリー・ウォレスの楽曲 ”Lovers Of The World" の歌詞には、こういう下りがある。"Soon the world will be yours for a toy...You're in MANDOM"(もうすぐ、世界はあなたのおもちゃのようになる…あなたは男の支配領域にいる)。

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同展は豊田市美術館を皮切りに、東京国立近代美術館を経て兵庫県立美術館へと巡回してきたものだ。それぞれの館の同展公式サイトから「概要」を引く。

本展は、1950 から60 年代の日本の女性美術家による創作を「アンチ・アクション」というキーワードから見直します。戦後、「アンフォルメル(非定形)」や「アクション・ペインティング」という力強い制作行為で知られた抽象美術が一世を風靡し、数々の女性美術家が台頭しました。しかし、豪快さや勇壮さといった、男性性と親密なアクションが評価の中心になるにつれ、結果的に多くの女性美術家の作品が歴史から見落とされていくこととなります。
本展では『アンチ・アクション』(中嶋泉著、2019 年)のジェンダー研究の観点を足がかりに、草間彌生、田中敦子、福島秀子をはじめとした 14 名の美術家による作品およそ120 点を紹介します。
「彼女たち」の、アクションへの対抗意識と独自の挑戦の軌跡にご注目ください。(豊田市美術館)
https://www.museum.toyota.aichi.jp/exhibition/antiaction

新しい時代を象徴していた女性の美術家は、なぜ歴史から姿を消してしまったのか。
1950年代から60年代の日本の女性美術家による創作を「アンチ・アクション」というキーワードから見直します。当時、日本では短期間ながら女性美術家が前衛美術の領域で大きな注目を集めました。これを後押ししたのは、海外から流入した抽象芸術運動「アンフォルメル」と、それに応じる批評言説でした。しかし、次いで「アクション・ペインティング」という様式概念が導入されると、女性美術家たちは如実に批評対象から外されてゆきます。豪快さや力強さといった男性性と親密な「アクション」の概念に男性批評家たちが反応し、伝統的なジェンダー秩序の揺り戻しが生じたのです。本展では『アンチ・アクション』(中嶋泉[本展学術協力者]著、2019年)のジェンダー研究の観点を足がかりに、草間彌生、田中敦子、福島秀子ら14名の作品およそ120点を紹介します。「アクション」の時代に別のかたちで応答した「彼女たち」の独自の挑戦の軌跡にご注目ください。(東京国立近代美術館)
https://www.momat.go.jp/exhibitions/566

戦後まもなく、前衛美術の領域で大きな注目を集めた女性美術家たち。その自由な実験が、十分に目を向けられてこなかったのは何故でしょうか。
当時、女性の活躍を後押ししたのが、海外から流入した抽象芸術運動「アンフォルメル(非定形)」と、それに応じた批評言説でした。しかし、次いで「アクション・ペインティング」が導入され、豪快さや力強さといった男性性に結びつきやすい「アクション」が評価の中心となるにつれて、結果的に多くの女性美術家の作品が見落とされてゆくことになりました。
本展では『アンチ・アクション』(中嶋泉[本展学術協力者]著、2019年)のジェンダー研究の観点を足がかりに、1950-60年代の日本の女性美術家による創作活動を見直します。「アクション」の時代に別のかたちで応答し、独自の抽象表現を展開した14名の作品およそ120点を紹介。半世紀以上を経ても驚くほど新鮮な「彼女たち」それぞれの挑戦にご注目ください。(兵庫県立美術館)
https://www.artm.pref.hyogo.jp/exhibition/t_2603/index.html

参考:「いま、女性の美術家たちの表現を見直す意味とは? 「アンチ・アクション 彼女たち、それぞれの応答と挑戦」を企画した3館のキュレーターが語り合う」Tokyo Art Beat
https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/antiaction-interview-202510

それぞれの館の展覧会概要で共通して使用されているのが、全ての最後のセンテンスにあるカッコに括られた「彼女たち」(注13)という「含み」のある表現である。この「彼女たち」とは一体「何者」を指しているのか。

(注13)一方展覧会タイトルの「彼女たち」にはカッコが付されていない。因みに日本語には「彼女たち」という言い回しは存在するが、「彼たち」という表現は一般的ではないし、「彼たち」で括られた展覧会も存在しない。通常は「彼たち」は「男たち」と表現され、例えばNHK「プロジェクトX」(旧)でも「これは〜男たちの物語である」(そこに「女たち」は存在しない)という田口トモロヲによるオープニング・ナレーションでも使用される。「彼女たち」という語の使用に於いても既に非対称性は存在しているのだ。

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対連合国との戦争が終わり、1950年代の初期──特に1952年サンフランシスコ講和条約発効後より──から、最初は劇場映画の形で、そして後にはテレビ番組の形で、「アメリカ」の映像プログラムが日本を席巻する。日本人はその画面を通じて「豊かな生活」のイメージの洪水を浴びる(注14)

(注14)「音楽プロデューサーで評論家の朝妻一郎氏は、1960年代初頭に放映された米ドラマ『陽気なネルソン』の映像が忘れられない。『大きな冷蔵庫の中にある牛乳をごくごく飲む。こっちには冷蔵庫なんてない。アメリカってすげえなって。圧倒された』」
「憧れの米国文化は日常に溶け込み…そして 大滝詠一が見通した未来図」朝日新聞
https://www.asahi.com/articles/AST872CXWT87UPQJ00KM.html

その「豊かさ」は「省力」がもたらすものである。暗い「竈」(例)での「労働」(注15)に社会的にも繋ぎ止められていた「女性」は、戦勝国の明るいキッチンで、「労働」の「省力」(効率化)が「電気」等のインフラによって徹底的に行われている様を目の当たりにする。「電化製品」を蝶板にして、そのテレビ画面に登場する男女は相対的に「対等」な関係にある様に見える。「省力」は自分達が置かれた境遇を、下部構造から改善させてくれるのではないか。性差による「労働」の非対称性は「省力」によって相対的に解消され、自らのエンパワーメントを獲得出来るのではないかという幻想も生まれたりする。実際「電気」の普及は、現在の「グローバルサウス」(「戦前」の日本含む)諸国に於いては、「女子の勉学時間増加」や「小規模起業の可能性拡大」にダイレクトに繋がるという事実は存在する。

(注15)前述「アートワーカーズ」の可視的「労働」からも、それは不可視のものとして疎外されている。

この「豊かさ」を見せ付けるというのは、最大の戦勝国であるアメリカ政府(世界に於ける父権として振る舞う)による政治的なプロパガンダという側面が大いにあるのは事実だ。それらは対外的文化交流や対米理解促進(パブリック・ディプロマシー)の一環であり(「フルブライト・プログラム」もその一つ)、或いは「対日心理戦略計画」(Psychological Strategy Board: PSB、通称「PSB D-27」など)の様な「工作」を以て成されたものであるというのも一概に否定は出来ない。

いずれにしても「省力」は「女性」の身体的負担を減らし、余剰の「時間」を生み(再配分)、「自由」を広げるという「解放」的「美点」を持っていたものの、その一方で「効率」化による「家事」の新しい「規範」を作り(「効率的に家庭を運営する「母」/「妻」像の完成)、不可視の「労働」(再生産労働)の維持、そしてそれらの「テクノロジー」によって家父長制がヴァージョン・アップされ、格差が再生産されるという両義性の中にある。

田中敦子(例)が、自らのライト・モティーフとなった「電気」や人工的に合成された「新素材」の「向こう側」に見ていたものは果たして何だったのだろうか。

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展覧会場で得られる「出品リスト」を見る(注16)。赤穴佳子を除き、同展は「美術館」からの「貸出」(或いは自館「所蔵」)作品が多い。従ってこの展覧会の「骨格」としては「美術館」の「眼鏡に適った」作品、「美術館」の価値観が多かれ少なかれ主導的に反映する形になっている。

(注16)同時に入手出来る「子ども」向けの「みんなの鑑賞ガイド」(ルビ付き)という「ペラ」の冒頭にはこう書かれている。

「この展覧会で紹介する14人の作者は、今から100年ぐらい前に生まれました。歌手の美空ひばり(1937 - 1989)さんは知っていますか?ひばりさんと近い世代です。」

この生年部分の「1937」は「1923」から訂正シールで修正されたものだ。その「早合点」の結果、「美空ひばり」を「100年ぐらい前に生まれました」のバスケットに入れ、「アンチ・アクション」の作家達と一回り以上の差があるにもかかわらず「近い世代」とする無惨な文章が誕生してしまったのである。また「ルビが必要とされる」と想定される世代(2026年段階に於ける平成最後期生まれから令和初期生まれ)への問い掛けに、その彼等が生まれた約30年前に没した「美空ひばり」が何故に唐突に挿入されるのかの理由は、文面からは読み取れない。

或る作品が「美術館」収蔵に至らしめられる条件の最大のものは「正典」的「評価」である。その多くは「美術館」の外部に於ける「評価」がベースであり、それが「市場」であったり「報道」であったり「評論」であったり「学術」であったり等々ではあるものの、いずれにしても「美術館」は常にそうした「世評」から「遅れ」るしかない(特に「公立」館の場合)(注17)。時には余りにも「遅れ」過ぎるという事もある(注18)。中嶋泉の「アンチ・アクション」でも、同展カタログや会場で集めて完成する「アンチ・アクション別冊」でも、「批評」を含めた「美術」界の「男性性」が批判対象になっているが(注19)、「美術館」もまたそれに「ライド」してきた/或いは「主犯」格の側にある事は否めない。従って「彼女たち」が「不可視」の「周縁」的存在になってしまった事に対して、「美術館」は決して「無罪」ではない。しかし「遅れ」はまた「やり直し」の機会を得られるものではある。

(注17)「アンチ・アクション」展カタログの、中嶋泉がグリゼルダ・ポロックに行ったオンライン・インタビュー「作品は『何をしているのか』」中のポロックの発言から。

「大局的には、依然として排除が支配的です。そのため、フェミニズム美術史は、一部の作家を称賛し、それ以外を無視する金融化されたアート界に働きかけなければなりません。美術制度もまたこの論理を繰り返し、マーケットに承認された作家の回顧展を開催し、女性作家の作品全体の広がりを示すことをしていません。(中略)現代では、多くのアーティストがアート市場の要請に応じ、『売れるブランド』として自己を表現するよう求められています。ギャラリーは認識しやすいスタイルや特徴を販売・収集の基準とし、それが作品内容に対する評価にも直結してしまっています。しかし、観衆が芸術における多様な思考を目にすることができなければ、何が失われるのでしょうか。」
”The larger pattern remains exclusionary. That's why feminist art historians must address the art world's financialization, which celebrates a few and ignores the rest. (...) Today, many artists are forced by the conditions of the art market to present themselves as saleable ”brands," with galleries demanding a recognizable style or gambit as the selling and collecting point. But we must ask: What happens to the public if they're not shown the full diversity of artistic thinking?"

「アンチ・アクション」公式カタログp.30、p.246

(注18)その際には「再評価」という語が多用されるが、それはまた「今までに我々は『評価』してこなかった/その対象にすらしてこなかった」という言明でもある。

(注19)同書や同展で批判対象とされている(特に)レガシーな評論家の時代に、例えば SNS の様なものがあったとして、場合によってはその敷居の低い「言論」の場に投入される赤裸々な「政治観」や「ジェンダー観」等を、相対的に容易に掴めたかもしれない。

赤穴佳子を除き、同展は「美術館」からの「貸出」(或いは自館「所蔵」)作品が多い。従ってこの展覧会の「骨格」としては「美術館」の「眼鏡に適った」作品、「美術館」の「価値観」が多かれ少なかれ主導的に反映する形になっている。

「公共」を志向する「美術館」が依拠する「正典」的「評価」の一つは「初期作」の重視である。20世紀以降に制作された作品の場合、「美術」の習わし(習俗的エンクロージャー)としてはその作家の「初期作」に「美術史」上「重要な仕事」が多く集まる「仕組み」になっている。公式カタログの「帯」には、東京国立近代美術館の「概要」の「新しい時代を象徴していた女性の美術家は、なぜ歴史から姿を消してしまったのか。」が引用されているが、その「新しい時代を象徴していた」頃は「彼女たち」が20代から30代だった「キャリア初期」である。そして「キャリア初期」に「重要な仕事」を手掛ける事は「市場」のニーズ(習わし)にも合致するのである。

加えてそこには「大作」(グランド・フォーマット)優先/至上主義とも言えるものがある。それもまた「市場」的な価値観から導き出されているものだが、一方でそれは──例えばルーブル美術館の「大作」の回廊に顕著な様に──近代以前の「権力」が好むところの「尾骶骨」的な反映とも言える(注20)。「アンチ・アクション」で言われるところの「アクション」はそうした「大画面」の「大作」を、資本主義的な「市場」という新たな「権力」の場ですっかり条件化し、必ずしも「アクション」とは言えないバーネット・ニューマンやマーク・ロスコ等もこぞって、資本主義大国(注21)である「アメリカン」な「ラージ・スケール」の制作に勤しむ。ロスコが最終的に「大学」内の「宗教施設」(ロスコ・チャペル)という、「公共」概念を超えた「導く者」(父権性)の施設に落ち着いたのは必然だったと言えるだろう。ロスコの前で、「導かれる者」はこれまで以上に「導かれたい者」(「消費者」)に更新されるのである。そして「導かれたい者」は、眼前の画面の中のあらゆる箇所で、実際に何が起きているのかには興味がない。

(注20)例えばジャック=ルイ・ダヴィットの「ナポレオン一世の戴冠式と皇妃ジョセフィーヌの戴冠」(1808年:幅10メートル・高さ6メートル)という歴史画をして近代/近世的「巨大画面」の起点の一つとすれば、それ以降に登場した全ての「巨大画面」の絵画は、「茶番」(”Farce":ヘーゲル/マルクス)としての「ナポレオン三世」(ルイ・ポナパルト)の位置にあると言えるかもしれない。

(注21)少なくとも「ベルリンの壁崩壊」(1989年)までは、「現代美術」は事実上「東西」冷戦下に於ける「西」側世界のものであった。且つそれは「南北」対立の「北」側、即ち「西・北」側の「美術」を意味し、それに加えて「男女」の「男」側のものでもあった。それらを総合すれば、20世紀の、特にWWII以降の「美術」は、「西・北・男美術」であったと言える。

20世紀以降の職業的であらんとするアーティストは、この2つの意味でのパラダイム的な「強迫」に常に苛まれている。「若い」内の成功と「大作」を物す事。美術大学等の「美術」の教育機関が、未だにその「卒業制作」や「修了制作」──それらが「代表作」になる可能性も高い──に於いて、学生に「大作」を「フォーマット」の形で強いるのは「美術史」と「市場」の要請の反復である。そしてその「美術史」と「市場」(言論市場含む)の最終プラントが「美術館」であるとすれば、「美術館」が所蔵するというところで、その2重の「強迫」もまた容易に見て取れるのだ。

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憑依する様に見る。それがいつものやり方だ。展覧会場の初っ端に展示された赤穴佳子の前に立つ時、自分は赤穴佳子に憑依する。草間彌生の前では草間彌生になり、田中敦子の前では田中敦子になる。自分の利き手に仮想の筆を持ち、その制作を反復する。仮想のオイルで仮想の絵具を溶き、仮想のナイフで画面を削り、仮想のスパチュラで仮想の絵具を盛り、仮想の紙片を仮想の絵具の上に貼り、仮想のオイラー(油差し)で仮想の塗料を垂らし描いていく。勿論手順も可能な限りトレースする。そうする事で初めて見えてくるものがある。そこでは作品は「消費」の「対象」ではなく、作者の側に立つ「生産」の「現場」になる。すると自然に眼前のキャンバスの「大きさ」が、「これから(自分だけで)やり遂げなければならない仕事」の「ノルマ」として立ち上がるのである。

相対的に「大作」が多いこの「アンチ・アクション」展に於いて、その多くの「大作」から感じられるのは、制作上の必然がその「大きさ」から疎外されているところにある。外部的要請である「フォーマット」(「ノルマ」)としての「大きさ」が、主観的な価値のヒエラルキーに基づいて進められる様な制作の過程に於いて、常に「上位」的なものとして君臨する。「大きなキャンバス」は制作に於いて常に与件であり、従ってその「大きさ」は制作の果てに決定された「スケール」ではない。即ちここでの「大きさ」もまた「男性性」なのだ。

ここにある多くの作品の中で何が行われているのか。作家たち(敢えてここでは「彼女たち」とは言わない)は、フィジカルな腕の先に装着された筆や絵画用ナイフといったレガシーなインストルメントと技術で画面に立ち向かう。例えば「産業」の人であるアンゼルム・キーファーの様に、フォークリフトの様な重機や建設用プロパン・バーナー等がその「生産」のツールとして選ばれていたら「大きさ」の克服は極めて容易なものだが、一方でここに展示された作品を「自分が自らの腕を使って描いてみれば分かる」様に、それは様々な意味で労働量の多い仕事であり、或る意味で「手抜き」が出来ないものだ。そして「大画面」のマネジメントは、極小自治体の行政マネジメントと大都市のそれとの違いの様に、作家に全く別の思考を要求する。

この会場で、制作の「方法論」(文法)と画面の「大きさ」の乖離が最も大きいのは、アメリカという資本主義大国に渡った(1957年)ものの、自らは「東洋的神秘」を引っ提げた筈が、レイスとジェンダーによって半ば「珍奇」な存在と見られてしまったシアトルの地からより近代のニューヨークに渡り、そこで制作された草間彌生(戦略の達人)の「No. AB.」(1959年)と題された縦210.3センチ、幅414.4センチの「大作」(「無限の網(INFINITY-NETS)」シリーズ:豊田市美術館蔵)だ(撮影禁止)(注22)。その白を基調とした画面全体に「直径」1センチ程度の「網目」がびっしりと埋め込まれている。極めて単純な掛け算「210✕414」に基づけば、その「網目」の数が86,940個という事になる。作家1人だけでこれを描き上げたとして、1日に1,000個網目を作れば87日は掛かり、10,000個作るとしても9日を費やす「労働」/「作業」/「生産」(production)(注23)である。

(注22)「撮影禁止」作品とそうでない作品の差異は、半ばその作家の「成功」の程度と比例しているかの様だ。即ち作家として「消えた」度合いが高い程に撮影が許可される傾向にある。「撮影可」(緩い版権)の作品の画像をアップロードする事は、「消えた」事の追認にもなってしまうだろう。

(注23)「生産」(production)に対し、一次的に対置されるのが「創造」(creation)である。「芸術」は「創造」の所産とされ、造物からの「疎外」である「生産」と区別されるというのが一般的な認識である。しかし「創造」性が資本に包摂される資本主義世界に於いては、「創造」(creation)は、「生産」(production)の外部ではなく、寧ろ高度に商品化された形態として再統合される。

黒く下地が塗られた2メートル✕4メートルの与件を前に、毎日毎日「網目」を施していく(力強く彫り込まれたフリル)(注24)。この作品の所蔵館である豊田市美術館の同作品の解説文には「草間自身の精神の深いところで執拗に発せられるオブセッション(強迫観念)が、ニューヨークの環境によって触発され生まれたものといえるでしょう。」とあるが、「強迫」はそうした「市場」で広く「流通」している、「精神の深いところ」──理性中心の近代に対する対抗的主体として芸術家を神格化──的な「非合理性」/「苦悩と想像の結合」/「例外者=天才」といったロマン主義印の「物語」上のものばかりではなく、「構造」的なものであるというのはこれまでに書いてきたところだ。

(注24)"carved frill or to a massive" 。1959年にニューヨークのブラタ・ギャラリーで開催された草間の個展に対して、ドナルド・ジャッドが「アート・ニュース」(Art News, 58, no. 6, October 1959, p. 17)に書いたレビューから。
https://www.phillips.com/detail/yayoi-kusama/118508

「アンフォルメル」は「物質」性に常に繋ぎ止められる表現である為に「巨大」スケール(「大作」)の作品が少ない。絵具や素材そのものの厚み・抵抗・偶然性が「アンフォルメル」の要諦であるとすれば、それらは身体に近いスケールに於いてこそ成立する感覚に依拠しているものである。その方法論のまま身体スケールを離れて「スケール」化するとどうなるのか。やがて物質の「痕跡」が均質化に向かい、偶然性が「演出」的なものになり、表面がテクスチャーの「反復」に陥る。即ち中小作品に於いて輝く事の出来る方法論は、「イーゼル」のスケールから離れた瞬間にその「条件」の一切合切を奪い取られ、自己疎外的な「労働」/「作業」/「生産」になる。その疎外から逃れるかの様に、ニューマンやロスコは「労働」の割合を極小なものにして調整を図る。即ちそれらは「経営」の絵画なのだ。

「スケール」の要請(「アメリカ型」:"American-Type" :「旧大陸美術」より優れたもの:クレメント・グリーンバーグ、1955)という戦後の「市場」原理(これもまた男性性)を前に、それでも「市場」に受け入れられる事を一義的に選択する作家は、結果的に「美術」の世界で「残る」事になる。草間彌生(例)の様に「網目」の背反(「スケール」と「労働」の背反)的な段階を離れ、自己疎外と引き換えに「スケール」(「市場」の「巨大」含む)を受け入れる。「市場」はそこに「自然が芸術に法則を与える能力」(イマニュエル・カント)という「天才」の衣装を着せ、作家が「成功」し「残る」事を共犯的に補完する。例えば草間のこうした「作品」は、その背反を爽やかなまでに(戦略的に)「克服」したものだろう。最早「網目」(水玉)は、「LV」のモノグラムの如く「産業」化されたのである。

「アンチ・アクション」は、ここに集められた作品以後のそれぞれの作家の「成功」(それに至らなかったものも含め)の有様を見届けるものでもあるのだ。

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「アンチ・アクション」会場に掲示されたキャプション・ボードが極めて「興味深い」。それぞれの作家のそれはこうなっている。

「赤穴宏と結婚」「芥川也寸志と結婚」「堂本尚郎と結婚」「田辺健二と結婚」「白髪一雄と結婚」「東野芳明と結婚」「金山(注:明)と結婚」「磯崎新と結婚」(注25)。ここでもまたG.ポロックが指摘した「公的空間」と「私的空間」の、ジェンダー上の取り扱いの差異が見える。「男」の作家の「ヒストリー」を語る場合、「結婚」(married)という「私的空間」への言及はほぼ割愛され、「業績」という「公的空間」でのトピックばかりが並べられる。他方「女」の作家は見ての通りだ。「美術館」によるこの「公的空間」と「私的空間」の意図的とも言える混交は何を物語るのだろう。そして恐らく、観客の中にはこの「結婚」(「妻」にする事)と言う単語──或いは「引退」の事実──を前にして「安堵」する者もいると思われる。

(注25)江見絹子のところにそれが書かれていないのは、パートナーが「業界人」或いはそれに近い人間ではなく「一般人」だったからか。すると前者との「結婚」は記述するに値し、後者はそうではないという事なのか。

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展覧会の入口にあるこのダイアグラムは、明らかに MoMA 初代館長アルフレッド・バー・Jr. の1933年の「父系」的ダイアグラム(「因」=父と「果」=子を表す矢印の多用)への対抗として掲げられているものだろう。「アンチ・アクション」はその意味で「アンチ・MoMA(美術館)」、そして「アンチ・グリーンバーグ」「アンチ・ローゼンバーグ」であるとも言える。

とは言え、「ツリー」に対抗したこの「ラシーヌ」もまた「実情」の一断面でしかなく、またモデルとしては「美術」のワードで記述され、多次元性を実現する曲線も使用されていないが故に平板ではある。公式カタログの中で G.ポロックは言う。「私は『20世紀の美術家は映画を観ていた』という点を強調してきました。映画の発明は知覚そのものを変えてしまった。1950年代の時点で、私たちはすでに映画、録音技術、ラジオ、飛行機、核兵器、革命といった時代を生きていました。こうした変化のただなかで生まれた芸術をまるでミケランジェロがニューヨークや東京に転生したかのように捉えるのでは、20世紀美術は理解できません。産業化、テクノロジー、移動、通信、民主主義運動、戦争、ジェノサイド──そして現在で言えば気候変動──芸術はこうした現実とつねに交渉しながら生まれてきたのです。」。恐らくこのダイアグラムから「消えて」いる語こそが「彼女たち」の立ち位置、及び関係性を相対的に正確なものにはするだろう。それぞれの「アトリエ」が締め切った核シェルターの様な空間ではなく、情報の「換気」が十分であればそうならざるを得ないのだ。

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「大芸術」でありながらもどこかしら「小芸術」である様な作品群を後にする。相変わらず「巨大」なカエルのおもちゃからは水がバシャバシャと降り注いでいる。嘆息。これからまた阪急電車の駅に向かって「ロード」を辿らねばならない。足取りが重くなるのは「ロード」に点在する「うんざり」故ばかりではなく、単純にだらだらと続く上り坂だからという事もある。

「国際的非暴力展#SUM_MER_2025」

 半年のうちに世相は変った。醜の御楯といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかへりみはせじ。若者達は花と散ったが、同じ彼等が生き残って闇屋となる。ももとせの命ねがはじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送った女達も半年の月日のうちに夫君の位牌にぬかずくことも事務的になるばかりであろうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変ったのではない。人間は元来そういうものであり、変ったのは世相の上皮だけのことだ。(坂口安吾「堕落論」1946年)
https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42620_21407.html

 生々流転、無限なる人間の永遠の未来に対して、我々の一生などは露の命であるにすぎず、その我々が絶対不変の制度だの永遠の幸福を云々し未来に対して約束するなどチョコザイ千万なナンセンスにすぎない。無限又永遠の時間に対して、その人間の進化に対して、恐るべき冒涜ではないか。我々の為しうることは、ただ、少しずつ良くなれということで、人間の堕落の限界も、実は案外、その程度でしか有り得ない。人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない。何物かカラクリにたよって落下をくいとめずにいられなくなるであろう。そのカラクリをつくり、そのカラクリをくずし、そして人間はすすむ。堕落は制度の母胎であり、そのせつない人間の実相を我々は先ず最もきびしく見つめることが必要なだけだ。(坂口安吾「続堕落論」1946年)
https://www.aozora.gr.jp/cards/001095/files/42619_21409.html

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【枕】

イヤミ:今どき「ザンス」?。平成30年に「ザンス」?。
チビ太:あ、あとあれだよ。「おフランス」系のがあるじゃねえか。
イヤミ:花の都パリに憧れてたなんて、いつの時代ザンスか。今ニュースで見るフランスと言えば、政治・経済てんやわんやで大変ザンス。

「おそ松さん」第2期第23話(2018年)

自らのキャラクターとしての存在意義に疑問を感じ、自殺を図るイヤミ──理想的自己像としての「おフランス」を盾に、周囲に対してマウント取りする──にチビ太と六つ子の一人が翻意を求めるシーンである。

赤塚不二夫を一躍メジャー作家にした「おそ松くん」が誕生し、「週刊少年サンデー」に同作が連載開始されたのは1962年の春季だった。その3年半前の1958年10月4日に、現実世界の「おフランス」は、1946年から始まる第四共和政から、大統領権限を強化し議会の影響力を抑制する第五共和制──現在に至る──に移行している。その最初の大統領は、「第五共和政憲法」(“Constitution de la République française")を起草した第二次大戦の「英雄」である「ル・ジェネラル」(le Général)シャルル・ド・ゴールだった。「週刊少年サンデー」の連載を通じて、しばしば「主役」の「六つ子」を食う「脇役」だったイヤミの見ていた「おフランス」は、直接的には大統領専用車シトロエンDS19に乗るド・ゴールのそれだったのだろう。

ド・ゴール政権は “Pour rendre à la France sa grandeur"(“Make France Great Again":「偉大なフランスを取り戻す」)という物語に突き動かされた政体でもある。平成イヤミの言う「政治・経済てんやわんやで大変ザンス」は、数十年の時を隔ててそのまま昭和イヤミが世に出る直前のフランス第四共和政(1946〜1958年)を表していると見る事も可能だ。第二次大戦後のフランスの多党化による内政に於ける政治的不安定と、旧植民地の独立運動──「インドシナ戦争」(注1)と「アルジェリア戦争」──が、「フランスの栄光」を「毀損」していたと見做されたからこその、「フランス国民」の圧倒的支持/熱狂を受けての、ド・ゴールによる第五共和政移行だった。

(注1)第一次インドシナ戦争(1946〜54年)。アメリカが介入した第二次インドシナ戦争(1960〜75年)は一般に「ベトナム戦争」とも呼ばれる。

明治期から第二次大戦前までの第三共和政(1870〜1940年)をベースにした「おフランス」は、フランスの国家的価値が底を打った第二次世界大戦後の第四共和政を挟んで、外形上「フランスの栄光」が「取り戻された」とされた第五共和政のものである。恐らく昭和イヤミの「おフランス」には、第四共和政の環境下で生まれたサルトル(例)もボーボワール(例)も存在しない。

とは言え、2000年代に入ってからの「おフランス」は、その第五共和政──強い大統領と統合的な国民──という統治モデルが、分断と多層的なアイデンティティとの非整合故に、再び不安定さ=「てんやわんや」の中にある。現下の「おフランス」は、大統領制であるが故に避けられない「ポピュリズム」に常に脅かされている。平成(2010年代後半)のイヤミが、自殺を図るに至ったのは、自らのベースであるド・ゴール的な仮構としての「フランスの栄光」を前提にした「おフランス」の「限界」を前にしたからかもしれない。

1ドル=360円時代のイヤミが、果たして実際に「おフランス」に行ったのか否かのエビデンスは作中には無い(注2)。しかし典型的「アジア人」──「吊り目」で「出っ歯」で「硬い直毛」──であるイヤミが「おフランス」に実際に渡っていたとしても、そこではアフリカ系の様な表立った社会的排除はされない一方で、「内部」化的な意味での社会的承認もされないという、「安全な他者」「便利な異邦人」「消える客人」としての位置に常に置かれていたのかもしれず、それが第五共和政になったばかりの「おフランス」から「帰国」し、日本社会の前に現れたイヤミの正体なのかもしれない。

(注2)「ミーはおフランスなんかにいちどもいったことないざんす」とイヤミが言っている回(少年キング版)も存在するものの、それもまた彼のホラなのかもしれない。実際に「おフランス」に行っている(渡お仏)にも関わらず、「いったことない」とホラを吹かねばならないダブルバインド・イヤミという可能性は十分に存在し得る。
「Q: イヤミはフランスで何をしていましたか。」赤塚不二夫公認サイト これでいいのだ!!
https://www.koredeiinoda.net/dousite88/q011.html

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「アンデパンダン」(カタカナ語)というのは、言うまでもなく「おフランス」語である。オリジナルの “Salon des Indépendants"(1884年)の設立は、第二帝政(注3)崩壊、普仏戦争敗北とパリ・コミューンという「敗北と内戦」から生まれた第三共和政の誕生から1ディケイド程後になる。「アンデパンダン」の有名なテーゼである “Sans jury ni récompense"(「審査なし賞なし」)は、国家による価値決定の否定、専門家エリートによる排除の拒否、市民が自ら表現し公開空間に参加する権利という、第三共和政の「自由・平等」──市民共和主義──理念の反復的仮構であったとも言える。

(注3)「ポピュリズム」の政体である第二帝政を活写したカール・マルクスの「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」を参照。「ヘーゲルはどこかで、すべての世界史的な大事件や大人物はいわば二度あらわれる、と言っている。だが、こうつけ加えるのを忘れた。一度は悲劇として、もう一度は茶番として、と。」(“Hegel bemerkt irgendwo, daß alle großen weltgeschichtlichen Tatsachen und Personen sich so zu sagen zweimal ereignen. Er hat vergessen hinzuzufügen: das eine Mal als große Tragödie, das andre Mal als lumpige Farce.“)。初期 “Salon des Indépendants" はその「茶番」に対抗するポジションにこそあったものの、時間の経過とその「理念」故に、早々に「茶番」の側に回ってしまうのである。
カール・マルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」講談社学術文庫:丘沢静也訳
https://www.kodansha.co.jp/book/products/0000327251

「アンデパンダン」はまた、同時代のブルジョワ階級文化と密接に結びついており、寧ろその文化的土壌の上でこそ成立したもの──マルクス的に言えば、生産様式と階級関係の上に成立する歴史的構造──であったという事を忘れてはならない。芸術の「独立」(「アンデパンダン」)は、政治的にも経済的にも「自由市場」(注4)を前提とする市民社会の理想を全面的に反映し、従って制度的に保証されたものだった。即ち「アンデパンダン」は、国家権威(第三共和政)の「否定」ではなく「相対化」というブルジョワ的な政治的スタンスに基づいており、従って「革命」ではなく「公開に最適化された異議」であり、統治への「服従」ではないものの「制度内対抗」ではあった。即ちそれは、政体(第三共和制)の理念的スポークスマン(注5)でもあったのである。

(注4)これが「アンデパンダン」の本質的変質(商業化)を促す事になる。「アンデパンダン」は、自らを「美術市場」に於ける「商品」であるとする「自由市場」への「ローコスト/ローリスク」な道を開き、仮に出品作そのものが「商品」とはならなくても、自らの「名を売る」という意味での「宣伝/広告」的イベントへと堕するのである。

(注5)“Salon des indépendants" 自体は第三共和政の政体から全面弾圧されない一方で、公式制度になるまでには至らないものだった。その「飼育された自由」(飼い主──体制──に噛み付く事は無い)的な「微妙」なポジション(ブルジョワ体制の「ペット」)こそが「アンデパンダン」の宿痾であり定位なのである。

本家「アンデパンダン」から四半世紀ほど経って──本家「アンデパンダン」が社会的意味を失ってから──、アメリカ・ニューヨークで「ニューヨーク・アンデパンダン」運動が盛んになる。その代表的なものは、1910年の「インディペンデント・アーティスツ展」(“Independent Artists Exhibition")や1913年の「アーモリー・ショー」(“Armory Show")(注5)、或いは1917年の「ニューヨーク・アンデパンダン(通称)」(“Society of Independent Artists")(注6)である。

(注5)現在では「おフランス」(「旧大陸」/「先進」)のマルセル・デュシャンが、「階段を降りる裸体 No.2」を「新大陸」/「後進」の展覧会に出品したという事で専ら「知られる」。

(注6)現在ではリチャード・マット(マルセル・デュシャン)が「泉」(乃至は「噴水」:“Fontain”)を出品したという事で専ら「知られる」。そして企画者側にいる者(デュシャンとその郎党──例:アルフレッド・スティーグリッツ)と出品者(マット)の「インサイダー取引」的な不誠実が、この20世紀アメリカの「アンデパンダン」をすっかり「茶番」化してしまったのである。

「ニューヨーク・アンデパンダン(通称)」(“Society of Independent Artists")が、“Société des Artistes Indépendants" の直訳である事は、当時のアメリカに於いても、ヨーロッパ大陸文化に対する「イヤミ」的な「憧憬」が存在したからと言える。言わば “Society of Independent Artists" には、その命名者に於ける「『おフランス』ザンス」が省略されているのである。「ニューヨーク・アンデパンダン」当時の「おフランス」の政体は、まだ本家「アンデパンダン」を生んだ第三共和政だった。そして「新大陸」に於ける同運動と同時期にあったのが、「旧大陸」を戦場とした第一次世界大戦である。この戦争で「先進」たるヨーロッパ(「おフランス」含む)は一躍「没落」し、アメリカという「後進」が「美術」に於いてもヘゲモニーを握る切っ掛けになる。第一次世界大戦という「暴力」が、アメリカの「美術」から「おフランス」を駆逐したのである。

日本に於ける「アンデパンダン」(注7)は、1947年からの「日本アンデパンダン展」や1949年からの「読売アンデパンダン展」──いずれも「おフランス語」の「アンデパンダン」を冠す──に始まるとされる。注目すべきは、それらがいずれもフランス第四共和政の時期にスタートしている事だ。ここでは多くは語らないが、フランスの第四共和政の精神風土と、戦後日本の精神風土は、埋め難い平行性(注8)を伴いつつ大いにリンクするところがある(その内の一点は戦争による「喪失」からの「新た」なスタート)。

(注7)それらが一種の日本の戦後に於ける「政治的」な「ショー」という「茶番」(何回目かの「アンデパンダン」)であった可能性を100%否定できない。それらもまた「表現者」自身が自らの「商品」化を目指す戦後の「自由主義経済」の許に事実上展開されたのだ。

(注8)その最大のものの一つは、フランスが「戦勝国」(国連=UN=連合国の常任理事国)であるのに対し、日本が「敗戦国」(国連の永遠の非常任理事国)である点で「戦後世界」でのレジーム的な「地位」に於いて決定的に大きな差異がある。

日本の「アンデパンダン」は、“Salon des Indépendants" の「制度」的な意味での直接的「輸入」ではなく、日本に於ける「戦後民主主義」という歴史的地政学的条件の下での「倫理」的「象徴形式」として「再利用」された。言わばそれは、「自由な文化を支える国家」という「理念」を模索した「おフランス」のそれに対して、「国家(権威)を否定することで自由を証明する制度」という、極めて極東の島国的な「感情」に変換された「アンデパンダン」(「カタカナ語」的制度)である。「アンデパンダン」という「カタカナ語」/「おフランス語」を日本人が一旦口にしてしまう時、そこには様々なものからの地政学的な「遠さ」をインクルードしてしまうのである。

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【紀行】

国際的非暴力展#SUM_MER_2025

ロシアによるウクライナ侵攻以降、アーティストが主導するかたちで、国際的非暴力展を過去3回開催しています。前回の#W_INTER_2024は京都市立芸術大学内の教室や食堂などで開催し、学生や京都在住のアーティストなど80人ほどが参加。ワークショップやパフォーマンス、搬入や搬出の協働、新聞づくりなどを通して、さまざまな対話と交流が生まれました。国際的非暴力展実行委員会はアーティスト、キュレーターを含む市民による国際的な非暴力展を継続開催するために結成されました。#SUM_MER_2025でも作品展示、講演会、ワークショップなどの様々なイベントを開催します。

所信表明

本展は、世界的パンデミックの影響が続く中で、ロシアによるウクライナ侵攻やイスラエルによるガザ虐殺に代表される、市民の生命と人権を脅かす暴力に対し、アーティストたちが「非暴力」「反戦」の声を届ける展覧会です。2022年夏にアーティストたちが声をあげて始まり、今回で4回目となります。ひとりで悩むのでも、無力感に打ちひしがれるのでも、見て見ぬふりをするのでもなく、作り、手を動かし、集まり、展示することを手放さないようにしようという声から、この展示は始まっています。デモや、寄付や支援、具体的なアクションや学習を忌避する態度としてではなく、本展は、それぞれが得意なこと、やりたいと思うことをやりきることが、ひとつの抵抗になると信じるものです。

この展示というフレームが、小さな声や、微かな態度、見えにくい表現を、(他のさまざまな手段よりも)いっそう確かに受け止めることができると望んでいる。世界というよりももはや日常に響いている強く圧倒的な声にときに従わざるを得ないと感じ、その声に不安や恐怖を感じる中で、そんな軋みの音に対抗できる場所が、アートの向こうにあることを信じたい。 従うべきものは、他者の強い声ではなく、自分自身の内から湧き出る意志しかない。計画と偶然、自律と他律、立ち止まる必要と動き続ける必要—— これらすべての矛盾を超えていくために必要なのも、結局その意志だけだろう。だからこそ、始めること、変わること、動くこと。この展示に集ってほしい。

アンデパンダンであること、それでもキュレーションらしきものがあること。政治的なイシューがあること、にも関わらず個々の作品は勝手に自治を示していること。展覧会として提示されている、けれども「展示」にとどまらない諸実践が必然的に多数生まれてしまっていること。内部に自閉する傾向と外部に展開する傾向が、拮抗しているとも言えるし相反しているとも言えること。アートの良いところと悪いところが、等しく出てしまっているところ。 このような矛盾のなかでしか見えてこないものがあるのだとしたら、という前提について考えています。「日本アンデパンダン」と「読売アンデパンダン」の間にあったかもしれないもの、「政治」と「美学」をなし崩しにするのでも誤魔化すのでもなく、それをゼロから考えることを阻害するものを正しく認識し、その対処法を知ること、無数の恥辱からもう一度始められる美術のこと、を考えています。

(テキスト:国際的非暴力展実行委員会)

参考:服部浩之「『アンデパンダン』というキュレトリアルな実践」 artscape
https://artscape.jp/article/48722/?fbclid=IwY2xjawNAdpRleHRuA2FlbQIxMQABHvnoE0tvVIH5hSPfTaAGTcTg_pE50x24qdbQMMmuo5jWy2nnYVoyE3cUtRL3_aem_l3NaawtwlQbyuseeKS_lAQ

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「アンデパンダン」を標榜するこの「国際的非暴力展#SUM_MER_2025」展(2025年7月5日–2025年8月3日)には都合2回訪れている。最初に行ったのは2025年7月12日だった。少なくともその「所信表明」に「政治的なイシュー」(「畳み掛け」調の3センテンス目)とも記されている同展であるから、敢えてここで「政治」に接続した形で言えば、当時は「第27回参議院選挙」(7月3日公示―20日投開票)の選挙戦真っ最中であり、同展が行われていた京都市立芸術大学の前にはこうしたポスターが掲示されていた。

そして会期中に「参議院選挙」は終わり、2度目の観覧(7月30日)の際にはそれらのポスターは撤去され、何事も無かったかの様になっていた。それから半年以上が経過した。

坂口安吾の「堕落論」風に言うならば、これもまた或る意味で「半年のうちに世相は変った」である。この当時は恰もフランス第四共和制の様な「多党化」による政治的不安定が、日本にも実現しつつあるのかもしれないという見方も可能にはなる「状況」の中にあった。しかしその半年後の「第51回衆議院選挙」(2026年1月27日公示―2月8日投開票)で、「多党」を構成していた多くの政党の力が相対的に減じられる事で最大の政党が一強化し、これを書いている2026年春の段階では、フランス第五共和政どころか「みすぼらしい茶番劇」(“lumpige Farce")であるフランス第二帝政期の様な趣すらある。

この展覧会当時の2025年夏、国政の場ではまだそれ程でも無かったものの、既に複数の地方自治体の首長選挙等では、デマも飛び交う「ファナティック」なものがその勝敗の帰趨に影響を与え始めていた。従来的/伝統的な「政治」的構図では大敗するとは思えなかった首長候補が、自身に対するデマを否定する事にエネルギーを割かれ、「推し活」(ファンダム)化した選挙で惨敗したのである。一方アメリカでは、「ファナティック」な支持を受けて2回目の大統領になった人物(“KING" を自称する)(注9)が、「法治主義」をすっかり蔑ろに「人治主義」的に繰り出す数々の思い付きで世界中を引っ掻き回し、遂にはその人物(及び六芒星の青白の旗の国の人物)が始めた「戦争」(国際法違反/戦争犯罪の疑いあり)によって、世界中を混乱させるにまで至っている。換言すれば、我々は国内外の両局に於いて二重に「人治主義」の人質にされているのである。

(注9)

参考:“No Title of Nobility shall be granted by the United States”(「合衆国は貴族の称号を授与してはならない」)アメリカ合衆国憲法第1条第9節

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【紀行2025年7月】

京都市立芸術大学の @KCUA に向かう塩小路には、「午後」に入って背後に回りつつあった日光の照射を遮るものとて無い。行き交う若い人の手には「ハンディファン」。首には「ネッククーラー」。そして「外で働く」人達はいずれも「空調服」のファンを鳴らしている。最近になって遮光性能の向上が著しい「日傘」という選択をする行き交う人も多い。

「暑さ」というのは体力や気力ばかりではなく思考力をも失わせる。そもそも思考というのは熱暴走に弱いものだ。冷却機能(小型ファン)が装備されている筈のスマホや PC が、「暑さ」によって挙動をおかしくしたり固まったりするのなら、生まれながらの冷却機能が「汗」による気化作用だけという人間の挙動もおかしくなると考えるのが自然である。仮に、春先に「おかしい人」が多く現れるという話が本当なら、夏にはより多く現れると考えるのが道理というものではないか。「現」に「80年前」の「アルジェリア」で "C'était à cause du solei"(「太陽の所為だ」)で起きた「アラブ人殺害事件」というものも「あった」ではないか(注10)

(注10)Albert Camus “L'Étranger":アルベール・カミュ「異邦人」

兎にも角にも「思考」の力を取り戻す為にも、「エアコン」の効いた場所に移動してこの身を冷却するのに強くはない。最悪、何かの弾みで途轍もない事を起こしてしまうかもしれない(或いは昏倒)。こうして「ハンディファン」も「ネッククーラー」も「空調服」も「日傘」も持ち合わせていない「エトランジェ」の、京都市立芸術大学アクアに向かう足取りは、戸外環境の「不快」な「指数」が上がり続ける中、歩行速度をいや増すばかりだ。そして恐らく今回の目的地は、通常以上に「思考」(或いは「思考」のみ)が要求される「エアコン命」の場なのである。兎に角怠い。何もかもが怠い。この怠さは軽度の脱水症によるものなのか。二重扉になっている@KCUA(「アクア」/「水」?)の展覧会場に入る。体表温度がぐっと下がった事を実感する。

この「アンデパンダン」は、「アンデパンダンであること、それでもキュレーションらしきものがあること」という「矛盾」を自ら言ってしまっている様に、それは服部浩之氏的な表現を借りれば「『アンデパンダン』というキュレトリアルな実践」と定位されて然るべきものである。即ちこれは「本物」の「アンデパンダン」ではないのだ。

本来的な「アンデパンダン」の理念(「審査なし賞なし」)的な設え的には、或る意味でそこに主催者も関知し得ない「どこの馬の骨かも分からない出品者」ばかりが含まれている事が真っ先に重要であり、且つそうした「不可知」(圧倒的孤独)の存在こそが「真正」の「アンデパンダン」である事を保証するのである。即ち主催者の「人脈」(「人治」)から「辿れる」人間で構成されているもの、主催者が出品者(常連)に対して「やあ久し振りですね」と声を掛けてしまえる様なものは、本来的には「法治」的な空間であるべきものとしての「アンデパンダン」ではない。

服部浩之氏も指摘している様に、「キュレーションらしきもの」を発話する主体を敢えて表に出さない「設え」をこの「アンデパンダン」は採用している。「キュレーション」(≒ “jury":「審査」)という「仕事」──それは何処までも「法治」に基づく「仕事」であり、「仕事」でしかなく、それ以上でもそれ以下でもない──が最低限の「顔出し」によってその「有責」を担保するとするなら、その「顔」の事実上の「消去」に基づく「キュレーションらしきもの」というのは何なのだろうか。

この「名無しさん」によって「疑似キュレーション」された同展は、その「疑似キュレーション」によって或る意味で「平和」な「質」(自治)が「保たれて」いる。嘗ての「アンデパンダン」(カタカナ)に見られた「てんやわんや」はそこには無い。敢えて言えば、フリマ会場を訪れた感がそこにはあった。好き好きに持ち寄ったものを並べる「自由」で「平和」で、しかも「社交」的な「市場」(いちば)である(注11)

(注11)参考:インスタレーション・ビュー。
https://gallery.kcua.ac.jp/archives/2025/12587/

その「市場」で流通しているのが「アート」という「信用貨幣」だ。その「貨幣」は/「貨幣」であるが故に、多くの人間がそれを「価値あるもの」として受け取ってくれるという「予想」のもとに、誰もが受け取るという循環論法の中にある。この循環論法による「信用」が「堅固」なものであればある程、その「経済圏」は「平和」なものになる(注12)

(注12)参考:岩井克人「貨幣論」
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480084118/

戦後日本の「アンデパンダン」(カタカナ)に於ける「てんやわんや」は、この「信用貨幣」の「貨幣共同体」(「アートワールド」)にハイパー・インフレーション(通貨価値の下落)を意図的に起こそうとした仕儀であったとも言える。即ち「貨幣」(「アート」という「信用」)よりも、その「信用」から外れたかに見える「『作品』と称されるもの」を「市場」に欲させる事で概念的なものの「需要」を喚起し、その結果「需要超過」に至らせる事により、「貨幣」(「アート」)に対する人々の信用度を下げるというもの──「善き市民」の知的「貯蓄」を紙屑にし、社会の階級構造や経済秩序を根底から破壊する「革命」──と言える(注13)。それは確かに「革命」精神ではあったものの、同時に「アート」の「信用」破壊の場であり、且つ「アート」の「ピックミー」や「ワナビー」の鉄火場となってしまったが為に、結果的にそれらの「アンデパンダン」は短命なものになったのである。

(注13)

Lenin is said to have declared that the best way to destroy the capitalist system was to debauch the currency. By a continuing process of inflation, governments can confiscate, secretly and unobserved, an important part of the wealth of their citizens. By this method they not only confiscate, but they confiscate arbitrarily; and, while the process impoverishes many, it actually enriches some. The sight of this arbitrary rearrangement of riches strikes not only at security, but at confidence in the equity of the existing distribution of wealth. Those to whom the system brings windfalls, beyond their deserts and even beyond their expectations or desires, become ‘profiteers’, who are the object of the hatred of the bourgeoisie, whom the inflationism has impoverished, not less than of the proletariat. As the inflation proceeds and the real value of the currency fluctuates wildly from month to month, all permanent relations between debtors and creditors, which form the ultimate foundation of capitalism, become so utterly disordered as to be almost meaningless; and the process of wealth-getting degenerates into a gamble and a lottery.

Lenin was certainly right. There is no subtler, no surer means of overturning the existing basis of society than to debauch the currency. The process engages all the hidden forces of economic law on the side of destruction, and does it in a manner which not one man in a million is able to diagnose.

 レーニンはこう語ったと伝えられている。資本主義を破壊する最善の方法は、通貨を堕落させることだと。政府はインフレを継続することで、密かに、気づかれることなく、国民の富のうち、かなりの部分を没収できる。この方法を使えば、国民の富を没収できるだけでなく、恣意的に没収できる。その過程で、多くの国民は貧しくなるが、一部の国民は逆に豊かになる。このように富が恣意的に再配分されるために、既存の富の分配の安全性が脅かされるうえ、既存の富の配分の公平さに関する確信が揺らぐことになる。インフレによって、当然といえる以上に、そして本人の期待や望みすら大きく超えるほどに棚ぼたの利益を得た人たちは、「暴利をむさぼる悪徳商人」だとされるようになり、労働者階級の憎しみを受けるとともに、インフレで貧しくなった有産階級からも、それと変わらないほど強い憎しみを受ける。インフレが進み、通貨の実質価値が月ごとに激しく変動するようになると、債務者と債権者の間の恒久的な関係、資本主義の根幹になっている関係が完全に混乱し、ほとんど意味を失う。そして富の獲得の過程が博打と富籤に堕していく。

 レーニンはまったく正しかった。社会の基盤をくつがえすには、通貨を堕落させることほど巧妙で確かな方法はない。インフレの過程では、経済法則の隠れた力をすべて、社会秩序を破壊する方向に動員でき、しかも、社会の秩序が破壊されていく理由を、百万人に一人も理解できないのである。

ジョン・メイナード・ケインズ「ケインズ説得論集」(日経ビジネス人文庫:山岡洋一訳)から「インフレーション」(1919年)。
https://bookplus.nikkei.com/atcl/catalog/2021/9784532240141/

ここでの「キュレーションらしきもの」(「疑似キュレーション」)というのは、或いは一種の「財務」的なものなのだろうか。「インフレ」による「貨幣」(「アート」)の大幅な価値下落(注14)を防ぐ術としての。さすれば「キュレーター」は「マネタリスト」(ミルトン・フリードマン)なのか。

(注14)それはこの「展覧会」の「半年」後(2025年度第4四半期/4Q)の日本で起きている事でもある。

この「アンデパンダンであること」的な「アンデパンダン」の「キュレーションらしきもの」は、参加者の事実上の「人治」的「絞り込み」(その仕事の質がほぼほぼ予想可能な人達)という「財務」による「貨幣」的質の担保と同時に、「国際的非暴力展」である事で展覧会を統べている。ここで言われている「暴力」とは何か。「所信表明」には「ロシアによるウクライナ侵攻やイスラエルによるガザ虐殺に代表される、市民の生命と人権を脅かす暴力」とある。敢えて「暴力」一般ではなく「国際的暴力」なのだろう。

しかし「暴力」というのは、世に様々な形で様々に現れるものだ。例えばフリマでニコニコと「懐かしLP」や「懐かしポスター」などを売っている人の良さそうな人物が、一旦家に帰るととんでもないDV夫だったり、パートナーに家事や育児の一切合財を任せる事で、「自分の好きな事」──即ち「声明文」の表現を借りれば「得意なこと、やりたいと思うことをやりきること」──を最優先しているという可能性もあり得る。そもそも「声明文」に言うところの「強く圧倒的な声」というのは、「社会」の「上層」だけではなく/よりも寧ろ、それぞれのミクロな「生活」の空間に於いて発動されてしまう(「家庭内に於ける『強く圧倒的な声』」により)。「家族と国家は共謀する」(信田さよ子)や「家父長制と資本制」(上野千鶴子)といった、ミクロの「暴力」とマクロの「暴力」の分かち難い関係というものがあるのだ(注15)。「男性中心主義」者で「メガロマニア」でもある老人が、戦闘機やミサイルといった「先の尖ったもの」をおもちゃにする一方で、自分は「被害者」であると思い込み(マノスフィア)、「加害者」を差別・排斥する。

(注15)現下の「アート」はまた、その評価的構造からして事実上「男」社会のものである(ファロセントリズム)。「所信表明」に記されている「アートの良いところと悪いところ」というのは、見方を変えれば「『男』の良いところと悪いところ」とも読めるのだ(cf.「アンチ・アクション」展)。

この「国際的非暴力」展というエンクロージャー内に於いて、当方が最もストレートに受け入れられたのは、数多くの「フリマ」的「作品」の中、「展覧会」の「正面」出入口付近の移動壁に貼ってあった、新地健郎──同展「出品者」の名前には上がっていない「後景」──の「第27回参議院議員通常選挙」(7月20日投開票)のどストレートの「投票ポスター」、「わたしの一票差別にやらない」(注16)のA4出力である(ほぼほぼ唯一の「外部」)。

(注16)
https://voteposter.cargo.site/36823620

まさしく当時は、事実上「差別」を扇動している政党が、「多党化」の流れの中で勢力拡大を目指していて、開票の結果その「差別」が相対的に多くの「支持」を集めた頃だ。その政党が主張していたその「差別」の根拠もまた、自らを「被害者」に仕立て上げ「加害者」の権利を剥奪するというものだった。このエアコンの効いた「それぞれが得意なこと、やりたいと思うことをやりきること」の「展覧会」から一歩外に出れば、その「差別」を事実上肯定する人間(同党に Vote した)がウロウロしている(「隣人」が「差別」主義者)という現実の中にあっての、このどストレートである。カーペットの上で「差別」や「暴力」に関する「文献」を読んでいる一方で、その「エンクロージャー」の外部では「差別」や「暴力」が、「マクロ」にも「ミクロ」にも確実に進行していて、そこでは数々の「人権侵害」も現実的に行われていたのである。


2025年度の終わりになっても、それらの「差別」や「暴力」は、「マクロ」から「ミクロ」に至るまで温存されている。それでも尚、「得意なこと、やりたいと思うことをやりきること」──それは時に「暴力」の淵源になる──の場の確保/死守を真っ先に上げる事は、「公共」(「法治」)的なもの(畢竟「美術」はそういうものである)としての「戦術」として有効だろうか。

「エアコンディショナー」という、「気象」からの一瞬の忌避装置(エンクロージャー内で展開される「平和」な「気象」もどき)が利いた「アクア」から出た。相変わらず現実的な「気象」は「酷薄」だ。「エアコン」「ハンディファン」「ネッククーラー」「空調服」といった「軋みの音(酷暑)に対抗できる場所」的な「ミクロ」な「自治」も、「気象」の「酷薄」自体を幾許かでも「どうにかする」ところまでには至らないのだった。

「路傍小芸術」



新潟市美術館で開催されていた「路傍小芸術」展。同展に対して、会田誠氏、都築響一氏、スージー甘金氏等々といった錚々たる「その筋」が、ほぼほぼ「好意的」に言及していたりもした「話題の展覧会」(注1)だった。会期(注2)も終盤に差し掛かった3月17日に、関西から東京を経由して訪潟した。

(注1)新潟市美術館『路傍小芸術』反響
https://posfie.com/@motohikofujii/p/A5WAR1X

(注2)2026年1月24日〜3月22日

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【前説】

同展について書く前に、まずはその2日前(2026年3月15日)に京都の大徳寺近傍で行われたシンポジウム、「『障害者による文化芸術活動の推進に関する法律』と人権」(注3)を水先案内の前段とする。というのも、恐らくこの「シンポジウム」と「路傍小芸術」展には共通した「アポリア」が存在するからだ(但し「アポリア」に対する「アティテュード」は大いに異なる)。

(注3)https://haps-kyoto.com/4918303-2/

近親者に「障害者」を持つアーティスト、飯山由貴氏が企画したこのシンポジウムのリリースで、企画者は以下のメッセージを発している(全文)。

2018年6月に「障害者による文化芸術活動の推進に関する法律」が公布・施行されてから8年が経とうとしています。この間、鑑賞における情報保障の拡充、47都道府県への障害者の芸術文化活動に対する支援センターの設置、障害のあるアーティストが主導するプロジェクトや芸術祭の実施など、多くの変化が生まれました。

この法律によって権利を保障され、経済活動が行いやすくなる人たちと重なりつつも、また異なる場や社会に生きる人たちの制作や表現、そして人権に関する話は、どこで誰がしているのだろうかという疑問がしだいに湧いてきました。

例えば、患者の表現や文化活動に対して理解や関心がない医療の場で、その活動を行ってきた人。例えば、ASD(自閉スペクトラム)の人の「社会的カモフラージュ」のように、「健常な」社会へのパッシングをする・できる人。例えば、芸術の専門的な教育を受けた、あるいは現在受けている、障害者手帳を持つ人。この数年間に、私がたまたま出会った人たちです。

このように、この法律が想像している「障害者」には、誰かが含まれているけれど、同時に誰かが含まれていないのではないか。そして、そのあいだに立ち(あるいは座り、もしくは布団の間に身を置きながら)、生活し、表現をする人たちがいる。

国による「障害者による文化芸術活動」の推進は、「障害」へのスティグマを低減し、「自分」とは異なる人たちと出会い、想像力を深め、ひいては障害者の人権状況の改善につながるのではないか。そのような私の楽観的な理想や希望は、次第に疑問を帯びるようになりました。

先住民族の人権をめぐる状況に目を向けると、1997年の「アイヌ文化振興法」の公布・施行、さらにそれを発展させるかたちで、2019年に「アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律」(アイヌ施策推進法)*2が公布・施行されました。しかし、政治家をはじめとするアイヌの人々へのヘイトスピーチは、ネット上の言説空間において今も根強く存在します。その上で、文化を通して作られる「ステレオタイプ」や「イメージ」の広まりが、マジョリティによる新たな差別の言説を作り出しているようにも思います。

文化振興が進むことと、差別が解消されることは、必ずしも一致しない。そのことを私たちはすでに知っています。

「私たち」が文化芸術を通した「共生社会」の実現をうたう前に、まず、人権の尊重があることを確認する。「人は(みな)何かをつくる存在である」と、文化芸術について話す前に、人びとが生きる地面に手を触れて、「ここには人権がある」という前提を確かめる。この社会を生きてきた人たちのことを思い出す。そのための機会として本シンポジウムを企画しました。 (飯山由貴/美術家)

当日の会場参加者には、この「録画」が後日(3月末になるとも)配信されるとの事で、詳細な発言の確認はそれを見てからのものとする為に、このシンポジウムそのものへの言及は極めて最小限に留める。

このリリースの2センテンス目、及び5センテンス目に書かれている「疑問」。その「疑問」の発端となるところの大なるものの一つとして、「障害者による文化芸術活動の推進に関する法律」の第一章「総則」の第三条(基本理念)第二項があるという。

二 専門的な教育に基づかずに人々が本来有する創造性が発揮された文化芸術の作品が高い評価を受けており、その中心となっているものが障害者による作品であること等を踏まえ、障害者による芸術上価値が高い作品等の創造に対する支援を強化すること。

「障害者による文化芸術活動の推進に関する法律」
https://laws.e-gov.go.jp/law/430AC0100000047/

「専門的な教育に基づかずに」「人々が本来有する創造性」「高い評価を受けており」「芸術上価値が高い」等々といったこれらの文言を、法律の形で発しているのは一体「何者」なのか。そしてまた一方で、ステージの上でマイクを交互に渡されているこの人達は一体「何者」なのか。そしてそれを聞いている自分は一体「何者」なのか。その「何者」が仮に「当事者」やそれに近い者であっても、それを覆う「上位概念」たる「何か」がここには存在しているのではないか。


これはポストコロニアル理論の達成の一つとしてのガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァクの「サバルタンは語ることができるか」(“Can the Subaltern Speak?")的な意味で、「表象(representation)」の二重性──代理=政治的代表(Vertretung)と再現=記述的表象(Darstellung)の交錯──の問題圏の中にあるのではないかという当方の「疑問」は、「表象」(「投影」)の対象としての「作品」という言葉がやたらに飛び交った印象を持った会場を後にして、日が落ち始めた大徳寺の脇をバス停に向かう道中も消える事は無かったのである。

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【紀行】──或いは【中間休止[ツェズーア]】

正午を大分過ぎて東京駅を出た上越新幹線の車中で、「路傍小芸術」の「小」とはどういうものだろうと考えていた(注4)。咄嗟に頭に浮かんだのは「愛らしい」動物として知られる、動物園──「美術館」と同じ「博物館」──でも一定の人気を博しているレッサーパンダである。当のレッサーパンダにしてみれば、「愛らしい」と人間に思われているかどうかなどはどうでも良いのだが。

(注4)勿論「小芸術」が、ウィリアム・モリスの “lesser art" に由来する語である事は言を俟たない。
参考:“The Lesser Arts of Life"(人生の小芸術)
https://www.marxists.org/archive/morris/works/1882/life1.htm

レッサーパンダの「レッサー」は “lesser" であり、それは直接的には「小さい」を意味するものの、一方で「劣った」や「マイナー」(非主流)という意味も無いではない。「小パンダ」/「劣パンダ」/「マイナーパンダ」としてのレッサーパンダ。対して、最近日本から姿を消した「パンダ」は「ジャイアントパンダ」即ち「大パンダ」であり、中国語でもレッサーパンダは「小熊猫」でジャイアントパンダは「大熊猫」だ。そして事実上、現在定冠詞付きの「パンダ」は「ジャイアントパンダ」(「メジャー」な「パンダ」)を指す。「パンダコパンダ」から「さくさくパンダ」から「パンダメイク」に至るまで、それは「ジャイアントパンダ」(「大パンダ」/「優パンダ」/「メジャーパンダ」)の領域にある。

レッサーパンダが「レッサーパンダ」になった経緯が興味深い。そもそも最初に西洋人が「発見」/(生物学的に)「記載」(1825年)したのはレッサーパンダの方であり、それは当初は英語で「パンダ」と呼ばれていた唯一の動物だった。「パンダ」が「レッサーパンダ」と同義だった40数年が過ぎた1869年に、新たに生物学的に「発見」/「記載」された「ジャイアントパンダ」と区別する為に、この動物の名称に「小」が事後的に付され、「パンダ」の地位を「ジャイアントパンダ」に「譲った」のである。

これもまた興味深い事に、「ジャイアントパンダ」と「レッサーパンダ」は生物分類上は近縁ではない。「見た目」が「似ている」という事で、同じ「パンダ」の名前で呼ばれているだけの話だ。「全く別のもの」であるから、本来なら「大」と「小」という区別は妥当ではない。

新潟に赴く前に入手する事が叶った同展のカタログを、暗くて抽象的な上野駅──「駅標板のうえにその都市の名が掲げられている」(注5)事だけがそこが「上野」である事を示す。仮にそこに「越後湯沢」と書かれていたら、そこは既に「越後湯沢」なのだ──を、「とき」(国の特別天然記念物)と名付けられた「特別急行列車」が過ぎた辺りからつらつらと読み返す。

(注5)カタログにも引用されているテオドール・W・アドルノの「プリズメン」から。このブログの章題の「中間休止[ツェズーア]」も同書から。

「レッサーパンダ」が「ジャイアントパンダならぬもの」としての「補集合」の位置にある様に、カタログの「企画者のあとがき」(藤井素彦:新潟市美術館学芸員)には、のっけから「この展覧会は何ではないか」という「補集合」宣言が書かれている。

この展覧会は、
・アウトサイダーアートの展覧会ではない。
・文化人類学的なアプローチではない。
・民藝運動(あるいは「一切衆生悉有仏性」のような普遍原理)を参照するものではない。
・いわゆる「大文字の芸術」(建築・絵画・彫刻など)の批判・補完を試みるものではない。
・美術とそれ以外・それ以前というような序列、その転倒には関心がない。
・美術館の役割や可能性について、「再考」するというようなこともない。
・社会思想史・文化研究でいう「制度論」を、「美術」概念に関して試みるものではない。
・コミュニティの維持や再生をめぐる政治的・文化的な文脈に関わるものではない。
 (そういう試みの一々は決して否定されないが、その中には、まじめでも誠実でもないような印象を受けるものがある。なぜか?)
・まじめさ、誠実さに、否定形あるいは消去法からアプローチする。
・否定形と消去法だけが、まじめ・誠実・有効であるような主題、問題がある。
・これは、発見よりも、観察の展覧会になるだろう。企画者自身、会場を見て初めて分かることばかりかもしれない。何か考えるのは、それからのことになるかもしれない。苦しい。
・だから、今ここで考えていることは、全てムダである可能性もある。苦しい。
・もう一つはっきりしていることがある。特に今回は、自分が「知らない人たち」との仕事になる。
・自分の仕事が、自分にとってアウェイになる。
・どう説明するか。どこに着地するのか。いま自分は何を言っているのか?
・終わってみないと分からない。いま自分は何を書いているのか?

この「補集合」ぶりにこそ、美術館が表明している「まごころの展覧会」(注6)の「まごころ」の「まごころ」たる所以があるのだろう。少なくとも「レッサーパンダにも見るべきところがあり、それはジャイアントパンダにも大いに寄与するところがある!」や「レッサーパンダが貶められている現在の状況はおかしい!」や「レッサーパンダのレッサーである事こそが最高!」や「レッサーパンダこそが本来的なパンダだ!」的な「専断」(「思い込み」)に「まごころ」は存在しない。その意味で「まごころ」というのは極めて実務的な「調整」の技術と言って良く、その「調整」こそが「政治」であるとも換言できる(注7)。「政治」そのもの/「政治」でしかないもの/「政治」しかないものとしての「路傍小芸術」展。或いは、ミシェル・ド・セルトー的に言えば、“stratégie"(「戦略」)に対する “tactique"(「戦術」)(注8)としての「路傍小芸術」展である。

(注6)「無名の人々の手で作り出され、多くの人々に見つめられてきた造形の数々を、街のあちこちから集めます。街と人々、ストリートの歴史と民俗に対して、ミュージアムはどこまで、誠実に・正直に・リアルになれるものか、真心をこめて試みる展覧会です。」
https://www.ncam.jp/exhibition/8173/

(注7)そもそも「議会」というのは、数々の利害を「調整」する機関であり、その「調整」が形になったものの一つが所謂「法律」である。即ち「法治主義」(“Rechtsstaat")──「路傍小芸術」展のカタログにも「『人治』(専断主義)」的なものに対抗する「『法治』(法定主義)」への言及が見られる──というのは、「立法」的な「まごころ」の結果に「行政」(執行者)が従わねばならないという、人智が到達した一つの「知恵」の形の一つなのだ。「人治」(専断主義)は時々「まごころ」的なものを見せる事もあるものの、それは属人的「気まぐれ」によるものでしかない。全くの余談ではあるが、日本語の「まごころ」を多用した政治家の一人は、第102代、103代の内閣総理大臣でもある石破茂だった。第2次石破内閣の「所信表明演説」(第214回国会:2024年10月4日)では、自身が薫陶を受けた渡辺美智雄の「政治家の仕事は勇気と真心をもって真実を語ることだ」を引いている。石破は自民党野党時代にも「まごころ」を繰り返し使用して、時の「政府」(民主党政権)を批判する質問者になっている。
https://www.kantei.go.jp/jp/102_ishiba/statement/2024/1004shoshinhyomei.html

(注8)「戦略とは、ある権力の場所(固有の所有地)をそなえ、その公準に助けを借りつつ、さまざまな理論的場(システムや全体主義的ディスクール)を築きあげ、その理論的場をとおして、諸力が配分されるもろもろの場所全体を分節化しようとするような作戦のことである。それは、この三つの場所を組み合わせ、たがいどうしが制御し合うようにしてそれらの場所を制御しようとめざす。」「わたしが戦術とよぶのは、自分のもの〔固有のもの〕をもたないことを特徴とする、計算された行動のことである。ここからが外部と決定できるような境界づけなどまったくできないわけだから、戦術には自立の条件がそなわっていない。戦術にそなわる場所はもっぱら他者の場所だけである。」
ミシェル・ド・セルトー「日常的実践のポイエティーク」
https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480510365/

「この展覧会は何ではないか」の箇条書きにも「アウェイ」の語がある事からも分かる様に、この「展覧会」が「戦い」である事を学芸員・藤井素彦は静かに宣言する。そして藤井は「ある権力の場所(固有の所有地)」ではなく「他者の場所」として、この展覧会の場である「美術館」(ムゼーウム、Museum:中性名詞)を、アドルノ的な「霊廟」(マウソレーウム、Mausoleum:中性名詞=「他者の場所」/「されど、死ぬのはいつも他人ばかり」)或いは「廃墟」(ルイーネ、Ruine:女性名詞=「他者の痕跡」)として捉えている。

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新潟駅の改札を通り、右手に「タマ公」を認めつつ、バスターミナルに降りる。数はそれ程こなしてはいないものの、最早「慣れた」路程である。「いつもの」新潟交通バスに Suica(流石に新潟県民の持つ「りゅーと」ではない)で乗り「いつもの」古町バス停で降りて西大畑方面へと歩いて向かう。道すがらの路傍に「路傍小芸術」展を見掛けたりする。

今回の「新潟市美術館」は、個人的には「新潟市動物園」である。即ち「野生」が集められた「動物園」に「レッサーパンダ」(例)を見に行くのだ。そこには普段とは異なり、動物園に来る様な観客が多く集まっているだろう。そこでは皆がニコニコし、皆がハッピーになり(注9)、家では到底飼えない「野生」を撮影し、その「野生」動物の「愛らしさ」に対して「いいっすね」などと口にする。場合によってはそもそもの生息地(四川省やネパールの様な長岡市や越後川口SA等)を「啓かされた目」を以て巡礼(進駐)するという強者もいるだろう。一方でリアルな動物園のほぼ全ての客がそうである様に、そもそも何故にその「野生」動物が「標本」として動物園に集められているのか、その「野生」動物の選定は何によって行われたのか、「野生」を「展示」する園内のレイアウトや順路はどうしてそうなっているのか、「野生」動物の「展示」とバックヤード(「飼育員」の領分)の関係はどの様なものなのか、「研究」/「繁殖」と「展示」という「水と油」をどう調整するのか等々には関心が無い。

(注9)“Everybody's laughing. Everybody's happy":“Sun King" Lennon–McCartney(1969)

この「展覧会」に相対する態度として、例えば所謂「障害者」や「マイノリティ」といったものに(非対称性を温存したまま)「自己投影」して、その「ナイーフ」と感じられるものを適当につまみ食いする様な事はしたくない。有りがちな態度としての、こうしたものと「共に歩む」などという「エラソー」は、その「共に歩む」が「ペットとの散歩」の様なものであるならば、それは同展に出品されているものを、体の良い「愛玩」の対象(ペット)と見ているに過ぎない。それは「『視線』という『政治』」の最悪の形の一つでしかない。基本ここにあるものは、時に「可愛く」見える一方で、時にその「真意」が掴めないまま「噛みついて」きたりもするという「不確実」的な意味での「野生」なのだ。

前川國男ランド(西大畑公園)から前川國男を見ると、のっけから動物園を感じさせる「趣向」が目に入る。それを見て瞬間的に想起したのは「動物園の避難訓練に出てくる脱走したトラやクマの着ぐるみ」だった。即ち「『野生』の擬態」をそこに見たのである。着ぐるみの「中の人」は一生懸命トラやクマ(「野生」)になろうとしているものの、その一方でそのものであってはならないという矛盾に引き裂かれている様にも思えたのだ。それはこの企画展入口のこの「趣向」にも見られるものだ。

この「動物園スタッフによる『野生』の着ぐるみ」的な、傷だらけの「ぎこちないぎこちなさ」は、或る意味で「展覧会」に関わる者の「誠実」(「まごころ」)の証の一つの形である。即ち「キュレーション」を行う者は、それが「調整」の責を負う「政治」の担い手であるが故に「無傷」ではあり得ないのだ。その「誠実」/「有責」な「アティテュード」こそが、常に「キュレーション」を行う者には求められている(注10)筈のものであるものの、実際には殆ど全ての「キュレーター」はそれをしないし、それについての基本的な「政治」的理解にも、その「政治」的平面に自身の身を置き晒す「覚悟」にも根本的に欠けているのである。

(注10)例えば「女性」をテーマに据えた「展覧会」の「キュレーション」を「男性」が行うとして、そこには自身の立ち位置に対する、「傷だらけ」になる事を厭わない「誠実」(「まごころ」)が必ず求められる。

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一応「順路」順に、この動物園で個人的に「引っ掛かった」ものを記す(従って言及の「多寡」「有無」にかなりの偏りがある)。

まず最初の「にいがた銭湯展」は、「銭湯愛」の人達(ゲストキュレーター:お笑いコンビ・ジャックポット 大野まさや+春巻まさし(にいがた銭湯大使))(注11)による「キュレーション」がベースになっている。2023年12月6日〜10日に新潟県民会館展示スペースで行われた同名の「にいがた銭湯展」(注12)が、新潟市美術館のスタッフに「発見」されての今回の起用である。「路傍小芸術」の会場の手書き解説(「野生」擬態の様式)(注13)に書かれているところでは、「『にいがた銭湯展』の会場では、互いに見知らぬ来場者たちが、まるで銭湯に寛いでいるような、ご機嫌な表情を浮かべていました。それがとてもすばらしかったので、今度は、この美術館で開催していただくことにしました。」との事である。或る意味で、相対的に「野生」の側にある「キュレーション」をここでは入れ子状に「展示」しているのだ。エンクロージャー(「キュレーション」)の二重化。そこが「引っ掛かり」ポイントの一つ目。

(注11)BSNラジオ「ジャックポットのレディオジャック」
https://www.ohbsn.com/radio/programs/jack/

(注12)「にいがた銭湯展」(オリジナル)
https://niigata268.com/news/ambassador/exhibition202312/

(注13)1980年代のワープロ専用機(OASYS、書院、文豪、Rupo等)の普及は、「路傍」の「余所行き」の文書から「手書き」を駆逐する切っ掛けになったと言える。現在の「路傍」に於けるMSに対するサブスク率も低くはない。こうしてすっかり「補集合」となってしまった「手書き」はよりパーソナルな性格を帯びるのである。例えばシャッターに貼られた「店じまい」の告知が、「ワード」で打たれたものであるか「手書き」のものであるか。そこには大きな差異がある様に思える。

今回新潟市美術館を訪れた「ごきげんな表情」の中には、この喜多川歌麿「高島おひさ」のタイル絵に伊藤若冲を見たというものもあったと聞く。それもまた「ごきげんな観察」の一つではあるだろう。しかしこのタイル絵のインストールには、そうした「ごきげん」の足を挟む更なるトラップ(トラバサミ)が仕込まれている(後述)というのが「引っ掛かり」ポイントの二つ目。

そしてこの銭湯の「カラン」が置かれた「彫刻台」に添えられた「ぜったいさわらない ヤクソクね」(一瞬「ヤケクソね」に空目してしまった)が三つ目の「引っ掛かり」ポイントである。リアルな動物園では、動物に「さわれる」という趣向があって、それは「ふれあい動物園」(例)という名称で呼ばれたりする。「檻」や「塀」の「向こう側」の「野生」に、動物園の客が「さわる」事など許されていないが、一転「ふれあい動物園」では動物との「ふれあい」が許されている(注14)。但しそこで「ふれあい」が許可されているのは、ヤギやウサギやテンジクネズミ等の「家畜」(「(感染症を含めた)ローリスク」「ローコスト」な動物)に限られている。動物園としての美術館は、通常所謂「美術作品」に「ふれあい」をする事を禁じているが、それは「野生」であるが故ではない。極めて高度に「市場」に結び付いた「家畜」であるからこその「ぜったいさわらない ヤクソクね」なのである。そのマナーを温存したまま、ここでは「路傍」の「カラン」にすらそれが適用されている。

(注14)近年は「動物福祉」の観点から、動物にストレスを与える「ふれあい」(「猫カフェ」的な)を取り止めたり縮小したりするところが増えている。触れる事で動物を「傷つけてしまう」事を回避する「動物福祉」というものがあるのなら、触れる事で美術作品を「傷つけてしまう」事を回避するのは「美術福祉」(福祉対象としての美術)と呼ばれるものだろうか。

「え、昨日もこれと全く同じもの(カラン)にさわって来たけど」という「路傍」の声は、「展覧会」という「博物学」の場では否定されるしかない。「野生」が「発見」され「蒐集」され、その「野生」を「学術」的な領土に組み入れた「美術館」では、「野生」として生きていた頃の「ふれあい」は許されない。そこにあるのは「カラン」ではなく、「美術館」という場(霊廟)に於ける不可触の「カランの死体」(聖遺物)なのである。それらの「野生の死体」の前で「ごきげん」な表情を見せるというのは一種の倒錯でしかないとも言える。

四つ目のレッサーな「引っ掛かり」ポイント。「入浴注意」に添えられた「パンダ」(「大パンダ」/「優パンダ」/「メジャーパンダ」)のお出迎え。

そしてここにも傷を負った学芸の痕跡が。会場内は「まごころ」の血の海である。

「撮影(映)ぜんぶ自由です!」であるものの「ぜったいさわらない ヤクソクね」。まさしく動物園のマナーだ。

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「思い出のセメント彫刻」。「セメント彫刻」というのは他の彫刻の「技法」に対しても、歴史的にもその「技法」的な「蓄積」に圧倒的に「乏しい」ものである(注15)。多くのノウハウが個人的なものに終わり、その「技術」は共有される事なく当代限りで途絶する。「彫刻」作品としての「セメント彫刻」のアウトプットそのものが「失敗」に見える事も少なくなく、それ故にその「失敗」こそを愛でるという立場もあり得るだろう。であるならば、ここには思い切りの「失敗」例、誰が見ても「失敗」でしかないものを、それが何故「失敗」とされるのかも含めて見てみたかった気もする。

(注15)「セメント彫刻」を「技法」として体系的に教育する美術大学は存在しない。近年ではGRC技術等により、「セメント彫刻」の「洗練」度は幾分かは増したものの、それでも「セメント彫刻」は相変わらず、ブロンズはもとよりスチール(ステンレス含む)やFRPすらよりも「レッサー彫刻」なのである。因みにリアル動物園は「セメント彫刻」の宝庫である。それらは「野生」の「展示」環境の「背景」(パレルゴン)を構成する「擬木」(木を模した彫刻)と呼ばれたり「擬岩」(岩を模した彫刻)と呼ばれたりするものだ。

日本GRC工業会「施工事例」
https://www.grc.gr.jp/ex/index4.html

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「昭和50年代金沢〈架空線工房〉の映画ポスター」には、自分が幾らかなりとも「関係」のあった映画(「日活ロマンポルノ」等)のタイトルが無いかどうかを確かめてしまった。幾つか「ニアミス」はあったもののそのものは無かったが、それでも「その当時」の空気感を感じ取れる絵面のポスターではあった。中学校の美術の授業(1971年頃)で、こうした絵面で発売されたばかりの「日産フェアレティZ」の「ポスター」を「カッコよく」描いた記憶も蘇った。当時はこうしたデザイン処理が「超カッコいい」の代表とされてもいた訳で、これらも昭和40年代後半から昭和50年代に掛けての「路傍」的にも(その時代の中学生的にも)こうした絵面が「超カッコいい」(「メジャー」)の側にあったのである。ここは「カッコいい」──そして後年必ず「ダサく」なる──の「歴史探訪」の意味が色濃い。その時々の「カッコいい」だけで構成され、そもそも「カッコいい」とは何かを問う「展覧会」(恐らくそこには「聖子ちゃんカット」等も入る)というのも見てみたい気がした。

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「車掌」には「こちら側」の匂いがした。それは「映画ポスター」よりもより「こちら側」なのである。何せリアルに「芸術」の人が関わっているものなのだ。その意味で「近親憎悪」的な感情をも合わせてそれを眺める事になる。従ってこの手の相対的に練られた「ラディカル」な「アヴァンギャルド」に対しては、「開運!なんでも鑑定団」の中島誠之助の様に「いい仕事してますね」と声を掛けるしかない。「評価」というものが可能な「いい仕事」なのだ──学芸解説の逆さに押された「路傍」ハンコも、「いい仕事」の範疇に収まる。因みに今回の「路傍小芸術」展示に多用されている「画鋲」は、ここにも収斂する様な設計になっているのだろうと穿ってみた。

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続く「或る三人の画家」。それぞれがそれぞれに別のルートを通ってここに「一期一会」で「画家」として集結している。

人によっては「サイ・トゥオンブリ」が見えてしまう様な高橋一平の「野生」ぶりには瞠目させられた。高橋一平の「青ガキの家」に見られるのは、作品サイズ拡張の為の「ヤケクソ」な「パレルゴン」である(カタログの図版ではカットされている)。その「野生」的な「ヤケクソ」が、「凡百」の理知(賢しら。「自分は何をしたいのか、何ができるのか、ちゃんとわかっている人々」:「路傍小芸術」展カタログから)の「サイ・トゥオンブリ」の「エピゴーネン」(追随者/いっちょ嚙み)を置き去りにするのである。

飯田春行(注16)の「遺作」である「(切り離された)納豆のフタ」絵画(注17)(注18)も忘れ難い。多重的な意味で「大嫌い」や「厭なもの」(注19)である白いスチレンの納豆容器のフタ側を、己の絵の支持体にしてしまうという「ヤケクソ」の境地は、或る意味で「強靭な精神」(「因業」)の賜物である。

(注16)参考:「飯田春行旧蔵資料の調査 〜新潟現代美術家集団GUNから〈地霊〉まで〜」藤井素彦
https://www.ncam.jp/wp-content/uploads/ncam_blltn_10_fujii.pdf

(注17)参考:会田誠「ランチボックス・ペインティング」
https://metropolitana.tokyo/ja/archive/aida_makoto

(注18)死去1年後に開催された2023年6月9日〜20日の古町「羊画廊」での「飯田春行 遺作展」には、この「納豆のフタ」絵画は出品されていなかった様だ。

(注19)「厭なものは厭なのです。そう叫び続ける人がいていいはずです」(「エヴァスロ」チラシの裏に書かれた飯田春行の「遺稿」から)

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新潟市美術館近傍の小さな書店「だるまや書店」(2025年閉店)(注20)の二代目主人、井上正夫(画号:霞舟)の「発表」/「公開」を視野に入れていない「作品」の数々が、「発見」によって今回「白日の元」に晒された。しかし「発見」もまた「傷だらけ」と引き換えのものだ。「『発見』されなければ」という “if" が、常に「野生」の世界には伴うのである(「大小」の「パンダ」がそうであった様に)。

(注20)新潟ミル「だるまや書店」
http://niigatamill.com/offices/%E3%81%A0%E3%82%8B%E3%81%BE%E3%82%84%E6%9B%B8%E5%BA%97/

「キュレーター」はもとより「制作者」(「アーティスト」)にあっても、「社会化」である「発表」/「公開」は必ず何らかの形で「社会的」に「傷を追う」もの(周囲の人間も巻き込まれる)だ。小さな「書店」主の井上正夫がその「作品」を生涯「公開」するに至らなかったのは、それを回避する故だったのかもしれない(故郷から遠く、若い頃に絵を学んだという「東京」でなら「発表」/「公開」の人生が可能だったのか)。彼の言う「俺の人生は20歳で終わった」は、「公開」(社会化)に伴う「傷だらけの人生」に対するアンビバレントな感情の吐露の様な気がした。

学芸員氏から、会期後のこれらの「作品」の「今後」の可能性の一端を聞いた。その時頭の中では、「野生」に戻されるべく「娑婆」に「放鳥」されたトキ(国の特別「天然」記念物)が飛んでいったのである。

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照明を絞られた「新潟地震と児童版画」。存命であれば現在72歳から73歳の人達による、新潟私立南万代小学校卒業(1965年3月)時の「記念」に制作した版画集からのものだ。折しも「新潟地震」(1964年6月16日)のその年の、日本に於ける「記憶」の最大(「メジャー」)のものは、「アジア初の夏季五輪」である「東京オリンピック」(1964年10月10日〜24日)や「東海道新幹線開通」(1964年10月1日)だ。即ち「日本の歴史」に於いては、「東京オリンピック」や「東海道新幹線開通」よりも「レッサー」な位置に「新潟地震」は位置させられてしまっている。日本の「中央集権」化/東京の「一極集中」化が着々と進んでいた(注21)その時に、「新潟」という「地方」での大地震が起き、それが「東京オリンピック」にほぼほぼ影響を与えないものであるという点で、「新潟地震」の「歴史」的ポジションというものが決定されているのである。

(注21)因みに新潟県は1874年から1876年まで、1882年から1883年まで、1887年から1896年まで都合3回「人口日本一」だった事がある(北前船海運に於ける一大拠点と米作日本一による)。1897年に東京府(1943年から東京都)が新潟県を抜き、敗戦の年の1945年のみ北海道に抜かれた後、1946年から再び東京都が「人口日本一」となり現在に至る。東京や大阪、京都の銭湯の初代経営者に新潟(→東京)、石川・富山(→京都・大阪)の出身者が多いのは、工業化に立ち遅れた日本海側の農家の次三男等が太平洋側の大都市に流出した事による。

カタログには「映像にも劣らぬ痛切さ」とあるが、その「痛切さ」は、コントラストの高い陰影表現にも見られるところだ。少なからぬ児童のそれが、人物の半分をブラックアウト、乃至は全面的にブラックアウトさせている。それはつげ義春(1937〜2026)の「ゲンセンカン主人」(1968年)に使用された表現にも似る。半分黒い存在、或いは全てが黒い存在としての被災者像。それは確かに「映像」には収まらないものだ。そして新潟の児童達は、「第二次世界大戦」からの「復興」(ほぼほぼ「東京大空襲」からの「復興」)ではあっても、「新潟地震」からの「復興」ではない「東京オリンピック」の狂騒的なテレビ中継をアンビバレントな気持ち(「半分黒い」)で眺めていたのかもしれない。

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「大衆割烹〈大佐渡たむら〉のお品書き」。それは或る意味で「手書き」の対極的位置にあるものだ。美術館スタッフの懸命(血だらけ)の「擬態」の「手書き」を嘲笑うかの様に、「達筆」(「手書き」の達人)である筈の創業店主による(一見「クラフト」的な)「切文字」には、「機械化」への憧憬(路傍による「機械」的翻案)の様なものも見えたりもし、それは或る意味でウィリアム・モリス的な「小芸術」へのカウンターの位置にある。世に「タテカン」フォントや「丸文字」フォントというものが存在する以上、この「大佐渡たむら」フォントというのもあり得るかもしれないとも思ったりする。それは「手書き」と「それ以外」の区別の集合的根本を壊乱するのである。

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一転して明るい展示室に展示された「越後川口SAの手描きポスター」の(古語で言うところの)「レタリング文字」にもそれは感じられるところだ。「機械」的に「無個性」である事を自らに課しながら、ポスター制作の「プロ」が「機械」(DTP含む)を使用して出力する事を避けて通るアウトプットがされている。それは狭義の「まごころ」故であり、同時に幾ばくかの「『機械』になる」自己愛も感じさせられる仕事である。時代が新しくなるにつれて「マニエリスム」が亢進しているのは、その自己愛故なのだろう。

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再び展示室が暗くなり、「地下駐車場のサンシャイン壁画」である。嘗ての海運の街であり、掘割の街でもあった新潟の新潟島で最後に埋め立てられた西堀の跡地に作られた地下街「西堀ローサ」(注22)と「西堀駐車場」。その地下駐車場の壁面に書かれた「明るい」壁画である。西堀が埋め立てられたのは、流通の趨勢が海運から陸運へと変化した事による。1964年の新潟国体(第19回国民体育大会。多くの「セメント彫刻」が作られた)が行われる直前に埋め立てられて道路(西堀通)化され、その開通式では国体の為に新潟を訪れていた昭和天皇・香淳皇后の車がそこを通過したという。新潟国体が閉幕したのは6月11日であり、その5日後の6月16日に新潟地震が発生した。

(注22)参考:「調査した全パターンで赤字「西堀ローサ」利用継続の試算・・・厳しい結果に【新潟】」(新潟テレビ21)
西堀ローサ(恐らく旧称になるのだろう)の今後はどうなるものかは分からないが、「古町活性化」を企図する新しい施設が出来たとして、その施設全体が名称を含めてこの「ヤケクソ」に「明るい」壁画の様なものになるのかもしれない。

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そして「路傍小芸術」展のトリを務めるのが、本展の「顔」でもある「松田ペット」だ。壮観であると言えば壮観である。しかし街中に点在し、時間的にも数十年の厚みのある、サイズ的にも相対的に大きなものを一箇所に集めたら、それは壮観になるに決まっている。あの人間の目をした(人間の目であるところが重要)ビーグル、チワワ、ヨークシャーテリア(例)の三尊像に言及するというのが筋な様な気もする(気がするだけ)訳だが、正直なところを言えば「例の看板」そのものに対して「引っ掛かり」はほぼ無い。


二代目看板職人、青柳謹一氏が使用しているペイントの一つ。「大同ロイヤルカラー」

使用している筆類に「年季」を感じるものの、一方でその制作に使用される塗料カップがヤオコーの「北海道ヨーグルト」の小カップというのは忘れ難いポイントである。

「松田ペット」で(そして本展全体で最大級に)個人的な「引っ掛かり」を感じたのは、「令和の新時代 天皇ご一家の姿」という「看板職人」の手になる水彩画小品である。只々単に「それだけ」/「以上!」のものである。例えば「美術」の側からすれば、「天皇」の作品化というのは小泉明郎の様なもの(注23)だったり、或いは大浦信行(注24)という名を上げる事も可能だ。畢竟それらは「他意」に基づくものであるが故に「美術」たり得ている訳だが、しかしこの水彩画はそうではない。単に「それだけ」/「以上!」。「描かれた意図」を詮索するまでもない、詮索する事にさほどの意味もない「それだけ」/「以上!」。全てに於いて「セーフ」の「無問題」であるのに、限りなく「アウト」にも見える「それだけ」/「以上!」。この「それだけ」/「以上!」である事こそが「野生」であり、「それだけ」/「以上!」であるからこそ様々に多元的であり、従って「それだけ」/「以上!」はセルトー的な「戦術」に比す事も可能なのだ。「ペット」ならぬ「野生」が「噛みついてくる」というのはこういう事なのかもしれない。

(注23)小泉明郎「空気」
https://www.mujin-to.com/exhibition/air/#&gid=1&pid=2

(注24)大浦信行
https://artscape.jp/artword/6388/

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一通り「路傍小芸術」の展示を見て、会場の外に出ると、そこには企画展会場に入る前に首を突っ込んでみた「松田ペット」の顔出し看板がある。「ぜったいさわらない ヤクソクね」ばかりだったところに、この「ふれあい動物園」である。そのインストールこそが、この「路傍小芸術」の白眉なのかもしれない。その「ふれあい動物園」の右奥には、フェルナン・レジェの「読書」(原画1924年)が見えている。これは材質・技法的には「石・ガラス・漆喰(モザイク)」であり、レジェの死から29年後の1984年の「完成」である。即ちこの新潟市美術館の「至宝」の一つでもあるだろう「レジェ」は、或る意味で「国立西洋美術館の『ロダン』」(例)以上の「ライセンス生産品」(「路傍」のアルチザンによるアセンブル)であり、それが「松田ペット」という「野生」に「被曝」させられる事で、そのリンク先の一つが「路傍」展内「にいがた銭湯展」の「銭湯タイル画」(「石・ガラス・漆喰(モザイク)」という事にもなってしまい、あろう事かそれと重なり合ってしまったりするのだ。「レジェ」のモザイク画≒「銭湯」のタイル画という円環構造。恐ろしい限りである。

ここで一旦、同展カタログに引用されたバタイユを上げておく。

「世界が純粋にパロディであるのは明白なことだ。つまり人が目にする事物はどれも他の事物のパロディなのである」(「太陽肛門」)。

世に「細かすぎて伝わらないモノマネ」というものがある様に、「細かすぎて伝わらないまごころ」というものもある。或いは声高なものではない「まごころ」の多くはスルーされるしかない運命にある。しかしその「まごころ」の先端は多かれ少なかれ尖っているのである。

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こうして「まごころ」に刺されまくった観客は展覧会を後にする。それでも「まごころ」によって「野生」への関心が幾らか(数分の時限的にでも)高まるという事はあるかもしれない。帰路で今まで見逃していた「野生」を見つけてはニコニコ、ハッピーになるというケースもあり得るだろう。しかしそれが「愛玩」(ペット)という「『視線』の『政治』」に基づくものなら、それは却って害悪である。

「サバルタンは語ることができるか」ならぬ「『野生』は語ることができるか」というものはあり得るだろうか。しかし「野生」というのは畢竟「それだけ」/「以上!」そのものなのである。「物自体」(“Ding an sich")ならぬ「野生自体」(“Wild an sich")。「それだけ」/「以上!」というのは、「それだけ」/「以上!」の世界に生きていないと思い込んでいる者にとっては、峻厳なアポリアとして立ちはだかる。しかし「野生」こそがベース──即ち「無縁」ではない──である我々が考えられる事は、アポリアの超克を含めて幾らでもある。