「展評」

子供だった時分、楽しげな時間に「魔を指す」ものが数々あった。その中の一つに「霊柩車が通る」というものがある。「霊柩車」を先頭にした車列が眼の前を通過し、それらが視界から消え去るまで「親指を隠す」という事も行われたりもした。

「親指を『隠す』」理由、何故に「隠す」のが「親指」でなければならないのかの理由は様々に言われている。その一々はここでは記さないが、要は「死」(「不浄/穢れ」)の領域が「生」(「浄」)の領域に入り込むのを阻止する「まじない」の一つが、「霊柩車を見たら親指を隠す」である。「親指」さえ「隠し」てしまえば、後は「生」(「浄」)の領域で幾らでも遊べると、可憐な子供は信じる/信じさせられるのである。

「浄」と「不浄」を切り離す「まじない」としては「えんがちょ」というものもある。「えんがちょ」は、排泄物等の「向こう側」(不浄)に行ってしまった物質に触れた際に、「不浄」の「『感染』拡大」を防止する「効果」があるとされる。実際問題としては屁の突っ張りにすら何光年も遠くても、それでも「3秒ルール」的な「精神」安定上の「意味」は、可憐な「子供」の「界隈」に於いては大いにある。「コロナ禍」で猛烈に拡散した「アマビエ」──可憐な「アーティスト」がその拡散の先棒を率先して担ぐなどという事もあった──も、可憐な「えんがちょ」の可憐なバリエーションの一つだった。それはまた「千引岩」(注1)的な「伝統」の一つなのかもしれない。

(注1)「爾千引石引塞其黄泉比良坂」(「千人引きの大きな岩をその黄泉比良坂まで引っ張ってきてこれを塞ぐ」:古事記

とは言え、しばしば「えんがちょ」という「浄化」は、「差別」──「被差別」を「不浄」故のものとする──をドライブする動力源になるという事は忘れてはならない。子供時分にその「存在」を理由に他人様相手に「えんがちょ」を行使した記憶を持つ人間は少なくないのではないか。胸に「よーく」手を当てて回顧してみれば、その「えんがちょ」が「差別」と切り離せないものであった事に思い至る事もあるだろう。

いずれにしても「霊柩車を見たら親指を隠す」も「えんがちょ」も、自らが「浄」の側に「いる」と信憑している──根拠薄弱──側にいる者が行う「まじない」だ。「まじない」というのは何処までも「生」(浄)の側に「いる」者のものであり、「死」(不浄)の側が宛名のものではない。キョンシー(殭屍)の「暴走」を「停止」させる護符が、こちらが「読める」様に向けられている──「死体」であるキョンシーは読めない──のは何故か。

「生」と「死」を峻別する「まじない」とは異なり、相対的に「洗練」された宗教の教義は、多かれ少なかれ「裏腹」なものとして見られる「生」と「死」を「総合」する。その下(もと)で執り行われる葬儀の際、読経や説教等というものがされるが、それらの宛名も「死者」に対するものの様でありながら、実際には「生者」である参列者に向けてのものだ。

木魚を叩きながら僧侶の口から誦せられる日本的様式美(注2)の「しきそくぜーくう、くうそくぜーしき、じゅそうぎょうしきやくぶーにょぜー(yad rūpaṃ sā śūnyatā,yā śūnyatā tad rūpam,evam eva vedanāsaṃjñāsaṃskāravijñānāni.)」は、「死者」に「言い聞かせる」ものであるというよりは、「聞いてっか?そこのおまいら」である。葬儀会場で簡易なルビ振り「経典」を渡され、参列者が僧侶と共にそれを唱和するのは、そこに書かれている事を「生者」の側にいる者に宛てる為だ。司祭がバイブルの一節を引いたりするのも「聞いてっか?そこのおまいら」であり、賛美歌の聴者はそれを歌う者なのである。誰でもない「あなた」に宛てている様に書かれているものの宛名の一つが、それを発しそれを聞く自分自身であるという構造をそれらは持つ。葬儀とは「生」と「死」の「総合」後の「生者」に対するセルフ教化の装置なのである。

(注2)「元歌」に近いとされるもの。

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大村益三とその残欠 -『ネコになる』という選択肢-」(以下「残欠」:2024年4月26日〜6月30日「新潟市美術館」)は、楽しげな美術館展示──基本的に「楽しげ」にする事を企図しているのが「展覧会」という「見世物」である(注3)──に「魔を指す」形で闖入して来た「霊柩車」(注4)の如きものだ。しかもそれは、実際の「霊柩車」の様にたまたま通り過ぎているというものではなく、わざわざその場に「乗り付け」ているものであり、その意味でその存在としては、時と場合によっては傍迷惑ですらある「街宣車」に近いものだ。「ピュア」な「子供の心」を「失わない」美術館詣の善男善女は、「残欠」展という「『柩』が積載された『街宣車』」を前にして「親指を隠す」事をしなければならず、「えんがちょ」の印を結ばねばならないのかもしれない。

(注3)そして「残欠」展もまた、「展」である以上「楽しさ」を目指している「見世物」である。

(注4)実際の「霊柩車」は、家や斎場から火葬場に向かうものであるが、「残欠」は「焼けた」後のものが並べられている。そして現実の火葬場は、火夫が竹の箸で骨(残欠)をピックアップしながら、その「太さ」(例)をして「体が丈夫な方だったのですね」(例)などという「復元」/「捏造」に基づく「評価」が飛び交う空間なのである。

「残欠」展は京都の「一条戻橋」、或いは「もののけ」がパレードする百鬼夜行の舞台である一条通──平安京に於ける「この世」と「あの世」の空間的境界線──の様なもので、「この世」(浄)と「あの世」(不浄)の境界の、「あの世」側に位置している。その境界(「残欠」展)の向こう側はすっかり「あの世」なのだ。

即ち2024年4月26日から6月30日までの「新潟市美術館」に於ける「残欠」展を蝶番とした「コレクション展 ニャン ーネコ用品専門展ー」(以下「ネコ用品」)は、担当学芸員である藤井素彦氏の表現を借りれば「この星に生きる全ての人間が命を失った時(人類滅亡)」以降の、言わば「人間」の「墓地」なのである。そもそも美術館の「常設展」は、普段は「冷暗所」に仕舞い込まれた「美術作品」がムクムクと「蘇生」し、「生き生き」と「歌い踊る」様を「見せている」ものだ。

Michael Wolgemut, Danse Macabre, woodcut of the Nuremberg chronicles (f 264r), 1493

「常設展」の「脱構築(deconstruction)」とも言える「ネコ用品」展では、「収蔵作品」を「ネコじゃらし gazing」や「キャットタワー climbing)」等のネコ用品に見立て(「捏造」して)いるが、しかしそれらは実際には「人間」にとってしか意味を持たない文字列や十字架を頂く「石」(「墓標」)(注5)が並ぶばかりなのである。

(注5)「墓標」としての「石」に刻まれる文字列は、「先祖代々之墓」「〇〇家之墓」的な「家制度」を前提にしたものが多いが、それを嫌って「愛」や「絆」や「想」や「夢」や「空」や「希望」や「平和」等──日本のモニュメント彫刻のタイトルに使用される語句をダイレクトに想起させる──と刻むものもある。しかし「この星に生きる人間」が付したその「表現」の如何に関わらず、ネコにとっては「石」は「石」以上でも以下でもないものなのであり、どの「石」がどのネコ用品になるかは、ネコのみぞ知るなのである。

通常の「常設展」ならば、その「美術作品」の「楽しげ」な「ダンス」を見てそれに興じる事も出来るだろう。しかし「ネコ用品」展は「死」のゲート(「残欠」)を一旦潜らされ、その「通過」こそが前景化されているのだ。結果として「ネコ用品」展──及び「企画展」──に並ぶ「美術作品」を、「普段」通りに「鑑賞」するというのは、かなりハードルが高い営為となってしまっている(注6)。「残欠」展/「ネコ用品」展というメデューサは、その周囲にある「美術作品」──少なくとも同館内までは及ぶ──を「石化」する(「人類以降の時間」に拉致する)だけでなく、見る者をも「石化」する(同)のだ。それは「石」になどなりたくない善男善女にとっての脅威であり、可憐の敵であると言えるだろう。「残欠」展/「ネコ用品」展は、それらを構成する「一つ一つ」を見るものではなく、「展覧会」を装った「装置(equipment)」なのである。

(注6)五十嵐太郎氏のXポスト。

東京のネコ集結地の一つとして名高い「谷中霊園」。そこにある墓石は、ネコ目線では「猫ひんやりプレート」(「石」)でしかないのであり、ネコ社会に於けるネコ相互間に於けるテンポラルなテリトリーを保証するもの(隠れ場所)でしかないのであり、「死者」に対して「人間」が花を手向ける花立てはネコの水飲み場でしかない。そもそもが「墓地」という「人間」にとって「死」の領域にあるとされる場は、ネコにとっては単純に生活の場であり、その生存を維持する狩猟の場であり、次世代に繋げる発展の場である。「人間」にとって「死」の場所である「墓地」は、ネコにとって全き「生」の場なのだ。

「ネコ用品」展/「残欠」展は、生物種として極めて弱々しい「人間」によって、ネコにとっては心地の良い「ひんやりプレート」を「意味」有りげに削った「痕跡(écriture)」でしかない「◯◯家」や「先祖代々」や「愛」や「夢」や「希望」や「平和」の如く弱々しい「人間」の営為である「美術作品」が、生物的サバイブの「勝利」者として「仮構」された「ネコ」を介する事で反転し「墓標」化/「ひんやりプレート」化されたものである。

「ネコ用品」展/「残欠」展という「装置」は、「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」「人に訪れる死を忘ることなかれ」的な「呪い」の掛けられた「九相図」でもある。「美」の横に、その「骨」を置く様な「蛮行」である。しかしその「呪い」が「呪い」として成立する事こそが、逆説的に「芸術」という「ネコ」(例)世界とは無縁のものが成立する必要条件なのである。「芸術」は、「私はネコではない」(例)という弱々しい自己規定──「ネコ」(例)を始めとしたあらゆる「生」の形の「補集合」──によってのみ、辛うじて成立可能な何かなのだ。

「人間」は何時か死ぬ。「ネコ」も何時か死ぬ。恐らく前者の「死」は「芸術の死」にも通じるものがあるだろう。しかし後者の「死」は、「芸術の死」とは全く無縁なものなのだ。

「風流」

 水は低きに流れ、人は高きに集まる。世界各国の近世経済史は、一次産業人口の二次、三次産業への流出、つまり、人口や産業の都市集中をつうじて、国民総生産の拡大と国民所得の増加が達成されてきたことを示している。農村から都市へ、高い所得と便利な暮らしを求める人びとの流れは、今日の近代文明を築きあげる原動力となってきた。

(中略)

 明治百年をひとつのフシ目にして、都市集中のメリットは、いま明らかにデメリットへと変わった。国民がいまなによりも求めているのは、過密と過疎の弊害の同時解消であり、美しく、住みよい国土で将来に不安なく、豊かに暮らしていけることである。そのためには都市集中の奔流を大胆に転換して、民族の活力と日本経済のたくましい余力を日本列島の全域に向けて展開することである。工業の全国的な再配置と知識集約化、全国新幹線と高速自動車道の建設、情報通信網のネットワークの形成などをテコにして、都市と農村、表日本と裏日本の格差は必ずなくすことができる。

田中角榮著「日本列島改造論」(日刊工業新聞社:1972年)

2024年5月10日。「表日本」と「裏日本」を結ぶ新幹線に初めて乗る。その主たる理由は、新潟市美術館で行われている「大村益三とその残欠ー『ネコになる』という選択肢ー」の会場に赴くというものである。会場設営自体はその2週間ばかり前に館側によって基本的に「終わって」いるから、主たる目的は「完成」された展示の「視察」になるが、黒塗りの公用車は仕立てられていない。今回の新潟に関しては日帰りの旅程であり、それを可能にしたのもまた新幹線だ。

「日本列島の主要地域を一日行動圏にする」「全国新幹線鉄道網が実現すれば、日本列島の拠点都市はそれぞれが一~三時間の圏内にはいり、拠点都市どうしが事実上、一体化する」「これからの新幹線鉄道は、人口の集中した地域を結ぶだけではなく、むしろ人口のすくない地域に駅を計画的に作り、その駅を拠点にして地域開発をすすめるように考えなければならない」「その地域の総合的な都市計画の一環として駅、駅ビル、広場、ターミナルなどの関連施設を建設する」という、1950年の「国土開発総合法」から始まり1968年の自由民主党の「都市政策大綱」で一つの形になった田中角榮新潟県刈羽郡二田村:現柏崎市生まれ)のヴィジョンの結実の一つが、「新潟市内は東京都内と同じ」になると半世紀余前に「日本列島改造論」の中で田中が述べたこの上越新幹線──及び関越自動車道──である。

田中が国土開発に於いてイメージしていたのは、サイフォンの様なものだったのだろう。「管」(tube)──それも太い──を通す事で「高き」ところ(最終的には「東京」)にあるものが「低き」ところ(「裏日本や北日本、南九州」等)に「自然に任せる」形で大量に流れ込み、全国的なレベルの平準化(「格差解消」)が実現される。各地の拠点都市は移動時間の短縮により「東京都内と同じ」になる。各地方都市が「東京都内」ともなれば、「東京駅」からの心理的距離が縮まるが故に、「東京」からの資金流入や人的移動が加速化し、低開発地域の水位が「東京」並に上がるのではないかというのが、サイフォン的ヴィジョンである。

上越新幹線「下り」列車の終点である新潟市は、その開通によって言わば「東京都新潟市」──東京都板橋区上越新幹線「上り」列車が最初に通る東京都)の「隣」──の如きものになるとされた。果たせるかな「東京」から新潟に三越が来る(下る)。ラフォーレ原宿が来る(下る)。確かにそういう事もあった様だ。しかし「管」(tube)には別の使用法がある。「ストロー」である。

東京・新潟間の移動時間が短くなる(最短1時間半)という事は、新潟のビューポイントからすれば「『上り』列車でちょっと行けば都心」になる。その心理的距離(金銭コストは別)は東京都八王子市民が東京都中央区銀座に行く(1時間半)様なものなのかもしれず、「すぐそこ」の「東京ディズニーランド」や「銀座三越」や「ラフォーレ原宿・原宿」が、「サントピアワールド」や「新潟三越」や「ラフォーレ原宿・新潟」の「ダイレクト」な比較対象になる。

こうして飛行機よりも移動のハードルが高くない新幹線の開通は、その「ストロー効果」によって格差解消どころか格差拡大を助長する。そもそも「ここ」(新潟県)の最低賃金が931円(全国25位)であるのに対し「隣町」(東京都)の最低賃金は1,113円(全国1位)なのだ(注1)。同じマクドナルドで全国統一の同じ仕事──客対応やハンバーガーのアッセンブルやドリンクカップのリッドを押す等──をしても、「ここ」で得られる自己への評価は、「ここ」に留まる限り、「ここ」の人間であるという「生来」的な理由──「努力」では乗り越え不可能──だけで低く見積もられてしまう「地方」という「カースト」の下にある。

(注1)2024年5月現在。アルバイト・パートの平均時給(募集時)は、東京都と新潟県ではほぼ全ての職種で200円以上(ほぼ2割)の差がある。例えば新潟駅の駅ビル「CoColo新潟」に「成城石井」や「無印良品」等が入っても、その商品価格には「為替レート」──東京高/新潟安──が生じているのである。

合理の中で生きる権利を持つと信じる「ここ」の若い世代からすれば、「電車」で1時間半(注2)の「すぐそこ」に「ここ」よりも遥かに魅力的な働き口やキャリア構築の入口が「見える」のである。田中の高速鉄道は、結果としてそれまで「遠さ」故に「見えなかった」(手が届かなかった)ものを、「近く」する事で「見える」(手が届く)様にした。他方で「東京都新潟市」になれば、固定費の掛かる支店や事務所設置の必要性も薄れ、従来業務の多くは「新幹線日帰り出張」で代替可能にもなるから、ビジネスシーンに於ける新潟のホテルやオフィスの需要も縮小する。「ホテル経済」や「支店経済」を始めとする雇用のシュリンク故に30代から40代のUIターンも無い(注3)に等しい。「『ここ』にいたくない」と「『そこ』に帰りたくない」と「『そこ』に行きたくない」の三重苦を、各種数字が冷徹なまでに示してしまっている。人口動態から言って「ここ」に於けるより一層の高齢化は避けられなくなる。

(注2)リニア中央新幹線は、東京ー名古屋間を40分、東京ー大阪間を67分で結ぶという、前者は東京ー武蔵小金井間、後者は東京ー西八王子間の様なものであり、地方都市に於ける「東京」の「すぐそこ」化をより加速する。中京、関西は、リニア開通で今以上にシュリンクするだろう。

(注3)

新潟県の現状をどう見ますか。

 「私が想像した以上に深刻だ。2015〜20年の年齢階層別の人口増減率を見ると、20代がごそっと流出し、30、40代を(UIターンで)取り戻せていない。問題の根幹は、20代女性が大幅に流出していることだ。男女の人口がそろわないと、次の世代の人口が減ることになる」

「想像以上にヤバい新潟県の人口減少…全国最悪クラスから復活に向かう新潟の底力とは―藤山浩氏に聞く」(新潟日報

www.niigata-nippo.co.jp

「ストロー」の吸引力に抗える合理的な「引力」(注4)というものはあるだろうか。「消滅可能性自治体」までには至らなかったものの、「自然減対策・社会減対策が必要」と「人口戦略会議」からカテゴライズされた町へのこの「旅」(日帰り)は、「重力」を巡るものになるだろう。

(注4)「遠心力」と「引力」の合力が「重力」になる。従ってその土地の「質量」が小さくなれば、その土地自体の「重力」も小さくなる。また「東京」と「新潟」2点間の距離が「縮まる」事で、相対的に大きな「質量」を持つものに小さな「質量」を持つものはより引き寄せられる。その結果、吸い込む「口」(「東京」)は極端に高密度、極端に高重力になり、「ブラックホール自治体」への道を進むのである。

少なくとも「新潟」を始めとした「地方」の「衰退」は、「失われた」と言われて久しい──やがて半世紀──「日本」の「衰退」と構造的に同じだ。寧ろ「日本」の「衰退」の構造的諸問題の殆どは、「地方」から「始まる」のである。その意味では「地方」こそが、「日本」の「最先端」にあると言えるだろう(注5)。「日本」の「これから」を考える上でも、「地方」に於ける「これから」を実現させようとする試みの数々とその成否を、我が事として引き受けなければならないのかもしれない。

(注5)「日本」の「美術」界に現れては消え、再び別の形で現れる「日本特殊論」のヴァリアツィオーネもまた、世界の中の「地方の美術」としての「日本の美術」問題と言える。

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新幹線ときが新潟駅の構内に進入する。車内放送が在来線乗り換えはこちら側のドア、改札出口はそちら側のドアといった内容のアナウンスをしている。早くも駅のダンジョン具合が予告されているのだろうか。とは言え、そのカオスは東京・渋谷や大阪・梅田までには至らない「可憐」なものだろうとも想像する。不合理な作りの公共空間などというものは、合理の欠如を美徳とし、時にそれを誇ったりもするこの国にあっては何処にでも存在する「いつものこと」(日常)なのである。

どうやら待ち合わせをしている人物が待つ改札とは別の改札を出てしまったらしい。狭隘な「東西通路」を伝ってもう一つの改札に向かう。銀行ATMが設置された辺りで魅力的に広いペデストリアンデッキが、「東西通路」と並行した形で右側にいきなり出現するものの、そこを通れば通ったでまたややこしい事──自動ドアを出て再び自動ドアを入る──になりそうなので、「対向者」とぶつかりそうになりながらそのまま進む事にする。

その幅1.5メートル程の「廊下」が終わり東側連絡通路に出ると、正面に何やら「ブロンズ像」が見える。人物像ではなく犬(柴犬:雌)の像だ。「新潟が世界に誇る」ものの一つ、東京・渋谷の「忠犬ハチ公」と並び称されると新潟ではされている「忠犬タマ公」(注5)を象ったものであるという。

(注5)「忠犬タマ公物語 主人の命を2回救った、立派な犬のものがたり。」新潟県五泉市

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尚、Wikipedia の「忠犬ハチ公」──リチャード・ギア主演の「ハリウッド映画」(ソニー・ピクチャーズ:全米劇場非公開)や各国の児童書にもなった──には「62の言語版」があるが、「忠犬タマ公」は「言語を追加」状態にある。また Wikipedia 英語版の「有名な犬」リストの内、「忠実な犬」(Faithful dogs)部門では「ハチ公」と「タロジロ」のみが日本からのエントリーである。

そのスタチューは日本の「表玄関」たる「国際空港」に於ける「おかえりなさい」と "Welcome to Japan 欢迎光临日本 잘 오셨습니다" の使い分けにも通ずるものなのだろう。「新潟」の「表玄関」である「新潟駅」の「忠犬タマ公」は、「新潟」に「帰って」来る者には「おかえりなさい」を意味し、「訪れる」 "Aliens"(余所者:日本人含む)には "Tama-ko. What's that? 玉公 那是什么? 다마코 그건 뭐야?" 以上のものではない。「忠犬ハチ公」と「忠犬タマ公」は単純な並立関係には無い。新潟の犬は「中央」(東京)と「地方」(新潟)の非対称性を担わされている──新潟にも東京に「負けない」もの、東京と「同じ土俵に立てる」ものがある──ものであり、その意味で「忠犬タマ公」は一種の「御国言葉」であり、コミュニティの成員であるか否かを選り分ける「符牒」(パスワード)なのである。

東京・渋谷の「ハチ」、新潟の「タマ」共にその名の前に「忠犬」が付されたのは、歴史的事実としては15年戦争時である(注6)。果たして「ハチ」や「タマ」(注7)から「忠犬」という人間の投影(「あやかり」)が外される日は来るのだろうか。しかしその時には、物語性を失った只の「ワンちゃん」への道を辿るが故に、公共空間に於ける銅像である事の意味を無くすだろう(注8)

(注6)「ハチ」が「忠犬ハチ公」になったのは1933年であり、「タマ」が「忠犬タマ公」になったのは1936年である。戦時中、金属供出された「忠犬ハチ公」像が戦後に再建された時、「忠犬」は軍国主義的だとして「名犬」や「愛犬」等に変えようという動きもあったという。「ハチ」に背負わされているのは「忠犬」だけではなく、「純血の秋田犬(「日本犬」:1931年に国の天然記念物指定)」というものもある。一方「タマ」に背負わされているのは「忠犬」の他に「新潟の地位向上」である。

(注7)「ハチ」や「タマ」には「公」が付けられているが、これは「畏れ多くも先の副将軍、水戸光圀公にあらせられるぞ」の様な尊称としての「公」ではなく、落語の「熊公八公」の様な「親しみを込めた」(affectionate addition)賤称、或いは全くの賤称(例:えて公、ずべ公、よた公…以下自主規制)のそれだろう。

(注8)本物の「ハチ」が出演した、映画「あるぷす大将」(P.C.L.映画製作所制作、1934年:監督:山本嘉次郎、原作:吉川英治)の一場面。山を追われた陽洋先生(丸山定夫)とあるぷす大将の於兎(伊藤薫)は、東京の渋谷を通り掛かる。渋谷駅前の「忠犬ハチ公像」(初代)の説明文を読んだ陽洋先生が、その「忠犬」ぶりにいたく感心する。振り向くと、連れのあるぷす大将は屋台の焼き鳥屋の前で、老犬の首筋を撫でている。「於兎、お前も読んでみろ。感心な犬じゃ。そんなムク犬なんていじっとらんで、こっちへこ」。するとあるぷす大将が返す。「先生こそこっちへ来なさいよ。これが本物のハチ公なんだよ。そんな銅像なんてつまんねえだ」。

新潟駅の「忠犬タマ公」像(作者:林昭三)は乳を腫らしている。幼少のロムルスとレムスがそこにいても──そちらは狼だが──良さそうなポーズではある。新潟県には「忠犬タマ公」の像が多く建立されている(注9)というが、この後の移動先で「忠犬タマ公」(御国言葉)の大量発生に遭遇する事になるとは、その時にはまだ知る由も無かったのである。

(注9)愛宕小学校(五泉市)、白山公園(新潟市)、新潟駅村松公園五泉市)、タマ公苑(五泉市)、そして県外の衣笠公園(横須賀市 揮毫:小泉進次郎。小泉家と「忠犬タマ公」の関係は深い)の6体。一方「忠犬ハチ公」の像は、渋谷駅前、東京大学弥生(農学部)キャンパス、秋田県大館市秋田犬の里、同市秋田犬会館、同市大館駅前、三重県久居駅前、アメリロード・アイランド州ウーンソケット・デポ・スクエア前等に建立されている。

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待ち合わせの人物と落ち合い、ペデストリアンデッキからバスターミナルにエスカレーターで下りる。同行の人物による新潟市に関するレクが始まる。その最初は、リニューアルしたばかりの新潟駅バスターミナルの「炎上」に関するものだ。

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先にも書いた様に、こうした事は「いつものこと」なのである。この様な問題を抱えた路線数の多いバスターミナルは大なり小なり全国津々浦々に存在する。まだしも新潟のケースは「階上/階下」を行き来する三系統の手段の内、エスカレーターとエレベーターが設置されているだけ「人情」が感じられるとも言えるだろう。少なくとも重いスーツケースを手に階段を上り下りさせられたり、昇降機に至るまでが極めて遠かったりする様な「非情」な作りは「ここ」には無い。

乗車したバスは新潟交通のそれだ──事実上ここには同社のバスしかない。同行者が後部ドアのカードリーダーにICカードを読み取らせる。自分もまた1月1日にJR西日本管内で発生した能登半島地震で、マイナカードの不備(不備としてのマイナカード)を補う形で「活躍」したJR東日本Suica(23年もの)を読み取らせる。同行者使用の交通系ICカードは「りゅーと」と呼ばれるものらしい。新潟交通バスは、全国10種類の交通系ICカードが使用可能だが、「りゅーと」は地域独自カード(全国37種類)の為に「りゅーと」エリア(新潟交通)でのみ使用可である。

「りゅーと」というネーミングは、新潟市中央区の一部エリアである所謂「新潟島」の、そのまたごく一部のエリアの雅称と言われたりもする「柳都(りゅうと)」から取られたものであるという。新潟交通のバスがカバーする下越エリアの、点の如く小さな一部区域をしか指さない「柳都」がICカードの名称として採用されているのである。その「柳都」なる呼称が、何時から一般的なものになったかは解らない(注10)

(注10)国会図書館検索で簡易に調べてみたが、書名に「柳都」が最初に現れるのは「柳都」という新潟の川柳同人誌の1958年の号(通巻第109号)であるものの、この「柳」は「柳都」のそれとは直接関係していない、寧ろ「川柳」の「柳」であったり、主催者の「大野風柳」(本名;英雄)の「柳」であったりするのだろう。それ以前の、例えば江戸時代の古地図にある「柳都」は「江戸」を表す語である。またサジェストされた著者検索では西堀通4番町の笹川餅屋四代目の「柳都山人(笹川勇吉)」──新潟郷土史研究家・地域文化功労者として文部大臣賞受賞。一般家庭で作られるものだった笹団子を、「日持ち」がする製法の開発により、新潟国体(1964年)を期に「新潟土産の和菓子」の地位に押し上げた立役者とされている──辺りしかヒットしない。「新潟市」を意味する「柳都」が書名に大量発生するのは、1990年代以降からである。いずれにせよこうした案件には「利害関係者」による遡行性を伴った歴史修正主義が常に付き纏う。「恵方巻は日本古来の伝統」や「江戸しぐさ」等々がその代表格である。

「柳都=新潟市」をアピールする「利害関係者」による説明を引く。

信濃川阿賀野川の二大大河に開けた新潟市は、かつて市内にいくつもの堀が張り巡らされた水の都でした。
堀に沿って幾千本もの柳の木が植えられ、その柳の木が作り出す景観の美しさから柳の街、柳都(りゅうと)と呼ばれました。
その柳が作り出すもう一つの世界が花柳界。新潟古町芸妓は、京都の祇園、東京の新橋の芸妓と並び称されていました。

(中略)

 新潟古町芸妓の発祥は、江戸時代にまでさかのぼります。その時代、新潟は日本一の米産地を背景に西回りの北前航路の拠点として出船入船でにぎわい、多くの人々が交流する町でした。粋を凝らした料亭が軒をつらねる新潟には、文人墨客や政財界の主役達が日本中から集まってきました。訪れる人々をもてなす中心は芸妓たち。芸妓たちの新潟らしい心情と美しさは、堀と柳の風光と相俟って、「新潟情緒」として全国に伝えられたのです。最盛期には300人あまりの芸妓たちが華やかに活躍していたといいます。

www.dip.co.jp

この文章に書かれている「多くの人々」「文人墨客や政財界の主役達」「訪れる人々」「全国」を統べる言葉があるとしたら、それは「おっさん」という事になるだろう。上掲の文章に「おっさん」を置換代入すれば「新潟は日本一の米産地を背景に西回りの北前航路の拠点として出船入船でにぎわい、多くの『おっさん』が交流する町でした。粋を凝らした料亭が軒をつらねる新潟には、文人墨客や政財界の『おっさん』達が日本中から集まってきました。訪れる『おっさん』達をもてなす中心は芸妓たち。芸妓たちの新潟らしい心情と美しさは、堀と柳の風光と相俟って、『新潟情緒』として全国の『おっさん』に伝えられたのです。」となる(注11)

(注11)古町花街に店を構える料亭「鍋茶屋」サイトの「鍋茶屋の歴史」のページには、「古町と奇人、粋人」という章がある。そこには御丁寧にも「やに下がる『おっさん』とそれを囲む芸妓」の画像が二葉掲載されている。その内の一枚は、他の画像に比して余りに「低解像度」である為に、恰もモザイク処理を施されたかの様でもある。

www.nabedyaya.co.jp

「おっさん」の「おっさん」による「おっさん」の為の「歴史」と「伝統」。ここには「おっさん」の関心の外にある「女」(≒「婦人」)の存在は無い。座敷等で遊ぶ事の出来る金を持たない「男」(「上客」ではない者)も存在しない。「歴史記述」のアポリア/観察者問題がここにもある。「花街」(+「娼街」)にダイレクトに繋がろうが繋がるまいが、「柳都」は湊町に金を落としてくれる「『おっさん』の都」と同義であり、そうした「おっさん」コミュニティのパースペクティブによって前景化と後景化がされた名称なのである。

新潟市の「観光・国際交流部 観光推進課」(所在地:元「大和新潟店」、現「古町ルフル」)は、「SDGsを学べる新潟市教育旅行プログラム」という体験プログラムを実施している。

新潟市新しい観光スタイル推進協議会では、学研グループ(株式会社地球の歩き方、アイ・シー・ネット株式会社)の協力のもと、修学旅行等で活用できる体験プログラムを作成しました。
当プログラムでは新学習指導要領に対応した主体的・対話的な深い学びを提供できる事前・事後学習を含み、SDGsの目標達成に寄与する内容となっています。
新潟市に教育旅行を検討している学校関係者・旅行会社の方は是非、ご覧ください。(令和5年3月一部改訂)

www.city.niigata.lg.jp

パンフレット
https://www.city.niigata.lg.jp/kanko/kanko/newnormaltourism/kansui202203251.files/3nights.pdf

「5つの学び」の筆頭に、「花街文化と古町芸鼓の芸と心意気を学び、衣装をつけての疑似体験!」がある。4日間プログラムの「相談窓口」は「新潟市観光・国際交流部 観光推進課」だが、簡便な1日半日プログラムの「相談窓口」は「柳都振興株式会社」である。

古町花街体験プログラムによる「SDGsの目標達成に寄与する内容」は、SDGsの「9 産業と技術革新の基盤をつくろう」と「11 住み続けられるまちづくりを」であるという。インフォメーションの文中には「(略)ジェンダー教育による価値観の変容などから、花街文化の継承が危ぶまれています」と新潟市の看板を背負う形で書かれているが、一方でこの花街体験プログラムでは「個別の体験に紐づく到達目標」として「5 ジェンダー平等を実現しよう」をも学べるとしている。新潟とニューヨーク(UN)との距離には数字以上のものがあるのだろう。

sdgs.un.org

いずれにしても「『おっさん』主体の歴史記述」から生まれたワードである「柳都」という名称の交通系ICカードを、小学生、中学生(注12)、高校生、大学生等々を含めた「女子」が使用させられたりするのである。「夢よもう一度」遡行の、「民間」(「おっさん」)主導の「成果」の一つがここにある。確かにここは上越新幹線開通で「東京都」に近くなった「東京都新潟市」ではあるものの、一方で「おっさん」コミュニティは近代までの距離を保ったままなのかもしれないと、「祇園」という酷烈な未成年者労働慣行──近代法が届かない近世/中世──が残存し、それを官民挙げて一大観光資源とする町から来た自分は、「りゅーと」のネーミングのオリジンを知った瞬間に印象付けられたのである。果たして「りゅーと」「柳都大橋」「りゅーとぴあ」等の名称決定の現場に於いて、「おっさん」の「委員」とそれ以外の「委員」の比率は如何ばかりであっただろう。

(注12)新潟市には「新潟市立新潟柳都中学校」(2013年開校)という市立中学校も存在するが、その立地は新潟砂丘に上がる斜面上の高台にあり、「柳」とは無縁の場所(寧ろ「松」=防風防砂林に接している)である。「新潟柳都中学校」は、「新潟市立舟栄中学校」と「新潟市立二葉中学校」の二校が統合され、「柳都」という「観光」主導のワードを付されて出来たものであり、旧「舟栄中学校」の校舎が「新潟柳都中学校」へと引き継がれている。一方の「二葉中学校」は、現在「ゆいぽーと」(「新潟市芸術創造村・国際青少年センター」)というものになっている。因みに新潟島内の市立中学校(「関屋中学校」、「白新中学校」、「寄居中学校」、「新潟柳都中学校」、及び旧「舟栄中学校」、旧「二葉中学校」)の校歌──地域の表立った自慢を述べ立てるのがその様式美──を調べたが、歌詞中に「柳都」が入っているのは「新潟柳都中」だけである。そして同校校歌(四番)に歌われた「柳都」(「優優と掘割連なる」「行き交う舟の賑わい」)それ自体は「下の町(しものまち)」と表現されている。

それとは別に、前々掲引用文の文中にある「新潟古町芸妓は、京都の祇園、東京の新橋の芸妓と並び称されていました」という表現が引っ掛かる。こういう物言い(二大〜、三大〜)は、自らが二番手三番手に留まる事──祇園(京都)にも新橋(東京)にも敵わない──を自覚し、前提とした上でのものであるというのが常識だ。即ち「世界三大美人」に於けるクレオパトラ楊貴妃、そしてそこに小野小町も混ぜてくれ的な「そして」感を感じさせられるのである。その「そして」(addition)という「他人の褌で相撲を取る」(「あやかり」)スタンスというのは、「忠犬ハチ公」と並び称せられるとされる「忠犬タマ公」(二番手)にも通じる、新潟の精神風土の核を成している一つなのではないか。

因みに新潟市には「柳都」とは全く別の由来を持つ「柳並木」がある。信濃川を挟んで「柳都」の対岸、国道113号線:東港線の「東港線十字路」交差点から、「柳都大橋」に繋がるT字路を経て、「竜ヶ島歩道橋」交差点に至るまでにも「柳並木」があり、それはまた「ボトナム通り(보토나무 토오리)」という名で知られている(注13)。「ボトナム」(버드나무)は朝鮮語で柳。1959年、朝鮮人「帰還事業」の第1次帰国船が旅立つ12月14日を前にした11月6日〜7日に、306本の柳がここに植えられた。中央埠頭に至る「竜ヶ島歩道橋」交差点──「帰還船」に最も近い交差点であり、通り沿いの近傍には荒廃した「在日本朝鮮人総連合会新潟県本部」(조국 왕래 기념관:祖国往来記念館)もある──には、「朝鮮民主主義人民共和国帰国記念植樹 一九五九年十一月七日 在日本朝鮮人総聯合会新潟本部 新潟県在日朝鮮人帰国協力会」の朽ち果てそうになっている木碑が、「ボトナム(柳)通りの由来」と記されたステンレス・プレート──表示文の「傷み」が「激しい」──と共に立っている。「柳都大橋」(及び「萬代橋」)は二つの「柳並木」──或いは「北前船」と「北送船」──を繋ぐ橋である。新潟は「国境の町」でもあるのだ。

(注13)「東港線十字路」交差点にある新潟日報社の前には、新潟市が建てた「ボトナム通り」の通称名標識がある。

306本だった柳は現在は80本にまで減っているという。それを増やそうという話(「『ボトナム通り』リニューアルプロジェクト」)もあるが、それは「柳」の意味の「反転」を伴うものだ。同プロジェクト事務局を担当する「一般社団法人 グローバル・ピース・ファウンデーション・ジャパン」(GPF)の「ビジョン」は、“One Family Under God" であり、GPFの創設者・理事長はムン・ヒョンジン문현진:文顯進)氏である。

gpf.jp

北朝鮮への帰還の道が、何故に「柳」なのかと言えば、ピョンヤン(평양、平壌)の別名が「柳京」(류경:リュギョン)、言わば「柳都」だからだ。「世界最大の空きビル」とも言われる「柳京ホテル」(류경호텔:新潟の「すかいすくれーぱー」の2倍強の高さ:105階建て・高さ330m)を始めとして、北朝鮮の首都には「柳京」を称する施設が多く存在する。北朝鮮の携帯端末のブランドにも「柳京」がある。北朝鮮に於ける「柳京」施設は、新潟の「柳都」施設より以前に存在したものが多い。

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嘗ての湊町新潟──信濃川の中洲──の「大動脈」である東堀(片原堀)と西堀(寺町堀)──現在はいずれも埋め立てられて道路になっている(注14)──の中間にある「古町」バス停で下車。そこから同行者が勧める喫茶店へと向かう。向かう先に見える信号は縦型だ。ここは「雪国」エリアなのである。

(注14)新潟島で最後に埋め立てられたのは西堀である。1964年の新潟国体(第19回国民体育大会)が行われる直前に道路化され、その開通式では国体の為に新潟を訪れていた昭和天皇香淳皇后の車が通過したという。新潟国体が閉幕したのは6月11日であり、その5日後の6月16日に新潟地震が発生した。

西堀の古名「寺町堀」は、堀の北側に堀に沿う形で寺が密集しているからだが、それらの寺の檀家の法事で重宝されたのが古町の仕出屋である。その仕出屋はまた花街を構成する一部でもあった。即ち仕出屋を介して「聖」(寺院)と「俗」(花街)が隣り合っていたのである。

桂離宮の発見者」を自称するブルーノ・タウト(Bruno Julius Florian Taut)が、新潟を訪れた(1935年5月21日)時の印象を「日本美の再発見」の中で記している。

 新潟! 私が俳句を一つ「作った」ら、上野君(注15)が日本語に訳してくれた。
   新潟や 悪臭のなかに 藤咲きぬ
 新潟は、日本中で最悪の都会だといってよい。何ひとつ興味をそそるものがない。街を貫く運河は悪臭紛々としている。この都会は、一九〇〇年頃の大火でほとんど全焼したのである。新潟へくる途中、加茂町の付近で、相当広範囲の焼失区域を見かけた。火事場跡ではもう盛んに新築工事を始めていたが、しかしここもやはり新潟と同じく、無方針で再建されるのだろうか、──残念ながら多分そうなるのだろう。
 新潟では、土地を極度にきりつめている様子がありありと窺われた。家々の間にまた家が挟まり、家と家との間隔は零だと言ってよい(せいぜい三十センチメートルぐらいだ)。道幅が一メートル半ばかりの交通路(!)に面して、住居の出入口があり、そこに便所がついている怖るべき臭気だ。しかしこれは何もここだけに限ったことではない。全市を通じてそうなのだ。ひどく俗悪な百貨店の喫茶室で、「建築家」が──この職業は、新潟ではこれから発明されねばならない、──小便所をホールの片隅に設けたのはよいとしても、これをほんのガラスだけで仕切り、便所の上部は開け放しにしてある。しかもそこには毒々しいほど赤い背景に裸婦を描いた油絵が、喫茶室のほうに向けて前かがみに掛けてあった(だがこういう絵こそ、この小便所にはうってつけというものだ)。しかしこういう窮屈な道は郊外にもある。家は松林の砂地の中へまず無造作に建てられ、それから敷地境に杭を打つという按排である。県庁舎は宮殿風であった、もちろんいかもの(注「いかもの」に傍点)で、そのうえ感じが重苦しい。市内では道路が盛んに修築され、運河の浚渫も行われていた。無数の自動車、とにかく新潟は「興隆しつつある」都市であり、県庁所在地なのだ。

(注15)上野伊三郎。
上野伊三郎 - Wikipedia

これがタウトによる新潟市紹介のほぼ全てである。日本語を話す者がナルシシズムと共に記す「堀と柳の風光」の「新潟情緒」の、全く別角度からのレポートと言えるだろう。実際新潟島の堀は下肥を運搬する「肥やし舟」の通路でもあったという。ウィローゲイシャと鼻を突くヒューマン・ウェイスト(糞尿)のスメルがセットになっての「アジア」(蔑称)のティピカルな風景であるところの「柳都」である。この日(1935年5月21日)1日で「柏崎─長岡─加茂─新潟─佐渡─夷─相川」というのがタウトの旅程であるから、古町花街での接待──「アジア」(蔑称)流の「おもてなし」──は無かったと考えられるが、接待されればそれはそれで何かしらの文句を付けたくなるのがタウトというものである。

アーケードの筋(古町6番町商店街)から、タウトが記した「道幅が一メートル半ばかりの交通路」──その幅は新潟駅の「東西通路」とほぼ同じ──を通って奥にある店に入る。「昭和レトロ」な「情緒」もその店の売り買いの一つらしく、従って全席喫煙可である。店名に紫煙の「紫」が入っているのは偶然だろう。目視顔認証システムを何回か通す事で常連化──コミュニティ入り──の道を辿れる「情緒」の店を、普段は決して纏う事のない煙草の残り香と共に出ると、正面に動物の群れが見える。「忠犬タマ公」を色々と作ってみました/作っていただきましたの「展示」風のものである。

傍らに「忠犬タマ公」の説明ボード的なものが設えられている。「1読」と書いて「わんどっく」と読ませるジャブを皮切りに、「タマ」と「ハチ」を隠し文字にした「絆」のレタリングがあったり、「上野英三郎」と「刈田吉太郎」と「ハチ」と「タマ」の集合写真的なイラストがあったりといった「あやかり」全開のものである。「東京都渋谷区新潟町」へ至る道という事だろうか。

「忠犬タマ公」の群れがいるそこは、嘗てABCマート(本部:東京都渋谷区)だった場所であり、右隣の元デイリーヤマザキ(本部:千葉県市川市)共々「しもた屋」のまま、ABCマートカラーの山吹色を残して10年近くが経過しようとしている。「忠犬タマ公」の大量発生は、「ルネ チャレンジ(Rene challenge)」なる古町活性化「事業」の一環なのだそうだ。

tjniigata.jp

その「ルネ チャレンジ」の「マニフェスト」的なものは以下になる(原文ママ)。

現在、新潟市の中心部は例外なく他都市と同様に旧中心部は時代の変革の中、疲弊している。

日々の圧倒的な情報量の中で流れに乗れない事で取り残されているモノ・コト・ヒトを再確認し再構築する事でふるまちが生まれ変わる為の試みをしようと思います。

空き店舗の前にアート作品を展開することによって商店街、特有の加症性によって非日常へと変貌させる試みを通して連鎖から生み出される街の匂いやイメージの変革を認識させる。

その事で街に関わる人たちの意識を変えていくことが街にとって再生のきっかけになると考えます。

ただし、一時的でなくあらゆる方向から今までの価値観を変革し再生するための試みを私たちは続けて行かなくてはならないと思います。

今回の試みは、古町6を中心に空き店舗や工事の為の白塀などにアート作品を制作設置する事で、その街の持つ性質やイメージを変化させ再認識する事で本来、その街の持つ本質を際立たせ変革のきっかけにすることを目的とする試みです。

*加症性とは商店街や商業施設などの羅列した店舗の一つを入れ替えたりすることにより、全体の俯瞰したイメージが変化する性質のこと。

niigata-furumachi.jp

「ルネ チャレンジ」の「成果」としては、「忠犬タマ公」の他にも「ゴー!アルビレックス!」のシャッター画(「古町ビル」:描き手はご当地アイドルNegiccoNao☆氏)、パンダと笹団子が折り重なったインスタレーション(旧「ベック」)、観覧車とウサギ等の動物が絡むインスタレーション(旧「ココカラファイン」)、フラミンゴやパンダがあしらわれたインスタレーション(旧「新潟三越」)、忠犬タタタタタマ公の「壁画」があるルネランド(旧「デイリーヤマザキ」)等がある。この殆どが「アート集団『手部』」の手になるものであるという。

「手部」

現代美術家・藤浩志によるプロジェクト「部室ビルダー《かえるぐみ》をつくる」から生まれた部活動の一つです。「わたしのおもしろいがまちをおもしろくする」をモットーに活動している。

みんなが楽しめるアートを中心におもしろいことから出発して人とまちが繋がっていくしかけの部活。

その拠点である部室は通りすがりの人も巻き込んでたくさんの人の居場所となる。

部室を移動させながら活動を続けている。

原文ママ

先述の「忠犬タマ公」群の中には、流木をコーススレッドで組み上げた「流木アート」的な「タマ公」もあり、それは「手部」の説明文に上げられた藤浩志氏の手になるものと理解するしかないキャプショニングがされている。

他にも藤浩志氏作と思しき──藤浩志作としている報道もある──木彫作品(タイトル「たまさん」?:この作品だけケースに入っていない)があるが、こちらの方は現場で確認出来る作品情報がゼロに等しく、藤氏の作であるという確証は持てない。


木彫「たまさん」(仮)に向かい合うのは、五泉市の「タマ公苑」(みどり心育会「ありがとうの郷」)から2021年の11月に貸与されたという「ブロンズ」製──の様に見える──の「忠犬タマ公」像である。既に貸与から2年半を経過している。恐らくこれは「タマ公苑」に建立されているものとは別の、隣接する「タマ公資料室」の「タマ公」像なのだろう。

同じ古町6番町商店街には、デューク・エリントンの「ウォールアート」がある(旧「味の王様 山長ハム 古町店」等)。デューク・エリントンは新潟の恩人なのだそうだ。

atouchofart.jp

「(新潟地震)当時来日していたデューク・エリントンが、新潟市の惨状を聞き、ハワイ公演をキャンセルしてまで、東京にて新潟地震救済募金募集の特別コンサート(注:東京新宿厚生年金会館)を行い、収益金をすべて新潟市に贈りました」というのは事実である。「美談」と言えるだろう。但しその「美談」は東西冷戦下に於ける「美談」でもある。「新潟市の惨状」をエリントンに「伝えた」のは、「新潟アメリカ文化センター」のセオフィラス・アシュフォード館長だった。アメリカ文化センターの前身はGHQ/SCAP民間情報教育局(Civil Information and Education Section。以下CIE)下のCIE図書館(Civil Information and Education Information Center)であり、後年それはアメリカ合衆国広報文化交流局United States Information Service。以下USIS)に吸収される。折しも当時の新潟の行政(県政・市政)は、相対的に親ソ連親北朝鮮だった。「ボトナム通り」の命名者は、第43、44代の新潟県知事である北村一男氏である。

「ウォールアート」の紹介文中に「水と土の文化創造都市 市民プロジェクト2020助成」の文字列が見える。「水と土の文化創造都市」で検索を掛けると、新潟市のこのページに行き着く。そこに記されているのは「柳都」とは全く別の、新潟にとって花街よりも余程大きな産業(農)の歴史である。

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同ページは「水と土の芸術祭」へのリンクが貼られ、そこには過去4回の「水と土の芸術祭」サイトに繋がる入口が設置されている。嘗て北川フラム氏が新潟市美術館の館長職を更迭されるに至ったのは、第1回目の「水と土の芸術祭」(2009年)に於ける「事件」(所謂「カビクモ」)が発端の一つだとされている。

土地の者ではない人間/余所者が、これ以上当地の「アート」の「事情」に首を突っ込んでも些かの実りもない。従って目に付いたファクトのみを記する事にした。これらをして、定冠詞付きの "The Art of Niigata"「ザ・新潟のアートシーン」であるか否か、それを代表するもの或いははその全てであるか否かについては、土地の「事情」に疎い余所者は沈黙するしかないもの──それ以上でもそれ以下でもないもの──として見るしかなく、「事情」の周囲に形成される「界隈」にも一切の興味も無いが故に、そのジャッジメントは面積10k㎡の島──その狭小なエリアにすら「公共」は存在する──の中に住む島民間で行われるに如くはない。

最近ではその言葉自体を聞かなくなったものの、1990年代に「彫刻公害」という言葉があった。それは「公共芸術」の「公共」性を巡る議論の日本に於ける先駆けの一つになったものである。日本のバブル期に「彫刻」や「芸術」を「僭称」し、その「威」を借りる形で「必要性」を説かれた物体群が、「公共空間」に乱立したという歴史的経緯がある。しかしその「僭称」も「必要性」も、常に設置する側にいる者の主観に留まるものでしかなかった。即ち「公共」の場に於ける議論を些かも通過していないもの──「わたしのおもしろい」──が、「公共」に資するものであるかの様な顔をして「公共空間」に溢れ返った──「まちをおもしろくする」──事態をして「彫刻公害」という30数年前の揶揄表現に至ったのである。

しかし「公共芸術」に於ける「公共」性の問題は、「彫刻公害」が言われる遥か以前から存在し、且つそれは現在進行系の只中にある。「公共空間」は特定クラスターの「遊び場」ではないのだ。

www.nishinippon.co.jp

bijutsutecho.com

www.yomiuri.co.jp

www.nationalgeographic.com

「公共」は様々な利害がぶつかり合う場であり、従ってそこでは「植民地問題」や「移民問題」や「人種差別問題」や「ジェンダー問題」や「政治問題」等々とも大いに関係するものである。それを理解しない/理解出来ない/理解する気もない者は、凡そ21世紀の「公共芸術」の現場に立ち入るべきではないしその資格も無い。そこまでに至れない者は、精々のところ「我が家でクリスマス・イルミネーションをしたので、うちの近所は元気になり、地域の意識を変えていけたと思いますマル」的な事をテキトーに言い、「(頑張る)わたしを見て」という「かまってちゃん」(「反公共」)になるしかないのだ。小人爲難養也。

いずれにしても、この地に何の思い入れもない余所者の目からすれば、シャッター街を「活性化」させようと試みるものは、そのエリアの「終末期」感を増すばかりの「遠心力」に感じられる。そして電車で1時間半の「すぐそこ」には、「東京のアート」があるのだ。


ラフォーレ原宿新潟がオススメのちひろさん | 新潟市のベンチャー企業発! 地域情報サイト「夢:東京でデザイナーになる」

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古町6番町商店街から一筋西堀通側に出て、デューク・エリントン越しに見えた珍景を一しきり参詣する。ここから南に行けば、一時は「ケツバットガール」で全国の話題入りを果たし、その後「排除アート」の如くにプランターが置かれるに至った水島新司氏の「アート」も見られるらしいが、今回それは割愛された。再び古町通に戻って北上する。

新潟の夕日(落日)をイメージしたという赤い連接バススカニア+ボルグレン)が見える。この春まで「BRT」(Bus Rapid Transitバス高速輸送システム)と呼ばれていたものだ。このバス路線の多くの便の終点──郊外への結節点──は新潟島を出た西区の「イオン新潟青山店」になる。利用者減少や運転手不足等といった様々な点で、その「持続可能性」が脆弱なものになったバス交通の問題解決策として、重複している市中心部の路線を集約・再編し、その余力を郊外に振り向ける事で、バス便の「速達性」や「定時性」を目指したのがBRTだが、それが却って古層の商店街である古町への足を遠退かせる事になる。開業した2015年を境に古町は目的地たる意味を失い、バスに乗ったままパッシング(通過/無視)される場所へと変わる。この先「古町」は "ancient city"(古代の町)を意味するものになっていくのだろうか。因みに「BRT」のソースはナント市のそれだと言うが、ここから日常的に見える外国は、南仏ではなく別の国──旧西側ではない──だろう。それらの首都にも連接バス(トロリー)は走っている──BRTではない/そして新潟もBRTの看板を下ろした。

左手の「西堀」交差点の向こうに「旧新潟三越」の建物が見える。程なくそれは取り壊され、隣接する西堀ローサ──嘗て埋め立てた堀を、再度掘り直して作られた地下街──からも全てのテナントが消え、そこに高さ約150メートルの複合施設が2029年に建つ予定だという(注16)。「監修」は「万博リング」で一躍一般的な知名度が高まった藤本壮介氏である。藤本氏繋がりで、仮に万博閉幕後にリングの廃材がここに大量に来て、坂口安吾が愛して止まなかった嘗ての「萬代橋」(二代目:木造)の様なものを拵える様な事にでもなれば、全国的にもその日一日限りのニュースにはなるだろう。複合的な「衰退」の構造(structure)に手を付ける事なく、平凡極まりない高さの複合施設(element)が一本建つだけで「重力」が発生し、人の流れが恒常的に「復活」するのであれば安いものではある。

(注16)島外(万代島地区)に建つ朱鷺メッセ万代島ビル(140.5メートル)を抜いて、甲信越地方で一番高いビルを目指す。150メートルは「隣町」(東京)の「麻布台ヒルズ森JPタワー」(325メートル)の半分弱の高さ。59年前に着工の日本最初の「超高層ビル」である「霞が関ビルディング」(147メートル:「超高層のあけぼの」)とほぼ同じ高さである。

news.nsttv.com

三越新潟」だった建物に「み〜つ」のインフォメーションが掛かる。「み〜つ」の「躁」感が「悲壮感」を醸し出す。「これまで」によって生じさせられた疑念が払拭出来ぬまま、肯定に反転しようとする文章がそこに書かれている。

さぁ、みんなであおう、新しい古町に。

古町に新たな目印・ランドマークが数年後に誕生する。

新潟三越閉店から、名残惜しさの熱りは冷めてきたものの、
そこは古町の中心地。
100年弱の間、ひとりひとりの記憶がある場所。
巨大なハードがまちに与える影響は大きい。
周辺では、わくわくと不安が同時に募る。

明るい、楽しい、未来をイメージできる古町の一角を作ろう。
そうすれば、不安が期待に変わり、ワクワクできる気がする。

さぁ、みんなであおう、新しい古町に。

これからも暮らし続けたいと思える古町を
ここからランドマークの誕生を期待したい。
まちの変化を前向きに楽しめる何かをお届けする。
さぁ、みんなであおう、新しい古町に。

商業施設エリアには、またぞろスターバックス──嘗てこの地から撤退した──等の「常連」が入るのだろうか。

やがて「NEXT21」(注17)と「150メートル複合施設」の二本の「すかいすくれいぱー」(ひらがな:「超高層のあけぼの」クラス)が対面で向かいあうであろう柾谷小路を渡り、古町通りは7番町に入る。「ルネ チャレンジ」の観覧車を横目に北上を続け、BRT開業で本店閉店──現在は支店のみしかない──を余儀なくされた「新潟の新公共交通をつくる市民の会」会長の人の老舗店の前を過ぎる。

(注17)高さ128メートルの複合施設。元「ラフォーレ原宿・新潟」等。現在は新潟市中央区役所等が入っている。高さは「隣町」(東京)のタワーマンション虎ノ門ヒルズレジデンス」(255.5メートル)の半分。

深堀通りから鍋茶屋通りに入り、過去完了形の「栄華」を巡るパルテノン観光やピラミッド観光にも似た「新潟情緒」観光に於ける可憐なあれやこれやを、「祇園」のある町──「情緒」が最大地域産業の一つであり、それによって市民生活が不全にまで至る「オーバー・ツーリズム」が市長選の争点になる町──から来た者が見物する。道が人で溢れていないという時点で「道が歩きやすうてよろしおすなぁ」(東京生まれ東京育ちの京都市在住者による俄京都語法)としか言えないものである。

国道7号で左に向きを変え、旧新潟刑務所(火葬場→徒刑場→刑務所)方向へと向かう。西堀通を渡ると「寺町」になる。真宗寺(真宗大谷派)の墓地と、勝楽寺(真宗大谷派)のこども園の間を通り、大目立ちに「修理」(耐震強化改修)された新潟法務総合庁舎と新潟税務署の間を過ぎると、砂丘に阻まれる形で二車線道路は終わる。その「どん詰まり」に前川國男ランド──西大畑公園と新潟市美術館──がインストールされている。

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新潟市美術館の「大村益三とその残欠ー「ネコになる」という選択肢ー」(以下「残欠」)については、当事者の一人であるから多くを語る事はしない。但し展覧会の設えとしては複雑過ぎる程に複雑な構造を有しているとは言えるだろう。一般的な意味での「作品」というのは極めて少なく、寧ろ作品の「不在」に至る経緯が前面に押し出されている体のものであり、結果として「不在」という「リンク切れ」ばかりがそこにある。自ずとそれに対する言及は「リンク切れ」を巡るものにしかならない。

再度2月2日のブログの最終パラグラフを引く。

猫はレンブラントと依存関係にはないが、多かれ少なかれ作家は自らの作品と依存関係にある。或いはその依存関係こそを作家と呼ぶ。レンブラントは消失し、猫は生き残る。作品は消失し、作家は生き残る。「これから」の選択肢の中には「猫になる」というものもあるのかもしれない。

誰の身にも起こり得る「リンク切れ」。そのリンクの参照先が、「家族」や「不動産」や「動産」等々といった有形物(有限)である限り、それは不可避なものである。勿論その「動産」の中に「作品」も入る。

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前川國男の美術館を出て、前川國男の西大畑公園を抜ける事にする。このランドには新潟島の掘割を模したとされるディッチ(≠キャナル)がある。御丁寧にも柳まで植えられていたりするが、水深と橋の桁下高が異常に短い関係で、模型船しか通行不可能である。即ちこの「掘割」は、風情としては「ごっこ遊び」なのだ。因みに前川國男自身は、4歳の時に新潟の学校裏町を離れて東京の文京区の人になっている。

前川國男の東屋の近傍に、謎の「金属板」が埋設されている。詳細は記さないが、これは「真鍮」と「ステンレススティール」製の彫刻の残欠であるという。1990年代半ばに当地で彫刻のコンペがあり、「金属板」はその受賞作(優秀賞)の「台座」であるらしい。如何なる「事情」(やらかし)の末にある現状なのかは判らないが、いずれにしても完全撤去されず、今日に至っても彫刻本体が「リンク切れ」の形で晒され続け、作品のタイトルプレートがそのまま残されているそれは、「リアル『小田原のどか』作品」──リアルな「事情」で「台座」だけになってしまった──の様にも思えるものだ。当該作家(「他県」の「団体展」作家)が紹介されたページに行くと、作家の「主な展覧会」の一つとしてそれは記されている。一方で「新潟市美術館」による「新潟市美術館・西大畑公園野外アート散策マップ」にその存在は無い。

嘗ての刑務所敷地の一部であった西大畑公園の煉瓦塀の向こうは「娑婆」である。旧刑務所敷地内には新潟地方法務総合庁舎、新潟税務署、新潟市美術館もある。それらからの日々の退庁は、まさしく「お勤めご苦労さま」である。

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旧新潟刑務所(「地獄」)ミニチュア通用門の脇を通っての「出所」の後、「極楽」の粋な黒塀の脇をぐるりと巡る。見越しの松もある。後は仇な姿の洗い髪のお富が居れば、与話情浮名横櫛/春日八郎の完成である。するとそこを通っている自分は与三郎(切られ与三)なのだろうか。確かに傷だらけではある。

再びパルテノン/ピラミッド観光になる。行く先々の一々に「旧」が付く場所ばかりだ。「旧斎藤家別邸」に「旧伊藤家住宅」(北方文化博物館)に「旧金井写真館本店」。近隣には「旧日本銀行新潟支店長役宅」(砂丘館)、「旧市長公舎」(安吾風の館)(注18)、「旧新潟県副知事公舎」(FRENCH TEPPAN静香庵別邸涵養荘)などというものもある。それらの地元の「旧邸宅」と「邸宅の主だった者」に関する過去完了形の昔話を籠耳で拝聴する余所者である。「貫禄を維持するだけの実質がなければ、やがては亡びる外に仕方がない。問題は、伝統や貫禄ではなく、実質だ」とは、坂口安吾──新潟市西大畑出身──の言(「日本文化私観」)である。

(注18)「安吾風の館」(旧新潟市長公舎、能登半島地震後は臨時休館中)は、坂口安吾の遺品・所蔵資料を展示する施設であるが彼の生家ではない。生家は敷地520坪、建屋90坪の、「七松居」とも称された借家である。1888年12月25日から、坂口安吾が「三流以下のボンクラ」(「石の思ひ」)と切って捨てた父・仁一郎(衆議院議員等)の居となる。そのロケーションは1880年の新潟大火で本町通八番町から西大畑に1884年に移転した新潟大神宮と旧齋藤家別邸の間にあった。その後「南濱通(旧)」が神宮の北側に作られた新道(「安吾風の家」はその新道沿いにある)との接続の為に延長される事になった為、大家からの明け渡し要求で1923年7月に「一見寺のやうな」(安吾「石の思ひ」)家から学校裏町31番地に転居。生家はその際に取り壊される。「坂口安吾生誕の碑」──碑文「私のふるさとは、空と、海と、砂と、松林だった。そして吹く風であり、風の音であった。」──は新潟大神宮境内に設けられている。碑文に「柳」と「堀」は無い。

火焔型土器の上で何かを投擲している人物のセメント彫刻を前庭に配した、ある時はピンク色、またある時は暗赤色と外壁色の定まらない「旧金井写真館本店」の十字路から南西方向を向けば、横田めぐみさんの母校である新潟市立新潟小学校が見える。そしてその道の突き当りの奥には1977年11月15日まで彼女が通っていた新潟市立寄居中学校がある。両校に近い日本銀行新潟支店は、転勤が多かっためぐみさんの父──拉致の前年に広島から当地に赴任。拉致の6年後に東京に転勤──である横田滋氏の職場だったところだ(注19)。寄居中学校から日本海へ一直線に向かう道路(営所通)上の、彼女の自宅に程近い「拉致現場」──警察犬が臭気追跡を諦めた場所──は、「旧邸宅」が立ち並ぶ場所から直線距離で僅か600メートル──「旧日本銀行新潟支店長役宅」からは300メートル──ばかりの地点である。その「拉致現場」から100メートル程海側に行くと「新潟縣護国神社」(「新潟招魂社」)の鳥居がある。そしてその鳥居前には、新潟県警察本部外事課、新潟中央警察署警備課の連名で、拉致事件に関する「情報提供のお願い!」(注20)の立看板がある。坂口安吾の碑はその鳥居を入っていったところにもあり、碑文は「ふるさとは語ることなし」である。

www.niigata-nippo.co.jp

(注19)横田滋氏の新潟時代の日銀副総裁(拉致事件当時)は、前川國男の6歳下の実弟である前川春雄拉致事件の2年後に第24代日銀総裁になる)であった。

(注20)「昭和52年11月15日、この付近で、当時中学生であった横田めぐみさんが、北朝鮮に拉致される事件が発生しました。警察ではこの事件の解決のため、捜査を進めております。どんなことでも結構ですので、お心あたりのある方は、情報をお寄せ下さい。市民の皆様のご協力を宜しくお願いします。」

正面方向右寄りに「すかいすくれいぱー」(NEXT21)を見ながら東進する。

再び寺町ベルトの広大な墓場を抜け、西堀通、古町通を越えて一筋目を入って行く。「安兵衛」という飲食店の暖簾を潜る。同店の壁に貼られたメニュー、手許のメニューのいずれもが、日本語のみで書かれている。インバウンド向けとしての主要言語である英語も無いし、中国語も無いし、ハングルも無い。或いは新潟で働く人向けのフィリピン語も無ければ、インドネシア語も無く、ロシア語も、ウルドゥー語も無い。少なくともここは「Замедли скорость!آہستہ کیجئے۔ گاڑی کی سپیڈ」(「スピード出すな」)という看板が立ち、「مسجد ميناء نيغاتا」(イスラミックセンター新潟)のモスクがあったりもする新潟東港の様な場所ではないという事なのだろう。

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人を見たら泥棒と思へ、といふのが昔の農村の生活であつて、事実、群盗横行し、旅人は素性の良くないものと決めてかゝるのが賢明であつたから、旅人に宿などはかさない風である。たまたま旅人が死んだりすると、連れに死体を運ばせて村境から追ひだし、葬ることも許さなかつたといふ。彼らの信用できるのは自分達の部落だけで、公共的な観念が欠けてをり、何かと云へば「だまされた」とか「だまされるな」と先づ考へる。泣く子と地頭には勝たれないで、御無理御尤もであるから、自主的に自分の責任で事を行ふといふことがなく、常に受身で、その結果が「だまされた」とか「だまされるな」といふことになるのであるが、かかる農村の要心深い受身の性格は一見淳朴のやうではあるが、反面甚だ個人主義的なものであり一身の安穏のためには他の痛苦を考へない。この欠点は今日も尚連綿として農村の血管を流れてゐると思ふ。
 近頃の農村では「だまされた」といふ言葉が立派な弁明であるかのやうに頻りに用ひられてゐるのであるが、自らの責任に於て自主的に判断することが出来ないといふのは、まことに不名誉な話である。自主的に自らの態度を定め責任を以て対処するだけの自覚がなくては原始の土人に異ならず「だまされた」といふ弁明によつて新らたな責任を回避しようとするに至つては上古さながらの狡猾なる農村の性格が露呈せられたものと言ふべきであらう。
 全く農村には生活感情や損得の計算はあるけれども思想だの文化といふものは殆どない。公共の観念や自主的な自覚が確立されなければ、思想も文化もある筈がないので、農村の思想だの農民文化だのと簡単に言ふ人があるが、農村に思想や文化があるとすれば、思想以前、文化以前の形態に於てであらう。

坂口安吾「地方文化の確立について」1946年

日本の現在の移民政策を語ったものにも思える文章である。翻ってそれは、未だ「日本」社会のベースが「農村」社会であるという事をも示すだろう。その意味で最後のセンテンスは「日本(=農村)に思想や文化があるとすれば、思想以前、文化以前の形態に於てであらう」とも読める。

何もしなければ、その消滅が避けられない新潟である。特に新潟島に於いては、半世紀に渡り漸次的に人口が減り続け、現在では1965年の半分以下になっている。新潟の人口減は、上越新幹線が出来てからでも、BRTが出来てからの話でもないのだ。「増」とまでは行かなくても、「減」のスピードを緩やかなものにしなければならない新潟にとって、新潟に基盤を持たない余所者の流入は避けては通れない必要条件だ。同じ様に消滅の危機にある「地方」他所との住民争奪戦(競争)に於いて、余所者をより多く呼び入れるにはどうすれば良いのか。それは何よりも余所者が余所者として余所者のまま生活し易い環境の構築というものになるだろう。縮小時代にあっては「郷に入っては郷に従え」ではなく「郷に入れれば郷が従え」にならざるを得ないのだ。

従って嘗ての大日本帝國統治下の植民地に於ける「皇民化政策」の様な「新潟民化政策」の如きものは、新潟消滅というクライシス/カタストロフの前では百害あって一利も無い。「忠犬タマ公」(例)や「柳都」(例)や「古町花街」(例)や「旧家邸宅」(例)や「水と土の文化/芸術」(例)等々といった新潟の「御国言葉」(符丁)には一切の興味を持たず、それらに対して「それがどうした(so what?)」な人間が増える、乃至はそうした人間が新潟のマジョリティになるという未来図を受け入れられるか否か。例えば仮に古町地区全体がコリアンタウン(例)やリトルモスクワ(例)やイスラム横丁(例)の如きものになったとしても──目的地としての魅力は今よりは断然増す──表向きにでもニコニコしていられるかが試されているのである。「御国言葉」(符丁)が一切合切消滅しなければならない必要性は全く無いし、それに依存してしか生きられない者がいる事も承知しているが、しかしそれらに優先して「公共の観念や自主的な自覚が確立されなければ、思想も文化もある筈がない」(坂口安吾)のだ。

斯くして「家ネコ」(地の者)が自然減する一方で、新潟の命運は「野良ネコ」(余所者)の増加に託される。数々の場所で修羅場を潜り抜けてきた「野良ネコ」であるが故に、「血統」(血縁地縁)や「可愛さ」(愛い奴=従順)を重要視する者から見れば、目付きは悪いし素行も行儀も悪く見えるだろう。しかし行政としては、どんなネコであれ、税を払い且つ納税ネコの頭数を増やしてくれるネコこそがまずは良いネコなのである。

「みんなもネコになるがいいにゃん」「みんなもしょせんネコだにゃん」。しかしそれは「公共」の成立要件である「野良ネコ」的な精神を通して言われるものだ。「野良ネコにならない」という選択は、殆どの場合、単純に「野良ネコになれない」(反近代/反動)をしか意味しないのである。「地方」の人口流出は何故に止まらないのか。「『ここ』にいたくない」と「『そこ』に帰りたくない」と「『そこ』に行きたくない」という三重苦の逆転は、どの様な形で実現可能なのだろうか。そしてそれより遥か以前に「衰退」を回避するのに「何をしてはならないか」が問われているのだ。

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嘗て「週刊SPA!」の連載企画だった都築響一の「珍日本紀行」(ちくま文庫)の帯には、「旅の極意はくるくるぱあ!」「秘境は君のすぐそばにある!」という惹句が書かれている。しかし「旅の極意」の最終段階は、フィッシングの世界で「フナに始まりフナに終わる」と言われる様に、一見して「くるくるぱあ」に見えないもの、一見して「秘境」に見えないもの、即ちその土地の民が「情緒」や「伝統」や「文化」として自信満々に差し出してくる「普通」にこそ目を向け、そこにハイコンテクストな「風流」を見出し「吟味」/「賞味」する事であろう。都築響一の立ち位置は、未だ「十牛図」の如き「旅の極意」に於いて道半ばなのである。

その意味で「柳都」と「屎尿臭」をダイレクトに結び付けたブルーノ・タウトは「風流人」である。また何かにつけて文句たらたらの坂口安吾も「風流人」である。「風流」は近代精神である「批判」(criticism)の側にあるものなのだ。そしてここまでの文章は、単純に「風流人」たらんと欲する者の成せるものなのである。

「公表」

アルベルト・ジャコメッティ「ネコと犬」1951年

そもそも「展覧会」の「告知」や「案内」というのは些か「婉曲」な表現であり、実際のところは「展覧会」の「告知」や「案内」のほぼ全ては、「展覧会」の「広告」/「宣伝」以上でも以下でも無いものである。日本に於ける「展覧会の案内状」の別称は「ダイレクト・メール(DM)」であり、「展覧会のハンドアウト」の別称は「フライヤー」(注1)であり、それらは「利」(benefit, profit)を取得しようとする「商売」の方法論に全面的に則るものだ。「告知」/「案内」主体の属性は隠し様もなく「売り手」(push, outbound, sword, Zacian)なのである。「展覧会の御案内です」という揉み手の懐からは、光るもの──刃物と金──が見え隠れしているのだ。

(注1)気球や飛行機やヘリコプター等の飛行体からばらまかれた宣伝ビラが原義。気球以降の「伝単」("Airborne leaflet propaganda":空中ビラによるプロパガンダ)はその一つである。フライヤー(flyer:米語)は「飛行するもの」を意味する。

画像はプロパガンダ・フライヤーを詰めたペイロード・デリバリー・ユニット・ファイブ(PDU-5)を投下するアメリカ海軍 F/A-18F スーパーホーネット艦上戦闘攻撃機による「御案内」攻撃の訓練(2005年太平洋上)。CBU-100「ロックアイ」クラスター爆弾を転用した PDU-5 の実戦投入としては、アフガニスタンイラクでフライヤー(「御案内」)散布に使用され、2015年にはシリアのラッカ近郊でも 60,000 枚のフライヤー(「御案内」)を投下する為に使用された。「御案内」の攻撃性が顕著に現れる身近な例としては、有名人を騙った「投資」の「御案内」や、スパム・メールや、メール・ボムや、「御案内」で溢れ返る自宅のポスト等がある。


以下のエントリは、属人的な「利」の取得にダイレクトに繋がるかどうかの判断が、必ずしも付き難いイヴェントについての「報知」であるが故に、タイトルも攻撃属性の高い「告知」や「案内」ではなく、相対的になまくらの「公表」とした。

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新潟市美術館サイトのトップページが、2024年4月26日に更新された。そこに「大村益三」に関係する「展示」(2024年4月26日〜6月30日)のデータが加わった。美術館公式サイトの紹介文を引く。

大村益三とその残欠
-「ネコになる」という選択肢-

美術家・大村益三(おおむら・ますみ 1957年、東京生まれ)の作品(焼損作品を含む)・資料・文献約50点を展示

一人の美術家を(彼を見舞った大きな不幸を)ご紹介します。美術家・大村益三は、2023年12月29日朝、東京都町田市の共同アトリエで発生した火災により、過去40年にわたる自作のほとんど全てを失いました。そして彼は、「レンブラントの作品よりも、ネコの命のほうが大切」という、フランスの彫刻家ジャコメッティの言葉を思い返したといいます。作品を失い、命は残った自分を、もう「作家」と呼ぶことはできない、ネコのようなものであると。

http://www.ncam.jp/exhibition/7661/

新潟市美術館の現在の企画展(2024年4月13日〜6月2日)は、「もしも猫展」という歌川国芳を中心としたものであり、「人類」(歌川国芳等)が「猫」を通して「表現」した数々を紹介するというものである。展覧会公式サイトから引く。

「もしも、うちの猫が人のように話したら?」
そんな想像をしたことはありませんか。

浮世絵師の歌川国芳(1797~1861)は猫を擬人化したり、役者を猫の顔に見立てた作品を次々と発表していきました。
本展では猫の擬人化作品と、それらを描いた歌川国芳を主軸に据えながら、江戸時代から明治時代にかけての擬人化表現の面白さに着目します。
そのなかで、なぜ国芳の作品にかくも惹きつけられるのか、その魅力のありかを探っていきます。

https://www.teny.co.jp/moshineko/

この企画展「もしも猫展」と並行して(完全に会期が一致する訳では無い)、「コレクション展 ニャン -ネコ用品専門展-」(2024年4月26日〜6月30日)が一昨昨日から開催された。

当館コレクションから大作を中心に約50点を、ネコ用品に見立てて展示

さて、この星に生きる全ての人間が命を失った時(人類滅亡)、地上に残った美術館の廃墟は、ネコの集会場になるかもしれません。この小さな展覧会は、わたしたち人類ではなく、ネコたちのために開かれます。「芸術=用途のないもの」は、ネコ大よろこびのネコ用品に通じ合うものでしょうか? 今回は、学芸員(人類)がふつう(人類)だったらすることをしないで、いつも(人類)ならしないことをしてみました。「ネコに小判」や「ネコも食わない」を、ネコになった気分で観察していただこうという、とてもまじめな、そして超歴史的な試みなのです。

リンク先は上掲「大村益三とその残欠-『ネコになる』という選択肢-」と同

「ネコ」をメディウムに、「もしも猫展」と「コレクション展 ニャン -ネコ用品専門展-」(以下「ネコ用品展」)の2つの「展覧会」はリンクしている訳だが、「もしも猫展」の観客は飽くまでも「『人類』の手になるもの」を「『人類』の立場」で見る事を求められる──「美術鑑賞」のデフォルト──のに対し、「ネコ用品展」は観客に「人類」である事を捨てて「ネコになる」事を求める。その部屋(常設展示室)に「ある」ものが「人類」の手になるものであろうがあるまいが、それが「人類」にとって収集・収蔵に値する「お宝」であろうがあるまいが、「ネコ」にとっては全くの関知の外にあるという設定の展覧会だ。

即ち、ネコを「見る」展覧会である「もしも猫展」と、ネコを「見る」展覧会で見られる側になっていたネコに「なる」展覧会である「ネコ用品展」は、観客属性に於いて反転状態にあり、そこに闖入的に挿入された「展示」である「大村益三とその残欠-『ネコになる』という選択肢-」(以下「残欠」)は、そのサブタイトルにある様に「ネコになる」側の「ネコ用品展」にビルトインされているものである。実際「残欠」の「展示」は、前川國男の美術館に於ける空間的配置としては、「コレクション展」の前段、エントランス部にあり、「ネコを見る」から「ネコになる」反転の蝶番の役目を、些か暴力的な形で担う装置になっている。

「残欠」が今回挿入されるに至った経緯は、当ブログの2024年2月2日のエントリ、「喪失」冒頭部の

女:素敵でしょ…犬と一緒のあの人、見て、同じ様な歩き方をしている。
男:ああ本当だ。ジャコメッティという彫刻家を知ってる?
女:ええ、とてもハンサムだと思う。
男:知ってる?彼はすごい事を言ったんだよ。「火事になったらレンブラントと猫とどちらを救うか。僕だったら猫だね」ってね。
女:そうね。そしてこう続ける。「その後で猫を逃してやる」。
男:それ本当?
女:ええ、とても素敵な話でしょ。そう思わない?
男:そうだね。とても美しい。「芸術と命なら、命を選ぶ」と。

と、最終パラグラフの

猫はレンブラントと依存関係にはないが、多かれ少なかれ作家は自らの作品と依存関係にある。或いはその依存関係こそを作家と呼ぶ。レンブラントは消失し、猫は生き残る。作品は消失し、作家は生き残る。「これから」の選択肢の中には「猫になる」というものもあるのかもしれない。

の「猫になる」が、新潟市美術館学芸員・藤井素彦氏の注意を引いた事が切っ掛けになっている。斯くして「作品(焼損作品を含む)・資料・文献約50点」は、「ネコになる」陣営の先鋒を務める事に相成ったのである。

ここまで「残欠」に対して「展覧会」ではなく「展示」で通しているのは、これが間違っても直ちに「大村益三の個展」ではない理由による。設え的には「大村益三の個展」の様に見えなくも無いのだが、「(...大きな不幸を)ご紹介します」という美術館の紹介文にもある様に、焼損作品が会場中央に位置し、恰も火災現場に残されたトロフィーや表彰楯の如き資料類──それらが言及している対象は全て焼失している──が並べられ、無惨な火災現場写真が壁一面を覆い、焼失前の作品や作業場の映像が過去完了形で映し出され、それらの隙間を縫う形で他所に保管されていて「無事」だった僅かばかりの小品が並んでいるそれは、寧ろ様々な意味での「ドキュメンテーション」の性格が色濃いと思われる。「思われる」というのは、諸事情により展覧会設営にダイレクトに関わっていないからだ。美術館側からメールで送られてくる画像報告のみで、現在の自分はこの「展示」の全体像を組み立てている状態に未だにあるものの、想像の多くは外していないだろう。

焼け壊れているものが「展示」のメインにある「残欠」は、恐らく「気持ちが相当にしっかりした」者でないと、精神的に相当キツい「展示」ではあるだろう。その小骨が喉に刺さったまま、奥の「ポスト・ヒューマン」──「存続」としての「人類進化」のそれではなく、「消失」としての「人類不在」のそれ──的な「コレクション展」本体へと誘われるのだ。

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これまでの40数年の中で、何回か作品スタイルが変化している。2002年から2009年まで発表した「Peeping Dinosaur」(以下「PD」)は、その中でも最もドラスティックに作品スタイルを変えたものだ。今回の「展示」に寄せて「PD」について書いた文章がある。会場内の何処かでそのハンドアウトは配布されている筈だ。

2002年から複数制作された「ピーピング・ダイナソー(Peeping Dinosaur:以下PD)は、展示空間の既存の床の上に一定のクリアランスを伴って新規の床を作り、その二重床の間に小さな「展示室」(縮尺1/25〜1/80)を設け、その展示を観客が検針ミラー越しに、或いは床に這いつくばって見るというものである。

PDで最も可視化したかったのは、「見るという行為の暴力性」である。「見るという行為の暴力性」の可視化がPDという最終の「形式」に至るには幾つかの段階があり、当初は「シュレーディンガーの猫」の様なシステムを構想していた。何故に「シュレーディンガーの猫」であったかと言えば、その思考実験の設えそのものが「知るという行為の暴力性」に則っているものであり、箱の中で原子が崩壊しようがしまいが、即ち猫が死んでいようがいまいが、本来マクロ的に「知った事ではない」事を、それでもミクロ的に「知りたい」という、「欲望」/「心理」の領域に足を踏み込んでいるものという印象を持ったからだ。

展示室をこの思考実験に於ける密閉した箱に見立て、中にある作品は相対的に無事であるか壊れているかの状態になっているものの、部屋の外からそれを知る事は出来ない。展示室の入口扉が開けられた瞬間、50%の確率で作品脇の大ハンマーが振り下ろされる。観客が展示室に入る事で、作品は破壊されるかもしれないしされないかもしれないし、或いは一見無事な様に見えても何処かが破壊されているのかもしれない──誰も無事な状態を知らない。扉を開けてギャラリーの中に入ってきた観客は眼前の「壊れた」作品を見て、自分の行動によってそれが壊されたのか、それともそれよりも前に壊されていたのかの判断が付かない。それを実現させるシステムを幾つか考えていたのだが、最終的には何をどうやっても余りスマートなものにはならない──得るものも少ない──と判断し、「覗く(ピーピング)」という「視線の暴力」を発揮させる事を積極的に促し、しかも観客をしてその「覗き」を「一生懸命に行っている」姿にさせるPDの「形式」に落ち着く。

そもそも「展示」は「見るという行為の暴力性」に奉仕するものだ。「鑑賞」行為を実現させる為に作品にライトを当てれば、作品に対するミクロな「美術量子力学」的「破壊」は行われ──マクロ的には「無問題」──、「企画展」「常設展」を行う為に作品の移動を繰り返せば、そこでも作品に対するミクロな「美術量子力学」的「破壊」は進行する──マクロ的には「無問題」。

今回「鑑賞」に供する形で「破壊」された物品も数多く出品されるが、それらが何処でどのタイミングで何に因って眼の前の「破壊」の形状になっているかは「シュレーディンガーの猫」の如くに決定不可能である。そもそも猫飼いの常識の一つとして、猫を(特にその目を)「見る/見続ける」事は、猫にとって「暴力」(威嚇行為)と受け取られるというものがある。「見るという行為の暴力性」については、人間よりも猫の方が余程に「知見」があるのだ。

「残欠」の会場には「PD」のスライドショーも流れているが、そこには「見るという行為の暴力」と共に「見せるという暴力」という学芸による表記が加えられている。確かに「美術」に於ける「暴力」は、「見る」側だけではなく、寧ろ「見せる」側の方が、様々なフェイズに於いて何重にも「暴力」(push, outbound, sword, Zacian)なのだ。或る意味で、この「残欠」の「展示」もまた「PD」という「見せるという暴力」の延長線上に存在しているのであり、それは未だ「ネコになれない」人類に向けての方便という限界の只中にある。

「作品」を作り始めた頃──半世紀前だ──、中央線沿線の社会科学系の古本屋でルードヴィヒ・ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」("Logisch-Philosophische Abhandlung")を買った。あの有名過ぎる命題 7 の "Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen."(「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」)の直前の命題 6.54 にある、"Er muss sozusagen die Leiter wegwerfen, nachdem er auf ihr hinaufgestiegen ist."(「梯子を登った後には梯子を捨てなければならない」)は、そのままその後の自分の「作品」観──「『作品』は『梯子』たるべき」を決定付けている。即ち自分にとっての「作品」とは何処までも「疑似命題」なのだ。「疑似命題」としての「梯子」が焼失した。今回の事態は巨視的にはそういう話なのである。故にフェティッシュの対象になり得ない「梯子」を再制作するという事も無い。

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「ネコになる」というのは、存外極めて「簡単」な事なのかもしれない。それはここのところ韓国 TikTok を席巻している「漢江ネコ」("한강 고양이")動画を見て思うところでもある。

「꽁꽁 얼어붙은 한강 위로 고양이가 걸어다닙니다」(「カチカチに凍った漢江の上をネコが歩いています」:コンコン オロブトゥン ハンガンウィロ コヤンイガ コロダニムニダ)という「ソウルに寒波襲来」(2021年)を伝える韓国 MBN テレビのニュース音源から生まれたこのムーブメントにより、人差し指と中指で作ったネコ耳を付け、三本指でヒゲを生やし、ネコ手を擬態する事で共有の「スペース」(TikTok)で皆が「ネコになる」。

参考:https://mdpr.jp/k-enta/detail/4259066

「残欠」にしても「ネコ用品展」にしても、そこで深刻な表情を作られるよりは、その場で「漢江ネコ」のダンスを踊って──美術館なので音は脳内再生──コヤンイ(고양이:ネコ)になってくれた方が、余程「梯子」的に良いし、それによってカチカチに凍って(꽁꽁 얼어:コンコン オロブトゥン)いる「美術」の会場が一気に可愛いものになるという利点もあるだろう。

「失われた『作品』」

美術評論家建畠晢氏の回顧譚でしばしば氏の口から語られている話がある。「父親」である「彫刻家」建畠覚造氏に関するものだ。

(略)抽象彫刻は売れないのね。で、展覧会に出した作品が帰って来ると、置く場所がなくなってくるわけよ。大きな作品なんかは特に。だから、兄と一緒に父を手伝って、帰って来た作品をハンマーで壊して、粉々にして庭に穴を掘って埋めた。子供にとっては面白いわけだよ、そういうのは。きゃっきゃしながらやったわけだけど、父はずいぶん悲しがっていたんだろうなと、今にして思えば思います。

建畠晢 オーラル・ヒストリー 第1回:インタヴュアー:加治屋健司、池上裕子:2008年3月25日

https://oralarthistory.org/archives/interviews/tatehata_akira_01/

「美術」に於ける様々な「問題」が「露頭」(地質学用語:"outcrop")しているインタヴューと言える。この「オーラル・ヒストリー」で最も注目すべき「美術」の「問題」の一つは、「抽象彫刻は売れない」という「美術評論家」による「確言」──「確言」する事そのものにも「問題」は大いに存在する──にある。

「旺盛な制作意欲」による「供給過剰」と、それに全く見合わない「美術」の「市場規模」という、「需給」関係の圧倒的な差によって生じたのは、身も蓋もなく言えば「不良在庫」であり、その結果としての「置く場所」(「ストレージ」)の残り容量の逼迫──「置く場所がなくなってくる」(建畠晢氏)──である。但しこの建畠覚造氏のケースは決してレアなものではなく、少なくともオブジェクティヴな「作品」制作をメインにする「アーティスト」ならば、且つ「ストレージをアップグレード」する事が──主に経済的な理由で──困難な「アーティスト」ならば、保管/保存するに「値しない」と判断した自作を自らの手で「破壊」/「廃棄」、乃至は「放棄」/「投棄」した経験が無いという事はまず無い。即ち建畠覚造氏のそれは、極めて一般的な「アーティストあるある」と言える。

例えば先般のブログに登場したアルベルト・ジャコメッティが、終生制作拠点としたパリ14区のイッポリト・メンドロン通り46番地の半地下のアトリエは、その広さが僅かに24平米(≒7坪/≒13畳:その内2畳程が「ベッド」に充てられる)であり、その結果「新しい作品を作る為に、古い作品を移動させたり、捨てたり、壊したりすることがあった」(注1)という。ジャコメッティの制作ノートには、"Distrutto"(「破壊した」) や "perduto"(「捨てた」)の語が、頻繁に現れている。

(注1)”déplace, jette ou détruit parfois les œuvres anciennes pour faire de la place afin d’en produire de nouvelles”:Christian Alandete, directeur artistique de l’Institut Giacometti
参考: https://www.swissinfo.ch/fre/culture/sculpture_a-paris-l-institut-giacometti-ressuscite-les-%c5%93uvres-disparues-de-l-artiste-suisse/45600302

近代以降の「アーティスト」が、自らの存在意義/アイデンティティとする「旺盛な制作意欲」は、「自発的」なものであるというよりは、「市場」側からの「要請」──「ビギナーズ・ラック」(若い時の成功体験)を餌にした「搾取」込み──でしかないものを内面化してしまっているものだ。「旺盛な制作意欲」によって、存命中に「作品」を「作り続ける」(注2)事は、特にセカンダリ入りを果たした「アーティスト」(注3)の「ブランド」維持に直結する。「市場」としては、存命中に「辞め」られては「困る」のだ。その「死」によるもの以外の如何なるキャリアの「中断」も「市場」は認めない。

(注2)「市場」的には、キャリア初期の「傑作」を遥かに凌駕する様な中高年期の「傑作」が出なくても良いし、出る筈も無いとすら思われていて、また仮にそうしたものが出たとしても「市場」的な高評価はしない(高質量の平米・立米を持つ「大作」は別基準での「評価」)。寧ろキャリア初期に最大の価値基盤を置くセカンダリの評価フォーマットを混乱させる様なそうした「傑作」を出されてもまた「困る」のである。

(注3)それは「消費対象」としての「アーティスト」であり、単純に「作る人」である事から「キャラクター」(=「象徴交換」:ジャン・ボードリヤール)という「消費対象」としてのステージに立った、「ミッキーマウス(例)」と寸分違わないという意味での「アーティスト」である。そして「アーティスト」は「キャラクター」たらんと日夜「キャラ立ち」「キャラ設定」の戦略的構築に余念が無い。

要は「大作至上主義」(注4)を含めた「市場」の内面化が、「アーティスト」の「倫理」とされているものなのである。「アーティスト」が「アーティスト」として存続・維持する為に、「自己福祉」としての側面も強くある「美術」に於いては価値の等価な交換というものは視界の外にある。「旺盛な制作意欲」は、常に「アーティスト」の「欲望」として「需要」側から求められる。そしてそこでは、その「欲望」とされる「要請」は、常に「理性」を上回されられるのだ。だからこそ「アート作品」は常に「作り過ぎ」の状態にある。

(注4)制作に於ける諸経費が相対的に膨大なものになる「大作」もまた、「作るもの」ではなく、常に外的要因(内面化されたものも含む)によって「作らされるもの」である。「大きい作品を見せたい」という「欲望」は、外部からの「圧力」による「褶曲」(地質学用語:"fold")や「変成」(地質学用語:"metamorphism")によって「捻じ曲げ」られて形成される。この世に生を受けた瞬間に、「大きい作品を見せたい」という「欲望」が新生児に「自発的」に生じる筈もなく、それは一にも二にも物心付くまでに受けて来た「教育」の賜物でしかないものだ。紙やキャンバス等を継ぎ接ぎしてまでも、「大作」は作られらければならない「要請」なのであり、何かを「捻じ曲げ」る事で制作されるしかない自目的化した「大作」は、それ自体が一つの「地質学」的トピックなのである。


「需給」のバランスが著しく崩れている「ビジネスモデル」というのは、恵方巻きやクリスマスケーキといった「季節商品」(注5)にも見られるところである。恵方巻きやクリスマスケーキの「生産過剰/食品廃棄物(Food waste)化」(「旺盛な『生産』意欲」という「『生産』の呪縛」)が一も二もなく批判の対象になる昨今だが、一方で美術作品の「生産過剰/美術廃棄物(Art waste)化」(「旺盛な『制作』意欲」という「『制作』の呪縛」)は、寧ろ「アーティスト」の「倫理」の「証」ですらあるとされる。食べられる事無く廃棄される食品をして「食品ロス」と言うならば、「帰って来た作品をハンマーで壊して、粉々にして庭に穴を掘って埋め」るというのは「作品ロス」という事になるのだろうか。

(注5)「美術作品」もまた、時々の短いインターバルの「言説」に全面的に依存し、結託し、それとの関係性と共に「消費」され、やがて「忘却」される「季節商品」の一つである。そして「季節」の「変転」の演出によって、「消費」の窮乏は構造的に再生産(例:リバイバル・ブーム)される。

いずれにしても「帰って来た作品をハンマーで壊して、粉々にして庭に穴を掘って埋め」た結果、その瞬間に「失われた『作品』」が生まれ、建畠覚造氏にとってその作品との「今生の別れ」が出来したのである。果たしてその「今生の別れ」の際に、「ずいぶん悲しがっていた」(建畠晢氏)という「エモ」が彫刻家の胸に去来していたかどうかは、建畠覚造氏本人で無い者としては判らない。それは父子の関係にあってすらも全く同断だろう。

そもそも「アーティストの死」に際しては、不可避的に「アーティスト」と「作品」との「今生の別れ」が発生する。棺や墓の中に「作品」を入れても、それは「誤魔化し」でしかない。「残された」作品は「他人」のものでしかない。その「他人」が何をどうしようと「アーティスト」の関知の完全な外部にあるのだ。

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「失われた『作品』」問題というのは、「現代美術」という名の思想体系の根幹に関わるものの一つでもある。「現代美術」に於いて現在最も有名な「失われた『作品』」の一つは、紛れもなく──何重もの括弧付き(注6)で──「マルセル・デュシャン」の「泉」という事になるだろう。横倒しされ、属人的なものに帰する事を意味する「作家サイン」("R.Mutt":でっち上げ)を入れられたエルジャー社の「最高級二焼成ヴィトラスチャイナ、モデルナンバー700」の男性用小便器スタンダード・モデルは、アルフレッド・スティーグリッツの「ギャラリー」での「展示」を経て、ニューヨーク・ダダの同人誌「ザ・ブラインドマン」("The Blind Man")第2号で完成を見る「炎上」を達成した「後」に意図的に「破棄」され、その結果この地上に1917年の「オリジナル」は存在しない事になった。

(注6)現在では、エルザ・フォン・フライターク=ローリングホーフェン(Elsa von Freytag-Loringhoven)が「泉」の「真の作者」であるとするものが半ば定説化している。

「泉」の「破棄」の「犯人」が、仮に例えばアルフレッド・スティーグリッツだったとして、その「破棄」行為に対して、マルセル・デュシャンその人がスティーグリッツの胸ぐらを掴んで号泣、非難、難詰したとしたら、それはそれで随分と「格好悪い」どころか、「マルセル・デュシャン」という「キャラクター」の「設定」的に「台無し」な話ではある。

彼の墓碑に書かれたセンテンスを捩って言えば、「されど作品を制作するのはいつも他人ばかり」("D’ailleurs, c’est toujours les autres qui le font.")こそが、「マルセル・デュシャン」という「キャラクター」の最大の意味であり、且つ20世紀の美術が到達した「認識論的断絶」(「心象」→「構造」)の前にあっては、多かれ少なかれ「現代美術」の「アーティスト」にとって「作品を制作するのはいつも他人ばかり」が己が存在の「条件」なのだ。その結果として「喪失」に対する「悲嘆」の属人的「所有」性に与しない事が、デュシャン、及び彼に「続く」者にとっては最低限の「倫理」として共有されなくてはならない。

「自分にしか作れないもの」を作るのではなく、「自分」と「他者」の「共有」空間にこそ己の「制作」の軸足を置く事が「現代美術」の「アーティスト」に求められるのであれば、「作品」の「喪失」に対しては、常に「所有」概念に陥る事無く「構造」としての「共有」的立場を崩さないというのが「現代美術」の「職業」上の「要請」なのである。

最終的に「自分にしか作れないもの」ではない「作品」──そこに記された「サイン」は、常に「アーティスト」とその「外部」の関係に於ける中間領域に存在している事を意味している──との「今生の別れ」に際して何処までも「シレッ」とする事。これが20世紀以降の「アーティスト」という「キャラクター」に求められるものだ。そこでは「ずいぶん悲しがっていた」という「属人」的「エモ」属性は、仮にそれが「あった」としても「出して」はならないのである。

「現代美術」という思想体系に、曲がりなりにも己を位置させようとする「アーティスト」ならば、自作との「今生の別れ」──それは自作の自らの手による破壊を含む──に対し、「喜怒哀楽」などというものを極力遠ざけなければならない。「喜怒哀楽」こそが「アート」の基底にある──「怒」は時に例外──という「通俗」的了解に、徹頭徹尾「抗って」きたからこその「アーティスト」の現在ではないのか。そもそも「アーティスト」になった時点で、そうした「心理」や「通俗」の牢獄から抜けよう、「アーティスト」なるものは単に社会的変数に於ける一つの「ノード」でしかないと思ったからこそ、そこに「アーティスト」という「ノード名」で居続けているのではないか。

「通俗」というのは何処から何処までもが「人間」的属性である。その「通俗」から逃れられる方法の一つは、やはり「猫になる」事しか無いのかもしれない。何故ならば猫は、凡そ「通俗」というものを全く理解しない、「通俗」の全き外部にあるものだからだ。

「アート/ワーカーズ」

It stands to reason that art works are made by art workers, but in this searching account of artistic labor in the 1960s and 1970s, Julia Bryan-Wilson shows us that reason is supplanted by ambivalence and ambiguity as artists grappled with the massive upheavals wrought by feminism, the student movement, and the Vietnam War. The art made in the wake of these social transformations toggles between reform and revolution, and the definition of 'artist' has not been the same since.

—Helen Molesworth, Houghton Curator of Contemporary Art, Harvard Art Museum

芸術作品が芸術労働者(アート・ワーカーズ)によって作られるのは当たり前だ。しかし1960年代から1970年代にかけての芸術的労働を探求したこの本の中で、ジュリア・ブライアン=ウィルソンは、アーティストたちがフェミニズム学生運動ベトナム戦争によって引き起こされた大激変に取り組む中で、理性が両義性と曖昧さに取って代わられたことを教えてくれる。これらの社会変革の後に作られた芸術は、改革と革命の間で揺れ動き、「アーティスト」の定義はそれ以来変わっていない。

ヘレン・モールズワース、ハーバード美術館・ホートン現代美術キュレーター

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東京藝術大学上野キャンパスは、都道452号線(旧屏風坂通り)を挟んで音楽学部と美術学部に分かれている。都市伝説とも笑い話とも或いは事実とも言える話に、「芸大の音楽学部と美術学部の学生を見分ける方法。それは小綺麗な格好をしているのが音楽学部の学生で、小汚い格好をしているのが美術学部の学生」というものがある。

大正期に東京美術学校の敷地内に通された新道(屏風坂通り)で、北北東のエリア(現音楽学部)と南南西のエリア(現美術学部)に寸断されて以降の東京藝術大学美術学部で、長く「教授」と呼ばれる「みなし公務員」(賃労働者)だった小磯良平が、1974年に赤坂迎賓館迎賓館赤坂離宮)として再出発した旧東宮御所の朝日の間入口の左右に納入した絵画が「絵画」と「音楽」である。描かれた人物の殆どがバンドの極めて狭い特定年齢層に限られている──中村悠紀子含む少数のモデルの使い回しによる──ところからしても、恐らくこれらは小磯の「職場」であった「芸術大学」──実際のロケ地(「聖地」)は、「美術」が東京芸大、「音楽」が神戸の小磯アトリエ──を想定して描かれたものだろう。

「音楽」の方の人物群は平均して「小綺麗」な姿に描かれ、一方「絵画」の方の人物群は総じて──ヌードモデル以外男女問わず全員──「小汚い」格好で描かれている。これはこの都市伝説/笑い話/事実を、東京藝術大学という「日本」の「国立大学」の「みなし公務員」だった画家によって、「国家」レベルで補完してしまうものであると言えるのかもしれない。

小磯良平はその意味で十分に「罪作り」なのだが、それ以上に更に「罪作り」であり、且つ自らに対して極めて「正直者」であるのは、「音楽」の「小綺麗」──「綺麗」過ぎ──の担当が専ら「女性」であり、一方「男性」は東宮御所赤坂離宮が「迎賓館」になった1970年代当時の若者の「典型」的な姿で描かれているところにある。当代の社会とそれなりにパラレルの関係にある「男性」と、社会から完全遊離──何時の時代の「コスプレ」なのだ──した/させられた「女性」の対比という、自らがどっぷりと浸かっている「セクシズム」の視点を些かも隠さない「絵画」が、日本の「国家」の応接間である「ネオ・バロック」(カタカナ)の「迎賓館」(国宝)で外国賓客を招くのである。「小磯良平」という「昭和の日本のおっさん(明治生まれ)」──「戦争画家」でもある──と、その様な絵画を「迎賓館」に採用(「随意契約」)した「昭和の日本のおっさん(村野藤吾等)」による、現在に至るも尚この国を覆い尽くす「日本のおっさん」ワールド全開を、ここに見るのは決して不当な事ではないだろう。

それはさておき、「美術」が総じて「小汚い」というのは確かに否定し難い事実ではある。モニタを前にして何らかの電子デヴァイスを使って制作するものや手芸的手法による制作等を除いて、ペインティングにしても、カーヴィングにしても、モデリングにしても、何処から何処までもが字義通りの「汚れ仕事」であり、(飽くまで)現象的には「レイバー・ワーク」なのである。美術の「アーティスト」という「現業」の人間が、「やる気わくわく」(吉幾三)の「ワークマン」(例)に行って作業着や各種手袋を購入し、ホームセンターで電動工具や各種消耗品や材料を購入する事は、「アーティスト」という「業」(ワーク)そのものの形として極めて当たり前の風景であり、それらは徹頭徹尾「プラグマティズム」の成せるものであって、それ自体は何ら特筆すべきものではない。そうなったからそうなっているというものであって、「小汚い」への「変身」は「自己表現」(例:「コスプレ」)が先立ってのものではない。

但し一見「見た目」は同じであっても、一般的な「レイバー・ワーク」と「アーティスト」には「違い」が存在する。それは「アーティスト」がそれを自覚するよりも先に、「レイバー・ワーカー」──「真正」だか「本家」だか「元祖」だか──も属する世界の側からしばしば、或いは常に言われる、「良いですよね、好きな事がやれて」という線引きの言葉に端的に現れている。「良いですよね、好きな事がやれて」は、「使役される者としての我慢が足りない」的な意味で「不道徳者」の烙印の様にも思える。それは通俗的なアイソーポスの「アリとキリギリス」の「キリギリス」(不徳)という事だろうか。「良いですよね、好きな事がやれて」は、常に「ざまぁ」とセットなのだろうか。

恐らく「アーティスト」というのはそれ自体が「人種」──或いは「生物種」──視されているものであり、それは「不道徳者/不逞」グループの一員として、何をするにしても「(不逞)アーティストがそれをやった」──「(不逞)◯◯人がそれをやった」的な──という話法で捉えられる存在ではあるのだろう。そこでは「たまたまそれをやったのが『アーティスト』(◯◯人)だった」という認識には中々ならない──ゴミ出しのルールが守れない者がたまたま◯◯人であっても、「◯◯人はルールを守らない連中だ」と脳内変換される様に。「アーティスト」(である者/でもある者)が何かを行えば、必ず「アート」の「業界代表」である事を背負わされるのだ。

しかしその「良いですよね、好きな事がやれて」という認識は「アート」の側にも内面化されている。例えば 3月11日の飯山由貴氏、及び遠藤麻衣氏と百瀬文氏の国立西洋美術館に於ける行動(注1)に対して、一般的に抗議活動そのものをトーン・ポリシング的に「不逞」/「不埒」行為とすら見做す「道徳」が蔓延する「日本」社会(「日本のおっさん」ワールド)に於ける「アート」の側から、「当て擦り」でしかないものが、「美術関係者」(「日本のおっさん」)から言われたりもする(注2)。「制作」や「発表」という「内面的報酬」(遣り甲斐)が膳立てされているのだからそれ以上何が必要なのか、「分相応」という「道徳」を受け入れる事で成立し、その上で十分に機能していると自分(「日本のおっさん」)が認識している微温的コミュニティ(「日本のおっさん」ワールド)の存続を危うくさせるな。こうして内外の両側から線引きは強化され、相互萎縮/相互監視のエンクロージャー(「日本のおっさん」が遊ぶお遊戯室)の中で、チイチイパッパの終了が遅延され続けるのである。

www.tokyoartbeat.com

(注1)「飯山由貴スピーチ内容全文 2024年3月11日 国立西洋美術館アクション」

docs.google.com

(注2)西美で撒かれたビラに書かれたあるフレーズを巡っての「曲解」が生まれた「歴史」の背景──「誰」(「国」含む)がそれを「曲解」し、政治利用し、その事で其々のエスタブリッシュを守ろうとしているのか──に想像力を至らせる事無く、「芸術」の名を冠して扇情的に「当て擦る」者もいる。
参考:

www.aljazeera.com

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東京藝術大学の「小綺麗」担当である音楽学部の5号館 5-109 で、一昨日こういう催しが行われた。

ga.geidai.ac.jp

ジュリア・ブライアン゠ウィルソン(Julia Bryan-Wilson:1973〜)が、2009年に University of California Press から出版した "Art Workers: Radical Practice in the Vietnam War Era" の邦訳書「アートワーカーズ 制作と労働をめぐる芸術家たちの社会実践」(フィルムアート社)刊行を「記念」してのイベントである。イベントの設え的には、3月14日の京都(京都芸術センター)が第1回目、3月17日の東京(東京藝術大学)が第2回目というものになっていた。

原書の副題の ”Radical Practice in the Vietnam War Era”(「ベトナム戦争時に於けるラディカルな実践」)は、邦訳書では「制作と労働をめぐる芸術家たちの社会実践」に置き換えられている。日本の論者による章毎の解題が新たに付された同訳書であるが、1960年代から1970年代のアメリカ美術に於ける「ラディカルな実践」について書かれた2009年(ベースは2004年)刊行の日本語訳が、2024年に出版される──即ちジュリア・ブライアン゠ウィルソンの論考と考察の対象との間に30年から40年の時間差があり、且つそのオリジナルの出版から15年後に出た邦訳書とその対象となった営為との間には半世紀以上の時間と社会状況の差がある──という事で、その変更もまた、解題を付す事と同様「いまの日本の読者を取り巻く状況に接続するであろう地理的・時間的距離を鑑み」(訳者あとがき)の成せるものだろう。

因みに邦訳書刊行の3年前(2021年)には、韓国で同書の翻訳書「미술노동자: 급진적 실천과 딜레마」(訳:シン・ヒョンジン、신현진)が出版されているが、その副題「급진적 실천과 딜레마」は「ラディカルな実践とジレンマ」という、原書にも邦訳書にも無い「ネタバレ」寄りのものになっている。

邦訳書冒頭の「日本語版への序文」(2023年8月付)で、ジュリア・ブライアン゠ウィルソン自身も「いまの私であればきっとこの本に『アートワーカーズ』という題はつけないだろう。なぜなら、実のところ私はむしろ、『このアーティストたちは労働者(ルビ:「ワーカー」)ではなかった』(注3)とするほうが腑に落ちる」と、こちらものっけから「ネタバレ」気味である。ありとあらゆる事を飛ばして極めて雑に言えば、この書はレトロスペクティブに見るに「やっちまった」──小磯良平的な「無意識」的セクシズム(注4)を含む──とされるものが列挙された「失敗の法則」的に読まれるべきものかもしれない。

(注3)同書の沢山遼氏による同書第2章「カール・アンドレの労働倫理」(”Carl Andre's Work Ethic”)の解題、「カール・アンドレ階級闘争」には、「一九七〇年のアート・ストライキの集会を記録した写真でアンドレは労働者のシンボルとして青いツナギ(注内注:それは大村の制作時、搬入時のデフォのスタイルでもあった)を着ている。が、そのツナギは、労働者のツナギそのものではない(労働者のツナギのようには汚れていない)。」とあり、それが「コスプレ」である事を示唆している。同書の第3章「ロバート・モリスのアート・ストライキ」では、「愛国」労働者による "hard-hat riot"(「ヘルメット暴動」)を報じるニューヨーク・タイムズの記事「建設労働者が戦争反対派を襲撃」(”War Foes Here Attacked by Construction Workers":1970年5月8日)を引用している(訳書175〜176ページ、原書110ページ)が、その「建設労働者」の「ほとんどが茶色のツナギを着てオレンジと黄色のヘルメットを被」っていた("most of them wearing brown overalls and orange and yellow hard hats")という。それもまた「労働者のシンボル」としての「コスプレ」であるには違いない。尚この「ヘルメット暴動」の発端になったのは、1970年5月4日の「ケント州立大学銃撃事件」であり、ベトナム反戦運動のアイコンの一つにもなった「ジョン・ファイロの遺体の前で叫び声を上げるメアリー・アン・ベッキーノ」の写真は、同年の「第10回日本国際美術展 人間と物質」展(「第10回東京ビエンナーレ」)に出品されたリチャード・セラとカール・アンドレの共作「豚はその子を食べてしまうだろう」( "The Pig Will Eat Its Children")にも使用されている。因みにこの「なりすましとしての労働者」──「コスプレ」──問題に対する「アンサー・ソング」として、「前章」の「小汚い」関連は書かれている。

(注4)例えば同書第3章「ロバート・モリスのアート・ストライキ」("Robert Morris's Art Strike")──原書の表紙に採用された、「『シガーを咥えた』ロバート・モリス(「アーティスト」)と『労働者諸君』」のホイットニー美術館に於けるインストール写真も掲載されている──ではロバート・モリス自身の「懺悔」を紹介している(訳書149ページ、原書89ページ)。

モリス自身は近年(注:2000年)この時期を振り返り、巨大彫刻、重労働、男らしさをイコールで結ぶ際に生まれる暗黙の性差別を認めている。『六〇年代のミニマルアーティストは、工場や製鋼所を探索する工業界の開拓者のようでした。芸術作品には仕事(注:訳書は「仕事」に傍点)の刻印がなければなりません。ここでの仕事とは、唯一まともなものだとされていた男の仕事のことでした。そそりたつヒロイズムをしぼませるような一点の皮肉もなく、鋳造所や製鋼所から、まだその熱気をまとったまま持ち帰られた仕事です。そして、この男の仕事は巨大で、ゆるぎなく、きちんとした、アプリオリなものなのです』

Morris himself has recently looked back at this moment, admitting the sexism implicit in the equating of outsize sculpture, heavy labor, and masculinity: "The minimal artists of the sixties were like industrial frontiersmen exploring the factories and the steel mills. The artwork must carry the stamp of work--that is to say, men's work, the only possible serious work, brought back still glowing from the foundries and mills without a drop of irony to put a sag in its erect heroism. And this men's work is big, foursquare, no nonsense, a priori."

(訳は邦訳書。以下同)

因みに米映画「フラッシュダンス」("Flashdance":1983年)では、ジェニファー・ビールス演ずるアレックス・アレキサンドラ・オウエンズが、製鉄所でアーク溶接(「男の仕事」)をしていた。

現時点で入手したばかりの邦訳書(一般販売は3月26日開始)の全てに目を通した訳では無いから、ここで「書評」をする事は無いし、そもそも展覧会と同様「評(言)」というものをする気も自分には更々無い。以下は東京藝術大学のイベントに先立って行われた、3月14日に京都の京都芸術センター(元京都市立明倫小学校)「大広間」(畳敷き)で行われたイベントの「感想」(未満)になる。

このイベントは、ジュリア・ブライアン゠ウィルソンの同書に沿った形での発表と吉澤弥生氏による発表(「芸術労働者(アートワーカー)はいかに社会とかかわりうるか?」)の二部構成になっていた(注5)。東京芸大の3時間というボリュームに比べ、京都のそれは2時間であり、しかもクローズの時間が施設の要請によって厳密に指定されているとの事で、主催者側が「残り時間」にソワソワしながらの進行だった。

(注5)吉澤弥生氏のレジュメの図表参照元
●「表現の現場ジェンダーバランス白書 2022」表現の現場調査団

https://www.hyogen-genba.com/_files/ugd/c3e77a_fe475c806249489c9243cef962e471ea.pdf
●「諸外国の文化予算に関する調査 報告書」文化庁 

https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/tokeichosa/pdf/h24_hokoku_3.pdf

●「早わかり グラフで見る長期労働統計」 独立行政法人労働経済研究・研修機構
https://www.jil.go.jp/kokunai/statistics/timeseries/html/g0208.html
https://www.jil.go.jp/kokunai/statistics/timeseries/html/g0701_01.html

●「男女共同参画白書内閣府
https://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/r04/zentai/html/zuhyo/zuhyo02-12.html
https://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/r02/zentai/html/zuhyo/zuhyo01-00-01.html

●「令和4年労働争議統計調査の概況」厚生労働省
https://www.mhlw.go.jp/toukei/list/dl/14-r04-08.pdf

一方、東京に行く事は叶わなかったから、それがどの様なものであったのかを、早速旧ツイッタランド(X)で複数のワードで検索してみたのだが、それが些かもヒットしない。片手に余る程の「行きました」「聞きました」「本を買いました」の「リア充」報告と、「指輪と携帯電話の忘れ物がありました」告知1件、そして「宣伝」が大半を占める。FB で「アートワーカーズ」等で検索を掛けてもそれは同じで、やはり「宣伝」ばかりがヒットする。

嘗てのツイッタランドには「tsudaり」という「文化」があり、この手の「美術のシンポジウム」にも「tsudaり」の御方が現れて、そこで何がどう議論されていたのかの「状況の一端」──飽くまで報告者の目を経由した「一端」──をテキストベース、或いはショート動画付きで「中継」する事で、会場から遠隔に住む者にも、理解の手掛かりを与えてくれるものだった。勿論その手掛かりは手掛かりでしか無く、後の主催者側による情報公開とセットでなければ意味を成さないものではある(注6)。しかしその「tsudaり」の「文化」も今ではすっかり廃れ──イーロン・マスクの X が仕様(ポスト数制限や時系列表示壊乱等)も含めてその様なものではなくなった──、そうこうしている内に情報の鮮度を気にして躊躇が始まり、結局それはツイート/ポストされる事も無くなり、結果としてこの種の催し物は空間の限界に絡め取られて蛸壺化、サークル化がいや増しに増す。

(注6)今回のイベントは映像に収められ、やがて公開される予定であるという事を聞いた。

京都の回では1969年の Guerrilla Art Action Group(GAAG)によるパフォーマンス、通称「血の海」("Blood Bath")も紹介されていて、それはその3日前の3月11日の国立西洋美術館をダイレクトに想起させるものではある(東京でこれが映写されたかどうかは判らない)が、ル・コルビュジェの美術館から遠く離れた京都では、それに対する言及は全く無かった。「アートワーカーズ」から引く。

 情報と調査を用いた実践をもっとも生々しく用いた作品のひとつに、一九六九年に行われたGAAGのパフォーマンス《近代美術館理事会からのロックフェラー家全員の即時退陣を求める声明》(A Call for the Immediate Resignation of All the Rockefellers from the Board of Trustees of the Museum of Modern Art)──通称《血の海》(Blood Bath)がある。このアクションでは、四人のアーティスト(ジャン・トーシュ、ジョン・ヘンドリクス、ポピー・ジョンソン、シルヴィアナ)がニューヨーク近代美術館のもっとも混雑する時間帯のロビーに集合した。何の警告もなく四人は互いの服を引き裂き始め、隠し持っていた二ガロン(約七・六リットル)近い血が入った袋を破裂させながら、支離滅裂な叫び声を上げた。アーティストたちは血まみれで半ば身ぐるみを剥がされ、ビラが散乱する床に横たわった。ここで撒かれたビラは、ロックフェラー家とその一族が支援する美術館が「軍事機構のあらゆる側面に関与する自分たちの野蛮さをカムフラージュするために芸術を利用している」と非難するものだった。(中略)GAAGのビラには、スタンダード・オイル社やマクドネル・エアクラフト社など、ナパーム弾やその他の戦争用弾薬を製造する企業とロックフェラー家との金銭的な関わりを詳細に記した三つの調査の概要が含まれている。(中略)GAAGが希求していた可能性はジャーナリズムに似ていた──《血の海》は、美術館の可視性のネットワークに頼り、それを利用することで、美術館の悪を過剰なまでに強調する。このアクションは、美術館という空間のなかで行われて初めて意味をなすものであった。制度的な枠組みによって、GAAGの批評は読解可能になるのである。

One of the most graphic uses of informational and investigative practices occurred in 1969; this was GAAG's performance A Call for the Immediate Resignation of All the Rockefellers from the Board of Trustees of the Museum of Modem Art, known simply as Blood Bath. In this action, four artists (Jean Toche, Jon Hendricks, Poppy Johnson, and Silviana) gathered in the peak hours in MoMA's lobby. Without warning, they began ripping each other's clothes off, screaming incoherently as they burst concealed bags filled with nearly two gallons of blood . As the artists sank to the floor, bloodied and half-stripped, they lay amid scattered leaflets that accused the Rockefellers and the museum they supported of using "art as a disguise, a cover for their brutal involvement in all spheres of the war machine." (...) GAAG's flyer included a three-point summary of research that detailed the Rockefellers' financial involvement with corporations that manufactured napalm and other war munitions, including Standard Oil and McDonnell Aircraft. (...) The visibility they craved was akin to journalism- Blood Bath functioned with a kind of excessive insistence on the evils of the institution precisely as it relied upon and exploited the museum's networks of visibility. This action made sense only when performed within the spaces of the museum; the institutional frame made GAAG's critiques legible.

(訳書283〜285ページ、原書184〜187ページ)

「地元」東京であるから、"the Vietnam War Era" ならぬ "the Israel–Hamas War Era"(仮)に於ける今回の件に関する言及なり質問なり何なりは、何らかの形で出てくるのではないかと想像させる(注7)。そうなった場合「研究者」である──或いは「研究者」である事を離れた──ジュリア・ブライアン゠ウィルソンはそれにどう答えるだろう。

(注7)東京の会場では、西洋美術館の一件に関して「言及があった」という X のポストはあったものの、それがどの様な形のどの程度の「言及」なのかは現時点で不明である。

京都の会場では「会場に来ている聴衆の属性的内訳をリサーチしたい」といった趣旨で、「ファインアートの方(手を上げて)」、「作家の方(手を上げて)」(以下略)という簡易な「調査」が行われた。一応「ファインアート」と「作家」のところで挙手はしたが、それとは別に手を上げようと待ち続けていたものがある。それは「ワーカーの方(手を上げて)」であったり、「アンペイドワークの方(手を上げて)」であったりだったのだが、結局それがされる事は無かった。その「アート」と「非アート」の「ぶった切り」もまた「アートワーカーズ」なる書物のイベントに相応しいのかもしれないとも思ったのだった。

斯くも「アーティスト」(「アート」)と「非アーティスト」(「非アート」)の弁別は困難である。多くの現実的「アーティスト」は同時にパートタイマーな「非アーティスト」──みなし公務員を始めとする美大教員含む──であり、その「非アーティスト」は同時にパートタイマーな「アーティスト」(「非正規アーティスト」)なのである。こうした労働に於ける「非正規」の嵌入状態こそが、「非正規アーティスト」による「非正規アート」としての「アート」のエコシステムであるならば、しばしば「フルタイム・アーティスト」という制度的幻想を追うかに見える「アートワーカーズ」の「中の人」(キャスト/インサイダー)の限界は、その辺りにもありそうな気がした。

「障壁」

大谷翔平から始まる以下の文もまた「美術」の話、とりわけ「『日本』の『美術』」の話である。

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2024年度の小学校の教科書(小学5年生算数:東京書籍)に、大谷翔平ロサンゼルス・ドジャース)がフィーチャーされるという。大谷翔平が日本の義務教育の教科書に取り上げられるに至るには様々な理由があるだろうが、その大きなものの一つは、「(日本)国民」にとって彼が「偉人」であり、その「偉人」性を担保するのは、「世界一」のベースボール・リーグであるアメリカの Major League Baseball(以下 "MLB")のトップクラスに──暫定的に──彼が位置するまでに「成功」し「勝利」者の側にいるからだろう。

6年前の2018年の光村図書の「道徳」教科書(小学5年生)にも、マウンドに立つ日本ハムファイターズのユニフォーム姿の大谷が、「夢を実現するためには」というタイトルで、彼の「成功」/「勝利」に繋がったとされる「マンダラチャート」と共に「自己啓発書」的な形──「君は、かなえたい夢や目標をどう実現していくか、考えたことがあるかな。」──で掲載されていたが、今回のロサンゼルス・エンゼルス大谷の登板は「算数」の教科書に於いてであり、相対的に児童の「科学」的思考を養うものになっている。少なくとも2018年教科書の様な、中村天風の「運命を拓く」的な「道徳」──「成功」/「勝利」賛美としての──の出る幕は、今回に限っては無い。

ベースボール・ゲームに於ける稀代の "Two-Way"(「二刀流」)(注1)プレイヤーである大谷翔平は、MLB の「残り」5シーズン以上を、現在のレベルかそれ以上か、或いはそれに近い形で過ごす事が出来れば、アメリカの "Baseball Hall of Fame"(以下 "HOF"/「(アメリカ)野球殿堂」)入りする可能性が相対的に大であると言える(注2)。2001 年に MLB 入りし、MLB 通算「19シーズン」を過ごした鈴木一朗(イチロー)の HOF 入りはほぼ確実視されている(注3)。現時点では、その2名のみが「日本国籍」を有する(2024年3月現在)野球選手で HOF 入りの「資格」を有している、乃至はその可能性があると目されている。

(注1)但し、そもそもベースボールという競技は、全てのプレイヤー(DH除く)に対して、「攻撃」の専門性と「守備」の専門性の「二刀流」を、イニングの裏表という形で課すものである。

(注2)HOF 入りの条件の最低限の原則として、プレイヤーの場合は、MLB で10年以上プレイし、引退後5年以上経過した者が HOF 入りの資格を持つ。大谷翔平の2024年シーズンは、MLB 6年目になる。

(注3)イチローに対して HOF 初の満票獲得を期待している者も「(日本)国民」の中にはいるものの、特に MLB キャリア後半の失速がどの様に現地で評価されるかでその票数は高下する。

長く "Whites Only"(白人専用)だった MLB ──1900年以降の近代 MLB ──で、カラーライン(皮膚の色の境界線)を越えた最初の有色人種選手となったのは、アフリカ系アメリカ人であるジャッキー・ロビンソンジャック・ルーズベルト・ロビンソン:Jack Roosevelt Robinson)である。MLB ブルックリン・ドジャース(現:ロサンゼルス・ドジャース)時代の背番号42は、1997年以降全米全球団──MLB からマイナーリーグ独立リーグ、アマチュアに至るまで──の永久欠番になり、彼の MLB デビュー日である 4月15日は、「ジャッキー・ロビンソン・デイ」("Jackie Robinson Day")とされ、MLB 全選手、全アンパイアが背番号42を着用する(注4)。日本プロ野球(以下 "NPB")各球団の背番号42にアメリカ野球出身(民族、人種問わず)の「外国人」が多いのも、アメリカ社会を経由して来た彼等にとって、それが聖なる数字を意味するからだ(注5)黄色人種である野茂英雄佐々木主浩イチロー大谷翔平も受賞した MLB の「最優秀新人選手賞」("Major League Baseball Rookie of the Year Award")の別名は、「ジャッキー・ロビンソン賞」("Jackie Robinson Award")である。

(注4)アンパイアは袖に42を付ける。

(注5)2024年シーズンの、日本プロ野球各球団の背番号42は以下の選手になる(中日のアドゥ ブライト 健太を含む「日本人」選手は省く)。
アンドレス・マチャド(オリックス)、ボー・タカハシ(西武)、C.C.メルセデス(ロッテ)、アンドレ・ジャクソン(DeNA)、カイル・ケラー(阪神)、ルイス・ブリンソン(巨人)、トーマス・ハッチ(広島)、アニュラス・ザバラ(日本ハム)。

ティーン時代、ベースボール、バスケットボール、フットボール、陸上の何れもが傑出した「四刀流」選手だったロビンソンは、プロ野球選手になる直前は軍人だった。1941年12月7日(現地時間)の日本の真珠湾攻撃(注6)を切っ掛けにフランクリン・ルーズベルトアメリカが第二次大戦に参戦。翌1942年に徴兵された彼は、少尉任官後に配属された第761戦車部隊「ブラックパンサー」の配置移動先である「南部」テキサス州フォートフッドで、彼の軍人キャリアを終わらせる事件に遭遇する(1944年4月13日)。その日、軍がチャーターしたバスに乗っていたロビンソンは、白人運転手から後部座席に移る様に命じられる。その「命令」はアメリカ「南部」諸州の「人種分離」("Racial segregation")州法である、所謂「ジム・クロウ法」("Jim Crow laws")に基づくものだった。ロビンソンが移動を拒んだところ、降車場に駆け付けた MP に拘束され、あらぬ嫌疑を上乗せされて軍法会議(court martial)に掛けられる。最終的に彼はこの冤罪事件で無罪放免となり、名誉除隊を受けた。

(注6)当時ロビンソンは、ハワイ真珠湾の建設会社で働きながら、セミプロのフットボール・チーム、ホノルル・ベアーズの選手としてプレイしていた。彼がカリフォルニアに帰省する為にホノルル空港を飛び立ったのは、真珠湾攻撃2日前の12月5日の事である。

アメリ公民権運動に繋がるローザ・パークス(注7)の抵抗(1955年12月1日)に始まる「モンゴメリー・バス・ボイコット」(1955年12月5日)や、遡る事半世紀の1893年6月7日の南アフリカの列車内に於けるマハトマ・ガンディーの屈辱を想起させもするその事件の後、プロ野球選手としてのキャリアをニグロ・リーグカンザスシティモナークスでスタートさせる。その実力と人格を評価、及び観客層拡大を図ったドジャースのゼネラルマネージャー、ブランチ・リッキー(1967年 HOF 入り)が、彼の MLB チームにロビンソンを迎え入れる。

(注7)2019年にバービードール(マテル)の "The Inspiring Women" シリーズでリリースされたローザ・パークス(下掲画像)。「公民権運動」のスタートになったバス車内をプリントしたボックスには "Rosa Parks" の名の下に「公民権活動家」("Civil rights activist")と記されている。パークスの彫像は全米各地に存在するが、その最も代表的なものは、連邦議会議事堂内の国立彫像ホールに収められているものだ。一方バービードールの日本的展開である「リカちゃん」もまた「移民」の血を引く者である。演奏活動ウィドウであるが故に実質シングルマザーで7児の母である香山織江に育てられた「リカちゃん」(Licca Kayama:香山家次女)。その父親の Pierre Kayama(ピエール香山:旧姓ミラモンド)は、「フランス国籍を持つ指揮者で王家の末裔」という設定以上は不明である。1967年(昭和42年)に11歳だった Licca Kayama が、昭和の日本の白樺小学校で「あいのこ」呼ばわりをされて「イジメ」に逢ったという設定は無いが、その一方で「アクティヴィスト」が「リカちゃん」の世界に入る事も無いだろうし、故に「お人形遊び」から「人権」に思いを馳せる事も無いだろう。

ロビンソンの伝記映画 "42" の冒頭部、白人の球団役員に「ニグロ・ボールプレイヤー」入団を提案する場面に於ける「プラグマティスト」ブランチ・リッキー(演:ハリソン・フォード)の台詞。"New York's full of Negro baseball fans. Dollars aren't black and white. They're green. Every dollar is green."(「ニューヨークは黒人野球ファンで一杯だ。ドル紙幣は黒でもなければ白でもない。緑だ。どのドルも緑なのだ。」)。

これは「資本主義」という「人工」的体制下に於ける徹底した功利主義という「人工」的アティテュードこそが、「人権」という近代思想に於ける「人工」的概念をドライブする最大のものの一つである事を示しているが故に、極めて重要なセンテンスと言える。現に、アメリカ社会の早い段階で組織上の差別「撤廃」──但し運用上の差別は存在する──を行ったのは、良くも悪くも功利主義の最たるものであるところの軍隊である。外部(エネミー)に向けられるべきエネルギーを、「白」であるか「黒」であるかに拘り続けて無意味に内部で消耗し、人的資本のポテンシャルを毀損/浪費するばかりの軍隊(例:「皇軍」)は、それだけでフォースの組織として弱体化するからだ。

37歳でベースボール・プレイヤーとしての現役を引退した後に、ロビンソンは公民権運動に深く関わる事になる。マーティン・ルーサー・キング・ジュニア"I Have a Dream!" 演説でも知られる「ワシントン大行進」にも、アクティヴィスト・ジャッキー・ロビンソンは参加している。キングは、“Jackie Robinson made my success possible. Without him, I would never have been able to do what I did.”(「ジャッキー・ロビンソンが、私の成功を可能なものにした。彼がいなければ、私がしてきた事は決して出来なかっただろう」)と語っている。


2023年12月の HOF 公式サイトのトップページには、キングの生誕日を祝う「マーティン・ルーサー・キング・ジュニア・デイ」と、「黒人歴史月間」に合わせたジャッキー・ロビンソン関連の展示が、アメリカ野球界に於ける女性に関する展示と共にインフォメーションされていた。

アメリカ野球を学ぶ事は、アフリカ系アメリカ人を始めとするマイノリティや女性の権利を学ぶ事、即ち野球は常に人権意識の先頭に立たねばならないというのが、HOF の基本スタンスだ。ジャッキー・ロビンソンの10年に渡る MLB での通算成績(注8)を上回る選手は多数存在するが、彼は数字のみでは測れない "equal rights" や "fairness" といったアメリカ社会の人権原則に於ける、ローザ・パークスマーティン・ルーサー・キング・ジュニア等と同様の、社会変革に携わったアイコニックな「偉人」なのであり、それは日本に於ける大谷翔平の、「『海の向こう』の『本場』で大活躍」の「おらが国の偉人」という田舎根性丸出しのフェイムとは意味もスケールも全く異なるものだ。

(注8)1,382 試合出場。通算打率 .311、通算本塁打 137、通算打点 734。因みに通算打率3割1分1厘は、MLB に於けるイチローのそれと同じである。

現在の MLB では、毎シーズン、アメリカ合衆国を含めて20カ国前後の国籍を持つ選手がプレイしている。最も多いのはアメリカ国籍を持つ選手(全体の3/4)だが、「アメリカ人」であってもその人種構成は当然の事ながら多岐に渡る。HOF 入りしたプレイヤーにも、アメリカ以外の国籍を持つ選手が多数含まれている──だからこそ日本国籍を持つ選手の HOF 入りも実現可能なものになる──し、そのフェイムは MLB のみならず、キューバ野球等の海外リーグやニグロリーグの選手や関係者(注9)にも与えられている。建前として "equal rights" や "fairness"(注10) が重要視されている社会であるが故の多様性は、結果的にアメリカ野球のレベルを底上げしている。アフリカ系やヒスパニックの選手が存在しない MLB などというものは、今では考えられない。有色人種や外国人が不在の MLB のレベルは、最早 "MLB" のそれではなくなるだろう。「イミグラント」や「マイノリティ」を MLB に入れるのは、前世紀末のアメリカ美術界(注11)の様な、クォータ・システムアファーマティブ・アクションによるものではない。繰り返しになるが、それは徹底した功利主義の成せるものなのだ。だからこそ大谷翔平という黄色人種が、ジャッキー・ロビンソン以降の MLB というイコール・コンディションの平面上で輝く事が可能なのである。

(注9)"Fourteenth Amendment to the United States Constitution"(「アメリカ合衆国憲法修正第14条」)を永年骨抜きにしてきた "Separate but equal"(「分離すれども平等」)という法原理が、"equal" (「平等」)を詭弁的に扱い、ジム・クロウ法の後ろ盾になっていたのは皮肉な話である。ニグロ・リーグは、「分離すれども平等」による産物の一つである。

(注10)HOF 入りした唯一の女性である Effa Manleyエファ・マンリー)の受賞理由は、ニグロリーグ球団のニューアークイーグルスの共同経営者としての手腕、及び "commitment to baseball and civil rights" (野球と公民権へのコミットメント)を評価されてのものである。

(注11)2020年代になっても、アメリカ美術界に於ける/アメリカ美術界ですら事実上のカラーラインは崩れてはいない。以下の記事では、美術館館長の採用には、社会的・職業的「ネポティズム」がものを言い(”museum directors are more likely to invite individuals already in their social and professional circles”/「美術館館長は、既に社交界や仕事上の付き合いのある人物を採用する傾向が強い」)、そこには “racially stratified.” (「人種的階層」)の存在が認められるとある。洋の東西を問わず、「美術」が如何に「グローバル」を僭称しようとも、未だに閉鎖的内集団が斯界の人事を左右する近代以前の段階にある事をまざまざと示している。

www.artnews.com

一方、日本の「野球殿堂」では、昨年2023年、プレイヤー表彰枠でアレックス・ラミレス、エキスパート賞枠でランディ・バースが選出された。「外国人」の殿堂入りは、ヴィクトル・スタルヒン以来63年振りという報道もされるものの、日本に於けるスタルヒンはロシアからの亡命者であるが故に無国籍者であった。即ちスタルヒンは「外国人」でもなければ「日本人」でもない。ラミレスは、2008年にFA資格を取得した為に、日本野球機構野球協約上翌シーズンから「外国人枠」を外れる一方で、DeNA 監督時代の2019年には「帰化」し、殿堂入りの際には日本の公民権を有する「日本国民」だったものの、それでも依然としてラミレスは「移民」という過去形で時を止められた「ガイジン」(仲間外れ)の儘なのである。

他方この報道では、日本の「野球殿堂」入りメンバーである中華民国籍の「本塁打868本(「本塁打数『世界記録』」)」の王貞治(ワン・ジェンジー:Wáng Zhēnzhì)(注12)大韓民国籍の「3,000(3,085)本安打(安打数「日本記録」)」の張本勲チャン・フン:장훈)、及び現役時代の10年間大韓民国籍だった「400勝(勝利数「日本記録」、他に奪三振4,490等も「日本記録」)」の金田正一(キム・ギョンホン:김경홍)を「外国人」としてカウントしていない(注13)

(注12)日本初の「国民栄誉賞」は王貞治に送られたが、王貞治自身は「(日本)国民」ではない。「国民栄誉賞表彰規定」の「1 目的」には以下の記述がある。「この表彰は、広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があったものについて、その栄誉を讃えることを目的とする。」。「国民」は「敬愛される」対象を必ずしも指さず、専ら「敬愛する」者を規定する。そもそも「敬愛」は属人的なものに対する個人的な感情であり、本来はそれを公に披瀝する事にも、それによって生じさせられる統合にも適さないものだ。野球を始めとするスポーツ全般が嫌いな人間もいれば、読売ジャイアンツが嫌いな人間もいれば、王貞治という人物が嫌いな人間もいる。この規定に言うところの「社会」は、「敬愛(する)」の有無や多寡を以て計られる「標準」としての「国民」を条件とするものなのだろう。

(注13)アメリカ国籍の与那嶺要(ウォーリー・ヨナミネ:Wallace Kaname Yonamine)は、記事中で「日系選手を除けば」という形で「配慮」はされている。

「外国人」選手を規定した日本野球機構野球協約82条を上げておく(注14)

(注14)当然 MLB にはこの様に明文化された「外国人」/「移民」に関する規定は無い。

第82条(外国人選手)

 日本国籍を持たない者は、外国人選手とする。ただし、以下の各号の1に該当する者はこの限りではない(なお、(4)号に規定する者については、この章の規定の適用に関する場合に限り、外国人選手でないものとみなす。)。

(1)選手契約締結以前に、日本の中学校、高等学校、日本高等学校野球連盟加盟に関する規定で加盟が認められている学校又は短大(専門学校を含む。)に通算3年以上在学した者。
(2)選手契約締結以前に、日本の大学、全日本大学野球連盟の理事会において加盟が認められた団体に継続して4年以上在学あるいは在籍した者。
(3)選手契約締結以前に、日本に5年以上居住し、かつ日本野球連盟に所属するチームに通算3年(シーズン)以上在籍した者。
(4)選手契約締結以後、この組織が定めるフリーエージェント資格を取得した者。当該選手はコミッショナー公示のあった年の次の年度連盟選手権試合シーズンからこの適用を受ける。
(5)新人選手選択会議(注「ドラフト会議」)を経由して選手契約を締結し、選手契約締結前に日本の中学校、高等学校、日本高等学校連盟加盟に関する規定で加盟が認められている学校又は短大に通算して3年以上在学していなかった者で、その在学年数と支配下選手として公示後の年数(シーズン数)の合計が5年となった後、新たな年度連盟選手権試合シーズンを迎えた者。
新人選手選択会議を経由して選手契約を締結し、選手契約締結前に日本の大学、全日本大学野球連盟の理事会において加盟が認められた団体に継続して4年以上在学あるいは在籍していなかった者で、その在学あるいは在籍年数と支配下選手として公示後の年数(シーズン数)の合計が5年となった後、新たな年度連盟選手権試合シーズンを迎えた者。
この条項の適用を受ける支配下選手の承認は実行委員会で行うものとする。

第82条の2(外国人選手数)
 球団は、任意の数の外国人選手を支配下選手として保有することができる。ただし、出場選手登録は4名以内に限られ、野手又は投手として同時に登録申請できるのは、それぞれ3名以内とする。

NPB 選手に於ける「属性」、即ち「外国人」/「移民」──翻ってその対向概念としての「日本人」──を精緻に規定するものだ。MLB の様な功利主義に基づく機会均等が前提なら、この様な「障壁」──内部的には「粉飾」──は一切必要無いのだが、「外国人枠」というラインを引く事でこそ成立可能なものが、「日本」社会という村落共同体的社会を体現する「日本の野球」なのだろう。「日本の野球」は「日本の野球」であるというトートロジーは、「日本の野球」──「日本人選手よりも能力の高い外国人選手ばかりになってしまったら『日本の野球』ではなくなる」──という「障壁」/「粉飾」の前提に批判の目を向けない。

MLB 球団に日本人選手が移籍する場合、ややもすれば「挑戦」という言葉が使用されたりもする。しかし MLB がその配下選手に期待するのは、「挑戦」という個人的な「思い」に留まるスタンスではなく、技術面をも含めた MLB 全体の底上げに貢献出来る労働力であるか否かの功利性でしか無い。「挑戦」と言う事を美徳とする様な湿度の高い社会に於いてすら、企業等の採用面接で「挑戦」などと口にする人間の能力に、雇用者側は疑いの目を向けるしかないだろう。

他方、NPB 球団に移籍して来る外国人選手は、「日本の野球」の底上げに貢献する為に「来日」するのだろうか。少なくとも外国人枠というリミッターが掛かっている社会に対してはその様な気にもならないだろうし、「移民」が「日本」社会から求められる「道徳」は「分相応」──秩序維持の為に自分の能力にリミッターを掛けろ──だ。一方で、NPB でプレイする事を、彼等の出身地では「(おらが国の)偉人」の証とは決してしないし、「挑戦」の価値すら有していない。こうして「日本の野球」は、野球の国際市場に於いて「下位リーグ/育成リーグ」としての「狩り場(調達場)」と「出稼ぎ(期間労働)」の意味しか無くなり、「分相応」の「道徳」で人的資本を安価に見積もる事を正義とする社会からの人材の流出は、才能や能力があればある程に止まる事は無い。少なくとも功利的な意味で不合理な「障壁」/「粉飾」が幅を利かせているところでは、「世界最高」を提供する場の成立は永遠に不可能であり、その様な「障壁」/「粉飾」の存在──カール・マルクス的に言えば「障壁」/「粉飾」の物神性(Versachlichung)化──こそが、「日本の野球」をして辺境/特殊たらしめ、その結果価値下落を加速するのである。「世界」の辺境/特殊である事を嘆く「悪い場所」というのは、畢竟そうした "equal rights" や "fairness" の徹底的欠如、労働市場に於ける「関税の高さ」、それによって生じる労働力の「買い負け」にこそ淵源があるのだ。インターナショナルな野球リーグ設立を目指すのではなく、ローカルな野球リーグをローカルで内部消費するという「『日本』の『野球』」の構造は、自らにもリミッターを掛ける「分相応」という「道徳」故なのだろうか。

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今から5年前、「日本の美術」に於ける影響力を持つとされる「美術手帖」の2019年12月号の特集は「『移民』の美術」だった。

「移民」の美術

いま日本は新たな移民時代を迎えている。労働力としての外国人受け入れ拡大が進み、全国に多様な移民コミュニティが生まれ、コンビニエンスストアなどでも身近に働く外国人は増えている。彼らの権利保護や社会保障、日本人との共生に注目が集まるなか、美術はどのような役割を果たしうるのか。

本特集では、「移民」を広義に「外国にルーツを持つ人々」と設定し、彼らがつくり出す美術とその歴史、移民・難民と協働するアートプロジェクト、音楽や映画に見られる幅広い移民文化などを取り上げる。

「移民」の美術とは何か? 「移民」のための美術とは何か?その現在的な意味を考えたい。

oil.bijutsutecho.com

あらためて5年前の「『移民』の美術」を読む。首都圏在住者以外にはほぼ無価値な情報でしかない「渋谷PARCO」──同誌の編集/発行を行うカルチュア・コンビニエンス・クラブ本社から徒歩15分──のリニューアル告知という、町内会回覧板のバインダーに掲載される様な町内的広告と、広告としてどれだけの人間に訴求力を及ぼし得るかが不明なアート・バーゼル(マイアミ・ビーチ)の広告の後に、編集長氏の特集巻頭辞が掲載される。

Editor's note

 今号は「『移民』の美術」特集をお届けします。この企画の背景には、近年議論に上っている日本における外国人の受け入れの問題がある。現在、日本では少子高齢化にともなう深刻な人手不足に見舞われており、外国人材の獲得のために、政府(ブログ主注:第4次安倍内閣《第1次改造》)は2019年4月1日「改正出入国管理法」を施行した。労働力として受け入れた外国人を生活者として、この社会でどう共生していくのか。制度的な面でのサポートについてはもちろん、文化的な側面での共生も喫緊の課題であるだろう。
 特集では、広義に「海外にルーツを持つ人々=移民」として、主に「移民」にとっての美術、「移民」についての美術を取り上げる。移民という立場はアーティストにどのような影響を与えるのか、また、移民性はどのような新しい表現を生み出すのか。そして、当事者ではない立場から移民や移民をあつかうアートには、どのような可能性があるのか、まさに現在取り組んでいるアーティストの生の声をお伝えする。
 また、移民は現代に限った話ではない。移動を続けてきた人類の道行きを繙くまでもなく長い歴史を持っている。かつて日本は移民「送出」国であり、とくに地方の貧窮民は生活の糧を得るために、ハワイやブラジルなどへ新天地をもとめて旅立っていった。かれらが現地でどのような辛苦を舐め、たくましく生き抜いてきたのか、その歴史をリサーチし、アートのかたちで語り伝えていくアーティストがいる。そのことで、歴史的な地点からの視座と相対化された複数の観点が得られて、私たちが現在直面する課題に対して、未来への思考が動き出すだろう。
 先の改正入管法にかぎらず、日本の移民に対する政策には不十分な点や問題も多く、これらは政治のなかで解決するしかない。そのうえで、芸術文化が果たすことのできる役割はなにか。マイノリティをはじめ他者への想像力を喚起する力が、美術にはあると考えている。そのことで、社会を変える市民の価値観や意識を揺さぶることができるはずだ。だが、いまその喚起力を受け止めるレセプターを市民、鑑賞者の側が十分持てているのか。小誌もいちアートメディアとして、良き鑑賞者をつくり育くむことができるのか、その真価が問われているのだろう。

2019.11
編集長 岩渕貞哉

ページを捲ると、「現代日本の『移民』たちのフォトレポート」なる導入グラフ記事になる。その6名の内、最後の1名を除く5名の紹介文 "Immigrant Story" は「日本に来る切っ掛け」と「日本での過ごし」という「YOUは何しに日本へ?」スタンスにほぼ限られている。「祖国」で彼等がどの様な人生を送ってきたか、「日本」に来る前の彼等のアイデンティティは何だったのか、及びそれらと現在との差異について触れてはいない。

紹介されるのは、「解体工」のカラクラク・ムスタファ(「クルド人」)、「介護士」のサオ・メイ(「ラオス人」)、「グラフィック・デザイナー」のビーマル・バンストラ(「ネパール人」)、「旋盤工」のファテリ・ハサン(「イラン人」)、「宝石商」等のラジャ・ラジグル(「インド人」)、そして「無職(路上生活者)」のM.M.(「日本人」)である。ピックアップされている殆どが相対的に低収入──「私たちの社会」から低評価──の「現業」従事者(≒「エッセンシャル・ワーカー」)であり、所謂「師業」はいない(「インド人」の「占星術師」を別にする)。最後の路上生活者(「日本人」)に「『公共』のグレーゾーン」を見極め」、「移動しながら制度のグレーゾーンを『すり抜けて』いく振る舞い」に、「身体的実感を伴う、私たちの社会をうつした、新しい『移民』の姿を発見できるはずだ」と「日本の『美術雑誌』」は曰う。

仮にそうした「すり抜け」が必要とされるものが「私たちの社会」に於ける「移民」の実際であるならば、では何故に「私たちの社会」に於いて、様々な非対称性としての「移民」が発生してしまうのか。要は制度を始めとする「私たちの社会」の構造的欠陥、傍観者の論理(注15)や言葉の空転──日本野球機構野球協約の様な──が幅を利かせる「私たちの社会」をして、予め機会均等を奪われた「私たちの社会」的な「移民」が日々生産されているという事ではないのか。「制度のグレーゾーンを『すり抜けて』いく振る舞い」というのは、例えば現業従事者が概ね低収入──それは「日本人」に於いても同──である様な「制度」に対して、諦観的に「従順」──「抵抗」は「不道徳」──である事を前提に言われているのではないか。建築解体や老人介護やチラシデザイン、或いは高齢化等によって疲弊した本邦の第一次産業第二次産業を下支えし、人手不足に悩みコストを下げる事に汲々とする本邦の第三次産業や福祉業務のインターフェイス部分に従事する「移民」は、「成功」/「勝利」/「努力」/「自助」賛美の──2006年「教育基本法改正」以降の──「道徳」教科書には決して登場しないだろう。大谷翔平が「私たちの社会」の「道徳」を代表するならば、果たしてこれらの人達の現在は、「自助」的なフェイズに於ける「徳目」の「不足」による「不道徳」の結果という事になるのだろうか。「私たちの社会」で、決して大谷翔平になれない彼等の境遇は、「自助」が至らなかったが故の日本型 "less eligibility"(「劣等処遇」)になるのだろうか。

(注15)Charities Aid Foundation(CAF)の調査、"World Giving Index 2023" によれば、日本の「人助け度」は142カ国中139位であり、"HELPED A STRANGER" カテゴリーに至っては、日本は「イスラエル」(例)の半分以下、「ミャンマー」(例)等を含むアジアで最下位である。大谷翔平が「道徳」の教科書に載る「私たちの社会」でしばしば唱えられるのは、「新しい公共」という名の自助>共助>公助の不等式であり、その不等式に於いて「人助け」は、特に「される」事(例:生活保護や支援活動)に於いては「不道徳」的行為であるとすらされる。因みにこの調査では、インドネシアが世界最高の "generous country" とされているが、そのインドネシア(嘗ての「大東亜共栄圏」地域)は経済発展が目覚ましいが故に、近々の OECD国入りが確実視されている。恐らくインドに続いて10年以内に GDP で日本を抜き去るだろう。

www.cafonline.org

相対的に「社会」を「取り上げ」た特集ですら、この「美術雑誌」に於いてはその「社会」に対する構造的問題には一切触れない。「さまざまな制約」と言っておきながら、その「さまざまな制約」が何であり、何に由来し、何に対するどの様な構造的「障壁」になっているかについては棚に置く。それは「美術雑誌」という名の「旅行誌」/「情報誌」/「趣味誌」(注16)であるが故の限界なのだろう。この記事が、「私たちの社会」の構造に触れる事を回避する事で成立している「るるぶ」(例)的な「観光」視点(傍観者の論理)に立脚しているのは明らかだ。「るるぶ」が「地方社会の疲弊をもたらす構造」(例)には徹頭徹尾無関心であり、且つその「社会」的傾斜の上位に自らを位置させる事で同誌の「商品」性が成立している様に。

(注16)実際リアル書店の売場に於ける「美術手帖」は、「るるぶ」や「じゃらん」や「OZmagazine」や「TRANSIT」や「旅行読売」や「散歩の達人」等の「旅行誌」、或いは「日経トレンディ」や「DIME」や「ホットドッグプレス」や「Hanako」といった「情報誌」、「アニメージュ」や「声優グランプリ」や「コンバットマガジン」や「ホビージャパン」等の「趣味誌」の「隣」、「CasaBRUTUS」や「Pen」や「男の隠れ家」等と同一カテゴリーで売られている。

寧ろ「美術手帖」(「旅行誌」/「情報誌」/「趣味誌」)が避けて通った「机上の『移民問題』」こそが、「移民」問題を考える際に最も重要なのだ。ジャッキー・ロビンソンや、ローザ・パークスや、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアは、徹頭徹尾彼等の「私たちの社会」に対して、その構造から問い直す「机上」の立場である事に拘った。拳を上げたり涙する「感情」が、「アクティヴィズム」に於けるエネルギー的原資として極めて重要である事を十分以上に理解しつつも、その一方で「さまざまな制約」の構造を明らかにする「机上」だけが、成員相互の利害が交錯する「社会」という構造を律する事が出来る法則/人工的概念を導き出す唯一の方法である事を知っていた。一方「さまざまな制約を『するりと生き抜く』技術」に旅行者/傍観者的に注目した「日本の『美術雑誌』」の「フォトレポート」の写真は、100数十年前のアメリカ南部のプランテーションで綿花栽培に従事するアフリカ系アメリカ人日帝植民地時代のインドネシアの "roumusha" 等を、のんびりとした態度で「活写」したものに極めて酷似する。

些か大仰に言えば、この「フォトレポート」を作り/読むコミュニティに属する者の殆どは、この人達やその家族・親族・子孫の中から──仮に「帰化」したとしても──将来の内閣総理大臣(政府の長)が生まれるなどとは毛の先程にも考えてはいないだろうし、生まれる様な社会を望んでもいないだろう。「外国」──事実上「外国」視されている地域含む──にルーツを持つ日本国籍保有者が、何世代もこの国に税金を払い続けて居住し、如何に統治能力に長けていようが、それでも総理大臣への道には、マンダラチャート如きでは到底突破できない厳然たる「障壁」が存在するのが現実だ。

ペルー共和国の実際は「ペルー」ではあるものの、それでも曲がりなりにも「外国」(日本)にルーツを持つアルベルト・フジモリが大統領として一時(いっとき)認められた国である一方で、「女性初」の首相が間欠的に待望されたりもする「私たちの社会」ではあっても、リシ・スナクやバラク・オバマの如き「『移民』初」の Head of government の実現性は現実的にかなり低く、永遠に実現しないとすら考えざるを得ない。例えばこの「フォトレポート」のタイトルである「現代日本の『移民』たちのフォトレポート」を、写真や文章はそのままに「現代日本で永遠に総理大臣になれない人たちのフォトレポート」とするだけで、様々な「現代日本」の構造的「障壁」が明らかになる。

この誌面には「共生」の語がしばしば登場する。しかし「共生」にはベネフィットとハームのバランスによって利害関係の種別が必ず存在する。「共生」はそれだけを唱えてさえいれば良い「題目」ではない。仮に「題目」であれば、「全てのジェンダーは『共生』の状態にある」とも、「『分離すれども平等』も『共生』の形である」とも、「嘗ての Major League Baseball と Negro League baseball は『共生』関係にあった」とも、「私たちと技能実習生は『共生』している」とも、「イスラエル人とパレスティナ人は『共生』している」とも嘯く事が可能だ。セクシストやレイシストの口から「共生」という言葉が出てきたとしても何ら不思議な事ではない。

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「フォトレポート」から先は、「日本の美術」と「移民」の関係についての考察記事が並ぶ。パート1が「『移民』のアイデンティティと表現」として、何人かの「在日」作家のインタビューと、それに続いて「在日朝鮮人美術の歴史」と題された白凛氏による文章。それから沖縄出身作家のインタビューに続き、都留ドゥヴォー恵美里氏によるブラジル日系移民や、アメリカの日系ディアスポラのアーティストに触れた原田真千子氏の文が並ぶ。パート1の最後は、岩井成昭氏による「イミグレーションミュージアムは可能か」というコラムに続いて「『海外』にルーツを持つ」複数作家のインタビューで締め括られる。パート2は「『移民』『難民』と協働するアーティストの実践」として、数人のアーティストへのインタビューと対談の後に、清水知子氏による「難民と芸術」という一文、文化人による鼎談で「『移民』の美術」特集は終わる。

「『移民』社会発の『美術』」にフォーカスを当てたそれぞれの記事は、それぞれにそれぞれの意味で読み応えがあり、貴重で重要な視点を提供してくれるものである。しかし同時に「『移民』の美術」に対して、「『移民』社会発の『美術』」に「絞り込み」をする事に違和感も覚える。それは「私たちの社会」の「美術」(=「『日本』の『美術』」)に於ける「『移民』の美術」を語る上で、事実的に想起される固有名詞が幾つも零れ落ちている事だ。例えばこの「『移民』の美術」にフォーカスした当該号(注17)から割愛されたバイネームの一つに、「本邦の国内美術」という意味に於ける「『日本』の『美術』」という設定の中で、最も、且つほぼ唯一「成功」した「移民」のアーティストである大韓民国籍の李禹煥(リー・ウーファン:Lee Ufan/イ・ウファン:이우환)の存在がある。『日本』の『美術』」に於ける李禹煥の評価は、「朝鮮」のナショナリティエスニシティに一義的に結び付けられている訳では無い。換言すれば「朝鮮」文化的な意味での評価では直ちに無い。では何故に、或る時期までの「『日本』の『美術』」に於いて、李禹煥が重要なタレントの一人として確固たる位置を占めるに至ったのか。

(注17)因みに「『移民』の美術」特集号(No.1,079)の次号の「美術手帖」は、「アニメーションの創造力」を特集としたもの(No.1,080)である。「『移民』の美術」に関する継続的/持続的な考察は、事実上それ以後されてはいない。恰もそれは「イタリア」特集号(No.61)の次号が「コーカサス」特集号(No.62)という "TRANSIT" 誌(例)の如き「するり」である。その「アニメーション」だが、例えば狭義の産業「アニメ」に於いて、極端な労働集約型産業である「『日本』の『アニメ』」制作現場に「外国人」が入る事は、当時の人件費が日本よりも相対的に低かった中国、韓国、台湾等に彩色等を外注していた1970年代から開始されている。「国際分業化」がより亢進された現在のTVアニメや劇場アニメのスタッフロールに「外国人」の名前を発見するのは極めて容易だが、その名を「作画監督」や「キャラクター・デザイン」以上のポジションに見る事は無い。果たして可能性としての「外国人」監督の「日本のアニメ」──「外国人」のディレクションで、「日本人」のアニメーターが労働する──は、一種の語義矛盾の様に捉えられるのだろうか。SNSアニメアイコンの人は、カタカナ名で書かれたりもする「外国人」監督の「日本のアニメ」を受け入れるだろうか。そうした「外国人」監督の「日本のアニメ」が、アカデミー賞の「長編アニメ映画賞」を受賞したとして、果たして日本のメディアが「宮崎駿」程に上を下への大騒ぎをするだろうか。

一方で、WWII 後に日本からアメリカに渡り、そこで一廉の「成功」を収めた「移民」アーティストも取り上げられてはいない。具体的には、河原温荒川修作草間彌生小野洋子等々であり、或いはまた「『日本』の『美術』」を経由した白南準(ナムジュン・パイク/ペク・ナムジュン:백남준)も含まれるだろう。他方、20世紀初頭のパリの美術もまた「移民」の存在が欠かせない。出自に於ける彼等のナショナリティエスニシティは多様だが、それぞれの作品への評価はそれとパラレルではない。

実際、20世紀の或る時期まで、日本のアーティストはパリ(戦前)やニューヨーク(戦後)等への「移民」願望が強かった。20世紀後半の日本の若いアーティストは、ACC のグラント(例)を取得しようと模索したりもした。それは NPB の野球選手が MLBアメリカへの「移民」を望む様なものだった。事実としてそれぞれの時代のパリもニューヨークも、「美術」に於ける MLB 的な位置と体制の中にあった。即ちそれらの "Major League Art"("MLA")への「移民」の参入が、相対的に容易なものとして設定されていた事により、「移民」の彼等はそれらのリーグの支配下選手として活躍する事を「夢見る」事が可能だった。

戦前のパリの「メジャーリーグ」に、「マイナーリーグ」期を含めて10シーズン程参加した岡本太郎は、「青春ピカソ」(1950年)に於いて以下の様に記している。

私は抽象画から絵の道を求めた。(中略)この様式こそ伝統や民族、国境の障壁を突破できる真に世界的な二十世紀の芸術様式だったのだ。────ある文化の地に他の伝統を持った芸術家が来て、その土地の文化に影響されて仕事をする場合、血縁のつながりのない異邦の現実に即するリアリズムよりは、抽象的またはロマンティックなものになりやすい。これは文化が交流した場合とか、一つの時代が他の時代に急に移行する場合、同様に起こる現象であるということは歴史の中にも例証を見ることが出来る。事実、今日ほど文化の交流、時代の進展の急激な時期はないのである。

岡本太郎がここで述べている「抽象」とは何か。結論から言えば、それは造形上/表現上の「芸術様式」ではなく、「伝統や民族、国境の障壁を突破できる」(岡本太郎)という「『参入』の『容易』さ」的な意味での「芸術様式」である。野球のルールの様な「人工」的仮構としての「抽象」や「近代」というフィクションを介する事で、美術の労働市場に於ける「参入」障壁の「突破」が相対的に実現される。

「契約」としての「抽象」や「近代」を前に、それぞれの持つ「伝統や民族、国境」といった「私服」は一旦脱ぎ捨てられ、その結果「抽象」や「近代」ゲームの「ユニフォーム」の袖に手を通す「プレイヤー」になる事が出来る。その上で、長髪にしたり、毛染めをしたり、ネックレスをしたり、ピアスをしたり等の「自分らしさ」の表現が行われる。

嘗てのニューヨークやパリの美術の「メジャーリーグ」に外国人枠が存在したり、或いはそれぞれの出自(「伝統や民族、国境」)に応じた別々のリーグ──ニグロ・リーグの如き──が設定されていて、例えば外国人は外国人専用のアート・リーグに、有色人種は有色人種専用のアート・リーグに、即ち「『移民』の美術」のリーグに押し込まれ、「伝統や民族、国境」を背負わされた「色眼鏡」で見られるしか無かったら、誰もニューヨークやパリになど行かなかっただろうし、行く必要性など微塵も有りはしない。

「普遍」というのはそれ自体が「人工」的「発明」である。「不戦」が、今日「国際的」な「普遍」であるにしても、それは例えば「ケロッグ=ブリアン条約」(「パリ不戦条約」:1929年)(注18)等から始まる「人工」(「契約」)に基づく「普遍」である。何故ならば「不戦」は人類にとって生得的なものではないからだ。同様に「人権」が「国際的」な「普遍」であるにしても、それは例えば「世界人権宣言」(1948)等から始まる「人工」(「契約」)に基づく「普遍」である。「人権」もまた人類にとって生得的なものではないからだ。放っておけば互いに争い、差別するというのが、人類の現実的なデフォルトなのである。

(注18)
第一條 締約󠄁國ハ國際紛󠄁爭解決ノ爲戰爭ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互關係ニ於󠄁テ國家ノ政策ノ手段トシテノ戰爭ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於󠄁テ嚴肅ニ宣言ス
第二條 締約󠄁國ハ相互間ニ起󠄁ルコトアルベキ一切ノ紛󠄁爭又ハ紛󠄁議ハ其ノ性質又ハ起󠄁因ノ如何ヲ問ハズ平󠄁和的手段ニ依ルノ外之ガ處理又ハ解決ヲ求メザルコトヲ約󠄁ス

生得的ではない「発明」──人工物──であるが故に「不戦」も「人権」も「抽象」も「近代」も「教育」の対象になる。翻って「教育」が「行き届かない」、或いは「教育」を「否定する」ところでは、「不戦」も「人権」も「抽象」も「近代」も成立/機能しない。「神授」的なものが支配的に信じられているところに「人権」は無く、場合によっては「不戦」も無く、「具象」的思考──反机上/非机上──のみで全てが回せると信憑されているところに「抽象」は無く、「中世」やそれ以前に居心地の良さを求めるところに「近代」は無い。

「不戦」や「人権」や「抽象」や「近代」といった「普遍」は、全ての人間にとって最も近く、同時に最も遠いものだ。例えば「人権」という「普遍」は誰にも妥当するという点で誰にとっても「最も近い」ものだが、それを理念的に且つ構造的に理解するには「最も遠い」ものだ。狭義の「抽象」である「抽象美術」や「近(現)代美術」という「普遍」も同様であり、それらは誰にも「描けそう」「作れそう」な点で誰にとっても「最も近い」様に振る舞う事で、「美術」への参入障壁を「崩す」事を目指す一種の「アクティヴィズム」(注19)であるものの、それを理念的に且つ構造──社会構造含む──的に理解するには「最も遠い」ものだ。

(注19)パリ時代の岡本太郎が、ピカソ作品を見て「感激」したのは、「鑑賞者として」その「美に打たれた」のではなく「創る者として、揺り動かして来る時代的共感に打たれた」と、岡本の「青春ピカソ」には書かれている。それは彼の「自分探し」期が終わり、メジャーリーグ参入──労働参入──の糸口が見えた瞬間を綴ったものだろう。

多くの「抽象美術」や「近(現)代美術」の解説が、現実的に必ずしも上手く行かずに一般読者に一向に突き刺さらないのは、それらが観客を含めた社会運動、及びその所産である事を見落とす事で、コミュニティ内造形論を延々と捏ね繰り回し、その結果同じ社会的利害関係のサークルに誘い込めないからだ。その包括的サークルに引き込んでこそ、初めて「教育」が可能になり、その社会的包括をなし得た上でのみ造形論的展開が成立する。「不戦」や「人権」が「自分事」としての「普遍」として認識されない限り「教育」の効果が期待出来ない様に。「普遍」成立の条件は、何よりも先に利害関係に於けるベネフィットを示す事だ。その意味で「抽象美術」や「近(現)代美術」、そして「不戦」や「人権」には、まず以てそれらが誰にとっても「自分事」である事を見せ付ける算段が求められるのである。

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WWII 敗戦から11年後の1956年度の「経済白書」には、当時の流行語ともなった「もはや『戦後』ではない」が書かれている。それに続けて「回復を通じての成長は終わった。今後の成長は近代化によって支えられる」と書かれている。

その日本の「近代化」に呼応する様に、「日本」の美術は「国際」(「西側」)的美術、即ち「普遍」を標榜する世界とパラレルであろうとした。それは「西側」世界で最もヘゲモニーを有する国の事実上の「属国」故という側面を否定する訳では無いが、そうであっても「普遍」に乗る事は、経済を成長させるのに最も都合が良い事は確かだ。現在の中国がそうである様に。

曲がりなりにも戦後の一時期までは、「日本」の美術が「普遍」の、言わば美術の「自由主義経済」体制──メタファーとしての──に極めて小なりともあった「国際のマイナーリーグ」であったが故に、白南準が日本をトランジットの地として選択し、李禹煥がそこをメインの活動の場とする事が可能だった。

やがて成長著しい日本がアメリカの地位を脅かすのではないかと喧伝され始めた頃から、日本では「『日本』の『美術』」特殊論の声が上がり始める。曰く近代日本に於ける「美術」成立時の特殊性を論じるもの、「私たち」(≒「日本人」)を主語とする絵画論、屏風や掛軸や大和絵琳派等の「伝統」をモチーフとするもの、他に例を見ない「『日本』の『美術』」の特殊性は「スーパーな平面性」にあるとするもの、「通史」が成立困難な閉ざされた円環構造の非歴史性という「日本」の「現代」の「美術」の特殊性云々等々。

これらは、それぞれに「借り物」である「普遍」からの「遠さ」を問題として提示し、それぞれに何かしらの「近さ」を遡行的に「発見」する事で、「属国」(借り物)である事からの「自ら」の切り離しを図ったものとして見る事は可能だ。そうした「独立」の形は十分にあり得る話であり、実際東西冷戦構造が崩壊し、「普遍」が「欧米」→「西側」という体制に付帯する「遠さ」である事がより明らかになった1990年代以降、世界各地に次々と出現した「独立」は、それぞれの「近さ」をそれぞれの最高原理とする事で、あろう事か「不戦」や「人権」といった「普遍」の「見直し」や「否定」にすら及んだりするのである。

話を特殊性としての「『日本』の『美術』」に戻せば、そうした特殊性に基づくアイデンティティの構築は、例えばこの列島に於ける社会の一部である「移民」、或いは「在日」と呼ばれる人達、或いはまた「ウチナンチュー」(例)や「ラミレス」(例)にとっては、何らの意味を持たないものであるかもしれない。「美術」と「art」の間の概念的齟齬、「大和絵」──それは「天皇」と不可分の関係にある──に「屏風」に「掛軸」、「スーパーな平面性」、「閉ざされた円環構造の非歴史性」。以下略であるが、要するに「『日本』の『美術』」の特殊性を前面化すればする程、その設定はその特殊性の外部に位置する者に対する「障壁」として現れ、日本列島に居住する者の中でその特殊性を受け入れる者とそうでない者との分断を生む。いずれにしても「『日本』の『美術』」の遡行的発見と「普遍」の相対的退行以降に、メジャーを目指す白南準や李禹煥の入る余地は無い。

であるならば、「『日本』の『美術』」で想定されている観客と、例えば究極の「『日本』の『美術』」である「戦争画」で想定されていた観客は、全く同じもの、重なるものなのかもしれない。「『日本』の『美術』」とは畢竟「戦争画」でしかないとする事も可能だろうか。「『日本』の『美術』」の入口には見えない鳥居があるのかもしれない。

そして何よりも「『移民』の美術」──鳥居の外の美術──の特集が「日本の『美術雑誌』」でされた事。これこそが「『日本』の『美術』」の特殊性を最も示しているのだろう。

「喪失」

《千の注釈》長過ぎる注

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Elle : C'est beau, hein... Cet homme avec son chien... Regardez : ils ont h même démarche.
Lui : C'est vrai. Vous avez entendu parler du sculpteur Giacometti ?
Elle : Oh ! oui, j'ai trouvé très beau !
Lui : Vous ne savez pas ?Ila dit une phrase extraordinaire. ..lia dit : « Dans un incendie, entre Rembrandt et un chat, je sauverais le chat. »
Elle : Oui, et même : « Je laisserais partir le chat après. »
Lui : C'est vrai ?
Elle : Oh ! oui, c'est ça qui est merveilleux justement... non ?
Lui : Oui, c'est très beau. Ça veut dire : « Entre l'art et la vie, je choisis la vie. » 
Elle : C'est formidable. Pourquoi m'avez-vous posé cette question ? 
Lui : Sur Giacometti ? 
Elle : Oui 
Lui : À propos de... du monsieur, là, avec son chien.

女:素敵でしょ…犬と一緒のあの人、見て、同じ様な歩き方をしている。
男:ああ本当だ。ジャコメッティという彫刻家を知ってる?
女:ええ、とてもハンサムだと思う。
男:知ってる?彼はすごい事を言ったんだよ。「火事になったらレンブラントと猫とどちらを救うか。僕だったら猫だね」ってね。
女:そうね。そしてこう続ける。「その後で猫を逃してやる」。
男:それ本当?
女:ええ、とても素敵な話でしょ。そう思わない?
男:そうだね。とても美しい。「芸術と命なら、命を選ぶ」と。
女:素晴らしいわ。なぜそんな質問をしたの?
男:ジャコメッティの事?
女:そう。
男:それは…犬と一緒の紳士がいたから。

"Un homme et une femme" (1966) : Claude Lelouch(「男と女」:クロード・ルルーシュ)より(大村訳)

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2023年12月29日。

それまでのんびりとしていた共同アトリエのLINEグループが、にわかに緊張が走るものに変貌したのは、その朝に投げられた1枚の画像投稿(午前8時32分)からだった。それは、朝から近所で消防車のサイレンがけたたましく鳴っている事に疑問を持った共同アトリエメンバーのA氏が、家の近くから撮影したものだ。記憶にあるゴルフ練習場を中景に、その奥の高台から煙が上がっている。

すぐさまXで検索を掛け、その火事の動画付き投稿(直後に削除)を発見したB氏が、ポストのURLとスクショで、他でも無い自分達の仕事場が燃えたという「正解」を投稿する。

最初の LINE 投稿から13分後、消防からC氏のところに連絡が入ったというメッセージがアップされる。確認の為に立会いが必要との内容で、A氏が向かう事になった。坂道を登って行くA氏の眼前に、すっかり変容した仕事場が現れる。A氏の悲痛な連投が始まる。

XのスクショとA氏の投稿で、「事態は些かも楽観の余地の入るものではない」と覚悟を決めて、自分も急遽東海道新幹線の人になる。

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【ファクト】

2023年12月29日午前7時半頃。東京都町田市で火災が発生。消防車26台が出動。火元は造園業者の資材置場。「焚火」による失火。そこから燃え広がり、両隣の「アトリエ」(「アトリエトリゴヤ」「スタジオ306」)に類焼。資材置場と2つの「アトリエ」の計3棟、凡そ400平米が焼ける。資材置場と「スタジオ306」の2棟は全焼。「アトリエトリゴヤ」は半焼。人的被害無し。3棟以外への類焼も無し。

半焼した「アトリエトリゴヤ」は、多摩美術大学の大学院を出たばかりの若者6名によって1981年に立ち上げられた共同アトリエである。火災発生直前のメンバーは作品倉庫やアーティスト・ラン・スペースとして使用している者も含めて、42年で11名に増えた。そのメンバーの中に立ち上げ組の大村も含まれる。

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現場到着は14時を回っていた。警察車両と居残りの消防車が坂道に止まり、既に規制線が張られている。失火者等を交えた現場検証は翌日との事で、現場保存の為に中には入れない。大村がオキュパイしていた場所は火元に近く、焼け方の最も激しい場所の一つだった。規制線からは最も遠い位置にあり、遠目にしか状況を把握出来なかったが、上屋の鉄骨が高熱で捻じ曲がり、屋根の高さが半分程になっているというところから鑑みて、一切の希望的観測を持たず、想定のレベルを全くのゼロに置くという精神上の防衛機制をあらためて取り、留まり続けたところで無意味でしかないその日は現場を立ち去る事にした。

年が明け、連日立て続けにテレビ報道で炎が上がる映像を見て気持ちが塞がり続ける。数日後再度新幹線で現場に赴き、被害状況の詳細を確認する。躯体の最も古層の部分のみが燃え残っている。そこに大村が運び込んだもののほぼ全ては、焼け落ちているか、黒焦げになっているか、溶けているか、バラバラになっているか、デブリに飲み込まれているか、高熱で物質的な強度が低下してしまっているかのいずれかだ。防衛機制が作動している為に、それらを前にして感情が大きく揺さぶられる事は無い、と脳を納得させる事で情動の発散を停止し、社会的/文化的振る舞いの中に自分を収める。さりとて精神的な緩衝材が働いたところで、それらを目撃したという記憶、その光景は残り続けていく。

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【ファクト】

検分の結果、大村が多摩美術大学大学院を出てからの40数年分のほぼ全作品、工具類、資料、書籍等々が焼失、全損した事が判明する。今年の春頃までには、3棟にあるものの全てを撤去して更地にし、全員退去する事までは決定している。

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「ファクト」については、ここまでが現在公に出来るものである。それ以上の事は、様々な理由でここでは書けない。それは「これから」についても同断である。

人的喪失を伴わないものの、多かれ少なかれ自分もまた「グリーフケア/グリーフワーク」の対象者である事に相違は無いだろう。「もう1ヶ月」ではなく「まだ1ヶ月」なのだ。「アトリエトリゴヤ」に限っても11の形の「喪失」と「悲嘆」(グリーフ)が存在する。

参考:「グリーフワーク【グリーフ・サバイバー】」

www.grief-survivor.com

SNSで、限定公開でこの罹災について書いたところ、直後に或る美術作家からコメントが付いた。「作品を失う、ということについて聞きたい」との事だった。その作家は一般解を求めたのだろうか。であればその質問自体が無意味である。「喪失」の認識はそれぞれに異なるものであり、それに対する「悲嘆」もまた一般化に馴染まない。一人の人間の中でも「悲嘆」の形は常に揺れ動く。そうした「悲嘆」を全て蒐集し、万人に供する形に仕立てる事が出来たとしても、それは文学以外のものにはならない。ここで書いている事も「喪失」から「1ヶ月後」時点のそれに留まるしかないものだ。

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折しも年賀状の季節でもあった。潰れた家の住人にも、焼けた家の住人にもそれは届く。「あけましておめでとう」というのは、そもそもは年を跨いでサバイブしてきた者に対する寿ぎの言葉だ。即ち「あけましておめでとう」の英訳の最適解は「HAPPY NEW YEAR」ではなく、「I AM STILL ALIVE」であり、それを読んでいる/読める状況にある者に対する「YOU ARE STILL ALIVE」であり、再度それを日本語に変換すると「生きてるだけで丸儲け」になるのではないか。「グリーフケア/グリーフワーク」が成立する最も根本的な条件は、何を置いても険しさを伴う「STILL ALIVE」なのだ。

猫はレンブラントと依存関係にはないが、多かれ少なかれ作家は自らの作品と依存関係にある。或いはその依存関係こそを作家と呼ぶ。レンブラントは消失し、猫は生き残る。作品は消失し、作家は生き残る。「これから」の選択肢の中には「猫になる」というものもあるのかもしれない。