ヴォルフガング・ティルマンス Your Body is Yours

国立国際美術館B2階のエスカレーター周辺は、実は結構好きな場所だったりする。インフォメーションやミュージアムショップやレストラン等のあるB1階とB2階を繋ぐ上下線のエスカレーターの脇(そこの丸柱に所在なげな「須田悦弘」がある)、B2階展示室とB3階展示室を繋ぐ上下線のエスカレーターの脇、そして奥のトイレ沿いの壁面。そこにキュービックな椅子が並んでいて、ここを訪れた際にはいつもそれに座っている。


国立国際美術館のフロアマップを見ると、そこは「展示室」という事になっていて、その壁面や床面に作品が展示される事もある。今回の「ヴォルフガング・ティルマンス Your Body is Yours」展でも、そこは確かに「展示室」だった。壁面上には「ヴォルフガング・ティルマンス」が「ヴォルフガング・ティルマンス」的にインストールされている。床面上には資料展示の台が設置されている。


上述フロアマップのページに掲載されているB2階の写真は原状という事なのだろう。あの椅子はまだ無い。ネット上にある同フロアを撮影した画像を雑略に検証すると、それが登場したのは21世紀ゼロ年代の後半だった様だ。ここに椅子が設置されるに至った経緯は判らないし判る必要も無い。重要なのはそこに座って休める=「展示室」内で座って休むという欲望を観客に喚起させたという事であり、また明らかにその設置によってこの「展示室」の空間的な性格が変質したという事だ。


今回の「ヴォルフガング・ティルマンス Your Body is Yours」展の場合、全会場に設置された椅子は、映像の2作品と他に “Freischwimmer" “Sendeschluss" “Weed"(例)が掛けられている部屋にそれぞれ木製の低い長椅子が3つ(以上を以後「A群」とする)、そして件のエスカレーター周辺の椅子(以後「B群」とする)である。


A群とB群の椅子の性格は異なる。それを簡単に言えば、そこに座って正面に見える「ヴォルフガング・ティルマンス」に目を遣る事無く、スマートフォンを取り出して LINE や TwitterFacebook に興じていても、そこで小説の文庫本を読んでいたり、矢庭に PC を取り出して業務メールを送ったり、世間話や名刺交換をしていたりしても、相対的に咎められなさそうな椅子がB群である一方で、A群の椅子では中々そうは行かないだろう。A群の椅子では、否応無く作品と一対一で向き合わされる。映像作品は言うまでも無いが、例えば “Freischwimmer(フライシュヴィマー:自由な泳ぎ手・自由に生きる人/初めてのスイミング・テスト)" の前の椅子に座る観客の視線は、それ程には “Freischwimmer" たり得ない。


一方のB群の椅子は、外光の通り道であるヴォイドを通して「美術館の外」を背にする事で、「展示室」の中にありながら「美術館の外」を「展示室」の中に呼び込んでいる(その意味でB3階には「美術館の外」が届き難い)。その椅子の設置の結果、元々どちら付かずだったシーザー・ペリによるこの「展示室」は、よりストリート(プロムナード=序章)的な性格を強くした。この「展示室」の壁面は半ばストリートに面したショーウィンドウ的なものだ――従って旧来的な美術館展示を難しくさせる。B群の椅子はそのストリートのベンチなのである。そこではロングシートの電車の座席で行われている様な事がそのまま行われている。


ストリートのベンチから見る「ヴォルフガング・ティルマンス Your Body is Yours」展。そこから「写真作品」を見にやって来た観客を「通行人」として暫く観察していた。電車のシートに座り、向かい側の窓の外を見る様に。作品を見る人の背中を見る。全く酷い(ひどい/むごい)ベンチだ。


1, 2 … 終わり。1, 2, 3 … 終わり。1 … 終わり。1, 2, 3, 4 … 終わり。階下のB3階で同時開催されている「他人の時間」展に出品された某作品ではないが、この「展示室」の「ヴォルフガング・ティルマンス」の前に観客が立ち、それを見ている時間を脳内でカウントしていた。一つ一つの「ヴォルフガング・ティルマンス」に15秒以上掛ける者(国籍問わず)は恐ろしく少ないというのがその観察結果だった。20分間B群の椅子に座って観察したところ、30秒以上その「展示室」の「ヴォルフガング・ティルマンス」に掛けている観客はゼロであり、大抵は5秒以内で作品の前を立ち去っている。その「5秒ルール」を見て「実にティルマンスだ」と感じた。


同展に行かれた方(現代美術に極めて通じていると自認される方も含む)は、同展の具体的な作品(「被写体」の意味に「反応」してしまった作品や、“Freischwimmer" や “Sendesbluss(放映終了)" といった「非具象」な作品や、“Truth Study Center(真実研究所)" の様な思わず読まさせられてしまった作品以外)を思い浮かべ、脳内で正確な秒針を刻みながら、自分自身がどうであったかを反芻して頂ければ幸甚である。15秒や30秒というテレビコマーシャルの時間が、多くの「ヴォルフガング・ティルマンス」の前では如何に長いものであるかを感じられる筈だ。


同展の世評は高いのだろう。カルチャー誌やファッション誌の紹介記事、SNS等を含むそれら「上」から「下」までの世評の平均値を取れば、それは「カッコイイ」や「オシャレ」や「軽やか」などという事になるのであろうか。B1階からエスカレーターで降りて来た観客の多くは、そうした世評によって膨らまされた「さぞかし(must)」(さぞかし〜であるに違いない)で頭を一杯にしているのだろうか。そして常日頃の美術館に対して臨む「さぞかし」のスタンスで、大阪府大阪市北区中之島 4-2-55 B2ストリートのショーウィンドウの「ヴォルフガング・ティルマンス」を見る。


美術館やギャラリーというのは観客の「さぞかし」を裏切らないところだと思われている。「さぞかし」という期待に対するゲインは「おみごと」だったりする。そうした「さぞかし」と「おみごと」の共犯関係は、ヴォルフガング・ティルマンス本人(以下機能名としての「ヴォルフガング・ティルマンス」と区別する理由から 以下 “WT" とする)の言葉を借りれば「想定内のルーティン(foreseeable routine)」という事になるのかもしれない。


ヴォルフガング・ティルマンス Your Body is Yours」展の多くの観客は、自らの持つ「さぞかし」という「想定(fore/see=前もって/見る)」が次々と裏切られる事に直面させられる。時に腕を組んだりして「ジッと見よう」と臨んでいた視線が、「ヴォルフガング・ティルマンス」を前にした瞬間に「キョロキョロ見る」に変質させられて行く。元々「おみごと」なものとして作られているものを「ジッと見る」事は容易だ。しかし「ヴォルフガング・ティルマンス」を「ジッと見る」にはどうすれば良いのだろう。答えを見い出せなかった観客は、作品を「ジッと見る」事を諦め、複雑で曖昧な表情と共にその前を立ち去る。しかし「ヴォルフガング・ティルマンス」は、「『さぞかし/おみごと』への裏切り」によってドライブする。「5秒ルール」こそは「ヴォルフガング・ティルマンス」が設定している時間だろう。


1枚の写真の中に、あるいはシリーズの中に、さまざまなものが混在するのを許すことです。これに耐えることが重要です。「耐える」というのは、完全に受動的に受け入れることを意味しています。ややもすればニヒリズムに陥る危険性もありますが、多種多様なものに関心を持ちながら、投げやりになることなく、凡庸にもならず、斜に構えることなくいること。これこそが自分が挑むべき挑戦です。


イデオロギーの善悪をふりかざし、間違ったものに対して戦いを挑むことは、実はとても簡単なことで、物事の複雑さをそのまま受け入れ、耐えることの方がはるかに難しいものです。芸術言語のレトリックとしても、それは大きな困難をともなうものです。


http://wired.jp/special/2015/tillmans/


ヴォルフガング・ティルマンス」は「さぞかし」の空間=「植物園」に寄生する。見るべきプラントが並ぶ「植物園」に、「さまざまなものが混在する」意図的にノイジーな山出し風にされたウィード(雑草/大麻)が運び込まれ、極めて良い具合の乱雑さで適度に繁茂したりする。「インサイダー・アート/アウトサイダー・アート」の如き「インサイダー・プラント/アウトサイダー・プラント」としての「雑草アウトサイダー・プラント」。「植物園」に「雑草」を持ち込む事。「植物園」で催されるパーティの席では、それが「カッコイイ」「オシャレ」「軽やか」と話題になりもする。


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8月某日。国立国際美術館に向かう為に、阪急梅田駅から四つ橋線西梅田駅に乗り換える。梅田地下の500メートルを歩いていると、列柱は「バズドラ嵐 Future Gaming」の写真で覆われていた。



http://matome.naver.jp/odai/2143916058721536801?page=3


34歳から32歳(2015年9月3日現在)までの5人の「男子」で構成される、ギネスブックに "the most #1 acts produced by an individual" として登録されている “boy band" プロデューサー、ジャニー喜多川氏の事務所所属のアイドルグループ。


梅田の地下通路を歩く老若男女の「通行人」の大半は、その写真の列を時限的な「環境」として遣り過ごして行くものの、その一方でその写真に写されている "boy" に対して限り無く魅了され、その前で長く佇む人も少なからず存在する。「バズドラ嵐 Future Gaming」の列柱の前に相対的に長い時間佇む――様々な性的指向=sexual orientation や性的嗜好=sexual preference を持つだろう――人達の、その写真に対する反応をネット上で追ってみれば、そこには拡大された「若くて綺麗な男性」の腕や手、或いは他の "organ" に対して、フェティッシュに魅了される人の存在の例も直ちに確認出来る。



http://ameblo.jp/ninoccori-paradox/entry-12060696273.html


それにしてもこの梅田の地下通路には、出版物等の中の極めて小さな写真、或いは道行く人のモバイル端末内やそれに繋がるサーバ上のものを含め、果たしてどれだけの枚数の写真が存在するのだろうか。何万枚だろうか、何十万枚だろうか、何百万枚だろうか、何千万枚だろうか。



(C) Google



梅田の地下街を棲家とする、或いは通りすがりの写真には、撮影を生業としている者によるものもあれば、そうでない者によるものもある。その上「撮影を生業としている者」と言っても、そこには所謂「写真作家」と呼ばれる者から、スーパーの新聞広告チラシの商品写真を一日何百枚も撮影する様な「写真技術者」までいる。


折り重なりもしているその写真のほぼ全ては、たまたま隣り合い重なり合ってしまったものばかりだ。この地下街に於ける写真の入れ子状の隣り合い/重なり合いの「たまたま」は、例えば「優美な死骸(le cadavre exquis)」といったアクティビティの結果としてのものとは全く異なる。ここは意図的に構築された写真の「植物園」ではなく、持ち込まれた写真が勝手に繁茂し増殖しライフサイクルを閉じてて行く「密林」だ。


所謂写真として認識されるものとは別に、この地下通路にあるウォールナット材や大理石に見える壁や床や柱や調度までもが、全てマイクロスコープで拡大すれば網点が見えるエンボス加工された写真パネルである。



ほぼ1メートル毎に反復されるそれらの木目等のパターンは、そのあり得なさ故に「合理」を表象する機械であるカメラのみによって得られた像ではない。それらは確かに或る時点まではオプティカルに撮影されたかもしれないものである一方で、或る時点以降は光学のストレートな結果では無い。或いはそれは、何らかのアルゴリズムが生成した、カメラを全く介しない「暗室の抽象(darkroom abstraction piece:ギル・ブランク)」に於いて完結する、ウォールナットの木目に見えてしまう様な何かなのかもしれない。これらの21世紀のトロンプルイユは、写真の「密林」の苔類や蘚類なのであろうか。


この「可愛い私の猫ちゃん」から「ISによって破壊されたバルミラ神殿」、「ガラケー」から「大判カメラ」までの「私性」と「社会性」が「混在」した、様々な生態(展示の在り方)を持つ写真の「密林」に「ヴォルフガング・ティルマンス」を入れた瞬間、「ヴォルフガング・ティルマンス」は「ヴォルフガング・ティルマンス」としては跡形も無くなってしまうかもしれない。「密林」の中では、どれが「雑草」や「雑木」であり、どれがそうでないかを同定する事に意味は無い。そこでは全てが「雑草」や「雑木」である一方で、全てが「雑草」や「雑木」ではないものだ。その様な「密林」で消え去る戦略的な「雑草」としての「ヴォルフガング・ティルマンス」。しかしそうした「消え去り」こそが、恐らく「ヴォルフガング・ティルマンス」というものの持つ意味だろう。


“WT" が “my sense of duty is that I want to make new pictures(私にとっての義務感とは、新しい写真を作りたいということにほかなりません)"(ジュリアン・ペイトン=ジョーンズとハンス=ウルリッヒ・オブリストによるインタビュー)と極めて凡庸そうな事を言う時、その「新しい写真」とは何を意味しているのだろうか。それは変化して止まない「写真の生態系」へのアプローチの更新を意味しているのではないか。


But then of course the world into which they insert this image can never totally conform, and is always a bit out of control because of all the different layers that people add to it. In cities things are constantly being layered upon each other in a way that is much more anarchic than what is first imagined by the city planner, or the architect of a building, or the advertising executive. This collage view on cities I find really fascinating because there is no master plan, or people always overwrite the master plan. I like that messiness.


とはいえ、人々がさまざまなレイヤーを付与するので、世界はもちろん挿入されたあのイメージに同調などせず、常に少しだけ制御不能のままです。都市では物事が絶えず相互に重なり合い、ある意味、都市計画者や建物設計者、宣伝担当幹部が当初想定していたよりもそれはかなり無秩序なものになります。基本計画などなく、人々が常に上書きしていく都市のコラージュ的光景はかなり魅力的なものだと思います。その乱雑さが好きですね。


http://www.art-it.asia/u/admin_ed_itv_e/j2B06EFSqdmrDZp39kMu/?lang=en


鬱蒼とした「密林」を通り、「植物園」で植栽された「雑草」のジオラマを見て、再び鬱蒼とした「密林」を通る。「植物園」の中で「ヴォルフガング・ティルマンス」という「雑草」のジオラマに、例えば「イメージから直接的に重層性をもって解釈可能な意と、イメージの裏側に潜みある種の寓意性を持ちながら解される意と、これらイメージを介した二項論的存在が見られる(同展カタログ「ヴォルフガング・ティルマンスの作品における重層性」植松由佳)」を読み取ったとしても、それらの「イメージを介した二項論」というのは、「植物園」での「雑草」ジオラマを見た後に、梅田の地下街を(或いは四つ橋線肥後橋駅等に向かう道を)「ヴォルフガング・ティルマンス」によって感度を上げられた目で見れば見えて来る事かもしれない。「『ヴォルフガング・ティルマンス』を見る」というエクスペリエンスは、――殆どの現代美術作品がそうである様に――観客自らが属しているところの環境に対する感度を上げる為のプラクティスの一つなのである。


「見るべきもの」と「見るべきもの」の間に「ヴォルフガング・ティルマンス」はある。そして「ヴォルフガング・ティルマンス」を見た観客は、「見るべきもの」と「見るべきもの」の間を見る眼差しを持ち帰るのである。

おとなもこどもも考える ここはだれの場所?

狭義の「現代美術」の専門館として1995年にスタート(鈴木俊一都知事時代)した東京都現代美術館が、就学児の「夏休み」期間(7月〜9月)に「子供向け」(或いは「子供と大人向け」)の企画を初めて打ち出したのは、石原慎太郎都知事時代の2003年6月14日〜9月7日に掛けて開催された「ジブリがいっぱい スタジオジブリ立体造形物展」と言えるだろう。これは当時の同館館長が、日本テレビ会長の氏家齊一郎氏(3代目東京都現代美術館館長:2002/5/8〜2011/3/28在任)であった事から実現したと考えるに若くは無い。


初代の同館館長は、狭義の「美術」畑の嘉門安雄氏であったが、その6年後(石原慎太郎都知事時代)に石原慎太郎都知事の直接のオファーを受ける形で、「経営」畑のアサヒビール名誉会長の樋口広太郎氏が2代目館長になる。その翌年(石原慎太郎都知事時代)の同氏の病気療養による退任に伴い、やはり「経営」畑の氏家氏が「旧知」の石原慎太郎都知事の要請を受ける形で館長に就任する。同館館長の就任会見で、氏家氏は「知恵があるわけじゃないが、経営のことは少し分かる。都の財政負担を少なくし、品よくやっていきたい」と答えた。


当時の東京都現代美術館の最大の問題点の一つとされていたのが、年間入場者数20万人台に「低迷」する同館の「経営」再建であった。氏家氏のコメントはそれに応えたものである。果たして氏家齊一郎館長就任後の最初の通期年度に開催された「ジブリがいっぱい スタジオジブリ立体造型物展」(2003年)の入場者数は22万2174人だった。それは東京都現代美術館のそれまでの1年分の入場者数を、たった一つの「アニメ」の企画展が達成してしまう現実を見せ付けたのである。


それからは、嘗ての「東映アニメフェア(旧「東映まんがまつり」)」の如く、夏季休暇期に子供やその親という「購買」のマスボリュームを美術館に呼び寄せ易い、スタジオジブリによる企画(主に氏家齊一郎館長時代)が恒例化する。「日本漫画映画の全貌」(2004年)、「ハウルの動く城・大サーカス展」(2005年)、「ディズニー・アート展」(2006年)、「ジブリの絵職人 男鹿和雄展」(2007年)、「高畑・宮崎アニメの秘密がわかる。スタジオジブリ・レイアウト展」(2008年)、「メアリー・ブレア展」(2009年)、「借りぐらしのアリエッティ×種田陽平展」(2010年)、「フレデリック・バック展」(2011年)、「館長 庵野秀明 特撮映画館 ミニチュアで見る昭和平成の技」(2012年)。それらの多くが入場者数的に同館に貢献した役割は大きい。但しフェアに言うならば、それらは必ずしも「子供向け」では無い、広義の「現代美術」に於ける資料的価値の高い企画ではあった。


「現代美術」専門館としての同館の自らの存在を問う現れと見て良いのか、ジブリ企画の最大の入場者数を誇る「借りぐらしのアリエッティ×種田陽平展」(29万5698人。2位は2012年の「館長 庵野秀明 特撮美術館 ミニチュアで見る昭和平成の技」の29万1575人)とほぼ同時期に、狭義の「現代美術」と「子供」が交差するトポスを模索する展覧会が同館で開催される。「こどものにわ」展(2010年7月24日〜10月3日)がそれであり、同展の8万3296人という入場者数は、この2010年度に於いて2番目の数字(同年度の同じ狭義の「現代美術」の展覧会である「MOTアニュアル2011 Nearest Faraway|世界の深さのはかり方」の1万6989人の約5倍)であった。現在の東京都現代美術館は、子供の夏季休暇期にその年度の入場者数の大半を「稼ぐ」体制にある。そうした数の視点に立つ限りに於いて、それは嘗ての石原=氏家体制の――結果的にではあっても――判り易い「正しさ」を表してはいるだろう。


その後、狭義の「現代美術」系の子供の夏季休暇企画は、ジブリ企画の様に決まった形で毎年開催とは行かなかったものの、それでも「オバケとパンツとお星さま」(2013)、「ワンダフル ワールド こどものワクワク、いっしょにたのしもう みる・はなす、そして発見!の美術展」(2014)と、今年の「おとなもこどもも考える ここはだれの場所?」を含めてここ3年は毎年開催の形にはなっていて、それらの入場者数はその年度の「MOTアニュアル」を常に大きく上回ってはいるのである。

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東京都現代美術館で開催されている「おとなもこどもも考える ここはだれの場所?」に行った。大人一人だけで行った。この「夏休みのこどもたちのための展覧会/An Art Exhibition for Children(同展「展覧会概要」)」に、未就学児の自分の子供と一緒に行く事は叶わなかった。但し子供と行ける条件が満たされたとして、果たしてこの展覧会に子供を連れて行くかと問われれば、それは限りなく無いのではないかとしか答えられない。何故ならば2015年の夏に、未就学児が自らの世界との関係構築の為に接しなければならないものが、美術館の外に数限りなく存在するからだ。それは単純に、子供という(取り敢えず)限定された時間的リソースを巡る優先順位の話なのである。


敢えて言えば、「子供を美術館で美術にふれさせる」は「子供を英会話スクールで英語にふれさせる」と同じレベルにある様な気がする。「美術館で美術」と「英会話スクールで英語」。「英語を身につける」というレベルで言えば、「英会話スクールで英語」という選択は決して悪いものではない。但し「英語でものを考える」までを射程に入れれば、英語で喋る雑多な人間が集まる環境の中に子供を放り込んでおくのに若くはない。勿論そうした環境に多くは「恵まれていない」日本だからこそ、「英語を身につける」為の乳幼児からビジネスマンまでの「英会話スクール」ビジネスというものが十分に成立するのである。


point1 絵本の読み聞かせを中心にレッスンを構成しています。先生とのQ&Aを繰り返しながら、絵本の世界に親しみます。


point2 英語圏の遊びや、欧米で長年親しまれている歌や踊りなどを取り入れています。様々なアクティビティを通して、異文化にふれます。


point3 アルファベットについて学びます。パズルを使って立体的に捉えることで、文字を形として認識します。


ECC KIDS
http://www.kids.ecc.jp/course/infant_thr.html



「様々なアクティビティを通して、異文化にふれ」る事で「英語を身につける」様に、「様々なアクティビティを通して、異文化にふれ」る事で「美術を身につける」。「身につく英語」と「身につく美術」。しかし「身につく英語」と「英語でものを考える」の間に大いなるレベル差がある様に、「身につく美術」と「美術でものを考える」の間にも大いなるレベル差が存在する。勿論そうした「美術」の「ネイティブスピーカー」(「美術」を生業にしているからと言って、必ずしもそれがそのまま「美術でものを考える」という事にはならない)ばかりが集まる「美術でものを考える」環境にも多くの者は「恵まれていない」からこそ、「身につく美術」の為の「美術館」という「スクール」が成立する。


(...) en tout cas d'une manière définitive et impérative à partir de la fin du XVIIe siècle, un changement considérable est intervenu dans l'état de mœurs que je viens d'analyser. On peut le saisir à partir de deux approches distinctes. L'école s'est substituée à l'apprentissage comme moyen d'éducation. ela veut dire que l'enfant a cessé d'être mélangé aux adultes et d'apprendre la vie directement à leur contact. Malgré beaucoup de réticences et de retards, il a été séparé des adultes, et maintenu à l'écart dans une manière de quarantaine, avant d'être lâché dans le monde. Cette quarantaine, c'est l'école, le collège. Commence alors un long processus d'enfermement des enfants (comme des fous, des pauvres et des prostituées) qui ne cessera plus de s'étendre jusqu'à nos jours et qu'on appelle la scolarisation.
Cette mise à part — et à la raison — des enfants doit être interprétée comme l'une des faces de la grande moralisation des hommes par les réformateurs catholiques ou protestants, d'Église, de robe ou d'État. Mais elle n'aurait pas été possible dans les faits sans la complicité sentimentale des familles, et c'est la seconde approche du phénomène que je voudrais souligner. La famille est devenue un lieu d'affection nécessaire entre les époux et entre parents et enfants, ce qu'elle n'était pas auparavant. Cette affection s'exprime surtout par la chance désormais reconnue à l'éducation.


(略)いずれにせよ十七世紀末葉以来から最終的かつ決定的な仕方でそうなるのであるが、私が分析した習俗の状態において、かなり重大な変化が生じた。二つの異なったアプローチからその変化をとらえることができよう。教育の手段として、学校が徒弟制度にとって代った。つまり、子供は大人たちのなかにまざり、大人と接触するうちで直接人生について学ぶことをやめたのである。多くの看過や遅滞にもかかわらず、子供は大人たちから分離されていき、世間に放り出されるに先立って一種の隔離状態のもとにひきはなされた。この隔離状態とは学校であり、学院である。こうして開始された子供たちを閉じ込める長期にわたり存続していく過程(ちょうど、狂人、貧民、売春婦たちの「閉じこめの過程」のような)は、今日まで停止することなく拡大をつづけ、人はそれを「学校化」とよんでいる。
 このように子供たちを隔離することは、カトリックプロテスタントの改革者たち、教会、法曹界、為政者のうちの改革者たちにより推進されていった大がかりな人間の道徳化のひとつの側面として説明されねばならない。けれどもこの隔離は、家庭内での意識の変化をともなっていないなら、現実のうちで可能であったはずはないであろう。この意識・感情の変化が、私が強調したく思っている現象への第二のアプローチなのである。家庭は夫婦のあいだ、親子のあいだに必要な感情の場となったのであるが、以前には家庭はそのようではなかった。この感情はそれ以後に教育において認められ、そこで表現されるのである。(杉山 光信・杉山 恵美子訳)


Philippe Ariès “L’enfant et la vie familiale sous l’Ancien Régime" : “Préface"
フィリップ・アリエス〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活」:「序文」


「閉じこめの過程(processus d'enfermement)」とは、1656年4月27日にルイ14世勅令により、「一般施療院(Hôpital Général)」として総合化される事になる「慈善」の精神による「救済」施設を言う。「狂人、貧民、売春婦たち」は、未だ魂が救われていない “sauver leurs âmes(自分の魂を救う)" べき、道徳的な価値付与の対象と見做される事で、社会にとって無関心/無関係の対象から外される。その結果、「自分の魂を救う」べき存在とされたそれら「狂人、貧民、売春婦たち」が、共同体外への「追放」ではなく、共同体内に於ける「監禁」(Grand Enfermement:大いなる閉じ込め)の対象として「一般施療院」行きとなる事で、「王権(pouvoir royal)」とその「臣民(sujets)」の国からそれらの人間が目の前から一掃されつつ、社会の中に隔離――下位的なものとしてインクルード――される形になる。即ちここでの「社会的救済」は「社会的抑圧」を意味するのである。


ビセートル病院/ビセートル救済院(L'hôpital de Bicêtre)


本展と同時期に東京国立近代美術館で行われている「No Museum, No Life?―これからの美術館事典 国立美術館コレクションによる展覧会」は「事典」をシミュレートした展覧会だが、その中で美術館に於ける「Education 教育」の項目はこの様に説明されている。


美術館と呼ばれる制度は、西洋近代の「啓蒙」の思想とともに誕生した。それは近代的な学校制度が整備され、「規律=訓練」としての教育(ミシェル・フーコー)をつうじた人間の主体形成が目指されるようになった時期とも重なっていた。そんな近代以後の美術館において「教育」は、その活動/機能の中核のひとつである。(以下略)



市民の価値観を変える事で「自発的」な形を伴ってその行動様式を変えさせる、即ち被抑圧者をして抑圧者の目的に「自発的服従(subjectivation/assujettissement)」させる「知/権力(savoir/pouvoir)」の諸形式(その最も古典的なものの一つが “panopticon(パノプティコン)" である)を分析したミシェル・フーコーの “Naissance de la prison, Surveiller et punir(監獄の誕生―監視と処罰)" の “discipline(規律=訓練)" という在り方を、公立美術館自身が自らの「教育(=「閉じこめの過程」)」機関としての説明に援用するという事態は、美術館自らがその様な「知/権力」の側に位置しているという、紛れも無い現実に対する誠実な告白と言えるだろう。


従って「美術館」に於ける「子供向け」の展覧会は、多重に「権力」的なものになる可能性を常に孕む。「美術館」そのものが紛れも無く「権力」であり、その中に於ける「子供向け」の展覧会は、往々にして「〈子供〉の誕生」以降に於ける、規律=訓練の装置としての「学校」という「権力」の在り方をトレースしてしまう。そして「美術」とその展示装置である「美術館」に対し、子供の関心が「自発的」に向く様に様々な工夫がされる。更には、しばしばそこには「子供向け(子供に親しみ易い)」という「権力」のかたちが覆い被さる事になるだろう。


La famille et l'école ont ensemble retiré l'enfant de la société des adultes. L'école a enfermé une enfance autrefois libre dans un régime disciplinaire de plus en plus strict, qui aboutit aux XVIIIe et XIXe siècles à la claustration totale de l'internat. La sollicitude de la famille, de l'Église, des moralistes et des administrateurs a privé l'enfant de la liberté dont il jouissait parmi les adultes. [...] Celui-ci a apparu au XVIIIe siècle au moment où la famille achevait de se réorganiser autour de l'enfant, et dressait entre elle et la société le mur de la vie privée.


家庭と学校とは一緒になって、大人たちの世界から子供を引きあげさせた。かつては自由放縦であった学校は、子供たちをしだいに厳格になっていく規律の体制のうちに閉じこめ、この傾向は十八世紀・十九世紀には寄宿生として完全に幽閉してしまうに至る。家族、教会、モラリスト、それに行政者たちの要請は、かつては大人たちのあいだで子供が享受していた自由を、子供から奪ってしまった。(略)この現象は、家族が子供を中心に再編成され、家族と社会とのあいだに私生活の壁が形成されるのが完了したまさにその時期に、出現したのである。


同書「結論(Conclusion)」


おとなもこどもも考える ここはだれの場所?


美術館へようこそ。このまっしろな空間は、わたしたちの想像の助けがあれば、どんな場所にだってなることができます。南の島の海岸。家族の居間。こどもたちの王国。わたしたちの住むまち――。今年の夏休みのこどもたちのための展覧会は、4組の作家たちが、美術館の展示室のなかに、「ここではない」場所への入口を作ります。それらは、言うなれば「社会」と「わたし」の交差点。そこに立って「ここはだれの場所?」と問いかけてみてください。答えを探すうちに、たとえば地球環境や教育、自由についてなど、わたしたちがこれからを生きるために考えるべき問題が、おのずと浮かび上がってくるはずです。
学校に行かなくていい日。美術館で、こどもたちと一緒に、私たちの場所をもう一度探してみませんか?


「おとなもこどもも考える ここはだれの場所?」展覧会概要
http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/whoseplaceisithis.html


「学校に行かなくていい日」に、「美術館」という「学校」の中にある「展覧会」という「学校」に行こうという内容にも読める文章だ。そもそも「学校」の「夏休み」というのは、「主体(sujet)」になる為の公的な 規律=訓練から束の間開放される時間だった。我々の大人の社会は、「夏休み」の期間中に子供が「学校」の外で(相対的に)自由に行動する権利を許す。「夏休み」期間(子供に許された他の休日含む)以外の日中に子供が市中の「大人の場所」に混じっていれば、場合によっては警察(所謂「公権力」)や地域社会の「保護」対象ともなる。それは「学校」からの「脱走」と見做され、発見された子供は「学校」に送り返される。子供に許された休日(学校に行かなくていい日)以外の日中に於いては、大人と子供は別々の世界に分離されなくてはならない。そして「学校」もまた「『ここではない』場所への入口」であり「『社会』と『わたし』の交差点」なのである。「学校」。そこはだれの場所? その「交差点」にいる「わたし」。それはだれ?


「このまっしろな空間は、わたしたちの想像の助けがあれば、どんな場所にだってなることができます」と展覧会は言う。しかし子供にとって「想像の助けがあれば、どんな場所にだってなる」のは「このまっしろな空間」に限った話では無いし、またこの展覧会に於いて「まっしろな空間」というアーキテクチャのみが子供の目の前に与えられている訳では無い。それは既に「地面(アーキテクチャ)」とプリペアーされた「遊具(コンテンツ)」がセットになっている「児童公園」の形で現れている。果たして「わたしたちの想像の助けがあれば、どんな場所(コンテンツ)にだってなることができます」の「わたしたち」とは誰を指しているのだろうか。


美術館がまだ完全な形で「まっしろな空間」化されていなかった頃、一方では主権(ソヴリンティ:sovereignty)的な「美/魂」という超越的他者性を伴って、美術館は権力的な装置であり続けていたが、その一方で美術館には「想像の助けがあれば、どんな場所にだってなること」が可能な、「美術」のコンテンツとコンテンツの間に開いた裂け目が存在していた。


"At the San Francisco Museum of Art. an abstract gets close scrutiny."


小林秀雄的なレトリックを――洗練度に於いてかなり欠けるものの――使えば、「通気口に関心が向かう子供がいる、子供向けの通気口というものはない」という事になるだろうか。


しかしこうした裂け目は、モダンな美術館からは一掃されてしまう。「まっしろな空間」。それは通気口の様な「美術」の外部に通じる裂け目を塞ぐ――監視員という裂け目を塞ぐ技術は未だに確立されていない――事で、観客をして「美術」のコンテンツに「自発的」に注意を払う様に仕向ける規律=訓練の装置なのである。美術館の観客は常に、余所見をする事無く作品にのみ注視する様に「まっしろな空間」から「監視」されている。そして観客は、その様にして内面化された他律を自律であると錯覚させられ、通気口とは異なるそこにあるもの=作品を、期待や落胆といった評価の対象とするのである。


「学校」が入れ子状になっているとも言える本展のキーマンは、会田家の会田寅次郎氏(「中学2年生」)ではないかという印象を持った。彼はフィリップ・アリエスのタームで言えば「若い大人(homme jeune ≠ jeunesse)」である。


http://www.slideshare.net/kawarusosu/the-esperanto-generator


L'enfant était donc différent de l'homme, mais seulement par la taille et de par la force alors que les autres caractères restaient semblables.


子供は大人とは異なったものであるが、それは背丈や体力によって異なるというだけであって、その他の性格においては類似なものであり続けるのであった。


同書「序文(Préface)」


削除依頼(=撤去要請!)が出ている Wikipedia 日本語版の会田寅次郎氏作品「TANTATATAN」(Chim↑Pomの卯城竜太氏執筆)には、会田寅次郎氏は「小学校の一般クラスにも馴染めず」とある。それはまた 「小学校の一般クラスという規律=訓練の装置にも馴染めず」と読み直す事が可能かもしれない。確かに「小学校の一般クラス」が念頭に置く成長計画とこの人物の成長曲線は、反りが合わなそうな印象はある。


7月に一般的な話題にもなっていた会田家「檄文」(新作)を始めとして、会田家の展示物には「学校」(若しくは「教育」、或いは「規律=訓練」)をテーマにしたものが多い。それらの多くは「子供向け」の本展の為に作られたものではなく旧作である。同じく同時期に一般的な話題になっていた作品「国際会議で演説をする日本の総理大臣と名乗る男のビデオ」(会田誠氏 2014年:同年の会田寅次郎氏の「esperanto generator」と対を成す印象もある)は、規律=訓練によって幼稚園児にリセットさせられた「一国の頂点に上り詰めた」男のビデオとも言えるだろう。


何かを教えようとする「美術館」という「学校」の中の、「展覧会」という「学校」の中で、会田家の作品はそうした「学校」の諸々を直接的にも間接的にも「おちょくる」。その「美術館」という「学校」に於いても、「教師」が「生徒」に「指導」をするという非対称的な機制があるとして、その「生徒」の位置にあるのは通常「観客」だと思われていたところがある。しかし今回の展覧会では、作家もまた「生徒」として扱われ、「教師」から「指導」される事が広く明らかになった。


多くはこの「指導」に狭義の「政治」を巡る構図を読み取ったかもしれない。しかしどうやらそれは、「徒手体操で手の先がピンと伸びていないのが見苦しい」的な「美的」レベルの話だった様な印象がある。今回の「教師」役からは、その作家に対する自らの「指導」に関する明確なメッセージが伝わって来ないものの、しかしそれが伝えられる事は永遠に無いだろうとも思える。何故ならば「徒手体操で手の先がピンと伸びていないのが見苦しい」についての合理的な説明を試みようとしても、結局は「教師」の個人的な「美的趣味」に基づいている「見苦しさ」の根拠については、自家撞着の形でしか書けないだろうからだ。「私が見苦しいと思うから見苦しい」。それでは「詳細な理由や経緯」を記した公的な文書にはなり得ない。


現実の「学校」に於いて、こうした「教師」の個人的な「美的趣味」(その多くは「社会常識」を装う)によって、自家撞着的な「指導」が進められていく事は決して珍しい話では無い。事更に「良い子」では無かった子供時代を過ごしてきた者ならば、そうした「教師」(往々にして世間的には「良い先生」という評価がされていたりする)の一人や二人を、「そう言えばいたなぁ、こんな人物」と具体的に思い出す事が出来るかもしれない。所謂「青春ドラマ」では、こうしたキャラクターを「教頭」の様な形でどこかに配置するものである。

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Ōkina otomodachi
おおきな おともだち


Ōkina otomodachi (大きなお友達?) is a Japanese phrase that literally means “a big friend” or “an adult friend”. Japanese otaku use it to describe themselves as adult fans of an anime, a manga, or a TV show that is originally aimed at children. Note that a parent who watches such a show with his or her children is not considered as an ōkina otomodachi. An ōkina otomodachi is not a parent who buys anime DVDs for his or her children to watch. Ōkina otomodachi are those who buy children’s anime for themselves. Also, if the work is obviously aimed at adults, a fan of it is not an ōkina otomodachi. Hence ōkina otomodachi and otaku are different concepts.


大きなお友達(Ōkina otomodachi)は、字義的に言えば「大柄な友人(a big friend)」や「大人の友人(an adult friend)」を意味する日本語に於ける言い回しである。日本のオタクが、幼児向けのアニメ、マンガ、テレビ番組の大人のファンとしての自分達の存在を言い表す場合にこの言葉が用いられる。但し注意すべきは、自分の子供と共に、それを親として試聴する場合には、大きなお友達にはならないという事である。大きなお友達は――親としてではなく――幼児が視る為に作られたアニメの DVD を、自分自身の為に購入する人々である。また、仮にその作品が大人をターゲットとしているのであれば、そのファンは、大きなお友達ではない。従って、大きなお友達とオタクは、異なる概念である。


https://en.wikipedia.org/wiki/%C5%8Ckina_otomodachi

大きなお友達一人でこの「おとなもこどもも考える」展覧会に行くのは、やはりバツの悪いものではある。「おとなもこどもも考える」は、「おとなは考える/こどもは考える」そのままではないだろう。「おとなは考える/こどもは考える」のスラッシュの位置にあるのは、両者間の「対話」であるに違いない。


例えばこの展覧会に入場すると真っ先にこういうキャラクターが出迎えてくれる。



「さくひんにさわったり、はしったりしないでね〜」。ひらがなが読める/ひらがなをしか読めない子供がこのコーションを読める様にとのひらがな書きの採用に違いない。ここでひらがなを覚えたばかりの子供は、連き添いの大人に質問するかもしれない。「『さくひん』ってなに?」。「どうしてさわっちゃいけないの?」。「なんではしっちゃだめなの?」。ここからの子供との遣り取りが真に「対話」になるかどうかで、問いを投げ掛けられている大人の知が試されるだろう。


往々にして大人は「さくひん」について子供よりは知っていると思っている。そこで大人は聞き齧りの「さくひん」についての知識を交えた説明を、子供の「『さくひん』ってなに?」という質問に対して行うかもしれない。しかし全く同じ質問を、自分よりも智者に見える大人からされた時、その人物は子供と同じ内容の「さくひん」についての説明を行うだろうか。或いは智者ではないかもしれないし、ラディカルにそれについて考えているかどうか判らない者であっても、明らかに「美術」に関係する事で報酬を得ている様な者に対して、子供に対するのと同じ様に答えるだろうか。


子供は質問する。それは子供自身が、自分が「知らない者」である事を知っているからだ。一方で、大人は子供程には他者に対して質問をしない。「美術館」で「作品って何?」と問う大人はそれ程多くない。大人は「作品」とされるものに対して、自らを「知らない者」とは認めない。「子供向け」の表現や、「美術館」に展示するに相応しいものがどの様なものかを知っていると思って自身を疑わない=「知らない事を知らない」のが大人である。しかし「知らない事を知らない」者に対しての「対話」は困難なものになるだろう。何故ならば「対話」は「私が知る全ては私が何も知らない事である(“All I know is that I know nothing.”:ソクラテス)」と自らを認ずる事の出来る者同士で行われるものだからだ。従って規律=訓練の「学校」と、懐疑の方法論である「対話」もまた反りが悪いのである。


自分が「知らない者」である事を知っている子供でも、時々自分が「知らない者」と認めない時がある。「青は男の色で、ピンクは女の色」「男はズボンで、女はスカート」。それは恐らくトイレのカラーコーディネートやピクトグラム(「ユニバーサルデザイン」)が子供にもたらした規律=訓練の成果なのだろうが――東京都現代美術館のマイケル・リン× BISAZZA によるトイレの壁面からして「青は男の色で、ピンクは女の色」であり、入口のピクトグラムも「男はズボンで、女はスカート」という「常識」を逸脱していないところが、規律=訓練の場である「美術館」に相応しいと言えば相応しいと言えなくも無い。そして半可通な大人は、この手の「常識」の順列組み合わせ的な「新しさ」に感激したりするのである――、自分が「知らない者」である事を心得ている大人なら、ここからも子供との「対話」を築き上げて行く事が可能だろう。


大きなお友達一人で同展に行くのと、質問する事を止めない=懐疑する事を止めない子供(或いは質問する事を止めない=懐疑する事を止めない大人と一緒でも良い)と行くのとでは、その疲労度が全く異なるものになるに違いない。同展を「託児」の場所と割り切ってしまうのなら兎も角、それらの質問から「対話」を築きあげていこうとする事を少しでも試みようとするのであれば、一冊の本を書き上げる位の知的疲労を覚悟しなくてはならないかもしれない。それは近代的な「休日」の概念とは全く相容れないだろうが――しかし多かれ少なかれ、子供のいる家庭の「休日」とはそういうものである――、それ程に同展(中でも「託児」になりようの無い「会田家」)は子供の「なぜ」を触発し、「対話」を築く事の出来るスポットが満載なのである。それは「美術館」が時に「学校」の様に現れるものでもあるからだろう。

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ヨーガン レールに、子供は自らの「工作(ブリコラージュ)」や「宝物(収集/発見)」との近さと(圧倒的な)遠さを見るだろうか。


はじまるよ、びじゅつかん(おかざき乾じろ 策)の「こどもにしか入ることのできない美術館」の前(大きなお友達は奥には入れない)では、4人の12歳が何かを探しに行くこれを思い出していた。



「死体」を発見するまでのトポスもまた、子供だけの場所だった。


アルフレド&イザベル・アキリザン。棚の上に乗った様々な尺度を持つ「私の場所」。それが空間的に集合すると、高さが100メートル位あったものも、面積が1平方キロ位あったものも、全てがモジュール住宅化される。

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東京都現代美術館を出た木場公園では、大人と子供が集まってバーベキュー大会をやっていた。大人は子供に、子供は大人にべったりと付き纏う訳でも無く、良い感じでほったらかされていたのが極めて印象的であった。


アンシャープ

「末永史尚『アンシャープ』」展の会場(大阪市西区京町堀1-17-8 京ビル4F GALLERY ZERO)でその作品を見てから家に帰り、早速水平器(レベル)の画像を検索した。するとこういうものが見付かった。



Fig.01


この水平器を模式図にしてみる。



Fig.02


しかし実際には、「この状態」では気泡管内の気泡はこうなる筈である。



Fig.03


明らかに Amazon のものは、「水平」状態で撮影された写真を、「重力」の及ばない場所――即ちモニタ画面上――で45度右に傾けたものだ。



Fig.04


Fig.05


この水平器を45度ずつ回転してみるとこうなる。



Fig.06


測定面の水平、垂直、45度を確認する為の3つの気泡管を備えたこの水平器の場合、「B」と「F」は、レベルや角度を測定するという目的に於いては全く「無意味」なものだ。しかしこれらは測定面を測定対象に接したままにして、水平器の裏表を逆にする事で「有意味」なものになる。いずれにしても「重力」が支配する現実空間内に於いては、水平器の角度を0.5mm(シンワ ブルーレベル 300mm の場合)でも傾ければ1、2、3のそれぞれの気泡管の気泡の位置は、一つとして同じパターンにはならないのである。

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PhotoshopGimp 、或いは Pixelmator 等のビットマップ画像の編集アプリケーションを使用した者にとって、「アンシャープ」という語からすぐさま思い起こされるのは、それらに備えられている「アンシャープマスク」というフィルタ機能だろう。


1930年代にドイツで生まれたとも言われる銀塩写真の暗室ワーク(参考:1944年3月11日に米イーストマン・コダック社が出願したパテント――ここでは「発明者」が John A. C. Yule であるとされている)である「アンシャープマスキング」メソッドは、一旦「ぼかし」の過程が挿入される為に「アンシャープ」の語が冠せられている。しかしその目的とするところは飽くまでも「シャープネス」の向上だ。「ぼかし(アンシャープ)」の過程を経なければ「シャープ」にはならない。


デジタル画像処理では―― Photoshop CC2015 の場合――「フィルター(Filer)」→「シャープ(Sharpen)」→「アンシャープマスク...(Unsharp Mask...)」の順番で「アンシャープ・マスキング(USM)」メソッドをパネルの形で呼び出し、そこで「量(Amount)」と「半径(Radius)」と「しきい値(Threshold)」の3つのパラメータを操作する事で、目的とする「シャープネス」を得るという手順を(通常は)踏む。


「アンシャープマスキング」は以下の様にシミュレートする事が出来る(以下 Photoshop CC2015 での操作例)。


1.画像を「ファイル(File)」→「開く...(Open...)」。それから「レイヤー(Layer)」→「レイヤーを複製...(Duplicate Layers...)」を2回行う。これにより「背景のコピー(Background copy)」と「背景のコピー2(Background copy 2)」レイヤーが出来る(レイヤー構造をインクルードしていない画像の場合)。



Fig.07


2.「背景のコピー2(Background copy 2)」レイヤーに、「フィルター(Filter)」→「ぼかし(Blur)」→「ぼかし(ガウス)...(Gaussian Blur...)」を適用する(作例では半径15pixel)。



Fig.08


3.ぼかしを掛けた「背景のコピー2(Background copy 2)」レイヤーの描画モードを「通常(Normal)」から「減算(Exclusion)」に変更し、そのまま「背景のコピー2(Background copy 2)」レイヤーが選択されている状態で、「レイヤー(Layer)」→「下のレイヤーと結合(Merge Down)」で「背景のコピー2(Background copy 2)」を「背景のコピー(Background copy)」と一体化させる。



Fig.09


4.一体化した「背景のコピー(Background copy)」レイヤーの描画モードを「スクリーン(Screen)」に変更する事で「アンシャープマスキング」の操作が完了する。画像の「シャープネス」が向上している事を「背景のコピー(Background copy)」レイヤーの表示をオン/オフする事で確かめる事が出来る。



Fig.10


「アンシャープマスキング」処理で、実際に何が行われているのかについての説明は、gimp.org によるこのドキュメントを参考にすれば良いだろう。


http://docs.gimp.org/ja/plug-in-unsharp-mask.html


「アンシャープマスキング」による「シャープ」は「現象」的にはこうなっている(Before/After)。



Fig.11


これが gimp.org のドキュメントの最後に記されている「黒目効果」である。「減算が負の値を生み、 コントラストのある部分に沿って補色のすじができたり、 明るめの星雲を背景に見える星のまわりに黒い暈 (ハロー) ができる」(gimp.org)。その様にして、元々コントラストが高めのところには相対的に目立つ「輪郭(線)」が「できる」事で、画像はより「シャープ」に「見える」事になる。


「シャープ」である事。それは所与的なものではない。「シャープ」は「シャープ」自体としては存在しない。「シャープ」は意識を介し、それが「シャープ」であると認める事なのである。

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「ぼかし」というのは緩やかな「平均」化であり、それは所謂「エントロピー増大」の様なものだ。上掲「アンシャープマスキング」のシミュレートの「2(Fig.08)」に於いては、「水平器」という「内部」と、その「外部」である「背景」を、「秩序」的な形で弁別する為に機能していた「色」が混じり合い、「内部」と「外部」が不分明なものになる事で、「画像」は「無秩序」の方向に向かう。


「ぼかし」をこの水平器の元画像全体に行き渡らせ、全ての画素の持つ情報を「平均」化(コーヒーフレッシュが混ざり切ったコーヒーの状態)してみる。これは Photoshop CC2015 の「フィルター(Filter)」→「ぼかし(Blur)」の中にある「平均(Average)」によって得られる。「平均」は「ぼかし」なのである。



FIg.12


流石にこの「平均」状態では、これを見せられただけで、元画像が水平器であるとは誰も判らないだろう。確かに人の官能というのは不思議なもので、醤油と味醂と酒と砂糖と塩と生姜と鰹節と昆布と水が(相対的に)「平均」化した液体を舌に乗せ、そこから「醤油」や「生姜」や「昆布」の味を弁別したりする能力が、多かれ少なかれ備わってはいる。それは、それぞれの味に関する記憶のデータベースと照らし合わせ、その差分から「平均」化された液体の中で不分明だった「醤油」や「生姜」の輪郭を浮かび上がらせる事で、それらを弁別可能なものとして認識する。即ちこれもまた、記憶をコンタクトプリントする事によって得られる「アンシャープマスキング」なのである。


しかし画像の場合は、参照するデータベースの項目が、味に比べて相対的に多過ぎる為に、この完全なる「ぼけ」にコンタクトプリントすべきものを見つけ出す事は事実上不可能だ。多くは青空や海中等の記憶をそこに重ねられてしまうだろう。

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愛知県美術館のAPMOA Projectで開催した個展「ミュージアムピース」は美術館に備わっているもの〜例えばコレクションの絵画を飾る額縁、スポットライト、キャプション〜をモチーフとした作品によって構成された展覧会でした。
あのとき意識していたのは、観る人と作品との関わり方が展示室の中で完結したものではなく、前後の展示室の展示、あるいは過去に同展示室で行われた展示との関わりによって影響を受けること、それを利用した作品の質もあり得るのではないか、ということでした。近代以降、美術作品は前後の経験から切り離された真空状態で成立しているかのように扱われすぎていたのではないか。
それと同時に、あまりにも場に依存した作品は時間的、空間的広がりを欠くものです。場を基点としつつも創りだしたものはどの場においても効果があるものであってほしい。そのための操作や判断の要は、ものを構成しているトピックは鮮明にしつつ、姿からは個別の要素を不鮮明(アンシャープ)にすることです。
本展によって「ミュージアムピース」の作品との新しい出会い方を用意しつつギャラリーでの鑑賞体験に何かを付け足す機会となればと考えています。


「suenaga fuminaoのブログ」
http://kachifu.hatenablog.com/entry/2015/07/03/205246


GALLERY ZERO の「アンシャープ」展に出品されているのは、2014年に愛知県美術館で行われた「APMoA Project, ARCH vol. 11 末永史尚『ミュージアムピース』」に出品されたピクチャーフレーム作品4点(旧作2点、新作2点)、CDケース作品3点(新作)、段ボール箱作品1点(新作)、そして水平器作品が2点(新作)である。


http://gallery-zero.jimdo.com/artists/%E6%9C%AB%E6%B0%B8%E5%8F%B2%E5%B0%9A-suenaga-fuminao/%E6%9C%AB%E6%B0%B8-suenaga-2015/


この「アンシャープ」展の作者は、自らの「創りだしたもの」に対する説明として、「ものを構成しているトピックは鮮明にしつつ、姿からは個別の要素を不鮮明(アンシャープ)にすること」と書いている。一方「アンシャープマスキング」メソッドをプロセス順に書けば、「個別の要素を不鮮明(アンシャープ)にしたものを通すことで、ものを構成しているトピックを鮮明にする」である。即ちプロセス的には全く別のものである。


これらの作品が創られる過程としては、何よりも先に「トピック」の「鮮明」化が行われる。「トピック」とは「項目」であり、従って極めて言語的なものである。先程の例でも上げた様に、その中でもまず「内部」と「外部」という二項目の「トピック」が弁別されるのだが、これは「支持体」がそのままその役目を担う。合板や木枠は鋸によって、ピクチャーフレーム(+絵画)、CDケース、段ボール箱、水平器が備えている大きさを、「秩序」のフィールドとする事で、「内部」として顕現する。


その次に来るプロセスは「内部」に於ける「トピック」の「画定」になる。当然これもまた言語を介して行われる人為である。「トピック」は「トピック」として既にそこに存在しているものではない。「トピック」は「見分け」の機制によって生じる。それは「支持体」という連続的な広がりを持つ「陸地」の内部に、「明確(シャープ)」な領域としての近代的「国境」――古来の「国境」は、城壁で「シャープ」にされてもいた「国家」の周囲に、常に「ぼかし(Blur)」が掛かった “frontier(辺境)"が存在していた――を画定して切り分けて行く様なものだ。(近代的)「国境」は「山脈」や「河川」や「森林」や「湖沼」や「海洋」等によって「画定」される場合もあれば、「条約」や「幾何」や「人種」や「民族」や「宗教」等の理由で「画定」される場合もある。いずれにしても、この作者の作品の戦略的な立ち位置としては、常に「ボーダー/バウンダリーの絵画」 なのである。


「国境」が定められれば、そこから「平均」が導き出される。例えば「国境」によって「日本国」が定められての後に「日本人」という「平均」が導き出される様に、その「国境」内の色は「平均」――多くの場合、実際には「平均」ではない。「日本人」という「平均」がそうなっていない様に――によって「単色」化される。


先の水平器の画像の場合、人間の多くが認めるこの水平器画像「内部」に於ける「国境」はこうなりもするだろう。



Fig.13


「西サイドキャップ国」、「アルミ角パイプ国」、「垂直気泡管国」、「水平気泡管国」、「45度気泡管国」、「東サイドキャップ国」、「北西サイドキャップ国」、「北西アルミ角パイプ国」、「北水平気泡管国」、「北東アルミ角パイプ国」、「北東サイドキャップ国」。


それぞれの「国」の「平均」を求めるとこうなる。



Fig.14


しかし「国境」を作成するマッピングの方法論にはこういうものもあるだろう。



Fig.15


所謂モザイクフィルタであるが、これもまた「ぼかし」且つ「平均」である。これは、アメリカの幾つかの州や、アフリカの幾つかの国や、朝鮮半島の二つの国の間の様に、「緯度」と「経度」――即ち「ビット」――でマッピングされた「国境」と言える。従ってこういう「県境」もあり得る。



Fig.16


であれば、凡そ「ビットマップ画像」というものは、ピクセルという「国境」単位で区分けられ、それぞれが「平均/アンシャープ」化されたものであると言えるだろう。それが「遠目」に「シャープ」に見える事があったとしても。


近代的「国境」の「内部」には、「分裂」や「独立」の意志が常に胚胎する事を我々の歴史は教えてくれる。「垂直気泡管国」も「水平気泡管国」も「45度気泡管国」もまた、その「国境」の「内部」は「不穏」に満ちている。

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「平均(Average)」は「ぼかし(Blur)」であった。仮に「平均」が可逆的なものであるとして(実際にはそういう事は無い)、例えば「アンシャープ」展に於ける「段ボール箱」作品の「段ボール」部分を、どんどん「鮮明」にして「個別の要素」を明らかにして行った時(=「平均」以前に戻して行った時)、そこには「宅急便の送り状」や「われもの注意」や「高原レタス」が現れて来るのかもしれない。しかし一方で、そこに「DHLの送り状」や「THIS SIDE UP」や「Amazon.com」が現れて来るという可能性を否定する事は出来ない。あの「段ボール箱」作品の茶色という「平均」は、世界中のあらゆる(取り敢えず茶色系の)段ボール箱の上で生じ得るあらゆるパターンへと繋がっている。作者だけが知っているかもしれない「正解」は、そうした繋がりの可能的な一つでしか無い。


愛知県美術館に於ける「ピクチャーフレーム」作品の場合は、その「平均」以前の「必然(正解)」が、「前後の展示室の展示、あるいは過去に同展示室で行われた展示」を辿る事で、対応関係的に特定可能に思わせてしまうものだった。歩かせる事。目をキョロキョロとさせる事。クエストゲーム。それは確かに「展示室の中で完結した」ものでは無かったものの、その一方で「美術館の中で完結した」ものではあった。


今回の大阪の展示では、「シャープ(モチーフ)」と「アンシャープ(作品)」の「同定」化が事実上不可能である為に、その3枚の「ピクチャーフレーム」に入る「アンシャープ」化された「ペインティング」は、段ボール上の「高原レタス」や「Amazon.com」の様に、「蓋然」という「ぼかし(決定不能)」の状態に留まり続ける。「ピクチャーフレーム」にはあらゆる「ペインティング」が額装され得るものの、しかしそれはその時々に於いて常に一つなのである。

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展覧会に於ける「絵画」作品は、それが洞窟ならぬ展示室の壁面に掛けられる際には、建築のフォーマットである「水平/垂直」を受け入れる事が、美術の展示室に迎え入れられる条件ともなる。それ故に展示関係者の必需品の一つは水平器になる――場合によってはレーザー墨出器の出番ともなる。


但し展示作業に水平器を使用しない方が、良い結果を生む場合もある。例えば展示室の床面の水平が、そこにボールを置けば何もしなくても転がって行ってしまう位に著しく出ていない場合、意図的に作品の水平を外した方が、床面との関係で「水平」に見えるという事もあるからだ。その場合は、作品両端の床面からの距離を一定にしたり、官能評価(見た目)で「水平」を決定する事もある。但しそれはレアなケースだろう。


多くの場合、平面作品のセッティング作業では、平面作品の上縁、或いは下縁に、水平器が上掲 Fig.06 の “A"、或いは “E" の向きで当てられ、建築へのフィッティングが進められる。「水平器」作品の展示作業はどうだったのだろう。この様な状態になっていたのであろうか。



Fig.17


こうした方法によってセッティング作業が進められていたと仮定すると、機能する水平器(以下〈水平器〉)と「水平器」作品が重ねられ、「水平器」作品を実際に水平に調整した時、〈水平器〉中央の気泡管の気泡は二つの標線の中間に位置する事になる。では「水平器」作品の「平均」化された中央の気泡管の気泡は、一体どこに位置しているのであろうか。それは隣接する〈水平器〉と同じ中央なのだろうか。或いはそことは別の位置にあるのだろうか。


気泡管が「平均」化される時、その「平均」の色の値は気泡の位置に左右されない。Fig.06 のどの角度にあっても、気泡管の「平均」は全て同じ「単色」になる。



Fig.18


「アンシャープ」から「シャープ」が不可逆の関係にある以上、「アンシャープ」化された気泡の位置を確定する事は不可能だ。しかし多くの者は、「水平器」作品が水平の状態にある時、その中央の気泡管の気泡の位置が中央にある事を、その「平均」の中に「見る」のである。


今回の展示では、「水平器」作品は「水平」状態(厳密にはそうではないかもしれない)にのみセッティングされていた。この同じ作品を「垂直」にした場合、果たして「水平器」作品の中の気泡の位置は「変化」するだろうか。それとも Amazon の「45度に傾けられた水平状態の写真」の様に、気泡の位置が張り付いたままにあるだろうか。そしてそれを見る者は、Fig.06 の “C" や “G" の様な垂直気泡管の状態をそこに「見る」だろうか。


それ故に「平均」の中の気泡の位置は決定不能である。或いは「平均」の中の気泡は永遠に動き続ける。無重力=zero gravity、且つ真空=vacuum という、その「内部」的な論理としては「重力」の軛から逃れられている筈の「絵画」作品の展示に於いて、「重力」という「外部」的な論理が働いてしまう展示室という現実空間が、この決定不能性をもたらしていると言えるだろう。仮に「観る人と作品との関わり方」が、この GALLERY ZERO の展示室内で「完結」していたとしても、その展示室自体が「絵画」の「外部」である「重力」の「内部」にある為に、この展示作品としての「水平器」作品(印刷物やモニタ上に映し出された同作品は、その意味で全く「別物」である)に於いては、歩き回らずともその「完結」が永遠に遅延させられるのである。


「絵画」という「無重力/真空」の論理が、実在物の形で「重力/空気」の場所で展示されるというのは、或る意味で矛盾である。その矛盾は、「絵画」が「無重力/真空」である限り、解消される事は永遠に無い。「絵画」の「内部」は「外部」との「平均」を拒む。仮に「水平器」作品に「本物」の気泡がダイナミックに動き回る気泡管を埋める事で、「絵画」を「重力」に従属させてしまえば、「平均」を拒む「決定不能」というダイナミズムは一瞬にして失われてしまう。


「国境」内の「平均」は常に分子が動き回る「不穏」なものなのである。

だれも知らない建築のはなし

「都市」の話。更に北半球の「都市文明」の産物である「建築」の話。従って以下の長過ぎる文章は――引用も含め――この惑星の極めて限定的な場所でのみ有効になる話だという事を断らなければならない。

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1. Beyond a certain critical mass, a building becomes a BIG Building. Such a mass can no longer be controlled by a singular architectural gesture, or even by any combination of architectural gestures. The impossibility triggers the autonomy of its parts, which is different from fragmentation: the parts remain committed to the whole.
 
1 ある臨界量を超えると、建物は「ビッグな建物」になる。そうした量塊(マッス)はもはやひとつの建築的身振りでコントロールできるものではない、いや、複数組み合わせても無理である。このお手上げ状態により各パーツは一斉に自立するが、断片化するわけではない。どのパーツも全体に属したままだからだ。


2. The elevator-with its potential to establish mechanical rather than architectural connections-and its family of related inventions render null and void the classical repertoire of architecture. Issues of composition, scale, proportion, detail are now moot. The ‘art’ of architecture is useless in BIGNESS.
 
2 空間どうしを建築的にではなく機械的に繋ぐエレベーターと、そこに関連する一連の発明により、建築の古典的レパートリーは無効となる。空間構成、スケール、プロポーション、ディテールといった問題はもはや重要ではない。ビッグネスにおいて、建築の「わざ(アート)」は用なしだ。


3. In BIGNESS, the distance between core and envelope increases to the point where the façade can no longer reveal what happens inside. The humanist expectation of ‘honesty’ is doomed; interior and exterior architectures become separate projects, one dealing with the instability of programmatic and iconographic needs, the other-agent of dis-information- offering the city the apparent stability of an object. Where architecture reveals, BIGNESS perplexes; BIGNESS transforms the city from a summation of certainties into an accumulation of mysteries. What you see is no longer what you get.
 
3 ビッグネスでは中心と外皮があまりにも離れ過ぎていて、ファサードは中で何が起こっているのかを伝えることができない。だからヒューマニスト的に「素直さ」を求めても無駄だ。建築の内部と外部は別々のプロジェクトとなる。一方はプログラムと形態の不確定なニーズを扱う。もう一方は情報を操作する。物体として安定していることを都市全体に伝えるのだ。建築が何かを見せて伝えるのに対し、ビッグネスは人を煙に巻く。ビッグネスにより、都市は確実性の総和ではなく、ミステリーの集積となる。もはや What you see is what you get にはならない。つまり、いま見えているものと実体は一致しないのだ。


4. Through size alone, such buildings enter an amoral domain, beyond good and bad. Their impact is independent of their quality.
 
4 単に大きいというだけで、建物は善悪を超えた、道徳とは無関係の領域に入る。建物のインパクトはもう質とは関係がない。


5. Together, all these breaks-with scale, with architectural composition, with tradition, with transparency, with ethics-imply the final, most radical break: BIGNESS is no longer part of any issue. It’s exists; at most, it coexists. Its subtext is fuck context.
 
5 こうしてスケール、建築構成、伝統、透明性、倫理性から一挙に離脱するということは、究極の、根本的な訣別を意味する。ビッグネスはもう都市を織り成す構成要素ではない、という訣別だ。そこに存在はする。せいぜいのところ、共存する。だが本当は、まわりの状況なんか糞食らえ、と言っている。


Bigness (or problem of the large): Rem Koolhaas(日本語訳は太田佳代子/渡辺佐智江

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清澄白河の丸八倉庫から追い出されたギャラリーの移転先となった東京渋谷区千駄ヶ谷3丁目界隈から、次の目的地である東京都渋谷区渋谷2丁目まで向かうのに、JR代々木駅を経由して行くという選択肢や、都営バス池86系統を使って行くという選択肢は、ギャラリーから出てすぐの明治通り沿いのサブウェイ北参道駅前店の向かいに、極めて魅力的に口を開けている東京メトロ副都心線北参道駅入口を目の前にして敢えなく潰えてしまった。


但し、北参道駅で乗車し渋谷駅で降車するという一見楽な選択をしてしまうと、それはそれで確実に大きな別の試練が待っている。渋谷の地上を歩くという極めてシンプルな目的を持って、副都心線が到着する東急東横線渋谷駅の最深層(B5F)から脱出する為には、方向感覚を混乱させるラビリンスに付き合わねばならない。



例えば渋谷駅で副都心線(B5F)から京王井の頭線(2F)に乗り換えるという選択は、人によってはそれだけで考えたくないものになる。それは概ねJR線をクロスして西の方向に行けば良いのだが、ここでは西瓜割りの初めに回転させられるが如く、上へ上がるのに北方向を向かされたり、南方向を向かされたり、東方向を向かされたりする。JR線が何処をどう走っているのかすら知覚出来ない新しい渋谷駅では、西瓜割りに於ける周囲の掛け声の如き、「もっと右」であるとか「もっと左」であるとか「もっと前」と、矢印と文字を盛りに盛って教えてくれる案内表示を頼りにしなければ、凡そ西の方向へと向かう事は叶わない。



東急電鉄作成のこの「東急線渋谷駅構内フロアマップ」のページにも、自らそれがラビリンスである事を隠さない隠しメッセージが存在する。そのページのソースを見れば、 「<head>」部に「<meta name="description" content="渋谷駅は国内でも有数の複雑なターミナル駅です。渋谷駅を、わかりにくさからキライにならないでほしい、そんな思いで渋谷駅フロアマップを作成しました。">」と書かれている。


このラビリンスには安藤忠雄氏も関係しているらしい。正直なところ東急東横線渋谷駅の何処が安藤忠雄氏の仕事なのかが良く判らないのだが、氏の事務所サイトの "Works" にはこの東急東横線渋谷駅(2008年)が掲載されているから、安藤忠雄氏の代表作の一つと見て良いのだろう/見て欲しいのだろう。



東急東横線渋谷駅に於ける安藤忠雄氏の目に見える、数少ない現実化した仕事(デザイン監修)の一つであるには違いない卵の殻の造作(特に目新しいものではない。参考)を、上りエスカレーターの終端付近で潜った後、渋谷ヒカリエ1改札を出た所に当駅の解説板が立っている。「地下深くに浮遊する都市文化の創造拠点=地宙船」とあり、模型の段階で人々を驚嘆させ、開業の段階で人々を落胆させた「地宙船」の在りし日の幻影を見る事が出来る。「紡錘形」が「埋め込まれて」いる事を、利用者やクライアントの途方も無い想像力で補わさせるものであっても設計料は発生する。これは全く新しい「建築」だ。通常の使用法とは全く別の意味で、これもまた「アンビルト」と言って良いものだろうか。


驚きを持って受け入れられた当初の計画とはかなり異なり、間隔がかなり開いた「点線」で表現されてしまった「地宙船」の設計を通した東京急行電鉄(株)としては、それが「実線」的なものとして存在しないとは認めたくないだろう。「東急線渋谷駅構内フロアマップ」ページにもこの解説板にも、「地宙船」が物理的に「埋め込まれて」いて、その「ビルト」された「紡錘形」こそが実際に物理的な対流効果を上げているという前提で臨んでいる。当然建築家氏の事務所も同じだ。



“Gud hvor kejserens nye klæder er mageløse!" (おお皇帝の新しい服は、何と比類なきものなのでしょう!)"。目には全く見えない服を褒め称える事で、社会の中の自らのポジションを維持しようと必死な大人達(「地宙船」でググれば、そうした大人達ばかりに会える)を尻目に、“Men han har jo ikke noget på(でもあの人は裸だよ)"と言ってしまえるハンス・クリスチャン・アンデルセンの "Keiserens nye Klæder(皇帝の新しい服)」の子供ならば、東急東横線渋谷駅の「地宙船」に対しても「でもここにはこんなもの無いよ」と事も無げに言えるだろう。


幻影の「地宙船」が「都市文化の創造拠点」であるとは御大層な上にも御大層な自己評価であり、その具体例が「心がワクワクするとか、電車に乗る以上のことを考えられる」でも「こういう考え方もあるのかという自分の生き方にヒントになる」でも「この駅、面白いな。俺も面白いこと考えよう」でも何でも良いのだが、人の心理を物理的手段によって操作/制御するゲーム制作が建築家の本懐の一つであるとすれば、或る意味でこの新しい渋谷駅の仕事は、建築家氏にとって極めて遣り甲斐のあるものだったのではないだろうか。但しそのゲームを面白がるプレイヤーがいるかどうかは判らない。

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東急東横線渋谷駅は、木の根の如くに掘り起こさない限り(そうする事で初めてあの建築模型の様にも見える)、そのスケール/プロポーション=シェイプを誰も知覚的に把握する事が出来ない。シェイプ=形態の収まりへの評価が不可能な新しい渋谷駅は、それでも部分の相互矛盾や相互対立の「統制」が可能になってしまうという点で、「建築」という「形式」をしか表さない。動物の巣穴に「『穴居』の『形式』」しか存在しないのと同様、この渋谷駅という名の「『建築』の『形式』」は、伝統的な「建築」概念に於ける「外皮」を纏わない/纏えない。従ってこうしたものでも「建築」の「形式」が可能になるという事は、「建築」という「形式」にとっては、知覚に働き掛ける「量塊(マッス)」的なものとして認識される「建物」というシェイプは必ずしも必要な条件では無い事を示している。


そもそも日本のターミナル駅はそれ自体がストラクチャーであり、他の国に殆ど類例を見ないメディアだ。米 Travel & Leisure の “World's Most Beutiful Train Stations(世界の極めて美しい鉄道駅) "では、そのファサード部分の建築的要素が「美」の評価基準になっている。しかし渋谷駅に限らず、多くの日本のターミナル駅は――東京駅の様な「導入期」のものを別にして――「ファサードは中で何が起こっているのかを伝えることができない(レム・コールハース)」どころかファサードは全く重要なものではなく、それはただ仕方無く付いていたり、ショッピングモールやホテルやオフィスビルのものを借用し、そこに鉄道会社と駅名の文字列だけが付いていたりするものでしかない。



従って日本に於けるターミナル駅は、寧ろ地下鉄駅入口の様なものだ。プラットフォームにアクセス可能な開口部さえあれば、「駅舎」は上掲画像の様なもので構わない(手前のゲームセンター建物の右端に、そこが「阿倍野駅」入口である事を示す表示がある)し、渋谷駅を含む現実の多くのターミナル駅は事実上こういうものである。そのプラットフォームに通じる開口部の前の歩道の上には「建築」の要素ともなる「屋根」が二百数十メートルに渡って施されていて、それによって複数の建物が「繋がる」事によって、見方によっては相当に巨大な「駅舎」に見える。この巨大な「駅舎」には、一体何人の「建築士(建築家含む)」が、それぞれの言語を使って関わっているのであろうか。


意志的に実行した事を問わず、その様にも見えるという一点突破のみで四の五の小煩い事を言わなければ、“BIGNESS" それ自体は極めてあっけなく実現してしまう。仮に一人の突出した才能が何かをするにしても、「その様にも見える」重視ならば多数の言語が存在する「お手上げ状態」の各要素をアーケード的に繋ぐ形で、共通言語(共通利害)である屋根を巡らす「程度」の事を実行すれば良い。ここにある歩道の屋根は調停による様々なテーゼの総合である。それが建築家という総合化の職能によるものであれば、調停のセンスは問われるものの。


Japanese Subway Stations Totally Look Like Role-Playing Game Dungeons(日本の地下鉄駅はとてつもない RPG のダンジョンに見える)」"。このリンク先のコメント(This is what happens when you let a half dozen different corporations dig different rail lines in different places over the course of several decades)にもある様に、「渋谷駅」として認識されているイデアは、複数の異なった年代の複数の異なった意志によって、日に日に「巨大」化して行く「建築」ならぬ「構造体」だ。


まだ日本に於ける駅という「構造体」の独自性に、日本人が目覚める前に建てられた東京駅丸の内駅舎(ヨーロッパ駅舎建築に対するコンプレックスの産物としてのデッドコピー)のホテルや美術ギャラリーは「建築」の内部にあるが、他の多くのターミナル駅に於けるそれらは、レゴ・ブロックの様に駅の基本構造に極めて機械的に接続する。20世紀的な「建築」的創意と無関係であったからこそ実現したメタボリズムの成功例という逆説。一体誰が渋谷駅という「構造体」の全体像をイメージとして固定化する事が出来るというのだろう。渋谷駅は、“BIGNESS" という「建築」に於ける弁証法のその遥か先を、「建築」とは全く異なる線(different rail line) を掘り(dig)つつ行ってしまうのである。

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東京メトロ副都心線のホーム階(B5F)から地上に出るには当然複数の方法が存在するが、その一つはホーム階から2階層上がった渋谷ヒカリエ1改札か渋谷ヒカリエ2改札(共にB3F)を出るというものだ。B3F の改札機に Suica を当てて有料ゾーンを出れば、そこにはサイディングを施された巨大なヴォイド管が設けられている。それは「地宙船」から続く地下空間の換気目的の為の縦坑であり、心理的に「深さ」を「高さ」に変換する装置だ。それは建築家が「建築」の大きさ(全体像)を知覚させたい欲望の現れである。


その縦坑の名称はアーバンコアという。「地方都市」のマンション等でしばしば使用される名称だ。都市の中心。こうした名称は、当事者の「こう言いたくなってしまう気持ち」を汲むべきものだ。「都市の中心」と自ら宣言しておかないと、渋谷が「都市」からも「中心」からも今すぐに外されてしまうのではないかという、当事者にとっては極めて深刻なものとして現れる不安に苛まれているという見立ては可能だ。渋谷はその不安から逃れようと、2027年までにかなりの本数の高層ビルを建てるという。最早「遅れて来た者」をしか表象しないそうした高層ビルを建てたところで、不安は一向に解消しないどころか益々膨れ上がるだろうが、いずれにしてもこうしたセキュリティ・ブランケットを必要とする現在の渋谷(ライナス)から、その名称を無理矢理取り上げてはならない。


東急東横線渋谷駅の改札を出ると、いつの間にか安藤忠雄氏の「建築」は終わっている。しかし「『建築』の『形式』」が終わる事は無い。いつの間にか安藤忠雄氏の「建築」は、株式会社日建設計・設計部門デザインパートナー・吉野繁氏の「建築」に移行している。地上に露出している「建物」のシェイプで、一人の建築家の「作品」とそれ以外を分別可能であるというのが「建築」の世界の掟だが、ここではその様にはここからここまでが安藤忠雄氏の「建築(「作品」)」であるとは誰にも認識出来ない。その株式会社日建設計・設計部門デザインパートナー・吉野繁氏の「建築」の2Fから空中回廊を行けば、それはまた別の者による「建築」にいつの間にか移る事になる。基準階平面(typical plan)という人工地盤の中にいる者にとっては、「建築」は常にワンフロア分のものとしてしか現れない。


各「建築」間を人工地盤で繋ぎまくる2027年の渋谷の――取り敢えずの――「完成」予定図を見れば、それは現在の大阪駅周辺(リンク先PDF)の様なものになりそうだ。即ち今から12年後の渋谷の様子を知りたければ、今すぐ大阪に行けば良い。そして2027年に渋谷整備計画が完成したその時、大阪はその成果(「成れの果て」とも読める)を見せてくれるだろう。



大阪ステーションシティで、JR大阪駅構内を覆う屋根/地表である「時空(とき)の広場」というストラクチャーの上には、一軒の小屋が「建って」いる。しかしこれを独立した「建築」として見る者は誰もいない。これはブースであり造作である。メタ・ストラクチャーとしての「フロア(基準階平面)」で、伝統的な地面と切り離された構築物は「建築」になる事が出来ない。地面に届かないものは「建築」にはなれない。「建築」は地面から「生えて」いるものを言う。従って、この「時空の広場」という「フロア」の上に、磯崎新が建とうが、安藤忠雄が建とうが、伊東豊雄が建とうが、ザハ・ハディドが建とうが、それらは全て人工地盤の上に「置かれたもの」でしかなく、従って「新横浜ラーメン博物館」内の「建物」の様なブースや造作でしか無くなる。



但しこの小さなブースが地表に「直接」接続し、「独自」の「基礎」を伴った構造を一つでも獲得すれば、自らの仕事を地上から浮かび上がらせている「柱」部分を自分のものの側にあると主張する、皿+棒=皿回しの様なヨナ・フリードマンの「建築」“Spatial City" 程度には「建築」になれる。「フロア」にちょこんと置かれた皿は皿でしか無いが、その皿から皿回しの棒を「フロア」を突き破って地面まで伸ばし、その棒も皿の一部であるとする事が出来れば、それが「建築」であるという「権利」を有せるかもしれない。


「真性」の「建築」である筈のサウスゲートビルディングノースゲートビルディングもまた、人工地盤である「時空(とき)の広場」という「フロア」から見ればブースや造作に見えてしまう。最早それらの「建築」全体のシェイプが退屈であろうが何であろうが、人工地盤の中にいる者にとっては大した問題ではない。やがてペデストリアンデッキという形で何層もの人工地盤=「廊下」が渋谷駅周辺の空中に張り巡らせられる時、それに接触してしまった「建築」は「廊下」から見る「部屋」の様なものになる。



「廊下」の歩行者が見るのは「部屋」の入口ばかりで、その上もその下も見る事も想像する事も無い。



渋谷駅周辺に2027年までに建つ新しい「建物」は、「部屋」の入口さえ人の目を引くものであれば、「建物」全体のシェイプは極めて凡庸で退屈なもので良い。設計者の頭の中には毛の先程も無いだろうと思われるが、街路を志向(注)しもする渋谷ヒカリエのオリジンの一つは、それ自体が街路としてスタートした中野ブロードウェイかもしれない。街路と通路が不分明な形で繋がり、中野サンモール街のアーケードで切り取られる部分のみが、「正面」のファサードとして機能するそれは、「建物」全体のシェイプが把握出来る早稲田通りから見るよりも「キャラ」が立っている。やがて、渋谷ヒカリエよりも街路である「歩行者デッキ」が地上4階の高さでその周囲を取り囲んだ時、渋谷ヒカリエ中野ブロードウェイになって行くのだろう。



(注)「街路をエレベーターやエスカレーターに置き換え、建物のファサードにみられるように用途毎のブロックが積み上がり、ブロックの間は共用のロビー空間(交差点)や屋上庭園とし、異分野の人々が交流し、シナジーを生み出し、それを街に発信することで賑わいを創出する場」
2012年グッドデザイン http://www.g-mark.org/award/describe/39247?token=toKJMoVz53


「建築」と呼ばれるものは「地面」を必要とする点で「樹木」であり、だからこそその集合は「林立」という言葉で形容されたりもする。「樹木」は北半球の西半球の理念だ。“primitive hut"(始原の小屋)が「建築」の始まりと考えられてしまう文化圏では、「建築」は相変わらず「樹木」の系統であり続けている。低木か高木かの違い。それをどういう形で剪定するかの違い。



日本。アジアモンスーン。南の国。寄生植物ばかりが繁茂する熱帯雨林の一角を整地して、剪定された樹木を植える「建築」の人達。剪定された樹木の秩序だった配置を良しとする幾何学式庭園という北半球の西半球の理念の導入。しかしそれにもすぐに寄生植物が覆うだろう。熱帯雨林に住む者にとってはその方が快適なのだ。どこまでも続く歩道の上の屋根やアーケード街というのは、気候から必然的に導き出されたものなのである。それが日本の現在の「集落」のかたちを形成する。

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渋谷駅から宮益坂を歩いて登って行ったのは久し振りだった。シアター・イメージフォーラムに映画を見に行く為にだ。


現在解体中の東横百貨店(1934年)が建つまでは、宮益坂からは正面に富士山が臨めた。宮益坂の旧称は富士見坂である。松尾芭蕉がこの大山参拝路(大山街道)筋の宮益坂から西北西方向を見て詠んだとされる句、「眼にかかる 時や殊更 さ月不二」が、御嶽神社境内の石碑に刻まれている。


東京の地名で「谷」の付く場所は実際に谷であり、渋谷もその例に漏れない。そしてその渋谷という谷は嘗ては海だった。


渋谷区には、先史時代の遺跡が30数カ所発見されていますが、現在その姿をとどめているのは数カ所です。当時の渋谷は、台地部分が海面から頭を出していた程度で、縄文時代、人々は丘の上で生活を営んでいたのでしょう。


渋谷区「渋谷区の歴史」
http://www.city.shibuya.tokyo.jp/shibuya/profile/history.html


東京の現在を標高差で表せばこうなる。



画像中央やや下が渋谷。東京有数のスリバチ。であるが故にそれは現代のスポーツ競技場と同じ形だ。渋谷部分を拡大し、そこに道のレイヤーを被せてみる。谷に張り巡らされたスロープ。



江戸時代にはその「スタンド」部分(宮益坂)に茶屋が建っていて、そこから向かいの「スタンド」(道玄坂)越しに見える富士山を、団子を食べながら眺めていた。この風景の中の渋谷に、我々が言うところの「建築」はまだ一つも存在していない。



絵本江戸土産
 


宮益坂の下の渋谷は「畑」と「田」と「百姓地」ばかりであった



「建築」が付け入る隙を与えないこの江戸の「完結」した風景には、例えばレム・コールハース中央電視台總部大樓という「建築」は全く必要無い。しかし結果的にこの風景は「文明開化」と共にその「完結」性が失われ、その結果として「建築」ばかりが建つ「完結」を拒み続ける町になった。東京の現在は「建築」を尖兵とした「教化」の後にある。


世界中の殆どの「集落」は「完結」の中にある。そして本来「景観」という言葉は「完結」の風景に対して言われる言葉ではあるのだ。「建築」とは「集落」に仕込まれる「死の種」なのである。

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映画は「だれも知らない建築のはなし」。


http://ia-document.com/


シアター・イメージフォーラムが、渋谷駅と国立霞ヶ丘競技場跡地の間に位置しているという「地の利」。加えて映画に登場するキーパーソン(磯崎新安藤忠雄伊東豊雄ピーター・アイゼンマン、チャールズ・ジェンクス、レム・コールハース)の一人であるコールハースの「S,M,L,XL+」の邦訳が、ちくま学芸文庫で登場し、また新国立競技場建設が一般的関心を呼ぶという「時の利」。従ってこの映画を、いまここで見ずしていつどこで見るとも言える。


若かりし頃の日本の姿と、その後の老いた日本の現状を映す映画を見ながら思っていたのは、これを100年後に見たらどう見えるだろうというものであった。恐らく100年後の世界からは、20世紀から21世紀に掛けての考古学的な資料としてしか見えなくなっているだろう。「建築家の苦悩」そのものが考古学の対象になる。


ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展 正式出品作品」との事だが、100年後には「ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展」そのものが存在しないか、それとも形骸的に残り続けているかのどちらかかもしれない。世界中から必要とされなかった「建築」が集まってしまった1990年代の日本がそうだった様に、21世紀初頭に新たな「建築」を欲しているのは中国であったりドバイであったりするが、100年後の地球上にそうした「建築」を欲して止まない場所が存在するかどうかは判らない。もしかしたら、人々はただそこに残り続けている「建築」と向き合わされるだけの時代になっているかもしれない。それを見る者の視線は、ローマ水道を見る現代人のものなのだろうか、それとも自由の女神像を見るテイラーとノヴァのものなのだろうか。



やがて「だれも知らない建築家のはなし」という青春の思い出のアルバムが閉じられて劇場は明るくなった。

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シアター・イメージフォーラムを出て国道246号線から外苑西通りを北東方向に20分程歩けば、そこは明治神宫外苑である。21世紀の東京地方では、珍妙な風景であっても「景観」の権利を有するらしい。元国立霞ヶ丘陸上競技場を囲む仮囲いの「建築計画のお知らせ」には、「施工者」が「未定」になっていた。



この一帯が1920年に創建された「明治神宫」の「外苑」になった(国立霞ヶ丘陸上競技場文科省の管轄)のは1926年である。それ以前は、その殆どが1886年に日比谷から移って来た帝国陸軍練兵場(青山練兵場)であり、国立霞ヶ丘陸上競技場の殆どは陸軍火薬庫(幕末時は焔硝蔵)の位置にあった。国家の最前面に「近代(陸軍)」を経て、神宫という「国体(神道)」が位置する前の幕末期には、ここは丹波篠山藩青山家、出羽山形藩水野家、日向飫肥藩伊東家の下屋敷等が犇めいていた。以来この場所では土地収用が繰り返される事になる。



1680年
 

1858年
 

1892年
 

1919年
 

2013年


明治天皇崩御の際、青山練兵場内に葬場殿(後に「聖徳記念絵画館」)が作られ、ここで大喪の礼が行われた。その時乃木希典は妻静子と共に、自邸にて殉死を遂げている。



立憲君主制」になり、東京が「帝都」=「みかどのみやこ」となって初めての天皇崩御。京都に対する東京の思惑(京都生まれの明治天皇の稜は「御幸」を境に荒廃してしまった御所のあった京都に。明治の名を関した大規模な神宮は、阪谷芳郎渋沢栄一を始めとする「東京市民」の望みにより「帝都」である東京に。これによって京都を完璧に旧都化する事に成功する)。練兵場に建てられた鳥居。そこからこの地の用途は、それまで政治意志の外にあった代々木村と同様、土地収用によって現在の明治神宫外苑になった。そして明治神宫内苑が完成した3年後、明治神宫外苑が完成する3年前に、乃木希典と乃木静子を主祭神とする乃木神社も建てられる。

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やすうけあい―うけあひ【安請け合い】
(名)スル
確信もないのに請け合うこと。また,軽々しく引き受けること。「―して後で困る」


スーパー大辞林


最終的にどの様な形になるのか依然として判らない新国立競技場については様々な事が言われている。


強いインパクトをもって世界に日本の先進性を発信し、優れた建築・環境技術をアピールできるデザイン」(2012年11月16日付)というのが、ザハ・ハディド・アーキテクツのデザイン原案に「新国立競技場基本構想国際デザイン競技 審査委員会」が掛けた願いであるとされている。


参考:「新国立競技場、「ザハ」なぜ選ばれた 審査激論の中身」
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK1602H_W4A610C1000000/


その10ヶ月後の2013年9月7日、アルゼンチン・ブエノスアイレスで開催されたIOC総会に於けるプレゼンテーションで、就任9ヶ月目の当時の内閣総理大臣――そして2015年7月3日現在も同じ――安倍晋三氏は、「ほかの、どんな競技場とも似ていない真新しいスタジアムから、確かな財政措置に至るまで、2020年東京大会は、その確実な実行が、確証されたものとなります」と、本来ならそれ自体が議論の対象になる筈の「確かな財政措置」を含めて「国際」的に「確約」をした。


それからやがて1年10ヶ月が経つ。ザハ・ハディド・アーキテクツのデザイン原案を採用すると公表されてからは2年7ヶ月余りだ。未だに地鎮祭も始まってはいない一方で、何かが幾重にも終わってしまっている印象だけはある。初代の国立霞ヶ丘陸上競技場は最早地上に姿は無く、また東京に立地していない日産スタジアムは、オリンピック憲章の “The Opening and Closing Cereomonies must take place in the host city itself(開会式および閉会式は開催都市で行わなければならない)"という条件を満たしていない為に、「東京オリンピック」の開会式及び閉会式の会場となる権利を有さない。


何が何でも現状の線で東京都新宿区霞ヶ丘町10番2号に建たせるという政治意志(注)に従えば、2020年東京オリンピックの時点では、耐用年数が10年(トラブルフリーが前提)とも言われている可動屋根(世界最先端の足場技術が必要とされるだろう掛け替え工事時には、スタジアムが数ヶ月間使用不可になる)を諦めた形で地上に現れる予定になっている。


(注)それは「日本」の「建築」の実力(但しデザイン原案はイギリス製)を世界に知らしめるという、「『日本』の建築界」という国内事情――映画「だれも知らない建築家のはなし」の通奏低音でもある――の「『世界』の建築界」に対する政治意志も含まれる。


都市インフラを大規模に刷新出来た1964年が、日本の「成長期」(人口増/65歳以上人口比率6.2%)である一方で、スタジアム一個を建てるのにすら物心両面に於ける社会のリソースの手に余る2020年が、日本の「衰退期」(人口減/65歳以上人口比率予測29.1%)である事は動かし難い事実であるし、その一方で日本の1868年体制が未だに終わらず、また15年戦争時とも全く変わっていなかったという、そうした意味での「終わっている」感もある。


加えて近代オリンピックという興行から引き出せるものも、近代オリンピック興行自体が「成熟」国家にとっては少なからず「終わっている」コンテンツ(「効き目」があったとしても、極めて限定的且つ一時的)である為に、「成長」過程にある「新興国」や、何らかの起死回生を目論む「成熟」に抗う国は別にして、前世紀に比べて現実的な旨味は薄らいでいる。それは、IOC総会で最後に残った者を、オリンピックの持つ強力な副作用によって財政面で最大の敗者にするオールド・メイド/ババ抜き」ゲームなのである。21世紀最初のオリンピック(2004年)開催地であるギリシャの今日を鑑みるに、21世紀のオリンピックは、開催国が自ら喜んで曝け出した秘孔を突く「十年殺し」なのかもしれない。2030年の日本はどうなっているだろう。

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ザハ・ハディド・アーキテクツの新国立競技場は巨大であるらしい。しかし巨大になってしまうのは、当然の事ながらザハ・ハディド・アーキテクツだけの責任ではない。


Q1 なぜ 8 万人収容のスタジアムが必要か。


オリンピック・パラリンピック競技大会のメインスタジアムの収容人員規模は、最近の開催地では、2008 年北京大会 9 万 1 千人、2012 年ロンドン大会 8 万人、2016 年リオデジャネイロ大会 9 万人規模となっています。また、東京オリンピックパラリンピック招致を実現するためには、8 万人規模のスタジアムが必須であると言われていました。現時点では、オリンピック・パラリンピック招致プランによって約束されています。加えて、ラグビーワールドカップ 2019 日本大会成功議員連盟の決議においても 8 万人規模の競技場とすることが必要であるとされています。また、新国立競技場は、今後、50 年、100 年使用することを想定しており、その間、世界陸上FIFA ワールドカップ(決勝会場は FIFA の規定により 8 万人規模)等の世界的な大規模イベントの会場となることも想定されています。


新国立競技場整備に関する日本スポーツ振興センターの考え方(案)」
http://www.jpnsport.go.jp/newstadium/Portals/0/yushikishakaigi/20140122_yushikisha4_shiryo2.pdf (PDF)


参考:FIFA “Football Stadiums: Technical recommendations and requirements"
http://www.fifa.com/mm/document/tournament/competition/football_stadiums_technical_recommendations_and_requirements_en_8211.pdf (PDF)


8万人という収容人員は、第一回近代オリンピックアテネ大会(1896年)に使用されたパナシナイコスタジアム(Παναθηναϊκό Στάδιο)に於いて既に「実現」されている。紀元前586年に建てられた(紀元前329年に大理石でリビルド)同スタジアムは、紀元140年には既に5万人収容になっており、19世紀の2回のリノベーションによって8万人収容となった(2004年のオリンピックアテネ大会を期に45,000人に縮小)。同スタジアムは、1968年には12万人(着席8万+立見4万)という観客動員数を「実現」している。


Google ストリートビューで見られるパナシナイコスタジアムである。


古代的なヘアピンカーブのトラックは、現在それに求められる仕様とは異なる為に、長辺方向から見るフィールドの奥行きは狭い。観客席も「古代」様式だ。この極めて狭くて硬い座面に両足を屈して長時間座り、中座の困難さからトイレに行く事も数時間我慢する事を観客全員が受け入れるのであれば、確かにこの規模で8万人収容のスタジアムは建つ。但し座席に HF&E(ヒューマンファクターズ&エルゴノミクス)を適用し、純粋な競技観戦以外のサービスを求めたりするのであれば、必然的にスタジアムが巨大なものになるのは避けられない。


いずれにしても、スタジアムの核となる形状は、二千数百年前の段階で既に完成してしまっている。それ以来、これまでに建てられた全てのスタジアムは、その意味で全く同じなのである。後はそのフォーマットの上に、新しげに見えるものをどう着せ替えて行くかだけが、そのスタジアムの「建築」的な特徴とされる。「建築」の側からそのフォーマットに口出し出来ないとされているスタジアム建築に於いて、それに抗わない建築家が出来る事は側(ガワ)の換装だけだ。



それは数千年前から存在するワゴンの設計と全く変わりの無い、古めかしいセパレート・フレームのフロント部分に、曳き馬の代替物である縦置エンジンを載せ、ドライブシャフト経由で後輪を駆動するという基本設計を疑う必要性を感じないままに、ボディデザインのバリエーションを増やし、年毎にそれを着せ替える事で商品的な魅力を振り撒く事に明け暮れていた1950年代の巨大なアメリカ車の様なものであろうか。スピード感を呼び起こす事で見る者の「心を打つ」テールフィン等の造形や、それだけを見れば新時代的にも見えるパワーウィンドウ等の装備が、100マイル/時に近い速度が極めて大衆的なものになってしまった社会のラディカルな構造変化への対応よりも優先される。



少なくとも二千数百年変わる事の無いスタジアムのフォーマットを共通のものにして、これまでに様々な着せ替えスキンを纏う巨大な「オリンピック・スタジアム」が建てられて来た。その中には「アーチ」が特徴的なこういうものもある。



ANZ Stadium(1999年=2000年シドニーオリンピック:507億円=以下日本円換算は竣工当時のレートに基づく。因みにオーストラリア・ニュージーランド銀行ネーミングライツ取得によって “ANZ" の名になっている)



南京奥林匹克体育中心体育场(2005年=2014南京ユースオリンピック:1,169億円)



Ολυμπιακό Στάδιο(2001-2004年に既存スタジアムに屋根を架装=2004年ギリシャオリンピック:リノベに355億円)


ANZ Stadium や南京奥林匹克体育中心体育场を手掛けた “(現)POPULOUS" は、Wembley Stadium (2007年:1,783億円)という地上高133メートルの高さの「アーチ」を持つスタジアム建設にも関わっている。スタジアムの「全長」方向に、目を引く「アーチ」の「造作」が渉っているというデザイン自体は、2010年代段階でそれ程新しいものではないとも言える。

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「いちばん」をつくろう。


日本を変えたい、と思う。新しい日本をつくりたい、と思う。
もう一度、上を向いて生きる国に。


そのために、シンボルが必要だ。
日本人みんなが誇りに思い、応援したくなるような。
世界中の人が一度は行ってみたいと願うような。
世界史に、その名を刻むような。
世界一新しい場所をつくろう。
それが、まったく新しく生まれ変わる国立競技場だ。


世界最高のパフォーマンス。世界最高のキャパシティ。世界最高のホスピタリティ。
そのスタジアムは、日本にある。
「いちばん」のスタジアムをゴールイメージにする。
だから、創り方も新しくなくてはならない。


私たちは、新しい国立競技場のデザイン・コンクールの実施を世界に向けて発表した。
そのプロセスには、市民誰もが参加できるようにしたい。
専門家と一緒に、ほんとに、みんなでつくりあげていく。
「建物」ではなく「コミュニケーション」。
そう。まるで、日本中を巻き込む「祝祭」のように。


この国に世界の中心をつくろう。スポーツと文化の力で。
そして、なにより、日本中のみんなの力で。
世界で「いちばん」のものをつくろう。


JAPAN SPORT COUNCIL「新国立競技場 国際デザイン・コンクール:コンクール概要」
http://www.jpnsport.go.jp/newstadium/Portals/0/NNSJ/NNSJ.html


果たしてどれだけの人間が、その興行を単独開催で自国に呼びたいかが定かではない(或いは明確に定かな招致の意志を持つ人間の数が定かではない)、FIFA ワールドカップ の開幕/決勝戦が要求するスペックであるところの8万人収容/常設/屋根付きのスタジアム。それはコア部分のみですら数十メートルの高さを持つ巨大さだ。あの二千年前に建てられたフラウィウス円形闘技場=コロッセウムですら地上高48メートルである(嘗ては有蓋だったので50数メートルの高さがあった。これに照明灯を付ければ70メートル近くにはなる)。



8万人が一つところに集まって熱狂するスポーツや音楽を求めるところに、巨大なスタジアムは必然的なマッスとして存在する。仮にザハ・ハディド・アーキテクツのデザイン案を捨てて、例えば「良心」的な槇文彦氏案を採ったとしても、それが「オリンピック・スタジアム」である限り巨大になる事は免れない。しかし多くの議論の落とし所は、巨大なアーチは不必要だが、巨大なスタジアムと巨大なスポーツイベントは必要であるというところに落ち着いている様だ。


世界最大級のスタジアム(15万人収容)の一つが、「アリラン祭」(マスゲームイベント)が行われる朝鮮民主主義人民共和国綾羅島メーデー・スタジアム(릉라도 5월1일경기장)であるというところに表れている様に、スタジアムという建造物を欲する欲望は、多かれ少なかれ政治意志に関係するのである。




ザハ・ハディド・アーキテクツが、あのデザインでしたかった事は何なのか。その一つの解答ではないかと思われるものを、例の露出の多い「空撮」状態のパース画ではなく、グランド・レベル近くに視点を取った一次審査時のプレゼンテーションに見た。



折り重なる何層もの人工地盤(プレート)。その奥に巨大なスタジアムが嵌っている。即ちこれは、「建築」であるというより、寧ろこういうものではないのか。



インターチェンジ(道)」の中央に、8万人収容のスタジアム(“Bowl structure")を嵌める事で、それを「高架下の運動場」にしてしまう。これは「建築」では無い。首都高速4号新宿線出口が繋がり、外苑周回路が繋がり、コンペ的には逸脱である慶応義塾大学医学部前の道がJR線を跨いで繋がり、それらから続く「道」がスタジアムのコア部分をぐるりと取り囲む。張り巡らされた脱出線で曖昧にされたスタジアム。スタジアムという巨大なマッスは、「建築」とは別の体系である「道」が張り巡らされる事で、「道」の間に「埋没」する。「道」はスタジアムを「梱包」する。所謂「キールアーチ」を含む「屋根」部分のトラス状の「造作」(それが「構造」として機能的なものであるかどうかはここでは問わない)もまた「道」を表しているものと見る事も可能だ。


であれば、これはハイウェイの如き「道」によってスタジアムを「埋葬」したものだとも言えるかもしれない。これは巨大な「円墳」なのである。ザハ・ハディド・アーキテクツの「円墳」のデザイン原案が巨大になるのは、単純にボディ(死体の意味もある)が巨大だからだ。



実際一次審査時のパース図からそれらの「道」の要素を取り去ったデザインを想像すれば、それは或る意味で平凡な巨大「建築」になる。磯崎新氏が、日建設計・梓設計・日本設計・アラップ設計共同体(JV)による修正案に対して「列島の水没を待つ亀のような鈍重な姿」と評していたが、それは「道」であったものを「建築」であると解釈してしまった事で生まれた多重的な意味での「鈍重」さだろう。


「21世紀の都市的施設として、運動競技のスピード感を呼び起こす、優れたイメージ(磯崎新氏)」的なものとして「円墳」の造形が見えるのは、「脱構築」という「騙し」のテクニックによる。支配的なドグマに戦略上乗る「脱構築」による「騙し」である為に、当然その「騙し」にまんまと引っ掛かる人達が多くいる。


スポーツやイベントが必要、そこに8万人の人間が集まって見られる施設が必要、そこには屋根が必要、芝生には日照が必要、イベントには遮音が必要、アメニティ施設が必要、加えて見た目のオリジナリティも必要、…と求められる「必要」を次々とインテグレートして構築して行けば、それは1950年代のアメリカ車の様に巨大にしかならないという誰でも判る結果を示しているのが、ザハ・ハディド・アーキテクツという形で現れた「脱構築」なのである。積もり積もった「必要」が「不必要」であると考えるのなら、「必要」を「新国立競技場」から一つ一つ取り除いて行くのは「建築家」の仕事ではない。それは本来の「施主」が考える事である。


仮に巨大に見えない、当初の予算内で収まる「良心」的なデザイン案が通っていたら、日本人の「施主」の誰もこれ程までには「必要」に対してラディカルに考えもしなかっただろう事を思うと、それだけでもザハ・ハディド・アーキテクツ案の意味はあったのではないか。それは都市計画に対してイニシアティブ(市民発議)とレファレンダム(市民投票)が条件になる社会への高い(高過ぎる)授業料なのかもしれない。それは痛い目に遭わないと判らないという「教育」の方法論の一つではあるが、しかし痛い目に遭ってもそれでも判らないという事もあるかもしれない。


現状で考えられる最もラディカルな「必要」の取り除きの一つは、オリンピック返上という事になるだろう。それに対しては「日本の信用性を失わせる」という意見がある。しかし既に現時点までに、相当に多くの「日本の信用性」は失われているのである。

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新国立競技場」の建設費は2,520億円との事だ。但し建設費の半分以上は人件費になるだろう。従ってやり方によっては「新国立競技場」は1,000億円以下で現状の計画のままで建つ。朝の7時半位からラジオ体操をし、「ヘルメット良し! 顎紐良し! 服装良し! 安全靴良し! 安全帯良し! 顔色良し! 今日も一日安全作業で頑張ろう! オーッ!」と指差し確認する人達を、明治神宮外苑造成時の様に「勤労奉仕(追記注)」させれば良いのだ。


しかし「勤労奉仕」程ではなくても、工程を圧縮したりする事で人件費の削減は行われるかもしれない。建設現場に於ける無用な緊張というのはこういう時に現れる。そしてややもすると、そうした緊張時に労働災害というのは起きる。こういうところについては「今日も一日御安全に!」を祈念して止まない。御安全が十分に確保されないのであれば、ずれ込んだ工期(全く以て現場関係者の責任ではない)に間に合わなくても一向に構わないとすら思える。その時には森喜朗氏程には大多数の日本人が注目する事も無いだろう(まさかその時にも渋谷のスクランブル交差点は大騒ぎになる/させるのだろうか)2019年のラグビーワールドカップは、秩父宮ラグビー場辺りで行えば良い。そうなれば、新国立競技場の建設現場は相対的ではあるものの非常に助かる。


新国立競技場」に関する意見の中には、他のスタジアムの建設費と単純に比較してものをいうものが多かったりするが、それはそれぞれの国の労働賃金のレートや労働環境を無視してのものであったりもする。「建築」を誰が建てるのかについて、「大工さん」と答える子供の様な想像力が、大人の議論には常に決定的に欠けているのである。


(追記注:7月17日)「日本の総力を挙げて、ゼネコンも思い切って、『日本の国のためだ』と言ってもらわないと。それが日本のゼネコンのプライドなんではないかなと思ったりするんですね。だから、ゼネコンの人たちも、もうからなくても、『日本の国のために、日本の誇りのために頑張る』と言っていただけたら、やっていただけたら、値段もうまくいくのではないかなと思います(安藤忠雄氏)」
http://www.sankei.com/life/news/150716/lif1507160028-n2.html

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メタボリズムは日本の「成長」を前提にした運動だった。だからこそ人口増加、都市の膨張と更新の高度経済成長時代の日本でそれは生まれた。20代〜30代前半の若者達が音頭を取ったメタボリズムは、様々な条件が重なる事で若い細胞ばかりを見ていられる環境にあった。メタボリズムの時代、65歳以上は例外的存在だった。しかしこれからは、日本全体の総床は減らざるを得ない。


「衰弱」の「建築」という考えが頭を過る。「衰弱」を肯定的なものに見せる「建築」。そしてその「衰弱」の中にあって尚「成長」に目を配る「建築」。「建築家」にとって、それは単純なヒロイズムを満足させないだろう。20世紀の「建築家」の20世紀の青春を描いた映画からは、やはりそれは形となって見えては来なかった。

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これを書く為に Google Earth を何度も起動した。オープニング画面の地球から、それぞれの「建築」が存在している場所へズームインする。その「点」へのフォーカスが上手く行けば良いが、大抵は「建築」が全く存在しないところへ行ってしまうのであった。

バーネット・ニューマン 十字架の道行き


[...] if you are involved in the world. you cannot be an artist. We are in the process of making the world, to a certain extent, in our own image.


... もしこの世界に巻き込まれているのなら、あなたは芸術家である事は出来ません。私達は、自分自身のイメージを以って――ある程度までは――世界を作り上げて行くプロセスの中にいるのです。(拙訳)


Barnett Newman "Remarks at Artists' Sessions at Studio 35"(1950)


MIHO MUSEUM の2015年春季(3/14〜6/7)。「バーネット・ニューマン 十字架の道行き」展をメインの目的にした、2015年一回目の MIHO MUSEUM には車を運転して行った。しかしその道行きは 、JR 石山駅から帝産バスに乗って行った方が良かったのではないかとすぐさま後悔した。


車の運転は運転行為そのものに集中しなければならない。名神高速道路や国道1号線側から MIHO MUSEUM に行く場合、特に県道16号線や県道12号線には車を運転する者にとっては意地悪く現れる幅員減少の箇所が複数あり、ブラインドコーナーから現れる対向車の存在に常に神経を尖らせられる。こうした運転の為だけに費やされる精神的緊張は、この県道に慣れている帝産バスの人に往復1,640円也で任せるべきだと痛感した。それ故に「曾我蕭白 富士三保図屏風と日本美術の愉悦」/「常設展示」をメインの目的にした二回目は帝産バスに載せられて行く身になった。


道行けば次第にモバイル端末の電波は弱くなり、やがてその板状の物体は実用的なものではなくなる。電波の届く場所での板の中で人が演じているもの、板の中で人が信じている未来は、ここではすっかり背中の側に追き去りにされる。商業的なものがバスの窓外の景色から次第に退場して行き、地球上の殆どの面積を占める商業が入り込めない場所と同じになる。ここから先に貨幣が有用なものとなるのは、MIHO MUSEUM の敷地内及び帝産バスの運賃箱に於いてしか無いのだろう。帝産バスに乗る事。これは片道50分を掛けて入って行く、何かへの長大なエントランスなのである。


帝産バスの中では「暇」そのものにひたすら浸かる。映画チケットとほぼ同額の1,640円は、「暇」になる為に払うものでもある。ローコストな無線ネット環境(2000年代)が地球上に普及して「関係」の依存症が増える前、ローコストなポータブル・オーディオ・プレーヤー(例:SONY TPS-L2:1979年)が地球上に普及して「音楽」の依存症が増える前、またはローコストなポータブル・トランジスタ・ラジオ(例:SONY TR-63:1957年)が地球上に普及して「情報」の依存症が増える前は、世界はこうした「暇」ばかりだったという記憶が自分にはある。19世紀に突如出現した鉄道旅行者という新種の人類向けに、それまでは不動産に縛り付けられた存在だった書物に代わって、ローコストなポータブル書籍(例:19世紀の yellowbacks)が印刷技術の発展と共に地球上に普及して「文字」の依存症が増える前は、世界はもっと「暇」だったのだろう。


「暇」な時に人の頭に浮かぶのは、「自分はどこにいるのか」とか、「これ以上に説明のいらないものは何か」といったものばかりで、「暇」に浸っていた数十年前の自分もまたその様な「問い」で頭を一杯にして悶々としていたものだ。しかし「暇」の駆逐を良しとする世界では、そうした悶々を電波が通じた板を通して軽々にもサーバにアップロードすれば、世界中の「暇」を持て余した人々がそれを「質問」であると勝手に思い込んで、自身で導き出した訳でもない出来合いの「正解」を親切に教えてくれる。


時にはそうした「正解」が、今日の芸術家の制作を効率的なものとするかもしれない。確かに Wikipedia に載っている様な「正解」を素材の一つにする事で制作が効率的になれば、芸術家は多くの作品を生産出来る。しかしそうした効率化され得ない悶々こそが、「圧倒する問い(overwherlming question)」である「答えを持たない問い(question that has no answer)」としての「起源の問い(the original question)」(バーネット・ニューマン)なのである。そしてこれから向かう山中の「Shangri-La」に2015年時点で保管されている数千年分のものこそは、そうした「圧倒する答えを持たない起源の問い」によって生まれたものばかりなのだ。

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「十字架の道行き(“The Stations of the Cross")」の「連作」が描かれたのは、バーネット・ニューマンがニューヨーク・マンハッタン島のイーストリバーから、フランクリン・D・ルーズベルトイースト・リバー・ドライブ(1955〜)/サウス・ストリートを隔てた、フロント・ストリートとウォール・ストリートが交差する “100 Front Street" にスタジオを構えていた時代(1952〜1968年)に当たる。それ以前のニューマンのスタジオは、リンク先ストリートビューで奥に見える交差点を右に曲がってすぐの “110 Wall street" にあった。



1950年代から1960年代に掛けてのニューヨーク・マンハッタン島と言えば、当時のパリやロンドンや東京などとは比べ物にならない「世界の中心」だった。そのニューヨーク・マンハッタン島でバーネット・ニューマンは生まれ、彼の居住環境と制作環境は、常にその島内の西に東に南にと留まっていた。この「世界の中心」の外に出る必要性を、彼は終生感じた事は無かったのだろう。バーネット・ニューマン財団のクロノロジーを辿る事で強く印象付けられるのは、彼が紛れも無く「現代」の「都市」の人という事である。恐らくマンハッタン島よりも制作環境としては恵まれたスペースを得易いだろうロング・アイランド(Jackson Pollock & Lee Krasner の様に)ですら、彼は居住/制作出来る人では無いのだ。彼の言う「アメリカ」は、東京都世田谷区(58.05 km²)とほぼ同じ面積の――21世紀の現在ならば何処へ行っても板が有用なものになる電波が通じる――僅か58.8 km²ばかりの島と同義なのである。


I feel that I'm an American painter in the sense that this is where I love to live, was born, and this is where I've developed my ideas, and so on. At the same time, I hope that my work transcends the issue of being an American. I recognize that I am an American, because I am not Czechoslovak, and my work was not painted in Czechoslovakia or in Hungary or in India. But I hope that my work can be seen and understood on a universal basis.


ここが私が住むところとして愛している場所、生まれた場所、そしてここが私が自分の考えを発展させて来た場所である等々といった意味に於いては、私は自分自身をアメリカの画家であると感じています。しかし同時に、私は私の作品が一人のアメリカ人による所産であるという難点を乗り越える事を望んでいます。私はチェコスロバキア人では無いという理由で自分を一人のアメリカ人だと認識していますし、私の作品はチェコスロバキアハンガリーやインドで描かれたものでもありません。しかし私は、私の作品が普遍的な基盤の上で見られ理解され得る事を願っているのです。(拙訳)


Barnett Newman: “Interview with Emile de Andonio"(1970)

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「『都市』ではないところ」で「活動」する「現代美術」家が往々にして陥りがちなのは、「現代美術」が「『都市』ではないところ」で自足的に成立可能なのではないかという撞着的な認識だ。しかし悲しい事に「『現代』の『美術』」としての「現代美術」というものは、どこをどう引っ繰り返してみても近代以降の「都市」文明の産物であるが故に、常に「都市」に従属/依存するものなのである。


現実に即して言えば「現代美術」を志す者は、必ず近代的な「都市」そのものか「都市」化された場所にそれを学びに行かなければならない。そして「現代」の「都市」の思考法を身に付けてそれぞれの場所に戻り/赴き、「現代」の「都市」の思考を「普遍」と言い換えてその土地土地で「宣教」するのである。「『都市』ではないところ」で行われる「現代美術」は、常に「現代」の「都市」との距離感で自らの位置を定め、且つ「現代」の「都市」に対して「宣教」の者たる自分達の存在を痛々しい程にインフォメーションする。


単なる時間的な現在性ではなく「現代」が語られる時、人は「世界の中心」という仮構をその認識の軸に常に据えている。語られている多くの「現代」から一切の「世界の中心」という観念を抜いたら、後には一体何が残るだろうか。帝産バスの窓外に展開する風景そのものからは、所謂「現代」は構築し得えず、それでもそこに無理矢理「現代」を見ようとすれば、それは必ず「世界の中心」から導き出される相対的なものとしてしか認識されない。


従って仮構としての「世界の中心」が存在しない事には、近代「都市」文明の産物である「『現代』の『美術』」としての「現代美術」も成立しない。そして仮構上ですら「世界の中心」が成立し難くなって行くに従って「現代」を語る事は困難になり、であればこそその様な意味での「現代美術」の成立も厳しいものになって行く。「現代美術」の入門書に載っている様な「現代美術」の時代は、「現代」という措定が可能だと思われていた「古き良き時代」だったのである。


「現代」という魔法の言葉が「誰得」であるかと言えば、それは一も二も無く「世界の中心」にとってのものでしか無い。今更ながらに「現代」という言葉を使える者は、多かれ少なかれ「世界の中心」の延命の為にそれを口にする。「地域アート」と呼ばれる企図の多くが何よりも最初に行うのは、あらゆる手を使って、地域に対して「現代」という仮構を受け入れさせそれに従わせる事だ。「現代」に乗り遅れるなと脅しつつ。


「現代」に於ける「問い」は、数千年前から存在し続けている様なもの(多くは「解決済み」とされている)であってはならず、常に「新奇」なものでなければならない。

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脱線が長くなった。今回の MIHO MUSEUM での「春季特別展 バーネット・ニューマン 十字架の道行き」の展示は、或る意味で非常に野心的なものにも見える。それは「現代」という言葉がすっかり枯れ切ってしまったこの時代に、事もあろうに「現代美術」の入門書で取り上げられる様な「現代美術」作家の作品を、「世界の古代美術」が展示されている常設棟の一角(「南館」地下一階。通常は「中国・ペルシャ」の古代美術のエリアの一室)で展示したというところにある。



常設棟・地下一階のミュージアムショップの向かい側の、135度の角度で折り曲げられた三面の壁には、「十字架の道行き」連作の「第一留」のジップ部分が大きくプリントされ、そこには “Barnett Newman/ THE STATIONS OF THE CROSS/ lema sabachthani" (“/" は改行を表す)と書かれている。「第一留」のロウ・キャンバス部分を表してもいるだろう中央の白い壁に、展示室へと向かう入口が開口していて、その入口奥の黒い仮設壁には、バーネット・ニューマンの天地一杯のポートレートがそこに入ろうとする者を見つめている。この設えから言って、この入口を入れば「現代美術」の「バーネット・ニューマン」しか展示されていないだろうと、特に「十字架の道行き」目当てにこの「桃源郷」まで赴いて来た観客は思う事だろう。




バーネット・ニューマンのポートレートが掲げられた黒い仮設壁の右側は、確かに20世紀に描かれた「十字架の道行き」の展示室になっている。しかしその左側はと言えば「イラン文化の東漸 唐の国際文化 イスラムに受け継がれたもの」とそれに続く「東西の楽園」の展示室になっていて、概ね5世紀〜13世紀の「現代」でもなければ「美術」でもないもの(遡行的に「美術」にも見えてしまうもの)がそこには展示されている。簡単に言えば、バーネット・ニューマンのポートレートを挟んで、右ウィングがバーネット・ニューマンによる20世紀アメリカ美術、左ウィングがアノニマスな古代東洋「美術」という会場構成だ。人によっては、それが乱暴な会場構成に見えるかもしれない。


「十字架の道行き」の14枚+1枚だけで構成される、ワシントン・ナショナル・ギャラリーを彷彿とさせる円環的構成の企画展という側面と、美術館建物の構造上の問題(南館の「南アジア」の部屋では狭く、「エジプト」の部屋や「西アジア」の部屋では、奥の小スペースがデッドになってしまう。企画展専用の北館にはそもそも円環状の「十字架の道行き」を独立した展覧会として見せられる場所が無い)という実務上の問題もあっての展示室の決定であり、且つ常設展との入口の共通化という結果になったと想像されたりもするのだが、いずれにしてもそれは結果的にバーネット・ニューマンから「現代」及び「美術」を一旦棚上げさせる事に繋がっている。即ち “I hope that my work can be seen and understood on a universal basis(私は、私の作品が普遍的な基盤の上で見られ理解され得る事を願っているのです)" という作者の言葉に対し、冷徹にも数千年の厚みを持つ「普遍的な基盤」の内に、20世紀「アメリカ」精神の所産を半ば力ずくで挿入する事で、他ならぬバーネット・ニューマンに後戻りの効かない「有言実行」性を持たせる形にしたのではないか。

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「バーネット・ニューマン 十字架の道行き」展を常設棟にして、企画棟では「曾我蕭白 富士三保図屏風と日本美術の愉悦」展が行われていた。極めて良さのあるものだ。個人的には「金銅舎利容器(13世紀)」や「石棺(年代不詳)」等は、バーネット・ニューマンよりも「泣けた」。


同展会場入口には当館の辻惟雄館長の挨拶文が掲げてある。一読して、この文章は展覧会のみならず、他ならぬこの MIHO MUSEUM とそのバックグラウンドについて書かれたものである事が判る。不思議な事に「曾我蕭白 富士三保図屏風と日本美術の愉悦」展の挨拶文であるにも拘らず、そこには「バーネット・ニューマン 十字架の道行き」展にも多くが割かれている。


曾我蕭白 富士三保図屏風と日本美術の愉悦」展・展示室内の作品解説文は、その多くが当館の学芸員によって書かれているものだが、これもまた MIHO MUSEUM とそのバックグラウンドについて書かれたものとも言えるだろう。そればかりか、何処かで「十字架の道行き」に繋がりそうに思える記述も幾つか見られる。


館内を歩き疲れたので、ミュージアムショップ横のソファに座り、「十字架の道行き」のカタログを眺めていたら、巻末付近にこの様な記述があった。


バーネット・ニューマン テクスト抄の編集について
この項では、バーネット・ニューマンの文章を下記の方針によって抄出した。バーネット・ニューマンとその作品をより深く理解するための手がかりになると考えられるもの、さらに、本展がMIHO MUSEUMで開催されるにあたり、その展示環境が生み出す新しい成果を期待し、同館の精神性と呼応するものを取り上げた。


高橋夕美恵(MIHO MUSEUM学芸員)編集
三松幸雄(明治大学多摩美術大学 兼任講師)編訳


「同館の精神性と呼応するもの」。やはりこれは、川村記念美術館にあった「アンナの光」以上に、バーネット・ニューマンから「現代」と「美術」を超脱させる事を意図した展覧会だったのだ。或る意味で、ロケーションを含む MIHO MUSEUM 全館、全コレクション、そして別の企画展すら総動員してそれは行われているとも言える。


この展覧会が、例えば六本木ヒルズの「森美術館」で行われていたら、それは全く違ったものに見えたのかもしれない。そこでの「十字架の道行き」は、「起源の問い」や「普遍的な基盤」に隣り合わされて脅かされる事無く、「現代」と「美術」に手厚く守られたものになるだろう。それによって、「森美術館」の観客は「現代」の「美術」に「描かれているもの」に対して集中出来る事で、それに関するお喋りを始めるに違いない。


MIHO MUSEUM に於いて初めての「現代美術」の展覧会である「バーネット・ニューマン 十字架の道行き」。しかし「現代美術」作品が MIHO MUSEUM で展示されるには、或る意味で作品が「資格」を備えていなければならない。それは例えば「現代に生きる琳派」的なものでは到底追い付かないものだ。恐らくは MIHO MUSEUM に於いては、多かれ少なかれ「現代美術」作品は、「現代」と「美術」を脱がされる事になる。そうした意味での「裸」に一定以上の「自信」が無いと、とてもでは無いが「持たない」所なのだ。

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帝産バスで山を降りて行くと、やがて電波を得た板の中に「現代」と「美術」が戻って来た。そしてそれは、すぐさま別の「現代」と「美術」に上書きされた。

高松次郎 制作の軌跡

国立国際美術館(大阪)の「高松次郎 制作の軌跡」展(2015年4月7日〜7月5日:以下「制作の軌跡」展)の評判が良い。


http://www.nmao.go.jp/exhibition/index.html (時限URL)


少なくとも「現代美術」に多少なりとも関わっている人間、或いは「現代美術」に多少なりとも造詣が深いという自意識を持つ人間、そして何よりも「展覧会」を見たい人間(以下「クラスタ」)の間ではそういう声が多い。確かに同展は「『良い』展覧会」には違いない。しかしその多くは、東京国立近代美術館(東京:以下「東近美」)で行われていた「高松次郎ミステリーズ」展(2014年12月2日〜2015年3月1日:以下「ミステリーズ」展)に対比させる形で「良い」としている印象も無いでは無い。それら「クラスタ」による「ミステリーズ」展に対する反発の大きなものの一つになっていると思われるのは、「影ラボ」や「高松の脳内世界を一望する『ステージ』」を含む会場構成にもあるのだろう。


東京国立近代美術館で開催された高松次郎(1936-1998)の回顧展「高松次郎ミステリーズ」の会場構成。


この展覧会では、3人のキュレーター(桝田倫広・蔵屋美香・保坂健二朗)がそれぞれ初期・中期・後期の3章を分担した。各章ごとにスタイルの異なる作品群を、関連性を追って丁寧に見せながらも、全体としてはひとつの大きな広場を散策するような、おおらかな展示空間が求められた。


展覧会の導入部となる、「影ラボ」と名付けた細長い展示空間は、体験型のインスタレーションの場とした。異なる光源で影が二重に見えたり、回転する椅子の影が投影されたりと、4つのテーマで高松の中期の作品のポイントを体感的に知ることができる。


影ラボを抜けるとメインとなる展示室にたどり着く。もともとこの展示室には、断面形状の異なる6本の柱が林立している。そこで、この6本の柱を、構造体としての存在を消しつつも、展示空間全体の風景を構成するヴォリュームとして扱えないかと考えた。近接する柱と同じ断面形状の疑似柱5本と展示什器を新たにつくり、既存柱の存在を紛らわせる計画とした。大小の白いヴォリュームが点在することで、次の展示エリアが見え隠れし、一体の展示空間の中に適度な分節を与えている。


3章の最後には、展示室の中央にある大きなステージにたどり着く。1章のエリアから視界に入っていた中央の白いヴォリューム内部は、高松のアトリエを偲ばせる木質系の表情があらわになっている。中央のステージからはこれまで見てきた作品群を俯瞰することができ、腰壁に配された高松の言説とともに、これまでバラバラに見えていた作品間の関連性に気づかされる。ステージ上は休憩のためのスペースで、晩年のスケッチから再現した形のクッションに腰を下ろして図録を読むことができる。このステージの大きさは、ちょうど高松が制作活動を行っていたアトリエと同等の大きさで出来ており、高松の制作の空間を象徴的に重ね合わせている。


約200点に及ぶ作品群を通じて高松の思考を追体験しながら、その背後にある関連性を読み解いていくようなミステリーを空間で演出したいと考えた。


株式会社トラフ建築設計事務所
http://torafu.com/works/takamatsujiro


本来ならキュレーションの一部である筈の「展覧会」の会場構成は、「ミステリーズ」展に於いては株式会社トラフ建築設計事務所への丸投げ(「トラフさんの自由にやって下さい」)だったのだろうかと疑わせる文章である。実際にそうではないのなら、同展のキュレーターはこの文章に対して「誤解を生む表現」として抗議をするべきかもしれない。この文章では、キュレーターが会場構成に於いて何も仕事をしていない様に読めてしまうからだ。


仮に、同社の公式サイトで自社の「WORKS」(=作品)として公開/宣伝されている同展の会場構成が、同社とキュレーターの間の議論の積み重ねに依らない、或いは同社の主導によるもの(同社の作品)であったとすれば、現れとしての「ミステリーズ」展は、「高松次郎」の展覧会として見るべきものではなく、「高松次郎」を使った株式会社トラフ建築設計事務所のプレゼンテーションの場と捉えるべきなのだろうか。それならそれでそうであると明示して(例えば「TORAFU ARCHITECTS MEETS JIRO TAKAMATSU」等と)くれれば、「ミステリーズ」展を「『高松次郎』の『展覧会』」であると思ってしまう多くの過ちを防げる。従ってこれもまた仮定の話として、「高松次郎」の仕事を見せる事よりも、同社の仕事を同社の作品(「WORKS」)として見せる事の比重が大きかったのであれば、確かにそれを「展覧会」の為の施設で行う必然性は皆無と言える。その様なものとしての「ミステリーズ」展に大阪巡回があるとすれば、それはインテックス大阪(例)で良いだろう。


“god's eye view" から「俯瞰」をすれば「バラバラに見えていた作品間の関連性」は見えるかもしれない。しかしそれは一方で「地上」で起きている事を矮小化してしまう危険性がある。「ミステリーズ」展の「ステージ」は、「高松次郎」を「猿山」に落とし込むという荒業である。それによってその「行動」を「動物園の観客」同様「俯瞰」的な形で「理解」可能なものとした。「影ラボ」の様な行動体験(どうぶつになってみよう)型の展示という周到の軽率/軽率の周到もある。こうして「ミステリーズ」展という名の動物園展示は、「俯瞰」による「理解」と引き換えに、「高松次郎」を「ミステリー」譚として外在化し、「消費」の対象とする事に「成功」した。しかしそれも仕方の無い事ではある。“god's eye view" に取り囲まれる建築模型による検討が設計の核となる様な発想は、しばしば「人間」を「動物」的な関数として扱うものだからだ。


「ひとりの芸術家の営みが円環的になっている(“the work of a single artist forms a circle" 保坂健二朗氏)」という一つの解が導かれたとしても、それをあそこまでリテラルな形で実線化し、或いはリテラルに俯瞰可能なものとして示してしまうのは、「小さな親切大きなお世話(white elephant)」でしかない。それは「イメージ (image)」の鎖に繋がれたスペクタクル消費としての「絵画」の発想であり、例えば「真っ直ぐな性格」を直線定規を使って描画してしまう少年漫画と同質のコメディと言える。

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「制作の軌跡」展は――結果的にではあるだろうが――それ自体が「高松次郎」作品の「平面上の空間」(以下「高松作品『平面上の空間』」)の構造を体現している様にも思える。


取り敢えず「高松作品『平面上の空間』」の「正面」からの見た目に基づく形で、その「平面」を直交座標系のそれと仮定するならば、同展には地下3階会場入口付近に架けられた1960年の「不安な英雄」という点(X0,X0)から、地下2階の1997年の「一人の男の三つの影」という点(Xn,Yn)で構成される「高松次郎」と呼ばれる限定的な「平面」上に、複数の弧線や直線=制作の軌跡が引かれていると見る事も可能ではある。そして「高松作品『平面上の空間』」の線=軌跡が時系列的な「順序」で(も)追って行ける事が可能であるのと同様、「制作の軌跡」展では「1) 1960-1963 点」「2) 1964-1966 影」「3) 1967-1968 遠近法」「4) 1969-1971 単体」「5) 1972-1973 単体から複合体へ」「6) 1974-1977 複合体と平面上の空間」「7) 1977-1982 平面上の空間, 空間, 柱と空間」「8) 1983-1997 形」という8本の弧線や直線=制作の軌跡が、時系列的な「順序」で追って行ける様に――地下3階から見始める様にと捥り嬢から指示される事もあって(それを無視して「遡行」的に見たとしても良いのだが)――ドローされている。


一人の作家をクロノロジカルに扱おうとする場合、それは(X0,Y0)と(Xn,Yn)を結ぶ一本線的なものとしてイメージされもする。だからこそ起点と終点を繋ぎ合わせて「リング」にしたり、或いは少しだけひねくれる事で「メビウスの輪」にする事が可能になると思われてもしまう訳だが、実際には芸術家の制作の軌跡/人生に限らず人の一生というものは、線=軌跡が様々なパターン(直線/弧線)を描いて行きつ戻りつ、時にはそれが軌跡の最中で互いに「交差」する事もある奥行きを持った座標系=「平面」とは考えられないだろうか。


「高松作品『平面上の空間』」の「交差」が恐らくそうである様に、「交差」は「接触」によって生じているものでは無い。それらは「コンステレーション(constellation)」として、互いに何万光年の距離を保ちながら、或る視点から見れば見た目上「交差」している――立体交差(multilevel crossing)の様に――ものである。そしてその「交差」では、時系列的――それはしばしば「作品展開」という形で解釈される――に考えれば、解釈し難い事態がしばしば起きる事が、この「制作の軌跡」というリテラルな時系列に愚直な「展覧会」は、例えば「『形』の時代」に「影」――それは「高松次郎」の「作品展開」を見せようとする展覧会では寧ろ隠されるものかもしれない――という「交差」を愚直に挟んでしまう事で示されている。


「制作の軌跡」展は「地上」で起きている事を「地上」の法則に則って見せている。「天上」の法則に観客を連れ去る事をしないし、「高松次郎」の「脳内世界」にあったとされる「天上」の法則を「俯瞰」させるという奇術も行わない。「制作の軌跡」展では観客は「地上」を歩くしか無い。世界の謎を解き明かすかの様に示される「聖なる言葉」もここには存在しない。「天上」は「地上」の「高松次郎」と同じ位置から見なければならない。

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それにしても「高松次郎」の「展覧会」を見るとはどういう事なのだろうか。物故してしまった「高松次郎」という一人の芸術家を良く理解する為にという事は当然あり得る。「高松次郎」が思弁したものが、実際の作品にどの様に「反映」されているのかの検証を行うという「謎解き」の愉悦もあるかもしれない。しかしその「高松次郎」とは一体何だろうか。換言すれば、「高松次郎」はそれを見る者の前に、どの様なものとして現れるものなのだろうか。


「制作の軌跡」展で個人的に最も感じ入ったものの一つは、地下2階のホールにインストールされた「複合体」(1972年8月)だった。「高松塾」時代のものであり、またその活動の一環にこれはある。



耐火レンガ(JIS R 2101規格の並形――230 × 114 × 65 mmのもの)を2個使用した「作品」だ。仮に「ミステリーズ」展にこれが出品されていたら、実際にどの様に展示されたかは判らない。しかし大きな可能性としては、それは株式会社東京スタデオによって新たに作られた、丁寧な仕上げの白いパネル壁と白いパネル床の間に設置されたのではないかと想像出来る。その場合、「展覧会」の「出品作品リスト」の素材記述としては「レンガ」という事になり、併せて作品寸法も「34.4 × 11.4 × 6.5 cm」の様な形で記されるだろう(出品されていた同年の「複合体(椅子とレンガ)」の素材が「椅子、レンガ」とされ、且つ「70.0 × 56.0 × 62.0 cm」と記されている様に)。



或る意味でこの「作品」を出品するのは非常に「簡単」だ。耐火レンガが二つだけあれば良いのだ。敢えて言えば、それは1972年のオリジナルの耐火レンガでなくても良い。セッティングだって「容易」だ(「糊付け」位はするかもしれないが)。出品作品点数(注)が不足気味だった感もある「ミステリーズ」展がこれを出す決定をし、株式会社東京スタデオが一辺辺り三尺程度のパネル工作を行えば、確実に一点分のスペースは「楽々稼げた」かもしれない。しかし結果的にこの「作品」は「ミステリーズ」展には出なかった。


(注)「初期の〈点〉や〈紐〉、中期の〈影〉や〈単体〉〈複合体〉、そして後期の〈平面上の空間〉や〈形〉など、3つの時期の代表作45点に加え、151点の関連するドローイング」(「ミステリーズ」展)。一方「制作の軌跡」展は「絵画・立体作品・版画約90点、ドローイング約280点、書籍・雑誌・絵本約40点、そして記録写真約40点」である。


一方、この二つ煉瓦の「複合体」が出品された「制作の軌跡」展では、その「出品作品リスト」の作品素材の記述は「引き戸、煉瓦、床」である。作品寸法は記されていない。何故に「煉瓦」だけでは無いのかと言うと、高松次郎旧邸から実際のアトリエの「引き戸」と「床」が、国立国際美術館に(引き剥がされて)「移築」され、そこにあの1972年の写真と同様に「引き戸」と「床」の間で、この「複合体」が形成されているからである。


ここでは「引き戸」と「床」は、「煉瓦」と同程度に「複合体」に不可欠な要素として認識されている。言わばそれは、現象的にはパルテノンのペディメント(pediment)に施された「彫刻」を、エンタブラチュア(entablature)、コロネード(colonnade)、スタイロベート(stylobate)ごと持って来る様なものであり、「彫刻」はそうした全体系の中のものとして存在しているとする様なものだ。確かにそれでは作品寸法を表記出来る訳が無い。コロネード(colonnade:独 Säulengänge) は、カントがパレルガ(parerga=parergon の複数形)の例としてリストアップしているものの一つだが、いずれにしてもパレルガとは「作用」であり、従ってそれは計量に馴染まない。


一方、想像される白パネル壁と白パネル床の間にインストールされた「複合体」は、大英博物館(British Museum)中のエルギン・マーブル(Elgin Marbles)の様なものになるのだろうか。サイズという形で境界画定される「彫刻」として完結した「複合体」は、トマス・ブルース(第7代エルギン伯爵)がイギリスに持って来たのと「同じ」ものになるのかもしれない。


しかしそういった事もまた、自分にとってはどうでも良い。寧ろこの「複合体」の展示で重要な気がするのは、その「気安さ」にある。つまりこの「複合体」を自分の家でやってみようと思えば、誰でも出来そうに観客が思わせられるところにそれはある。壁面と床面は世界中に幾らでもある。住居空間に耐火レンガでは些か非日常感が勝ち過ぎて大仰になるだろうから、ティッシュの空き箱や厚めの本が丁度良いだろう。或いは「積み木」が現役の家庭ではそれを使用するのも良いだろうし、引っ越しのダンボールが片付かない家庭ではそのダンボールを使うという手もある。


食卓の椅子の一本の足の下に厚めの本を挟んでみる。それは「高松次郎」の「複合体(椅子とレンガ)」と全く「同じ」ものだ。何も「違い」は無い(煉瓦と本の差異や、椅子の形の差異を無意味なまでに問題にしないのであれば)。しかもそれは展示の為にだけ存在しているものでは無いから、誰からも咎められる事無くその上に座る事すら出来てしまう。その上で座りながら椅子の上で身体をグラグラと動かしてみて、安定/不安定の間を行ったり来たりも出来る。実際1972年の「高松次郎」は「複合体(椅子とレンガ)」に座ってみたかもしれない。であれば、尚更「複合体(椅子とレンガ)」について多くを「知り」たい「観客」はそれをするべきである。



その上で、それをしてみた者がそれをした事で、「高松次郎」が「作品」に「思弁」的に「込めた」ものと周囲が判断したもの(しばしばそれは「教化」の形で観客の愚鈍化に利用される事もある)、或いは「高松次郎」自身の「主観」で意識されていたものとは全く別のものを、それに対して見られるかもしれない。敢えて言えば、「観客」はその様な形で「高松次郎」を「反復」的に「越え」なければならないし、実際に「高松次郎」を「越え」てしまう存在なのである。それが幼児であったとしても(或いは幼児であるからこそ「高松次郎」を軽々「越え」られるとも)。「高松次郎」は「ジャンピング・ボード」として有効なのであり、それ故にそれは一般的に「アーティスト」と呼び習わされている「反復」の原点(X0,Y0)なのである。


「高松次郎」の資質の現れは、その優れた仕事の多くが誰もが出来そうなところにある。「小ささ」もそうかもしれない。そしてこれは勿論「複合体」に限った話では無い。仮に国立国際美術館の「高松次郎」の前に何分間か居続けられ、且つそれから思惟を巡らす事の出来る者ならば、自分の家で起こっている「高松次郎」にも同様に接する事が可能な筈だ。「高松次郎」の「代表作」の一般的な了解が「影」シリーズであるにしても、その投影像の「消失点」であるところのものは常に「小さい」。だからこそ「影ラボ」は、東京国立近代美術館の様な展示の為の空間を必要とはしない。そうした非日常的な空間とは別の場所で、「影ラボ」は何気に行われれば良いし、寧ろそこでこそ行われるべきである。「高松次郎ならぬ者」が「観客」である事を離れた場所で「影」を見る。「高松次郎ならぬ者」が愚鈍化を免れていれば、そこに衒学好きの「高松次郎」という「主観」が、「影」と関連付けたものとは異なる(ピッタリとは重ならない)何かを見られる。


「大作」を作るのは「アーティスト」の領分だ。二つ煉瓦の「複合体」や「複合体(椅子とレンガ)」と、東京画廊の個展(1976年11月)やドクメンタ6(1977年7月)に於ける鉄製の「複合体」は、その意味で不連続なものだ。「ミステリーズ」展のカタログで、保坂健二朗氏が「ドローイング(works on paper)」と「絵画(oil on canvas)」の間に引いた分割線(p.225)も、それに繋がる様な気がする。


「アーティスト」としての「高松次郎」の「代表作」には、美術に於ける価値評価の伝統的な形式に則り「大作」が据えられている。「影」の「大作」、「遠近法」の「大作」、「単体」の「大作」、「複合体」の「大作」、「平面上の空間」の「大作」、或いは「形」の「大作」…。しかしこの「制作の軌跡」展を見ても、或いは「ミステリーズ」展を会場の「雑音」を掻き消して注意深く見てみても、「大作」になる以前にその殆どは「完結」してしまっていて、「大作」はそれらの「書き出し(Export)」によって生まれている様にも思える。それらは、電話で会話をしながら傍らのメモ紙に描いた図像/図式を、恰もそのまま「大作」化したかの印象すらある。勿論「高松次郎」には「大作」を作るに十分な理由/事情があったに違いない。しかし敢えて「大作」を作らなくても良い者もいる。それは「アーティスト」ならぬ者だ。それは或る意味で「大作」を求められる「アーティスト」よりも自由な存在ではある。


「ミステリーズ」展でも「制作の軌跡」展でも、「高松次郎」の「アトリエ」はそれぞれ別の形を伴って現れていた。「高松次郎」=「アトリエの人」という事だろうか。その「高松次郎」の「アトリエ」は、「立体」作品も作る「アーティスト」の制作空間としては狭い。しかし「狭い空間」から生まれた「高松次郎」の「作品」と「高松次郎ならぬ者」が繋がる共有のトポスは、美術館ではなくこうした「狭い空間」に於いてである様な気がする。「作品」を外在的なものとして見せる(「観客」を発生させる)事に最適化された「広い空間」は、世界にはそれ程の数は無いが、「狭い空間」ならば、「地域性」の違いを越えて幾らでも存在する。


「広い空間」がそれ自体「暴力」の産物でもあるというのは、都市デザインを見ても判るだろう。「狭い空間」を次々と潰し、「広い空間」に東京を作り変えて行く前回の夏季オリンピック市川崑の「東京オリンピック」の冒頭シーンを思い出したい)のカウンターとして、あの「東京ミキサー計画」は確かに存在していた。そうした機運の中にあった「高松次郎」の時代は、「狭さ」や「小ささ」を、「広さ」や「大きさ」によって乗り越えようとする社会的な欲望が加速化した時代ではあった。「日本万国博覧会」の「遠近法の日曜広場」と、「人間と物質」展の「16の杉の単体」は「同じ年」(1970年)のものだ。その一見「背反」的にも見えるそれぞれを、「高松次郎ならぬ者」はどう捉えるべきだろうか。いずれにしても、「高松次郎」の「大作」は、その「機運」への反転として「広さ」や「大きさ」を、「狭さ」や「小ささ」で乗り越えようとしたものの様にも見えなくはない。


“Der liebe Gott steckt im Detail" (Aby Warburg)。それは一般に「神は細部に宿り給う」とも訳されるが、しかしそれは実際には「宿る」ではなく、「生起する/通り過ぎる」(passieren) なのではないかという気もする。「高松次郎は細部(小ささ/狭さ)に生起する/を通り過ぎる」。そしてその時にこそ、「高松次郎」は闇雲な神格化(例えば「ミステリー」の答えが収斂する実体的な点)からようやく開放され、晴れて「虚点」としての「不在」となるのである。

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「高松次郎」から約20年遅れで生まれ生きて来た人間からすれば、「高松次郎」は「『ハイレッド・センター』の人」という「伝説」上の存在であると同時に、「『平面上の空間』の人」という同時代を生きた存在でもあった。70年代後半から80年代に掛けての「高松次郎」は、自分とその周囲の同じ様な利害を有する者の多くにとって「無視して良い存在」として見えていた事を、ここで告白しなければならない。「高松次郎」は老いた(40代なのに!!)、駄目になった、才能を使い果たした、時代が見えていない、無意味になった……等々。


「高松次郎」がその生を閉じたのと同じ様な年齢で見る「制作の軌跡」展は、「高松次郎」に対して全く違ったものが見えた。それは「媒質」的なものとしての「高松次郎」だった。それでようやく「高松次郎」が自分の中で「反復」可能になったのである。

PARASOPHIA(「外伝」)

有朋自遠方来 不亦楽乎


下り新幹線に乗って、横浜から旧知の現代美術家(現代彫刻家と呼ぶべきか)が、「PARASOPHIA」を見る為に京都にやって来た。その気になれば東京の自分の制作場所で幾らでも会える人物であるが、京都で会ってみるという珍しい体験をしたくなり、待ち合わせをして「立ち話」をする事にした。


向こうも旅人である。旅人がタイトなスケジュールを組んで行動をしているところに「一緒に食事でも」となれば、確実に旅人のスケジュールは乱される。その「食事」が東京では絶対に食べられないものという訳でも無く、各店に於ける「偏差」の範囲内、或いは「偏差」すら無いものだったりすると、旅人に声を掛ける「一緒に食事でも」は犯罪的ですらある。向こうは「サブウェイ 三条烏丸店(例)」で早々に済ませようと思っているかもしれないのに。


加えて、こうした場合の「一緒に食事でも」の場合に陥りがちなのは、「どうですか?京都は」の話題が多くなる事だ。それは来日アーティストに決まって「どうですか?日本は」と聞くのと同じで、従って聞かれた側がうんざりするのも同じだ。以前京都国際マンガミュージアムのアニメーション関連のシンポジウムで、事ある毎に京都のコーディネーターが「どうですか?京都は」と聞いていて、外から来たパネラーが心底うんざりしていたのを思い出す。そうした質問に対しては、相手は決まって――うんざりを隠しつつ――「ファンタスティック」的な事を返すだろうが、そうした定型を真に受けて嬉しくなったりするのは愚かの一語に尽きる。定型で膨らむ自意識(例「クールジャパン」)程に厄介なものは無い。やはり「立ち話」が良いのである。


待ち合わせの場所は、京都二日目の旅人が会場に入ったばかりの京都府京都文化博物館別館とした。そこで展示を見終わった頃を見計らっての突撃である。4歳児を連れて行く事にした。


「PARASOPHIA」公式サイト英語版の “About" には、日本語版の「開催概要」では割愛されている “The exhibition will be complex and multilayered in content, drawing the intellectual empathy of specialist art audiences, with a lighthearted air that can be enjoyed by the whole family." という一文がある。飄亭の松花堂弁当プッチンプリンも入れて、それで “complex and multilayered in content" にしてみた的なものだろうか。この “a lighthearted air that can be enjoyed by the whole family" の受け皿を、「PARASOPHIA」としては京都市美術館の「蔡國強」や「やなぎみわ」や「ジャン=リュック・ヴィルムート」辺りに設定しているのかもしれない。しかし今から行くのはどちらかと言えば “drawing the intellectual empathy of specialist art audiences" 寄りに思える京都府京都文化博物館別館である。


京都府京都文化博物館別館。随分と3月よりも変わっていて、取り敢えずこの館の前の両翼各十数メートル分だけは「パラソフィアやってます」感がそれなりに出てはいた。そこでドミニク・ゴンザレス=フォルステルを4歳児と一緒に見て、4歳児の集中力が弱まったところで部屋を出る。2分。


二度目の今回は全くそれで良いし、勿体無いとも思わない。ドミニク・ゴンザレス=フォルステルが想定する観客に、少なくともこの日本の4歳児は入っていないという事を確認出来た訳であるから。その得難い2分に1,800円である。


森村泰昌氏は端からパス。決して2度見たり3度見たりして体験が大いに深まって行くといったものでは無いし、端的に言って4歳児の興味を引くものでもない。或いは興味が引かれるかもしれないが、しかし今回は大人の方が引かれないし、その森村泰昌氏分だけ旅人の時間を奪う事にもなる。どうしても見たければ4歳児が自分で金を払って見て欲しい。但し4歳児はこの建物から一刻も早く出たい様だ。公園の砂場が待っている。


ドミニク・ゴンザレス=フォルステルを出た階段下の薄暗いスペースで横浜から来た旅人と少しの時間話す。前日からのメッセ上のやりとり同様、相変わらず「PARASOPHIA」に対して旅人から肯定的な声は聞こえない。そこでこれは肯定し難いものの肯定し難さに対する分析を通じてそれを肯定的な解釈に変換するという、見る側に対して相当に高度な要求を課せられる芸術祭(例えば彼がメッセ上で難じていた「高松次郎ミステリーズ」と同様に)なのだといった旨の事を短く伝える。短か過ぎたかもしれないが。


傍らでクッションの上で飛び跳ねていた4歳児がいきなり「くま」と言う。アジア的に珍妙でアジア的に下品な洋風建築(「重要文化財」。確かに「ちぐはぐとしての日本の文化を考える上で重要」という意味で「重要文化財」である)のクッションの滲みの中に「くま」を見つけたのである。



確かに「くま」である。非常に困った事に、それはこの館のどの展示物よりも今は面白く見えてしまう。そして痛快にも、このクッションの上の「くま」を見るにも、やはり入館料1,800円が必要になるのだ。


「PARASOPHIA」を見に行った体験。4歳児にとってはこれなのである。そして4歳というのは、何かを集中的に凝視して没入する(例えば「テレビを見る」)事では無く、世界の全体に自ら目を配り、その中で自己を位置付けて行く能力をこそ養うべき時期になる。そういった能力がすっかり固定化してしまい、今以上に飛躍的にそれが向上しない大人はその限りでは無い。テレビでも美術でも何でも凝視して、それに没入さえしていれば良いのである。