今回の「ヴォルフガング・ティルマンス Your Body is Yours」展の場合、全会場に設置された椅子は、映像の2作品と他に “Freischwimmer" “Sendeschluss" “Weed"(例)が掛けられている部屋にそれぞれ木製の低い長椅子が3つ(以上を以後「A群」とする)、そして件のエスカレーター周辺の椅子(以後「B群」とする)である。
A群とB群の椅子の性格は異なる。それを簡単に言えば、そこに座って正面に見える「ヴォルフガング・ティルマンス」に目を遣る事無く、スマートフォンを取り出して LINE や Twitter や Facebook に興じていても、そこで小説の文庫本を読んでいたり、矢庭に PC を取り出して業務メールを送ったり、世間話や名刺交換をしていたりしても、相対的に咎められなさそうな椅子がB群である一方で、A群の椅子では中々そうは行かないだろう。A群の椅子では、否応無く作品と一対一で向き合わされる。映像作品は言うまでも無いが、例えば “Freischwimmer(フライシュヴィマー:自由な泳ぎ手・自由に生きる人/初めてのスイミング・テスト)" の前の椅子に座る観客の視線は、それ程には “Freischwimmer" たり得ない。
「ヴォルフガング・ティルマンス Your Body is Yours」展の多くの観客は、自らの持つ「さぞかし」という「想定(fore/see=前もって/見る)」が次々と裏切られる事に直面させられる。時に腕を組んだりして「ジッと見よう」と臨んでいた視線が、「ヴォルフガング・ティルマンス」を前にした瞬間に「キョロキョロ見る」に変質させられて行く。元々「おみごと」なものとして作られているものを「ジッと見る」事は容易だ。しかし「ヴォルフガング・ティルマンス」を「ジッと見る」にはどうすれば良いのだろう。答えを見い出せなかった観客は、作品を「ジッと見る」事を諦め、複雑で曖昧な表情と共にその前を立ち去る。しかし「ヴォルフガング・ティルマンス」は、「『さぞかし/おみごと』への裏切り」によってドライブする。「5秒ルール」こそは「ヴォルフガング・ティルマンス」が設定している時間だろう。
“WT" が “my sense of duty is that I want to make new pictures(私にとっての義務感とは、新しい写真を作りたいということにほかなりません)"(ジュリアン・ペイトン=ジョーンズとハンス=ウルリッヒ・オブリストによるインタビュー)と極めて凡庸そうな事を言う時、その「新しい写真」とは何を意味しているのだろうか。それは変化して止まない「写真の生態系」へのアプローチの更新を意味しているのではないか。
But then of course the world into which they insert this image can never totally conform, and is always a bit out of control because of all the different layers that people add to it. In cities things are constantly being layered upon each other in a way that is much more anarchic than what is first imagined by the city planner, or the architect of a building, or the advertising executive. This collage view on cities I find really fascinating because there is no master plan, or people always overwrite the master plan. I like that messiness.
東京都現代美術館で開催されている「おとなもこどもも考える ここはだれの場所?」に行った。大人一人だけで行った。この「夏休みのこどもたちのための展覧会/An Art Exhibition for Children(同展「展覧会概要」)」に、未就学児の自分の子供と一緒に行く事は叶わなかった。但し子供と行ける条件が満たされたとして、果たしてこの展覧会に子供を連れて行くかと問われれば、それは限りなく無いのではないかとしか答えられない。何故ならば2015年の夏に、未就学児が自らの世界との関係構築の為に接しなければならないものが、美術館の外に数限りなく存在するからだ。それは単純に、子供という(取り敢えず)限定された時間的リソースを巡る優先順位の話なのである。
(...) en tout cas d'une manière définitive et impérative à partir de la fin du XVIIe siècle, un changement considérable est intervenu dans l'état de mœurs que je viens d'analyser. On peut le saisir à partir de deux approches distinctes. L'école s'est substituée à l'apprentissage comme moyen d'éducation. ela veut dire que l'enfant a cessé d'être mélangé aux adultes et d'apprendre la vie directement à leur contact. Malgré beaucoup de réticences et de retards, il a été séparé des adultes, et maintenu à l'écart dans une manière de quarantaine, avant d'être lâché dans le monde. Cette quarantaine, c'est l'école, le collège. Commence alors un long processus d'enfermement des enfants (comme des fous, des pauvres et des prostituées) qui ne cessera plus de s'étendre jusqu'à nos jours et qu'on appelle la scolarisation.
Cette mise à part — et à la raison — des enfants doit être interprétée comme l'une des faces de la grande moralisation des hommes par les réformateurs catholiques ou protestants, d'Église, de robe ou d'État. Mais elle n'aurait pas été possible dans les faits sans la complicité sentimentale des familles, et c'est la seconde approche du phénomène que je voudrais souligner. La famille est devenue un lieu d'affection nécessaire entre les époux et entre parents et enfants, ce qu'elle n'était pas auparavant. Cette affection s'exprime surtout par la chance désormais reconnue à l'éducation.
市民の価値観を変える事で「自発的」な形を伴ってその行動様式を変えさせる、即ち被抑圧者をして抑圧者の目的に「自発的服従(subjectivation/assujettissement)」させる「知/権力(savoir/pouvoir)」の諸形式(その最も古典的なものの一つが “panopticon(パノプティコン)" である)を分析したミシェル・フーコーの “Naissance de la prison, Surveiller et punir(監獄の誕生―監視と処罰)" の “discipline(規律=訓練)" という在り方を、公立美術館自身が自らの「教育(=「閉じこめの過程」)」機関としての説明に援用するという事態は、美術館自らがその様な「知/権力」の側に位置しているという、紛れも無い現実に対する誠実な告白と言えるだろう。
La famille et l'école ont ensemble retiré l'enfant de la société des adultes. L'école a enfermé une enfance autrefois libre dans un régime disciplinaire de plus en plus strict, qui aboutit aux XVIIIe et XIXe siècles à la claustration totale de l'internat. La sollicitude de la famille, de l'Église, des moralistes et des administrateurs a privé l'enfant de la liberté dont il jouissait parmi les adultes. [...] Celui-ci a apparu au XVIIIe siècle au moment où la famille achevait de se réorganiser autour de l'enfant, et dressait entre elle et la société le mur de la vie privée.
Ōkina otomodachi (大きなお友達?) is a Japanese phrase that literally means “a big friend” or “an adult friend”. Japanese otaku use it to describe themselves as adult fans of an anime, a manga, or a TV show that is originally aimed at children. Note that a parent who watches such a show with his or her children is not considered as an ōkina otomodachi. An ōkina otomodachi is not a parent who buys anime DVDs for his or her children to watch. Ōkina otomodachi are those who buy children’s anime for themselves. Also, if the work is obviously aimed at adults, a fan of it is not an ōkina otomodachi. Hence ōkina otomodachi and otaku are different concepts.
大きなお友達(Ōkina otomodachi)は、字義的に言えば「大柄な友人(a big friend)」や「大人の友人(an adult friend)」を意味する日本語に於ける言い回しである。日本のオタクが、幼児向けのアニメ、マンガ、テレビ番組の大人のファンとしての自分達の存在を言い表す場合にこの言葉が用いられる。但し注意すべきは、自分の子供と共に、それを親として試聴する場合には、大きなお友達にはならないという事である。大きなお友達は――親としてではなく――幼児が視る為に作られたアニメの DVD を、自分自身の為に購入する人々である。また、仮にその作品が大人をターゲットとしているのであれば、そのファンは、大きなお友達ではない。従って、大きなお友達とオタクは、異なる概念である。
子供は質問する。それは子供自身が、自分が「知らない者」である事を知っているからだ。一方で、大人は子供程には他者に対して質問をしない。「美術館」で「作品って何?」と問う大人はそれ程多くない。大人は「作品」とされるものに対して、自らを「知らない者」とは認めない。「子供向け」の表現や、「美術館」に展示するに相応しいものがどの様なものかを知っていると思って自身を疑わない=「知らない事を知らない」のが大人である。しかし「知らない事を知らない」者に対しての「対話」は困難なものになるだろう。何故ならば「対話」は「私が知る全ては私が何も知らない事である(“All I know is that I know nothing.”:ソクラテス)」と自らを認ずる事の出来る者同士で行われるものだからだ。従って規律=訓練の「学校」と、懐疑の方法論である「対話」もまた反りが悪いのである。
1930年代にドイツで生まれたとも言われる銀塩写真の暗室ワーク(参考:1944年3月11日に米イーストマン・コダック社が出願したパテント――ここでは「発明者」が John A. C. Yule であるとされている)である「アンシャープマスキング」メソッドは、一旦「ぼかし」の過程が挿入される為に「アンシャープ」の語が冠せられている。しかしその目的とするところは飽くまでも「シャープネス」の向上だ。「ぼかし(アンシャープ)」の過程を経なければ「シャープ」にはならない。
「平均(Average)」は「ぼかし(Blur)」であった。仮に「平均」が可逆的なものであるとして(実際にはそういう事は無い)、例えば「アンシャープ」展に於ける「段ボール箱」作品の「段ボール」部分を、どんどん「鮮明」にして「個別の要素」を明らかにして行った時(=「平均」以前に戻して行った時)、そこには「宅急便の送り状」や「われもの注意」や「高原レタス」が現れて来るのかもしれない。しかし一方で、そこに「DHLの送り状」や「THIS SIDE UP」や「Amazon.com」が現れて来るという可能性を否定する事は出来ない。あの「段ボール箱」作品の茶色という「平均」は、世界中のあらゆる(取り敢えず茶色系の)段ボール箱の上で生じ得るあらゆるパターンへと繋がっている。作者だけが知っているかもしれない「正解」は、そうした繋がりの可能的な一つでしか無い。
1. Beyond a certain critical mass, a building becomes a BIG Building. Such a mass can no longer be controlled by a singular architectural gesture, or even by any combination of architectural gestures. The impossibility triggers the autonomy of its parts, which is different from fragmentation: the parts remain committed to the whole.
2. The elevator-with its potential to establish mechanical rather than architectural connections-and its family of related inventions render null and void the classical repertoire of architecture. Issues of composition, scale, proportion, detail are now moot. The ‘art’ of architecture is useless in BIGNESS.
3. In BIGNESS, the distance between core and envelope increases to the point where the façade can no longer reveal what happens inside. The humanist expectation of ‘honesty’ is doomed; interior and exterior architectures become separate projects, one dealing with the instability of programmatic and iconographic needs, the other-agent of dis-information- offering the city the apparent stability of an object. Where architecture reveals, BIGNESS perplexes; BIGNESS transforms the city from a summation of certainties into an accumulation of mysteries. What you see is no longer what you get.
3 ビッグネスでは中心と外皮があまりにも離れ過ぎていて、ファサードは中で何が起こっているのかを伝えることができない。だからヒューマニスト的に「素直さ」を求めても無駄だ。建築の内部と外部は別々のプロジェクトとなる。一方はプログラムと形態の不確定なニーズを扱う。もう一方は情報を操作する。物体として安定していることを都市全体に伝えるのだ。建築が何かを見せて伝えるのに対し、ビッグネスは人を煙に巻く。ビッグネスにより、都市は確実性の総和ではなく、ミステリーの集積となる。もはや What you see is what you get にはならない。つまり、いま見えているものと実体は一致しないのだ。
4. Through size alone, such buildings enter an amoral domain, beyond good and bad. Their impact is independent of their quality.
5. Together, all these breaks-with scale, with architectural composition, with tradition, with transparency, with ethics-imply the final, most radical break: BIGNESS is no longer part of any issue. It’s exists; at most, it coexists. Its subtext is fuck context.
“Gud hvor kejserens nye klæder er mageløse!" (おお皇帝の新しい服は、何と比類なきものなのでしょう!)"。目には全く見えない服を褒め称える事で、社会の中の自らのポジションを維持しようと必死な大人達(「地宙船」でググれば、そうした大人達ばかりに会える)を尻目に、“Men han har jo ikke noget på(でもあの人は裸だよ)"と言ってしまえるハンス・クリスチャン・アンデルセンの "Keiserens nye Klæder(皇帝の新しい服)」の子供ならば、東急東横線渋谷駅の「地宙船」に対しても「でもここにはこんなもの無いよ」と事も無げに言えるだろう。
それからやがて1年10ヶ月が経つ。ザハ・ハディド・アーキテクツのデザイン原案を採用すると公表されてからは2年7ヶ月余りだ。未だに地鎮祭も始まってはいない一方で、何かが幾重にも終わってしまっている印象だけはある。初代の国立霞ヶ丘陸上競技場は最早地上に姿は無く、また東京に立地していない日産スタジアムは、オリンピック憲章の “The Opening and Closing Cereomonies must take place in the host city itself(開会式および閉会式は開催都市で行わなければならない)"という条件を満たしていない為に、「東京オリンピック」の開会式及び閉会式の会場となる権利を有さない。
Barnett Newman "Remarks at Artists' Sessions at Studio 35"(1950)
MIHO MUSEUM の2015年春季(3/14〜6/7)。「バーネット・ニューマン 十字架の道行き」展をメインの目的にした、2015年一回目の MIHO MUSEUM には車を運転して行った。しかしその道行きは 、JR 石山駅から帝産バスに乗って行った方が良かったのではないかとすぐさま後悔した。
車の運転は運転行為そのものに集中しなければならない。名神高速道路や国道1号線側から MIHO MUSEUM に行く場合、特に県道16号線や県道12号線には車を運転する者にとっては意地悪く現れる幅員減少の箇所が複数あり、ブラインドコーナーから現れる対向車の存在に常に神経を尖らせられる。こうした運転の為だけに費やされる精神的緊張は、この県道に慣れている帝産バスの人に往復1,640円也で任せるべきだと痛感した。それ故に「曾我蕭白 富士三保図屏風と日本美術の愉悦」/「常設展示」をメインの目的にした二回目は帝産バスに載せられて行く身になった。
道行けば次第にモバイル端末の電波は弱くなり、やがてその板状の物体は実用的なものではなくなる。電波の届く場所での板の中で人が演じているもの、板の中で人が信じている未来は、ここではすっかり背中の側に追き去りにされる。商業的なものがバスの窓外の景色から次第に退場して行き、地球上の殆どの面積を占める商業が入り込めない場所と同じになる。ここから先に貨幣が有用なものとなるのは、MIHO MUSEUM の敷地内及び帝産バスの運賃箱に於いてしか無いのだろう。帝産バスに乗る事。これは片道50分を掛けて入って行く、何かへの長大なエントランスなのである。
時にはそうした「正解」が、今日の芸術家の制作を効率的なものとするかもしれない。確かに Wikipedia に載っている様な「正解」を素材の一つにする事で制作が効率的になれば、芸術家は多くの作品を生産出来る。しかしそうした効率化され得ない悶々こそが、「圧倒する問い(overwherlming question)」である「答えを持たない問い(question that has no answer)」としての「起源の問い(the original question)」(バーネット・ニューマン)なのである。そしてこれから向かう山中の「Shangri-La」に2015年時点で保管されている数千年分のものこそは、そうした「圧倒する答えを持たない起源の問い」によって生まれたものばかりなのだ。
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「十字架の道行き(“The Stations of the Cross")」の「連作」が描かれたのは、バーネット・ニューマンがニューヨーク・マンハッタン島のイーストリバーから、フランクリン・D・ルーズベルト・イースト・リバー・ドライブ(1955〜)/サウス・ストリートを隔てた、フロント・ストリートとウォール・ストリートが交差する “100 Front Street" にスタジオを構えていた時代(1952〜1968年)に当たる。それ以前のニューマンのスタジオは、リンク先ストリートビューで奥に見える交差点を右に曲がってすぐの “110 Wall street" にあった。
1950年代から1960年代に掛けてのニューヨーク・マンハッタン島と言えば、当時のパリやロンドンや東京などとは比べ物にならない「世界の中心」だった。そのニューヨーク・マンハッタン島でバーネット・ニューマンは生まれ、彼の居住環境と制作環境は、常にその島内の西に東に南にと留まっていた。この「世界の中心」の外に出る必要性を、彼は終生感じた事は無かったのだろう。バーネット・ニューマン財団のクロノロジーを辿る事で強く印象付けられるのは、彼が紛れも無く「現代」の「都市」の人という事である。恐らくマンハッタン島よりも制作環境としては恵まれたスペースを得易いだろうロング・アイランド(Jackson Pollock & Lee Krasner の様に)ですら、彼は居住/制作出来る人では無いのだ。彼の言う「アメリカ」は、東京都世田谷区(58.05 km²)とほぼ同じ面積の――21世紀の現在ならば何処へ行っても板が有用なものになる電波が通じる――僅か58.8 km²ばかりの島と同義なのである。
I feel that I'm an American painter in the sense that this is where I love to live, was born, and this is where I've developed my ideas, and so on. At the same time, I hope that my work transcends the issue of being an American. I recognize that I am an American, because I am not Czechoslovak, and my work was not painted in Czechoslovakia or in Hungary or in India. But I hope that my work can be seen and understood on a universal basis.
脱線が長くなった。今回の MIHO MUSEUM での「春季特別展 バーネット・ニューマン 十字架の道行き」の展示は、或る意味で非常に野心的なものにも見える。それは「現代」という言葉がすっかり枯れ切ってしまったこの時代に、事もあろうに「現代美術」の入門書で取り上げられる様な「現代美術」作家の作品を、「世界の古代美術」が展示されている常設棟の一角(「南館」地下一階。通常は「中国・ペルシャ」の古代美術のエリアの一室)で展示したというところにある。
常設棟・地下一階のミュージアムショップの向かい側の、135度の角度で折り曲げられた三面の壁には、「十字架の道行き」連作の「第一留」のジップ部分が大きくプリントされ、そこには “Barnett Newman/ THE STATIONS OF THE CROSS/ lema sabachthani" (“/" は改行を表す)と書かれている。「第一留」のロウ・キャンバス部分を表してもいるだろう中央の白い壁に、展示室へと向かう入口が開口していて、その入口奥の黒い仮設壁には、バーネット・ニューマンの天地一杯のポートレートがそこに入ろうとする者を見つめている。この設えから言って、この入口を入れば「現代美術」の「バーネット・ニューマン」しか展示されていないだろうと、特に「十字架の道行き」目当てにこの「桃源郷」まで赴いて来た観客は思う事だろう。
「十字架の道行き」の14枚+1枚だけで構成される、ワシントン・ナショナル・ギャラリーを彷彿とさせる円環的構成の企画展という側面と、美術館建物の構造上の問題(南館の「南アジア」の部屋では狭く、「エジプト」の部屋や「西アジア」の部屋では、奥の小スペースがデッドになってしまう。企画展専用の北館にはそもそも円環状の「十字架の道行き」を独立した展覧会として見せられる場所が無い)という実務上の問題もあっての展示室の決定であり、且つ常設展との入口の共通化という結果になったと想像されたりもするのだが、いずれにしてもそれは結果的にバーネット・ニューマンから「現代」及び「美術」を一旦棚上げさせる事に繋がっている。即ち “I hope that my work can be seen and understood on a universal basis(私は、私の作品が普遍的な基盤の上で見られ理解され得る事を願っているのです)" という作者の言葉に対し、冷徹にも数千年の厚みを持つ「普遍的な基盤」の内に、20世紀「アメリカ」精神の所産を半ば力ずくで挿入する事で、他ならぬバーネット・ニューマンに後戻りの効かない「有言実行」性を持たせる形にしたのではないか。
同展会場入口には当館の辻惟雄館長の挨拶文が掲げてある。一読して、この文章は展覧会のみならず、他ならぬこの MIHO MUSEUM とそのバックグラウンドについて書かれたものである事が判る。不思議な事に「曾我蕭白 富士三保図屏風と日本美術の愉悦」展の挨拶文であるにも拘らず、そこには「バーネット・ニューマン 十字架の道行き」展にも多くが割かれている。
「曾我蕭白 富士三保図屏風と日本美術の愉悦」展・展示室内の作品解説文は、その多くが当館の学芸員によって書かれているものだが、これもまた MIHO MUSEUM とそのバックグラウンドについて書かれたものとも言えるだろう。そればかりか、何処かで「十字架の道行き」に繋がりそうに思える記述も幾つか見られる。
「同館の精神性と呼応するもの」。やはりこれは、川村記念美術館にあった「アンナの光」以上に、バーネット・ニューマンから「現代」と「美術」を超脱させる事を意図した展覧会だったのだ。或る意味で、ロケーションを含む MIHO MUSEUM 全館、全コレクション、そして別の企画展すら総動員してそれは行われているとも言える。
MIHO MUSEUM に於いて初めての「現代美術」の展覧会である「バーネット・ニューマン 十字架の道行き」。しかし「現代美術」作品が MIHO MUSEUM で展示されるには、或る意味で作品が「資格」を備えていなければならない。それは例えば「現代に生きる琳派」的なものでは到底追い付かないものだ。恐らくは MIHO MUSEUM に於いては、多かれ少なかれ「現代美術」作品は、「現代」と「美術」を脱がされる事になる。そうした意味での「裸」に一定以上の「自信」が無いと、とてもでは無いが「持たない」所なのだ。
「ひとりの芸術家の営みが円環的になっている(“the work of a single artist forms a circle" 保坂健二朗氏)」という一つの解が導かれたとしても、それをあそこまでリテラルな形で実線化し、或いはリテラルに俯瞰可能なものとして示してしまうのは、「小さな親切大きなお世話(white elephant)」でしかない。それは「イメージ (image)」の鎖に繋がれたスペクタクル消費としての「絵画」の発想であり、例えば「真っ直ぐな性格」を直線定規を使って描画してしまう少年漫画と同質のコメディと言える。
「大作」を作るのは「アーティスト」の領分だ。二つ煉瓦の「複合体」や「複合体(椅子とレンガ)」と、東京画廊の個展(1976年11月)やドクメンタ6(1977年7月)に於ける鉄製の「複合体」は、その意味で不連続なものだ。「ミステリーズ」展のカタログで、保坂健二朗氏が「ドローイング(works on paper)」と「絵画(oil on canvas)」の間に引いた分割線(p.225)も、それに繋がる様な気がする。
「PARASOPHIA」公式サイト英語版の “About" には、日本語版の「開催概要」では割愛されている “The exhibition will be complex and multilayered in content, drawing the intellectual empathy of specialist art audiences, with a lighthearted air that can be enjoyed by the whole family." という一文がある。飄亭の松花堂弁当にプッチンプリンも入れて、それで “complex and multilayered in content" にしてみた的なものだろうか。この “a lighthearted air that can be enjoyed by the whole family" の受け皿を、「PARASOPHIA」としては京都市美術館の「蔡國強」や「やなぎみわ」や「ジャン=リュック・ヴィルムート」辺りに設定しているのかもしれない。しかし今から行くのはどちらかと言えば “drawing the intellectual empathy of specialist art audiences" 寄りに思える京都府京都文化博物館別館である。