「公表」

アルベルト・ジャコメッティ「ネコと犬」1951年

そもそも「展覧会」の「告知」や「案内」というのは些か「婉曲」な表現であり、実際のところは「展覧会」の「告知」や「案内」のほぼ全ては、「展覧会」の「広告」/「宣伝」以上でも以下でも無いものである。日本に於ける「展覧会の案内状」の別称は「ダイレクト・メール(DM)」であり、「展覧会のハンドアウト」の別称は「フライヤー」(注1)であり、それらは「利」(benefit, profit)を取得しようとする「商売」の方法論に全面的に則るものだ。「告知」/「案内」主体の属性は隠し様もなく「売り手」(push, outbound, sword, Zacian)なのである。「展覧会の御案内です」という揉み手の懐からは、光るもの──刃物と金──が見え隠れしているのだ。

(注1)気球や飛行機やヘリコプター等の飛行体からばらまかれた宣伝ビラが原義。気球以降の「伝単」("Airborne leaflet propaganda":空中ビラによるプロパガンダ)はその一つである。フライヤー(flyer:米語)は「飛行するもの」を意味する。

画像はプロパガンダ・フライヤーを詰めたペイロード・デリバリー・ユニット・ファイブ(PDU-5)を投下するアメリカ海軍 F/A-18F スーパーホーネット艦上戦闘攻撃機による「御案内」攻撃の訓練(2005年太平洋上)。CBU-100「ロックアイ」クラスター爆弾を転用した PDU-5 の実戦投入としては、アフガニスタンイラクでフライヤー(「御案内」)散布に使用され、2015年にはシリアのラッカ近郊でも 60,000 枚のフライヤー(「御案内」)を投下する為に使用された。「御案内」の攻撃性が顕著に現れる身近な例としては、有名人を騙った「投資」の「御案内」や、スパム・メールや、メール・ボムや、「御案内」で溢れ返る自宅のポスト等がある。


以下のエントリは、属人的な「利」の取得にダイレクトに繋がるかどうかの判断が、必ずしも付き難いイヴェントについての「報知」であるが故に、タイトルも攻撃属性の高い「告知」や「案内」ではなく、相対的になまくらの「公表」とした。

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新潟市美術館サイトのトップページが、2024年4月26日に更新された。そこに「大村益三」に関係する「展示」(2024年4月26日〜6月30日)のデータが加わった。美術館公式サイトの紹介文を引く。

大村益三とその残欠
-「ネコになる」という選択肢-

美術家・大村益三(おおむら・ますみ 1957年、東京生まれ)の作品(焼損作品を含む)・資料・文献約50点を展示

一人の美術家を(彼を見舞った大きな不幸を)ご紹介します。美術家・大村益三は、2023年12月29日朝、東京都町田市の共同アトリエで発生した火災により、過去40年にわたる自作のほとんど全てを失いました。そして彼は、「レンブラントの作品よりも、ネコの命のほうが大切」という、フランスの彫刻家ジャコメッティの言葉を思い返したといいます。作品を失い、命は残った自分を、もう「作家」と呼ぶことはできない、ネコのようなものであると。

http://www.ncam.jp/exhibition/7661/

新潟市美術館の現在の企画展(2024年4月13日〜6月2日)は、「もしも猫展」という歌川国芳を中心としたものであり、「人類」(歌川国芳等)が「猫」を通して「表現」した数々を紹介するというものである。展覧会公式サイトから引く。

「もしも、うちの猫が人のように話したら?」
そんな想像をしたことはありませんか。

浮世絵師の歌川国芳(1797~1861)は猫を擬人化したり、役者を猫の顔に見立てた作品を次々と発表していきました。
本展では猫の擬人化作品と、それらを描いた歌川国芳を主軸に据えながら、江戸時代から明治時代にかけての擬人化表現の面白さに着目します。
そのなかで、なぜ国芳の作品にかくも惹きつけられるのか、その魅力のありかを探っていきます。

https://www.teny.co.jp/moshineko/

この企画展「もしも猫展」と並行して(完全に会期が一致する訳では無い)、「コレクション展 ニャン -ネコ用品専門展-」(2024年4月26日〜6月30日)が一昨昨日から開催された。

当館コレクションから大作を中心に約50点を、ネコ用品に見立てて展示

さて、この星に生きる全ての人間が命を失った時(人類滅亡)、地上に残った美術館の廃墟は、ネコの集会場になるかもしれません。この小さな展覧会は、わたしたち人類ではなく、ネコたちのために開かれます。「芸術=用途のないもの」は、ネコ大よろこびのネコ用品に通じ合うものでしょうか? 今回は、学芸員(人類)がふつう(人類)だったらすることをしないで、いつも(人類)ならしないことをしてみました。「ネコに小判」や「ネコも食わない」を、ネコになった気分で観察していただこうという、とてもまじめな、そして超歴史的な試みなのです。

リンク先は上掲「大村益三とその残欠-『ネコになる』という選択肢-」と同

「ネコ」をメディウムに、「もしも猫展」と「コレクション展 ニャン -ネコ用品専門展-」(以下「ネコ用品展」)の2つの「展覧会」はリンクしている訳だが、「もしも猫展」の観客は飽くまでも「『人類』の手になるもの」を「『人類』の立場」で見る事を求められる──「美術鑑賞」のデフォルト──のに対し、「ネコ用品展」は観客に「人類」である事を捨てて「ネコになる」事を求める。その部屋(常設展示室)に「ある」ものが「人類」の手になるものであろうがあるまいが、それが「人類」にとって収集・収蔵に値する「お宝」であろうがあるまいが、「ネコ」にとっては全くの関知の外にあるという設定の展覧会だ。

即ち、ネコを「見る」展覧会である「もしも猫展」と、ネコを「見る」展覧会で見られる側になっていたネコに「なる」展覧会である「ネコ用品展」は、観客属性に於いて反転状態にあり、そこに闖入的に挿入された「展示」である「大村益三とその残欠-『ネコになる』という選択肢-」(以下「残欠」)は、そのサブタイトルにある様に「ネコになる」側の「ネコ用品展」にビルトインされているものである。実際「残欠」の「展示」は、前川國男の美術館に於ける空間的配置としては、「コレクション展」の前段、エントランス部にあり、「ネコを見る」から「ネコになる」反転の蝶番の役目を、些か暴力的な形で担う装置になっている。

「残欠」が今回挿入されるに至った経緯は、当ブログの2024年2月2日のエントリ、「喪失」冒頭部の

女:素敵でしょ…犬と一緒のあの人、見て、同じ様な歩き方をしている。
男:ああ本当だ。ジャコメッティという彫刻家を知ってる?
女:ええ、とてもハンサムだと思う。
男:知ってる?彼はすごい事を言ったんだよ。「火事になったらレンブラントと猫とどちらを救うか。僕だったら猫だね」ってね。
女:そうね。そしてこう続ける。「その後で猫を逃してやる」。
男:それ本当?
女:ええ、とても素敵な話でしょ。そう思わない?
男:そうだね。とても美しい。「芸術と命なら、命を選ぶ」と。

と、最終パラグラフの

猫はレンブラントと依存関係にはないが、多かれ少なかれ作家は自らの作品と依存関係にある。或いはその依存関係こそを作家と呼ぶ。レンブラントは消失し、猫は生き残る。作品は消失し、作家は生き残る。「これから」の選択肢の中には「猫になる」というものもあるのかもしれない。

の「猫になる」が、新潟市美術館学芸員・藤井素彦氏の注意を引いた事が切っ掛けになっている。斯くして「作品(焼損作品を含む)・資料・文献約50点」は、「ネコになる」陣営の先鋒を務める事に相成ったのである。

ここまで「残欠」に対して「展覧会」ではなく「展示」で通しているのは、これが間違っても直ちに「大村益三の個展」ではない理由による。設え的には「大村益三の個展」の様に見えなくも無いのだが、「(...大きな不幸を)ご紹介します」という美術館の紹介文にもある様に、焼損作品が会場中央に位置し、恰も火災現場に残されたトロフィーや表彰楯の如き資料類──それらが言及している対象は全て焼失している──が並べられ、無惨な火災現場写真が壁一面を覆い、焼失前の作品や作業場の映像が過去完了形で映し出され、それらの隙間を縫う形で他所に保管されていて「無事」だった僅かばかりの小品が並んでいるそれは、寧ろ様々な意味での「ドキュメンテーション」の性格が色濃いと思われる。「思われる」というのは、諸事情により展覧会設営にダイレクトに関わっていないからだ。美術館側からメールで送られてくる画像報告のみで、現在の自分はこの「展示」の全体像を組み立てている状態に未だにあるものの、想像の多くは外していないだろう。

焼け壊れているものが「展示」のメインにある「残欠」は、恐らく「気持ちが相当にしっかりした」者でないと、精神的に相当キツい「展示」ではあるだろう。その小骨が喉に刺さったまま、奥の「ポスト・ヒューマン」──「存続」としての「人類進化」のそれではなく、「消失」としての「人類不在」のそれ──的な「コレクション展」本体へと誘われるのだ。

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これまでの40数年の中で、何回か作品スタイルが変化している。2002年から2009年まで発表した「Peeping Dinosaur」(以下「PD」)は、その中でも最もドラスティックに作品スタイルを変えたものだ。今回の「展示」に寄せて「PD」について書いた文章がある。会場内の何処かでそのハンドアウトは配布されている筈だ。

2002年から複数制作された「ピーピング・ダイナソー(Peeping Dinosaur:以下PD)は、展示空間の既存の床の上に一定のクリアランスを伴って新規の床を作り、その二重床の間に小さな「展示室」(縮尺1/25〜1/80)を設け、その展示を観客が検針ミラー越しに、或いは床に這いつくばって見るというものである。

PDで最も可視化したかったのは、「見るという行為の暴力性」である。「見るという行為の暴力性」の可視化がPDという最終の「形式」に至るには幾つかの段階があり、当初は「シュレーディンガーの猫」の様なシステムを構想していた。何故に「シュレーディンガーの猫」であったかと言えば、その思考実験の設えそのものが「知るという行為の暴力性」に則っているものであり、箱の中で原子が崩壊しようがしまいが、即ち猫が死んでいようがいまいが、本来マクロ的に「知った事ではない」事を、それでもミクロ的に「知りたい」という、「欲望」/「心理」の領域に足を踏み込んでいるものという印象を持ったからだ。

展示室をこの思考実験に於ける密閉した箱に見立て、中にある作品は相対的に無事であるか壊れているかの状態になっているものの、部屋の外からそれを知る事は出来ない。展示室の入口扉が開けられた瞬間、50%の確率で作品脇の大ハンマーが振り下ろされる。観客が展示室に入る事で、作品は破壊されるかもしれないしされないかもしれないし、或いは一見無事な様に見えても何処かが破壊されているのかもしれない──誰も無事な状態を知らない。扉を開けてギャラリーの中に入ってきた観客は眼前の「壊れた」作品を見て、自分の行動によってそれが壊されたのか、それともそれよりも前に壊されていたのかの判断が付かない。それを実現させるシステムを幾つか考えていたのだが、最終的には何をどうやっても余りスマートなものにはならない──得るものも少ない──と判断し、「覗く(ピーピング)」という「視線の暴力」を発揮させる事を積極的に促し、しかも観客をしてその「覗き」を「一生懸命に行っている」姿にさせるPDの「形式」に落ち着く。

そもそも「展示」は「見るという行為の暴力性」に奉仕するものだ。「鑑賞」行為を実現させる為に作品にライトを当てれば、作品に対するミクロな「美術量子力学」的「破壊」は行われ──マクロ的には「無問題」──、「企画展」「常設展」を行う為に作品の移動を繰り返せば、そこでも作品に対するミクロな「美術量子力学」的「破壊」は進行する──マクロ的には「無問題」。

今回「鑑賞」に供する形で「破壊」された物品も数多く出品されるが、それらが何処でどのタイミングで何に因って眼の前の「破壊」の形状になっているかは「シュレーディンガーの猫」の如くに決定不可能である。そもそも猫飼いの常識の一つとして、猫を(特にその目を)「見る/見続ける」事は、猫にとって「暴力」(威嚇行為)と受け取られるというものがある。「見るという行為の暴力性」については、人間よりも猫の方が余程に「知見」があるのだ。

「残欠」の会場には「PD」のスライドショーも流れているが、そこには「見るという行為の暴力」と共に「見せるという暴力」という学芸による表記が加えられている。確かに「美術」に於ける「暴力」は、「見る」側だけではなく、寧ろ「見せる」側の方が、様々なフェイズに於いて何重にも「暴力」(push, outbound, sword, Zacian)なのだ。或る意味で、この「残欠」の「展示」もまた「PD」という「見せるという暴力」の延長線上に存在しているのであり、それは未だ「ネコになれない」人類に向けての方便という限界の只中にある。

「作品」を作り始めた頃──半世紀前だ──、中央線沿線の社会科学系の古本屋でルードヴィヒ・ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」("Logisch-Philosophische Abhandlung")を買った。あの有名過ぎる命題 7 の "Wovon man nicht sprechen kann, darüber muss man schweigen."(「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」)の直前の命題 6.54 にある、"Er muss sozusagen die Leiter wegwerfen, nachdem er auf ihr hinaufgestiegen ist."(「梯子を登った後には梯子を捨てなければならない」)は、そのままその後の自分の「作品」観──「『作品』は『梯子』たるべき」を決定付けている。即ち自分にとっての「作品」とは何処までも「疑似命題」なのだ。「疑似命題」としての「梯子」が焼失した。今回の事態は巨視的にはそういう話なのである。故にフェティッシュの対象になり得ない「梯子」を再制作するという事も無い。

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「ネコになる」というのは、存外極めて「簡単」な事なのかもしれない。それはここのところ韓国 TikTok を席巻している「漢江ネコ」("한강 고양이")動画を見て思うところでもある。

「꽁꽁 얼어붙은 한강 위로 고양이가 걸어다닙니다」(「カチカチに凍った漢江の上をネコが歩いています」:コンコン オロブトゥン ハンガンウィロ コヤンイガ コロダニムニダ)という「ソウルに寒波襲来」(2021年)を伝える韓国 MBN テレビのニュース音源から生まれたこのムーブメントにより、人差し指と中指で作ったネコ耳を付け、三本指でヒゲを生やし、ネコ手を擬態する事で共有の「スペース」(TikTok)で皆が「ネコになる」。

参考:https://mdpr.jp/k-enta/detail/4259066

「残欠」にしても「ネコ用品展」にしても、そこで深刻な表情を作られるよりは、その場で「漢江ネコ」のダンスを踊って──美術館なので音は脳内再生──コヤンイ(고양이:ネコ)になってくれた方が、余程「梯子」的に良いし、それによってカチカチに凍って(꽁꽁 얼어:コンコン オロブトゥン)いる「美術」の会場が一気に可愛いものになるという利点もあるだろう。