ヤンキー人類学(後)

承前


阿部渉アナウンサー
「さあ続いて、今注目されているキーワードについて、郄木アナウンサーです。」


郄木康博アナウンサー(リポーター)
「おはようございます。そのキーワードが、こちら。『ヤンキー』です。
1970年代、暴走族や不良といわれるような人たちを、ヤンキーと呼んでいました。」


阿部アナウンサー
「でもこういう格好の人は、最近、見かけなくなったような気もしますね。」


高木アナウンサー
「そうですね、その姿は少なくなりました。
でもですね、今、再びヤンキーの存在が、ちょっと形を変えて話題になっています。
ヤンキー消費、ヤンキー経済、ヤンキー化する日本。
見た目はヤンキーでなくても、内面のいわゆるヤンキー的な部分が新たに注目されているんです。」


(略)


「かつてのヤンキーはこういう格好をした人たちでしたね。
でも今、注目されているのは全く別のヤンキーなんです。
今、出てきましたね、こちら、見た目もほとんど普通と変わらないですよね。」


(略)


「おとなしいヤンキー、マイルドヤンキーとも呼ばれます。」


鈴木奈穂子アナウンサー
「そういう名前があるんですか。」


高木アナウンサー
「このマイルドヤンキーを提唱しているのがこちらの方です。
博報堂ブランドデザイン若者研究所リーダーの原田曜平さんです。
原田さんによりますと、そのマイルドヤンキーの特徴が、こちらなんですが、
特徴、絆、仲間、家族ということばが大好き、大事にしてます。
そして地元大好き。地元(注:画面には「家から半径5km」)から出たくありません。
車が好きです、特にミニバン。
ショッピングモールが好き。
そしてEXILEが好きという特徴は、原田さんが調査をした結果、こういう傾向が見えてきました。」


阿部アナウンサー
「えっ?若者の3分の1ぐらいはマイルドヤンキー?可能性がある?」


高木アナウンサー
「そう結構いるんじゃないかと。
原田さんによりますと、特に都市部の近郊ですとか、地方に多いということなんですね。」


NHKニュース おはよう日本」5月12日放送の「特集」(7:20〜)は「ヤンキー」だった。「NHKニュース おはよう日本」という「国民的番組」の「全国放送枠」で「ヤンキー」が取り上げられたのは、コーナーの後半で上げられている様に、「ヤンキー」が「団塊老人」と並ぶ、21世紀日本に於ける国内需要のマスボリュームとして「発見」されたからだろう。コーナーに登場した「博報堂ブランドデザイン若者研究所リーダー」の原田曜平氏は、その著書「ヤンキー経済 消費の主役・新保守層の正体」(2014年1月30日初版発行)の「あとがき」を、「この本を手掛かりに、消費をしなくなったと言われる若者たちの消費のツボが、より多くの企業の皆様にいくばくかでも届いてくれることを願っています。」の一文で締めている。「博報堂」の人が、「企業人」向けの「ビジネス書」を出した事で、石橋を叩いても渡る事を先送りする「NHKニュース おはよう日本」の腰が上がったのだろうか。Amazon でのカテゴリーでは「本 > ビジネス・経済 > 経済学・経済事情 > 経済学」である「ヤンキー経済」の読者ターゲットの「企業人」は、新幹線や空港の待合室、ビジネスホテルのロビーで流される「NHKニュース おはよう日本」視聴者のマスボリュームを形成する。「国民的番組」の10分間の「特集」は、第4章のタイトルが「これからの消費の主役に何を売るのか」というこの「ビジネス書」の内容をほぼ全面的になぞったものであり、番組中で使用されているイラストも同書のそれを下敷きにするという「まるごと」ぶりであった。


同書が「国民的番組」である「NHKニュース おはよう日本」で「まるごと」されるまでに「成功」したのは、「マイルドヤンキー」というネーミングが受けたという事もあるだろうが、それ以上に「ヤンキー」を「優良な若年消費者」とする事で、売れなくなった物を売り付ける相手としてしか見ていないにしても、取り敢えず「ヤンキー」を殊更な「否定的存在」として扱っていない様に見えるところにあるのだろう。「ビジネス書」というのは、「商品」に於ける「命懸けの跳躍」というギャンブルの「予想紙」や「攻略本」の様なものであるから、「売る」相手を商売上「分析」する事はしても、必要以上に「評論」や「批判」をする事はしない。その意味で同書もまた「予想紙」であり「攻略本」であり、それ以上でもそれ以下でも無い。


その一方で、「ヤンキー考察本」のもう一方の「雄」である「世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析」や「ヤンキー化する日本」(共に Amazon カテゴリ「 本 > 社会・政治 > 社会学 > 社会学概論」)の著者の斎藤環氏は、2012年暮れの第二次安倍政権誕生の際に、朝日新聞のインタビュー(元記事削除)に答え、「自民党は右傾化しているというより、ヤンキー化しているのではないでしょうか。自民党はもはや保守政党ではなくヤンキー政党だと考えた方が、いろいろなことがクリアに見えてきます。(略)もはや知性や理屈で対抗できる状況にはありません。ある種の諦観(ていかん)をもって、ヤンキーの中の知性派を『ほめて伸ばす』というスタンスで臨むしかないというのが私の結論です」と語っている。ここでの「ヤンキー」は紛れも無く「否定すべき存在」として認識され、また「ほめて伸ばす」という「指導」や「治療」の対象でもある。そうした「否定すべき存在」としてのそれは、しかし電子掲示板辺りで「在日確定!」と言うのと殆ど変わらない「ヤンキー確定!」の様にも思える。「この国は”気合い“だけで動いてる」を言う為に、「あれもこれもヤンキーの仕業」や「ここにも隠れヤンキー」などと言えば、確かに「クリアに見える=腑に落ちる=しっくり来る」気になれる事もあるだろうが、しかしそれは「あれもこれも◯◯人の仕業」や「ここにも隠れ◯◯人」などと言って、「クリアに見える=腑に落ちる=しっくり来る」気になれるのと同じなのかもしれない。「世界が土曜の夜なら」の帯には「たくさんの人が、腑に落ちています!」とあるが、寧ろ「腑に落ちる」事こそ警戒するに強くは無いのである。


著者は精神医学の人であり、その所為もあってか「世界が土曜の夜の夢なら」には「ヤンキーと精神分析」という副題が付けられている。しかし注意すべきは、それが「ヤンキーと精神分析」であり「ヤンキーの精神分析」では無いところにある。同書にはヤンキーが母性的なものに惹かれるといった様な精神医学風の事が書かれていたりもする。しかし「ヤンキー」がそうなるに至る「分析」は少しも書かれていない。それは例えば世の中の事象を「あれも◯◯症、これも◯◯症」と「指摘」するに留める様なものだろう。繰り返して言えば、「ヤンキー」という心性の在り方が何処からやってきたのかという事をこそ「分析」するのが、精神医学の人の本来的な役目だと思われてならない。但し「ヤンキー」と呼ばれる社会的事象=社会的精神は、凡そ精神医学の手だけでは余るものがあるだろうとも思われる。


所謂「ヤンキー論」は、ハーバート・スペンサーパーシヴァル・ローウェルといった「社会進化論」の系譜にあるのかもしれない。1889年から1893年にかけて日本を訪れたローウェルは、日本人を「エリート」と「一般庶民」に分け、欧米化した「エリート」達を殆ど欧米人であると見做して共感の対象とする一方で、「一般大衆」は進化論的に劣勢にあるとして違和の対象とする事を隠さない。ローウェルが言うところの「一般大衆」は、やがて柳田国男の「魚の群れ」を経て、宮台真司氏/大塚英志氏の「田吾作/土人/愚民」、與那覇潤氏の「江戸」、そして斎藤環氏の「ヤンキー」等々に形を変えている様にも思える。19世紀のパーシヴァル・ローウェルから、21世紀の斎藤環氏まで、その言わんとするところは、百数十年間を隔ててほぼ同じだ。しかし仮にやがて日本が「近代」にならなければならないとして、そうした「近代」化が百数十年も「失敗」し続けている日本をどう捉えれば良いのだろうか。


「ヤンキー」が単純な「下層民/従属民(「サバルタン」)」と見られている内は、例えば "Can the ヤンキー speak?" という、ガヤトリ・チャクラヴォルティ・スピヴァクの "Can the Subaltern Speak?" の援用も可能だった。しかし現実的に「インテリ」の声は、現実的な何ものにも反映される事が無くなりつつある。選挙は「インテリ」が「おかしい」と思う結果にしかならず、「インテリ」が「欲望」するものは次々と世界から失われて行く。「インテリ」は「ヤンキー」に対し、例えば「かれらはひとつの階級をなしている。……(しかし)かれらの利害の同一性が共同感情を……生み出すことができないでいるかぎりにおいて、かれらは階級をなしていない(マルクス「ルイ・ポナパルトのブリュメール18日」)」的なものを見出し、そこに「虚偽意識」(欺かれていること)の介入を見るかもしれない。しかし「ヤンキー」は自らを「変革的階級」に「昇格」させる、ルイ・ナポレオンの様な「代弁/代表」者を欲してはいない。「ヤンキー」は目立ちたくはあっても蜂起する事はしない。何よりも快適な「日常」が壊乱される事を「ヤンキー」は望まない。「インテリ」好みの「スト」が、「インテリ」好みの形で「すき家」に起きる事は無い。


従って最早こう言わねばならないのかもしれない。"Can the intellectual speak?(知識人は語ることができるか)"、或いは "Can the modernism speak?(近代は語ることができるか)" と。 "Can the Subaltern Speak?" (サバルタンは語ることができるか)という「問い」は、「サバルタン」に「関心」を寄せ「理解」しようというアプローチの存在が前提になる。一方「ヤンキー」は「インテリ」の声に「関心」を寄せ「理解」しようとするだろうか。しかし「ヤンキー」にとって、「インテリ」は「関心」の対象である以前に「透明な存在」だろう。スピヴァクに "the intellectuals represent themselves as transparent" (知識人たちはみずからを透明な存在として表象しているのである)と批判された「インテリ」が、まさかこういう形での「透明な存在」になってしまうとは想像も出来なかったのである。


「ヤンキー」という「かたち」は、日本のベースに厳然として存在し続ける「前近代」が、未だに輸入概念以上の物にならない「近代」と摩擦を起こすところに発生した一つの形なのだろう。従ってその「かたち」は融通無碍であるし、「ヤンキー」という形で顕現しないものも多数存在する。例えば「マイルドヤンキー」の存在に今更ながらに驚いてみせる広告代理店の飲み会は、紛れも無く日本的な「前近代」の典型そのものと思われる。

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NHKニュース おはよう日本」の同「特集」は、「鞆の津ミュージアム」で開かれている「ヤンキー人類学」展にも触れていた。同番組によれば「博物館ではこの展示が始まって以来、通常1日15人ほどの来場者が、10倍に跳ね上がる日もある」という事だ。


同展について、5月11日に「鞆こども園」で上野友行氏とトークを行った都築響一氏は、宇川直宏氏の「DOMMUNE」での「鞆の津ミュージアム」キュレーターの櫛野展正氏との対談でこう語っている。


こんなさ、ブチアゲ単車も出れば、こんなデコトラも出ると。それをさ、まあすごい展覧会だと思うけど、僕はさ、やっぱり鞆の津ミュージアムみたいなところだからもちろんできるんだけど、本当はそういうところにやらせちゃいけないっていうとあれだけど。本当はさ、東京都現代美術館とかやれよ!っていう話なわけよね。だってさ、思うけどたとえば暴走単車が僕はすごい好きで。本も作ったぐらいですけど。暴走族の単車の展覧会なんかないわけじゃん。いままで。


(櫛野展正)そうですね。


都築響一)だけど、アメリカではニューヨークのグッケンハイム(美術館)とかでイージーライダーの改造ハーレーの展覧会とかやってるわけよね。非常にアメリカ的なアイコンじゃない?でも、日本的なアイコンはこれなわけよ。都現美の無駄な中庭みたいなところにこれ、20台ぐらい並べたらめちゃくちゃかっこいいと思うわけよね。


(櫛野展正)素晴らしいですね。


都築響一)なにもさ、外国で見れる作品をさ、日本に見に来る外人、いないわけじゃない。それよりか、日本でしか見れないものを見せるのが筋だと思うし。これこそが日本が作ってきたもので。アート業界からは1回もアートとして認められてないものばっかりだよね。


http://miyearnzzlabo.com/archives/18267


東京都立現代美術館で行われる「ヤンキー人類学」展。それは即ち東京都江東区で行われる「ヤンキー人類学」という事になる。例えば「ブチアゲ単車」や「デコトラ」等を、東京都江東区とは関係の無い他所から持ってきて、その「造形」を「アフリカの仮面」の様に「鑑賞」するという展覧会でも一向に構いはしないし、それすら無い状況でそれを開催する事には一定の意味はあるものの、しかし折角東京都江東区で開催するのである。東京都江東区がその歴史を含めてどういった環境にあり、そしてそうした環境に対してそこに住まう者がどの様な「適応」の「かたち」を見せているのかを探るというのが本来の「人類学」のアプローチというものだろう。それは美術館の中よりも外の方が圧倒的に豊穣な展覧会であり、美術館が美術館の外を見る為のフレーム、美術館の外へと繋がるゲートになるという事である。東京都立現代美術館のすぐ外には、実際「あれ」もあれば「これ」もあるではないか。後は社会的タブーを含めたそれらを取り上げる胆力と、美術館の周囲を取り囲む「前近代」に向き合う気概と想像力があるかどうかだろう。例えば清澄白河の駅から東京都立現代美術館に向かう「深川資料館商店街」を見て何も感じないのであれば、それはそれまでの想像力という事だ。

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「鞆の津ミュージアム」に入ると、「BIRTH JAPAN」が出迎えてくれた。「ヤクザ、ゴロツキ、ドチンピラの専門店」である。一歩外に出たら目を背けてしまうもの、或いは何処かで目を背けさせる為に存在するもの=見てはならないものを、積極的な鑑賞の対象としてしまうのが美術館である。


斜向かいには大きな「相田みつを」があった。傍らの解説プレートには「人生に対する肯定的なメッセージに満ちあふれたそのあるがままの『ポエム』は、多くの若者の心を魅了。彼を源流とする『ポエム』は、ラーメン店の壁面やトイレ、デコトラの装飾から路上詩人に至るまで浸透するなど、日本全国を覆い尽くしている」とある。個人的には寧ろそうした「日本全国を覆い尽くし」ている「相田みつをエピゴーネン」こそを大量に見たかった気がする。


チケット売り場には「小悪魔 ageha」(2014年4月休刊)の特集から生まれた「盛り髪」の「昇天ペガサス MIX 盛り」と「東京タワー盛り」がマネキンヘッドに装着され、フワフワの白いフェイクファーの上に置かれていた。これもまたコンテクストが見えないと「面白さ」は半減する。


チケット売り場正面の通路にはパチンコ台が二台。「CR 牙狼 FINAL」と「CR BE-BAP〜壇蜜与太郎仙歌〜」という「いかにも」な台が置かれている。「海物語」では駄目だったのだろうか。


パチンコ台の向かいは「MEN'S KNUCKLE」だ。「いつだって何かに逆らい生きてきた」「ガイアが俺にもっと輝けと囁いている」「エレガントに舞い、クレイジーに酔う」「限界なんぞはいつでもオム’S OVER 突破済!」「俺のフェザーから鳥人拳を繰り出す!」「千の言葉より残酷な俺という説得力」…。ご丁寧にもその横に「相田みつを」が再び展示されている。「しあわせは いつも じぶんの こころが きめる」。悔しいが、まあ「そういう事」なのである。


そこから小部屋に入ると、北九州のレンタル衣裳店「みやび小倉本店」の成人祭衣装とそれを着用した新成人のスナップ写真が壁面に貼られている。北九州では「成人式」ではなく「成人祭」と言うらしい。多くが中学校単位でチームを組み、地元意識が強い為に他地域に負けたくないとの思いで派手になると言われている。「地域対抗」というのは、学校教育で是とされる「クラス対抗」から始まっているものかもしれず、またそれは「甲子園」にも繋がるものだろう。Chim↑Pom のエリイ氏がリポーターになったBSスカパーの「BAZOOKA!!!」によれば、「成人祭」を「人生で最後の行事」「最後の大人にあがる前に子供でいられる式」と捉える者もいると言う。「それから(注:成人祭から先)は何もなくない?」「何もない」。番組中の「新成人」はそう言っていた。


部屋から出ると再び「BIRTH JAPAN」。そして隣の部屋に行くと壁面の梶正顕氏の「暴走族コレクション」。その「暴走族」コレクションは、当時の「善男善女」のコレクションと被るところが無いでは無いところが興味深い。


「暴走族コレクション」に囲まれて丸尾龍一氏のデコチャリ「龍一丸」が、そして次の部屋には伊藤輝政氏による「ミニチュアデコトラ」がある。これらの「ミメーシス」は、自身が「ヤンキー」であるというよりは、「ヤンキー」的美学に魅了された人のものであろう。とは言えそれらが「半端」では無いのは、「デコチャリ」に迷うこと無く「ディズニー」が搭載されているところにある。「電飾」の解釈も正確であるに違いない。デコチャリの丸尾龍一氏は、ボランティアで市民パトロール隊をしているという。一方「ミニチュアデコトラ」には「街宣車」や「建機」や「消防車」等も含まれている。「建機」や「消防車」といった「はたらくくるま」は、子供の玩具の定番アイテムであり、また「変形メカ」の原形でもある。或る意味で「デコトラ」というのは現実化した「トランスフォーマー」なのかもしれない。


「ミニチュアデコトラ」と同じ部屋に、YOSAKOIソーラン「夢想漣えさし」。これもまた「チーム対抗」の「群舞」であり、何処かで「成人祭」という「晴れ舞台」での「地域対抗」とも似ている。その横は「漢塾」の前田島純氏。氏の Twitter に引用される「ONEPIECE」の台詞は、「MEN'S KNUCKLE/あいだみつを」的である。


部屋の真ん中には BEET のエンジンカバーを奢られた「ちっご共道組合」のブチアゲホンダCBR400F。傍らのモニタから「コール」が流れる。火炎様の造形とポスカによるその色、そして要素間をモールで繋ぐその方法論は、何処かで日本の80年代のインスタレーションの語法を思い起こさせる。勿論「ちっご共道組合」がそれを模したという事では無く、ブチアゲ単車の造形性と日本の現代美術の造形性が、何処かで「同じもの」を共有していると考えた方が良いだろう。


磯野健一氏の「小阪城天守閣」は、1時間程前に見た「昭和福山城」にも何処かで通じるものがある。寧ろファンタジー度から言えば「大阪城」に近い。


隣のガレージには「常勝丸船団」の「常勝姫」。サンリオの「キティ」が召喚されている。因みに「常勝姫」は「ジュニア」の為にキャラ弁も作る。確かにこの展覧会に欠けているものの一つはキャラ弁だろう。「身体に良い」といった「本物志向」を捨て去らないとキャラ弁は作れない。「見掛」をこそ重要視し「本物」を志向しない事。それは「龍一丸」のアルミホイル、「CBR400F」のポスカ、「常勝姫」のメッキ、「成人祭」のフェイクファー、「小阪城天守閣」の折り紙、「デコ電」のラインストーン、「ラジカセ」のシール、その生き様で評価される「坂本龍馬」、そしてここにある多くに見られる「日本」にも通じ、翻ってそれは「フェイク」の無限参照である「日本」そのものなのかもしれない。

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1972年6月17日〜18日未明の富山市城址大通りの所謂「富山事件」から端を発し、北陸、中国、四国の各地方都市(高岡、小松、金沢、岡山、福山、高知、今治、高松等)へと飛び火した「暴走族事件」の「主要都市」でもあった「福山」の町を、再びトモテツバスに乗って福山駅に向かう。


車内で斎藤環氏の「ヤンキー化する日本」を読む。與那覇潤氏との対談で、「反原発」と「ヤンキー」の関係について語っている行に行き着いた。目が疲れたのでそこまで読んで本を閉じ、目を窓外に向けて、本の内容とは全く別の事を考えていた。


彼等は何故に「完成」された「近代」を「否定」する形で「デコ」るのであろうか。想像するに、あの「過剰」は「否定(バツ)」の「過剰」なのだろう。殆ど強迫的に「否定(バツ)」で埋め続ける精神性。「バッドテイスト」は「バツテイスト」だ。「怨念」という言葉が頭を過った。その対象は広く「近代」であろう。誰にも等しく「近代」は訪れる事は無いと、彼らはその人生を通じて思っているのではないか。恐らく彼等にとっての「近代」は、それを得るのに「資格」の有無が問われるものなのである。


つまづいたらだめじゃないか きんだいだもの

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次回の同ミュージアムの企画展は「花咲く爺さん」だと言う。「花咲く爺さん」から「婆さん」が締め出されているのかどうかは判らないが、いずれにしても老人の展覧会という事だ。誰もがそうなり得るという点で、「老人」は「ヤンキー」よりも間口が広く、また隠し様も無く「老人」は「ジェンダー」の一つである。ダダカン氏、蛭子能収氏、ドクター中松氏等が出るらしい。「元気な老人」でも「狂った老人」でも良いが、しかし観客に「元気だなぁ」や「狂ってるなぁ」と「他人事」としてしか思わせない展覧会では、「老人」をテーマにする意味が無いだろうと思われる。

ヤンキー人類学(前)

初めて福山駅に降りた。福山駅の新幹線ホーム(3階)は相対式ホーム2面上下2線であり、その2線の内側に上下通過線2線が通る。のぞみ101号(下り)に乗車した為に、途中駅で乗り換える事無く福山駅に到着した。



対面する上りホームの窓越しに福山城の天守閣や伏見櫓(重要文化財)等が間近に見える。福山駅に隣接する形で福山城の本丸が位置しているのは、1891(明治24)年に開業した福山駅(開業時「山陽鉄道」)自体が、嘗ての福山城の三の丸や埋め立てられた内堀等の上に位置している事による。1873(明治6)年の「廃城令(全国城郭存廃ノ処分並兵営地等撰定方)」によって廃城となった福山城は、福山藩が「朝敵」と見做された事もあって、大部分の施設が明治政府から民間に払い下げられた結果、本丸以外の敷地が宅地や農地等に転用され、建物の多くは建築資材として解体・売却された。明治以来続く民の実利主義による侵略に、現在に至るも福山城は常に脅かされている。


現在の天守閣は、福山市制50周年記念事業に合わせて月見櫓、御湯殿と共に1966(昭和41)年に建てられた。1622年(元和8年)に完成し、1933(昭和8)年に「国宝」指定されたオリジナルの天守閣は、1945(昭和20)年8月8日の米軍の福山大空襲によって石垣以外の全てが失われた。現在の福山城の天守閣もまた、「城郭復興ブーム」に乗って「復元」された多くの城郭建築同様、鉄筋コンクリート(RC)製である。昭和時代に失われた建築である為に、写真を含めたオリジナルの福山城の資料は決して少なくは無い。しかし現在目にする天守閣や月見櫓等は、一種の戦後復興記念展望モニュメントとして建てられたものであり、その建築的な復元性が高いとは言えない。昭和福山城天守閣は、徹底的な「模擬(如何物)」である大阪城天守閣や、全くの「ファンタジー(如何物)」である熱海城程では無いものの、現代日本人が思い描く「日本斯く在るべし=日本の伝統」に基づいて、日本各地の様々な城のディテールを継ぎ接ぎして作られている。


戦災で焼けた福山城のオリジナルの完璧な復元では、現代日本人が信じるところの「形式としての『日本の伝統』」に何処かしら欠けると見做されたのだろう。アンシンメトリカルだったオリジナルの窓配置は、現代日本人の無意識的な美意識に広く受け入れられ易いシンメトリカルなものに変えられる。窓枠の銅板や北面全体に貼られていた鉄板や望楼部の突上戸や海鼠塀等も、現代日本人の美意識に沿わないものとして除去される。鯱は現代日本人の城に寄せる期待感から、オリジナルの地味なものからより見栄えのする大き目のものが「復元」されて取り付けられている。謂わば昭和福山城は(もまた)「SD(スーパー・ディフォルメ)城」=「城のキャラクター」=「ファンシーな城」である。


その甲斐あってか、東京ディズニーランドの「城のキャラクター」であるシンデレラ城が、そのゲストに「ヨーロッパの伝統」を感じさせる以上に、「城のキャラクター」としての昭和福山城天守閣は、それを見る者に「日本の伝統」なるものを大いに感じさせてくれる。それら両者の間に大きな違いがあるとすれば、シンデレラ城に於ける「ヨーロッパの伝統」が、飽くまでも「ファンタジーに留まるもの」として広く認知されている一方で、昭和福山城の「日本の伝統」は、「本物(マジ)」として広く認知されているところだろう。


「想像」的なものが「本物(マジ)」と見做されるというのは、例えば「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」の大日本帝国憲法が公布された1889(明治22)年第56回式年遷宮以降の「伊勢神宮内宮」が、それ以前の正殿と宝殿が横一列で並ぶ徳川将軍時代の「伊勢神宮内宮」よりも「古式」で「正統」な「日本の伝統」とされて現在に至る様なものかもしれない。「伊勢神宮」の建前からすれば、隣り合っている「オリジナル」と瓜二つでなければならない「式年遷宮」であるが、この第56回式年遷宮時には、現実に隣り合っていた第55回式年遷宮(1969年=明治2年)までの内宮デザインの忠実なコピーとなる事を政治的判断によって覆され、明治時代に新たに想像的に作り上げた「伝統」を「始原」とする事で、その「伝統」を「本物(マジ)=始原」の側にあるとした。現在の伊勢神宮は、明治期に意図的に行われた「コピーエラー」の延長線上にある「日本の伝統」=「日本の模擬」である。ブルーノ・タウト伊勢神宮建築に対する「稲妻に打たれたような衝撃をうけた」発言は、その明治政府による「伝統」操作以降のものになる。「唯一神明造」と「高床式倉庫」を比較してみれば、前者に大陸文化の影響が色濃く反映している事を見るのは容易だ。昭和福山城にも見られる、こうした「提示する事で隠す」事によって成立可能な「始原のもどき」は、ギリシャ神殿から遡行的に想像された「始原の小屋(primitive hut)」にも似るのである。



長いエスカレーターで新幹線ホーム階の3階から1階まで降りると、降り口で福山の男女が出迎えてくれた。



それは福山市に本社を持つ「コーコス信岡」の作業着の広告と、福山市内に数多くの作品が建立されている同市出身彫刻家の陶山定人氏(文化勲章芸術院会員、日展参与、相模原芸術協会会長:故人)による裸婦像(タイトル「岬」)だった。労働者の作業服の広告は、非常ベルと山陽新幹線便利帳の幟に侵食された「芸術」よりも、遥かに良い位置と待遇を与えられている。この様な「無意識過剰」による「無体」極まりない扱いが「ブロンズ像」にされるのであれば、いっその事この場所に「芸術」は必要無いのではないかとも思われるが、それでも駅には「芸術」という「飾り」が必要なのだ。何故ならば事実上日本の無意識に於ける「芸術」は「飾り」以上のものでは無く、また多くの日本の「芸術」が「飾り」の役目を果たそうとするからである。であれば、例えば「日本の公共空間」を一台の「携帯電話」とするならば、そこに於ける「芸術」は「スワロフスキー」の様なものと見る事も可能だ。日本の「芸術」関係者の「夢」は、「日本の空間」が「芸術」=「飾り」でみっしりと覆い尽くされる「デコ電」状態が実現化する事なのかもしれない。彼等が「芸術先進国・欧米」に見るものは、町並みに於けるその現象的「デコ」性をこそ評価してのものなのだろうか。「芸術から見えるもの」<「芸術をデコること」。パブリックアート=パプリックデコ。「美しいものの集積はそれだけで美しい」とする無邪気な感性。「福山駅」の「芸術」もまた、携帯電話の「空白」を埋める「スワロフスキー」の「一粒」の様に、駅空間の「空白」を埋める「一粒」でしかないのだろう。ここに至っては、近代日本の公共空間の成り立ちはデコ電の成り立ちと相同であるという等式が成立する。


福山駅南口に出る。「鞆の浦わさみんバス」というものをみた。


このたび、福山・鞆の浦の観光 PR 並びに岩佐美咲さん(AKB48)の演歌「鞆の浦慕情」を PR するラッピングバス『鞆の浦わさみんバス』が完成し 2 月 18 日にお披露目をしたところです。


鞆の浦わさみんバス』の運行および記念切符販売のご案内 :鞆鉄道
http://www.tomotetsu.co.jp/tomotetsu/wasaminbus.pdf



因みに「エフピコRiM」で5月28日(今日)に開催予定だった福山・鞆の浦応援特別大使岩佐美咲(AKB48)嬢「握手会」を含めたイベントは、例の事件の余波で開催延期になっている。


「わさみんバス」に乗車すると、地元女子高生の会話が耳に入って来た。話題は AKB48 とジャニーズだった。そこに登場する固有名詞は NMB48関ジャニといった、広島県福山市から相対的に近い 238.6キロ(営業キロ)の「大阪」のものではなく、福山から遥かに遠い 791.2キロ(営業キロ)先の「東京」のものだった。相対的に「女子」は「男子」よりも「東京」を意識するのだろう。所謂「若者の地元志向」には恐らく性差がある。「エフピコRiM(福山そごう→福山LOTZ→)」「アイネスフクヤマ」「サファ福山」「ポートプラザ日化」等のショッピングモールは、福山の「女子」の地元引き止めの為にこそあるのだろう。


やがて「わさみんバス」は、「日東第一形勝」の「崖の上のポニョ」の「坂本龍馬」の「埋立架橋問題」の鞆の浦に近付く。




「安国寺下」から歩く事にした。バスを降りると傍らにこうした「柵の奥の歌碑」があった。



10分程歩いて目的地の「鞆の津ミュージアム」に到着する。



「鞆の津ミュージアム」は「日本財団」の助成を受けているらしい。「日本財団(旧「日本船舶振興会」)」と言えば、自分の様な年回りの人間にはすぐに思い出されるテレビCMがある。



そして「日本財団」で忘れてはならないのは、船の科学館箕面市箕面及び全国の競艇場競艇関係の施設に建立されている「孝子像」である。「日本財団」創立者の故笹川良一氏が59歳の時、82歳の母親テルを背負って、金毘羅参りの785段の石段を登っている様子を表した「親孝行」の像である。「母背負い 宮のきざはしかぞえても かぞえつくせぬ母の恩愛(笹川良一)」。


「鞆の津ミュージアム」で「孝子像」を探したもののそれは存在しなかった。少しがっかりした。「ヤンキー人類学」の展覧会に、或る意味で「鞆の津ミュージアム」に最も関係の深い「孝子像」が存在しないのは画竜点睛を欠く。何故ならばこの展覧会のトークイベント(6/15)に登場する斎藤環氏によれば、「現場主義、行動主義、『いまここ』主義、個別主義、家族主義、そしてすべてを貫く『愛と信頼』主義」(斎藤環「ヤンキー化する日本」)が「ヤンキー」を特徴付ける一つとされるからであり、CM中の笹川良一氏による「親を大切にしよう(家族主義)」「町を綺麗にしよう(地元LOVE)」「体を鍛えよう(行動主義)」、そして「世界は一家、人類は皆兄弟」や「孝子像」は斎藤環的に典型的な「ヤンキー」事例であるからだ。


ここで斎藤環氏の著作「世界が土曜の夜なら ヤンキーと精神分析」の帯から引く。


たとえば坂本龍馬白洲次郎、B'z、金八先生EXILE橋下徹YOSAKOIソーラン、ラーメン屋の作務衣、キラキラネーム。キティちゃん、ドン・キホーテ、純白の羽織袴、ジャージ。リアル、地元、絆、母性。現実志向、行動主義。アゲと気合、そしてバッドテイスト。光り物とふわふわ、ポエムが大好き――。


ヤンキーは、好きですか?


ヤンキーそれは、日本のマジョリティ。


ここまで目にしてきた福山に、そのヒントが幾らでも転がっている気がした。「ヤンキー」は「バサラ」的なものを必ずしも必要としない。


不安を抱えつつ「鞆の津ミュージアム」の玄関を入った。


【続く】

北加賀屋クロッシング2013 MOBILIS IN MOBILI –交錯する現在 金沢巡回展

2015年3月に「北陸新幹線(長野経由)」が金沢まで延伸開業する。速達型列車「かがやき」で東京ー金沢間は2時間25分前後に「短縮」される(現在は3時間47分)。東京ー金沢間の2時間25分は、東海道・山陽新幹線の東京ー新大阪間と同じ時間(「のぞみ」)だが、営業キロは東京ー金沢間が345.4キロであるのに対し、東京ー新大阪間は552.6キロである。営業キロ的には、東京ー金沢間は東海道・山陽新幹線の東京ー三河安城間(336.3キロ)とほぼ同じであり、その所要時間もその区間を「こだま」に乗り続けたものとほぼ一致する。いずれにしても、日本政府が新幹線整備計画を決定してから、開業までに42年(「北回り新幹線建設促進同盟会」結成からは48年)が経過しているから、金沢にしてみれば「待ちに待たされた」感があるだろう。石川県による「カウントダウン 北陸新幹線 金沢開業」サイトには「北陸新幹線は石川県の未来を切り拓いていく希望の星です」とある。


北陸新幹線(長野経由)」は、最終的には東京ー新大阪間を結ぶ事になっている。2015年に金沢まで延伸し、敦賀までは2026年か2027年(平成37年度)に延伸される計画になっているが、その先の新大阪までがどうなるかはルートや規格を含めて全く決まっていない。敦賀まで「北陸新幹線(長野経由)」が開通するその同じ年(或いは翌年)には、東京ー名古屋間に「中央新幹線(所謂「リニア中央新幹線」)」が開通し、両都市は約40分で結ばれる事になっている。その「中央新幹線」が、名古屋開業から18年後の2045年に延伸開業するとされている名古屋ー新大阪(仮)間の具体的なルートも、「北陸新幹線(長野経由)」同様全く決まっていない。但し「中央新幹線」によって最大の利を得るのは事実上「東京」のみであり、その他の地には思った程に利は無いどころか、都市によっては衰退を加速化させられるだろう。河村たかし名古屋市長が「中央新幹線」名古屋開業決定の報に対して「どえらい危機!」と言ったのはそういう意味である。


元々城下町外れの田圃の中に1898(明治31)年に作られた金沢駅とその周辺は、長く「駅前が寂しい」と言われて来たりもした。しかし現在そこは、金沢的なスケール感からすれば巨大な建造物の目白押しだ。山出保市制20年の「賜物」である。8年振りに旧城下町側になる東口に出ると、巨大化した金沢人の自意識が出迎えてくれた。「雨や雪の多い金沢を訪れた人々に、そっと傘を差し出す金沢人のやさしさ、もてなしの心を表現(説明プレート)」したとされる「もてなしドーム」(高さ29.5メートル)なる巨大建造物が頭上に覆い被さる。謂わばそれは、東京ミッドタウンの高層ビル群の谷間に埋没している「ビッグ・キャノピー」の様な物なのだが、そのプチ「ジョセフ・バクストン」の上屋を「もてなし」とネーミングしてしまうところに、「もてなす主体」としての自意識が隠し様も無く現れている。



もてなしドーム」は、別の巨大化した金沢人の自意識である「鼓門」(高さ13.7メートル)に接続している。「金沢駅前にぎわい協議会」のサイト「金沢駅にぎわい.com」によれば、同モニュメントは「金沢の伝統芸能である加賀宝生の鼓をイメージした2脚の柱に、緩やかな曲面を描く屋根をかけたもの。伝統と革新が共存する街である金沢を象徴する堂々たる門」という事である。自ら「堂々たる」と臆面も無く評してしまう金沢人の自意識を尊重するならば、「鼓門」に対する反応は或る種の「畏敬」を伴った「驚嘆」としなければならないのだろうか。



もてなしドーム」や「鼓門」は金沢駅に含まれるものと考えて良い。これまでの金沢駅が事実上駅舎内に留まるものであったのとは異なり、それらの巨大建造物は「駅前広場」までを金沢駅とした。即ち「もてなしドーム」は「拡張された金沢駅の庇」であり、「鼓門」は、国際空港で言うところの出国/入国審査カウンターの様な「金沢の内と外とを分ける境界」である。「もてなしドーム」が空間上金沢にあったとしても、そこは既に「金沢の外」=「外国」である。その「拡張された金沢駅」の外=即ち「金沢の内」の、金沢都心軸への入口となる道には、これまでと同様に屋根は無い。「拡張された金沢駅の屋根」から「鼓門」越しに見える吹雪く金沢市街の画像をネット上で見た。街(「金沢の内」)よりも駅(「金沢の外」)の方が魅力的に見える光景だ。金沢観光協会(石川県金沢観光情報センター)は、そうした天候の日には「雨傘や長靴の無料貸出」を行なうという。但しその「営業時間」は9時から19時までだ。本来的には「もてなし」の屋根は、現在の「金沢の外」ではなく「金沢の内」にこそ存在しなければ意味が無いのである。



西口も「驚嘆」な事になっている。「悠颺」というタイトルが付けられた高さ20メートルの巨大建造物は「金沢市制百周年記念事業モニュメント」との事であり、地元金沢出身の蓮田修吾郎氏(故人)が「造形」されたそうである。「このモニュメントは、市制百周年を記念して建設したもので、活力、魅力、潤いのある『新しい金沢』をイメージし未来に向かって悠然と伸びゆくことを願っています」というのが作者自身によるコメントである。発展著しいと地元金沢の自意識が謳う金沢市鞍月地区には、"MOON GATE" なる県道60号を跨ぐ高さ22メートル超の巨大建造物(モニュメント)が建っているが、その報告書にははっきりと「surpriseを感じる事をテーマ」と書かれている。


金沢駅にぎわい.com」のトップには「金沢駅は、出発地でなく、目的地です」とある。ここに書かれている「出発」は「流出」や「撤退」を表し、「目的」は「流入」や「進出」を表していると見て良い。悲壮な言葉だ。高速交通網が接続された地方都市は、何処も例外無く「ストロー効果」や「消滅可能性」等の危機に常に脅かされている。先述した河村たかし名古屋市長の危機感もそこにある。金沢とて例外では無い。金沢のオフィス空室率は高い。日帰り可能な高速鉄道北陸新幹線(長野経由)」開業後の金沢のホテルはどうなるだろう。果たして「驚嘆」の巨大建造物は「流出」や「撤退」の防波堤になるだろうか。但し自意識による「表現」や「象徴」や「イメージ」が盛られた巨大建造物が人の心を束ねるには、その地が「表現」や「象徴」や「イメージ」によって心が束ねられる事を「欲する」社会である事が前提になる。それは体制の如何に拘わらず、極めて「20世紀」的な風景と言えるだろう。



祖国統一三大憲章記念塔朝鮮民主主義人民共和国平壌直轄市


「表現」や「象徴」や「イメージ」といった自意識ばかりが目立つ風景は疲れる。そうした自意識の「芸術」が未だに可能だと思われている町は息苦しくなる。「新国立競技場」という、万が一の際の避難場所にはなりそうも無いザハ・ハディドの巨大自意識が出来てからの神宮外苑もそうなるのだろう。そしてそれが巨大自意識でしか無い限り、誰が何をデザインしても同じである。


北鉄浅野川線の2両編成のワンマン電車(旧京王電鉄3000系)に乗る。乗客は10人程。1駅目から無人駅である。北鉄金沢駅から5つ目の、1日の乗降人員が42人(2006年)の三口駅(無人駅)で降りたのはやはり自分一人だった。そこから「金沢新都心」近傍の問屋町に向かって歩く。ストリートビューで予習した「日産ブルーステージ問屋町店」は問屋町から撤退し、その跡地は「サンクス金沢問屋町2丁目店」に変わっていた。「ソフトバンクショップ問屋町店」も無くなっていた。自動車ディーラーとケータイショップが撤退する「町」。手が付かないまま放置された不動産物件と、「テナント募集」の看板と、空き地が目立つ。昭和40年代に農地の中に忽然と奢られた、周辺地区に比して相対的に幅の広い道が、今は問屋町の寂寥感を倍加させている。「問屋町」という町名は、数十年前まで「問屋」という「中間流通」の商慣行が、この国で疑われる事無く存在していたという記憶を留めるものになっている。



1975



2014


やがて「9つの会社(注:実際には「6つ」の会社と、「2つ」の空き家と、「1つ」のスタジオ)が長屋状に連なった建物」に入っている「問屋まちスタジオ」に到着した。元印刷工場だという。目前の道幅は相変わらず広い。


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北加賀屋クロッシング2013 MOBILIS IN MOBILI –交錯する現在 金沢巡回展」。しかし如何にも長いので以下「金沢展」とする。同様に巡回展名の「北加賀屋クロッシング2013 MOBILIS IN MOBILI –交錯する現在」を「もびもび」とする。


「もびもび金沢展」インスタレーションビュー
http://mobilis-in-mobili.org/exhibitionhistory/exhibitionhistory_kanazawa


同展が最初に行われた「北加賀屋展(大阪展)」が、2013年の10月4日〜10月25日。次の「東京展」が、その直後の2013年の11月2日〜12月24日。そして今回の「金沢展」が、5月2日〜5月25日である。「北加賀屋展」と「東京展」が、その短いインターバルを以って「もびもび Ver.1.0」と「もびもび Ver.1.0.1(乃至 Ver.1.1)」の関係にあるとすれば(但し「川村元紀」氏の場合のみ、「北加賀屋展」と「東京展」は「Ver.1.0」と「Ver.2.0」の関係にある)、「金沢展」は「もびもび Ver.2.0」は言い過ぎだとしても、少なくとも「もびもび Ver.1.5」位の印象を持った。


それも無理ならぬ事ではあるだろう。最初の「北加賀屋展」から「金沢展」までは半年間という時間が流れている。「もびもび展」参加作家のアーティストとしての年齢=20代半ば〜30代半ばの時間感覚からすれば、その半年間は長いものであるとも言える。加えて個々の作家と「もびもび展」というインデペンデントな展覧会との関係性も、半年前のそれとは必ずしも同じとは言えない。寧ろ違っていて当然であり、また或る意味で違って然るべきだろう。それぞれの「巡回展」に新作を出す作家には、半年分の変化が見える。「もびもび Ver.1.0/1.1」からの不連続性を印象付けられたのは、何人かの作家の新作によるところが大きい。



インスタレーション」と名指される作品の多くは、謂わば「世界の中にある世界=世界内世界=世界模型」化したりもする。即ち何処かでそれは「曼荼羅」化するのである。例えば「インスタレーション」を「散乱」で構成して「世界=散乱」を見せたいというケースもあるだろう。「雑多」で構成して「世界=雑多」を見せたいというケースもあるだろう。「仮初(かりそめ)」で構成して「世界=仮初」を見せたいケースもあるだろう。「仮象」で構成して「世界=仮象」を見せたいケースもあるだろう。「逆説」で構成して「世界=逆説」を見せたいケースもあるだろう。「偶然」で構成して「世界=偶然」を見せたいというケースもあるだろう。「関係」で構成して「世界=関係」を見せたいというケースもあるだろう。「情報」で構成して「世界=情報」を見せたいというケースもあるだろう。「受動」で構成して「世界=受動」を見せたいというケースもあるだろう。少なくともそれら「散乱」「雑多」「仮初」「仮象」「偶然」「関係」「情報」「受動」等が作品中に留まる事を、多くの「インスタレーション」作家は希望しない。「世界」と「世界内世界」は、「世界模型」という不連続性を介しつつも、「世界」の「実相」を照応的に表す連続的なものとして設えられる。即ち「曼荼羅=世界模型」の価値は、対象的価値ではなく機能的価値である(その上で「対象として発見された『インスタレーション』を購入する」という「転倒」の自由はある)。


「東京展」までの「武田雄介」氏の作品からは、上記「散乱」「雑多」「仮初」「仮象」「逆説」「偶然」「関係」「情報」等の何れか、或いは全て(+α)を見て取る事も可能だった様に思える。作品中の見物(けんぶつ)は過剰なまでに多く、そうした過剰な見物は「世界という過剰」をそのまま表している様にも見えた。但し「世界という過剰」は一様ではなく、「過剰」の分布には粗密があるという現実がある。例えば「東京展」までの作品が、現在「LITTLE AKIHABARA MARKET」が行われている「ROPPONGI HILLS A/D GALLERY」(「東京」的な品揃えのミュージアム・ショップの隣)といった「東京」的な「過剰」の空間内に設えられていたら、それは生物に於ける擬態の様な対応関係にもなるだろう。しかしここは全てを吸い込む都市「東京」とは異なる「金沢市問屋町」なのである。ここは「秋葉原」や「六本木」から遥かに「遠い」地であり、残念だろうがそうしたものからの「遠い」は日本及び世界の「マジョリティ」でもある。


それはさておき「金沢展」の「武田雄介」氏の作品の見物は、相変わらず「サービス精神旺盛」ではある。しかし「東京展」までのものに比べると、相対的にではあるがその「整理」がされている様に見えた。ここで言う「整理」とは、「世界模型」としての抽象性が増したという意味である。抽象性は転じて捨象性とも言えるが、しかしそれは「痩せ細り」を意味するものでは無い。「世界模型」に於ける抽象性とは、固有的なものに埋没しない思考の形式への「ゲート」や「フィルタ」や「インターフェイス」であり、そこでは「それ自体」が重要なのではなく、「それによって見えるもの(それによらなくては見えないもの)」こそが重要になる。「世界」へのアプローチは「無限」である。或いはアプローチの数だけ「世界」は「無限」である。アプローチのインテグレーション(積分)には自ずと限界がある。だからこそ多くの作家による多くの抽象が求められる。



「吉田晋之介」氏の新作にも「Ver.1.5」を感じた。今回の氏の新作には「皹が入った」り「欠けた」り等している「漆喰壁」が描かれ、そこに「窓」が穿たれている。そしてその「窓」の「向こう側」に、馴染みのある「吉田晋之介」が描かれている様に見える。しかし次の瞬間に気付くのはその「吉田晋之介」が観者自身の立っている側に存在しているという事である。即ち「窓」の様に見えているものは、実は「鏡」なのである。この絵で最も奥の位置にあるものに見えている「吉田晋之介」が、実は観客の側に一番近いという逆説。それはベラスケスの「ラス・メニーナス」に於ける「王と王妃=観客」の位置にあるとも言える。


聞くところによると、その「鏡」のアスペクト比は「4:3」や「16:9」であるらしい。そして「4:3」のアスペクト比で思い出されるのは、「フラットディスプレイ」以前の三次曲面や二次曲面を持つ「ブラウン管」だ。「鏡」の「枠」は、嘗ての「ブラウン管テレビ」の枠造形の様に、「凸面」にフィットしている様に見えたりもする。この「鏡」はカーブミラーの様な凸面鏡なのかもしれない。果たしてこの「鏡」に映った「吉田晋之介」は「歪んで見えている」のか否か。その「ストライプ」は直線なのか否か。それ以前に凡そ絵画の「表面」は、「平面」なのだろうか、「凸面」なのだろうか、「凹面」なのだろうか。





「三輪彩子」氏がこの会場に運び込んで来たものは、「北加賀屋展」「東京展」と全く「同じ」ものである(展示段階で省かれているものはある)。但しそれらによって構成された作品は、前二回のそれと同じものでは無い。作品は「三要素(便宜上その形態から「屏風」「棺桶」「荷台」とする)」に分ける事が可能だが、前二回のそれらが同じ位置関係にあったのとは異なり、今回のそれには若干の変更が加えられている。そうなるに至った理由の一つは、今回の作品が「三要素」ではなく、「柱」を加えて「四要素」となった事によるものと想像される。


企画者は氏の作品が設置される場所を予め想定していたらしいが、作者はそことは異なる場所を選択したという。そこは通常の作品設営場所としては「デッド・スペース」とされるだろう、中柱(部屋の中央にある柱)付近に当たる。明らかに作品は中柱に吸い寄せられている。但しそこには「引力」ばかりではなく「斥力」も存在している。特に「棺桶」の場合、「柱」に吸い寄せられまいとする「棺桶」の「抗い」による角度が付けられていたりもして、その両者に於ける「引力/斥力」の関係が、中柱を「柱」として可視的なものにしている。元々「調度的」なものであった「三要素」だが、「柱」が加わる事で「的」が抜けた「調度」になった。そしてその事によって、作品はクローズした「世界模型」である事から離れ始めていた。



「二艘木洋行」作品は、床に青く発光していた。元印刷工場の二階と一階をショートカットする二階の床上の四角い穴を覆う「蓋」の上に、それは天井から「正方形」に投影されていた。四角く光る床。その周囲には、元々設置されていただろう「柵」が据え付けられている。井戸の中の水面を覗き込むような感覚。或いはゲームに於ける「セーブポイント」を彷彿とさせるという見方もあるが、寧ろ興味があるのはどうしてこの様に発光する床が「セーブポイント」を表す典型になったのかという歴史的経緯の方であるが、それはさておく。


反射(CMYK)と発光(RGB)、減法混色と加法混色。発光する RGBは「ジャギーの故郷」でもある。「ジャギーの故郷」では、ジャギーは誰にも見咎められないどころか認識の対象にもならない。8ビット機時代のマリオは、4:3アスペクト比 72dpiの CRT の中では十分以上に「ツルツル」だった。それが「カクカク」しているグラフィックである事を子供が「知る」のは、「ファミコン通信」という175lpi CMYK 世界に掲載された(拉致された)キャプチャ画面によってだった。加法混色世界のジャギーは、減法混色世界によって発見の対象となる。


二艘木洋行」作品は、暫く「ジャギーの故郷=『二艘木洋行』の故郷」を出ていた。減法混色 CMYK 世界は「美術が可能になる世界」でもある。加法混色 RGB 世界の中で「美術」が成功した例を寡聞にして知らない。RGB 世界で生まれたものが「美術」になるには、「全ての色」が混ざると「白」になるといった、「美術」の「感性」からすれば凡そ「訳の判らない」加法混色 RGB 世界を出なければならない。「美術」の世界には、「赤」と「緑」の混合が「黄」になる事を、「感性」的に理解出来る者は誰もいない。そこでは「色」もまた物質化する事を避けられない。「色」が物質化すれば、その上に別の物質(「色」)を置きたくもなる。置きたくもなる事の理由。それは恐らく「人情」に属するものなのだろう。


RGB の「二艘木洋行」作品に対して掛ける言葉は「お帰りなさい」なのだろうか。「アウェー」である CMYK 世界の言葉で散々言われてきた「ジャギー」は、「ここ」では RGB そのものの特性が持つ「アンチエイリアシング」効果によって「どうでもいいこと」になる。凡そ CMYK 世界で「気になること」は、「ここ」では「どうでもいいこと」である。モニタという 加法混色 RGB 上で生まれた絵が「幸福」だった頃。成程これは「セーブポイント」だ。元 CMYK 工場(印刷工場)に仕掛けられた RGB の「セーブポイント」。そして再び「二艘木洋行」作品は、「どうでもいいこと」を「気になること」にする CMYK 世界に「出て」行くのだろうか。



「河西遼」氏のハードコピー作品も、「北加賀屋展」「東京展」とは印象の異なるものであった。額装されている事とは別にその出力方法も異なっている。これも聞くところによれば、今回のものはトナー出力であるという。インクジェット出力の場合、それが顔料インクであっても尚、物質性を感じる事は殆ど無いが、トナー出力に最適化された画像からは、トナーが「プラスティックの粉」という物質である事を強く印象付けられる。鼠の毛は「像」である事から離れ、物質としての「毛」に近いものになっている。その「インク」の物質的「盛り」は「銅版画」のそれをも思わせる。そして物質化した「像」の上に、泥という別の物質が置かれている。泥が持つ強力且つ多義的な共示義は、トナーの鼠にも同じ共示義を纏わせる事で、それを何処かへ連れ去ろうとしている様にも見える。果たしてその泥もまた「人情」なのであろうか。しかしトナーの鼠は、他ならぬその物質的特性によって泥を弾き除ける事で、そうした共示義の連れ去りに抵抗しているのである。


「もびもび」カタログで見る「高橋大輔」氏の作品からは、氏の作品の一大特徴であるとされる「厚み」が消えている。しかし「高橋大輔」作品をカタログの写真で見る事は、実際の作品を見るよりも「劣位」にある訳では無い。現実空間で作品を見る際に見落としてしまいがちなものを、カタログの写真は見せてくれたりもする。


「もびもび」カタログの写真は「平面作品」を撮影する際の最も基本的なライティングになっている。作品に当たる光量を全画面等しくするのがその基本的な考え方だ。当然「色」を濁らせる「影」は消去される。「色」が見えない事は「平面作品」写真にとって「悪」である。あらゆる美術館の「平面作品」のアーカイブ写真を見ても、そうした「善」の認識は共通している。一方で人が写真から「厚み」を感じるのは「影」の存在によるところが大きい。「高橋大輔」作品の撮影に於いては、それは紛れも無く二律背反になる。「平面性」を取るか「立体性」を取るか。そして「もびもび」カタログの写真家氏は、それが「平面作品」であるが故に「平面性」を強調する事を選択した。それは全く間違いではない。しかしその一方で「立体性」を選択したとしても、それは全く間違いではないのである。


人間というのは因果なもので、絵の中に「奥行き」を感じてしまう。「具象絵画」は当然としても、「抽象絵画」であっても同断だ。例えば心理的に「飛び出して見える色」と「引っ込んで見える色」というものがある。前者は「赤」や「白」等であり、後者は「青」や「黒」等だ。しかし「高橋大輔」作品の場合、「飛び出して見える色」が物理的空間の「奥」に、「引っ込んで見える色」が物理的空間の「手前」に位置している事もある。或いは雑駁に「図と地」としても良いが、それが、現実空間内での「高橋大輔」作品では、「前後」関係が逆転している、或いは壊乱している様に感じられる箇所もある。カタログ写真はそういう事も「見せて」くれる。「図」が「地」の「後ろ」にあるという倒置。即ち「図」が描かれた後に「地」が描かれるという倒置。しかしそうした倒置は、古今東西の絵画に於いては驚くべき事でも何でも無かったりするのである。



「梅沢和木」氏の RGB 世界と CMYK 世界のハイブリッド作品は、前述「吉田晋之介」「二艘木洋行」「高橋大輔」各氏に見たものの帰結の一つに思える。RGB 世界と CMYK 世界の架橋という、極めて伝統的且つ依然として新しいとされるものにそれは関わっている。モニタスクリーン上の CMYK 絵具は、果たして RGB 世界の手前に存在しているのだろうか奥に存在しているのだろうか。或いはその CMYKRGB と同一平面に属しているのだろうか。恐らくその参考になるのはトロンプ・ルイユの厚い歴史だろう。


しかし個人的には「梅沢和木」作品は、「二艘木洋行」作品同様 RGB 世界に住まうのが「自然」だとも考える。そもそも「キャラクター」というのは、RGB 世界にいる方が活き活きとするものの様な気がする。「キャラクター」は発光体なのである。仮にそれを CMYK 世界で表現しようとするなら、発光するものを描いたり造形したりする技術が必要になるのではないかと思われる。



「金沢」展での「川村元紀」作品は、「川村元紀」氏自身が「手を下さない」というフェイズに入って二回目となる。今回作品制作の「指示書」を渡されたのは、「現代美術」とは近いとは言えない人物だという。「川村元紀」という名前も知らない人物であり、当然ながらその作品も知らない。とは言え広い意味での「美術」的なるものの世界に関係の無い人物でも無いらしい。


「東京展」に際しての「川村元紀」氏のツイートを引く。


ちなみに指示書としては結構ファジーな部分も多くて、結果的に出てくる作品は人や時間や偶然にかなり左右されると思うし、制作者の言語化できない感覚を揺さぶるものになっていると思う。


https://twitter.com/wamulamo/status/397380914348830720


「ファジー」というのは、その指示が形容詞や形容動詞に多くを委ねているという事であろう。「自宅を出て、展示会場に着くまでのあいだに寄れる場所で青いものを買い、インスタレーションの構成要素とする」。ここでは「青い」という形容詞がそれに当たる。「川村元紀」氏が意地悪く無く、且つ慎重なのは、同じ形容詞でも「美しい」という「ファジー」極まりない言葉を使用しなかった事だ。「自宅を出て、展示会場に着くまでのあいだに寄れる場所で美しいものを買い、インスタレーションの構成要素とする」。それではそれが「罠」であると気付く者にとっては「制作者の言語化できない感覚」が揺さぶられ過ぎるし、「罠」であると気付かない者にとっては「制作者の言語化できない感覚」が対象化されるに至らない。


今回の「青いもの」は、かなり「青いもの」だった。戯れに「青い青がある、青の青さといふ様なものはない」と言ってみる。しかし「指示書」の「青いもの」は、「青い青」「青の青さ」のどちらも示し得るだろう。加えて「青くない青」や「青でないものの青さ」も大いにあり得る。


(注:日本の)古代においてこれ(注:「あお(あを)」)は、現在の青色・緑色・紫色・灰色のような非常に広い範囲の色を総称して(漠色)用いられていたと考えられている。現代でもいくつかの語にそうした影響が残っており、特に緑色をさす「青」の用法は広く見られる。
また、各地方言で「あを」は黄色まで指していたとされ、『大日本方言辞典』によれば、青森・新潟・岐阜・福岡・沖縄といった地方では、青は黄も意味した。


古代ギリシャでは色相を積極的に表す語彙そのものが少なかった。 青色を表すためには2つの言葉、キュアノス (kyanos, κυανός) とグラウコス (glaukos, γλαύκος) が用いられたがその意味は曖昧である。前者のキュアノスはシアン (cyan) の語源でラピスラズリの深い青色をさして用いられたものの、むしろ明度の低い暗さを意味し、黒色、紫色、茶色をも表した。ホメロスはその深みを神秘的なものや、恐ろしげなもの、または珍しいものを形容するのに好んで使用している。一方、グラウコスは瞳や海の形容として用いられたが、青色、緑色、灰色、ときに黄色や茶色をも表し、むしろ彩度の低さを意味していた。


古代ローマでも青はあまり注目されず、青とされるラテン語のカエルレウス (caeruleus) はむしろ蝋の色、あるいは緑色、黒色を表していた。


Wikipedia「青」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%92


「東京展」にしても「金沢展」にしても、「川村元紀」作品の「指示書」は「現代日本人」に渡されて来た。何時の日か、その「指示書」は「古代日本人」や「古代ギリシャ人」や「古代ローマ人」、或いは「現代日本人」が想像も付かない感性を持つ人物に渡ってしまうのだろうか。その彼等の「青いもの」は、我々に「青いもの」として見えるだろうか。



「百瀬文」氏の《Calling and cooking》(2012年) を「もびもび」で見るのはこれが3回目だ。


《Calling and cooking》は、「首都圏のアパートのキッチン」と「遠隔地」を電話線で結び付ける事で、空間や意味の多重性を見せている作品と「まとめ」られたりもされる。「首都圏のアパートのキッチン」の女性が手にしているスマートフォンから聞こえてくるのは、「遠隔地」から発せられている声である。しかしレガシーな音声通話は、 Skype や FaceTime の様な「ビデオ電話」に比べて、相対的に通話の相手と「距離」を置く事が可能だ。仮に作中の電話が「ビデオ電話」であれば、モニタに映った「首都圏のアパートのキッチン」に立つ女性の「涙」に対して、「遠隔地」の相手は何らかの反応をしてしまうだろう。話題は「涙」にシフトし、女性はその「涙」の意味を説明しなければならない状況に陥るかもしれない。互いの状況が「見えない」事による「遠さ」。それがこの作品を成立させている。


女性は突然思い立って電話をした様だ。当然相手は面食らう。その時相手は何をしていたのだろうか。会話中の相手の表情はどうだったのだろうか。我々が見ている女性同様、何かをしながらの通話なのだろうか。しかし女性も我々もそれを知る術は無い。「首都圏」から遠く離れた「遠隔地」の金沢のモニタを前にして、その「遠隔地」の側の「見えない」状況の多重性が気になってしまう金沢の自分なのである。


電話は一種の「転送装置」だ。それは「スター・トレック」の "transport" と「同じ」技術である。物質を分解し、それを「ビーム」に乗せて遠隔地に送り、その目的地(受信地)に於いて元の物質と同様なものとして再構築する。声はここにあるが、ここには無い。テレビもそうだろうが、凡そ「tele」の接頭詞が付く技術はそういうものである。


瞬間つまらない妄想が頭を過る。この映像作品は、実はそのデータがアメリカや東京といった「遠隔地」にあるクラウドサーバ内にあって、それを金沢のモニタに映し出しているといった "tele-vision" だったらどうだろうかと。見た目は何も変わらない。しかし勿論そんな事はあるまい。「北加賀屋展」の時にはデータは「コーポ北加賀屋」の「ローカルマシン」に、「東京展」の時にはデータは「CASHI」の「ローカルマシン」に、「金沢展」の時にはデータは「問屋まちスタジオ」の「ローカルマシン」に空間的に「移動」している。それが映像作品の「巡回」という事なのだろう。


「百頭たけし」氏の作品の幾つかは入れ替わっていた。いつもの「サムネール」的な大きさで出力された作品。ふといつもの大きさでは無い出力をされた「百頭たけし」作品を想像してみた。例えばアンドレアス・グルスキーの大きさの「百頭たけし」作品であるとか、ヴォルフガング・ティルマンスの様な大小様々な写真を組み合わせた「百頭たけし」作品であるとか。


それはそれで見応えのあるものになる様な気もするが、「サムネール」的出力、及び「サムネール」的レイアウトで見えていたものは後退するだろう。そして気付くのは、これもまた「類型学」に関わるものであるという事だ。但しその「類型」は、蒐集の法則として予め設定されていたものではなく、並べられる事で見出されるものであり、溶鉱炉と給水塔と冷却塔とサイロと労働者住宅の間から見える様なものである。


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「問屋まちスタジオ」を出てバスで金沢駅まで行き、そこから近江町の「アートグミ」まで「テナント募集」の脇を歩く。


金沢アートグミ 5周年記念 SANDWICH | KOHEI NAWA」という展覧会である。自動化された「タシスム」を背後に会場に入ると、芸術作品の生産の様子を紹介した「 "KOHEI NAWA" の "SANDWICH" 」の PV が大画面で流されていた。4面で大画面である理由は定かではない。


「SANDWICH」は京都市伏見区宇治川沿いにあるサンドイッチ工場跡をリノベーションすることで生まれた創作のためのプラットフォームです。
スタジオ、オフィス、多目的スペースをはじめ、キッチンや宿泊設備を備えた空間では、名和晃平を中心としたアーティストやデザイナー、建築家など様々なジャンルのクリエイターが集い、 活発なコラボレーションを展開しています。造形や施工、グラフィックの専門家を集めた強力な制作スタッフ陣のサポートのもと、定期的に国内外の若手クリエイターが滞在し、互いに影響し合いながら、刺激的なプロジェクトが日々進行しています。


http://sandwich-cpca.net/about/index.html#01


金沢駅へ向かうバスの中で、「もびもび」展に「巨大モニュメント」を作る様な作家がいない事に気付いた。そしてその一方で、「造形や施工、グラフィックの専門家を集めた強力な制作スタッフ陣」に囲まれた「名和晃平」氏ならば、それが易々と「出来る」に相違無いと思ったのだった。

アンドレアス・グルスキー

昨夏「国立新美術館」で「アンドレアス・グルスキー」展を見た時に、何故か個人的な「懐かしさ」を覚えた。16時過ぎに入場というタイトな観覧だったので、その「懐かしさ」が何に由来するものかを、その時に突き止める事は叶わなかった。


以来「アンドレアス・グルスキー」に感じた「懐かしさ」が何だったのかがずっと気になっていた。「アンドレアス・グルスキー」を論じた文章も幾つか読んでみたが、「喉に刺さった小骨」の解決には遠いものだった。当然だろう。何故ならばそれは個人的な「懐かしさ」だからだ。「アンドレアス・グルスキー」をして「絵画的コンポジションとしての写真」と言われても全くピンと来ない。この個人的な「懐かしさ」は「絵画論」から説明出来るものではない。況してや「写真論」では尚更だ。100,000,000人中99,999,999人が「『絵画』的コンポジションとしての『写真』」や「『写真論』による『アンドレアス・グルスキー』」に大いに首肯するとしても、残り1人の自分はそれに納得し切れない。自分にとっての「アンドレアス・グルスキー」は、「写真」でもなければ「絵画」でもない。全く困ったものである。


「リベンジ」を期した「国立国際美術館」の「アンドレアス・グルスキー」展の一枚の作品の前で、果たしてその「懐かしさ」の正体は呆気無く判明した。



「F1ピットストップ(F1 Boxenstopp)」シリーズの内、フェラーリでもBMWザウバーでも(以上 "F1 Boxenstopp I" )、MF1トヨタでもマクラーレンメルセデスでも(以上 "F1 Boxenstopp II")、レッドブルフェラーリでもルノーでも(以上 "F1 Boxenstopp III")でも無い、トヨタとホンダが並んでいる "F1 Boxenstopp IV" が「日本での個展」に来ているのは、本展の出品作をセレクトした作家自身による日本向けの計らい(余計なお世話)なのかもしれない。但し実際のグランプリでは、コンストラクターズ・ポイントの関係上、両チームのピットが隣り合った事は無い。他の "F1 Boxenstopp" シリーズでも全く同じ指摘が可能だ。しかしこの様な「データ処理・加工(改竄)・流用」こそが「アンドレアス・グルスキー」と呼ばれる「適切」なのであり、当然の事ながら「芸術作品」という因業は、「ネイチャー誌」に代表される様な「科学論文」という因業とは異なるものである。芸術の適切(誠実)はしばしば科学の不適切(不誠実)であり、科学の適切(誠実)はしばしば芸術の不適切(不誠実)だ。その両者の差異はそれぞれに尊重されるべきであり、芸術に属する者が科学に物申す、或いは科学に属する者が芸術に物申すというのは、しばしばその指摘自体がそれぞれの世界に於ける「信頼性」の差異を無視した極めて「頓珍漢」なものになり勝ちである。


といった事は全くどうでも良い話としてさておき、この「F1 Boxenstopp IV」を見て瞬間的にこういうものを思い出してしまうのもまた、全く自分が絡め取られているところの因業と言うべきものであろう。



(C)MINICHAMPS(ドイツ)


そうか、ジオラマ模型か。「アンドレアス・グルスキーはジオラマ模型である」。その雑な思い付きだけを頼りに、再び入口方面に会場内を「逆走」して作品を見直してみた。ああ、これも、それも、あれも、確かに「懐かしい」ジオラマ模型の手口そのものだ。この画面のサイズにしてみたところが、まさしくジオラマ模型のそれだ。写真と思えば大きいと言えるのかもしれないが、ジオラマ模型と思えば納得のサイズではないか。


ツール・ド・フランス」をオブジェクティブなジオラマ模型で「作る」となったら、フィギュアは 1/87の "Preiser(ドイツ)" と ”FALLER(ドイツ)" と "MERTEN(ドイツ)" と "NOCH(ドイツ)" を混ぜて使おうか。「ピョンヤン I」のフィギュア原型は、市販品の東洋人フィギュアに良い物が無いのでフルスクラッチとするべきだろう。しかもそれを複製した後に、一体一体の顔や体型やポーズを微妙に変えなければならないから、仕事としては見た目以上に結構面倒臭い。「シカゴ証券取引所 III」はこの人に外注してしまうのが楽な気がする。「ライン川 II」の水面の表現はどうやったら良いだろうか。「地面」や「水面」や「カーペット」等は、数十倍位の拡大模型にしなければならないかもしれない。さてもこれだけの仕事をするとして、見積額は幾ら位にすれば良いだろうかと計算してみたら、「史上最高額」の写真家「アンドレアス・グルスキー」の値段とそう大して変わらない事が判明した。型を作ったり、離型剤を塗ったり、注型したり、脱脂したり、整形したり、パテ埋めしたり、サフェ吹きしたり、着色したり、大量のバイトを雇ったり、それなりの規模の工房を構えないでジオラマ模型が出来るところに、「アンドレアス・グルスキー」のオブジェクティブな「ジオラマ模型」に対する圧倒的優位性を感じる。確かに現地に撮影しに行かなければならないのは少しばかり面倒だが、しかしこれもまた、それぞれの現地に赴いてのディテール撮影、及びスケッチ取材をしているのである。


そして記憶は過去へと遡った。四半世紀前の自分の手の中には、1/25スケールのノイシュヴァンシュタイン城の原型(フルスクラッチ)があった。その日屋根が組み上がった楼閣の筋彫を入れていたそのテーブルには、首都圏の多くの美術大学卒業者が作った1/25フィギュア(身長7センチ・フルスクラッチ)の原型が集まっていた。それらを元にして、不飽和ポリエステル樹脂(ウレタン樹脂で無いところに時代を感じる)で複製された14万体のフィギュアは、様々な衣装に造形し直され、様々なポーズを取らされ、様々な設定に嵌められ、それぞれのドラマを演じさせられたのである。



http://www.tobuws.co.jp/enjoy/detail/#drama


再び「アンドレアス・グルスキー」の「F1 Boxenstopp IV」の前に立つ。「F1 Boxenstopp IV」の画面中の全てのものは、作家が手にした「ピンセット(マウス)」で「置かれて」いる。マウスでペイントし直され、必要以上に「猥雑」なものや「余計」なものを徹底して片付けられたピットレーンに、ロリポップをドライバーに翳す「フィギュア」、マシンをジャッキアップする「フィギュア」、タイヤを外す「フィギュア」、タイヤを嵌める「フィギュア」、インパクトレンチでボルト締めする「フィギュア」、リフュエールする「フィギュア」、オーストラリア・メルボルンのアルバート・パーク・サーキットのピットに酷似している(しかし明らかに異なる)ピットガレージ上から外を見るパドックパス招待客の「フィギュア」、そしてあらゆるアイテムの「縮小モデル」が、「ジオラマ模型」的な美意識に基いて「適度」に「置かれて」いる。そればかりか、現実のピットではこうした事態が起こり得る("F1 Boxenstopp" シリーズの「撮影」は、マシンや参加チームから判断して2006年シーズンであり、当時はレース中の給油が認められていた)為に、気温が幾ら高かろうとも耐火性のオーバーオールとヘルメットの着用が義務付けられているピットクルーのすぐ横に、ピットウォークタイムにしか現れない様な肌の露出が多い衣装に身を包んだ女性の「フィギュア」まで「サービス精神」旺盛に「置かれて」いる(作品中央)のは、東武ワールドスクウェアのミラノ大聖堂の前にベスパに乗るオードリー・ヘプバーングレゴリー・ペックのフィギュアが「置かれて」いたり、万里の長城三蔵法師一行のフィギュアが「置かれて」いる様なものだろう。まさしく「アンドレアス・グルスキー」というのは、そうしたノリ(いい加減さ)で制作されているものである。


模型の表向きの原則は「現実の即物的再現」であり、それはまた写真の表向きの原則でもある。従ってそれを信じる模型の世界に親しくない人や、写真の世界に親しくない人の多くは、それらに「本物そっくり」を見ようとする。しかし模型が「本物そっくり」に作られた事など一度も無く(図面上の数値は飽くまで「参考」程度に留まる)、写真が「本物そっくり」に作られた事もまた一度たりとて無い。模型は「省略」であり、写真もまた「省略」である。「省略」でしかない「模型」をそのまま「実物大」まで「拡大」し、「実物大模型」として「現実」化したとしても、「模型」の「省略」語法ばかりが目立つ間の抜けた造形になるしか無いのは、嘗て「ガンヘッド実物大模型」を作った経験上言えるところだ。仮に「アンドレアス・グルスキー」をそのまま「実物大」にしたとしても、それは「実物大模型」以上のものにはならない。「アンドレアス・グルスキー」の大部分が、「大画面」ではあっても飽くまでも「縮小模型」であるところが、恐らく「アンドレアス・グルスキー」にとって譲れない「肝腎要」なのだと思われる。「アンドレアス・グルスキー」に「精密」が見えるとすれば、それはまた「模型」の「精密」にも似る。


話は逸れるが「ジオラマ模型」と言えば、少し前まで現実風景をミニチュア模型に見える様に変換する逆ティルト系の「ジオラマ効果(フィルタ)」が流行っていた事がある。その方法論は今ではすっかり陳腐化しているが、それが大衆化する以前にはそうした作品を作る写真表現者も何人かいた様に記憶する。



被写界深度を極端に浅くする「ジオラマ効果」によって、風景がミニチュアに見えるというのは、人類のものの見方が「写真」によって矯正されたからだろう。それは被写界深度という光学特性が、「光学レンズ」というテクノロジーによって初めて意識化される様になった後の「感覚」であり、それは「写真」誕生以降の「思い出」が「セピア色」に感じられる様なものである。果たして「写真」誕生以前の人類にとって、「ジオラマ効果」によるそれが「ミニチュア」に見えるかどうかは判らない。「光学レンズ(眼鏡は別)」を通さずに「ジオラマ模型」の前に立った時、人は「ジオラマ効果」の様には決してそれを見ないからだ。「大脳」という「演算処理装置」と繋がっている目は、常に対象物にピントを合わせに行く。意識的にピント合わせの「演算処理」をキルしない限り、それは極めてオートマティックに行われ、それが意識される事も無い。そして膨大に収集されたピントの合った断片的な光景を、「大脳」中の「画像処理ソフト」が「無意識」的に総合して行く。「アンドレアス・グルスキー」は、我々の目/大脳がミニチュア模型を見る様に、自らの「ジオラマ模型」を組み上げて行く。即ちそれは、或る意味で人類の「(目/大脳の働きである)視覚」に鑑みて極めて「真当」で「自然」な方法論なのであり、「光学レンズ」というテクノロジーの持つ特性的な「限界」に「視覚」の「自由」を奪われない為に(「ジオラマ効果」はその「限界」に意識的に囚われに行く「倒錯」である)、「写真」を「ジオラマ模型」にする事で「写真」の魔手から逃れようとする。


アンドレアス・グルスキー」に「絵画」を見るというのは誤った見方とは言えない。しかし世界を「模型」化する欲望こそが、「絵画」という表現方法を成立させたとしたら果たしてどうだろうか。しかしそれは話が些か長くなるので別稿に委ねたい。


最後に「ベッヒャー派」関連で模型ネタをもう一つ。タミヤ辺りでこういうシリーズを出してくれないだろうか。



ウォーターラインシリーズ」の様に「給水塔シリーズ」や「溶鉱炉シリーズ」を1/72スケール位でラインナップするのである。箱絵は版権の関係があるから "Bernd und Hilla Becher" の写真は使用出来ないが、自社イラストレーターによるイラストならば十分に可能だろう。鉄道模型の "FALLER" 社辺りにも「給水塔シリーズ」はあるにはあるが、しかしかなり手抜かれた造形のそれらよりも精密な、 "Bernd und Hilla Becher" の写真を彷彿とさせるものを期待したい。それが無理ならタカラトミーアーツ(ユージン)のガチャガチャでも良い。そして晴れて発売された暁には、絶対に「大人買い」する事を今から約束するのである。


しかし「1/700 ウォーターラインシリーズ」にしても、「1/35 MMシリーズ」にしても、「1/20 グランプリコレクション」にしても、「1/48 傑作機シリーズ」にしても(以上タミヤの例)、模型の世界は "Bernd und Hilla Becher" が現れるずっと前から「タイポロジー」だったのであり、模型屋のショーウィンドウはそのまま "Bernd und Hilla Becher" であった。


極めて安価に "Bernd und Hilla Becher" 気分になれる、同一スケールの「給水塔」のミニチュアシリーズ。 それもこれも "Bernd und Hilla Becher" が模型的だからこそ可能な事だ。「ベッヒャー派は模型である」。これもまた「アンドレアス・グルスキーはジオラマ模型である」同様、自分だけが納得すれば良い、極めて個人的な思い付き、及び Note である。

MOTアニュアル2014 フラグメント―未完のはじまり


「ファーブル昆虫記」(Souvenirs entomologiques=昆虫学的回想録)で知られる、ジャン・アンリ・ファーブル(Jean Henri Fabre:以後「ファーブル」)のブロンズ像二体である。「立像」は、サン・レオン(Saint-Léon)の生家(現 "Micropolis" 内)前に建立され、一方の「坐像」は、晩年を過ごした "Harmas"(アルマス=プロヴァンス語で「荒れ地」:現在記念館)がある南仏の村セリニアン(Sérignan)の教会横に建立されている。サン・レオンの立像は上着の襟を遮光フードにしてマツノギョウレツケムシ(松の行列毛虫=Thaumetopoea pityocampa)を拡大鏡で観察している姿であり、一方のセリニアンの坐像は切り株に腰を下ろして寛ぐ姿である。「坐像」のファーブル氏が左手に持っている拡大鏡は自身の膝に向けられていて、座るファーブル氏にとってのそれは拡大鏡として機能していない様に見える。


下掲画像は、ファーブル氏の生涯を描いたアンリ・ディアマン=ベルジェ(Henri Diamant-Berger 1885-1972)による映画 "Monsieur Fabre(1951)" のスチール写真である。



「ファーブル昆虫記」第一巻冒頭に登場する、同書の「スター」とも言える「スカラベ・サクレ(Scarabée sacré)」(実際には氏が誤同定した南仏のタマオシコガネ)を観察するファーブル氏は、極めて当然の事ではあるが、地表で動物の糞を転がすそれを仔細に観察する為に、「屈む」姿勢(映画では「立膝」にもなる)を取る。或る意味で、ファーブル氏の業績を称えるに最も相応しい彫像は、「立像」でも「坐像」でも無く「屈像」になるだろう。しかし「(西洋)彫刻」の伝統に「屈像」という「形式」は存在せず、またそれ以前に「屈む」姿を称える「美学」も存在しない。


生家に建つ「彫刻」は、「昆虫観察者」としてのファーブル氏の業績と、「立像」という「彫刻」上の「美学」との「妥協」の産物である。その「妥協」を実現する為に、「立像」にとって極めて都合の良い高さにマツノギョウレツムシが位置している。言わば造形上の「要請」であるものを、恰も「自然」に見えるものとする為に、「立木」の造形が「後付」的に「必要」とされ、その結果としてマツノギョウレツムシの位置も逆算的に且つ厳密に決定されている。この「立像」に於けるマツノギョウレツムシは、正確にその位置にいなければならない。そこから30センチ下でも上でもあってはならない。「彫刻」の中のマツノギョウレツムシは、「彫刻」という「形式」によってその「行動」を抑制される。「美学」に「現実」を合わせるという「辻褄合わせ」もまた「彫刻」の基本的で重要な技術の一つである事は、凡そ「彫刻家」であれば誰もが知っている事であり、且つ誰もが身に覚えのある事であろう。


ナダールが晩年のファーブル氏を撮影している。



「アルマス」のラボの「椅子」に腰掛けて、「卓上」に置かれた「飼育ケース」内の「微細な世界」を「拡大鏡」で覗く「観察者」ファーブル氏の姿だ。微細な世界 ⇔ 飼育ケース ⇔ 卓上 ⇔ 椅子 ⇔ 拡大鏡 ⇔ 観察者。「屈む」姿勢と同様、「微細なものとの幸福な距離感」がここにも見られる。但し「屈む」姿のファーブル氏の写真は残されていない。

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"断片"や"かけら"といった小さな破片を意味する言葉――「フラグメント」。本展に登場する作家たちは、彼らの身の回りにある現実からこぼれ落ちたフラグメントを用いて、独自の世界を築いていきます。市販のプラスチックのパーツを際限なく組み合わせる、トランプカードや消しゴムに緻密な細工を施す、見慣れた風景のイメージを切り取り多層化させる・・・・・作家たちの手法は様々ですが、いずれも世界に溢れる選択肢の中から自分だけのフラグメントを意識的に選び取り、それとの接触を通して世界を捉えなおそうとする姿勢に特徴があります。
本来、不完全で脆弱な存在であるフラグメントは、どこか欠けているがゆえに見る者の想像力をかきたてるものですが、作家たちの接触が加わることにより、見る者を"ここ"からどこか別の場所へと誘ってくれるでしょう。
日々過剰に生み出される情報が錯綜し、多くの人が自らの処理能力や認知に限界を感じる今日。フラグメントを起点にした作家たちの手探りの実践は、新たな視点で世界とアクセスする手がかりをわれわれに与えてくれるのではないでしょうか。


「MOTアニュアル2014 フラグメント―未完のはじまり」展覧会概要より抜粋
http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/mot2014.html


「MOTアニュアル2014 フラグメント―未完のはじまり」展(以下「フラグメント」展)の会場内で、「6人/組」の作家の制作状況を想像してみた。映像の「宮永亮」氏は「撮影」と「編集」の状況を分けねばならないとしても、「編集」は「卓上(デスクトップ)」で行われていると想像される。その他の多くの作家も、多かれ少なかれ「椅子」に「腰掛け」て制作しているだろう事は想像に難くない。そればかりか「郄田安規子・政子」氏の一部作品(「庭園迷路」)に至っては「屈む」姿勢によって生まれているとも言える。


制作中の作家がそうであった様に、これらの作品が腰掛けたり屈んだりして見る(見なければならない)位置にあり、観客もまた腰掛けたり(「宮永亮」氏の展示室での「腰掛ける」とは異なる)屈んだりして作品を見てみたらどうだろうかと会場内で妄想してみた。例えば展示室が畳敷きで、そこに卓袱台があり、その上に「青田真也」氏の「ボトル」、「郄田安規子・政子」氏の「軽石」や「トランプ」や「吸盤」、「福田尚代」氏の「原稿用紙」や「消しゴム」や「栞」等が展示されていて、観客はその卓袱台の前に座ってそれらを見るのである。


「西洋文明」の産物である「美術館」や「博物館」は、観客に「立って見る」事を強いる「装置」である。例えば多くの「仏像」や「屏風」や「襖絵」や「巻物」がそれらの場所で展示される場合、「立って見る」事に最適化された「展示」がされる。「仏像」や「屏風」や「襖絵」や「巻物」は、台座に載せられるか、展示ケースに入れられるかされ、「立像」のファーブル氏の持つ拡大鏡の高さまで連れて来られたマツノギョウレツムシの様に、「立って見る」目の位置まで引き上げられる。それらを「立って見る」事は、それらが元々属していた場所での「座って見る」や「屈んで見る」とは全く異なる体験だ。「美術館」や「博物館」の一般的な展示の「原則」は、「初めに『立って見る』事ありき」であり、それが疑われる事は無い。この「フラグメント」展もまた、その「原則」に「忠実」であると言える。


「フラグメント」展の作家は、その制作過程に於いて、やがて作品となるだろうものが持つ「微細な世界との幸福な距離感」を以ってその手を進めているだろう。その「微細な世界との幸福な距離感」に於いては、それは「不完全で脆弱な存在」でもなければ「どこか欠けている」ものでもなく、それ自体で「全体性」を有している。ファーブル氏にとっての「飼育ケースの中の世界」が、決して「現実からこぼれ落ちたフラグメント」ではない様に。或いは「全体」であると同時に「断片」でもある様に。



腰掛けて、或いは屈んで見る「フラグメント」展の作品は、作家の「微細な世界との幸福な距離感」を共有出来る様な気持ちになれるかもしれない。「郄田安規子・政子」氏のプロジェクト《修復/東京都現代美術館》は、「スカラベ・サクレ」を観察するファーブル氏の様に観客に「屈む」事を許し、「微細な世界との幸福な距離感」を、作家と共有する事が可能に思える数少ない展示の一つだろう。嘗て京都のギャラリー「モーネンスコンピス」の「本の梯子(福田尚代・かなもりゆうこ)」展では、「福田尚代」氏の《ランボーの手紙 #00》が、プライベートな形で観客に手渡された事もあった。その時「ライトボックス」による展示では得られない「微細な世界との幸福な距離感」が、作家の言うところの「空を仰ぐと、彼らは光と言葉の粒子となり、太陽に溶け、霧散し、〈うた〉となり、此岸と彼岸を行き来」する瞬間を観客に共有させてもくれたのである。


前回の「MOTアニュアル2012 Making Situations, Editing Landscapes 風が吹けば桶屋が儲かる」展は「連関」の展覧会だった。それは「展覧会」の「外部」へと「連関」として「繋がる」ものだった。しかし今回の「フラグメント」展に「外部」は無い。「連関」も無ければ「繋がる」も無い。それは「ファーブル昆虫記」同様、「世界との関係の在り方」をこそ持ち帰る展覧会だ。その世界は「否定」的にではなく「肯定」的に現れる。だからこそ観客が何処へ帰ろうとも、何処へ行こうとも、そこでの「波」や「ボトル」や「軽石」や「トランプ」や「吸盤」や「苔」や「原稿用紙」や「消しゴム」や「栞」や「プラレール」を始めとする様々な「フラグメント」を、ファーブル氏の「スカラベ・サクレ」の様に「微細な世界との幸福な距離感」を伴って「観察」する事が可能になるのだ。

油断/VOCA展2014/B-things and C-things at A-things

東京都千代田区北の丸公園1-1(気象庁露場)の気温=「東京都心の気温」が22.2度になった3月最後の土曜日に、「上野の森美術館」に足を運んだ。


Yahoo!翻訳」に「上野の森美術館」を入れてみると、その英訳は「Forest Museum of Ueno」になるが、「上野の森美術館」の「正式」英名は、民族系ホテルや結婚式場の名称をも思わせる「Ueno Royal Museum」である。因みに同翻訳サービスに、今度は「Ueno Royal Museum」を入れてみると、その日本訳は「上野国王の博物館」になるが、勿論ここは「上野の森美術館」でなければならない。一方「Google翻訳」では、「上野の森美術館」⇔「Ueno Royal Museum」という「正確」な訳になる。相対的に「正直=イノセント」な翻訳は「Yahoo!翻訳」だと思われるが、「Google翻訳」の方が「賢い=抜け目の無い」翻訳である。


千数百個のボンボリが吊るされた上野恩賜公園は、すっかり「うえの桜まつり」モードであり、そこには常ならぬ花の天蓋によって、常ならぬ状態になった人達が何万人もいた。「上野の森美術館」の入口前の「テント」には、まだ3月の身体が対応し切れない22.2度(参考値)の炎天と、1日辺り100万人の人混みを避けようと、疲れ切った顔の善男善女が「テント」の「布基礎」に何人も腰を下ろしていて、さながらそこは「野戦病院」の趣であった。


その「野戦病院」に併設している「上野国王の博物館」、もとい「上野の森美術館」では、二つの展覧会が行われていた。片一方は「一般・大学生500円 高校生以下無料」の「VOCA展2014」であり、もう一方は「入場無料」の「郄柳恵里<油断>」展だった。「入場無料」の方に最初に入った。


さりげなくさりげある作品「一面 砂利」を見ていると、「郄柳恵里」展の会場に「龍の柄が大きく刺繍された白ジャージの上下」をキメているヤンパパ(と観察され得る人)と、相対的に地味な装束のヤンママ(と観察され得る人)と、それら両親よりも遥かに地味な御子息(と観察され得る幼児)という三人連れが足早に入って来た。彼等は1分後には「郄柳恵里」展の人では無くなってはいたが、それでも「白ジャージ」氏は全ての作品を見て回っていた。その1分間の中では、「一面 砂利」の前に立つ時間が相対的に最も長く、「2m(ルールとアバウト/K)」は一瞥に終わっていた。但し「ヤンキー」とも観察され得る風体だからというそれだけの理由で、或いは滞在時間1分間というそれだけの理由で、「現代美術が理解出来る筈が無い」と思い込むのは早計というものだ。況してやそれが「現代美術が理解出来ない奴はヤンキーに決まっている(「ラッセンが好きな奴はヤンキーに決まっている」でも可)」となると、「在日認定」の様な「ヤンキー認定」となってしまうだろう。それもまた「ヤンキー」の特性とされる「反知性主義」と似たり寄ったりと言うべきものである。果たして「白ジャージ」氏一家の目には、「郄柳恵里」はどう映ったのだろうか。


1999年の「VOCA展’99」に、「ラプンツェル」と「highland hike」という「平面作品」を出品(推薦:前山裕司氏)して「VOCA奨励賞を受賞した」という「縁」によって企画された「同展覧会にゆかりのある作家の小企画展」が、この「郄柳恵里<油断>」展という事である。「現代美術の展望----新しい平面の作家たち」という 20年間変わらぬ「伝統」の「設定」と、20年間変わらぬ「伝統」の「審査員」が審査する「平面」の展覧会の「関連企画」という事で、現在「平面作家」とカテゴライズすればカテゴリー・ミステイクにすらなる「VOCA奨励賞」受賞作家「郄柳恵里」氏は、本館で行われている「VOCA展2014」に対しての「思い」を、会場に置かれたリーフレットを通して綴っている様にも思えた。


「一面」のこと


例えば、コピー用紙が落ちて床の隅でペランとなっている様子など、実によく見かける状態です。ルーズな感じであるとか、自然な感じであるとか、印象は簡単に持つことができますが、よくよく見れば、それは、それ特有の「かたち」や「機能」を持っていて、そこではいろいろなことが起きている、とも思えてくるのです。ここでは紙は紙らしくあるだけですが、たとえば、その軽さや重さやスケールや、床面の立場や壁面の立場のことなど、状況をどんどんはっきりさせなくしてくれます。ペランとした紙切れに正面から取り組んでみました。


床の面があって壁の面があって、紙も一面ではあるけれど、果たして何面であるのか。
展示台に一面の紙を展示してみると・・・。
トロ箱のなかで砂利も面を持ち・・・。


一面のことを思うについては、同時開催の平面作品の展覧会である VOCA 展のことも少々意識しました。そして、ギャラリースペースの階段部分に設置されたバリアフリー対応のスロープの「かたち」や「機能」のことも。


「一面 紙切れ」と題された作品が4点あった。その何れもが何も描かれて/書かれていない真っ白い紙だった。「3000×1382mm」「1450×1102mm」「420×297mm」「364×257mm」という大小様々な白い紙は、その内の3枚が撮影スタジオのホリゾント幕(サイクロラマ)の様に、「床の面」から「壁の面」に渉る形で「ペラン」とそれらの「面」に沿っている。「1450×1102mm」の1枚は、紙よりも小さい「展示台」の上に「展示」されている為に、「展示台」からはみ出た部分は、やはり「ペラン」と垂れ下がっている。「床の面」と「壁の面」はそれが「別々」の「面」と看做されるが故に「二面」と数える事が可能だが、果たしてそこをRで繋いでいる部分はどちらの「面」に属するのであろうか。或いはそこは「無限面」なのだろうか。しかし一方で紙はやはり「一面」である。「二面」にそれぞれ沿う「一面」という矛盾がそこにあり、また「無限面」を持つ「一面」というのも矛盾である。


注意深く見てみると、「3000×1382mm」の「一面」は、床に接した「面」が所々波打って浮き上がっており、また壁に面した「面」も同様に諸所で浮き上がっている。「420×297mm」(所謂「A3」)や「364×257mm」(所謂「B4」)にもそれが見られる。「展示台」の「1450×1102mm」では、「一面」が「展示台」から垂れ下がる直前に一度微妙に持ち上がり、それから下方向へ向かっている事が見て取れる。その「持ち上がり」部分は「展示台の水平面」に密着している様で密着していない。それらの「浮き上がり」や「持ち上がり」もまた「一面」の中の「無限面」だろうか。


仮にこの「紙」が「白紙」ではなく、そこに「絵」が描かれていたらどう見えるだろう。しかも「現代美術の展望----新しい平面の作家たち」の「VOCA展2014」の会場内にあったとしたら。たちまち「白紙」の時に見えていた殆ど全てのものは消え失せてしまうに違いない。「絵」が描かれている以外は全く「同じもの」であるにも拘わらず、「絵」になった瞬間からそれらは見えなくなる。「一面」の具体性は失われ、「絵」から遡行的に見出された「平面」の抽象性が頭をもたげる事で、「平面」になった「一面」は、痩せた概念としての「シュルファス」の対概念の、痩せた概念としての「シュポール」に成り果てる。


「一面」という言葉が入る「一面の真理」という言葉がある。それはそこ(「一面」)で言われる「真理」が相対的なものであり、或る観点を取る限りに於いてのみ「真理」であるという事を示している。「一面の真理」は、多くはその後に「〜でしかない」を繋げて「一面の真理でしかない」という使用をされる。果たして「平面の真理でしかない」という言葉はあり得るだろうか。日本語にはそれに似た意味を持つ「平面的(その表面のみを見て論じたり表現したりするさま:大辞林)」という言葉はある。


ここで思い出されるのは、あの「4'33"」に対して、他ならぬジョン・ケージ自身が述べたコメントである。


They missed the point. There’s no such thing as silence. What they thought was silence, because they didn’t know how to listen, was full of accidental sounds. You could hear the wind stirring outside during the first movement. During the second, raindrops began pattering the roof, and during the third the people themselves made all kinds of interesting sounds as they talked or walked out.


彼等は、凡そ無音とされる様なものが、そこには存在していなかったというポイントを見逃している。彼等は「ものの聞き方」というものを知らないが故に、意想外の形で満ち溢れていた音を、無音であると思い込んだのだ。第一楽章の間中、外で風がそよいでいたのを、第二楽章では雨粒が屋根を叩くのを、第三楽章では喋り出したり、席を立ったりといった、聴衆自身が発するあらゆる興味深い音を聞く事が出来たのに。(拙訳)


しばしば「音楽」は「意想外の形で満ち溢れていたもの」を覆い隠す。さしずめ「BGM」と言われるものがそれだろう。「意識操作」としての「BGM」の目的は、「BGM」が差し出すもの以外の物事に対する感覚を奪おうとするところにある。「楽しいBGM」は「楽しい」気分に、「悲しいBGM」は「悲しい」気分に、「不安なBGM」は「不安」な気分に、「感動のBGM」は「感動」の気分に人々を誘導する事を狙う。


リーフレットの作家コメントを全文引く。


展覧会によせて


「油断」は、私の制作における姿勢の一つについての言葉です。油断した状態で物事に接することが、実に多くの発見を生んでいる、ということはないでしょうか。


ちょうど一年前に開催した個展に、私は「不意打ち」というタイトルをつけました。目前の物事の居場所をどこかに落とし込もうとする間(ま)を自分に与えないように、私自身に不意打する、ということ。


今回の「油断」は、自身を不意打ちするとき、さらに、自分は油断している状態でいたい、ということです。決して、鑑賞される方々に、油断なさらず、と言っているのではありません。自身が油断している状態で不意打ちされることで(ひどい感じですが・・・)目の前のものはどうやっても名付けられないものとしていてくれる、と思っています。物事を受け入れる待機をしようとすることから、如何に逃れることができるか、といったようなことです。そして、そういった地点でこそ、発見し何かが生まれ、本質に触れることができるような感覚を覚える、といったことが起きている気がしています。


展示については、一見知っているようなものが、実は知らないものとしてあって、注意深くかつ大らかに、そこで起きている出来事に触れることができるような展示にしたいと考えました。そこにある名付けられないそのことに、どのようにして触れることができるのか、どのようにして知ることができるのか、そんなことを思っています。


郄柳恵里


「本質に触れる」というのは、「本質」なるものが既に「受け入れ」可能な形で存在していて、それに「触れる」事さえすれば良いという訳では無い。「物事を受け入れる待機をしよう」としても、実際にはそこに何がある訳でも無い。「発見」とは「言語」の働きによって意識化する事(「何かが生まれ」)であり、ここで述べられている「触れる」というのは、そうした意識化のプロセスを言う。しかしその様に「言語」の働きによって「発見」されたものは、「どうやっても名付けられない」=「言語には収まらないもの」である。


4枚の白紙を40分間以上楽しんだ。実はもう少し楽しめたのだが、「次」が控えているというスケジュール上の「事情」もあって、止む無くその場を去る事にした。一方「一面 砂利」の前に立っていた時間はそれ程は長くなく、また2つの「ルールとアバウト」や「置き石」と関わっていた時間も相対的に短いものだった。それらはこの「展示室」ではない場所で見たかった様な気もする。寧ろ「一面 砂利」などは、「黄身が白身の中心から外れてしまった目玉焼き」を見る度に思い出される様なものかもしれない。

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VOCA展2014」は33名を40分で回った。4枚の白紙に費やした時間と大体同じである。「次」が控えているのでこういう時間配分になったが、しかし「VOCA展2014」に40分というのは、「平均値」的にはかなり高めの滞在時間である様も気がする。


最早「伝統」となった 4名の「常任審査員」に加えて、2名の「非常任審査員」による「選考所感」の中には、「絵画のもつ多様性を強く印象づけられました。特に二つの領域があって、選考する際に、少々難儀しました(酒井忠康氏=「常任審査員」)」とある。「賞」と言えば、あの「日本レコード大賞」が、現在に至る長期衰退傾向を迎えた1990年から3年間、「ポップス・ロック部門」と「歌謡曲・演歌部門」という「二つの領域」に分けて、それぞれに「日本レコード大賞」を選ぶという試みがされた。確かに日本の大衆音楽の「多様」な楽曲の中から「作曲、編曲、作詩を通じて芸術性、独創性、企画性が顕著な『作品』」、「優れた歌唱によって活かされた『作品』」、「大衆の強い支持を得た上、その年度を強く反映・代表したと認められた『作品』」を選ぶのは、「少々」どころか「かなり難儀」な仕事だろう。


「日本の大衆音楽」を「二つの領域」に分けた初年度1990年の「ポップス・ロック部門」の「日本レコード大賞」は、B.B.クイーンズ「おどるポンポコリン」であり、「歌謡曲・演歌部門」の「日本レコード大賞」は堀内孝雄「恋唄綴り」だった。「おどるポンポコリン」と「恋唄綴り」のどちらが「音楽」として優れているかという選択は、その「多様性」を前にして「難儀」の上にも「難儀」であり、且つその設定自体が馬鹿馬鹿しいものとも言えるが、確かにこうした方法を取れば、そうした「難儀」の幾分かが解消される様な気分にはなれるかもしれない。但し「二つの領域」に分けた「日本レコード大賞」は、僅か3年でその「試み」を捨て、再びその年を「代表」する「日本レコード大賞」は一つになり、毎年の様に「EXILE」と「AKB48」の間でそれは争われている。こうして「日本レコード大賞」は「相も変わらぬ」ものとなった訳だが、当然「音楽」はこうした「相も変わらぬ」ものばかりではない。恐らく同賞の「相も変わらぬ」事が見えないのは、その審査関係者ばかりなのであろう。


「絵」に没入するという体験は、「音楽」に没入する体験にも似る。それはそれで楽しい事だ。「現代」になるまで「絵」というものは概ねそういうものだった。但し直前に見た「郄柳恵里」からの切り替えには予想通り苦労した。両者の「読み取り」の意味は全く異なる。ここで無理をして「郄柳恵里」の様に見る必要は全く無い。「描かれたもの・こと/書かれたもの・こと」を、時々認識の次元を変えながら「読み取り」して行った。


「多様」で分厚い33冊を1週間で読む事にも似て、「多様」で長大な33曲を1日で聞く事にも似て、「多様」で「多弁」な33名の「描かれたもの・こと/書かれたもの・こと」を40分で「読み取り」する事にすっかり疲労した。毎食前に1枚であるとか、毎食後に1枚であるとか、朝夕1枚ずつであるとか、「絵」に関してはその位が自分には「摂取量」として丁度良いのだろう。医者から処方されるパンパンに膨らんだ薬袋にも似て、真面目にそれを「飲め」ばそれ以上は「副作用」が出る。


「片岡さん」「建畠さん」「高階さん」「酒井さん」「笠原さん」「本江さん」等々の名前や「絶対300万」が「絵」の中に飛び交う、「体当たり」の「特攻機」も展示された会場を後に、「花見」の上野恩賜公園に再び出た。圧倒的な情報量の多さを持つ「花見」の「多様」を前にして、思い出されるのは「白い紙」の事ばかりだった。

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東京都現代美術館横浜美術館を経由して吉祥寺に向かった。吉祥寺駅に着いたのは16時30分だった。「関東バス」と「徒歩」を天秤に掛け、「関東バス」の到着を待つ事にした。その選択は、到着時間5分の差を以って正しかった。これで5分間だけ余計に作品が見られる。


B-things and C-things at A-things(以後「ポンチ絵」)」と題された展覧会だった。作家名は「おかざき乾じろ」であった。壁面中にびっしりと展示された「ケース」入りの「ポンチ絵」の大部分に「売約済」のピンが刺さっていた為に、自分が「売約」に参加する事は叶わなかった。


「あかさかみつけ」という言葉がギャラリー内の複数の口から聞こえた。懐かしい言葉だが「あかさかみつけ」からは30年以上の時が経っている。その「あかさかみつけ」を「図画工作」であるとした指摘が何処かでされていた様に記憶する。成程そうなのかもしれない。そこで言われている「図画工作」が、ポジティブな意味を持つ言葉なのか、ネガティブな意味を持つ言葉なのかは良く判らないが、仮に「あかさかみつけ」を「図画工作」であるという理由で切り捨てるのであれば、それはまた「郄柳恵里」を「紙を置いただけ」として切り捨てる感性にも似るだろう。果たして「図画工作」は、「図画工作」の一語で切って捨てられる程までに、それを見る価値の無いものであろうか。


今回の「ポンチ絵」は、80年代前半の「あかさかみつけ」よりも、個人的にはその直後の80年代中頃の作品に近い印象を受けもするが、それは多分に外見的相似性によるものだ。或る意味で「VOCA展2014」の対極にある「肩の力が抜けた作品」という印象を持った。使用されている「支持体」は、「丘設計事務所」と印字された「方眼紙」である。この「建築事務所」の「方眼紙」は或る日を境に大量に「手に入れた」ものだそうだが、その来歴に多くを委ねて語るべきでは無いだろう。


「郄柳恵里」は「方眼紙」を使わなかったが、「おかざき乾じろ」は「方眼紙」を使っていた。そして「郄柳恵里」には「絵」は描かれていなかったが、「おかざき乾じろ」には「絵」が描かれていた。「上野国王の博物館」を出て、ずっと気になっていた「郄柳恵里」と「VOCA展2014」の「止揚」の形の一つを、この「ポンチ絵」に見たと言っても過言では無い。


この日の終り、そして3月の東京を「ポンチ絵」にして正解だった。数件予定していた以後の展覧会巡りを全てキャンセルした。良い気持ちで東京を離れたかったからだ。

サンプルボイス

新横浜で新幹線を降車した。いつもの様に、EX-IC と Suica という二枚の非接触式 IC カードを重ね、自動改札機のリーダー部に接触させて「在来線」JR 横浜・根岸線に乗り換える。


SuicaSONY Felica)は、RFID(Radio-frequency identification)技術の系譜にあり、この交通系乗車カード/電子マネーは、リーダーから発せられる電波をエネルギー源とする「パッシブタグ」というものである。仮に Suica が電源を内蔵し自ら電波を発する「アクティブタグ」で、定期的な電池交換や充電が必要であり、且つ初期投資に数千円掛かり、落下させれば壊れるかもしれないともなれば、誰もその様な高コストで不安定な「乗車券」など使用しないだろう。Suica の中身は木の葉形に巡らされたアンテナと、極めて小さな一個の IC チップ等という、たったそれだけのものである。


RFID 技術もまた多分に漏れず軍事技術の転用だ。その元になっている技術は、1945年にソ連が開発した盗聴器である。モスクワのアメリカ大使館に「仕掛けられた」その伝説的な盗聴器= "The Thing"("The Great Seal bug")が、米国務省に「発見」されたのは1952年だが、それが「(連合国同士の)友情の証」として、駐ソアメリカ大使アヴェレル・ハリマンが、ピオネール(=開拓者。ソ連ボーイスカウト)の少年達から "The Great Seal国璽)" に包まれて「プレゼント」されたのは、第二次世界大戦終結を目前にした1945年8月4日の事である。


7年もの間それが「発見」されなかった最大の理由は、それが外部無線機からの電波と同期(同調)する事によって初めて活性化するという「パッシブ」な設計によるものだったからだ。当時の西側の盗聴器探知機は、電源を備えた「アクティブ」な従来型設計のものには反応するものの、超極薄の金属製ダイヤフラムが貼られた小さな金属缶と、9インチの長さを持つ銅線一本だけで構成されたシンプル極まりない構造を持つこの盗聴器に反応する術は無かった。それどころか、MI5 のピーター・ライトによって数年後に突き止められるまで、電池や電気回路を全く持たないこの盗聴器の動作原理自体が、西側の技術者にとって全く未知のものだった。


この半永久的な生命を持つ画期的な盗聴器の発明者の名前は、レフ・セルゲーエヴィチ・テルミンラテン語圏での通名:レオン・テルミン)という。その名前は一般的には「テルミンヴォクス(Терменвокс;Thereminvox、以後「テルミン」)」という「世界最初の電子楽器」の発明者として名高い。KGB による 1938年の拉致によって彼の人生が暗転するまでの発明が「電子楽器」であり、1938年の逮捕以降のシャラシュカ収容所での発明が「盗聴器」である。


テルミン」の技術的な原型は、自身の発明による電子セキュリティシステム "Radio Watchman(電波夜警)" だった。レフ・セルゲーエヴィチ・テルミンの慧眼は、人間の身体が電気回路中の「コンデンサ」になり得る事に注目したところにある。その世界最初の電子セキュリティシステムは、「人体=コンデンサ」がアンテナに接近すると、信号発振器がアラーム音を発するというものだった。そしてそのアラーム音でしかないものに、音楽インストゥルメントとしての可能性を見出した事もまた、レフ・セルゲーエヴィチ・テルミンの慧眼と言えるだろう。


電子セキュリティシステム "Radio Watchman" の発展形である「テルミン」は、二つの異なる高周波発振器の出力の掛け合わせ(差分)から、AMラジオ同様のヘテロダイン干渉によって可聴音を作り出す。「テルミン奏者」の役割は、電子楽器として調整し直された侵入者探知システムの電気回路中に自らの身体を「可変コンデンサ」として侵入させ、システム中のオシレータの静電容量を代える事である。即ち「テルミン奏者」というのは、他の「楽器奏者」の様に「楽器を操る者」ではなく、「楽器に侵入する者」を意味している。「テルミン奏者」の顔は CIA 本部に潜り込んだイーサン・ハントの様な「侵入者」のそれであり、その震える手は暗所を手探するそれであり、彼/彼女は楽器音が警報音にならない様に常に務めている。


テルミン」は、その音色が「人間の声に似ている」という事から、「テルミンヴォクス(テルミンの声)」の名が冠せられている。その人間の声だが、それを出す声帯にはキーは無い。フレットも無ければ、音階と同じだけの数の声帯がある訳でも無い。そもそもそれがどう働いているかを目視する事も不可能だ。人は声で音楽を奏でる時=歌う時、経験による省力はあるにしても、常にフィードバックによる探り探りの状態で、それ自体が不安定な器官である声帯から、そのピッチを決定している。それはまるで「テルミン」の演奏の様に不安なものだ。その意味で、「テルミン」による演奏は「器楽」的ではなく、極めて「声楽」的と言えるだろう。


横浜・根岸線の 205 系車輌が、終点の桜木町に到着した。非接触と同期の技術の人、レフ・セルゲーエヴィチ・テルミンの盗聴器技術の賜物である Suica を再び改札機のリーダー部に押し付ける。その瞬間、改札機から発せられた電波に Suica は同期し、その結果機能的な実在として目覚めた Suica は、カード内のデータを改札機に電波で飛ばし返す仕事を、スパイの様に極めてサイレントに行うと、次の瞬間には改札機との同期から外れ、再び機能的な眠りに就いた。

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横浜美術館 アートギャラリー1」で行われている「サンプルボイス」展の三点の作品を、「奥」から順に見た。一番「奥」の作品は、「オーディション[テルミン奏者]」というタイトルだった。勿論その「テルミン」は「テルミンヴォクス」を意味する。


横浜美術館レクチャーホール」のステージ上に一人の女性が登壇する。そして審査員と思しき声(オフ・ヴォイス)が「始めて下さい」と告げると、女性は自身が「得意」とするところのものを演奏する。1985年8月21日の森進一の涙ながらの絶唱でも有名な曲だ。しかしそもそもこれは一体何のオーディションなのだろうか。最も簡単に至り着く解釈としては、これが「テルミン奏者のオーディション」であるというものだろう。しかしこの映像中、それが「テルミン奏者のオーディション」であるとは些かも触れられていないし、恐らくこの映像作品の作者は意図的に何のオーディションであるかを明らかにしていない。作品は他の応募者の存在を見せていない。即ち複数の「テルミン奏者」の間で競われるオーディションであるかどうかは、この作品からは窺い知れない。


"audition" を "New Oxford American Dictionary" で引くと、"interview for a particular role or job as a singer, actor, dancer, or musician, consisting of a practical demonstration of the candidate's suitability and skill." とあるが、この「オーディション」もまた、歌手や俳優やダンサーを選出する為のものなのかもしれない。「歌手のオーディション」や「俳優のオーディション」や「声優のオーディション」の最終審査で、「それではあなたの特技を見せて下さい」という質問を応募者がされ、それに対して、歌手や俳優や声優である事を試されている者が、「テルミン」を演奏してみせているというのも当然あり得る話である。或いはこれは何らかの追悼企画の「オーディション」で、多種多様な応募者に混じってのものなのかもしれない。この「オーディション」の舞台の上では、この作品中の「高木砂代子」氏は、「テルミンであの曲を演奏する人」以上の何者にもなっていない。果たしてこの作品中の「高木砂代子」氏は、「何者」になる為に「オーディション」に参加したのだろうか。しかしそれも、選出という「同期」の機会が訪れない限り、その「何者」として「彼女」は動作しないのである。

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ギャラリー「中央」の作品は、同展のパブリシティにも使われている「The Recording」だった。パブリシティの写真から得られる情報は、狭いスタジオ調整室の調整卓の前で、サスペンションホルダーに収まった "Neumann U87 Ai" コンデンサ・マイクを挟んで、男女が「台本」に目を落としているというものだ。自分が持ち得る同定能力からすれば、この女性は作者でもある「百瀬文」氏だろう。一方の男性だが、その顔は自分のデータベース内には入っていない。


この二人は手にした「台本」を読んでいる様に見える。しかし実際には読んでいないのかもしれないし、それがこの「対談」の「台本」ではない可能性もある。この作家の作品は「良く出来ている」と評されもする「仕掛け」が幾つも施されているのが特徴だから、これもそうした「仕掛け」の一つかもしれないという疑いはあるものの、取り敢えず一旦はその可能性を封じておく事にする。そうしないとその隘路から「戻って来れなくなる」可能性があるからだ。


「今回は声優の小泉豊さんをお招きして…」で始まる「対談」だが、「今回」の一つ前の「対談」は「木下さん」氏とのそれを指しているのだろうか。それともこの「(一連の)対談シリーズ」を伺わせる言葉もまた、「オーディション[テルミン奏者]」の「オーディション」同様、「仮構」と考えるべきだろうか。但し「今回」の「The Recording」に於ける「小泉さん」氏は、「前回」の「聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと」に於ける「木下さん」氏とは大きく異なり、かなり積極的な「仕掛け」の「共犯者」である。「小泉さん」氏の積極的な「共犯=仕事」が無い限り、この作品は全く成立しないだろう。それは「小泉さん」氏が「演じる事を仕事とする人」である事が大きい。「演じる事を仕事とする人」が登場するのは「Take2」以来であり、「Take2」同様「演じる」という自己分裂の在り方が、作品の重要な「素材」になっているところもまた共通していると言えるだろう。


作品の最後で暗転し、そこで仮想的な「カチンコ」が仮想的に鳴るものの、音声は生かしたままにしておいて、作品外の「素の世界(日常世界)」に繋げて行くという方法論は、「聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと」や 「The Interview about grandmothers」に見られる様に、最近のこの作家の作品のフォーマットの一つであるとも言える。今回の「The Recording」の暗転後に聞こえて来るのは、「百瀬さん」氏の「お疲れ様でした(字幕無し)」に続いて、「小泉さん」氏の「あ…、お疲れ様です(字幕無し)」という、互いの「仕事」の相手に対する「労い」の言葉である。


この「お疲れ様」という「台本」に書かれていないだろう部分が切られていない事は、「聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと」や 「The Interview about grandmothers」といった先行する作品以上に、この作品では非常に重要な意味を持っている様に感じられた。先にその「カチンコ」後の部分を「素の世界」と書いたが、しかし実際の「お疲れ様」の多くが、極めて「儀礼的」に発せられる「形式」的挨拶である事は、日本人の誰もが知っている。それは予め頭の中に書かれている「お疲れ様」を読んでいる様なものだ。「百瀬さん」氏に「お疲れ様でした」と先手を打たれ、「小泉さん」氏が「あ…」という一瞬の躊躇いの後に「仕事」をする者としての「我に返り」、「お疲れ様です」と儀礼的に返したところで「百瀬さん」氏は「フフフ」と笑う。「素の世界」、即ち「私の世界」とされているものは、既に「他者」との関係性から生まれた「形式」で覆われている。「素の世界」であっても「演じる私」は侵食し、そこでは「フィクショナル」な言葉が飛び交っている。


二画面である。その二画面を持つ構造は、この作家の過去作である「Lonely romancer」以来だと思われるが、その二画面の使用のされ方にも類似性がある。「Lonely romancer」は、「現実」(カラオケを歌う女性)と、「映像」(カラオケの画面に登場する女性)が反転し、女性の属している場所が決定不能になるというものだが、今回の「The Recording」にもそうした構造が認められる。「Lonely romancer」は一瞬の反転だが、「The Recording」の反転は「聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと」に於ける「変化」にも似て、次第に電波の弱い場所に向かって行く車載ワンセグ放送の様に、漸次的に「エラー」が発生して「バグ」る様なものになっている。


「Lonely romancer」の「カラオケを歌う女性」は、当然カラオケであるからモニタに映し出された「カラオケの画面に登場する女性」を見ている。今回の「The Recording」の2人×2画面=4人もまた、恐らくそれぞれの「カメラ」の位置にあるだろうモニタに映し出された、自分達とは別の世界に属している2人を見ていると想像される。「The Recording」の前半は、右画面の2人が左画面の2人を彼等のモニタ越しに見ていて(聞いていて)、時々サビ部分をしか知らないカラオケの一部を歌う様に参加して左画面の二人に同期する。後半になるにつれ、左画面の二人が右画面の2人を彼等のモニタ越しに見る(聞く)割合が増して行き、やはりカラオケの一部を歌う様に時々右画面の二人に同期する。


即ち前半は、その見た目とは異なり、左画面の二人(実写)が「映像」の側に、右画面の二人(アニメ)がその「映像」を見る(聞く)「現実」の側に属していて、後半は右画面の二人(アニメ)が「映像」の側に、左画面の二人(実写)がその「映像」を見る(聞く)「現実」の側へと入れ替わる。そして全体を通して、観客は二つの画面の計4人を見て(聞いて)いる。後半の後半になって、左画面の「百瀬さん」氏(実写)が、呆けた顔(見る側、聞く側の顔)を一瞬解いて、「こう、鏡を見る様な」と「正面(モニタ)=観客」に顔を向けて、音声と一瞬だけ「同期」する。その時、その左画面の中のモニタもまた、二画面なのかもしれない。二画面の片一方には右画面の二人が。そしてもう片方の画面には、最初から最後まで呆けた顔(見る側、聞く側の顔)をしている、他ならぬこの作品を見ている観客が映っているのかもしれない。その呆けた顔を洋物の映画の登場人物に見られる無表情の様だと安心してはいられない。その無表情はモニタを見ている己自身の顔だからだ。観客は最初から最後まで、「実写」の左画面の二人と「アニメ」の右画面の二人に、その呆けた顔(見る側、聞く側の顔)を監視されていたのかもしれない。


ここでの「対談」の音声トラックは、「対談のカラオケ」と言えるだろう。「歌詞カード」の歌詞をなぞる様に「台本」を読みつつ、この「対談のカラオケ」を「小泉さん」氏と「百瀬さん」氏が「デュエット」しているという構図にも見える。何れの世界の住人にも音声を帰属させず、また二つの世界の住人の音声との距離が等しくなる様に、音声の独立性を担保する「台本を読む」という設えは求められた。先述した様に、ここでは音声と「同期」する事で「話している」と観察される側がより「仮想世界」であり、黙って見ている(聞いている)側がより「現実世界」である。終始黙って見ている(聞いている)観客は、当然「現実世界」に属していると思い込んでいる。今回の英語字幕は、単に字幕であるに留まらず、カラオケのモニタに映し出される歌詞を想起させられもする。それはその歌詞を見て一緒に歌いませんか=仮想世界に入りませんかという危険な誘いの様にも思える。どちらかと言えば日本語の字幕の方が「歌い」易いのだが、しかしそれもまた、「外国語」の口が「日本語」の音声と一切「同期」する事無く喋っているというとんでもない事態について、誰も「違和感」も「恐怖感」も感じないどころか、「日本語の上手い外人さん」とまで思い込む者もいたりする「吹き替え」という技術体系を考える一助となるかもしれない。


「対談」はその話の流れが作品構造と「同期」する様になっている。或いはその「対談」は作品構造から導き出されたものなのかもしれない。最後の暗転で付く「オチ」も「良く出来ている」。この「良く出来ている=良く読み取れてしまう」事に対して「信用できない」と見る向きもある。例えば「水溜りを干し、空かんをひとつひとつ拾って片付ける」という場面を繋げた映像に対して、「溜り水を除去(して衛生的な環境に)するにはどうしたらよいか」というメッセージを素直に読み取ってしまう者にとっては、それは「良く出来ている」とも、それ故に「信用できない」とも見えるだろう。しかし「鶏がいた」事しか見ない人にとっては、それは「良く出来ている」でも無ければ「信用できない」でも無いものである。「信用できない」は、それ自体が「信用」という体系の内にある。この「The Recording」にも当然多くの「鶏がいた」が含まれている。そうした過剰の存在が、メッセージとの「同期」を常に何処かで拒むものとしての映像作品を成立させており、「鶏がいた」という過剰を見出す事が「信用」の平面から抜け出す方途でもあるだろう。

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会場で常に「The Recording」と音声が被さっていた「定点観測[父の場合]」は入口近くにあった。同作品については、昨年の7月に東京・国分寺switch point で行われた個展「ホームビデオ」展に際して書いた事があり、今回もその印象が大きく変わる事は無かった。


しかし今回「オーディション[テルミン奏者]」や「The Recording」と同会場で見るそれは、そこにいる「父」と呼ばれる者は一体「何者」なのかという思いを、そのクレジットロールからもより一層強くするものであった。その全く「作り物」で無い部分こそが、己が身に引き寄せる事で今回最も響いたところだった。それが「鶏がいた」という事なのであろう。

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再び「ゲートを開ける『テルミン』」に、今度は ICOCA をタッチさせてみなとみらい線に乗った。他人の目からは「関西からの観光客」に見える事だろう。多くの東京人の耳には「関西弁」に聞こえるだろう何処の言葉でも無いインチキ「関西弁」で、周囲に聞こえよがしに独り言を呟いてみた。果たしてこの程度の事でも、東京では「関西人」になれるだろうか。