アンドレアス・グルスキー

昨夏「国立新美術館」で「アンドレアス・グルスキー」展を見た時に、何故か個人的な「懐かしさ」を覚えた。16時過ぎに入場というタイトな観覧だったので、その「懐かしさ」が何に由来するものかを、その時に突き止める事は叶わなかった。


以来「アンドレアス・グルスキー」に感じた「懐かしさ」が何だったのかがずっと気になっていた。「アンドレアス・グルスキー」を論じた文章も幾つか読んでみたが、「喉に刺さった小骨」の解決には遠いものだった。当然だろう。何故ならばそれは個人的な「懐かしさ」だからだ。「アンドレアス・グルスキー」をして「絵画的コンポジションとしての写真」と言われても全くピンと来ない。この個人的な「懐かしさ」は「絵画論」から説明出来るものではない。況してや「写真論」では尚更だ。100,000,000人中99,999,999人が「『絵画』的コンポジションとしての『写真』」や「『写真論』による『アンドレアス・グルスキー』」に大いに首肯するとしても、残り1人の自分はそれに納得し切れない。自分にとっての「アンドレアス・グルスキー」は、「写真」でもなければ「絵画」でもない。全く困ったものである。


「リベンジ」を期した「国立国際美術館」の「アンドレアス・グルスキー」展の一枚の作品の前で、果たしてその「懐かしさ」の正体は呆気無く判明した。



「F1ピットストップ(F1 Boxenstopp)」シリーズの内、フェラーリでもBMWザウバーでも(以上 "F1 Boxenstopp I" )、MF1トヨタでもマクラーレンメルセデスでも(以上 "F1 Boxenstopp II")、レッドブルフェラーリでもルノーでも(以上 "F1 Boxenstopp III")でも無い、トヨタとホンダが並んでいる "F1 Boxenstopp IV" が「日本での個展」に来ているのは、本展の出品作をセレクトした作家自身による日本向けの計らい(余計なお世話)なのかもしれない。但し実際のグランプリでは、コンストラクターズ・ポイントの関係上、両チームのピットが隣り合った事は無い。他の "F1 Boxenstopp" シリーズでも全く同じ指摘が可能だ。しかしこの様な「データ処理・加工(改竄)・流用」こそが「アンドレアス・グルスキー」と呼ばれる「適切」なのであり、当然の事ながら「芸術作品」という因業は、「ネイチャー誌」に代表される様な「科学論文」という因業とは異なるものである。芸術の適切(誠実)はしばしば科学の不適切(不誠実)であり、科学の適切(誠実)はしばしば芸術の不適切(不誠実)だ。その両者の差異はそれぞれに尊重されるべきであり、芸術に属する者が科学に物申す、或いは科学に属する者が芸術に物申すというのは、しばしばその指摘自体がそれぞれの世界に於ける「信頼性」の差異を無視した極めて「頓珍漢」なものになり勝ちである。


といった事は全くどうでも良い話としてさておき、この「F1 Boxenstopp IV」を見て瞬間的にこういうものを思い出してしまうのもまた、全く自分が絡め取られているところの因業と言うべきものであろう。



(C)MINICHAMPS(ドイツ)


そうか、ジオラマ模型か。「アンドレアス・グルスキーはジオラマ模型である」。その雑な思い付きだけを頼りに、再び入口方面に会場内を「逆走」して作品を見直してみた。ああ、これも、それも、あれも、確かに「懐かしい」ジオラマ模型の手口そのものだ。この画面のサイズにしてみたところが、まさしくジオラマ模型のそれだ。写真と思えば大きいと言えるのかもしれないが、ジオラマ模型と思えば納得のサイズではないか。


ツール・ド・フランス」をオブジェクティブなジオラマ模型で「作る」となったら、フィギュアは 1/87の "Preiser(ドイツ)" と ”FALLER(ドイツ)" と "MERTEN(ドイツ)" と "NOCH(ドイツ)" を混ぜて使おうか。「ピョンヤン I」のフィギュア原型は、市販品の東洋人フィギュアに良い物が無いのでフルスクラッチとするべきだろう。しかもそれを複製した後に、一体一体の顔や体型やポーズを微妙に変えなければならないから、仕事としては見た目以上に結構面倒臭い。「シカゴ証券取引所 III」はこの人に外注してしまうのが楽な気がする。「ライン川 II」の水面の表現はどうやったら良いだろうか。「地面」や「水面」や「カーペット」等は、数十倍位の拡大模型にしなければならないかもしれない。さてもこれだけの仕事をするとして、見積額は幾ら位にすれば良いだろうかと計算してみたら、「史上最高額」の写真家「アンドレアス・グルスキー」の値段とそう大して変わらない事が判明した。型を作ったり、離型剤を塗ったり、注型したり、脱脂したり、整形したり、パテ埋めしたり、サフェ吹きしたり、着色したり、大量のバイトを雇ったり、それなりの規模の工房を構えないでジオラマ模型が出来るところに、「アンドレアス・グルスキー」のオブジェクティブな「ジオラマ模型」に対する圧倒的優位性を感じる。確かに現地に撮影しに行かなければならないのは少しばかり面倒だが、しかしこれもまた、それぞれの現地に赴いてのディテール撮影、及びスケッチ取材をしているのである。


そして記憶は過去へと遡った。四半世紀前の自分の手の中には、1/25スケールのノイシュヴァンシュタイン城の原型(フルスクラッチ)があった。その日屋根が組み上がった楼閣の筋彫を入れていたそのテーブルには、首都圏の多くの美術大学卒業者が作った1/25フィギュア(身長7センチ・フルスクラッチ)の原型が集まっていた。それらを元にして、不飽和ポリエステル樹脂(ウレタン樹脂で無いところに時代を感じる)で複製された14万体のフィギュアは、様々な衣装に造形し直され、様々なポーズを取らされ、様々な設定に嵌められ、それぞれのドラマを演じさせられたのである。



http://www.tobuws.co.jp/enjoy/detail/#drama


再び「アンドレアス・グルスキー」の「F1 Boxenstopp IV」の前に立つ。「F1 Boxenstopp IV」の画面中の全てのものは、作家が手にした「ピンセット(マウス)」で「置かれて」いる。マウスでペイントし直され、必要以上に「猥雑」なものや「余計」なものを徹底して片付けられたピットレーンに、ロリポップをドライバーに翳す「フィギュア」、マシンをジャッキアップする「フィギュア」、タイヤを外す「フィギュア」、タイヤを嵌める「フィギュア」、インパクトレンチでボルト締めする「フィギュア」、リフュエールする「フィギュア」、オーストラリア・メルボルンのアルバート・パーク・サーキットのピットに酷似している(しかし明らかに異なる)ピットガレージ上から外を見るパドックパス招待客の「フィギュア」、そしてあらゆるアイテムの「縮小モデル」が、「ジオラマ模型」的な美意識に基いて「適度」に「置かれて」いる。そればかりか、現実のピットではこうした事態が起こり得る("F1 Boxenstopp" シリーズの「撮影」は、マシンや参加チームから判断して2006年シーズンであり、当時はレース中の給油が認められていた)為に、気温が幾ら高かろうとも耐火性のオーバーオールとヘルメットの着用が義務付けられているピットクルーのすぐ横に、ピットウォークタイムにしか現れない様な肌の露出が多い衣装に身を包んだ女性の「フィギュア」まで「サービス精神」旺盛に「置かれて」いる(作品中央)のは、東武ワールドスクウェアのミラノ大聖堂の前にベスパに乗るオードリー・ヘプバーングレゴリー・ペックのフィギュアが「置かれて」いたり、万里の長城三蔵法師一行のフィギュアが「置かれて」いる様なものだろう。まさしく「アンドレアス・グルスキー」というのは、そうしたノリ(いい加減さ)で制作されているものである。


模型の表向きの原則は「現実の即物的再現」であり、それはまた写真の表向きの原則でもある。従ってそれを信じる模型の世界に親しくない人や、写真の世界に親しくない人の多くは、それらに「本物そっくり」を見ようとする。しかし模型が「本物そっくり」に作られた事など一度も無く(図面上の数値は飽くまで「参考」程度に留まる)、写真が「本物そっくり」に作られた事もまた一度たりとて無い。模型は「省略」であり、写真もまた「省略」である。「省略」でしかない「模型」をそのまま「実物大」まで「拡大」し、「実物大模型」として「現実」化したとしても、「模型」の「省略」語法ばかりが目立つ間の抜けた造形になるしか無いのは、嘗て「ガンヘッド実物大模型」を作った経験上言えるところだ。仮に「アンドレアス・グルスキー」をそのまま「実物大」にしたとしても、それは「実物大模型」以上のものにはならない。「アンドレアス・グルスキー」の大部分が、「大画面」ではあっても飽くまでも「縮小模型」であるところが、恐らく「アンドレアス・グルスキー」にとって譲れない「肝腎要」なのだと思われる。「アンドレアス・グルスキー」に「精密」が見えるとすれば、それはまた「模型」の「精密」にも似る。


話は逸れるが「ジオラマ模型」と言えば、少し前まで現実風景をミニチュア模型に見える様に変換する逆ティルト系の「ジオラマ効果(フィルタ)」が流行っていた事がある。その方法論は今ではすっかり陳腐化しているが、それが大衆化する以前にはそうした作品を作る写真表現者も何人かいた様に記憶する。



被写界深度を極端に浅くする「ジオラマ効果」によって、風景がミニチュアに見えるというのは、人類のものの見方が「写真」によって矯正されたからだろう。それは被写界深度という光学特性が、「光学レンズ」というテクノロジーによって初めて意識化される様になった後の「感覚」であり、それは「写真」誕生以降の「思い出」が「セピア色」に感じられる様なものである。果たして「写真」誕生以前の人類にとって、「ジオラマ効果」によるそれが「ミニチュア」に見えるかどうかは判らない。「光学レンズ(眼鏡は別)」を通さずに「ジオラマ模型」の前に立った時、人は「ジオラマ効果」の様には決してそれを見ないからだ。「大脳」という「演算処理装置」と繋がっている目は、常に対象物にピントを合わせに行く。意識的にピント合わせの「演算処理」をキルしない限り、それは極めてオートマティックに行われ、それが意識される事も無い。そして膨大に収集されたピントの合った断片的な光景を、「大脳」中の「画像処理ソフト」が「無意識」的に総合して行く。「アンドレアス・グルスキー」は、我々の目/大脳がミニチュア模型を見る様に、自らの「ジオラマ模型」を組み上げて行く。即ちそれは、或る意味で人類の「(目/大脳の働きである)視覚」に鑑みて極めて「真当」で「自然」な方法論なのであり、「光学レンズ」というテクノロジーの持つ特性的な「限界」に「視覚」の「自由」を奪われない為に(「ジオラマ効果」はその「限界」に意識的に囚われに行く「倒錯」である)、「写真」を「ジオラマ模型」にする事で「写真」の魔手から逃れようとする。


アンドレアス・グルスキー」に「絵画」を見るというのは誤った見方とは言えない。しかし世界を「模型」化する欲望こそが、「絵画」という表現方法を成立させたとしたら果たしてどうだろうか。しかしそれは話が些か長くなるので別稿に委ねたい。


最後に「ベッヒャー派」関連で模型ネタをもう一つ。タミヤ辺りでこういうシリーズを出してくれないだろうか。



ウォーターラインシリーズ」の様に「給水塔シリーズ」や「溶鉱炉シリーズ」を1/72スケール位でラインナップするのである。箱絵は版権の関係があるから "Bernd und Hilla Becher" の写真は使用出来ないが、自社イラストレーターによるイラストならば十分に可能だろう。鉄道模型の "FALLER" 社辺りにも「給水塔シリーズ」はあるにはあるが、しかしかなり手抜かれた造形のそれらよりも精密な、 "Bernd und Hilla Becher" の写真を彷彿とさせるものを期待したい。それが無理ならタカラトミーアーツ(ユージン)のガチャガチャでも良い。そして晴れて発売された暁には、絶対に「大人買い」する事を今から約束するのである。


しかし「1/700 ウォーターラインシリーズ」にしても、「1/35 MMシリーズ」にしても、「1/20 グランプリコレクション」にしても、「1/48 傑作機シリーズ」にしても(以上タミヤの例)、模型の世界は "Bernd und Hilla Becher" が現れるずっと前から「タイポロジー」だったのであり、模型屋のショーウィンドウはそのまま "Bernd und Hilla Becher" であった。


極めて安価に "Bernd und Hilla Becher" 気分になれる、同一スケールの「給水塔」のミニチュアシリーズ。 それもこれも "Bernd und Hilla Becher" が模型的だからこそ可能な事だ。「ベッヒャー派は模型である」。これもまた「アンドレアス・グルスキーはジオラマ模型である」同様、自分だけが納得すれば良い、極めて個人的な思い付き、及び Note である。