サンプルボイス

新横浜で新幹線を降車した。いつもの様に、EX-IC と Suica という二枚の非接触式 IC カードを重ね、自動改札機のリーダー部に接触させて「在来線」JR 横浜・根岸線に乗り換える。


SuicaSONY Felica)は、RFID(Radio-frequency identification)技術の系譜にあり、この交通系乗車カード/電子マネーは、リーダーから発せられる電波をエネルギー源とする「パッシブタグ」というものである。仮に Suica が電源を内蔵し自ら電波を発する「アクティブタグ」で、定期的な電池交換や充電が必要であり、且つ初期投資に数千円掛かり、落下させれば壊れるかもしれないともなれば、誰もその様な高コストで不安定な「乗車券」など使用しないだろう。Suica の中身は木の葉形に巡らされたアンテナと、極めて小さな一個の IC チップ等という、たったそれだけのものである。


RFID 技術もまた多分に漏れず軍事技術の転用だ。その元になっている技術は、1945年にソ連が開発した盗聴器である。モスクワのアメリカ大使館に「仕掛けられた」その伝説的な盗聴器= "The Thing"("The Great Seal bug")が、米国務省に「発見」されたのは1952年だが、それが「(連合国同士の)友情の証」として、駐ソアメリカ大使アヴェレル・ハリマンが、ピオネール(=開拓者。ソ連ボーイスカウト)の少年達から "The Great Seal国璽)" に包まれて「プレゼント」されたのは、第二次世界大戦終結を目前にした1945年8月4日の事である。


7年もの間それが「発見」されなかった最大の理由は、それが外部無線機からの電波と同期(同調)する事によって初めて活性化するという「パッシブ」な設計によるものだったからだ。当時の西側の盗聴器探知機は、電源を備えた「アクティブ」な従来型設計のものには反応するものの、超極薄の金属製ダイヤフラムが貼られた小さな金属缶と、9インチの長さを持つ銅線一本だけで構成されたシンプル極まりない構造を持つこの盗聴器に反応する術は無かった。それどころか、MI5 のピーター・ライトによって数年後に突き止められるまで、電池や電気回路を全く持たないこの盗聴器の動作原理自体が、西側の技術者にとって全く未知のものだった。


この半永久的な生命を持つ画期的な盗聴器の発明者の名前は、レフ・セルゲーエヴィチ・テルミンラテン語圏での通名:レオン・テルミン)という。その名前は一般的には「テルミンヴォクス(Терменвокс;Thereminvox、以後「テルミン」)」という「世界最初の電子楽器」の発明者として名高い。KGB による 1938年の拉致によって彼の人生が暗転するまでの発明が「電子楽器」であり、1938年の逮捕以降のシャラシュカ収容所での発明が「盗聴器」である。


テルミン」の技術的な原型は、自身の発明による電子セキュリティシステム "Radio Watchman(電波夜警)" だった。レフ・セルゲーエヴィチ・テルミンの慧眼は、人間の身体が電気回路中の「コンデンサ」になり得る事に注目したところにある。その世界最初の電子セキュリティシステムは、「人体=コンデンサ」がアンテナに接近すると、信号発振器がアラーム音を発するというものだった。そしてそのアラーム音でしかないものに、音楽インストゥルメントとしての可能性を見出した事もまた、レフ・セルゲーエヴィチ・テルミンの慧眼と言えるだろう。


電子セキュリティシステム "Radio Watchman" の発展形である「テルミン」は、二つの異なる高周波発振器の出力の掛け合わせ(差分)から、AMラジオ同様のヘテロダイン干渉によって可聴音を作り出す。「テルミン奏者」の役割は、電子楽器として調整し直された侵入者探知システムの電気回路中に自らの身体を「可変コンデンサ」として侵入させ、システム中のオシレータの静電容量を代える事である。即ち「テルミン奏者」というのは、他の「楽器奏者」の様に「楽器を操る者」ではなく、「楽器に侵入する者」を意味している。「テルミン奏者」の顔は CIA 本部に潜り込んだイーサン・ハントの様な「侵入者」のそれであり、その震える手は暗所を手探するそれであり、彼/彼女は楽器音が警報音にならない様に常に務めている。


テルミン」は、その音色が「人間の声に似ている」という事から、「テルミンヴォクス(テルミンの声)」の名が冠せられている。その人間の声だが、それを出す声帯にはキーは無い。フレットも無ければ、音階と同じだけの数の声帯がある訳でも無い。そもそもそれがどう働いているかを目視する事も不可能だ。人は声で音楽を奏でる時=歌う時、経験による省力はあるにしても、常にフィードバックによる探り探りの状態で、それ自体が不安定な器官である声帯から、そのピッチを決定している。それはまるで「テルミン」の演奏の様に不安なものだ。その意味で、「テルミン」による演奏は「器楽」的ではなく、極めて「声楽」的と言えるだろう。


横浜・根岸線の 205 系車輌が、終点の桜木町に到着した。非接触と同期の技術の人、レフ・セルゲーエヴィチ・テルミンの盗聴器技術の賜物である Suica を再び改札機のリーダー部に押し付ける。その瞬間、改札機から発せられた電波に Suica は同期し、その結果機能的な実在として目覚めた Suica は、カード内のデータを改札機に電波で飛ばし返す仕事を、スパイの様に極めてサイレントに行うと、次の瞬間には改札機との同期から外れ、再び機能的な眠りに就いた。

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横浜美術館 アートギャラリー1」で行われている「サンプルボイス」展の三点の作品を、「奥」から順に見た。一番「奥」の作品は、「オーディション[テルミン奏者]」というタイトルだった。勿論その「テルミン」は「テルミンヴォクス」を意味する。


横浜美術館レクチャーホール」のステージ上に一人の女性が登壇する。そして審査員と思しき声(オフ・ヴォイス)が「始めて下さい」と告げると、女性は自身が「得意」とするところのものを演奏する。1985年8月21日の森進一の涙ながらの絶唱でも有名な曲だ。しかしそもそもこれは一体何のオーディションなのだろうか。最も簡単に至り着く解釈としては、これが「テルミン奏者のオーディション」であるというものだろう。しかしこの映像中、それが「テルミン奏者のオーディション」であるとは些かも触れられていないし、恐らくこの映像作品の作者は意図的に何のオーディションであるかを明らかにしていない。作品は他の応募者の存在を見せていない。即ち複数の「テルミン奏者」の間で競われるオーディションであるかどうかは、この作品からは窺い知れない。


"audition" を "New Oxford American Dictionary" で引くと、"interview for a particular role or job as a singer, actor, dancer, or musician, consisting of a practical demonstration of the candidate's suitability and skill." とあるが、この「オーディション」もまた、歌手や俳優やダンサーを選出する為のものなのかもしれない。「歌手のオーディション」や「俳優のオーディション」や「声優のオーディション」の最終審査で、「それではあなたの特技を見せて下さい」という質問を応募者がされ、それに対して、歌手や俳優や声優である事を試されている者が、「テルミン」を演奏してみせているというのも当然あり得る話である。或いはこれは何らかの追悼企画の「オーディション」で、多種多様な応募者に混じってのものなのかもしれない。この「オーディション」の舞台の上では、この作品中の「高木砂代子」氏は、「テルミンであの曲を演奏する人」以上の何者にもなっていない。果たしてこの作品中の「高木砂代子」氏は、「何者」になる為に「オーディション」に参加したのだろうか。しかしそれも、選出という「同期」の機会が訪れない限り、その「何者」として「彼女」は動作しないのである。

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ギャラリー「中央」の作品は、同展のパブリシティにも使われている「The Recording」だった。パブリシティの写真から得られる情報は、狭いスタジオ調整室の調整卓の前で、サスペンションホルダーに収まった "Neumann U87 Ai" コンデンサ・マイクを挟んで、男女が「台本」に目を落としているというものだ。自分が持ち得る同定能力からすれば、この女性は作者でもある「百瀬文」氏だろう。一方の男性だが、その顔は自分のデータベース内には入っていない。


この二人は手にした「台本」を読んでいる様に見える。しかし実際には読んでいないのかもしれないし、それがこの「対談」の「台本」ではない可能性もある。この作家の作品は「良く出来ている」と評されもする「仕掛け」が幾つも施されているのが特徴だから、これもそうした「仕掛け」の一つかもしれないという疑いはあるものの、取り敢えず一旦はその可能性を封じておく事にする。そうしないとその隘路から「戻って来れなくなる」可能性があるからだ。


「今回は声優の小泉豊さんをお招きして…」で始まる「対談」だが、「今回」の一つ前の「対談」は「木下さん」氏とのそれを指しているのだろうか。それともこの「(一連の)対談シリーズ」を伺わせる言葉もまた、「オーディション[テルミン奏者]」の「オーディション」同様、「仮構」と考えるべきだろうか。但し「今回」の「The Recording」に於ける「小泉さん」氏は、「前回」の「聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと」に於ける「木下さん」氏とは大きく異なり、かなり積極的な「仕掛け」の「共犯者」である。「小泉さん」氏の積極的な「共犯=仕事」が無い限り、この作品は全く成立しないだろう。それは「小泉さん」氏が「演じる事を仕事とする人」である事が大きい。「演じる事を仕事とする人」が登場するのは「Take2」以来であり、「Take2」同様「演じる」という自己分裂の在り方が、作品の重要な「素材」になっているところもまた共通していると言えるだろう。


作品の最後で暗転し、そこで仮想的な「カチンコ」が仮想的に鳴るものの、音声は生かしたままにしておいて、作品外の「素の世界(日常世界)」に繋げて行くという方法論は、「聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと」や 「The Interview about grandmothers」に見られる様に、最近のこの作家の作品のフォーマットの一つであるとも言える。今回の「The Recording」の暗転後に聞こえて来るのは、「百瀬さん」氏の「お疲れ様でした(字幕無し)」に続いて、「小泉さん」氏の「あ…、お疲れ様です(字幕無し)」という、互いの「仕事」の相手に対する「労い」の言葉である。


この「お疲れ様」という「台本」に書かれていないだろう部分が切られていない事は、「聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと」や 「The Interview about grandmothers」といった先行する作品以上に、この作品では非常に重要な意味を持っている様に感じられた。先にその「カチンコ」後の部分を「素の世界」と書いたが、しかし実際の「お疲れ様」の多くが、極めて「儀礼的」に発せられる「形式」的挨拶である事は、日本人の誰もが知っている。それは予め頭の中に書かれている「お疲れ様」を読んでいる様なものだ。「百瀬さん」氏に「お疲れ様でした」と先手を打たれ、「小泉さん」氏が「あ…」という一瞬の躊躇いの後に「仕事」をする者としての「我に返り」、「お疲れ様です」と儀礼的に返したところで「百瀬さん」氏は「フフフ」と笑う。「素の世界」、即ち「私の世界」とされているものは、既に「他者」との関係性から生まれた「形式」で覆われている。「素の世界」であっても「演じる私」は侵食し、そこでは「フィクショナル」な言葉が飛び交っている。


二画面である。その二画面を持つ構造は、この作家の過去作である「Lonely romancer」以来だと思われるが、その二画面の使用のされ方にも類似性がある。「Lonely romancer」は、「現実」(カラオケを歌う女性)と、「映像」(カラオケの画面に登場する女性)が反転し、女性の属している場所が決定不能になるというものだが、今回の「The Recording」にもそうした構造が認められる。「Lonely romancer」は一瞬の反転だが、「The Recording」の反転は「聞こえない木下さんに聞いたいくつかのこと」に於ける「変化」にも似て、次第に電波の弱い場所に向かって行く車載ワンセグ放送の様に、漸次的に「エラー」が発生して「バグ」る様なものになっている。


「Lonely romancer」の「カラオケを歌う女性」は、当然カラオケであるからモニタに映し出された「カラオケの画面に登場する女性」を見ている。今回の「The Recording」の2人×2画面=4人もまた、恐らくそれぞれの「カメラ」の位置にあるだろうモニタに映し出された、自分達とは別の世界に属している2人を見ていると想像される。「The Recording」の前半は、右画面の2人が左画面の2人を彼等のモニタ越しに見ていて(聞いていて)、時々サビ部分をしか知らないカラオケの一部を歌う様に参加して左画面の二人に同期する。後半になるにつれ、左画面の二人が右画面の2人を彼等のモニタ越しに見る(聞く)割合が増して行き、やはりカラオケの一部を歌う様に時々右画面の二人に同期する。


即ち前半は、その見た目とは異なり、左画面の二人(実写)が「映像」の側に、右画面の二人(アニメ)がその「映像」を見る(聞く)「現実」の側に属していて、後半は右画面の二人(アニメ)が「映像」の側に、左画面の二人(実写)がその「映像」を見る(聞く)「現実」の側へと入れ替わる。そして全体を通して、観客は二つの画面の計4人を見て(聞いて)いる。後半の後半になって、左画面の「百瀬さん」氏(実写)が、呆けた顔(見る側、聞く側の顔)を一瞬解いて、「こう、鏡を見る様な」と「正面(モニタ)=観客」に顔を向けて、音声と一瞬だけ「同期」する。その時、その左画面の中のモニタもまた、二画面なのかもしれない。二画面の片一方には右画面の二人が。そしてもう片方の画面には、最初から最後まで呆けた顔(見る側、聞く側の顔)をしている、他ならぬこの作品を見ている観客が映っているのかもしれない。その呆けた顔を洋物の映画の登場人物に見られる無表情の様だと安心してはいられない。その無表情はモニタを見ている己自身の顔だからだ。観客は最初から最後まで、「実写」の左画面の二人と「アニメ」の右画面の二人に、その呆けた顔(見る側、聞く側の顔)を監視されていたのかもしれない。


ここでの「対談」の音声トラックは、「対談のカラオケ」と言えるだろう。「歌詞カード」の歌詞をなぞる様に「台本」を読みつつ、この「対談のカラオケ」を「小泉さん」氏と「百瀬さん」氏が「デュエット」しているという構図にも見える。何れの世界の住人にも音声を帰属させず、また二つの世界の住人の音声との距離が等しくなる様に、音声の独立性を担保する「台本を読む」という設えは求められた。先述した様に、ここでは音声と「同期」する事で「話している」と観察される側がより「仮想世界」であり、黙って見ている(聞いている)側がより「現実世界」である。終始黙って見ている(聞いている)観客は、当然「現実世界」に属していると思い込んでいる。今回の英語字幕は、単に字幕であるに留まらず、カラオケのモニタに映し出される歌詞を想起させられもする。それはその歌詞を見て一緒に歌いませんか=仮想世界に入りませんかという危険な誘いの様にも思える。どちらかと言えば日本語の字幕の方が「歌い」易いのだが、しかしそれもまた、「外国語」の口が「日本語」の音声と一切「同期」する事無く喋っているというとんでもない事態について、誰も「違和感」も「恐怖感」も感じないどころか、「日本語の上手い外人さん」とまで思い込む者もいたりする「吹き替え」という技術体系を考える一助となるかもしれない。


「対談」はその話の流れが作品構造と「同期」する様になっている。或いはその「対談」は作品構造から導き出されたものなのかもしれない。最後の暗転で付く「オチ」も「良く出来ている」。この「良く出来ている=良く読み取れてしまう」事に対して「信用できない」と見る向きもある。例えば「水溜りを干し、空かんをひとつひとつ拾って片付ける」という場面を繋げた映像に対して、「溜り水を除去(して衛生的な環境に)するにはどうしたらよいか」というメッセージを素直に読み取ってしまう者にとっては、それは「良く出来ている」とも、それ故に「信用できない」とも見えるだろう。しかし「鶏がいた」事しか見ない人にとっては、それは「良く出来ている」でも無ければ「信用できない」でも無いものである。「信用できない」は、それ自体が「信用」という体系の内にある。この「The Recording」にも当然多くの「鶏がいた」が含まれている。そうした過剰の存在が、メッセージとの「同期」を常に何処かで拒むものとしての映像作品を成立させており、「鶏がいた」という過剰を見出す事が「信用」の平面から抜け出す方途でもあるだろう。

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会場で常に「The Recording」と音声が被さっていた「定点観測[父の場合]」は入口近くにあった。同作品については、昨年の7月に東京・国分寺switch point で行われた個展「ホームビデオ」展に際して書いた事があり、今回もその印象が大きく変わる事は無かった。


しかし今回「オーディション[テルミン奏者]」や「The Recording」と同会場で見るそれは、そこにいる「父」と呼ばれる者は一体「何者」なのかという思いを、そのクレジットロールからもより一層強くするものであった。その全く「作り物」で無い部分こそが、己が身に引き寄せる事で今回最も響いたところだった。それが「鶏がいた」という事なのであろう。

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再び「ゲートを開ける『テルミン』」に、今度は ICOCA をタッチさせてみなとみらい線に乗った。他人の目からは「関西からの観光客」に見える事だろう。多くの東京人の耳には「関西弁」に聞こえるだろう何処の言葉でも無いインチキ「関西弁」で、周囲に聞こえよがしに独り言を呟いてみた。果たしてこの程度の事でも、東京では「関西人」になれるだろうか。