クロニクル、クロニクル!「長過ぎる序」

【長過ぎる序】

1月1日の「28年目」に続く文章がここに入る筈だった。それは「芸術」と「ひと」の関係を書こうとしたものだ。

そもそも「ひと」と関わり合う事でしか機能し得ない 「芸術」が認識している「ひと」、「芸術」にとっての「ひと」とは何なのだろうか。そうした事をつらつらと考えている内に、時間ばかりが過ぎていった。結局その文章は後に回す事にした。

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「ひと」を表わす言葉には幾つかある。カール・フォン・リンネ(カロルス・リンナエウス)の “Homo sapiens"(英知人)というのはその最も良く知られたものの一つだろうが、“sapiens"(英知)で規定されない “Homo"(人)であっても、それはそれで全体集合としての「ひと」ではある。従って “Ecce Homo"(「エッケ・ホモ=この「ひと」をみよ)の “Homo" を、「ひと」の形をした「全て」、即ち「ひとがた(人像)」―その「像」は “idea" のそれではなく、狭義の“image" である―と強引なまでに解釈し、事実上「このひとがたをみよ」としてしまう事すら可能と言えば可能だ。

“image" である「ひとがた」に留まらない「ひと」の「ひと」たる “idea" を説明するのに “sapiens" を含む、“Homo" に対する数々の修飾語(“idea”)が、数々の者によって考え出されて来た。曰く “Homo phenomenon / Homo noumenon"(現象人/本体人)、“Homo loquens"(発話人)、“Homo ludens"(遊戯人)、“Homo significance"(記号人)、“Homo patiens"(苦悩人)、“Homo religiosus"(宗教人)……。

その中にアンリ・ベルクソンの “Homo faber"(工作人)がある。彼の1907年の書「創造的進化」(“L’Évolution créatrice")の第2章「生命進化の分岐する諸方向―麻痺、知性、本能」中で、それは―一度だけ―記されている。

Si nous pouvions nous dépouiller de tout orgueil, si, pour définir notre espèce, nous nous en tenions strictement à ce que l’histoire et la préhistoire nous présentent comme la caractéristique constante de l’hom­me et de l’intelligence, nous ne dirions peut-être pas Homo sapiens, mais Homo faber. En définitive, l’intelligence, envisagée dans ce qui en paraît être la démarche originelle, est la faculté de fabriquer des objets artificiels, en particulier des outils à faire des outils et, d’en varier indéfiniment la fabri­cation.(CHAPITRE II “Les directions divergentes de l’évolution de la vie. Torpeur, intelligence, instinct.")

 
かりに私たちが思いあがりをさっぱりと脱ぎ捨てることができ、人類を定義するばあいその歴史時代および先史時代が人間や知性のつねにかわらぬ特徴として提示しているものだけに厳密にたよることにするならば、たぶん私たちはホモ・サピエンス(知性人)とは呼ばないでホモ・ファベル(工作人)と呼んだであろう。つまり、知性とはその本来の振舞いらしいものからみるならば人工物なかんずく道具をつくる道具を製作し、そしてその製作にはてしなく変化をこらす能力なのである。(第2章「生命進化の分岐する諸方向―麻痺、知性、本能」真方敬道訳)

 道具をつくる道具。即ちそれはまた道具が道具から作られている事を意味する。眼前にある道具を かつてつくった道具を かつてつくった道具を かつてつくった道具を かつてつくった道具……、そしてその眼前の道具によって これからつくられる道具によって これからつくられる道具によって これからつくられる道具によって これからつくられる道具……。「ひと」から「ひと」への「手渡し」。幾つもの波紋の重なり合い。「自然物」とは異なる「ひと」による「人工物」の固有の「面白さ」というのは、先ず以てそこにこそある。

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地球の軌道上に「静止」する「宇宙ステーション」ならずとも、「人類の夜明け(The Dawn of Man)」に於いて回転して宙を舞う一本の動物の大腿骨から、目の前にある取るに足らない一本の鉛筆がそこに出現するまでの気の遠くなる程の数の「ひと」―「そこにいないひと(=死んでしまったひと)」の方が圧倒的に多い―の「手渡し」の総体を想像してみよう。一本の鉛筆には一体どれ程の手渡しの「波紋」(ripples)が重なっているのだろうか。「椅子の歴史」には「固着具の歴史」も「接着剤の歴史」も「ワニスの歴史」も「機織りの歴史」も重なっている。それに触れない「椅子の歴史」があるとしたら、それは極めて退屈なものでしかない。

アートスクールで教えられている技術はそれ程多くない。アートスクールを出た者―出なかった者は言うまでもなく―がアーティストとなり、その「作品」を作り上げる際に頼りとなる技術そのものの大半は、アートスクール/アートワールドの外で獲得されたものだ。アートスクール/アートワールドの外で、アートスクール/アートワールドの中からは決して見えなかった/見ようともしなかった技術にアーティストは邂逅する。多くのアーティストを作り上げ鍛え上げるのは、アートスクール/アートワールドの外なのである。「bottega di Oriental Land」(オリエンタルランド工房)は事実として存在する。それは「生計の手段」というだけのものではない。

アートスクール/アートワールドの外の「波紋」は「作品」に確実に現れる。存命作家の「作品」の中に、そうしたものを幾らでも見る事が出来る。それは 「既成品を使った」という意味ではなく「既成術を使った」ものである。「複製品」でもなければ「複製技術」でもなく、技術そのものが複製なのである。アーティストに手渡されているものは名詞的対象ではなく動詞的行為だ。

一顧だにされないものの中にこそ真に見るべきものがある。それは固有名詞への収斂であるところの「主体」の獄に繋がれてしまう「才能」と呼ばれているものの限界を軽々と超えてしまう。仮に「才能」が「光を放つ」ものであるとするならば、「才能」はその無限なまでに広い水面の中にあってこそ初めてその「光を放つ」のである。であればこそ、人類の偉大な「手渡し」の到達点の「一つ」である「一本の鉛筆」を見る様に、「一個」の「作品」を見る事も可能なのだ。

Maybe nothing ever happens once and is finished. Maybe happen is never once but like ripples maybe on water after the pebble sinks, the ripples moving on, spreading, the pool attached by a narrow umbilical water-cord to the next pool which the first pool feeds, has fed, did feed, let this second pool contain a different temperature of water, a different molecularity of having seen, felt, remembered, reflect in a different tone the infinite unchanging sky, it doesn’t matter: that pebble’s watery echo whose fall it did not even see moves across its surface too at the original ripple-space, to the old ineradicable rhythm…(William Faulkner “Absalom, Absalom!" Chapter 7)

 

おそらくかつてなにごとかが起こってそれが成就されたというためしはないのだ。おそらくかつていちどなにごとかが起こったのではなく、小石が沈んで後に波紋が水面上をひろがっていき、一つの水たまりが細いへその緒のような水流で次の水たまりにつながっていくように、事は推移していくものなのだ、第二の水たまりの水温が違っていようと、分子の状態が違っていて、見たことも感じたことも憶えていることもみんな異なっていようと、無限の不変の空が異なった調子に映しだされようと、そんなことはどうでもいい、第二の水たまりは第一の水たまりがあくまで養ったものなのだ。第二の水たまりがぜんぜん関知しなかった小石の落下から生まれたこだまは、もとの消すことのできないリズムに合わせて、もとの波状を呈したまま、第二の水たまりの水面にもひろがっていく。(ウィリアム・フォークナー「アブサロム、アブサロム!」第7章:大橋吉之輔訳)

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 「人工物」の一つである「作品」を集めた「展覧会」。それ故に「作品」を新たにこの世界に投げ入れた「ひと」(と「ひと」との、そして「ひと」と「世界」との関係)こそをそこに見たいと思っている自分は、いつもの様に「ひと」を見に行くその「展覧会」へ向かう数十分の鉄道車輌の中で何を読もうかと思案した。手に取ったのは、今から40数年前に買った一冊の岩波文庫だった。理想社による洗練された活版で印字されている紙はすっかりアンバー色になり、その性(しょう)が抜け掛ける事で、紙ではない何かになりつつある。自分よりも一回り以上「若い」のにだ。

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鈴木大拙の「日本的霊性」(1944年)である。「通俗」とされる事もある「浄土系」の分析を軸の一つにした書であり、またその鈴木大拙自身が「通俗」とされる事もある。生涯で何度目かの209ページを捲る。「第四篇 妙好人」の「二 浅原才市」。妙好人とは「浄土系」の在俗の篤信者であり「思想をみずからに体得して、それに生きている人(鈴木大拙)」である。妙好人は「宗教のプロ」ではない。世俗の生活の中に信心を見出す人である。浅原才市は50歳頃までは舟大工であり、その後下駄作り及びその仕入れをしていた。

才市が仕事のあいまに鉋屑に書きつけた歌はだいぶんの数に上ったものらしい。法悦三昧、念仏三昧の中に仕事をやりつつ、ふと心に浮ぶ感想を不器用に書いたものである。しかし彼はこれがために仕事の事を怠ることは断じてなかった。人一倍の働きをやったという。いわゆる法悦三昧に浸っている人は、ことによるとその仕事を忘れて、お皿を壊したり、お針を停めたりなどして、実用生活に役に立たぬものも往々にある。才市は全然これとその選を異にしていた。仕事そのものが法悦であり念仏であった。(1「才市の生立ち」)

「仕事そのものが法悦であり念仏であった」。鈴木大拙はそれを「衆生済度」に絡めてこの様にも記している。

才市の衆生済度は、何かを計画して、外へ出掛けて行って、ああしてこうして、済度業を励まねばならぬというようなものではないのであろう。自分の仕事につれて、自分の信心の常住持続性を点検すること、それも遊戯三昧の心持でやって居るのが、才市の境涯であったに相違ない。(…)即ち才市の考えでは、衆生済度は自分をからにして、自分から外へ出て、何かと取計らいをすることではなくて、自分が念仏三昧の生活をすること、平常心をそのままに生かすこと、即ち行為すること、それが衆生済度だというのである。(7「衆生済度」)

「展覧会」に赴くというその事自体もまた「何かを計画して、外へ出掛けて行って、ああしてこうして」的なものだ。しかしそれは、どこまでも「自分の仕事」に生きる「在俗」を選択した者(「出家」しない=「世俗」を離れる事を選択しない「観客」や「アーティスト」を含む)自身が「遊戯三昧の心持」で「平常心をそのままに生かすこと、即ち行為すること」へと至る為の方便なのである。従って「展覧会」に於ける見せる者/見る者の「条件」が限りなく整えば、そこには多くの「作品」が詰まっている必要など何も無く、寧ろ何も「無い」方が良いとも言える。

才市の歌には「なむあみだぶつ」が頻繁に出て来る。

南無は帰命である。阿弥陀仏は無碍光如来であるなどと講義するのは、末の末である。(…)只の南無阿弥陀仏、それでよいのである。(…)南無阿弥陀仏は無義を義とするので、その中に何かの意義をもたせたり、また何かそこに在るだろうなどと考え出したら、六字の名号はもはや汝のものでなくて、白雲万里のあなたに去ってしまう。(…)分別計較を少しでも容れると、下駄が削られなくなり、働きがにぶる。才市は才市でなくなって、矛盾のみが意識せられて、気が荒む、心が塞ぐ、歓喜の出ようがなくなる。(2『なむあみだぶつ』の歌)

「生きること」としての「南無阿弥陀仏」、そして “art" 。であれば、只の(帰命としての)“art"、それでよいのではないか。その中に何かの意義をもたせたり、また何かそこに在るだろうなどと考え出したら、“art" の三文字はもはや汝のものでなくて、白雲万里のあなたに去ってしまうのではないか。

わしが阿弥陀になるじゃない、阿弥陀の方からわしになる。なむあみだぶつ。(浅原才市)

「わし」が “art" になるのではなく、“art" の方から「わし」になる。その時、阿弥陀仏の彫刻(ひとがた)は必要条件ではないのである。

大阪市営地下鉄四つ橋線への乗換駅だ。「日本的霊性」を閉じる。

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 ご乗車ありがとうございます、この電車は住之江公園ゆきです、次は花園町、花園町です、出口は左側です、The next station is Hanazono-cho, Station number Y17, ……お客様にお願いします、座席は、できるだけ、譲り合ってお掛け下さい、また、お年寄りや、体の不自由な方などに、座席をお譲り下さいますよう、ご協力をお願いします、……皮フ科、アレルギー科、形成外科の田口クリニック、収集から中間処理まで、廃棄物収集運搬処分業、山田衛生へお越しの方は、次でお降り下さい、……交通局では、定期券ご利用の方におすすめ、利用額割引マイスタイルなど、PiTaPa割引サービスが充実、OSAKA PiTaPaなど便利でお得な、PiTaPaカードをご利用下さい、……花園町、花園町、左側の扉が開きます、ご注意下さい、

次は岸里岸里、出口は左側です、The next station is Kishinosato, Station number Y18, ……お客様にお願いします、やむをえず、急停車することがありますので、つり革手すりなどをお持ち下さい、……ご乗車ありがとうございます、大阪市交通局では、国土交通省と連携して、鉄道利用マナーUPキャンペーンを実施しております、皆様の優しいお心遣いをお願いいたします、……岸里岸里、左側の扉が開きます、ご注意下さい、

次は玉出玉出、出口は右側に変わります。The next station is Tamade, Station number Y19, …………お客様にお願いします、車内や、駅構内で、迷惑行為を受けられたり、見掛けられた方は、乗務員、または、駅係員まで、お知らせ下さい、……玉出玉出、右側の扉が開きます、ご注意下さい、

次は北加賀屋北加賀屋、出口は左側に変わります。The next station is Kitakagaya, Station number Y20, ……お客様にお願いします、車内、及び駅構内で、不審物を発見された場合は、触らず、ただちに、乗務員、または駅係員に、お知らせ下さい、……産業廃棄物中間処理工場の山田衛生山田衛生住之江工場へお越しの方は、次でお降り下さい、……北加賀屋北加賀屋、左側の扉が開きます、ご注意下さい、

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北加賀屋駅からクリエイティブセンター大阪(CCO:名村造船所跡)への「近道」は4番出口を出る事である。駅の案内板にも(そして「クロニクル、クロニクル!」の公式サイトにも)その様に記載されているが、これは勿論、階段を昇る事を選択した者に向けての案内であり、エレベーターやスロープの使用を選択する者/選択するしかない者に関してはそれが無効である事に注意したい。エレベーターで地上に出るコース(CCO方面とは逆方向の東改札側1番出口方面)を選択する者/選択するしかない者は、4番出口を階段で昇る/昇れる者よりも―片道3車線に中央分離帯が加わる広い南港通を渡る事も含めて―数百メートルCCOまでの距離が加わる。加えてそのCCOの中にエレベーター等の昇降装置が無い事にも注意したい。そこは嘗ては「仕事」に於ける「適否」(「『働ける』者」)が優先された場所でもあるからだ。エレベーターを使用するしか無い者は、展覧会場に事前電話連絡が必要になるかもしれない。
 
茶ばんだ文庫本より長くは生きているものの、まだ膝に痛みを抱えていない脚で、出口4の13段階段、6段階段を昇り通路を行くと、仮囲いが見えて来た。

 

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そしてその正面には「お知らせ」が貼られていた。

お知らせ

 

 ご利用ありがとうございます。
駅出入口付近で、津波ゲリラ豪雨対策工事を行います。
 工事期間中は工事用の仮囲いで、通路の一部が狭くなり、大変ご迷惑をおかけしますが、ご理解・ご協力をお願いいたします。

 

工事期間
 平成 27 年 9 月 15 日〜
  平成 28 年 3 月下旬(予定)

仮囲いの後ろでは重量級の防潮扉の設置が進んでいた。

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そこを左に折れて5段階段を昇れば、再び北加賀屋千鳥ビル(注)の入口に重量級の防潮扉である。

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(注)因みにこのビル地階の資料展示には、幾つかの「現代美術作品」に混ざって、北加賀屋周辺の古地図や、「工学博士 武田五一」氏作の「芝川又右衛門邸【増築部】配電盤」や「芝川又右衛門邸【増築部】炊事場の窓」等見るべきものが多くある。

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●わたしたちの住むまちは海面より下にある

大阪は“海面より低い土地”が多いため、高潮や津波による大きな災害にたびたび苦しめられてきました。

のぞいてみてください!海面より下にある、わたしたちのまちを。
想像してみてください!ここに海水が流れ込んだときの恐ろしさを。
●海抜0メートル地帯
海抜0メートル地帯とは、地表の高さが満潮時の平均海水面よりも低い土地のことをいいます。
大阪では昭和初期から工業用水として多量の地下水を汲み上げたため、地盤沈下が起こり深刻な問題となりました。
防潮堤が、海水面より低い住居地域を守っています。

 

●防潮堤の役割
大小多くの河川と海に囲まれている大阪は、人口や資産が海面より低い土地に集中しています。
防潮堤は、海岸や川岸に張り巡らされており、伊勢湾台風級の超大型台風による高潮にも十分対処できる高さで、大阪のまちを守っています。
●防潮水門方式(Tidal Gate and Pumping Station)
安治川、尻無川、木津川においては、一日に数多くの船舶の航行があり、それらを妨げず、また、強風や地震などの厳しい条件に有利なことから、アーチ型の大水門3門が建設されました。
これらの防潮水門は、高潮に備えて閉鎖すると、海水面の上昇による、河川の水位の上昇は抑えられますが、上流の寝屋川、第二寝屋川、平野川等の河川からの流出や市街地からの排水によって水位が上昇し、浸水氾濫が起こる恐れがあります。そこで、淀川と大川(旧淀川)の接続する毛馬の地に、毛馬排水機場を建設し、毎秒330立方メートルの水を大川から、淀川へ排水しています。

 

大阪府域の特徴
大阪は大阪湾のいちばん奥にあるため、台風による高潮被害が発生しやすい地形となっています。
また、大阪府の海岸線は約230kmあり、人口や産業も集中しているため、高潮や津波による浸水が大きな災害となりやすい傾向にあります。
大阪平野の地盤高(Ground Height of Osaka Plain)
西大阪地域には、標高0メートル以下の地域が約21平方キロメートル、また大阪湾の朔望平均満潮位以下の地域が約41平方キロメートルあります。

 

●忘れないで高潮災害の脅威
室戸台風は世界の気象観測史上でも例のないほど大型の台風で、大阪港の海水は河川の上流へと流れ込み、大阪城まで押し寄せました。高波は次々に人々や市街地をのみこんでいき、たくさんの人の命を奪い、くらしを破壊しました。

ジェーン台風が上陸したのは満潮時に近い時間帯で、高潮は強風にのって大阪湾から各河川に逆流し、市街地に押し寄せました。大阪はわずか3時間あまりの間に、浸水面積、死傷者数ともに室戸台風を超える大きな被害を受けました。

第2室戸台風は進路も規模も室戸台風とよく似た大型台風でしたが、急速に進んだ防潮堤整備などの高潮対策により被害は最小限に抑えられました。また、浸水が心配される地域の人々の早めの避難により、高潮を直接の原因よする死者はゼロでした。

 

「海より低いまち大阪」「災害をのりこえ着実な高潮対策」津波・高潮ステーション:大阪府

 
http://www.pref.osaka.lg.jp/nishiosaka/tsunami/tsuna-symbol.html
http://www.pref.osaka.lg.jp/nishiosaka/tsunami/tsuna-thema1.html

穂高、乗鞍、白馬の北アルプスの三山を越えてスペイン前の交差点に立つ。「クロニクル、クロニクル!」展が行われているクリエイティブセンター大阪(CCO:名村造船所跡)の敷地を、ギリシャ人 B. による「ストリートアート」 “b. friends on the wall" や NPO法人Co.to.hana の「NAMURA 152p」がペイントされ囲っているものは、「抑圧」や「疎外」を表象したりもする只の “wall" ではなく、「海面より下にある、わたしたちのまち」の生命線としての防潮堤(tide embankment)であり、総延長60キロメートル、防潮扉354基、水門8基、防潮堤天端高さ(O.P.+5.7メートル〜7.2メートル)のそれは、死亡・行方不明者221名、重軽傷者18,573名、建築物全壊5,120戸、流失731戸、半壊40,554戸、床上浸水41,035戸、床下浸水26,899戸、罹災家屋114,339戸、罹災者543,095人、沈没船舶数10隻、座礁揚陸船舶48隻、行方不明船舶15隻(以上「大阪市内」の数字)のジェーン台風被災を期に作られた被災地大阪の祈りでもある。それは善意によって救われねばならない殺風景ではなく、それ自体最大の敬意を払うべき対象なのだ。

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大阪市大阪府(1960):西大阪高潮対策事業

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「クロニクル、クロニクル!」展の1階から2階へ続く階段の踊り場では、「存在感」と題された名村造船所創業100周年を記念した社史「名村造船所百年史」を観客が手にする事が出来る。

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その81ページにはこの様な記述がある。

同年(著者注:1950年)9月初旬、ジェーン台風が西日本をおそい、徳島から淡路島、神戸を縦断して大きな被害をもたらした。この台風は最大風速50m/秒という風台風で、大阪湾岸は強風が吹き荒れ、それとともに高潮が発生して、被害が拡大した。当社工場でも木造艤装工場はじめ5棟が倒壊し、その他建物20棟、船渠、コンクリート塀なども損傷した。また浸水被害も、機械装置、工器具備品の損傷、在庫品の流出、廃棄などきわめて大きく、これらの復旧修繕費、在庫品の損害は総額929万2,000円に達した。さらに、台風通過時より長期間にわたり、電源の壊滅、船渠ポンプ室の浸水などで工場が長期間機能停止状態となるなど、ダメージは深かった。

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ジェーン台風翌年の名村造船所

クリエイティブセンター大阪の公式サイトに記された「施設特異性による注意事項」。

クリエイティブセンター大阪は、名村造船跡地内にあり、臨海地のため、敷地入口には防潮堤が設置されています。 台風などの気象条件により、行政の指示を受けた場合には防潮堤が閉鎖され、施設の利用が不可能となる可能性がございますので、予めご了承下さい。その際の利用料金の返却等は出来ません。

 

http://www.namura.cc/

大阪市ハザードマップによれば、南海トラフ巨大地震による津波が来襲した場合、木津川防潮堤の「外側」である名村造船所跡地は、その一部で3〜4メートルの「浸水」が「想定」されている。しかし飽くまでもそれは「想定」である。

一つだけ言えそうなのは、大地が大きく揺れたらこの建物に留まっていてはならないという事であろう。津波到達よりも早く北加賀屋駅前の高層建築の上層階まで逃げるに若(し)くは無い。

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2月14日に「クロニクル、クロニクル!」では「避難訓練」が行われた様だ。それを「サイトスペシフィック」云々とするも「リレーショナル」云々とする事も可能ではあるだろうが、しかしそれはやはり「避難訓練」なのである。「避難訓練」で何が不都合だろうか。

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クリエイティブセンター大阪から木津川を遡る形で川沿いの道を3キロ程行くと、日本最大級の防潮水門である木津川水門がある。


映像は「安治川水門」

そこから再び2キロ程木津川を遡上、木津川水門と同規模の防潮水門がある尻無川と合流する辺りに大正橋があり、その北東詰に「大地震両川口津浪記」という石碑が立てられている。

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安政元年(1854年)11月4日(旧暦)の安政南海地震の後に大阪を襲った津波の被害と教訓を記した(碑の西面中央部には「南无阿弥陀佛(南無阿弥陀仏)」の名号と「南無妙法連華経」の題目が刻まれている)もので、その翌年の安政2年7月に建立されている(現在の位置は建立時とは異なる)。その死者の数は数千から1万とも言われている。

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「大地震両川口津浪記」の碑文は、安政の南海地震の147年前(碑文では148年前)の1707年に起きた宝永の南海地震の際に発生した津波についても触れている。

今より百四十八年前、宝永四丁亥年十月四日大地震之節も小船乗津波ニて溺死人多しとかや。年月隔てハ伝へ聞人稀なる故、今亦所かはらす夥敷人損、いたま敷事限なし。後年又斗かたし。

 

今から148年前の宝永4年10月4日の大地震の時にも、小船に乗って避難した為に津波によって溺死した人が多かったという。長い年月が経過して、それを伝え聞く者も稀であったが為に、今また同じ場所で多くの人の命が奪われてしまった。痛ましい事に限りがない。将来も同様の悲劇が繰り返されるだろう。(拙訳)

高潮も地震も「ひと」の手を離れたところで繰り返される。その繰り返し自体は「ひと」には止められない。碑文はこの様に締められている。

水勢平日之高汐ニ違ふ事今の人能知所なれとも、後人之心得、溺死者追善傍、有の蛎節分儘拙文にて記し置。願ハくハ、心あらん人、年々文字よミ安きよう墨を入給ふへし。

 

津波の勢いは、通常の高潮とは違うという事を、今回被災した人々は良くわかっているが、後世の者もまたこの事を十分心得ておくべきであろう。犠牲になられた方々の御冥福を祈り、拙い文ではあるもののここに記しておく。願わくば、心ある人は毎年碑文が読み易い様に墨を入れて欲しい。(拙訳)

碑が立てられてから160年後の現在でも、大地震両川口津浪記念碑保存運営委員会が、毎年地蔵盆に石碑を洗い、刻まれた文字に墨を入れている。物理的風化を免れないその石は、やがてこの世を去る「ひと」による「繰り返さない」事(風化させない事)を期した「繰り返すこと」であるところの墨入れの儀によって、世代から世代へとそれを手渡す為の媒体なのである。

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「クロニクル、クロニクル!」展は「繰り返すこと」「繰り返されること」がテーマの一つだ。翻訳もまた「繰り返すこと」「繰り返されること」の中にある。
 
同展の公式サイトにはウィリアム・フォークナーの「アブサロム、アブサロム!」(第4章)中のジュディス・サトペン(Judith Sutpen)の科白が引かれている。「クロニクル、クロニクル!」のサイトには明記されていないが、これは藤平育子氏(1944年〜)による日本語訳文(2011年:岩波文庫)である。

「クロニクル、クロニクル!」が引用した箇所の原文はこうだ。

Because you make so little impression, you see. (...) because you keep on trying or having to keep on trying and then all of a sudden it's all over and all you have left is a block of stone with scratches on it provided there was someone to remember to have the marble scratched and set up or had time to, and it rains on it and the sun shines on it and after a while they don't even remember the name and what the scratches were trying to tell, and it doesn't matter. And so maybe if you could go to someone, the stranger the better, and give them something-a scrap of paper-something, anything, it not to mean anything in itself and them not even to read it or keep it, not even bother to throw it away or destroy it, at least it would be something just because it would have happened, be remembered even if only from passing from one hand to another, one mind to another, and it would be at least a scratch, something, something that might make a mark on something that was once for the reason that it can die someday, while the block of stone can never be is because it never can become was because it can't ever die or perish..

「アブサロム、アブサロム!」には、藤平訳の他にも幾つか日本語訳がある。大橋吉之輔(1924年〜1993年)訳、篠田一士(1927年〜1989年)、高橋正雄(1921年〜)訳がその代表的なものになる。2011年の藤平訳はそれらの訳から数十年ぶりの新訳という事になるが、大橋訳(富山房「フォークナー全集」)以外の篠田訳、高橋訳は、それぞれ河出書房「池澤夏樹=個人編集 世界文学全集」、講談社文芸文庫で、現在も新刊書で読む事が出来る。
 
1965年の大橋吉之輔氏(物故)訳。(大橋氏41歳時のしごと)

人間というものは、しょせん、はかないものです。(…)とにかく生きている間はやりつづけなければならないので、そればかりを気がかりにして生きていると、とつぜん、すべてが終わってしまって、あとに残るのは、なにやら字がきざみこんである一塊の石で(それもだれかがおぼえてくれていて、墓石を立ててくれるだけの余裕があった場合の話ですが)、そのうちに雨がふり日が照って、墓の下にねむっているのがだれやら、墓の上に何という文字が書いてあるのやら、だれにもわからなくなってしまうのです。ですから、もしできることなら、だれかのところへいってー知らぬ人であればあるだけそれだけいいのですがー一枚の紙でも何でも手渡しておけば、その紙自身に何の意味があろうと、また読まれようと保管されて いようと、棄てられようと焼かれようと、とにかくすくなくとも、手渡したという行為があり、ひとりの心から他の心へとなにごとかが伝えられたということだけでも、それがたとえ一枚の紙にしるされた走り書きであったとして、それはいつかは消えてなくなるという理由のために、過去のものとしての価値をもっているわけですが、墓石のほうは、消え去ることができないので、けっして過去のものになることはできず、したがって、現在に生きることもできないのです……

その1年後、1966年の篠田一士氏(物故)訳。(篠田氏39歳時のしごと)

どうせ人間なんてたいして代りばえしませんものね。(…)でもそれをつづけてやってゆかなければならないとしたらそれは大事なことにちがいなく、そのうちに突然なにもかもおしまいになってあとにはなにか刻んだ石ころしか残らず、それもだれか大理石になにか刻んで据えたことをおぼえていてくれる暇なひとがあればいいんですが雨が降ったり日が照ったりしているうちにやがて名前も忘れられ刻まれた字も判読できなくなってしまいますよ、まあそれもいいでしょう。ですからだれか、まあ知らないひとのほうがかえっていいんですが、だれかの所へ行って、なにかー紙きれみたいなものでもーあげることができたとしても、なにか、なんでもいいんですが、そんなものはそれだけではなんの意味もなく、そのだれかだってそれを読んだりとっておいてくれたりするかどうかわかりませんし、それをわざわざ投げ捨てるだけの労もいとうかもしれませんが、でもすくなくともそういうことがあって、ひとの手から手へと渡ればそのひとたちの記憶にとどめられるわけですし、すくなくともなにか書かれたもの、なにか、いずれそのうち死ぬこともあるという理由から、それがかつて存在した証拠となるかもしれないようなものは残るわけで、それにたいしてただの石ころでは死んだり消えたりできませんから存在したということはありえませんから存在することはないわけでして……

その4年後、1970年の高橋正雄氏(存命)訳。(高橋氏49歳時のしごと)

だって人間なんてだれしも、そう変わったものではありませんからね。(…)だって、だれもがやりつづけるか、つづけなければならないうちに、突然すべてが終わり、その人があとに残すのはその上に字の刻まれた一塊りの石だけになるでしょうから。その石にしても、それに字を刻ませて立てるのを忘れないか、それだけの暇のある人がいればの話で、それを立てて貰っても、その石の上に雨が降ったり日が照らしたりしているうちに、間もなくするとだれもその名前を思い出さなければ、刻まれた文字の意味も忘れてしまい、そんなものは取るに足らないものになるでしょう。ですから、もしだれかのところへ行き、それも他人の方が好都合ですが、その人になにかをー一枚の紙切れでもーなんでもいいからなにかを渡すことができれば、たとえそのもの自体はなんの意味もなく、それを渡された人が読みもしなければしまってもおかず、わざわざ投げ捨てたり破ったりさえしなくとも、そうすることは少なくともなんらかの意味があるでしょう。というのは、よしんば一人の手から別の手へ、一人の心から別の心へ渡されるだけでも、それは一つの出来事として記憶されるでしょうし、それは少なくとも一つの刻みに、なにかに、かつて存在したあるものをそれがいつかは死ぬことができるという理由で記憶させることができるかも知れないなにかに、なることでしょうから。それにひきかえ、石の塊りの方は、それが死ぬことも亡びることもできないために、過去の存在になれないので、現在の存在にもなれないのです……

そして「クロニクル、クロニクル!」サイトに掲載されている、高橋訳から41年後の2011年(東日本大震災の年である事は、ジェーン台風程には風化していない)に世に出された藤平育子氏(存命)訳。(藤平氏67歳時のしごと)

だって、人は生きた印を残すことなどほとんどできないのですもの。(…)だって、人はやり続けるか、続けなければならないうちに、突然すべてが終わり、結局その人があとに残すのは、その上に文字が刻まれた一塊の石ころだけになるでしょうからね、それにその石ころだって、そこに文字を刻んで建てるのを忘れないか、それだけの暇のある人がいればの話で、石を建ててもらっても、その石の上に雨が降ったり、太陽が照らしたりしているうちに、しばらく経てば、彫られた名前も思い出さなければ、ひっかき傷の意味も忘れてしまい、そんなものは取るに足りないものになります。ですから、もし誰かのところへ行き、それも他人の方が好都合なのですけれど、その人に何かをー一枚の紙きれでもー何でもいいから何かを手渡すことができれば、たとえそのもの自体は何の意味もなく、それを預かった人が読みもしなければ、しまってもおかず、わざわざ捨てたり破ったりさえしなくても、手渡すという行為があったというだけで、少なくともそれには何かの意味があるのです、と申しますのは、一つの手から別の手へ、一つの心から別の心へと渡されるだけでも、それは一つの出来事として記憶されるでしょうし、それは少なくとも一つのひっかき傷に、何がしかのものに、それがいつかは死ぬことができるという理由から、かつてあったという印をどこかに刻みつけるかもしれない、何がしかのものになるでしょう、それに比べますと、一塊の石ころは死んだり消えたりできませんから、かつてあったことにはなれません、ですから今あることもできないのです

高橋訳と重なるところの多い藤平訳である。この藤平訳は翻訳者という職能を可能にする最低条件の更新を示しているとも言える。その中にあって、これまで意訳の対象であった “scratches" ―それは「大地震両川口津浪記」碑で墨を入れられ続けているものでもある―を「ひっかき傷」とするところに、藤平氏による「繰り返し」の意味の一つがあると言えるだろう。

Maybe nothing ever happens once and is finished. (William Faulkner)=おそらくかつてなにごとかが起こってそれが成就されたというためしはないのだ。(William Faulkner/大橋吉之輔)=もしかすると一度起こったことは終わるということがないかもしれない。(William Faulkner/篠田一士)=たぶん一度起こったことで完了したものはなに一つないんだから。(William Faulkner/高橋正雄)=もしかしたら一度起こったことでそれで完結するものなんて何もないんだ。(William Faulkner/藤平育子)=……………。

藤平育子訳の後に出るだろう “Absalom, Absalom!" の次なる「日本語訳」は、この第二次世界大戦前のアメリカで書かれた小説を、如何なる同時代の日本語に変換するだろうか。Maybe nothing ever happens once and is finished.

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「クロニクル、クロニクル!」展の「会場」内には、「会場」の「外」へと繋がる「開口部」が幾つかある。少なくとも明示的なものとしては、二階の倉庫奥に一つ、三階の窓に一つ、四階の南壁に一つである。三階のものは人の出入りが出来ないが、他の二つはこの「会場」であるCCO総合事務棟の「非常階段」の踊り場=「外」に出られる形になっている。

しかしそれら踊り場へのドアを「開放」したいずれの作家も、その踊り場が「作品」の「内」にあるとは言ってはいない。そこは飽くまでも「外」であらねばならないのだ。少なくともそれらの「開口部」は「作品」の「外」への「延長」を意図されてはいないだろう。

「アブサロム、アブサロム!」の「核」となる人物の一人であるトマス・サトペン(Thomas Sutpen)は、ヨクナパトーファ郡の「まだ誰も手をつけていない、この地方で最上の川沿いの低地(the best virgin bottom land in the country)」の100平方マイルを、僅かばかりのスペイン金貨でチカソーインディアンから手に入れ、嘗て「神」―チカソーインディアンにとっては神でも何でも無い―が「光あれ(Be Light)」と言って天地を創造した様に「サトペン荘園(Sutpen's Hundred )」を作り上げて行く。

それは他者の空間(即ちそれは「処女地」などではない)を、自らの生産体系の拡大の為の領域に変えて行くものであり、それを約めて言えば「征服(conquest)」という事になる。ローザ・コールドフィールド(Rosa Coldfield)の話を聞くクエンティン・コンプソン(Quentin Compson)の脳内は、それを「血の匂いのしない(bloodless)平和的征服(peaceful conquest)」と呼んだ。

「開口部」から「外」に出て、大阪の町(他者の空間/アートの処女地)に向かって「光あれ(Be Light)」ならぬ「アートあれ(Be Art)」と叫ぶのも良いだろう。その「アートあれ」の形の一つが、名村造船所を囲む「アート」に結実している。

しかし「クロニクル、クロニクル!に開けられた「開口部」、目張りをされていない「窓」からは、寧ろ「外」からの「波紋」が「内」に流入して来るのである。

「クロニクル、クロニクル!」の「外」について書いた「長過ぎる序」を終わる。

【続く】