クロニクル、クロニクル!「前編」

 

承前

ネスト 【 nest 】 入れ子 / ネスティング / nesting

  
 ネストとは、構造化プログラミングにおける、プログラムの構築手法のひとつ。複数の命令群をひとまとまりの単位にくくり、何段階にも組み合わせていくことでプログラムを構成する。このまとまりをネストという。主なネストの種類は、条件分岐(C言語などでは「if」文)、一定回数の繰り返し(同「for」文)、および条件つき繰り返し(同「while」文)である。ネストの内部に別のネストを何段階にも重ね、入れ子構造にしていくことを指して「ネスト」「ネスティング」と呼ぶことがある。
 
IT用語辞典-入れ子
http://e-words.jp/w/%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%88.html

function LookupCode(code as string) as integer
    dim sLine, path as string
    dim return_value as integer
 
    path="C:\Test.csv"
    if FileExists(path) then
        open path for input as #1
        do while not EOF(1)
            line input #1, sLine
            if left(sLine, 3)=code then
                'Action(s) to be carried out
            End if
          loop
        close #1
    End if
    LookupCode=return_value
end function

 
Wikipedia(en) の “Nesting (computing)" に上げられているネスティングの “small and simple example"。
https://en.wikipedia.org/wiki/Nesting_(computing)

プログラムのコーティング(「ひと」が解釈可能な言語で記述する事)に於いて、「ひと」に対してネストの階層レベルを明示的なものとする基本的な方法論に、行頭に非表示文字(n個のタブやn個の半角スペース)を挿入するインデント(字下げ)がある。CやJavaPythonPHPPerl(以下略)使いならずとも、HTMLやCSSソースコード記述でそれをしない者を見掛ける事は余り無い。相対的に上位の入れ子であれば相対的にインデントは浅くなり、下位になる程にそれが深くなるというのが、コーディングに於ける標準的なお約束だ。

インデントの浅さ/深さは、基本的には階層レベルの上位/下位に対応する。インデントを行う事は、プログラムを書いた者を含めた「ひと」に対し、その構造が「理解し易い様に」という「親切心」の現れである。であるが故にそうしたコーディングに於けるインデントに対しては、「ひと」の世界では「美的評価」の対象ともなる。一方でそこに書かれている「こと」を実際に実行する機械には――最終的にその処理が遅くなろうが早くなろうが――その一切が関わり合いの無いものだ。

「クロニクル、クロニクル!」展もまたネストだった。それは「世界」から注意深い形で一段階だけインデント――論理的不連続を表わすインデントは所謂パレルゴンとしても機能する。或いはパレルゴンとはインデントの別名である――されていて、その中には様々な見えそうで見えない/見えなさそうで見える条件式が潜ませてある。

例えば「『外』からインデントされているこのネストに「拉致」される事で、美術的な『好奇』の眼差しの対象となったマネキンの剥き身を、マネキンが元いた『場所』と同じ『外』からこのネストの中に入って来る事で、『ネストの中の人』になる事を選択した『あなた』が『その様に』見てしまうのならば〜」という条件式がそこに「書かれて」いたりするかもしれない。或いは「『外』の世界で『あなた』がこれまでに一顧だにした事も無い『しごと』や『繰り返し』や『ものの移動』などといったものが、このインデントされたネストに於いて『見る対象』として『あなた』の目に映じ直されるのならば〜」という条件式もそこに「書かれて」いるだろうか。

それらの「ならば〜」の条件式が、何らかの「〜せよ」へと送られているとするならば、それは最終的には「自分自身が知らなかった自分自身へと立ち戻れ」というものになるだろう。プログラムの終了は、常にネストの「外」で完了する様に設計されている(end function)。仮説的に観察者としての「観客」が「主体」で、展覧会にある「作品」が「客体」としておいても別に構わないのだが、それにしたところで「それらの間」で生起する概念と実践――展覧会というネストは観客主体のネスト外に於ける実践をこそ期待している――に、展覧会というものの成否が掛かっている。ネストとしての展覧会を成功させるも失敗させるも、実践主体としての観客に掛かっている。展覧会にとって最も避けるべきは、「展覧会の中のものを見た」だけで観客が完結してしまう事だ。即ち展覧会を見る以前(「以前」こそが重要)の自らの立つ構造へ立ち返る(再帰する)事の「忘却」、展覧会の「以後」をしか見ない事こそが展覧会の「敵」なのである。

その意味で「クロニクル、クロニクル!」に一つとしてエキゾチックな見物で終わるものは無い。我々の住む「世界」から一段階インデントされているが為に、そこにあるものが観客のエキゾチシズムの対象に見えるだけの話でしかない。インデントは展覧会を見る者の「展覧会以前」の変化をもたらす「機会」を「機会」化する為の方法論なのである。

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この「クロニクル、クロニクル!」というネストの内部には、その「下位」に当たるネストが仕込まれていた。そのネストの中のネストは、少なくとも2階に1つ(乃至2つ)と、その始まりが4階に「ある」ものが1つである。

2階のネストは、「世界」から一段階インデントされている「クロニクル、クロニクル!」(以下適宜「クロクロ」)の中に、川村元紀氏がもう一段階インデントして作り上げている。であるが故に、それは最初に極めて意識的に階層化する事から始まっている以上、コンピュータ・プログラム中の第一のネストと第二のネストの “if" (それは同じであり違うものである)が、その論理階梯上、同じ「空間」内にあっても決して混ざり合わない様に、構造上はこの川村元紀氏によるネストは、一つ「上位」のネスト(例えば「会場」)に――重なってはいるものの――「溶け込む」事は無い。

例えば1階の瓦礫のコンクリート片(それはこのCCO総合事務棟の中を「移動」して集められている)の一つを取り出し、その取り出した後にティッシュを一枚敷いて(=「人為」を一つ加えて)「世界」から一段階インデントし、そしてそのティッシュの上に再び取り出したコンクリート片を載せた場合、そのコンクリート片がその「下」のコンクリート片の山や周囲環境に論理的に「溶け込む」事が無い様に。論理的にインデントされたティッシュの上のコンクリート片は条件式を見る者に示す。「このティッシュに載せられたコンクリート片が、他のコンクリート片と異なって『あなた』に見えるならば〜」。

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川村元紀氏のネスト構築は「搬出」から始まっている。それは「川村ネスト」の上位にある「クロクロネスト」の論理平面(空間的には地続き)上に「倉庫」の「中のもの」が「移動」したという事になる。「搬出」という行為は、(基本的には)下位ネスト(「内」)から上位ネスト(「外」)へとものを「移動」する事であり、一方で「搬入」という行為は(基本的には)上位ネスト(「外」)から下位ネスト(「内」)へものを「移動」する事である。CCOの「外」近傍の「ワカヰ配送センター」「田中梱包工業所」「オーエム工業」「マツヤ」「大阪屋家具」「セブンイレブン大阪北加賀屋5丁目店」等々に於ける「搬入」/「搬出」にしたところでそれは同じだ。「搬入」/「搬出」は単なるものの「移動」ではない。それは論理的な階層間の不連続な「跳躍」なのである。

「川村ネスト」は、現実的にも象徴的にもまずは「搬出」から始めねばならなかった。そして「真っ更」な「展示空間」にそこを変えた後(=インデントを掛けた後)、そこに「クロクロネスト」という「外」に留め置かれたものを「川村ネスト」という「内」に向けて「搬入」を開始する、即ち階層の「跳躍」を開始するのである。

「川村ネスト」でされている事の一つ一つは、「クロクロネスト」でされている事の、字義通りの「反復」(繰り返し)である。「クロクロネスト」にその上位である「世界」から「搬入」がされる様に、「川村ネスト」でも上位である「クロクロネスト」から「搬入」がされる。「クロクロネスト」で「作品」の配置に神経を尖らせている様に、「川村ネスト」でも物品の配置に神経を尖らせている。「クロクロネスト」にアシスタントが多く動員される様に、「川村ネスト」にも多くアシスタントが動員される。「クロクロネスト」が照明に拘る様に、「川村ネスト」も照明に拘りを見せる。存命作家の同展に向けた新作が「クロクロネスト」向けに作られる様に、「川村ネスト」でも同展に向けた川村元紀氏の新作が作られて「川村ネスト」内に入れられる。「クロクロネスト」で「賄い」を始めとする「摂取」が「見せる対象」となる様に、「川村ネスト」に「摂取」し掛け――或いは「摂取」し終わり――のペットボトルが置かれて「見せる対象」となる。……。

従って「川村ネスト」の「狭い部屋」の中に、吉原治良もリュミレール兄弟も斎藤義重も三島喜美代も荻原一青も牧田愛も清水九兵衞も大森達郎も清水凱子もジャン=ピエール・ダルナも笹岡敬も伊藤孝志も谷中祐輔も持塚三樹も鈴木崇も荒木悠も田代睦三も(高木薫も)、そのままの形で、或いは何なりの形で入っていても「おかしく」は無いのである。しかし「川村ネスト」の中にあるのはそれらの「作品」ではなく、椅子であったり机であったりボードであったり脚立であったりの「製品」だ。

更に「川村ネスト」の中には幾つか「容れ物」(オリコンやキャスターやラックやビニール袋等)があり、そこでまた「川村ネスト」の下位ネストを構築する「搬入」が行われ、それらを「オリコンネスト」「キャスターネスト」「ラックネスト」「ビニール袋ネスト」等々とする事で論理階層を複雑化させている。

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「川村ネスト」には「開口部」が最低2つ存在する。その一つは上位ネストである「クロクロネスト」に繋がるものである。「クロクロネスト」側から見れば「川村ネスト」は「出品作」の一つに見える。一方「川村ネスト」からその「開口部」を通して「クロクロネスト」を見れば、それは「川村ネスト」の中に書き込まれているかもしれない「ここにあるものが今の『あなた』に『そう見える』のならば〜」という条件式の一つ上位の参照先になる。

そしてもう一つが非常階段踊り場(外光=リュミエール)への開口部。それは「川村ネスト」の「外」であると同時に「クロクロネスト」の「外」でもある。しかしそこからは「外」の世界に “exit" 出来ない。そこは「外」へ向かう往路から二つのネストの「内」への復路へと引き返す「折返点」だからだ。その多くがスタート(入口)とゴール(出口)をスタジアムのライン上で同じくする五輪マラソンの「折返点」の様に、それは反転としての「逆走」を「ランナー」にもたらす。今まで上り坂だったところがそのまま下り坂になり、こちらに向かって走って来る他「ランナー」は先程までの自分の姿だ。その踊り場には「複数のネストを通って来て、ここから見える『外』の風景が『あなた』がこれまで親しんできたそれまでのものと何か違って見えるのならば〜」の条件式が書かれているかもしれない。そして観客はそこで折り返してネストを「逆走」する。

観客を「逆走」させる二重の「折返点」の構造は、それ自体「折返点」であろうとする4階の「高木薫ネスト」にも見える。しかしそこに「美的なもの」としてのモニュメンタルな何かがそこにある訳ではない。

 

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1964年東京オリンピックでマラソン「折返点」に置かれた「美的なもの」

改めて言うまでもなく、「クロニクル、クロニクル!」は一筆書きの「回遊型」ではなく「折返点」のある「往復型」の展覧会である。そのフロアは観客がCCO総合事務棟の「出口」へ「逆走」する為に折り返さざるを得ないところであるから、「反転」の契機である「折返点」をわざわざ示す「美的」な何ものもそこには必要無い。

この4階フロアは、嘗てここで図面を引いていた人の「入る」/「出る」の「折返点」でもあった。上り階段の往路と、下り階段の復路。「しごと」に「入る」為の上り階段。「しごと」から「出る」(階下の社食に向かう事を含む)為の下り階段。

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その折返点のフロアにはCCOを知る者に良く知られた、「外」に見える船渠に入っている船と同サイズに引かれた現図作成の跡(マキタのロボプロがこのフロアを健気に掃除しなければ、それはマン・レイの「埃の栽培」に見えなくもない)があり、またそれは例えば2つ下のフロアにある斎藤義重の図面に「逆走」的にフォーカスするかもしれない。

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会場案内図上では「無題1」とタイトル付けされて「作品」として明示的にされている(このフロア内、及びその周囲には「原状」的にはそこに無いものが明示的にされない形で幾つかある)パネル写真がある。それは「現図工場 名村造船所旧大阪工場の現図工場(昭和33年頃)」というものであり、CCO総合事務棟の建物「内」にあって「クロクロネスト」の「外」にある、同棟で「最初」の階段の右手にある2階「GUEST ROOM」から「搬出」され(「クロニクル、クロニクル!」の会期中は芳名帳が置かれていた「FOYER」側に面した「元の展示場所」が「空き」になっていた)、この写真に写っていると思えもするフロアに「搬入」されたものである。

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しかしそれを良く見れば、写真の中の建物と、それを見ている者がいる建物は大きく異なっている事が直ぐに判る。今ここにある観客が立っている建物は鉄骨だが、写真の中の建物は木骨だ。床から梁までの高さも異っている様であり、またフロア材やその張られ方(写真の中の床材は部屋の「斜め」方向に渡されている)も全く異なる。果たして写真の中の風景はここと「同じ」場所なのだろうか。そのフロアの位置は、写真の中のそれと、X,Y,Z軸的に1ミリたりとも変わっていないのだろうか。もしかしたら写真の中の人達は、今ここにあるベニア板フロアの数センチ上に浮きつつ(或いは数センチ下に潜りつつ)仕事をしているのかもしれない。ずれを伴う二重写し。往路で見て来た荒木悠「作品」を思い出す。

「無題2」とされているところにあるドア。

声を出さずに読んでください。

各会場で、当時の作業音が聞こえます。

このドアは開くことができます。

「当時」とは一体何時の「当時」だろう。

出口ドアを開く。

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ネストの「外」に出る。出口ドアを閉める。

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反転する「折返点」。

先程まで出口ドアだった入口ドアを開いてネストの「内」に入る。復路。そこに座って作業をしている「ひと」に声を出さずに声を掛けて部屋を出る。「失礼します」。部屋に入る時にはしなかった挨拶だ。

この二者の「しごと」は「構造」上のものである。「川村ネスト」の「乱雑」さや「高木ネスト」の「空虚」さ、或いは周囲の環境との「溶け込み」といった「現象」面から入って行くと、見逃してしまい勝ちになるものが多いと言えよう。「形体」の変形ではなく「構造」の変換がそこでは行われている。「展示」で見せるのではなく「想像」の力を掘り起こさせる事。「構造」の変換もまた「技法」なのだ。

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【蛇足】

CCO総合事務棟の4階ドラフティングルームの北側壁、高木薫作品「無題1」の左側に「遺物」があった。今はなき「民社党」の1974年のカレンダーだ。今もそこにあるのか、今はもうそこに無いのかは判らない。因みに2015年の中頃に同スペースでロケをした映像にはそれは映ってはいない。従って少なくともそれ以降に誰かがここにその「遺物」をどこからか「搬入」したのだと思われる。

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カレンダーの下部に名を連ねているのは、「党大阪府連書記長」(当時)の岩見豊明氏(1928年〜2014年)と、「党本部機関紙局長」(当時)の和田春生氏(1919年〜1999年)だ。

岩見氏は、その前年の1973年の参議院議員補欠選挙、翌年1974年と1977年の参議院議員通常選挙に大阪選挙区から立候補しているもののいずれも落選している。その後大阪府議、大阪府議会副議長。

和田氏は、鳥羽商船学校を出た人で、その後山下汽船に入社。全日本海員組合に参加する。1969年の第32回衆議院議員総選挙で東京7区(中選挙区)から立候補し、最下位ながら当選しているが、次の1972年の第33回衆議院議員選挙では落選(注)。1974年の参議院議員通常選挙の全国区から立候補して当選するものの任期途中で辞職。選挙区を東京3区(中選挙区)に移した1979年、1980年の衆議院議員総選挙で落選。氏が再び国政に戻る事は無かった。因みに東京7区は自分が生まれ育った場所なので、和田氏の名前は当時の町の風景と共に記憶に残っている。

そうした意味で、岩見氏、和田氏国政選挙落選直後の1974年(実際には1973年に作られたと想像される)のこのカレンダーは、両者共に国政選挙に於ける「捲土重来」を期する為のツールでもあった事だろう。

岩見氏の御子息、岩見星光氏(1958〜)もまた大阪府議である。星光氏の祖父=豊明氏の父の岩見市松氏も大阪府議であった。三代繰り返される大阪府議。豊明氏は「社会主義」政党である民社党。一方星光氏は現在「自由民主党西淀川区支部 支部長」「自由民主党大阪府議会議員団 相談役」「自由民主党大阪府支部連合会 幹事長」「西淀川区民党代表」という事である。

西淀川区の星光氏の実家(兼事務所)はまた、最近まで大相撲花籠部屋の大阪場所の宿舎でもあった。しかし民社党同様、花籠部屋も今は無い。

各会場で聞こえるのは作業音ばかりでは無い。争議のシュプレヒコールも聞こえる。決して「しごと」の一点のみに収斂しないもの。それが「ひと」なのである。

(注)その次の第34回衆議院議員選挙(1976年)では、同選挙区に「市民運動家菅直人氏が立候補をして次点で破れている。そして4年後の1980年の第36回衆議院議員総選挙で初当選(トップ当選)する。

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【続く】