28年目

これもまた嘗てあった事だ。とは言え「つい最近」の話である。現在日本の「現代美術界」で「若手」と呼ばれている人達の多くが、この世に生を受けた後の話になる。少なくとも71年以上も前の事ではない。

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日本の「80年代美術」はいつ「終わった」のだろうか。「80年代美術」が「未だ続いている」とは誰も思わないから、何処かでそれは何らかの形で「終わった」筈である。一体何をして「80年代美術」は「終わった」とされるのだろうか。

所謂「バブル経済」が1991年に崩壊したその時に、それが「終わった」という見方は可能だ。1989年11月9日の「ベルリンの壁崩壊」を以って、「西側」文化の一変種としてのその成立基盤が、多少なりとも揺らいだという事もあるだろう。では、日本の「80年代美術」の「終わり」が1989年1月7日の「昭和」の「終わり」と軌を一にしているというのはどうだろうか。

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「昭和」の「終わり」。即ち今から27年前から28年前に掛けての話である。その当時の日本は有史以来何回目かの自信に満ちていた。今では見る影も無いが、日本は世界で1、2を争える「大国」であると自ら大いに認めていたし、また実際に周囲からも世界有数の「大国」であると認識されていたのは確かだ。ニューヨークのロックフェラー・センターのビルは全て三菱地所が所有していた。ソニーはアップルよりも遥かに格上のブランドだった。ホンダの RA168E エンジンは、それを競走自動車に搭載したイギリスの競争自動車製造者に自動車競争世界選手権に於けるシーズン16戦中15勝をもたらした。アメリカのエンタテイメント・コンテンツでは、「会社のオーナーが日本企業」「借家のオーナーが日本人」といったモチーフが頻繁に使われたりもした。「21世紀は日本の時代になる」という、日本の自意識を満足させる複数の「観測」が、日本の自信満々を支えていた。大八州の希望は踊っていたのである。

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一つ一つの才能の話ではなく、日本が世界の現代美術をリードして行くという事も、半ば夢想としてではなく語られていた。WW2前にパリがあり、WW2後にニューヨークがあり、そして21世紀はそれが東京になると、まことしやかに語られる事もあった。経済的に「大国」となった後も、相変わらず欧米の美術雑誌上では、日本からのレポートはメインのコンテンツには到底ならなかったものの、それは欧米人の美術に対するスタンスの限界故にであるという見方が日本でされてもいた。だからこそ、例えばフランス人 “Jean-Hubert Martin" によるフランスの美術展 “Magiciens de la Terre” に「取り上げられた」 “Terre" 側の人間は、それに対して過剰なまでの意味を見出し、また周縁的存在としての日本人アーティストがフランスの注目の企画展に「ノミネート」される事に対して、当時の日本・現代・美術は、記憶すべき「時代の変化」を見て取った。

「国内」的には「私たちの絵画」という、峯村敏明氏の筆が送り出した文字列が公にされた1980年代。その「私たち」は、多くは「日本」という内実を全く欠いたフィクショナルなイメージにも読み替えられ、それに快哉を送る空気も存在したりもした。「日本」が様々な形を伴った単調なイメージで浮上する。

一方で、その「私たち」の先を見据えようとする美術の人達の中には、「アジア」に目を向け始めた人もいた。欧米の美術状況に常に目を向け、或いはそこで認められようとする事には最早大きな意味は無い。これからは「アジア」に注目だ。但しその「アジア」は、欧米圏が言うところの “Turkey" から始まる “asia" ではなかった。

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事実上その「アジア」は、日本・韓国・中国の「東アジア」及びその周辺国を意味し、その中心には「アジア現代美術」の「盟主」である日本が位置しているというものではあった。

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この時代を映像化しようとすれば、必ずと言って良い程東京証券取引所の立会場の手サインがインサートされ、マハラジャ、キング&クイーン、MZA有明辺り(ジュリアナ東京は平成に入ってからオープン)がインサートされ、時には土井たか子氏が日本社会党の委員長になった映像――後の平成の「マドンナ旋風」に繋がり、参院で与党を過半数割れに追い込む――がインサートされもする。いずれにしても、1980年代の日本を、誰一人として「暗い時代」として描く事はしないだろう。

1980年代は、元号的には昭和50年代(昭和56年)から昭和60年代(昭和64年)という事になる。「三丁目の夕日」の時代が昭和30年代と言われ、決して1950年代や1960年代と言われないのとは対照的に、1980年代を昭和50年代や昭和60年代で表わす事を日本人の殆どは誰もしない。先の東京オリンピックは「1964年」よりも「昭和39年」の方が年配者を中心に未だに通りが良かったりもするが、その6年後の日本万国博覧会は「1970年」(=昭和45年)の方が断然通りが良い。日本に於ける元号と西暦の比重が入れ替わったのは、三波春夫(他)の歌声による「1970年のこんにちわ」の前後であると自分の印象的には記憶している。

それ以降、元号はノスタルジーの対象として――例えば「昭和酒場」の様な形で――、或いはそれでなければ万事が進まない日本の「公」の書類の中にのみ生き残る形になり始めたのが1970年代でもあった。即ちそれは、日本社会に於ける「天皇」という部族的権威の後景化を意味する。そして1980年代はその後景化が完了した時代だった。完了した筈だった。

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「それ」は突然やって来た。かの様に振る舞われた。極めて理性的に考えれば「それ」がやって来ない方がおかしいし、事実として民間ではその1年程前から、報道機関等が「それ」に対して多かれ少なかれ「体制」を組んではいた。

1988年9月19日、その御方は大量吐血された。「Xデー」という新語が生まれたが、その隠語表現的な「Xデー」が具体的に何の日を意味しているのかは、日本国民の殆どが知っていた。従って事実上それは隠語にも何にもなっていなかったものの、しかしそれでもそれを明示的に口にする事が「不敬」に相当する、そしてそれについて「留意」している事を示す機能が少なくともその言葉にはあった。

「歌舞音曲」という古めかしい言葉が浮上し、それは「歌舞音曲自粛」という形で用いられた。明治時代であればそれは「歌舞音曲停止(かぶおんぎょくちょうじ)」とされていた。

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太后陛下 崩御ニ付本日ヨリ左ノ通歌舞音曲ヲ停止ス

一 營業ニ係ルモノハ十五日間
但シ御發棺及御埋棺此ノ期間後ナルトキハ其ノ當日尚之ヲ停止ス
二 其ノ他ノモノニ在テハ三十日間
明治三十年一月十二日 內閣總理大臣伯爵松方正義

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 明治時代に於いては、この明治30年(1897年)の英照皇太后崩御による服喪が最も長いものになる。「營業ニ係ルモノ」即ち「歌舞音曲」のプロフェッショナルには15日間の、「其ノ他ノモノ」即ちアマチュアには30日間の「歌舞音曲停止」が下された。プロとアマに於けるこの日数の差は、「歌舞音曲」を演ずる事によって税金を収めているか否かによっている。プロフェッショナルの倍の日数である服喪期間の30日間に於いて、アマチュアが路上等で歌舞音曲を演じたりすれば、巡査がたちどころにやって来て拘引される。大喪の礼の形式(明治以前は仏式)も含め、全ては明治以降に構築された日本の「伝統」である。

明治8年(1875年)の東京府による「本府布達」にはこうある。

第二号 市在各区
戸長
区長

俳優人ヲ始別紙〔抄記〕営業之者、本年ヨリ賦金上納申付候間、各区限り無遺漏人員取調、集金之末、月々二十五日出納課江可相納、此旨相違候事。
明治八年一月八日 東京府知事 大久保一翁

一、俳優人 上等壱人二付月々 金五円
      中等壱人二付月々 金金弐円五拾銭
      下等壱人二付月々 金壱円
一、音曲諸芸師金
            月々 五拾銭
一、筆談井義太夫、其外賓七出稼之者
      上等壱人二付月々 金五拾銭

明治8年の巡査の初任給が4円(2015年は高卒で20万円超)とも言われているので、「俳優人(上等)」の月々の税額5円はそれよりも高い(警官初任給指数に基づけば、現在の価格で25万円超。年額で300万円超の税金)という事になる――「俳優人(下等)」では年額60万円超。こうした高い「ハードル」を明治の行政が設けたのは、半ば「歌舞音曲」を生活の中心とする者にその世界にいる事を諦めさせ、近代日本に役立つ「正業」に就かせる為にである。勤勉の日本がここに始まる。

明治維新により、武家の式楽として幕府や藩の庇護の元にあった能楽は、その後ろ盾を失い極端に衰微した。禄と芸の後ろ盾を失った能役者達は、文明開化後も何とか自分が身に付けた能や謡で生活したいと思っていた。その幕末から近代に掛けて初世梅若実によって書かれた「梅若実日記」の明治5年5月の「挿入紙」にはこう書かれている。

明治五午年
   勤番組之頭江
元能役者共此地江移住相願御聞届ニ相成候ハ猿楽能業前二付御聞届二相成候義ニハ無是。能御用ハ以後無之事二付三十郎始名々文武之内可心掛所移住後モ於寺院等二而能暁子等時々相催侯敬二相聞不都合之事二侯間頭支配より篤卜可為申談置之事。
   六月
今般別紙之通被令候。然ニハ御自分ニハ右様之義有之間敷候得共猶此義御書付趣厚ク相心得候様頭衆被相達候間此段申達候。以上。
   午六月      滝川虎雄
     観世新九郎拝

文明開化した近代日本に於いては、「文武之内」で「正業」に就くべきであるが故に、徳川慶喜に従って静岡に移った能役者が寺院等で能囃子などを演じているのは「不都合」である。従って頭支配はそれを厳重に諌める様にという「観世新九郎」(=芸術家)による申し入れである。

東京府による「本府布達」と同じ明治8年10月には「諸藝人名錄」が刊行されるが、これはその8ページ目に「諸藝賦金毎月上納髙」がある様に、税金を収めている者(近代日本に貢献する者)だけが事実上「藝人」とされた事を意味する。

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時は下り、明治天皇崩御(1912年7月30日)の直後に発行された、東京音楽学校(現東京藝術大学)の学友会誌である「音楽」(1912年11月号)の「編集室」(牛山充氏による執筆と見られる)には、「歌舞音曲停止」が実際にどの様に「日本の『芸術』」に対して機能したかについて以下の様に書かれている。この東京音楽学校講師の書く文章は、明治以降の「日本の『芸術』」が社会が繋がろうとする――その殆どは「芸術」の側から一方的に望まれている一方で、その逆のケースは殆どと言って無い――ところに於いて、様々に重要な示唆を含んでいると思われるので、長文だが引く。

(略)明治天皇崩御の御事がありましてから畏れ多くも主上には五日の廃朝を仰せ出されまして一般に歌舞音曲をその間御停止になりました。誠に勿體ないことで何れも深甚な哀悼のなげきの聲のほかに、此深い、厳粛なユニヴァーサルサイレシスを破るものはありませんでした。これもとより然るべきことでございます。そしてその間は音を以てお上に仕へ奉り、音を以て人心の教養に當ってをる徴臣共も、謹しんで口に唱聲を絶ち、手を樂器に觸れませんでした。

五日間の御廃朝が終りまして、歌舞音曲禁止の令がとかれまして、もはや差し支へないとのお布令がありましたのは、そのためにこれを生業としてをる下民が、若しも停止のために難渋してはとの有り難い大御心と承りまして私共は感涙に咽びました。そしてこれを生業としてをる下々の者迄も大御心のあまり尊く有難さに、なほ勿體なく思ってずっと御遠慮申し上げて居った向も尠くなかったとの話。有り難いお上の御思召しに對する、下民の美しい感謝の至情の發露として、又我國に於てのみ見るを得べき尊き現象として喜びました。

併し乍ら全くこれによって僅かに糊口の資を得て居る、音樂の師匠、僅かに一管の尺八や、一提の三絃を以て親子三人の露命を繋いてゐる門付けや、縁日のほのくらい小路に土座して見えない目に涙を流し乍ら、覺束なげの追分けや松前の一と節に、鬼のやうな丈夫の腸さへ九回の思あらしめる可隣な尺八吹きを忘れることは出來ませんでした。それと同時に音樂を以てライデング・ヂェネレーションの精神教育に従事してゐる我満天下の音樂教員諸氏の苦衷を思ひやらないわけには参りませんです。

聞くところに依れば文部省の夏季講習會で得た音樂の智識を、九月の新學期よりの小學校の唱歌教授に間に合せるために、急いであの盛夏三伏の炎暑の候をも顧みず、それぞれ國へ歸って小學教員の講習をするために、自宅でピアノを弾いたからと云って早速不謹慎呼ばはりをした新聞があったさうである。甚だしきは不忠の二字を冠らしめた賢明なる社會の木鐸を以て任ずる記者があったさうである。

もとより斯の様な新聞の言説は私共の一願をも價しないものであることは十分承知してゐます。従って彼等に向って今更に教へるところがあらうとするほど愚かでありません。然し世の中にはかゝる愚論にさへ迷はされる人の多い此の世ですから少しばかり自分の考へてることを云ってみたいと思ひます。

第一に私共の取り扱ってゐる音樂は、少くとも學校音樂は(成るべく私は厳格な意味の音樂全體を意味したいのであるが今便宜のため特に學校音樂として置く)國家を擧げて深厳な喪に服すべき時と雖も決して廃すべき性質のものではない。否一日と雖もこれなくしてはあるべからざるほどの権威と力とを有ってゐるものとしたい。私共の取り扱ってゐる音樂は御遠慮申し上げて居っても差し支へのない様な所謂歌舞音曲とは全然其性質を異にしてゐるものと解釈したい。

古への聖帝明王がこれを以て國を治め、古への聖人賢者がこれを以て人の心を高きに導いたその神聖なる音樂、これが私共の一生を賭して守るべく養ふべき音樂ではあるまいか。即ちこれなくしては一日たりとも國を治めることは出來ない、これなくしては人の心を浄化することが出來ない、さうした貴い力、さうした神聖権威、これが私共の音樂ではないだらうか。

私共の音樂は徒らに慰さみ半分に弄ぶ賤妓や蕩兒の音曲ではない、大きく云へば治國平天下、人心教化の聖力として、至高至上の権威であるからして、これを行使するに方って何等〓々たる俗論を顧慮して居る必要があらう。最も細心の熟慮の後、最も大膽に私共の天職の遂行のために勇往邁進すべきではありませんか。そして完全に此天職を爲し遂げた時、私共は私共の天皇陸下に對し奉って最っも善長な、忠臣となり、又人道のために最も偉大な勇者とも仁者ともなれるのではありますまいか。

若し私共の取り扱ってゐる「音樂」が、他の「歌舞音曲」とか「鳴り物」とか云ふやうな極めて哀れな立脚地しか有って居ないものと同じ名の下に御遠慮を強いられてこれに盲従して居なければならない様な無價値な、無権威のものならば、早速そんなものを数へるために貴い時間と勞力と金銭とを費すやうな學制を改めて、貨殖理財の道でも教えて、金のモウカル法でも知らせるやうにした方が賢いやり方ではないでせうか。

人間はパンばかりでは生きて居られるものではないとはどこやらの利口者が千年も昔に云っておきました。人間の心には色々の食べ物が大切です、世の中が文明になればなるほど此心の食べ物に不自由させないやうに、そしてそれもよい心の食べ物を喰べさせてやるやうにカめること、これが明君賢宰相の念頭を去ってはならぬ最大の心配でなくてはならないのです。そして私共は此よい心の食べ物を與へ、その食べ方を教へてやる貴い天職を帶びて來てゐるのであります。皆さんどうして此貴い神聖な務めを一日たりとも怠ってなるものですか。

愚かな新聞記者――彼等の多くは憐れむべき學者顔をした無識者です――の間違った議論などが恐いのですか、あなた方は此貴い天職を怠る罪の更らに大なるのを恐れませんか。勇ましくお進みなさい、そうすれば障〓は向ふから城を明け渡して逃げて參ります。

諒闇中だからと云って畫をかくのを止めろと云った新聞のあるのをきゝません、詩を作るのを遠慮しろと云った記者があるのをも耳にしません、小説を出し劇を作るのを不忠である、不謹慎であると叱った社会の木鐸のあると云ふことをも不幸にして語られません。何故社會は私共にばかりかうした片手落ちのやり方をするのでせう。畫かきが顔料と線とを以てその思想感情を發表し、詩人、小説家、戯曲家が文字を以てこれを發表し、彫刻家が石膏とマーブルを以てこれを發表する如く、私共は音と云ふ材料をつかって私共の悲しみも喜びも表はします。

さうです私共は音を以て私共の悲しみも喜びも發表します。それをなぜ私共ばかりが遠慮しなければ不忠の臣といふきくも恐ろしい汚名を甘受すべく餘義なくされるのでせう。

愚かな俗人は音樂とさへ云へばと陽氣なもの、他人の悲しみも嘆きも知らぬ樣に小面悪く響くものとか傳習的に間違って思ひひがめて居ます。そして私共の胸一杯の悲しびを籠めて弾く一つ一つの音の傳へる誠實な嘆きの聲にも彼等の耳は聾なのです。四分の二拍子の長調の舞踊曲にも無限の哀愁が絡れてひゞくのを聽いて落涙するやうな心耳を有ってはゐないのです憐れなものですよ。

又一方から考へてみますと、私共の先人があまりに浅薄過ぎて崇厳沈痛荘重の調べを貽さなかったことにも罪があらうと思ひます。そしてたゞ俗人が好くからと云って軽薄な似而非音樂を濫作した結果音樂は他人の悲嘆の時には遠慮すべきものなりなどゝ云ふ間違った断定をころへさせたものとも思はれます。そしてかうした断定の出るのもつまりは『音樂』が人の心に次ぼす権威の至大なるものを認めてゐるからのことです。ですからこれらの軽佻浮薄な似而非音樂に代ふるに崇高の調、荘重な音を以てしたならば私共が有ってゐる最大の悲しみ最深の嘆きを致さなくてはならないやうな場合に於て、先づ第一に要求されるものは我音樂であるべきことは疑を納れないだらうと思ひます。

さうしたならば世の中に『音樂は悲しみの時に奏すべきものに非ず』などゝ云ふ様なわけのわからぬ有司も俗人もなくなって、一にも音樂二にも音樂と云ふことになり、従ってそれらの崇高、幽玄、荘重、安偉の音樂が人心に與へる感動より來る好結果は測り識ることが出來ないやうになるだらうと思ひます。

かう云ってみると矢っ張り罪は半分私共音樂者の方にあるのです。ですから私共は前に云ったやうな、俗衆の下劣な趣味に媚びるやうな俗悪極まる、軽佻浮薄な似而非音樂をすて、高い人類の霊的生活に至大至重の交渉を有するやうな眞の大音樂を造り出さうではありませんか。そして私共のさし向き携はってゐる學校音樂に於ても、少くとも此抱負を以ってコツコツとその土台の建説に盡して戴きたいものです。

單に思想の遊戯に過ぎない樣なものならば、私共にはそんな音樂は要りませんと思ひます。

参考:http://rasensuisha.cocolog-nifty.com/kingetsureikou/2015/06/_11-62f3.html

 東京音楽大学で教えられている様な「音樂」に携わる者に対して、社会から「不忠の臣といふきくも恐ろしい汚名を甘受すべく餘義なくされる」のは、「無價値」「無権威」な「徒らに慰さみ半分に弄ぶ賤妓や蕩兒の音曲」である「軽佻浮薄な似而非音樂」と、「高い人類の霊的生活に至大至重の交渉を有するやうな眞の大音樂」が、「無識者」である「愚かな俗人」によって混同されているからである。その「一日と雖もこれなくしてはあるべからざるほどの権威と力とを有ってゐるもの」としての「眞の大音樂」は、「よい心の食べ物を與へ、その食べ方を教へてやる貴い天職を帶びて來てゐる」という「治國平天下、人心教化の聖力として、至高至上の権威」を持つが故に、「私共は私共の天皇陸下に對し奉って最っも善長な、忠臣となり、又人道のために最も偉大な勇者とも仁者ともなれる」のである。

「芸術」と「天皇」という二つの「至高至上」――「貴い天職」の者がそう思っている/思わされているところの「芸術」という「至高至上」と、「無識者」までもが疑いも無いかたちでそれを「至高至上」としている/させられているもの――を強引に重ね合わせる事。そして「天皇」という西欧部族的な意味でマイナーで日本部族的な意味でメジャーな「至高至上」の名によって、「芸術」という西欧部族的な意味でメジャーで日本部族的な意味でマイナーな「至高至上」の、日本に於ける社会的価値が引き上げられているという捻くれた構図をこの文章に見る事は可能だ。そして「治國平天下、人心教化の聖力」の形で「役立つ」という形で「社会」に関わる事が、「芸術」の本分であると。

いずれにしてもここでも明らかなのは、日本社会に於いては「芸術」は常に脅かされているという、「日本の『芸術』」の認識である。「日本の『芸術』」を脅かすものは、ここでは「無識者」や「愚かな俗人」という語で表されている。「無識者」や「愚かな俗人」によって「芸術」は社会から疎外されている。

しかしこれは、この21世紀に至っても連綿と続く「日本の『芸術』」に於ける極めて一般的な了解ではあるだろう。展覧会の打ち上げ(内覧会含む)で必ず出る定番のぼやきは、常にその様な「無識者」や「愚かな俗人」に対する嫌悪や怨嗟の話ばかりだ。即ち明治維新後「日本の『芸術』」を取り巻く環境と、それに対する「日本の『芸術』」のぼやきは1ミリたりとも変わってはいないのである。そして百数十年変わらない「日本の『芸術』」によるぼやきばかりが、「無識者」や「愚かな俗人」の目の届かない場所で、事実上密かに何百万回も再生される。「無識者」や「愚かな俗人」を目の前にして、「神聖権威」である「日本の『芸術』」が面と向かって「愚民」や「田吾作」や「反知性主義」と言い放った事は無い。仮に現在の SNS でそれをやれば、炎上するしか無いのはその火を見るよりも明らかだ。この文章が「東京音楽学校学友会誌」という「鍵」の掛かった場所ではなく、広く世間に公開される事になってしまえば、単純に燃料にしかならない事を、大正元年の牛山充氏もまた十分に知っていただろう。SNS という相互監視の娯楽が行き渡った今ならば、「無識者」や「愚かな俗人」と言ったというその一点をあげつらわれて、彼の東京音楽学校講師生命、後の音楽評論家生命が尽きさせられたりもするかもしれない。

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とんぼの本」という軽めの装丁でありながら、新潮社の「画家たちの『戦争』」は良書である。「戦後65年」で「民主党政権」下で「東日本大震災」前という「中途半端」な年(2010年)に発行されている事による信頼性というものがある。そこに引かれている証言の数々に厳密な整合性が無いというのも良い。重層化した窟である現実とはそういうものだからだ。「集合住宅」に住む者の誰もが、その「集合住宅」全体は語れないのである。仮に「語れる」という者がいたら、その「かたれる」は何処かで「騙れる」でしかない。

同書中から河田明久氏の文章「戦争美術とその時代・一九三一〜一九七七」を引く。これもまた極めて示唆に富むものなので長文引用になる。

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 もちろん表面上戦争に無関心な画家たちにも、戦争協力の意思くらいはあったかもしれない。しかしこの段階(引用者注:満州事変や第一次上海事変当時)で「彩管報国」といえば、それは軍への献画か、作品の売上代金を恤兵金として軍に納めることをさしていた。絵は絵にすぎず、それがそのまま戦力になるというような考えは、いまだ軍にも画家にもなかったからだ。
 美術家にとって当面の脅威は、むしろ美術界そのものにあった。各種の公募団体展は、限られた入選者の席を目指して殺到する画学生(引用者注:帝国美術学校を始めとする私立美術学校の開校等による芸術家志望の若者の急増により「芸術家」の需給バランスが崩れ始めていた)でどこもごった返していたが、その肝心の展覧会が、この時期、軒並み観客数を減らしていたという証言がある。理由は、美術の大衆化を後押しした一九三〇年代の都市大衆文化そのものだった。

 春と秋にまとめて開かれる団体展は、ジャーナリズムのなかで、いつしか映画の封切りかシーズンスポーツのように語られる存在になっていた。当事者たちにとっては一大事でも、大衆からすれば、美術は、大衆文学の挿絵や商業美術、映画などと並ぶ知的消費財の一つにすぎない。メディアの一つと割り切られてしまえば、美術と社会をつなぐ回路はあまりにも心細いものでしかなかった。いかにしてこの回路を回復するか。これこそが、心ある美術家には、戦争協力にもまさる最大の関心事だった。

 同時代の美術を常設展示する美術館もなく、商業画廊も未発達だった当時、官展や在野の公募団体展は、いわば美術のすべてだった。その展覧会が「興行」としての魅力を失い、大衆から見放されつつあるという現実に直面して、画家たちは、では大衆にとって真に魅力ある美術とは何なのかと、あらためて自らに問いかけることになる。一九三一年七月に始まる日中戦争は、この問いに皮肉なかたちで突破口を与えた。

 開戦(引用者注:日中戦争)の直後から始まった美術家の従軍は、日を追って増え続けた。一年後の一九三八年六月、かれらを集めて大日本陸軍従軍画家協会が結成された時点で、従軍画家は数十名。翌一九三九年四月に同郷会が陸軍美術協会へと発展的解消を遂げるころには、二百名を超える画家が戦地へおもむいていた。

 従軍が始まった当初、現地軍の側では、押し寄せる美術家を受け入れる体制がいまだ整っていなかった。開戦の年に戦地行きを申し出た鶴田吾郎は、まだそうした制度がないことを理由にいったんは断られているし、同じころ個人の資格で従軍した向井潤吉も、必要な経費はすべて自弁したという。等々力巳吉という従軍画家にいたっては、連絡の手違いがもとで日本軍の取り調べを受けている。海軍への従軍画家からは、岩倉具方や斎藤八十八のように市街戦に巻き込まれて命を落とすものまであらわれた。従軍志願者の急増ぶりは軍のほうで制限せざるを得ないほどだったと、当時上海におかれていた陸軍の中支那派遣軍報道部の責任者であった馬淵逸雄は、著書『報道戦線』(改造社、一九四一年)で明かしている。

 国家総動員法(一九三八年)による国民徴用令(一九三九年)で美術家が初めて「徴用」されるのは、じつは真珠湾攻撃も間近な一九四一年晩秋のこと。それ以前の従軍画家は、だから決して「駆り出された」わけではない。にもかかわらず、これほど多くの画家が戦地まで押しかけた理由の一つは、総力戦でありながら戦争目的が一般には浸透しないという、日中戦争のあいまいな性格にあった。

 

 「日本の『芸術』」にとっての最大の「敵」は、総力戦としての「大義」が見出し難い中国大陸ではなく、まさしく「芸術」を無視し蔑ろにする「無識者」や「愚かな俗人」といった「日本の『大衆』」「日本の『公共』」にあったと言えよう。「日本の『芸術』」を死守する事。「芸術」と「社会」を繋ぐ回路を「回復」する事。それが「日本の『芸術』」にとっての最大且つ唯一の「大義」である。十五年戦争時の「日本の『芸術』」の心を占めていた最前線は、従軍先の戦地ではなく、日本国内の「日本の『芸術』」を巡る環境にあった。日中戦争時の戦地には、或る意味でそれを描く事で「日本の『芸術』」自らが奮い立てる様な何ものも存在しなかった。従って彼等は戦地まで出掛けて行っても「やさしい絵」(「戦争画とニッポン」会田誠氏)を描くしか無かったとも言える。「敵」はそこにはいない。憎むべき鬼畜(畜群)は「日本の『大衆』」や「日本の『公共』」だ。押し掛け紛いの戦地行きを志願して、自らのアイデンティティを確立しようとした「従軍画家」は、まだ様々な意味で不安定な存在だった。

社会との絆を何としてでも獲得したい、出来ればその最前面に位置したいと思ってしまうところが、現在に至るまでの「芸術」の最大の弱点であり、それはまたその弱点を利用しようとする者にいとも容易く付け入れられてしまうところでもある。所謂「戦争画」は、如何にして「『無識者』や『愚かな俗人』ばかりの日本」の中で「芸術」を「根付かせる/支持させる」かという、21世紀の現在に至っても未だ終わらない、「日本の『芸術』」の自目的化した試行錯誤の形の一つの例なのである。そして時にそれは「日本の『芸術』」の最大の「敵」である――そして最大の潜在的支持者と想定されている(でなければ「意のままにならない」彼等に対して苛つく事はあり得ない)――「無識者」や「愚かな俗人」に対して利敵的にも振る舞わなくてはならない。

その「日本の『芸術』」の「大義」と、日本社会の「大義」の橋渡しをしたものの一つは、「日本の『芸術』」に理解――社会の中に於ける「地位」を欲して止まない「芸術」の弱点を良く知るものという意味も含む――を示す朝日新聞(現在も同じく「芸術」の弱点を良く知る)であった。

社内の学芸部や社会部に蓄積された美術界の人脈をいかして公式の従軍画家、作戦記録画家をあっせんすると同時に、戦争美術の公募展を開催し、そこに並んだ作戦記録画や一般の入選作を展覧会に仕立てて列島内外を巡回させるという戦争美術の一般的なあり方は、ある意味、戦時下における朝日新聞社の独占的な文化事業だった。ちなみに真珠湾攻撃一周年を記念して開かれた第一回大東亜戦争美術展の巡回展までふくめた延入場者数は、官展の約十倍にあたる三百八十万人に上ったとされる。

前掲河田論文

 近代に於ける新聞という存在は、「無識者」や「愚かな俗人」を「教化」する機能をも持つ。明治天皇崩御の際には、新聞は「歌舞音曲」を「不謹慎呼ばはり」する世論を形成したりもした訳だが、その「無識者」や「愚かな俗人」の側に立ちもする新聞が/であるが故に、1930年代末からその持てる力(当時)を駆使して「無識者」や「愚かな俗人」を焚き付け、当時の日本社会の「大義」――これは真珠湾攻撃以降は「世界の富を壟断するもの(高村光太郎)」としての「強豪米英一族の力(同)」を「否定(同)」する「東亜10億人の代表(徳富蘇峰)」という「大義」にバージョンアップする――である「聖戦」「義戦」と呼ばれる「至高至上」の「歴史」を描いた「歴史・画」の「美術展」に向かわせるのであるから、「芸術」の「社会」への影響力という側面からのみ考えれば、「無識者」や「愚かな俗人」から無視され続けてきた近代以降の「日本の『芸術』」的には、或る意味で願ったり叶ったりの環境の実現ではあった。所謂「戦争美術」というのは、「日本の『芸術』」の夢の裏返しではある。「日本の『芸術』」が「日本の『社会』」に於いて「大いなる」ものであろうと欲したその時、それは別のレイヤーの「大いなる」ものと結託せざるを得なくなるのだ。

その事を極めて戦略的に自覚していたのは、事実上この時代の「日本の『美術』」で最も「大いなる」ものを欲していた藤田嗣治以外には日本にいなかったとは言える。彼は「無識者」や「愚かな俗人」のものである新聞というメディアが持つ力の使い方を良く心得ていた。その為の演出を厭う事も無かった。その上で西欧世界の「至高至上」の一つである「芸術」の「大義」(例:「歴史画」)を、その画面上で次々と推し進めていけたのである。「昔の巨匠のチントレットやドラクロアでもルーベンスでも 皆んな 本当の戦争を写生した訳でもないに異いない(略)私なんぞはそのおえらい巨匠の足許にも及ばないが これは一つ 私の想像力と兼ねてからかいた腕試しと言ふ処をやってみよう(藤田嗣治)」。

しかし「チントレット」や「ドラクロア」や「ルーベンス」とは異なり、画面の中に登場するのは、凡そ絵心を刺激されない華やかさに全く欠けたカーキー色の軍服の兵卒ばかりである。そしてその「英雄」であるべき兵卒の多くは、一方で「日本の『芸術』」の真の「敵」である「無識者」や「愚かな俗人」なのだ。藤田嗣治の画面中に於ける兵卒の扱いは、その両面性を表している様に思える。

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部落會町内會等整備要領

第一 目的
 一 隣保團結ノ精神ニ基キ市町村内住民ヲ組織結合シ萬民翼贊ノ本旨ニ則リ地方共同ノ任務ヲ遂行セシムルコト
 二 國民ノ道徳的錬成ト精神的團結ヲ圖ルノ基礎組織タラシムルコト
 三 國策ヲ汎クく国民ニ透徹セシメ國政萬般ノ圓滑ナル運用ニ資セシムルコト
 四 國民経済生活ノ地域的統制單位トシテ統制経済ノ運用ト國民生活ノ安定上必要ナル機能ヲ發揮セシムルコト

昭和15年9月11日内務省訓令第17号

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「歌舞音曲自粛」の期間には、明治や大正の「歌舞音曲停止」の時代とは異なり、その期間に「歌舞音曲」を演じていたとしても、流石に警官が飛んで来て拘留されるという事は無かった。しかしそこでは「自主的判断」によって「歌舞音曲」に対する相互監視が十分以上に働いていた。「民」の間で内面化した「歌舞音曲停止」は、当局による監視のコストを事実上ゼロにした。

NHK を始めとするテレビ各局は、1988年9月19日から1989年1月7日まで終夜放送体制となる。「大正天皇崩御」までの様に「Xデー」からそれが始まるのではなく、「Xデー」に至るまでもが「歌舞音曲」が躊躇われる事を広く共有させる事に、1980年代のメディアは有史以来初めて成功した。

それまで最長だった英照皇太后崩御の30日間の「歌舞音曲停止」を遥かに上回る、昭和天皇崩御の日までの120日間の「歌舞音曲自粛」は「上意下達」ではないものだった。繰り返しになるが、それは全く「民」の「自主的判断」によるものである。

 昭和天皇のご病気で自粛ムードが高まる中、10月2日から開催される予定の東京の「大銀座まつり」が中止になった。43年に政府主催の明治100年記念式典の一環として始まった銀座きってのイベント。実行委員会を組織する銀座通連合会の事務局長、石丸雄司(60)は「銀座は皇居のおひざ元。ご用達業者も多い。陛下に特別の親近感を持っており『自粛するのが銀座の見識』という声が幹部の一致した意見だった」と説明する。

 中止決定後、石丸は外国メディアから「圧力があったのではないか」と取材攻勢を受けた。「親が病気のときにはしゃぐ子供はいない」。だが「理解してはもらえなかった」。

 江戸時代から続く佐賀県唐津市の「唐津くんち」。11月2日夜から始まった巡行の指揮をとる唐津曳山(やま)取締会の総取締、瀬戸利一(76)は直前に県警の公安担当刑事から警告を受けた。「行列から外れないように。さもないと、身の安全は保障できない」

 自粛ムードの中でくんちを強行したからだった。曳山を持つ14カ町は当初「中止」が大勢だった。しかし、10月3日夜、唐津神社に招集された取締会総会で、瀬戸はこう言った。「くんちをやるのもご快癒祈願。右へならえして自粛するのではなく、唐津っ子の意気を示してはどうか」。2日後の氏子総代会で「実施」が決定された。

 瀬戸の自宅の電話は鳴り通しだった。「非国民」「殺すぞ」。抗議の手紙も何百通と届いた。瀬戸は振り返る。「放火を危惧(ぐ)して、水を入れたプラスチックのタンクを用意した。期間中に崩御されたら、喪章を付けてでも曳山を引く計画だった」

 唐津くんちの実施が決定された直後の10月8日、皇太子殿下(現天皇陛下)は「陛下のお心にそわないのではないかと心配している」と、自粛の広がりに憂慮の念を示された。

「戦後史開封」昭和天皇崩御
産経新聞(1995年12月26日から連載)

或る意味で「歌舞音曲自粛」という「民」の相互監視は、「民」がそれを競う事でエスカレートしていったところがある。ここでは皇太子(当時)の「言葉」よりも「歌舞音曲自粛」という「状態」の方が重要なのだ。「自粛」というのは、「自」らがその「状態」に身を投じ「粛」している様子を、他者に対してプレゼンテーションする為のものである。「状態」化した口が発する「非国民」「殺すぞ」もまた同じである。それらは「民」のナルシシズムを満足させる「鏡」なのだ。その中身はどうでも良い。

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私は新開雑誌方面で、紙は商品にあらずといふことを説いた一人である。単なる商品にあらず、思想戦の弾薬なり、同じことが映画に出て来た。ヒルムは単なる商品にあらずといふことを言ひたいと思ふ。今度はもう一歩行くと絵具は単なる商品にあらずといふこと言ひたいと思ふ。言ふことを聴かないものには配給を禁止してしまふ。又展覧会を許可しなければよい。さうすれば飯の食い上げだから何でも彼でも蹤いて来る。

鈴木庫三(1894〜1964)

 鈴木庫三という人物は「日本思想界の独裁者」ともされた情報局情報官であった。石川達三の小説「風にそよぐ葦」に於いて、「佐々木少佐」という「悪役」の形で戯画化されたその人物の生涯については、中公新書言論統制―情報官・鈴木庫三と教育の国防国家」に詳しい。極貧の生活から刻苦勉励し、日本大学大学院で倫理学を学び、その後東京帝大教育学研究室で教育学を学んだ。

雑誌「みづゑ」434号=1941年1月号の、秋山邦雄少佐、鈴木庫三少佐、黒田千吉郎中尉、批評家の荒木季夫、『みづゑ』編集部の上郡卓による座談会「国防国家と美術 ー画家は何をなすべきかー」中のこの鈴木庫三少佐の言葉は、「戦後70年」の2015年に様々なところで変奏を伴いつつ繰り返し引用された。「戦後70年」は「軍靴の音」が聞こえる「暗い時代」である「戦前」を思い出されるとされ、当時と同じ条件が整っているとも言われた。

しかし「佐々木少佐」の様な判り易い「悪」のキャラクターは、「バブルに浮かれ」ていた「歌舞音曲自粛」の時代には必要では無かった。「軍靴の足音」も「ファシズム」も「右傾化」も必要条件ではなかった。その「圧力」は「民」が「自主」的に向けるものだ。ここに至っては「展覧会を許可しなければよい」ではなく「展覧会を自粛させればよい」(注)のである。「飯の食い上げ」になろうがなるまいが、そんな事は当事者以外にとってはどうでも良い話だ。「自粛」を求める声に「飯の食い上げ」を願う様な主体など存在しない。その「飯の食い上げ」という「懲罰」は、「私刑」によるものですらないものだ。

1988年、昭和天皇重病による「歌舞音曲自肅」の嵐の中、すっかり仕事のなくなったコントグループ3つが仕方ないので集結し、国内外の政治、経済、事件、芸能・・・モロモロの社会情勢を笑いに転換すべく結成したコントグループ『THE NEWSPAPER』(ザ・ニュースペーパー)。

コント集団 THE NEWSPAPER サイト
http://www.t-np.jp/profile/thenewspaperprofile.html

 「歌舞音曲自粛」の時代。各地に昭和天皇の病気平癒を願う記帳所が設けられた。或る日、artscape の「現代美術用語辞典ver.2.0」にも名前が掲載されている「80年代作家」が、皇居前の記帳所に行って記帳して来た旨を銀座のギャラリーで吹聴されていた。周囲にそういう事を行った作家や関係者が全くいなかったので非常に珍しがられた。そしてそれを聞いた時、自分は自分の中の「80年代美術」が「終わった」と感じたのである。

昭和天皇崩御の日から程なくして、テレビは通常放送に戻り、その年の12月29日(大納会)には日経平均3万8915円の最高値を記録した。昭和天皇崩御を挟んで「明るい時代」は続いていた。「自粛」は一旦、日本社会の奥底に封じられたのである。「風」で飛ばされそうな極めて剥がれ易い護符によって。

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2015年、多くの戦争美術関連の展覧会があった。実はその殆どを見ていない。それらが「見るべき展覧会」とされるのであれば、それを未見である事は怠慢として謗られるべきであろうか。そういうのは「非国民」ならぬ「非美術民」と呼ばれるのだろうか。

当然実見していないものを評する事はしない。しかし一つだけ気になるのは、それらの展覧会では、可能性としてあり得るとは言える「その時」がやって来た時に、それらの展覧会に関わっている他ならぬ自分達はどうするのかという展示がされていたかどうかだ。それは或る意味で企画者や参加作家にとって最もリスクを伴うものになるだろう。

先人が「あの時」にどうしたかというのは、確かに戦争美術の一面に対して重要なアプローチではある。「あの時」の道具立てで「あの時」を見せようというのも悪くはない。戦争というものはこういうものであるという絵解きも興味深くはある。しかしそこには70年分の緩衝が働く事で傍観者的な位置が約束されてはいないだろうか。

これから「その時」がやって来て、「美術家」や「美術評論家」や「美術館学芸員」や「美術ジャーナリスト」である為の条件を改めて示された時の、それぞれの心構えは如何なるものになるのだろう。多くの戦争美術の画家は「あの時」に画家であり続ける事を選び、カンバスと絵具を手に入れた。みづゑ座談会に出た美術評論家も美術誌編集者もそれであり続ける事を選んだ。斎藤義重は「あの時」に作品を作る事を止めていたという。

【続く】

(注)1988年に東京で行われる予定だった比較的大規模な現代美術の展覧会は、その展示会場を所有する法人の「歌舞音曲の類の自粛」通達により、開催延期の決定がされた。1988年当時は、私企業を始めとした法人が現代美術を「サポート」する事が「流行って」いた頃でもあったが、それは一方でこの様な事態に対して極めて脆弱な基盤しか持たない事の証左でもあった。
その一方で、現代美術もまた「日本の『社会』」的には「歌舞音曲」の「類(範疇)」にあるのである。そして恐らくこれは21世紀も全く変わるところは無いだろう。