ローマン・オンダックをはかる



これは、あなたのテレビの故障ではありません。こちらで送信をコントロールしているのです。水平線も、垂直線も、ご覧の様に自由に調節出来ますし、映像の歪みも思いのままです。また焦点をぼかしたければこのように、合わせたければいつでも鮮明に映し出せます。あなたは、これから私達と共に素晴らしい体験をなさるのです。それは、未知の世界の神秘とも言うべき、宇宙の謎を解く驚くべき物語です。


There is nothing wrong with your television set. Do not attempt to adjust the picture. We are controlling transmission. If we wish to make it louder, we will bring up the volume. If we wish to make it softer, we will tune it to a whisper. We will control the horizontal. We will control the vertical. We can roll the image, make it flutter. We can change the focus to a soft blur or sharpen it to crystal clarity. For the next hour, sit quietly and we will control all that you see and hear. We repeat: there is nothing wrong with your television set. You are about to participate in a great adventure. You are about to experience the awe and mystery which reaches from the inner mind to – The Outer Limits.


“The Outer Limits" First lines of each episode(日本語版のナレーションは若山弦蔵氏)


“The Outer Limits" は、米ABCテレビで1963年9月15日から1965年1月16日まで放送されたサイエンス・フィクションもののテレビドラマだ。“The Twilight Zone"(米CBSテレビ)と双璧を成す同番組は、日本でもその第1シーズンが1964年の2月からNETテレビ(現テレビ朝日)で邦題「アウターリミッツ」として、第2シーズンは1966年の10月から日本テレビで邦題「ウルトラゾーン」として放映され、自分はリアルタイムでそれを見ていた。「アウターリミッツ」の2年後(“The Outer Limits" の3年後)に放映される事になる「ウルトラQ」のオープニングに流れる、石坂浩二氏による「これから30分、あなたの目はあなたの体を離れ、この不思議な時間の中に入って行くのです」というナレーションを聞くや否や、当時小学4年生だった自分は、その「タケダアワー」の「メイド・イン・ジャパン」が “The Outer Limits" に強く「インスパイア」されたものである事を痛く悟った。


“The Outer Limits" で最も記憶に残っている回の一つに、「ウルトラゾーン」時代(Season 2)の「十秒間の未来」(原題 “The Premonition")がある。そのプロットは、テストパイロットのジム・ダーシーの乗る極超音速ロケット実験機 X-15 が音速の壁を超えた後に地上に激突し、同時刻に自動車で衝突事故を起こしたその妻と共に時間が止まったかの様に見える――実際には1秒間が30分間に引き伸ばされている――10秒後の未来に入り込んでしまうという一種のタイムトラベルものだった。


ジム・ダーシーとその妻リンダは、この時間の裂け目から、二人を待つ娘ジャニーのいる時間の世界に戻らねばならない。しかしその前に、この時間の世界でやらねばならない事がある。それはゆっくりと時間が進むこの世界だからこそ出来る事だ。元いた時間では考える間も無く訪れてしまう悲劇が、考える間を十分に与えられつつ今そこで起きようとしている。



プロット詳細:
http://mylifeintheglowoftheouterlimits.blogspot.jp/2015/01/episode-spotlight-premonition-1091965.html

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2015年2月8日から2015年3月8日まで、東京の MISAKO & ROSEN で行われていた「奥村雄樹『ローマン・オンダックをはかる』」展の会場を入ると、下り階段右手の壁に和文と英文で書かれた二枚のキャプションボードが貼られていた。



“Art Viewer" には同展の会場風景が公開されているが、そこにアップロードされた5枚の画像で、目に見える状況を理解する為のものとしてはほぼ十分だと思われる。


http://artviewer.org/yuki-okumura-at-misako-rosen/


そのキャプションボードの文章を読むや否や、自分の頭の中に「アウターリミッツ(“The Outer Limits")」の「あなたは、これから私達と共に素晴らしい体験をなさるのです。それは、未知の世界の神秘とも言うべき、宇宙の謎を解く驚くべき物語です(“You are about to participate in a great adventure. You are about to experience the awe and mystery which reaches from the inner mind to – The Outer Limits.")」のナレーションが流れた。そしてこの部屋はあの「十秒間の未来(“The Premonition")」の中にあるのではないかと思い始めた。確かにここの時間は引き伸ばされている。


キャプションボードの文章内に「この手順はあなたの観客参加型の作品《宇宙をはかる》(2007)と基本的に同じです(“The procedure is basically the same as that of your paticipatory work Measuring the Universe (2007)")とある。「基本的に同じ(basically the same)」。確かに「1秒間」が1秒間の世界と、「1秒間」が30分間の世界もまた「基本的には同じ」だ。双方共に時間は一方向に進み、「因」と「果」の関係も「基本的に同じ」だ。問題は1秒間が1秒間の世界に住んでいる者が、1秒間が30分間の世界に入ってしまうところにある。


参考:「奥村雄樹『ローマン・オンダックをはかる』について」 Togetter
http://togetter.com/li/774067?page=1


この展示と「基本的に同じ」である Roman Ondák 氏の “Measuring the Universe(宇宙をはかる)" について、2011年にテート・セント・アイヴスのマーティン・クラーク氏が解説したものがある。


The work started as a completely empty white room and over the course of the last three months it slowly developed and developed and we now have this extraordinary kind of dense, black band with names running all the way around the gallery space.


http://www.tate.org.uk/context-comment/video/tateshots-roman-ondak-measuring-universe


「この作品は全く何も無い白い部屋から始まり...(The work started as a completely empty white room... )」。「宇宙をはかる」と「ローマン・オンダックをはかる」両作品の「基本的に同じ」部分の一つ。このローマン・オンダック氏の「宇宙をはかる」を「知る」多くの者がそれを思い浮かべる時、それは人の背丈を表す幾つかの、或いは極めて多くの線が引かれている会場風景であるに違いない。しかしこの作品の「初期状態」は、飽くまでも「全く何も無い白い部屋」だ。


作品「宇宙をはかる」が「行われた」 MoMa にしても、或いは Tate St Ives にしても、その「初期状態」であるところの「全く何も無い白い部屋」は、「参加者/パフォーマー(partcipant/performer)」の作品への参加を待ち受けている状態にある。現実的にはそれは「公開」(それが内覧会や限られたスタッフ向けのものであったとしても)から程無く失われてしまう「初期状態」――或いは “BEFORE(使用前)――であるには違いない。しかしそれでも「全く何も無い白い部屋」の「初期状態」の時間は「宇宙をはかる」という作品に紛れも無く存在し、またその「全く何も無い白い部屋」という時間は「宇宙をはかる」という作品に不可欠な要素である。仮にローマン・オンダック氏が「宇宙をはかる」の「公開」を認めるサインを出した時点で既に線が幾つか引かれていたとしたら、この作品の意味は全く失われてしまうに違いない。「参加」によって生じた “AFTER(使用後)" を見せる事こそが、その作品成立の条件の様に思える「宇宙をはかる」は、一方で「参加」の “BEFORE(使用前)" という「全く何も無い白い部屋」の状態を必ずインクルードしていなければならない。即ち「未参加(或いは非参加)」の状態は、こうした「参加型作品」を成立させる基本条件なのだ。


現実的な「宇宙をはかる」作品の話をしよう。前述した様に、その「初期状態」はすぐにでも(それが数秒なのか数分なのか数日なのかは判らないが)終わらせられてしまう。「宇宙をはかる」作品に於いては、「参加者/パフォーマー(partcipant/performer)」という「獲物」がたちまち掛かる様にセッティングされている。「宇宙をはかる」作品にとっての美術館は「釣堀」なのである。「釣堀」での釣りは――どの様な「魚」であれ――釣れれば良い。しかも実際の「宇宙をはかる」作品では、針先に「魚」を付けてくれるスタッフすらいるのである。最初の「魚」が釣れるまでを待つ時間。それは「獲物」が何であるかを問わない「釣堀」では呆気無く破られる。そしてそれからは、面白い様に「魚」が掛かる。スペクタキュラーな黒帯(black band: 無数の魚拓)になるまでに。


一方「ローマン・オンダックをはかる」作品の「釣り」はそうではない。それは三日月湖のカッパを釣ろうとする三平三平(釣りキチ三平)の様な釣りだ。狙うべき「獲物」は「ローマン・オンダック」以外には無い。その「獲物」が世界の何処かで泳いでいる事も判っている。しかし「ローマン・オンダック」は「三日月湖のカッパ」ではない。「ローマン・オンダックをはかる」という釣りの「獲物」は、その釣りを考案した「釣人」なのである。「『魚』を釣る『釣人』」と「『釣人』を釣る『釣人』」。構造もまた――「釣人」が「釣られる魚」になるという反転がされているとは言え――「基本的に同じ」である。


最初(/最後)の「釣人」が釣れるまでの時間は、「釣堀」では一瞬だった最初の「魚」が釣れるまでの時間の何倍あるのだろう。反転される事で引き伸ばされる「待つ」時間。 MISAKO & ROSEN では「釣人」を釣る「釣人」が「釣糸」をずっと垂らし続けているその様子をずっと見るだけである。時々「自分がその『釣人』になってやろうか」とか「自分が『釣人』なのかもしれない」と冗談を飛ばすギャラリーがいるかもしれないが、しかしこれは恐らく単純な程に単純な「『釣人』を釣る『釣人』」を見るものなのである。そしてその単純さは、蟹缶の中身を取り出し、そのラベルを蟹缶の内側に貼り直して、半田付けで缶詰を閉じるという反転――「ローマン・オンダックをはかる」の作家が自らのワークショップで再現していた――の単純と同じだ。その様な蟹缶と反転された蟹缶もまた「基本的に同じ」である。


つまり「ローマン・オンダックをはかる」は、その別名を「『宇宙をはかる』の缶詰」としても良いのだろう。“Measuring the Universe" と書かれたラベルは、缶詰を外側から見る者(Roman Ondák 氏含む)に対して向けられていた。そして今それらは全て反転し「『宇宙をはかる』の缶詰」の中にある。「ローマン・オンダックをはかる」は、今まさに缶詰の中に入れられてしまった Roman Ondák 氏を、缶詰の外に呼び寄せようとするものだ。


内側から外側への困難な旅を経た Roman Ondák 氏が MISAKO & ROSEN に現れ、そしてスタッフの首実検――これは確かにあの「釣人」だ――の結果、その壁に “Roman" と計測の日付が記された背丈の線が引かれた瞬間、「十秒間の未来」の二つの時間が再び交錯した様に、缶詰の内側と外側の世界は交錯し、再び Roman Ondák 氏は缶詰の外側の人になる。その時 Roman Ondák 氏は缶詰の内側の記憶を覚えているだろうか。


You are about to participate in a great adventure. You are about to experience the awe and mystery which reaches from the inner mind to – The Outer Limits.

OBJECTS IN MIRROR ARE CLOSER THAN THEY APPEAR

【告】


2014年11月の前回の記事から3ヶ月半以上が経過した。それを「【続く】」と締めた様に、その記事に続く文章は用意されていたし、今でもローカルマシンとクラウド上には、それをリリースしようと思えば可能な形で留め置かれている。2014年12月から2015年3月の間までに何回も書き直されたそれがリリースされなかったのには自分なりの理由があるが、その理由については、これからアップする数本の記事の後にリリースする「【承前】」から始まる記事で触れる事になるだろう。

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【OBJECTS IN MIRROR ARE CLOSER THAN THEY APPEAR】

 
なかま あつめ
 
かすたねっと けんだま たんばりん まらかす こま たいこ じしゃく とらいあんぐる らっぱ おりがみ ばいおりん おままごと えのぐ ぎたー ぬいぐるみ もっきん
 
どうぐ は ぜんぶ で いくつ あるかな?
あそび どうぐ は ぜんぶ で いくつ あるかな?
がっき は ぜんぶ で いくつ あるかな?
 
http://print-kids.net/print/sansuu/nakama-atsume/nakama-atsume-group7.pdf (PDF)
ぷりんときっず「グループ集め7」
 

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OBJECTS IN MIRROR ARE CLOSER THAN THEY APPEAR
Curator:Arata Hasegawa
 
「視野の縁でなにが起きているかを知っているだけでは、我慢できなくなりかける。目にはいる部屋の光景はつねに一分の隙もなく、それがまた衝動を煽った。ここまで来ると強迫観念だ−−どんなに早く首をまわしても、まわりで起きていることはこれっぽっちもわからない…。」
グレッグ・イーガン順列都市
 
「彼は目を上げて、その翼あるものを見た。見たと言っても両の目にあふれていた玉葱の涙を通してで、したがって数瞬のあいだ突っ立って見つめていたのだった、 なぜならば涙のために奇妙なレンズを通して見たみたいにそれの輪郭がふくれ歪んでいたからで、睫毛が乾くようにと目をすがめた、そしてあらためて見つめた。」
アントニオ・タブッキ『ベアト・アンジェリコの翼あるもの』
 
「舞台の上では行為が演じられるか、それとも、おこなわれたことが報告されるかの、いずれかである。」
ホラーティウス『詩論』
 
 
タイトルとなっている英文は、アメリカ、カナダ、それとインドを走る乗用車のサイドミラーについている警句だ。
 
「鏡ごしに見えるものは、見かけより近くにある」
 
そのことばには確かにソリッドな感覚がある。速度を伴っている。
ちょっとした重力も感じることができる。
生死に肉薄した、物質的でミニマルな警句。
そこから、「鏡ごしに」という部分を削り落とす。
 
本展は7名の作家の、展覧会だ。
荒木悠、上田良、折原ナナナ、柄澤健介、小濱史雄、佐伯慎亮、末永史尚。
僕はここで頻出する修辞を用いることを執拗に拒む。
 
よくある修辞1。「彼らは一見すると全く異なる作風です。しかし−−」
よくある修辞2。「−−という素材/メディウム/ジャンルの独自性を追求し」
 
私たちは互いの「近さ」をもっと許容しても良いのではないか。
あるいは今観ているそれが別の似たなにかであり得ることについて、考えを巡らせてみることができるのではないか。
 
だからこの展覧会は、「近さ」について考えられるようにした。
作品は伸びたり縮んだりするし、展覧会ですべてを見せる必要もない。
もとよりそれは、絶えず遅れている。
 
展覧会は鑑賞者の少し後方を走っている。(行き先は異なれど少なくとも今は同一方向に)
鑑賞者は鏡ごしにそれを見る。
それは見かけよりもずっと、近くにある。


http://thethree.net/exhibitions/2111


大阪の “the three konohana" で1月10日から3月1日まで行われていた展覧会、“OBJECTS IN MIRROR ARE CLOSER THAN THEY APPEAR"。同展キュレーターの長谷川新氏は、そのイディオムの "IN MIRROR" に抹消線を引いた。であれば、“IN MIRROR" を消去した "OBJECTS ARE CLOSER THAN THEY APPEAR" でも良かったのだろうか。


しかし展覧会は「絶えず遅れている」。従って「遅れている」事を示すには、抹消線がそこになければならない。“IN MIRROR" はその抹消線ごしに見えていなければならない。抹消線ごしに見える鏡ごし(IN MIRROR)は、遠ざけられた見かけより近くにある。それ故に鏡ごしIN MIRROR)という、それ自体が反射であるものについて書かなければならない。


このレビューもまた大いに遅れている。そもそも "Review" という語自体が「遅れてー見る」ではある。レビューは遅れる。但し遅れたレビューは、次なるビューの前に常に存在している。事後的なものは同時に事前的でもある。

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自動車の登場時期とバックミラー(Rear-view mirror)の登場時期には少なからぬタイムラグが存在する。ニコラ=ジョゼフ・キュニョーの蒸気自動車が登場したのは1769年。カール・ベンツ、及びゴットリープ・ダイムラーによるガソリン自動車の登場は1886年である。しかしそれらの発明品にはまだバックミラー(Rear-view mirror)は装備されていなかった。伝統的な馬や馬車、そして歩行者がその存在を必要としなかった様に。


欧州や米国に於ける本格的な自動車大量生産が始まったのは1900年前後からだが、それでも暫くはバックミラーは運転上不可欠とされるデヴァイスとしては人々に認識されていなかった。資料で辿れる最も古いバックミラーに関する記述は、女性が運転する事自体が珍しかった時代に、女性による女性向け運転指南ハンドブックとして1909年に刊行された “The Woman and the Car” 中にあるとされている。女性レーサーの先駆けであり、“The fastest girl on Earth"(「地球上で最も速い少女」)とも称された Dolothy Levitt (ドロシー・レヴィット) 著の同書には、(化粧用)手鏡を高所に固定すれば後方確認に役立てる(“carry a little hand-mirror in a convenient place when driving [...} hold the mirror aloft from time to time in order to see behind while driving in traffic")と記述されている(その一方で女性ドライバーの安全の為に、リボルバーを携行せよとも)。


その後バックミラーは、1911年の第1回インディ500マイルレースに於いて、出場車の内の一台―― Marmon "Wasp"(マーモン「スズメバチ」)の運転席前に高く備え付けられたものが、広く公開された最初のものになった。そのマシンは掟破りの設計をされていた。単座だったのである。当時のレースマシンの標準は複座だった。それはライディング・メカニックが常に助手席に座っていなければならないとされていたからだ。ライディング・メカニックは、レース中のマシントラブルやタイヤ交換に対応する為に競技車に同乗するというのが本来の役割であるが、その一方で首を後ろに向けられないドライバーに代わって後方から接近して来る他車の様子をドライバーに知らせるという役割もあった。



単座の Marmon “Wasp" に対して、周囲の状況把握が出来ない為に危険であるというクレームが、他の参加者から出された。そのクレームに対し、ドライバーの Ray Harroun(レイ・ハルーン)は、バックミラーを装着する事で対応する。平均時速74.6マイル(約120キロ/時)で「高速」移動するマシンの運転席から、ほんの少しだけ鏡ごしに後方を見れば良い。ハルーンは、同様の目的で馬車(相対的にレース車よりも極めて「低速」)に取り付けられていたものを1904年―― “The Woman and the Car” 刊行の5年前――に自ら目撃した体験からそのアイディアを得たと主張している。果たして空力的にも重量的にも有利な Marmon “Wasp" は優勝し、ハルーンはインディ500マイルの初代ウィナーとなる。そして翌年の1912年からは、走行距離100マイル以上のレースでは、ライディング・メカニックを必ず同乗させなければならないというレギュレーションに変更され、アメリカに於いては1930年代まで継続される事になる(ヨーロッパのグランプリは、同乗者の安全上の理由で――前年のグランプリでライディング・メカニックの死亡事故があった為に――1925年にそれを禁止する)。


Marmon “Wasp" にバックミラーが必要になったのは、それが単座=一人で乗るものだった事による。そして “The Woman and the Car” に於いて「鏡」の有用性が説かれるのも、女性が一人で車を運転し移動する――後方の状況を知らせてくれる者が乗車していない――というケースが現れて来たからだろう。移動の主体=単独者としての運転者は、テクノロジーが開いた「速度」によって明らかになった自らのフィジカルな限界(後方を見ながらの「高速」の運転は、前方視界を毎秒数十メートル分失う)を補完する者を助手席に載せていない為に、前方を見る事を防がない小さな鏡に同乗者(複数の主体)の不在を埋める役割を委ねたのである。


更にバックミラーという存在は、複数の速度が混在するトラフィックに於いて、その必要性の多くが求められる。自分の速度よりも相対的に速い者が存在しなければ――そして自分を追い越して行ける様な空間上の余裕(複数車線等)が存在しなければ――バックミラーという存在はほぼ無意味である(バック走行時等は別)。バックミラーの事実上のデビューが、速度をして優劣を決定する場所――従って十分過ぎる程の道幅を備えている――であるインディ500マイルという自動車レースであった事は、バックミラーという存在を考える上で極めて示唆的だ。

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“OBJECTS IN MIRROR ARE CLOSER THAN THEY APPEAR" の警告文については、アメリカの「国家交通並びに車両安全法」("National Traffic and Motor Vehicle Safety Act")の「連邦自動車安全基準」("Federal Motor Vehicle Safety Standards": FMVSS) のセクション571.111 S5.4.2に、以下の様に定められている。


§ 571.111Standard No. 111; Rearview mirrors.
 
S5.4.2Each convex mirror shall have permanently and indelibly marked at the lower edge of the mirror's reflective surface, in letters not less than 4.8 mm nor more than 6.4 mm high the words “Objects in Mirror Are Closer Than They Appear.”
 
各凸面鏡には、永続的かつ消えない様に、4.8ミリ以上、6.4ミリ以下の高さを持つ文字で、鏡の反射面の下縁部に「鏡の中にあるものは、その見た目以上により近くにある」と記されていなければならない。


http://www.gpo.gov/fdsys/pkg/CFR-2004-title49-vol5/xml/CFR-2004-title49-vol5-sec571-111.xml


この警告文は助手席側のドアミラーに記されている。それと言うのも、この警告文をドアミラーに刻んでいる国の助手席側のミラーの多くは "convex mirror(凸面鏡)" であり、他方運転席側のミラーは “plane mirror(平面鏡)" であるからだ。これは安全上の二律背反とでも言うべきもので、凸面鏡によって「広い視野」を獲得する事と引き換えに「正確な距離感」を失うというトレードオフなのである。“OBJECTS IN MIRROR ARE CLOSER THAN THEY APPEAR” の警告文は、それによってもたらされる視界が、「背反」する「二律」のどちら側に属するものかを明らかにする。


ここでバックミラーが、助手席に座った状況報告者の代用である事を思い出したい。バックミラーが存在しなかった頃の車内――或いは自動車レースのそれに限っても――では “passenger seat(助手席)" に座る者が、後方の状況を言葉にする事で伝えていた。果たして「言葉ごしに受け取る報告は、言葉から判断されるものより近くにある」だろうか。そもそも「言葉」それ自体が、「正確な距離感」の為のものではなく、ものごととものごとの距離を操作する事で「広い視野」を獲得する為のものであるなら、凸面鏡は「視覚的」なものである以上に「言語的」なものであるのかもしれない。従って凸面鏡(言語)は平面鏡(視覚)から常に遅れている。所謂ナルシシズムは、「(私の)視覚」の連続的な延長と見做されてはいない凸面鏡(巨大水滴)では決して生まれる事は無い。凸面鏡が与える光景は、「私」に遅れる(或いは先んずる)為に、「(私の)視覚」と不連続な関係にある。



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「なかま あつめ」。これ自体が「呪いの言葉」だった。「かすたねっと」と「けんだま」と「たんばりん」と「まらかす」と「こま」と「たいこ」と「じしゃく」と「とらいあんぐる」と「らっぱ」と「おりがみ」と「ばいおりん」と「おままごと」と「えのぐ」と「ぎたー」と「ぬいぐるみ」と「もっきん」が、「用」から抽出され「物」となり、その上で「どうぐ は ぜんぶ で いくつ あるかな?」「あそび どうぐ は ぜんぶ で いくつ あるかな?」「がっき は ぜんぶ で いくつ あるかな?」という「呪いの言葉」を投げ掛けられる事で、子供は「どうぐ」「あそび どうぐ」「がっき」というそれぞれの「近さ(なかま=カテゴリー)」を突き付けられ向き合わされる。しかしその結果、或る子供が「けんだま」を「がっき」の「なかま」に入れる事を、「呪いの言葉」自体は防ぐ事が出来ない。「呪いの言葉」は「解答」を示さない。寧ろ「呪いの言葉」が発せられる事によって、初めてそこで「けんだま」を「かすたねっと」と同じ様な「用」として認識している主体が前景化するのである。「なかま あつめ」という「呪いの言葉」の下では、“table de dissection(解剖台)" も “machine à coudre(裁縫機械)" も “parapluie(雨傘)" も、「かすたねっと」と同じかもしれない。


“OBJECTS IN MIRROR ARE CLOSER THAN THEY APPEAR" 展。「呪いの言葉」は「近さ」。そして消された "IN MIRROR" = "IN MIRROR" もまた「呪いの言葉」である。その "MIRROR" は “PLANE MIRROR(平面鏡)" ではなく “CONVEX MIRROR(凸面鏡)" だ。“IN CONVEX MIRROR(凸面鏡ごしに)" に引かれた抹消線。その抹消線は「呪い」によって仕掛けられた反射面。それによって凸面鏡は鏡のこちら側にリフレクトされる。「凸面鏡ごし」に見る展覧会。キュレーションこそは呪術であり、呪術たる事を行わない者はキュレーターではない。


凸面鏡の中の「荒木悠」と「上田良」と「折原ナナナ」と「柄澤健介」と「小濱史雄」と「佐伯慎亮」と「末永史尚」。従って観客が見ていたものは、この様に「平面」上に解像したものではない。



こうしたものを、観客の多くは “the three konohana" の会場で見たのである。



凸面鏡(それ自体もまた「呪いの言葉」によって生じる)の中で、「荒木悠」は「荒木悠」である事を、「上田良」は「上田良」である事を、「折原ナナナ」は「折原ナナナ」である事を、「柄澤健介」は「柄澤健介」である事を、「小濱史雄」は「小濱史雄」である事を、「佐伯慎亮」は「佐伯慎亮」である事を、「末永史尚」は「末永史尚」である事を些かも妨げられてはいない。それらは全く以って「見える通り」のものだ。但し “IN MIRROR" という凸面鏡を通して。


「広い視野」を獲得する事と引き換えに「正確な距離感」を失う凸面鏡。しかしそれでも「死角」=見えないものは存在する。「近さ」という「呪いの言葉」を通して、それぞれの作家が「見えないもの」を作品に仕込んでいる事が浮かび上がって来る。ここにある作品は「見える通り」のものでしかないにも拘わらず、そこには消されたり、覆われたり、隠されたり、現れなかったり、ずらされたり、目を向けなかったりする事で生じた「見えないもの」がある。この展覧会もまた「見えないもの(例:「上田良」の「余白」)」をこそ見る展覧会だろう。そして「見えないもの」が「見えないもの」であるが故に、それぞれの「見えないもの」同士は「近く」に、或いは「繋がって」いるものなのかもしれない。


そして “the three konohana" の会場を出る。一歩会場の外に出れば、そこは「見えないもの」だらけだ。世界は「見えないもの」で覆われている。妖怪を展示する展覧会会場の外にこそ、本来の妖怪が幾らでも潜んでいる様に。だからこそ展覧会は「持ち帰り」が可能なのであるし、そういう「持ち帰り」以外には意味が無い。“IN MIRROR" の反射面に映っているのは世界そのものである。


それ故にレビューは遅れる。遅れるとはそういう事なのだ。

****のアート


「****のアート」展


このたび、(中略)グループ展に参加することになりました。
(中略)お近くにお越しの際は、駅から近いです。宜しくお願いします。


(注)「****」は伏字表現


30年超の「友人」である「現代美術」系の「彫刻家」から、展覧会案内がメールで入って来た。自分の知らないギャラリーの名前だった。これまでの自分の人生で余り縁の無かった町の、この駅に降りた事も未だ嘗て無い。首都圏の白地図を示されて、そこが何処にあるかを示せと問われれば、自分にはそれを100%間違えられる自信がある。案内に記された他の26人の「作家」の名前にも心当たるものが無い。これらの人達は「彫刻家」の勤務する美術大学での「教え子」なのだろうか。


仕事を終えてカーナビに住所を入れる。**県**市**…。目的地まで1時間と計算されたものの、カーナビが推奨して来た有料道路を使わない事と、不案内な町であるという事を考え合わせれば、実質1時間半は掛かるだろう。17時半で閉まるギャラリーには、15時半位に到着する事になる。この展覧会を見てから他の展覧会を回れるという立地には無いし、大体月曜日というのは「Tokyo Art Beat」アプリ的な用語で言えば「本日休館」というのが昨今の美術展のデフォルトである。この日はこの展覧会だけを見るという事にした。


その「Tokyo Art Beat」アプリでは、この展覧会はもとよりギャラリーもヒットはしない。そもそも「Tokyo Art Beat」の情報は、「東京都」以外は「美術館」率が極端に高くなり、恰も「県」には「ギャラリー」というもの自体が存在していないかの様に印象付けられたりもする。一方「Google 先生」にこの展覧会名を入れても、それはそれで中々ヒットはしない。その展覧会名に似ていると言えば似ていなくも無く、似ていないと言えば全く似ていない楽曲関連のページばかりが表示された後、ようやく3ターン目に「彫刻家」の勤務校サイトの展覧会インフォメーションが1件だけヒットし、そこから先はまた検索の不発ばかりが延々と続く。「Twitter」の検索にこの展覧会名やギャラリー名を入れると、当該ギャラリーアカウント(33フォロワー)のツイートだけが2つヒットするのみだ。


メールを読んだ瞬間、件の「彫刻家」が「参加」するには「随分」な展覧会名だと思った。実際のそれに近いかもしれない表現―――細かいニュアンスは異なる―――で書けば「いろとりどりのアート」(仮称)展である。ひらがな表現の「いろとりどり」(実際には別のひらがな言葉)だけで終わらせるのなら兎も角、通常「現代美術」の展覧会に「〜のアート」というタイトルはまず付けない。「コンタクツのアート」や「複々線のアート」や「キャラクラッシュのアート」というタイトルを「現代美術」が採用する事はほぼあり得ない。これは狙っているのか、それとも狙っていないのか。外しているのか、外れているのか。もう少し他に言い様があるのか、もう少しも他に言い様は無いのか。「真意」を量りかねつつ、首都圏の私鉄沿線の極めて平均的な商店街に入り、東京三菱UFJ銀行隣のコイン駐車場に車を止め、iPhoneGoogle マップを起動すると、果たしてそのギャラリーは商店街の道を隔てて駐車場の向かいにあった。


道に面してガラス張りのギャラリー前の歩道から、そのガラス越しに「彫刻家」の姿を認める事が出来た。他の作家は会場内にはいない様だ。敏感過ぎるセンサーを備えた―――ドアの位置自体が歩道から近過ぎるとも言える―――自動ドアが、まだ市の土地に立っている自分に対してフライング気味に戸を開けてくれた。「彫刻家」は自分の姿を認めると「神出鬼没」と言った。自ら展覧会案内を出しておきながら、ここには来ないものと思っていたのだろうか。


ほぼ全ての作品は壁に掛けられている。「絵画展」と言って良いだろうか。額装されたものも、そうでないものもある。入口入って右側の壁にある「カラー・フィールド・ペインティング」や「アンフォルメル」に混じって、「カボチャ」や「トンボ」や「イルカ」等の絵が目に入って来た瞬間、「これは大胆過ぎるのか、それとも計算高過ぎるのか」と思った。それらはリアルに子供の絵の様に見える。絵具の扱いに少しでも慣れてしまった人間が、この絵の様に絵具を使おうと思ったら、それにはかなりの頭の切り替えを必要とするだろう。それをも「シミュレート」したのであれば、その作家の能力と知性と狡猾は恐ろしい程だ。子供の絵の上っ面をつまみ食い的に「シミュレート」する事で、「イノセント」を表象するステレオタイプな「子供スタイル」を我がものとする絵本作家等は、これらの絵の前では只々凡庸に思える。重ねて言うが、隙無くリアルなのである。


思えば近現代美術で常に「最先端」とされているものは、昨今流行りの「関係性」やら「リレーショナル」やら「社会関与」やら「参加」に至るまで、「美術」という「囲い込み」から、その「外部」へ「出る」為の、専ら「美術」の側の「都合」による「工夫」の連続だった。しかしそれは同時に、端的に「外部」であったものが「美術」の「内部」に「拡張」的な形で「回収」されてしまう過程の連続でもあった。


例えば上掲の文章の「美術」の箇所に「地上」を代置してみれば判り易いと思うが、「『地上』という『囲い込み』から、その『外部』へ『出る』為の、専ら『地上』の側の『都合』による『工夫』」の数々という「最先端」が、「宇宙探査/宇宙開発(space exploration/space development)」と呼ばれるとすれば、「『美術』の『最先端』」をドライブする欲望の形は、そうした "outer space(外宇宙)" と見做したものへの "exploration(探査)" や "development(開発)" の様相を帯びたりもする。


考えてもみれば、「大航海時代」から何ら変わる事無く、"outer space" の側から「宇宙探査船」を呼ぶ事は無いのだ。「宇宙人」が「こっちへおいで」と「宇宙探査船」を呼ぶのは、「スターシャ」という御伽話の存在位のものだ。「宇宙探査船」を打ち上げるのは、月面上に国旗を立てる事に象徴される様に、例外無く「地上」の「都合」によってなのである。


子供の絵もまた、そうした「美術」の "outer space" の一つとして、散々「美術」という「覇権的欲望」(実際に覇権出来るかどうかは全く別)に「利用」されて来たものだ。それは絵本作家の様に子供の絵を「シミュレート」するというレベルに留まらず、「子供の絵に対してどの様な価値を美術論的に見出し得るか」という「美術」への「フィードバック」を前提とする形での「利用」の形もある。それが悪いという訳ではない。但しそれは―――子供の絵の「利用」に限った事では無いが―――「美術」の「都合」という軸足の存在を「美術」自身が決して忘却しないという前提を崩さない限りに於いてのみである。「子供の絵と関係を持とう」とする「欲望」が「誰」のものであるかは、他ならぬその「欲望」を持つ者自身によって常に自覚化され問われ続けなければならない。子供は「スターシャ」ではないし、そこに政治家もしばしば使う方便―――行政も得なら国民も得―――でもある「Win-Win」を持ち出して来る事は、「美術」にその自覚が無いのであれば慎まなければならない。相互の利益を強調するのは「植民地主義」の常套手段でもある。


東京ディズニーリゾートのキャラクターの制服をタイポロジカルに―――まるでベルント&ヒラ・ベッヒャーの様に―――反復し続ける絵、文字を刺繍した作品、原稿用紙の作品…。そして一枚の油絵の前で息を呑む。こんな絵を今まで見た事が無い。使用した絵具の量は相当なものだろうと想像される。しかし画面上にはそのわずかしか残っていない。それどころか描いた絵具で「支持体」まで見せているところすらある。絵具の量が増して行けば、その分だけ物量として画面上にそれが残るという絵は幾らでも見た事があるが、絵具を載せれば載せる程削られて行くという絵は初めてだ。削られた絵具はキャンバスの縁へと追いやられ、その結果四角いものであったキャンバスは、はみ出た絵具によって別の形になっている。喩えは良くないが、お好み焼き屋の鉄板の上にタネを置いてそのままヘラでかき混ぜ続け、そのタネの殆どが鉄板周囲のトユやカス受に入ってしまう一方で、鉄板上には焦げ付きやこびり付きのみが残るといった感じだろうか。鉄板と、焦げ付きやこびり付きと、トユやカス受けの大量のタネが一枚の絵を構成している。一言で言えば「凄みのある絵」だ。この人の絵は「絵画の在りか」や「VOCA」に出ていただろうか。いや出ていなかった。


しかし会場の奥に行くに従って「これはもしかして…」という思いが浮かんで来た。いや、まだ「確信」は持てない。と同時に「もしかして」は確かめられない方が良いのかもしれないとも思った。やがて「彫刻家」に紹介された「ギャラリーの人」と話している内に「エイブル・アート」という単語が出て来た。「いろとりどりのアート」(仮称)は、所謂「現代美術」の人達による展覧会ではなかった。それは「シミュレーション」ではなかった。しかし「やはり」の語は飲み込んだ。「エイブル」の語が頭を占めるのを振り解こうとした。


東京ディズニーリゾートのキャラクターの制服をタイポロジカルに反復し続ける絵」の人の手になる、「おかあさんといっしょ」の数十枚の「フレーム」―――映像的な意味での「フレーム」―――「絵画」や、ディズニーキャラクターの刺繍、新宿の風景の「ドローイング」等も「ギャラリーの人」は見せてくれた。その人が「エイブル・アート」に関係する展覧会で「オーディエンス賞」を受賞したとも言われた。そしてこのギャラリーで、何時ぞやの「六本木クロッシング」展にも出たという「現代美術のアーティスト」と二人展を行った事も。Google で検索すれば「エイブル・アート」に関係する展覧会に大きく関わっている人が、この人について「紹介」した新聞記事等もヒットする。


「いろとりどりのアート」(仮称)展の出品者の他の人の名前も検索してみた。すると「アーティスト」はもとより、「写真家」や「写真評論家」等の名前が、それらの「障碍者」の人達の名前と一緒に出て来たりした。「みんなそこに『出掛けて』いるのだな」と思った。そしてその人達は、「アーティストの**さん」や「写真家の**さん」といった「職業」に対置される形で、「知的障害者の**さん」や「自閉症の**さん」といった形で殆どが「紹介」されている。


上で「『絵画の在りか』や『VOCA』に出ていただろうか」と書いた。それらの展覧会は、事実上「健常者」の為の展覧会となっている一方で、「障碍者」にはそれらとは「別枠」の展覧会が用意されていたりする。それらは、「オリンピック」に対する「パラリンピック」の如く存在している様にも思える。確かに「障碍者」は「健常者」と同一のスポーツ試合に同一のエントリ基準で組み入れられる事は殆ど無い。その理由は「競う」という一点で確かに正当性を有している様にも思える。では「障碍者」が「健常者」と同一の展覧会に同一のエントリ基準で組み入れられない理由は何であろうか。仮に「健常者」と「障害者」の間に何らかの「非対称性」が存在するとして、その「非対称性」は両者が「つくるもの」にもそのまま及ぶという事になるのであろうか。「作品」上では「違い」が見え難くても、「作者」の「主体」に「違い」があれば、それは「別枠」とすべきであろうか。確かに「ポコラート」という「垣根」を取った試みはある。しかしそれもまた「別枠」の形の一つの様に思える。


例えば「VOCA」という「健常者アート」の「展覧会」に、先述した「凄みのある絵」が、その描き手が「障碍者」である事を明かされずに出品されていて、それが「VOCA賞」を取ってしまったとする。次の年もまた、別の「障碍者」が「VOCA賞」を取り、そしてそれ以後「健常者」が「VOCA賞」をなかなか取れなくなったりする事を妄想してみる。恐らくそうなった時に、「エイブル・アート」や「アウトサイダー・アート」という呼称は姿を消すだろう。そしてその時「ノーマライゼーション」の「ノーマル」の意味するところも変わらざるを得なくなる。


「いろとりどりのアート」(仮称)展会場で興味深い話を聞いた。最近では "able art" に於いても「アーティスト」であろうとする姿勢が求められるというのだ。即ちプロフェッショナルな「生の芸術家」の誕生である。「生の芸術家」の戸籍上の名前が、そのまま商標的な「作家名」に変質する(「いろとりどりのアート」(仮称)展会場には「雅号」を持っている人もいた)。「生の芸術」は、「プロの生(brutiste professionnel)」という一種の語義矛盾を抱えつつ、確実に「次段階」に入った。であれば「作家」たらんとする一点では、「健常者アート」と「障碍者アート」の「区別」は最終的には無くなる事にもなる。「玄人アート」と「素人アート」でもあった「健常者アート」と「障碍者アート」の「区別」が、今や或いはやがて「玄人アート」と「玄人アート」として同一平面上に並ぶ。


しかし現実的に言って、「障碍者」が「つくるもの」を「アウトサイダー」の「アート」として固定化したい「健常者アート(「インサイダー・アート」)」は、自らが「無徴」の位置にある事を明け渡しはしないだろうし、それは決して「アート」の望むところではない。即ち何時まで経っても「アートの主役は自分達」なのだ。それは "man" が「男」であると同時に「人類」を指す「無徴」の語であるのに対し、「女」は "woman" や "womankind" という「有徴」の語を当てられているという関係にも似る。"woman(女)" は "man(人類=男)" から見てどの様な価値を見出し得るかを永く問われて来た。日本語の「女流」というのも、そうした「有徴」の語の一つである。「人類」を表す "man(kind)" 、即ち「人類=男」は、最近になって性差別的であるとして "human(kind)" 等とされる事も多くなっているが、一方の "art" は "art brut" や "outsider art" や "able art" といった、 "woman(古語では wifman=wife-man=妻となるべき人類)" 的な「有徴」的な呼称―――「障害を持つ - 人類の芸術」―――を未だに次々と作り出している段階に留まり続けている。


展覧会場にある "able art" の数々。しかしそれにしても何故にそれらは「アート」と呼ばれなければならないのか。「造形」だからだろうか。確かにこれらは「批評」の対象にもなり得るかもしれないが、それが「美術批評」でなければならない必要性は些かも無い。であるにも拘わらず "art brut" や "outsider art" や "able art" という呼称は、既にそれが「美術批評」の対象である事を「予約」されてしまっている「制限」として作動する。"man" が "human" に対する「制限」の形である様に、「臣民」が「臣」の「民」である事を("people" がそれを了承した覚えが無くても)予め「予約」されている様に。端的に "people" である者に「臣」の言葉を被せれば、その瞬間から "people" が如何に「臣」のものであるかを説く事が出来る。同様にあらゆるものに "art" を付加すれば、その瞬間からそれが如何に "art" のものであるかを説く事が出来る。


ラテン語の "ars" が捻れに捻れて、フランス語の(狭義の) "art" 、英語の(狭義の) "art" 、そして今日の日本語に言う「美術大学」で学ぶ様な「美術」(ガチガチの狭義)にまで至り着いた。フランス人の(狭義の) "art" 関係者だったジャン・デュビュッフェ(Jean Dubuffet)が、自分のコレクション(それは「制限」の形の一つである)を通じて、 "art brut" という名称を―――半ば自分の "art" 仕事に於けるポジション確保の為に―――仕立て上げた。以後それらは "art" の「造形物」として遡行的に「発見」され今日に至る。その意味で、デュビュッフェが「してしまった」行為の「罪」は決して軽くはない。


或る若い保育士の人が、自分を「美術」の人間であると十分に認識した上でこう言った事がある。「子供の絵を美術(的な意味での造形)として見たら何も判りません」。「何も(ナッシング)」であるかどうかは置くとしても、それでも「美術」の目では、物事をかなり多く「見誤る/見落とす」事になるという厳然たる事実は確かに存在する。保育士の人の子供の絵に対する分析というものも実際に聞いた事があるが、それはそれで分析として説得力のあるものだった。そして同時に確かに「美術」的なアプローチでは、そうした分析はかなり難しいという事を感じた。「美術批評」(や所謂「表象文化論」)が「造形物」に対する「知的アプローチ」の一つである事は疑い得ないものの、一方でそれは「一つ」でしかない。所謂「造形物」に相対するに際して、「美術批評」にこうした「見誤る/見落とす」に対する自覚があるかどうか、「美術批評」では見えて来ない「造形物」がこの世界には多く存在するという認識があるかどうかが、「美術批評」自体の在り方の「美学」に関わって来る。


「彫刻家」の作品も、メールに「グループ展に参加」とある様に一点出品されていた。それを見るのに見方の「文脈」をシフトさせられた。それをしない方が良かったのだろうか。しかしやはり「美術」に組み入れないと、何も見えて来ないものではあるのは事実だ。「彫刻家」が関わった、この人達の参加した「ワークショップ」の「成果」も会場に展示されていた。多くの「美術」の関係者によって行われる「ワークショップ」がその「成果」として「認める」もの同様に、それらの "(Sandplay) Therapy" はきちんと "art" の「造形物」になっていた。


ギャラリーが閉まる17時半まで会場内にいた。暇を告げ外に出ると、商店街の空はすっかり暗くなっていた。活気のある首都圏の商店街。生きている商店街。そこを歩いている殆どは地元の人達だ。「観光資源」が地域経済を後押ししなくて良い街。数日前に行った「地域アート」の場所とは随分と違うところだと思った。


【続く】

あなたの本当の家を探しにいく/ムーミン一家になって海の観音さまに会いにいく:キャラクラッシュ!

先月中旬、キャラクターが登場する展覧会を東京で見た。湯島の「キャラクラッシュ!」には行った。しかしここで最初に記述するのはそれではない。

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決して大きいとは言えないギャラリーで行われていた「あなたの本当の家を探しにいく/ムーミン一家になって海の観音さまに会いにいく(リンク先 pdf )」と題されたその「個展」を見終わったのは、ギャラリーに入ってから2時間以上後の事だった。それでも決して全てを「見た」とは思えない。それ程に「ボリューム」のある「展示」だったと自分には感じられた。映像が多い事から、時間を多く取られるという面がある事は否定しないものの、一方で「一つ」の「歴史」と、「一つ」の「人生」と関わるものの、圧倒的過ぎる程の「ボリューム」とその「近さ」が、この「展示」を単なる「見物(けんぶつ)」としての展覧会以上の、立ち去り難いものとさせていた事に疑いは無い。他方で、その「ボリューム」と「近さ」は、この「作者」の「作品」の方法論にも影響を与えているという印象も受ける。


その「展示」空間は「二つ」の「部屋」で構成されていた。「二つ」の「部屋」を極めて細い「通路」で繋ぐ形になっていた同「展示」は、ギャラリーに入って「最初」の部屋に幾つかの古い写真と、二つの映像と、一つのスライド投射と、その他があった。映像の一つが投影された壁の後ろからは、「もう一つ」の部屋のものであろうアニメ主題歌が時々聞こえて来る。しかしそれは明らかにプロの歌声ではない。その歌に引き込まれる気持ちを抑え込み、「最初」の部屋の展示物へと入り込んで行った。


古い写真にはモダンな「外観」を持つ「病院」の建物が写っていた。これらが建てられた当時、それは周囲の田園的な環境とは極めて不連続性を伴う形で「近代」を感じさせるものであっただろう。建物というのは常にそうだが、その「外観」は「外部」からそれを見る者の為のものだ。そこに住まう者にとっての建物は、その「内部」こそが優先的に記憶される。それは例えば、自分が住む、或いは嘗て住んでいた家の「外観」は、他人の家程には正確に思い描けなくても、その「内部」である間取りは大抵誰でも描けてしまうというところに現れる。当然この建物の「外観」もまた、「外部」からそれを見る者に「近代」を感じさせる様にデザインされていると言える。


同展には直接関わりが無いが、「野と田と藪のみ(斎藤茂吉)」だった東京府赤坂区青山南町五丁目八十一番地(現・東京都港区南青山4丁目17)に嘗て存在した「仏国巴里に於けるアルグアイチ、ホスピタールに模型を取り、羅馬式脳病室十七室を有する」威容を誇っていた「名所」の建物もまた、この展覧会の写真に写された建物と同種の施設であった。それらは1950年代まで続く「私宅監置」という「前近代」的な「この病を受けたるの不幸のほかに、この国に生まれたるの不幸(呉秀三)」から、これらの建物がそれぞれの意匠で表現しようとする「近代」によって開放されるかの様に、その建物を「外部」から見る者の目には映る。伝統日本的な建築語法では、「前近代」的な精神医療との不連続性を「表現」出来ない。或る意味で、精神医療もまた「西洋に追い付け追い越せ」的な構図の中にあった。


「最初」の部屋に流されていた映像の一つは、そうした施設の「内部」を描写した無声映画衣笠貞之助の「狂った一頁」(1926年)だった。


(映像中の音は村岡実、倉嶋暢両氏によるもの)


その時,東京の松沢脳病院で取材した記憶は今でも鮮明だ。幾棟かに隔離された病棟には,施療あり,重患あり.水風呂に入っている者,一糸まとわぬ若い女,鉄板の個室の真中に突っ立って,虚ろな眼で空間を見つめている老女.自分の糞尿に,細かく引き裂いた浴衣をかけ,小切れで隅々まで拭き掃除している男.大の字に寝ている者.封筒をそ知らぬ顔で貼っている者,個室の中を,何か口走りながら歩き廻っている者など,気の毒で,二目とは見られなかった.当時,有名な誇大妄想狂,葦原将軍は,2,30人もいる大部屋の隣の3畳で4,5匹の子猫を飼っていた.


衣笠貞之助岩波ホール「エキプ・ド・シネマ 第5回ロードショー」パンフレット p.30 1975年


殆どが京都下賀茂の松竹撮影所内でのセット撮影であった同映画に於ける例外的なロケ地の一つは、撮影所から数キロ北にある京都府岩倉村大字岩倉小字上蔵町(現・京都市左京区岩倉上蔵町)の「岩倉病院」であったとも言われる。


古昔ハ観音堂前ニ籠堂ナルモノアリキ。患者ハ此ニ療養シ、附近ノ宿屋ニ飲食ノ供給ヲ受ケシカ、便宜ノ為メ漸次宿屋ニ宿泊スルコトトナリ、遂ニ農家ヘモ寄寓スルニ至レリ。…(中略)而シテ其療養方法トシテ、観音堂ノ閼伽井水ヲ服用シ、或ハ瀑布ニ冷却シ、時ニ観音堂ノ幽静ニ起臥シ、或ハ田圃間ニ逍遙シ、自適ノ運動ヲ為シテ精神ノ静養ヲ専一トナセシ。


「岩倉村史」



与謝蕪村「岩くらの狂女恋せよほととぎす」


10世紀に創建された大雲寺に始まる「精神障害者治療」の「伝統」が非常に色濃かった岩倉の地を、ロシア(ラトビア)の精神科医ヴィルヘルム・スチーダ(Wilhelm Stieda)が訪れ、"Familienpflege(家庭看護)" という形態上の類似点から "In diesem Dorfe — einem japanischen Gheel — werden schon seit mehreren Jahrhunderten Geisteskranke verpflegt(この日本のゲールとも言える村では、数世紀もの間精神障害者のケアを行って来た)" と、岩倉病院院長・土屋永吉の期待するところ(西洋の最先端と比肩し得る精神医療)を半ば条件付きの形で論文("Ueber die Psychiatrie in Japan")で評してしまったものの、しかしその実際は必ずしもゲールのそれと様々な意味で同列視すべきものでは無かった。そしてまた、衣笠貞之助が「狂った一頁」の舞台をサーカスから脳病院に変更する切っ掛けになった、呉秀三による改革後の「東京府松澤病院」で見てきたものとも、京都のそこは様々な意味で違っていただろう。


この映画に「病院」の建物の「外観」が登場する事は、「外部」の者(小間使いの娘)が登場するシーンを除いて稀だ。一見「外部」の様に見える劇場の舞台も福引場も全て「内部」に閉じ込められていて、映画は「内部」が入れ子状態になった世界ばかりが続く。その「内部」を判り易く「説明」するのは、無声映画の場合「字幕」であったりする訳だが、それが横光利一の示唆によって省かれたのは極めて「正しい」選択であったと言える。


1926年の武蔵野館での初演時では、同館上映に力を貸した徳川夢声が同映画の弁士を務めているが、本来的には「字幕」も「活弁」も「劇伴」も必要の無い映画ではある。徳川夢声のそれは「ストーリーもその解釈も観客の自由の余地を大幅に残しておきながら、衣笠の画面の雰囲気を盛り上げアクセントをつけ、見終わった後何か納得がいくという離れ技をやってのけた。観客は何かわかったような気がして館を出ていったのだ。夢声新感覚派的映画説明であった(衣笠貞之助「わが映画の青春 日本映画史の一側面」)」というものだったと監督自身が報告している。但しここでの「何か納得がいく」や「わかったような気」というのは両義的かもしれない。それが「拒む」形のものであれ、「壊乱」する形のものであれ、「字幕」や「活弁」や「劇伴」は、「解釈」を前提とする「説明」の重畳性と切り離せない。同展示ではこの映像に新たに「劇伴」を付けるという「無声映画にまつわるいくつかの共同制作とワークショップの記録」の形での上映となっていた。


映画の中に出て来る「中庭」は自分にとって懐かしい風景だ。40年近く前のあの日、質問を受けていた部屋の窓外に見えていたのもまた、これとそっくりの光景だった。

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「最初」の部屋のもう一つの映像は、医学史研究者(慶應義塾大学経済学部教授)の鈴木晃仁氏へのインタビュー「hidden names」だ。同インタビューの骨子は、氏のこの調査研究に基づくものとなっていた。


戦前の日本において最も先進的な精神病院であった王子脳病院(小峯病院を含む)のアーカイヴに保存されている患者記録を組織的にデータベース化したうえで、患者動態の研究を行った。(略)


この研究から明らかになった日本の精神病院の姿は、これまでの多くの思い込みを訂正した。その中でもっとも重要なものは、在院期間、すなわち患者はどのくらいの期間にわたって病院に滞在したのかという問題である。王子脳病院の私費患者については中央値でいうと40-45日という、諸外国の対応する数字よりもはるかに短い数字が得られる一方、公費患者については、同じく中央値で計ると700-900日という、諸外国よりも長い数字が得られた。公費患者については、治療を目的とした医療というより療養と監禁が目的になっていたことが伺われる。一方、私費患者に対しては、当時の最先端の医療も活発に行われており、先端医療をインテンシヴに実施して退院させるという、治療を中心にしたパターンが現れていたことが伺える。その一方で、必ずしも厳密な意味で精神病患者とはいえない家庭の中で問題的な行動を取るものを懲罰的に短期間入院させる例も少なからず存在したことも付言されなければならない。


在院期間を疾病分類別に見ると、予後が悪く慢性化しやすい精神分裂病は在院期間が長く、急性的な経過を辿るものについては在院期間が短いという、予想される結果がでた。それよりも興味深いのは、男女による在院期間の違いである。同じ疾病分類の中では、男性は在院期間が長く、女性は短い傾向が観察される。このことと、男性の入院患者は女性の2倍近い、ということなどを合わせて考えると、女性の精神病患者は、家庭でケアされる可能性がより高かったと考えられる。


「戦前期日本の精神医療における病院と家庭の役割の研究-王子脳病院を中心に」
https://kaken.nii.ac.jp/d/p/14572136.en.html


インタビュアーとインタビュイーが音声のみで登場するこの映像の中には「作品」という言葉がしばしば現れる。それが独立した言葉として最初に登場するのは、鈴木氏が発したこのセンテンスである。それは脈絡無く唐突に出現する。


「しかしながら、私たちからみますと、最も重要な患者の作品は、医者の質問に答えることだと思います。どういう意味かといいますと、ちょっと想像してみてくださいな、あなたが、そこで寝泊まりして食事をして生活できる施設に暮らしているとしましょう。(中略)…そこに、毎日医者がやってきて、あなたは今日どのように感じますか、あなたは今日どのような精神状態ですか、どんな夢を見ましたか、そういったことを毎日聞かれて、毎日答えなければならない。そのときに、あなたはどのような人ですか、あなたの中には何が現れていますかという質問に答えているわけです。」


飯山由貴「展覧会のためのノート(以下「ノート」)」より
http://shop.waitingroom.jp/?pid=81053683


鈴木氏の「作品」の話は続く。


「(略)…ある患者は、医者に聞かれたときに、『先生ちょっと待ってください、私の話をきいてください』と言って、(中略)…自分の人生を語り、そして自分がどのように悩んできたかということを、非常に長い記述にして答え、(中略)…あるいは別の患者の例ですが、10ページ以上にわたるような長大な手紙を医者宛てに書きまして、かくかくしかじかの人生を生きてきて、かくかくしかじかの理由で自分の精神は乱れていると書き、それが症例誌に挟み込まれています。こういった患者は、特色豊かな作品を作っている例だとおもいます。」


「逆に、自分が作品化されることを頑強に拒む患者もいました。その患者はあえて質問に答えない。あるいは、症例誌に記入されることに対して「そんなふうに記入しないでくれ」という。これは自分の言葉が記録されることへ非常に厳しい批判であると思うんですね。作品化されることに対して、はっきりとノーと言っている。このような、自ら積極的に作品をつくる患者もいれば、それを拒む患者もいるという、おもしろい仕組みになっていると思います。」


「私がかつてもっていた漠然とした印象としては、精神病院というのは患者をそのなかにぶちこんで黙らせる空間なんだと思っていた部分もあります。(中略)…患者の姿を、社会や共同体や、あるいは患者の家庭から消すということもあります。しかし、精神病院はひとつの立派なミニチュアの社会である。そして、先に触れたように、そこでは毎日、あなたはどうですかということが積極的に問われている。その意味で、むしろ患者に、自分に関することを言わせる、自分はどういう人間であるのかということを積極的に言わせるという機能をもった空間ではなかったかと思っています。」


「(略)…精神病院の中では、たくさんの事柄が語られました。それに耳を傾けることは有益です。ただ、われわれが気をつけなければならないのは、そこで患者が語る言葉というのは、精神病院の外になかなかでていかなかった言葉であるということです。」


「ノート」より


「作品」という言葉は、インタビュアーが「アーティスト」であるが故に出てしまった言葉だろうか。但し「作品」という概念は、しばしば疎外(Entfremdung)の対象としてあるものだ。果たして言葉を「作品」化するのは「誰」なのであろうか。少なくともそれは「医者や患者、あるいは看護人」に一意的に帰されるものではない。そこでの「作者」は事後的に "discover" される「設え」でしかない。

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自分の身体の上に、鉄格子の中の南栄子嬢を浴びつつもう一つの部屋に入る。


なんか ムーミンが よんでるのね 私を


ムーミンたちが、ムーミンとかフローレンとか、リトル・ミイとかスナフキンとか
ムーミンパパ、ママとか、スニフとか、とにかく全員ね ヘムレンさんもそうなんだけど
スノークも、スノークのおじょうさんも とにかくムーミンの世界の人たちが私を
よんできたのね 「おいで」って わたしがつらかったのをたすけたがってたのかも
わからないけど わたしがたすけをもとめてったんだよね そういう架空、そういう、
現実にはないけど、本当はいないんだけど、そういうキャラなんだけど、
わかってるんだけど、ムーミンは、海の神さまのところにいこうよって
ふだんにもどると、早川の海と北欧の海はぜんぜんちがうってわかるんだけど
ムーミンたちが、海の神さまにおいのりをしにいこうよって びょうきっていうより
ざんねんだった いけなくてざんねんだった 実際ムーミンたちはいないけど
声は聞こえてたから、海のかみさまにおいのりして、そしたらムーミンパパが
つくった船でフィンランドにいこうよって つなみにおそわれないように、とか
つなみのような大波、フィンランドまでぶじにたどりつけるように おいのりしてからいこうね


わたしはそのとき、お母ちゃんやお姉ちゃんがいる世界にいなかったの
体は、この家にいたけど、心はちがうところにいて もう旅に向かってたの


「ノート」より


「あなたの本当の家を探しにいく」と「ムーミン一家になって海の観音さまに会いにいく」を始めとする「家族の記録」の部屋。但し相対的に "hidden" のままであった可能性もあるこの「家族の記録」は、広く公開される事が何時からか決定していた。公開されれば「作品」として対象化もされる。


2014/8/25
our own words.
アイヌの血が入っている人のtogetterまとめ(8/20の時点では)は、こんな内容で終わっていた
いつまた差別が許容される時代がくるかわからないから、自分にアイヌの血が流れていることは決して口外しない
自分がしていることは愚かなことなのか、この展示をする行為によって
わたしの親類のだれかに不都合なことが起きるのだろうかと思う。まったく起こらない、といいきれない、ことが不安だ。
彼女も、母も、最近はこういうことはオープンになってきているから、病気の理解がこれで進むなら、と承認してくれている
でももしかしたら甘い考えなんだろうか
この社会は、いまはすこしは寛容かもしれないが、「これから」のことは誰にも何もわからない
これから先もなにも、起こらないことを願うなら、なにもなかったふりをして、家の中のことは隠して、家と病院のやりとりの中で、
ことは進んでいくんだろう。


「ノート」より


永遠に "hidden" であり続けていたかもしれないそれは、「作品」の為に存在する空間(「waitingroom」)で、やはり公開されるに至った。「作品」の為にある空間であれば、それを「作品」として見るのは当然の事であろうか。即ち「評価」の対象として。しかしここでも、そしてだからこそ「誰」の問題は付き纏う。


以前の同作者の展覧会であれば、例えば「手編みのタペストリー」の様な、「作者」の「表現」である事を疑う余地が無さそうな「作品」が存在していたものだ。今回の「あなたの本当の家を探しにいく/ムーミン一家になって海の観音さまに会いにいく」展では、そうした「表現」=「作品」を、目立った形で見る事は出来なかった。それは「作品」という制度的な構えが、否応無く疎外(Entfremdung)的なものとなってしまう事に、「表現者」であると同時に(それ以前に)「当時者」となってしまった作家自身が直面してしまった(せざるを得なかった)事にあるのではないかとも想像される。


場合によっては、この展覧会に於いて、こうした「作者」や「作品」に「なり切れない」ところを難ずる視点はあり得るかもしれない。しかし本展はそうした「作者」や「作品」への「なり切れなさ」こそに最大の可能性を感じさせるところがある。寧ろ展覧会というものの本来的な形は、「作者」とされるものを「資料」化するものではないだろうか。展覧会は「作者」が「資料」の一つになる覚悟を迫られるところだ。その意味で、この「展示」は、美術館でのそれというよりも、博物館のそれに近い。本展に対するギャラリーの紹介文の中に「インスタレーション形式で展示」という言葉が見られた。しかし「博物館」の展示を「インスタレーション」とは呼ばない様に、恐らくこの「展示」にも別の呼称が必要なのかもしれない。


映像の中には「ムーミン一家」の回りを飛び回って撮影する人間が写り込んでいる。それは「表現」という行為のあり方を示すものにもなるし、一方でそれが「表現」として存在する事の証明にもなる。恐らくこうした写り込みによる「表現」行為そのものの可視化が、この展示にどうしても必要な要素である事を作家は知っている(と、その様に自分は「作品」化する)。それはミシェル・フーコーが「作品」化したディエゴ・ベラスケスの「ラス・メニーナス」よりも「切実」な写り込みだ。


映像中のキャラクターの着ぐるみは見ようによっては無残であったりする。しかしその無残はまた「無残であるが故に良い」や「無残であるが故に悪い」といった「評価」の対象に出来るものではない。着ぐるみはコスチューム・プレイに見えるものの、それは「プレイ」ではない一方で、同時に「プレイ」だ。「偽物」の様に見えるものが「本物」であったり、「本物」であると確信されているものが「偽物」であったりするところで、それはただその様にして存在するものとして「観客」の前に現れる。


「症例集」から「作品」を導き出す様に、「観客」はそうした「資料」から何かを読み、そこから自分の「作品」を仕立てなければならない。この「個展」に対するネット上での反応は、勿論「たいへんよくできました」的な「評価」が無いでは無いものの、しかしその多くは「展示」で提示された「資料」から、それぞれの「作品」を作り上げていた印象を持つ。一方で、作者は伝統的な意味での「作者」を100%体現していた訳では無かったが、しかしその事で寧ろこれまでのものとは別の〈作者〉のポジションがあり得る事を示唆的に示していたとも言える。それらの意味で、本展は「展示」として「幸福」なものではなかっただろうか。

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その翌日に「キャラクラッシュ!」に行った。前日にそうしたものを見てしまったのと、展示を専らとする空間ではなく、家に上がり込む形であった事が相俟って、それは作品としてよりも「資料」として自分の中に入って来た。


キャラクターを何かの「表象」として見れば、紋切り型でキッチュな貧しいイメージでしかないだろう。キャラクターの力は、そのような表象のシステムからズレた場所に宿っている。


キャラクラッシュ!
Written by カオス*ラウンジ


http://chaosxlounge.com/archives/1347


その一文を蝶番にして、昨日の「ムーミン一家」が自分の中で「キャラクラッシュ!」と重なり合った。


……そういう架空、そういう、現実にはないけど、本当はいないんだけど、そういうキャラなんだけど、わかってるんだけど……


前掲「ノート」より


家(「カオス*ラウンジ アトリエ」)という空間の中で、媒質的に働く「ムーミン一家」と重ね合わされた「カオス*ラウンジ」は、初めて自分の中で「膨らんだもの」として実感された。

ヨコハマトリエンナーレ2014 華氏451の芸術


He saw a family consisting of the father, and mother with 2 boys and a baby. Keith saw father take the baby and throw it from the cliff into the water far below, and then he pushed the other children off the cliff. After that he pushed his wife and then jumpded himself. Keith and his men got there and saw guy still floating alive, so they shot him.


(断崖の上で)彼は父親と二人の男の子の手を引き赤ん坊を抱いた母親の一家を見た。その父親が赤ん坊を取り上げると断崖から遥か下にある海面へと投げ入れ、それから二人の男の子を突き落とし、妻の背中を押した後、父親自身も飛び込んで行ったのをキースは目撃した。キースとその仲間達が一家が飛び降りた場所に到着すると、父親が海面から浮かび上がってまだ生きている事が判ったので、彼等は父親に向けて銃を撃った。(拙訳)


Richard Carl Bright "Pain and Purpose In the Pacific: True Reports of War"
http://www.amazon.co.jp/Pain-Purpose-In-Pacific-Reports/dp/1425125441


IDカードを首から下げた「横浜トリエンナーレ関係者」は、書類に不備が無い事を確認するとニッコリと微笑み、「マイケル・ランディと横浜トリエンナーレ組織委員会による審査を経て承認された」女性に「断崖」の上へと続く階段を登る様に促した。ゲートが開けられた。女性はそれを無表情に上がって行く。その肩には大きめのトートバックが下げられていた。


階段を登り切ると、そこは「断崖」の下にいる「観客」の目が注がれる場所だった。こうして女性は「鑑賞」と「評価」の「対象」になった。「断崖」の下から「証拠」の「記録」を目的とした「カメラ」がその時を今や遅しと狙っている。その時が何時どの様にして訪れるのかばかりが、「断崖」の下の「観客」と「カメラ」の専らの関心事だった。


やがて女性はトートバックを下ろすと、そこから小さなパネル画を何枚か出した。それから少し時間を置いた後、それは「断崖」の下に投げ入れられた。次にまたパネル画を手に持った女性は、今度は少しだけ投げ方に「工夫」を加え、それをブーメランの様に回転させて「断崖」の下に投げ入れた。それを見ている自分の傍らでは、上方に顔を向けた二人の「横浜トリエンナーレ関係者」が「にやり」としている。そしてその内の一人が「断崖」の上に立つ女性に声を掛けた。「アクリルにぶつけて!」。投げ入れ方の指示だった。


「鑑賞される者」と「評価される者」に加えて「指示される者」となった女性は、その指示通りに「ゴミ箱」を構成する透明アクリル板に次のパネル画を激突させた。「横浜トリエンナーレ関係者」の目の前の透明アクリル板に亀裂が入った。その瞬間「横浜トリエンナーレ関係者」の口許は、より一層「にやり」度を増した。そこで女性のパネル画の在庫は底を突き、ドローイングの紙がパラパラと落とし入れられたところで「ショー」は終わった。「断崖」の下から「ショー」に対して拍手が起きた。「ショー」のステージから降りる女性の顔は、達成感に満ち溢れたものではなく、また感傷に浸っている様にも見えなかった。


アート・ビン」を前にした自分を含めた「観客の目」は何処にあるのだろうか。それは「断崖」の写真や映像を撮影した「カメラ」の「位置」と同じものだろうか。我々は「断崖」を、落ちて行く者をその傍らから見る「目(カメラ)」が収穫してきた「テレビ」に映る「光景」でしか知らない。「断崖」へ落ちて行った者の「言葉」はその者の生命ごと失われてしまったし、恐らく今日の我々はそうした「言葉」を聞いて反芻し考える「脳」よりも、「光景」を投影する「目」をこそ優先する。レイ・ブラッドベリの小説「華氏451度」で「言葉」を「焼く」のは、2007年にブラッドベリ自身が明かしている様に、"fireman”をその末端とする所謂「政府」による「検閲」などではなく、「光景」を途切れる事無く大量に提供してくれる自動給餌器の様な「装置」と、それに馴致された「感性」なのである。


" […] Ask yourself, What do we want in this country, above all? People want to be happy, isn't that right? Haven't you heard it all your life? Iwant to be happy, people say. Well, aren't they? Don't we keep them moving, don't we give them fun? That's all we live for, isn't it? For pleasure, for titillation? And you must admit our culture provides plenty of these."


「(略)自分の胸に聞いてみろ。この国で、おれたちがなによりも求めているものはなんだ? 人はみんなしあわせになりたがるものだ、そうだろ? 昔からみんな、そういってただろう? しあわせになりたい、とみんないう。じゃあ、しあわせじゃないのか? おれたちは人を感動させつづけているんじゃないのか、人に愉しみを提供しているんじゃないのか、それがおれたちの生きがいだ、そうだろ? 愉しみと快い刺激を求めて、おれたちは生きているんだろ? おれたちの文化がそういうものを大量に提供してくれていることは、お前も認めなくちゃならんぞ」(伊藤典夫氏訳)


Ray Bradbury "Fahrenheit 451"(1953)


焚書を行う "fireman" の "Captain Beatty(ビーティ署長)" の言葉である。同小説に於けるブラッドベリの最大の「失敗」は、焚書をリテラルな形で使用してしまった事かもしれない。同小説が長年メタファーとしての「焚書」として「誤解」されて来たのは、皮肉にも1951年にリチャード・マシスンに宛てた手紙に書かれていた "QUICK reading people" がそう読み取ってしまったからだと言えなくもない。しかし同小説内での焚書は、思想統制的画一性へと自ら飛び込む事によって進行している人々の「忘却」を「完成」させる為のものでありこそすれ、決して「忘却」の「原因」ではない。その「原因」となるのは "parlor wall(パーラー壁=壁面化した超薄型テレビ)" や "Seashell(巻貝=イヤフォンスピーカーによる音声出力の超小型オーディオデバイス)" といった「装置」だ。


従ってこの「デストピア」で「本」を消して行く尖兵となるのは "fireman(チャッカマン)" ではなく、「パナホーム(例)」や「アップルストア(例)」なのであり、"Guy Montag(ガイ・モンターグ)" は本が入った本棚の前に直接 "parlor wall" を取り付ける施工業者(本を全く「破壊」せずに、その存在を「忘却」させるだけの)として登場すべきだった。そして施工業者モンターグの仕事の後には、象徴的な空っぽの書棚ではなく、極めて楽しそうなプログラムを1日24時間流し続ける4面マルチのテレビが嵌っている。しかもそれはクローゼットのドアの様に簡単に開閉可能になっていて、何時でもテレビの後ろにある本棚の本を取り出す事が出来るサービス機能付きだ。しかしそんな「余計」な機能を使おうとする人間は、この「デストピア」には最早存在していないに違いない。「華氏451度」というのはそういう世界の話なのである。


"sit down and get into a novel(腰掛けて小説の中に遊ぶ)" 様な揺蕩う時間感覚が、「装置」の普及によって決定的に失われたという現実(彼がそれを感じたのは携帯小型ラジオの普及)を目の当たりにして、レイ・ブラッドベリは「華氏451度」を書いたともされている。

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ヨコハマトリエンナーレ2014 華氏451の芸術:世界の中心には忘却の海がある」展の話だった。同展はとても巨大な「プログラム(「番組」)」である。開場時間は10時から18時までだ。自分は10時10分に横浜美術館の前庭に立ち、18時まで「新港ピア」までを含めて見ていたが、それでも時間は全く足りなかった。ヴィム・デルボア氏と、ギムホンソック氏(「序章1『アンモニュメンタルなモニュメント』」)で30分以上を「使って」しまった。続く「序章2『世界の中心にはなにがある?』」の「アート・ビン」では、「ショー」自体の10数分を挟んでそれについて「考える」時間20分と、その奥の笠原恵美子氏の作品を含めてやはり1時間以上も「使って」しまった。既に時刻は「正午」を回っていた。


そこで「悪魔」の囁きが聞こえて来た。「『断崖』を撮影した『カメラ』の『目』になりな。『テレビ』の『プログラム』の様にここから始まる『展覧会』を見るのだ。ブラッドベリが嫌悪した "QUICK reading people" である事が、この『プログラム』を『踏破』する唯一の方法だ。それで今日のスケジュールを滞り無く進められるぞ。そもそもこの巨大『プログラム』こそは、それを観客に強いる様に出来ているのだ」。現実的な面を優先すれば、そうでもしなければ全てを見られない。確かにまだチケットを捥って「有料」のゾーンにすら入ってもいないのだ。少しだけ「悪魔」に魂を売った。「アート・ビン」の前で敗北感に打ち拉がれた。


あまりに美しい風景を見てしまったとき、
あまりに悲しい出来事に出くわしたとき、
あまりに大きい怒りがこみあげてきたとき、
私たちは語る言葉を失い、絶句してしまう。
「沈黙」とは、「美」や「悲」や「怒」について語られた何万語より、
ずっとずっと重く深くそれらを語る、声なき声である。
あるかなきかの「ささやき」も、聞き入れば聞き入るほど、
心にしみわたる浸透力を持っている。
「沈黙」や「ささやき」に秘められた重みや深度や浸透力には、
よどみない饒舌や大音量の演説をはるかにうわまわる強度がある。
その強度こそ、まちがいなく芸術を生み出す力そのものである。


最初の「本編」は「第1話『沈黙とささやきに耳をかたむける』」だった。或る意味で、ここで本展の全てが終わったとしても良かったのではないかとも思えるが、流石に「巨大ヴォリューム」である事が外す事の出来ない絶対条件になっている「横浜トリエンナーレ」という「プログラム」的にはそういう訳にも行くまい。しかしこの「第1話」では自分の「カメラ」のファインダーからは目を外した。「カメラ」(入力)こそは「テレビ」(出力)と対になって「沈黙とささやきに耳をかたむける」事を阻害するものであるからだ。実際カジミール・マレーヴィチやアグネス・マーティンを「カメラ」の「目」で見ても面白くも何とも無いだろう。この「第1話」は、この先「カメラ」の「目」でこの「プログラム」全体を見るかそうでないかの選択を迫っているのだとも言える。


「第2話『漂流する教室にであう』」。観客の多くはリアルな「カメラ」をここぞとばかり取り出した。人々のサイトシーイングが始まった。或いは多くの観客がサイトシーイングしなければならない程に、彼等にとって「釜ヶ崎」は遠い。しかし「想像力」の力によってそれは極めて近いものにもなる。更にここには「10時から18時まで」最長8時間座れる椅子もある。


「第3話『華氏451はいかに芸術にあらわれたか』」の白眉は、自分にとっては「大谷芳久コレクション」と「松本竣介の手紙」だった。そしてケースの向こう側に「見る」ものとして置かれた「本」をして、それを「眺める」しかない身を恨んだ。ページを捲って読める様になっていれば(それこそが「テクノロジー」によって可能になっていても良かった)、最低2時間(本の全てを読むにはその位掛かる)はここに "sit down and get into" して読みたかったものだったのに、「プログラム」の都合上か「本」は遠ざけられてしまった。


それからは想像上の「カメラ」をしばしば取り出しつつ、足早になってしまった事を告白せねばならない。10時台から美術館に入り、作品に対する「礼」を端折りに端折って15時にシャトルバスを待つ。新港ピアに行かねばならない。何故行かねばならないのかは自分にも説明は出来ないが、兎に角行かねばならない。しかし展覧会のクローズ時間までには後3時間しか無い。そして残り3時間弱では、やはりそこでも何かを「捨てる」しかないと思った。「アート・ビン」を思い出して苦笑した。


案の定、新港ピアでは足を運ばなかったエリアが存在した。足を運んだだけというエリアも多かった。「カメラ」を取り出す余裕も無かったエリアも存在した。映像作品の幾つかはその途中まで見て立ち去った。それら多くのものを「捨て」、「海岸通りエリア」も「黄金町エリア」も「捨て」、みなとみらい線への接続に便利な美術館行きの最終バスの人になった。やり方によっては全てを「回る」事は可能だっただろう。しかしそれはそれで別の何かを「捨てる」事になる。いずれにしても、美術館やギャラリーに展示されていても、それでも作品は「捨てられる」のである。"parlor wall" の後ろにある、誰からも顧みられない本の様に。


美術館の西側に到着したバスから、美術館の中を通ってみなとみらい駅へと向かう。再び「アート・ビン」の前を通る。この「断崖」の下にあるものに対しては、「参加作品は会期終了後に全て廃棄処分いたします。返却はできません」という「宿命」が待っている。会期終了後に横浜美術館にパッカー車がやって来て、「崖下」の「ゴミ」は横浜市資源循環局の何処かの工場に行って処理され、そこから最終的に南本牧廃棄物最終処分場へと向かうのかもしれない。


でもなぜ「ゴミ箱」なの


(略)失敗作、未完成作、制作の途中で捨てられてしまった作品、これらの果てしない試行錯誤なしに、 名作は生まれてきません。有名無名を問わず、また成功か失敗かには関係なく、さまざまな場所でさまざまな人が試みるさまざまな表現のすべてが、 美術の世界をささえる礎(いしずえ)となります。


http://www.yokohamatriennale.jp/2014/artbin/index.html


「作った者」から「失敗」と見做されたものが「捨て」られるという古い話を思い出した。


雖然久美度邇此興而生子水蛭子此子者入葦船而流去次生淡嶋是亦不入子之例


然れども久美度に興して、子水蛭子を生みたまひき、此の子は葦船に入れて流し去てたまひつ、次に淡嶋を生みたまひき、是亦子の例に入れたまはず。


However they mated anyway and later fathered a child Hiruko, who was placed in a reed boat dragged by the current. Afterwards they gave birth to Awashima. Neither Hiruko and Ahashima were considered legitimate children of Izanagi and Izanami.


古事記


赤ん坊を海に投げ入れ、二人の幼い息子を突き飛ばし、妻の背中を押した父親の信ずるところは「『戦陣訓』本訓其の二第八」だったのかもしれない。水蛭子や淡島は、伊邪那岐伊邪那美の信ずるところを以って、彼等が「失敗」であるとされ「捨て」られるに至った。「アート・ビン」での信ずるところは何だろうか。


日本全国には水蛭子を祀る神社が多数存在している。それは少なからぬ「国生み神話」の「裏」を読める「想像力」を持った人達によって建てられたものだ。そうした「想像力」は、小説「華氏451度」の後半に登場する、書物を諳んじる行為以上のところにある。「古事記」や「日本書紀」を自らの脳に収めているだけでは駄目なのだ。


果たして「横浜トリエンナーレ」という「プログラム」を見た観客の内、その手の「想像力」を持った者はどれだけ居るものだろうか。「想像力」というのは、「横浜トリエンナーレ」という「プログラム」の「現象」的レベルから、どれだけのものを「読める」のかという各々の持てる「能力」の事である。少なくとも森村泰昌氏は、それを「横浜トリエンナーレ」という巨大な「プログラム」に仕込みつつ、それを見る観客の「能力」がどれ程に備わっているのかを「意地悪く」試しているだろう。そうでなければこの「プログラム」の持つ意味は何も無い。


「世界の中心」と言うよりは「世界の基部」に「忘却の海」はある。そしてそれを覗けるのは唯一つ「想像力」だけなのである。

Lest we forget


「寫眞週報」昭和13年(1938年)3月10日号 2-3p 内閣情報部


The single largest public relations campaign of the war centered on Army Day (10 March) in 1943, which was observed throughout the Japanese Empire with several events and the slogan, uchiteshi yamamu. Literally translated, the slogan means "Continue to Shoot, Do not Desist," but a more colloquial translation would be "Keep up the Fight" or "Stay on the Offensive."


David C. Earhart "Certain Victory: Images of World War II in the Japanese Media"


2008年に出版された David C. Earhart 著の "Certain Victory: Images of World War II in the Japanese Media" によれば、太平洋戦争戦時下の日本で最も有名なスローガンの一つ、「撃ちてし止まむ」のリテラルな英訳は "Continue to Shoot, Do not Desist" で、こなれた英訳は "Keep up the Fight"、或いは "Stay on the Offensive" になるという。

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参考:NAVER まとめ東京国際映画祭のとあるコピーがひどい」
http://matome.naver.jp/odai/2141435775617677101

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ニッポンは、
世界中から尊敬されている
映画監督の出身国だった。
お忘れなく。


Lest we forget; our nation
gave birth to some of the world's
most respected directors.


東京国際映画祭 TIFF TOKYO」のポスターの一部コピー文が炎上している。同様のコピー文は、「MR_DESIGN_twit」こと「中の人」の一人である佐野研二郎氏の上掲ツイートにある様に、黒澤明氏を起用した読売新聞全面広告にも使用された様だ(左下に小さめに)。同映画祭の全てのポスターがこれではないが、いずれにしても、日本語を母国語とする大半の人間にとっては、この英文は「装飾」以上「伝達」以下のものでしか無いだろう。


翻訳というのは面白いもので、曖昧な日本語では見え難かった事があからさまに明示的になってしまったり、翻訳者の視点というものが密かに紛れ込ませてあったりする。当然このポスターの場合は、日本語が先にあってそれを英訳したものだろう。しかし英訳は日本語の「至らない」部分を「補って」いたりする。


例えば英文順で書けば、日本語コピー文の「お忘れなく」の主語が何であるかが、多くは石に刻まれ「追悼」的な意味で使用される事の多いこの英語の慣用句 "Lest we forget" で明らかになってしまう。つまり日本語コピー文での「お忘れなく」の「中身」は、「俺達は(we)忘れないようにしような」という「頷き合い」であり、それはその様にただ単に日本人向けである言葉を「英語」の「形」にして「装飾」的に使用するといった、例えば日本国内専用車なのに「TWIN CAM」や「24 VALVE」や「GRAN TURISMO」をこれ見よがしに車体にプリントしていた時代、或いは近年でも佐藤可士和氏がセブンカフェマシンに「(R)REGULAR」や「(L)LARGE」をのみ記したドタバタと同じ、相も変わらぬ「日本流のデザイン仕事」の平常運転の内にある。


日本語の「出身国だった」は、"our nation gave birth" であり、そうなると日本国で生まれた全ての人間もまた "our nation gave birth" という事にはなってしまう。いや自分などは単純に "my mother gave birth" だと思っていて、従って "our nation" に産んでもらった認識は更々無いのだが、しかしそれは違うのだろうか。そして "our nation gave birth" とされてしまう全ての日本国出身者は、所謂「赤子(せきし)」と呼ばれるものに近いものという事だろうか。


日本語の「世界中から尊敬されている映画監督」は、英文では "some of the world's most respected directors" であり、"some of" が付加されているところが「ミソ」であろう。日本語に無かった "most" を付け足したのは、日本語を母国語とする人々への「サービス」かもしれないが、「some of」はそういう人達が結構見落としがちな「穴」である。即ち「世界中から尊敬されている映画監督の出身国なんて世界には掃いて捨てる程あって、ちっとも珍しくなんか無いんだよ。だから日本も(以下略)」という恐ろしい翻訳者のメッセージが、実は "some of" の語に隠されている事を示している。


この日本語のコピーを読んでいる日本人は、この日本語文によって鼻息も荒くなるだろうが、例えばこの東京国際映画祭のポスターは、やはり「撃ちてし止まむ」に "Keep up the Fight" と「カッコ良く」英語で併記してある様なものであろう。そして、その英語を読めない日本人は兎も角と言うか放っておいて、英語を読めてしまう英語の人は「あらあらまあまあ、うーん(以下略)」と思ってしまうというものであろう。"Fight" って誰が誰に "Fight" なんだよとか、誰が誰に呼びかけてんだよとか、そういう人は当然気になってしまうのである。



日本語コピーライターと、英訳者は違う人物であると想像される。"some of" と入れておきながら "our nation" や "most" を強調するという一種の分裂や、戦争による死を想起させもする "Lest we forget" という硬直した言い回しの使用は、出来上がった英文がこの上なく珍妙で且つアグリーに印象付けられる様に極めて自覚的に行われたものなのではないかと疑う事も可能だ。即ちこれは英語を話す人達に嫌悪に似た感情を起こさせる為の一種の「暗号」であり、それを読めない者にとっては、そうしたメッセージが浮上する事は無く、只々「かっこよすぎ」に映るのである。それはまた「監視」を掻い潜る有効な方法論でもあるだろう。

不在

1980年代の日本の「現代美術」が回顧される際に、それが1980年代の日本の「現代美術」として語られる事は些かも無く、しかし或る意味でその後の日本の「現代美術」に最も繋がる形で最も重要なものの一つは、赤瀬川原平氏だったと今でも思う。


1980年代の赤瀬川原平氏と言えば、雑略に言えば「尾辻克彦」と「超芸術トマソン」の時代なのだが、後者が1982年に発売された「写真時代1983年1月号」の連載「発掘写真」の「街の超芸術を探せ」の回で登場した時、それを見て単純に「やられた」と思った。この人は何でこんなにもスマートに事を運べるのだろうか。「育ち」の違いをまざまざと感じさせられた。


日本の1980年代「現代美術」に関して巷間言われるところは、相対的に「華やか」であるとかそうした類の形容であったりするが、しかしそれに対して総じて言えるのは、寧ろ「泥臭い」という事であり、また「自己承認」に対して何処かしら「物欲しげ」ですらある。所謂「1980年代の日本の現代美術」には赤瀬川原平氏の様なスマートな「育ちの良さ」は無い。所謂「1990年代の日本の現代美術」にも無いかもしれない。仮にスマートさを競おうとすれば、1980年代のあらゆる「日本の現代美術」のアーティストが束になって掛かっても赤瀬川原平氏には敵わないとすら思われる。


それ故に、この人はストンと生まれたかの様に見えるスマートな仕事にこそ、その才能が遺憾なく発揮される。やはり櫻画報よりも千円札よりもハイレッド・センターよりも、恐らくは赤瀬川原平氏は宇宙の缶詰の人なのだ。但し「現代美術(前衛美術)」の重力場の中の人であった1970年代までの氏の仕事を直接体験するには自分は遅く生まれ過ぎ、そうした「現代美術(前衛美術)」の人であった赤瀬川原平氏とその仕事は、既に「本の中の人」と「本の中の出来事」であったから、それらは自分にとっては何処かでリアルタイムのものではないし、やはりそれらはやがて氏自身が茶化しつつ離れる事になる「美術」であり過ぎる。


最早「美術」の重力圏から離れつつあった30代半ばの赤瀬川原平氏が、南伸坊氏、松田哲夫氏といった「モンガイカン」と共に、路上で「純粋芸術作品」に見えてしまう「物件」を発見する「現代芸術遊び」を行い、やがてそれは「分譲主義」という誇大妄想的な「冗談」へと繋がり、そして1972年(35歳。南氏と松田氏は25歳)に四谷祥平館に「保存」された「四谷階段」の「発見」に至った後、その10年後に「トマソン」という、これもまた人を喰った名称を付けられた「超芸術」の「提唱」へと至る。「ただそこに超芸術を発見する者だけがいる」。1982年の自分にとって、アクチュアルな意味を持つ存在としての赤瀬川原平氏は「トマソン」から始まる「ごっこ」と「冗談」と、そして「周辺」の人であった。当時「ハイレッド・センター」と「トマソン」を比べて、より「拡がる」可能性を感じられたのは後者だった。そして尚も言えば、氏は「トマソン」によって、「作り出す」事から「見い出す」事へのパラダイム転換を切り拓いたパイオニアの一人であったのではないかとも思っている。


実際、現在を起点とする通史的な意味で、1980年代の日本の現代美術に重要な存在は、実は赤瀬川原平氏だったのではないかと、例えば冨井大裕氏の「今日の彫刻」の様な「仕事」を見ているとそう思えて来たりもする。現在の日本人作家の「作らない」系譜の作品には、1970年代以降の赤瀬川原平氏という「水脈」も少なからず関係しているのではあるまいか。「美術手帖」的な史観からすれば、赤瀬川原平氏は「1960年代美術」の人でこそあれ、「1980年代美術」には掠りもしないとされているが故に、1980年代には同時代的な意味を持つ「アーティスト」としては誌面に登場しないが、しかし恐らく氏のこの「トマソン」こそが、今日に「繋がる」形での1980年代日本現代美術最大のエポックの一つなのではないかと思える。


生徒たちとじっさいに町へ出て、壁や電柱にあるビラ、ポスター、標識、看板といったメッセージ類の観察をはじめ、それが横道にそれて現代芸術遊びが生まれる。つまり路上に転がる材木やその他日常物品の超常的状態、道路工事の穴や盛り上げた土や点滅して光る標識などを見て、「あ、ゲンダイゲイジュツ!」と指でさす。これは概念となってなお画廊空間で生きながらえる芸術のスタイルへ向けたアイロニーでもあった。その延長線上で、一九七二年、松田哲夫南伸坊とともに四谷祥平館の側壁に「純粋階段」を発見し、そこから「超芸術」の構造が発掘されて、後に「トマソン」と名付けられることとなる。


赤瀬川原平路上観察学入門」


The whole city was a Thomasson. Perhaps America itself was a Thomasson.
(このサンフランシスコ市全体がトマソンだ。いや、恐らくアメリカ自体がトマソンではなのではないか)


"Virtual Light" William Gibson


そして今、1990年代の赤瀬川原平氏が自分にフィットし始めている。「美術」の人間が最早誰も注目しなくなった、あの1990年代の赤瀬川氏である。その生涯の前半の部分=「前衛芸術家」に「美術」の人の多くは赤瀬川原平氏の価値を見るだろう。しかし今の自分にとっては、後半の部分こそが重みを持っているのである。


赤瀬川原平氏はマルセル・デュシャンの正統的な系譜の上にあるという評もある。趣味に生きた1990年代以降の氏は、後半生にチェスに興じたデュシャンを彷彿とさせるかもしれない。それが当たっているか当たっていないかはどうでも良い話だが、但し赤瀬川原平氏による大仕掛けの「遺作("Étant donnés : 1° la chute d'eau, 2° le gaz d'éclairage")」は見たくない気がする。


Tumblr の "Hyperart: Thomasson /unintentional art created by the city itself"。ここは「作者の不在」によっても生き続けるものにはどういった可能性があるのかというヒントの一つを与えてくれるだろう。


http://hyperartthomasson.tumblr.com/