あなたの本当の家を探しにいく/ムーミン一家になって海の観音さまに会いにいく:キャラクラッシュ!

先月中旬、キャラクターが登場する展覧会を東京で見た。湯島の「キャラクラッシュ!」には行った。しかしここで最初に記述するのはそれではない。

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決して大きいとは言えないギャラリーで行われていた「あなたの本当の家を探しにいく/ムーミン一家になって海の観音さまに会いにいく(リンク先 pdf )」と題されたその「個展」を見終わったのは、ギャラリーに入ってから2時間以上後の事だった。それでも決して全てを「見た」とは思えない。それ程に「ボリューム」のある「展示」だったと自分には感じられた。映像が多い事から、時間を多く取られるという面がある事は否定しないものの、一方で「一つ」の「歴史」と、「一つ」の「人生」と関わるものの、圧倒的過ぎる程の「ボリューム」とその「近さ」が、この「展示」を単なる「見物(けんぶつ)」としての展覧会以上の、立ち去り難いものとさせていた事に疑いは無い。他方で、その「ボリューム」と「近さ」は、この「作者」の「作品」の方法論にも影響を与えているという印象も受ける。


その「展示」空間は「二つ」の「部屋」で構成されていた。「二つ」の「部屋」を極めて細い「通路」で繋ぐ形になっていた同「展示」は、ギャラリーに入って「最初」の部屋に幾つかの古い写真と、二つの映像と、一つのスライド投射と、その他があった。映像の一つが投影された壁の後ろからは、「もう一つ」の部屋のものであろうアニメ主題歌が時々聞こえて来る。しかしそれは明らかにプロの歌声ではない。その歌に引き込まれる気持ちを抑え込み、「最初」の部屋の展示物へと入り込んで行った。


古い写真にはモダンな「外観」を持つ「病院」の建物が写っていた。これらが建てられた当時、それは周囲の田園的な環境とは極めて不連続性を伴う形で「近代」を感じさせるものであっただろう。建物というのは常にそうだが、その「外観」は「外部」からそれを見る者の為のものだ。そこに住まう者にとっての建物は、その「内部」こそが優先的に記憶される。それは例えば、自分が住む、或いは嘗て住んでいた家の「外観」は、他人の家程には正確に思い描けなくても、その「内部」である間取りは大抵誰でも描けてしまうというところに現れる。当然この建物の「外観」もまた、「外部」からそれを見る者に「近代」を感じさせる様にデザインされていると言える。


同展には直接関わりが無いが、「野と田と藪のみ(斎藤茂吉)」だった東京府赤坂区青山南町五丁目八十一番地(現・東京都港区南青山4丁目17)に嘗て存在した「仏国巴里に於けるアルグアイチ、ホスピタールに模型を取り、羅馬式脳病室十七室を有する」威容を誇っていた「名所」の建物もまた、この展覧会の写真に写された建物と同種の施設であった。それらは1950年代まで続く「私宅監置」という「前近代」的な「この病を受けたるの不幸のほかに、この国に生まれたるの不幸(呉秀三)」から、これらの建物がそれぞれの意匠で表現しようとする「近代」によって開放されるかの様に、その建物を「外部」から見る者の目には映る。伝統日本的な建築語法では、「前近代」的な精神医療との不連続性を「表現」出来ない。或る意味で、精神医療もまた「西洋に追い付け追い越せ」的な構図の中にあった。


「最初」の部屋に流されていた映像の一つは、そうした施設の「内部」を描写した無声映画衣笠貞之助の「狂った一頁」(1926年)だった。


(映像中の音は村岡実、倉嶋暢両氏によるもの)


その時,東京の松沢脳病院で取材した記憶は今でも鮮明だ。幾棟かに隔離された病棟には,施療あり,重患あり.水風呂に入っている者,一糸まとわぬ若い女,鉄板の個室の真中に突っ立って,虚ろな眼で空間を見つめている老女.自分の糞尿に,細かく引き裂いた浴衣をかけ,小切れで隅々まで拭き掃除している男.大の字に寝ている者.封筒をそ知らぬ顔で貼っている者,個室の中を,何か口走りながら歩き廻っている者など,気の毒で,二目とは見られなかった.当時,有名な誇大妄想狂,葦原将軍は,2,30人もいる大部屋の隣の3畳で4,5匹の子猫を飼っていた.


衣笠貞之助岩波ホール「エキプ・ド・シネマ 第5回ロードショー」パンフレット p.30 1975年


殆どが京都下賀茂の松竹撮影所内でのセット撮影であった同映画に於ける例外的なロケ地の一つは、撮影所から数キロ北にある京都府岩倉村大字岩倉小字上蔵町(現・京都市左京区岩倉上蔵町)の「岩倉病院」であったとも言われる。


古昔ハ観音堂前ニ籠堂ナルモノアリキ。患者ハ此ニ療養シ、附近ノ宿屋ニ飲食ノ供給ヲ受ケシカ、便宜ノ為メ漸次宿屋ニ宿泊スルコトトナリ、遂ニ農家ヘモ寄寓スルニ至レリ。…(中略)而シテ其療養方法トシテ、観音堂ノ閼伽井水ヲ服用シ、或ハ瀑布ニ冷却シ、時ニ観音堂ノ幽静ニ起臥シ、或ハ田圃間ニ逍遙シ、自適ノ運動ヲ為シテ精神ノ静養ヲ専一トナセシ。


「岩倉村史」



与謝蕪村「岩くらの狂女恋せよほととぎす」


10世紀に創建された大雲寺に始まる「精神障害者治療」の「伝統」が非常に色濃かった岩倉の地を、ロシア(ラトビア)の精神科医ヴィルヘルム・スチーダ(Wilhelm Stieda)が訪れ、"Familienpflege(家庭看護)" という形態上の類似点から "In diesem Dorfe — einem japanischen Gheel — werden schon seit mehreren Jahrhunderten Geisteskranke verpflegt(この日本のゲールとも言える村では、数世紀もの間精神障害者のケアを行って来た)" と、岩倉病院院長・土屋永吉の期待するところ(西洋の最先端と比肩し得る精神医療)を半ば条件付きの形で論文("Ueber die Psychiatrie in Japan")で評してしまったものの、しかしその実際は必ずしもゲールのそれと様々な意味で同列視すべきものでは無かった。そしてまた、衣笠貞之助が「狂った一頁」の舞台をサーカスから脳病院に変更する切っ掛けになった、呉秀三による改革後の「東京府松澤病院」で見てきたものとも、京都のそこは様々な意味で違っていただろう。


この映画に「病院」の建物の「外観」が登場する事は、「外部」の者(小間使いの娘)が登場するシーンを除いて稀だ。一見「外部」の様に見える劇場の舞台も福引場も全て「内部」に閉じ込められていて、映画は「内部」が入れ子状態になった世界ばかりが続く。その「内部」を判り易く「説明」するのは、無声映画の場合「字幕」であったりする訳だが、それが横光利一の示唆によって省かれたのは極めて「正しい」選択であったと言える。


1926年の武蔵野館での初演時では、同館上映に力を貸した徳川夢声が同映画の弁士を務めているが、本来的には「字幕」も「活弁」も「劇伴」も必要の無い映画ではある。徳川夢声のそれは「ストーリーもその解釈も観客の自由の余地を大幅に残しておきながら、衣笠の画面の雰囲気を盛り上げアクセントをつけ、見終わった後何か納得がいくという離れ技をやってのけた。観客は何かわかったような気がして館を出ていったのだ。夢声新感覚派的映画説明であった(衣笠貞之助「わが映画の青春 日本映画史の一側面」)」というものだったと監督自身が報告している。但しここでの「何か納得がいく」や「わかったような気」というのは両義的かもしれない。それが「拒む」形のものであれ、「壊乱」する形のものであれ、「字幕」や「活弁」や「劇伴」は、「解釈」を前提とする「説明」の重畳性と切り離せない。同展示ではこの映像に新たに「劇伴」を付けるという「無声映画にまつわるいくつかの共同制作とワークショップの記録」の形での上映となっていた。


映画の中に出て来る「中庭」は自分にとって懐かしい風景だ。40年近く前のあの日、質問を受けていた部屋の窓外に見えていたのもまた、これとそっくりの光景だった。

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「最初」の部屋のもう一つの映像は、医学史研究者(慶應義塾大学経済学部教授)の鈴木晃仁氏へのインタビュー「hidden names」だ。同インタビューの骨子は、氏のこの調査研究に基づくものとなっていた。


戦前の日本において最も先進的な精神病院であった王子脳病院(小峯病院を含む)のアーカイヴに保存されている患者記録を組織的にデータベース化したうえで、患者動態の研究を行った。(略)


この研究から明らかになった日本の精神病院の姿は、これまでの多くの思い込みを訂正した。その中でもっとも重要なものは、在院期間、すなわち患者はどのくらいの期間にわたって病院に滞在したのかという問題である。王子脳病院の私費患者については中央値でいうと40-45日という、諸外国の対応する数字よりもはるかに短い数字が得られる一方、公費患者については、同じく中央値で計ると700-900日という、諸外国よりも長い数字が得られた。公費患者については、治療を目的とした医療というより療養と監禁が目的になっていたことが伺われる。一方、私費患者に対しては、当時の最先端の医療も活発に行われており、先端医療をインテンシヴに実施して退院させるという、治療を中心にしたパターンが現れていたことが伺える。その一方で、必ずしも厳密な意味で精神病患者とはいえない家庭の中で問題的な行動を取るものを懲罰的に短期間入院させる例も少なからず存在したことも付言されなければならない。


在院期間を疾病分類別に見ると、予後が悪く慢性化しやすい精神分裂病は在院期間が長く、急性的な経過を辿るものについては在院期間が短いという、予想される結果がでた。それよりも興味深いのは、男女による在院期間の違いである。同じ疾病分類の中では、男性は在院期間が長く、女性は短い傾向が観察される。このことと、男性の入院患者は女性の2倍近い、ということなどを合わせて考えると、女性の精神病患者は、家庭でケアされる可能性がより高かったと考えられる。


「戦前期日本の精神医療における病院と家庭の役割の研究-王子脳病院を中心に」
https://kaken.nii.ac.jp/d/p/14572136.en.html


インタビュアーとインタビュイーが音声のみで登場するこの映像の中には「作品」という言葉がしばしば現れる。それが独立した言葉として最初に登場するのは、鈴木氏が発したこのセンテンスである。それは脈絡無く唐突に出現する。


「しかしながら、私たちからみますと、最も重要な患者の作品は、医者の質問に答えることだと思います。どういう意味かといいますと、ちょっと想像してみてくださいな、あなたが、そこで寝泊まりして食事をして生活できる施設に暮らしているとしましょう。(中略)…そこに、毎日医者がやってきて、あなたは今日どのように感じますか、あなたは今日どのような精神状態ですか、どんな夢を見ましたか、そういったことを毎日聞かれて、毎日答えなければならない。そのときに、あなたはどのような人ですか、あなたの中には何が現れていますかという質問に答えているわけです。」


飯山由貴「展覧会のためのノート(以下「ノート」)」より
http://shop.waitingroom.jp/?pid=81053683


鈴木氏の「作品」の話は続く。


「(略)…ある患者は、医者に聞かれたときに、『先生ちょっと待ってください、私の話をきいてください』と言って、(中略)…自分の人生を語り、そして自分がどのように悩んできたかということを、非常に長い記述にして答え、(中略)…あるいは別の患者の例ですが、10ページ以上にわたるような長大な手紙を医者宛てに書きまして、かくかくしかじかの人生を生きてきて、かくかくしかじかの理由で自分の精神は乱れていると書き、それが症例誌に挟み込まれています。こういった患者は、特色豊かな作品を作っている例だとおもいます。」


「逆に、自分が作品化されることを頑強に拒む患者もいました。その患者はあえて質問に答えない。あるいは、症例誌に記入されることに対して「そんなふうに記入しないでくれ」という。これは自分の言葉が記録されることへ非常に厳しい批判であると思うんですね。作品化されることに対して、はっきりとノーと言っている。このような、自ら積極的に作品をつくる患者もいれば、それを拒む患者もいるという、おもしろい仕組みになっていると思います。」


「私がかつてもっていた漠然とした印象としては、精神病院というのは患者をそのなかにぶちこんで黙らせる空間なんだと思っていた部分もあります。(中略)…患者の姿を、社会や共同体や、あるいは患者の家庭から消すということもあります。しかし、精神病院はひとつの立派なミニチュアの社会である。そして、先に触れたように、そこでは毎日、あなたはどうですかということが積極的に問われている。その意味で、むしろ患者に、自分に関することを言わせる、自分はどういう人間であるのかということを積極的に言わせるという機能をもった空間ではなかったかと思っています。」


「(略)…精神病院の中では、たくさんの事柄が語られました。それに耳を傾けることは有益です。ただ、われわれが気をつけなければならないのは、そこで患者が語る言葉というのは、精神病院の外になかなかでていかなかった言葉であるということです。」


「ノート」より


「作品」という言葉は、インタビュアーが「アーティスト」であるが故に出てしまった言葉だろうか。但し「作品」という概念は、しばしば疎外(Entfremdung)の対象としてあるものだ。果たして言葉を「作品」化するのは「誰」なのであろうか。少なくともそれは「医者や患者、あるいは看護人」に一意的に帰されるものではない。そこでの「作者」は事後的に "discover" される「設え」でしかない。

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自分の身体の上に、鉄格子の中の南栄子嬢を浴びつつもう一つの部屋に入る。


なんか ムーミンが よんでるのね 私を


ムーミンたちが、ムーミンとかフローレンとか、リトル・ミイとかスナフキンとか
ムーミンパパ、ママとか、スニフとか、とにかく全員ね ヘムレンさんもそうなんだけど
スノークも、スノークのおじょうさんも とにかくムーミンの世界の人たちが私を
よんできたのね 「おいで」って わたしがつらかったのをたすけたがってたのかも
わからないけど わたしがたすけをもとめてったんだよね そういう架空、そういう、
現実にはないけど、本当はいないんだけど、そういうキャラなんだけど、
わかってるんだけど、ムーミンは、海の神さまのところにいこうよって
ふだんにもどると、早川の海と北欧の海はぜんぜんちがうってわかるんだけど
ムーミンたちが、海の神さまにおいのりをしにいこうよって びょうきっていうより
ざんねんだった いけなくてざんねんだった 実際ムーミンたちはいないけど
声は聞こえてたから、海のかみさまにおいのりして、そしたらムーミンパパが
つくった船でフィンランドにいこうよって つなみにおそわれないように、とか
つなみのような大波、フィンランドまでぶじにたどりつけるように おいのりしてからいこうね


わたしはそのとき、お母ちゃんやお姉ちゃんがいる世界にいなかったの
体は、この家にいたけど、心はちがうところにいて もう旅に向かってたの


「ノート」より


「あなたの本当の家を探しにいく」と「ムーミン一家になって海の観音さまに会いにいく」を始めとする「家族の記録」の部屋。但し相対的に "hidden" のままであった可能性もあるこの「家族の記録」は、広く公開される事が何時からか決定していた。公開されれば「作品」として対象化もされる。


2014/8/25
our own words.
アイヌの血が入っている人のtogetterまとめ(8/20の時点では)は、こんな内容で終わっていた
いつまた差別が許容される時代がくるかわからないから、自分にアイヌの血が流れていることは決して口外しない
自分がしていることは愚かなことなのか、この展示をする行為によって
わたしの親類のだれかに不都合なことが起きるのだろうかと思う。まったく起こらない、といいきれない、ことが不安だ。
彼女も、母も、最近はこういうことはオープンになってきているから、病気の理解がこれで進むなら、と承認してくれている
でももしかしたら甘い考えなんだろうか
この社会は、いまはすこしは寛容かもしれないが、「これから」のことは誰にも何もわからない
これから先もなにも、起こらないことを願うなら、なにもなかったふりをして、家の中のことは隠して、家と病院のやりとりの中で、
ことは進んでいくんだろう。


「ノート」より


永遠に "hidden" であり続けていたかもしれないそれは、「作品」の為に存在する空間(「waitingroom」)で、やはり公開されるに至った。「作品」の為にある空間であれば、それを「作品」として見るのは当然の事であろうか。即ち「評価」の対象として。しかしここでも、そしてだからこそ「誰」の問題は付き纏う。


以前の同作者の展覧会であれば、例えば「手編みのタペストリー」の様な、「作者」の「表現」である事を疑う余地が無さそうな「作品」が存在していたものだ。今回の「あなたの本当の家を探しにいく/ムーミン一家になって海の観音さまに会いにいく」展では、そうした「表現」=「作品」を、目立った形で見る事は出来なかった。それは「作品」という制度的な構えが、否応無く疎外(Entfremdung)的なものとなってしまう事に、「表現者」であると同時に(それ以前に)「当時者」となってしまった作家自身が直面してしまった(せざるを得なかった)事にあるのではないかとも想像される。


場合によっては、この展覧会に於いて、こうした「作者」や「作品」に「なり切れない」ところを難ずる視点はあり得るかもしれない。しかし本展はそうした「作者」や「作品」への「なり切れなさ」こそに最大の可能性を感じさせるところがある。寧ろ展覧会というものの本来的な形は、「作者」とされるものを「資料」化するものではないだろうか。展覧会は「作者」が「資料」の一つになる覚悟を迫られるところだ。その意味で、この「展示」は、美術館でのそれというよりも、博物館のそれに近い。本展に対するギャラリーの紹介文の中に「インスタレーション形式で展示」という言葉が見られた。しかし「博物館」の展示を「インスタレーション」とは呼ばない様に、恐らくこの「展示」にも別の呼称が必要なのかもしれない。


映像の中には「ムーミン一家」の回りを飛び回って撮影する人間が写り込んでいる。それは「表現」という行為のあり方を示すものにもなるし、一方でそれが「表現」として存在する事の証明にもなる。恐らくこうした写り込みによる「表現」行為そのものの可視化が、この展示にどうしても必要な要素である事を作家は知っている(と、その様に自分は「作品」化する)。それはミシェル・フーコーが「作品」化したディエゴ・ベラスケスの「ラス・メニーナス」よりも「切実」な写り込みだ。


映像中のキャラクターの着ぐるみは見ようによっては無残であったりする。しかしその無残はまた「無残であるが故に良い」や「無残であるが故に悪い」といった「評価」の対象に出来るものではない。着ぐるみはコスチューム・プレイに見えるものの、それは「プレイ」ではない一方で、同時に「プレイ」だ。「偽物」の様に見えるものが「本物」であったり、「本物」であると確信されているものが「偽物」であったりするところで、それはただその様にして存在するものとして「観客」の前に現れる。


「症例集」から「作品」を導き出す様に、「観客」はそうした「資料」から何かを読み、そこから自分の「作品」を仕立てなければならない。この「個展」に対するネット上での反応は、勿論「たいへんよくできました」的な「評価」が無いでは無いものの、しかしその多くは「展示」で提示された「資料」から、それぞれの「作品」を作り上げていた印象を持つ。一方で、作者は伝統的な意味での「作者」を100%体現していた訳では無かったが、しかしその事で寧ろこれまでのものとは別の〈作者〉のポジションがあり得る事を示唆的に示していたとも言える。それらの意味で、本展は「展示」として「幸福」なものではなかっただろうか。

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その翌日に「キャラクラッシュ!」に行った。前日にそうしたものを見てしまったのと、展示を専らとする空間ではなく、家に上がり込む形であった事が相俟って、それは作品としてよりも「資料」として自分の中に入って来た。


キャラクターを何かの「表象」として見れば、紋切り型でキッチュな貧しいイメージでしかないだろう。キャラクターの力は、そのような表象のシステムからズレた場所に宿っている。


キャラクラッシュ!
Written by カオス*ラウンジ


http://chaosxlounge.com/archives/1347


その一文を蝶番にして、昨日の「ムーミン一家」が自分の中で「キャラクラッシュ!」と重なり合った。


……そういう架空、そういう、現実にはないけど、本当はいないんだけど、そういうキャラなんだけど、わかってるんだけど……


前掲「ノート」より


家(「カオス*ラウンジ アトリエ」)という空間の中で、媒質的に働く「ムーミン一家」と重ね合わされた「カオス*ラウンジ」は、初めて自分の中で「膨らんだもの」として実感された。