OBJECTS IN MIRROR ARE CLOSER THAN THEY APPEAR

【告】


2014年11月の前回の記事から3ヶ月半以上が経過した。それを「【続く】」と締めた様に、その記事に続く文章は用意されていたし、今でもローカルマシンとクラウド上には、それをリリースしようと思えば可能な形で留め置かれている。2014年12月から2015年3月の間までに何回も書き直されたそれがリリースされなかったのには自分なりの理由があるが、その理由については、これからアップする数本の記事の後にリリースする「【承前】」から始まる記事で触れる事になるだろう。

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【OBJECTS IN MIRROR ARE CLOSER THAN THEY APPEAR】

 
なかま あつめ
 
かすたねっと けんだま たんばりん まらかす こま たいこ じしゃく とらいあんぐる らっぱ おりがみ ばいおりん おままごと えのぐ ぎたー ぬいぐるみ もっきん
 
どうぐ は ぜんぶ で いくつ あるかな?
あそび どうぐ は ぜんぶ で いくつ あるかな?
がっき は ぜんぶ で いくつ あるかな?
 
http://print-kids.net/print/sansuu/nakama-atsume/nakama-atsume-group7.pdf (PDF)
ぷりんときっず「グループ集め7」
 

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OBJECTS IN MIRROR ARE CLOSER THAN THEY APPEAR
Curator:Arata Hasegawa
 
「視野の縁でなにが起きているかを知っているだけでは、我慢できなくなりかける。目にはいる部屋の光景はつねに一分の隙もなく、それがまた衝動を煽った。ここまで来ると強迫観念だ−−どんなに早く首をまわしても、まわりで起きていることはこれっぽっちもわからない…。」
グレッグ・イーガン順列都市
 
「彼は目を上げて、その翼あるものを見た。見たと言っても両の目にあふれていた玉葱の涙を通してで、したがって数瞬のあいだ突っ立って見つめていたのだった、 なぜならば涙のために奇妙なレンズを通して見たみたいにそれの輪郭がふくれ歪んでいたからで、睫毛が乾くようにと目をすがめた、そしてあらためて見つめた。」
アントニオ・タブッキ『ベアト・アンジェリコの翼あるもの』
 
「舞台の上では行為が演じられるか、それとも、おこなわれたことが報告されるかの、いずれかである。」
ホラーティウス『詩論』
 
 
タイトルとなっている英文は、アメリカ、カナダ、それとインドを走る乗用車のサイドミラーについている警句だ。
 
「鏡ごしに見えるものは、見かけより近くにある」
 
そのことばには確かにソリッドな感覚がある。速度を伴っている。
ちょっとした重力も感じることができる。
生死に肉薄した、物質的でミニマルな警句。
そこから、「鏡ごしに」という部分を削り落とす。
 
本展は7名の作家の、展覧会だ。
荒木悠、上田良、折原ナナナ、柄澤健介、小濱史雄、佐伯慎亮、末永史尚。
僕はここで頻出する修辞を用いることを執拗に拒む。
 
よくある修辞1。「彼らは一見すると全く異なる作風です。しかし−−」
よくある修辞2。「−−という素材/メディウム/ジャンルの独自性を追求し」
 
私たちは互いの「近さ」をもっと許容しても良いのではないか。
あるいは今観ているそれが別の似たなにかであり得ることについて、考えを巡らせてみることができるのではないか。
 
だからこの展覧会は、「近さ」について考えられるようにした。
作品は伸びたり縮んだりするし、展覧会ですべてを見せる必要もない。
もとよりそれは、絶えず遅れている。
 
展覧会は鑑賞者の少し後方を走っている。(行き先は異なれど少なくとも今は同一方向に)
鑑賞者は鏡ごしにそれを見る。
それは見かけよりもずっと、近くにある。


http://thethree.net/exhibitions/2111


大阪の “the three konohana" で1月10日から3月1日まで行われていた展覧会、“OBJECTS IN MIRROR ARE CLOSER THAN THEY APPEAR"。同展キュレーターの長谷川新氏は、そのイディオムの "IN MIRROR" に抹消線を引いた。であれば、“IN MIRROR" を消去した "OBJECTS ARE CLOSER THAN THEY APPEAR" でも良かったのだろうか。


しかし展覧会は「絶えず遅れている」。従って「遅れている」事を示すには、抹消線がそこになければならない。“IN MIRROR" はその抹消線ごしに見えていなければならない。抹消線ごしに見える鏡ごし(IN MIRROR)は、遠ざけられた見かけより近くにある。それ故に鏡ごしIN MIRROR)という、それ自体が反射であるものについて書かなければならない。


このレビューもまた大いに遅れている。そもそも "Review" という語自体が「遅れてー見る」ではある。レビューは遅れる。但し遅れたレビューは、次なるビューの前に常に存在している。事後的なものは同時に事前的でもある。

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自動車の登場時期とバックミラー(Rear-view mirror)の登場時期には少なからぬタイムラグが存在する。ニコラ=ジョゼフ・キュニョーの蒸気自動車が登場したのは1769年。カール・ベンツ、及びゴットリープ・ダイムラーによるガソリン自動車の登場は1886年である。しかしそれらの発明品にはまだバックミラー(Rear-view mirror)は装備されていなかった。伝統的な馬や馬車、そして歩行者がその存在を必要としなかった様に。


欧州や米国に於ける本格的な自動車大量生産が始まったのは1900年前後からだが、それでも暫くはバックミラーは運転上不可欠とされるデヴァイスとしては人々に認識されていなかった。資料で辿れる最も古いバックミラーに関する記述は、女性が運転する事自体が珍しかった時代に、女性による女性向け運転指南ハンドブックとして1909年に刊行された “The Woman and the Car” 中にあるとされている。女性レーサーの先駆けであり、“The fastest girl on Earth"(「地球上で最も速い少女」)とも称された Dolothy Levitt (ドロシー・レヴィット) 著の同書には、(化粧用)手鏡を高所に固定すれば後方確認に役立てる(“carry a little hand-mirror in a convenient place when driving [...} hold the mirror aloft from time to time in order to see behind while driving in traffic")と記述されている(その一方で女性ドライバーの安全の為に、リボルバーを携行せよとも)。


その後バックミラーは、1911年の第1回インディ500マイルレースに於いて、出場車の内の一台―― Marmon "Wasp"(マーモン「スズメバチ」)の運転席前に高く備え付けられたものが、広く公開された最初のものになった。そのマシンは掟破りの設計をされていた。単座だったのである。当時のレースマシンの標準は複座だった。それはライディング・メカニックが常に助手席に座っていなければならないとされていたからだ。ライディング・メカニックは、レース中のマシントラブルやタイヤ交換に対応する為に競技車に同乗するというのが本来の役割であるが、その一方で首を後ろに向けられないドライバーに代わって後方から接近して来る他車の様子をドライバーに知らせるという役割もあった。



単座の Marmon “Wasp" に対して、周囲の状況把握が出来ない為に危険であるというクレームが、他の参加者から出された。そのクレームに対し、ドライバーの Ray Harroun(レイ・ハルーン)は、バックミラーを装着する事で対応する。平均時速74.6マイル(約120キロ/時)で「高速」移動するマシンの運転席から、ほんの少しだけ鏡ごしに後方を見れば良い。ハルーンは、同様の目的で馬車(相対的にレース車よりも極めて「低速」)に取り付けられていたものを1904年―― “The Woman and the Car” 刊行の5年前――に自ら目撃した体験からそのアイディアを得たと主張している。果たして空力的にも重量的にも有利な Marmon “Wasp" は優勝し、ハルーンはインディ500マイルの初代ウィナーとなる。そして翌年の1912年からは、走行距離100マイル以上のレースでは、ライディング・メカニックを必ず同乗させなければならないというレギュレーションに変更され、アメリカに於いては1930年代まで継続される事になる(ヨーロッパのグランプリは、同乗者の安全上の理由で――前年のグランプリでライディング・メカニックの死亡事故があった為に――1925年にそれを禁止する)。


Marmon “Wasp" にバックミラーが必要になったのは、それが単座=一人で乗るものだった事による。そして “The Woman and the Car” に於いて「鏡」の有用性が説かれるのも、女性が一人で車を運転し移動する――後方の状況を知らせてくれる者が乗車していない――というケースが現れて来たからだろう。移動の主体=単独者としての運転者は、テクノロジーが開いた「速度」によって明らかになった自らのフィジカルな限界(後方を見ながらの「高速」の運転は、前方視界を毎秒数十メートル分失う)を補完する者を助手席に載せていない為に、前方を見る事を防がない小さな鏡に同乗者(複数の主体)の不在を埋める役割を委ねたのである。


更にバックミラーという存在は、複数の速度が混在するトラフィックに於いて、その必要性の多くが求められる。自分の速度よりも相対的に速い者が存在しなければ――そして自分を追い越して行ける様な空間上の余裕(複数車線等)が存在しなければ――バックミラーという存在はほぼ無意味である(バック走行時等は別)。バックミラーの事実上のデビューが、速度をして優劣を決定する場所――従って十分過ぎる程の道幅を備えている――であるインディ500マイルという自動車レースであった事は、バックミラーという存在を考える上で極めて示唆的だ。

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“OBJECTS IN MIRROR ARE CLOSER THAN THEY APPEAR" の警告文については、アメリカの「国家交通並びに車両安全法」("National Traffic and Motor Vehicle Safety Act")の「連邦自動車安全基準」("Federal Motor Vehicle Safety Standards": FMVSS) のセクション571.111 S5.4.2に、以下の様に定められている。


§ 571.111Standard No. 111; Rearview mirrors.
 
S5.4.2Each convex mirror shall have permanently and indelibly marked at the lower edge of the mirror's reflective surface, in letters not less than 4.8 mm nor more than 6.4 mm high the words “Objects in Mirror Are Closer Than They Appear.”
 
各凸面鏡には、永続的かつ消えない様に、4.8ミリ以上、6.4ミリ以下の高さを持つ文字で、鏡の反射面の下縁部に「鏡の中にあるものは、その見た目以上により近くにある」と記されていなければならない。


http://www.gpo.gov/fdsys/pkg/CFR-2004-title49-vol5/xml/CFR-2004-title49-vol5-sec571-111.xml


この警告文は助手席側のドアミラーに記されている。それと言うのも、この警告文をドアミラーに刻んでいる国の助手席側のミラーの多くは "convex mirror(凸面鏡)" であり、他方運転席側のミラーは “plane mirror(平面鏡)" であるからだ。これは安全上の二律背反とでも言うべきもので、凸面鏡によって「広い視野」を獲得する事と引き換えに「正確な距離感」を失うというトレードオフなのである。“OBJECTS IN MIRROR ARE CLOSER THAN THEY APPEAR” の警告文は、それによってもたらされる視界が、「背反」する「二律」のどちら側に属するものかを明らかにする。


ここでバックミラーが、助手席に座った状況報告者の代用である事を思い出したい。バックミラーが存在しなかった頃の車内――或いは自動車レースのそれに限っても――では “passenger seat(助手席)" に座る者が、後方の状況を言葉にする事で伝えていた。果たして「言葉ごしに受け取る報告は、言葉から判断されるものより近くにある」だろうか。そもそも「言葉」それ自体が、「正確な距離感」の為のものではなく、ものごととものごとの距離を操作する事で「広い視野」を獲得する為のものであるなら、凸面鏡は「視覚的」なものである以上に「言語的」なものであるのかもしれない。従って凸面鏡(言語)は平面鏡(視覚)から常に遅れている。所謂ナルシシズムは、「(私の)視覚」の連続的な延長と見做されてはいない凸面鏡(巨大水滴)では決して生まれる事は無い。凸面鏡が与える光景は、「私」に遅れる(或いは先んずる)為に、「(私の)視覚」と不連続な関係にある。



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「なかま あつめ」。これ自体が「呪いの言葉」だった。「かすたねっと」と「けんだま」と「たんばりん」と「まらかす」と「こま」と「たいこ」と「じしゃく」と「とらいあんぐる」と「らっぱ」と「おりがみ」と「ばいおりん」と「おままごと」と「えのぐ」と「ぎたー」と「ぬいぐるみ」と「もっきん」が、「用」から抽出され「物」となり、その上で「どうぐ は ぜんぶ で いくつ あるかな?」「あそび どうぐ は ぜんぶ で いくつ あるかな?」「がっき は ぜんぶ で いくつ あるかな?」という「呪いの言葉」を投げ掛けられる事で、子供は「どうぐ」「あそび どうぐ」「がっき」というそれぞれの「近さ(なかま=カテゴリー)」を突き付けられ向き合わされる。しかしその結果、或る子供が「けんだま」を「がっき」の「なかま」に入れる事を、「呪いの言葉」自体は防ぐ事が出来ない。「呪いの言葉」は「解答」を示さない。寧ろ「呪いの言葉」が発せられる事によって、初めてそこで「けんだま」を「かすたねっと」と同じ様な「用」として認識している主体が前景化するのである。「なかま あつめ」という「呪いの言葉」の下では、“table de dissection(解剖台)" も “machine à coudre(裁縫機械)" も “parapluie(雨傘)" も、「かすたねっと」と同じかもしれない。


“OBJECTS IN MIRROR ARE CLOSER THAN THEY APPEAR" 展。「呪いの言葉」は「近さ」。そして消された "IN MIRROR" = "IN MIRROR" もまた「呪いの言葉」である。その "MIRROR" は “PLANE MIRROR(平面鏡)" ではなく “CONVEX MIRROR(凸面鏡)" だ。“IN CONVEX MIRROR(凸面鏡ごしに)" に引かれた抹消線。その抹消線は「呪い」によって仕掛けられた反射面。それによって凸面鏡は鏡のこちら側にリフレクトされる。「凸面鏡ごし」に見る展覧会。キュレーションこそは呪術であり、呪術たる事を行わない者はキュレーターではない。


凸面鏡の中の「荒木悠」と「上田良」と「折原ナナナ」と「柄澤健介」と「小濱史雄」と「佐伯慎亮」と「末永史尚」。従って観客が見ていたものは、この様に「平面」上に解像したものではない。



こうしたものを、観客の多くは “the three konohana" の会場で見たのである。



凸面鏡(それ自体もまた「呪いの言葉」によって生じる)の中で、「荒木悠」は「荒木悠」である事を、「上田良」は「上田良」である事を、「折原ナナナ」は「折原ナナナ」である事を、「柄澤健介」は「柄澤健介」である事を、「小濱史雄」は「小濱史雄」である事を、「佐伯慎亮」は「佐伯慎亮」である事を、「末永史尚」は「末永史尚」である事を些かも妨げられてはいない。それらは全く以って「見える通り」のものだ。但し “IN MIRROR" という凸面鏡を通して。


「広い視野」を獲得する事と引き換えに「正確な距離感」を失う凸面鏡。しかしそれでも「死角」=見えないものは存在する。「近さ」という「呪いの言葉」を通して、それぞれの作家が「見えないもの」を作品に仕込んでいる事が浮かび上がって来る。ここにある作品は「見える通り」のものでしかないにも拘わらず、そこには消されたり、覆われたり、隠されたり、現れなかったり、ずらされたり、目を向けなかったりする事で生じた「見えないもの」がある。この展覧会もまた「見えないもの(例:「上田良」の「余白」)」をこそ見る展覧会だろう。そして「見えないもの」が「見えないもの」であるが故に、それぞれの「見えないもの」同士は「近く」に、或いは「繋がって」いるものなのかもしれない。


そして “the three konohana" の会場を出る。一歩会場の外に出れば、そこは「見えないもの」だらけだ。世界は「見えないもの」で覆われている。妖怪を展示する展覧会会場の外にこそ、本来の妖怪が幾らでも潜んでいる様に。だからこそ展覧会は「持ち帰り」が可能なのであるし、そういう「持ち帰り」以外には意味が無い。“IN MIRROR" の反射面に映っているのは世界そのものである。


それ故にレビューは遅れる。遅れるとはそういう事なのだ。