東京都現代美術館三題「ミッション[宇宙×芸術]」「クロニクル1995−」

承前


【ミッション[宇宙×芸術]−コスモロジーを超えて】


中学1年だった1969年8月14日に静岡県袋井市で見た星空が忘れられない。後にも先にもこの時の星空が、未だに自分にとって最高のものだ。


その日親戚の家がある袋井に、母親と弟と共に到着した時には既に日がすっかり落ちていた。恐らく8月の日の入り時刻から言って、袋井到着は20時前後だっただろう。袋井に幾つもある手掘り隧道の一つを歩いて潜った記憶がある。殆ど獣道と言って良い道に街灯は一つも無かった。鼻を摘まれても判らない道をひたすら歩いた。


小高い丘の上に出た。頭上はそれまでに見た事の無い満天の星空だった。空がこれ程までに「重い」ものだとはその時まで思わなかった。「星降る夜」という言い回しがあるが、星が「降る」事を星と自分達との距離が縮まって行く事だとするなら、寧ろそれは自分達が星に向かって「降る」事によるものなのではないか。即ち自分達は空に向かって「落ちる」のである。


「落ちる」事を妨げる「足場」は無い。その「足場」ごと自分達は空へ「落ちる」。そして悪い事に「地球が丸い」事を、映像と共に知識として知らされてしまっている20世紀少年だった為に、自分の足のその「下」にも、地球を挟んで自分の「上」に見えている星空がそのまま広がっている事を知っている。「上」も星空で「下」も星空。「行き場=逃げ場」は無い。どちらにしても地球と一緒に星空に「落ちて」行くしか無い。



その居たたまれ無さから何とか逃れようと、自分にとって初対面の認識しかなかった親戚に対して間抜けな質問をした。「ヤマハのテストコースは何処ですか」。袋井に関する自分の有りっ丈の知識は、その半年前の2月12日に福澤幸雄が事故死した地という以外のものは無かった。



1969年というのはアポロ11号月面着陸の年でもあった。袋井での星空体験の約1ヶ月前に、そのテレビ中継を東京都下の駅近くにあった郵趣の店の白黒テレビでちら見した。放送時間を埋めるお喋りばかりが飛び交う退屈なプログラムだった。



奥の間の金魚鉢の様なブラウン管の中に映し出されていたのは、放送規格上の理由で従来型のテレビカメラによって撮影された極めて低画質の「影絵」だった。その「影絵」に対しては、相対的に遠方から送信されているという以外に宇宙は全く感じられなかった。



そして画面の中で星条旗が立った。続いてリチャード・ニクソンが登場した。



歴史の可能性としては、鎌と槌と五芒星の赤旗が月面に立ち、レオニード・ブレジネフがテレビ画面に登場し、その22年後にその赤旗の国が消滅するという展開もあり得た訳だが(星条旗の国は、2014年現在まだ消滅していない)、いずれにしてもその画面は、20世紀少年に「『日常』となる私たちの『宇宙』」を印象付けた。即ち「月面の上の星条旗」こそは「地球」という名の「私たち」の「拡張」であり、「宇宙」の「日常」への「集束」である。その「拡張/集束」の形は、「開発」と呼ばれたり、「旅行」と呼ばれたり、「移住」と呼ばれたりするものになる。「宇宙」を「生産活動の先端の場」にしたい「私たち」も存在する一方で、「創作活動の発表の場」にしたいという「私たち」すら存在するかもしれないものの、それらのベクトルの起点は飽くまでも「私たち」にある。それは決して「星空に落ちて行く」というベクトルでは無い。「私たちの『宇宙』」は「私たち」が「宇宙」に於いても温存される事を前提にしている。それは「テレビショッピング」される様な「拡張/集束」された退屈な「私たち」の「日常」であり「異世界」であり「理想郷」なのである。


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21世紀最初の10年が過ぎ、私たちをとりまく「宇宙」はますます身近なものになりました。研究開発の進むリアルな宇宙と、アーティストの表現としての内的宇宙は、パラレルワールド=並行世界として急速に拡張/集束しつつあります。本展では、2014年夏の宇宙ブームにあわせて、限りなく私たちの日常に近づく宇宙領域と、アーティストらによる内的宇宙を、個々のコスモロジー宇宙論を超える多元的宇宙として呈示します。 日本において戦後すぐに始まったアーティストらの試みは、現代作品(パーティクル=粒子や宇宙線による作品、人工衛星によるサテライトアートなど)として展開を続けています。約10年にわたりJAXAが実施した『人文・社会科学利用パイロットミッション』*)など、世界的にも先駆的かつ意欲的な活動が試みられてきました。また近年、小惑星探査機「はやぶさ」帰還と同2号機打ち上げ、大規模な博覧会や展示施設のオープン、種子島宇宙芸術祭プレイベントなど、宇宙領域は社会的ブームとして活況を見せています。本展は、アートインスタレーション人工衛星やロケットの部品(フェアリング)などの宇宙領域資料、宇宙にかかわる文学、マンガやアニメーションなどエンターテインメント領域、参加体験型作品の展示やトーク&イベントを通じて新たな可能性を探り、「拡張/集束する世界をとらえ、描写する」試みです。かつてのような異世界や理想郷としてだけでなく、本当の意味で「日常」となる私たちの「宇宙」について体験し、考えてみましょう。
*注)宇宙芸術プロジェクト=「きぼう」日本実験棟での芸術実験


「ミッション[宇宙×芸術]−コスモロジーを超えて」展覧会概要
http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/cosmology.html


このステートメントを読む限り、2014年の夏は「宇宙ブーム」という事になっているらしい。勿論それは「日本」に限った話である。その「宇宙ブーム」の「日本」にしても、例えば関東地方の催事場の一つである「幕張メッセ」の「宇宙博2014 −NASAJAXAの挑戦」開催や、プロ野球セントラル・リーグ読売ジャイアンツのホームグラウンド脇の中央競馬地方競馬の場外馬券場の上階に開業した「宇宙ミュージアム TeNQ(テンキュー)」や、「アナと雪の女王」レベルまでは到底ヒットしないだろう映画「宇宙兄弟#0」公開等がその根拠になるというのであれば、「宇宙ブーム」なるもののスケールというのはそれに尽きるという事なのだろう。


東京都現代美術館の「ミッション[宇宙×芸術]−コスモロジーを超えて」。恐らくこの展覧会は「宇宙」を知る為のものではない。「宇宙」に仮託する形で、ついつい何かを語ってしまう「私たち」の「欲望」に向き合う為のものだ。


そうした「欲望」を良く表したアネクドート旧ソ連に多くあった政治風刺小話)がある。1961年、ボストーク1号で世界初の有人宇宙飛行を成功させたユーリイ・ガガーリンに関するものだ。因みに日本では「地球は青かった」が彼の「名言」として有名だが、海外のガガーリン関連のサイトにはその「名言」は掲載されてはいない。「地球は青かった」という言葉は、当時のイズベスチヤ紙記事の記者による聞き書き部分の一部を、日本人が推察的に改変して作り上げた、日本でのみ通じる日本オリジナルの「名言」だからである。


宇宙に行き地球に戻って来た最初の人間であるユーリイ・ガガーリンが、その栄誉を称える大パーティーに出席していた時の様子を、彼の親友であり宇宙飛行士の同僚でもあったアレクセイ・レオーノフが語っている。ソ連最高指導者ニキータ・フルシチョフが、部屋の隅にガガーリンを連れ出して質問した。「ユーリイ、正直に答えてくれ。『あそこ』では神を見たか?」。一瞬の間を置いてガガーリンは答えた。「はい同志、私は見ました」。フルシチョフは眉を顰めて言った。「神を見た事は誰にも言ってはならない」。数分後、今度はロシア正教会総主教(アレクシイ1世)が傍らに寄って来てガガーリンに質問した。「我が息子よ、正直に答えてくれ。『あそこ』では神を見たか?」。ガガーリンは(フルシチョフの警告を思い出して)躊躇しつつ答えた。「いいえ聖下、私は見ませんでした」。「神を見なかった事は誰にも言ってはならない」。(拙訳)


When Yuri Gagarin, the first man who went into space, returned to Earth, there was a huge reception in his honor. As his close friend and cosmonaut colleague Alexei Leonov tells it, then-premier Nikita Khrushchev cornered Gagarin "So tell me, Yuri," he asked, "did you see God up there?" After a moment's pause. Gagarin answered, "Yes sir, I did." Khrushchev frowned. "Don't tell any one," he said. A few minutes later the head of the Russian Orthodox Church took Gagarin aside. "So tell me, my child," he asked Gagarin, "did you see God up there?'" Gagarin hesitated and replied "No sir, I did not." "Don't tell anyone."


Anecdote in New Age Journal, Vol. 7 (1990), p. 176


ニキータ・フルシチョフの「欲望」の対象としての「宇宙」。アレクシイ1世の「欲望」の対象としての「宇宙」。穏当に言えば「宇宙」はそれだけ「欲望」にとって融通無碍である。宇宙に神がいる一方で、宇宙に神はいない。そして繰り返しになるが、この展覧会はこうした「私たち」の「欲望」にこそ向き合う展覧会なのである。


本展は「欲望」に数百億ドルを掛けたNASAの部屋から始まる。あの時の袋井の星空のメガ分の1位の「重さ」(実際に巨大な質量のものが散りばめられている訳ではなく、光学的な拡大投影であるからそれは仕方が無い)しかない「MEGASTAR」もまた「欲望」によるバージョンアップが重ねられていた。オーロラの登場、そして東京の登場。いたたまれなくなって「MEGASTAR」の部屋を出た。


なつのロケット団」や「りんごの天体観測」等には「欲望」を相対視する視座が認められた。「欲望」の形としては「ARTSAT:衛星芸術プロジェクト」も悪くはなかったが、「地上」にステイし続ける者(即ち実際に「宇宙」に行って構想してはいない者)の「欲望」の剥き出し度から言えば、JAXAが実施した「人文・社会科学利用パイロットミッション」(第1期第2期)が他を圧倒していた。その中でも「宇宙で抹茶を点てる」「『赤色』でつなぐ宇宙と伝統文化」等が個人的には「心に残った」が、寧ろ「人文・社会科学利用パイロットミッション」は全て合わせて一つの自己言及的な「作品」として見るべきものだろう。改めて「(芸術という)欲望とは何か」に思いを至らせる事の出来る好出展である。


「スペースダンス」は「スペース」から切り離して良いものだと思った。

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【クロニクル1995−】


薮前知子(東京都現代美術館学芸員)氏による「はじめに」と「おわりに」にサンドウィッチされた展覧会だった。その「はじめに」と「おわりに」を引く。


はじめに


 東京都現代美術館が開館した1995年は、バブル崩壊後の社会不安が蔓延するなか、阪神淡路大震災オウム真理教による地下鉄サリン事件が起き、さらには「戦後50年」や、「インターネット元年」といった呼称とあわせて、日本の社会的・文化的節目の年である、としばしば指摘されてきました。今、この時期を振り返ってみるならば、グローバリゼーションの浸透、経済や教育の分野での新自由主義的方針転換など、現在の日本社会のあり方へつながる数々の契機を見いだすことができます。現代美術の分野でも、こうした社会状況に呼応するような新しい表現が次々と生まれ、それを支えるインフラとして、当館や豊田市美術館といった専門館の開館のほかに、新進のギャラリーやスペースが活発な動きを見せ始めるなど、ひとつの転換期をここに見いだすことができます。(略)


おわりに


 現代美術の表現を通して1995年を考える本展は、コレクションを中心としています。それゆえ、紹介できなかった数々の動向もありますが、何が収集され、されなかったのかも含めて、「美術館にない1995年」を考えることにも意味があると言えるでしょう。これは同時に、「美術に表れた1995年」と、「そうでない1995年」を考えることでもあります。例えば、1995年と言えば、音楽やテレビの世界では、ミリオンセラー、大ヒットドラマが連発された年でもありました。コギャルブームが全国的に伝播した年でもあり、誰もが同じものを見聞きし、同じアイデンティティを纏おうとする欲望が確かに共有されていたと言えます。そのような時期に、「メガ」とは正反対の志向が表れていたことは、美術が社会に対して持ちうる力の一端を示していると言えるかもしれません。あるいは、この年大きな話題を集めたアニメ「新世代エヴァンゲリオン」など、サブカルチャーも含めた1995年の表現を広く俯瞰することも必要でしょう。本展のテーマを美術館の外へ広げていく一助として、最後に、1995年前後の社会・文化情勢をまとめた略年表を展示します。


当然の事ながら、1995年はこの様なものであったと同時に、この様なものでは無かったとも言える。ここに書かれている1995年の素描は、1974年東京生まれの学芸員氏が、21歳の時に見た1995年がベースになっている。それは例えば、1995年時に60歳だった人間や6歳だった人間が見た1995年、「東京」とは縁の薄い「地方」に住む者(例えば「新世代エヴァンゲリオン(本放送の平均視聴率7.1%)」がオンエアされなかった地方であるとか)が見た1995年、「表」とは別の世界に属している人が見る1995年、そして勿論「日本」以外の1995年とは大きくその景色が異なる。それはオウム真理教信者の間で共有していた1995年が、極めて強力に「『メガ』とは正反対の志向」であった事が明らかになった事で、「同時代」という括り方の有効性が失効した年でもあった。


一方でこの展覧会の解説に登場しなかった「重要」かもしれない「日本現代美術の1995年」は、椹木野衣氏の著作「シミュレーショニズム ハウス・ミュージックと盗用芸術」(1991年)と、同じ著者による「日本・現代・美術」(1998年)の中間に位置しているという事だろう。極めて雑に言えば、「盗め!」と「悪い場所」の中間に日本現代美術の1995年はある。「コミュニズム」が現実的破綻をした1991年に、「シミュレーショニズム」という書名を持つ書籍が刊行された事に、当時感慨を極めて深くした記憶がある。取り敢えず「インプレッショニズム」が美術のモダニズムに於ける「イズム」の嚆矢だと仮定すれば(「細かい」事はここでは省く)、恐らく「シミュレーショニズム」は美術のモダニズムに於ける最後の「イズム」という事にはなるだろう。


同展はホンマタカシ氏と芦田昌憲氏という、それぞれの意味で「現代美術の外部」の人達による「1995年の風景 郊外」コーナーから始まる。1991年か92年に「日経イメージ気象観測」の「今注目している場所はどこですか」という質問に対して、自分は誌面で「都市と地方の界面としての郊外」と答えた。同展に出品されているホンマタカシ氏の「TOKYO SUBURBIA(東京郊外)」を見る度に、思い出されるのはこの1980年の藤原新也氏による「郊外」の「家」の写真だ。



この「郊外」の「家」に関して佐瀬稔氏が書いている文章を引く。


 その住宅街は、昭和四十年代末に、私鉄関連の不動産会社が高級分譲地として開発したところで、ほとんどの区画が二百平方メートル以上。郊外によくある、小さな家が軒を接して密集する住宅地ではない。その上に建つ建物も、一軒ごとに新しいデザインをこらし、家々の間には広くて清潔な道路がのびている。(中略)右側の丘陵地帯が静かな住宅地になっている。(中略)豪華ではないが、それなりに豊かな家が並んでいて、狭いマンションや公団住宅に住む人なら、思わず羨望の思いにかられそうな町の風景が広がる。
 惨劇のあった家は、この町並みのなかでは比較的平凡な和風の構えで、道路から一段高い敷地に木造モルタルの二階建。庭にはツゲの植え込みがある。道を通りかかる人はよく、楽しげに庭の手入れをする主婦の姿を見た。一階が六畳、八畳の和室に洋風の居間、キッチン、風呂場、納戸。二階に二人の息子のための六畳が二つ、という間取りだ。夫婦はともに四十六歳。兄弟が結婚するまではまだ間があるが、ようやく収穫期を迎えようとしている一家には過不足のない住まいだ。サラリーマンが営々として働いた末に、りっぱに自力で手に入れた「終の住処」である。


佐瀬稔「金属バット殺人事件


「思わず羨望の思いにかられそうな町の風景」。それはホンマタカシ氏の写真の中にあり、そして芦田昌憲氏の写真の中にもある。本展はそうした風景の中の一軒の「家」のドアを開けて、その「中」に入って行くという構造を持っている様な気もする。続く「あいまいな日本の私 バッドテイスト」コーナーの都築響一氏を最後に、「現代美術」ばかりに囲まれた空間が続く。そしてその階の終わりに上記の「終わりに」である。


「本展のテーマを美術館の外へ広げていく」と記された「終わりに」の後に、本展の「第2部」が続くのだが、観客のモチベーション的には、ここで「終わった」という感じも無いでは無かった。そして言われるところの「美術館の外」の現実は、「2014年の日本はこの様なものだった」という、近い将来の「総括」を拒絶するものが大いに存在している一方で、しかし確実にそうした総括的なものの一部に包括される何かがあるのだろうとも思われたのである。


【了】

東京都現代美術館三題「ワンダフル ワールド」

休日に子供と遊びに出掛ける場所の一つに公園がある。市内には大きな公園が幾つか存在している。観光名所がそこに併設されていたり、或いは観光名所の周囲を公園化したりと様々だ。


法的瑕疵を排除する事を目的の一つとして綿密に整備された公園(例:代々木公園、新宿御苑日比谷公園浜離宮恩賜公園)の平板な「自然」は、「自然」を好む大人を納得させるのには成功するものの、その一方で自然を探検や冒険の対象にしたい子供にとって、例えば手付かずの山野と比べてそれは余りにも退屈過ぎる「自然」と言える。


そこで妥協案が図られる事になる。遊具の設置である。公園の「自然」は「公共」の「財産」でもある為に、探検心や冒険心を持つ子供に対しても、花を摘み取ったり、木の枝を折ったり、木登りをしたり、地面に穴を掘る等を強く禁ずる一方で、その代替手段として児童公園エリアを設定してそこに遊具を設置する。とは言えそれらも「公共」の「財産」であるから、子供がその毀損心や破壊心を遊具に対して遺憾無く発揮する事は決して許されてはいない。子供の「乱暴」な扱いで壊れる事は設計上まず無いものの、そこに「悪戯描き」をする事は禁じられている。


公園(児童公園)の遊具の例としてはこういうものがある。


プレイビルダー動物ランド フレンズ(株式会社中村製作所)
http://www.nakamura-mfg.com/products/item/detail.html?p=PBN-031


所謂「コンビネーション遊具」と呼ばれるものだ。総じて子供はこうした遊具で遊ぶのが好きである。一方こういうコンビネーション遊具もある。


城戸真亜子作品 アートを遊具に。


画家の城戸真亜子さんが「人と自然と宇宙の共生」を表現したオブジェが千葉県船橋市に登場しました。「木と水」「人」「宇宙」を象徴したオブジェはブリッジによってかかわり合いつながり、子供たちがよじ登ったり、滑り降りることもできる、隠れ家的要素を含んだ作品です。ニットは城戸さんの願いを忠実に再現し、コミュニケーションのシンボルとして、また遊具として楽しめる空間創出のお手伝いをしました。



アート遊具・城戸真亜子(日都産業株式会社)
http://www.nitto-sg.co.jp/toku/toku10.htm


「アートを遊具に」なのか、「遊具をアートに」なのか、或いはそのどちらでもないのかは判らないが、例えばイサムノグチ氏の「ブラック・スライド・マントラ」というのもそうしたものの例の一つとして上げても良いかもしれない。


「プレイビルダー動物ランド フレンズ」にしても、「城戸真亜子作品」にしても、「ブラック・スライド・マントラ」にしても、或いは「手付かずの山野」や「建物と建物の隙間」にしても、子供はそれぞれにそれぞれの形で遊ぶだろう。子供にとってはそれだけの話だ。「人と自然と宇宙の共生城戸真亜子氏)」も「子どもに遊ばれて(彫刻は)完成する(イサム・ノグチ氏)」も、そこで遊ぶ主体である子供には全く関係の無い話だ。自分達が遊んだ事を、自分達が全く与り知らぬ場所(即ち子供を排除したレイヤー)で、それらの大人が自らの仕事を正当化する事に利用したとしても、それは徹頭徹尾「大人の事情」なのである。


ワンダフル ワールド
こどものワクワク、いっしょにたのしもう みる・はなす、そして発見!の美術展


お子さんといっしょにお話ししながら作品を見てみませんか?
あたらしいことを見つけるおもしろさ、なぜと感じる心、発見を誰かと分かち合う喜び。新鮮な心を持つこどもたちには「ワクワクする心の揺れ動き」をたくさん経験してほしい。


「ワンダフル ワールド」は赤ちゃんから大人まで一緒に楽しめる展覧会です。こどもたちの身近にあって、興味の対象であるモチーフ―フルーツ、電車、鏡、動物、ブロックなど―をアート作品にした5人のアーティストによる空間全体を作り出すような体感型・参加型作品を展示します。


赤ちゃんや小さなこどもを持つ親にとって、こどもと一緒に美術館に行くのが難しいと感じたり、そもそもこどもに美術がわかるのだろうかという疑問を感じたりするかもしれません。この展覧会では、小さなこどもの視覚世界を表現した作品や、作品に触れて遊び体験的に美術を鑑賞する作品が展示されます。こどもの興味や理解に寄り添った作品を展示することで、小さなこどもが楽しめる展覧会を目指します。


美術館という非日常の世界で出会う作品たちを見て思ったことを語らうことで、いつもは気がつかない感覚や気持ちに出会って欲しいと思います。それは自分自身の新たな姿を見つけることであり、そして隣にいるこどもたちと経験を共有することでお互いの世界を発見することにつながっていくことでしょう。視点を変えることで見えてくる世界、それはすばらしい世界"ワンダフル ワールド"なのかもしれません。
絵本を読むように、こどもが興味を示したものに寄り添いながら、自由に語らい作品を見てみませんか。ひとりで見るよりみんなで見て気づくことがあるかもしれません。


みて・はなす、そして発見!の美術展です。



東京都現代美術館「ワンダフル ワールド」
http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/wonderfulworld.html


「美術館に行く」事と「美術がわかる」事の間には途方も無い距離がある。「作品に触れて遊び」と「美術を鑑賞」の間にも途方も無い距離がある。「(フルーツ、電車、鏡、動物、ブロックなどの)こどもの興味や理解に寄り添った作品」と「こどもが楽しめる展覧会」の間にも途方も無い距離がある。それらの間は決して容易に埋まらないものだが、しかしここではいとも簡単にそれが繋がる様なものとされている。


例えば「プレイビルダー動物ランド フレンズ」に「触れて遊び」が、「美術を鑑賞」に繋がらないとされるのに対して、「城戸真亜子作品」や「ブラック・スライド・マントラ」に「触れて遊び」が、「美術を鑑賞」に繋がるとされるのは何故なのか、或いは場合によっては「城戸真亜子作品」に「触れて遊び」すらも、「美術を鑑賞」に繋がらないとされるのは何故なのかを、子供が理解出来る形で説明が可能なものだろうか。当然子供相手に「美術だから美術だ/美術でないから美術でない」という同語反復(有り勝ちな教育手法でもある)は禁じ手である。同語反復は「何で」を問い続ける子供相手には通じない。「子供騙し」よりもたちが悪いのは、同語反復が有効な方法論になる「大人騙し」なのである。


会場では作品を殆ど見なかった。そこで子供がどう振舞っているかばかりを見ていた。遊具的な「作品」では、当然の事ながら子供は遊具として関わっていた。即ち「(木場・深川の)記憶の中に広がる風景」であるとか、「楽園/境界」であるとか、「体験する絵画」といったそれぞれの作品コンセプト(付会)は、子供にとっては極めて遠いものだ。保護者が子供相手にそれらを説明するのはハードルが高かろうし、また子供の方も「 相手の立場や気持ちをくみとること」という意味を含めた「理解」を持たないだろう。一方、幾つかの「作品」の前には柵やグレーのテープによる結界が設けられていて、「美術作品」が「毀損」によってその「価値」が減じられてしまうフラジャイルな「財産」である事を、保護者や監視員に「注意」される形で子供に教え込まれていた。しかしそれでも一瞬でも目を離せば、「美術」が「特別」であるという文化的訓練を経ていない子供は、結界の中に入り込んでベタベタとそれを触りまくったりするのである。


クワクボリョウタ氏の「10番目の感傷(点・線・面)」は、この展覧会の中で唯一「得」をした作品だった様に思えた。即ち「子供」と関連付けられる事が些かもマイナスに働かなかった、寧ろプラスに作用したという点でである。



元々子供は鉛筆に宇宙一の尖塔を見る能力を備えている。洗濯挟みに鉄塔を見る子供もいるかもしれない。同作品は子供のそうした能力をほんの少しだけ後押しする。この「(持てる)能力をほんの少しだけ後押しする」というところが重要だ。インプットとアウトプットの間に、何処かのラボで作った様なブラックボックス(コンピュータプログラム等)が介在しないところも良い。全てが「ネタバレ」である事がこの作品を支えている。Nゲージのレールは動画のプログレスバーの様なものであり、その起点と終点と現時点の時間上の位置が空間的に明らかにされている。次に何が起きるのかも、床に置かれているもので大体想像は付く。そうした「ピタゴラスイッチ」的「透明性」が確保されたまま、しかし実際に起きる事はその想像を遥かに超えたものになる。


親子向けの展覧会という事で弁疏的に設定し直された「新作」が多い中、全くの「旧作」であるところも「成功」の鍵になっている。作者自身はこの作品に対して思うところがある様だが、しかし本展に於いて(或いは ICC の初出時から)親子がそこに見るのはそれとは全く別のものだ。恐らくこの「作品」のみが、本当の意味での「親子の対話(実際に話さなくても良い)」を引き出せるだろう。


「美術館という非日常の世界で出会う作品たちを見て思ったことを語らうことで、いつもは気がつかない感覚や気持ちに出会って欲しいと思います」。子供が「美術館で遊んだ」事を「美術が遊ばせた」とする「功績」への誘惑は、美術家や美術館にとって抗し難いものがあるに違いない。そうした「功績」を我がものとしたい美術家や美術館が、「美術館という非日常の世界」や「いつもは気がつかない感覚や気持ちに出会って欲しい」といった言説を弄しているのに接する度に、「抽象芸術」の「優位性」を主張した「クレメント・グリーンバーグ」の「芸術と文化」と同時代の米ライフ誌に掲載された、他ならぬその「クレメント・グリーンバーグ」とその「芸術と文化」に対して、隠し様も無く当て擦り的なキャプションが付けられた古い写真を思い出す。


"At the San Francisco Museum of Art. an abstract gets close scrutiny."


つまりはこういう事だ。確かにここには「非日常」がある。「いつもは気がつかない感覚や気持ちに出会って」もいる。そして子供というものは、例えば「通気口で楽しめる」という「生き方の形式」そのものなのである。そうした「生き方の形式」からすれば、「非日常」と「日常」を分かつものは「美術館」と「その外部」にそのまま置き換えられるものではない。何故ならば「通気口」という「非日常」は「美術館」の外部にも存在するからだ。そうした「生き方の形式」を最大限尊重すれば、「子供」と「美術」の関係性、そして他ならぬ「美術」そのものをもそこから再構築する事が可能ではある。


入場料(保護者一人に付き1,000円也)は紛れも無く「美術展」のそれだった。それが「美術展」として納得の行く値段と言えるかどうか、或いは「子供を遊ばせる場所」として納得の行く値段と言えるかどうかについての言及はここでは省く事にする。


【続く】

ジャパンバーガー

そういう訳で、2014年の FIFA ワールドカップブラジル大会の決勝戦は、ドイツとアルゼンチンの間で戦われ、ドイツの優勝で幕を閉じた。たった5日前の話だが、随分と昔の様な気もする。


日本人はこの決勝戦に日本代表が残っている事を何処かで夢想していただろうか。決勝戦に日本代表が残っていなかった事を「誤算」と思う日本人はいるだろうか。飽くまでも想像でしか無いのだが、日本人の日本代表に対する期待感の平均値としては、グループCを2位(1位ではない)でギリギリ通過して、決勝トーナメントの初戦(Round of 16=例:対コスタリカ戦)を辛勝し、準々決勝(例:対オランダ戦)で惜敗して「感動をありがとう」を言い合い、その翌日にはその「感動」をすっかり忘れるといった感じだっただろうと思われる。


FIFA ワールドカップを開催するには莫大な資金が必要だ。少なくとも21世紀のワールドカップはそうだ。今回のブラジル大会でその資金の一部を差し出したのは、1994年のアメリカ大会から連続して「FIFAワールドカップオフィシャルスポンサー」となっているマクドナルドである。マクドナルドはその見返りとして同年から「オフィシャルレストラン」の権利を取得し、FIFAから2014ワールドカップにあやかる商売をする事を公式に認められた。例えば日本マクドナルドで行われていた「マクドナルド 2014 FIFAワールドカップ キャンペーン」がそれに当たる。


そのキャンペーンの結果だが、5/27日から始まった同キャンペーン中の6月の既存店売上高は前年同月比8.0%減となり、既存店客数は10.7%減というものだった。スターゼン伊藤ハム、デルマール、イナ・ベーカリー等の委託工場の生産ラインを変更し、提灯記事をばら撒いてまで起死回生を狙った日本マクドナルドにとって、それは全くの「誤算」だっただろう。しかしその「誤算」は、サッカー日本代表がワールドカップで優勝しなかったといった様な意味での「誤算」の様な気がする。21世紀は企画書やパワポ書類の出来がそのままビジネスの成功に直結する様な牧歌的な時代では無い事は確かだ。ならばそれらを作る事は無駄だろうか。そうかもしれない。


アメリカ本国のマクドナルドでも「誤算」は続き、米国の消費者情報誌 "Consumer Report" の調査では、他を大きく引き離して "Worst Burgers" にマクドナルドが選ばれていて――因みに同調査では "Worst Chicken" に "KFC" 、"Worst Sandwiches & Subs" のブービー賞に "Subway" が選出されている――その業績も日本マクドナルド同様芳しいものでは無い


今から16年前の1998年に中村政人氏が「QSC+mV」を発表した頃は、「ゴールデンアーチ」は「力あるもの」の象徴だったが、今は「力失われるもの」の象徴ですらある。やがて「QSC+mV」という作品は、マクドナルドの業績如何では「うら寂しいもの」に見え、その内にその「ゴールデンアーチ」が何なのか誰も知らない様になるのだろうか。しかしそれもまた何処かで「現代美術の心意気」と言うべきものだろう。


それはさておき、日本マクドナルドの「マクドナルド 2014 FIFAワールドカップ キャンペーン」で最も目立っていた企画は「FIFA World Cup公式ハンバーガー」であった。




今回登場するのは、日本や開催国のブラジルをはじめとした出場8ヵ国をイメージした食材や味付けをお楽しみいただける商品で、【ハンバーガー:全4種類】/【サイドメニュー:全3種類】/【炭酸ドリンク・デザート:全6種類】/【朝マックメニュー:全1種類】という、幅広いラインナップでお届けいたします。


http://www.mcd-holdings.co.jp/news/2014/promotion/promo0519a.html


参加32カ国中、日本マクドナルドが選んだ8カ国は、ブラジル(4位=ハンバーガー)、ドイツ(優勝=ハンバーガー、サイドメニュー)、日本(グループC4位=ハンバーガー、炭酸ドリンク)、フランス(ベスト8=ハンバーガー、デザート)、イタリア(グループD3位=サイドメニュー)、オランダ(3位=炭酸ドリンク)、ベルギー(ベスト8=デザート)、スペイン(グループB3位=朝マックメニュー)であり、準優勝国であるアルゼンチンは入っていない。この中の日本とイタリアとスペインが「グループリーグ敗退」という日本マクドナルドにとっての「誤算」があった。「ブラジルバーガー(4位)」と「ドイツバーガー(優勝)」を販売終了した後、「日本」をイメージしたとされる「ジャパンバーガー」投入は、キャンペーン後半の6/18日からだったものの、その3日前の6/15日(日本時間)にはグループリーグの初戦(Match 6)で日本がコートジボワールに負けていた。「ジャパンバーガー」発売から2日後の20日(日本時間)の第2戦(Match 22)ではギリシャと引き分けて、ここでノックアウトリーグ進出の確率はかなり低くなる。そして「ジャパンバーガー」発売1週間後の25日(日本時間)の対コロンビア戦(Match 37)で、日本代表はワールドカップから姿を消す。一方日本マクドナルドの「ジャパンバーガー」は、7月5日(日本時間)準々決勝敗退の「フランスバーガー」と共に設定された「7月上旬(予定)」の販売終了の「公約」に縛られる形で、7月8日までだらだらと販売され、翌9日から「夏のマックFes!」にバトンを渡す。


「ジャパンバーガー」の販売終了が「7月上旬(予定)」に設定されたのは、先に書いた「日本人の日本代表に対する期待感の平均値」から導き出されたものだと推察される。7月6日に行われる準々決勝で日本が敗退し、そこで「ジャパンバーガー」も販売終了というシナリオを組んでいたのだろうが、「7月上旬(予定)」というところに「日本優勝」の芽があるのではないかという夢想的な「皮算用」も見える。


その「ジャパンバーガー」を含む「FIFA World Cup公式ハンバーガー」メニューの「コンセプト」の一部を引く。


「ブラジルバーガー ビーフBBQ」
バンズは、ワールドカップの気分を盛り上げるサッカーボール仕様。炭火焼のように香ばしいグリルソースが食欲をそそります。2枚の100%ビーフパティの間には、チェダーチーズでアクセントを。細切りレタスと、赤・黄色のパプリカは、ラテン系の彩りを添えます。


「ドイツバーガー ポークシュニッツェル
ドイツ生まれのカツレツ、シュニッツェルがハンバーガーになりました。細引きのパン粉でサクッと揚げたポークカツは、食べごたえ満点。プレッツェル風バンズにポテトフィリングとローストオニオンを合わせ、キノコの香り豊かなシャンピニオンソースで仕上げました。


「ジャパンバーガー ビーフメンチ」
ワールドカップの気分を盛り上げるサッカーボールバンズにはさまれた、ジューシーなチーズ入りメンチカツ。ビーフとオニオンの旨みが広がります。シャキシャキのキャベツはメンチとも相性ばっちり。6種類の野菜と果実をすり下ろしたメンチカツ用ソースで仕上げました。


「フランスバーガー チキンコルドンブルー」
フランス料理、コルドンブルーをイメージした一品。トロッととろけるカマンベールソースの風味をお楽しみください。サクサクした衣のチキンフライと、スモークせずにスチームして作りあげるフランス式製法のハム3枚が上品な味わい。ソフトフランスパン風のバンズはしっかりした食べごたえです。


「イタリアン リゾットボール(トマト&イカスミ)」
玄米のリゾットでチーズソースを包み込んでフライした、サクサクとろーり食感に仕上げたサイドメニューです。ガーリックとハーブを加えたトマトリゾットと、香り豊かなイカスミリゾットの2種類が1個ずつ入ったセットで、おいしさのコンビネーションをお楽しみください。


http://www.mcd-holdings.co.jp/news/2014/promotion/promo0519a.html



これらのメニュー開発は日本マクドナルドによる。それぞれの国から上がって来たものではない。従って「ブラジルバーガー」にしても、「ドイツバーガー」にしても、「フランスバーガー」にしても、「イタリアンリゾットボール」にしても、それらは日本から見た各国(料理)のイメージに基づいた戯画的な「連想構築物」である一方で、「ジャパンバーガー」のみは主観的な「自画像」になっている。


実はこの「FIFA World Cup公式ハンバーガー」企画は、各国のマクドナルドの幾つかで似た様なキャンペーンが行われていた。目立ったところでは開催国であるマクドナルドブラジルを始めとして、マクドナルドオーストラリア/マクドナルドニュージーランドマクドナルド香港、マクドナルドドイツ、マクドナルドシンガポールマクドナルドクロアチアマクドナルドロシア、マクドナルド韓国、マクドナルド南アフリカマクドナルドオランダ、マクドナルドトルコ、マクドナルドオーストリアマクドナルド台湾、マクドナルド中国、マクドナルドフィンランドマクドナルドマレーシア、マクドナルドチリ、マクドナルドウルグアイマクドナルドコスタリカマクドナルドイスラエルマクドナルドスウェーデンマクドナルドグアテマラマクドナルドクウェートマクドナルドポルトガルマクドナルドインドネシアマクドナルドチェコ等で、そうした「連想構築物」のハンバーガーが作られていた。



各国のマクドナルドに共通して存在していたのは開催国ブラジルの「ブラジルバーガー」だったが、そのレシピは各国異なったものになっている。即ちそれぞれの国のレベルで想像し得る限りの「ブラジル」が、それぞれの国のマクドナルドの「ブラジルバーガー」に現れている。それらの多くは「スパイシー」なものを「ブラジル料理」に見ていた様だ。一方で「SAMBA」というネーミングも多い。


因みに開催国ブラジルのマクドナルドも「ブラジルバーガー(McBrasil)」を作っていた。即ちブラジルによるブラジルの「自画像」である。マクドナルドブラジルはこのキャンペーン中、曜日毎に「各国」のバーガーを入れ替えていて、「ブラジルバーガー」は日曜日発売になっていた。



その材料は、アンガスビーフ、マヨネーズ、ビナグレッチ、レタス、エメンタールチーズ(Bife de res Angus, mayonesa, vinagreta especial brasileña, lechuga y queso Emmental)である。シュハスコをベースにしたと思しきこのブラジルの「自画像」に、他国がブラジル料理にイメージしている様な「スパイシー」成分は無い。日本マクドナルドが細切りレタスと赤と黄のパプリカを使ってまで戯画的に且つ緻密に再現した「ラテン系の彩り」は、クラウンバンズ直下のビナグレッチがあっさりと実現してしまっている。



一方マクドナルドドイツは、ドイツの「自画像」である「ドイツバーガー(Germany Fan Double)」を作っていた。牛肉、ベーコン、赤タマネギ、ハーブバター(クロイターブッタ―)タイプのソース(Ein ganz besonderer Burger mit zweimal saftigem Rindfleisch, herzhaftem Bacon, roten Zwiebeln und einer Sauce nach Kräuterbutter-Art)等がその材料だ。クロイターブッターをドイツは「自画像」として選択したが、これもまた日本マクドナルドを始めとする他国の「ドイツバーガー」に、そうしたセルフイメージと同様のものは採用されなかった。


さて「ジャパンバーガー」だが、各国のマクドナルドのラインアップにそれは存在しない。日本を「FIFA World Cup公式ハンバーガー」のメニューに加えるバリューが存在すると思い込んでいるのは日本人だけであるから、当然と言えば当然の事である。日本マクドナルドはメンチカツと千切りキャベツを日本のセルフイメージとしたが、仮に各国が「ジャパンバーガー」を作るとしたら、それらは決して採用される事は無いだろう。


現実的に存在する「ジャパンバーガー」の例はこれだ。



http://sushiburger.com.au/menu.html



http://www.oishiibun-yosushi.com/


日本人にとって、これらの「ジャパンバーガー」には違和感を感じるだろう。しかし日本人以外の多くは、「メンチカツに千切りキャベツ」よりも「スシバーガー」の方に「日本」を感じるのは確かだ。日本以外のマクドナルドで「ジャパンバーガー」を企画すれば、まず間違いなく後者の系列にあるものになるに違いない。

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海外で日本人アーティストが成功するには、「スシバーガー」的なコンテクストに戦略的に乗らなければならないという事を言う人もいるだろう。或いは「メンチカツに千切りキャベツ」という特殊性(自画像)を見せるべきだと言う人もいるだろう。


しかし多くは「スシバーガー」にも「ジャパンバーガー」にもならずに成功を収めている。On Kawara は間違い無くその内の一人であった。


【数本先に続く】

かたちの発語

少し前の話。知己のN氏(3歳)がこちらに近付いて来ると、氏が折り紙で作ったものを見せてくれた。



N氏は屈託無くニコニコ笑って何も言わない。


横にいた御母堂が、それが「何」であるのかを教えて下さった。緑色が「飛行機」で、青色が「新幹線」である。「誰か」から教わった「かたち」では無い。N氏は3歳の人らしく折り紙で「一人遊び」をしていたのだろう。そして二度程「正方形」の折り紙を折ったところで、N氏はそこに「(氏の)飛行機」と「(氏の)新幹線」の「かたち」を見出した。N氏自身、そこに「飛行機」や「新幹線」の「かたち」が「現出」するとは、その時点まで「想像」してもみなかったに違いない。


そもそも3歳のN氏にとっては、そうした意味での「想像」は重要ではない。N氏の中に、折り紙を折る前から確固たる「飛行機」や「新幹線」の「イメージ」が到達的なものとして存在し、その「イメージ」に「近付け」て折り紙を折って行く事で、これらの「飛行機」や「新幹線」が生まれたという訳では無かっただろう。従ってそこには些かの「工夫」も無い。「工夫」は「イメージ」が存在する事によって初めて可能になるからだ。


加えてこの先、「より『本物』」の「かたち」に「近付け」る為に、折り紙を折って行くという事も氏はしないに違い無い。何故ならば、この「二度折っただけ」の状態こそが、3歳のN氏の「その瞬間」に於いては、最上に「飛行機」の「かたち」であり、無上に「新幹線」の「かたち」だからだ。この状態をN氏は「完成」だとは思っていないだろうし、同時に「未完」だとも思っていないだろう。それが「イメージ」に依って作られたもので無い以上、それは「完成/未完」という「イメージ」の「エコノミー」の外部にそれはある。


「他人」――3歳児同士であっても――から見れば「素っ気無い」としか言い様の無いこの「かたち」は、「イメージ」力に基づく「還元」に基づくものではない。それは一回一回の「制作」の過程で、「事件」として「生起」した「かたち」である。加えてその「かたち」から自分だけの「ものがたり」を「発現」させる能力を3歳のN氏は持っている。次に下掲画像の様なものが折れたら、N氏はそこに何の「かたち」と「ものがたり」を見出すだろうか。



「大人」が「親切」にも、下掲画像の様なものを氏の前に差し出せば(買い与えれば)、N氏はそれを目にした瞬間に、折り紙による「(氏の)飛行機」や「(氏の)新幹線」の存在を忘れてしまうかもしれないし、それらは「価値」の無いものであると思うかもしれない。



「大人」は「(氏の)飛行機」や「(氏の)新幹線」といった「個別的」な世界との関わりを忘却させる事で、いち早く幼児を「社会的存在」へと変える為に、そうした「社会的」に「承認」された「イメージ」を、「教育」的な意図を以って幼児の 差し出す(買い与える)とも言える。幼児は折り紙を二度折っただけのものは、「飛行機」や「新幹線」の「本当」の「かたち」には「遠い」と思う様になるかもしれず、「大人」が作った「玩具」が示す「本当」の「形状」に「近付け」ようと、折り紙を様々に折って試行錯誤するかもしれない。


しかし折り紙では「トミカ」や「プラレール」の様には「本当」の「形状」を作る事は出来ない。やがて幼児は、多くの「大人」がそうである様に、あれ程親しんでいた折り紙と疎遠になって行く。所謂「発達心理学」と呼ばれるものが「教えて」くれるのは、人は自らが手を動かして「自分のかたち」を「生起」させ、そこに「自分のものがたり」を「発現」させる段階から、「他人の形状」と「他人の物語」を「承認」して「自分のもの」とする段階に入るという事である。こうして嘗て幼児だった者が誰でも持っていたかもしれない、折り紙を二度折ったところに無上の「かたち」と「ものがたり」を見る能力の多くはその様にして失われて行き――「発達心理学」もその後押しをする――、それと引き換えに「形状」と「物語」の「承認」という「社会」化が達成される事で、幼児の中に「価値」の「概念」が侵入する。


N氏の「飛行機」や「新幹線」は、「市場価格」的にも「保険評価額」的にも到底「世界の宝」と言えるものでは無い。無論「美術史」的な意味でも、それは「世界の宝」でも何でも無い。幼児によるこれらの「かたち」でインテリアを構成する事は極めて一般的ではなく、またそれらをコレクションするという事も極めて一般的では無い。それらは余りに有り触れているものであるが故に、それらの対象とする「価値」を有さない。「世界の宝」となる条件が相対的な「希少性」にあり、またその「価値」も相対的な「強さ」で計られるのであれば、N氏のそれらはその真逆に存在する。しかしそんな有り触れた幼児の手の中に「かたち」が「現出」して行く、或いは「現出」の「かたち」が「生起」して行くというその事こそが「世界の奇跡」というものではないだろうか。人のどの人生も「世界の奇跡」である様に。


Do not lay up for yourselves treasures on earth, where moth and rust destroy and where thieves break in and steal; but lay up for yourselves treasures in heaven , where neither moth nor rust destroys and where thieves do not break in and steal. For where your treasure is, there your heart will be also.


あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。あなたの宝のある所には、心もあるからである。


「マタイの福音書」6:19-21

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自分が小学生だった頃、暇さえあれば右手をこの形にして、飽きもせずその手を眺めていた。



レオナルド・ダ・ヴィンチ洗礼者ヨハネ」の部分を反時計回りに90度回転


大体小学校2年からその習慣は始まり、小学校6年位までそれは続いた。飽く事無くそれを眺めていられたのは、そこに常にこういうものが見えていたからだ。



「飛行機」である。人差指の先端が「機首」で、人差指の付け根辺りから「主翼」が始まり、手の甲には「尾翼」が位置する。親指と中指が「インテーク」部を形成し、薬指の「エンジンカバー」と、小指の「エキゾーストノズル」がそれに続く。


上掲画像の「飛行機」を「雲」の様な形で描いたのは、それが明確な「形状」を結ばない「かたち」だからだ。この「雲」は「形状」を表してはいない。自分の右手に依る「飛行機」の「かたち」で決まっているのは、「機体」の前後方向と上下方向と各要素の位置関係だけ。従ってその意味でこの「再現画像」は少しも「正確」ではないし、そもそも「正確」というものが存在しない。「機首」の「形状」も、「胴体」の「形状」も、「主翼」の「形状」も、「尾翼」の「形状」も、全てがこの様では無く、且つこの様なものだ。その当時、マルサンの1/50 F-104J を組んでいたし、ハセガワの 1/72 F4 も組み立てていた。しかしそれらよりも右手の「飛行機」は自分にとって美しく、しかも常に最新鋭だった。何故ならばその「かたち」は常に「更新」されるものだからだ。


他人にこの「かたち」を伝える事は出来ないと思っている。紙に「形状」として描き起こしたとしても、それが自分が見えている「かたち」と似ても似つかないものになる事は、小学校三年生の時に既に経験済みだ。サーブ35ドラケンダッソーミラージュIII(後エンジェルインターセプター)の様にも見える描き起こしたものを友人に見せても、彼等はその描き起こされた「飛行機」と、手の「形状」を結び付ける事は出来なかった。仕方あるまい。自分でもその描き起こしは少しも「似ていない」と思っていたからだ。描き表すものとしての絵の限界をそこで知る。


何時しか、この手の形を作りそれを眺める事を頻繁にしなくなった。それでも時々思い出した様に、この「飛行機」を作って眺めたりする事はある。小さい時に比べて「雲」は薄くなった。「雲」が全く見えない時もある。それでも一瞬でも「かたち」が結んだ時は嬉しくなる。

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BankART Studio NYK には「雲」を見に行った。「かたちの発語」というタイトルは誰の発案によるものかは判らないが(調べれば判るのかもしれないが)、「雲」を見たい者にとって良いタイトルだと思われた。「世界の宝」を「世界の宝」として見せてくれる展覧会は幾らでも存在する。「『世界の宝』であるが故にそれは『世界の宝』である」という同語反復的な展覧会もある。しかしこの展覧会にそうした意味での「宝」を期待して行った訳では無い。



このポスターに写るアーティストの誰もが眉間に晦渋の皺を寄せていない。こちらを睨む事もしていない。但し出来得れば、3歳のN氏の様に「ニコニコ」と笑っている写真が望ましかった。


N氏の「ニコニコ」は、単なる「楽しい気持ち」を表すものでは無い。N氏の目の前にある世界は、N氏にとってはこの上無く「荒野」だ。母親が視界から消えれば、N氏の目の前の世界は途端に不安定なものになる。N氏がその事で泣いているのを何度も目撃した事がある。その一方で、3歳のN氏はいずれ(多かれ少なかれ)母親との密着した関係を離れなければならない事を何処かで「知って」いる。断崖絶壁を登るクライマーの様に、N氏は不安定な世界に一つ一つアンカーを打ち付けて行く。アンカーを打ち付け、自分が位置している場所が自分にとって相対的に「堅固」なものと認識された時、初めてN氏の顔の筋肉は緩む。"Gone(いない)" の世界に於ける "There(いる)" の確認 。3歳のN氏の「ニコニコ」はそれ程に悲痛だ。だからこそ「荒野」を目の前にした表現者は、アンカーを打ち付ける(即ち作品を作る)度に「ニコニコ」と笑わなければならないのである。


無論「大人」の「専門家」による「有料」の展覧会であるから、N氏の折り紙と全く同じものを期待して行った訳では無いものの、しかし或る意味で「同質」のものを見に行った。年齢順で記せば、田中信太郎氏のものでは、3階の「マケット」(「記憶の落葉」)に多く感じ入った。それによって導き出された「作品」には多かれ少なかれ「大人の事情」が反映していて、その「大人の事情」を頭の何処かで勘案しながらの展覧になったのに対して、「マケット」の部屋は N氏の「飛行機」や「新幹線」の如くに極めて「雲」だった。その「雲」を通して「向こう」が様々に見える。口元が緩んだ部屋。従って、相対的にマケットの部屋にいる時間が最も多いものになった。


3階の階段を上がると、岡崎乾二郎氏の「おかちまち#4」が「手が届きそうにもない」壁面に据え付けられていた。この作品の初出時である80年代の時もそう思ったのだが、これが壁面という或る意味でアンタッチャブルな領域に据え付けられておらず、ニコニコと笑った岡崎氏が掌の上にこれを乗せて見せてくれたら、それは一体どの様に見えるだろう。勿論これが壁面に据え付けられなければならないものである事は判っている。その上での妄想上の話である。その妄想の上で言えば、新作に至るまでそれらが掌の上にあるものであったなら、その時にはまた「別のもの」が見えるのだろう。掌の上のものが見る者の身体を包囲するという事もある。そしてそれは現実的な「掌サイズ」で無くても構わない。「巨大」である筈の「1853」や「『あっ熱っ』。知らずに匙を口に運んで子どもは叫ぶ。舌がいままで感じたこともない冷たさにびっくりして。火の熱さよりも鋭い冷たさを間違えて。この二つの感覚は同じではないのに。」や「間違えもせず、手探りもしないで、まっすぐ食卓の上に手を伸ばす。それから、また壁に手を触れないで、三度跳んだら部屋の外だったが、扉を閉めるのを忘れていた。」が、自分の掌に乗っている状態を会場で妄想していた。その時「掌の上」のものたちは、カチャカチャとルービックキューブの様な音を立ててくっついたり離れたりをしていた。そしてその度に「雲」がパフッと現れては消えた。自分の手がつくる「かたち」が楽しかった者のファンタズム。


Twitter でこういう動画を教えてもらった。



ああ子供は良くこうやって遊ぶな(笑い転げながらだけど)。最初に頭に浮かんだのはその言葉だった。そしてどうしてこういう遊びを人はしなくなるのだろうと思った。


中原浩大氏のフロア。こういったものがあった。



この画像は1999年8月13日の官報から取っているが、概ねこの様な感じの四角い白地に黒い丸という大画面のキャンバスが6枚壁面に掛かっていた。傍らの「通路」のテーブルの上には同じ様な絵柄の、色違いを含む様々なパターンが紙に出力されて置かれていた。そこに「バングラディシュ」や「パラオ」があったかどうかは記憶に無い。この官報では、この図像に於ける四角形の比率が縦2:横3の割合でなければならず、丸の中心はその四角形の中心になければならず、その直径は四角形の縦寸法の3/5でなければならないと定めているが、それ以前の定めはまた違っていたらしい。


N氏は「二度折っただけ」の中に「飛行機」や「新幹線」を見た。日本の「大人」は四角の中に丸があると、それが定めに則っていようといまいと「日章旗」を見てしまう。些か話が脱線するが、少なくない日本の「大人」は、1868年(明治元年)に使用されなくなった、唐(中国)様の9メートルの長さの黒漆塗りの棒の先に三本足の烏が描かれた直径1メートルの丸い金メッキ銅板(「日像幡」)を「日章旗」と「同じ」であるという「感性」を持つ。


それはさておき、いずれにしても日本の大多数の「大人」にとって「四角の地の中の丸という図」という図像は呪縛的に働く。日本以外の「大人」はどうだか知らない。しかし3歳のN氏なら、自らがグルグルと紙に描いた丸に「ひのまる」とは言わない気がする。但し「親切」な「大人」は、N氏にそれを「日本の旗」であると教えつつ「ああ美しい」と歌って聞かせるかもしれない。しかし遅かれ少なかれ、やがてN氏も長じれば、迷わずそれを「日章旗」と言う様になるのだろう。「イメージ」は果たしていつ生まれるのだろうか。それとも元々そこに存在しているものであろうか。


「黒丸」の隣の部屋に行く。再びN氏の事が頭に過る。



N氏はこれらに「持ち物」を見るだろうか。

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BankART Studio NYK に入ってから2時間後に1階のカウンター前に戻って来た。断崖絶壁を登らされる様な恐ろしく疲れる展覧会だった。会場内を巡る為にアンカーを打った手が痺れている。そして会場を出た。もうアンカーを打つ必要は無くなったのだろうか。

田村画廊ノート(後)

承前


 六〇年安保で一身上にも様々なことがあり、その後遺症や虚脱感から何とか人並みの生活感覚を得るまで十年の歳月が過ぎ去っていた。朝鮮動乱の特需景気を受け、日本の経済は繁栄に向かっていたし、世情は六四年の東京オリンピックを前後して随分と賑わっていた。が、あの革命前夜を思わせるほど、積極的な行動を示した多くの若者達は、余程目ざとく時代の趨勢を読みとる者でない限り鬱屈した青春の日々を送っていた。(略)


 七〇年前夜
「夜なきそばの屋台を引こうや」
 哲学書を積んだ下宿屋で、わが仲間達は、毎日そんな相談に耽っていた。実際に、臨時雇いのガードマン、産休先生の代用教員、製薬会社の牛の薬の翻訳、画廊の俄かマネージャー等々が三〇才前後の院生や助手達の乏しい生活の資だった。


「画廊を開く」「誰が」「俺が」「金は」「ない」アルバイトに明け暮れしていた仲間では事業を始めるなど画期的な話だった。
 日本橋江戸通りに知人の開業医が居り、引っ越すからその跡で画廊でもやってみてくれないか、古ビルの一画だが親の代から譲り受けたものであり、医院の後が麻雀クラブやパチンコ屋では沽券にかかわるからというのが理由であった。


 六九年二月、十坪ばかりの木造二階建一階に間口二間の見るからに貧しそうな画廊がオープンした。名称は大家になる田村医師の名を冠した。資金が乏しかったので壁面は石綿のボード板を張りめぐらした。防火対策のためと吹聴したが、一センチ厚さのベニヤより安価だったからである。ライト・グレイを望んだが、その板の数が揃わずダークグリーンの壁になり、全体は海の底のような雰囲気になった。
 奥に一坪ばかりの事務室を設け中間に壁を立てて、二室にした。


(略)


 美大の学生も交えて、当時の学生は行き場を失っていたのだと思う。狭く、暗い画廊には、美術系の学生のみならず様々な若者が集まってきた。(略)底抜けの明るさと、底のない暗さが交錯し、様々なものが様々な形をとって雑然と現出していた。批評家は、そんな現象を「価値の多様化」という語でくくって説明した。(略)制作した作品が、売れるとは、どの作家も余り期待していなかった。著名な女流詩人はこの作家達の生業を「賞金稼ぎ」とした。


 かようにして画廊は、行き場のない学生や無頼派的芸術家、文化屋の集会所の様相を呈した。
 しかし、日に日に高まる高度経済成長の波は、その様な生産性の乏しい衒学的ともみえる悠長な時間を許すべくもなかった。
 一九七〇年の芳名帳には「この一億総猛烈社員時代に、こんな子供遊びみたいな美術はやめろ。無駄だ。憤慨する美術家」の達筆が残されているし、また当時、東京で一流とされていた画廊の経営者からは「ああいう砂場遊びは早くやめて、まともな作品を作るように若い作家に言ってあげなさい」と諭されたり、リッチな画廊のマダムからは「あんなことをやっていて、あなたも作家も、どんなメリットがあるの?」と厳しい忠告を受けた。


山岸信郎「田村画廊ノート あるアホの一生」


「田村画廊」は、1969年2月21日、東京都中央区日本橋室町3丁目にオープンした。その第一回展は、後年の「伝説」からすれば「らしからぬ」と言える「麻生三郎個展」(2月21日《金》〜3月9日《日》)だった。山岸信郎氏はそういう画廊を目指していたのだろうか。或いは話題性を狙っての「麻生三郎個展」だったのだろうか。



JR東日本総武本線新日本橋」駅(1972年7月15日開業)直上の室町3丁目交差点近くにそれは位置していた。上掲航空写真(1963年)の中央が室町3丁目交差点である。交差点を構成する横軸が江戸通り、縦軸が中央通りであり、初代「田村画廊」はその右下の低層建築ばかりが建つブロックの江戸通り沿いにあった。当時の江戸通りには、都電の「室町線(22系統)」が走っていて、「田村画廊」の目の前には都電の「室町三丁目」駅があった。


こちらの「写真No9-13」は、廃線(1971年3月18日)直前の都電22系統が室町3丁目交差点を通過している画像になるが、この都電車両向かって左側の「更地」が「田村画廊」が位置していたブロックに当たる。「田村画廊ノート」中の田村医師の「引っ越し」の理由は、恐らく「通勤五方面作戦」による「新日本橋」駅開業に伴う周辺地域開発に関連した「立ち退き」であり、その建物が極めて時限的にしか存在しない事情を言い含めての、山岸氏への「委譲」であったと思われる。「更地」に囲まれた初代「田村画廊」のすぐ横では、「新日本橋」駅「出口3」の工事が行われていただろう。「田村画廊」の「伝説」として語られているものの一つである清水誠一氏による床を掘り下げた展覧会(1972年8月7日〜13日)は、この室町3丁目時代の「取り壊し」が決定していた建物の中で行われたものだ。それは半ば「田村画廊」の「葬送」の儀式の様にも見える。



「通勤五方面作戦」承認(1964年6月)→田村医師の引っ越し→「田村画廊」開廊(1969年2月21日)→都電22系統廃線(1971年3月18日)→総武本線新日本橋」開業(1972年7月15日)→「清水誠一展」(1972年8月7日〜13日)。そして1973年5月を以って初代「田村画廊」は閉じられる事になる。その初代「田村画廊」跡地には、現在「北都銀行東京支店」が建ち、往時を偲ばせるものは何一つ残っていない。


「田村画廊ノート」中、しばしば山岸信郎氏の批判対象となっている「高度経済成長の波」によって、室町3丁目を追われる事になった「田村画廊」――しかし「高度経済成長の波」による田村医師の「立ち退き」が無かったら、「田村画廊」という名の「サンクチュアリ」も存在し得なかった――は、江戸通りを挟んだ斜向かい、中央区日本橋本町4丁目1番12号に存在していた「秋山画廊」(1963年〜)に間借りして再オープンする。床はコンクリートではなく、色変わりのピータイルである。ここでは穴を掘ったり、壁を壊したり、火を燃やしたりする事は不可能だ。「楽園」は4年で終わったのである。


1975年には「長谷川香料(株)」の本社でもあった中央区日本橋本町4丁目4番15号 本銀第二ビル1Fに「真木画廊」が、1977年9月には千代田区神田西福田町2 聖徳ビル2Fに「新田村画廊」が開く一方で、その1977年一杯で日本橋本町4丁目の「田村画廊」(元「秋山画廊」)が閉廊される。翌1978年に「新田村画廊」を「田村画廊」に名称変更。1979年に中央区日本橋室町3丁目2番9号 駒井ビルB1Fに「駒井画廊」を開き、1980年には山形に「ルミエール画廊」を開廊する。ここまでが「田村画廊」の「上げ潮」期と言えよう。


「田村画廊」は言わずと知れた「貸画廊」だ。1970年の室町3丁目時代の「賃料」は、1日6,000円 × 7日 = 42,000円 だった。1970年の大卒男子初任給とほぼ同額である。


貸画廊
Gallery for Rent


おおむね1960年代以後に定着した日本独特の画廊の形態。展覧会のための展示空間を美術家に貸し出し、その賃料によって運営する画廊を指す。グループ展として使われることもなくはないが、ほとんどの場合は個展の会場として利用される。発表の機会を望む美術家にとって自由な自己表現が可能となる反面、経済的負担はけっして小さくない。ほとんどの大都市に点在しているが、東京の銀座・京橋界隈が貸画廊の街としてつとに知られている。作品の売買を主とする企画画廊(コマーシャル・ギャラリー)と対置されることが多い。貸画廊が定着した背景には、美術家たちの関心が団体展から個展へ移行したことがある。序列制度に貫かれた団体展は、個人として自立しようとする美術家にとって必ずしもふさわしい制度ではなく、針生一郎東野芳明中原佑介のいわゆる「御三家」に代表される戦後世代の美術評論家も個展への挑戦を盛んに唱えていた。その受け皿として、たとえば村松画廊(1942-2009)、タケミヤ画廊(1951-57)、サトウ画廊(1955-81)、内科画廊(1963-67)、ルナミ画廊(1963-98)、秋山画廊(1963-)、ときわ画廊(1964-98)、田村画廊(1969-2000)などが大きな役割を果たした。とはいえ、貸画廊といえども、時として美術評論家や学芸員を顧問や相談役として迎えたり、もしくは自ら自主的にグループ展を企画することもある。美術家から賃料を徴収する貸画廊が、キャリアに乏しい美術家にとって大きな足かせとなっている問題はかねてから指摘されてきた。ただその一方で、専門家や愛好家に鑑賞される機会がある程度確保されること、そしてそれを足がかりにその後大きく成長する美術家が少なくないことも否定できない事実だ。貸画廊が戦後日本の「現代美術」の歴史と同伴していることはまちがいない。


著者: 福住廉


Artwords(アートワード)「貸画廊」:artscape
http://artscape.jp/artword/index.php/%E8%B2%B8%E7%94%BB%E5%BB%8A


この福住廉氏による「貸画廊」の解説で抑えておくべきは、「個人として自立」する事を前提にした発表のかたち、即ち「個展」という極めて20世紀的な「形式」だろう。「個展」という「形式」は、「(近代的)個人」という「形式」を前提に行われるものである。そうした「個人」が「個展」を「画廊」で開かなければならない理由は何か。ここに「貸画廊」というシステムが成立する根本の一つがある。


例えば「私が作った作品を見て下さい」という「微笑ましい」理由によって開かれる「個展」が、様々な「貸会場」ではしばしば行われたりする。いや寧ろそれは「しばしば」ではなく、世に数多く存在する「貸会場」では、その方が圧倒的にメジャーな「個展」のかたちだ。そうした「個展」では、手習いの油絵や水彩画、工芸品やアクセサリーやフラワーアレンジメントが並べられている事が多い。しかしそうした「個展」と、ここで言われている様な現代美術の「貸画廊」での「個展」の意味は、全く異なるものだと一部ではされている。少なくとも山岸信郎氏の画廊の様な場所で「個展」を開く当事者、或いはその関係者にとっては、その「個展」はそれらの「手習い」や「趣味」の「個展」とは大いに異なり、そうした意味での「微笑ましいもの」、或いは「現代美術の手習い」(「現代美術」っぽい事を趣味でやってみました)としての「個展」と取られてしまってはならない。しかしその「差異」は如何なる理由によって可能なのだろうか。何故に山岸信郎氏の「貸画廊」で行われる「個展」は、「微笑ましい」ものと見られてはならないのであろうか。当事者を含めた誰も、「世界を変える」とは思っていない信用金庫のロビーや公民館で行われる「個展」とは違い、現代美術の「貸画廊」で行われる「個展」が、「世界を変える」とまでに当事者に認識(妄想)されているのは如何なる理由があっての事だろうか。


「砂場遊び」(「微笑ましいもの」。しかし当事者的には「世界を変える」とされる)とも揶揄された「貸画廊・田村画廊」、及び「貸画廊」という「形式」について、1980年代初頭(バブル以前)の段階での山岸信郎氏の考え方、及び自己評価が窺える内部資料がある。


 一、現況


 昭和四十四年二月、日本に於ける現代美術専門の貸画廊として、発足以来、若手作家の育成、紹介に努めてきたが、その間、多くの国際的作家を生み出し、今日では、当画廊での展覧会開催が、若手作家が世に出る第一の登竜門として評価されるに至っているため、その契約高は、業界最高とされている。(略)


〈注・貸画廊〉
 グループ展、個展会場として、展覧会希望者へ、会場を賃貸しする画廊。
 業務の主な目的は、画廊使用者への全面的なサービィスである。案内状の作成、作品の管理、美術界への積極的な紹介、等々。
 日本全国では百数十軒を数えるが、そのうち八〇%は東京・銀座、六本木を中心とする中央区、港区界隈に集中している。
 業務内容の優劣は、展覧会を希望する作家、及び作品の選択、国内外への美術館、美術界への関連度、紹介の積極度等によって評定されている。
 美術館、公共の展覧会場不足の日本に、独特な制度として発達したものであるが、この制度は新人作家発掘の場として、また、表現の自由を主とする現代美術の展開の場として日本の美術を活性化し、その力量を世界的なものとするのに多大な力となった。(略)


 二、展望


 貸画廊としての収支決算は、別紙の通り昭和四十五年以来、各年黒字である。しかし、いかに営利のみを目的とするものではない文化的事業とはいえ、利幅が非常に少ない点、スペース賃貸しという消極的経営では年間収益に自ずから限界があるという二点は、この業種が、個人的小企業を超えられない難点である。敢えて約言すれば、低収入で安定度あれど、伸展性なしと断ずる以外ない。
 以上の難点打開のため、当然考えられるべきことは、作品の販売、それに伴う取り扱い作品の拡張(現代美術以外の日本画、具象画、版画、工芸品)等、営業面の多角化である。この面では、国内外のコマーシャル画廊(画商画廊)と契約、地方への営業所設立等、鋭意、努力中であるが、一般社会の構造不況に基づく、美術品市場の停滞、美術品に対する投機上の不信、資金不足等、必ずしも楽観を許されないので、当画廊は、猶、細心の堅実策をとり、ここしばらくは、外国画廊との交換展、作家紹介等の代理業に主力をおいて行く計画である。(略)
 例えば、外国画廊へ日本人作家を紹介した際の収益は総画廊費の30%。
 グループ展等の申込みが多い。
〈注・販売の拡充も猶続行しておく〉
 一例としてあげれば、山形、ルミエール画廊は、七割が、日本画、具象系絵画、陶芸等、販売を主とする展覧会である。
 また、サンフランシスコ、バンナム・スペースの共同経営者、ソーカー・カスマン(引用者注:Soker Kaseman = ソーカー・ケースマンの事だろう)は、画商画廊(引用者注:サンフランシスコ・チャイナタウン近くのSoker-Kaseman Gallery1457 Grant Ave, San Francisco CA 94133 。「バンナム・スペース」の「バンナム」は、その「裏通り」の "Banam Pl" の "Banam" を指すものと思われる)の経営者であり、日本版画の、現地に於ける有力な販売業者である。しかし、美術作品の販売は、投機的要素が常に伴い、それを確実な収益の目安とすることは不可能である。


真木・田村画廊 業績状況説明書(1982年9月1日)


「今日では、当画廊での展覧会開催が、若手作家が世に出る第一の登竜門として評価される」。ここで行われる多くの「個展」が、「微笑ましいもの」としての「個展」と一線を画すのはこの部分にある。「制作した作品が、売れるとは、どの作家も余り期待していなかった(山岸信郎氏)」のは確かだろうが、一方で自分の名前が売れる事には大いに期待していた(していなかった者もいるかもしれないが)。「貸画廊」に於いて「専門家や愛好家に鑑賞される機会がある程度確保される(福住廉氏)」事がメリットの一つとされるのは、そうしたところから来ている。「貸画廊」で売られているのは「有形」の「作品」ではなく「無形」の「作家名」であり、その「客」は自らを忙しくさせてくれる何かである。「世に出る」事。即ちそれは「『世』への自らの影響力の相対的増大」を意味する。

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ここで個人的な話を書けば、「駒井画廊」「真木画廊」「(新)田村画廊」のそれぞれで展覧会を行った事がある。画廊主の視点では「貸画廊」だが、発表者の視点では「借画廊」である。その「貸/借画廊」の「賃貸料金」の具体的な数字は失念してしまったが、当時の大卒初任給まででは無かったものの「高額」であった事は確かだ。


「貸借」の「契約」をするに際して、山岸信郎氏による「事前審査」は無かった。制作途中の「作品チェック」も無かった。従ってその意味での「表現の自由」は存在した。展覧会の作品について、会期中に山岸信郎氏からは何も言われなかったし、また言われたところで「観客」からのそれと変わらなかっただろう。多かれ少なかれ、山岸信郎氏という画廊オーナーと、氏の「貸/借画廊」で展覧会を行った作家の関係の多くはそういうものであった様に思われる。


「アートスペース虹」に於ける「田村画廊ノート」展には埋め難い二重性が存在していた。画廊オーナーの山岸信郎氏の時間軸と、氏の画廊で行われていた事柄の時間軸である。山岸信郎氏が全ての展覧会等の「プロデューサー」や、全ての作家の「思想的リーダー」の位置にあったのであれば、その2つの時間軸は限りなく接近するだろう。しかし山岸信郎氏の画廊は飽くまでも「貸/借画廊」であるから当然そういう事にはならないし、必要以上に作家にコミットメントする事は「貸/借画廊」の「商道」に悖る。同展に展示されていた山岸信郎氏による数々のスクリプトと、彼の画廊で実際に行われていた事柄は、時々重なり合う事はあってもそれぞれ全く別の時間軸上に存在している。氏に対する「度量の広さ」と形容されるものは、実際には作家と一線を画す「傍観者」故のものであろう。山岸信郎氏には「傍観者」的であらねばならない「美術評論家」の肩書もある。恐らく「画廊主」であるよりも「美術評論家」の方が、氏にとっての「本来」的なものだったと想像される。そして自らが作家に対して「傍観者」の立場でいられるのが「貸/借画廊」であったのだろう。山岸信郎氏が、真木忍(=まきしのぶ)名を使って自らの画廊を「傍観者」的に記した文章が残っている。


 古い話、一九七〇年初め頃から、日本橋室町交差点の近くにT画廊という、すごく、薄よごれた感じの画廊があって、そこでは、やたら滅多に、ぶちこわしみたいな展覧会ばかりしていました。でも、その、ぶちこわしの中から、今、現代美術のスターといわれる人の何人かが巣立ったそうで、それは、その筋に詳しい人達がいうことですから多分本当のことなのでしょう。(略)
 時移り、既に十五年、T画廊も、今は、日本橋の裏通りに引越し、以前よりは、やゝ文化的雰囲気をかもし出しているようです。


「現代美術・澪つくし8 日陰の美術家二・三」山岸信郎(まき・しのぶ)
仁王立ち倶楽部10号1986年4月


http://www.araiart.jp/maki10.html


山岸信郎氏のこの「傍観者」的ポジションは、恐らく正しい自己認識に基づくものであろう。

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やがて山岸信郎氏の画廊の、日本の「現代美術」界に於ける求心性は失われる。「専門家や愛好家に鑑賞される機会がある程度確保される」事が「貸/借画廊」のメリットの一つだったとして、その「専門家や愛好家」は、「田村画廊」開廊から十数年後の1980年代中頃(上掲「現代美術・澪つくし8」より少し前)から、徐々にこの界隈に足を運ばなくなった。氏の画廊に集まる面子や話題が徐々に固定化し高齢化する。アルコールの力を借りる事で世界へのプロテストの回路を作動させようとしがちなそこを「楽園」とは思わなくなった多くの若い才能はここを去って行く。そして山岸信郎氏自身もまた、画廊で見掛ける事が稀になった。


1985年に「駒井画廊」を閉廊、1990年に「田村画廊」を閉廊。その翌年の1991年、東京都内に唯一残された「真木画廊」を「真木・田村画廊」に名称変更する。「田村画廊」が「伝説」の別名であるならば、その名を廃する事は出来なかったのだろう。そして「伝説」の名前が召喚された「真木・田村画廊」もまた、2001年にその幕を閉じる。


1969年の「田村画廊」オープン当時、「貸画廊」は一種の「救済」の場として見られていた。「美術館」を飛び出し、或いは追われた者のニーズに答える形で、「貸画廊」が存在していたという事はあるだろう。しかしそれも精々1970年代までの話だ。或る意味で「田村画廊(系)」という「何でも許してくれる」とされていた「美術」の「サンクチュアリ=楽園幻想」の記録がこの「田村画廊ノート」展だった。そしてこの展覧会に「ノスタルジー」を感じられるとしたら、それはそこに見られる「美術の風俗」にではなく、「画廊」での「個展」に重きを置く事に象徴される「美術の信憑」の形にあったと言える。

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この展覧会を開いていた「アートスペース虹」の熊谷寿美子オーナーは、「田村画廊」が「神田」にあるとは思っていなかった様だ。それを聞いて「憑き物」が落ちた。「神田」に多くの意味を見ようとするのは、その時代の東京を知っている者だけである。他所から見ればそれはどうでも良い話だ。


同展は9月15日(月)〜20日(土)まで、東京・銀座の「STEPS GALLERY」に「巡回」するという。

田村画廊ノート(前)

明日6月15日まで、京都三条通り沿いの「アートスペース虹」で、資料展「田村画廊ノート」が開かれている。「田村画廊」が何であるのかの説明はここでは省く。その名前を良く知っている者にとっては極めて重要な画廊であり、知らない者にとってはどうでも良い画廊であるに違いない。


この資料展についての詳細な感想は後編に任せる。ここでは展覧会の引きの画像を掲載するに留めておく。恐らくその内の幾つかは、1970年代から1980年代に掛けての日本現代美術に対して極めて関心のある者ならば、何処かで見た事のある写真が多数含まれているだろう。












「出品作家」は以下の通りである。



この資料展では「作家名」が「判明していない」写真も多く存在する(「森岡純」氏撮影のもの)。リアルタイムでそれらの展覧会を見て、またそこで展覧会すらもしていた身としては、その内の何人かの名前を上げる事は可能ではあるものの、ここでは敢えてその名前を記す事はしない。


田村画廊は1969年に開廊し、2001年に閉廊したものの、この資料展では1970年代初頭から1980年代中頃までの写真しか集められていない。例えばこの方http://d.hatena.ne.jp/mmpolo/20131214/1386988121が訪れた頃(1992年〜)の「田村画廊(真木・田村画廊)」の展覧会の写真は、一枚たりとも展示されてはいない。


いずれにしても、1970年代から1980年代まで、こういう事が行われていたギャラリーが東京に存在していた。それをまず俯瞰画像で見て貰う事にする。


【続く】

代表選出(第56回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展)

世界各地にその「名所」は存在する。


List of locations with love locks
http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_locations_with_love_locks






愛の南京錠(Love padlocks)とは恋人たちが永遠の愛の象徴として南京錠をフェンスや門扉、橋などの公共設備にかける儀式であり、その対象となる場所は世界中で増え続けている。鍵をかけるためのモニュメントが特設された土地もあるが、景観を損ねるだけでなく安全性に問題が出る恐れもあることから、やはり世界各地で撤去作業が行われている。1990年代から2000年代の始めにかけてみられるようになった現象で、その起源については定かではないが、セルビアやイタリアなどでは発祥となった伝説や作品まで遡ることができる。


ヨーロッパではこの現象が2000年代初頭に始まった。例えばパリでは恋人同士の名前をイニシャルで刻んだ南京錠を橋の欄干にかけ、セーヌ川に鍵を投げ捨てて不滅の愛の誓いとした。愛の南京錠の起源については諸説あり、この儀式が行われる場所ごとに由来があるが根拠には乏しく、文献もないことがほとんどである。ローマのミルヴィオ橋での愛の南京錠の大流行は、イタリアの作家フェデリコ・モッチャ(英語版)の2006年の小説 Ho voglia di te (君が欲しい)とその映画化作品のヒットによるものである(この小説は1992年の小説 Tre metri sopra il cielo (空より3メートル高い所)の続編にあたる第2作で、1作目は2004年にイタリアで映画化され、この2作目も2007年に映画化されている。また、スペインでも映画化されており、日本でも1作目は『空の上3メートル』、2作目は『その愛を走れ』の題でDVDが発売されている)。


同様にセルビアにある橋(この習慣にちなんで「愛の橋」と名づけられたモスト・リュバヴィ)についても、第二次世界大戦以前にまで遡ることができる。地元のヴラニスカ・バニャ出身のナーダという女教師は、セルビア人士官リルジャと恋におちた。互いに愛を誓い合った二人だが、リルジャはその後ギリシャへ行き、そこでコルフ島生まれの女性と恋をする。結果的にリルジャとナーダは破局し、ナーダはこの辛い経験から立ち直ることはないまま、しばらくして亡くなった。そして恋を成就させたいヴラニスカ・バニャの少女たちは、リルジャとナーダが逢い引きに使っていた橋の欄干に自分と恋人の名前を書いた南京錠をくくりつけるようになったといわれている。


台湾の豊原駅の鉄橋には対になった南京錠がいくつもかけられている。地元では「願いの鍵」として知られており、下を通る電車によって発生した磁場が鍵に蓄えられるエネルギーを産み出し、願いを叶えるという伝説が語られている。


日本では神奈川県湘南平公園のテレビ塔をめぐるフェンスがこの愛の南京錠をかける場所として知られている。一説によるとこの習慣は1991年ごろに始まるとされるが、そもそもなぜ南京錠なのかを含めてはっきりとしたことはわかっていない。美観を損ねるという理由から公園側が撤去作業を続けたため、愛の南京錠が付けられる箇所が江ノ島に移ったといわれている。


Wikipedia「愛の南京錠」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E3%81%AE%E5%8D%97%E4%BA%AC%E9%8C%A0


例えば、或るアーティストが大量の「南京錠」を自作品に必要であると考えたとして、この「愛の南京錠」システムを採用すれば、アーティスト側の「労働」としては、特にどうと言う事も無い「フェンス」や「植木」を設置するだけで良い。即ちそこに多くの人々が「南京錠」を掛けたくなる「システム」を作り上げさえすれば、後はアーティスト側が一切「労働」する事無く、「南京錠」が幾らでも集まるという訳である。ここでのアーティストへの評価は、その「システム」への評価になる。その「システム」が上手く機能すれば、結果として世界各地の「名所」同様の「壮観」が顕現するだろう。但しその「壮観」は、「システム」を作ったアーティストを含めて、誰一人としてその「壮観」をイメージする事が出来ないという点でも、アーティストが「構想」し「労働」した結果がもたらす「壮観」とは全く意味の異なる「壮観」だ。加えてその「協働」は、所謂「協働」の概念を超えた「協働」になるだろう。誰が絵馬籤の結び付け献花を見て、そこに「協働」を想起するであろうか。但し芸術の価値を芸術家の物理的労働と結び付ける立場からすれば、それは著しく無価値なものに見えるに違いない。作品公開と同時に作品が「完成」していないと「評価」の対象にもならないイベントでは、そうしたものは「『評価』のシステム」に於いて「不利」であると看做される。


因みに「愛の南京錠」の「世界的名所」の一つである「ポン・デ・ザール」は、「愛」の重量(推定93トン)で「崩壊」し始めたとの事である。


http://guardianlv.com/2014/06/pont-des-arts-bridge-starting-to-collapse/


「ポン・デ・ザール」で願掛けをする恋人達は、南京錠に鍵を掛けた後、その鍵をセーヌ川に投棄する。「ポン・デ・ザール」の下を浚渫すれば、泥沙に混じって大量の鍵が手に入るだろう。

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第56回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展日本館の出品作家が決定した。キュレーターによるステートメントの一部を引く。


開催時の政治状況や社会的出来事を扱った作品や、多様化した手法を用いた大規模なインスタレーションによる競争は、この国際展において昨今特に目新しいものではなく、それだけではもはや驚くに値しない。


展示空間に糸を張り巡らせる大規模なインスタレーションや、ドレス、ベッド、靴や旅行鞄など、日常生活のなかで人が使用した痕跡と記憶を内包するマテリアルを用い、作品を制作するベルリン在住の塩田千春。塩田もまた、近年のヴェネチア・ビエンナーレの趨勢に沿った大規模なインスタレーションを得意とする。


http://www.jpf.go.jp/venezia-biennale/art/j/56/statement.html


ここで言われている「趨勢」は「現状」を意味するのだろうか。そしてその「趨勢」は「目新しいものではなく、それだけではもはや驚くに値しない」ものという事だろうか。「企画提案書」によれば、「近年のヴェネチア・ビエンナーレの趨勢に沿った大規模なインスタレーションを得意とする」選出アーティストの「大規模なインスタレーション」は、「観るたびに新鮮さと力強さを失うことなく、『心』に直接浸透するような静けさや美しさを合わせもっていること」で、そうした「趨勢」から一線を画す(「特筆に値する」)ものであるとも読める。いずれにしても「ヴェネチア・ビエンナーレ対策」は、例えば「企業から求められる人物像=趨勢」から演繹して行く「面接試験対策」の様なものであろうか。しかし当然の事ながら「趨勢」のその先をこそ、アーティストは切り拓いていくべきという主張もあり得るだろう。


今回の「大規模なインスタレーション」には、約5万本の鍵が必要だという。


本展の新作インスタレーションでは5万本の鍵を使用します。
皆さまやご家族、ご友人等のご不要となった鍵を下記のとおり募集いたしますので、どうぞご協力お願い申し上げます。


・鍵の形状や状態は問いません。ただし、ロックではなくキーのみを募集しております。
・不要となった鍵を無償にてご提供いただける場合に限らせていただきます。
・恐れ入りますが、送料はご提供者様にてご負担をお願いいたします。
・ご提供は、郵送、宅急便等の配送のみに限ります(お持ち込みは、お受けすることができません)。
・展覧会終了後の鍵の返却はいたしません。
・ご提供者様のお名前の掲載、受領書の発行等はございません。


http://2015.veneziabiennale-japanpavilion.jp/


「集めてみたら5万本」ではなく、「集めるべきは5万本」が公式にアナウンスされている。「集めてみたら5万本」ならば「5万本」の意味が問われる事もそう無いだろうが、「集めるべきは5万本」の場合はそうしたあり得べき問いを回避する事は難しくなる。恐らくアーティストにとってその問いは馬鹿馬鹿しいものなのだろうし、実際作品を見ればそうした問いを発する事が、問う側からも馬鹿馬鹿しく思えるのかもしれない。それが「5万本」でなければならない理由は、その「空間を詰め尽くすような」作品を見れば得心が行くとも想像される。


「募集」中の「不要」という言葉が目に止まる。しかし「不要」という言葉には幅がある。「鍵の形状や状態は問いません」とするこの「募集」では、その「不要」の解釈は応募者に任されている。「廃棄処分」は「不要」の形の一つであり、「在庫処分」も「不要」の形の一つであり、「遺品処分」も「不要」の形の一つである。ヴェネチアの5万本は「廃棄処分」と「在庫処分」と「遺品処分」が混在するものになるかもしれない。更に数万回使用した「不要」がある一方で、一回も使用していない「不要」もある。しかしそうした「差異」は、「大切な人や空間を守るという身近にあるとても大事なものであり、また、扉を開けて未知の世界への行くきっかけをつくってくれるもの」という「表象」が「解消」してくれるのだろう。


「赤」と「糸」と「舟」と。それらが象徴するものは多くある。だがその象徴は文化圏によって異なる。「赤」と「糸」で「運命の赤い糸」を思い浮かべる者は、世界中でそれ程に多い訳では無い。その一方で「赤」と「糸」からこういうものを思い浮かべる者は多い。


さて彼女の出産の時がきたが、胎内には、ふたごがあった。


出産の時に、ひとりの子が手を出したので、産婆は、「これがさきに出た」と言い、緋の糸を取って、その手に結んだ。


そして、その子が手をひっこめると、その弟が出たので、「どうしてあなたは自分で破って出るのか」と言った。これによって名はペレヅと呼ばれた。


その後、手に緋の糸のある兄が出たので、名はゼラと呼ばれた。


「創世記」38:27-30



「赤」だけでも「勇気」や「犠牲」や「殉教」を象徴する事もあれば、「幸福」や「祝福」や「憎しみ」や「怒り」や「攻撃」や「情熱」や「危険」を象徴する事もある。そして「糸(string)」にも「舟(boart)」にも、そうした象徴の「振れ」は存在する。


「鍵」にもまた多くの象徴が存在する。


シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。


すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。


そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。


わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。


そのとき、イエスは、自分がキリストであることをだれにも言ってはいけないと、弟子たちを戒められた。


「マタイによる福音書」16:16-20



Coats of arms of the Holy See and Vatican City


「鍵」が象徴するものはこれに限らない。「服従」を表す事もあるし、「秘密」「制御」「力」「支配」「信頼」「慎重」「権威」、そして「主婦」というものもある。日本の「万葉集」にはこういう「鍵」もある。


さし並ぶ 隣の君は
あらかじめ 己妻離れて
乞はなくに 鍵さへ奉る


そして「愛の南京錠」の「鍵」は、それが再び使用され「解錠」される時には「失恋」を象徴するだろう。


物に何らかの意味を読み取らせようという試みの実現は極めてハードルが高い。しかし「『心』に直接浸透するような静けさや美しさ」があれば、それを乗り越えられるという「信憑」の立場が存在する事も理解する。その立場は、例えば「ペテロの第三の鍵」(「第一の鍵」はユダヤ人の為に、「第二の鍵」はサマリア人の為に、「第三の鍵」は異邦人の為にある)の様なものであろう。「瞬間の哲学」はそうした「世界宗教」的な「信憑」にこそ支えられていると言える。


前回のヴェネチア・ビエンナーレの代表選出では、「歓迎」から「失望」までのグラデーションが描かれた。そしてその時の多くの「失望」は「特別表彰」という結果の前に沈黙し、その「失望」は「特別表彰」を与えた者に「失望」するところまでには至らなかった。今回もまた「歓迎」から「失望」までのグラデーションが描かれている。今回この日本館の結果が如何なるものになっても、それでも「歓迎」は「歓迎」のまま、「失望」は「失望」のままでいられるだろうか。寧ろそここそが試されるのだと思われる。