田村画廊ノート(後)

承前


 六〇年安保で一身上にも様々なことがあり、その後遺症や虚脱感から何とか人並みの生活感覚を得るまで十年の歳月が過ぎ去っていた。朝鮮動乱の特需景気を受け、日本の経済は繁栄に向かっていたし、世情は六四年の東京オリンピックを前後して随分と賑わっていた。が、あの革命前夜を思わせるほど、積極的な行動を示した多くの若者達は、余程目ざとく時代の趨勢を読みとる者でない限り鬱屈した青春の日々を送っていた。(略)


 七〇年前夜
「夜なきそばの屋台を引こうや」
 哲学書を積んだ下宿屋で、わが仲間達は、毎日そんな相談に耽っていた。実際に、臨時雇いのガードマン、産休先生の代用教員、製薬会社の牛の薬の翻訳、画廊の俄かマネージャー等々が三〇才前後の院生や助手達の乏しい生活の資だった。


「画廊を開く」「誰が」「俺が」「金は」「ない」アルバイトに明け暮れしていた仲間では事業を始めるなど画期的な話だった。
 日本橋江戸通りに知人の開業医が居り、引っ越すからその跡で画廊でもやってみてくれないか、古ビルの一画だが親の代から譲り受けたものであり、医院の後が麻雀クラブやパチンコ屋では沽券にかかわるからというのが理由であった。


 六九年二月、十坪ばかりの木造二階建一階に間口二間の見るからに貧しそうな画廊がオープンした。名称は大家になる田村医師の名を冠した。資金が乏しかったので壁面は石綿のボード板を張りめぐらした。防火対策のためと吹聴したが、一センチ厚さのベニヤより安価だったからである。ライト・グレイを望んだが、その板の数が揃わずダークグリーンの壁になり、全体は海の底のような雰囲気になった。
 奥に一坪ばかりの事務室を設け中間に壁を立てて、二室にした。


(略)


 美大の学生も交えて、当時の学生は行き場を失っていたのだと思う。狭く、暗い画廊には、美術系の学生のみならず様々な若者が集まってきた。(略)底抜けの明るさと、底のない暗さが交錯し、様々なものが様々な形をとって雑然と現出していた。批評家は、そんな現象を「価値の多様化」という語でくくって説明した。(略)制作した作品が、売れるとは、どの作家も余り期待していなかった。著名な女流詩人はこの作家達の生業を「賞金稼ぎ」とした。


 かようにして画廊は、行き場のない学生や無頼派的芸術家、文化屋の集会所の様相を呈した。
 しかし、日に日に高まる高度経済成長の波は、その様な生産性の乏しい衒学的ともみえる悠長な時間を許すべくもなかった。
 一九七〇年の芳名帳には「この一億総猛烈社員時代に、こんな子供遊びみたいな美術はやめろ。無駄だ。憤慨する美術家」の達筆が残されているし、また当時、東京で一流とされていた画廊の経営者からは「ああいう砂場遊びは早くやめて、まともな作品を作るように若い作家に言ってあげなさい」と諭されたり、リッチな画廊のマダムからは「あんなことをやっていて、あなたも作家も、どんなメリットがあるの?」と厳しい忠告を受けた。


山岸信郎「田村画廊ノート あるアホの一生」


「田村画廊」は、1969年2月21日、東京都中央区日本橋室町3丁目にオープンした。その第一回展は、後年の「伝説」からすれば「らしからぬ」と言える「麻生三郎個展」(2月21日《金》〜3月9日《日》)だった。山岸信郎氏はそういう画廊を目指していたのだろうか。或いは話題性を狙っての「麻生三郎個展」だったのだろうか。



JR東日本総武本線新日本橋」駅(1972年7月15日開業)直上の室町3丁目交差点近くにそれは位置していた。上掲航空写真(1963年)の中央が室町3丁目交差点である。交差点を構成する横軸が江戸通り、縦軸が中央通りであり、初代「田村画廊」はその右下の低層建築ばかりが建つブロックの江戸通り沿いにあった。当時の江戸通りには、都電の「室町線(22系統)」が走っていて、「田村画廊」の目の前には都電の「室町三丁目」駅があった。


こちらの「写真No9-13」は、廃線(1971年3月18日)直前の都電22系統が室町3丁目交差点を通過している画像になるが、この都電車両向かって左側の「更地」が「田村画廊」が位置していたブロックに当たる。「田村画廊ノート」中の田村医師の「引っ越し」の理由は、恐らく「通勤五方面作戦」による「新日本橋」駅開業に伴う周辺地域開発に関連した「立ち退き」であり、その建物が極めて時限的にしか存在しない事情を言い含めての、山岸氏への「委譲」であったと思われる。「更地」に囲まれた初代「田村画廊」のすぐ横では、「新日本橋」駅「出口3」の工事が行われていただろう。「田村画廊」の「伝説」として語られているものの一つである清水誠一氏による床を掘り下げた展覧会(1972年8月7日〜13日)は、この室町3丁目時代の「取り壊し」が決定していた建物の中で行われたものだ。それは半ば「田村画廊」の「葬送」の儀式の様にも見える。



「通勤五方面作戦」承認(1964年6月)→田村医師の引っ越し→「田村画廊」開廊(1969年2月21日)→都電22系統廃線(1971年3月18日)→総武本線新日本橋」開業(1972年7月15日)→「清水誠一展」(1972年8月7日〜13日)。そして1973年5月を以って初代「田村画廊」は閉じられる事になる。その初代「田村画廊」跡地には、現在「北都銀行東京支店」が建ち、往時を偲ばせるものは何一つ残っていない。


「田村画廊ノート」中、しばしば山岸信郎氏の批判対象となっている「高度経済成長の波」によって、室町3丁目を追われる事になった「田村画廊」――しかし「高度経済成長の波」による田村医師の「立ち退き」が無かったら、「田村画廊」という名の「サンクチュアリ」も存在し得なかった――は、江戸通りを挟んだ斜向かい、中央区日本橋本町4丁目1番12号に存在していた「秋山画廊」(1963年〜)に間借りして再オープンする。床はコンクリートではなく、色変わりのピータイルである。ここでは穴を掘ったり、壁を壊したり、火を燃やしたりする事は不可能だ。「楽園」は4年で終わったのである。


1975年には「長谷川香料(株)」の本社でもあった中央区日本橋本町4丁目4番15号 本銀第二ビル1Fに「真木画廊」が、1977年9月には千代田区神田西福田町2 聖徳ビル2Fに「新田村画廊」が開く一方で、その1977年一杯で日本橋本町4丁目の「田村画廊」(元「秋山画廊」)が閉廊される。翌1978年に「新田村画廊」を「田村画廊」に名称変更。1979年に中央区日本橋室町3丁目2番9号 駒井ビルB1Fに「駒井画廊」を開き、1980年には山形に「ルミエール画廊」を開廊する。ここまでが「田村画廊」の「上げ潮」期と言えよう。


「田村画廊」は言わずと知れた「貸画廊」だ。1970年の室町3丁目時代の「賃料」は、1日6,000円 × 7日 = 42,000円 だった。1970年の大卒男子初任給とほぼ同額である。


貸画廊
Gallery for Rent


おおむね1960年代以後に定着した日本独特の画廊の形態。展覧会のための展示空間を美術家に貸し出し、その賃料によって運営する画廊を指す。グループ展として使われることもなくはないが、ほとんどの場合は個展の会場として利用される。発表の機会を望む美術家にとって自由な自己表現が可能となる反面、経済的負担はけっして小さくない。ほとんどの大都市に点在しているが、東京の銀座・京橋界隈が貸画廊の街としてつとに知られている。作品の売買を主とする企画画廊(コマーシャル・ギャラリー)と対置されることが多い。貸画廊が定着した背景には、美術家たちの関心が団体展から個展へ移行したことがある。序列制度に貫かれた団体展は、個人として自立しようとする美術家にとって必ずしもふさわしい制度ではなく、針生一郎東野芳明中原佑介のいわゆる「御三家」に代表される戦後世代の美術評論家も個展への挑戦を盛んに唱えていた。その受け皿として、たとえば村松画廊(1942-2009)、タケミヤ画廊(1951-57)、サトウ画廊(1955-81)、内科画廊(1963-67)、ルナミ画廊(1963-98)、秋山画廊(1963-)、ときわ画廊(1964-98)、田村画廊(1969-2000)などが大きな役割を果たした。とはいえ、貸画廊といえども、時として美術評論家や学芸員を顧問や相談役として迎えたり、もしくは自ら自主的にグループ展を企画することもある。美術家から賃料を徴収する貸画廊が、キャリアに乏しい美術家にとって大きな足かせとなっている問題はかねてから指摘されてきた。ただその一方で、専門家や愛好家に鑑賞される機会がある程度確保されること、そしてそれを足がかりにその後大きく成長する美術家が少なくないことも否定できない事実だ。貸画廊が戦後日本の「現代美術」の歴史と同伴していることはまちがいない。


著者: 福住廉


Artwords(アートワード)「貸画廊」:artscape
http://artscape.jp/artword/index.php/%E8%B2%B8%E7%94%BB%E5%BB%8A


この福住廉氏による「貸画廊」の解説で抑えておくべきは、「個人として自立」する事を前提にした発表のかたち、即ち「個展」という極めて20世紀的な「形式」だろう。「個展」という「形式」は、「(近代的)個人」という「形式」を前提に行われるものである。そうした「個人」が「個展」を「画廊」で開かなければならない理由は何か。ここに「貸画廊」というシステムが成立する根本の一つがある。


例えば「私が作った作品を見て下さい」という「微笑ましい」理由によって開かれる「個展」が、様々な「貸会場」ではしばしば行われたりする。いや寧ろそれは「しばしば」ではなく、世に数多く存在する「貸会場」では、その方が圧倒的にメジャーな「個展」のかたちだ。そうした「個展」では、手習いの油絵や水彩画、工芸品やアクセサリーやフラワーアレンジメントが並べられている事が多い。しかしそうした「個展」と、ここで言われている様な現代美術の「貸画廊」での「個展」の意味は、全く異なるものだと一部ではされている。少なくとも山岸信郎氏の画廊の様な場所で「個展」を開く当事者、或いはその関係者にとっては、その「個展」はそれらの「手習い」や「趣味」の「個展」とは大いに異なり、そうした意味での「微笑ましいもの」、或いは「現代美術の手習い」(「現代美術」っぽい事を趣味でやってみました)としての「個展」と取られてしまってはならない。しかしその「差異」は如何なる理由によって可能なのだろうか。何故に山岸信郎氏の「貸画廊」で行われる「個展」は、「微笑ましい」ものと見られてはならないのであろうか。当事者を含めた誰も、「世界を変える」とは思っていない信用金庫のロビーや公民館で行われる「個展」とは違い、現代美術の「貸画廊」で行われる「個展」が、「世界を変える」とまでに当事者に認識(妄想)されているのは如何なる理由があっての事だろうか。


「砂場遊び」(「微笑ましいもの」。しかし当事者的には「世界を変える」とされる)とも揶揄された「貸画廊・田村画廊」、及び「貸画廊」という「形式」について、1980年代初頭(バブル以前)の段階での山岸信郎氏の考え方、及び自己評価が窺える内部資料がある。


 一、現況


 昭和四十四年二月、日本に於ける現代美術専門の貸画廊として、発足以来、若手作家の育成、紹介に努めてきたが、その間、多くの国際的作家を生み出し、今日では、当画廊での展覧会開催が、若手作家が世に出る第一の登竜門として評価されるに至っているため、その契約高は、業界最高とされている。(略)


〈注・貸画廊〉
 グループ展、個展会場として、展覧会希望者へ、会場を賃貸しする画廊。
 業務の主な目的は、画廊使用者への全面的なサービィスである。案内状の作成、作品の管理、美術界への積極的な紹介、等々。
 日本全国では百数十軒を数えるが、そのうち八〇%は東京・銀座、六本木を中心とする中央区、港区界隈に集中している。
 業務内容の優劣は、展覧会を希望する作家、及び作品の選択、国内外への美術館、美術界への関連度、紹介の積極度等によって評定されている。
 美術館、公共の展覧会場不足の日本に、独特な制度として発達したものであるが、この制度は新人作家発掘の場として、また、表現の自由を主とする現代美術の展開の場として日本の美術を活性化し、その力量を世界的なものとするのに多大な力となった。(略)


 二、展望


 貸画廊としての収支決算は、別紙の通り昭和四十五年以来、各年黒字である。しかし、いかに営利のみを目的とするものではない文化的事業とはいえ、利幅が非常に少ない点、スペース賃貸しという消極的経営では年間収益に自ずから限界があるという二点は、この業種が、個人的小企業を超えられない難点である。敢えて約言すれば、低収入で安定度あれど、伸展性なしと断ずる以外ない。
 以上の難点打開のため、当然考えられるべきことは、作品の販売、それに伴う取り扱い作品の拡張(現代美術以外の日本画、具象画、版画、工芸品)等、営業面の多角化である。この面では、国内外のコマーシャル画廊(画商画廊)と契約、地方への営業所設立等、鋭意、努力中であるが、一般社会の構造不況に基づく、美術品市場の停滞、美術品に対する投機上の不信、資金不足等、必ずしも楽観を許されないので、当画廊は、猶、細心の堅実策をとり、ここしばらくは、外国画廊との交換展、作家紹介等の代理業に主力をおいて行く計画である。(略)
 例えば、外国画廊へ日本人作家を紹介した際の収益は総画廊費の30%。
 グループ展等の申込みが多い。
〈注・販売の拡充も猶続行しておく〉
 一例としてあげれば、山形、ルミエール画廊は、七割が、日本画、具象系絵画、陶芸等、販売を主とする展覧会である。
 また、サンフランシスコ、バンナム・スペースの共同経営者、ソーカー・カスマン(引用者注:Soker Kaseman = ソーカー・ケースマンの事だろう)は、画商画廊(引用者注:サンフランシスコ・チャイナタウン近くのSoker-Kaseman Gallery1457 Grant Ave, San Francisco CA 94133 。「バンナム・スペース」の「バンナム」は、その「裏通り」の "Banam Pl" の "Banam" を指すものと思われる)の経営者であり、日本版画の、現地に於ける有力な販売業者である。しかし、美術作品の販売は、投機的要素が常に伴い、それを確実な収益の目安とすることは不可能である。


真木・田村画廊 業績状況説明書(1982年9月1日)


「今日では、当画廊での展覧会開催が、若手作家が世に出る第一の登竜門として評価される」。ここで行われる多くの「個展」が、「微笑ましいもの」としての「個展」と一線を画すのはこの部分にある。「制作した作品が、売れるとは、どの作家も余り期待していなかった(山岸信郎氏)」のは確かだろうが、一方で自分の名前が売れる事には大いに期待していた(していなかった者もいるかもしれないが)。「貸画廊」に於いて「専門家や愛好家に鑑賞される機会がある程度確保される(福住廉氏)」事がメリットの一つとされるのは、そうしたところから来ている。「貸画廊」で売られているのは「有形」の「作品」ではなく「無形」の「作家名」であり、その「客」は自らを忙しくさせてくれる何かである。「世に出る」事。即ちそれは「『世』への自らの影響力の相対的増大」を意味する。

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ここで個人的な話を書けば、「駒井画廊」「真木画廊」「(新)田村画廊」のそれぞれで展覧会を行った事がある。画廊主の視点では「貸画廊」だが、発表者の視点では「借画廊」である。その「貸/借画廊」の「賃貸料金」の具体的な数字は失念してしまったが、当時の大卒初任給まででは無かったものの「高額」であった事は確かだ。


「貸借」の「契約」をするに際して、山岸信郎氏による「事前審査」は無かった。制作途中の「作品チェック」も無かった。従ってその意味での「表現の自由」は存在した。展覧会の作品について、会期中に山岸信郎氏からは何も言われなかったし、また言われたところで「観客」からのそれと変わらなかっただろう。多かれ少なかれ、山岸信郎氏という画廊オーナーと、氏の「貸/借画廊」で展覧会を行った作家の関係の多くはそういうものであった様に思われる。


「アートスペース虹」に於ける「田村画廊ノート」展には埋め難い二重性が存在していた。画廊オーナーの山岸信郎氏の時間軸と、氏の画廊で行われていた事柄の時間軸である。山岸信郎氏が全ての展覧会等の「プロデューサー」や、全ての作家の「思想的リーダー」の位置にあったのであれば、その2つの時間軸は限りなく接近するだろう。しかし山岸信郎氏の画廊は飽くまでも「貸/借画廊」であるから当然そういう事にはならないし、必要以上に作家にコミットメントする事は「貸/借画廊」の「商道」に悖る。同展に展示されていた山岸信郎氏による数々のスクリプトと、彼の画廊で実際に行われていた事柄は、時々重なり合う事はあってもそれぞれ全く別の時間軸上に存在している。氏に対する「度量の広さ」と形容されるものは、実際には作家と一線を画す「傍観者」故のものであろう。山岸信郎氏には「傍観者」的であらねばならない「美術評論家」の肩書もある。恐らく「画廊主」であるよりも「美術評論家」の方が、氏にとっての「本来」的なものだったと想像される。そして自らが作家に対して「傍観者」の立場でいられるのが「貸/借画廊」であったのだろう。山岸信郎氏が、真木忍(=まきしのぶ)名を使って自らの画廊を「傍観者」的に記した文章が残っている。


 古い話、一九七〇年初め頃から、日本橋室町交差点の近くにT画廊という、すごく、薄よごれた感じの画廊があって、そこでは、やたら滅多に、ぶちこわしみたいな展覧会ばかりしていました。でも、その、ぶちこわしの中から、今、現代美術のスターといわれる人の何人かが巣立ったそうで、それは、その筋に詳しい人達がいうことですから多分本当のことなのでしょう。(略)
 時移り、既に十五年、T画廊も、今は、日本橋の裏通りに引越し、以前よりは、やゝ文化的雰囲気をかもし出しているようです。


「現代美術・澪つくし8 日陰の美術家二・三」山岸信郎(まき・しのぶ)
仁王立ち倶楽部10号1986年4月


http://www.araiart.jp/maki10.html


山岸信郎氏のこの「傍観者」的ポジションは、恐らく正しい自己認識に基づくものであろう。

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やがて山岸信郎氏の画廊の、日本の「現代美術」界に於ける求心性は失われる。「専門家や愛好家に鑑賞される機会がある程度確保される」事が「貸/借画廊」のメリットの一つだったとして、その「専門家や愛好家」は、「田村画廊」開廊から十数年後の1980年代中頃(上掲「現代美術・澪つくし8」より少し前)から、徐々にこの界隈に足を運ばなくなった。氏の画廊に集まる面子や話題が徐々に固定化し高齢化する。アルコールの力を借りる事で世界へのプロテストの回路を作動させようとしがちなそこを「楽園」とは思わなくなった多くの若い才能はここを去って行く。そして山岸信郎氏自身もまた、画廊で見掛ける事が稀になった。


1985年に「駒井画廊」を閉廊、1990年に「田村画廊」を閉廊。その翌年の1991年、東京都内に唯一残された「真木画廊」を「真木・田村画廊」に名称変更する。「田村画廊」が「伝説」の別名であるならば、その名を廃する事は出来なかったのだろう。そして「伝説」の名前が召喚された「真木・田村画廊」もまた、2001年にその幕を閉じる。


1969年の「田村画廊」オープン当時、「貸画廊」は一種の「救済」の場として見られていた。「美術館」を飛び出し、或いは追われた者のニーズに答える形で、「貸画廊」が存在していたという事はあるだろう。しかしそれも精々1970年代までの話だ。或る意味で「田村画廊(系)」という「何でも許してくれる」とされていた「美術」の「サンクチュアリ=楽園幻想」の記録がこの「田村画廊ノート」展だった。そしてこの展覧会に「ノスタルジー」を感じられるとしたら、それはそこに見られる「美術の風俗」にではなく、「画廊」での「個展」に重きを置く事に象徴される「美術の信憑」の形にあったと言える。

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この展覧会を開いていた「アートスペース虹」の熊谷寿美子オーナーは、「田村画廊」が「神田」にあるとは思っていなかった様だ。それを聞いて「憑き物」が落ちた。「神田」に多くの意味を見ようとするのは、その時代の東京を知っている者だけである。他所から見ればそれはどうでも良い話だ。


同展は9月15日(月)〜20日(土)まで、東京・銀座の「STEPS GALLERY」に「巡回」するという。