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はならぁと こあ「人の集い」

我が国は2008年をピ―クに人口減少局面に入った。合計特殊出生率は、ここ数年若干持ち直しているものの1.43と低水準であり、2050年には人口が1億人を割り込み、約9700万人になると推計されている。また、これに伴って、人口の地域的な偏在が加速する。我が国の約38万km2の国土を縦横1kmのメッシュで分割すると、現在、そのうちの約18万メッシュ(約18万km2)に人が居住していることになるが、2050年には、このうちの6割の地域で人口が半減以下になり、さらにその1/3(全体の約2割)では人が住まなくなると推計される。

 

国土交通省「国土のグランドデザイン2050」

http://www.mlit.go.jp/common/001047113.pdf

 

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沿線自治体の補助金がその運営を支えている「第三セクター」の非電化路線(軌道幅1067ミリ)に6年前に乗って以来、久々に単線(軌道幅1067ミリ)の鉄路に乗った。生まれて初めての近畿日本鉄道吉野線。二両から四両編成の路線で、一日で最も運転本数の多い朝夕の「通勤・通学時間帯」に、一時間辺り上下線各数本の列車が運行される(注1)。

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(注1)JST同時間帯の東京の山手線――事実上の複々線――は、2016年時点で乗車率250%オ―バ―で1分から2分間隔で11両編成の列車が運行される。

自分が生まれ育ったところは「東京都」だが、半世紀以上前に通っていた町立小学校――二年生になって市立小学校(至現在)になる――の前を走る私鉄の路線もまた、軌道幅1067ミリの単線だった。駅間で電車が停まり、対向列車を待つ。その状況は21世紀の現在も全く変わっていない。半世紀前には運転手と車掌の二人体制だったものが、寧ろ今では乗務する「ひと」を減らしたワンマン運転に変わっている。

「東京都」を走るこの路線を、将来複線化する意味も無いだろう。何故ならば、その沿線の「東京都」の一帯は、2014年に発表された国土交通省の「国土のグランドデザイン2050」的な表現を借りれば、2010年/2050年比較で「0%以上50%未満減少」地域の中にすっぽりと入り込んでいるからだ。果たして「ひと」が減るばかりの「東京都」を通る鉄路を、これから複線化する様な経営者はいるだろうか。寧ろやがてはこれを廃線にしてコミュニティ・バス路線への切り替えをこそ視野に入れるべき過疎化の「東京都」ではないか。

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この一帯の「東京都」は、元々が畑作の農家ばかりであったところに、昭和30年(1955年)前後に他所から集まって来た「入植」者達によって急速に膨らんで作り上げられた町だ。「入植」者達の幾人かは店を構えた。畑と畑の間に新たに何軒もの八百屋が出来、魚屋が出来、肉屋が出来た。

その「東京都」が現在の町の形になってから60年以上になる。20年程前から「入植」者の第一世代は鬼籍に入る年齢になった。「入植」第一世代で最も若年だった「星野六子」ですら――生きていれば――75歳だ。昭和の20代から30代に掛けての「入植者」の強健な足で徒歩数分――80代になった足では徒歩10分強――の圏内にあった数十の「家族」経営の店を継ぐ者は誰一人としていない。「入植」第二世代の多くは――店の二代目になると見込まれていた者も含め――この「東京都」を離れて行った。その結果、全ての八百屋が消え、全ての魚屋が消え、全ての肉屋が消え、その代わりに80代の足で片道20分強を要する築50年のス―パ―が残った。

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現在「入植」第二世代で、駐車場等の転用も儘ならない空き家、或いは植物にすっかり覆われてしまった空き地の増えたこの界隈に残っているのは、第一世代と同居する60歳前後の独身者ばかりになった。

彼等から第三世代は生まれない。極めて近い将来、同じ家に二世代の年金生活者だけが住むという図が普通になるだろう。「老人」ばかりになったこの「東京都」に、新たに入って来ようという「現役」世代がいないが故に、小中学校の下校時間になっても子供の声は一向に聞こえない。半世紀以上前に自分が通っていた幼稚園は、21世紀に入って「ベネッセの有料老人ホ―ム」になった。自分が卒業した市立小学校の現在の生徒数は、その当時の1/4になった。2050年を待たずにひたすら進行して行く「0%以上50%未満減少」の「東京都」。

小学校のクラス数が増え続け、サザエさんが放映開始(1969年)した頃の「家族」観を反映した「二世帯住宅」として建てられたヘ―ベルハウス(例)が、肝心のその「二世帯」目――フグ田家(例)――が住む事も無く、建てて30年で――その物理的な耐用年数の到来を前に――「老人」となった第一世代が持て余す広さになり、やがてそのヘ―ベルハウス(例)は「ひと」が「もの」の増殖――「ひと」がその増殖に加担する――に敗北する「ゴミ屋敷」(注2)にもなって行くという「東京都」である。

(注2)この「東京都」への「入植」第一世代が若かった頃の経済成長時に、それを持つ事が「憧れ」であった耐久消費財、所謂「三種の神器」の「冷蔵庫」や「自動車」も、「老人」となった彼等が現在「所有」するそれらの内部は、往々にして通電したままやナンバ―プレ―トが付いたまま/タイヤのエアが抜け切ったままの「ゴミ屋敷」と化す。

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国土交通省「国土のグランドデザイン2050」の予測によれば、2050年になっても東京都で人口増加しているのは――目立ったところでは江東区中央区の全域、港区の一部、八王子市南東部位のものである。その中の港区にある六本木は、縮小し続ける東京都にあって例外的に人口増加が見込まれている地域だが、果たして2050年の六本木にも「六本木クロッシング」や「六本木ア―トナイト」は残っているだろうか。しかし、21世紀初頭の日本人が呼び習わしているところの所謂「アート」は、2050年には最早六本木位にしか残っていないという可能性も考えられなくはない。

 現在、多くの地方都市は、人口減少や少子・高齢化、過疎化等の問題を抱えており、そしてこれらに起因する社会・人口構造の変化や郊外型大規模ショッピングセンタ―の台頭等により、中心市街地の空洞化が加速するなど地域の活力が減退している。
 国も中心市街地活性化のための助成など対策を講じて支援しているところであるが、地域の活力を再び取り戻すため、地域の特性や環境にマッチしたさまざまな方策により地域再生地域活性化をめざす積極的な取り組みが全国各地の都市で展開されている。
そうしたなか、現代ア―トが地域活性化のシ―ズとして着目されるようになった。ヨ―ロッパでは 1980 年代より産業構造の転換をきっかけに多くの都市で芸術文化の持つ創造性に注目し、芸術文化と各都市の既存資源を組み合わせた都市再生戦略が組まれるようになり、バルセロナやボロ―ニャのように芸術文化のまちとしての地位を確立した都市も多い。そして、わが国でも横浜市金沢市等が、芸術文化による都市再生を標榜する「クリエイティブシティ(創造都市)」としての構想をいち早く掲げ、都市戦略を策定・実践し、地域活性化に向けた積極的な取り組みを進めている。

 

日本政策投資銀行「現代ア―トと地域活性化」(PDF)
http://www.dbj.jp/pdf/investigate/area/kyusyu/pdf_all/kyusyu1009_01.pdf

 これは藤田直哉氏編著の「地域ア―ト」でも紹介されている日本政策投資銀行の2010年のレポ―ト「現代ア―トと地域活性化」の冒頭部である。その最初のセンテンスに書かれている様に、「地域の活力」が「減退」する主因は、「人口減少や少子・高齢化、過疎化」にある事に誤りは無い。そして非情の予測である「国土のグランドデザイン2050」が描く2050年には、その様な「人口減少や少子・高齢化、過疎化」は、21世紀初頭の様な「地方都市」に限った話ではなくなる。

仮に「現代ア―トが地域活性化のシ―ズ」として有効視されるのであれば、2050年には「首都圏」を含む日本のあらゆる場所が「地域活性化」の「種」を切実に望む事になるだろう。近い将来、その「種」は日本全国に遍く撒かれる事になるのかもしれない。しかし果たして「地域活性化」を求めて止まない地――(例)2050年の「東京都」――に住む者が、他の「地域活性化」を求めて止まない地――(例)2050年の「瀬戸内」――に出掛けて行って「互助」的に金を落とすものだろうか。いずれにせよ、その様な「活力」創出の「地域活性化」策では、「人口減少や少子・高齢化、過疎化」を止める根本的な手段には到底ならないだろう。「関係性の美学(例)」と「人口減少や少子・高齢化、過疎化」は凡そ別位相にあるからだ。

有りがちな人類滅亡のシナリオの様に、人類間の大規模な相互殺戮が起こらずとも、微生物を含めた未知の不明生物が前触れ無く出現せずとも、人間の能力を超えた電子計算機が人間に対して叛乱を起こさずとも、地球環境が人類の生息に適さないまでに激変せずとも、そうした創作物映えするトピックを一切経由せずに、「結婚」や「出産」を経験した者がそれらを良きものとして口にする事が最大級のハラスメントの一つになった日本列島では――人類全体の頭数が増える一方で――僅か30数年1世代で――あの「太平洋戦争」を含む「15年戦争」の戦没者とほぼ同数の――300万人の人間がだらだらと知らぬ間に減り、後に残るのは「老人」ばかりになって行くというのは、疑い無きものとされてきたものを疑う事を良しとする(注3)という、「先進国」的な「ひと」の「習慣」の必然的結果の一つでしかない。リアルな「ロスト・ヒュ―マン」とは、まさしく現在進行形の「習慣」の中にこそあるものなのである。

(注3)当然の事ながら「ア―ト」もその「習慣」の内にある。

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以下の「はならぁと」の「こあ」、「人の集い」に関する記述は、それが始まって間も無い10月初旬段階での話になる。「捩子ぴじん」氏のパフォーマンスも見ていない。複数の「人の集い」に関する報告例を見たところでは、「バ―ジョン・アップ」はその終了の日(10月31日)までに様々にされていた様だ。それらの報告例を見る限りに於いて、始まって間も無い時点で自分が体験したものと異なっているところもある。

但し「機会」というものは、誰に対しても「均しい」ものには決してならない。そして「機会」が、商取引に於ける公平性の如き「均しい」ものになど決してならないというところに、「人の集い」が指し示すものの一つはあるだろう。

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初めての近鉄吉野線の、壺阪山という初めての駅を降りる。ICカード対応自動改札機を自分を含めた3人が通る。読み取り部にチケットが溜まった PASMO をタッチする。

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同駅は「はならぁと 2016」の「こあ」=「人の集い」の「降車駅」であると「はならぁと」公式サイトには書かれている。

これから赴く場所は、「国土のグランドデザイン2050」では「50%以上100%未満減少」の地域とされている。1970年に9,413人だった当地の人口は、2016年には7,083人という事らしい。これから数十年で「東京都」ですら起きる事が、ここでは始まって既に久しい。「全国の年齢別人口分布」で目立つ「団塊ジュニア」のピ―クはここには無い。或る意味で、ここは「都市部」の「未来」を数十年先取りしている「最先端」の地なのである。

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Wikipedia「高取町」のスクリ―ンショット

さても「人の集い」の会場に向かうにはどうすれば良いのか。しかしこの日、駅構内にも駅周辺にもそれらしき案内は皆無だ。駅舎の中のパンフレット・ラックにも「はならぁと」のものは無かった。

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駅舎を出てすぐ左に「町家のかかし巡り」を案内する「かかし」がいた。ただしそれは農作物を荒らす「カラス」等の「害獣避け」を目的とした生活の中のものではなく、既に「かかし」という概念を拡張した等身大の「人形」だった。しかし恰もそこに「人間」がいると一瞬錯覚させる――一方は「害獣」に対して、一方は「ひと」に対して――という点のみで言えば、両者は恐らく同じものである。

いずれにしても高取の地元にあっては、「はならぁと」<<<<「町家のかかし巡り」という扱いなのだろうと判断し、仕方が無いので、スマ―トフォンを出して「はならぁと」の公式サイトを表示し、自らの進むべき方向を探ろうと思ったその時、案内「かかし」の右手奥、駐車場のフェンスに「町家のかかし巡り」の看板が括り付けられている事に気付いた。そして同時に、その看板の中央に「奈良・町家の芸術祭 はならぁと 同時開催!」の文字を発見する。

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察するところがあった。

急いで案内「かかし」まで戻る。そして「かかし」の前のテ―ブルに用意されていた「町家のかかし巡り」のマップ(B4サイズ/片面印刷)を一枚取る。手に取って「ああ、やはり」と思った。その「町家のかかし巡り」のマップは「はならぁと」のマップを兼ねていた。「町家のかかし巡り」のマップの中に、「牛の居る所」や「じいちゃん・ばあちゃんの館」等に混じって、フェンスの看板には記されていなかった「はならぁと作品展示」の位置が書かれている。

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「はならぁと」の「こあ」は、「町家のかかし巡り」の「同時開催」の位置にある。或いはその位置にある事を装っている。「敵」――「余所者」ーー認定で終わってしまう事を避ける為のその政治的戦略――全方位的に成功しているか否かは別にして――こそが「はならぁと」の「こあ」に於けるキュレ―ションの「こあ」の一つを形成している。壺阪山駅の改札を通った瞬間に、キュレ―ションとキュレ―ションが戦う場の中に既にいたのだ。

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内側と外側が反転した「驚異の部屋」と化した駅前食堂(双葉食堂)を抜けて国道169号を渡る。幾つかのシャッタ―の閉じられたままの建物を過ぎる。土佐街道の「入口」/「出口」――古地図には存在していないセンタ―ラインが引かれた道の「入口」/「出口」でもある――には、「土佐街道周辺景観住民協定 土佐街道まちなみ作法 七つの心得」なる立て札があった。「この協定は住民の自主的なル―ルであり、法的規制ではありません」と書かれている。その立て札が立つ交差点の周辺をぐるりと見渡してみて、テ―マパ―ク内のデザイン規制にまでは至らないその「協定」の拘束力を確認する。

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高取城跡に向かって上り坂になっている元城下町土佐街道の「入口」/「出口」にある「協定」の向かいの「牛の居る所」には、その日――印象として――平均70歳の一群で溢れていた。聞けば「町家の案山子めぐり」バスツア―の人達であるという。そこから土佐街道の道一杯に広がって、互いの顔を見合わせておしゃべりに興じつつ「散策」を始める時速2キロメ―トルで道一杯に進む一群を、2頭の30代と思しき牧羊犬(ツア―コンダクタ―)が率いていて、「は〜い、クルマが通りますよ〜。端に寄って下さ〜い」とバウワウ吠えている。

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2015年10月11日の朝日新聞記事によれば、今年で8回目となった「町家のかかし巡り」は2009年に始まっているらしい。

60歳以上の会員を中心につくる「天の川実行委員会」が、地域の活性化につなげようと活動している(略)実行委員会は、春には民家にひな人形を飾る「町家の雛(ひな)めぐり」を開催している。07年以降、土佐街道沿いには新たに6軒の飲食店などができ、活気が戻ってきた。代表の野村幸治さん(73)は「定年になった人の時間を有効活用して町を活気づけたい。町がにぎやかになれば、お年寄りも元気がもらえる」と話している。(朝日新聞 2015年10月11日)

60歳以上が作り、平均70歳が見に来る――10月1日から同月31日までの――「地域活性」。確かにこの日の土佐街道は「にぎやか」だった。高取にやって来たゲストの平均70歳の一群は――それぞれ自身の懐旧譚を口に――とても楽しそうに振る舞って――互いに楽しさを交換可能なものとしてプレゼンテ―ションし合って――いて、また当然の事ながらホストの60歳以上もとても楽しそうだ。不透明的な「未来」に向けての話ではなく、透明的なものと信じ込んでいる「過去」に向けての話ばかりが飛び交う、「お年寄り」で「にぎやか」な町の風景。しかしそれは既に、日本の何処でも見られる普通の光景だ。

「お年寄り」がここにバスを仕立ててまでやって来るのは、「幸福」で「愉快」で「無邪気」(公式ガイドブック:遠藤水城氏のテクストから)なものを、それとして再確認しに来るからだ。「幸福」や「愉快」や「無邪気」(それらを合わせたものとして、以後それを「心地の良さ」とする)とされるものは、他ならぬそれを求める者自身の「心地の良さ」観に基いて認識される。即ち「心地の良さ」は、「条件と限界」(遠藤水城氏)、即ち “requirement"(要件=環境)の内にある。「見たいものをしか見ない」というのが「心地の良さ」の正体だ。

「お年寄り」が「心地の良さ」を求めて物見遊山でこの地にやって来なければならないのは、彼等自身の「心地の良さ」それ自体が「条件と限界」= “requirement" の内にあるが故に、「心地の良さ」の「条件」の成立が困難なものになり、その「限界」が露呈してしまった21世紀の日本の彼等の日々の生活の中で、すっかり非日常になってしまっているからだ。

やがて「50%以上100%未満減少」という、或る意味で「心地の良さ」の対極状態になる事が事実上決定的なもの=宿命になってしまっているこの町――「町家」という「ひと」が住む(最低限「資産として所有する」でも良い)場所の保全には、人口流入を含むこの地の「ひと」の「世代交代」が極めて現実的な絶対条件となる――を、些かの厚みも持たない開店祝の花輪の如き――花輪の花はそこには根付かない。宴が終わればそれは捨てられる――「にぎやか」によって「活気づけたい」60歳以上の「お年寄り」の「心地の良さ」観は、この催しに集う平均70歳の「お年寄り」も多く共有する。

この「町家のかかし巡り」が、キュレ―ションされたものである事は言を俟たない。そこに集っている「かかし」は、60歳以上の高取町の「善男善女」による「オ―ディション」を「無事」に通過しているものばかりだ。この土佐街道、この高取町、或いは隣の「神武天皇陵」――「天皇制」の近代的「整備」と並行して行われた明治以降の「京都御苑」「伊勢神宮」「熱田神宮」「皇居」等の「整備」同様、大正年間に現在見られる様な「清浄」な空間/景観に「整備」される事で「聖蹟」となった(注4)――がある橿原市、或いはまた奈良県近畿地方や日本全国や世界全体の歴史を少しでも浚ってみれば、「心地の良さ」が条件である「町家のかかし巡り」に集う権利を持たされていない多くの「かかし」の存在を想像する事は十分に可能だ。

(注4)参考「吾等は、窮天極地、此山の尊厳を持續して、以て天壊無窮に、日東大帝國開創の記念としたいと思ふ。驚く可し。神地、聖蹟、この畝傍山は、甚しく、無上、極點の汚辱を受けて居る。知るや、知らずや、政府も、人民も、平氣な顔で澄まして居る。事覽はこうである。畝傍山の一角、しかも神武御陵に面した山脚に、御陵に面して、新平民の墓がある、それが古いのでは無い、今現に埋葬しつゝある、しかもそれが土葬で、新平民の醜骸はそのまま此神山に埋められ、靈土の中に、爛れ、腐れ、そして千萬世に白骨を残すのである。土臺、神山と、御陵との間に、新平民の一團を住まはせるのが、不都合此上なきに、之に許して、神山の一部を埋葬地となすは、事こゝに到りて言語道斷なり。聖蹟圖志には、此穢多村、戸数百二十と記す、五十餘年にして、今やほとんど倍數に達す。こんな速度で進行したら、今に靈山と、御陵の間は、穢多の家で充填され、そして醜骸は、をひ\/霊山の全部を浸蝕する。」後藤秀穂「皇陵史稿」(1913・大正2年)

「町家のかかし巡り」には、「お年寄り」の資産を虎視眈々と狙う「振り込め詐欺」の「かかし」はいない様だ。「デイケア」の介護士の「かかし」も探したものの見付からなかった。「アニヲタ」の「かかし」もここにはいない。もしかしたら「同性愛」者の「かかし」もいないかもしれない。19世紀の「開国」以降――現在までに――近隣の国から来た「外国人」の「かかし」はどうだろう。しかしそうした「現実」的な存在は、「心地の良さ」を何よりも尊ぶ「天の川実行委員会」のキュレ―ションによって「見えない」ものとされている。

会期中に41歳になった――2050年には75歳になる――キュレ―タ―がキュレ―ションした「人の集い」――その参加作家の全ても2050年には(存命であれば)「老人」である――は、この「心地の良さ」に基づいてキュレ―ションする「お年寄り」達と、敢えて同居する事を選択した。その結果、所謂「地域ア―ト」に期待されもする「地域活性化」の役目を、「地元」の「町家のかかし巡り」に全面的に委ねる事で、「地域アート」とされるものが、「地域」に於ける「にぎやか」を「創出」しなければならないという軛から逃れられてもいる。

豪壮だった山城が嘗て聳えていた方向に向かう、名目的には明治6年の高取城の廃城まで「城下町」だった土佐街道のだらだら坂を登って行く。「町家のかかし巡り」の「かかし」の数は、今回250体とも言われている。その一方で町中で出会う「生きている」地元住民はそれよりも遥かに少なく思える。

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「はならぁと」のフライヤ―、及び公式ガイドブックの表紙のイラストは、この地(注5)に生活の根を下ろしていない事が一目瞭然の、極めて幅の狭い年齢層(20代〜30代前半)のツ―リスト――前掲70代のツアー客ばかりの土佐街道の画像とのギャップを見よ――、及び「はならぁと」の関係者だけが「この世」の存在として描かれていて、そうした彼等を迎える筈の「この世」に現実的に生きている地元住民(60代〜70代が人口構成のピ―ク)の代わりに、恐らく死者であろう「この世」ならぬものが出迎えたりすれ違ったりしている。

(注5)イラストが使用している「町並み」は、「高取土佐町並み」(「こあ」)ではなく、橿原市(2050年に対2010年比で0%以上50%未満減少)の「今井町」(「ぷらす」)のもの。

「この世」の地元住民のボリュ―ムを遥かに凌駕する様にも見える、過去の「心地の良さ」をセレクトして再現した懐旧の対象としての「かかし」。「町家のかかし巡り」の「かかし」は、嘗てこの地に住んでいて、今は不在となった者達の極めて一面的な象りだ。その不在の象りを挟んで、60歳以上のホストと70歳のゲストが、それぞれの己が内に留まる既知の「心地の良さ」を相補的に確かめ合う。

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恐らく嘗ては飲食店であっただろうと想像される――建物の中にカウンタ―がインスト―ルされている――「遺跡」の前では、「かかし」が神輿を囲んで祭り支度だ。その「遺跡」と「かかし」の組み合わせを見て、その対極にあるだろうポンペイの「石膏像」を想起した。肉体が脱型されて空ろになった火山灰の型に、石膏を流し込んで「人像」として見せているあのポンペイ遺跡の「石膏像」である。

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ポンペイの遺跡の「石膏像」と、高取の店の遺跡の前の「かかし」の違い。それは「ひと」を巡る「環境」を多弁なまでに示すものと、それを敢えて欠落させたものとの違いだろう。「かかし」は「環境」を忘却する為にこそ存在する。仮に「町家のかかし巡り」に「我が子を守る母親」の「かかし」があったとしても、それはポンペイの「石膏像」のそれの様には決して見えない。その「かかし」は、「心地の良さ」に満ちた母子間の「愛情」の部分だけを生暖かくクロ―ズアップさせるに留まるだろう。「ひと」と「もの」との関係に永遠に立ち入る事が出来ない「人像」のイマ―ジュが、ここで「かかし」と呼ばれるものなのだ。

デュオニソスから超能力を授けられたミダス王の如く、「かかし」が触れるものの全ては「かかし」になってしまう。それは恐るべき “Kakashi touch" だ。「町家のかかし巡り」では、「人像」をした「かかし」に触れられた犬や牛もまた「かかし」化する。それどころか薬屋の薬箱も子供の自転車も井戸もベンチも座布団も麺棒も町並みですらもが、全て「かかし」になってしまう。私(「かかし」)が触れるものは、全て「心地の良いもの」になれ。こうして10月の土佐街道は、「環境」(「もの」の世界)と共にある「ひと」が後景化し、それに代わって全てが「かかし」的なものになったのである。

明治期に払い下げられた高取城藩主下屋敷の表門が移築された皮膚科医院をの前を通り過ぎて暫く行くと、最初の「はならぁと作品展示」(「島崎ろでぃ―」)がされている「下土佐公民館別館」が見えて来た。3年前の2013年のストリ―トビュ―を見ると、そこは街道に面した塀の殆どが取り払われる事で「関係性」/「交流」(注6)/「交渉」(以下「リレ―ショナル」)の空間となった「公民館」(コミュニティ・スペ―ス)ではなく、まだそれらを可能にする条件としての「ひと」の生活拠点である「民家」(プライベ―ト・スペ―ス)だった。「協定」からは遠い「町家」を否定した作りである。

(注6)「はならぁと」と同時期、岡山市では「岡山芸術交流 2016」が行われていた。同「交流」会場周辺の人口は、2050年には「0%以上50%未満減少」とされている。「駐車場」であったところに何か「異物」が落ちて来たとしても、2050年にはその「異質性」を「異質性」として認識する「ひと」自体がそこにいなくなっているかもしれない。

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果たしてこの先も、「主体」の量的ボリュ―ムが縮小する一方の――であればこその――この地には、「リレ―ショナル」の空間と、「リレ―ショナル」の技術ばかりが増え続け、そればかりが恒久的に残り続けて行くのだろうか。私が触れるものは全て「リレ―ショナル」を体現するものになれ。しかしあのミダス王は、金を価値付ける条件を失った金ばかりになってしまった世界を呪ったのである。

「はならぁと」のインフォメ―ション拠点でもあるそこで、「公式」の「町家のかかし巡り」のマップに「似せた」――しかしそれが「本物」では無い事が、直ちに判明する様には作られている――輪転B4サイズ(B4の「公式」より若干大きい)の「町家のかかし巡り」マップが置かれていた。キュレ―ションの存在を感じるそれを手に取ってみると、輪転B4サイズだと思われたものは、実際には輪転B3サイズを二つ折りしたものだった。折りを広げると、マップの下に Takuya Matsumi 氏の photo が現れた。そしてその裏側が、「日本シリ―ズ第1戦」の謎掛けを伴った「人の集い」のポスタ―になっている。

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そしてもう1枚のマップが、折り畳み机の上にあった。それは「はならぁと こあ 展覧会『人の集い』 会場案内図」とされるものである。これで「はならぁと」の「こあ」のマップは計3枚になる。

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その3枚目のマップには「動線」が記されていた。即ち「はならぁと」の「こあ」は「何処から見ても良い」ものではないという事を示している。空間的な布置関係として、①の次に見たくなるだろう⑤は、しかし②、③、④を経て最後に見なければならない事が、ここでは明確に示されている。このクロスした「動線」にキュレ―ションの存在がある。⑤のみが建物の中にまで矢印が入り込んでいるところにキュレ―ションの存在がある。同マップ裏面の「会場図」で、⑤のみに動線が示され、且つ「終点」の位置までが明記されているところにキュレ―ションの存在がある。

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そうしたキュレ―ションを敢えて無視して見て回る事も勿論可能だ。「終点」まで足を伸ばさなくても良いかもしれない。事実「町家のかかし巡り」目当てに訪れ、「同時開催」の「はならぁと」に接した70歳の全員がキュレ―ションを無視している。しかしそれは、この細長い街道上で編集されたものの編集が示す何かを読む機会を失ってしまう事になる。ペ―ジの順序を守る事にした。

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①会場。「町家のかかし巡り」も「町家の芸術祭」も、「下土佐公民館別館」の内縁から先に上がり込む事を禁じていた。畳敷きの部屋の中央には座布団に座った「町家のかかし巡り」の車座があった。その車座の「かかし」越しに「2015.06.22 新基地建設反対運動(沖縄・辺野古)」と題された「島崎ろでぃ―」撮影のコンクリ―トの上の車座の「写真」が見える。座っている/座っている。

「写真」を見ると、反射的に身構えてしまう自分がいる。ミダス王となった「かかし」同様、「写真」に触れられた者の多くは「写真」の脳になってしまい、前後左右や先後から切り離された「写真」をこそ唯一的な原点として物事を考える様にされてしまうからだ。それもまた裏返った「心地の良さ」になってしまう。だからこそ全ての「写真」は、「写真」の外にある「間」こそを見なければならない。

全てを「心地の良さ」に回収しようとする「かかし」と、「心地の良さ」への回収を拒む「写真」の「間」にあるものを見る。そこには「かかし」と「写真」が、それぞれの「良心」に基づいて捨てた、14ギガパ―セクに至るまでの全方向的な前後左右や、全てのものの始まりから終わりに至るまでの先後がある。「間」だけがその前後左右先後に通じている。

「町家のかかし巡り」と「町家の芸術祭」の「間」にあるものを見る為の「町家の芸術祭」という自己言及の形がこの「同時開催」にある。「町家の芸術祭」の入口にある、「かかし」と「写真」の極めて違和的な同居は、「町家の芸術祭」で見るべき「間」を見る為の、エレメンタリ―なトレ―ニングの場なのだろう。

「下土佐公民館別館」の前景の「かかし」に見入っていた70歳の2人が、後景の「写真」を訝しげに思ったのだろう。「はならぁと」インフォメ―ションに詰めている「受付嬢」に、それが何であるかを尋ねていた。「受付嬢」はそれを「美術」であると説明した。それを聞いた瞬間に、70歳の中で前景と後景が切り離され、「間」へ到る道が閉ざされてしまった事が見て取れた。更なるスキルが必要だと感じた。

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軒先で〈1ケ〉¥80のコロッケや、〈¥5ケ入り〉¥150のチキンナゲットや、〈ワンカップ〉200円のハリケ―ンポテトが売られている会場②だ。その日は若干汗ばむ気候であった為に、そこで¥100のサンガリア「一休茶屋 あなたのお茶 500ml」を買った。大学の学園祭の模擬店辺りでも売られている様な揚げ物三兄弟には手が出なかった。唐揚げやフライドポテトやポテトチップスを喜んで食べる様な年回りではない。串こんにゃくやしし汁やくず餅や柿の葉寿司といった、この「地」の「力」を幾許かでも感じられる――そこが「海」や「山」と繋がりもする「石垣克子」の軒先であるだけに――ものが欲しかったが、しかしそれは無い物ねだりというものだろう。

外観は「町家」ではある。しかしここはシャッタ―が備え付けられた「西川ガレ―ジ」だ。

沖縄生まれで沖縄在住の作家の②会場は、沖縄を写した東京都杉並区在住の写真家の①会場とは異なり、「かかし」の数がぐっと少なくなる。ベビ―カ―を押した上下デニム・ペアルックの若い蚤の夫婦の一家の「かかし」だけがそこにいる。「石垣克子」を眺めているという図だ。

何処かから運ばれて来て、そこに立たされた形でインスト―ルされている「かかし」。懸命に具象的な「個」であろうと欲する「かかし」。「へのへのもへじ」の顔や、「藁束」や「竹竿」の身体を捨てた「かかし」。されど「彫刻」であるが故に「不気味の谷」にまでには決して到れない「かかし」。「サンゴコルク人」の対極にある「かかし」。

その後ろ姿が、一瞬実在の「観客」に見えてしまうのならば、それは実在する「現代美術」の「観客」の多くもまた、何処かで「へのへのもへじ」や「藁束」/「竹竿」である事を捨てた「かかし」になってしまっているからだろう。実在する「観客」と同じ様に作品を見ている「かかし」なのではなく――事態は全く逆で――「かかし」と同じ様に作品を見ている実在の「観客」なのだ。何処かから運ばれて来て、そこに立たされた形でインスト―ルされている「現代美術」の「観客」。「美術」ばかりを「かかし」と同じポ―ズで「観察」する者。それは恐らく「石垣克子」に描かれた「黄色い人」から遥かに遠い存在とも言える。この「かかし」と一緒にセルフィ―写真を撮れば、「観客」は決して「黄色い人」の様には写らず、「かかし」と見分けの付かない「彫刻」になってしまうだろう。

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一点の「石垣克子」の上に蜘蛛が佇んでいた。恐らく先住者なのだろう。蜘蛛は蜘蛛の眼で「石垣克子」を見ている。その眼を通して世界と関わって来た蜘蛛だ。「人の集い」の会期が終われば「石垣克子」は沖縄に――手厚く梱包されて――帰る。そして蜘蛛はこの地に留まる。

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⑤を素通りする。丸ポストのあるT字路に差し掛かった。近世の街道と現代の二車線道路がぶつかる交差点だ。

T字路には「ギネス ワールドレコーズ 高取城」というトリッキーな看板――それが示す矢印の先には「高取城跡」は無い――と共にトリッキーな「かかし」達がいて、「かかし巡り」の人々を一瞬だけ混乱させもする。そこに一本の立て札があった。

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土佐町由来

 六世紀の始め(原文ママ)頃、大和朝廷の都造りの労役で、故里土佐国を離れこの地に召し出されたものの、任務を終え帰郷するときには朝廷の援助なく帰郷がかなわず、この地に住み着いたところから土佐と名付けられたと思われる。

 故郷を離れて生きて行く生活を余儀なくされた人達のたった一つの自由な意志は故里の名を今の場所につけることであった。(略)

 

望郷の想ひむなしく役夫らのせめて準う土佐てふその名

海の見える土佐の国から、海と全く無縁の――従って「柿の葉寿司」が当地の名産となっている――この山間の地に「税制」によって強制的に集められた人々の無念を偲ばせもする伝承だ。高取には「土佐」の他にも「薩摩」や「吉備」の地名もある。

この山間の地から遥かに遠い地の人々を徴発出来るまでには「権力」となっていた6世紀の「朝廷」が定め、「雇役」の民が築いた「都」や「古墳」。

草枕 旅の宿どりに 誰が夫か 国忘れたる 家持たまくに」(柿本人麻呂

往還が自弁という「理不尽」な「雇役」(注7)が終わり、それぞれの故里へ帰る道々には、志半ばで病死した者の死体が転がっていたのだろう。「文化」は「文化」であろうとする時、しばしば血塗られたものになる。「古墳」の多さを誇る事は、同時に「無念」の多さを誇る事でもある。「日本の歴史」は「都の歴史」や「古墳の歴史」の側にあるだけではない。

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(注7)「崇高」なるものへの「奉仕」である飛鳥・奈良時代「雇役」から更に給与支払いを省けば、同じく「崇高」なるものへの「奉仕」である2020年東京オリンピック・ボランティアの待遇になる。

しかし土佐の人々の生活を破綻させてまで造った「飛鳥」の「都」は、造られて程無くして他所に遷都される事になる。やがてここが嘗ての「都」であった事を示すものは跡形も無くなる。その「都」がどの様なものであったのかを、21世紀人の誰も想像する事は出来ない。

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街の駅「城跡」(KISEKI)が「町家のかかし巡り」のメイン会場になる。ジブリのキャラクタ―造形のガイドラインから絶妙に外れ――従って「町家のかかし巡り」のインフォメ―ションには “© Studio Ghibli" が入れられていない――、「心地の良さ」ばかりとなってしまった「トトロの世界」が、元「JA上土佐支店」の農機具倉庫の中に展開されている。

その元JAの隣が、毎年11月23日に行われる「たかとり城まつり」の「日本百名城写真展」会場になる元「高取町商工会館支所」(現:天の川実行委員会 事務所)の建物――「町家」からは程遠い――であり、そこが今回の「はならぁと『こあ』」の③会場になっている。

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ほぼ2015年11月23日の「日本百名城写真展」の儘にされていると思われる室内には、「高取町観光ガイド・エリアガイド」の Facebook にある【町家のかかし達 Making】動画で見られる、椅子に座って「日本百名城写真展」を見る「かかし」達はいなかった。①会場の13体/13人の「かかし」、②会場の3体/3人の「かかし」、そして③に至って遂に「かかし」は0体/0人となった。「かかし」に代わって出待ちのひいなちゃん(脱魂状態)がそこにいた。

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その代わりに、そこでは――死体や幽霊や神をも含めた――如何なる者でもあり得る「ひと」が柔道をしていたりした。

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一方これは、北米大陸オハイオ州)のフォ―ト・エンシェント文化(紀元900年〜1550年頃)の人が描いた「ひと」だ(レオ・ペトログリフ)。

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この最大で1000余年前の「ひと」が、「懐旧」を可能にする時間と「高取」という空間の中に押し込められた「かかし」の横にいたら、それは単に「1000余年前」の「北米大陸」の人が描いた「プレヒストリカル」な「プリミティブ」を表象するイメ―ジになってしまうかもしれない。しかし「本山ゆかり」の「画用紙(柔道)」の左右どちらかの「ひと」と、このフォ―ト・エンシェントの「ひと」が入れ替わったとしても、「AD2010」年代の人が描いた「ひと」と「AD900」年の人が描いた「ひと」は、容易に柔道が出来るのである。それは絵柄の共通性以上のものが、最大限の可能性/可塑性を持つ形象としてあるそれらの「ひと」と「ひと」との「間」にあるからだ。「ひと」が可能性としての「ひと」として集まる事。恐らくそれが「人の集い」というものなのであり、或いはその様にしか「ひと」は集えない。

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2015年11月23日のまま時間が停止している「日本百名城写真展」を見る。壁面の百名城には、近代日本国家の宝となって絶えずメンテナンスされ続けている城がある。近代日本市民の宝として再びこの世界に往時の姿をシミュレ―トして現れた城もある。その中に植物の時間の中にある天空の城、高取城があった。

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明治6年の廃城決定の瞬間から、難攻不落とも言われた城を、植物が極めて静かに攻め立てている。元城主植村氏によって撮影された廃城後10数年経過した高取城の写真には、既にその予兆が見えている。

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飛行石の存在が無くても、多かれ少なかれ高取城は植物によって覆われ、その物理的破壊力で石積みは崩壊して行くだろう。この世(此岸)とあの世(彼岸)の――少なくとも――2つの “n" の境界上にある高取城跡。

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「在りし日の高取城」という大判CG出力がラティスの上に展示されていた。

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高度500メ―トルのヘリコプタ―から、20万発/秒のレ―ザ―を照射する事で高取城の地形を計測。そのデ―タに基づいて赤色立体地図が作られた(PDF)。「ひと」の手を離れてから100数十年程度では、「ひと」によって平坦化された地形への浸食作用の影響はまだ少ない。

平成27年7月8日、奈良県橿原考古学研究所アジア航測株式会社は、上空からレ―ザ―光を照射し、樹木に覆われて見えない日本一の山城高城城の現在の姿を初めて視覚的に明らかにした。

「日本百名城写真展」キャプション

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植物(生物)は根こそぎ剥ぎ取られ、火星の如き惑星の表面――豊富な水の存在が生み出した地形ではある――が現れた。

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それを元に「たかとり観光ボランティアガイドの会」と奈良産業大学(現・奈良学園大学)の産学協同「高取城CG再現プロジェクト」が、古写真や縄張図等の資料と照らし合わせて「ペ―パ―クラフト」の如き空箱群を出現させた。

この一見したところでは正確なものに見える、しかし逞しい想像力でその大部分が構成されている、「確からしさ」のテクスチャを貼られた空箱で構成された「再現」イメ―ジからは、「ひと」の存在が除外されている。そこに「ひと」が常住していたからこそ、辛うじて植物の侵攻や侵食を食い止められていた城であるというのに。

高取城高取城である為の外せない条件である「ひと」を、無人の「在りし日の高取城」CGに加えるとする。それはどの様に表現されるのが良いだろうか。例えば「たかとり城まつり」のコスプレ時代行列にも通じる、意味と価値ですっかり重くなった――それは甲冑の重さではない――武者のイメ―ジをそこに配置すれば良いのだろうか。しかしあらゆる可能性を捨て、「確からしさ」という同一性へ常に向かおうとする不安障害は、――多かれ少なかれ――「捏造」に陥る不安に脅かされる「再現」を吐き出すに留まってしまう。

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平戸城」17世紀

逆説めいてはいるが、そうした不正確であり続けるしかない「確からしさ」――例えば2016年日本の「確か」なイメ―ジを誰が描く事が出来るだろうか――を可能な限り避けられるものは、同一性に至り付く事が凡そ不可能である様な可塑性の中にある表現法――棒人間の様な――こそが最適解の一つになるだろう。ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネ―ジは、その「描けてしまう」という――しばしばそれは悲劇的でもある――能力を放棄して、棒人間をこそ自らの想像上の古代ロ―マの中に描くべきだったのだ。

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④会場は「野口家」というらしい。①会場と同様の形式で「町家」を否定した作りの建物だ。

2013年のストリ―トビュ―との異同は、今から3年前には存在していた可憐な花壇――「野口家」の存在を伺わせる――が、2016年の「はならぁと」の日々にあってはすっかり取り払われてしまっている――代わりに「はならぁと」のタテカンがそこにある――ところと、僅か3年で劇的に変わってしまったカ―テンに対する趣味である。「動線」はここが「折り返し地点」になっている。

土佐街道にすっかり開け放たれて、「リレーショナル」の空間となった「野口家」には、4体/4人の「かかし」と、①に続いて再度登場の「島崎ろでぃ―」による「2015.08.30 安保関連法案反対行動(国会前)」が同居していた。

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脳内で戯れに「かかし」の「4体」を「4人」の姿にすっかり変身させて、「2015.08.30 安保関連法案反対行動(国会前)」の「写真」の中に放り込んで座らせてみた。彼等はその「写真」の中の何処かにいる筈なのだが、何処にいるのか判らなくなった。

それから今度は「2015.08.30 安保関連法案反対行動(国会前)」の「写真」の中の人達を「かかし」にして、「野口家」の土間に座らせてみた。瞳孔の開き切った――ボタンの眼――全員の顔を東北東の方向に向ける。置き薬屋の薬箱の代わりにラウドスピ―カ―、手には「アベ政治を許さない」。向こうの方では「鉄柵決壊」していて、道路交通法に言うところの歩道と車道の区別を無くしている。ネコバスではない大型車両「かかし」の車列の前には、機動隊員の「かかし」もいる。これだけの数の「かかし」がいれば、カラスは田圃の米を狙うのを永久に止めるだろうか。

「反対運動」を象った「かかし」で溢れ返った「野口家」の土間には、空気を震わせるラップもジャンベも聞こえない。静かだ。その静かさは、国会前の大群衆の中にも確実に存在していた「間」で感じた、底の無い「音」がする静かさに似ていた。

無数にある「間」を見る。耳を澄ませば「間」の「音」がする。

今日の少なからぬ「現代美術」は、「作品」自体が「物神」的「価値」を持つ――「作品」と呼ばれる有形物を売らなければならないという強迫はここから始まる――「極点」になってはならないという理念を多かれ少なかれ持つ。その理念に於いては、「作品」という異物の出現――世界の「間」をこじ開ける「作用」の出現――にこそ「価値」は生じる。即ちそれは、本来的には大道芸人――メディウムを売る人――の帽子に投げ込むコインの様な類いの「価値」である。果たしてここでコインを投げるべき対象は何になるのだろう。

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④から100メ―トルばかりを戻る/進む。2013年のストリ―トビュ―では「工房いろは」「地域の居間」となっている建物の前まで来ると、物見の存在を感じた。玄関に立つ「はならぁと」スタッフのものではない視線。ボタンの眼の「かかし」でもない――「かかし」にはそうした力は無い。見上げると2階の格子窓に視線の送り手がいた。

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この日最初で最後の鰻の寝床(総二階)に入る。

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格子戸を潜ってすぐ左の部屋に動く「もの」があった。その隣の部屋に続く襖が開け放たれ、その隣の部屋にも動く「もの」があった。

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「ひと」が座った高さの「もの」。「首」を振りながら、「背」の側にある空気を「腹」の側に吐き出す「もの」。空気の流れを作り出している――「呼吸」している――が故に、これまでに見て来た累々たる「かかし」の様には死んでいない「もの」。「気」(空気)を発してそこにいる「もの」。この地が「50%以上100%未満減少」に到達する2050年の5年前の2045年には、人間の知能を超えているかもしれない「もの」。それ故に、2045年には「ひと」にとって「意識」を持った「隣人」になるかもしれない「もの」。

空気の流れの「間」にあるその「もの」は、何かを見ている様にも見える。最初の部屋の「もの」は、訪問者の方を向いてはいるが、その「眼」は訪問者の頭の上の辺りを「見て」いる様だ。「首」を振るその「視界」には引き戸も入っているかもしれない。次の部屋の「もの」は、その最初の部屋にいる「もの」に「目配せ」しつつ、襖絵も「鑑賞」している様だ。その隣の部屋にも「もの」がいるが、それはホワイトボ―ド上の「集い〈スケッチ〉」と題された絵を「見て」いる。

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一瞬この「集い〈スケッチ〉」は誰が描いたものだろうかと思った。2045年の「勝利」を待ち切れなかった「もの」達が集い――「『もの』の集い」――、これまでにその「眼」で見て来たものを、気儘に寄せ描きしたのではないかという妄想がよぎった。或いは「もの」達に成り代わった「雨宮庸介」が描いたのだろうか。いずれにしても、この絵には描かれていないものがある。それは「ひと」と呼ばれるものだ。ここには「『ひと』ではない諸々」しか描かれていない。或いは画面右側に描かれた「かかし」が、「もの」にとっては「ひと」なのだろうか。

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中庭の木々や石灯籠を「気」を発して「見て」いる「もの」がある。こんなにも自分の周囲の広がりへ、積極的に自分を解き解して関わろうとする「人の集い」を見に来た「観客」は恐らくいない。繰り返しになるが、「観客」とは「観察」するばかりの者の事を言う。「観察」――見たものを自己同一的と思い做された己が意識に仕舞い込んでしまう事――の眼であるから、それはボタンの眼で十分だと言える。②会場の「石垣克子」を「観察」するデニム上下の「観客」が典型的な例だ。

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「美術」と呼ばれるものの多くもまた、「ひと」を「観客」という「かかし」にしてしまう。ならば「ひと」が「かかし」にならない様にするにはどうすれば良いのか。

「座れ」と言っている緋毛氈に座ると、目の前には見事な「花」が咲いていた。

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座敷に座った「もの」が、リボン様のものが描かれた「木炭デッサンによる322枚からなる作品『併走論』」を「見て」いる。その「視線」の先には、もう一人別の「もの」がいる。「集い(スケッチ)」にも描かれていた「もの」だ。

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この「もの」だけが、ガードにリボンを結び付けて、「木炭デッサンによる322枚からなる作品『併走論』」のリボンと呼応しようと働き掛けている。或いは、この「もの」が「もの」達の「気」を描いたものが「木炭デッサンによる322枚からなる作品『併走論』」なのだろうか。いずれにしても、「観客」であろうとすればする程、ここでは「ひと」は疎外感に苛まれる事になる。「観客」はリボンを「観察」対象としてしか見ない。リボンの様に生きる事には躊躇するばかりの存在であるからだ。

奥へと進む。「集い(スケッチ)」に描かれていたものがそこかしこにある。

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階段を登る。

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「もの」がいた。

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「もの」は畳の上の何かを「見て」いる。

蔓。

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蔓が来た方向を見る。

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窓の隙間から蔓は部屋の中に入り込んでいる。植物に覆われた高取城が頭をよぎる。

蔓が向かっている方向を見る。

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襖。数千年前――紀元前2000〜1000年のエジプトとも言われる――の「ひと」がそれを考案し、奈良時代に日本に渡来した文様の様式である唐草文様。「ひと」の生活の中に、植物の持つ旺盛な生命力を生活の中に取り込みたいという、数千年来の「ひと」の望みが形になったもの。伸び行く蔓とそれを「見て」いる「もの」を「間」に挟んで、窓外の植物と唐草文様の襖の植物が向かい合う。

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今、この34年後の「50%以上100%未満減少」の地の町家の二階で、唐草文様という――時に相互に敵対視しもする世界の複数の信仰が、共にデザイン技法として使用するところの――「ひと」の望みは、この様な形で植物からアプローチされる事でその結実の在り方の一つを得た。

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後は「ひと」がその植物からのアプローチにどう応えるかだ。間もなく現実化する「50%以上100%未満減少」の時代、或いはまた「技術的特異点」の時代、即ち「ひと」が世界の「最前列」から退く――「神は死んだ」の完全なる完成――時代に於いて、「『ひと』ではない諸々」との共存は如何にして可能になるのだろうか。

「ひと」が世界の「最前列」から退いたその時には、「関係性」と呼ばれるものは、「ひと」と「ひと」の「間」に無媒介的に存在するものではなくなる。「ひと」と「ひと」の「間」には、必ず「『ひと』ではない諸々」が存在する。その時「人の集い」は、「ひと」/「ひと」ではなく、「ひと」/「『ひと』ではない諸々」/「ひと」の形で実現する。そこでは「『ひと』ではない諸々」と「『ひと』ではない諸々」の「間」にあるものだけが、辛うじて「ひと」と呼ばれるのである。

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諸星大二郎「生物都市」

階段を降りる。

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「併走論」の前にある卓の下の唐草の上を通り、かそけき楓と桜に心和み、稲の実りへの尊びの仕草に一礼し、再び見事な花を目出、ガラスの上の唐草の横を通り、「ひと」が意志的に植物を招き入れた空間である裏庭に出る。

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ここが「人の集い」の「終点」。そこから来し方を振り返ると、「公式ガイドブック」の裏表紙の風景があった。

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「もの」達が首を振って、「『ひと』ではない諸々」と「ひと」に「気」を送っていた家の屋根の上には、鯱の代わりに蔓があった。

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「ひと」が誰もいなくなり、取り壊される直前の高取城を想像した。

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我々の周りから「ひと」はいなくなる。それは現在進行形で現実化している。その一方で、この惑星のレベルでは「人口」が爆発的に増える。しかし極めて実際的に言えば、「アート」というのは、これから先「ひと」がいなくなる文化圏――恐らくこの惑星全体の数%以下――に特有の思考の産物なのだ。即ち「アート」という信憑は、極めて「条件」的でしかないものであり、従ってその「条件」が満たされるべき「限界」の中にある。

他方、増え続ける「人口」の方はと言えば、彼等は「アート」という思考の形式=「条件と限界」を全く必要としない。彼等は「アート」から遥かに「遅れて」いるかもしれない一方で、「アート」よりも遥かに「進んで」いるかもしれない人々だ。

「条件」を満たした「ひと」の「専制」の持続こそを前提にしていたこれまでの「アート」という思考の形式は、それを信憑していた文化圏の人々が、他ならぬ「ひと」を減らす事――少子化――を現実的なものとして「選択」した時から、世界からの「退場」を余儀なくされていた。「ひと」がいなくなったところに、「ひと」の「専制」を依然として信憑する様な「アート」(創造)だけが残り続けるのは、極めて悪い冗談でしかない。

「ひと」の同一性を前提とする「作者」なるものは、「解体」する対象――その「解体」のプロセスが「物語」になり、その「物語」が「作者」なる存在を何処かで依然として信憑する人々の間で「消費」の対象となってしまう様な――ではなく、単純に一切の「物語」を生まない、事実的に「解消」されるしかないものなのだ。

だからこそ「アート」の「解体」ならぬ「解消」という身も蓋も無い「現実」からスタートして、改めて「アート」の人々は――これまでの「ひと」に対する一切の信憑を拭い去った、新たな共存的世界の条件下に於いての「ひと」である事を含めて――「アート」という思考の形式を、全くのゼロベースで構築し直さなければならない必要性に直面する事を避けられない。当然「ひと」の「専制」を前提とした、これまでに書かれた「アート」に関する思考の所産を寄る辺とする事は出来ない。現在起きている事態は、「ひと」と「『ひと』ではない諸々」との「間」の「関係性」の全面的なリセットによる、「ひと」という存在自体の全き刷新なのだ。

現在「アート」と呼ばれるものそれ自体が、「ひと」に対する反動的なまでの思い込みに「条件」付けられている事に関して無頓着な人々が、多かれ少なかれ例外無く「自分の経歴の充実化」という「自己同一性の堅固化」に日々勤しんでいる「間」にも、「アート」の「条件」である「ひと」は、「アート」を置き去りにして、日々「解き解れた」ものへとシフトして行くのである。

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帰りは土佐街道を通らないルートにした。土佐街道を遡行して帰れば、①で「かかし」と一緒に記念撮影が出来たらしいのだが、しかしチェキに写るのはボタンの眼をした「かかし」の顔でしかない事が容易に想像出来た。「公式ガイドブック」に掲載された「こあ」のキュレーターですら「かかし」の顔になってしまっている。何をどうしようとも「黄色い人」の様にも、「棒人間」の様にも、「首」を振る「もの」の様にも写る事が出来ないチェキの中の無様な自分を見る事で、油断をすればボタンの眼になってしまう――「美術」の「観客」になってしまう――自分を自覚し、それを以て日々の反省の糧とするのも悪くは無いものの、しかしこれ以上「かかし」に付き合う事も無いだろうと思ってのルート選択だ。こうして、石材屋のショールームを思わせる土佐恵比寿神社の前を通るルートを外れて、壺阪山駅に向かう事になった。

21世紀の産業道路である国道169号を通る。そこで何かの遺構を発見した。「飛鳥」時代のものではない事は確かだが、何を目的に作られたものかは判らない。

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この「ひと」の作ったものを植物が覆っている。この植物の中に、「ひと」にとって「くすり」になる草はあるだろうか。「『ひと』ではない諸々」の中に「ひと」にとっての「くすり」を発見する事。「ひと」が「くすり」を通じて「『ひと』ではない諸々」の持つ能力に自らの生死や判断を委ねる事。嘗て「ひと」はその様にして生きて行く存在だった。

その後、「ひと」の「脳」は「『ひと』ではない諸々」を遮断し、自らを個別的なものとして思い込む様になる。世界から疎外されたその様な「脳」が「創造」という概念を生み、それを元にして「アート」が生まれた。しかし恐らく「ひと」は、早晩孤独な「脳」を持つ以前のものに再び還って行く事になるのだろう。

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再び「くすりの町」のゲートを潜り、単線の鉄路で高取町を後にした。

 

シン・ゴジラ

それから、大きな声が聖所から出て、七人の御使にむかい、「さあ行って、神の激しい怒りの七つの鉢を、地に傾けよ」と言うのを聞いた。
そして、第一の者が出て行って、その鉢を地に傾けた。すると、獣の刻印を持つ人々と、その像を拝む人々とのからだに、ひどい悪性のでき物ができた。
第二の者が、その鉢を海に傾けた。すると、海は死人の血のようになって、その中の生き物がみな死んでしまった。
第三の者がその鉢を川と水の源とに傾けた。すると、みな血になった。
それから、水をつかさどる御使がこう言うのを、聞いた、「今いまし、昔いませる聖なる者よ。このようにお定めになったあなたは、正しいかたであります。
聖徒と預言者との血を流した者たちに、血をお飲ませになりましたが、それは当然のことであります」。
わたしはまた祭壇がこう言うのを聞いた、「全能者にして主なる神よ。しかり、あなたのさばきは真実で、かつ正しいさばきであります」。
第四の者が、その鉢を太陽に傾けた。すると、太陽は火で人々を焼くことを許された。
人々は、激しい炎熱で焼かれたが、これらの災害を支配する神の御名を汚し、悔い改めて神に栄光を帰することをしなかった。
第五の者が、その鉢を獣の座に傾けた。すると、獣の国は暗くなり、人々は苦痛のあまり舌をかみ、
その苦痛とでき物とのゆえに、天の神をのろった。そして、自分の行いを悔い改めなかった。

口語訳新約聖書ヨハネの黙示録」第16章 日本聖書協会

 

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第二神殿時代(イエス・キリスト/使徒ヨハネの時代でもある)のエルサレムの1/50模型(100メートル級ゴジラ時代の撮影用ミニチュアと同縮尺):イスラエル博物館

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(「ゴジラ」のこと)を問われ

円谷 あの映画で、いちばん、くろうしたのは、ゴジラの正体を、どんなかたちにしたらよいかということですね。
 まず第一に、かたちが、あまりでたらめであってはならないでしょう。大むかしの海じゅうのようなものにして、学問的なものに、あるていど、ちかづけなければならないし……。
 つぎに、こどもさんが、いちばん、こわがるものでなければならないし……。
 つぎに、そうかといって、いやな感じのするものであってはいけない…
 こういったじょうけんを、みんなそろっているゴジラを作らねばならなかったのですからたいへんです。さっそくこどもさんをあつめて、みんなの考えをききました。そしたら阿部和助さんの絵が、いちばん、こわい絵だというので、私はさっそく阿部さんの家へいって、どうしたらよいかをそうだんしました。
 二週間ほどして、ゴジラの絵をかきあげてくれたのですが、どうもきにくわない。もう一くふうあっていいのではないかというので、東宝の人たちに、ゴジラの顔を募集しました。
 この時、原ばく雲から、ヒントをえて、考えだしたかおがあって、これはおもしろい、あまりにくめないかおだというので、そのかおににせて、つくることにしたのです。

 

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「座談会 映画のかげではこんなくろうが 日本のトリック王・円谷先生をかこんでお話を聞く」
昭和31年(1956年)4月「5年の学習」

円谷 ゴジラがグーっと火を吐くと家が焼けるという設定は、華々しくっていいから、火を吐け、というんですがね、火を吐いちゃおかしいから、放射能の息を吐くということにしたんです。

 

座談会「トリック映画の楽屋裏」オール讀物 昭和30年(1955年)8月

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随分と前の話。或る日自分のDDIポケット「H"」(PHS)の振動モーターが震えた。原型制作の依頼電話だった。ハイトが2メートル50、ワイドが6メートル、ディメンションが3メートル程の原型制作に充てられるのは2日。プロジェクトが低予算なのでそれ以上の日数を原型に割けられないと相手の50代男性は言う。

「モノは何ですか?」と問うと「撮影用ゴジラの造形」と返って来た。安丸さん関係の仕事か。「その後の型取りとエフの抜きとパテ打ちとサフェまではうちでやるから、最後の塗装(工期1日)も頼む」と男性。条件の摺り合わせの後に請負契約成立。東宝映像美術の特撮関係の仕事は6年ぶりだ。

原型制作の現場に降りて来た、数回コピー機を通した資料(三面図)を見た。今時の「ゴジラ」の造形は、この手の「迫力」の方向に向かっているのか。こういう「迫力」を持つフィギュールを「格好良い」と思える人が一定数以上いるのだろう。

それにしても何時まで「ゴジラ」を作り続けるつもりなのだろうか。

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「伝統」というものは、常に「二番目」以降から始まる。「皇統」は「二代目」から始まる。そして「ゴジラ」の「伝統」は、「ゴジラ」が「既知」の存在として現れ、他の怪獣と戦う「二作目」の「ゴジラの逆襲」にこそ始まる。

円谷 (略)とにかく今度の「ゴジラの逆襲」は、二番煎じですし、やる気がなかったんです。それを直営館からどんどん言ってきて、無理無態にやらされたんでね。
横山 しかし特殊技術部としては、大いに腕が発揮出来たわけですね。
的場 所でこんどは「ゴジラの復活」ですね。(笑)
渡辺 もうやめましょうや。(笑)

 

座談会「トリック映画の楽屋裏」オール讀物 昭和30(1955)年8月
文中「円谷」=円谷英二、「横山」=横山隆一、「的場」=的場徹大映)、「渡辺」=渡辺明東宝

 1954年の「ゴジラ」(以下「ファースト」)は「シリーズ」化を想定しない一回性の作品として制作されたものだった。しかし同作品の予想外の興行的な成功――それはアメリカ市場での予想外の成功(注1)を大いに含む――が、成功の記憶を「永遠」化したまま「ゴジラ」を「伝統」化させる。市場的に成功してしまったアーティストが自己模倣に陥るが如く。

(注1)「この『ゴジラ』映画がアメリカで、しかもニューヨークの真ん中の堂々たる映画館で上映されたと聞き、私は大いに面映い気持ちだった。ところが、その後の報道によると、これが大変な人気で、全米の配給網に乗って各地で上映されたのだそうである。もちろん驚異的な興行収入をあげて、アメリカの業者はホクホクだったらしい。(略)今や、空想ものを扱った特殊技術映画は、外貨を獲得する花形的存在になってきた。(円谷英二)」:中央公論 昭和33(1958)年10月「トリック映画今昔談――特殊撮影技師として歩いた四十年――」

こうして「ゴジラ」は誰にも止められないものになる。「現場」の円谷英二特撮監督が「やる気がなかった」としても、特美監督である渡辺明氏が「もうやめましょうや」という気持ちであったとしても、最早「ゴジラ」は市場によって制御不能になり暴走するばかりになる。製作の誰もがそれを何処かで持て余しつつも、終結を決断出来ない戦争の様に、誰もそれを止める事は出来ない。その意味でも「ゴジラ」は確かに怪物だ。

2017年に公開予定のアニメゴジラ(「GODZILLA」)までの「ファースト」を除く国内29作、海外2作の「ゴジラ」映画は、「シン・ゴジラ」的な表現を借りれば、「ゴジラ」(1954年)は好きにした、君らも好きにしろである。「ゴジラ」という確立した「ブランド」の傘の下、62年間の多くの「君ら」はそれぞれに「ゴジラ」を「好き」にして来た。

これまでに「ゴジラ」映画を引き受けた少なからぬクリエーターが、「ゴジラ」映画の中に「ゴジラ」映画を終わらせようとする要素を入れて来た。或る時には「これが最終作」と言わんばかりに明示的に、また或る時には「もうやめましょうや」と呟く様に黙示的に。

シン・ゴジラ」の前作である「ゴジラ FINAL WARS」(2004)の製作報告会見から。

ついに50年の歴史に終止符が! 「ゴジラ FINAL WARS」製作報告会見

 

【 マスコミによる質疑応答 】

 

Q:50周年記念作をシリーズの最終作にする事はいつ頃から考えていましたか?

 

富山プロデューサー:
去年の早い時期から50周年の「ゴジラ」をどうするか、東宝の皆さんと相談はしていました。その中で3本ほど具体的な企画を作り上げたのですが、本当に新しい「ゴジラ」映画、つまり誰も知らない「ゴジラ」映画は、今現在では作れないという結論に達しました。

 

となれば、現在持っている映画技術を注ぎ込んだオールスター映画にして、楽しいものを作り切る事。それが50周年に相応しいだろうという最終的な結論に昨年の8月に至りました。

 

http://www2.toho-movie.jp/movie-topic/0403/01godzilla_sh.html

「本当に新しい『ゴジラ』映画、つまり誰も知らない『ゴジラ』映画は、今現在では作れない」。その「FINAL〜」の前作の「ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS」(2003年)の記者会見でも、富山省吾氏は同作をして「ゴジラ・シリーズのゴール」と言っていた。しかし「作れない」(=終結させたい)にも拘わらず「ゴジラ」映画は作られてしまう。「終戦」の決断は済し崩し的に遅延される。「新作」が公開される度に「これまでに見た事もない」的な惹句を付されつつ。

「本当に新しい『ゴジラ』映画」でも「誰も知らない『ゴジラ』映画」でもないと、「製作報告会見」という公式の場でプロデューサーに事実上アナウンスされた「ゴジラ FINAL WARS」の公開直前、「ゴジラ」は「日本人」として早川雪洲マコ岩松に続く3番目(注2)のハリウッド・ウォーク・オブ・フェイムとなり、21世紀初頭の代表的なブラウザの一つの名称にも――捩られて――使用される程にメジャーな国際的ブランド/ポップ・アイコンになった。そして永くポップ・アイコンであった為に、同様に永くポップ・アイコンの道を歩むミッキーマウス同様、崩す事の出来ない「伝統」に「ゴジラ」が匿われ「キャラクター」化した結果、その制作現場は「ガイドライン」こそが最重要視される事になる。

(注2)「ゴジラ」に続く「日本人」のハリウッド・ウォーク・オブ・フェイムは三船敏郎

ゴジラ」映画に於ける最もアンコントローラブルなものは「キャラクター」としての「ゴジラ」だ。「ゴジラ」は「『ゴジラ』以外」や「『ゴジラ』以上」になる事は出来ない。況してや「『ゴジラ』以下」などにしてしまったら「炎上」は必至だ。従って「ゴジラ」が「ゴジラ」の姿形を伴って画面に登場する限り、必然的にそれは「本当に新しい『ゴジラ』映画」になる事は出来ない。「アダム」と「ラミエル」と「タブリス」が等しく「使徒」である様には「ゴジラ」はなれないのだ。

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毎朝新聞「政府ゴジラ対策に本腰」「災害対策本部設置さる」「船舶の被害甚大」「既に十七隻に及ぶ」

 

女 「嫌ね、原子マグロだ放射能雨だ、この上今度はゴジラと来たわ。東京湾にでも上がり込んできたら一体どうなるの?」
男1「まず真っ先に君なんか狙われる口だね」
女 「んー、嫌なこった。せっかく長崎の原爆から命拾いしてきた大切な体なんだもの」
男2「そろそろ疎開先でも探すとするかな」
女 「あたしにもどこか探しといてよ」
男1「あーあまた疎開か。嫌だなぁ」

 

1954年「ゴジラ

「戦時中に教材映画、戦意高揚映画に加担した」として、連合国(UN)軍最高司令官総司令部の公職追放によって東宝から追放されていた円谷英二が、日本独立後の公職追放解除に伴い東宝に復帰した際に企画部に提出していたプロットは、「海から現れた化け物のようなクジラが東京を襲う」(1952年)や「インド洋で大蛸が日本の捕鯨船を襲う」(1953年)であったという。

1954年の春にプロデューサーの田中友幸が「G作品」の企画を立てた時には、後の「ファースト」本編で、東京の「在来線」に乗る「長崎の原爆から命拾い」して来た若い踊り子(後に東京湾上の遊覧船で被災)に、「原子マグロだ放射能雨だ、この上今度はゴジラと来たわ」と語らせる事からも判る様に、ビキニ環礁での核実験や第五福竜丸の被爆事件が社会問題になっていた。

田中の「ビキニ環礁海底に眠る恐竜が、水爆実験の影響で目を覚まし、日本を襲う」というこの企画の仮タイトルは「海底二万哩から来た大怪獣」だった。その前年の1953年6月、アメリカではレイ・ブラッドベリの「霧笛」 (“The Fog Horn")を原作とする、「北極海海底に眠る恐竜が、核実験の影響で目を覚まし、ニューヨークを襲う」という “The Beast from 20,000 Fathoms"(「海底二万尋から来た野獣」:邦題「原子怪獣現わる」)――特撮をレイ・ハリーハウゼンが担当した――が公開されていた(日本では「ゴジラ」公開の直後に大映が配給)(注3)

(注3)“The Beast from 20,000 Fathoms" の監督ユージーン・ルーリーは、その後「ファースト」と同じ「着ぐるみ」の「ゴルゴ」(1961年)を製作している。公開時のポスターには “LIKE NOTHING YOU'VE EVER SEEN BEFORE" と書かれていた。

「G作品」に加わった円谷は、怪物に年来の構想にあった「大蛸」を主張し、田中の主張する「恐竜」とは対立したが、田中の「風潮によりマッチする」が会社に採用される事で、「太古の恐竜」が「ゴジラ」のフィギュールの基本に決定される。

或る意味で「強大な力による人類文明破壊」を描写する事こそが「ゴジラ」(「ファースト」)という映画の根幹にある。その「強大な力」=「ゴジラ」のフィギュールが、「クジラ」や「大蛸」等ではなく「恐竜」型であるのは極めて蓋然的なものでしかない。呑川を遡上しながらプレジャーボートを蹴散らす「クジラ」や「大蛸」という映画があり得たかもしれないのだ。何よりも先に「人類文明破壊」を映画にしたいという欲望があった。「太古の恐竜」のフィギュールを持つ「ゴジラ」は、その欲望に遅れてやって来た存在なのである。

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世界大戦争」(東宝:1961年)から東京が溶解するシーン。

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2016年の国内歴代シリーズ第29作の「シン・ゴジラ」まで、凡そ「ゴジラGODZILLA」のタイトルを冠した中で、最も「ゴジラファン」や「怪獣映画ファン」の不興を一手に買っていると言えるのが、その「国際的ブランド」の「ガイドライン」を可能な限り無視したローランド・エメリッヒの1998年の “Godzilla"、所謂「ハリウッド版ゴジラ」第一作(トライスター・ピクチャーズ版)だろう。

1996年某日、「インデペンデンス・デイ」の日本に於けるディストリビューターでもある東宝から、エメリッヒの元に電話が掛かって来る。当時のエメリッヒは、後のマイケル・ベイの「アルマゲドン」(1998年)やミミ・レダーの「ディープ・インパクト」(1998年)の様な、巨大隕石の地球衝突による「グラウンドゼロ」を撮りたいと思っていた。それまで「ハリウッド版ゴジラ」の監督にほぼ決定していたゴジラ・フリークでもあるヤン・デ・ボン(注4)が、1億5000万ドル(諸説あり)の高製作費を理由に降板させられた結果、エメリッヒに「白羽の矢」(或いは「御鉢」)が「当たった」(或いは「回って来た」)のである。

(注4)ヤン・デ・ボンの「ゴジラ」のデザインは、スタン・ウィンストンが担当したが、それは「伝統」に比較的「忠実」なものだった。

2014年のレジェンダリー・ピクチャーズ版、ギャレス・エドワーズ監督の「ハリウッド版ゴジラ」第二作 “Godzilla" 公開に合わせた “Empire Magazine" 誌の、エメリッヒへのインタビュー記事から引く。

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[...} “We got approached with Godzilla," he remembers, “and Dean(注5)was really in favor. I said, 'Are you crazy? Have you seen a Godzilla film? How does the monster look? They put a guy in there.'"
With no great fealty to Toho's famous monster, and no expectation of pitching successfully, Emmerich had asked designer Patrick Tatopoulos to create a sleek, fast-moving Gojira when the Japanese studio handed him its 75-page dossier of 'dos' and 'don'ts'. The monster had to be the spawn of nuclear testing. It must have three rows of dorsal fins on its spine and four claws on each of its scaly appendages. It couldn't eat people. Most troubling of all, it couldn't die at the end.
Whatever ideas Toho's top brass had for the film's end -- and a quiet retirement in a Brooklyn brownstone seemed unlikely -- they had had the chance to volunteer them before Emmerich and Devlin had called their bluff with their newly streamlined beast. “When we unveiled the new Godzilla, these 12 Japanese guys looked at it and said, 'Okay, we'll give you our decision tomorrow. '“Sure enough, the phone rang. “I was so sure they would say no, but they said, 'Okay, you make new Godzilla; we keep old Godzilla.' I thought, 'Oh shit!'“

 

(注5)Dean Devlin

 東宝の、及び一般名詞の “Godzilla" と、自身の “Gojira" が注意深く区別されたこの記事で、エメリッヒは「盟友」であるディーン・デヴリンが東宝からのオファーに乗り気である事に対し「正気か?君はゴジラ映画を見た事があるだろ?あのモンスターの形がどう見えているんだ?奴らは人間をそれに入れてしまっているんだぜ」と言っている。

しかしディーン・デヴリンはデヴリンで、「ファースト」の隠し様も無い「インスパイア」元であるレイ・ハリーハウゼンの “The Beast from 20,000 Fathoms" のリメイクを考えていたものの、それをレイ・ハリーハウゼンの同作のリメイクとせず、「世界」的なポップ・アイコンである「ゴジラ」のリメイクであるとすれば、資金の調達が桁違いに容易になる事を知っていたともされる(注6)

(注6)「『ハリーハウゼンのリメイクじゃ資金が出ない。だから『ゴジラ』のリメイクってことにした』と大胆発言したのは製作のデブリン。劇中のTVに「深海と水爆〜」が流れ、ゴジラがビルの間を走る姿は『原子怪獣〜』だ」:「DVD&ブルーレイでーた」2013年8月号

いずれにせよ、直前まで「ゴジラ」などより遥かに大きな質量の巨大隕石がもたらす、ハルマゲドン的な破壊規模の映画で頭が一杯だった彼等がリスペクトしていたのは、「ゴジラ」に先行する真の「オリジナル」である “The Beast from 20,000 Fathoms" や “It Came from Beneath the Sea"(「水爆と深海の怪物」1955年)であり、 “God-" が冠せられた「キャラクター」ではなかった。そしてエメリッヒが自らの「ゴジラ」に与えた設定もまた「怪獣がいない世界」(注7)だった。

(注7)“The filmmakers decided early on that this is a world in which no one has ever heard of Godzilla.”。エメリッヒ「ゴジラ」の口からは、“The Beast from 20,000 Fathoms" の “The Beast" 同様、「伝統」の放射能を含んだ熱光線は出ない。「伝統」に拘泥する「ゴジラ」フリークがエメリッヒ「ゴジラ」に与えた呼び名は “GINO"("Godzilla in Name Only," =「名前だけゴジラ」)だ。それは「伝統」的ではないアート作品が「名前だけアート」と評される様なものだろうか。

東宝からエメリッヒやクリーチャー・デザイナーのパトリック・タトプロスに渡された75ページの「ガイドライン」の「ゴジラは人間を食べられない」(“It couldn't eat people")は、 “The Beast from 20,000 Fathoms" で「リドサウルス」上陸後、警官が食べられてしまったシーンを「リメイク」する事へ釘を差したと思える(注8)。そしてエメリッヒ「ゴジラ」は後の「ゴジラ FINAL WARS」で、“God-" を抜かれた “Zilla" と「改名」され、日本人顔のX星人の「やっぱりマグロ食ってる様なのは駄目だな」という当て擦りに繋がる。

(注8)東宝怪獣には、食人性である事が明確に描かれたガイラ(「フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ」1966年)がいる。

エメリッヒは “12 Japanese guys"(日本の12人)から「オッケー、貴方は新しいゴジラを作ってくれ。我々は古いゴジラを守っていくから」との「承認」を受けるものの、公開後の「炎上」に対して「『承認』を出した者」の「責任」が問われる事は無い。「シェー」や「加山雄三」を通した者の責任が問われなかった様に。

このエメリッヒを含む、トライスター・ピクチャーズ関係者と東宝との間の遣り取りとその後を、数百人のカメオ出演によって繋げて行けば、十分に一本の映画に出来るだろう。そして庵野秀明氏と東宝との間の遣り取りとその後で、もう一本映画が出来る筈だ。岡本喜八ならばそれが出来ただろう。

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2016年の「シン・ゴジラ」は、「ファースト」のオマージュであるとされている。しかし少なくとも第3形態が東京湾に去るまでの「前半」は、「ファースト」と重なるところはほぼ皆無だ。確かにそこまでに「ゴジラ」フリークを微笑ませる様なディテールは幾つか散りばめられているものの、仮に放射熱線を吐かない魚の目の第3形態までのままでエンディングまで引っ張って行ったとしたら、如何な庵野秀明氏と言えど、エメリッヒと同様のブーイングを少なからぬ「ゴジラ」フリークから浴びせられただろう。

日本の行政や官僚のカリカチュア的な描写や、「クローバーフィールド/HAKAISHA」を思わせるモバイルフォンによる撮影等は、この「前半」に集中している。まるで第4形態が登場する「後半」では出来ない事を「前半」に集中して持って来ている様な印象すらある。

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これはハリーハウゼンの “It Came from Beneath the Sea" の、モンスターのサンフランシスコ初登場シーンだ(注9)。この直後にサンフランシスコ湾を南北に横断するゴールデンゲートブリッジをこの「巨大水生生物」が破壊するのだが、これは「シン・ゴジラ」を見た者なら、誰もがその時点で水生生物(第1形態)だった「巨大不明生物」が東京湾を東西に横断するアクアラインを破壊して、東京湾に初登場するシーンを思い浮かべるだろう。

(注9)この状態しか見えていない段階で、それを閣僚の一人が「尻尾」と認識するのは、些かサービスの過ぎるフライングと言えるだろう。因みに “It Came from Beneath the Sea" のこれは「足」である。同様に「肺魚」段階での「巨大生物の上陸はありません」首相記者会見の手話通訳嬢の、「見ようによってはお化けの手にも見える」ものの存在を前提とした表現もまたフライングと言えるかもしれない。

第2形態が呑川を遡上し、陸上に上がって道路一杯の乗り捨てられた車を破壊しながら進むシーンは、「ファースト」よりもより “The Beast from 20,000 Fathoms" に近い印象がある。

もしかしたら、第3形態までの同映画は、1954年の「円谷英二」を飛び越えた「レイ・ハリーハウゼン」へのオマージュなのではないか――「レイ・ハリーハウゼン」が日本よりも「身近」な国では、そう受け取られるかもしれない。そしてそれは、或る意味でエメリッヒ「ゴジラ」と同じである。

但し庵野秀明氏がローランド・エメリッヒと異なるのは、後半部に相対的に「ゴジラ」に見える「着ぐるみ」の第4形態(注10)を持って来た事だ。それが「シン・ゴジラ」の大いなる強みであり、同時に大いなる弱みでもある。

(注10)エメリッヒもモーション・キャプチャを試してみた。しかしそれが人間の動きの限界を越えられない――即ちそれは彼が最も嫌悪した「着ぐるみ」にしかならない――事に即座に気付き、彼はそれを導入する事を止めた。そして恐らく「シン・ゴジラ」でも、「巨大なオタマジャクシ」の第1形態や「両生類」の第2形態までは、その「中」に狂言役者は入っていないだろう。

後に大カタストロフが起きる新橋4丁目交差点付近にカメラを向けた空撮に乗せて、「Early morning from Tokyo (short)/報道1」が流れたところから、もう一つの別の映画が始まる。敢えて言えば、ここからが「ゴジラ」映画になるとも言える。「前半」は「巨大不明生物」であったものが、「後半」になってそれが「呉爾羅」から “Godzilla"(ガッジーラ) を経由して「ゴジラ」と「命名」されるという「儀式」によって。第2形態や第3形態に「ゴジラ」フリークが感じた違和感は、第4形態が江ノ島に現れる事によって「回収」される。

そんな庵野だが、山内によると「最初から(本作について)快諾していただいたわけではない」という。「怪獣映画のすばらしさと完成度は、最初の『ゴジラ』に集約されていると思う。お断りした理由は、怪獣映画はあれがあれば十分じゃないかと思ったから(注11)。でも引き受けた以上は、あの衝撃にわずかでいいから近づけたいと思って。それならば最初の『ゴジラ』と同じ設定で、怪獣がいない世界に初めてゴジラが現れるという設定で脚本を書こうと思いました」」とオファーを受けた当時を振り返る庵野は、「怪獣が出てくる映画の面白いところは、現代の社会に異物というか、違うものが現れる面白さですから」と魅力を語っていた。

 

シネマファン「庵野秀明エヴァファンに謝罪!『ゴジラ』完成報告で」

http://www.cinematoday.jp/page/N0084601

 

(注11)ハリウッド版「ゴジラ」第1作の製作時も、スティーブン・スピルバーグジェームス・キャメロン等に監督オファーを出したものの、彼等にも同様の理由で断られている。エメリッヒは――全く「ゴジラ愛」が無い為にではあるものの――4回オファーを断っている。庵野秀明氏を含む誰もが、「ゴジラ」に関しては「もうやめましょうや」というスタンスだったのだ。恐らく「ゴジラ」映画を今度こそ決定的に終わらせる為に「シン・ゴジラ」は作られたのだろう。ラストの尻尾の先からの続編があるとしても、それは最早「ゴジラ」映画にはならない。

 「ファースト」は「怪獣がいない世界」だった。しかし「太平洋戦争」は、その「強大な力による人類文明破壊」の「体験者」が生き残っている(注12)という形でスクリーンの中に確実に存在していた(注13)。「長崎」(恐らく「広島」も)が存在し「核実験」も存在する世界である事は、作品中に台詞としても設定としても明示されていた。災厄を映すテレビジョンの画面は、否応無しにその僅か9年前の「太平洋戦争」の記憶を呼び覚ます。「野戦病院」のシーンでは被災者の子供に「ガイガーカウンター」が当てられる。20代後半から30代半ばに掛けて、自身の人生の8年間が兵役に費やされた「ファースト」の本多猪四郎監督は、「戦後の暗い気分をアナーキーに壊しまくってくれる和製『キングコング』のような大怪獣映画」を目指したという。

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(注12)「ファースト」の製作スタッフ全てが「太平洋戦争」の「生き残り」だった。円谷英二東京大空襲防空壕の中で「ファースト」の元になるアイディアを思い付いたという。

(注13)「太平洋戦争」は芹沢大助が隻眼である理由でもあり、また銀座の母子の「お父ちゃま」も「太平洋戦争」によって命を落としたと想像される。前述の在来線/遊覧船の男女も含め、スクリーン中の「9歳以上」の全てが「太平洋戦争」の「生き残り」だ。そして観客の多くもまた「太平洋戦争」という「強大な力による人類文明破壊」の直接の「体験者」だったのである。

シン・ゴジラ」も――「ファースト」に比べて圧倒的に不利な条件下にあるが――(取り敢えず)「怪獣がいない世界」だった。「太平洋戦争」は、官僚の楽観主義を矢口蘭堂が旧日本軍に絡める形で諌めたり、日本が米国の「属国」である事でその存在を伺わせられたりはする。「東日本大震災」及び「フクイチ」が存在している世界なのかどうかは今一つ判らないが、それらが存在しないと市井の人々が持つ「線量計」の数値がネット上に投稿される――そもそも市井の人が「線量計」を持っているという事態――というシーンの説明が付き難い事は確かだ。しかし台詞的にはそれらには一切触れられていないし、またスクリーン中の(そして製作陣の)誰一人として「生き残り」感と共に生きている者はいない。

「太平洋戦争」や「東日本大震災」や「フクイチ」の「体験者」が登場しない「シン・ゴジラ」。70数年前の「英霊」を重ね合わせようにも、それが事実上現実的とは言えない「シン・ゴジラ」。「放射能」によって妻を失い、それに対して何の対応もしなかった日本に恨みを抱くというフォーカスの暈された設定。核実験の「犠牲者」ではなく、放射性廃棄物を摂取し続け独自に進化した生物。「東日本大震災」や「フクイチ」の「体験」に於ける「当事者」性の非対称。

ゴジラ」が「ゴジラ」として「生き難い」時代ではあるのだ。

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絵画・彫刻・書道 協力

絵画 片岡球子「めでたき富士」

東京美術倶楽部 / ギャラリー広田美術 / 小山登美夫ギャラリー
アートジョイ パートナー作家 仲山計介 山田りえ 小松謙一 久保孝久 上野憲一

彫刻 高野眞吾「或る自由の容」(2003)・「雷神」(2009)

書道 石飛博光


シン・ゴジラ」エンドロールから

シン・ゴジラ」の首相官邸のシーンで一瞬だけ映る一際大きな「絵画」――片岡球子「めでたき富士」――の存在に、少なからぬ美術クラスタはその公開直後に反応した。

この図柄の「めでたき富士」(1991年)は、リトグラフや木版等の複製も多く販売されたりはしているが、この映画に登場しているそれは、エンドロールのクレジットの「協力」にも名が上がっている「東京美術倶楽部 東美ミュージアム」蔵の紙本・彩色作品だろう。2014年3月11日(火)〜5月11日(日)に掛けて東京・広尾の山種美術館で行われていた「富士と桜と春の花」展に、「東京美術倶楽部 東美ミュージアム」から貸し出されていたものと額装が同一だ。

因みに同映画の中で、その「めでたき富士」(注14)の手前に置かれている馬の小像や花が生けてある壺等についての言及、及びその特定はまだネット上には見当たらない。しかし同作品が光ディスク化やネット配信に至った暁には、それらの言及/特定は時間の問題になるに違いない。劇場公開しか寄る辺が無い為に脳内メモリに頼るしか無い段階で、既に映画の後半に登場する立川広域防災基地内災害対策本部予備施設の里見佑介内閣総理大臣臨時代理のデスクに置かれた、屋台の「にんにくラーメンチャーシュー抜き」よりも遥かにシンプルなラーメンを出前した店(立川市上砂川)ですら特定(推定)されるのであるから。

(注14)新橋から放たれた「内閣総辞職ビーム」により、それは跡形も無く焼失したと想像される。それを貸し出した御成門の「東京美術倶楽部」も無事ではなかっただろう。

「ギャラリー広田美術」と「小山登美夫ギャラリー」の「協力」が何処にあるのかは良く解らなかった――クレジットにも具体的な作家名や作品名は上がっていない――し、また彼等はその「協力」を「弊社」の「宣伝」に使用する事は無いだろう。

「アートジョイ パートナー作家」のものも、劇場で映画を見ている最中に発見する事は叶わなかったが、「アートジョイ」のブログにアップロードされている作品が何処かに出ていたのだろうか。同様に、「日展準会員、日本彫刻会会員」の「高野眞吾」氏の、「或る自由の容」「雷神」2作品を上映中に特定する時間も無かった。

石飛博光」氏の「協力」は、警察庁長官官房長の後ろに「人皆知有用之用 而莫知無用之用也(人みな有用の用を知りて、無用の用を知るなきなり)」として掲げられているのが判った。

2016年8月8日の「玉音放送」=「象徴としてのお務めについての天皇陛下お言葉」では、NHKの字幕フォントの特定(DFP超極太楷書体)、後方向かって右側の鉢の特定(島田達三「柿釉象嵌大鉢」)、後方向かって左側の水石の特定(滋賀県瀬田川産虎石)、コンデンサマイクの特定(AKG C747 V11)、ビデオカメラの特定(SONY PXW-X70)が競う様にして行われた2016年の夏だった。

それはまた、マーシャル・マクルーハンの「グーテンベルクの銀河系」に紹介されたあの有名なエピソード、ロンドン大学アフリカ研究所のジョン・ウィルソン教授によって書かれた論文を思い出させる。

次に生じた現象は証拠資料としてたいへんに興味深いものだった。この衛生監視員である男はアフリカ原住民の部落内にある一般家庭で溜り水を除去するにはどうしたよいかを教示するため、ごく緩りとしたテンポで撮った映画を作ったのだった。まず水溜りを干し、空きかんをひとつひとつ拾って片づける、といった場面がつづく映画ができあがった。われわれはそのフィルムを映し、そのあとで彼等がなにを見たかを尋ねた。すると彼等はいっせいに鶏がいた、と答えた。ところが、映画を映して見せたわれわれのほうは鶏の存在に全く気付かなかったのである! そこでわれわれは用心深くフィルムのひと齣ひと齣をまわして問題の鶏を探しはじめた。はたせるかな、場面の隅を横切って走る一羽の鶏が見つかった。だれかが鶏をおどかしたらしく驚いて逃げる鶏の姿が画面の下方右手に見られた。それだけだった。フィルムを製作した男が見てほしいと思ったものはいっさい彼等の眼にとまらず、われわれが詳細に調べてみるまえには全く気付かなかったような事項を彼等は認めていたのである。

 

マーシャル マクルーハングーテンベルクの銀河系」森 常治訳

 それをマクルーハンは「非文字社会のひとびとが、なぜ写真や絵を三次元的に、もしくは、透視図法的にみられないか」という切り口で分析する。

文字使用は人間にイメージのやや前方に焦点を合わせる力を与え、それによってイメージもしくは絵の全体像を瞬間的に概観することが可能となる。非文字型文化の社会のなかに生きるひとびとはこのような後天的に獲得された習性をもたないし、そのためにわれわれが見るようには事物を見ない。むしろ彼等は対象物やイメージをわれわれが印刷された頁上に文字を追うように、断片から断片をおって走査する。かくて彼等は対象を離れたところから客観視する視座をもたない。彼等はまったく対象と「共に」あり、対象のなかに感情移入によってのめり込む。眼は見通すために使われるのではなく、いわば触知するために用いられる。聴覚と触覚からの分離に基礎を置くユークリッド空間は彼等には無縁な存在なのだ。

2016年の日本人は、或る意味でジョン・ウィルソンの「アフリカ原住民」の様に、映像を「三次元/透視図法」的に見ない「非文字社会」に再突入している。「片岡球子を見た」は「鶏を見た」だ。セットの椅子に「内閣府」等の備品ステッカーまで貼るという「シン・ゴジラ」のディテールへの極端なまでの「拘り」は、「非文字社会」となった日本への当然過ぎる対応とも言える。

「空きかんの水を捨てて生活環境を衛生的なものにしましょう」だけでは到底映画は作れない。そもそもが「空きかんの水を捨てて生活環境を衛生的なものにしましょう」をメッセージ的に打ち出す事も出来ない。だからこそ「鶏」的なものを過剰なまでに入れて「どうにでも解釈可能」(=「三次元/透視図法」の放棄)な「開かれた」映画にならざるを得ない。仮に「この事を伝えたいが為にこれを作った」が製作の側に存在したとしても、それは「鶏」をしか見ない(注15)観客の前では「敗北」するしかない。「どうにでも解釈可能」という在り方は、映画の今日的な「必然」なのである。

(注15)「ゴジラ」の「デザイン」を評する様な見方もそこには含まれる。

シン・ゴジラ」は「文字」が「文字」の「外部」に翻弄される映画ではあった。「文字」(「法律」)の裂け目に「巨大不明生物」は存在していた。官僚の早口に象徴される矢継ぎ早の多量の「文字」は、「巨大不明生物」の「意味」を「特定」する事すら叶わなかった。但し「文字」の「外部」への「対応」は極めて「奇跡」的な形で進行している。巨災対に「奇跡」が次々と降り、東京駅での攻防も「奇跡」の連続だ。口元が緩む程の「奇跡」。

「畏れ」の対象は「ゴジラ」という「文字」の「外部」だけではなく、寧ろこの「奇跡」という「文字」の「外部」にこそ恐らくある。勝ち続けるパチンコ(注16)の様に、あれ程にも「奇跡」が立て続けに起きたというのに、誰もその「大勝ち」の連続に「畏れ」を感じていなさそうだ。「文字」の「外部」というものは、常に平衡状態(「大勝ち」の後の「大負け」)を求める。「大勝ち」の中に既に「大負け」はある。「ゴジラ」の出現(注17)というのはそういう事なのではないか。「奇跡」と「災禍」の裏腹の関係。黙示録。焼け野原だった東京に再びネオンサインが輝く。「もはや戦後ではない」の前夜。それは「復興」と呼ばれたりする。しかし本多猪四郎はその「復興」の風景を含めて「戦後の暗い気分」と言った。

(注16)伊福部昭の「宇宙大戦争/「宇宙大戦争」/ヤシオリ作戦」はパチンコのBGMにも最適だろう。数十年前のパチンコのBGMと言えば「軍艦マーチ」――最近では T-SQUARE の “TRUTH" ――というのが決まり事の様になっていた。棟方志功は「軍艦マーチ」を口ずさみながら版を彫っていたと言われるが、果たして「進撃」の「宇宙大戦争」を口ずさみながら制作するアーティストはいるだろうか。

(注17)都心へと向かうという「行動」が、一人の(元)人間の「意志」によってコントロールされていようがいまいが。

「平時」であれば、「文字」によって住み分けられていた「美術」(古代美術から21世紀美術まで、「日展」から「小山登美夫ギャラリー」まで、「純粋美術」から「応用美術」まで、等々)が、等しく「文字」の「外部」が放つビームや放射熱線によって破壊され「瓦礫」になる。映画に「リアリティ」を与える為のディテール――備品シールと同じ様なもの――として集められ、無残なまでに破壊される様々な「美術」。果たして「世界の終わり」の日――その「翌日」の「復興」の日ではなく――にそれでも「美術」がギリギリで可能であるとしたら、それはどの様なものになるのだろうか。焼かれても踏み潰されてもそれでも尚あるものとは。

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Hulu で「ゴジラ」映画28作中の数本を見た。小学生の時に親戚に連れられて見た何作目かの「ゴジラ」映画――その余りの子供騙し(子供はこんなものだと安く値踏みされている)振りに小学生は辟易した――は再見しなかった。Hulu で見たその数本の中には嘗て自分が関わったものも含まれていた。初めて見る映画。そのエンドロールには、自分の名前はもとより50代男性の会社の名前も無かった。

共にいることの可能性、その試み

それを見てから2ヶ月が経った。それについて書くのに2ヶ月を有した。書いては消し、書いては消しの日々が続いた。

2ヶ月前の事。「共にいること」がタイトルに含まれている眼前のその「展示」を、何処かで遠い過去に繋がったものの様に見ていた。まるで「幽霊船」に乗り込んでしまった者の様に。

常陸太田市西山研修所」で行われた出来事を、21km離れた「水戸芸術館」に移動させたそれは、2015年のパラソフィア「京都市美術館」に於ける「バスケット・ボール」や「クリスト」の様な「同一」の「地点」で重なり合う「サイト・スペシフィック」とは異なるものだ。「事件」が起きた「地点」と、今ここで見て「地点」は異なるにも拘らず、それでもそこは「同一」の「場所」だ。だからこそ「幽霊船」なのである。

その2ヶ月の間に(も)、「共にいること」に関する出来事が、この惑星上で様々に起きた。

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「共にいること」を志向した「近代」的な「理念」の一つの到達点からの「離脱」。「近代」の「哲学」や「芸術」といった「近代」の「理念」が夢見る「近代の終わり」とは全く異なる、極めて事実的な「近代の終わり」。「近代」の「哲学」や「芸術」は、こうした「近代の終わり」を、自らの「近代」の「美学」に照らし合わせて「醜悪」なものとして嫌悪する。しかしこの惑星に住んでいるのは、「理想」的な「近代」の人間ばかりではないという現実がある。

「共にいること」の困難。勿論それは「近代」に始まったものではない。「近代」から遡る事二千年以上前の兵法書孫子」の「第十一章 九地篇」には、その困難を乗り越える方法論として「例示」された、後に「呉越同舟」として知られる箇所がある。

夫呉人與越人相惡也 當其同舟而濟遇風 其相救也 如左右手

 

夫れ呉人と越人との相悪(にく)むや、其の舟を同じくして済(わた)りて風に遭うに当たりては、其の相救うや左右の手の如し。

 

いったい、呉の人と越の人とはたがいに憎みあう仲ではあるが、同じ舟に乗りあわせて川を渡るとき、大風に襲われたなら、彼らはちょうど左右の手のように助けあうものである。(町田三郎訳)

 21世紀の迷えるビジネスマン向けに書かれた書物にも引かれる「理論書」の「孫子」ではあるが、しかし人類史に於ける「同舟」には「共にいること」のマネジメントに当初から失敗した1816年の「メデューズ号」の様に「殺人」や「食人」にまで至ったケースもある。

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「共にいること」が極めて困難になっている、「グローバル」にエスカレートした「相惡」が「同舟」した「宇宙船地球号」という「船」――救助船は永遠に来ない――とは比べるべくも無い、6日間の「同舟」の後に全ての「乗員」が消えた「幽霊船」に乗り込む為に水戸まで向かった。

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ウルトラQ」第12話「鳥を見た」の「幽霊船」


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水戸芸術館には東京駅八重洲口から高速バス「みと号」で行く事にした。往復ツインチケット3,900円。JRの片道運賃2,268円+特急料金1,550円=3,818円=往復7,636円の約半額で済むし、おまけに水戸芸術館最寄りのバス停(「泉町一丁目」)で降りられる。

この日の「みと号」下り線の始発(午前7時40分「東京駅八重洲南口」発→午前9時27分「泉町一丁目」着)に乗客は自分を含めて3人だった。全席「自由席」の「乗合」である同バスでは、「行きずり」のそれぞれが数列の間隔を置き、全員が窓際に自身の席を取っている――後に「共にいることの可能性、その試み」という「船名」の「幽霊船」の内で見る事になる「『常陸太田市西山研修所』行きバス車内」の映像の様に。2時間弱の「みと号」の車内は、「行きずり」の関係=「共に乗る」(≠「共に暮らす」)のまま、降車地に到着するまで「共同体」を構築しなかった。恐らくそれは「非常口」が開かれる様な事態には至らなかったからかもしれない。

臆病な自分は、常にこうした最悪のケースを想定してしまう。高速バスでシートベルトを装着するのは当然として、海岸近くにいれば高台に効率良く行けるルートを常に探してしまい、近所の交差点であっても信号が変わるのを待つ時には、大型トラックが突っ込んで来ても――ハンドルの切り角等を考えながら――安全だろうと思える場所に退避し、横断歩道を渡る時は周囲の車の挙動を常に監視している様な人間なのだ。

水戸芸術館の開館時間数分前に、水戸京成百貨店前の「泉町一丁目」バス停で降車する。「平日」の水戸の町は、既にそれぞれの生業の時間に入り始めていた。バス停から10数メートル東方向(JR水戸駅方向)に歩き、「日本旅行」の看板のある、交差点名を付されていない十字路を左折して「一方通行路」を逆行する。

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左に「医療法人 弘仁会 志村病院」を見て進む。正面奥のT字路正面には、ここから太平洋に開かれた那珂湊漁港まで15キロという地にあって、そのネタの殆どを店から115km離れた東京の築地から仕入れるという「江戸前」の「可志満寿司」。その「可志満寿司」の西に隣接する側には、水戸芸術館がここに出現する(1990年)までは「水戸市立五軒小学校」(注1)の「プール」があった場所だ。

(注1)明治6(1873)年5月6日創立。1985年4月1日に現在地(同市金町3丁目2−25)に移転。校地の「狭隘」化を理由に移転してから31年経過した現在、同小全体の児童数は300人を切っている(294人/2015年度)。

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その「プール」の奥の「木造校舎」の跡地には、現在「水戸芸術館タワー」が建っている。今から32年前に「科学万博つくば'85」のキャラクター「コスモ星丸」を従えて、「未来」に身を包んだ石川美晴嬢(17歳)/鈴木祥仁氏(24歳)のアイドル・デュオ「オーロラ」が、デビュー曲「青い宇宙(コスモス)」を歌った嘗ての「五軒小学校」の「グラウンド」を通り、嘗ての「講堂」の方角に向かう。

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恐らく同館の設計は、旧五軒小学校のレイアウトを意図的に踏襲している。水戸芸術館敷地南西側の同館「正面入口」(嘗ての「校門」)のストーンサークルには同小の校章が埋め込まれ「水戸市立五軒小学校跡」の文字が刻まれている。同小に「学んだ人」の中には、横山大観、中村彝、辻永、五百城文哉といった近代日本美術の名前も見える。

この水戸芸術館もやがて「時代」と伴に「水戸芸術館跡」になる事があるだろう。水戸市立五軒小学校は、創立から――「発展」的な形での移転を経て――「學事獎勵ニ關スル被仰出書」から始まる日本の近代的学校制度と共に143年存続している。余程の事が無い限りは、10年後も曲がりなりにも近代的学校制度は存続し、この地に公立小学校も存在しているだろう。一方、水戸芸術館がその開館から143年目になるのは、今から117年後の2133年になる。その時、水戸芸術館がその名称の中に入れている「芸術」は、我々の知る「芸術」として生き残っているだろうか。

1000年後には一面の野原になっているかもしれないそこに、「水戸芸術館跡」である事を記す石の造作が残っているとして、殆ど消え掛かった彫られた文字を見た1000年前の「歴史」に詳しくない1000年後の「住人」達は思うかもしれない。「この『芸術』というのは一体何の事だろう」。果たして1000年後の「市井」の「住人」達――それは全く「日本人」ではないかもしれない――に対して「芸術」なるものが何であるかを説明出来る言葉を、20世紀の延長上にある/あった時代の「芸術」の人は持っている/持っていただろうか。

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日本動物薬品株式会社
(英名:JAPAN PET DESIGN CO.,LTD.。以下「ニチドウ」)という企業がある。観賞魚を飼育した経験を持つ者には、「グリーンF」「グリーンFゴールド」「メチレンブルー」等といった「観賞魚用治療薬」を製造販売しているメーカーとして、極めて馴染み深い名称だ。

江戸時代の金魚売りに起源を持つ、動物飼育観察に関する商品開発に長けたニチドウが、2005年に発売したのが、「アリ伝説」(THE LEGEND of ANTS)という子供向け――パッケージには「KiDs」の表記がある――のアリの飼育/観察セット(2005年 JPPMA AWARD 最優秀賞受賞)である。

『アリ伝説』はアリの巣を立体的に観察できる「アリの巣観察セット」です。アリは地面に巣穴を掘って集団で生活しますので、その生活の様子を観察したり、巣穴をどのように掘っているのかを調べることは、なかなかできませんでした。本品はアリの巣穴の材料となる「アリゲルの素」と専用のアリケースがセットになっています。「アリゲルの素」と水を合わせて電子レンジにかけることで、簡単に不思議なゲルが完成します。あとは、公園などでアリを採取してアリケースの中に入れるだけで、アリたちが巣を作り始めます。3Dの空間に広がる不思議な世界をお楽しみ下さい。

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「アリ伝説」という名称から、先般他界したボクシングの「伝説」のヘビー級世界チャンピオンの名にあやかった商品であるかの様に思えたりするかもしれないが、実際には平成12年(2000年)発売の「エビ伝説」――トリオプス(所謂「カブトエビ」)飼育観察セット――が、同社の「伝説」シリーズの嚆矢であるという。

同社の「伝説」シリーズ(注2)には、「エビ伝説」や「アリ伝説」の他にも、アルテミア・サリーナ(「シーモンキー」「ブラインシュリンプ」)飼育観察キットの「ジュラ伝説」、ホウネンエビ(「豊年蝦」「オバケエビ」)飼育観察キットの「ディノ伝説」等がある。

(注2)現在ニチドウから製造されている飼育/観察セットの商品名からは「伝説」が外されている。

ニチドウによる各セットの商品紹介文では、「エビ伝説」「ジュラ伝説」「ディノ伝説」をそれぞれ「カブトエビの飼育セット」「アルテミア・サリーナの飼育セット」「ホウネンエビの飼育セット」としているのに対し、唯一「アリ伝説」だけは「アリの飼育セット」ではなく「アリの巣観察セット」と書かれている。

「アリ伝説」は、他の「伝説」の様に閉じられたた空間内に任意の動物を入れ、それを「飼育」させるところに商品企画の主眼が置かれているのではなく、「社会性昆虫(Social insects)」としてのアリの「協働作業(Cooperative work)」の一つである営巣行為とその結果を「観察」させる目的で設計されている。

「アリの巣観察セット」である「アリ伝説」を、「アリ伝説」として機能させるのに不可欠なアリの入手は、カップ麺の加薬の如き袋入りで「添付」されたクリプトビオシス(耐久卵)を孵化させる他の「伝説」と違い、野生アリの「捕獲」によって確保されねばならない。その「捕獲」に際しての注意書きにはこうある。

●アリケースの中に入れるアリは、一つの行列からつかまえましょう。同じ種類のアリでも、ちがう行列からつかまえたアリ同士は、ケンカしてしまいますので注意してください。

どちらか一方が命を落とし兼ねないアリとアリの「ケンカ」を見る目的で無い限り、「アリ伝説」に於ける「観察」者、及び「アリ伝説」の企画者が「期待」している「協働」の構築は、既に存在している「一つの行列」(共同体)を利用するところから始めなければならない。アリに極めて詳しい者以外の目には、全く同じに見えるかもしれないクロオオアリとクロヤマアリは、しかしこの「アリ伝説」の飼育ケースという、アリにとって非日常的な閉ざされた狭い空間内では同居する事は出来ない。また同じクロヤマアリでも関東種と関西種では「ケンカ」に明け暮れてしまう為に、「観察」者が期待する様な「協働」の構築には至らない。関東と関西のクロヤマアリが、ディズニー映画「ズーラシア」の住人の如くに何世代も掛けて「近代」的に「進化」すれば、或いは両者に於ける「協働」が可能になるかもしれないが、しかし現下に於いて理想的な「協働」の「観察」の為には、「アリ伝説」の「参加」者であるアリの「参加」資格は厳密にされねばならない。であるが故にニチドウは「一つの行列」単位でアリを捕獲する為の「アリキャッチャー」を別売している。

「観察」者はケースからアリが脱走しない様に、蓋の空気穴にテープを貼る――これは説明書でも「空気穴をセロテープなどでふさいで逃げられないようにしましょう」と推奨されている。それ以前に「観察」ケースの中に入れられる際に、蓋の隙間から逃走して「参加」自体を拒否するアリもいる。その一方で数日間をケースの中で過ごす事になったアリの中には、一定割合で「協働」に全く関わらない者もいるという。

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田中功起
新作
「移動と共同体について(仮)」
撮影 参加者募集

 

田中功起展にて発表する映像作品の制作のため、6日間の滞在型ワークショップの参加者を募集します。ワークショップの様子はすべて映像・写真等で記録され、田中功起の作品として、水戸芸術館現代美術ギャラリーでの展覧会をはじめ、世界各地にて展示・上映される予定です。

 

日時・会場
オリエンテーションオリエンテーション:9月5日(土)13:30 〜 16:30 水戸芸術館 *現地集合・現地ワークショップ1回目:10月30日(金)16:00 〜 11月1日 (日)17:30 2泊3日
ワークショップ2回目:12月4日(金)19:00 〜 6日(日)17:30
*ワークショップはすべて水戸芸術館集合・解散
*各ワークショップ初日(10月30日/12月4日)のプログラムは夜のみ。
*各ワークショップの集合時間は変更の可能性があります。
宿泊先/ワークショップ/撮影現場:西山研修所(常陸太田)

 

募集内容
参加人数:7名程度  *作家による選考があります。

参加において: ・全プログラムに参加できること
        ・田中功起の作品に登場することに同意できること。
        ・国内での、もしくは国外からの「移住」を経験していること。
        *外国からの場合は親世代の移住(本人は二世)でもかまいません。
         留学など海外在住経験も含みます。

参加費:無料  *宿泊・食事支給
*託児の手配を検討しています。託児を利用されたい場合は、応募用紙に明記ください。
*採用された方のみにご連絡します。

 

 震災(注3)以降の日本において、一時的に人びとが災害に対処し助け合う共同体が生まれましたが、その感覚の多くは消え去ってしまったように思います。そしてそのあとに残されたのはばらばらになってしまった人びとの考えであり、あるいは考えつづけることに疲れてしまった人びとの思いでした。それを見透かすように現れた強い意見や他者をさげすむ意見が社会に溢れ、ぼくは、日本が急速に変化しているように感じています。ここで行いたいのは、そうした社会において、異なる私たちが、異なる意見を持つ者たちが、そのままで共にある可能性を探ることです。

 募集するのは、移住/移動の経験をする者。かならずしも多国間の「移住」を意味しません。震災以後、子どもの健康を気遣って自主的に地元を離れた方もいるでしょうから。

 6日間の共同生活とその中で行われるワークショップ(朗読、料理、夢、陶芸、社会運動、農業など)を通して、生活に関わるベーシックな問題を再考し、一時的な共同体の制作を行います。

 

田中功起 2015年7月

 

http://www11.arttowermito.or.jp/dir_download/tanaka_ws.pdf

(注3)ここでの「震災」は、2011年3月11日午後2時46分に発生した所謂「東日本大震災」を指していると思われる。

 仮に「震災以降の日本」を超えたスケールで、「異なる私たちが、異なる意見を持つ者たちが、そのままで共にある」事が、以前にも増して困難になっているとして、その一つには「ここから出て行け」(注4)という言葉を発する者(天与的に定住の権利を有すると自らを認める者の一部)と、発せられる者(移住/移動の経験をする者の一部)の間に起きる摩擦によって引き起こされるものもあるだろう。

(注4)「日本から出て行け」「イギリスから出て行け」「ヨーロッパから出て行け」「アメリカから出て行け」等々。

「移住/移動の経験をする者」こそが、この「試み」に於いて選ばれなければならない理由は、この「募集要項」には明記されてはいない。一方で「『移住/移動の経験をする者』ならぬ者」が、この「生活に関わるベーシックな問題を再考」する「一時的な共同体の制作」に於いて、「参加」資格を有する事が出来ない理由も書かれてはいない。しかし今日的に喫緊の課題としては、「移住/移動の経験をする者」と「『移住/移動の経験をする者』ならぬ者」との間にこそ、「共にいることの可能性」が探られなくてはならないだろう。

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「山の中での非日常的な」場所である「常陸太田市西山研修所」で、田中功起作品「共にいることの可能性、その試み」は「制作」された。

県立西山自然公園に隣接した研修所で、昭和13(1938)年(注5)に当市出身の実業家・梅津福次郎が江戸時代の学問所・三昧堂檀林の跡地に設立した、茨城県西山修養道場がその始まりです。主に青年団や教育関係者などの研修と就学に利用されていたが、昭和20(1945)年、戦時中に高まった軍国主義的色彩を排除し、民主主義の普及を図るため「文化研究所」と改称。その後、平成25年4月に「常陸太田市西山研修所」に改められました。現在は、団体による自然散策や創作活動、スポーツ合宿など、幅広い用途で活用されているほか、小中学生を対象とした自然体験、大人を対象としたパソコン教室など、生涯学習の推進を目的とした主催事業も実施しています。
敷地内は、樹齢300年を越える杉の木など、緑豊かな環境に囲まれており、佐竹氏や水戸徳川家に関する史跡も多くあります。丘の上から望む太平洋や那須連山などの絶景も素晴らしく、心地よい自然の中で常陸太田の歴史を学ぶことができます。

 

「西山研修所」常陸太田市観光物産協会
http://www.kanko-hitachiota.com/page/page000078.html

 

(注5)正しくは昭和12(1937)年11月16日に設立。

常陸太田市西山研修所」の前身である「西山修養道場」(場長:稲垣國三郎=「返還」に至るまでの沖縄/琉球近現代史に詳しい者なら誰でも知っている名前だ)設立2年後の昭和14(1939)年5月に、「大日本靑年團本部」が出版した「靑年収容特殊施設」から引く。

三、建設趣旨
 國家興隆の本は國民精神の剛健に在り。卽ち國民の中堅層たる靑年男女は固より、之が指導階級たる學校敎職員、其の他、一般人士をして、國家の使命と各自の責務とを確認し、其の精神の修練に自奮自勵、切磋琢磨の功を積ましめ、以て國本を鞏固に培養するは現下喫緊の事に屬す。之が爲に、特に修養場を設け、集團的に、組織的に、繼續的に統制强化を圖るは、其の趣旨の徹底上最も必要とする所なり。
 本縣に於ては、其の必要を痛感すること多年、特に現代の世局に鑑み、愈々之が創設を決意し、昭和十年度の縣會に諮りて滿場一致の協賛を得、義公(徳川光圀公)に緣り多き大田西山の地を相して、之を建設するに至れり。
 期する處、思想善導、民風振興の殿堂となし、以て皇國の進運に寄與貢献するところあらしめんとするにあり。

軍国主義的色彩」に覆われていた「西山研修道場」でも、道場生は朗読をし、発声し、動き回り、会話をし、社会について考え、協働作業を行い、話し合っていた。「講師」は「壇上より指導する立場に立つにあらず、共に修養せんとして努力する同行者なり。講話知識の體得よりも互に信念を語らんとするものなり」とされていた。

勿論「西山研修道場」で「朗読」するのは、ジョルジョ・アガンペン(Giorgio Agamben)の「到来する共同体(La comunità che viene)」ではなく、國旗揭揚、宮城遙拜、皇大神宮遙拜、君が代齊唱と共にされる明治天皇の「教育(ニ関スル)勅語」であったりした。社会問題を「考える」時間――「西山研修道場」の道場生活日課には、思想問題、時事問題常識、研究、懇談等の時間が一日数時間ある――は、「平塚らいてう」「ブルーストッキングス・ソサイエティ」「ジャンヌ・ドロワンの選挙立候補」「ハルハウス」「富山の女一揆米騒動」「日本生活協同組合連合会」「第五福竜丸事件をうけての原水爆禁止署名運動」「グリーナムコモン基地の包囲行動」「小平市住民投票におけるどんぐりの会」「3.11以降の脱原発社会運動」ではなく、「日本精神國體究明」だった。

仮に1937年から1945年までの任意の時間に於いて、「共にいることの可能性、その試み」の様な「作品」が「西山研修道場」で「制作」されたとして、その「成果」が2016年の「共にいることの可能性、その試み」の様な形に結実して「藝術館」で発表されたとする。

「西山研修道場」の「修行」に「参加」した「道場生」(靑年團や敎育関係者)は、「團體の種別を問はず入場式退場式を行ふ」事が義務付けられ、それらの式典及び毎日の朝礼では、「一同敬禮」「宮城遙拜」「皇大神宮遙拜」「君が代齊唱」「敎育勅語捧讀」等が必ず組み入れられている。その様な時勢に於いて、妄想の中のその「西山研修道場」に於ける「修行」のドキュメンテーションでは、「共に修養せんとして努力する同行者」である「講師」が、「道場生」(「参加」者)に持たせる横断幕には、どの様な「社会問題」がプリントされているだろうか。館内案内誘導係=被雇用者は、どの様な書物を持ち歩く事を、雇用者側から「お願い」されているだろうか。

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その中で、その「修行」に「能動的」に「参加」した「道場生」の中の一人が、「講師」がセレクトした「社会問題」を口に出して読む事を、セレクトする者としての「講師」の主体と自分の主体が異なる事を理由に拒絶する。しかしやがてその「道場生」は「台本を読む様に読めばそれを読む事が出来てしまう」事に気付いてしまう。自らの意志に沿わなくても、「場の力」によって声を発し頭を垂れる事は「出来て」しまう。

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強制収容所で宮城遥拝するオランダ人女性捕虜

強制収容所のオランダ人女性捕虜が宮城に揃って遥拝する――写真には写っていない日本軍兵士からの「お願い」による――「参加」のフィギュールを、何かしらの「成功」に向かっているものと見るか、それともそれが「参加」である/「参加」でしかないが故に不可避的な「失敗」を抱え込まざるを得ないと見るか。

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「幽霊船」に乗り込む。その「幽霊船」の「入口」には、「本展の入口は二つあり、左右どちらからでもご入場いただけます。作品の鑑賞順序もとくに決まっていません」と書かれてある。しかし「幽霊船」に乗り込むのに左舷も右舷も無いだろう。

その「幽霊船」には「船内」に遺棄されたもの――自分達が作ったものなのに、誰一人として持って帰らなかったものを含む――が多く置かれていた。「共にいること」の「6日目」には、定刻通りに「救助船」(大型バス)が来て、首尾良く「脱出」出来る事が「漂流者」の誰にも判っている「試み」であり、だからこそ「試み」ならぬ「メデューズ号」にも「督乗丸」にもならなかった/なれなかったとも言える。

スキルの高いムービーカメラが「記録」し、それにスキルの高い編集の手が加わった「無人島0円生活」の如きTV番組を見る様に、「水戸芸術館」に漂って来た「幽霊船」に残されたモニタから流れる「6日間」の「船内」の映像を見ていた。

TV番組のテクニック的なスキルが高いのは当然であるから、その様な「条件」を褒めても――同業者、或いは同業者的視点を持った者が同業者的に褒めるというケースはあり得るが――意味が無い。TV番組を「見る」秘訣は、カメラは何を映していないのか、編集は何を切り落としたのか、インタビュアーは何を質問していないのか、解説者は何を語っていないのか、スタジオ・セットは何を見せないようにしているのか、そして彼等には何が見えていないのかを想像する視点を常に持つ事である。「宮城遥拝するオランダ人女性捕虜」の写真の外に何があるのかを考える事。「アリ伝説」を「観察」可能とする視点はどこにあるのかを想像する事。それが「写真」や「映像」に飲み込まれない為の「高台」への唯一の避難方法になる。

スキルの高いムービーカメラの人は、この「共にいることの可能性、その試み」の告知に使用される事が多かった「常陸太田市西山研修所」の「新館・食堂」での食事風景を、かなり「引き」のポジションから撮っている。

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ここで行われた方法論で必然的に出てきたものは実際に行なわれたワークショップの話であって、それ以外の、社会で起きている出来事に関してはどうも語りえないという限界があった。
この状況において語り得る、または必然的に語られた感があるのは、ここで起こったこと。それを越えて抽象化することの限界。地域共同体、国家については語れない、しかし、ここでの共同体については語り得た。(藤井光)

「それ以外」をフレームに収めようとする「試み」。それは「編集」で失われる事は無かった。

 「作品」とは遺棄された「残余」だ。観者はその「残余」から、「作品」の名によって失われたものを、再度一つ一つ手繰り寄せ直さなければならない。「幽霊船」を探索する者の様に。「作品」という「幽霊船」の中で「理念」が少しでも示された箇所があれば、他ならぬその「理念」から零れ落ちるものの手掛かりを、観者は「作品」中に発見しなければならない。

宇宙船地球号」の現在が、大きくあろうとする「理念」と「理念」のぶつかり合いの状態にあるならば、尚更「理念」と「理念」の間にあるものをこそ、今日的な「美学」は模索しなければならないし、その中では自分の信じる「理念」を一切合切捨て去らねばならない局面があるかもしれない。いずれにしても、複数の「理念」が真正面から激突する時代にあって尚、「良いキュレーション」というものがあるとするならば、それは唯一観者の「高台」への避難路を完全に塞がない事が意識的に出来るか否かに掛かっている。

「6日間」で終了する事が誰にも判っている「共にあること」の小さな「おままごと」は、しかしその「小ささ」故に、そのレベルで重要である。益々「グローバル」化する「相惡」に対抗出来るのは、「ローカル」でもなければ「地域」でもない。その「小ささ」は徹底的に突き詰めに突き詰められた「小ささ」であらねばならない。そのヒントの一つは、恐らく一回目の料理と二回目の料理の大いなる差にある。

キセイノセイキ

「MOT ✕ ARTISTS' GUILD の協働企画」である「キセイノセイキ」展は、「MOTアニュアル」枠に収めらている。

東京都現代美術館学芸員のキュレーションによって「日本の若手作家による新しい現代美術の動向を紹介する」というのが「MOTアニュアル」のこれまでのフォーマットだった。しかし今回の「キセイノセイキ」展は、「MOTアニュアル」と銘打たれてはいても、そのフォーマットに準拠する限りに於いては、「MOT ✕ ARTISTS' GUILD の協働企画」であるという点、更に「日本の(現代美術の)若手作家」とは言えない/言い難い作家が半数以上含まれている(注1)点で、実質的には「MOTアニュアル」とは別物の展覧会と見るのが良い様な気がする。事実上「MOTアニュアル」の2016は欠番という事になるかもしれない。従って、ここでの本展の名称は、「公式名」の「MOTアニュアル2016 キセイノセイキ」ではなく、単に「キセイノセイキ」とする。

(注1)11名の参加作家の平均年齢は――西暦2016年マイナス生年という大雑把な計算で――41.36歳(小数点2位以下切り捨て。以下同)になる。ここから2名の「外国人」を抜いた9名の平均年齢は38.88歳。更に「現代美術」にカテゴライズし難い横田徹氏、古屋誠一氏を除いた7名の平均年齢は34.14歳である。また美術界で慣例的に「若手」と「中堅」を分ける年齢とされてもいる35歳以下の作家は11名中4名(遠藤麻衣氏、増本泰斗氏、高田冬彦氏、齋藤はぢめ氏)であり、その平均年齢は30.00歳になる。更に本展出品作の制作当時の年齢から算出すれば、それぞれの平均年齢はこれらより少しだけ下がるだろう。

「キセイノセイキ」展の「展示企画・設計」は、参加作家も兼ねる1976生まれの小泉明郎氏(アーティスツ・ギルド)、1981年生まれの増本泰斗氏(アーティスツ・ギルド)の2名に加え、1969年生まれの森弘治氏(アーティスツ・ギルド)、1980年生まれの吉﨑和彦氏(東京都現代美術館)の4名(40歳、35歳、47歳、36歳。平均年齢39.5歳)によるものであると公式にアナウンスされている。「アーティスツ・ギルド(ARTISTS' GUILD)」所属を前面に押し出した3名と、「東京都現代美術館」の学芸員1名という構成だ。「キセイノセイキ」展の入口に提示されている、「アーティスツ・ギルド」名の宣言文めいたもの(注2)の表現に即して換言すれば、「無責任な立場」と自らを定義付けた3名と「組織にいる人間」と定義付けられた1名という事になるのだろうか。

(注2)

空気に隠されている本質を読み取れ。内なる炎を燃え立たせ、熟知していると思い込んでいる領域を改めて探検するのだ。許可を得ようとするな。赦してもらえればいいのだから。必要なら、一晩くらい拘置所で過ごすことも悪くはない。自分の運命は自分の手の内にある。己の「声」をたちあげよ。

 

組織にいる人間の恐れを垣間見ている。無責任な立場から。やがてその眼差しは逆照射される。果たして自分の正義は、振りかざせるほど正しくて強いのだろうか。ディレンマ。複雑だ。むしろ、そうした状況こそ、毛穴をかっぴらいて見つめなおすのだ。

 

自分の運命は自分で掴み取れ。

 

己の「声」をたちあげよ。

 

アーティスツ・ギルド

因みに同「宣言文」の参照元と書かれている Werner Herzog の “24 pieces of life advice" とは

1. Always take the initiative.
2. There is nothing wrong with spending a night in jail if it means getting the shot you need.
3. Send out all your dogs and one might return with prey.
4. Never wallow in your troubles; despair must be kept private and brief.
5. Learn to live with your mistakes.
6. Expand your knowledge and understanding of music and literature, old and modern.
7. That roll of unexposed celluloid you have in your hand might be the last in existence, so do something impressive with it.
8. There is never an excuse not to finish a film.
9. Carry bolt cutters everywhere.
10. Thwart institutional cowardice.
11. Ask for forgiveness, not permission.
12. Take your fate into your own hands.
13. Learn to read the inner essence of a landscape.
14. Ignite the fire within and explore unknown territory.
15. Walk straight ahead, never detour.
16. Manoeuvre and mislead, but always deliver.
17. Don't be fearful of rejection.
18. Develop your own voice.
19. Day one is the point of no return.
20. A badge of honor is to fail a film theory class.
21. Chance is the lifeblood of cinema.
22. Guerrilla tactics are best.
23. Take revenge if need be.
24. Get used to the bear behind you.

 というものである。

本展の「展示企画・設計」に、「アーティスツ・ギルド(ARTISTS' GUILD)」がその75%を占めるまでに「契約」された経緯は必ずしも明らかではない。そうした情報は公式レベルでは開示されていない。本展を紹介した一般ジャーナリズムや美術ジャーナリズムは、その状況に些かも疑いを挟む様子も見せずに、同展の広報紙/広報誌を買って出ている。

仮に橋本聡氏の本展出品作品「TVを置く」が美術館に開けられた「穴」であるとしても、普段なら他ならぬその「TV」に「検閲」や「規制」の存在を大いに感じ取り、そのジャーナリズムの「広報」化した「劣化」ぶりに暗澹としている様な人間が、美術館に置かれたオンエア中の「TV」を、「可能な限り偏りのない報道を行う」という横田徹氏の「努力」に思いを致さないまま、本展出品作品である小泉明郎氏の「オーラル・ヒストリー」中の、「誘導」に乗せられるままに乗せられたツルツルの唇から発せられるツルツルの言葉の様に、無邪気なまでに「穴」と言わねばならない程に、美術館はアンタッチャブルな「空気」であるという事なのだろうか。

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「キセイノセイキ」展の英語タイトルは、“Loose Lips Save Ships" という事になるらしい。それは第二次世界大戦時、アメリカの War Advertising Council(戦時広告評議会)によって作成された “Loose lips (might) sink ships"(緩い唇は船を沈める=情報を漏らすと味方の損害を招く≒口は災いの元)というプロパガンダの “sink" を “save" に反転したものなのだろう。“Loose Lips Save Ships" は「情報を漏らす事で味方の損害は防げる=緩い唇は船を助ける」というところだろうか。であるならば、本展では多くの “Loose lips" 、即ち多くの情報開示と、それによって生まれる相互了解へと至る議論の為のプラットフォーム構築こそが重要になる。

本展の藤井光氏の作品「爆撃の記録」でクローズアップされた、東京都の「東京都平和祈念館(仮称)」の建設が「凍結」されるに至った切っ掛けの一つは、その建設にあたっての情報開示の不徹底という「穴」を突かれた事による(注3)。そこから「史実とは言いがたい捏造された物語」(藤井光氏による「爆撃の記録」コメント。後掲)問題に発展し、その着地点が全く見えない「東京都平和祈念館(仮称)」建設の「凍結」が決定されるのである。“Loose Lips" =情報の公開性とその公共性を巡る議論の不徹底が「東京都平和記念館(仮称)」の「凍結」を結果的にもたらしたとすれば、果たして「東京都平和祈念館(仮称)」同様、「美術」を “sink" させない(という立場に彼等は立っているのだろう)為の “Loose Lips" は、この「キセイノセイキ」展で十分にされているだろうか。

(注3)参考:1997年10月23日、1997年12月18日、1998年3月18日、1998年4月23日、1998年7月30日、2012年2月17日東京都議会文教委員会議事録。

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「キセイノセイキ」展を見に行ったのは、「当事者」の片割れによる「事実」の「公表」が次々に始まる前の、4月21日という――今になって思えば――「中途半端」な日だった。美術手帖で本展のレビューを書いた沢山遼氏も、artscape で本展のレビューを書いた福住廉氏も、自分よりもより「中途半端」な日に、本展を見てそれらを書いたのだろう。

いずれにしても、東京都現代美術館のチケット売場に到着するまでに片道10時間掛かる――ほぼ羽田←→ロサンゼルス間という事になる――ところに居住している人間が、同館の開館日/開館時間に合わせて、数ある「東京地方」の展覧会の一つである同展に数時間を割けられるのはこの「中途半端」な日しか無かった。

但し実際には、4月21日までに何回か「行ける」日はあった。沢山氏や福住氏等によるレビュー、及び SNS 上の数々の報告を見ていて、本展の大まかな状況を把握していた為に、重くなってしまった腰が上げられなかったというのが本当のところだ。このまま同展を見に行かなくても一向に構わないとすら思ってはいたが、結局他の展覧会の合間についでにそれを見る――それでも結局3時間半はMOTにいた――という選択をした。

アルトゥル・ジミェフスキ氏の作品は、商業エンターテイメント的な撮り方や、同じく商業エンターテイメント的な落ちも含めて「楽しめた」。横田徹氏の作品では戦場に連れ去られた目になった。これらはこの「キセイノセイキ」展に「寄生」しなくても十分に機能し得る作品だ。

その一方で「美術館」(乃至は「美術」)相手に「戦っている」人達の方はと言えば、4月21日段階では「抽象直接行動198の方法(仮)のリスト」のペーパーは床に積まれていた。但し「ロサンゼルス」までそれを持って帰るのが難儀なので手には取らなかった。4月21日を前に、「抽象直接行動198の方法(仮)のリスト」の PDF を見てはいた。

沢山氏や福住氏が見たのと同様、相変わらず「空気」は「小泉明郎 空気 2016 アクリル/カンヴァス、空気」のキャプションのみの、使い古された自己言及的な「仄めかし」状態以上でも以下でもなかった。

「作家側と美術館側の間で著作権侵害の可能性について意見の相違があるため、現在、双方の間で出品について協議中」として非公開だった「✨今日から展示されています✨」の壁掛けの作品は、大山鳴動の後何事も無かったの様にそこにあった。

これらについては、事実として何が起きているのか/何が起きていたのかの “Loose Lips" が全くと言って良い程示されてはいなかった。この状態を元に生半な――自分が思いたい様に思う――「推測」をしない事を、美的な意味で自らに律するならば、「美術館では静かにしましょう」とも「テープで口を塞いでください」とも異なる、それらについて何事かを言う事を予め禁じられている様な「沈黙」を強いられているという気分(モヤり)にさせられるものだった。

もしかしたら、その全てが「規制」或いは「検閲」による「言論統制」の結果として見える様に「誘導」(その「誘導」を狙っているのだろう)されてしまう「キセイノセイキ」という魔法の言葉/呪いの言葉を掛けられた「欠如」の幾つかは、“Loose Lips" 以前に、単純に “Loose" でしかないものから生じている結果なのではないかとも思ったものの、しかし「当事者」的には「憶測」や「誤認」とされかねない「推測」でしかない為にそれを飲み込む事にした。

 それと同時に、その「欠如」の全てが何らかの「権力」による「規制」或いは「検閲」による「言論統制」故に生じているという「推測」も、当然の事ながら飲み込んだ。こうして本展に対しては、全ての「推測」を禁じる自己規制を発動させる/発動させられる事になった。

「ロサンゼルス」人が「キセイノセイキ」を見た2日後の2016年4月23日、東京都現代美術館近傍の「無人島プロダクション」からこの様なツィートがされた。

ツィート中のリンクを踏んでみると、そこには多くの者にとって2016年4月23日当日になって初めて知る事ばかりが書かれていた。曰く「キセイノセイキ」オープン後に、「無人島プロダクション」に対して小泉明郎氏が情報開示をする事で「小泉明郎展『空気』」展開催が決定された事。「キセイノセイキ」会場で何も無かった壁は、「展示することのかなわなかった」作品=「天皇の肖像」の痕跡である事(注4)。こうして数々の「事実」が、「当事者」の片割れである小泉明郎氏の視点を元にして報告された。

(注4)それより3日前(4月20日)に、吉崎和彦氏が不参加(注)の中で「密室」で行われた「美術手帖」2016年6月号「アーティスツ・ギルド」メンバーばかりの座談会(2016年5月中旬発売)「『MOTアニュアル2016 キセイノセイキ』展企画者と参加作家が語る、アートと自主規制」の中で、小泉明郎氏は「天皇の肖像作品」について触れている。
(注4の注)日本経済新聞5月11日付同展のレビューには、「なお、美術館は同展の個別取材に応じていない。『担当者の展示に関するコンセプトがいまだ深まっていない』のが理由という」とある。

この機を逃してはならじと、「無人島プロダクション」及び「キセイノセイキ」行きに腰を上げようとする者――主に「東京地方」在住者――が続出する。しかし「ロサンゼルス」人としては、片道10時間の「空気」展を見に行く為に、多くのリソースを割く事は現実として出来ない。遠方からこの「東京地方」の展覧会の成り行きを――ネット越しに――見るとも無く見る事にした。

「空気」展開催を知らせる「無人島プロダクション」によるツィートがされてから更にその4日後、紙媒体の「美術手帖」2016年5月号が発売されて10日ばかり後の4月27日、小泉明郎氏は、「沢山遼さんの美術手帖での批評文に対しての穴埋め(注5)という文章を、「アーティスツ・ギルド」のサイトで発表した。

(注5)そのURLは、“http://xxxmot.artists-guild.net/沢山遼さんの美術手帖での批評文での誤認につい/" である。

沢山遼氏の「憶測」/「誤認」(注6)を糺す/正す形で、ここでも「当事者」の片割れである小泉明郎氏の視点から観察された「事実」が列挙されている。沢山遼氏の「憶測」/「誤認」が美術手帖に掲載される事が無かったとしても、果たしてこの「事実」を記したレスポンスが――展覧会開催後約2ヶ月のタイミングで――出たかどうかは判らない。

(注6)沢山氏の文中では「推測」と表現されている。

2015年2月21日・22日に東京都現代美術館(MOT)で開催された、「ARTISTS' GUILD と共同企画」の「東京都現代美術館開館20周年記念」のトークセッション、「ARTISTS' GUILD:生活者としてのアーティストたち」からの流れで、「アートと生活」が「MOTアニュアル 2016」のテーマになるのではないかという「推測」/「憶測」もされ――沢山遼氏の「推測」はそこから来ていると思われる――、またその参加作家が「トークセッション:芸術の未来」の「若手」の中から出るのではないかという「推測」/「憶測」もされていた。

参考:「トークセッション『ARTISTS' GUILD:生活者としてのアーティストたち』をめぐるツイートいろいろ」 http://togetter.com/li/780056

沢山遼さんの美術手帖での批評文に対しての穴埋め」には、「MOTアニュアル 2016」に関して「労働やお金の問題を扱う展覧会」と「表現の自由を扱う展覧会」の両案があったものの(それは多くの者が2016年4月27日に初めて知る)、前者は「アーティストの労働やお金事情の展覧会をするには、組織内のお金の流れも扱わなければならなくなる可能性があり、そのような展覧会の設計は相当ハードルが高い」という理由から取り下げられ(それは多くの者が2016年4月27日に初めて知る)、「それでは表現の自由や検閲などを扱った展覧会はできないかということで、議論がすでに進められていた状況」(それは多くの者が2016年4月27日に初めて知る)であった矢先に「会田家作品撤去問題が起こった」(その先後関係は多くの者が2016年4月27日に初めて知る)。

一つの作品を決定し、その許可を得るのにどれだけの労力と時間が費やされてきたことか。一枚紙を展示空間に置くことにどれだけのエネルギーとストレスが費やされてきたことか。普通の展覧会を作るプロセスではありませんでした。そして、その裏でどれだけの欲望が断念されたか。それでも、美術館はこの展覧会企画を許諾し、数々の摩擦の中、展覧会は作られていきました。

2016年5月17日発売の「美術手帖」6月号に掲載された座談会「『MOTアニュアル2016 キセイノセイキ』展企画者と参加作家が語る、アートと自主規制」には、こういう箇所がある。

藤井 明郎さんはなぜ、経緯を会場で公開しなかったのですか?
小泉 展示プラン段階では、そうした展示できない理由も詳細に記し、誰の判断でなぜダメだったのか、ちゃんと理由を告白するような展示にしたいという意図がありました。しかし、アーティストが作品を取り下げることは、自分の判断の範囲で、ある意味では容易にできるし、そのことを口にすることもできる。ただ、キュレーターが却下をすることは、立場上、相当の覚悟が必要だと学びました。だから、そうした理由も展示してほしくないと言われ、長谷川さんを内面化したのかもしれない。まさに自主規制です。ゲリラ的に置くことも、できないことはない。でも、自分がなぜそれをやろうとしないのか。面と向かって「できない」と言われたとき、どうすればよかったのか。自分の身体も判断も硬直してしまいました。またこの流れで伝えなければならないのは、私は企画者の一人として、橋本聡さんにある作品を設置しないようにお願いしました。現場の状況が限界を超えたと判断してのことでしたが、表現を規制し管理する側にもなりました。

 この引用文(4月20日「美術手帖」座談会)は、その一つ前の引用文(4月27日「沢山遼さんの美術手帖での批評文に対しての穴埋め」)の「一つの作品を決定し〜」に「被害者」と「加害者」が入れ替わる形でループする。「欲望」を「断念」させられた人間が、他者の「欲望」の「断念」を即す側に回る。それは「キセイノセイキ」展に於ける「被害者」(それはまた「システム」の一部である)の言明の誠実性に関わる重要なファクトであり、何を置いてもこれをなおざりにしてはならないものだ。

無人島プロダクション」の「空気」展は、ギャラリー入口の画像ばかりを見せられた。2週間ばかりで再び非公開となった「天皇の肖像作品」が具体的にどの様な作品であるのかも、数枚のA4の紙に記されているらしい文章も、「ロサンゼルス」からは「空気」展や関連トークを「体験」した者による大雑把な報告、或いは備忘的な書き起こしの断片から「推測」するしか無い為に、それについても全ての判断を保留している/自己規制している。

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それを「作品」として良いとも悪いとも評する事はしないが、キャプションに打たれたコラム番号――例:コラム「A-3」が、「東京都平和祈念館(仮称)」建設を「凍結」させるに至らしめた「軍事都市」になっている――から判断するに、丹青社制作による展示プラン初期バージョン(後のバージョンでは「軍事都市」の記述が削られている)の「再現」であると思われる藤井光氏の作品「爆撃の記録」の「入口」には、この様な詩句が「無記名」で提示されている。

幾人が死んだのか?
その数を誰がわかろうか?
あなたの痛みから、
人の手による地獄の業火によって焼かれた
名もなき人々の苦しみを、
人々は知る。

 

How many died?
Who knows their number?
In your wounds we can see your agony
of the nameless who burned here
in a man-made hell.

 

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Wie viele starben? Wer kennt die Zahl?
An Deinen Wunden sieht man die Qual
Der Namenlosen die hier verbrannt
Im Höllenfeuer aus Menschenhand.

 そして作品の「出口」に「藤井光」名の文章があり、その文章の最後に、最初の文章の引用元が明かされている。

最後に、展示室の入り口の言葉は「ドレスデン爆撃はイギリス・アメリカ連合国によるホロコーストだ」と主張するネオナチ(注7)の聖地としても知られる、ドレスデン・ハイデ墓地にある空襲犠牲者のための慰霊碑に刻まれた言葉であることを記しておきます。

(注7)その「ネオナチ」の紋章の一つにはこういうものがある。飽くまでも図像的なレベルに限定して言えば、「ネオナチ」の “fist"と「アーティスツ・ギルド」のロゴの “fist"は重なってはしまう。果たして両者の “fist" 表現に託すメンタリティの共通性に関してはどうだろう。

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その直前のセンテンスにはこう書かれている。

この展示空間で想起された歴史は、戦争体験者や歴史家にとって史実とは言いがたい捏造された物語かもしれません。それでも、私自身がこの作品を作る勇気を得られたのは、爆撃で生じる各々の一回性の死を想像したからです。忘却に抗するのは、歴史認識の一致をみた正義なのか、それとも、各々の単独的な想起なのか、私は考え続けています。

やはりそれぞれの立場を、「加害者」と「被害者」、或いは一面的な「悪」と「善」に固定化しもする「正義」に繋がる「キセイノセイキ」という魔法の言葉/呪いの言葉=「誘導」はいらなかったのだ。

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敢えて「キセイノセイキ」展を2015年の「生活者としてのアーティストたち」からの流れで考えてみる。アーティストの生活は確かに概ね悲惨なものではあるだろう。しかしそんなアーティストにも原資というものはある。勿論「才能」は原資の一つだ。しかし或る意味でそれよりも重要な原資は「信用」である。

「信用」という原資はこれまでの多くのアーティストによって築き上げられ、また同時に多くのこれからのアーティストからも借りているものである。その共有財産としての「信用」こそが「表現の自由」を担保する。

「キセイノセイキ」展について言えば、随分と「信用」を食い潰してしまったという印象がある。そしてそれは、将来のアーティストの「信用」も多く含まれる。しかし改めて言えば、アーティストの原資たる「信用」の全ては「借り物」なのである。決してそれは無尽蔵ではない。使ったら使った分だけ補填する必要があるのだ。

「アート」が自縄自縛(=自己検閲)している戦略的要求者という在り方から、了解志向的要求者へと脱皮出来るのは、果たして何時の事になるのだろうか。

奥村雄樹個展「な」

終了してから1ヶ月以上経過した展覧会について書く。椹木野衣氏によるそのレビューが掲載された、印刷版の美術手帖が発売されてからも二週間以上が経過した。その展覧会を「過ぎ去ってしまったもの」として見るならば、これを今書く事は単純に遅れていると言わざるを得ない。それともそれは、29771日以降に更新されなくなったものに対して言及する事が「遅れている」様なものだろうか。

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観光ヴィザでアメリカにやって来た「私」が、ニューヨークで遭遇した人間として最初に記述したのは、「膝のぬけたジーンズを穿き、髪が縮れ、(…)真黒に日焼けした」男であった。男の人種は良く判らない。メキシコ人? プエルト・リコ移民? フィリッピン人? 東南アジア人? アメリカ・インディアン? しかしそれを殊更に詮索しない者にとっては、その男が何者であるかはどうでも良い。この国で生まれた訳ではないその男は、周囲からそれを殊更に詮索されない様に、痛々しい程に努力している。この「外地」で「完全な外国人」であり続ける為に。

正体不明の存在であり続けようとするその男を、五番街の「華やかなショーウィンドー」のリフレクションの中に見た後、「私」はそのアベニューを南下して「場末の安ホテル」に宿を取る。「私」がこの街で遭遇するのは「失業者らしい男」「黒人の子供ら」「ホモの連中」「ドアの隣に坐っている女」「娼婦たち」「エプロン姿の黒人のおばさん」「バナナの房を手にした子供」「雑貨屋の主人らしい男」「アルコール中毒らしい男たち」「四十歳ぐらいの白人女」等々である。「私は遭遇した」の列記。しかし「私」が遭遇したかれ・ら(彼・等)の「名」は、この “I MET"(或いは “I SAW")には記されていない。偶々「エズメラルダ」や「フランク」等といった固有名詞がこの “I MET" に記されたりはするが、しかしそれは人称代名詞に限りなく近いものだろう。

「私」は、日本語と英語と中国語と日本の南部地方の言葉の四ヶ国語が話せると言う。しかしその中国語は「ちょっと漢文が読める」程度という事だ。従って、事実上「私」がツールとして使用可能な言葉は、日本語と英語の二ヶ国語という事になる。「私」の “I MET" は日本語で書かれていたりするが、しかしそこで交わされている会話の――たった一つの例外的なケースを除いて――全てが英語で交わされている(注1)

(注1)果たしてニューヨークの娼婦たちに対して “apāto sagashiterundakedo donohenga yasuindai? " と日本語で尋ねたりする者はいるだろうか。

英語という、現下の地球上にあって「基軸通貨」である米ドルの如き言語は――少なくとも21世紀の初端までは――この地球上で「功」なり「名」を遂げる(注2)為に極めて有効に働く言語である一方で、己の「出自」や「足跡」を消す為にも有効な手段の一つとなり得る言語だ。

(注2)「功なり名を遂げる」は「老子」第九章の「功成名遂身退天之道(功成り名遂げて身退くは天の道なり)」からの出典。「功成名遂」と「身退」は、老子的な「天之道」に於いてセットになっている。

「私」にとっての「外地」に於ける “I MET" に記された「登場人物」達との会話は、一つの例外を除いて全てが「私」による日本語への翻訳である。日本語の会話をそのまま日本語の文字に書き起こした「南九州の噴火湾のへりにある、魚くさい漁師町」篇ではなく、「外地」篇の “I MET" の登場人物達は、一人称が「おら」であったりする矢追純一氏の UFO 番組に登場する「テキサスの農夫」の如き日本語に吹き替えられている。ニューヨークの娼婦達の英語の話し言葉は、恰も1956年の溝口健二の遺作「赤線地帯」の、若尾文子京マチ子の台詞の様な日本語で書き付けられている。

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匿名、或いは匿名扱いの人間ばかりが登場する、「私」の “I MET" =宮内勝典氏著の自伝的(autobiographical)な小説「グリニッジの光りを離れて」(絶版)は、しかしその「第7章」に入るや否や、明確なファースト・ネーム(「名」)+ラスト・ネーム(「名」)を持つ人物が、そのラスト・ネーム(「名」)の中にも「名」を入れて現れる。“I MET" の「外地」篇に於いて、例外的とも言えるその「名」の一人は「河名温(On Kawana)」。そしてもう一人は「河名温」夫人の「ヒロコ」である。

アメリカ行きの旅客機の窓の下に見える東京の街を見て、「ざまあみろ」と胸に呟きつつ「日本」と決別した「私」= “Jiro Sahara"(注3)にとっての「外地」――それは「内地」と対称的な関係にある――に於ける “I MET"。全てが英語でされている会話文を日本語に翻訳したこの “I MET" にあって、例外的とも言える「日本人」同士の日本語による遣り取りの箇所、英語が英語として発せられ、日本語が日本語として発せられている箇所を抜き出したもの。それが「河原温」氏の「肉体」と “MET" した奥村雄樹氏が、2016年2月20日(土)から3月21日(月・祝)まで、京都市立芸術大学ギャラリー @KCUA に於いて開催していた「」展に於ける「グリニッジの光りを離れて――河名温編」というオーディオ・ドラマ(監督・脚本:奥村雄樹)である。

(注3)「宙ぶらりんの名前、あっけらかんとした名前」「抽象的でどこか国籍の曖昧な響き」を意図した「私」の偽名 “Jiro Sahara" 。しかしそれは飽くまでも “Jiro"(次郎)であり “Sahara" (佐原)である。それはフランス語の Giraud でも、アラビア語の صَحْرَاء でもなく、「日本」からの「離脱」を意図した結果として生まれたものだ。因みに1965年東京国立近代美術館で開かれた「在外日本作家展」という田舎臭い名称の展覧会に出品された、「LAT. 31°25' N LONG84°1'E」という「河『原(ら)』温」の作品があるが、その緯度経度が示す場所は、アフリカ大陸の「サハラ」砂漠ではなく、中央アジアの某所である。

言うまでもなく「河名温(カワナオン)」は、奥村雄樹氏と同じく「河原温」氏の「肉体」と “MET" した宮内勝典氏がトレースして作り上げた「キャラクター」(注4)である。そしてまた、「ヒロコ」は「河原温」夫人の「弘子」氏を下敷きにしている「キャラクター」だ。但し、原作の小説で「Hiroko Kawana と、夫人の名前だけ一つぽつんと記してある」と書かれている箇所は、「名」に拘るこのオーディオ・ドラマでは、その “Hiroko Kawana" の「名」が丸々割愛され、それを音声化する事を注意深く避けている様に思える。「な」展のフライヤーに引用されている同箇所も、 “Hiroko Kawana" の「名」は「(中略)」「[snip]」 扱いになっている(注5)。何故ならば、「ヒロコ」のモデルである「河原温」夫人「弘子」氏のラスト・ネーム(「名」)は、“Kawara"(カワラ)ではないからだ。「弘子」氏が持つ複数の名前の中に、“Kawara"(カワラ)は無い。

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(注4)宮内氏にとって、「河原温」氏は「自己形成期に出会った最も重要な師(グル)のひとり」であるという。その一方で、この「グリニッジの光りを離れて」に於ける「河名温」という「キャラクター」には、ニューヨークという大都会でうごめく娼婦たちや、国籍も人種も雑多な人々の描写を前景化する為に「ちょっと三枚目」的な設定を与え、「本当の背丈よりも低く描いた」としている。

(注5)作品キャプションには「渡辺美帆子(河名弘子)」とある。

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御池通に面した広大なガラス窓を持つ「空っぽ」の展示室に入ると、そのオーディオ・ドラマの尻尾の部分が終わり、数十秒の無音の後に、定時から始まるループが再び始まった。5.1ch の「正面」に背を向けて座った。即ち、御池通を身体の左側に位置させた。遥か昔の極めて素朴な LR の「電蓄」の頃から、テクノロジーが主張する「正しい向き」に「拘束」される事が苦手なのだ。

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およそ北緯19度40分、西経99度メキシコ・シティで宇宙人のような地球人と知り合った。河名温という男で、ニューヨークに住んでいると言っていた。

私はその頃カリフォルニアで肉体労働に明け暮れていて、少し金が貯まると、いつも長距離バスに乗ってメキシコへ向かった。安いホテルに部屋を借りて、金が尽きるまで、長い小説を書き続けた。最後に滞在した時は、アメリカに戻ったら不法滞在者になる肚だったので、なかばやけくそな気分だった。

アナーキストの亡命者を訪ねたり、ピラミッドの見物に出掛けたり、娼婦、闘牛と遊び呆けた。その時、ホテルの階下に滞在していた奇妙な男。それが河名温だった。

あれから2年近くの月日が過ぎた。今では私もニューヨークに住んでいる。偽名を使ってスラム街にアパートを借り、トンプキンス公園の裏手にある場末のバーで働き始めた。勿論不法労働だ。日本人との付き合いを避けているが、河名温だけは何故か気になった。

メキシコで手帳に控えた住所を見てみると、“Three hundred forty East Thirteenth Street Apartment twelve" とある。私が住むイーストヴィレッジの西の端、丁度グリニッジ・ヴィレッジとの境になっていた。私はそこに向かって歩く事にした。河名温との出会いを思い出しながら。

タイトル音楽が流れる。そしてその音楽がフェイドアウトすると、メキシコ・シティホテル・モンテ・カルロの客室ドアをノックするSEが入る。中からは “Yes?" という男の声。それに対して「あの…上の階の者です。日本人で長期滞在している人がいると聞いて…」と日本語で返す「私」。“Yes?" を発したドアの向こうの男が、日本語モードに切り変わる。「そう?まあどうぞ」。その時(注6)からメキシコシティに於ける「私」と「河名温」の二人、そしてニューヨークに於ける「ヒロコ」を加えた三人による日本語の時間が開始される。

(注6)小説「グリニッジの光りを離れて」では、「私」が「河名温」に初めて出会った場所は、メキシコ・シティの「マヤ族の土器を展示している小さなギャラリー」であり、そこで「河名温」が「私」にホテル・モンテ・カルロを紹介した旨が書かれている。一方1998年に東京都現代美術館で行われた「河原温 全体と部分 1964-1995」展図録中の宮内氏の文章は、ホテル・モンテ・カルロがファースト・コンタクトの場所である様に読める。オーディオ・ドラマ「グリニッジの光りを離れて――河名温編」は、後者を下敷きにしていると思われる。但し同ホテルの緯度経度は「北緯19度40分、西経99度」ではなく、60進法で北緯19度25分49秒、西経99度8分10秒。10進法で19.4303679、-99.1382722である。

部屋へ入ると、「濃い灰色」(注7)で塗り潰されたキャンヴァスに、スペイン語で今日の日付――6 ABRIL, 1967(注8)――が濡れて光っている。

(注7)「な」展フライヤーの「裏面」(「表(おもて)面」なのかもしれない)は、その「濃い灰色」でベタ印刷(縁取あり)されている。ここにフライヤーを受け取った各々が日付を書けば(想像上でも)良いのだろうか。その場合、「河『原(ら)』温」ルールでは「現地の言葉で記す」から除外された非印欧語族である日本に於いて “Today" を実行しようとする者は、やはり「河『原(ら)』温」ルールに従って印欧語系のエスペラント語で記すべきであろうか。それとも「河『原(ら)』温」ルールを敢えて無視して、日本語で「1967年 4月 6日」の様に記すべきであろうか。加えてその日付は、イエス・キリストが生まれてから1800年後に、ようやくこの惑星に於ける暦の「基軸紀年法」となったキリスト紀元の形式で記すべきであろうか。因みに22世紀には地球上で最大勢力になるとも言われているイスラムの暦=ヒジュラ暦では、“6 ABRIL, 1967” というキリスト紀元の表記は “25 Zhj 1386" になる。「河『原(ら)』温」作品の “One Milion Years" に記された “AD" や “BC" は――それらは同作品の「朗読」による「展示」に於いては、読み上げられる数字の一つ一つに対して付け加えられて音声化される――、“anno Domini"(主=イエス・キリストの年に) や “before Christ"(イエス・キリスト以前)である。そしてその “AD" と “BC" が入れ替わるのは、“One Million Years [Past]" の最後の4ページになる。

(注8)「全体と部分」展図録中には “6 ABRIL, 1968" とある。

ハルビンからの引揚者だった父親に「ニューヨークで、イサム・ノグチという日本人が活躍しているんだ。おまえもあんなふうになれよ」と言われて育って来た「私」にも、その日付だけが描かれたキャンヴァスが何であるかが判らない。「私」は「あっけにとられて」尋ねた。

「なんですか、これ?」
「ん?…んまあ…、ペ、イーン、テイーン、グだよ」

眞島竜男氏が演ずる「河名温」は、その様に「ペインティング」を発音した。山辺冷氏が演ずる「私」は、それよりは “Painting" に近い発音をした。

この場面は、小説「グリニッジの光りを離れて」ではこの様に書かれている。

河名温は「うーん」と困惑したような声を洩らした。そして、つねに同じことを質問され、そのたびに同じ答をしているらしく、いたずらっぽく煙にまきつつ、こちらを試すようなある独特のニュアンスをこめて、
「Painting だよ」と言った。
「え、これが?」
と訊き返しながら、なにかしらぴんとくるものがあった。Painting――つまり絵であると言いながら、同時に、絵を描くという動詞を現在進行形にする ing の発音に力がこめられていた。

このオーディオ・ドラマに於ける「ペ、イーン、テイーン、グ」は、「ing の発音に力がこめられていた」とするには余りにも日本語訛りだ。果たして1967年4月6日に、メキシコシティのホテル・モンテ・カルロの一室で、宮内勝典氏が聞いた「河原温」氏の “Painting" が――「河原温」氏の口から実際に発せられたとして――その様に発音されていたのかどうかは判らない。

いずれにしても、眞島竜男/「河名温」による「ペ、イーン、テイーン、グ」は、日本語に挟まれて/日本語に引きずられて発せられる英語の特徴を良く捉えているとも言える。そして同時に、「河名温」の日本語の日常会話の中に挟まれる「アート」の用語が英語であるのは、何処まで行っても欧や米のものであり続ける事を止められない「アート」――欧や米のものである事を止めてしまったら、その瞬間に「アート」という概念そのものが消滅してしまうだろう――の世界に入り込んで行くには、「アート」の「基軸通貨」である英語への切り替えが不可欠であるという、“One Million Years [Past]" の最終ページのその末尾の辺りで確立された「アート」の「スタンダード」に合わせていると見る事も可能だ。「アート」の「スタンダード」である英語を発する事で、「河名温」は「On Kawa“Na”」に切り替わる。その時、1950年代の彼の仕事を憶えている日本人が、相変わらず漢字三文字で書いてしまう「河『名(な)』温」の重力圏からも離脱するのである。

“Painting" という現在時制の動詞は、未だにその着地点を見出だせないでいる「絵画」という日本語の名詞では翻訳し切れないものがある。「絵画」という日本語から発想していたら、何時まで経っても何処まで行っても、「アート」の「スタンダード」である英語の “Painting" には至り付かない。だからこそ「河『名(な)』温」の「絵画」(=日本語)は、「印刷絵画(insatsu-kaiga)」辺りで終わったのだろう。

「でも、あの、これ、毎日書くわけですか?」
「そう、終わりのないゲームなんだよ。死ぬまで楽しめるからな。ヘヘヘへへへヘヘ」

このオーディオ・ドラマに於ける「私」が宮内勝典氏(1944年10月4日生まれ)であったとして、1967年4月6日にホテル・モンテ・カルロで「河名温」の部屋を訪れた「私」は、常に「未満」の状態に居続けようとしている若干22歳の何者でも無い者だった。そしてその「私」は「河名温」が「何者」であるかを「知らない」。「私」にとって、目の前にいる36、7歳の日本人男性は、「宇宙人のような地球人」「奇妙な人間」「神に雇われた書記のような男」である。「河『名(な)』温」が「何者」であるかを「知っている」者――「河『名(な)』温」の部屋を訪れる者の多くはそうだろう。それは〈あの「河『名(な)』温」に会う〉といった様な訪れ方をする――とは全く異なるアプローチで「奇妙な男」と向かい合う「私」。「正体不明」の男と正体不明であろうとする男の関係。

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アーティスト「河『名(な)』温」の「名」を知らない、例えば「美術手帖」誌を隅から隅まで読む様な事をせず、同誌1965年12月号の「その後の河原温 ニューヨークのアトリエを訪ねて」(本間正義氏筆)の冒頭の「最近の河原温氏」の写真に目を通し、網点の掛かった「河『名(な)』温」の顔を知る事の無いコンテンポラリーアートの門外漢である「私」の前では、「宇宙人のような地球人」は殊更に「河『名(な)』温」に切り替わる必要性を感じなかったのかもしれない――但し実際には切り替わってはいる。「私」がその切り替わりを認識出来ないだけだ。

「私」と「宇宙人のような地球人」、そしてニューヨークのアパートメントに於ける「宇宙人のような地球人の妻」を交えたこのオーディオ・ドラマに於ける日本語による会話は、日本語が最も染み付いている者同士の等身大のものだ。

ホテル・モンテ・カルロでの出会いから暫く経ち、ニューヨークで “Jiro Sahara" の「偽名」で不法労働をする「私」は、「宇宙人のような地球人」が住む1900年に建てられたニューヨークのアパートメントのドアを叩く。中から “Yes?" の声がする。「私」は英語で尋ねる。“Is Mr. On Kawana here?"。“Who are you?" とドアの中の男の声。“My name is ..."。そこまで「私」は言い掛けたところで、突然スイッチを日本語モードに移し、自分が何者であるかを「名」ではない形で告げる。「あのー、メキシコで、ほら、モンテ・カルロ・ホテル」。その途端、ドアの奥の声もまた日本語モードになる。「ああ、その時の」。二重鍵を開け、鉄の突っかい棒を外すSE。

日本語の時間に「神に雇われた書記のような男の妻」が加わる。「神に雇われた書記のような男」が「私」の「名」の綴を尋ねる。彼の “I MET" にその「名」を記す為に。「私」は本名の綴を「神に雇われた書記のような男」に教える。

「パスポートの名前を書いたのは、ニューヨークに来てから初めてですよ。まるで宇宙空間へ流すタイムカプセルに自分の名前が登録されたような感じがするな」
「ああ。そう」

その日は突然やって来た。

昼が長くなってきた。アパートの入口に溢れる光を眺めていると、ひまわりが光の方へ首を回すように、北半球が私たちを載せたまま太陽ににじり寄っていく気がする。

その日、河名温はアルファベットや数字の洪水の中で、そのまとめに追われていた。絵葉書や電報を日付の順番通り、一枚ずつ小さな額縁に収めている。壁ぎわには、厖大な量の日付のキャンヴァスがぎっしり立て掛けてあった。

「あれ、今日は部屋の整理ですか?」
ニューヨーク近代美術館で展覧会が開かれるんだ。『概念美術の動向』っていうんだけど、それに作品を出すように招待されてね」
「えっ、作品?」
「うん。まあオープニングには出席しないけどね。僕の仕事は作品を作る事で、展覧会を作る事ではないからなあ」
「へえええ。そうですかあ」
「おいおい、100年のカレンダー、額から出してくれよ。ぎりぎりまで続けたいから」
「あら、そうだったわね。わかりましたよ」

作品? 美術館? そうか…。絵葉書も電報も、別に虚空へと発信された訳ではないんだ。それぞれの受取人が作品として保管していて、今度の展覧会の為に回収されたということか。なんの変哲もない日付を記し、出会った人々の名前を執拗に書きとめ、この惑星で生まれて死んだ全ての人々の為に、宇宙誌的な墓碑銘を刻んでいる様に見えた行為も、全て作品だったのだ。無名の一日一日を生きる俺が、神の日雇い書記によって記録されている。そう感じていたのに、まるで墓をあばかれたような気分だ。

「あのぉ。忙しそうだから、今日はこれで……」
「ばたばたしていて、ごめんよ。来週は暇になるから」
「ええ、また来ます」

 「途方もない奥行を孕んでいると思えたその行為が、あっさり社会化され、一種のからくりとなって美術館に納まることが淋しかった(宮内勝典グリニッジの光りを離れて)」。「神に雇われた書記のような男」ではなかった「河『名(な)』温」の前から立ち去る「私」。ドアのSE。溜息。

再び「河『名(な)』温」の部屋を訪れる「私」。預けていたパスポートを取りに来たのだ。「私」は空の青に「有機的な水の深さ」を孕んでいる「好きになりそうだった」この街、そしてこの国から出る事を決意した。

再入国を諦めたアメリカからメキシコに行き、そこからパナマまで降り、ヨーロッパ行きの船を探し、スペインから北アフリカに渡り、シルクロードを通ってインドまで行く。人間の生と死が光を放っている様な場所。一人の人間には余りに広過ぎる「空間」的広がりを持つこの惑星の上を、這う様に移動する「私」。

「河『名(な)』温」との別れの前に「河『名(な)』温」の “I MET" を再び見る「私」。

十日に一度ぐらいの間隔で、私の本名が記されていた。日付を見てもほとんど何にも憶いだせない。だが、スラム街の底でもだえ、バーで働き、娼婦たちを抱いた日々が、その余白に刻まれている気がした。この男はやはり神の日雇い書記だ。作品だろうと何だろうと、俺は確かに記録された。

ドアが閉まるSE。“I MET" = “ON KAWA'NA' MET" の「余白」。その「余白」に「俺は確かに記録された」。「名(日付)」と「名(日付)」の間に。

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「じゃあ、あっちに積み上がっている紙は何ですか? すごい量ですね。どうれどれ、BC 998129、BC 998128、BC 998127…。BCって事は紀元前の年号か。何です?これ」
「何って、えー、100万年分の年号だよ」
「ああああ、こっちは100年でなくて、100万年分」
「紙一枚に4段組で500年分タイプ出来るんだけど、それでも全部で2000ページになるんだな。でも人間の文明は、最後の10ページしか無いんだ。ハハハハハ」
「それにしても、その100万年の間に、一体何人の人間が生まれて死んでいったんだろうなあ」
「一説ではね。ざっと見積もって1000億人だって言うけれど、どの辺から人間に入れるのか、類人猿との境はどの辺で区切るのか、それがどうも曖昧で根拠が無いんだなぁ」

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2014年7月10日、デイヴィッド・ヅウィルナー・ギャラリー(David Zwimer Gallery)は “It is with great sadness that the gallery announces the passing of On Kawara" とアナウンスした。dead とは書かれていなかった。それはそのアナウンスが “On Kawara" に関するものだからだ。“On Kawara" が passing したのと全く同じ時間に dead したのは、別の名前を持つ人物であるという事なのだろう。

例えばここに“134 GREENE ST. NEW YORK" にオフィスを構える “ONE MILLION YEARS FOUNDATION INC" と「名」付けられた財団に関する公文書がある。

http://www.guidestar.org/FinDocuments/2014/134/177/2014-134177993-0c24252a-F.pdf

その “Part VIII Line 1" の “List all Officers, directors, trustees, foundation managers and their compensation" には、“AKITO KAWAHARA" “HIROKO KAWAHARA" “SAHE YOSHIOKA" “KASPER KONIG" と並んで、“ON KAWAHARA" という人物が記されている。2014年の compensation はゼロだ。

f:id:murrari:20160503085738p:plain“AKITO KAWAHARA" “HIROKO KAWAHARA" と同じラスト・ネーム(「名」)を持つ “ON KAWAHARA" 氏のアドレスは、“140 GREENE STREET NEW YORK" で前ニ者と共通している。

恐らく dead したと幾つかの公文書に記載されているのは、「肉体」を持つ “ON KAWAHARA" 氏という事になるのだろう。それは「1000億人」の中に組み入れられる死である。

一方「意識」としての「河『原(ら)』温」はまだ生きているという見解がある。デイヴィッド・ヅウィルナー・ギャラリーの “passing" という表現もそこから来ているのだろうか。勿論その「まだ生きている」はオカルト的な意味ではない。であれば、その「まだ生きている」はどの様にして可能になるのか。

例えば仏教経典の一つである「妙法蓮華経」、所謂「法華経」の「如来寿量品第十六」には、釈迦牟尼仏の「言葉」として「為度衆生故 方便現涅槃 而実不滅度 常住此説法(衆生を仏の世界へ導くために、教化の手段として入滅の姿を現したが、実際には入滅していない。私は常にここに留まって法を説き続けているのだ)」とある。“I AM STILL ALIVE"。それが「法身」という考え方を生み出したりもする。

しかし現実的に dead した釈迦牟尼仏を「久遠常住」させているのは、その法を伝えて行く釈迦牟尼仏ならぬ者による不断のアクティビティによる「繰り返し」である。「繰り返し」を担う人類が不在の場所では「法身」は意味を成さない。だからこそ仏教で重要視される「三宝」の中に、「仏(Buddha)」と並んで「法(Dharma)」と「僧(Sangha)」が入れられる。

「私はまだ生きている」は、それが確実に途切れてしまう現実と背中合わせだ。誰もが「1000億人」の死の中に組み入れられる。しかしだからこそ「私はまだ生きている」は普遍性を持つ。「1000億人」が「私はまだ生きている」を自分の言葉として発する事が出来る。“I AM STILL ALIVE" というツイートには、アーティストの発信者「名」は必要ない。それぞれの「名」に於ける「繰り返し」としてそれはある。“I AM STILL ALIVE" は、ウォルト・ディズニーが dead しても、ディズニーの「名」で作り続けられ、ディズニーのものとしてあり続ける「ミッキーマウス」とは違うのだ。“passing" とは球技に於ける「パス回し」の様な「受け渡し」なのではないだろうか。

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「自転(日)」の世界がズームアウトし、「公転(年)」の世界がズームアウトし、そして「名」の無い「余白」の世界に入って行く。

オーディオ・ドラマには「宇宙人のような地球人」という言葉があった。果たして「宇宙人」とは何処に済まい、何処までの行動範囲を持つ者の事を言うのだろうか。「神に雇われた書記」という言葉があった。その「神」はこの「余白」ばかりの遍きに等しく書記を送っているのだろうか。

「河『原(ら)』温」の “One Million Years" には、「地球」と呼ばれる平凡極まりない惑星の「公転」回数が[Past][Future]共に100万回ずつ記されている。全宇宙のスケールからしてみれば、非常に短い100万「年」だ。100万「年」というのは偏に「人類」の「起源」とその「進化」に即した時間である。だからこそ “One Million Years" には “For all those who have lived and died.”(Past)、 “For the last one.”(Future)と書かれている。「河『原(ら)』温」が扱う対象は、常にこの「地球」のこの「人類」スケールという「狭さ」に収められている。そして “Today" や “I ~" に於ける個人的(pesonal)/自伝的(autobiographical)なスケールは、この「地球」のこの「人類」の中に収められるものとしてある。

考えても見れば、「河『原(ら)』温」という「狭さ」としての「名」それ自体も「余白」であったのではないか。29771日の始まりと終わりの間に生じた「余白」。「名」付けるというのは「余白」の可視化だ。従って「河『原(ら)』温」という「名」は「狭さ」を伴ったものとしてなければならない。

「名」付けられた「余白」は、「名」付けられた別の「余白」と重なり合う。“I MET" を蝶番として。“A MET B" は即ち “B MET A" であり、“A MET C" は即ち “C MET A" である。そして “B MET C" があり、同時にそれは “C MET B" になる。そうした “MET" によって新たに「余白」に「名」が付けられる。

同じ @KCUA で行われていた「グイド・ヴァン・デル・ヴェルヴェ個展 無為の境地」と「名」付られたものの「余白」の様な「な」と「名」付けられた展覧会。“killing time" MET “Na"/“Na" MET “killing time"。

“I MET [I MET]"。“I MET [I AM STILL ALIVE]"。MET は「受け渡し」としての passing である。「受け渡し」は「長引かせる事」とは異なる。そして「受け渡し」だけが「狭さ」を越えられる。その一点でのみ〈「河『原(ら)』温」はまだ生きている〉は正しい。

クロニクル、クロニクル!「後編」

承前

「クロニクル、クロニクル!」の「ルール」は、「ルール・1/『クロニクル、クロニクル!』は会期を1年間とする」、「ルール・2/「1年の会期のうち、展覧会を2度、名村造船所跡で行う」、「ルール・3/繰り返すこと、繰り返されることについて1年間考え続けること」の3つである。

それは学校の卒業式で交わす「10年後にまたここで会おう」という約束の様なものにも思える。その「10年後」の現実は、卒業式の日にそれぞれが漠然と/決然と思い描いていたものとは大いに違っている公算が高い。

「私は10年後には押しも押されもせぬ純粋芸術の彫刻家になり、その作品が世界中の美術館で展示される」と思っていたものが、実際の「10年後」には「今はマネキンの原型を作っている」や「今は伝統的な陶工の名跡を継いでいる」という「未来」になる事は十分にあり得る。「私は1年後も『現代美術』の人間である」もまた、現実的な「未来」に於いて極めて蓋然的なものでしかない。

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3階の「会場」に入ると、そのフロアのゲートウェイの正面に、伊東孝志氏の「刻跡」(2008年/810✕560mm/写真 〘水たまり、息、水紋〙)という写真作品があった。ウィリアム・フォークナー「アブサロム、アブサロム!」の、クェンティン・コンプソンの科白を思い出させられもする「水たまり」と「水紋」。そして作品タイトルの「刻跡」は、同展サイトに引用されている同小説の、ジュディス・サトペンの科白を想起させられもする。

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その手前に、作業台の様にがっしりと作られた「長机」があり、その上に「子供の絵」――会場マップの作品キャプションにはそうある(注1)――が置かれている。6歳〜7歳児位の子供が実際にこの場所で描いてそのままにしたものなのか、それとも別の場所で描かれたものを、その「状況」込みでここに移して来たものかは判らない。しかしそれを特定する必要も無いだろう。

(注1)同作品のキャプションは「無題/映像(産卵直後の有精卵を孵化適温38°Cで24時間温め、その後外気温ー5°Cの中、雪上に置く。12分25秒)、テーブル、椅子、子供の絵」となっている。

この「子供の絵」は何時頃描かれたものだろう。1960年代だろうか、1970年代だろうか、1980年代だろうか、1990年代だろうか、2000年代だろうか、2010年代だろうか。しかしそのいずれであっても良い気がするし、それ以前にその問いそのものが馬鹿げている。「子供の絵」は、その成立「年代」が時に極めて重要視されもする、「現代」という観念に翻弄され続ける「現代美術」とは異なるものだ。

子供が描く絵は「繰り返し」の中にある。祖父母の世代が6歳〜7歳児位の子供だった時の絵と、親の世代が6歳〜7歳児位の子供だった時の絵と、その子(孫)が6歳〜7歳児位の子供だった時の絵は、その根本に於いては「同じ」ものだ。1951年にロシア・ノヴゴロドで発掘された「白樺文書(berestyanye gramoty)」(注2)の中に含まれていた13世紀の6歳〜7歳の少年、オンフィム(Онфим)が描いたものともそれは「同じ」ものだ。個体発生は系統発生を反復する(エルンスト・ヘッケル)のである。

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オンフィム「パパとぼく」/白樺樹皮にインク 13世紀

(注2)売買契約、金銭貸借、家事や家政に於ける伝言、文字の練習等の書き付けであるその「アーカイブ」は、それらが「繰り返されること」であるが故に、公文書等に書かれた年代記(クロニクル)から漏れ落ちざるを得ないものだ。

その「左横」――動線の関係で「奥」として印象付けられる様にはなっていない――に「卵割」段階で「成長」を強制的に止められた卵の映像が映っている。子供に留まる(注3)という事でもあるのだろうか。

(注3)映像中の卵は子供にすらなっていないが。

「難しい」とされる「現代美術」を見る「秘訣」というものがあるとしたら、その一つは「子供の絵」を見る如くに見るという事になるかもしれない。「現代美術」が「難しい」とされるのは、或る意味で「子供の絵」を見る者自身が子供だった頃を思い出す事が「難しい」のと似ている。

子供の頃の自分を取り巻いていた世界はどの様に見えていたのか、子供の頃の自分の時間の感覚はどうだったのか、子供の頃の自分にとって他者はどの様な存在だったのか、子供の頃の自分は何が面白いと思っていたのか、子供の頃の自分の宝物のどこが宝物だったのか。そうした諸事を全て綺麗さっぱり忘却して大人の実利の中に生きる者が「子供の絵」を見る時、「子供の絵」の「平易」な解説を求めたりもし、またそれを見た途端に「ああ『子供の絵』ね」と遣り過ごして、隣の「現代美術」を見に行くのである。

しかし「子供の絵」というアウトプットを見て、「この様な絵」・「しか」・「描けなかった」子供の頃の自分を「思い出せる」事が出来ない者は、恐らく「現代美術」からも「思い出せる」事を引き出すのは「難しい」に違いない。「子供の絵」に「自己主張」は無い。何故ならば「自己主張」をしようにも、その「自己」自体が確立されていないからだ。しかしそれは所謂「無垢」的なものでも「か弱き」ものでもない事は、自らの子供時代を思い返せば判る事だろう。

このフロアのゲートウェイに「子供の絵」があるのは、恐らく何かの「導き」なのだと思う事にした。この「現代美術」ばかりのフロアを「子供に留まった」目で見て行こうか(注4)。「誰もが子供だった」は、紛れも無く「普遍」の一つではあるのだ。

(注4)「現代美術」の「表現」として差し出される事にも、それを「現代美術」の「表現」として見る事にも飽き飽きしている。

五十絡みのおっちゃんが、子供の様に水溜りに息を吹き掛けている写真――子供がそれをやっている程には楽しそうに見えないが――を再び見て、3階を反時計回りに回った。

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このエリアは1月25日の「クロニクル、クロニクル!」の「初日」にも訪れている。その時そこには、スライダックに弓を繋ぎ、カポックのブロックを削っている人がいた。それからそれによって出たガラを弓で小さくし、それを大きなビニール袋に入れていた。他にもう一人、マットが貼られたカポックの造形物に粘土付けをしている人がいた。二人ともこちらを一瞥し、そして次の瞬間またそれぞれの世界に入って行った。

そこには物流パレットが数枚「散らばった」形で置かれ、その「親亀」パレットの上に二回り程小さな「子亀」パレットが置かれたりもし、その上や周囲にペールや洗面器等が置かれている。それらはここで「制作」を進める為に存在しているのかもしれないが、しかし例えば造形業者の「石膏取り」の現場仕事で、この様な「不合理」な形に材料や道具置場をセッティングする者がいたら、直ちに親方は怒り出すに違いないし、場合によってはグーパンチの一つも出るに違いない。

ここで行われるのは「仕事」の体裁をした「儀式」なのである。そして「仕事」の様に見える「儀式」で思い出すのが、子供の「秘密基地」だ。「秘密基地」遊びというのは、何も日本の子供に限った話ではなく、David Sobel が “Children's Special Places: Exploring the Role of Forts, Dens, and Bush Houses in Middle Childhood” で調査報告している様に、世界各国にその例は見られ、「子供の絵」同様に「発達心理学」の研究対象にもなるものだ。

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子供の「秘密基地」で行われている事は、大人世界の「まねび(学び)」という側面もある。しかし同時に、それは大人からの「観察」や「理解」が不可能なところにある「秘密」でなければならない。即ち何らかの形で「大人は知らない/大人は判らない」という形の「秘儀」性がなければならない。それが「秘儀」的であるが故に「秘密=基地」なのである。「秘密基地」は、「秘密」という形でインデペンデントな体験だ。それは大人達が生暖かく見守っている「キッザニア」の「アクティビティ(職業体験)」とは似て非なるものなのである。

このエリアは谷中佑輔氏の「秘密基地」だ。「見世物」として公開されてはいるが、その「秘儀」性故に「秘密基地」だ。従って、物流パレットも、パレットの上のものも、床に渡された綱も、ここで「出来上がったもの」ものも、全ては「秘密基地」のそれだ。ローラースケートの「儀式」、食べ物を口に入れる「儀式」、象ったものをまた象る「儀式」…。連関には「意味」があるが、それは「儀式」性に於いてである。そしてそれは、それを見る「大人」の全てが、嘗てその中で生きていたものだ。

「秘密基地」は「日常における非日常性」だろうか。否、決してそうではないだろう。「それをしてはいけません(注5)」と社会化される事が、子供にとっては「非日常」の側にある。そしてその「非日常」が「教育」を通じてドリルされ、やがて我々の知る「日常」になって行くのである。我々が生きる「日常」のシェルは、嘗ての「非日常」だ。それを踏まえて「日常における非日常性」という言葉を再吟味すれば、「日常」と「非日常」はいとも容易く反転する。

(注5)「キセイ」。

「秘密基地」遊びは、「長机」の上にあった絵の「作者」と同じ年回りの “Middle Childhood" (6、7歳から11歳位まで)に現れる。それは「日常」と「非日常」を入れ替える為の「教育」が本格的に始まり(学齢到達)、それが一旦完了する(小学校卒業)時期に当たる。社会化の過程で子供の口から発せられる「秘密」という言葉には、子供の抗いが込められているのである。

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その童話はしばしば書店のビジネス書や自己啓発本の棚に置かれる事があるらしい。「成功者の絶対法則」や「偶然の幸運に出会う方法」や「幸運を生むタマゴ」等に混じって、「セレンディップの三人の王子たち―ペルシアのおとぎ話」(小学上級から)がそこで見つかったりもする。

クリストフォロ・アルメーノがペルシャ語からイタリア語に訳した “Peregrinaggio di tre giovani figliuoli del re di Serendippo" の冒頭部分にあるラクダの逃走とその回復譚は、或る意味で「名探偵コナン(“Case Closed"=一件落着)」に於ける推理場面の様な話なのだが、そのプロファイリングの箇所を、「源義家が糸引納豆を発見した」的な、「ふとした偶然をきっかけに、幸運をつかみ取ること」という寓意=「セレンディピティSerendipity)」に仕立てた(曲解した)のは、18世紀のイギリスの政治家であり小説家である第4代オーフォード伯爵ホレス・ウォルポール(Horace Walpole)である。

1754年1月28日に、ウォルポールは Horace Mann に宛てた手紙(注6)の中で、“they were always making discoveries, by accidents and sagacity, of things which they were not in quest of ..." (王子たちはいつも意外な出来事と遭遇し、彼らの聡明さによって、彼らがもともと探していなかった何かを発見するのです)と書いている。「名探偵コナン」がその様に読めるのであれば、「セレンディピティSerendipity)」を「コナニティ(Conanity)」としても良さそうだが、しかしやはり「名探偵コナン」からは「ふとした偶然をきっかけに、幸運をつかみ取ること」という寓意は得られるものではない。

それはさておき、いずれにせよ「意外」であろうがあるまいが、「聡明さ」 があろうが無かろうが、「もともと探して」いようがいまいが、子供の世界は「(略)出来事と遭遇し(略)何かを発見する」毎日であり、因果の法則性が内面化され切っていない――即ち「必然」というものが無い「偶然」ばかりの――その「生」自体が「セレンディピティ」的である。

(注6)http://www.gutenberg.org/cache/epub/4610/pg4610-images.html の“191 Letter 90 To Sir Horace Mann.”参照。

さても写真である。子供が最も関心を持つ写真の様態というのは、飽くまでも紙の上にプリント(焼付/印刷)されているそれという、経験から導かれた印象がある。スマートフォンを子供に渡せば、カメラアプリで撮影してその結果が液晶画面に映し出される不思議を面白がりはするものの、しかし撮影画像をより面白いものにしていこうという気は更々起こさない。絵を何枚も何枚も描く様には彼等は写真撮影しないのだ。子供にとって、写真はどこまでも身体性の延長にある物理的なものでなければならない。子供にとっての写真。それは「表現」の一意的なアウトプットとしての「像」ではなく、ハサミで切る対象として認識される「物」であるところから始まるのである。

こうして新聞折込チラシのマンションの写真と、ドミノ・ピザの写真と、ケルヒャーの高圧洗浄機の写真がハサミで切り取られ、並べられ――子供は並べる事が好きだ――、テープ止めされる。。

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“The Line Up Book" Marisabina Russo 

もしも折込チラシの中に「給水塔」の写真ばかり――それもまた子供っぽい「line up(ぎょうれつぎょうれつ)」である――のそれが入っていたら、子供はそれをハサミで切り取って「ぎょうれつぎょうれつ」させるかもしれない。

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そして子供は周りの大人に、「ぎょうれつぎょうれつ」する事で現れたその面白さ(注7)を共有してもらおうとして/認めてもらおうとして言う。「見て見て」。その時「見て見て」と言われた大人が取る態度は二つに別れる。一つは子供と一緒にそれを面白がる事の出来る――子供の面白さのポイントとは必ずしも一致しなくて良い――大人。もう一つは「何をやっているの。早くかたづけなさい」と言う大人である。しかしそれでも「昨日も同じことをやったでしょ」とか「それはおともだちもやってるでしょ」と言う大人は余りいない。

(注7)「何が写っているのかということより、写真となった被写体がどういうふうに知覚されるのか、またそこに写された情報は、見る人によってどう変化していくのか、ということに 興味があります。」鈴木崇氏ステートメント。 http://www.takashisuzuki.com/statement/index.htm

鈴木崇氏が「Fictum」シリーズを東京の IMA Gallery で発表した時、飯沢耕太郎氏はそれをこの様に評した。

影をテーマにした「ARCA」、新作の「Fictum」のシリーズが展示されていたのだが、どちらも「悪くはない」レベルに留まっている。特に、京都を中心に日本の都市の光景を断片化して切り取り、3面〜5面のマルチ・イメージとして並置した「Fictum」は、発想、仕上げともに既視感を拭えない。日本の都市環境を、瓦屋根のような伝統的な素材と近代的な素材とのアマルガム(混合物)として捉える視点が使い古されているだけでなく、その並置の仕方に工夫が感じられなかった。疑いなく、一級品の才能なのだから、それにさらに磨きをかけていってほしいものだ。

 

http://artscape.jp/report/review/10112932_1735.html

 子供がつまらないと思う事を、大人は決まり事の様に拘らなくてはならない。大人は辛い種族なのである。

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「クロニクル、クロニクル!」で公開されている田代睦三氏の経歴を引用する。生年以外の西暦の部分は年齢に変えてある。

1957年 埼玉県生まれ。
24–29歳 東京・田村画廊、真木画廊、ときわ画廊、画廊パレルゴン、コバヤシ画廊、名古屋・ASGほかで個展。
48歳 「リハビリテーション-空気の裏側/草」GAW V、新宿ゴールデン街、東京
53歳 「リハビリテーション-領域I」「リハビリテーション-個人的事情」GAW VII、兵庫西脇市
56歳 「本のウラガワ/書物のオモテ『風立ちぬ』」GAW VIII、新宿ゴールデン街、東京

 

http://www.chronicle-chronicle.jp/tag/%E7%94%B0%E4%BB%A3%E7%9D%A6%E4%B8%89

 「クロニクル、クロニクル!」の出品作品タイトルは「1985(27歳)/2013(56歳)/2016(59歳)――絵画的な風景」である(その時々の年齢を加えてある)。

「第2期」の「クロニクル、クロニクル!」(2017年1月23日〜2月19日)が始まって間もなく、その年の旧暦1月1日がやって来る。その日、1957年の旧暦1月1日以降に生まれた人間は数えで61歳になる。十干十二支が一巡し、再び1歳にリセットされる。人生の春があり、夏があり、秋があり、冬があった。そこで1回目の人生は終わり。2回目の1歳は、60年分を辿って来た1歳である。春がどういうものであり、夏がどういうものであり、秋がどういうものであり、冬がどういうものであるかを知っている1歳だ。

人生の全てを夏で止めて生き続けようとする抗いの形というものは確かに存在する。「あなたは老いてはならない」と、永遠の現在の顔をした夏という過去に留まり続けているかどうかを周囲から監視され続ける職業というものもある(例:ロック・スター、現代アーティスト)。しかし人生に四季が存在するというのはそんなに悪いものだろうか。一旦冬を経ないと、新たな春は巡って来ないのではないか。

「クロニクル、クロニクル!」に於ける田代睦三氏の作品の現れは、氏の夏を知っている身には感慨深いものがある。それは「リハビリテーション」(回復)の時代をも越えて、新たな春の=新たな子供時代の予感がする。1歳とは未来の別名である。そして2回目の1歳は、未来が死へ向かうベクトルの上にある事を自覚する。

半分塗り潰された堀辰雄の「風立ちぬ」、2011年3月11日に水を被ってラッピングされた過去作、内から外へと向かう長いビニール・ホースを流れる水、黒板に転写されたツイート書かれた呟きと床に散らばる白墨、天井から垂れ下がった電気コード、窓際の折り畳み椅子…。こうしたものの一々に眉間を寄せて相対する事も無かろう。そうしたものの間を、ビニールホースの為に開けられている窓から風が通って行く。Le vent se lève, il faut tenter de vivre. 風立ちぬ、いざ生きめやも。

やがて2回目の1歳を迎える者が手掛けたもの。夏の人が何としてでも入ろうとする美術館/美術史(それらは夏の人が好きだ)には恐らく入らないもの。

幸福だとか何んだとか云うような事は、嘗てはあれ程おれ達をやきもきさせていたっけが、もう今じゃあ忘れていようと思えばすっかり忘れていられる位だ。

 

堀辰雄風立ちぬ

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ハンス・クリスチャン・アンデルセンのフェアリーテール「天使(Englen)」。その冒頭は「よい子が死ぬたびに、神様のお迎えの天使がこの世におりてきて…(Hver Gang et godt Barn døer, kommer der en Guds Engel ned til Jorden ...)」と、死んだばかりの子供に天使が話し掛けるところから始まる。

死んだ子供は自分が一番好きだった場所に天使と一緒に行き、そして花を集めて神様――19世紀のデンマークデンマークノルウェー)人アンデルセンの書くこの「神様」は、キリスト教の「神様」だろうか、北欧神話の「神様」だろうか――のところへ持って行く。その道すがら、天使は自分の正体を明かす。そしてその死んだ子供もまた天使になり、死んだ子供を連れてくるのだと神様から告げられれる。

「天使」は、アンデルセンの友人の娘が幼くして死んでしまった事を切っ掛けにして書かれたともされる。まだ乳幼児の死亡率が極めて高かった時代だ。それは当時の人間にとっては極めて当たり前の現実だった。19世紀に於いても尚、何時死ぬかも判らない子供は、その将来が極めて蓋然的なものだったが故に、それを期待しようもなく、未だ未来を表象するものではなかった。少産少死が可能になる環境になるに至るまで、死は常に傍らにあり、生と死の距離は余りにも近かった。

アンデルセン童話やペロー童話と並び称されるグリム童話には「死」のテーマが多いと言われる。しかしグリム兄弟やアンデルセンやシャルル・ペローが拾い集めた民間伝承が成立し伝えられて来たのは、例えば17世紀イギリスのピューリタンの聖職者であり “A token for children: Being an exact account of the conversion, holy and exemplary lives, and joyful deaths of several young children(子供に語り残す話:くわしい回心の記録。数人の子どもたちの気高く模範的な生涯と、その喜ばしい死)" という「児童書」の著者ジェームス・ジェインウェイが嫌悪した世界だった。

荒木悠氏の「永遠の現在」。死んだクジラだけの映像と、死んだクジラとそれに群がる若者の映像の二重映し。そのいずれが「先」でいずれが「後」なのかは判らない。その「先」と「後」の間にどれ程の時間が経っているのかも判らない。いずれにしても群がる若者が不在の映像がある。彼等はどの様にこの画面を去って行ったのだろう。画面の右側に去って行ったのか、左側に去って行ったのか。

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アクシデントで死んだクジラの「永遠の現在」にしても、1匹/2匹の蝿がアクシデントで航空機の三重窓から出られなくなった「Fly」にしても、それらを前にしてどの様なフェアリーテール――生と死を語る物語――を、アクシデントと隣り合わせにいる子供に語る事が出来るだろうか。それは他ならぬ語る者の生死観を伝える事だ。

むかしむかし、あるところに、いっとうのくじらがおりました。……

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この階を反時計回りに回って来て、その一筆書きが終わるところに持塚三樹氏の絵があった。流し台の上にも何かがあった。やがてこの階の一周を終えようというその時、この階を伊藤孝志氏から時計回りに回って見たら、ここにある持塚三樹氏はどの様に見えるだろうかと思った。それは子供の絵の直後に持塚三樹氏があるという事になる。

ヴァンジ彫刻庭園美術館の2012年の個展の作家紹介にはこう書かれている。

持塚三樹(1974-)は、意味が定まる前のかたちや、光や空気の移ろいを豊かな色の層を重ねて描き出し、意識に残った日常のイメージの抽象的な残像をキャンバスに定着させます。深い森に差し込む光、陽光のもと鮮やかに浮かび上がる草花は、目に見えない空気感をたよりに、記憶のなかをたぐりよせながら描かれた情景です。折り重なる草花や木々の枝によって分割された色面から幾何学文様が生まれ、画面に配された人物や小動物のシルエットからその隙間の空間が広がります。作家の視点は常にものごとの区切りの曖昧さをとらえ、誰もが共有できるイメージや言葉の中間的なあり方を探ります。

http://www.vangi-museum.jp/kikaku/121103.html

 

 現在の「作風」に至る「前」の氏の絵を、ネット検索で見る事が出来る。それはこの解説文が必ずしも、或いは悉く当て嵌まらないものだ。ピエト・モンドリアンの木から水平/垂直線に至る「変化」の過程は良く知られている。持塚三樹氏の「変化」の過程は如何なるものであろうか。それは果たしてイメージ上の「変化」に留まるものなのだろうか。

子供の絵にイメージ上の「発達」を見るとして、その「発達」に大いに関係しているのが体の使い方の「発達」である。

http://www.annelieswisse.nl/wp-content/uploads/03_pen-grip-development.jpg

描画に際して、最初は肩の関節を軸にした描き方。次に肘を軸にした描き方。その次に肩と肘を同時に使う描き方。それからそこに手首の動きが加わった描き方。そして指先の関節を「自在」に使える様になるのである。

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2000年代までの持塚三樹氏の絵の描き方は、明らかに指先の関節が主となるものだった。その筆は親指と人差指と中指の “tripod" で保持されていただろう。換言すれば、それは「大人」の筆の持ち方だ。それ以外の保持の仕方で――例えば乳幼児の描画の初期段階に於ける様な、肩関節の回転のみを使い、筆はグー(cylindrical)持ちで――その絵を描こうとしても到底無理だ。

しかし2010年代になって、氏は――結果的にであったとしても――こうした「大人」の筆の持ち方から離れた様に思える。今の氏の絵は、「大人」の筆の持ち方――即ち指先と手首の関節のみで―ー描けるものではない。氏の筆使いは2000年代と2010年代では明らかに変わっている。描画に際して多く使う関節や筋肉も、根本的に変わっているだろう。或る意味で、それは子供へのフィジカルな「退行」であり、子供の「繰り返し」である。

絵画に於ける再現性(representation)が現実的なものになるには、親指と人差指と中指の “tripod" で保持された筆の持ち方でしか実現化されないとも言える。絵画の起源論争にしばしば引っ張り出されるこの女性すら、既に “tripod" なのである。グー(cylindrical)では影をトレース出来ない。

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目に見えない妖精は鏡にも映らなければ影も生じない。その様な意味の事を、非合理が世界から排除されつつあった時代の人であるギュスターヴ・クールベが言った様な気がする。

持塚三樹氏の筆使いの「退行」から見えるものは何だろうか。

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דער מענטש טראַכט און גאָט לאַכט.


イディッシュの諺(Der mentsh trakht un Got lakht.:Man Plans and God Laughs:人は計画し神は笑う)

らいねんの こといへば おにがわらふ

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京都・上方いろはかるた

明日ありと 思う心の仇桜 夜半に嵐の 吹かぬものかは

 

親鸞

我々が良く知っている「現代美術」というシステムが1年後にも存在しているという信憑。それ故に美術館もギャラリーも1年後の計画を立てる事が可能になる。しかしその様な信憑は、神の笑いによって、鬼の笑いによって、嵐が訪れた如くに吹き飛ばされているかもしれない。確かに1年後は現実的ではないかもしれないが、ならば盛って100年後ならどうだろう。

「明日ありと思う心」が「現代美術」を辛うじて支えている。明日も美術館はある。明日もギャラリーはある。明日も美術市場はある。明日も美術史はある……。そうしたものの「価値」への信憑は、手許にあるこの紙切れや金属片で、いつでもあらゆる商品と交換が可能だと思われている貨幣という共同幻想と同じだ。そしてそうした共同幻想から完全に身を剥がして「現代美術」が生き残って行ける可能性は限りなく少ない。

子供はこの世に美術館やギャラリーが無くても日々ものを作っていける。100年前もそうだったし、1万年前もそうだっただろう。日々の繰り返しから何かを発見して行く実践でしかないもの。後にも先にも実践でしかない存在としての子供。その実践によって、自分の存在を日々自分で創造する子供。それが彼等の「未来」の在り方だ。

「1年後にまたここで会おう」。その1年後、このフロアの人達はどの様な実践主体になっているのだろうか。そしてそれを見る者もまた。

【一旦了】

3月29日追記

田代睦三氏から以下のツイートがされた。

「転写」は事実誤認であり、従って当該箇所を「黒板に書かれた呟き」に変更させて頂いた。作家及び関係者の方々にお詫び申し上げます。

クロニクル、クロニクル!「中編」

承前

日本独自のステージカーテンの進化形式である緞帳(注1)には表面と裏面があり、その表面を見る者(客席側)と裏面を見る者(舞台側)がいる。客席側に華やかな刺繍絵画が施される一方で、舞台側は素っ気ないグレーの裏地や「火気厳禁」等の注意書きばかりだ。やがて緞帳が開き、照明を落とされた客席の眼は、華やかな刺繍絵画を見ていたのと同じ視線で舞台上にその焦点を定める。舞台上にいる者は、それ自体が発光体として存在している。発光体の視線は、客席に眼の焦点を定めない。その視線は、両眼視差による立体視を「職業」上禁じられているマネキンの斜視のそれと同じだ。

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(注1)「緞帳芝居」や「緞帳役者」という日本語に残っている様に、「緞帳」は官許の証である「引幕」の使用を許可されなかった「下流」演劇への差別語でもあった。

吉原治良氏は見せる絵画の人である。見せる絵画の人であるから客席側から見えるものに心血を注ぐ。しかし見せる人である吉原治良氏自身が立っているところは舞台の側だ。見せる者としての絵描きは、常にカンヴァスの裏側(舞台)にいて表側に筆を入れる者の事を謂う。インデントを掛けたカンヴァスの裏側の世界(それはキュレーターが属している世界でもある)に生きる者は、同じ地平にいながらにして不連続な場所にいる。それは緞帳を必要としないもの――演者と観客が「地続き」に感じられる様に仕込まれた/仕込みでしかないもの――であっても変わらない。「畳の上で死ぬ」という日本語がある一方で、「板の上で死ぬ」という言い回しがある。見せるアーティストは「板の上で死ぬ」事を求められる――その訃報すらが客席によって消費される――舞台の上の者なのだ。

「大阪朝日会館」の緞帳(「朝の歓喜」)は、どれが最もオリジナルであろうか。吉原治良氏一人の手になると思われる「原画」がそのオリジナルで、下手側に「大丸」のロゴと文字が入った綴織緞帳がそのコピーという事になるのだろうか。であるならば、岡本太郎氏の原画が最もオリジナルで、吹田の万博公園に立つ「太陽の塔」がそのコピーという事になる。或いは草間彌生氏の原画が最もオリジナルで、直島の海岸にある「南瓜」がそのコピーという事にもなり、また成田亨氏の原画が最もオリジナルで、「ウルトラマン」の撮影用スーツがそのコピー(注2)という事にもなるのだろうか。しかし我々の記憶に残るそれらは、全てがそうした「コピー」の側にある。

(注2)いずれの「コピー」の制作現場にも「彫刻」が出自である者がいただろう。

それらの「原画」を複写するのも当然「コピー」である。しかしその「コピー」とは別系統の、万博公園に立つ「太陽の塔」をオリジンとする「コピー」の分岐――「太陽の塔ストラップ」の様に――もあるだろう。

吉原治良原画の「大阪朝日会館」の緞帳(日本最初の綴織緞帳)を制作した川島織物工業株式会社(現・株式会社川島織物セルコン)のものでは無いが、綴織緞帳についての住江織物株式会社の説明文を引く。

綴織緞帳(綴錦織、西陣本綴織緞帳)は、その豪華さ、その風格において他の追随を許さない美術織物の最高峰です。
そのゆえんは、機械に頼らず、300〜900色を超える織糸(おりいと)を、織り手(職人)が織り上げていく手工芸の技であり、デザイン効果を最大限に織物へ表現していく熟練した技術の結晶であるからです。
原画を緞帳製作の原寸大(製織用原図)に拡大し、使用する織糸の番号をその製織用原図に書き込み、経糸の裏側に設置し、番号通りの色と品質の織糸で織り込んでいきます。綴織緞帳の完成まで通常は4〜6ヶ月もの長い時間がかかり、職人によって心血を注がれた究極の手工芸品です。(太字強調は筆者)
 
「製品情報|緞帳」住江織物株式会社
https://suminoe.jp/doncho/product/doncho/index.html#a01

川島織物セルコンは、2012年に旧東急文化会館の映画館「パンテオン」にあったル・コルビジェ原画の綴織緞帳を1/5サイズで再現する際に、その大きなポイントとして「①(原画ではなく)緞帳の再現である ②1956年納入作品のプロジェクトの復元である」事を上げている。それは「原画」の複写による「コピー」の系統とはまた異なる系統の「コピー」だ。

世に子供じみた問答がある。「問:大阪城は誰が造ったか?」「答:大工さん」。しかしそれはこの「クロニクル、クロニクル!」に於いては極めてシリアス、且つラディカルに繰り返される通奏の一つなのである。

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パリ・オペラ座近くのホテル・スクリーブ(Hôtel Scribe)のグラン・カフェ(Grand Café)地階にあった、東洋風の装飾が施されたインドの間(Salon indien)。1895年12月28日、世界で最初の「映画」興行で映し出され、33人の観客が目撃したのは “La Sortie de l'usine Lumière à Lyon" というフィルムだった。日本語では通常「Lyon(リヨン)」や「Lumière(リュミエール)」を省略し、単に「工場の出口」と訳される。国によっては「リュミエール工場からの労働者の立ち去り」(立ち去り=移動、或いは搬入/搬出)という訳にされる事もある。

しかしそれは何故に “sortie"(出口/出力)なのだろうか。“porte"(「門」)とする事も可能だった筈なのに。“porte" ならば「工場の出入口」(「工場の開口部」)とする事も出来る。或いは “passerelle" というのはどうだろう。それは確かに「出口」ではある(「橋」という意味もある)が、一方でコンピュータ用語の “gateway" も意味する。プロトコルの異なるネットワークを接続する装置。それがゲートウェイというノードだ。

最初のインデントである「クロニクル、クロニクル!」のゲートウェイに、世界で最初に興行された/興行の為に整えられた――リヨンのリュミエール工場のゲートウェイが映し出される。「市民」と「観客」のプロトコル変換の場所に、「市民」と「労働者」のプロトコル変換が重ね合わされる。果たして展覧会の「内」/「外」とは何だろうか。

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アール・ブリュット」というプロモートは、事実上或る種の「傾向」を条件とするところがある。それは「既知」のものとされる「文明」に対する「未知」の「野生」を記述しようとする人類学的視線の不可避的な限界を内包する。そこには二重化された「他者」――「我々」の関心を引く「他者」――が存在する。それはどこまでも「他者」でなければならないものであるが故に、「それを見ている『我々=文明』には重ならないもの」として留め置かれる。

その「傾向」の一つに「稚拙」(=非文明)がある。「稚拙」でなくては「アール・ブリュット」足り得ないとすら思われている節があり、実際多くの「アール・ブリュット」展は、事実上「稚拙」展となっている。であれば、さしずめ荻原一青(「制作者」としての名)/荻原信一(「労働者」としての名)氏は「アール・ブリュット」には組み入れられないのかもしれない。

荻原一青/荻原信一氏は尼崎城(注3)址に建つ尼崎第一尋常小学校を卒業後、大阪・天下茶屋の蛭川芳雲画塾で友禅の下絵描きを修行した。即ち氏は紛れも無く「『専門』的な『美術』の教育を受けて来た」と言える。仮に「『専門』的な『美術』の教育を受けていない」事が「アール・ブリュット」の「アール・ブリュット」たる事の譲れない条件であるならば、氏は「アール・ブリュット」である資格を有していない。

(注3)「クロニクル、クロニクル!」の会場では、その尼崎城の復元画のコピーのみが「額装」されていた。

しかし「描く」事がその生に於いて或る意味で自目的化している、即ち「つくることが生きること」であるところの荻原一青/荻原信一という在り方を、ジャン・デュビュッフェの在り方ではなく、ヘンリー・ダーガー(例)の在り方と敢えて並べてみる事は可能かもしれない。その時「アール・ブリュット」の定義中の条件分岐は違った構文になる。

荻原一青/荻原信一氏の心の城の原画は、「こうあって欲しかったもの」が1/1で現実化してしまった、おとぎの城=熱海城2階の「日本城郭資料館」に、マッチ棒(JIS で定められた規格サイズの木片)で作られた姫路城、松本城名古屋城(1959年外観復元)、大阪城(「こうあって欲しかったもの」が1/1で現実化したおとぎの城:昭和復興天守)と共にある。

荻原一青/荻原信一氏が卒業した第一尋常小学校は現在の尼崎市立明城小学校である。その校門を入って右手に、教職員と児童が古写真等を元に協働制作したコンクリート製の尼崎城天守閣の模型がある。1940年(昭和15年)4月から7月の1学期間に作られたものだという。それは太平洋戦争中の度重なる尼崎空襲を「生き延びて」来た「城」だ。

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Tout en introduisant l’enfant dans le monde de l’art, KAPLA stimule la créativité, les capacités de concentration, l’ingéniosité et les facultés d’adaptation que la vie exige de chacun. En construisant, on se construit soi-même.
Tom van der Bruggen – Inventor of KAPLA
 
カプラは芸術の世界に子供を導き入れ、誰もが人生にとって必要な創造力、集中力、独創力と適応力を刺激します。それ(カプラ)を構築する事は、あなた自身を構築する事なのです。(拙訳)

トム・ファン・デル・ブリューゲン - カプラ考案者

http://www.kapla.com/vitrine/jeu-kapla/kapla-histoire/

 2009年4月8日〜5月16日まで、東京西新井の朋優学院 T&Sギャラリーで行われた「斎藤義重'09 複合体講義 創造と教育の交錯点 -中延学園・TSA・朋優学院-」展の朋優学園によるレポート「<展示風景>」には、飯塚八朗氏の以下の文章が「<講義1> 造形遊びの効用と教育」を説明するものとして上げられている。

“遊びの中の美術”ということに注目した授業の展開、それは造形遊びの楽しさを含んだものです。例えば迷路をつくる課題では、作品を友人たちと交換して迷路遊びをすることで、人と人を結ぶ働きを体験します。構成の課題では、積み木遊びを取り入れ、積み木をつくる、くみあわせるなど、この体験は数学や物理などの他教科と関連するものとなります。 −中略− 美術を知る、考える、自分発見の機会でもあります。身近な環境に美術を取り込む壁画の授業は、20年以上続けていますが、美術は広く生活や文化の中にあるものなのです。
 
斎藤義重'09 複合体講義 創造と教育の交錯点 -中延学園・TSA・朋優学院- <展示風景>

http://www.geocities.jp/hoyu_art/pages/rinen/gijyu09_2.html

加えてそのページの「<講義5> 開かれた教育環境」には同展「体験コーナー」のレポートとして「来場者や生徒が、斎藤義重の規格サイズのバルサを用いて、複合体マケット遊びを体験できる」とある。その画像中のバルサピースを見て、アッセンブル・トイ――「進行の状態がそのまま形態となる(斎藤義重)」トイ――のカプラを思い出した。

斎藤義重の規格サイズ」と言えば、「トム・ファン・デル・ブリューゲンの規格サイズ」(1:3:15 = 8 x 24 x 120mm の1サイズ)であるカプラも同じであり、またそれも「創造と教育の交錯点」にあるものである。「フランス文部科学省推薦教材としてフランスで国の教育システムで使われているペタゴジックトイ」であるカプラが教育に於いて目指すものは、斎藤義重氏が教育に於いて目指していたものと重なるところが多い。

フランスの “planchette magique" (魔法の板)で「斎藤義重」を作ってみた。

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これは現前(représentation)的な再現ではなく、反復(répétition)的な再現としての「斎藤義重」である。「クロニクル、クロニクル!」に言うところの「繰りかえし」は、「反復」としてのそれだろう。そして教育もまた、人類史的な発生や発達の「反復=手渡し」の中にある。

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ゴミ屋敷。それは家という物理的容器に於ける「インプット(搬入)」と「アウトプット(搬出)」のバランス崩壊から生じる。「アウトプット」が何らかの理由で限りなく細り、その結果留まる事を知らない「インプット」(注4)が、相対的に超過した状態がゴミ屋敷として顕現する。或る意味で「抜群の強度」を持つゴミ屋敷からは、しかしそれに至らしめた者の熱量を感じる事は無い。

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(注4)例えばタイムセールや100円ショップが「『賢い』消費者」に向けてプレゼンテーションする「お買得」感――今日的な「消費」サイクルの在り方を前提とする所謂「もったいない」主義――への全面的敗北がそれを加速させてしまう。ゴミ屋敷の住人は、「インプット」が超過状態である事を「悦楽」(或いは「倫理」=ものを「大切」にする)の対象として強迫的に発見する事で、それに自目的的に「落ちてしまう」のである。

ゴミ屋敷の中からその断片を拾い上げる様に「インプット」の一部を抜き出して「主題」化し、その為の方法論を「コントラーブル」に「ソフィスティケート」して行く作品になる以前の三島喜美代氏の「平面」作品は、それ自体「インプット」超過の「バランスの悪さ」の上にある。その絵画は、20世紀半ばの氏の日常にあって、印刷や出版といった情報産業の全面化によって生じた、相対的に「コスト」の低い(=流通量の飛躍的上昇によってデフレーションした)多くの「情報」の生活への「インプット」を、どの様に「アウトプット」の形で表わせば良いのかという戸惑いの中にある様に見える。今日的な「有り合わせ」の技術は、都市化の亢進によって生じた余剰物の存在を前提とする――「買い置き」という消費スタイルや「作り置き」という生活スタイルを可能にしたテクノロジー=冷蔵庫(注5)の「残り物」で作ったカロリーの高い料理の様に。

(注5)多かれ少なかれ空間恐怖症的にゴミ屋敷化した大型冷蔵庫(=生ゴミの保存装置)というのは、その機械を持つどの家庭にも存在する。そしてまた大型冷蔵庫同様、テラバイトのハードディスクも、ギガバイトのストレージやメモリーカードやオンラインストレージも、凡そ「蓄積」に適したものは全てがゴミ屋敷化するのである。

他ならぬそれを売る者によって、同時代の市民であれば共有されるべきとされる「情報」と呼ばれる「商品」が、伝統社会に於いては揺るぎなく頼もしい存在として存在していた、文字通り “firewall" としての煉瓦造りの「壁」で守られていた筈の「私空間」にまで、舟底に穴の空いた小舟に入り込んで来る水の様に無遠慮に雪崩れ込む。

小舟を沈ませる大量の水を、砂遊びのそれの様に極めて小さなバケツで掻き出し、その掻いた水の僅かばかりをカンヴァスに貼り付けて「絵画」というアウトプットにする。それもまた「つくることが生きること」の「症候」として「生の芸術」であろう。

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「川村ネスト」の「外」にある非常階段の踊り場に出た者は、眼下にある鋼鉄製の構造物――嘗て「ウィンチ」として機能していたもの――の造形に心奪われてしまうかもしれない。

仮にこの構造物を「廃棄」するとして、しかしここまで錆付いてしまうと、最早それを「分解」する事は難しいだろう。元々それは構成要素(「部品」)を「組立(アッセンブル)」して構成されたものであり、またそれは逆順的に「分解(ディスアッセンブル)」可能なものであった。アッセンブリーに於いて、締める為のボルトはそのまま緩める為のボルトである。アッセンブリーは――基本的に――「組立」と「分解」の反復(繰り返し)を前提とする(そうでないと「修理」が出来ない)。錆付きによって構成要素が一体化し、反復的な「分解」の道が閉ざされる――「分解」する意味も無い――事で、溶断等によって「解体」するしか無くなってしまったこの鋼鉄製の構造物は、それ故に「オブジェ」として「美しい」客体なのである。

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「清水久兵衛彫刻」の造形原理は、工業製品と同じアッセンブリーだ。従ってそれが車の生産ライン(注6)の様なところで作られていてもおかしくはない。清水九兵衞「京空間」の月産4万個(プリウスと同じ)は――そうした需要がありさえすれば――その作られ方からして可能なのである。

(注6)清水九兵衞に先行する彫刻家でもあるデイヴィッド・スミスは、その10代から20代に掛けて(1920年代半ば)自動車工場のアッセンブリー・ラインで働いた事がある。そのエピソードは彼の彫刻に於ける造形原理を説明する形で、彼の評伝に必ずと言って良い程に引かれている。例えば晩年の彼の彫刻の表面処理と、彼がアッセンブリーラインに立っていた頃に流行っていたエンジン・ターニング加工を結び付ける事は、強ち意味の無い事ではないだろう。

石を投げれば清水九兵衞に当たる様な関西地方だが、その巨大な朱色のアッセンブリーはそのままの形でその場所に到着したのではなく、建築資材の様に複数のトラックで運ばれて来て現場でアッセンブルされているものだ。実際、この「クロニクル、クロニクル!」で展示されていた作品「京空間B」も、「部品」の形でこのCCOに「搬入」され、そこでスタッフ(=「組立工」)によって「完成車」の様にアッセンブルされている。

そして「第1クロニクル」(2016年1月25日〜2月19日)終了の際には、それは「組立工」によってボルト(注7)を緩められて再び「部品」になり、その「部品」が大阪府江之子島芸術総合センターに向けて「搬出」される。「クロニクル、クロニクル!」はそのアッセンブル/ディスアッセンブルの作業をも見せる「展覧会」だ。

(注7)斎藤義重氏の「複合体」(「本物」)の「素材」キャプションは「ラッカー,木・ボルト」であり、ボルトが「ボルト」として明記されている。一方、清水九兵衞氏の「京空間」のそれは「アルミニウム」としか書かれていない。ボルトの扱いに於ける両者の差異を、作品に関する考察の対象とする事は十分に可能だ。

アッセンブリーとしての「清水九兵衞彫刻」。それは「分解」をしたくなる彫刻なのである。少なくとも時計を「分解」したくなる様な子供はそう思うに違いない。そして〈観念〉としての「時計」が、子供の「失敗」により二度と組み上がらない様に、〈観念〉としての「清水九兵衛彫刻」が二度と組み上がらなくても、それはそれで反復の中に生きる、「失敗」を「失敗」として認識しない子供――「失敗」を主題的に浮上させる様なロマンティシズムに決して陥らない者――にとってはどうでも良い話だ。そしてその時、「清水九兵衛彫刻」は(子供にとっては)「準=芸術品」としての「プロトタイプ」の地位を得るのかもしれない。

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「クロニクル、クロニクル!」のマネキンは裸だった。それは本来マネキンにとって決して人様の前に出して良い姿ではない。

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その裸の姿は、マネキン工場やクローズされる事で客の視線が及ばない閉店後の店内等の中でこそ、露わにして良い姿である。一般的に、彩色される事で完成するマネキンとは、裸を見せない「リカちゃん」や「バービー」同様、マネキンという「職業」を指しているのであり、それは「職業」意識の全く異なる彫刻に於ける人体の意味とは重ならない。昨今の洋品売場を席巻中の、平和マネキンによる「きゃらもあ2」は、「キャラ設定込み」という点も含めてマネキンという職業の今日的な在り方を示しているが、しかしそれを裸にしても得るところは殆ど無いだろう。

クラシカルなマネキンを客体的な意味での「彫刻」として見る事。それは美大や美大予備校――ルーブルの様な美術館(日本のそれは含まれない)の展示室内でも良いのだが――で、「ギリシャ時代」や「ローマ時代」等の、その時代なりに理想化されたプロポーションを持つ「人体」彫刻(として再発見された「マネキン」)を、イーゼルを立ててデッサンする者の視線と同じものを「彼女」たちに投げ掛ける事になる。

但し正確に言えば、石膏デッサンに代表される彫刻デッサンに於いては、描く対象である「彫刻」に対して「彼女」という人称的な認識はされない。イーゼルを挟んで見る「ミロのビーナス」は「彼女」としては存在しない。剰えイーゼルの向こうに「ある」ものが生身のヌードモデルであったとしても、「美術」ではそれを「彼女」として描く事は禁じられている。それは後にも先にも「人体」の造形的な〈観念〉でしかないものだ。

アカデミーの石膏デッサンで育った者がマネキンを作る訳であるから、そこに彫刻的に見るべきところが現れもするだろう。それは大衆音楽の歌い手である淡谷のり子藤山一郎の歌唱に、クラシック唱法的に聞くべきところが現れる様なものだろうか。とは言え、彫刻が求める非人称性と、マネキンが求められる非人称性は、根本的に異なるものであるという事実は最低限抑えておく必要がある。

その上で、2017年の1月にクラシカルな「彼女」達がこの会場に再び呼ばれる事を拒まないとして、その時「彼女」達は2016年の同展同様に、再び「美術」的な対象としての裸の姿でここに立っているだろうか。であれば、次はイーゼルを立てての「マネキンデッサン」のワークショップなのかもしれない。

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credule, quid frustra simulacra fugacia captas? quod petis, est nusquam; quod amas, avertere, perdes! ista repercussae, quam cernis, imaginis umbra est: nil habet ista sui; tecum venitque manetque; tecum discedet, si tu discedere possis!

Metamorphoses: Publius Ovidius Naso

 

浅はかな少年よ、なぜ、いたずらに、儚い虚像を捕まえようとするのか? お前が求めているものは、何処にもありはしない。お前が背を向ければ、お前の愛しているものは、無くなってしまう。お前が見ているものは、水に映ったumbra(影)でしかない。そのものは、固有の実体を持たず、お前と共に来て、お前と共に留まっているだけだ。

変身物語:オウィディウス

西洋絵画の主要な主題の一つとして存在する「自画像」は、畢竟「鏡面」を描く事を意味している。ただそれを見ている者(画家自身すら)が、それが「鏡面」である事を意識していないだけの話だ。

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Autoritratto entro uno specchio convesso: Parmigianino(1524)

「牧田愛」に、牧田愛氏(やそのカメラ)は映り込んでいるだろうか。当然それらは「映っている」筈である。しかしそれは「浅はかな少年」(ナルキッソス)の静まり返った水面とは全く異なる波打つ水面だ。波打つ鏡面ビックリハウスの鏡は「アンチ・ナルシス」だ。

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遠からずこの世から失われてしまう/それまでは世界にあり続ける儚げな鏡を描く。それは遠からずこの世から失われてしまう/それまでは世界に生き残っている自分を描く事でもある。

「牧田愛」を見ている背中に鏡の存在を感じた。

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瞳の中に自分が映り込んでいる。誰かに「見られている」という感覚は、こうしたところからも来るのかもしれない。瞳の中に映り込んでいる「牧田愛」をバックにした、遠からずこの世から失われてしまう/それまでは世界に生き残っている自分――2017年の「第2クロニクル」時にこの世に生き残っていない可能性は当然ある――を写真に撮った。

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二つ目の「川村ネスト」を見た後、CCO二階の最後の部屋で斎藤義重に遡行的に繋がった

あの天井から電源コードで宙吊りになっていた――床から離されていた――60ワットの電球は、重力に全面的に身を委ねていて、床に着地する事が出来た「同じ電気」を分け合う650ワットに照らされていた。それらの反射光の減衰の度合いによって感じられる空間的な距離感が、それらをして空間内に位置する「実体」であるかの様に思わせていた。

その天井から電源コードで宙吊りになっている電球は、あの電球とは違って飛ぶ事が出来る。但し「リード」に繋がれている為に、その動きは動物園の動物を思わせたりもする。野生の蛍とは違うのだ。

その飛び回る電球は、そこにあるものが「実体」として落ち着こうとする事を常に妨げようとする。空間に於ける位置の基準点として存在しないその電球は、壁を、床を、天井を常に不安定なものにする。加えてそこにある大小様々な鏡が、その電球の光をてんでばらばらに「増幅」する事で、それらの不安定さはいや増しになる。当然この部屋に入り込んだ者も同じだ。

恐らく所謂「聖書」に書かれているところの “Dieu dit : « Que la lumière soit » et la lumière fut."(神は「光あれ」と言われた。すると光があった)の「光」は、こうした不安定極まりない「光」を想定してはいなかっただろう。しかし所謂「聖書」が想定しているだろう「光」を放つ、地球星人に「太陽」と呼ばれているところの、しかし「全宇宙」的には極めて平凡な恒星―ー「聖書」という古代の聞き書きが、「太陽」よりも「上位」にある現実的な「光源」を想定しているとは到底思えない――は、複雑に重畳した「周回」を回る「リードに繋がれた電球」でしかないのである。

この部屋に置かれていた「鏡」の全ては「平面鏡」だった。「鏡」=「平面鏡」という、あのナルシスから始まる観念的な「縛り」は、それだけ人類にとって強力なものだ。仮にそこに「牧田愛」の「鏡」があったらどうだったのだろうか。

【続く】