「ワーク」

東京藝術大学上野キャンパスは、都道452号線(旧屏風坂通り)を挟んで音楽学部と美術学部に分かれている。都市伝説とも笑い話とも或いは事実とも言える話に、「芸大の音楽学部と美術学部の学生を見分ける方法。それは小綺麗な格好をしているのが音楽学部の学生で、小汚い格好をしているのが美術学部の学生」というものがある。

大正期に東京美術学校の敷地内に通された新道(屏風坂通り)で、北北東のエリア(現音楽学部)と南南西のエリア(現美術学部)に寸断されて以降の東京藝術大学美術学部で、長く「教授」と呼ばれる「みなし公務員」だった小磯良平が、1974年に赤坂迎賓館迎賓館赤坂離宮)として再出発した旧東宮御所の朝日の間入口の左右に納入した絵画が「絵画」と「音楽」である。描かれた人物の殆どがバンドの極めて狭い特定年齢層に限られている──中村悠紀子含む少数のモデルの使い回しによる──ところからしても、恐らくこれらは小磯の「職場」であった「芸術大学」──実際のロケ地(「聖地」)は、「美術」が東京芸大、「音楽」が神戸の小磯アトリエ──を想定して描かれたものだろう。


「音楽」の方の人物群は平均して「小綺麗」な姿に描かれ、一方「絵画」の方の人物群は総じて──ヌードモデル以外男女問わず全員──「小汚い」格好で描かれている。これはこの都市伝説/笑い話/事実を、東京藝術大学という「日本」の「国立大学」の「みなし公務員」だった画家によって、「国家」レベルで補完してしまうものであると言えるのかもしれない。

小磯良平はその意味でも十分に「罪作り」なのだが、それ以上に更に「罪作り」であり、且つ自らに対して極めて「正直者」であるのは、「音楽」の「小綺麗」の担当が専ら「女性」であり、一方「男性」は東宮御所赤坂離宮が「迎賓館」になった1970年代当時の若者の「典型」的な姿で描かれているところにある。当代の社会とそれなりにパラレルの関係にある「男性」と、社会から完全遊離──何時の時代の「コスプレ」なのだ──した/させられた「女性」の対比という、「セクシズム」の視点を些かも隠さない「絵画」が、日本の「国家」の応接間である「ネオ・バロック」(カタカナ)の「迎賓館」(国宝)で外国賓客を招くのである。「小磯良平」という「昭和の日本のおっさん(明治生まれ)」と、その様な絵画を「迎賓館」に採用(「随意契約」)した「昭和の日本のおっさん(村野藤吾等)」による、現在に至るも尚この国を覆い尽くす「日本のおっさん」ワールド全開を、ここに見るのは決して不当な事ではないだろう。

それはさておき、「美術」が総じて「小汚い」というのは確かに否定し難い事実ではある。モニタを前にして何らかの電子デヴァイスを使って制作するものや手芸的手法による制作等を除いて、ペインティングにしても、カーヴィングにしても、モデリングにしても、何処から何処までもが字義通りの「汚れ仕事」であり、(飽くまで)現象的には「レイバー・ワーク」なのである。「アーティスト」──美術の──という「現業」の人間が、「やる気わくわく」(吉幾三)の「ワークマン」(例)に行って作業着や各種手袋を購入し、ホームセンターで電動工具や各種消耗品や材料を購入する事は、「アーティスト」という「業」(ワーク)そのものの形として極めて当たり前の風景であり、それらは徹頭徹尾「プラグマティズム」の成せるものであって、それ自体は何ら特筆すべきものではない。そうなったからそうなっているというものであって、「小汚い」への「変身」は「自己表現」(例:「コスプレ」)が先立ってのものではない。

但し一見「見た目」は同じであっても、一般的な「レイバー・ワーク」と「アーティスト」には「違い」が存在する。それは「アーティスト」がそれを自覚するよりも先に、「レイバー・ワーカー」も属する世界の側からしばしば、或いは常に言われる、「良いですよね、好きな事がやれて」という線引きの言葉に端的に現れている。「良いですよね、好きな事がやれて」は、「使役される者としての我慢が足りない」的な意味で「不道徳者」の烙印の様にも思える。それは通俗的なアイソーポスの「アリとキリギリス」の「キリギリス」(不徳)という事だろうか。「良いですよね、好きな事がやれて」は、常に「ざまぁ」とセットなのだろうか。

恐らく「アーティスト」というのはそれ自体が「人種」──或いは「生物種」──視されているものであり、それは「不道徳者/不逞」グループの一員として、何をするにしても「(不逞)アーティストがそれをやった」──「(不逞)◯◯人がそれをやった」的な──という話法で捉えられる存在ではあるのだろう。そこでは「たまたまそれをやったのが『アーティスト』(◯◯人)だった」という認識には中々ならない──ゴミ出しのルールが守れない者がたまたま◯◯人であっても、「◯◯人はルールを守らない連中だ」と脳内変換される様に。「アーティスト」(である者/でもある者)が何かを行えば、必ず「アート」の「業界代表」である事を背負わされるのだ。

しかしその「良いですよね、好きな事がやれて」という認識は「アート」の側にも内面化されている。例えば 3月11日の飯山由貴氏、及び遠藤麻衣氏と百瀬文氏の国立西洋美術館に於ける行動(注1)に対して、一般的に抗議活動そのものを「不逞」/「不埒」行為とすら見做す「道徳」が蔓延する「日本」社会に於ける「アート」の側から、「当て擦り」──でしかないもの──が言われたりもする(注2)。「制作」や「発表」という「内面的報酬」(遣り甲斐)が膳立てされているのだからそれ以上何が必要なのか、「分相応」という「道徳」を受け入れる事で成立し、その上で十分に機能していると自分が認識しているコミュニティの存続を危うくさせるな。こうして内外の両側から線引きは強化され、相互萎縮/相互監視のエンクロージャー(お遊戯室)の中で、チイチイパッパの終了が遅延され続けるのである。

www.tokyoartbeat.com

(注1)「飯山由貴スピーチ内容全文 2024年3月11日 国立西洋美術館アクション」

docs.google.com

(注2)西美で撒かれたビラに書かれたあるフレーズを巡っての「曲解」が生まれた「歴史」の背景──「誰」(「国」含む)がそれを「曲解」し、政治利用し、その事で其々のエスタブリッシュを守ろうとしているのか──に想像力を至らせる事無く、「芸術」の名を冠して扇情的に「当て擦る」者もいる。
参考:

www.aljazeera.com

======

東京藝術大学の「小綺麗」担当である音楽学部の5号館 5-109 で、一昨日こういう催しが行われた。

ga.geidai.ac.jp

ジュリア・ブライアン゠ウィルソン(Julia Bryan-Wilson:1973〜)が、2009年に University of California Press から出版した "Art Workers: Radical Practice in the Vietnam War Era" の邦訳書「アートワーカーズ 制作と労働をめぐる芸術家たちの社会実践」(フィルムアート社)刊行を「記念」してのイベントである。イベントの設え的には、3月14日の京都(京都芸術センター)が第1回目、3月17日の東京(東京藝術大学)が第2回目というものになっていた。

原書の副題の ”Radical Practice in the Vietnam War Era”(「ベトナム戦争時に於けるラディカルな実践」)は、邦訳書では「制作と労働をめぐる芸術家たちの社会実践」に置き換えられている。日本の論者による章毎の解題が新たに付された同訳書であるが、1960年代から1970年代のアメリカ美術に於ける「ラディカルな実践」について書かれた2009年(ベースは2004年)刊行の日本語訳が、2024年に出版される──即ちジュリア・ブライアン゠ウィルソンの論考と考察の対象との間に30年から40年の時間差があり、且つそのオリジナルの出版から15年後に出た邦訳書とその対象となった営為との間には半世紀以上の時間と社会状況の差がある──という事で、その変更もまた、解題を付す事と同様「いまの日本の読者を取り巻く状況に接続するであろう地理的・時間的距離を鑑み」(訳者あとがき)の成せるものだろう。

因みに邦訳書刊行の3年前(2021年)には、韓国で同書の翻訳書「미술노동자: 급진적 실천과 딜레마」が出版されているが、その副題「급진적 실천과 딜레마」は「ラディカルな実践とジレンマ」という、原書にも邦訳書にも無い「ネタバレ」寄りのものになっている。

邦訳書冒頭の「日本語版への序文」(2023年8月付)で、ジュリア・ブライアン゠ウィルソン自身も「いまの私であればきっとこの本に『アートワーカーズ』という題はつけないだろう。なぜなら、実のところ私はむしろ、『このアーティストたちは労働者(ルビ:「ワーカー」)ではなかった』(注3)とするほうが腑に落ちる」と、こちらものっけから「ネタバレ」気味である。ありとあらゆる事を飛ばして極めて雑に言えば、この書はレトロスペクティブに見るに「やっちまった」──小磯良平的な「無意識」的セクシズム(注4)を含む──とされるものが列挙された「失敗の法則」的に読まれるべきものかもしれない。

(注3)同書の沢山遼氏による同書第2章「カール・アンドレの労働倫理」(”Carl Andre's Work Ethic”)の解題、「カール・アンドレ階級闘争」には、「一九七〇年のアート・ストライキの集会を記録した写真でアンドレは労働者のシンボルとして青いツナギ(注内注:それは大村の制作時、搬入時のデフォのスタイルでもあった)を着ている。が、そのツナギは、労働者のツナギそのものではない(労働者のツナギのようには汚れていない)。」とあり、それが「コスプレ」である事を示唆しているが、同書の第3章「ロバート・モリスのアート・ストライキ」では、「愛国」労働者による "hard-hat riot"(「ヘルメット暴動」)を報じるニューヨーク・タイムズの記事「建設労働者が戦争反対派を襲撃」(”War Foes Here Attacked by Construction Workers":1970年5月8日)を引用している(訳書175〜176ページ、原書110ページ)が、その「建設労働者」の「ほとんどが茶色のツナギを着てオレンジと黄色のヘルメットを被」っていた("most of them wearing brown overalls and orange and yellow hard hats")という。それもまた「労働者のシンボル」としての「コスプレ」であるには違いない。尚この「ヘルメット暴動」の発端になったのは、1970年5月4日の「ケント州立大学銃撃事件」であり、ベトナム反戦運動のアイコンの一つにもなった「ジョン・ファイロの遺体の前で叫び声を上げるメアリー・アン・ベッキーノ」の写真は、同年の「第10回日本国際美術展 人間と物質」に出品されたリチャード・セラとカール・アンドレの共作「豚はその子を食べてしまうだろう」( "The Pig Will Eat Its Children")にも使用されている。因みにこの「なりすましとしての労働者」──「コスプレ」──問題に対する「アンサー・ソング」として、「前章」の「小汚い」関連は書かれている。

(注4)例えば同書第3章「ロバート・モリスのアート・ストライキ」("Robert Morris's Art Strike")──原書の表紙に採用された、「『シガーを咥えた』ロバート・モリス(「アーティスト」)と『労働者諸君』」のホイットニー美術館に於けるインストール写真も掲載されている──ではロバート・モリス自身の「懺悔」を紹介している(訳書149ページ、原書89ページ)。

「モリス自身は近年(注:2000年)この時期を振り返り、巨大彫刻、重労働、男らしさをイコールで結ぶ際に生まれる暗黙の性差別を認めている。『六〇年代のミニマルアーティストは、工場や製鋼所を探索する工業界の開拓者のようでした。芸術作品には仕事(注:訳書は「仕事」に傍点)の刻印がなければなりません。ここでの仕事とは、唯一まともなものだとされていた男の仕事のことでした。そそりたつヒロイズムをしぼませるような一点の皮肉もなく、鋳造所や製鋼所から、まだその熱気をまとったまま持ち帰られた仕事です。そして、この男の仕事は巨大で、ゆるぎなく、きちんとした、アプリオリなものなのです』」(Morris himself has recently looked back at this moment, admitting the sexism implicit in the equating of outsize sculpture, heavy labor, and masculinity: "The minimal artists of the sixties were like industrial frontiersmen exploring the factories and the steel mills. The artwork must carry the stamp of work--that is to say, men's work, the only possible serious work, brought back still glowing from the foundries and mills without a drop of irony to put a sag in its erect heroism. And this men's work is big, foursquare, no nonsense, a priori.")。(訳は邦訳書。以下同)

因みに米映画「フラッシュダンス」("Flashdance":1983年)では、ジェニファー・ビールス演ずるアレックス・アレキサンドラ・オウエンズが、製鉄所でアーク溶接をしていた。

現時点で入手したばかりの邦訳書(一般販売は3月26日開始)の全てに目を通した訳では無いから、ここで「書評」をする事は無いし、そもそも展覧会と同様「評(言)」というものをする気も自分には更々無い。以下は東京藝術大学のイベントに先立って行われた、3月14日に京都の京都芸術センター(元京都市立明倫小学校)「大広間」(畳敷き)で行われたイベントの「感想」(未満)になる。

このイベントは、ジュリア・ブライアン゠ウィルソンの同書に沿った形での発表と吉澤弥生氏による発表(「芸術労働者(アートワーカー)はいかに社会とかかわりうるか?」)の二部構成になっていた(注5)。東京芸大の3時間というボリュームに比べ、京都のそれは2時間であり、しかもクローズの時間が施設の要請によって厳密に指定されているとの事で、主催者側が「残り時間」にソワソワしながらの進行だった。

(注5)吉澤弥生氏のレジュメの図表参照元
●「表現の現場ジェンダーバランス白書 2022」表現の現場調査団

https://www.hyogen-genba.com/_files/ugd/c3e77a_fe475c806249489c9243cef962e471ea.pdf
●「諸外国の文化予算に関する調査 報告書」文化庁 

https://www.bunka.go.jp/tokei_hakusho_shuppan/tokeichosa/pdf/h24_hokoku_3.pdf

●「早わかり グラフで見る長期労働統計」 独立行政法人労働経済研究・研修機構
https://www.jil.go.jp/kokunai/statistics/timeseries/html/g0208.html
https://www.jil.go.jp/kokunai/statistics/timeseries/html/g0701_01.html

●「男女共同参画白書内閣府
https://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/r04/zentai/html/zuhyo/zuhyo02-12.html
https://www.gender.go.jp/about_danjo/whitepaper/r02/zentai/html/zuhyo/zuhyo01-00-01.html

●「令和4年労働争議統計調査の概況」厚生労働省
https://www.mhlw.go.jp/toukei/list/dl/14-r04-08.pdf

一方、東京に行く事は叶わなかったから、それがどの様なものであったのかを、早速旧ツイッタランド(X)で複数のワードで検索してみたのだが、それが些かもヒットしない。片手に余る程の「行きました」「聞きました」「本を買いました」の「リア充」報告と、「指輪と携帯電話の忘れ物がありました」告知1件、そして「宣伝」が大半を占める。FB で「アートワーカーズ」等で検索を掛けてもそれは同じで、やはり「宣伝」ばかりがヒットする。

嘗てのツイッタランドには「tsudaり」という「文化」があり、この手の「美術のシンポジウム」にも「tsudaり」の御方が現れて、そこで何がどう議論されていたのかの「状況の一端」──飽くまで報告者の目を経由した「一端」──をテキストベース、或いはショート動画付きで「中継」する事で、会場から遠隔に住む者にも、理解の手掛かりを与えてくれるものだった。勿論その手掛かりは手掛かりでしか無く、後の主催者側による情報公開とセットでなければ意味を成さないものではある(注6)。しかしその「tsudaり」の「文化」も今ではすっかり廃れ──イーロン・マスクの X が仕様(ポスト数制限や時系列表示壊乱等)も含めてその様なものではなくなった──、そうこうしている内に情報の鮮度を気にして躊躇が始まり、結局それはツイート/ポストされる事も無くなり、この種の催し物は空間の限界に絡め取られて蛸壺化、サークル化がいや増しに増す。

(注6)今回のイベントは映像に収められ、やがて公開される予定であるという事を聞いた。

京都の回では1969年の Guerrilla Art Action Group(GAAG)によるパフォーマンス、通称「血の海」("Blood Bath")も紹介されていて、それはその3日前の3月11日の国立西洋美術館をダイレクトに想起させるものではある(東京でこれが映写されたかどうかは判らない)が、京都ではそれに対する言及は全く無かった。「アートワーカーズ」から引く。

 情報と調査を用いた実践をもっとも生々しく用いた作品のひとつに、一九六九年に行われたGAAGのパフォーマンス《近代美術館理事会からのロックフェラー家全員の即時退陣を求める声明》(A Call for the Immediate Resignation of All the Rockefellers from the Board of Trustees of the Museum of Modern Art)──通称《血の海》(Blood Bath)がある。このアクションでは、四人のアーティスト(ジャン・トーシュ、ジョン・ヘンドリクス、ポピー・ジョンソン、シルヴィアナ)がニューヨーク近代美術館のもっとも混雑する時間帯のロビーに集合した。何の警告もなく四人は互いの服を引き裂き始め、隠し持っていた二ガロン(約七・六リットル)近い血が入った袋を破裂させながら、支離滅裂な叫び声を上げた。アーティストたちは血まみれで半ば身ぐるみを剥がされ、ビラが散乱する床に横たわった。ここで撒かれたビラは、ロックフェラー家とその一族が支援する美術館が「軍事機構のあらゆる側面に関与する自分たちの野蛮さをカムフラージュするために芸術を利用している」と非難するものだった。(中略)GAAGのビラには、スタンダード・オイル社やマクドネル・エアクラフト社など、ナパーム弾やその他の戦争用弾薬を製造する企業とロックフェラー家との金銭的な関わりを詳細に記した三つの調査の概要が含まれている。(中略)GAAGが希求していた可能性はジャーナリズムに似ていた──《血の海》は、美術館の可視性のネットワークに頼り、それを利用することで、美術館の悪を過剰なまでに強調する。このアクションは、美術館という空間のなかで行われて初めて意味をなすものであった。制度的な枠組みによって、GAAGの批評は読解可能になるのである。

One of the most graphic uses of informational and investigative practices occurred in 1969; this was GAAG's performance A Call for the Immediate Resignation of All the Rockefellers from the Board of Trustees of the Museum of Modem Art, known simply as Blood Bath. In this action, four artists (Jean Toche, Jon Hendricks, Poppy Johnson, and Silviana) gathered in the peak hours in MoMA's lobby. Without warning, they began ripping each other's clothes off, screaming incoherently as they burst concealed bags filled with nearly two gallons of blood . As the artists sank to the floor, bloodied and half-stripped, they lay amid scattered leaflets that accused the Rockefellers and the museum they supported of using "art as a disguise, a cover for their brutal involvement in all spheres of the war machine." (...) GAAG's flyer included a three-point summary of research that detailed the Rockefellers' financial involvement with corporations that manufactured napalm and other war munitions, including Standard Oil and McDonnell Aircraft. (...) The visibility they craved was akin to journalism- Blood Bath functioned with a kind of excessive insistence on the evils of the institution precisely as it relied upon and exploited the museum's networks of visibility. This action made sense only when performed within the spaces of the museum; the institutional frame made GAAG's critiques legible.

(訳書283〜285ページ、原書184〜187ページ)

「地元」東京であるから、"the Vietnam War Era" ならぬ "the Israel–Hamas War Era"(仮)に於ける今回の件に関する言及なり質問なり何なりは、何らかの形で出てくるのではないかと想像させる(注7)。そうなった場合「研究者」である──或いは「研究者」である事を離れた──ジュリア・ブライアン゠ウィルソンはそれにどう答えるだろう。

(注7)東京の会場では、西洋美術館の一件に関して「言及があった」という X のポストはあったものの、それがどの様な形のどの程度の「言及」なのかは現時点で不明である。

京都の会場では「会場に来ている聴衆の(属性の)内訳を聞きたい」といった趣旨で、「ファインアートの方(手を上げて)」、「作家の方(手を上げて)」(以下略)という簡易な「調査」が行われた。一応「ファインアート」と「作家」のところで挙手はしたが、それとは別に手を上げようと待ち続けていたものがある。それは「ワーカーの方(手を上げて)」であったり、「アンペイドワークの方(手を上げて)」であったりだったのだが、結局それがされる事は無かった。その「アート」と「非アート」の「ぶった切り」もまた「アートワーカーズ」なる書物のイベントに相応しいのかもしれないとも思ったのだった。

斯くも「アーティスト」(「アート」)と「非アーティスト」(「非アート」)の弁別は困難である。多くの現実的「アーティスト」は同時にパートタイマーな「非アーティスト」──みなし公務員を始めとする美大教員含む──であり、その「非アーティスト」は同時にパートタイマーな「アーティスト」(「非正規アーティスト」)なのである。こうした労働に於ける「非正規」の嵌入状態こそが、「非正規アーティスト」による「非正規アート」としての「アート」のエコシステムであるならば、しばしば「フルタイム・アーティスト」という制度的幻想を追うかに見える「アートワーカーズ」の「中の人」(キャスト/インサイダー)の限界は、その辺りにもありそうな気がした。

「障壁」

大谷翔平から始まる以下の文もまた「美術」の話、とりわけ「『日本』の『美術』」の話である。

====

2024年度の小学校の教科書(小学5年生算数:東京書籍)に、大谷翔平ロサンゼルス・ドジャース)がフィーチャーされるという。大谷翔平が日本の義務教育の教科書に取り上げられるに至るには様々な理由があるだろうが、その大きなものの一つは、「(日本)国民」にとって彼が「偉人」であり、その「偉人」性を担保するのは、「世界一」のベースボール・リーグであるアメリカの Major League Baseball(以下 "MLB")のトップクラスに──暫定的に──彼が位置するまでに「成功」し「勝利」者の側にいるからだろう。

6年前の2018年の光村図書の「道徳」教科書(小学5年生)にも、マウンドに立つ日本ハムファイターズのユニフォーム姿の大谷が、「夢を実現するためには」というタイトルで、彼の「成功」/「勝利」に繋がったとされる「マンダラチャート」と共に「自己啓発書」的な形──「君は、かなえたい夢や目標をどう実現していくか、考えたことがあるかな。」──で掲載されていたが、今回のロサンゼルス・エンゼルス大谷の登板は「算数」の教科書に於いてであり、相対的に児童の「科学」的思考を養うものになっている。少なくとも2018年教科書の様な、中村天風の「運命を拓く」的な「道徳」──「成功」/「勝利」賛美としての──の出る幕は、今回に限っては無い。

ベースボール・ゲームに於ける稀代の "Two-Way"(「二刀流」)(注1)プレイヤーである大谷翔平は、MLB の「残り」5シーズン以上を、現在のレベルかそれ以上か、或いはそれに近い形で過ごす事が出来れば、アメリカの "Baseball Hall of Fame"(以下 "HOF"/「(アメリカ)野球殿堂」)入りする可能性が相対的に大であると言える(注2)。2001 年に MLB 入りし、MLB 通算「19シーズン」を過ごした鈴木一朗(イチロー)の HOF 入りはほぼ確実視されている(注3)。現時点では、その2名のみが「日本国籍」を有する(2024年3月現在)野球選手で HOF 入りの「資格」を有している、乃至はその可能性があると目されている。

(注1)但し、そもそもベースボールという競技は、全てのプレイヤー(DH除く)に対して、「攻撃」の専門性と「守備」の専門性の「二刀流」を、イニングの裏表という形で課すものである。

(注2)HOF 入りの条件の最低限の原則として、プレイヤーの場合は、MLB で10年以上プレイし、引退後5年以上経過した者が HOF 入りの資格を持つ。大谷翔平の2024年シーズンは、MLB 6年目になる。

(注3)イチローに対して HOF 初の満票獲得を期待している者も「(日本)国民」の中にはいるものの、特に MLB キャリア後半の失速がどの様に現地で評価されるかでその票数は高下する。

長く "Whites Only"(白人専用)だった MLB ──1900年以降の近代 MLB ──で、カラーライン(皮膚の色の境界線)を越えた最初の有色人種選手となったのは、アフリカ系アメリカ人であるジャッキー・ロビンソンジャック・ルーズベルト・ロビンソン:Jack Roosevelt Robinson)である。MLB ブルックリン・ドジャース(現:ロサンゼルス・ドジャース)時代の背番号42は、1997年以降全米全球団──MLB からマイナーリーグ独立リーグ、アマチュアに至るまで──の永久欠番になり、彼の MLB デビュー日である 4月15日は、「ジャッキー・ロビンソン・デイ」("Jackie Robinson Day")とされ、MLB 全選手、全アンパイアが背番号42を着用する(注4)。日本プロ野球(以下 "NPB")各球団の背番号42にアメリカ野球出身(民族、人種問わず)の「外国人」が多いのも、アメリカ社会を経由して来た彼等にとって、それが聖なる数字を意味するからだ(注5)黄色人種である野茂英雄佐々木主浩イチロー大谷翔平も受賞した MLB の「最優秀新人選手賞」("Major League Baseball Rookie of the Year Award")の別名は、「ジャッキー・ロビンソン賞」("Jackie Robinson Award")である。

(注4)アンパイアは袖に42を付ける。

(注5)2024年シーズンの、日本プロ野球各球団の背番号42は以下の選手になる(中日のアドゥ ブライト 健太を含む「日本人」選手は省く)。
アンドレス・マチャド(オリックス)、ボー・タカハシ(西武)、C.C.メルセデス(ロッテ)、アンドレ・ジャクソン(DeNA)、カイル・ケラー(阪神)、ルイス・ブリンソン(巨人)、トーマス・ハッチ(広島)、アニュラス・ザバラ(日本ハム)。

ティーン時代、ベースボール、バスケットボール、フットボール、陸上の何れもが傑出した「四刀流」選手だったロビンソンは、プロ野球選手になる直前は軍人だった。1941年12月7日(現地時間)の日本の真珠湾攻撃(注6)を切っ掛けにフランクリン・ルーズベルトアメリカが第二次大戦に参戦。翌1942年に徴兵された彼は、少尉任官後に配属された第761戦車部隊「ブラックパンサー」の配置移動先である「南部」テキサス州フォートフッドで、彼の軍人キャリアを終わらせる事件に遭遇する(1944年4月13日)。その日、軍がチャーターしたバスに乗っていたロビンソンは、白人運転手から後部座席に移る様に命じられる。その「命令」はアメリカ「南部」諸州の「人種分離」("Racial segregation")州法である、所謂「ジム・クロウ法」("Jim Crow laws")に基づくものだった。ロビンソンが移動を拒んだところ、降車場に駆け付けた MP に拘束され、あらぬ嫌疑を上乗せされて軍法会議(court martial)に掛けられる。最終的に彼はこの冤罪事件で無罪放免となり、名誉除隊を受けた。

(注6)当時ロビンソンは、ハワイ真珠湾の建設会社で働きながら、セミプロのフットボール・チーム、ホノルル・ベアーズの選手としてプレイしていた。彼がカリフォルニアに帰省する為にホノルル空港を飛び立ったのは、真珠湾攻撃2日前の12月5日の事である。

アメリ公民権運動に繋がるローザ・パークス(注7)の抵抗(1955年12月1日)に始まる「モンゴメリー・バス・ボイコット」(1955年12月5日)や、遡る事半世紀の1893年6月7日の南アフリカの列車内に於けるマハトマ・ガンディーの屈辱を想起させもするその事件の後、プロ野球選手としてのキャリアをニグロ・リーグカンザスシティモナークスでスタートさせる。その実力と人格を評価、及び観客層拡大を図ったドジャースのゼネラルマネージャー、ブランチ・リッキー(1967年 HOF 入り)が、彼の MLB チームにロビンソンを迎え入れる。

(注7)2019年にバービードール(マテル)の "The Inspiring Women" シリーズでリリースされたローザ・パークス(下掲画像)。「公民権運動」のスタートになったバス車内をプリントしたボックスには "Rosa Parks" の名の下に「公民権活動家」("Civil rights activist")と記されている。パークスの彫像は全米各地に存在するが、その最も代表的なものは、連邦議会議事堂内の国立彫像ホールに収められているものだ。一方バービードールの日本的展開である「リカちゃん」もまた「移民」の血を引く者である。演奏活動ウィドウであるが故に実質シングルマザーで7児の母である香山織江に育てられた「リカちゃん」(Licca Kayama:香山家次女)。その父親の Pierre Kayama(ピエール香山:旧姓ミラモンド)は、「フランス国籍を持つ指揮者で王家の末裔」という設定以上は不明である。1967年(昭和42年)に11歳だった Licca Kayama が、昭和の日本の白樺小学校で「あいのこ」呼ばわりをされて「イジメ」に逢ったという設定は無いが、その一方で「アクティヴィスト」が「リカちゃん」の世界に入る事も無いだろうし、故に「お人形遊び」から「人権」に思いを馳せる事も無いだろう。

ロビンソンの伝記映画 "42" の冒頭部、白人の球団役員に「ニグロ・ボールプレイヤー」入団を提案する場面に於ける「プラグマティスト」ブランチ・リッキー(演:ハリソン・フォード)の台詞。"New York's full of Negro baseball fans. Dollars aren't black and white. They're green. Every dollar is green."(「ニューヨークは黒人野球ファンで一杯だ。ドル紙幣は黒でもなければ白でもない。緑だ。どのドルも緑なのだ。」)。

これは「資本主義」という「人工」的体制下に於ける徹底した功利主義という「人工」的アティテュードこそが、「人権」という近代思想に於ける「人工」的概念をドライブする最大のものの一つである事を示しているが故に、極めて重要なセンテンスと言える。現に、アメリカ社会の早い段階で組織上の差別「撤廃」──但し運用上の差別は存在する──を行ったのは、良くも悪くも功利主義の最たるものであるところの軍隊である。外部(エネミー)に向けられるべきエネルギーを、「白」であるか「黒」であるかに拘り続けて無意味に内部で消耗し、人的資本のポテンシャルを毀損/浪費するばかりの軍隊(例:「皇軍」)は、それだけでフォースの組織として弱体化するからだ。

37歳でベースボール・プレイヤーとしての現役を引退した後に、ロビンソンは公民権運動に深く関わる事になる。マーティン・ルーサー・キング・ジュニア"I Have a Dream!" 演説でも知られる「ワシントン大行進」にも、アクティヴィスト・ジャッキー・ロビンソンは参加している。キングは、“Jackie Robinson made my success possible. Without him, I would never have been able to do what I did.”(「ジャッキー・ロビンソンが、私の成功を可能なものにした。彼がいなければ、私がしてきた事は決して出来なかっただろう」)と語っている。


2023年12月の HOF 公式サイトのトップページには、キングの生誕日を祝う「マーティン・ルーサー・キング・ジュニア・デイ」と、「黒人歴史月間」に合わせたジャッキー・ロビンソン関連の展示が、アメリカ野球界に於ける女性に関する展示と共にインフォメーションされていた。

アメリカ野球を学ぶ事は、アフリカ系アメリカ人を始めとするマイノリティや女性の権利を学ぶ事、即ち野球は常に人権意識の先頭に立たねばならないというのが、HOF の基本スタンスだ。ジャッキー・ロビンソンの10年に渡る MLB での通算成績(注8)を上回る選手は多数存在するが、彼は数字のみでは測れない "equal rights" や "fairness" といったアメリカ社会の人権原則に於ける、ローザ・パークスマーティン・ルーサー・キング・ジュニア等と同様の、社会変革に携わったアイコニックな「偉人」なのであり、それは日本に於ける大谷翔平の、「『海の向こう』の『本場』で大活躍」の「おらが国の偉人」という田舎根性丸出しのフェイムとは意味もスケールも全く異なるものだ。

(注8)1,382 試合出場。通算打率 .311、通算本塁打 137、通算打点 734。因みに通算打率3割1分1厘は、MLB に於けるイチローのそれと同じである。

現在の MLB では、毎シーズン、アメリカ合衆国を含めて20カ国前後の国籍を持つ選手がプレイしている。最も多いのはアメリカ国籍を持つ選手(全体の3/4)だが、「アメリカ人」であってもその人種構成は当然の事ながら多岐に渡る。HOF 入りしたプレイヤーにも、アメリカ以外の国籍を持つ選手が多数含まれている──だからこそ日本国籍を持つ選手の HOF 入りも実現可能なものになる──し、そのフェイムは MLB のみならず、キューバ野球等の海外リーグやニグロリーグの選手や関係者(注9)にも与えられている。建前として "equal rights" や "fairness"(注10) が重要視されている社会であるが故の多様性は、結果的にアメリカ野球のレベルを底上げしている。アフリカ系やヒスパニックの選手が存在しない MLB などというものは、今では考えられない。有色人種や外国人が不在の MLB のレベルは、最早 "MLB" のそれではなくなるだろう。「イミグラント」や「マイノリティ」を MLB に入れるのは、前世紀末のアメリカ美術界(注11)の様な、クォータ・システムアファーマティブ・アクションによるものではない。繰り返しになるが、それは徹底した功利主義の成せるものなのだ。だからこそ大谷翔平という黄色人種が、ジャッキー・ロビンソン以降の MLB というイコール・コンディションの平面上で輝く事が可能なのである。

(注9)"Fourteenth Amendment to the United States Constitution"(「アメリカ合衆国憲法修正第14条」)を永年骨抜きにしてきた "Separate but equal"(「分離すれども平等」)という法原理が、"equal" (「平等」)を詭弁的に扱い、ジム・クロウ法の後ろ盾になっていたのは皮肉な話である。ニグロ・リーグは、「分離すれども平等」による産物の一つである。

(注10)HOF 入りした唯一の女性である Effa Manleyエファ・マンリー)の受賞理由は、ニグロリーグ球団のニューアークイーグルスの共同経営者としての手腕、及び "commitment to baseball and civil rights" (野球と公民権へのコミットメント)を評価されてのものである。

(注11)2020年代になっても、アメリカ美術界に於ける/アメリカ美術界ですら事実上のカラーラインは崩れてはいない。以下の記事では、美術館館長の採用には、社会的・職業的「ネポティズム」がものを言い(”museum directors are more likely to invite individuals already in their social and professional circles”/「美術館館長は、既に社交界や仕事上の付き合いのある人物を採用する傾向が強い」)、そこには “racially stratified.” (「人種的階層」)の存在が認められるとある。洋の東西を問わず、「美術」が如何に「グローバル」を僭称しようとも、未だに閉鎖的内集団が斯界の人事を左右する近代以前の段階にある事をまざまざと示している。

www.artnews.com

一方、日本の「野球殿堂」では、昨年2023年、プレイヤー表彰枠でアレックス・ラミレス、エキスパート賞枠でランディ・バースが選出された。「外国人」の殿堂入りは、ヴィクトル・スタルヒン以来63年振りという報道もされるものの、日本に於けるスタルヒンはロシアからの亡命者であるが故に無国籍者であった。即ちスタルヒンは「外国人」でもなければ「日本人」でもない。ラミレスは、2008年にFA資格を取得した為に、日本野球機構野球協約上翌シーズンから「外国人枠」を外れる一方で、DeNA 監督時代の2019年には「帰化」し、殿堂入りの際には日本の公民権を有する「日本国民」だったものの、それでも依然としてラミレスは「移民」という過去形で時を止められた「ガイジン」(仲間外れ)の儘なのである。

他方この報道では、日本の「野球殿堂」入りメンバーである中華民国籍の「本塁打868本(「本塁打数『世界記録』」)」の王貞治(ワン・ジェンジー:Wáng Zhēnzhì)(注12)大韓民国籍の「3,000(3,085)本安打(安打数「日本記録」)」の張本勲チャン・フン:장훈)、及び現役時代の10年間大韓民国籍だった「400勝(勝利数「日本記録」、他に奪三振4,490等も「日本記録」)」の金田正一(キム・ギョンホン:김경홍)を「外国人」としてカウントしていない(注13)

(注12)日本初の「国民栄誉賞」は王貞治に送られたが、王貞治自身は「(日本)国民」ではない。「国民栄誉賞表彰規定」の「1 目的」には以下の記述がある。「この表彰は、広く国民に敬愛され、社会に明るい希望を与えることに顕著な業績があったものについて、その栄誉を讃えることを目的とする。」。「国民」は「敬愛される」対象を必ずしも指さず、専ら「敬愛する」者を規定する。そもそも「敬愛」は属人的なものに対する個人的な感情であり、本来はそれを公に披瀝する事にも、それによって生じさせられる統合にも適さないものだ。野球を始めとするスポーツ全般が嫌いな人間もいれば、読売ジャイアンツが嫌いな人間もいれば、王貞治という人物が嫌いな人間もいる。この規定に言うところの「社会」は、「敬愛(する)」の有無や多寡を以て計られる「標準」としての「国民」を条件とするものなのだろう。

(注13)アメリカ国籍の与那嶺要(ウォーリー・ヨナミネ:Wallace Kaname Yonamine)は、記事中で「日系選手を除けば」という形で「配慮」はされている。

「外国人」選手を規定した日本野球機構野球協約82条を上げておく(注14)

(注14)当然 MLB にはこの様に明文化された「外国人」/「移民」に関する規定は無い。

第82条(外国人選手)

 日本国籍を持たない者は、外国人選手とする。ただし、以下の各号の1に該当する者はこの限りではない(なお、(4)号に規定する者については、この章の規定の適用に関する場合に限り、外国人選手でないものとみなす。)。

(1)選手契約締結以前に、日本の中学校、高等学校、日本高等学校野球連盟加盟に関する規定で加盟が認められている学校又は短大(専門学校を含む。)に通算3年以上在学した者。
(2)選手契約締結以前に、日本の大学、全日本大学野球連盟の理事会において加盟が認められた団体に継続して4年以上在学あるいは在籍した者。
(3)選手契約締結以前に、日本に5年以上居住し、かつ日本野球連盟に所属するチームに通算3年(シーズン)以上在籍した者。
(4)選手契約締結以後、この組織が定めるフリーエージェント資格を取得した者。当該選手はコミッショナー公示のあった年の次の年度連盟選手権試合シーズンからこの適用を受ける。
(5)新人選手選択会議(注「ドラフト会議」)を経由して選手契約を締結し、選手契約締結前に日本の中学校、高等学校、日本高等学校連盟加盟に関する規定で加盟が認められている学校又は短大に通算して3年以上在学していなかった者で、その在学年数と支配下選手として公示後の年数(シーズン数)の合計が5年となった後、新たな年度連盟選手権試合シーズンを迎えた者。
新人選手選択会議を経由して選手契約を締結し、選手契約締結前に日本の大学、全日本大学野球連盟の理事会において加盟が認められた団体に継続して4年以上在学あるいは在籍していなかった者で、その在学あるいは在籍年数と支配下選手として公示後の年数(シーズン数)の合計が5年となった後、新たな年度連盟選手権試合シーズンを迎えた者。
この条項の適用を受ける支配下選手の承認は実行委員会で行うものとする。

第82条の2(外国人選手数)
 球団は、任意の数の外国人選手を支配下選手として保有することができる。ただし、出場選手登録は4名以内に限られ、野手又は投手として同時に登録申請できるのは、それぞれ3名以内とする。

NPB 選手に於ける「属性」、即ち「外国人」/「移民」──翻ってその対向概念としての「日本人」──を精緻に規定するものだ。MLB の様な功利主義に基づく機会均等が前提なら、この様な「障壁」──内部的には「粉飾」──は一切必要無いのだが、「外国人枠」というラインを引く事でこそ成立可能なものが、「日本」社会という村落共同体的社会を体現する「日本の野球」なのだろう。「日本の野球」は「日本の野球」であるというトートロジーは、「日本の野球」──「日本人選手よりも能力の高い外国人選手ばかりになってしまったら『日本の野球』ではなくなる」──という「障壁」/「粉飾」の前提に批判の目を向けない。

MLB 球団に日本人選手が移籍する場合、ややもすれば「挑戦」という言葉が使用されたりもする。しかし MLB がその配下選手に期待するのは、「挑戦」という個人的な「思い」に留まるスタンスではなく、技術面をも含めた MLB 全体の底上げに貢献出来る労働力であるか否かの功利性でしか無い。「挑戦」と言う事を美徳とする様な湿度の高い社会に於いてすら、企業等の採用面接で「挑戦」などと口にする人間の能力に、雇用者側は疑いの目を向けるしかないだろう。

他方、NPB 球団に移籍して来る外国人選手は、「日本の野球」の底上げに貢献する為に「来日」するのだろうか。少なくとも外国人枠というリミッターが掛かっている社会に対してはその様な気にもならないだろうし、「移民」が「日本」社会から求められる「道徳」は「分相応」──秩序維持の為に自分の能力にリミッターを掛けろ──だ。一方で、NPB でプレイする事を、彼等の出身地では「(おらが国の)偉人」の証とは決してしないし、「挑戦」の価値すら有していない。こうして「日本の野球」は、野球の国際市場に於いて「下位リーグ/育成リーグ」としての「狩り場(調達場)」と「出稼ぎ(期間労働)」の意味しか無くなり、「分相応」の「道徳」で人的資本を安価に見積もる事を正義とする社会からの人材の流出は、才能や能力があればある程に止まる事は無い。少なくとも功利的な意味で不合理な「障壁」/「粉飾」が幅を利かせているところでは、「世界最高」を提供する場の成立は永遠に不可能であり、その様な「障壁」/「粉飾」の存在──カール・マルクス的に言えば「障壁」/「粉飾」の物神性(Versachlichung)化──こそが、「日本の野球」をして辺境/特殊たらしめ、その結果価値下落を加速するのである。「世界」の辺境/特殊である事を嘆く「悪い場所」というのは、畢竟そうした "equal rights" や "fairness" の徹底的欠如、労働市場に於ける「関税の高さ」、それによって生じる労働力の「買い負け」にこそ淵源があるのだ。インターナショナルな野球リーグ設立を目指すのではなく、ローカルな野球リーグをローカルで内部消費するという「『日本』の『野球』」の構造は、自らにもリミッターを掛ける「分相応」という「道徳」故なのだろうか。

====

今から5年前、「日本の美術」に於ける影響力を持つとされる「美術手帖」の2019年12月号の特集は「『移民』の美術」だった。

「移民」の美術

いま日本は新たな移民時代を迎えている。労働力としての外国人受け入れ拡大が進み、全国に多様な移民コミュニティが生まれ、コンビニエンスストアなどでも身近に働く外国人は増えている。彼らの権利保護や社会保障、日本人との共生に注目が集まるなか、美術はどのような役割を果たしうるのか。

本特集では、「移民」を広義に「外国にルーツを持つ人々」と設定し、彼らがつくり出す美術とその歴史、移民・難民と協働するアートプロジェクト、音楽や映画に見られる幅広い移民文化などを取り上げる。

「移民」の美術とは何か? 「移民」のための美術とは何か?その現在的な意味を考えたい。

oil.bijutsutecho.com

あらためて5年前の「『移民』の美術」を読む。首都圏在住者以外にはほぼ無価値な情報でしかない「渋谷PARCO」──同誌の編集/発行を行うカルチュア・コンビニエンス・クラブ本社から徒歩15分──のリニューアル告知という、町内会回覧板のバインダーに掲載される様な町内的広告と、広告としてどれだけの人間に訴求力を及ぼし得るかが不明なアート・バーゼル(マイアミ・ビーチ)の広告の後に、編集長氏の特集巻頭辞が掲載される。

Editor's note

 今号は「『移民』の美術」特集をお届けします。この企画の背景には、近年議論に上っている日本における外国人の受け入れの問題がある。現在、日本では少子高齢化にともなう深刻な人手不足に見舞われており、外国人材の獲得のために、政府(ブログ主注:第4次安倍内閣《第1次改造》)は2019年4月1日「改正出入国管理法」を施行した。労働力として受け入れた外国人を生活者として、この社会でどう共生していくのか。制度的な面でのサポートについてはもちろん、文化的な側面での共生も喫緊の課題であるだろう。
 特集では、広義に「海外にルーツを持つ人々=移民」として、主に「移民」にとっての美術、「移民」についての美術を取り上げる。移民という立場はアーティストにどのような影響を与えるのか、また、移民性はどのような新しい表現を生み出すのか。そして、当事者ではない立場から移民や移民をあつかうアートには、どのような可能性があるのか、まさに現在取り組んでいるアーティストの生の声をお伝えする。
 また、移民は現代に限った話ではない。移動を続けてきた人類の道行きを繙くまでもなく長い歴史を持っている。かつて日本は移民「送出」国であり、とくに地方の貧窮民は生活の糧を得るために、ハワイやブラジルなどへ新天地をもとめて旅立っていった。かれらが現地でどのような辛苦を舐め、たくましく生き抜いてきたのか、その歴史をリサーチし、アートのかたちで語り伝えていくアーティストがいる。そのことで、歴史的な地点からの視座と相対化された複数の観点が得られて、私たちが現在直面する課題に対して、未来への思考が動き出すだろう。
 先の改正入管法にかぎらず、日本の移民に対する政策には不十分な点や問題も多く、これらは政治のなかで解決するしかない。そのうえで、芸術文化が果たすことのできる役割はなにか。マイノリティをはじめ他者への想像力を喚起する力が、美術にはあると考えている。そのことで、社会を変える市民の価値観や意識を揺さぶることができるはずだ。だが、いまその喚起力を受け止めるレセプターを市民、鑑賞者の側が十分持てているのか。小誌もいちアートメディアとして、良き鑑賞者をつくり育くむことができるのか、その真価が問われているのだろう。

2019.11
編集長 岩渕貞哉

ページを捲ると、「現代日本の『移民』たちのフォトレポート」なる導入グラフ記事になる。その6名の内、最後の1名を除く5名の紹介文 "Immigrant Story" は「日本に来る切っ掛け」と「日本での過ごし」という「YOUは何しに日本へ?」スタンスにほぼ限られている。「祖国」で彼等がどの様な人生を送ってきたか、「日本」に来る前の彼等のアイデンティティは何だったのか、及びそれらと現在との差異について触れてはいない。

紹介されるのは、「解体工」のカラクラク・ムスタファ(「クルド人」)、「介護士」のサオ・メイ(「ラオス人」)、「グラフィック・デザイナー」のビーマル・バンストラ(「ネパール人」)、「旋盤工」のファテリ・ハサン(「イラン人」)、「宝石商」等のラジャ・ラジグル(「インド人」)、そして「無職(路上生活者)」のM.M.(「日本人」)である。ピックアップされている殆どが相対的に低収入──「私たちの社会」から低評価──の「現業」従事者(≒「エッセンシャル・ワーカー」)であり、所謂「師業」はいない(「インド人」の「占星術師」を別にする)。最後の路上生活者(「日本人」)に「『公共』のグレーゾーン」を見極め」、「移動しながら制度のグレーゾーンを『すり抜けて』いく振る舞い」に、「身体的実感を伴う、私たちの社会をうつした、新しい『移民』の姿を発見できるはずだ」と「日本の『美術雑誌』」は曰う。

仮にそうした「すり抜け」が必要とされるものが「私たちの社会」に於ける「移民」の実際であるならば、では何故に「私たちの社会」に於いて、様々な非対称性としての「移民」が発生してしまうのか。要は制度を始めとする「私たちの社会」の構造的欠陥、傍観者の論理(注15)や言葉の空転──日本野球機構野球協約の様な──が幅を利かせる「私たちの社会」をして、予め機会均等を奪われた「私たちの社会」的な「移民」が日々生産されているという事ではないのか。「制度のグレーゾーンを『すり抜けて』いく振る舞い」というのは、例えば現業従事者が概ね低収入──それは「日本人」に於いても同──である様な「制度」に対して、諦観的に「従順」──「抵抗」は「不道徳」──である事を前提に言われているのではないか。建築解体や老人介護やチラシデザイン、或いは高齢化等によって疲弊した本邦の第一次産業第二次産業を下支えし、人手不足に悩みコストを下げる事に汲々とする本邦の第三次産業や福祉業務のインターフェイス部分に従事する「移民」は、「成功」/「勝利」/「努力」/「自助」賛美の──2006年「教育基本法改正」以降の──「道徳」教科書には決して登場しないだろう。大谷翔平が「私たちの社会」の「道徳」を代表するならば、果たしてこれらの人達の現在は、「自助」的なフェイズに於ける「徳目」の「不足」による「不道徳」の結果という事になるのだろうか。「私たちの社会」で、決して大谷翔平になれない彼等の境遇は、「自助」が至らなかったが故の日本型 "less eligibility"(「劣等処遇」)になるのだろうか。

(注15)Charities Aid Foundation(CAF)の調査、"World Giving Index 2023" によれば、日本の「人助け度」は142カ国中139位であり、"HELPED A STRANGER" カテゴリーに至っては、日本は「イスラエル」(例)の半分以下、「ミャンマー」(例)等を含むアジアで最下位である。大谷翔平が「道徳」の教科書に載る「私たちの社会」でしばしば唱えられるのは、「新しい公共」という名の自助>共助>公助の不等式であり、その不等式に於いて「人助け」は、特に「される」事(例:生活保護や支援活動)に於いては「不道徳」的行為であるとすらされる。因みにこの調査では、インドネシアが世界最高の "generous country" とされているが、そのインドネシア(嘗ての「大東亜共栄圏」地域)は経済発展が目覚ましいが故に、近々の OECD国入りが確実視されている。恐らくインドに続いて10年以内に GDP で日本を抜き去るだろう。

www.cafonline.org

相対的に「社会」を「取り上げ」た特集ですら、この「美術雑誌」に於いてはその「社会」に対する構造的問題には一切触れない。「さまざまな制約」と言っておきながら、その「さまざまな制約」が何であり、何に由来し、何に対するどの様な構造的「障壁」になっているかについては棚に置く。それは「美術雑誌」という名の「旅行誌」/「情報誌」/「趣味誌」(注16)であるが故の限界なのだろう。この記事が、「私たちの社会」の構造に触れる事を回避する事で成立している「るるぶ」(例)的な「観光」視点(傍観者の論理)に立脚しているのは明らかだ。「るるぶ」が「地方社会の疲弊をもたらす構造」(例)には徹頭徹尾無関心であり、且つその「社会」的傾斜の上位に自らを位置させる事で同誌の「商品」性が成立している様に。

(注16)実際リアル書店の売場に於ける「美術手帖」は、「るるぶ」や「じゃらん」や「OZmagazine」や「TRANSIT」や「旅行読売」や「散歩の達人」等の「旅行誌」、或いは「日経トレンディ」や「DIME」や「ホットドッグプレス」や「Hanako」といった「情報誌」、「アニメージュ」や「声優グランプリ」や「コンバットマガジン」や「ホビージャパン」等の「趣味誌」の「隣」、「CasaBRUTUS」や「Pen」や「男の隠れ家」等と同一カテゴリーで売られている。

寧ろ「美術手帖」(「旅行誌」/「情報誌」/「趣味誌」)が避けて通った「机上の『移民問題』」こそが、「移民」問題を考える際に最も重要なのだ。ジャッキー・ロビンソンや、ローザ・パークスや、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアは、徹頭徹尾彼等の「私たちの社会」に対して、その構造から問い直す「机上」の立場である事に拘った。拳を上げたり涙する「感情」が、「アクティヴィズム」に於けるエネルギー的原資として極めて重要である事を十分以上に理解しつつも、その一方で「さまざまな制約」の構造を明らかにする「机上」だけが、成員相互の利害が交錯する「社会」という構造を律する事が出来る法則/人工的概念を導き出す唯一の方法である事を知っていた。一方「さまざまな制約を『するりと生き抜く』技術」に旅行者/傍観者的に注目した「日本の『美術雑誌』」の「フォトレポート」の写真は、100数十年前のアメリカ南部のプランテーションで綿花栽培に従事するアフリカ系アメリカ人日帝植民地時代のインドネシアの "roumusha" 等を、のんびりとした態度で「活写」したものに極めて酷似する。

些か大仰に言えば、この「フォトレポート」を作り/読むコミュニティに属する者の殆どは、この人達やその家族・親族・子孫の中から──仮に「帰化」したとしても──将来の内閣総理大臣(政府の長)が生まれるなどとは毛の先程にも考えてはいないだろうし、生まれる様な社会を望んでもいないだろう。「外国」──事実上「外国」視されている地域含む──にルーツを持つ日本国籍保有者が、何世代もこの国に税金を払い続けて居住し、如何に統治能力に長けていようが、それでも総理大臣への道には、マンダラチャート如きでは到底突破できない厳然たる「障壁」が存在するのが現実だ。

ペルー共和国の実際は「ペルー」ではあるものの、それでも曲がりなりにも「外国」(日本)にルーツを持つアルベルト・フジモリが大統領として一時(いっとき)認められた国である一方で、「女性初」の首相が間欠的に待望されたりもする「私たちの社会」ではあっても、リシ・スナクやバラク・オバマの如き「『移民』初」の Head of government の実現性は現実的にかなり低く、永遠に実現しないとすら考えざるを得ない。例えばこの「フォトレポート」のタイトルである「現代日本の『移民』たちのフォトレポート」を、写真や文章はそのままに「現代日本で永遠に総理大臣になれない人たちのフォトレポート」とするだけで、様々な「現代日本」の構造的「障壁」が明らかになる。

この誌面には「共生」の語がしばしば登場する。しかし「共生」にはベネフィットとハームのバランスによって利害関係の種別が必ず存在する。「共生」はそれだけを唱えてさえいれば良い「題目」ではない。仮に「題目」であれば、「全てのジェンダーは『共生』の状態にある」とも、「『分離すれども平等』も『共生』の形である」とも、「嘗ての Major League Baseball と Negro League baseball は『共生』関係にあった」とも、「私たちと技能実習生は『共生』している」とも、「イスラエル人とパレスティナ人は『共生』している」とも嘯く事が可能だ。セクシストやレイシストの口から「共生」という言葉が出てきたとしても何ら不思議な事ではない。

====

「フォトレポート」から先は、「日本の美術」と「移民」の関係についての考察記事が並ぶ。パート1が「『移民』のアイデンティティと表現」として、何人かの「在日」作家のインタビューと、それに続いて「在日朝鮮人美術の歴史」と題された白凛氏による文章。それから沖縄出身作家のインタビューに続き、都留ドゥヴォー恵美里氏によるブラジル日系移民や、アメリカの日系ディアスポラのアーティストに触れた原田真千子氏の文が並ぶ。パート1の最後は、岩井成昭氏による「イミグレーションミュージアムは可能か」というコラムに続いて「『海外』にルーツを持つ」複数作家のインタビューで締め括られる。パート2は「『移民』『難民』と協働するアーティストの実践」として、数人のアーティストへのインタビューと対談の後に、清水知子氏による「難民と芸術」という一文、文化人による鼎談で「『移民』の美術」特集は終わる。

「『移民』社会発の『美術』」にフォーカスを当てたそれぞれの記事は、それぞれにそれぞれの意味で読み応えがあり、貴重で重要な視点を提供してくれるものである。しかし同時に「『移民』の美術」に対して、「『移民』社会発の『美術』」に「絞り込み」をする事に違和感も覚える。それは「私たちの社会」の「美術」(=「『日本』の『美術』」)に於ける「『移民』の美術」を語る上で、事実的に想起される固有名詞が幾つも零れ落ちている事だ。例えばこの「『移民』の美術」にフォーカスした当該号(注17)から割愛されたバイネームの一つに、「本邦の国内美術」という意味に於ける「『日本』の『美術』」という設定の中で、最も、且つほぼ唯一「成功」した「移民」のアーティストである大韓民国籍の李禹煥(リー・ウーファン:Lee Ufan/イ・ウファン:이우환)の存在がある。『日本』の『美術』」に於ける李禹煥の評価は、「朝鮮」のナショナリティエスニシティに一義的に結び付けられている訳では無い。換言すれば「朝鮮」文化的な意味での評価では直ちに無い。では何故に、或る時期までの「『日本』の『美術』」に於いて、李禹煥が重要なタレントの一人として確固たる位置を占めるに至ったのか。

(注17)因みに「『移民』の美術」特集号(No.1,079)の次号の「美術手帖」は、「アニメーションの創造力」を特集としたもの(No.1,080)である。「『移民』の美術」に関する継続的/持続的な考察は、事実上それ以後されてはいない。恰もそれは「イタリア」特集号(No.61)の次号が「コーカサス」特集号(No.62)という "TRANSIT" 誌(例)の如き「するり」である。その「アニメーション」だが、例えば狭義の産業「アニメ」に於いて、極端な労働集約型産業である「『日本』の『アニメ』」制作現場に「外国人」が入る事は、当時の人件費が日本よりも相対的に低かった中国、韓国、台湾等に彩色等を外注していた1970年代から開始されている。「国際分業化」がより亢進された現在のTVアニメや劇場アニメのスタッフロールに「外国人」の名前を発見するのは極めて容易だが、その名を「作画監督」や「キャラクター・デザイン」以上のポジションに見る事は無い。果たして可能性としての「外国人」監督の「日本のアニメ」──「外国人」のディレクションで、「日本人」のアニメーターが労働する──は、一種の語義矛盾の様に捉えられるのだろうか。SNSアニメアイコンの人は、カタカナ名で書かれたりもする「外国人」監督の「日本のアニメ」を受け入れるだろうか。そうした「外国人」監督の「日本のアニメ」が、アカデミー賞の「長編アニメ映画賞」を受賞したとして、果たして日本のメディアが「宮崎駿」程に上を下への大騒ぎをするだろうか。

一方で、WWII 後に日本からアメリカに渡り、そこで一廉の「成功」を収めた「移民」アーティストも取り上げられてはいない。具体的には、河原温荒川修作草間彌生小野洋子等々であり、或いはまた「『日本』の『美術』」を経由した白南準(ナムジュン・パイク/ペク・ナムジュン:백남준)も含まれるだろう。他方、20世紀初頭のパリの美術もまた「移民」の存在が欠かせない。出自に於ける彼等のナショナリティエスニシティは多様だが、それぞれの作品への評価はそれとパラレルではない。

実際、20世紀の或る時期まで、日本のアーティストはパリ(戦前)やニューヨーク(戦後)等への「移民」願望が強かった。20世紀後半の日本の若いアーティストは、ACC のグラント(例)を取得しようと模索したりもした。それは NPB の野球選手が MLBアメリカへの「移民」を望む様なものだった。事実としてそれぞれの時代のパリもニューヨークも、「美術」に於ける MLB 的な位置と体制の中にあった。即ちそれらの "Major League Art"("MLA")への「移民」の参入が、相対的に容易なものとして設定されていた事により、「移民」の彼等はそれらのリーグの支配下選手として活躍する事を「夢見る」事が可能だった。

戦前のパリの「メジャーリーグ」に、「マイナーリーグ」期を含めて10シーズン程参加した岡本太郎は、「青春ピカソ」(1950年)に於いて以下の様に記している。

私は抽象画から絵の道を求めた。(中略)この様式こそ伝統や民族、国境の障壁を突破できる真に世界的な二十世紀の芸術様式だったのだ。────ある文化の地に他の伝統を持った芸術家が来て、その土地の文化に影響されて仕事をする場合、血縁のつながりのない異邦の現実に即するリアリズムよりは、抽象的またはロマンティックなものになりやすい。これは文化が交流した場合とか、一つの時代が他の時代に急に移行する場合、同様に起こる現象であるということは歴史の中にも例証を見ることが出来る。事実、今日ほど文化の交流、時代の進展の急激な時期はないのである。

岡本太郎がここで述べている「抽象」とは何か。結論から言えば、それは造形上/表現上の「芸術様式」ではなく、「伝統や民族、国境の障壁を突破できる」(岡本太郎)という「『参入』の『容易』さ」的な意味での「芸術様式」である。野球のルールの様な「人工」的仮構としての「抽象」や「近代」というフィクションを介する事で、美術の労働市場に於ける「参入」障壁の「突破」が相対的に実現される。

「契約」としての「抽象」や「近代」を前に、それぞれの持つ「伝統や民族、国境」といった「私服」は一旦脱ぎ捨てられ、その結果「抽象」や「近代」ゲームの「ユニフォーム」の袖に手を通す「プレイヤー」になる事が出来る。その上で、長髪にしたり、毛染めをしたり、ネックレスをしたり、ピアスをしたり等の「自分らしさ」の表現が行われる。

嘗てのニューヨークやパリの美術の「メジャーリーグ」に外国人枠が存在したり、或いはそれぞれの出自(「伝統や民族、国境」)に応じた別々のリーグ──ニグロ・リーグの如き──が設定されていて、例えば外国人は外国人専用のアート・リーグに、有色人種は有色人種専用のアート・リーグに、即ち「『移民』の美術」のリーグに押し込まれ、「伝統や民族、国境」を背負わされた「色眼鏡」で見られるしか無かったら、誰もニューヨークやパリになど行かなかっただろうし、行く必要性など微塵も有りはしない。

「普遍」というのはそれ自体が「人工」的「発明」である。「不戦」が、今日「国際的」な「普遍」であるにしても、それは例えば「ケロッグ=ブリアン条約」(「パリ不戦条約」:1929年)(注18)等から始まる「人工」(「契約」)に基づく「普遍」である。何故ならば「不戦」は人類にとって生得的なものではないからだ。同様に「人権」が「国際的」な「普遍」であるにしても、それは例えば「世界人権宣言」(1948)等から始まる「人工」(「契約」)に基づく「普遍」である。「人権」もまた人類にとって生得的なものではないからだ。放っておけば互いに争い、差別するというのが、人類の現実的なデフォルトなのである。

(注18)
第一條 締約󠄁國ハ國際紛󠄁爭解決ノ爲戰爭ニ訴フルコトヲ非トシ且其ノ相互關係ニ於󠄁テ國家ノ政策ノ手段トシテノ戰爭ヲ抛棄スルコトヲ其ノ各自ノ人民ノ名ニ於󠄁テ嚴肅ニ宣言ス
第二條 締約󠄁國ハ相互間ニ起󠄁ルコトアルベキ一切ノ紛󠄁爭又ハ紛󠄁議ハ其ノ性質又ハ起󠄁因ノ如何ヲ問ハズ平󠄁和的手段ニ依ルノ外之ガ處理又ハ解決ヲ求メザルコトヲ約󠄁ス

生得的ではない「発明」──人工物──であるが故に「不戦」も「人権」も「抽象」も「近代」も「教育」の対象になる。翻って「教育」が「行き届かない」、或いは「教育」を「否定する」ところでは、「不戦」も「人権」も「抽象」も「近代」も成立/機能しない。「神授」的なものが支配的に信じられているところに「人権」は無く、場合によっては「不戦」も無く、「具象」的思考──反机上/非机上──のみで全てが回せると信憑されているところに「抽象」は無く、「中世」やそれ以前に居心地の良さを求めるところに「近代」は無い。

「不戦」や「人権」や「抽象」や「近代」といった「普遍」は、全ての人間にとって最も近く、同時に最も遠いものだ。例えば「人権」という「普遍」は誰にも妥当するという点で誰にとっても「最も近い」ものだが、それを理念的に且つ構造的に理解するには「最も遠い」ものだ。狭義の「抽象」である「抽象美術」や「近(現)代美術」という「普遍」も同様であり、それらは誰にも「描けそう」「作れそう」な点で誰にとっても「最も近い」様に振る舞う事で、「美術」への参入障壁を「崩す」事を目指す一種の「アクティヴィズム」(注19)であるものの、それを理念的に且つ構造──社会構造含む──的に理解するには「最も遠い」ものだ。

(注19)パリ時代の岡本太郎が、ピカソ作品を見て「感激」したのは、「鑑賞者として」その「美に打たれた」のではなく「創る者として、揺り動かして来る時代的共感に打たれた」と、岡本の「青春ピカソ」には書かれている。それは彼の「自分探し」期が終わり、メジャーリーグ参入──労働参入──の糸口が見えた瞬間を綴ったものだろう。

多くの「抽象美術」や「近(現)代美術」の解説が、現実的に必ずしも上手く行かずに一般読者に一向に突き刺さらないのは、それらが観客を含めた社会運動、及びその所産である事を見落とす事で、コミュニティ内造形論を延々と捏ね繰り回し、その結果同じ社会的利害関係のサークルに誘い込めないからだ。その包括的サークルに引き込んでこそ、初めて「教育」が可能になり、その社会的包括をなし得た上でのみ造形論的展開が成立する。「不戦」や「人権」が「自分事」としての「普遍」として認識されない限り「教育」の効果が期待出来ない様に。「普遍」成立の条件は、何よりも先に利害関係に於けるベネフィットを示す事だ。その意味で「抽象美術」や「近(現)代美術」、そして「不戦」や「人権」には、まず以てそれらが誰にとっても「自分事」である事を見せ付ける算段が求められるのである。

======

WWII 敗戦から11年後の1956年度の「経済白書」には、当時の流行語ともなった「もはや『戦後』ではない」が書かれている。それに続けて「回復を通じての成長は終わった。今後の成長は近代化によって支えられる」と書かれている。

その日本の「近代化」に呼応する様に、「日本」の美術は「国際」(「西側」)的美術、即ち「普遍」を標榜する世界とパラレルであろうとした。それは「西側」世界で最もヘゲモニーを有する国の事実上の「属国」故という側面を否定する訳では無いが、そうであっても「普遍」に乗る事は、経済を成長させるのに最も都合が良い事は確かだ。現在の中国がそうである様に。

曲がりなりにも戦後の一時期までは、「日本」の美術が「普遍」の、言わば美術の「自由主義経済」体制──メタファーとしての──に極めて小なりともあった「国際のマイナーリーグ」であったが故に、白南準が日本をトランジットの地として選択し、李禹煥がそこをメインの活動の場とする事が可能だった。

やがて成長著しい日本がアメリカの地位を脅かすのではないかと喧伝され始めた頃から、日本では「『日本』の『美術』」特殊論の声が上がり始める。曰く近代日本に於ける「美術」成立時の特殊性を論じるもの、「私たち」(≒「日本人」)を主語とする絵画論、屏風や掛軸や大和絵琳派等の「伝統」をモチーフとするもの、他に例を見ない「『日本』の『美術』」の特殊性は「スーパーな平面性」にあるとするもの、「通史」が成立困難な閉ざされた円環構造の非歴史性という「日本」の「現代」の「美術」の特殊性云々等々。

これらは、それぞれに「借り物」である「普遍」からの「遠さ」を問題として提示し、それぞれに何かしらの「近さ」を遡行的に「発見」する事で、「属国」(借り物)である事からの「自ら」の切り離しを図ったものとして見る事は可能だ。そうした「独立」の形は十分にあり得る話であり、実際東西冷戦構造が崩壊し、「普遍」が「欧米」→「西側」という体制に付帯する「遠さ」である事がより明らかになった1990年代以降、世界各地に次々と出現した「独立」は、それぞれの「近さ」をそれぞれの最高原理とする事で、あろう事か「不戦」や「人権」といった「普遍」の「見直し」や「否定」にすら及んだりするのである。

話を特殊性としての「『日本』の『美術』」に戻せば、そうした特殊性に基づくアイデンティティの構築は、例えばこの列島に於ける社会の一部である「移民」、或いは「在日」と呼ばれる人達、或いはまた「ウチナンチュー」(例)や「ラミレス」(例)にとっては、何らの意味を持たないものであるかもしれない。「美術」と「art」の間の概念的齟齬、「大和絵」──それは「天皇」と不可分の関係にある──に「屏風」に「掛軸」、「スーパーな平面性」、「閉ざされた円環構造の非歴史性」。以下略であるが、要するに「『日本』の『美術』」の特殊性を前面化すればする程、その設定はその特殊性の外部に位置する者に対する「障壁」として現れ、日本列島に居住する者の中でその特殊性を受け入れる者とそうでない者との分断を生む。いずれにしても「『日本』の『美術』」の遡行的発見と「普遍」の相対的退行以降に、メジャーを目指す白南準や李禹煥の入る余地は無い。

であるならば、「『日本』の『美術』」で想定されている観客と、例えば究極の「『日本』の『美術』」である「戦争画」で想定されていた観客は、全く同じもの、重なるものなのかもしれない。「『日本』の『美術』」とは畢竟「戦争画」でしかないとする事も可能だろうか。「『日本』の『美術』」の入口には見えない鳥居があるのかもしれない。

そして何よりも「『移民』の美術」──鳥居の外の美術──の特集が「日本の『美術雑誌』」でされた事。これこそが「『日本』の『美術』」の特殊性を最も示しているのだろう。

「喪失」

《千の注釈》長過ぎる注

====

Elle : C'est beau, hein... Cet homme avec son chien... Regardez : ils ont h même démarche.
Lui : C'est vrai. Vous avez entendu parler du sculpteur Giacometti ?
Elle : Oh ! oui, j'ai trouvé très beau !
Lui : Vous ne savez pas ?Ila dit une phrase extraordinaire. ..lia dit : « Dans un incendie, entre Rembrandt et un chat, je sauverais le chat. »
Elle : Oui, et même : « Je laisserais partir le chat après. »
Lui : C'est vrai ?
Elle : Oh ! oui, c'est ça qui est merveilleux justement... non ?
Lui : Oui, c'est très beau. Ça veut dire : « Entre l'art et la vie, je choisis la vie. » 
Elle : C'est formidable. Pourquoi m'avez-vous posé cette question ? 
Lui : Sur Giacometti ? 
Elle : Oui 
Lui : À propos de... du monsieur, là, avec son chien.

女:素敵でしょ…犬と一緒のあの人、見て、同じ様な歩き方をしている。
男:ああ本当だ。ジャコメッティという彫刻家を知ってる?
女:ええ、とてもハンサムだと思う。
男:知ってる?彼はすごい事を言ったんだよ。「火事になったらレンブラントと猫とどちらを救うか。僕だったら猫だね」ってね。
女:そうね。そしてこう続ける。「その後で猫を逃してやる」。
男:それ本当?
女:ええ、とても素敵な話でしょ。そう思わない?
男:そうだね。とても美しい。「芸術と命なら、命を選ぶ」と。
女:素晴らしいわ。なぜそんな質問をしたの?
男:ジャコメッティの事?
女:そう。
男:それは…犬と一緒の紳士がいたから。

"Un homme et une femme" (1966) : Claude Lelouch(「男と女」:クロード・ルルーシュ)より(大村訳)

====

2023年12月29日。

それまでのんびりとしていた共同アトリエのLINEグループが、にわかに緊張が走るものに変貌したのは、その朝に投げられた1枚の画像投稿(午前8時32分)からだった。それは、朝から近所で消防車のサイレンがけたたましく鳴っている事に疑問を持った共同アトリエメンバーのA氏が、家の近くから撮影したものだ。記憶にあるゴルフ練習場を中景に、その奥の高台から煙が上がっている。

すぐさまXで検索を掛け、その火事の動画付き投稿(直後に削除)を発見したB氏が、ポストのURLとスクショで、他でも無い自分達の仕事場が燃えたという「正解」を投稿する。

最初の LINE 投稿から13分後、消防からC氏のところに連絡が入ったというメッセージがアップされる。確認の為に立会いが必要との内容で、A氏が向かう事になった。坂道を登って行くA氏の眼前に、すっかり変容した仕事場が現れる。A氏の悲痛な連投が始まる。

XのスクショとA氏の投稿で、「事態は些かも楽観の余地の入るものではない」と覚悟を決めて、自分も急遽東海道新幹線の人になる。

====

【ファクト】

2023年12月29日午前7時半頃。東京都町田市で火災が発生。消防車26台が出動。火元は造園業者の資材置場。「焚火」による失火。そこから燃え広がり、両隣の「アトリエ」(「アトリエトリゴヤ」「スタジオ306」)に類焼。資材置場と2つの「アトリエ」の計3棟、凡そ400平米が焼ける。資材置場と「スタジオ306」の2棟は全焼。「アトリエトリゴヤ」は半焼。人的被害無し。3棟以外への類焼も無し。

半焼した「アトリエトリゴヤ」は、多摩美術大学の大学院を出たばかりの若者6名によって1982年に立ち上げられた共同アトリエである(プレ期を含めると1981年〜)。火災発生直前のメンバーは作品倉庫やアーティスト・ラン・スペースとして使用している者も含めて、41年で12名に増えた。そのメンバーの中に立ち上げ組の大村も含まれる。

====

現場到着は14時を回っていた。警察車両と居残りの消防車が坂道に止まり、既に規制線が張られている。失火者等を交えた現場検証は翌日との事で、現場保存の為に中には入れない。大村がオキュパイしていた場所は火元に近く、焼け方の最も激しい場所の一つだった。規制線からは最も遠い位置にあり、遠目にしか状況を把握出来なかったが、上屋の鉄骨が高熱で捻じ曲がり、屋根の高さが半分程になっているというところから鑑みて、一切の希望的観測を持たず、想定のレベルを全くのゼロに置くという精神上の防衛機制をあらためて取り、留まり続けたところで無意味でしかないその日は現場を立ち去る事にした。

年が明け、連日立て続けにテレビ報道で炎が上がる映像を見て気持ちが塞がり続ける。数日後再度新幹線で現場に赴き、被害状況の詳細を確認する。躯体の最も古層の部分のみが燃え残っている。そこに大村が運び込んだもののほぼ全ては、焼け落ちているか、黒焦げになっているか、溶けているか、バラバラになっているか、デブリに飲み込まれているか、高熱で物質的な強度が低下してしまっているかのいずれかだ。防衛機制が作動している為に、それらを前にして感情が大きく揺さぶられる事は無い、と脳を納得させる事で情動の発散を停止し、社会的/文化的振る舞いの中に自分を収める。さりとて精神的な緩衝材が働いたところで、それらを目撃したという記憶、その光景は残り続けていく。

====

【ファクト】

検分の結果、大村が多摩美術大学大学院を出てからの40数年分のほぼ全作品、工具類、資料、書籍等々が焼失、全損した事が判明する。今年の春頃までには、3棟にあるものの全てを撤去して更地にし、全員退去する事までは決定している。

====

「ファクト」については、ここまでが現在公に出来るものである。それ以上の事は、様々な理由でここでは書けない。それは「これから」についても同断である。

人的喪失を伴わないものの、多かれ少なかれ自分もまた「グリーフケア/グリーフワーク」の対象者である事に相違は無いだろう。「もう1ヶ月」ではなく「まだ1ヶ月」なのだ。「アトリエトリゴヤ」に限っても12の形の「喪失」と「悲嘆」(グリーフ)が存在する。

参考:「グリーフワーク【グリーフ・サバイバー】」

www.grief-survivor.com

SNSで、限定公開でこの罹災について書いたところ、直後に或る美術作家からコメントが付いた。「作品を失う、ということについて聞きたい」との事だった。その作家は一般解を求めたのだろうか。であればその質問自体が無意味である。「喪失」の認識はそれぞれに異なるものであり、それに対する「悲嘆」もまた一般化に馴染まない。一人の人間の中でも「悲嘆」の形は常に揺れ動く。そうした「悲嘆」を全て蒐集し、万人に供する形に仕立てる事が出来たとしても、それは文学以外のものにはならない。ここで書いている事も「喪失」から「1ヶ月後」時点のそれに留まるしかないものだ。

====

折しも年賀状の季節でもあった。潰れた家の住人にも、焼けた家の住人にもそれは届く。「あけましておめでとう」というのは、そもそもは年を跨いでサバイブしてきた者に対する寿ぎの言葉だ。即ち「あけましておめでとう」の英訳の最適解は「HAPPY NEW YEAR」ではなく、「I AM STILL ALIVE」であり、それを読んでいる/読める状況にある者に対する「YOU ARE STILL ALIVE」であり、再度それを日本語に変換すると「生きてるだけで丸儲け」になるのではないか。「グリーフケア/グリーフワーク」が成立する最も根本的な条件は、何を置いても険しさを伴う「STILL ALIVE」なのだ。

猫はレンブラントと依存関係にはないが、多かれ少なかれ作家は自らの作品と依存関係にある。或いはその依存関係こそを作家と呼ぶ。レンブラントは消失し、猫は生き残る。作品は消失し、作家は生き残る。「これから」の選択肢の中には「猫になる」というものもあるのかもしれない。

はならぁと2023こあ「SEASON 2」/「種をまく人」

《千の注釈》長過ぎる注

2023年10月某日、「(奈良)県内の歴史的な町並みや町家で現代芸術の展覧会を開催する地域型アート(注1)プロジェクト」、「地球に優しいエコロジカルな芸術祭」を謳う「芸術祭」、「はならぁと2023」の「こあ」に赴く。同じ地球に同居するものでもある COVID-19 が、人々の関心に感染する事が極端に少なくなって以降、COVID-19 罹患経験者による久し振りの大きな「芸術」のイベント詣でである。

(注1)「地域型アート」は、藤田直哉氏の言うところの所謂「地域アート」と同義なのだろうか。それとも別義である事を意図しての「型」を付した「地域『型』アート」なのだろうか。

普段遣いをしない赤白車体の近鉄京都線急行電車は、行楽シーズンの土曜日だというのに空席が目立ち、車両限界2,800mm幅の車内が余計に広く感じられる。乗換駅まで1時間強のロングシートの旅。再度スマートフォンで経路確認を含めた同イベントの復習を行う。目的地の奈良県宇陀市「宇陀松山」で行われる「芸術祭」をキュレーションする人の文章を画面に表示してみる。

SEASON 2
 現存する日本最古の薬草園のある宇陀松山は、自然と伝統の息遣いが残る土地です。めぐる季節にあわせて土を耕し、作物を育てる。身体の変化にあわせて薬を調合する。環境を大切にする姿勢を育む。ここは、「変わりながら生きている」ことを前提とした場所なんだろうと思います。

 「前の方が良かった」とか「蛇足」だとか好き放題言われがちなドラマの「シーズン 2」ですが、区切りのついた何かをもう一度始めることは、私たちの生活ではごく当たり前にあることです。ちょうどいいところで人生は終わってくれませんし、死んでもなお、終わりではない。何かや誰かの続きを引き受けたり、変わることを余儀なくされながら、それでも何かを続け、残そうとする。そういう連続なんだと思います。

 一方で、大人と子供、先輩と後輩、今日と明日ーーこうした「続き」は、オリジナルとコピーみたいな関係では決してない。それが「何かの続きであること」と「それ自体が固有の、かけがえのない存在であること」は全然両立する。だから、「VERSION 2」というよりも「SEASON 2」と言ってみたいのです。

 本展は、それぞれの「SEASON 2」が交錯する「全員途中参加型」の展覧会です。同時開催されているさまざまなイベントとともに、宇陀を思いっきり楽しんでもらえたら嬉しく思います。次の季節に向けて。

長谷川新

https://hanarart.jp/2023/uda.html

観光パンフレットを思わせもする、「宇陀松山」について書かれた最初のパラグラフ(注2)の後は、「時間」を巡る話が「時間」芸術である「ドラマ」を介して展開される。

(注2)「現存する日本最古の薬草園」については、東京都文京区の「小石川植物園」(1638年)とするものもある(「森野旧薬園」:1729年)。

「道」に沿って発展したとされる松山町(「宇陀松山」)は、そこが「道」であるが故に、様々な「空間」的記憶を背負う人々が往来した。「道」は「流通」であり、「流通」は「売買」である。そして「道」から一歩離れれば、そこにもまた「道」とは全く別の「空間」が存在する。「語ること」を許されなかった「サバルタン」がそこにはいる。一つの「空間」的記憶とまた別の「空間」的記憶が軋み合う地域全体は、単純なコミュニティではない。従って、一つの地域をコミュニティ的に語る事/語る視点を持つ事自体が、既に社会的に犯罪ですらある。

「奈良」は、所謂「日本史」に於いて長く「中心」(注3)とされてきた畿内に位置するが故に、「伝統」や「歴史」という枕詞が付される事も多い。それらは「語ること」ができる者の側の「ドラマ」である。であるからこそ、「伝統」や「歴史」を口にする発話主体自身の立ち位置が常に問われるというのは、ここ最近の心ある者の常識になっている。仮に「伝統」や「歴史」が「ドラマ」の如くに記述され得るとしても、「ドラマ」は常に既に特定の主観による細部の最大化、その最大化を可能とする政治性/権力性/暴力性を前提とする事で、方法論的に成立する。権威勾配の下位にある「サバルタン」は、それだけで「歴史」や「伝統」を持つ事さえ許されず、それらから徹底的に疎外されている。「自然と伝統の息遣いが残る宇陀松山」というセンテンスに於いて、「自然」と「伝統」は、「権利」的に並立的ではないものを並立させている。

(注3)「日本史」の大半に於いてその「中心」を「中心」たらしめてきた主体は紛れもなく「天皇」である。「上方」が「上方」と称されたのも、各新幹線の「東京」行が「上り」とされるのも「天皇」の存在故である。「主役」の位置が常に約束されていた「天皇」の「ドラマ」(体制)は、今「SEASON」幾つなのだろうか。その「ドラマ」(体制)の説明として「死んでもなお、終わりではない」は有効ではある。

「エンゲイジ」を事実上の成立条件に置く「芸術祭」に対しては、「エンゲイジ」される「他者」とは一体「何者」かという設問が常に求められる。他方「関係性の美学」でも何でも良いのだが、それらの「美学」を奉じている主語/主体は一体「何者」なのかも常に問われる。或いは「美学」こそが新たな「サバルタン」を生み出していないかという懸念すら払拭出来ない。「エンゲイジ」される「他者」は、それぞれ一人の人間に於いても、一個の個人であり、地域の一員であり、納税者(「外国人」含む)であり、そして世界市民という複雑性を伴った重畳の総体である。その時々の様々なレベルの政治や経済等に無縁な抽象的「他者」はあり得ない。「伝統」を成立させるヘリテージ(遺産)には様々な相があり、エスニカルなもの、レリジョナルなもの、カルチュアルなもの、ソーシャルなもの、ポリティカルなもの等々が複雑に絡み合う。決してそれらの組み合わせの一つだけが「伝統」ではない。

という事をつらつらと考えていると、近鉄京都線の車両はそのまま近鉄橿原線に接続する。接続駅は大和西大寺奈良市)。ここもまた「歴史」の転換点(2022年7月8日)となった舞台である。飛鳥板蓋宮に於ける「乙巳の変」(蘇我入鹿殺害:645年6月12日)が、「日本史」に於ける一大エポックとされているのであれば。そして少なくとも 2,822日の「精算」の日々の説明としても、確かに「死んでもなお、終わりではない」と言えるだろう。

大和八木駅橿原市)で近鉄大阪線に乗り換え、長谷寺駅桜井市)を過ぎると、次が今回の鉄道降車駅となる榛原(宇陀市)である。榛原駅はまた、第二次世界大戦時の奈良県で、最も戦闘行為による死傷者を出した、米軍 グラマン F6F ヘルキャット艦上戦闘機2機による榛原空襲(1945年7月24日)が起きた場所だ。駅前ロータリーから東側に少し行ったところに、その現場が弾痕と共に残されている。通勤通学者が乗る近鉄車両目掛けて米軍機が機銃掃射した理由は定かではないが、いずれにしてもこれもまた「奈良」の「歴史」である。

https://www.city.uda.nara.jp/kouhoujouhou/shisei/kouhou/kouhou/2014/documents/2608zen.pdf

そしてそれはまた、戦闘員と非戦闘員を区別する事無く、物心両面に於ける空中からの資源破壊を以て「人道的」な勝利を目指す(注4)という、第一次世界大戦で顕著になった戦争の形式に於ける「歴史」の一つでもあり、その「SEASON n」もまた、現在に至るも「終わりではない」。

(注4)航空戦力による無差別攻撃の「重要性」を論じた、ジュリオ・ドゥーエ(Giulio Douhet)の1921年の著作「制空」("Il dominio dell'aria")には以下の記述がある。「この種の戦争(注:空襲/空爆)は、その行動が戦争当事国の抵抗力の弱い要素に直接的かつ極めて暴力的な影響を与えるため、決断は非常に短時間で下されることになる。おそらく、その残虐性にもかかわらず、これらの戦争は過去の戦争よりも人道的なものになるだろう。というのも、結局のところ、犠牲となる血が少なくて済むからである。」("la decisione, con un simile tipo di guerra, avverrà in brevissimo tempo, poiché le sue azioni verranno a ripercuotersi direttamente e colla massima violenza sugli elementi meno resistenti dei paesi in lotta. Forse, non ostante la sua atrocità, queste guerre saranno più umane di quelle passate perché, in definitiva, costeranno meno sangue.")

www.amazon.co.jp

進行方向向かって右の車窓から、「宝くじ」「KIRIN BEER」「御婚儀 上棟 寿一弋 結納用品」を扱うと看板に掲げた「的場会計事務所」の建物が見えると線路は分岐し始め、近鉄5800系電車は榛原駅の1番線ホームに滑り込んだ。

====

奈良県によると、奈良県内の過疎地域面積は県全体の 77%であり、過疎地域面積の内 88%が可住地面積が極端に少ない林野であるという。

www.pref.nara.jp

奈良県による過疎地域の定義は、「過疎地域の持続的発展の支援に関する特別措置法」(「過疎法」)に基づく以下であり、宇陀市は全域が過疎地域に該当する。

www.pref.nara.jp

過疎法

elaws.e-gov.go.jp

東洋経済新報社の「将来『人口が激変する』500自治体ランキング」(2019年)では、宇陀市は全国で26位(奈良県では五條市に続いて2位)であり、2015年(31,105人)比で2045年推計人口増減率がマイナス54.5%と推計されている。因みに今年(2023年)の12月時の宇陀市の人口は27,388人(宇陀市市民課発表)であり、8年で3,700人余りが減少した計算(マイナス11.9%)になる。

toyokeizai.net

他方、2017年の公職選挙法改正で、奈良県衆議院選挙の小選挙区は、それまでの4区制から3区制へと変更され、奈良県選出の衆議院議員は1人減らされた形になる。近畿比例ブロックも、その年から1減だ。

現在の小選挙区の区割りはこうなっているが、現在の奈良3区にしても、以前の奈良4区にしても、県内の他の選挙区に比べて極めて広大なそのエリアの大部分は、奈良県の「過疎地域」と重なりもする。「過疎」は「語ること」の力を弱めるのである。

====

「ハイバラクリーニング」、「手づくり惣菜ふない」、「粉もん屋八」、「イマニシ」、「せんたく館」、或いは「ファミリーマート」以外、シャッターの降りた仕舞屋が目立つ榛原駅前から奈良交通バスに乗車する。乗車口(後のり)の整理券発行機、及び交通系 IC カードタッチセンサーに向かい合う手摺には、「奈良・町家の芸術祭 はならぁと2023」のフライヤーが釣り下げられている。駅前ロータリー内の乗車場で榛原空襲の現場方向に向いていた、乗客10名にも満たないバスは、動き出すや否や90度右に方向転換し、「的場会計事務所」の看板が取り残され、6時37分で時が止まった「駅前ヒル」──「ヒル」に濁点無し──の脇を抜けると、そのまま宇陀川に沿う形で南下する。

この辺りは、地質的に言えば領家変成帯である。領家変成帯は日本列島の西側を横断する大断層、中央構造線の内帯に接する変成岩帯だ。

www.jasdim.or.jp

海洋プレートの落ち込みによる白亜紀後期の造山運動によって、ジュラ紀付加体の岩石が変成岩化し、それが地表に露出したのが領家変成帯である。そして中央構造線に近い領家変成帯であるからこそ、鉱物資源に恵まれたこの界隈が「日本史」の「中心」を支える地で長くあり得たとも言える。

宇陀松山の「芸術祭」の北、小附にある「奈良県畜産技術センター研究開発第一課」(旧「うだ・アニマルパーク」)には、万葉集巻7‐1376番歌(作者不詳)の歌碑が建っている。原文は「山跡之 宇陀乃真赤土 左丹著者 曽許裳香人之 吾乎言将成」だが、碑には書き下し例として「倭(やまと)の宇陀の真赤土(まはに)のさ丹(に)つかはそこもか人の吾(わ)を言なさむ」と刻まれている。宇陀市(行政)の「うだ記紀・万葉」による現代語訳は、「大和の宇陀の真赤土の赤い色が着物についたならば、そのことで人たちが私のことをあれこれと噂を立てるだろうか」となっている。

www.city.uda.nara.jp

この歌に歌われている「真赤土」というのは「辰砂」を指している。古来、古墳の内壁や石棺の朱に使用されたり、先の万葉歌の様に化粧品──「魏志倭人伝」には、倭人が全身を朱で覆っていた(以朱丹塗其身體)との記述もある──にも使用されたり、朱漆や朱墨の材料にもなる鉱物であり、また錬丹術によって不老不死の薬とされたり、アマルガム法による金鍍金(金メッキ)に使用されたりしたものであるが、その正体は硫化水銀(HgS)である。

www.bunka.pref.mie.lg.jp

聖武天皇の「命」(注5)によって建造された奈良東大寺大仏も、752年(天平勝宝4年)、開眼供養会(聖武上皇孝謙天皇隣席)の後に金鍍金が開始されていて、金4,187両を、その5倍の量の水銀(三重丹生産や奈良菟田野産等)で溶かしてアマルガムとしたもの2万5,224両が使用された。その大量のアマルガムを像に塗布し、その水銀分を熱(摂氏350度)によって蒸発させて大仏の表面に金を残す。既に大仏殿が完成していた為に、工事現場である殿内には水銀蒸気が充満し、大仏建立に携わった作業員述べ数百万人──「日本史」(「ドラマ」)の「モブキャラ」──はたちまち水銀中毒に陥る。エスタブリッシュをエスタブリッシュたらしめるのに最も適しているともされる物質=「貴金属」である「金(Au)」を得る為に引き起こされる水銀中毒は、現在も世界の各地で見られるものだ(注6)

(注5)「發菩薩大願奉造盧舍那佛金銅像一躯」(菩薩の大願を発して、盧舎那仏銅像一躯を造り奉る)(「続日本紀」巻15)。

(注6)環境省水俣病情報センター「世界の水銀汚染問題」 

nimd.env.go.jp

宇陀市(行政)の広報誌「うだ」(2019年7月号)から引く。

■自然豊かな土地と水銀

 宇陀では、推古19年(611)5月5日、日本最初の「薬猟(くすりがり)」(注7)が行われました。
 豊富に生息する鳥獣、多種多様な植物の育成など、宇陀の自然の豊かさから、すでに5世紀後半には宍人部(ししひとべ:鳥獣の肉を料理する職業)や鳥養部(とりかいべ:鳥類の飼育をした職業)などと呼ばれる職業集団が宇陀に設置されており、宇陀の地が当時の皇族の猟場(かりば)となっていました。このような恵まれた環境であったからこそ、7世紀前半には、「薬猟」が行われることとなったのでしょう。
 「薬猟」が行われることとなったもうひとつの理由は、宇陀と神仙思想との結びつきが考えられます。神仙思想とは、超自然的な楽園と、そこに住む神通力をもった神や仙人の実在を信じる中国古代の考えで、この信仰に基づいて不老不死の薬を探し求め、長寿を全うするための方法が研究されていました。
 その考え方の背景には、宇陀で取れた水銀の存在が考えられます。この水銀の歴史は古く、すでに3〜4世紀には、大量の水銀朱(朱色の高級な色素)が古墳の埋葬施設などに用いられていました。
 水銀は、不老不死によく効く薬とされる仙薬(不老不死の仙人になるという薬)の主な成分ですが、猛毒であるため、これをそのまま摂ることはできません。そこで水銀が取れるところの水、鳥獣の肉、野草、山菜、キノコ、果物などを摂ることで、間接的に水銀を摂ると考えられるようになったのでしょう。
 つまり、宇陀の地には、聖なる力があると考えられていたのです。このような考え方があったからこそ、宇陀の地が「皇族の猟場」とされ、皇族たちがここを訪れ、そこでいくつもの万葉歌が詠まれたのです。

https://www.city.uda.nara.jp/kouhoujouhou/shisei/kouhou/kouhou/2019/documents/201907_2~7.pdf

(注7)古代中国の民間行事(薬草摘:5月5日)と、楽浪の丘で行われた高句麗王室行事(鹿猪狩:3月3日)の複数の「外国文化」のハイブリッド行事。参加者の衣装は高句麗スタイル(「是日諸臣、服色皆隨冠色各著髻花」:日本書紀巻第二十二:豐御食炊屋姫天皇 推古天皇)。

薬草と水銀という「自然」。キュレーター氏の文章の最初のパラグラフにある「現存する日本最古の薬草園のある宇陀松山は、自然と伝統の息遣いが残る土地」というセンテンスを、この行政広報誌の PDF と合わせて再度読み返す。「薬」の概念が神仙思想を蝶番にして相対化される。そして宇陀松山に向かうバスの左の車窓には、「聖なる力」を運ぶ宇陀川が行きつ戻りつしている。

「スーパーヨシムラ」「スーパーもりかわ」等々といった土地の日常を通る。乗客がパラパラと降車した後、ようやく「芸術祭」の地に到着する。宇陀松山の玄関口になるバス停は、観光客相手に特化した施設である「道の駅 宇陀路大宇陀」だ。降りる者は自分を含めて数人。右手首にススキを括り付けられ、左脇にモミジを挟まれ、角に「危険」の札が下がるせんとくんがお出迎えである。

国道370号沿いの道の駅の目の前にある拾生交差点から東に伸びているのが国道166号(内原交差点から拾生交差点まで370号と重複)であり、その先にある菟田野の古市場水分神社(「道の駅」から3.7km)を北上すると、そこには嘗て大和水銀鉱山(現:野村興産株式会社ヤマト研究センター)があった。15年戦争時には水銀採掘が国策化し、国策会社である帝国鉱業開発株式会社傘下となる。帝国鉱業開発(株)は「法律第八十二号」を以て昭和14年に誕生した。

宇陀の大和水銀鉱山は、奈良県内では天理の柳本飛行場建設及び慰安所、五條の北宇智地下貯蔵庫建設等と共に、朝鮮人強制連行による徴用が行われた場所として知られる。1942年7月2日には、昭和天皇は「地方民情の御視察並ぴに産業従事者激励」の為に、八侍従の一人である久松定孝を奈良県に派遣する。大和水銀鉱山はその「御視察」先の一つであり、侍従を通じて天皇は、「鉱山戦士」「鶴嘴戦士」「産業戦士」を「激励」した。

「芸術祭」の舞台となる重要伝統的建造物群保存地区(2006年7月5日〜。以下「重伝建」)である松山(注8)は、そもそもが中世から近世の体制(システム)が生み出したものだ。当地の「伝統」を紐解けば、朝廷、秋山、豊臣、織田、徳川、明治政府等々の体制(エスタブリッシュ)の名が列挙される。近世の古地図は時々のエスタブリッシュに寄り添う松山を詳細に記す。そしてそこに隣接する集落は、社会システムの都合上何も無いところとして描かれる。

(注8)直接の関係は無いものの、松山地区が「重要伝統的建造物群保存地区」の選定を受けた2006年には、教育基本法が改正され、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛する」(第二条五)等が「教育の目標」(旧「教育の方針」)に付け加えられた。

中世から近世の体制が生んだ東吉野最大の町である松山から「中心」の地位を奪った鉄道駅榛原から松山に至るルートを示す山本悠氏、湯田冴氏による「芸術祭」の「地図」は、土地の様々な産品/名物を説明するイラストを均等に平たく配置しているが故に、中世から近世に掛けての体制(システム/エスタブリッシュ)による統治的都合によって埒外とされてきたものが権利回復したかの様にも見える。しかしその体制が生んだ歪みは、今も尚完全に「終わりではない」。

====

「芸術祭」は、一部有料チケット制だ。チケットを求めるには、拾生の「道の駅」から国道166号を渡って松山に入り、「森岡医院」(森岡家住宅/旧森藤)に行かねばならない。

そこに向かう直前に無料公開エリアとして「宇陀松山会館」(元松山町役場)にインストールされた「ミレー(クローン文化財)」がある。同会館の外観は耐震強化を兼ねたリノベーション後の真新しいものだ。入口付近にスロープが設えられているが、数年前までの「大宇陀福祉会館」時代にはそうしたものは無い。現在同館の駐車場になっている場所には、嘗て大宇陀町消防団第三分団機動隊機庫があり、火の見梯子も立っていたが、それらはすっかり一掃され、大砲の砲身を象った「天誅義士 贈正五位 林豹吉郎誕生地」の碑(注9)は、元あった位置から数メートル北側の位置に、「パレルゴン」の縮小を伴って移設され、会館は相対的に「観光」寄りの施設になった。

www.pref.nara.jp

(注9)1932年──「天誅義士」戦死70年記念──に土地の有志によって建立された。その年には「満州国」が「建国」され、昭和天皇暗殺未遂事件である桜田門事件も起きている。

同会館に入ると、「宇陀松山城」関連、事務所奥の部屋では「大和当帰・水蒸気蒸留の仕組」の展示が行われている。

入口から左は同会館の「会議室」だ。そこで「棍棒のふるさと展」のパート2が行われていた。

折しもこの日は、NHK地上波の全国放送「いいいじゅー!!」で、宇陀の「棍棒」が紹介されてから数日後である。

www.nhk.jp

「美術雑誌にガン無視された」(注10)という「棍棒」展を見ていると、管理室から一人の男性が出てきて、NHKの放送があってから、当地への訪問が多くなったという話を、「自分達が知らない事も、皆さん御存知なんですよね」と言いながらしてくれた。

(注10)

maidonanews.jp

そしてひとしきり「棍棒」と「東樫(東祥平)」氏について話した男性は、「何か美術展もやっているみたいなので、そちらもよろしかったらどうぞ」と奥の和室で行われている「芸術祭」を教えてくれた。和室に行くと、その手前の廊下で一人の男性が椅子に座り、「クローン文化財(注11)の資料に目を通していた。畳敷きの部屋には、岩波書店のマーク(高村光太郎→児島喜久雄)ともなった「ミレー」──キリスト教の伝統的モチーフ(注12)の近代的解釈──があった。座卓上にある「ミレー」は、そのギクシャクしたインストールからして、それだけで「アウェー」感に満ちている。立って見ても落ち着かず、座して見ても落ち着かない高さにそれは置かれている。

(注11)クローン文化財

www.iki-jp.com

(注12)マルコによる福音書4章 3〜8節「種蒔く人の喩え」

それもまた「終わりではない」のだろう。「西洋画」の理念的「クローン」を目指した高橋由一が、床の間や欄間や襖といったアスペクト比で構成される日本家屋(民族建築)に於ける「展示空間」の形式に、「アウェー」である「西洋画」をマッチングさせる為の粉骨砕身が、ここでは座卓に載せられた「ミレー」という形で反復されている様にも見える。モンゴルの「伝統」であるゲルの中に「ミレー」を収め鑑賞しようとするが如く、民族建築の畳敷きの部屋で油彩画を靴を脱いで「見る」というのは、多分に「珍景」ではあるのだ。会館の建物が20世紀初頭の「和洋折衷」である事、日本に於いて「ミレー」が前景化するに至る白樺派(1907年〜)という「国内事情」等々が、闖入者然とした「ミレー」の前の頭の中で去来する。

「宇陀松山会館」に隣接した「森岡医院」に向かう。「医院」としては1970年代の開業という事だが、同時にマイナンバーカードの読み取り機が受付に設置される以前の「医院」の姿を留めているタイムカプセルでもある。通りに面した入口から「抽象画」(ユアサエボシ/ユアサヱボシ)がヌッと見えている。現れ方が恰も水木しげるの妖怪の様である。思わず「お前はぬりかべか」と言いそうになる。

ユアサエボシの説明文の横でチケットを買い求め、有料エリアの「医院」の待合に入ると、ここにも「ぬりかべ」である。

「ミレー」もそうだったが、「ぬりかべ」も壁面に直接インストールされる事を徹底的に拒んでいる(キャビネットに麻紐で括り付けられている)。

フラットブラウン管のアナログテレビ受像機(アスペクト比 4:3)に相対しているハンガーに掛けられた白衣の奥上に、「ミレー」の複製画が見えている。

それから料理旅館「森藤」時代の増築エリアに入っていくと、母屋との間に小さな「庭」があり、宇陀川から引いた用水路が流れている。同旅館は接待にも使用されたという事だが、雑多な物が置かれた現状の庭の設えは、往時をそのまま伝えるものではないだろう。

廊下の奥で映写されている動画を一旦キャンセルして二階に上がると、そこはより「旅館」らしい趣を持つ。そして畳敷きの部屋に、椅子とテーブルが凡そ旅館的ではない形で中央に置かれ(「クローン文化財」のインストールに於ける違和感の反復)、その珍景の椅子の上に「朝海陽子」が所在無さげに置かれている。これもまた壁面の拒否だ。

ふと撮影場所から左に目をやると、そこには小さなキャビネットがあり、世界文化社の「世界文化シリーズ」と河出書房の「現代世界美術全集」といった1960年代日本の「教養」(注13)が、世界文化社の「東京オリンピック MEMORIES OF THE XVIII OLYMPIAD TOKYO 1964」を挟んで収められている。それを見るや否や「芸術祭」に対する見方のコペルニクス的転回が起きる。

(注13)当時はまた「百科事典」ブームであり、平凡社の「世界大百科事典」、小学館の「ジャポニカ大日本百科事典」、或いは「ブリタニカ百科事典」等を揃える事が、「中流」以上の家庭の設えに於ける基準とされていたところがある。

欧米と日本の近代絵画の複製画が閉じられた「現代世界美術全集」(注14)は、階下の待合の「ミレー」の複製画、及びこのキャビネットの上に掲げられた「広隆寺弥勒菩薩像」の写真──それは椅子の上の朝海陽子と対面している──同様、1960年代の日本の家庭に於ける「コレクション」の或る意味で典型的な在り方だ。そう思って改めて周りを見渡すと、壺や置物や玩具や複製画等といった「コレクション」が、「贅を尽くした」建物内に溢れている。

(注14)「クローン文化財」の作品選定には、「現代世界美術全集」的なものが感じられる。

撮影の仕方を変え、敢えて「作品」を「中心」から外し、既存の「コレクション」の中に埋没させる事にした。通常「展覧会レビュー」に於ける写真撮影は、「美術作品」をメインの被写体とする事を、半ば様式美的に行う。しかし一旦「芸術祭」の「作品」を、この家の「コレクション」の一部、即ち「ユアサエボシ/ユアサヱボシ」や「朝海陽子」が、この家に関係する誰かによって「コレクション」されたという、或る意味で「作品」にとって最高の待遇を得たと仮定してみると、その僥倖と引き換えに「現代世界美術全集」や壺や置物等と同レベルのものとして、その「作品」は日常化する。「アウェー」から「ホーム」に移る事でその中心性は失われる。「美術作品」の最終的な幸福は、「ヴンダーカンマー」の一員になる事で「主役」の座から降り、脇役/モブキャラ化して、忘却の中に解き放たれるという事なのかもしれない(注15)(注16)

(注15)エリック・サティ室内楽曲に「家具の音楽」(musique d'ameublement:1920)というものがあるが、それは聞き耳を立てる事をさせない事で、音楽を「主役」の位置から下ろす試みである。

en.wikipedia.org

(注16)この「芸術祭」を報じた朝日新聞の富岡万葉記者は、「丸木スマ」を敢えて後景に置き、消火器やバケツやぞうさんジョウロやタオルやガスコンロ(「ホーム」の先輩)をより目立つ前景に置くという、「美術メディア」のカメラマンの仕事とは異なる撮影を行っている。

www.asahi.com

展覧会会場で渡されるハンドアウトには、両面印刷された一枚のA4ペラが挟まれ、前掲の「現存する日本最古の薬草園のある宇陀松山〜」で始まる長谷川新氏のコメントが、「展覧会が始まる結構前に書いたもの」と再定義され、その裏面には「展覧会が始まる直前に書いたもの」というボリューミーな一文が新たに加わっている。

その文章の最後半に登場する「ポケットモンスター」に寄せて言うならば、「コレクション」とは、「野生」(「アウェー」)のポケモン/作品を「ゲット」(所有)した後にそれを収納する「ボックス」(「ホーム」)であり、一旦その「ボックス」に入れてしまえば、伝説であろうが、幻であろうが、色違いであろうが、或いはコピーポケモン──「クローン文化財」/「複製画」/「画集」──であろうが、全てが「インデックス」化(脱中心化)される。「コレクション」が「ボックス」であるならば、「展覧会」は「ボックス」から選択された「手持ち」(注17)という事になるのだろう。そしてケース・バイ・ケースで再度「手持ち」から「ボックス」へと戻るのである。その文章の最後にある、ミュウやコピーポケモンと共に飛び去るミュウツー(ミュウの「クローン」)と、ハリケーンで足止めを食らう港の待合に戻ったサトシとカスミの台詞(注18)の後には、サトシの「ま、いっか」がある。そして恐らくこの「ま、いっか」こそは、「『今現にここにあること』をまず肯定する」(同文)を最も簡潔な形で表している。

(注17)「手持ちポケモン

wiki.xn--rckteqa2e.com

(注18)「我々は生まれた、生きている、生き続ける、この世界のどこかで」(ミュウツー
    「でも、なんで俺たちこんなところにいるんだ?」(サトシ)
    「さぁ?いるんだからいるんでしょうね」(カスミ)
     劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲(1998)/EVOLUTION(2019)

宇陀松山会館から森岡医院という北上ルートを選択した流れで、そのまま「芸術祭」最北とされる「まちなみギャラリー石景庵」を折り返し地点として、そこから「報恩寺」まで南下するというルートを設定する。すると次に訪れるべきは「喜楽座」という事になる。

嘗てこの通りに存在した豆腐屋「八木佐」向かいの、ややポップなポスターが貼られた市議会議員(注19)の事務所を通り過ぎて「喜楽座」に行くと、入口に立つ関係者の方から、「演劇上演中」につき入場が出来ないと告げられる。この先のタイスケを考えて「観劇」を断念する事にした。「喜楽座」は paypay が使用可の「現役」であり、隣接の「古書店」である「尚文堂」と合体したアカウントで SNS 発信をしている(注20)

(注19)「八木佐」が実家。この人物が議員になった2010年代は、既に「地方分権改革」「聖域なき構造改革」「痛みの伴う改革」といった、地方自治の意味が大きく変質させられて以後の、地方(地域)に「稼ぐ力」(自助)が求められる時代になっていた。

(注20)Facebook「尚文堂/喜楽座 宇陀松山」
https://www.facebook.com/shobundoushiten
instagram「尚文堂と喜楽座と棍棒飛ばしチーム(参加メンバー/募集中)」
https://www.instagram.com/shobun_kiraku/

界隈が「重伝建」となって以降の「異物」(「アウェー」)(注21)とも言える建物の、無人野菜スタンド的な販売システム(paypay 対応)を採る「尚文堂」(本店:壱番館)は、そこだけで「芸術祭」に費やす滞在時間の半分としても良い場所ではある。新刊本書店にしても古書店にしても、リアル店舗としてのそれは、増々その姿を消していく方向にあるが、しかしリアル店舗の持つ機能の最重要なものの一つは、背表紙が並ぶ「インデックス」性にある。即ちそれもまた「コレクション」性を有しているのである。

(注21)昭和35年頃の宇陀松山を記した手描き地図を掲載した「いせ弥」のブログ。その当時は「尚文堂」の様な「生活に密着した個人経営の専門店」(「魚屋、八百屋、豆腐屋、クリーニング店、自転車屋、時計屋、お茶屋、パン屋、パチンコ屋、化粧品店、薬屋、おもちゃ屋、卓球場・・」:同ブログ)の方が「ホーム」であった。

nara1naraduke.com

店の奥には、誰が何時掲げたのか、「観光振興なんかクソ」という力の籠もった「書」が掲げられていた。この「書」は「アート」と呼ばれる「語ること」の「権利」を無謬的に保証されていると思い込んでいる面々に対して、ひんやりと向けられた匕首である様にも思える。

「重伝建」中の「映え」スポットの一つである「いせ弥」「堀井松月堂」(注22)を通り過ぎ、「石景庵」に行くと、丁度スタッフの引き継ぎが行われていて、そこにある「カレンダー」の説明を口伝で伝えていた。それを傍で聞きつつ2階に上がり、「模刻」「修理」「修復」に関する非常に興味深い展示(撮影禁止)を見る。そこに十数分程留まり再び階下に降りると、スタッフの入れ替えが完了していた。外に出る。太陽は南中から若干下がったところにある。その太陽の方向に歩き出す。

(注22)昭和35年の「地図」では、「堀井松月堂」の隣がパチンコ屋になっている。

「宇陀商工会議所」(旧町役場付近)の向かいの、10年以上前からナンバーが外れている R32 スカイライン GTS-t を横目に「喜楽座」に戻ると、丁度「演劇」が跳ねたところで、会場から人が吐き出されてきた。人気(ひとけ)がすっかり無くなった「喜楽座」で、「朝海陽子」の映像(「BUBBLE」)を 1ループ分見る。COVID-19 が「2類」だった頃の首都圏の風景が映し出される。「喜楽座」の「ロビー」の上に掲げられた、東京都調布市下布田(当時)で作られた映画に出演した「スター」達のポートレートが、スクリーン上で一瞬オーバーラップする。戯れに「BUBBLE」の前に「FILTER」を置いてみた。

地元の人なのかそうでないのかは判らないが、1組の母娘が「喜楽座」に入ってくる。年長さんと思しき娘さんは、「朝海陽子」を一瞥するなりそそくさと出口方面に向かい、その母親がその後を追うという形で母娘の滞在は十数秒で終わる。そして彼等を追う様に自分も「喜楽座」を後にした。

記憶が滞留している道を歩く。その記憶の中には、旭日旗日章旗が打ち振られている風景も混じっている(注23)。宇陀松山会館前にある「天誅義士」の碑の前を、戦地に送られる者が襷を掛けて通ったのかもしれない。そうした記憶を想起させたのは、これから赴く「丸木スマ」だったのだろうか。実際「重伝建」と言えども、その町並みは江戸中後期から明治大正に掛けてのものだ。京都太秦映画村/東映京都撮影所で行われる様な忍者ショーや殺陣ショーといったアトラクション、暴れん坊将軍桃太郎侍の背景としてはここは必ずしも適していない。当地にロケ地としての活用があるならば、それは日本の近代以降を描く「ドラマ」のものになるだろう。「出征兵士壮行」場面はその一つになる。

(注23)「父・四郎さんは出征前、農業組合の組合長を務め、大宇陀町(現・宇陀市)で、妻・ハルさんと1942年に生まれた辻本さんと暮らしていた。だが44年6月、海軍に召集され、四郎さんは2人を残して広島県呉市へ。その後、フィリピンに渡り、45年4月、ルソン島サンタイネスで戦死した」

www.yomiuri.co.jp

嘗ての「宇陀千軒」復活を祈願して命名された「千軒舎」(「松山地区まちづくりセンター」)に到着する。「丸木スマ」もまた、壁面にインストールされる事を拒否している。掛軸のインストールを別にして、襖やガラス戸を含めた壁面が、「立て掛ける」以外の用を成していない。恰もそれは展示準備中の様でもあり、撤収作業中の様でもある。立って見るという目線の高さから、掛軸と二曲一隻屏風以外は全て外されている。即ち視線の独占をそれらは目指していない。

1組の年配夫婦が入って来る。「芸術祭」目当ての人ではなさそうだ。「丸木スマ」には目もくれず、専ら御大尽「内藤家」の中庭に感嘆し、ガラス戸のガラス板や作りに満足し、欄間や長押の釘隠に「これ素敵だね」と言っている。

しかしこの平行線は心地の良いものだ。何よりもその夫婦が、「丸木スマ」に対して「評価」めいた事を一言も言わなかったところが良い。それは単純に「丸木スマ」が彼等の興味の埒外にあるという事なのかもしれないが、しかし一方でそれらの存在から敢えて目を背け、それに対して何らかの理由付けをしているという訳でもない。仮にここのインストールが、彼等にとっての「素敵」の数々を覆い隠し、視線を独占する様なものであったなら、「丸木スマ」に対する反応はまた違ったものになったかもしれない。「丸木スマ」は夫婦にとって「ま、いっか」なのであり、却ってそれは「丸木スマ」という存在への「肯定」の形なのである。

宇多野に向かう国道166号線を横切り、暫くして県道219号線の坂道を登っていく。県道から報恩寺の石段を上がると、右手に見える「東屋」が「阿児つばさ」だという。左手前の柱に何かが書き付けられた細長い板が下がっている。

「ちきゅうのれきし」という作品タイトルで、小屋をつくる。小屋は屋根と空(光)と周辺風景を眺め、本を読むための空間になっている。屋根と四軒のみの東屋のような構造になっている。「せいめいのれきし」「僕は46億歳」という絵本を設置し、様々な世代の人が地球史に興味をもつきっかけをつくりたい。さらに人が地球と生きていく日々を思い描く場としてほしい。阿児つばさ

木の切り株が用意され、ここに座れと誘っているかの様だ。誘われるままに座り、誘われるままに絵本を読み、誘われるままに天井に空いた穴から空を見る。ヴァージニア・リー・バートンと豊田充穂/杉田精司の二冊は、いずれも地球誕生以前から始まっているものだ。そしてそれらを読む事で、この周辺風景の山も川も大地も空も光も空気すらも、その全てが極めて「例外」的で「特殊」であるという思いに至るしかない。

二冊を読み始めるや否や、足元は灼熱のドロドロしたものになり、「大地」と「海洋」が消滅し、天空は限りなく何処までも漆黒のものになった世界が、切り株に座った自分の前に出来した。我々が「エコ」の対象としての「自然」と呼んでいるものは、「ちきゅうのれきし」的に言えば「完新世」(「沖積世」:〜約1万年前)に於けるリーセントな「間氷期」の極めて短い環境を、ピンポイント的に指しているものである。時間的には遥かに長い「灼熱のドロドロ」(2億年)の環境は「自然」とは見做されない。それは現生「人類」に「直接」関係ないからだ(注24)

(注24)但し「地質」という形で「灼熱のドロドロ」は今も「人間」の生活に大きく関わっている(例:地震)。そこに目を向けたのが、椹木野衣氏の「震芸術論」ではあるだろう。

「ちきゅうのれきし」のプログレスバーを、目一杯左にスクロールして暫く「見逃し視聴」していた自分は、再び残り時間が表示されない「ちきゅう」の「ライブ配信」に戻る。「見逃し視聴」してきた自分は、東屋のある「報恩寺」に事寄せて言えば、「娑婆」(sahā)に帰還した。即ち「人間」の存在こそが前提になった世界である。

「娑婆」は、鳥獣だけがいたり、草木だけがあったり、山野だけがある世界ではない。そこは「戦争」「差別」「病苦」「貧困」等、何よりも「人間」の「生死」がある世界だ。この東屋は、釈迦に於けるピッパラ樹の様な場所なのかもしれないが、しかしそこに座り続ける事は、恐らく梵天サハンパティが釈迦に対して指摘する様に「悪」である。「法」を広める事に消極的だった釈迦を梵天が諭す「梵天勧請」(注25)の話は、時と所を超えて「マルコの福音書第4章」の「種蒔く人」に相似する。

(注25)"Desetu bhante bhagavā dhammaṃ. Desetu sugato dhammaṃ. Santi sattā apparajakkhajātikā, assavaṇatā dhammassa parihāyanti.Bhavissanti dhammassa aññātāro"
「尊き方よ、世尊は法をお説きください、善逝は法をお説きください。有情にして塵垢少き類のものたちがおりますが、法を聞かなければ衰退してしまいます。(しかし聞けば)法を理解する者となるでしょう。」(「聖求経」)

この「芸術祭」は「種蒔く人」に始まり、「種蒔く人」で終わるという事に思い至る。「アート」は、専ら魅力ある「成果物」(作品)を提供するものと思われているかもしれないが、しかし一方で「種蒔き」やそれ以前の「土壌改良」もまた「アート」の生きる道ではあるだろう。そもそも「文化」("culture")の語源は「耕す」であり、即ち所謂「文化」は「完新世」の特定気候区に於いて可能になった「農耕」("agriculture"=agri:畑+culture:耕す)社会の産物である事を示している。「芸術祭」には「祭」の語が入っている。我々の知る「祭」の多くは、多かれ少なかれ、直接的にも間接的にも「農耕」に紐付けられている。「芸術祭」にせよ「アートフェア」にせよ、その祝祭性は「収穫祭」のそれに似るが、「収穫祭」はまた「生」の世界と「死」の世界の分水嶺でもある。「農耕」社会にとって「死」の時間である冬を前に土を起こして耕し、「生」の時間の到来である春に種を蒔き、そして夏を経て秋に「成果物」を得る。

この「芸術祭」に於いて、所謂「作品」のインストールに関する諸事より先行して行われていたのが、「121枚の公式ポスター」というところに注目するべきなのだろう。それは「土壌改良」(冬)であり「種蒔き」(春)の話だ。それが、子供という人生の冬(玄冬)から春(青春)に掛けての時間(注26)に重ね合わされている。

www.ameet.jp

(注17)「収穫物」を重視する「現代アート」は、事実上朱夏五行説)の時間のものとされている。

マルコ福音書の「種蒔き人の喩え」を引く。

『聽け、種播くもの、播かんとて出づ。
播くとき、路の傍らに落ちし種あり、鳥きたりて啄む。
土うすき磽地に落ちし種あり、土深からぬによりて、速かに萠え出でたれど、
日出でてやけ、根なき故に枯る。
茨の中に落ちし種あり、茨そだち塞ぎたれば、實を結ばず。
良き地に落ちし種あり、生え出でて茂り、實を結ぶこと、三十倍、六十倍、百倍せり』

Ἀκούετε· ἰδού, ἐξῆλθεν ὁ σπείρων τοῦ σπεῖραι·
καὶ ἐγένετο ἐν τῷ σπείρειν, ὃ μὲν ἔπεσε παρὰ τὴν ὁδόν, καὶ ἦλθε τὰ πετεινὰ τοῦ οὐρανοῦ καὶ κατέφαγεν αὐτό.
ἄλλο δὲ ἔπεσεν ἐπὶ τὸ πετρῶδες, ὅπου οὐκ εἶχε γῆν πολλήν· καὶ εὐθέως ἐξανέτειλε, διὰ τὸ μὴ ἔχειν βάθος γῆς·
ἡλίου δὲ ἀνατείλαντος ἐκαυματίσθη, καὶ διὰ τὸ μὴ ἔχειν ῥίζαν ἐξηράνθη.
καὶ ἄλλο ἔπεσεν εἰς τὰς ἀκάνθας, καὶ ἀνέβησαν αἱ ἄκανθαι, καὶ συνέπνιξαν αὐτό, καὶ καρπὸν οὐκ ἔδωκε.
καὶ ἄλλο ἔπεσεν εἰς τὴν γῆν τὴν καλήν· καὶ ἐδίδου καρπὸν ἀναβαίνοντα καὶ αὐξάνοντα, καὶ ἔφερεν ἓν τριάκοντα, καὶ ἓν ἑξήκοντα, καὶ ἓν ἑκατόν.

キュレーターは「次の季節に向けて」で文章を締める。秋(10月後半)の「(芸術)祭」が終わり、収穫が終わった土は耕され、再び種が撒かれ、季節("SEASON")は巡る。何が育つのか、そもそも芽は出るのか、それは判らない。

====

「道の駅 宇陀路大宇陀」に戻る。道の駅が、19世紀から20世紀に掛けての鉄道駅の様な存在になるとは誰も思っていないだろうが、それでもそれは地域にとっての種蒔きの一つなのだ。

「駅舎」の傍らに足湯(温泉スタンド付き)が見える。設えは「ちきゅうのれきし」の東屋にも似ていなくはないものの、こちらは「灼熱のドロドロ」時代の賜である「温泉」付きだ。近傍の「大宇陀温泉あききのゆ」の湯であるという。

akinonoyu.nara.jp

足湯で「四大美人泉質のひとつ」を堪能し、奈良交通バスの人になる。そして再び近鉄電車に乗り、第三紀鮮新世~第四紀更新世に出現したとされる奈良盆地を後にする。

「地上」

《千の注釈》

長過ぎる注1,001『忘却』」から続く

●長過ぎる注1,002「地上」(2020年1月〜2022年1月記)

北緯40度42分46.8秒、西経74度0分48.9秒を上昇して行くエレベーター。今日の「人類」の事実上の「標準」暦であるところの「共通紀元(Common Era:CE)」=「イエス・キリストの年(Anno Domini:AD)」(注1) 換算で「1500年」に「地下世界」を出発した籠(Car)が、その20年後(「1520年」:動画開始後6秒後)に「地上世界」に出ると、果たしてそこは、後にイングランド人の「探検家/探検業者」ヘンリー・ハドソン──「1611年」に死亡したと「推定」されている(彼の死亡を正確に裏付ける「記録」は存在しない)──の名に因んで「ハドソン川(Hudson River)」と呼ばれる事になる河川の河口付近の浅瀬の中だった。川の向こう側に見える陸地は、現在「マンハッタン」と呼ばれている島の南東部(「ロワー・マンハッタン」)である。

(注1)「共通紀元」(日本では現在でも「西暦」と称呼されている)は、「6世紀」のキリスト教修道士、ディオニュシオス・エクシグウスの「推測」によって「イエス・キリスト」の生誕年を紀元1年としたものだが、現在では「歴史」的存在としてのイエス・キリストの生年は、それよりも以前であるというのが定説だ。その生年が現在に至るも「歴史」的な形で確定されていないのは、「イエス・キリスト」なる人物が何者であるかを決定する「歴史」的な実証に耐え得る「文字」資料が存在しない事にある。因みに「イエス・キリストの年(Anno Domini)」は、ヨーロッパに於いては長く「一般人(非王族)の歴史("Vulgar Era")」とも言われていた事がある。下掲画像はイエス・キリストの人種的特徴を勘案した「復元図」(=イエス・キリストと同時期の、イエス・キリストと同じ人種の「典型」的「男性」の図)。これはイエス・キリスト本人を同定するものではないが、しかしイエス・キリストが「リアル」に属していたコミュニティを指し示すサンプルではある。

f:id:murrari:20220112192047j:plain

島の中に幾つかの「簡素」な──或いは「建てる」事に対して相対的に「純粋」な──建物(Wigwam)が見える。島とその周辺部は、古くから続く(注2)先住民レナペの生活圏(注3)だった。現在ニューヨーク・マンハッタンのワン・ワールド・トレード・センターのエレベーター内で見る事の出来る、「イエス・キリストの年」が階数と同期して壁面にカウントされるこの展望(Observatory)タイムラプスを紹介する記事の中には、エレベーター「上陸」時点を「何もなかった土地」とする紹介をしているものもあるが、当然それは単純に事実誤認である。

f:id:murrari:20200107172434j:plain

f:id:murrari:20220113080646j:plain

(注2)考古学的調査によると、6,000年前には既に大規模で安定した先住民のコミュニティが存在していたという。

(注3)マンハッタン(Manhattan)という呼称は、通常「多くの丘のある島」を意味するレナペ語(Manhatta)に則ったものとされている。しかしそれには民俗学的な別解釈もあり、それは「弓を手に入れる場所」/「(弓を作るための)木(ヒッコリー)を集める場所」、或いは「皆が酔った島」というものである。

フィレンツェの「探検家/探検業者」ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノがこの地に出現したとされる「1524年」まで、この島の中には所謂「文字」は存在していなかった。「文字」が漂着する以前のレナペの生活を、時系列的な「歴史」として語る事は出来ない。「我々」──即ち「文字」の呪いが掛けられてしまった者──が親しんでいる、「以前(ビフォー)」と「以後(アフター)」の差を計測する「歴史」という概念が、凡そ「文字」による「記述」に頼る事によってしか可能でないとすれば、このタイムラプスが「文字」の出現「以前」を「地下世界」としてしか表象出来ないのは、或る意味で当然の事だろう。「先住民」の口承(「音声」)によって表される時間は、「上昇・下降」するエレベーターで表現されるリニアな時間とは根本的に異なるからだ。「地下世界」と「地上世界」の描き方の差は、所謂「歴史」(的な時間)の不在を「暗い」(例:"Dark Continent" )ものとしてしか見る事の出来ない「地上世界」人の想像力の限界を示している。

タイムラプス開始後10秒辺り(「1626年」)で、このレナペの生活圏の一部であった島は、ニュー・ネーデルランドの総督ピーター・ミヌイットに「購入」(注4)される事になる。ニュー・ネーデルランドの実質的「母体」であるオランダ西インド会社の役員ピーター・ヤンスゾーン・シャーゲン(Peter Janszoon Schaghen)は、「1626年」11月7日に同社に宛てた報告書の中で、面積11,000モルゲン(94平方キロメートル:換算例)(注5)の「土地」の「購入」が、60ギルダー相当の物品(注6)によって行われた(“vreedigh leven hare vrouwen hebben ooc kinderen aldaer gebaert hebben t'eylant Manhattes van de wilde gekocht, voor de waerde van 60 guld: is groot 11000 morgen.")と書いている。

f:id:murrari:20220112192541j:plain

f:id:murrari:20181208130108j:plain

(注4)先住民は「所有権」に関するヨーロッパ的な概念/定義に馴染みがなかった。彼等にとって、土地は水や空気と同様の共有物であり、ビーバーの毛皮の様に取引する事の出来ないものだった。その一方でオランダ人は、季節毎に居住地を移動する先住民の土地利用の概念を理解出来なかった。オランダ人はマンハッタン周辺の土地を「購入」して「所有」したものと思い込んでいたが、一方の先住民は土地「共有」の「権利」を与えたものと思っていた。その解釈の擦れ違いは、やがてオランダ人の「所有」する土地に「不法」に侵入して狩りをしたり、住み続けている先住民への「懲罰」の形で現れる。

(注5)実際のマンハッタン島の面積は約59.1平方キロメートル。

(注6)「1626年」の60ギルダーは、今日の1,000米ドルに等しい(「2006年」の換算例)とも、72米ドルに等しい(「1992年」の換算例)とも、2,600〜15,600米ドルの間(「2014年」の換算例)ともされる。広く伝えられているところの60ギルダー=24米ドルという換算は、「19世紀」のニューヨークの歴史学者ジョン・ロメイン・ブロッドヘッドが、今から100数十年前の、即ち「2020年代」の貨幣価値とは全く掛け離れた「1844年」に、通貨単位への「誤解」も含めて試算したものである。また巷間「24ドル相当の物品」として上げられる事の多い「ガラス玉」や「ビーズ玉」は、少なくとも “Manhattan Purchase"(「マンハッタン買付」)に関して書かれた唯一の「物証」(「文字」)であるシャーゲンの報告書には具体的な形で書かれていない。

この「契約」= “Manhattan Purchase" 以後(注7)、「新大陸」に属するこの島が「旧大陸」的な概念である「有形固定資産」の対象となって行く事が、このタイムラプスからも十分に判る。「簡素」な建物や、木々の間や土地の勾配に合わせて作られていた「道」が忽然と「消え」、「整地」によって「図面/書類」に適した「地所」に変えられた「大地」に、「旧大陸」的に幾何学的な「道」=フルトン・ストリート(Fulton St.)が画面中央に通される。斯くしてこの島は「所有」というヨーロッパ的な概念に侵食されていく。

(注7)「マンハッタン買付」の前年(「1625年」)から、島の南端は「アムステルダム要塞」を擁したオランダ人の「入植地」になっていて、現在それが「ニューヨーク」の開始年とされている。

f:id:murrari:20220112192832j:plain

f:id:murrari:20130528224350j:plain

「大地」を「資産」と結び付ける様な「所有」の概念を持たないレナペは、ヨーロッパ人(「オランダ人」)が促す儘に「契約書」に「サイン」(=「文字」)(注8)させられ、その「契約」の結果として「土地を売却した」彼等は、このタイムラプスの10秒の時点でこの地から締め出される。同時にヨーロッパ人が専用の船を仕立てて本国から取り寄せた「家畜」と共に持ちまれた麻疹や天然痘といった感染症による「エピデミック」により、ひとたまりもなく減少したレナペは、数百人規模のソサエティにまでシュリンクした後、「所有」概念によって追われた地で「デラウェア族」(注9)というスレイブ・ネーム的な名前で呼ばれもする様になった。時にレナペを含む「北米」のインディジナスな人々(注10)は「ヨーロッパ人」による大量殺害(注11)の対象にもなる。斯くして、この島は──「10秒」以前とは全く異なり──「ヨーロッパ」的な「歴史」という時間感覚の中に、完全に組み入れられる。

f:id:murrari:20220112193010j:plain

f:id:murrari:20140308092330j:plain

(注8)しかし実際にはそれは、誰でも書ける──即ち「偽造」が容易に可能な──「✕」印であったという。

(注9)「デラウェア」は、バージニア植民地総督、第3代デラウェア男爵トマス・ウェストイングランド人)に因む。即ち「デラウェア族」とは「『デラウェア男爵ゆかりの土地』に居住する先住民」を意味するものであり、換言すれば「『所有』される者」として永遠に刻まれたというものである。

(注10)「2019年」11月に公開されたディズニー映画「アナと雪の女王2」(“Frozen II")に登場する、霧に包まれた「ノーサルドラ(“Northuldra")」もまた、スカンジナビアに於けるインディジナス(先住民)のコミュニティである「サーミ(“Sápmi"/“Sámi")」がモデルになっている。トナカイと共生する生活を営むクリストフとその一族は「サーミ」の人だ。

彼等の生活圏が植民地化され、その精霊信仰をキリスト教によって強制的に放棄させられ、「人類学者」からも「科学的」に「劣等種」とされた(映画「サーミの血」参照)「サーミ」の生活圏であるフィンランドのロバニエミ(Rovaniemi)には、「サンタクロースの正式な故郷」であるという「設定」の下に「サンタクロース村(“Joulupukin Pajakylä")」というテーマパークがあり、キリスト教の司祭服を原型とし、コカ・コーラ社が世界標準スタイル化の一翼を担った紅白の衣装を着た「サンタクロース」が観光客を出迎える。この地は嘗ては「ラップランド(“Lapland")」と呼ばれたりもしたが、「辺境」を意味するその呼称は、「サーミ」に与えられた蔑称である「ラップ(“Lapp")」と共に、現在では使用が躊躇われるものとなっている。

花火をバックにしたシンデレラ城の背後に、「サーミ」のヨイク(それはキリスト教によって非合法化された)が流れるオープニングの「アナと雪の女王」第一作目の公開後、同作に於ける「サーミ」の「扱い」に関して、「カルチュラル アプロプリエーション(文化盗用)」や「ホワイトウォッシュ(白人文化化)」に対する対応が不十分であるという批判がされた。「アナと雪の女王2」は、その批判を受け止め、本作を制作するにあたって、「サーミ」の文化の「公平」な「扱い」について「サーミ」のコミュニティと契約書を交わしている。

(注11)一例として「1643年」〜「1645年」の「キーフツ戦争(Kieft's War)」がある。「1643年」2月25日には「パヴォニア虐殺(Pavonia Massacre)」と呼ばれるレナペに対するオランダ人の大虐殺──129人のオランダ兵が、120人の女性や子供を含むレナペを虐殺した──が起きる(上掲画像)。その現場を目撃したデ・ブリーズ(David Pietersz de Vries)日記にはこの様に記されている。

「乳飲み子は母親の胸から引き離され、親の目の前で切り刻まれ、その肉片は火の中や水の中に投げ込まれた。他の乳飲み子は小さな板に縛られ、切られ、刺され、貫かれ、血も涙も無い凄惨な虐殺が行われた。川に投げ込まれた者もあり、その父や母が助けようとすると、兵士たちは彼等を陸に上がらせず、親子ともども溺れさせた(alwaerse de jonge Kinders sommige van haer Moeders borsten afruckten, in 't gesichte vande Ouders aenstucken ghekapt, ende de stucken in 't Vyer en in 't Water ghesmeten zijn, en andere Suygelingen op Houte-bortjes gebonden en soo door-houwen, door-steken, door-boort, en miserabelijck gemassakreert dat het een Steenen-hert vermorvven soude, ende sommighe inde Rivier ghesmeten, ende als de Ouders en Moeders die sochten te redden, wilden de Soldaten die niet weder laten aen Landt komen)」

その出来事は、「植民地」から「得」られた「富」によって富裕化した「市民」に、広く「(世俗的主題の)美術」が行き渡る様になった本国オランダに於いて、レンブラント・ファン・レインが、聖ルカ組合(ギルド)の一員になる(「1633年」)事で「画家」としての「社会」的「地位」や「名声」を確立し、アムステルダムの名士の注文で「夜警」(「1642年」)を描いた「オランダ黄金時代最盛期」とほぼ同時期の出来事になる。

下掲画像は、「1910年」10月に、ニュージャージー州ジャージシティの公立小学校で演じられた、「パヴォニア虐殺」の入植者視点による「征圧」の「再現」劇。

f:id:murrari:20220113075457j:plain

今日的な「美術」(及びその上位概念としての「芸術」)は、徹頭徹尾近代ヨーロッパ的な意味での「個人」から発するものだ。「才能」(talent)或いは「天才」(genius)という概念は、「個人」という概念/形式の誕生と共に成立した。「才能」は、その「入れ物」と見做されている「肉体」を「所有」する「個人」と分かち難いものとしてリンクされる。それによって「才能」の「受肉」(「才能」という「神性」が人間の形を取っている:"Incanation")である「作家」(「作家名」)という個別性への信憑は可能になる。そして「才能」が常に儚い物理的「肉体」に紐付けられる「市場」的「希少性」故に、資本主義社会に於ける余剰資金はそこに投機的な「価値」を見出す。

「個人」の「才能」を、キリスト教的な聖性観に基づいて重要視する「美術」という習俗に無縁だった「レナペ」の文化(注12)(注13)がこの島から一掃されてから100数十年後、タイムラプス開始後17秒の「1804年」に、ニューヨーク最古の「美術館」である「ニューヨーク歴史協会(The New-York Historical Society)」が画面左に建設される。しかしマンハッタン島最初の「展覧会」は、それよりも遥か以前に、「地上世界」化したこの島の何処かの「ショップ」(=「ギャラリー」)等で行われていただろう。

(注12)従ってレナペの文化の延長線上に、「旧大陸」的な価値観に基づいた NFT(例)は生じ得ない。

(注13)少し前に、「レナペ」を「リサーチ」対象とした「作品」があった。"Lénapes Series" と題されたそれは、それが「展覧会」を前提とした「作品」であるが故に、当然の様に「先進国」の「都市」の「ギャラリー」(「準ギャラリー」含む)で「公開」され、その「シリーズ」名で行われるものとしては数回で終了している。作家のステートメントには "I chose to paint a symbol of the Lenape tribe." とある。"chose" という語の非対称性に於ける "chose" される側(「地下世界」)でなく、"chose" するポジション(「地上世界」)に常に立ち続けるのが「アーティスト」である。近年の「美術」の世界で多用される「リサーチ」という方法論は、「観察される者になる」のではなく、何処までも「観察する者になる」に留まるものだ。

ライムラプス開始後22秒の「1913年」2月17日~3月15日に掛けて──この動画では0.01秒程の時間──、この「ロワー・マンハッタン」から北北東4キロ(VR画面左)に位置する「第69連隊兵器庫」で、所謂「アーモリー・ショー(兵器庫展)」の第一回展が開催される。そこで事実上初めて「アメリカ」(注14)に「紹介」された「キュビズム」や「フォーヴィズム」等々の作品が、「美術」という「習俗」を共通のものとするまでに至ったこの「島」の「入植」者の末裔に与えた「衝撃」を伝える「伝説」が、「地上世界」の「美術」の界隈では、100年以上経った現在に至るも語り継がれている。

(注14)「アメリカ(America)」もまた「先住民」由来の名称ではなく、「15世紀」〜「16世紀」のイタリア人「探検家」、「アメリゴ・ヴェスプッチ(Amerigo Vespucci)」の名に基づいている。彼と同時代人である「探検家/探検業者/奴隷商人」、「クリストーフォロ・コロンボ(Cristoforo Colombo)は、キリスト教世界観に基づいて「アメリカ州」を「旧大陸」である「インディアス」と誤認していたが、一方のヴェスプッチはそれが「新大陸」である事を認識していた。但し彼が目撃したのは「南米」のみである

f:id:murrari:20220113113212j:plain引き倒されるクリスト―フォロ・コロンボ

そしてその1秒後の23秒=「1917年」4月10日に、フランスの “Société des Artistes Indépendants" を模した “Society of Independent Artists(「独立芸術家協会」:「1916年」設立)" が主催する「第一回年次展」(注15)が、北北東5キロ(画面左)の「グランド・セントラル・パレス(The Grand Central Palace)」で開かれ、「地上世界」に於ける「人類」共通の「美術史」上の「常識」とされる「泉」騒動が起きる。

(注15)その出品料は60米ドル。それは「2020年」換算で約1,900米ドル(約22万円)であり、「2002年」のギルダーと米ドルの換算例を元にする限り、オランダ人がレナペからマンハッタン島を購入した金額の2倍弱に当たる。

現在の「美術」の成立条件は「文字」と「所有」である。「美術」にとっての「文字」は「評論」や「美学」や「美術史」であり、一方の「所有」は「市場」に対応していて、そのどちらも「美術」に欠けてはならないとされている(注16)。しかしその様な「文字」と「所有」の分かち難い「結託」による、「個人」を前提とする「美術」という特殊な形式は、「近代ヨーロッパ」(「名誉近代ヨーロッパ」含む)以外の諸文化には存在しない。寧ろ「文字」にも「所有」にも関わらない──「展覧会」を行わず「作品」も売らない──レナペやサーミ等の「地下世界」(「地下世界線」)の「文化」の方が、「人類史」全体に於いては寧ろ「標準」的であるとも言えるだろう。その意味で、「地上世界」(「地上世界線」)の住人である我々の言うところの「美術」は「人類史」に於いて極めて特殊な形式である。

(注16)参考記事。

bijutsutecho.com

「美術」が「美術」にとっての「危機」に直面した際、しばしば「美術は人類にとって不可欠なもの」という言い回しがされる。今般の「パンデミック」に於いても、それに類した発言をそこかしこで聞く機会があった。確かにそれは、「地上世界」に住む者にとって極めて美しいスローガンとして聞こえるのは確かだ。しかしその一方で、「美術」を成立させる特定文化を、「人類」全体のそれと同義とする点で極めて傲慢でもある。そこで言われる「人類」は、事実上「美術」を可能なものにする「地上世界」に住む者を意味するからだ。そのスローガンは「文化的征服者」の「鬨(かちどき)」でもある。近代ヨーロッパ文明の人であるアンゲラ・メルケルのスピーチに「感動」してしまうのは、「文化的征服者」としての「地上世界」の人間に限定されるのである。

「美術」のそうした「傲慢」なポジションを根拠付けるのは、「美術」の成立基盤である「地上世界」への強引なまでの「改宗」による植民地化、即ち上掲タイムラプスに見られる様な「地上世界」の全面化が、この惑星上でほぼ「完成」してしまった事に由来する。我々が言うところの「美術」は、何処までも「文化的征服者」の側にある事は否定できない。当然所謂「アーティスト」もまた、「アーティスト」である限り/「アーティスト」であろうとする限り、「文化的征服者」のエコシステムである「地上世界」から逃れる事は出来ない。「文化的征服者」が生み育てた形式である「アーティスト」が、仮に「地下世界」の人間として立つ事があったとしても、その瞬間に「アーティスト」は「アーティスト」である事を、原理的には放棄しなければならない。それはそのまま「地下世界」への埋没=「アーティスト」を全く必要としない世界に生きる事を意味するからだ。

「地上世界」の「アーティスト」が粉骨砕身してまで「売り」たい最大のものは、事実上「作家」としての「名前」(注17)だが、それは「文字」と「所有」という鎖に繋がれた「地上世界」に於けるスレイブ・ネームなのかもしれない。「囚われ」の「アーティスト」には、「地上世界」から要求される「『展覧会』を行わなければならない」や「『作品』を作らねばならない」等々といった「アーティストたるもの」(「斯くあるべし」)が常に付き纏い、その人生を覆い尽くす。それは「男たるもの」「女たるもの」といった固定化した「役割」(注18)にも似るものだ。

f:id:murrari:20220116094256j:plain「1977年」のアメリカのテレビドラマ "Roots" の、「キリスト教洗礼名」の「承諾」に至るシーン。

(注17)「作品」はそれを「ブランド・ネーム」とする事で取引される。多くの「美術評論」もまた「ブランド・ネーム」(「作家名」作の「作品」)を論考の単位とする事で初めて成立するものばかりだ。その意味で、「美術評論」(とりわけ「展評」)は、「ルイ・ヴィトン新作評論」や「プラダ新作評論」や「グッチ新作評論」等に漸近するしかないのである。「評論家」の大半は、「バッグ」(例)というアイテムや「ブランド」という擬制そのものに対する思想的/人類史的アプローチには興味が無いのだ。

(注18)所謂「子育てと美術」という「問題」にも、この「展覧会」や「作品」という「鎖」が影を落とす。「地上世界」の「アーティスト」は、「子育て」に関わる事によって「展覧会」の開催や「作品」を十分に実現化出来なくなる事態に心底恐怖する。「展覧会」開催の不連続が、自らの「アーティスト」としての「身分」の保持に於いて、周囲からの「忘却」による毀損に繋がるのではないかとすっかり思わされている。そしてその内面化された恐怖こそが、「美術」と呼ばれている「鎖」なのだ。

時に「美術」は「文化人類学」を利用する。しかし「美術」そのものを「文化人類学」の対象とする事は無い。

「作品」は「作りたい欲望」のみで、「展覧会」は「見せたい欲望」のみでは、その成立が説明出来ないものだ。「パンデミック」によって「作品」発表の場としての「展覧会」──それは「アーティスト」の紹介記事の末尾を「主な展覧会」として形成し、その僅か数行ばかりのフッターの為に「アーティスト」は日々努力する──の機会が失われた時、「アーティスト」は不安に駆られた。それは「売る」チャンスの消失によるアイデンティティ・クライシスだった。

助成金」はその不安を幾らか和らげた。「アーティスト」として行政に認知される為に、業界人を自認する者はデスクに張り付きキーボードを叩いたりした。「平時」に於ける「展覧会」開催による「作品」売却で得られる額よりも多くの金を手にした者もいた。そして自分が「(「人類」にとって)必要」な人間であるという「自尊心」を時限的に得られたのである。

【長過ぎる注1,003に続く】

「忘却」

《千の注釈》

●長過ぎる注1,001「忘却」(2021年8月〜2022年1月記)

2020年代初頭の「人類史」及びその「文化史」を語る時、COVID-19 パンデミックの影響下に人類が置かれ、その存在が依然として脆弱である事が改めて示された事実を無視して、果たして成立するものだろうか。

今から100余年前の1918年に全世界的な大流行が始まった "1918 flu pandemic"、所謂 "Spanish flu"(「スペイン風邪」)は、所謂「文化史」に於いては、それがもたらした影響を事実上完全に無視されてきたところがある。1918年といえば、現在も依然として「文化史」としての「美術史」上の特筆すべきランドマークとして扱われ続けているマルセル・デュシャンの「泉」(Fontain)が「発表」された翌年に当たるのだが、「泉」を「美術史」上の重要な分岐点として捉える程には、同「パンデミック」をその様なものとして見る視点は現在に至るも皆無だ。

世界人口が18億人の時代(注1)に1億人以上が死亡した=18人に1人が死亡した(注2)とも伝えられる疫病の世界的大流行、或いはその疫病が始まった年に終結した4年に渡る第一次世界大戦(戦死者1,600万人)などよりも、ヨーロッパの「先進」的な芸術作品の到着を待つアメリカの好事家達から、1913年アーモリーショー「階段を降りる裸婦 No.2」の「興奮」再びとばかりに「キュビズム絵画」("Tulip Hysteria Co-ordinating")の出品を期待されていた29歳のフランス人青年マルセル・デュシャンが90度倒した、しかし実際には殆ど誰の目にも触れる事がなかった(注3)エルジャー社製ベッドフォードモデル小便器がもたらした「スキャンダル」をこそ重要視し、その解像の倍率を相対的に高めていくというのが、巷間言われるところの「文化史」としての「美術史」という代物なのかもしれない。

f:id:murrari:20220108153243j:plain

f:id:murrari:20181128112711j:plain

(注1)当時の「先進国」の平均寿命は45〜50歳。

(注2)COVID-19の2022年1月第1週段階での全世界の死者数は約550万人。

(注3)実物の「泉」はショーには出品されず、それはニューヨークのダダイストの同人誌 "The Blind Man" 第2号に掲載された網点印刷写真(アルフレッド・スティーグリッツによるスタジオ撮影)と、そこに添えられた「抗議文」("The Richard Mutt Case")等のステートメントによって、言説的フィギュアとして「事実」(fact)化された。

f:id:murrari:20220108153558j:plain

「泉」が「発表」された、ニューヨーク・マンハッタン島、レキシントン・アヴェニューの西側、46丁目と47丁目の間、グランド・セントラル・ステーションのヤードの上に建っていた13階建てのグランド・セントラル・パレス(現 245 Park Avenue)は、様々な見本市や品評会が行われるコンベンションホールだった。同所で行われた主な展示会には以下のものがある。国際フラワーショー、グレーター・ニューヨーク家禽博覧会、ウェストミンスター・ケンネルクラブ・ドッグショー、スポーツマンズ&バケーションショー、全米写真ショー、国際美容室オーナー大会、冷凍食品博覧会、全米プラスチック博覧会、国際繊維博覧会、全米モダンホーム博覧会、米国医師会博覧会、全米モーターボートショー、ニューヨーク自動車ショー等々(注4)。現在では「泉」騒動以外に全く言及される事のない独立芸術家協会(Society of Independent Artists)の第1回年次展(First Annual Exhibition)もまた、それら催事の中の一つであり一つでしかなかった。

f:id:murrari:20220108154901j:plain

(注4)こうした展示会に訪れる観光客目当てに、ウィンスロップ(現ロジャー・スミス)、レキシントン、シェルトン(現マリオット・イーストサイド)、モントクレア(現Wニューヨーク)、ビバリー(現ベンジャミン)等、幾つものホテルがレキシントン・アヴェニュー沿いに次々と建てられ、現在の "Hotel Alley"(「ホテル横丁」)を形成するに至る。「ホテル横丁」の近傍には、それらとは別格のバークレー(現インターコンチネンタルバークレー)やウォルドルフ=アストリアがある。

独立芸術家協会年次展の第2回展(1918年4月20日〜5月12日)は、グランド・セントラル・パレスとは別の会場(110-114 West 42nd Street:現1095 Avenue of the Americas)に移り、第3回展(1919年)からはニューヨークの最高級ホテル、ウォルドルフ=アストリア(Waldorf-Astoria)に暫時落ち着く事になる。ニューヨークの独立芸術家協会が掲げる "No Jury - No Prizes" によって必然的に生じる、作品発表の欲望のマスボリューム("First Annual Exhibition" では約2,000点)を勢力/影響力として見せ付ける展示会が、社会に出回っている余剰資金(=「美術」の顧客)がより集中するゴッサムのセレブリティのホテルへと嗅覚鋭く移った頃、年次展が去った後のグランド・セントラル・パレスは、「泉」騒動の翌年の1918年9月にアメリカ政府に貸与され、1919年の4月まで第一次世界大戦の傷病兵向けの臨時病院(U.S. Debarkation hospital No.5)へと変貌した。「非日常」的な演出が施された「展示」を行うアメリカ各地の催事場は、軒並みリアルな「非日常」の空間になる。独立芸術家協会第1回展の会期中を通して「泉」が放置されていたとされるパーティション裏には、その1年後に傷病兵が横たわっていたのかもしれない(注5)

f:id:murrari:20220108155241j:plain

f:id:murrari:20220108155353j:plain

(注5)因みに第一次世界大戦の戦死者の2/3は戦闘によるものであり、残りの1/3はスペイン風邪等の疾病によるものであったという。ニューヨークの独立芸術家協会のベースとなったパリの独立芸術家協会(Société des Artistes Indépendants)の展覧会場はグランパレ・デ・シャンゼリゼだったが、そこもまた第一次世界大戦を通して軍病院として使用されていた。この期間(1915〜1919年)パリの独立芸術家協会展が行き場を失い開催されなかった為に「美術史」的不連続が生じ、その一方で第一次世界大戦の実際の「戦場」から遠く離れたニューヨークが、パリ不在の合間を縫って「美術史」上の地位を向上させる事になる。デュシャンが、パリからニューヨークに活動の軸足を移した(移住した)のは、ヨーロッパの戦場化に伴う「美術」界に於けるパリの「地位低下」の最初の開始年である1915年だった。

f:id:murrari:20220108155529j:plain

20世紀「文化史」に於いて、"Spanish flu" パンデミックが過小視(例外視)されて来た様に、今回のパンデミックもまた将来に於いて21世紀「文化史」とは関係の薄い、或いは無関係なものとして「忘却」される事になるのだろうか。ヨーロッパ文明を脅かしたペスト程には、スペイン風邪は文学上の一大テーマにはならなかった。COVID-19は果たしてどうだろう。

====

2021年夏、日本は所謂「(COVID-19)第5波」と言われる「特異」的な時間の中にあった。「感染」が人々の意識の最前線に浮上する以前に計画された、“Citius – Altius – Fortius”(「より速く、より高く、より強く」)をモットーとする「オリンピック」と称される総合スポーツ大会が、前年の「2020」を冠に官と一部の民による「祝祭」感(注6)(注7)の演出を伴って実際に開催された時期でもある。

(注6)当時日本で「オリンピック」に批判的な立場を取る者の一部は、開会式セレモニー等の「政治スペクタクル」の「拙劣」を批判した。しかしそれは、「より良き祝祭セレモニー」を指向する点で、ジュールス・ボイコフ(Jules Boykoff)言うところの "Celebration Capitalism(「祝祭資本主義」)の側に結果的に加担、或いはそれをすっかり内面化してしまっていたという事になるだろう。

(注7)「祝祭」による「トリクルダウン」(「お溢れ」)が広く日本国内に行き渡るという事も言われた。しかしその巨大イベントによる「お溢れ」は、過去の数々の「オリンピック」同様、今回もまた現実には存在しないに等しく、結果的に「オリンピック」開催によるリターンはイベント主催者に近い民間の一部に独占され、その結果公共支出としての機会費用のロスの埋め合わせが、広く東京都民を始めとする納税者に先々まで課せられる事になった。

当時、このイベント開催を100余年前の「復興五輪」であるアントウェルペンアントワープ1920年)再びとばかりに「人類がコロナウイルス感染症に打ち勝った証し」(注8)にするという発言が一部で発せられたりもした。しかし「打ち勝つ」という「ヒロイック」な表現に見られる「勝負」観を前提とする限りに於いてのみ、感染拡大による延期や規模縮小を余儀なくされたこの運動競技大会は、事実上「人類がコロナウイルス感染症に打ち負けた証し」、或いは少なくとも「人類とコロナウイルス感染症がドローになった証し」という評価を受け入れなくてはならないかもしれない。

(注8)「人類がコロナウイルス感染症に打ち勝った証し」というスローガンは、ボイコフの「祝祭資本主義」の着想元となったナオミ・クライン(Naomi Klein)"Disaster Capitalism”「惨事便乗型資本主義」、「ショック・ドクトリン」(火事場泥棒)の1サンプルとしても記憶されるだろう。「2020東京オリンピック」もまたその成功を指向したものの、結果的にそれは大いなる不発に終わったのである。

そもそも人類の歴史は、人類のみで完結するものではなく、人類と人類でないものとの関係史でもある。地球科学的なものを含めた「人類でないもの」の一つに感染症があり、人類はそれと常に隣合わせだった。ペストは度々人類を脅かしてきたし、コレラは幕末日本の攘夷気運を醸成した。スペイン風邪は遠方の戦場に大量派兵が可能になる交通テクノロジーの発達によって「史上最悪のパンデミック」となった。脆弱な動物種としての人類は、感染症の前に度々「絶滅」の危機に脅かされた。

下掲画像は、100年以上前(1920年2月17日)の日本に於けるスペイン風邪「第2波」期の女学生の通学風景だが、パンデミックというものが意識の最後景にあった2019年以前(「日常」)であれば「全員マスク姿」というのは、例外的・非日常的な風景と捉えられただろう。しかしその「特異」な風景の最中に2022年の世界は置かれていて、しかも何時になったら「全員マスク姿」から「完全」に「解放」されるのかも一向に見えない。

f:id:murrari:20220108161843j:plain

f:id:murrari:20220108162505j:plain

f:id:murrari:20220108162715j:plain

人々は「災禍」を「忘却」の対象に留め置けられている状態を「日常」としたがるものだが、実際には感染禍を含む「災禍」(Disaster)の時間が「日常」であり、所謂「日常」こそ「特異」な時間であるという反転も可能ではあるだろう。事実、食料や真水といった資源や機会等のリソースの「高所得国」への集中によって「災禍」と隣合わせにある状況を常に強要される「低所得国」では、「高所得国」的な意味での「特異」が「日常」になっている。それらのリソースを地球人口79億人で等しく割れば、「高所得国」に住まう者が言うところの「日常」(日々是好日)というのは、「低所得国」(或いは国内低所得層)からの「搾取」によって成立している幻想である事がたちまち明らかになるものの、一方で79億人で等しくそれらを割るという事自体が「無意味」とされる事もある。それを「無意味」であるとする者にとって、資源や機会等に於ける「勝ち」(「努力」が報われる可能性を有する)と「負け」(「努力」しても永遠に報われない)という「不均衡」は、世界が「努力」を称える運動競技大会的なものに擬えられる限り、それがフェアな「勝負」であろうがなかろうが「必然」であり「摂理」なのだ。誰かの犠牲の上に成立する幸福(「日常」)といったものがそこでは正当化される。

参考:ユニセフ「世界保険サミット2021」
https://www.unicef.or.jp/news/2021/0210.html

「日常」と「特異」の反転が意識され、その結果「日常」を前提としていた人類の輪郭が不安定化し、他者が「特異」の入口と結び付けられた「第5波」の最中、こうしたツイートが一人の「アーティスト」からされた。

これがツイートされた頃、日本に於ける「展覧会」は「受難」の最中にあった。スケジュールに組み込まれていた「展覧会」は軒並み中止、もしくは開かれたとしても大幅に規模縮小や条件付き開催というものが大半だった。SNSの「展覧会告知」には、判を押した様に「(コロナ禍の最中)この展覧会に無理して来なくても良い」という但し書きがされていた。「来なくても良い」とする「展覧会」の「告知」、即ち「展覧会」がそれぞれの人生に於ける優先度の「最上位」の位置には必ずしもないという事を、他でもない「展覧会」の主催者が「宣伝」を通じて言表しなくてはならないという事態は極めて撞着的であるが、しかしその撞着こそが「展覧会」という形式を成立させてきた「生態系」を如実に浮かび上がらせたとも言える。

斯くして「展覧会」(他人に作品を見せる)という形式の根本が脅かされた事で、自ずと「そもそも展覧会とは何か」「そもそも作品を作るとは何か」「そもそも作家とは何か」といった自己のアイデンティティに関わる極めてファンダメンタルな自問に「アーティスト」は否応なく向き合わされる事になった。事実上、資本主義の「勝ち組」ソサエティに関係(/寄生)せざるを得ない(或いはそれとの関係を最重要視する)「アーティスト」は、「アーティスト」という概念自体が、近代ヨーロッパ以降に「発明」された「形式」であるが故に、その輪郭もまた資本主義のアキレス腱を露呈させた感染禍という「特異」を前に一気に不安定化した。

多くの「アーティスト」にとって「展覧会」は「日常」であり、且つそれは事実上「アーティスト」を成立させる最重要の絶対条件でもある。「アーティスト」が「つくらなくてもいいもの」を水増ししてまで「展覧会」の為に「たくさん」作品を作る(注9)のは、その「作家」の「作家」としての「倫理」自体が資本主義的な「日常」によって内面化されたものだからだ。

(注9)「アーティスト」は「展覧会」ごとに作品の「モデル」的な統一を図り、相対的に同一形式に見える「作品」を複数作って「展覧会」場に並べる。そしてその次の「展覧会」では新たな形式を「展開」と称して「発表」したりもする。ここでの「展開」は「計画的陳腐化」的な「モデル・チェンジ」の側面を幾らかなりとも有するだろう。「アーティスト」は、しばしば「オーディエンス」の「飽き」を先取りして「展開」に至るのである。

近代ヨーロッパ的な意味での「作品」は、「オーディエンス」の存在を前提に作られるものだ。「オーディエンス」への「公開」が「作品」を作る「アーティスト」の事実上最大且つ唯一のモティベーションになるというのは紛れもない事実だ。「作品」は常に「オーディエンス」に対して「公開」されねばならず、翻って「オーディエンス」が不在の場合、それはしばしば「作品」未満と見做される。

同じ様な事は、このツイートと同時期に複数の「アスリート」の口からも発せられていた。「アーティスト」が単なる「表現が得意な人」を意味しない様に、「アスリート」は単なる「運動が得意な人」ではない。「アスリート」は「アーティスト」同様、「エキジビション」(競技会/試合)によってのみその存在が可能になる特殊な「形式」である(注10)。数々の「無観客試合」は、「オーディエンスに見られる」という最大の条件を「アスリート」から奪う事で、その存在が脆弱である事を明らかにした。

(注10)「オーディエンス」に手拍子を求めるパフォーマンスを最初に行ったとされる元三段跳び世界記録保持者のウィリー・バンクスは、1981年のローザンヌ陸上競技会から三段跳び種目を外した大物プロモーターにその除外の理由を質した。それに対してプロモーターは「これはビジネスなのだから、観客席が埋められない様なものにどうして金を掛けなければならないのか(This is a business, so why should I pay you when you don't put butts on seats?)」と返した。バンクスは「それは、私がビジネスとしての陸上競技に入る切っ掛けになり、そのおかげで単に競技する事とスポーツビジネスとは大いに異なるという教訓を得る事が出来た(That was my welcome to the business of track and field, which taught me a huge lesson that there is a difference between about just competing in athletics and the business of sport.)」と語っている。

https://spikes.worldathletics.org/post/track-and-field-inventions-the-clap

感染の広がりの程度によって、「展覧会」の案内の文章は時々刻々変化して来た。「無理して来なくても良い」から「是非来て下さい」。そしてまた「無理して来なくても良い」へ。「展覧会」は、それが「普通」に可能になる「日常」を待ち続ける。それは「忘却」を待ち続けるという事かもしれない。

【長過ぎる注1,002に続く】

ch.0.6「約束の凝集 vol.1 石器時代最後の夜」

じゃん‐けん
〘名〙スル 片手で、石(ぐう)•紙(ぱあ)•はさみ(ちょき)のいずれかの形を同時に出し合って勝負を決めること。また、その遊び。石ははさみに、はさみは紙に、紙は石に勝つ。石拳(いしけん)。じゃんけんぽん。

大辞泉

 

====

【承前】

 2020年9月半ば。都営地下鉄馬喰横山駅で下車する。同駅より北方向にある目的地に向かう為、経由するJR東日本馬喰町駅方面に向かって歩く。国道6号線清洲橋通りが交差する馬喰町交差点の「吉野家馬喰町ビル」は、2016年に閉店/移転した「吉野家馬喰町店」に上がる入口階段を封鎖した白フェンスの横で営業していた吉野家関連企業の「千吉」(2019年2月末日閉店)にもベニヤ板が打ち付けられていて、そこから店の名残の照明が突き出ている。嘗て3階フロアに入っていた「笑笑」や「魚民」といったモンテローザ系居酒屋、その上階の吉野家の事業部に通じる反対側の階段も封鎖され、この建物の開口部はJR東日本馬喰町駅改札(地下)に続く階段のみになった(2020年9月半ば現在)。

 自社関連も含め全てのテナントが去り、2019年6月に吉野家HDからJR東日本に売却された同ビルは、1年以上も「巨大過ぎる駅入口」以上の機能を有していない。同ビルを買い取ったJR東日本は、「コロナ禍」による利用客の急激な落ち込みによって、2020年3月期の業績予想で連結最終損益が4,180億円の赤字になると発表したばかりだ。持て余すばかりの築30年の空っぽのビルが、目抜き通りの交差点の一角に建っているというのは、それだけで町に寂寥感を与える。「どうしようもない」という諦念めいたものが同ビルからこの問屋街に漂っている。果たしてこれは、人間の自由意志の外側にある、人間とは全く別次元で動いているものとの共生によって、人間の存在が常に再設定されていく世界のスタンダードな風景を示しているのだろうか。

 「石」という文字の入ったタイトルを持つ「展覧会」に行く。予定よりも約4ヶ月遅れで始まったものだという。所謂「ビフォーコロナ」の時期に企画されていたものであり、それが「ウイズコロナ」の時世に披露されるという「タイムラグ」の中にあるものだ。人によっては「隔世の感」と感じられる4ヶ月だが、「約束」は取り敢えず果たされた。

会場風景(参考): https://www.art-it.asia/top/admin_expht/211178?fbclid=IwAR3GFbCTzjnGhe_MeL_jKV3f-bDEB7sAmGzIZK7xALCG3eIlxbZPegffSds

 数ヶ月振りに展覧会に行くと、そのマナーが随分と変わっていた。半年前までであれば、展覧会の会場に入ってすぐに作品の前に立つ事も可能だったが、今は何よりも先に受付に行き、芳名帳への記入を求められる。以前の様に、それを後回しにする事や、記帳そのものを拒むという事は出来ない。「接触」のトレーサビリティをこそ最重要視するという点で展覧会記帳の意味が全く変わってしまい、従ってそれは嘗ての様に任意のもの、任意の形式のものではなくなった。筆名であっても本名に紐付けされなければならない。嘗ての形式をそのままに、本名の属性である連絡先という新たな個人情報の記入が加わった芳名帳が置かれている。そのインストールの方法論(置かれ方)だけは以前のままだ。果たしてこの芳名帳に「マスク」は必要ないのだろうか。簡便な非接触体温計による儀式が終わる。

 記帳が終わると、大理石の筐体を持つPCからプロジェクターに伸びる、宙に浮いて観客の動線を遮っているデータケーブルを、引っ掛けない様に気を付けて欲しいという旨の指示を受付氏から受ける。これは単に技術的にケーブルを長くする事が出来なかったのか、それとも広く「構想」としての「映え」的にこうなったのかと一瞬考えてみたりした。しかしその一方で、信号元の「大理石PC」から入口ドア入って右奥の書棚方向に出ているもう一系統のデータケーブルが、床面のコンクリートに相似した色のテープによって「見えない」様に「隠されて」いた事もあり、その「不徹底」に何か意味があるのではないかと、やはり一瞬考えてみたりはした。しかし結局それを考える事は、考え倦ねるに繋がりそうだったので止めにして、その「不自由」を「不自由」のまま、「苛々」を「苛々」のまま受け入れる事にする。そうした「許容」の態度、「追跡」を何処かで断念する態度が「ポストコロナ」的という事かもしれないと漫然と思い微苦笑した。都営新宿線車内のスマホで読んでいたキュレーター氏の文章にあった、「妥協を『約束の凝集(Com-Promise)』として、途方もなく前向きに考える」という部分が漫然と頭を過ぎる。

 渡された刷り物に目を通す。2015年10月1日に書かれたとされる作家のステートメントだ。情緒を感じるそれをざっと読み、それから脇にある会場平面図の入った別の刷り物も手に取る。こちらの相対的に乾いた解説文はキュレーター氏の手になるものだ。ふと思い立って、「石」という文字がこれらの文章に幾つ入っているのだろうかと大雑把に数えてみた。不正確かもしれないが24個をカウントした。一方、日本語の文字数にしてそれ程変わりのない作家ステートメントの方は2個だった。

 「石」と何回も言われれば、ついつい「石」を中心にものを見る事になってしまうというのが人情というものだ。「展覧会」タイトルの最初の文字からして「石」だし、出品作品3点の内2点のタイトルにも「石」関連が入っている(注1)。しかし正直なところを言えば、個人的に「石」に対してそれ程興味がある訳ではない。美大に入る時に「彫刻科/石彫」という選択肢は眼中に全く無かったし、「石」のみで何かを作ろうという事を思い付いた事もない。作品内で「石」を使用しようと思った事は2度程ある事はある。それは「石」を複数の「素材」の一つ、「石」を「材料」とする「部品」として扱うというものだったが、そのいずれも構想の段階で止めた。「石」は手に余る。

(注1)映像作品のそれは展覧会タイトルにもなっている。もう一点の作品タイトルには「tuff(凝灰岩)」が入っている。

 そんな事をもまた漫然と思い出しながら、「石器時代最後の夜」という大画面の映像を見る。「石」という言葉の「呪い」に掛かっている目は、それが「石に関する映像」だと思い込み、画面中の「石」ばかりを追っている。するとその「呪い」の副作用なのか、不意にドラえもんのタイムマシン的な漫然が頭に過ぎった。果たしてリアルな「石器時代」人がこの映像を見たらどう思うものだろうか。もちろん「映像(幻影)」をもたらすテクノロジーに、数百万年前から一万年程前の人々が驚嘆し、場合によっては恐怖すら感じる事は間違いないだろう。タイムマシンで召喚した「石器時代」人の目に自分のそれを同一化してみた。すると画面から「石」がすっかり後退した。それは「衛生に関する映像」と何度も言われても、画面を横切る「チキン」しか記憶に残っていないという人達(注2)の目でもあるのだろう。

(注2)「次に生じた現象は証拠資料としてたいへんに興味深いものだった。この衛生監視員である男はアフリカ原住民の部落内にある一般家庭で溜り水を除去するにはどうしたよいかを教示するため、ごく緩りとしたテンポで撮った映画を作ったのだった。まず水溜りを干し、空きかんをひとつひとつ拾って片づける、といった場面がつづく映画ができあがった。われわれはそのフィルムを映し、そのあとで彼等がなにを見たかを尋ねた。すると彼等はいっせいに鶏がいた、と答えた。ところが、映画を映して見せたわれわれのほうは鶏の存在に全く気付かなかったのである! そこでわれわれは用心深くフィルムのひと齣ひと齣をまわして問題の鶏を探しはじめた。はたせるかな、場面の隅を横切って走る一羽の鶏が見つかった。だれかが鶏をおどかしたらしく驚いて逃げる鶏の姿が画面の下方右手に見られた。それだけだった。フィルムを製作した男が見てほしいと思ったものはいっさい彼等の眼にとまらず、われわれが詳細に調べてみるまえには全く気付かなかったような事項を彼等は認めていたのである。」

“The next bit of evidence was very, very interesting. This man – the sanitary inspector – made a moving picture, in very slow time, very slow technique, of what would be required of the ordinary household in a primitive African village in getting rid of standing water – draining pools, picking up all empty tins and putting them away, and so forth. We showed this film to an audience and asked them what they had seen, and they said they had seen a chicken, a fowl, and we didn't know that there was a fowl in it! So we very carefully scanned the frames one by one for this fowl, and, sure enough, for about a second, a fowl went over the corner of the frame. Someone had frightened the fowl and it had taken flight, through the righthand, bottom segment of the frame. This was all that had been seen. The other things he had hoped they would pick up from the film they had not picked up at all, and they had picked up something which we didn't know was in the film until we inspected it minutely."

マーシャル マクルーハングーテンベルクの銀河系」(“The Gutenberg Galaxy":Marshall McLuhan)森常治訳

 「石器時代」というのは、基本的に「石」を加工するのに「石」をもってするしかない時代の事である。「石」と「石」とのぶつかり合いのみの世界。じゃんけんで言えば「グー」と「グー」のみの世界だ(注3)。そのじゃんけんの「あいこ」と「あいこ」の間(注4)にある微妙な「力」の差で「石器」は形作られる。それが「石器時代」人の常識だ。しかし大きな幕に映し出された画面/幻影の中の「石」は、「石」ではない別の「何か」によって軽々と穴を穿たれ、割られ、切断され、溝が掘られていく。一体「あれ」は何なんだ。「石器時代」人になった自分は「神の仕業」を見せられているのか?

(注3)「パー=紙」や「チョキ=鉄」が生まれるのは、人類史に於いて「グー」よりも遥かに後だ。

(注4)果たして「コロナ禍」なる事態は、人類がウィルスに対して「負け」続けているのだろうか。或いは最終的な人類の「勝ち」へと至る道程にあるのだろうか。それとも永遠の「あいこ」なのだろうか。

 「グー」対「グー」の時代を、「三時期法(Treperiodesystemet)」中の一区分である「石器時代(Steinalderen)」と名付け、概念付けたクリスチャン・ユルゲンセン・トムセン(Christian Jürgensen Thomsen)の、「北欧の出土品」から始まる歴史観の側にいる我々は、その「あれ」、その「何か」が、トムセン言うところの「鉄器時代(Jernalderen)」以降の「鉄」、及び時に炭化ケイ素や工業ダイヤモンドを纏ったその進化系である事を知っている。確かに「鉄」の登場以降、「石」は最強の存在である事から降ろされたのである。

 従って「鉄(チョキ)」が「石(グー)」に一方的に負けるじゃんけんでは何となくしっくりこないと思っていたその時、それを見ている自分の脳内に、今度は石塚運昇氏(故人)が漫然と降臨した。「SM」中盤までの、幾つかのシリーズのアニポケのラストで「ポケモン講座(川柳付き)」を行うオーキド博士である。「石器時代最後の夜」と題された同映像が、「石」(いわ)対「鉄」(はがね)の「バトル」に見え始めてきたのだ。

 ゲーム「ポケットモンスター」の「バトル」に於ける「タイプ」間の「相性」というのは、何一つとして「最強」のものは存在しないというじゃんけんの「竦み」システムの「更新」の一つとも言えるものであり、それはこの「紙幅」で説明するには凡そ足りない複雑なものではあるのだが、こと「石」(いわ)と「鉄」(はがね)のバトルに限って言えば、「いわ」は「ほのお」「こおり」「ひこう」「むし」に対して有利にダメージを与えられる一方で、基本的に「はがね」の攻撃に対しての耐性は低く、相手に与えるダメージも相対的に低い。「ポケモンバトル」が内面化されてしまった目から見る映像作品「石器時代最後の夜」は、確かに「最後の夜」に相応しく「いわ」が「はがね」に為す術もなく打ちのめされるバトルのドキュメンタリーにも見える。

 そのスクリーンの背面側にインストールされている石彫作品 “Double Log(Washinoyama tuff)" もまた、ブッシュ・ハンマーという「はがね」タイプの強力な「わざ」によってその肌を凹凸状にされ、加えて「炭化ケイ素のいし」や「工業ダイヤモンドのいし」を使って進化した「はがね」にぐるぐる(年輪状)の溝を彫られ、それが恰も戦闘不能になったポケモンの「ぐるぐる目」(注5)の様にも見えてしまったりする自分がいる。

(注5)アニポケに於ける戦闘不能状態の定型表現。

 「はがね」の圧倒的大勝利。「『いわ』の彫刻家」は「はがね」を使って「いわ」を加工する。「『いわ』の彫刻家」の仕事上のパートナーは、「楔」や「鑿」や「アンカードリル」や「ディスクグラインダー」や「リューター」等の「はがね」(注6)やその進化系であって、決して「いわ」ではない。ほぼ全ての「『いわ』の彫刻家」は、「『いわ』の彫刻」を制作するのに、「石器時代」人が彼等の「利器」を作る様に「いわ」を使用する事は無い。「『いわ』の彫刻家」とは、「はがね」に「わざ」の指示を与え「いわ」の形を改変する「はがね」の「トレーナー」だ(注7)。それは今日「彫刻家」(注8)と呼ばれている存在そのものが、事実上「鉄」の時代(Jernalderen)──少なくとも「銅」の硬度を「人工的」に増す事に成功した「青銅」(注9)の時代(Bronsealderen)──以降に成立したものだからだ。人類史上「『いわ』の彫刻=石彫」と呼ばれているもののほぼ全ては、「はがね」の使用によって生まれている。落ちている「石」を「アッサンブラージュ」して「立体物」を作る様なものを別にして。

(注6)「ディスクグラインダー」や「リューター」等は「でんき」とのタッグでもある。その「でんき」は、そこから遠く離れた顔も知らない「各位」によって、「その為」のみならず作られている。

(注7)恐らく「鑿」や「鋸」や「チェーンソー」等を使う「『木』(「くさ」タイプ)の彫刻家」も変わりはない。

(注8)仮に「泥団子」が「塑像」の原型であるとすれば、人類史に於いて「塑像」を作る者の登場は、「彫像」を作る者のそれよりも「古い」ものではあるだろう。「泥団子」に代表される「くるくる丸める」が、人類史に於ける「造形」の最も初期にある。それは、今日のインスタレーションやパフォーマンスのみならず、音楽や文学に至るまでも支配し続ける「肉付け法」(基本構造と細部)以前の造形原理である。そして「彫刻」が「帰還」する場所の一つは、恐らく掌の上──それが「アミュレット(護符)」である必要は些かも無い──の「泥団子」──「象ること」以前としての──なのだ。

(注9)人類史に於ける「銅」の登場が、本展「石器時代最後の夜」の「設定」の一つにある。しかし恐らく「銅」単体のみでは「はがね」とは言えない。「ドーミラー」(銅鏡)にしても「ドータクン」(銅鐸)にしても、それは「銅」に「錫」が加えられた「合金」の体を持つからこその「はがね」タイプなのである。

 改めて「大理石PC」の平滑な仕上がりを見て、「はがね」とその「トレーナー」の確かな仕事ぶりを認めてから、受付を回転軸とする会場の反対側へと向かった。

====

 「ハッピー・バースデー・トゥ・ユー」という楽曲が苦手だ。歌うのも歌われるのも聞くのも苦手だ。その苦手な楽曲が「展覧会」の会場にエンドレスで流れている。

 「ハッピー・バースデー・トゥ・ユー」というのは替え歌である。元歌は「グッド・モーニング・トゥ・オール」という幼稚園で歌われる歌だったという。「おはようございます、おはようございます、おはようかわいいこどもたち、おはようみなさん(Good morning to you, Good morning to you, Good morning, dear children, Good morning to all.)」というのがその歌詞だ。しかし天の邪鬼にこましゃくれた幼稚園児がいて、川田義雄の「地球の上に朝が来る その裏側は夜だろう」よろしく、「オールってなに?どこからどこまでがオールなの?地球の反対側の人は今おはようじゃないよね。じゃあグッド・モーニング・トゥ・オールっておかしくない?」と幼稚園の先生に質問/詰問するかもしれない。

 それはさておき、この19世紀アメリカ生まれの幼児向け楽曲「グッド・モーニング・トゥ・オール」は、20世紀にやはり幼児向けの「ハッピー・バースデー・トゥ・ユー」という「替え歌」になった後に世界各国に行き渡り、今では数十の言語に訳されている。例えば中国では「祝你生日快乐」として、韓国では「생일 축하합니다」として、ドイツでは「Zum Geburtstag viel Glück」として、フランスでは「Joyeux Anniversaire」として、イタリアでは「Buon compleanno ou Tanti auguri a te」として(以下略)、それぞれの土地でそれぞれの土地の言語で普通に歌われている。

 日本語訳の「 ハッピー・バースデー・トゥ・ユー(お誕生日おめでとう!)」も存在する事は存在する。「うれしいな今日は たのしいな今日は 誕生日おめでとう お歌を歌いましょう」(丘灯至夫訳詞)というのがそれだ。幼児向けの楽曲である事を踏まえた「お歌を歌いましょう」の歌詞であり、ここに丘灯至夫氏の確かな仕事ぶりを伺う事が出来る。しかしこの「お歌」を、幼少期、或いは成人になって日本語歌詞で歌った経験のある日本人は数える程しかいないだろう。

 日本で現在の様な「誕生日を祝う」習慣が一般に広まったのは、第二次世界大戦後の事だ。そもそもそれ以前の日本人の年齢のデフォルトは「数え年」であり、従ってほぼ全ての日本人の年齢が繰り上がるのは「1月1日」だったのである。日本では長きに渡って「明けましておめでとう」がそのまま「誕生日おめでとう」を意味していて、当然「バースデー・ケーキ」が出てくる幕は全く無く、「歳神」を「餅」で迎えた後に、その「餅」に宿る「魂」を分配するという「神事」の一部が日本の「誕生日」だった。今日の意味での「個人の生誕日を祝う」という習慣が日本人に内面化された切っ掛けの大きなものの一つは、事実上の数え年禁止令である「年齢のとなえ方に関する法律」(現行法;1950年1月1日施行)(注9)と言って良いだろう。

(注9)「この法律施行の日以後、国民は、年齢を数え年によつて言い表わす従来のならわしを改めて、年齢計算に関する法律明治35年法律第50号)の規定により算定した年数(一年に達しないときは、月数)によつてこれを言い表わすのを常とするように心がけなければならない。」(「年齢のとなえ方に関する法律」第1項)
「政府は、国民一般がこの法律の趣旨を理解し、且つ、これを励行するよう特に積極的な指導を行わなければならない。」(同法附則第2項)

 同法の制定理由の一つに「国際性向上」というものがある。それが言われたのは「オキュパイド・ジャパン」(連合国軍占領下)の頃だ。GHQが主導する「国際」性の前にあっては、日本の「土俗」は否定されなければならない。「祖霊」崇拝がエンペラーに繋がってしまう様な「悪習」は排除されねばならない。斯くして正月から切り離される事で、日本人の「誕生日」の概念は「国際」化される事になり、アメリカ経由のヨーロッパ式「バースデー・ケーキ」もまた、それに伴ってGHQ政策の下移入される事になる。そしてその様な「国際」の「様式」に則る事こそが、日本に於ける輸入文化としての「(日本の)誕生日」では重要になって行く。

 こうして戦後日本では、当時の日本が置かれた「政治」的な判断故に「国際」性を表す「英語」でのみ「ハッピー・バースデー・トゥ・ユー」が歌われる(注10)事になるのだが、しかしそこには大きな罠が潜んでいる。成人を含む日本人が集まり「ハッピー・バースデー・トゥ・ユー」が歌われる時、その英語は殆どの場合日本語訛りでなければならない。如何に「ネイティブ」ばりに英語が「堪能」であったとしても、そうした日本人同士の集まりで「本物」の英語で歌う事は躊躇われる。“happy" は “ˈhæ.pi” ではなく「法被(はっぴ)」、“birth" は “bɜːrθ”(US)ではなく嘗てのプロ野球阪神タイガース選手の名前の如く「バース(ばーす)」、“day" は “déi” ではなく「泥(でい)」、“to" は “tʊ" ではなく(しばしば)「通(つう)」、“You" は “ju” ではなく「遊(ゆう)」と発音せねばならない。そこでは決して「日本人の平均」から逸脱/突出してはならない。「誕生日」に於ける日本人は、周囲を見渡し「平均」の中に身を埋める様に自分を再定位し直す「賢さ」が求められるのだ。

(注10)Wikipedia 英語版の “Birthday cake" には、“though the "Happy Birthday" song is often sung while the cake is served in English-speaking countries, or an equivalent birthday song in the appropriate language of the country.”(英語圏の国ではケーキの提供と共に「ハッピー・バースデー」の歌が歌われる事が多いが、その国の適切な言語でそれに相当する誕生日ソングが歌われる事もある) 
とある。そして英語圏ではない日本に於ける誕生日ソングの「適切な言語」は事実上 “Engrish" である。

 そうしたローカルな掟を前にしては、TOEIC Speaking Test(例)も ECC(例)も何の役にも立たない。日本に於ける「国際」の「様式」の下にあっては、多くの場合 “Happy Birthday to You" を「全員が等しく同程度に日本語訛りした英語で歌う」という同質性こそが求められる。それによって同族である事を確認し合う儀式とするのだ。その「様式」的な歌唱の後に、「様式」通りに作られた「バースデー・ケーキ」に、「様式」通りに立てられた蝋燭の火を、祝われる者が「様式」通りに吹き消し、吹き消したところで周りの人間の誰かが、高島忠夫的「国際」の発音「様式」で「イェーイ!!」と言いながら「様式」通りにノッたりするところまでが、多くの日本人が考える「国際」的な「誕生日」のパッケージである。

 仮に祝われる者が実際には「ケーキ」を全く好まない人物であったとしても、祝う側は「ケーキで祝う」という「国際」の「様式」を前提に事を進めるばかりであり、また祝祭の主役となるべき筈の者も「皆に悪いから」という理由で「ケーキを好まない」事を周囲に隠そうとすらする。今日の日本の「誕生日」は、日本人が考える「国際」の様々な「様式」が支配する場の一つだ。自分が「法被バース泥通遊」を苦手とする大きな理由の一つは、こうした「様式」の専制による「空気」(山本七平)に耐えられないというところにある。自分が「帰還」するべきところはその様な場所ではない。

 1997年の「第4回ミュンスター彫刻プロジェクト」で主に撮影されたとされる作品 “Birthday Party 1965-2020" で歌われている “Happy Birthday to You" にもまた、「日本語訛りの英語」のものが少なからず混じっている。英語圏ではない人達の集まっていると思しき幾つかのテイクは、その人達の母国語で歌われているであろうバージョンも含まれているが、一方で決して日本語の「お歌を歌いましょう」が流れる事は無い。「法被バース泥通遊」の人達以外の「ノり」が多様──それこそが本来的な国際というものだ──である一方で、「法被バース泥通遊」の人達の「ノり」は「様式」に則ったものの様に見える。確かに「誕生日」というものは「個人的なこと」であるには違いない。しかしそれはまた常に祝祭の「様式」、ひいては「個人」そのものの「生誕日」を祝祭の対象とする「概念」という形で「共同体」によって規定されるものでもある。

 「誕生日」は、自分を生んだ母親に感謝する日であるとする見方もある。嘗ての日本の「誕生日」(元旦)は、祖霊──自分の生に繋がっているもの──に感謝する日でもあり、それは換言すれば自分を取り巻く周囲に感謝/畏敬するという側面を持っていた事は確かだ(注11)。「誕生日」を「個人的なこと」とするのも、既に「様式」ではあるのだ。そうして改めて同作品を「引いた」目──先程の「石器時代」人の目が残っている──で見てみれば、その中で行われている事もまた「様式」による「定型」の凝集の様にも映る。

(注11)日本では、その「自分の生に繋がっているもの」が「一族」(「『有史』以来続くとされる『一族』」含む)視され、その「一族」観の下に「法被バース泥通遊」も連なっているという側面もある。

 祝われる「個人」の名が記された食べられる「記念物(モニュメント)」としての「バースデー・ケーキ」が当人を伴って中心にあり──本来は「当人が『バースデー・ケーキ』を伴って」と言うべきところなのだろうが──、その周囲に人々が集って祝祭空間を作る。「ケーキ」を、独立した造形表現としての「彫刻」として見る者は彫刻家をも含めて存在しない。パティシエがホイップクリームの造形に幾ら工夫を凝らしても、それは建築に於ける漆喰レリーフの様にしか見做されない。ビュッシュ・ド・ノエルを、「彫刻」作品 “Double Log(Washinoyama tuff)" (注12)の様には誰も見ない。「ケーキ」はその意味で、建築の付属物からの「自立」に成功した「彫刻」の、嘗ての位置にあるものだ。

(注12)同作品が、例えば建築の破風にエルギン・マーブルの如く埋め込まれていたら、果たしてそれはどの様に見えるものであろうか。

 建築は、それによって内部と外部を生じさせる装置(注13)でもある。「通常多くの人々の心のなかで建築芸術の対象となっている」(ハーバート・リード「彫刻とはなにか」宇佐見英治訳)建築の意匠は、その外形すらその殆どが外部からの要請によるものではなく、内部の表出という形を取る(注14)。そしてその内部の表出としての建築は、原理上「公共」の空間内に建てられる。しかし「公共」空間が広大な建築空間として捉えられる様な場所、例えば都市計画の対象としてであったり、王侯の下にあるとされる様な都市にあっては、「公共」は容易に内部空間と化す。広場は広間になる。

(注13)「安全な『内部』」と「危険な『外部』」の対称性は、例えばお伽噺「三匹の子豚」にも見られるものであり、「コロナ禍」にあって「ステイ・ホーム」という形でそれが反復されたのは記憶に新しい。しかしその一方で「マスク」はその対称性を壊乱させている。自分は「伝染(うつ)される者」であると同時に、潜在的な「伝染(うつ)す者」であるという両義性がそこにある。内部と外部は共に「危険」で統一されたのだ。そして「密」になる建物の中こそが最も危険な場所(家族内感染やクラスター等)という形で、建築はすっかり反転され破壊されたのである。

(注14)内部の表出としての建築の最近のものの一例として、「景観論争」を引き起こした楳図かずお氏私邸「まことちゃんハウス」がある。同邸を訪れた竹熊健太郎氏は「建物自体がまぎれもなく100%純粋な楳図作品」とリポートしているが、多かれ少なかれ建築は内部が外部に露出する装置──時にそれは「作品」とすら呼ばれる──の一つである。因みに「まことちゃんハウス」のファサード部分にも「まことちゃん」の「彫刻」がインストールされている。

 「彫刻」は常にそうした内部に属して来たものだ。ハーバート・リードが言う様に、長く「彫刻」は現実的な建築の中、或いは上に留め置かれていて、建築と結合するしかない存在だった。やがて建築の外部だった空間が、建築概念の拡大とともに建築の内部と見做される様になると、「彫刻」は「町の中」という「家の中」に拡散する事になる。「広場/広間」に「彫刻」が林立するのは、「公共」空間の「建築」化と並行して行われる。

f:id:murrari:20201015084954j:plain
f:id:murrari:20201015085057j:plain

 「コロナ禍」と並行して進行したとも言えるのが、2020年5月26日のジョージ・フロイド氏の死に端を発して再び大きく燃え上がったBLMを始めとした「有色人種」の権利回復運動だろう。その運動の象徴的行為として、「有色人種」に対する差別/収奪/搾取に貢献/加担した人物が象られた「彫刻」を破壊、上書きするというものがあった。そのいずれもが、それらが建つ場所──「非ヨーロッパ」(或いは「非ヨーロッパ」化しつつあるヨーロッパ)──をヨーロッパの「広間」或いは「別館」としてきた人々によってインストールされた、「バースデー・ケーキ」の如き「記念碑」だ。ヨーロッパこそが「公共」を実現する唯一無二の体現者であるとするナイーヴな信憑が、「バースデー・ケーキ」を世界中の都市(大きなおうち)にインストールしてきたのである。そして今、世界は「西暦(Anno Domini)」と呼ばれる「バースデー・パーティー」の中に参加させられている。

 「それにしても」と「石器時代」人の自分は思う。この映像に映っている人達は、誰も彼もが「老人」ばかりではないか。「石器時代」人の平均寿命は15歳だったという。「コロナ禍」にあって引き合いに出されたりもした鳥人チキン・ジョージ」氏(及び「エクトプラズム」)の「14歳で終わる」は、そのままの意味としては「石器時代」人にとっては極めて「当たり前」の話である。地球という「過酷」な環境にあって、15歳が人類の寿命の基礎部分であるとするならば、その15歳を現在の数十歳まで無理矢理ブーストさせたものの一つに、その都度の感染症を始めとした地球環境の「克服」というものも上げられるだろう。15歳(NA)で死なない我々は、スーパーチャージャーターボチャージャーといった過給器の搭載、ジェットエンジンへの換装、及び路面への松脂塗布等で、「パワー」をとことんまで稼ぐ車の様な「畸形」なのだ。

f:id:murrari:20201015085424j:plain

 さてもそろそろ潮時である。このギャラリーを出て、再び町に出るとしよう。そう思い、ギャラリーのゲートを潜り抜け、地上階へと続く階段に足を掛ける。その瞬間、数ヶ月前と比べてもう一つ、最も重要な相違点があった事にまざまざと気付かされる。

 階段を上がるのがとてもキツい。

 半年前なら平気の平左と思われていた数十段の階段が、現時点の自分に於ける人生の大きな障害の最も大きなものの一つとして立ちはだかっている。「石器時代」人の数倍の時間を生きている身だから、上り階段がキツいのは当然だ。仕方がない。何とか上がった踊り場で微苦笑に次ぐ微苦笑。しかしずっと微苦笑していても何も始まらない──と言うか帰れない──ので、残りの階段をゆっくりと上がる。そう言えばこの「連載」も「老い」から始まっていたのだった。「老い」というのは、自分自身に内在している「不随意」──自分の殆どは「不随意」で構成されている──に悩まされたりするというものでもある。ここでもまた「コロナ」か。

====

 別にそれを参考にする等ではなく、或いは殊更にそれとの差異を際立たせようというつもりもなく、自分と似た様な反応を発見して安堵する訳でもなく、他人はそれをどう見てどう考えているのだろうという興味から、自分が見て来た展覧会のレビューや感想をネット検索したりする。

 この展覧会が始まってから半月以上(見た日現在)も経っているから、それらが幾つかヒットするだろうと思っていたものの、検索条件を幾ら代えても以前の様にはヒットしない。ツイッタランドを検索しても、ヒットするのは当事者やその近くにいる者によるインフォメーションや報告ばかりだ。

 試しに「コロナ禍」以後の数ヶ月の間に行われた別の展覧会のものも検索してみた。結果はやはり同じ様なものだった。この数ヶ月で、展覧会の意味がこうした面でも変わってしまったのだろうか。以前に比べて相対的に「レスポンス」に欠ける展覧会が、それでも開かれる理由は何だろう。もしかしたら、そこに出口/入口の一つが開いているのかもしれない。

【続く】(石塚運昇氏のナレーションで)