(注3)実物の「泉」はショーには出品されず、それはニューヨークのダダイストの同人誌 "The Blind Man" 第2号に掲載された網点印刷写真(アルフレッド・スティーグリッツによるスタジオ撮影)と、そこに添えられた「抗議文」("The Richard Mutt Case")等のステートメントによって、言説的フィギュアとして「事実」(fact)化された。
「泉」が「発表」された、ニューヨーク・マンハッタン島、レキシントン・アヴェニューの西側、46丁目と47丁目の間、グランド・セントラル・ステーションのヤードの上に建っていた13階建てのグランド・セントラル・パレス(現 245 Park Avenue)は、様々な見本市や品評会が行われるコンベンションホールだった。同所で行われた主な展示会には以下のものがある。国際フラワーショー、グレーター・ニューヨーク家禽博覧会、ウェストミンスター・ケンネルクラブ・ドッグショー、スポーツマンズ&バケーションショー、全米写真ショー、国際美容室オーナー大会、冷凍食品博覧会、全米プラスチック博覧会、国際繊維博覧会、全米モダンホーム博覧会、米国医師会博覧会、全米モーターボートショー、ニューヨーク自動車ショー等々(注4)。現在では「泉」騒動以外に全く言及される事のない独立芸術家協会(Society of Independent Artists)の第1回年次展(First Annual Exhibition)もまた、それら催事の中の一つであり一つでしかなかった。
独立芸術家協会年次展の第2回展(1918年4月20日〜5月12日)は、グランド・セントラル・パレスとは別の会場(110-114 West 42nd Street:現1095 Avenue of the Americas)に移り、第3回展(1919年)からはニューヨークの最高級ホテル、ウォルドルフ=アストリア(Waldorf-Astoria)に暫時落ち着く事になる。ニューヨークの独立芸術家協会が掲げる "No Jury - No Prizes" によって必然的に生じる、作品発表の欲望のマスボリューム("First Annual Exhibition" では約2,000点)を勢力/影響力として見せ付ける展示会が、社会に出回っている余剰資金(=「美術」の顧客)がより集中するゴッサムのセレブリティのホテルへと嗅覚鋭く移った頃、年次展が去った後のグランド・セントラル・パレスは、「泉」騒動の翌年の1918年9月にアメリカ政府に貸与され、1919年の4月まで第一次世界大戦の傷病兵向けの臨時病院(U.S. Debarkation hospital No.5)へと変貌した。「非日常」的な演出が施された「展示」を行うアメリカ各地の催事場は、軒並みリアルな「非日常」の空間になる。独立芸術家協会第1回展の会期中を通して「泉」が放置されていたとされるパーティション裏には、その1年後に傷病兵が横たわっていたのかもしれない(注5)。
(注5)因みに第一次世界大戦の戦死者の2/3は戦闘によるものであり、残りの1/3はスペイン風邪等の疾病によるものであったという。ニューヨークの独立芸術家協会のベースとなったパリの独立芸術家協会(Société des Artistes Indépendants)の展覧会場はグランパレ・デ・シャンゼリゼだったが、そこもまた第一次世界大戦を通して軍病院として使用されていた。この期間(1915〜1919年)パリの独立芸術家協会展が行き場を失い開催されなかった為に「美術史」的不連続が生じ、その一方で第一次世界大戦の実際の「戦場」から遠く離れたニューヨークが、パリ不在の合間を縫って「美術史」上の地位を向上させる事になる。デュシャンが、パリからニューヨークに活動の軸足を移した(移住した)のは、ヨーロッパの戦場化に伴う「美術」界に於けるパリの「地位低下」の最初の開始年である1915年だった。
(注10)「オーディエンス」に手拍子を求めるパフォーマンスを最初に行ったとされる元三段跳び世界記録保持者のウィリー・バンクスは、1981年のローザンヌの陸上競技会から三段跳び種目を外した大物プロモーターにその除外の理由を質した。それに対してプロモーターは「これはビジネスなのだから、観客席が埋められない様なものにどうして金を掛けなければならないのか(This is a business, so why should I pay you when you don't put butts on seats?)」と返した。バンクスは「それは、私がビジネスとしての陸上競技に入る切っ掛けになり、そのおかげで単に競技する事とスポーツビジネスとは大いに異なるという教訓を得る事が出来た(That was my welcome to the business of track and field, which taught me a huge lesson that there is a difference between about just competing in athletics and the business of sport.)」と語っている。
“The next bit of evidence was very, very interesting. This man – the sanitary inspector – made a moving picture, in very slow time, very slow technique, of what would be required of the ordinary household in a primitive African village in getting rid of standing water – draining pools, picking up all empty tins and putting them away, and so forth. We showed this film to an audience and asked them what they had seen, and they said they had seen a chicken, a fowl, and we didn't know that there was a fowl in it! So we very carefully scanned the frames one by one for this fowl, and, sure enough, for about a second, a fowl went over the corner of the frame. Someone had frightened the fowl and it had taken flight, through the righthand, bottom segment of the frame. This was all that had been seen. The other things he had hoped they would pick up from the film they had not picked up at all, and they had picked up something which we didn't know was in the film until we inspected it minutely."
「ハッピー・バースデー・トゥ・ユー」というのは替え歌である。元歌は「グッド・モーニング・トゥ・オール」という幼稚園で歌われる歌だったという。「おはようございます、おはようございます、おはようかわいいこどもたち、おはようみなさん(Good morning to you, Good morning to you, Good morning, dear children, Good morning to all.)」というのがその歌詞だ。しかし天の邪鬼にこましゃくれた幼稚園児がいて、川田義雄の「地球の上に朝が来る その裏側は夜だろう」よろしく、「オールってなに?どこからどこまでがオールなの?地球の反対側の人は今おはようじゃないよね。じゃあグッド・モーニング・トゥ・オールっておかしくない?」と幼稚園の先生に質問/詰問するかもしれない。
(注10)Wikipedia 英語版の “Birthday cake" には、“though the "Happy Birthday" song is often sung while the cake is served in English-speaking countries, or an equivalent birthday song in the appropriate language of the country.”(英語圏の国ではケーキの提供と共に「ハッピー・バースデー」の歌が歌われる事が多いが、その国の適切な言語でそれに相当する誕生日ソングが歌われる事もある) とある。そして英語圏ではない日本に於ける誕生日ソングの「適切な言語」は事実上 “Engrish" である。
そうしたローカルな掟を前にしては、TOEIC Speaking Test(例)も ECC(例)も何の役にも立たない。日本に於ける「国際」の「様式」の下にあっては、多くの場合 “Happy Birthday to You" を「全員が等しく同程度に日本語訛りした英語で歌う」という同質性こそが求められる。それによって同族である事を確認し合う儀式とするのだ。その「様式」的な歌唱の後に、「様式」通りに作られた「バースデー・ケーキ」に、「様式」通りに立てられた蝋燭の火を、祝われる者が「様式」通りに吹き消し、吹き消したところで周りの人間の誰かが、高島忠夫的「国際」の発音「様式」で「イェーイ!!」と言いながら「様式」通りにノッたりするところまでが、多くの日本人が考える「国際」的な「誕生日」のパッケージである。
1997年の「第4回ミュンスター彫刻プロジェクト」で主に撮影されたとされる作品 “Birthday Party 1965-2020" で歌われている “Happy Birthday to You" にもまた、「日本語訛りの英語」のものが少なからず混じっている。英語圏ではない人達の集まっていると思しき幾つかのテイクは、その人達の母国語で歌われているであろうバージョンも含まれているが、一方で決して日本語の「お歌を歌いましょう」が流れる事は無い。「法被バース泥通遊」の人達以外の「ノり」が多様──それこそが本来的な国際というものだ──である一方で、「法被バース泥通遊」の人達の「ノり」は「様式」に則ったものの様に見える。確かに「誕生日」というものは「個人的なこと」であるには違いない。しかしそれはまた常に祝祭の「様式」、ひいては「個人」そのものの「生誕日」を祝祭の対象とする「概念」という形で「共同体」によって規定されるものでもある。
「侵略」や「虐殺」をもたらす「正しい道」。それは時に、「動機」や「信念」や「邪心」や「悪魔」的意図を全く欠いた、それでいて「悪」としか言えないものとして現れる。例えば今日的な社会に於ける「平凡な人」(「一般人」/「庶民」/「小市民」=凡そ「ジョーカー」的な「怪物」や「サイコパス」とは程遠いと思われている「善人」(=「善(「正しい」道の)人」)が、「平凡」な「善人」そのままで/「平凡」な「善人」そのままであるが故に、「結婚記念日に妻に送る花束を花屋で買う」様な己の「私生活」を、己が属する組織内に於ける「出世」によって「維持」/「向上」させたいという極めて──「エンターテイメント映画」映えしない──「些細」で「平凡」な理由から、人類史に於ける最大級の「悲惨」として記憶される「大量虐殺」に容易に加担し得る事を「記録」したものの一つが、それを元に映画(注1)化もされたハンナ・アーレント(Hannah Arendt)の「エルサレムのアイヒマン──悪の陳腐さについての報告」(“Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil")に記されている(注2)。
(注1)因みにこの紫煙燻る映画「ハンナ・アーレント」(“Hannah Arendt": 2012年)では、「エルサレムのアイヒマン──悪の陳腐さについての報告」が初出された「ザ・ニューヨーカー」誌の編集部に掛かって来た半世紀以上前の「電凸」も描かれている。恐らく、アーレントによる所謂「アイヒマン裁判(Eichmann Trial)」の「レポート」──の、特にナチ時代のユダヤ人指導者(「ユダヤ人評議会」;“Jewish council"/“Judenrat")の振る舞いを記述した箇所──が、少なからぬ読者(「読んでもいない者」を多数含む)に「ユダヤ人の心を踏みにじるようなもの」と受け止められたのだろう。映画の中で、「ザ・ニューヨーカー」誌編集長ウィリアム・ショーンが対応した「苦情」は、「こんな記事を出す権利などない!(“You have no right to bring these issues out in public. ...")」、「ゴミよ!(“... is crap!")」といったものである。
(注2)「アイヒマン裁判」でも明らかになった様に、アドルフ・アイヒマン自身は、「ユダヤ人」に対する「憎悪」故に「大量虐殺」に加担した訳ではない。彼にとっての「大量虐殺」は、チャーリー・チャップリンの映画「モダンタイムス」(1936年)に於いて、製鉄工場の「工員」としての「就業」中に、ネジというネジを強迫的にスパナで締め続ける主人公チャーリーに於ける「タイムカード」(“9 to 5")的な「労働」なのである。「製鉄工員チャーリー/SS隊員アイヒマン」にとっては、螺子を締める/大量虐殺する「労働」そのものが「俯瞰」(「ロング・ショット」)的に見て「善」であるか「悪」であるかは、彼の与り知るところではない。
アーレントの “Organized Guilt and Universal Responsibility"(「組織的な罪と普遍的な責任」1948年)の中に、ナチの「主計官(“paymaster")」に対する「ユダヤ電信局」(“Jewish Telegraph Agency: JTA)の特派員、レイモンド・A・デイビスのインタヴュー──エイヴラム・ノーム・チョムスキーの “The Responsibility of Intellectuals"(「知識人の責任」:1967年)にも、ドワイト・マクドナルド経由で引用されている──が取り上げられている。
Q. Did you kill people in the camp? A. Yes. Q. Did you poison them with gas? A. Yes. Q. Did you bury them alive? A. lt sometimes happened. Q. Were the victims picked from all over Europe? A. I suppose so. Q. Did you personally help kill people? A. Absolutely not. I was only paymaster in the camp. Q. What did you think of what was going on? A. It was bad at first but we got used to it. Q. Do you know the Russians will hang you? A. (Bursting into tears) Why should they? What have I done?
強制収容所での虐殺、ガス室送り、生き埋め等々に加担したかという問いに “Yes" と即答する「(只の:only)主計官」は、最後に「私が(絞首刑に値する様な)何をしたというのだ」と涙混じりに答える。アーレントはこの引用に続けて反語的に「確かに彼は何もしなかった(“Really he had done nothing.")」と書く。その “do(done)"(「する(した)」)とは何を意味するものなのだろうか。
「アホでなにが悪いんや」は、通常は「買い言葉」(“tit")的に発せられる。その「買い言葉」が呼応している「売り言葉」(“tat")は、「買い言葉」の発話を誘発された者に対して「アホ」認定したものと想像される。即ち「お前は『アホ』である(“You are Fool")」及びそれに類する言葉が「先手」として存在し、その「攻め」に対して「アホでなにが悪いんや」が「後手」として発せられる。「アホでなにが悪いんや」は「他者」との応答関係の中で生まれた言葉だ。凡そ地球上に自分一人しかいないという様な状況で、「アホでなにが悪いんや」を発する場面そのものを想像する事は困難だ。
「アホ」である事が、全ての人間の避け難い「宿命」の一つであるならば、「お前は『アホ』である」という非難は、それを発した者にそのまま帰ってくるブーメランだ。即ちそれは「お前は『アホ』である。そして私も『アホ』である」という事であり、その順序を入れ替えれば、「私は『アホ』である。そしてお前も『アホ』である」となる。どちらの言い方がよりエレガントであるかは置くとしても、いずれにしても「理性」としての「賢さ」(≠「賢しら」)は、「アホ」な「私」と「アホ」な「お前」の間に打ち立てられる。「お前」を勘定に入れない「私」は存在せず、「私」を勘定に入れない「お前」は存在しない。そしてそれこそが、「民族」や「国民」等といった「もともと特別な Only one」の平面上に立体的に築き上げられる、概念としての「世界市民(Weltbürger)」(「世界」に共生する一人)の根本を成す原理なのである。
「純粋理性批判」の刊行から3年後、「60歳」の「老人」になった「プロイセン王国(Königreich Preußen)」の哲学者イマヌエル・カント(Immanuel Kant)(注4)が著した「啓蒙とは何か──『啓蒙とは何か』という問いに答える(“Beantwortung der Frage: Was ist Aufklärung?")」(1784年)(注5)には、“Unmündigkeit"(「未成年」)という言葉が出てくるが、これは恐らくその意味での「アホ」とも訳し得る語だ。
(注5)前稿で引用したジル・ドゥルーズ(66歳)=フェリックス・ガタリ(61歳)の「哲学とは何か」(“Qu'est-ce que la philosophie?")と、イマヌエル・カント(60歳)の「啓蒙とは何か」((“Beantwortung der Frage: Was ist Aufklärung?")には、重なり合う「同じ事」が書かれている。
Aufklärung ist der Ausgang des Menschen aus seiner selbst verschuldeten Unmündigkeit. Unmündigkeit ist das Unvermögen, sich seines Verstandes ohne Leitung eines anderen zu bedienen. Selbstverschuldet ist diese Unmündigkeit, wenn die Ursache derselben nicht am Mangel des Verstandes, sondern der Entschließung und des Muthes liegt, sich seiner ohne Leitung eines andern zu bedienen. Sapere aude! Habe Muth dich deines eigenen Verstandes zu bedienen! ist also der Wahlspruch der Aufklärung.
Faulheit und Feigheit sind die Ursachen, warum ein so großer Theil der Menschen, nachdem sie die Natur längst von fremder Leitung frei gesprochen (naturaliter majorennes), dennoch gerne Zeitlebens unmündig bleiben; und warum es Anderen so leicht wird, sich zu deren Vormündern aufzuwerfen. Es ist so bequem, unmündig zu sein. Habe ich ein Buch, das für mich Verstand hat, einen Seelsorger, der für mich Gewissen hat, einen Arzt der für mich die Diät beurtheilt, u. s. w. so brauche ich mich ja nicht selbst zu bemühen. Ich habe nicht nöthig zu denken, wenn ich nur bezahlen kann; andere werden das verdrießliche Geschäft schon für mich übernehmen. Daß der bei weitem größte Theil der Menschen (darunter das ganze schöne Geschlecht) den Schritt zur Mündigkeit, außer dem daß er beschwerlich ist, auch für sehr gefährlich halte: dafür sorgen schon jene Vormünder, die die Oberaufsicht über sie gütigst auf sich genommen haben. Nachdem sie ihr Hausvieh zuerst dumm gemacht haben, und sorgfältig verhüteten, daß diese ruhigen Geschöpfe ja keinen Schritt außer dem Gängelwagen, darin sie sie einsperreten, wagen durften; so zeigen sie ihnen nachher die Gefahr, die ihnen drohet, wenn sie es versuchen allein zu gehen. Nun ist diese Gefahr zwar eben so groß nicht, denn sie würden durch einigemahl Fallen wohl endlich gehen lernen; allein ein Beispiel von der Art macht doch schüchtern, und schrekt gemeiniglich von allen ferneren Versuchen ab.
Es ist also für jeden einzelnen Menschen schwer, sich aus der ihm beinahe zur Natur gewordenen Unmündigkeit herauszuarbeiten. Er hat sie sogar lieb gewonnen, und ist vor der Hand wirklich unfähig, sich seines eigenen Verstandes zu bedienen, weil man ihn niemals den Versuch davon machen ließ. Satzungen und Formeln, diese mechanischen Werkzeuge eines vernünftigen Gebrauchs oder vielmehr Mißbrauchs seiner Naturgaben, sind die Fußschellen einer immerwährenden Unmündigkeit. Wer sie auch abwürfe, würde dennoch auch über den schmalesten Graben einen nur unsicheren Sprung thun, weil er zu dergleichen freier Bewegung nicht gewöhnt ist. Daher giebt es nur Wenige, denen es gelungen ist, durch eigene Bearbeitung ihres Geistes sich aus der Unmündigkeit heraus zu wikkeln, und dennoch einen sicheren Gang zu thun.
「啓蒙とは何か──『啓蒙とは何か』という問いに答える(“Beantwortung der Frage: Was ist Aufklärung?"):中山元訳
カントの「啓蒙と何か」に於いて、「賢者」は「なんともご親切なことに他人を監督するという仕事をひきうけた人々(“die die Oberaufsicht über sie gütigst auf sich genommen haben.")」としての「後見人(“Vormünder"=「保護者」)」と皮肉交じりに表現されている(注6)。そして「自分を『賢い存在』として見せたくて見せたくて堪らない人」としての「後見人」は、それを頼る者を “Gängelwagen"(歩行器)に乗った「バブバブ」な「イクラちゃん」状態=“Unmündigkeit"(「未成年」)と見做し、且つそのポジション/ロールに彼等/彼女等を留め置く事で、「人々を啓蒙する」=「ワタシ啓かれる人/ボク啓く人」という構造を維持しようとする。その一方で「イクラちゃん」は「イクラちゃん」で、自ら「啓かれる人」のポジション/ロールにある事に自足する。
(注6)それは落語に於ける「賢者」(「横丁のご隠居」)の笑うべき生態でもある。チャーリー・チャップリンに倣って言えば、それは “Life is a serious drama when seen in close-up, but a comedy in long-shot."(「人生はクローズ・アップで見ればシリアス・ドラマ(「賢者」のドラマ)だが、ロング・ショットで見れば喜劇(「アホ」のドラマ)である」)となるだろうか。しかしまた「ロング・ショット」的な観点に立って物事を見る事自体を「許さない」社会=「クローズ・アップ」ばかりを強要される社会というものも存在する。
〈美術〉(∋「美術」)にとって「展覧会」は必ずしも必須のものではないが、それでも「美術」に於けるそれが一定の意味を持つのは、それに接した者に、自身が「アホ」(常に何事かを知らない者(注9))である事を思い起こさせ、「アホ」の状態から自ら抜け出す「機会」となる「共有」の場だからだ。「美術コミュニティ」の中には「後見人」或いは「賢者」的に振る舞いたい欲望を持つ者も数多く存在し、彼等は彼等で「饒舌」の限りを尽くして、「観客」に対して「啓蒙」を「行って」いると思い込む可憐に陥ったりするのだが、しかし「美術」に於いて(も)最も重要なのは、「自分の精神をみずから鍛えて、『アホ』状態から抜けだすこと(“durch eigene Bearbeitung ihres Geistes sich aus der Unmündigkeit heraus zu wikkeln")」という、他でもない「展覧会」に接した者が、「展覧会」そのものによって自分が「アホ」である事を(再)認識し、「みずから(“eigene")」発動させる、「この『アホ』状態から抜けだしたい!」という「意志」の存在なのである。そして、そうした「意志」が存在しないところでは、「美術」は全くの「無意味」且つ「無価値」なものになるしかない。「展覧会」は「先を走る」とされている者の営為を「拝見」する場ではないのだ。
「呼吸器官」(organ)の「病」に犯されていた、巷間「ジル・ドゥルーズ」として知られていた「70歳」の「老人」が、フランス共和国パリ17区のアパルトマン(84 Avenue Niel)3階のベランダから自ら身を投じて生涯を終える4年前の1991年、当時「61歳」──翌年「62歳」で「循環器官」(organ)の発作により他界──の「老人」フェリックス・ガタリと著した最後の共著は、「哲学とは何か(“Qu'est-ce que la philosophie")」と題されている。
「東西冷戦構造」という「20世紀」(注1)的な「対立」の「形式」の「崩壊」(注2)を、「全世界」的に印象付けたとされるイメージの一つ、“Alle Menschen"(すべての人)(注3)に対する呼び掛けを歌い上げ、オリジナルの “Freude"(「歓喜」) を “Freiheit"(「自由」)に置き換えたレナード・バーンスタイン指揮によるシラー/ベートーヴェンのニ短調交響曲が流通/消費されてから2年後に著された同書の「序論 こうして結局、かの問は……」(Ainsi donc la question…)は、以下の様に書き始められている。
Peut-être ne peut-on poser la question Qu’est-ce que la philosophie ? que tard, quand vient la vieillesse, et l’heure de parler concrètement. En fait, la bibliographie est très mince. C’est une question qu’on pose dans une agitation discrète, à minuit, quand on n’a plus rien à demander. Auparavant on la posait, on ne cessait pas de la poser, mais c’était trop indirect ou oblique, trop artificiel, trop abstrait, et on l’exposait, on la dominait en passant plus qu’on n’était happé par elle. On n’était pas assez sobre. On avait trop envie de faire de la philosophie, on ne se demandait pas ce qu’elle était, sauf par exercice de style ; on n’avait pas atteint à ce point de non-style où l’on peut dire enfin : mais qu’est-ce que c’était, ce que j’ai fait toute ma vie ? Il y a des cas où la vieillesse donne, non pas une éternelle jeunesse, mais au contraire une souveraine liberté, une nécessité pure où l’on jouit d’un moment de grâce entre la vie et la mort, et où toutes les pièces de la machine se combinent pour envoyer dans l’avenir un trait qui traverse les âges :
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ「哲学とは何か(Qu'est-ce que la philosophie : 1991)」。財津理訳
自分自身も当時の彼等と同じ様な年齢になった。「66歳」と「61歳」が、共に自らをして「老年(vieillesse)」である事を主張しているのだから、それに倣って自分も「老年」であると認識して構わないという気にもなる。そして確かにこの年回りになって頭に浮かんで来るのは、「わたしが生涯おこなってきたことはいったい何であったのか(ce que j’ai fait toute ma vie ?)」という自問の形式を伴った問いである。
その問いは、「永遠の若さ(éternelle jeunesse)」なるものを未だに信じる事が出来る人達からすれば、自伝的に閉じられ、後退した印象を与えるかもしれないが、しかしそれは──1991年のジル・ドゥルーズ「老人」+フェリックス・ガタリ「老人」の問いがそうだった様に──その「老年」的な問いこそが、「機械の部品がすべて組み合わされて、すべての年齢を貫く一本の矢が未来へと投じられる(où toutes les pièces de la machine se combinent pour envoyer dans l’avenir un trait qui traverse les âges :)」ものであるに違いないという「確信」に基づいたものなのだ。
ドゥルーズ+ガタリが同書で記した「生涯おこなってきた( j’ai fait toute ma vie)」という表現は、こと自分に関して言えば、余りに身の程をわきまえていないとしか言えないが故に、「生涯関係を持ってきた」と言い直すが、ともあれ「わたしが生涯関係を持ってきた『美術』なるものとはいったい何であったのか」という、「美術」に於ける「スタイルの行使(exercice de style)」という「習慣」から離れた「ノン・スタイル(non-style)」な問いを発しても良い「老年」になって来たと自認はしている。
恐らくそうした視点が、「ことのついでに(en passant)提示(exposait)」するもの──としてではなく、極めて「リアル」に「身に付いて」しまうのは、「現世」と呼ばれたりもする「物質」に支配された世界に留まる「時間」=「生と死のはざまで或る恩恵の期間(moment de grâce entre la vie et la mort)」が「猶予期間」である事を、「リアル」な形で認識せざるを得ない「老年」の「特権」と言える。
(...) le concept est devenu l’ensemble des présentations d’un produit (historique, scientifique, artistique, sexuel, pragmatique...) et l’événement, l’exposition qui met en scène des présentations diverses et l’« échange d’idées » auquel elle est censée donner lieu. Les seuls événements sont des expositions, et les seuls concepts, des produits qu’on peut vendre. (...) Le simulacre, la simulation d’un paquet de nouilles est devenu le vrai concept, et le présentateur-exposant du produit, marchandise ou œuvre d’art, est devenu le philosophe, le personnage conceptuel ou l’artiste.
事実上、今日の「美術」に於ける「出来事(événement)」の全ては、「産物や製品(produit)」としての「作品(œuvre d'art)」の「紹介を演出する(ensemble des présentations)」「展示会(expositions)」(「展覧会」)で行われる。今日「美術」として認識されているものの全てが、「展覧会」での「出来事」=「展覧会/美術」である。従って「展覧会」に於ける「作品」の「紹介者ー展示者(présentateur-exposant)」こそが、今日「アーティスト(artiste)」を名乗る権利を唯一有するのである。
いずれにしても、ボイス(注9)の発言にある “ein Künstler" は、「何が何でも『展覧会』で『作品』を『展示』したくてしたくて堪らない人」としての「アーティスト」をのみ指すものではない(「部分集合」として含まれはしても)。仮に「すべての人間は所謂『芸術家』である」という意味でそれを言うのであれば、ボイスも “Jeder Mensch ist Künstler" という「冠詞」抜きの表現を取っただろう。それでも「冠詞」の持つコノテーションに無頓着な日本語の訳として、「すべての人間は芸術家である」は十分に可能であるし、それ故にしばしばその様な「(所謂)芸術家としての意思がある」人間向けの言葉として日本では理解されていたりもするが、しかしそれでは恐らくボイスの言わんとするところとは、或る意味で「真逆」の意味を持ってしまう。「人はたいてい喜んで、彼等が欲する事を信じ込む」(“fere libenter homines id quod volnt credunt")(注10)のだ。ボイスの “Jeder Mensch ist ein Künstler" は、「『アーティスト』の『活動』」世界=「展覧会/美術」への参入を容易なものにする事とは、直接的な関わりがないものだ。そこで言われている「芸術家(ein Künstler)」は、単純に「なる」ものではなく、或る意味で「既に備わっている」ものだからだ。
ボリス・グロイスは、その著書 “Art Power" に於いて「『キュレーター〔curator〕』という単語が、語源上『治療する〔cure〕』という言葉に関係するのは偶然ではないのだ。キュレーティングすることは治療することである(It is in fact no coincidence that the word “curator” is etymologically related to “cure.” Curating is curing.)」と書いている。彼によれば、キュレーターによって「治療」されるべきは、「自らの定義をもってしては現前することができないし、観者にまなざしを強いることができない(A work of art cannot in fact present itself by virtue of its own definition and force the viewer into con- templation)」芸術作品(イメージ)の、「活力、精力、健康状態(vitality, energy, and health)」の欠如という「病」であるという事であるらしい。しかしその「病」は、より深く、より深刻に「病」んだ身体の内にある。それは「治療者」たらんとするキュレーターも罹患している厄介な「病」なのだ。
「不純物と免疫(impurity / immunity)」展のタイトルに引かれたロベルト・エスポジトによる著作の一つ、「三人称の哲学 生の政治と非人称の思想」(“Terza persona. Politica della vita e filosofia dell'impersonale")の最後にはこう書かれている。
Esso è la persona vivente – non separata dalla, o impiantata nella, vita, ma coincidente con essa come sinolo inscindibile di forma e di forza, di esterno e d’interno, di ‘bíos’ e di ‘zoè’. A questo ‘unicum’, a questo essere singolare e plurale, rimanda la figura, ancora insondata, della terza persona – alla non-persona inscritta nella persona, alla persona aperta a ciò che non è mai ancora stata. (pp. 183-184).
(注2)σύνολον【希】シノロン。アリストテレス「形而上学」(Τὰ μετὰ τὰ φυσικά)にその語は出現する(例:第7巻 第10章 1035b [20]~[30])。因みに日本に於ける「アリストテレス/形而上学」の事実上の決定版の一つになっている岩波文庫の出隆訳の底本となっているのは、――出隆自身の表現を借りれば―― William David Ross による「英訳」=「注解付原典」である。
(注3)原文:“Non soltanto, per essere persona, la maschera non deve necessariamente aderire al volto di chi l'indossa, ma può ricoprire anche il volto di un altro." Roberto Esposito, Terza persona. Politica della vita e filosofia dell'impersonale, Einaudi, Torino 2007, p. 104.
このキュレーターによってこれまでに手掛けられた展覧会の多くに、展覧会に開けられた「窓」(「吹き抜け」や「屋上」含む)の存在があった。2013年に行われた「ハルトシュラ」に始まる「荒木みどりM←→mヨシダミノル」「躱す」「やわらかな脊椎」といった大阪CASに於ける一連の企画展。「MOBILIS IN MOBILI-交錯する現在-」の東京巡回展(Gallery MoMo Projects, CASHI)と金沢巡回展(問屋町スタジオ)(注4)。「Celsius」(CASHI)、「OBJECTS IN MIRROR ARE CLOSER THAN THEY APPEAR」(the three konohana:大阪)、「パレ・ド・キョート / 現実のたてる音」(ARTZONE & VOXビル)、「クロニクル、クロニクル!」(クリエイティブセンター大阪:大阪)(注5)等々。
(注4)「MOBILIS IN MOBILI-交錯する現在-」大阪展(コーポ北加賀屋:大阪)の川村元紀氏のエリアを、外に開かれた空間と見る事も出来る。その一方で、同展では2階の「窓」は塞がれていた。
映画は「〜(監督)作」という形で語られもするが、しかし「監督」がその映画の「作者」であるとは直ちに言えない。如何に「完全主義者」の「監督」であっても、それでもスタッフやキャストの差し出すもので、「監督」の「完全」は常に揺れ動く。19世紀末に登場した(映画)「監督」という近現代的な職能は、揺るがない「完全」を期待される「芸術家」としての「彫刻家」や「画家」の様な伝統的な「人格」なのではなく、それ自体が「単数にして複数への存在(a questo essere singolare e plurale)」「人格に書き込まれた非人格(alla non-persona inscritta nella persona)」「いまだかつて存在したことがないものに開かれた人格(alla persona aperta a ciò che non è mai ancora stata)」(前出「三人称の哲学」)的な存在だ。だからこそ、キャストを始めとして、スタッフ、協力者、スポンサー等という多様な「人称」が列挙される映画の「エンドロール」は、映画が三人称的なメディアである事を示す上で極めて重要なものである。
(注4)“Le problème du peintre n'est pas d'entrer dans la toile, puisqu'il y est déjà (tâche pré-pieturale), mais d'en sortir, et par là-même de sortir du cliché, sortir de la probabilité (tâche picturale). " : Francis Bacon, logique de la sensation / Gilles Deleuze