「忘却」

《千の注釈》

●長過ぎる注1,001「忘却」(2021年8月〜2022年1月記)

2020年代初頭の「人類史」及びその「文化史」を語る時、COVID-19 パンデミックの影響下に人類が置かれ、その存在が依然として脆弱である事が改めて示された事実を無視して、果たして成立するものだろうか。

今から100余年前の1918年に全世界的な大流行が始まった "1918 flu pandemic"、所謂 "Spanish flu"(「スペイン風邪」)は、所謂「文化史」に於いては、それがもたらした影響を事実上完全に無視されてきたところがある。1918年といえば、現在も依然として「文化史」としての「美術史」上の特筆すべきランドマークとして扱われ続けているマルセル・デュシャンの「泉」(Fontain)が「発表」された翌年に当たるのだが、「泉」を「美術史」上の重要な分岐点として捉える程には、同「パンデミック」をその様なものとして見る視点は現在に至るも皆無だ。

世界人口が18億人の時代(注1)に1億人以上が死亡した=18人に1人が死亡した(注2)とも伝えられる疫病の世界的大流行、或いはその疫病が始まった年に終結した4年に渡る第一次世界大戦(戦死者1,600万人)などよりも、ヨーロッパの「先進」的な芸術作品の到着を待つアメリカの好事家達から、1913年アーモリーショー「階段を降りる裸婦 No.2」の「興奮」再びとばかりに「キュビズム絵画」("Tulip Hysteria Co-ordinating")の出品を期待されていた29歳のフランス人青年マルセル・デュシャンが90度倒した、しかし実際には殆ど誰の目にも触れる事がなかった(注3)エルジャー社製ベッドフォードモデル小便器がもたらした「スキャンダル」をこそ重要視し、その解像の倍率を相対的に高めていくというのが、巷間言われるところの「文化史」としての「美術史」という代物なのかもしれない。

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(注1)当時の「先進国」の平均寿命は45〜50歳。

(注2)COVID-19の2022年1月第1週段階での全世界の死者数は約550万人。

(注3)実物の「泉」はショーには出品されず、それはニューヨークのダダイストの同人誌 "The Blind Man" 第2号に掲載された網点印刷写真(アルフレッド・スティーグリッツによるスタジオ撮影)と、そこに添えられた「抗議文」("The Richard Mutt Case")等のステートメントによって、言説的フィギュアとして「事実」(fact)化された。

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「泉」が「発表」された、ニューヨーク・マンハッタン島、レキシントン・アヴェニューの西側、46丁目と47丁目の間、グランド・セントラル・ステーションのヤードの上に建っていた13階建てのグランド・セントラル・パレス(現 245 Park Avenue)は、様々な見本市や品評会が行われるコンベンションホールだった。同所で行われた主な展示会には以下のものがある。国際フラワーショー、グレーター・ニューヨーク家禽博覧会、ウェストミンスター・ケンネルクラブ・ドッグショー、スポーツマンズ&バケーションショー、全米写真ショー、国際美容室オーナー大会、冷凍食品博覧会、全米プラスチック博覧会、国際繊維博覧会、全米モダンホーム博覧会、米国医師会博覧会、全米モーターボートショー、ニューヨーク自動車ショー等々(注4)。現在では「泉」騒動以外に全く言及される事のない独立芸術家協会(Society of Independent Artists)の第1回年次展(First Annual Exhibition)もまた、それら催事の中の一つであり一つでしかなかった。

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(注4)こうした展示会に訪れる観光客目当てに、ウィンスロップ(現ロジャー・スミス)、レキシントン、シェルトン(現マリオット・イーストサイド)、モントクレア(現Wニューヨーク)、ビバリー(現ベンジャミン)等、幾つものホテルがレキシントン・アヴェニュー沿いに次々と建てられ、現在の "Hotel Alley"(「ホテル横丁」)を形成するに至る。「ホテル横丁」の近傍には、それらとは別格のバークレー(現インターコンチネンタルバークレー)やウォルドルフ=アストリアがある。

独立芸術家協会年次展の第2回展(1918年4月20日〜5月12日)は、グランド・セントラル・パレスとは別の会場(110-114 West 42nd Street:現1095 Avenue of the Americas)に移り、第3回展(1919年)からはニューヨークの最高級ホテル、ウォルドルフ=アストリア(Waldorf-Astoria)に暫時落ち着く事になる。ニューヨークの独立芸術家協会が掲げる "No Jury - No Prizes" によって必然的に生じる、作品発表の欲望のマスボリューム("First Annual Exhibition" では約2,000点)を勢力/影響力として見せ付ける展示会が、社会に出回っている余剰資金(=「美術」の顧客)がより集中するゴッサムのセレブリティのホテルへと嗅覚鋭く移った頃、年次展が去った後のグランド・セントラル・パレスは、「泉」騒動の翌年の1918年9月にアメリカ政府に貸与され、1919年の4月まで第一次世界大戦の傷病兵向けの臨時病院(U.S. Debarkation hospital No.5)へと変貌した。「非日常」的な演出が施された「展示」を行うアメリカ各地の催事場は、軒並みリアルな「非日常」の空間になる。独立芸術家協会第1回展の会期中を通して「泉」が放置されていたとされるパーティション裏には、その1年後に傷病兵が横たわっていたのかもしれない(注5)

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(注5)因みに第一次世界大戦の戦死者の2/3は戦闘によるものであり、残りの1/3はスペイン風邪等の疾病によるものであったという。ニューヨークの独立芸術家協会のベースとなったパリの独立芸術家協会(Société des Artistes Indépendants)の展覧会場はグランパレ・デ・シャンゼリゼだったが、そこもまた第一次世界大戦を通して軍病院として使用されていた。この期間(1915〜1919年)パリの独立芸術家協会展が行き場を失い開催されなかった為に「美術史」的不連続が生じ、その一方で第一次世界大戦の実際の「戦場」から遠く離れたニューヨークが、パリ不在の合間を縫って「美術史」上の地位を向上させる事になる。デュシャンが、パリからニューヨークに活動の軸足を移した(移住した)のは、ヨーロッパの戦場化に伴う「美術」界に於けるパリの「地位低下」の最初の開始年である1915年だった。

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20世紀「文化史」に於いて、"Spanish flu" パンデミックが過小視(例外視)されて来た様に、今回のパンデミックもまた将来に於いて21世紀「文化史」とは関係の薄い、或いは無関係なものとして「忘却」される事になるのだろうか。ヨーロッパ文明を脅かしたペスト程には、スペイン風邪は文学上の一大テーマにはならなかった。COVID-19は果たしてどうだろう。

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2021年夏、日本は所謂「(COVID-19)第5波」と言われる「特異」的な時間の中にあった。「感染」が人々の意識の最前線に浮上する以前に計画された、“Citius – Altius – Fortius”(「より速く、より高く、より強く」)をモットーとする「オリンピック」と称される総合スポーツ大会が、前年の「2020」を冠に官と一部の民による「祝祭」感(注6)(注7)の演出を伴って実際に開催された時期でもある。

(注6)当時日本で「オリンピック」に批判的な立場を取る者の一部は、開会式セレモニー等の「政治スペクタクル」の「拙劣」を批判した。しかしそれは、「より良き祝祭セレモニー」を指向する点で、ジュールス・ボイコフ(Jules Boykoff)言うところの "Celebration Capitalism(「祝祭資本主義」)の側に結果的に加担、或いはそれをすっかり内面化してしまっていたという事になるだろう。

(注7)「祝祭」による「トリクルダウン」(「お溢れ」)が広く日本国内に行き渡るという事も言われた。しかしその巨大イベントによる「お溢れ」は、過去の数々の「オリンピック」同様、今回もまた現実には存在しないに等しく、結果的に「オリンピック」開催によるリターンはイベント主催者に近い民間の一部に独占され、その結果公共支出としての機会費用のロスの埋め合わせが、広く東京都民を始めとする納税者に先々まで課せられる事になった。

当時、このイベント開催を100余年前の「復興五輪」であるアントウェルペンアントワープ1920年)再びとばかりに「人類がコロナウイルス感染症に打ち勝った証し」(注8)にするという発言が一部で発せられたりもした。しかし「打ち勝つ」という「ヒロイック」な表現に見られる「勝負」観を前提とする限りに於いてのみ、感染拡大による延期や規模縮小を余儀なくされたこの運動競技大会は、事実上「人類がコロナウイルス感染症に打ち負けた証し」、或いは少なくとも「人類とコロナウイルス感染症がドローになった証し」という評価を受け入れなくてはならないかもしれない。

(注8)「人類がコロナウイルス感染症に打ち勝った証し」というスローガンは、ボイコフの「祝祭資本主義」の着想元となったナオミ・クライン(Naomi Klein)"Disaster Capitalism”「惨事便乗型資本主義」、「ショック・ドクトリン」(火事場泥棒)の1サンプルとしても記憶されるだろう。「2020東京オリンピック」もまたその成功を指向したものの、結果的にそれは大いなる不発に終わったのである。

そもそも人類の歴史は、人類のみで完結するものではなく、人類と人類でないものとの関係史でもある。地球科学的なものを含めた「人類でないもの」の一つに感染症があり、人類はそれと常に隣合わせだった。ペストは度々人類を脅かしてきたし、コレラは幕末日本の攘夷気運を醸成した。スペイン風邪は遠方の戦場に大量派兵が可能になる交通テクノロジーの発達によって「史上最悪のパンデミック」となった。脆弱な動物種としての人類は、感染症の前に度々「絶滅」の危機に脅かされた。

下掲画像は、100年以上前(1920年2月17日)の日本に於けるスペイン風邪「第2波」期の女学生の通学風景だが、パンデミックというものが意識の最後景にあった2019年以前(「日常」)であれば「全員マスク姿」というのは、例外的・非日常的な風景と捉えられただろう。しかしその「特異」な風景の最中に2022年の世界は置かれていて、しかも何時になったら「全員マスク姿」から「完全」に「解放」されるのかも一向に見えない。

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人々は「災禍」を「忘却」の対象に留め置けられている状態を「日常」としたがるものだが、実際には感染禍を含む「災禍」(Disaster)の時間が「日常」であり、所謂「日常」こそ「特異」な時間であるという反転も可能ではあるだろう。事実、食料や真水といった資源や機会等のリソースの「高所得国」への集中によって「災禍」と隣合わせにある状況を常に強要される「低所得国」では、「高所得国」的な意味での「特異」が「日常」になっている。それらのリソースを地球人口79億人で等しく割れば、「高所得国」に住まう者が言うところの「日常」(日々是好日)というのは、「低所得国」(或いは国内低所得層)からの「搾取」によって成立している幻想である事がたちまち明らかになるものの、一方で79億人で等しくそれらを割るという事自体が「無意味」とされる事もある。それを「無意味」であるとする者にとって、資源や機会等に於ける「勝ち」(「努力」が報われる可能性を有する)と「負け」(「努力」しても永遠に報われない)という「不均衡」は、世界が「努力」を称える運動競技大会的なものに擬えられる限り、それがフェアな「勝負」であろうがなかろうが「必然」であり「摂理」なのだ。誰かの犠牲の上に成立する幸福(「日常」)といったものがそこでは正当化される。

参考:ユニセフ「世界保険サミット2021」
https://www.unicef.or.jp/news/2021/0210.html

「日常」と「特異」の反転が意識され、その結果「日常」を前提としていた人類の輪郭が不安定化し、他者が「特異」の入口と結び付けられた「第5波」の最中、こうしたツイートが一人の「アーティスト」からされた。

これがツイートされた頃、日本に於ける「展覧会」は「受難」の最中にあった。スケジュールに組み込まれていた「展覧会」は軒並み中止、もしくは開かれたとしても大幅に規模縮小や条件付き開催というものが大半だった。SNSの「展覧会告知」には、判を押した様に「(コロナ禍の最中)この展覧会に無理して来なくても良い」という但し書きがされていた。「来なくても良い」とする「展覧会」の「告知」、即ち「展覧会」がそれぞれの人生に於ける優先度の「最上位」の位置には必ずしもないという事を、他でもない「展覧会」の主催者が「宣伝」を通じて言表しなくてはならないという事態は極めて撞着的であるが、しかしその撞着こそが「展覧会」という形式を成立させてきた「生態系」を如実に浮かび上がらせたとも言える。

斯くして「展覧会」(他人に作品を見せる)という形式の根本が脅かされた事で、自ずと「そもそも展覧会とは何か」「そもそも作品を作るとは何か」「そもそも作家とは何か」といった自己のアイデンティティに関わる極めてファンダメンタルな自問に「アーティスト」は否応なく向き合わされる事になった。事実上、資本主義の「勝ち組」ソサエティに関係(/寄生)せざるを得ない(或いはそれとの関係を最重要視する)「アーティスト」は、「アーティスト」という概念自体が、近代ヨーロッパ以降に「発明」された「形式」であるが故に、その輪郭もまた資本主義のアキレス腱を露呈させた感染禍という「特異」を前に一気に不安定化した。

多くの「アーティスト」にとって「展覧会」は「日常」であり、且つそれは事実上「アーティスト」を成立させる最重要の絶対条件でもある。「アーティスト」が「つくらなくてもいいもの」を水増ししてまで「展覧会」の為に「たくさん」作品を作る(注9)のは、その「作家」の「作家」としての「倫理」自体が資本主義的な「日常」によって内面化されたものだからだ。

(注9)「アーティスト」は「展覧会」ごとに作品の「モデル」的な統一を図り、相対的に同一形式に見える「作品」を複数作って「展覧会」場に並べる。そしてその次の「展覧会」では新たな形式を「展開」と称して「発表」したりもする。ここでの「展開」は「計画的陳腐化」的な「モデル・チェンジ」の側面を幾らかなりとも有するだろう。「アーティスト」は、しばしば「オーディエンス」の「飽き」を先取りして「展開」に至るのである。

近代ヨーロッパ的な意味での「作品」は、「オーディエンス」の存在を前提に作られるものだ。「オーディエンス」への「公開」が「作品」を作る「アーティスト」の事実上最大且つ唯一のモティベーションになるというのは紛れもない事実だ。「作品」は常に「オーディエンス」に対して「公開」されねばならず、翻って「オーディエンス」が不在の場合、それはしばしば「作品」未満と見做される。

同じ様な事は、このツイートと同時期に複数の「アスリート」の口からも発せられていた。「アーティスト」が単なる「表現が得意な人」を意味しない様に、「アスリート」は単なる「運動が得意な人」ではない。「アスリート」は「アーティスト」同様、「エキジビション」(競技会/試合)によってのみその存在が可能になる特殊な「形式」である(注10)。数々の「無観客試合」は、「オーディエンスに見られる」という最大の条件を「アスリート」から奪う事で、その存在が脆弱である事を明らかにした。

(注10)「オーディエンス」に手拍子を求めるパフォーマンスを最初に行ったとされる元三段跳び世界記録保持者のウィリー・バンクスは、1981年のローザンヌ陸上競技会から三段跳び種目を外した大物プロモーターにその除外の理由を質した。それに対してプロモーターは「これはビジネスなのだから、観客席が埋められない様なものにどうして金を掛けなければならないのか(This is a business, so why should I pay you when you don't put butts on seats?)」と返した。バンクスは「それは、私がビジネスとしての陸上競技に入る切っ掛けになり、そのおかげで単に競技する事とスポーツビジネスとは大いに異なるという教訓を得る事が出来た(That was my welcome to the business of track and field, which taught me a huge lesson that there is a difference between about just competing in athletics and the business of sport.)」と語っている。

https://spikes.worldathletics.org/post/track-and-field-inventions-the-clap

感染の広がりの程度によって、「展覧会」の案内の文章は時々刻々変化して来た。「無理して来なくても良い」から「是非来て下さい」。そしてまた「無理して来なくても良い」へ。「展覧会」は、それが「普通」に可能になる「日常」を待ち続ける。それは「忘却」を待ち続けるという事かもしれない。

【長過ぎる注1,002に続く】