「地上」

《千の注釈》

長過ぎる注1,001『忘却』」から続く

●長過ぎる注1,002「地上」(2020年1月〜2022年1月記)

北緯40度42分46.8秒、西経74度0分48.9秒を上昇して行くエレベーター。今日の「人類」の事実上の「標準」暦であるところの「共通紀元(Common Era:CE)」=「イエス・キリストの年(Anno Domini:AD)」(注1) 換算で「1500年」に「地下世界」を出発した籠(Car)が、その20年後(「1520年」:動画開始後6秒後)に「地上世界」に出ると、果たしてそこは、後にイングランド人の「探検家/探検業者」ヘンリー・ハドソン──「1611年」に死亡したと「推定」されている(彼の死亡を正確に裏付ける「記録」は存在しない)──の名に因んで「ハドソン川(Hudson River)」と呼ばれる事になる河川の河口付近の浅瀬の中だった。川の向こう側に見える陸地は、現在「マンハッタン」と呼ばれている島の南東部(「ロワー・マンハッタン」)である。

(注1)「共通紀元」(日本では現在でも「西暦」と称呼されている)は、「6世紀」のキリスト教修道士、ディオニュシオス・エクシグウスの「推測」によって「イエス・キリスト」の生誕年を紀元1年としたものだが、現在では「歴史」的存在としてのイエス・キリストの生年は、それよりも以前であるというのが定説だ。その生年が現在に至るも「歴史」的な形で確定されていないのは、「イエス・キリスト」なる人物が何者であるかを決定する「歴史」的な実証に耐え得る「文字」資料が存在しない事にある。因みに「イエス・キリストの年(Anno Domini)」は、ヨーロッパに於いては長く「一般人(非王族)の歴史("Vulgar Era")」とも言われていた事がある。下掲画像はイエス・キリストの人種的特徴を勘案した「復元図」(=イエス・キリストと同時期の、イエス・キリストと同じ人種の「典型」的「男性」の図)。これはイエス・キリスト本人を同定するものではないが、しかしイエス・キリストが「リアル」に属していたコミュニティを指し示すサンプルではある。

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島の中に幾つかの「簡素」な──或いは「建てる」事に対して相対的に「純粋」な──建物(Wigwam)が見える。島とその周辺部は、古くから続く(注2)先住民レナペの生活圏(注3)だった。現在ニューヨーク・マンハッタンのワン・ワールド・トレード・センターのエレベーター内で見る事の出来る、「イエス・キリストの年」が階数と同期して壁面にカウントされるこの展望(Observatory)タイムラプスを紹介する記事の中には、エレベーター「上陸」時点を「何もなかった土地」とする紹介をしているものもあるが、当然それは単純に事実誤認である。

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(注2)考古学的調査によると、6,000年前には既に大規模で安定した先住民のコミュニティが存在していたという。

(注3)マンハッタン(Manhattan)という呼称は、通常「多くの丘のある島」を意味するレナペ語(Manhatta)に則ったものとされている。しかしそれには民俗学的な別解釈もあり、それは「弓を手に入れる場所」/「(弓を作るための)木(ヒッコリー)を集める場所」、或いは「皆が酔った島」というものである。

フィレンツェの「探検家/探検業者」ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノがこの地に出現したとされる「1524年」まで、この島の中には所謂「文字」は存在していなかった。「文字」が漂着する以前のレナペの生活を、時系列的な「歴史」として語る事は出来ない。「我々」──即ち「文字」の呪いが掛けられてしまった者──が親しんでいる、「以前(ビフォー)」と「以後(アフター)」の差を計測する「歴史」という概念が、凡そ「文字」による「記述」に頼る事によってしか可能でないとすれば、このタイムラプスが「文字」の出現「以前」を「地下世界」としてしか表象出来ないのは、或る意味で当然の事だろう。「先住民」の口承(「音声」)によって表される時間は、「上昇・下降」するエレベーターで表現されるリニアな時間とは根本的に異なるからだ。「地下世界」と「地上世界」の描き方の差は、所謂「歴史」(的な時間)の不在を「暗い」(例:"Dark Continent" )ものとしてしか見る事の出来ない「地上世界」人の想像力の限界を示している。

タイムラプス開始後10秒辺り(「1626年」)で、このレナペの生活圏の一部であった島は、ニュー・ネーデルランドの総督ピーター・ミヌイットに「購入」(注4)される事になる。ニュー・ネーデルランドの実質的「母体」であるオランダ西インド会社の役員ピーター・ヤンスゾーン・シャーゲン(Peter Janszoon Schaghen)は、「1626年」11月7日に同社に宛てた報告書の中で、面積11,000モルゲン(94平方キロメートル:換算例)(注5)の「土地」の「購入」が、60ギルダー相当の物品(注6)によって行われた(“vreedigh leven hare vrouwen hebben ooc kinderen aldaer gebaert hebben t'eylant Manhattes van de wilde gekocht, voor de waerde van 60 guld: is groot 11000 morgen.")と書いている。

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(注4)先住民は「所有権」に関するヨーロッパ的な概念/定義に馴染みがなかった。彼等にとって、土地は水や空気と同様の共有物であり、ビーバーの毛皮の様に取引する事の出来ないものだった。その一方でオランダ人は、季節毎に居住地を移動する先住民の土地利用の概念を理解出来なかった。オランダ人はマンハッタン周辺の土地を「購入」して「所有」したものと思い込んでいたが、一方の先住民は土地「共有」の「権利」を与えたものと思っていた。その解釈の擦れ違いは、やがてオランダ人の「所有」する土地に「不法」に侵入して狩りをしたり、住み続けている先住民への「懲罰」の形で現れる。

(注5)実際のマンハッタン島の面積は約59.1平方キロメートル。

(注6)「1626年」の60ギルダーは、今日の1,000米ドルに等しい(「2006年」の換算例)とも、72米ドルに等しい(「1992年」の換算例)とも、2,600〜15,600米ドルの間(「2014年」の換算例)ともされる。広く伝えられているところの60ギルダー=24米ドルという換算は、「19世紀」のニューヨークの歴史学者ジョン・ロメイン・ブロッドヘッドが、今から100数十年前の、即ち「2020年代」の貨幣価値とは全く掛け離れた「1844年」に、通貨単位への「誤解」も含めて試算したものである。また巷間「24ドル相当の物品」として上げられる事の多い「ガラス玉」や「ビーズ玉」は、少なくとも “Manhattan Purchase"(「マンハッタン買付」)に関して書かれた唯一の「物証」(「文字」)であるシャーゲンの報告書には具体的な形で書かれていない。

この「契約」= “Manhattan Purchase" 以後(注7)、「新大陸」に属するこの島が「旧大陸」的な概念である「有形固定資産」の対象となって行く事が、このタイムラプスからも十分に判る。「簡素」な建物や、木々の間や土地の勾配に合わせて作られていた「道」が忽然と「消え」、「整地」によって「図面/書類」に適した「地所」に変えられた「大地」に、「旧大陸」的に幾何学的な「道」=フルトン・ストリート(Fulton St.)が画面中央に通される。斯くしてこの島は「所有」というヨーロッパ的な概念に侵食されていく。

(注7)「マンハッタン買付」の前年(「1625年」)から、島の南端は「アムステルダム要塞」を擁したオランダ人の「入植地」になっていて、現在それが「ニューヨーク」の開始年とされている。

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「大地」を「資産」と結び付ける様な「所有」の概念を持たないレナペは、ヨーロッパ人(「オランダ人」)が促す儘に「契約書」に「サイン」(=「文字」)(注8)させられ、その「契約」の結果として「土地を売却した」彼等は、このタイムラプスの10秒の時点でこの地から締め出される。同時にヨーロッパ人が専用の船を仕立てて本国から取り寄せた「家畜」と共に持ちまれた麻疹や天然痘といった感染症による「エピデミック」により、ひとたまりもなく減少したレナペは、数百人規模のソサエティにまでシュリンクした後、「所有」概念によって追われた地で「デラウェア族」(注9)というスレイブ・ネーム的な名前で呼ばれもする様になった。時にレナペを含む「北米」のインディジナスな人々(注10)は「ヨーロッパ人」による大量殺害(注11)の対象にもなる。斯くして、この島は──「10秒」以前とは全く異なり──「ヨーロッパ」的な「歴史」という時間感覚の中に、完全に組み入れられる。

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(注8)しかし実際にはそれは、誰でも書ける──即ち「偽造」が容易に可能な──「✕」印であったという。

(注9)「デラウェア」は、バージニア植民地総督、第3代デラウェア男爵トマス・ウェストイングランド人)に因む。即ち「デラウェア族」とは「『デラウェア男爵ゆかりの土地』に居住する先住民」を意味するものであり、換言すれば「『所有』される者」として永遠に刻まれたというものである。

(注10)「2019年」11月に公開されたディズニー映画「アナと雪の女王2」(“Frozen II")に登場する、霧に包まれた「ノーサルドラ(“Northuldra")」もまた、スカンジナビアに於けるインディジナス(先住民)のコミュニティである「サーミ(“Sápmi"/“Sámi")」がモデルになっている。トナカイと共生する生活を営むクリストフとその一族は「サーミ」の人だ。

彼等の生活圏が植民地化され、その精霊信仰をキリスト教によって強制的に放棄させられ、「人類学者」からも「科学的」に「劣等種」とされた(映画「サーミの血」参照)「サーミ」の生活圏であるフィンランドのロバニエミ(Rovaniemi)には、「サンタクロースの正式な故郷」であるという「設定」の下に「サンタクロース村(“Joulupukin Pajakylä")」というテーマパークがあり、キリスト教の司祭服を原型とし、コカ・コーラ社が世界標準スタイル化の一翼を担った紅白の衣装を着た「サンタクロース」が観光客を出迎える。この地は嘗ては「ラップランド(“Lapland")」と呼ばれたりもしたが、「辺境」を意味するその呼称は、「サーミ」に与えられた蔑称である「ラップ(“Lapp")」と共に、現在では使用が躊躇われるものとなっている。

花火をバックにしたシンデレラ城の背後に、「サーミ」のヨイク(それはキリスト教によって非合法化された)が流れるオープニングの「アナと雪の女王」第一作目の公開後、同作に於ける「サーミ」の「扱い」に関して、「カルチュラル アプロプリエーション(文化盗用)」や「ホワイトウォッシュ(白人文化化)」に対する対応が不十分であるという批判がされた。「アナと雪の女王2」は、その批判を受け止め、本作を制作するにあたって、「サーミ」の文化の「公平」な「扱い」について「サーミ」のコミュニティと契約書を交わしている。

(注11)一例として「1643年」〜「1645年」の「キーフツ戦争(Kieft's War)」がある。「1643年」2月25日には「パヴォニア虐殺(Pavonia Massacre)」と呼ばれるレナペに対するオランダ人の大虐殺──129人のオランダ兵が、120人の女性や子供を含むレナペを虐殺した──が起きる(上掲画像)。その現場を目撃したデ・ブリーズ(David Pietersz de Vries)日記にはこの様に記されている。

「乳飲み子は母親の胸から引き離され、親の目の前で切り刻まれ、その肉片は火の中や水の中に投げ込まれた。他の乳飲み子は小さな板に縛られ、切られ、刺され、貫かれ、血も涙も無い凄惨な虐殺が行われた。川に投げ込まれた者もあり、その父や母が助けようとすると、兵士たちは彼等を陸に上がらせず、親子ともども溺れさせた(alwaerse de jonge Kinders sommige van haer Moeders borsten afruckten, in 't gesichte vande Ouders aenstucken ghekapt, ende de stucken in 't Vyer en in 't Water ghesmeten zijn, en andere Suygelingen op Houte-bortjes gebonden en soo door-houwen, door-steken, door-boort, en miserabelijck gemassakreert dat het een Steenen-hert vermorvven soude, ende sommighe inde Rivier ghesmeten, ende als de Ouders en Moeders die sochten te redden, wilden de Soldaten die niet weder laten aen Landt komen)」

その出来事は、「植民地」から「得」られた「富」によって富裕化した「市民」に、広く「(世俗的主題の)美術」が行き渡る様になった本国オランダに於いて、レンブラント・ファン・レインが、聖ルカ組合(ギルド)の一員になる(「1633年」)事で「画家」としての「社会」的「地位」や「名声」を確立し、アムステルダムの名士の注文で「夜警」(「1642年」)を描いた「オランダ黄金時代最盛期」とほぼ同時期の出来事になる。

下掲画像は、「1910年」10月に、ニュージャージー州ジャージシティの公立小学校で演じられた、「パヴォニア虐殺」の入植者視点による「征圧」の「再現」劇。

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今日的な「美術」(及びその上位概念としての「芸術」)は、徹頭徹尾近代ヨーロッパ的な意味での「個人」から発するものだ。「才能」(talent)或いは「天才」(genius)という概念は、「個人」という概念/形式の誕生と共に成立した。「才能」は、その「入れ物」と見做されている「肉体」を「所有」する「個人」と分かち難いものとしてリンクされる。それによって「才能」の「受肉」(「才能」という「神性」が人間の形を取っている:"Incanation")である「作家」(「作家名」)という個別性への信憑は可能になる。そして「才能」が常に儚い物理的「肉体」に紐付けられる「市場」的「希少性」故に、資本主義社会に於ける余剰資金はそこに投機的な「価値」を見出す。

「個人」の「才能」を、キリスト教的な聖性観に基づいて重要視する「美術」という習俗に無縁だった「レナペ」の文化(注12)(注13)がこの島から一掃されてから100数十年後、タイムラプス開始後17秒の「1804年」に、ニューヨーク最古の「美術館」である「ニューヨーク歴史協会(The New-York Historical Society)」が画面左に建設される。しかしマンハッタン島最初の「展覧会」は、それよりも遥か以前に、「地上世界」化したこの島の何処かの「ショップ」(=「ギャラリー」)等で行われていただろう。

(注12)従ってレナペの文化の延長線上に、「旧大陸」的な価値観に基づいた NFT(例)は生じ得ない。

(注13)少し前に、「レナペ」を「リサーチ」対象とした「作品」があった。"Lénapes Series" と題されたそれは、それが「展覧会」を前提とした「作品」であるが故に、当然の様に「先進国」の「都市」の「ギャラリー」(「準ギャラリー」含む)で「公開」され、その「シリーズ」名で行われるものとしては数回で終了している。作家のステートメントには "I chose to paint a symbol of the Lenape tribe." とある。"chose" という語の非対称性に於ける "chose" される側(「地下世界」)でなく、"chose" するポジション(「地上世界」)に常に立ち続けるのが「アーティスト」である。近年の「美術」の世界で多用される「リサーチ」という方法論は、「観察される者になる」のではなく、何処までも「観察する者になる」に留まるものだ。

ライムラプス開始後22秒の「1913年」2月17日~3月15日に掛けて──この動画では0.01秒程の時間──、この「ロワー・マンハッタン」から北北東4キロ(VR画面左)に位置する「第69連隊兵器庫」で、所謂「アーモリー・ショー(兵器庫展)」の第一回展が開催される。そこで事実上初めて「アメリカ」(注14)に「紹介」された「キュビズム」や「フォーヴィズム」等々の作品が、「美術」という「習俗」を共通のものとするまでに至ったこの「島」の「入植」者の末裔に与えた「衝撃」を伝える「伝説」が、「地上世界」の「美術」の界隈では、100年以上経った現在に至るも語り継がれている。

(注14)「アメリカ(America)」もまた「先住民」由来の名称ではなく、「15世紀」〜「16世紀」のイタリア人「探検家」、「アメリゴ・ヴェスプッチ(Amerigo Vespucci)」の名に基づいている。彼と同時代人である「探検家/探検業者/奴隷商人」、「クリストーフォロ・コロンボ(Cristoforo Colombo)は、キリスト教世界観に基づいて「アメリカ州」を「旧大陸」である「インディアス」と誤認していたが、一方のヴェスプッチはそれが「新大陸」である事を認識していた。但し彼が目撃したのは「南米」のみである

f:id:murrari:20220113113212j:plain引き倒されるクリスト―フォロ・コロンボ

そしてその1秒後の23秒=「1917年」4月10日に、フランスの “Société des Artistes Indépendants" を模した “Society of Independent Artists(「独立芸術家協会」:「1916年」設立)" が主催する「第一回年次展」(注15)が、北北東5キロ(画面左)の「グランド・セントラル・パレス(The Grand Central Palace)」で開かれ、「地上世界」に於ける「人類」共通の「美術史」上の「常識」とされる「泉」騒動が起きる。

(注15)その出品料は60米ドル。それは「2020年」換算で約1,900米ドル(約22万円)であり、「2002年」のギルダーと米ドルの換算例を元にする限り、オランダ人がレナペからマンハッタン島を購入した金額の2倍弱に当たる。

現在の「美術」の成立条件は「文字」と「所有」である。「美術」にとっての「文字」は「評論」や「美学」や「美術史」であり、一方の「所有」は「市場」に対応していて、そのどちらも「美術」に欠けてはならないとされている(注16)。しかしその様な「文字」と「所有」の分かち難い「結託」による、「個人」を前提とする「美術」という特殊な形式は、「近代ヨーロッパ」(「名誉近代ヨーロッパ」含む)以外の諸文化には存在しない。寧ろ「文字」にも「所有」にも関わらない──「展覧会」を行わず「作品」も売らない──レナペやサーミ等の「地下世界」(「地下世界線」)の「文化」の方が、「人類史」全体に於いては寧ろ「標準」的であるとも言えるだろう。その意味で、「地上世界」(「地上世界線」)の住人である我々の言うところの「美術」は「人類史」に於いて極めて特殊な形式である。

(注16)参考記事。

bijutsutecho.com

「美術」が「美術」にとっての「危機」に直面した際、しばしば「美術は人類にとって不可欠なもの」という言い回しがされる。今般の「パンデミック」に於いても、それに類した発言をそこかしこで聞く機会があった。確かにそれは、「地上世界」に住む者にとって極めて美しいスローガンとして聞こえるのは確かだ。しかしその一方で、「美術」を成立させる特定文化を、「人類」全体のそれと同義とする点で極めて傲慢でもある。そこで言われる「人類」は、事実上「美術」を可能なものにする「地上世界」に住む者を意味するからだ。そのスローガンは「文化的征服者」の「鬨(かちどき)」でもある。近代ヨーロッパ文明の人であるアンゲラ・メルケルのスピーチに「感動」してしまうのは、「文化的征服者」としての「地上世界」の人間に限定されるのである。

「美術」のそうした「傲慢」なポジションを根拠付けるのは、「美術」の成立基盤である「地上世界」への強引なまでの「改宗」による植民地化、即ち上掲タイムラプスに見られる様な「地上世界」の全面化が、この惑星上でほぼ「完成」してしまった事に由来する。我々が言うところの「美術」は、何処までも「文化的征服者」の側にある事は否定できない。当然所謂「アーティスト」もまた、「アーティスト」である限り/「アーティスト」であろうとする限り、「文化的征服者」のエコシステムである「地上世界」から逃れる事は出来ない。「文化的征服者」が生み育てた形式である「アーティスト」が、仮に「地下世界」の人間として立つ事があったとしても、その瞬間に「アーティスト」は「アーティスト」である事を、原理的には放棄しなければならない。それはそのまま「地下世界」への埋没=「アーティスト」を全く必要としない世界に生きる事を意味するからだ。

「地上世界」の「アーティスト」が粉骨砕身してまで「売り」たい最大のものは、事実上「作家」としての「名前」(注17)だが、それは「文字」と「所有」という鎖に繋がれた「地上世界」に於けるスレイブ・ネームなのかもしれない。「囚われ」の「アーティスト」には、「地上世界」から要求される「『展覧会』を行わなければならない」や「『作品』を作らねばならない」等々といった「アーティストたるもの」(「斯くあるべし」)が常に付き纏い、その人生を覆い尽くす。それは「男たるもの」「女たるもの」といった固定化した「役割」(注18)にも似るものだ。

f:id:murrari:20220116094256j:plain「1977年」のアメリカのテレビドラマ "Roots" の、「キリスト教洗礼名」の「承諾」に至るシーン。

(注17)「作品」はそれを「ブランド・ネーム」とする事で取引される。多くの「美術評論」もまた「ブランド・ネーム」(「作家名」作の「作品」)を論考の単位とする事で初めて成立するものばかりだ。その意味で、「美術評論」(とりわけ「展評」)は、「ルイ・ヴィトン新作評論」や「プラダ新作評論」や「グッチ新作評論」等に漸近するしかないのである。「評論家」の大半は、「バッグ」(例)というアイテムや「ブランド」という擬制そのものに対する思想的/人類史的アプローチには興味が無いのだ。

(注18)所謂「子育てと美術」という「問題」にも、この「展覧会」や「作品」という「鎖」が影を落とす。「地上世界」の「アーティスト」は、「子育て」に関わる事によって「展覧会」の開催や「作品」を十分に実現化出来なくなる事態に心底恐怖する。「展覧会」開催の不連続が、自らの「アーティスト」としての「身分」の保持に於いて、周囲からの「忘却」による毀損に繋がるのではないかとすっかり思わされている。そしてその内面化された恐怖こそが、「美術」と呼ばれている「鎖」なのだ。

時に「美術」は「文化人類学」を利用する。しかし「美術」そのものを「文化人類学」の対象とする事は無い。

「作品」は「作りたい欲望」のみで、「展覧会」は「見せたい欲望」のみでは、その成立が説明出来ないものだ。「パンデミック」によって「作品」発表の場としての「展覧会」──それは「アーティスト」の紹介記事の末尾を「主な展覧会」として形成し、その僅か数行ばかりのフッターの為に「アーティスト」は日々努力する──の機会が失われた時、「アーティスト」は不安に駆られた。それは「売る」チャンスの消失によるアイデンティティ・クライシスだった。

助成金」はその不安を幾らか和らげた。「アーティスト」として行政に認知される為に、業界人を自認する者はデスクに張り付きキーボードを叩いたりした。「平時」に於ける「展覧会」開催による「作品」売却で得られる額よりも多くの金を手にした者もいた。そして自分が「(「人類」にとって)必要」な人間であるという「自尊心」を時限的に得られたのである。

【長過ぎる注1,003に続く】