奥村雄樹個展「な」

終了してから1ヶ月以上経過した展覧会について書く。椹木野衣氏によるそのレビューが掲載された、印刷版の美術手帖が発売されてからも二週間以上が経過した。その展覧会を「過ぎ去ってしまったもの」として見るならば、これを今書く事は単純に遅れていると言わざるを得ない。それともそれは、29771日以降に更新されなくなったものに対して言及する事が「遅れている」様なものだろうか。

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観光ヴィザでアメリカにやって来た「私」が、ニューヨークで遭遇した人間として最初に記述したのは、「膝のぬけたジーンズを穿き、髪が縮れ、(…)真黒に日焼けした」男であった。男の人種は良く判らない。メキシコ人? プエルト・リコ移民? フィリッピン人? 東南アジア人? アメリカ・インディアン? しかしそれを殊更に詮索しない者にとっては、その男が何者であるかはどうでも良い。この国で生まれた訳ではないその男は、周囲からそれを殊更に詮索されない様に、痛々しい程に努力している。この「外地」で「完全な外国人」であり続ける為に。

正体不明の存在であり続けようとするその男を、五番街の「華やかなショーウィンドー」のリフレクションの中に見た後、「私」はそのアベニューを南下して「場末の安ホテル」に宿を取る。「私」がこの街で遭遇するのは「失業者らしい男」「黒人の子供ら」「ホモの連中」「ドアの隣に坐っている女」「娼婦たち」「エプロン姿の黒人のおばさん」「バナナの房を手にした子供」「雑貨屋の主人らしい男」「アルコール中毒らしい男たち」「四十歳ぐらいの白人女」等々である。「私は遭遇した」の列記。しかし「私」が遭遇したかれ・ら(彼・等)の「名」は、この “I MET"(或いは “I SAW")には記されていない。偶々「エズメラルダ」や「フランク」等といった固有名詞がこの “I MET" に記されたりはするが、しかしそれは人称代名詞に限りなく近いものだろう。

「私」は、日本語と英語と中国語と日本の南部地方の言葉の四ヶ国語が話せると言う。しかしその中国語は「ちょっと漢文が読める」程度という事だ。従って、事実上「私」がツールとして使用可能な言葉は、日本語と英語の二ヶ国語という事になる。「私」の “I MET" は日本語で書かれていたりするが、しかしそこで交わされている会話の――たった一つの例外的なケースを除いて――全てが英語で交わされている(注1)

(注1)果たしてニューヨークの娼婦たちに対して “apāto sagashiterundakedo donohenga yasuindai? " と日本語で尋ねたりする者はいるだろうか。

英語という、現下の地球上にあって「基軸通貨」である米ドルの如き言語は――少なくとも21世紀の初端までは――この地球上で「功」なり「名」を遂げる(注2)為に極めて有効に働く言語である一方で、己の「出自」や「足跡」を消す為にも有効な手段の一つとなり得る言語だ。

(注2)「功なり名を遂げる」は「老子」第九章の「功成名遂身退天之道(功成り名遂げて身退くは天の道なり)」からの出典。「功成名遂」と「身退」は、老子的な「天之道」に於いてセットになっている。

「私」にとっての「外地」に於ける “I MET" に記された「登場人物」達との会話は、一つの例外を除いて全てが「私」による日本語への翻訳である。日本語の会話をそのまま日本語の文字に書き起こした「南九州の噴火湾のへりにある、魚くさい漁師町」篇ではなく、「外地」篇の “I MET" の登場人物達は、一人称が「おら」であったりする矢追純一氏の UFO 番組に登場する「テキサスの農夫」の如き日本語に吹き替えられている。ニューヨークの娼婦達の英語の話し言葉は、恰も1956年の溝口健二の遺作「赤線地帯」の、若尾文子京マチ子の台詞の様な日本語で書き付けられている。

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匿名、或いは匿名扱いの人間ばかりが登場する、「私」の “I MET" =宮内勝典氏著の自伝的(autobiographical)な小説「グリニッジの光りを離れて」(絶版)は、しかしその「第7章」に入るや否や、明確なファースト・ネーム(「名」)+ラスト・ネーム(「名」)を持つ人物が、そのラスト・ネーム(「名」)の中にも「名」を入れて現れる。“I MET" の「外地」篇に於いて、例外的とも言えるその「名」の一人は「河名温(On Kawana)」。そしてもう一人は「河名温」夫人の「ヒロコ」である。

アメリカ行きの旅客機の窓の下に見える東京の街を見て、「ざまあみろ」と胸に呟きつつ「日本」と決別した「私」= “Jiro Sahara"(注3)にとっての「外地」――それは「内地」と対称的な関係にある――に於ける “I MET"。全てが英語でされている会話文を日本語に翻訳したこの “I MET" にあって、例外的とも言える「日本人」同士の日本語による遣り取りの箇所、英語が英語として発せられ、日本語が日本語として発せられている箇所を抜き出したもの。それが「河原温」氏の「肉体」と “MET" した奥村雄樹氏が、2016年2月20日(土)から3月21日(月・祝)まで、京都市立芸術大学ギャラリー @KCUA に於いて開催していた「」展に於ける「グリニッジの光りを離れて――河名温編」というオーディオ・ドラマ(監督・脚本:奥村雄樹)である。

(注3)「宙ぶらりんの名前、あっけらかんとした名前」「抽象的でどこか国籍の曖昧な響き」を意図した「私」の偽名 “Jiro Sahara" 。しかしそれは飽くまでも “Jiro"(次郎)であり “Sahara" (佐原)である。それはフランス語の Giraud でも、アラビア語の صَحْرَاء でもなく、「日本」からの「離脱」を意図した結果として生まれたものだ。因みに1965年東京国立近代美術館で開かれた「在外日本作家展」という田舎臭い名称の展覧会に出品された、「LAT. 31°25' N LONG84°1'E」という「河『原(ら)』温」の作品があるが、その緯度経度が示す場所は、アフリカ大陸の「サハラ」砂漠ではなく、中央アジアの某所である。

言うまでもなく「河名温(カワナオン)」は、奥村雄樹氏と同じく「河原温」氏の「肉体」と “MET" した宮内勝典氏がトレースして作り上げた「キャラクター」(注4)である。そしてまた、「ヒロコ」は「河原温」夫人の「弘子」氏を下敷きにしている「キャラクター」だ。但し、原作の小説で「Hiroko Kawana と、夫人の名前だけ一つぽつんと記してある」と書かれている箇所は、「名」に拘るこのオーディオ・ドラマでは、その “Hiroko Kawana" の「名」が丸々割愛され、それを音声化する事を注意深く避けている様に思える。「な」展のフライヤーに引用されている同箇所も、 “Hiroko Kawana" の「名」は「(中略)」「[snip]」 扱いになっている(注5)。何故ならば、「ヒロコ」のモデルである「河原温」夫人「弘子」氏のラスト・ネーム(「名」)は、“Kawara"(カワラ)ではないからだ。「弘子」氏が持つ複数の名前の中に、“Kawara"(カワラ)は無い。

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(注4)宮内氏にとって、「河原温」氏は「自己形成期に出会った最も重要な師(グル)のひとり」であるという。その一方で、この「グリニッジの光りを離れて」に於ける「河名温」という「キャラクター」には、ニューヨークという大都会でうごめく娼婦たちや、国籍も人種も雑多な人々の描写を前景化する為に「ちょっと三枚目」的な設定を与え、「本当の背丈よりも低く描いた」としている。

(注5)作品キャプションには「渡辺美帆子(河名弘子)」とある。

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御池通に面した広大なガラス窓を持つ「空っぽ」の展示室に入ると、そのオーディオ・ドラマの尻尾の部分が終わり、数十秒の無音の後に、定時から始まるループが再び始まった。5.1ch の「正面」に背を向けて座った。即ち、御池通を身体の左側に位置させた。遥か昔の極めて素朴な LR の「電蓄」の頃から、テクノロジーが主張する「正しい向き」に「拘束」される事が苦手なのだ。

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およそ北緯19度40分、西経99度メキシコ・シティで宇宙人のような地球人と知り合った。河名温という男で、ニューヨークに住んでいると言っていた。

私はその頃カリフォルニアで肉体労働に明け暮れていて、少し金が貯まると、いつも長距離バスに乗ってメキシコへ向かった。安いホテルに部屋を借りて、金が尽きるまで、長い小説を書き続けた。最後に滞在した時は、アメリカに戻ったら不法滞在者になる肚だったので、なかばやけくそな気分だった。

アナーキストの亡命者を訪ねたり、ピラミッドの見物に出掛けたり、娼婦、闘牛と遊び呆けた。その時、ホテルの階下に滞在していた奇妙な男。それが河名温だった。

あれから2年近くの月日が過ぎた。今では私もニューヨークに住んでいる。偽名を使ってスラム街にアパートを借り、トンプキンス公園の裏手にある場末のバーで働き始めた。勿論不法労働だ。日本人との付き合いを避けているが、河名温だけは何故か気になった。

メキシコで手帳に控えた住所を見てみると、“Three hundred forty East Thirteenth Street Apartment twelve" とある。私が住むイーストヴィレッジの西の端、丁度グリニッジ・ヴィレッジとの境になっていた。私はそこに向かって歩く事にした。河名温との出会いを思い出しながら。

タイトル音楽が流れる。そしてその音楽がフェイドアウトすると、メキシコ・シティホテル・モンテ・カルロの客室ドアをノックするSEが入る。中からは “Yes?" という男の声。それに対して「あの…上の階の者です。日本人で長期滞在している人がいると聞いて…」と日本語で返す「私」。“Yes?" を発したドアの向こうの男が、日本語モードに切り変わる。「そう?まあどうぞ」。その時(注6)からメキシコシティに於ける「私」と「河名温」の二人、そしてニューヨークに於ける「ヒロコ」を加えた三人による日本語の時間が開始される。

(注6)小説「グリニッジの光りを離れて」では、「私」が「河名温」に初めて出会った場所は、メキシコ・シティの「マヤ族の土器を展示している小さなギャラリー」であり、そこで「河名温」が「私」にホテル・モンテ・カルロを紹介した旨が書かれている。一方1998年に東京都現代美術館で行われた「河原温 全体と部分 1964-1995」展図録中の宮内氏の文章は、ホテル・モンテ・カルロがファースト・コンタクトの場所である様に読める。オーディオ・ドラマ「グリニッジの光りを離れて――河名温編」は、後者を下敷きにしていると思われる。但し同ホテルの緯度経度は「北緯19度40分、西経99度」ではなく、60進法で北緯19度25分49秒、西経99度8分10秒。10進法で19.4303679、-99.1382722である。

部屋へ入ると、「濃い灰色」(注7)で塗り潰されたキャンヴァスに、スペイン語で今日の日付――6 ABRIL, 1967(注8)――が濡れて光っている。

(注7)「な」展フライヤーの「裏面」(「表(おもて)面」なのかもしれない)は、その「濃い灰色」でベタ印刷(縁取あり)されている。ここにフライヤーを受け取った各々が日付を書けば(想像上でも)良いのだろうか。その場合、「河『原(ら)』温」ルールでは「現地の言葉で記す」から除外された非印欧語族である日本に於いて “Today" を実行しようとする者は、やはり「河『原(ら)』温」ルールに従って印欧語系のエスペラント語で記すべきであろうか。それとも「河『原(ら)』温」ルールを敢えて無視して、日本語で「1967年 4月 6日」の様に記すべきであろうか。加えてその日付は、イエス・キリストが生まれてから1800年後に、ようやくこの惑星に於ける暦の「基軸紀年法」となったキリスト紀元の形式で記すべきであろうか。因みに22世紀には地球上で最大勢力になるとも言われているイスラムの暦=ヒジュラ暦では、“6 ABRIL, 1967” というキリスト紀元の表記は “25 Zhj 1386" になる。「河『原(ら)』温」作品の “One Milion Years" に記された “AD" や “BC" は――それらは同作品の「朗読」による「展示」に於いては、読み上げられる数字の一つ一つに対して付け加えられて音声化される――、“anno Domini"(主=イエス・キリストの年に) や “before Christ"(イエス・キリスト以前)である。そしてその “AD" と “BC" が入れ替わるのは、“One Million Years [Past]" の最後の4ページになる。

(注8)「全体と部分」展図録中には “6 ABRIL, 1968" とある。

ハルビンからの引揚者だった父親に「ニューヨークで、イサム・ノグチという日本人が活躍しているんだ。おまえもあんなふうになれよ」と言われて育って来た「私」にも、その日付だけが描かれたキャンヴァスが何であるかが判らない。「私」は「あっけにとられて」尋ねた。

「なんですか、これ?」
「ん?…んまあ…、ペ、イーン、テイーン、グだよ」

眞島竜男氏が演ずる「河名温」は、その様に「ペインティング」を発音した。山辺冷氏が演ずる「私」は、それよりは “Painting" に近い発音をした。

この場面は、小説「グリニッジの光りを離れて」ではこの様に書かれている。

河名温は「うーん」と困惑したような声を洩らした。そして、つねに同じことを質問され、そのたびに同じ答をしているらしく、いたずらっぽく煙にまきつつ、こちらを試すようなある独特のニュアンスをこめて、
「Painting だよ」と言った。
「え、これが?」
と訊き返しながら、なにかしらぴんとくるものがあった。Painting――つまり絵であると言いながら、同時に、絵を描くという動詞を現在進行形にする ing の発音に力がこめられていた。

このオーディオ・ドラマに於ける「ペ、イーン、テイーン、グ」は、「ing の発音に力がこめられていた」とするには余りにも日本語訛りだ。果たして1967年4月6日に、メキシコシティのホテル・モンテ・カルロの一室で、宮内勝典氏が聞いた「河原温」氏の “Painting" が――「河原温」氏の口から実際に発せられたとして――その様に発音されていたのかどうかは判らない。

いずれにしても、眞島竜男/「河名温」による「ペ、イーン、テイーン、グ」は、日本語に挟まれて/日本語に引きずられて発せられる英語の特徴を良く捉えているとも言える。そして同時に、「河名温」の日本語の日常会話の中に挟まれる「アート」の用語が英語であるのは、何処まで行っても欧や米のものであり続ける事を止められない「アート」――欧や米のものである事を止めてしまったら、その瞬間に「アート」という概念そのものが消滅してしまうだろう――の世界に入り込んで行くには、「アート」の「基軸通貨」である英語への切り替えが不可欠であるという、“One Million Years [Past]" の最終ページのその末尾の辺りで確立された「アート」の「スタンダード」に合わせていると見る事も可能だ。「アート」の「スタンダード」である英語を発する事で、「河名温」は「On Kawa“Na”」に切り替わる。その時、1950年代の彼の仕事を憶えている日本人が、相変わらず漢字三文字で書いてしまう「河『名(な)』温」の重力圏からも離脱するのである。

“Painting" という現在時制の動詞は、未だにその着地点を見出だせないでいる「絵画」という日本語の名詞では翻訳し切れないものがある。「絵画」という日本語から発想していたら、何時まで経っても何処まで行っても、「アート」の「スタンダード」である英語の “Painting" には至り付かない。だからこそ「河『名(な)』温」の「絵画」(=日本語)は、「印刷絵画(insatsu-kaiga)」辺りで終わったのだろう。

「でも、あの、これ、毎日書くわけですか?」
「そう、終わりのないゲームなんだよ。死ぬまで楽しめるからな。ヘヘヘへへへヘヘ」

このオーディオ・ドラマに於ける「私」が宮内勝典氏(1944年10月4日生まれ)であったとして、1967年4月6日にホテル・モンテ・カルロで「河名温」の部屋を訪れた「私」は、常に「未満」の状態に居続けようとしている若干22歳の何者でも無い者だった。そしてその「私」は「河名温」が「何者」であるかを「知らない」。「私」にとって、目の前にいる36、7歳の日本人男性は、「宇宙人のような地球人」「奇妙な人間」「神に雇われた書記のような男」である。「河『名(な)』温」が「何者」であるかを「知っている」者――「河『名(な)』温」の部屋を訪れる者の多くはそうだろう。それは〈あの「河『名(な)』温」に会う〉といった様な訪れ方をする――とは全く異なるアプローチで「奇妙な男」と向かい合う「私」。「正体不明」の男と正体不明であろうとする男の関係。

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アーティスト「河『名(な)』温」の「名」を知らない、例えば「美術手帖」誌を隅から隅まで読む様な事をせず、同誌1965年12月号の「その後の河原温 ニューヨークのアトリエを訪ねて」(本間正義氏筆)の冒頭の「最近の河原温氏」の写真に目を通し、網点の掛かった「河『名(な)』温」の顔を知る事の無いコンテンポラリーアートの門外漢である「私」の前では、「宇宙人のような地球人」は殊更に「河『名(な)』温」に切り替わる必要性を感じなかったのかもしれない――但し実際には切り替わってはいる。「私」がその切り替わりを認識出来ないだけだ。

「私」と「宇宙人のような地球人」、そしてニューヨークのアパートメントに於ける「宇宙人のような地球人の妻」を交えたこのオーディオ・ドラマに於ける日本語による会話は、日本語が最も染み付いている者同士の等身大のものだ。

ホテル・モンテ・カルロでの出会いから暫く経ち、ニューヨークで “Jiro Sahara" の「偽名」で不法労働をする「私」は、「宇宙人のような地球人」が住む1900年に建てられたニューヨークのアパートメントのドアを叩く。中から “Yes?" の声がする。「私」は英語で尋ねる。“Is Mr. On Kawana here?"。“Who are you?" とドアの中の男の声。“My name is ..."。そこまで「私」は言い掛けたところで、突然スイッチを日本語モードに移し、自分が何者であるかを「名」ではない形で告げる。「あのー、メキシコで、ほら、モンテ・カルロ・ホテル」。その途端、ドアの奥の声もまた日本語モードになる。「ああ、その時の」。二重鍵を開け、鉄の突っかい棒を外すSE。

日本語の時間に「神に雇われた書記のような男の妻」が加わる。「神に雇われた書記のような男」が「私」の「名」の綴を尋ねる。彼の “I MET" にその「名」を記す為に。「私」は本名の綴を「神に雇われた書記のような男」に教える。

「パスポートの名前を書いたのは、ニューヨークに来てから初めてですよ。まるで宇宙空間へ流すタイムカプセルに自分の名前が登録されたような感じがするな」
「ああ。そう」

その日は突然やって来た。

昼が長くなってきた。アパートの入口に溢れる光を眺めていると、ひまわりが光の方へ首を回すように、北半球が私たちを載せたまま太陽ににじり寄っていく気がする。

その日、河名温はアルファベットや数字の洪水の中で、そのまとめに追われていた。絵葉書や電報を日付の順番通り、一枚ずつ小さな額縁に収めている。壁ぎわには、厖大な量の日付のキャンヴァスがぎっしり立て掛けてあった。

「あれ、今日は部屋の整理ですか?」
ニューヨーク近代美術館で展覧会が開かれるんだ。『概念美術の動向』っていうんだけど、それに作品を出すように招待されてね」
「えっ、作品?」
「うん。まあオープニングには出席しないけどね。僕の仕事は作品を作る事で、展覧会を作る事ではないからなあ」
「へえええ。そうですかあ」
「おいおい、100年のカレンダー、額から出してくれよ。ぎりぎりまで続けたいから」
「あら、そうだったわね。わかりましたよ」

作品? 美術館? そうか…。絵葉書も電報も、別に虚空へと発信された訳ではないんだ。それぞれの受取人が作品として保管していて、今度の展覧会の為に回収されたということか。なんの変哲もない日付を記し、出会った人々の名前を執拗に書きとめ、この惑星で生まれて死んだ全ての人々の為に、宇宙誌的な墓碑銘を刻んでいる様に見えた行為も、全て作品だったのだ。無名の一日一日を生きる俺が、神の日雇い書記によって記録されている。そう感じていたのに、まるで墓をあばかれたような気分だ。

「あのぉ。忙しそうだから、今日はこれで……」
「ばたばたしていて、ごめんよ。来週は暇になるから」
「ええ、また来ます」

 「途方もない奥行を孕んでいると思えたその行為が、あっさり社会化され、一種のからくりとなって美術館に納まることが淋しかった(宮内勝典グリニッジの光りを離れて)」。「神に雇われた書記のような男」ではなかった「河『名(な)』温」の前から立ち去る「私」。ドアのSE。溜息。

再び「河『名(な)』温」の部屋を訪れる「私」。預けていたパスポートを取りに来たのだ。「私」は空の青に「有機的な水の深さ」を孕んでいる「好きになりそうだった」この街、そしてこの国から出る事を決意した。

再入国を諦めたアメリカからメキシコに行き、そこからパナマまで降り、ヨーロッパ行きの船を探し、スペインから北アフリカに渡り、シルクロードを通ってインドまで行く。人間の生と死が光を放っている様な場所。一人の人間には余りに広過ぎる「空間」的広がりを持つこの惑星の上を、這う様に移動する「私」。

「河『名(な)』温」との別れの前に「河『名(な)』温」の “I MET" を再び見る「私」。

十日に一度ぐらいの間隔で、私の本名が記されていた。日付を見てもほとんど何にも憶いだせない。だが、スラム街の底でもだえ、バーで働き、娼婦たちを抱いた日々が、その余白に刻まれている気がした。この男はやはり神の日雇い書記だ。作品だろうと何だろうと、俺は確かに記録された。

ドアが閉まるSE。“I MET" = “ON KAWA'NA' MET" の「余白」。その「余白」に「俺は確かに記録された」。「名(日付)」と「名(日付)」の間に。

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「じゃあ、あっちに積み上がっている紙は何ですか? すごい量ですね。どうれどれ、BC 998129、BC 998128、BC 998127…。BCって事は紀元前の年号か。何です?これ」
「何って、えー、100万年分の年号だよ」
「ああああ、こっちは100年でなくて、100万年分」
「紙一枚に4段組で500年分タイプ出来るんだけど、それでも全部で2000ページになるんだな。でも人間の文明は、最後の10ページしか無いんだ。ハハハハハ」
「それにしても、その100万年の間に、一体何人の人間が生まれて死んでいったんだろうなあ」
「一説ではね。ざっと見積もって1000億人だって言うけれど、どの辺から人間に入れるのか、類人猿との境はどの辺で区切るのか、それがどうも曖昧で根拠が無いんだなぁ」

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2014年7月10日、デイヴィッド・ヅウィルナー・ギャラリー(David Zwimer Gallery)は “It is with great sadness that the gallery announces the passing of On Kawara" とアナウンスした。dead とは書かれていなかった。それはそのアナウンスが “On Kawara" に関するものだからだ。“On Kawara" が passing したのと全く同じ時間に dead したのは、別の名前を持つ人物であるという事なのだろう。

例えばここに“134 GREENE ST. NEW YORK" にオフィスを構える “ONE MILLION YEARS FOUNDATION INC" と「名」付けられた財団に関する公文書がある。

http://www.guidestar.org/FinDocuments/2014/134/177/2014-134177993-0c24252a-F.pdf

その “Part VIII Line 1" の “List all Officers, directors, trustees, foundation managers and their compensation" には、“AKITO KAWAHARA" “HIROKO KAWAHARA" “SAHE YOSHIOKA" “KASPER KONIG" と並んで、“ON KAWAHARA" という人物が記されている。2014年の compensation はゼロだ。

f:id:murrari:20160503085738p:plain“AKITO KAWAHARA" “HIROKO KAWAHARA" と同じラスト・ネーム(「名」)を持つ “ON KAWAHARA" 氏のアドレスは、“140 GREENE STREET NEW YORK" で前ニ者と共通している。

恐らく dead したと幾つかの公文書に記載されているのは、「肉体」を持つ “ON KAWAHARA" 氏という事になるのだろう。それは「1000億人」の中に組み入れられる死である。

一方「意識」としての「河『原(ら)』温」はまだ生きているという見解がある。デイヴィッド・ヅウィルナー・ギャラリーの “passing" という表現もそこから来ているのだろうか。勿論その「まだ生きている」はオカルト的な意味ではない。であれば、その「まだ生きている」はどの様にして可能になるのか。

例えば仏教経典の一つである「妙法蓮華経」、所謂「法華経」の「如来寿量品第十六」には、釈迦牟尼仏の「言葉」として「為度衆生故 方便現涅槃 而実不滅度 常住此説法(衆生を仏の世界へ導くために、教化の手段として入滅の姿を現したが、実際には入滅していない。私は常にここに留まって法を説き続けているのだ)」とある。“I AM STILL ALIVE"。それが「法身」という考え方を生み出したりもする。

しかし現実的に dead した釈迦牟尼仏を「久遠常住」させているのは、その法を伝えて行く釈迦牟尼仏ならぬ者による不断のアクティビティによる「繰り返し」である。「繰り返し」を担う人類が不在の場所では「法身」は意味を成さない。だからこそ仏教で重要視される「三宝」の中に、「仏(Buddha)」と並んで「法(Dharma)」と「僧(Sangha)」が入れられる。

「私はまだ生きている」は、それが確実に途切れてしまう現実と背中合わせだ。誰もが「1000億人」の死の中に組み入れられる。しかしだからこそ「私はまだ生きている」は普遍性を持つ。「1000億人」が「私はまだ生きている」を自分の言葉として発する事が出来る。“I AM STILL ALIVE" というツイートには、アーティストの発信者「名」は必要ない。それぞれの「名」に於ける「繰り返し」としてそれはある。“I AM STILL ALIVE" は、ウォルト・ディズニーが dead しても、ディズニーの「名」で作り続けられ、ディズニーのものとしてあり続ける「ミッキーマウス」とは違うのだ。“passing" とは球技に於ける「パス回し」の様な「受け渡し」なのではないだろうか。

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「自転(日)」の世界がズームアウトし、「公転(年)」の世界がズームアウトし、そして「名」の無い「余白」の世界に入って行く。

オーディオ・ドラマには「宇宙人のような地球人」という言葉があった。果たして「宇宙人」とは何処に済まい、何処までの行動範囲を持つ者の事を言うのだろうか。「神に雇われた書記」という言葉があった。その「神」はこの「余白」ばかりの遍きに等しく書記を送っているのだろうか。

「河『原(ら)』温」の “One Million Years" には、「地球」と呼ばれる平凡極まりない惑星の「公転」回数が[Past][Future]共に100万回ずつ記されている。全宇宙のスケールからしてみれば、非常に短い100万「年」だ。100万「年」というのは偏に「人類」の「起源」とその「進化」に即した時間である。だからこそ “One Million Years" には “For all those who have lived and died.”(Past)、 “For the last one.”(Future)と書かれている。「河『原(ら)』温」が扱う対象は、常にこの「地球」のこの「人類」スケールという「狭さ」に収められている。そして “Today" や “I ~" に於ける個人的(pesonal)/自伝的(autobiographical)なスケールは、この「地球」のこの「人類」の中に収められるものとしてある。

考えても見れば、「河『原(ら)』温」という「狭さ」としての「名」それ自体も「余白」であったのではないか。29771日の始まりと終わりの間に生じた「余白」。「名」付けるというのは「余白」の可視化だ。従って「河『原(ら)』温」という「名」は「狭さ」を伴ったものとしてなければならない。

「名」付けられた「余白」は、「名」付けられた別の「余白」と重なり合う。“I MET" を蝶番として。“A MET B" は即ち “B MET A" であり、“A MET C" は即ち “C MET A" である。そして “B MET C" があり、同時にそれは “C MET B" になる。そうした “MET" によって新たに「余白」に「名」が付けられる。

同じ @KCUA で行われていた「グイド・ヴァン・デル・ヴェルヴェ個展 無為の境地」と「名」付られたものの「余白」の様な「な」と「名」付けられた展覧会。“killing time" MET “Na"/“Na" MET “killing time"。

“I MET [I MET]"。“I MET [I AM STILL ALIVE]"。MET は「受け渡し」としての passing である。「受け渡し」は「長引かせる事」とは異なる。そして「受け渡し」だけが「狭さ」を越えられる。その一点でのみ〈「河『原(ら)』温」はまだ生きている〉は正しい。