キセイノセイキ

「MOT ✕ ARTISTS' GUILD の協働企画」である「キセイノセイキ」展は、「MOTアニュアル」枠に収めらている。

東京都現代美術館学芸員のキュレーションによって「日本の若手作家による新しい現代美術の動向を紹介する」というのが「MOTアニュアル」のこれまでのフォーマットだった。しかし今回の「キセイノセイキ」展は、「MOTアニュアル」と銘打たれてはいても、そのフォーマットに準拠する限りに於いては、「MOT ✕ ARTISTS' GUILD の協働企画」であるという点、更に「日本の(現代美術の)若手作家」とは言えない/言い難い作家が半数以上含まれている(注1)点で、実質的には「MOTアニュアル」とは別物の展覧会と見るのが良い様な気がする。事実上「MOTアニュアル」の2016は欠番という事になるかもしれない。従って、ここでの本展の名称は、「公式名」の「MOTアニュアル2016 キセイノセイキ」ではなく、単に「キセイノセイキ」とする。

(注1)11名の参加作家の平均年齢は――西暦2016年マイナス生年という大雑把な計算で――41.36歳(小数点2位以下切り捨て。以下同)になる。ここから2名の「外国人」を抜いた9名の平均年齢は38.88歳。更に「現代美術」にカテゴライズし難い横田徹氏、古屋誠一氏を除いた7名の平均年齢は34.14歳である。また美術界で慣例的に「若手」と「中堅」を分ける年齢とされてもいる35歳以下の作家は11名中4名(遠藤麻衣氏、増本泰斗氏、高田冬彦氏、齋藤はぢめ氏)であり、その平均年齢は30.00歳になる。更に本展出品作の制作当時の年齢から算出すれば、それぞれの平均年齢はこれらより少しだけ下がるだろう。

「キセイノセイキ」展の「展示企画・設計」は、参加作家も兼ねる1976生まれの小泉明郎氏(アーティスツ・ギルド)、1981年生まれの増本泰斗氏(アーティスツ・ギルド)の2名に加え、1969年生まれの森弘治氏(アーティスツ・ギルド)、1980年生まれの吉﨑和彦氏(東京都現代美術館)の4名(40歳、35歳、47歳、36歳。平均年齢39.5歳)によるものであると公式にアナウンスされている。「アーティスツ・ギルド(ARTISTS' GUILD)」所属を前面に押し出した3名と、「東京都現代美術館」の学芸員1名という構成だ。「キセイノセイキ」展の入口に提示されている、「アーティスツ・ギルド」名の宣言文めいたもの(注2)の表現に即して換言すれば、「無責任な立場」と自らを定義付けた3名と「組織にいる人間」と定義付けられた1名という事になるのだろうか。

(注2)

空気に隠されている本質を読み取れ。内なる炎を燃え立たせ、熟知していると思い込んでいる領域を改めて探検するのだ。許可を得ようとするな。赦してもらえればいいのだから。必要なら、一晩くらい拘置所で過ごすことも悪くはない。自分の運命は自分の手の内にある。己の「声」をたちあげよ。

 

組織にいる人間の恐れを垣間見ている。無責任な立場から。やがてその眼差しは逆照射される。果たして自分の正義は、振りかざせるほど正しくて強いのだろうか。ディレンマ。複雑だ。むしろ、そうした状況こそ、毛穴をかっぴらいて見つめなおすのだ。

 

自分の運命は自分で掴み取れ。

 

己の「声」をたちあげよ。

 

アーティスツ・ギルド

因みに同「宣言文」の参照元と書かれている Werner Herzog の “24 pieces of life advice" とは

1. Always take the initiative.
2. There is nothing wrong with spending a night in jail if it means getting the shot you need.
3. Send out all your dogs and one might return with prey.
4. Never wallow in your troubles; despair must be kept private and brief.
5. Learn to live with your mistakes.
6. Expand your knowledge and understanding of music and literature, old and modern.
7. That roll of unexposed celluloid you have in your hand might be the last in existence, so do something impressive with it.
8. There is never an excuse not to finish a film.
9. Carry bolt cutters everywhere.
10. Thwart institutional cowardice.
11. Ask for forgiveness, not permission.
12. Take your fate into your own hands.
13. Learn to read the inner essence of a landscape.
14. Ignite the fire within and explore unknown territory.
15. Walk straight ahead, never detour.
16. Manoeuvre and mislead, but always deliver.
17. Don't be fearful of rejection.
18. Develop your own voice.
19. Day one is the point of no return.
20. A badge of honor is to fail a film theory class.
21. Chance is the lifeblood of cinema.
22. Guerrilla tactics are best.
23. Take revenge if need be.
24. Get used to the bear behind you.

 というものである。

本展の「展示企画・設計」に、「アーティスツ・ギルド(ARTISTS' GUILD)」がその75%を占めるまでに「契約」された経緯は必ずしも明らかではない。そうした情報は公式レベルでは開示されていない。本展を紹介した一般ジャーナリズムや美術ジャーナリズムは、その状況に些かも疑いを挟む様子も見せずに、同展の広報紙/広報誌を買って出ている。

仮に橋本聡氏の本展出品作品「TVを置く」が美術館に開けられた「穴」であるとしても、普段なら他ならぬその「TV」に「検閲」や「規制」の存在を大いに感じ取り、そのジャーナリズムの「広報」化した「劣化」ぶりに暗澹としている様な人間が、美術館に置かれたオンエア中の「TV」を、「可能な限り偏りのない報道を行う」という横田徹氏の「努力」に思いを致さないまま、本展出品作品である小泉明郎氏の「オーラル・ヒストリー」中の、「誘導」に乗せられるままに乗せられたツルツルの唇から発せられるツルツルの言葉の様に、無邪気なまでに「穴」と言わねばならない程に、美術館はアンタッチャブルな「空気」であるという事なのだろうか。

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「キセイノセイキ」展の英語タイトルは、“Loose Lips Save Ships" という事になるらしい。それは第二次世界大戦時、アメリカの War Advertising Council(戦時広告評議会)によって作成された “Loose lips (might) sink ships"(緩い唇は船を沈める=情報を漏らすと味方の損害を招く≒口は災いの元)というプロパガンダの “sink" を “save" に反転したものなのだろう。“Loose Lips Save Ships" は「情報を漏らす事で味方の損害は防げる=緩い唇は船を助ける」というところだろうか。であるならば、本展では多くの “Loose lips" 、即ち多くの情報開示と、それによって生まれる相互了解へと至る議論の為のプラットフォーム構築こそが重要になる。

本展の藤井光氏の作品「爆撃の記録」でクローズアップされた、東京都の「東京都平和祈念館(仮称)」の建設が「凍結」されるに至った切っ掛けの一つは、その建設にあたっての情報開示の不徹底という「穴」を突かれた事による(注3)。そこから「史実とは言いがたい捏造された物語」(藤井光氏による「爆撃の記録」コメント。後掲)問題に発展し、その着地点が全く見えない「東京都平和祈念館(仮称)」建設の「凍結」が決定されるのである。“Loose Lips" =情報の公開性とその公共性を巡る議論の不徹底が「東京都平和記念館(仮称)」の「凍結」を結果的にもたらしたとすれば、果たして「東京都平和祈念館(仮称)」同様、「美術」を “sink" させない(という立場に彼等は立っているのだろう)為の “Loose Lips" は、この「キセイノセイキ」展で十分にされているだろうか。

(注3)参考:1997年10月23日、1997年12月18日、1998年3月18日、1998年4月23日、1998年7月30日、2012年2月17日東京都議会文教委員会議事録。

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「キセイノセイキ」展を見に行ったのは、「当事者」の片割れによる「事実」の「公表」が次々に始まる前の、4月21日という――今になって思えば――「中途半端」な日だった。美術手帖で本展のレビューを書いた沢山遼氏も、artscape で本展のレビューを書いた福住廉氏も、自分よりもより「中途半端」な日に、本展を見てそれらを書いたのだろう。

いずれにしても、東京都現代美術館のチケット売場に到着するまでに片道10時間掛かる――ほぼ羽田←→ロサンゼルス間という事になる――ところに居住している人間が、同館の開館日/開館時間に合わせて、数ある「東京地方」の展覧会の一つである同展に数時間を割けられるのはこの「中途半端」な日しか無かった。

但し実際には、4月21日までに何回か「行ける」日はあった。沢山氏や福住氏等によるレビュー、及び SNS 上の数々の報告を見ていて、本展の大まかな状況を把握していた為に、重くなってしまった腰が上げられなかったというのが本当のところだ。このまま同展を見に行かなくても一向に構わないとすら思ってはいたが、結局他の展覧会の合間についでにそれを見る――それでも結局3時間半はMOTにいた――という選択をした。

アルトゥル・ジミェフスキ氏の作品は、商業エンターテイメント的な撮り方や、同じく商業エンターテイメント的な落ちも含めて「楽しめた」。横田徹氏の作品では戦場に連れ去られた目になった。これらはこの「キセイノセイキ」展に「寄生」しなくても十分に機能し得る作品だ。

その一方で「美術館」(乃至は「美術」)相手に「戦っている」人達の方はと言えば、4月21日段階では「抽象直接行動198の方法(仮)のリスト」のペーパーは床に積まれていた。但し「ロサンゼルス」までそれを持って帰るのが難儀なので手には取らなかった。4月21日を前に、「抽象直接行動198の方法(仮)のリスト」の PDF を見てはいた。

沢山氏や福住氏が見たのと同様、相変わらず「空気」は「小泉明郎 空気 2016 アクリル/カンヴァス、空気」のキャプションのみの、使い古された自己言及的な「仄めかし」状態以上でも以下でもなかった。

「作家側と美術館側の間で著作権侵害の可能性について意見の相違があるため、現在、双方の間で出品について協議中」として非公開だった「✨今日から展示されています✨」の壁掛けの作品は、大山鳴動の後何事も無かったの様にそこにあった。

これらについては、事実として何が起きているのか/何が起きていたのかの “Loose Lips" が全くと言って良い程示されてはいなかった。この状態を元に生半な――自分が思いたい様に思う――「推測」をしない事を、美的な意味で自らに律するならば、「美術館では静かにしましょう」とも「テープで口を塞いでください」とも異なる、それらについて何事かを言う事を予め禁じられている様な「沈黙」を強いられているという気分(モヤり)にさせられるものだった。

もしかしたら、その全てが「規制」或いは「検閲」による「言論統制」の結果として見える様に「誘導」(その「誘導」を狙っているのだろう)されてしまう「キセイノセイキ」という魔法の言葉/呪いの言葉を掛けられた「欠如」の幾つかは、“Loose Lips" 以前に、単純に “Loose" でしかないものから生じている結果なのではないかとも思ったものの、しかし「当事者」的には「憶測」や「誤認」とされかねない「推測」でしかない為にそれを飲み込む事にした。

 それと同時に、その「欠如」の全てが何らかの「権力」による「規制」或いは「検閲」による「言論統制」故に生じているという「推測」も、当然の事ながら飲み込んだ。こうして本展に対しては、全ての「推測」を禁じる自己規制を発動させる/発動させられる事になった。

「ロサンゼルス」人が「キセイノセイキ」を見た2日後の2016年4月23日、東京都現代美術館近傍の「無人島プロダクション」からこの様なツィートがされた。

ツィート中のリンクを踏んでみると、そこには多くの者にとって2016年4月23日当日になって初めて知る事ばかりが書かれていた。曰く「キセイノセイキ」オープン後に、「無人島プロダクション」に対して小泉明郎氏が情報開示をする事で「小泉明郎展『空気』」展開催が決定された事。「キセイノセイキ」会場で何も無かった壁は、「展示することのかなわなかった」作品=「天皇の肖像」の痕跡である事(注4)。こうして数々の「事実」が、「当事者」の片割れである小泉明郎氏の視点を元にして報告された。

(注4)それより3日前(4月20日)に、吉崎和彦氏が不参加(注)の中で「密室」で行われた「美術手帖」2016年6月号「アーティスツ・ギルド」メンバーばかりの座談会(2016年5月中旬発売)「『MOTアニュアル2016 キセイノセイキ』展企画者と参加作家が語る、アートと自主規制」の中で、小泉明郎氏は「天皇の肖像作品」について触れている。
(注4の注)日本経済新聞5月11日付同展のレビューには、「なお、美術館は同展の個別取材に応じていない。『担当者の展示に関するコンセプトがいまだ深まっていない』のが理由という」とある。

この機を逃してはならじと、「無人島プロダクション」及び「キセイノセイキ」行きに腰を上げようとする者――主に「東京地方」在住者――が続出する。しかし「ロサンゼルス」人としては、片道10時間の「空気」展を見に行く為に、多くのリソースを割く事は現実として出来ない。遠方からこの「東京地方」の展覧会の成り行きを――ネット越しに――見るとも無く見る事にした。

「空気」展開催を知らせる「無人島プロダクション」によるツィートがされてから更にその4日後、紙媒体の「美術手帖」2016年5月号が発売されて10日ばかり後の4月27日、小泉明郎氏は、「沢山遼さんの美術手帖での批評文に対しての穴埋め(注5)という文章を、「アーティスツ・ギルド」のサイトで発表した。

(注5)そのURLは、“http://xxxmot.artists-guild.net/沢山遼さんの美術手帖での批評文での誤認につい/" である。

沢山遼氏の「憶測」/「誤認」(注6)を糺す/正す形で、ここでも「当事者」の片割れである小泉明郎氏の視点から観察された「事実」が列挙されている。沢山遼氏の「憶測」/「誤認」が美術手帖に掲載される事が無かったとしても、果たしてこの「事実」を記したレスポンスが――展覧会開催後約2ヶ月のタイミングで――出たかどうかは判らない。

(注6)沢山氏の文中では「推測」と表現されている。

2015年2月21日・22日に東京都現代美術館(MOT)で開催された、「ARTISTS' GUILD と共同企画」の「東京都現代美術館開館20周年記念」のトークセッション、「ARTISTS' GUILD:生活者としてのアーティストたち」からの流れで、「アートと生活」が「MOTアニュアル 2016」のテーマになるのではないかという「推測」/「憶測」もされ――沢山遼氏の「推測」はそこから来ていると思われる――、またその参加作家が「トークセッション:芸術の未来」の「若手」の中から出るのではないかという「推測」/「憶測」もされていた。

参考:「トークセッション『ARTISTS' GUILD:生活者としてのアーティストたち』をめぐるツイートいろいろ」 http://togetter.com/li/780056

沢山遼さんの美術手帖での批評文に対しての穴埋め」には、「MOTアニュアル 2016」に関して「労働やお金の問題を扱う展覧会」と「表現の自由を扱う展覧会」の両案があったものの(それは多くの者が2016年4月27日に初めて知る)、前者は「アーティストの労働やお金事情の展覧会をするには、組織内のお金の流れも扱わなければならなくなる可能性があり、そのような展覧会の設計は相当ハードルが高い」という理由から取り下げられ(それは多くの者が2016年4月27日に初めて知る)、「それでは表現の自由や検閲などを扱った展覧会はできないかということで、議論がすでに進められていた状況」(それは多くの者が2016年4月27日に初めて知る)であった矢先に「会田家作品撤去問題が起こった」(その先後関係は多くの者が2016年4月27日に初めて知る)。

一つの作品を決定し、その許可を得るのにどれだけの労力と時間が費やされてきたことか。一枚紙を展示空間に置くことにどれだけのエネルギーとストレスが費やされてきたことか。普通の展覧会を作るプロセスではありませんでした。そして、その裏でどれだけの欲望が断念されたか。それでも、美術館はこの展覧会企画を許諾し、数々の摩擦の中、展覧会は作られていきました。

2016年5月17日発売の「美術手帖」6月号に掲載された座談会「『MOTアニュアル2016 キセイノセイキ』展企画者と参加作家が語る、アートと自主規制」には、こういう箇所がある。

藤井 明郎さんはなぜ、経緯を会場で公開しなかったのですか?
小泉 展示プラン段階では、そうした展示できない理由も詳細に記し、誰の判断でなぜダメだったのか、ちゃんと理由を告白するような展示にしたいという意図がありました。しかし、アーティストが作品を取り下げることは、自分の判断の範囲で、ある意味では容易にできるし、そのことを口にすることもできる。ただ、キュレーターが却下をすることは、立場上、相当の覚悟が必要だと学びました。だから、そうした理由も展示してほしくないと言われ、長谷川さんを内面化したのかもしれない。まさに自主規制です。ゲリラ的に置くことも、できないことはない。でも、自分がなぜそれをやろうとしないのか。面と向かって「できない」と言われたとき、どうすればよかったのか。自分の身体も判断も硬直してしまいました。またこの流れで伝えなければならないのは、私は企画者の一人として、橋本聡さんにある作品を設置しないようにお願いしました。現場の状況が限界を超えたと判断してのことでしたが、表現を規制し管理する側にもなりました。

 この引用文(4月20日「美術手帖」座談会)は、その一つ前の引用文(4月27日「沢山遼さんの美術手帖での批評文に対しての穴埋め」)の「一つの作品を決定し〜」に「被害者」と「加害者」が入れ替わる形でループする。「欲望」を「断念」させられた人間が、他者の「欲望」の「断念」を即す側に回る。それは「キセイノセイキ」展に於ける「被害者」(それはまた「システム」の一部である)の言明の誠実性に関わる重要なファクトであり、何を置いてもこれをなおざりにしてはならないものだ。

無人島プロダクション」の「空気」展は、ギャラリー入口の画像ばかりを見せられた。2週間ばかりで再び非公開となった「天皇の肖像作品」が具体的にどの様な作品であるのかも、数枚のA4の紙に記されているらしい文章も、「ロサンゼルス」からは「空気」展や関連トークを「体験」した者による大雑把な報告、或いは備忘的な書き起こしの断片から「推測」するしか無い為に、それについても全ての判断を保留している/自己規制している。

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それを「作品」として良いとも悪いとも評する事はしないが、キャプションに打たれたコラム番号――例:コラム「A-3」が、「東京都平和祈念館(仮称)」建設を「凍結」させるに至らしめた「軍事都市」になっている――から判断するに、丹青社制作による展示プラン初期バージョン(後のバージョンでは「軍事都市」の記述が削られている)の「再現」であると思われる藤井光氏の作品「爆撃の記録」の「入口」には、この様な詩句が「無記名」で提示されている。

幾人が死んだのか?
その数を誰がわかろうか?
あなたの痛みから、
人の手による地獄の業火によって焼かれた
名もなき人々の苦しみを、
人々は知る。

 

How many died?
Who knows their number?
In your wounds we can see your agony
of the nameless who burned here
in a man-made hell.

 

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Wie viele starben? Wer kennt die Zahl?
An Deinen Wunden sieht man die Qual
Der Namenlosen die hier verbrannt
Im Höllenfeuer aus Menschenhand.

 そして作品の「出口」に「藤井光」名の文章があり、その文章の最後に、最初の文章の引用元が明かされている。

最後に、展示室の入り口の言葉は「ドレスデン爆撃はイギリス・アメリカ連合国によるホロコーストだ」と主張するネオナチ(注7)の聖地としても知られる、ドレスデン・ハイデ墓地にある空襲犠牲者のための慰霊碑に刻まれた言葉であることを記しておきます。

(注7)その「ネオナチ」の紋章の一つにはこういうものがある。飽くまでも図像的なレベルに限定して言えば、「ネオナチ」の “fist"と「アーティスツ・ギルド」のロゴの “fist"は重なってはしまう。果たして両者の “fist" 表現に託すメンタリティの共通性に関してはどうだろう。

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その直前のセンテンスにはこう書かれている。

この展示空間で想起された歴史は、戦争体験者や歴史家にとって史実とは言いがたい捏造された物語かもしれません。それでも、私自身がこの作品を作る勇気を得られたのは、爆撃で生じる各々の一回性の死を想像したからです。忘却に抗するのは、歴史認識の一致をみた正義なのか、それとも、各々の単独的な想起なのか、私は考え続けています。

やはりそれぞれの立場を、「加害者」と「被害者」、或いは一面的な「悪」と「善」に固定化しもする「正義」に繋がる「キセイノセイキ」という魔法の言葉/呪いの言葉=「誘導」はいらなかったのだ。

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敢えて「キセイノセイキ」展を2015年の「生活者としてのアーティストたち」からの流れで考えてみる。アーティストの生活は確かに概ね悲惨なものではあるだろう。しかしそんなアーティストにも原資というものはある。勿論「才能」は原資の一つだ。しかし或る意味でそれよりも重要な原資は「信用」である。

「信用」という原資はこれまでの多くのアーティストによって築き上げられ、また同時に多くのこれからのアーティストからも借りているものである。その共有財産としての「信用」こそが「表現の自由」を担保する。

「キセイノセイキ」展について言えば、随分と「信用」を食い潰してしまったという印象がある。そしてそれは、将来のアーティストの「信用」も多く含まれる。しかし改めて言えば、アーティストの原資たる「信用」の全ては「借り物」なのである。決してそれは無尽蔵ではない。使ったら使った分だけ補填する必要があるのだ。

「アート」が自縄自縛(=自己検閲)している戦略的要求者という在り方から、了解志向的要求者へと脱皮出来るのは、果たして何時の事になるのだろうか。