具象と抽象

ある朝、あなたがなにか気掛かりな夢から眼をさますと、自分が寝床の中で小学校の校長に変わっているのを発見した。姿形は昨夜寝付く前と何ら変わっていなかったが、世界の中のあなたの役割だけが小学校の校長に変わっていたのだ。しかし、事の子細を観察、分析している暇はない。なぜならば、既にあなたは職場である小学校に遅れそうな事を知っていたからだ。


あなたがようやく滑り込んだ小学校は、総生徒数1000人の今時珍しいマンモス校であった。校長室のドアを開けると、そこには若い男が立っていた。


「ようこそ学校へ」


教頭だという、派手な服装の軽薄そうな若い男はそう挨拶をした。青のジャケットに緑のズボン、ジャケットの下のシャツは赤く、一面に「×」模様がプリントされていた。しかし今日初めて会う筈の彼を、あなたは以前から知っていた。


「早速ですが、校長。本日の全校生徒対象の身体検査の件なのですが」


あなたは確かに、以前からその話を知っていた。


「身体検査ですから、男の子を体育館、女の子を集会室に分けたいと思っているのです」
「当然の事です。教頭先生」
「この件については一般の先生方が、すべて作業いたしますので、校長はここに詰めていただいて、先生方に指示を出していただきたいのですが」
「わかりました」
「それでは、先生方にご挨拶をお願いします」


壁を一枚隔てた職員室にいる教師達のほとんどは若かった。皆一様に、顔に笑顔が貼り付いている。服装も異様にカラフルだ。赤いボタン、黄色いボタン、緑色のボタン。


「ようこそ学校へ」


どうやらここでの挨拶は「ようこそ」らしい。「ようこそ」は友愛の表現のようだ。ここはまるでテーマパークのように友愛的であり、楽しげであり、そして薄っぺらだ。注意深く見てみると、職員室のテラス側には年配の男たちがいて、そこはガラス窓で仕切られていた。彼らは若い教師とは違い、全くと言っていいほど薄っぺらい笑顔を見せる事はなかった。着ている服も一様に黒い。


「あの方たちは?」
「ああ、あの人たちはベテラン教師の方々ですね。昔は、担任をお任せしていたのですが‥」


とここまで言うと、若い教頭は笑顔のまま声を潜めた。


「時代遅れの難しい授業で、子供たちにも人気がなくて、それで担任を外れていただいたのです。何よりも子供たちにはフレンドリーに接することが大切です。そして楽しくなくてはいけません。正直言って、あの人たちは今は仕事をほとんどしていない状態ですね」
「窓際ならぬ窓越しか」


あなたは独り言を言った。


「こんなものを用意しましたので、これを使って指示をお願いします」


校長室に戻ると、そこには幾つかのスイッチが配された制御卓が用意されていた。


「これから、先生方が校長が指示された教室の一つ一つを回っていきます。先生方はビデオカメラを持っていて、その画像は逐一こちらのモニタに映し出されるようになっていますので、校長はその画像を見ながら、男の子は体育館、女の子は集会室と制御卓のスイッチを押して指示していただければ結構です。実際に移動させるのは先生方がやりますから。私はここにいて制御卓操作のご説明をいたします」
「それでは一年生の最初のクラスからお願いします」


モニタには一年生の教室の中が映し出された。
「校長、この子はどちらでしょう」
「この子は女の子ですね。女の子だから集会室ですね」
「分かりました。では集会室のスイッチを押して下さい」
「校長、この子はどちらでしょう」
「後ろ髪が長くてかわいい顔をしてるけど、きっと男の子だと思うので体育館ですね」
「分かりました。校長の直感力はすばらしいです。では体育館のスイッチを押して下さい」
「ああ、そこにいる三人組は、女の子のようだから三人とも集会室で」
「校長、S のスイッチを押しながら、三回続けて集会室のスイッチを押すとは、すばらしい技ですね」


教頭の発した薄っぺらい褒め言葉にも、あなたはまんざら悪い気がしなかった。


「そこの前列左にいる子と、その後ろの子と、それから右斜め後ろのその子は、男の子だから体育館と」
「校長、C スイッチを押しながら飛び飛びとはすごい技です」


生徒達の振り分けは二年生まで進んだものの、あなたはいささか疲れてきた。そして仕事のやり方がおかしいのではないかと思い始めたその時に、校長室に若い女が、薄っぺらな笑顔を貼り付かせたまま飛び込んできた。


「校長。校長の振り分けられた生徒の中に、一人だけ間違って男の子が集会室に紛れ込んでいました」
「それでその子を体育館に連れて行っていただけたのですか」
「いや、校長の指示がないと、それは出来ません。今モニタを集会室の画面に切り替えますので、校長がその子を選んで、体育館のスイッチを押し直してもらえますか」


あなたは叫びたい気分になってきた。このやり方は何かが間違っている。こんな事は本当はもっと簡単に出来る筈なのだ。しかしあなたはその方法を言葉にすることが出来ない。仮に出来たとしても、ここにいる若い教師達にそれを理解出来る能力があるとは思えない。教頭は言った。


「校長、間違えるのもまた人間らしいですよ」


すると見るに見かねたのだろう。窓の向こうから年配の黒づくめの男がやってきた。


「校長、こうすればいいんですよ」


と言うと、側にあったマイクのスイッチを入れて、全校に向かってこう言った。


「女子は集会室に集まりなさい。男子は体育館に集まりなさい」


黒づくめの男は振り返ってこう言った。


「子供でも言葉を解する能力があるんですよ。言葉はオマジナイじゃないんです」


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京都大学霊長類研究所のアフリカ生まれのチンパンジー、アイ(1976年10月〜)は、有名人ならぬ、知る人ぞ知る有名類人猿(「メス」)である。彼女が2歳になるかならないかの時、彼女に与えられたのは、飼育檻に設えられたCRTだった。そこから彼女の「文字」や「数」の「学習(「アイ・プロジェクト」)」が始まる。


CRT にはアイコンが表示されている。そのアイコンに対応するボタンを押すというのが、彼女の「学習」の基本である。時を経て、今では抽象的な言語を「介する」様になったとされているが、その切っ掛けとして人間とチンパンジーであるアイとのコンタクトに、グラフィカルなアイコンは欠かせなかっただろう。いきなり「6のボタンを押しなさい」といった様な「人間」の言葉で書かれていたら、幾ら「天才」チンパンジーであったとしても、このプロジェクトの困難さは遥かに険しいものであった筈だ。


2011年10月8日現在の、Wikipedia の説明によれば、GUI(Graphical User Interface)は「視認性、操作性に優れ、直感的な操作が可能」とされている。恐らくGUIに関するどの説明文を見ても、この「直感」という記述は共通して見られると思われ、しばしばそれはまた「自由」であるとか「人間らしい」などを伴って説明されている筈だ。


その一方で、対する CUI(Character User Interface、稀Command Line Interface(CLI))を、「直感的でなく、不自由で、人間らしくない」とする様な物言いは、MacintoshWindows の普及を促進する戦略上、しばしば聞かれたものである。


GUI に於ける行動原理は、生活習慣のシミュレートである。いらなくなったものをゴミ箱に捨てにいく、ファイルをフォルダに入れるなどは、普段やっている日常的な行動と、同様のものに思えたりする。これが、GUI な人から言わせると「人間らしい」という表現になるらしい。


しかし、考えてもみよう。普段の日常生活で、ゴミを捨てにいく行為や、物を片付けたり、移動したり、整理したりする行為は、果たして楽しいものであると言えるだろうか。確かに、それもまた「人間らしい」とは思うが、仮に、お手伝いロボットが実用化されたとしたら、真っ先にそのような仕事は、ロボットに頼みたいものであるとは言えないだろうか。「ゴミを見つけたら捨てておいて」と一言言えば、ロボットが全てやってくれる。そんな技術をこそ「健全」だと思わないだろうか。


実はお手伝いロボットは実用化され、既に普及しているのだ。PCという名で。


にも関わらず、相変わらずお手伝いロボットのオーナーが、わざわざお手伝いロボットの手を取って、いちいちゴミを捨てにいかなければならない。これがGUIのもう一つの正体であり、そのPCロボットに隷属したオーナーの行動を、「人間らしい」とか「わかりやすい」などと言ったりもするのだ。ゴミ箱にポインティングデバイスのポインタを持って行く動作を繰り返す事で、腱鞘炎になったり、関節を痛めたり、眼精疲労になったりするなどは、本末転倒と言えるだろう。少なくともそこに、「自由」や「人間らしい」生活は見出しにくい。


PCロボットに対して「ゴミを見つけたら捨てておいて」と一声掛ければ、後はPCロボットがすべてやってくれる。実はそれが、はるか昔から実用化されている技術、CUI なのだとも言えるだろう。PCロボットに一声掛ける命令を与えるのは「コマンド」である。ただし、そのコマンドの構文を覚えるのに、敷居が高いと思われているために、CUI は「直感」的な GUI に比べて「不自由」で「人間らしくない」と見られがちである。しかし、先のように1000人の小学生を男の子と女の子に分けるなどという作業をするには、「移動せよ 全ての教室にいる 男の子 体育館」と一声掛ければいいのだし、同様に「移動せよ 全ての教室にいる 女の子 集会室」と言えば済む事なのである。そうすれば瞬時に1000人の振り分けは、PCお手伝いロボットによって完了する事にはなるのだ。


GUI が可能になるのは、偏に視覚があるからである。視覚があってこそアイコンにポインタを合わせることが出来る。以前 CUI マシンのモニタが落ちた事があったが、コマンドを打つことで、最小限の仕事を継続することが出来た。他方、GUIマシンの場合は、モニタが落ちたら電源を切るしか他はない。Linux のモニタ設定をうっかり間違えて、画面が極端な横長になってしまった事もあったが、その時はアイコンにポインタを合わせるのに3分近く掛かってしまった。キーボードの「ブラインド」タッチは可能だが、マウスの「ブラインド」ドラッグや、「ブラインド」クリックはあり得ない。初期のMacは、キーボードすら画面の中に存在していたが、視覚に依存する画面内キーボードが、ブラインドタッチのリアルなキーボードに勝てるはずもなかった。CP/M の WordStar や UNIXEmacs ライクなキーアサインが使えないバーチャルキーボードは、それだけで存在価値のない物だった。


いずれにせよ、いささか乱暴に区分けするならば、GUIは「具象(Gusho User Interface)」、CUIは「抽象(Chusho User Interface)」とも言えるだろう。GUIに見られるアイコンは個別的なものであり、それがどのような「カテゴリー」、文書ファイルなのか画像ファイルなのか実行ファイルなのかを、アイコンから特定することは出来ない。リンゴはリンゴであり、ミカンはミカンである。それを「果物」というカテゴリーで括ろうとするのは「抽象力」である。


先ほどのゴミの例で言えば、CUIの場合は、「何をしてそれをゴミと呼びうるのか」を考え、「ゴミというカテゴリーには何が入るのか」を考え、「そのゴミはどこに存在するか」を考え、「ゴミを残すべきか残さざるべきか」を考え、「どこにゴミを移動するか(ゴミを捨てるとはただの「移動」である)」を考えなければならない。ゴミの抽象化である。それがPCロボットという「他人」とのコミュニケーションには必要なのだ。


一方GUIの方は、ますますその「具象性」を高めている。始め2階調表現だったアイコンは、今やフルカラー表現にまで至っている。画面に貼り付き、ドットが粗く、抽象性を帯びていたとも言える、書類やフォルダアイコンは、いつの間にかリソースが大きくなり、画面の中で起立し、影を落として、アニメ表現まで身に付けた。


具象化の流れの一端は、ゲーム世界にも見ることが出来るだろう。黒バックに数本の、抽象的とも言える線表現だけで「迷宮」を表し、ゲーマーもまた、そこから湿った空気さえ感じ取ることの出来た「Wizardy#1 Proving Grounds of the Mad Overload」などに比べると、最近のゲームはキャラもゲーム世界も、克明に描かれ、説明され、個別化されている。ここ数タイトルのFFのキャラクターは、近所のどこかのアパートに住んでいて、コンビニで弁当を買っていそうな個別感すらある。この更なる具象化=個別化の先にあるものは何なのか。


などという気掛かりな夢から眼をさますと……。

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2005年11月06日初出のものに加筆修正。