収集

未完の儘に荒れ果ててしまった壮大な邸宅の孤独な老人。力尽きて、3インチ程の大きさの世界の果てを持つ小宇宙の中の、小さな一軒家に雪が舞い落ちるスノーグローブを床に落とし、「Rosebud(バラのつぼみ)」という最期の言葉を遺して死んでいったのは、新聞王チャールズ・フォスター・ケーンだった。


オーソン・ウェルズ24歳の時に製作が開始され、26歳の時に公開された " Citizen Kane(市民ケーン)" のラスト10分程は、ケーン翁が、自殺未遂をした二番目の妻スーザンに去られ、スーザンの部屋の、彼女の為に買い集めた「コレクション」を壊しまくるという、彼の執事であるレイモンドの回想から始まる。「コレクション」を壊し、壊し、壊す老人。そしてあのスノーグローブに目が止まる。彼の破壊は止まり、涙ぐみながら一言「Rosebud(バラのつぼみ)」と呟き、そのスノーグローブをスーツのポケットに入れると、多くの使用人に見送られつつ、「一人」の身には広過ぎる邸宅内を、力無く彷徨し始める。


シーンは変わり、主を失った桃源郷ザナドゥ)の大広間には、膨大な数の「美術品」コレクションが木箱に梱包されている。遺品整理、財産査定の場。それらを引き継ぐ者は、ケーン翁にはいない。邸宅から外される彫刻。剥がされる絵画。それらの「持ち主」がこの世を去った瞬間から、「コレクション」はそこに存在する事が無意味になる。品定めの声。「キリストの降誕(Nativity)」、「推定ドナテッロ作(Attributed to Donatello)」、「1921年にフローレンスからやって来た(Acquired Florence nineteen twenty-one)」「別のビーナス像、25,000ドル。頭の無い女にしては良い値段だ(Another Venus, twenty-five thousand bucks.That's a lot of money to pay for a dame without a head)」…。皮肉屋のレイモンドは、翁の最後の言葉「Rosebud(バラのつぼみ)」の謎を追うレポーター、ジェリー・トンプソンに聞く。「これは総額幾らになるのでしょう(How much do you think all this is worth)」。トンプソン「数百万(注:現在の価値で数千万)ドル。(Millions)」。そして付け加える。「それを欲しがる人間がいるならばね(If anybody wants it)」。「名品」の数々と、数々の「ガラクタ」。「彼は捨てることをしなかった(He never threw anything away)」と遺品整理のアシスタント。シニカルな執事のレイモンド。「大したカラスだ(A regular crow)」。


"Contents of Xanadu's palace -- paintings, pictures, statues, the very stones of many another palace. A collection of everything, so big that can never be catalogued or appraised. Enough for ten museums"



ケーン翁の「コレクション」の中の「価値あるもの」だけも、美術館が10個は建つとされていた。世界中の彫刻を掻き集め、フロリダの桃源郷に幽閉する翁。カタログ化も鑑定も何もされていない、翁の気の赴くまま世界中からアメリカに持って来られた膨大な「コレクション」。映画の中の桃源郷は、実在するマイケルの「ネバーランド・ランチ」は元より、ウィリアム・ランドルフ・ハースト(ケーン)の「ハースト・キャッスル」をも凌ぐだろう。


ケーン翁のこれらの収集物は、どこか別の "palace" からやってきて、やがてどこかの "palace" に移動する。そして行った先の "palace" の主がこの世を去れば、それはまた別の人間の "palace" に移動する。人から人へ、梱包を解かれ、束の間それは露出し、そしてまた梱包され、そしてまたそれは解かれ、束の間露出する。こうして動産は荷造りと荷解きを繰り返し、残った不動産は荒れ果てていく。


一人の「新聞王」の映画はまた、一人の「コレクター」の映画でもある。「コレクター」の死後、その「コレクション」がどう扱われるかを、この映画のラスト10分は活写し、また全編を通して、各所に「コレクター」としてのケーンの描写が見られる。例えば、ライバル紙クロニクルの記者、"THE GREATEST NEWSPAPER STAFF IN THE WORLD" の10人を全てヘッドハンティングし、アントレプレナーとしての成功に向かって手を打ち続ける放校学生ケーン。数年後には、彼のインクワイアラー紙はクロニクル紙を抜いて地域最大の新聞になる。その新聞社に送り付けられる大量の彫刻。成功した新聞社主は、ヨーロッパに行っては、それらを闇雲に買い付けてくる。彫刻に埋もれる新聞社の社屋。"FLORENCE ITALY" の荷札。その合間を縫って会話をする共同創業者で友人である(あった)バーンステインと、彫刻の整理に追われるジェデッドアイア・リーランド。


バーンステイン「リーランド君。もう彼は彫刻を送って来ないと約束した。見てくれ!(今度は)世界最大のダイヤを買いたいと言っているよ、リーランド君(Hey, Mr. Leland! It's a good thing he promised not to send back any more statues.Look! He wants to buy the world's biggest diamond. Mr. Leland)」


(略)


リーランド「チャーリーがダイヤをコレクションしていたのは初耳だ(I didn't know Charlie was collecting diamonds)」


バーンステイン「いいや、彼が収集しているのは、ダイヤモンド収集家だ。どのみち、彫刻だけをコレクションしている訳じゃない(He ain't. He's collecting somebody that's collecting diamonds. Anyway, he ain't only collecting statues)」


「コレクター」との生活。二番目の妻スーザンの回顧。自殺未遂の後、桃源郷に「幽閉」され、ジグソーパズルのピースを嵌め込むだけの毎日を過ごすスーザン。


スーザン「4万9千エーカーの土地には景色と彫刻だけ。孤独だわ(Forty-nine thousand acres of nothing but scenery and statues. I'm
lonesome)」


(略)


ケーン(大広間で、飽きもせずにジグソーパズルに没頭するスーザンを見て)「何をしている?全く気が知れない。スーザン、飽きもせずによくやるな(What are you doing? Oh. One thing I've never can understand, Susan. How do you know you haven't done it before?)」


スーザン「彫刻集めよりはまともよ(Makes a whole lot more sense than collecting statues)」


「コレクション」は「コレクター」の価値観を反映する。寧ろ価値観そのものであると言えるかもしれない。その価値観は、社会的に広く共有される事もあれば、極めて個人的なレベルに留まる事もあるものの、現実的に「コレクター」以外の多くの「他人」にとって、「コレクター」の「コレクション」の持つ意味を共有する事が難しい事はままある。「それを欲しがる人間がいるならばね(If anybody wants it)=売れればね」。「価値あるもの」の総量と「売れるもの」の総量は常に不均衡だ。「価値あるもの」が、そのまま「売れるもの」になる訳ではないし、往々にして「価値ないもの」が「売れるもの」になるという「経済」の奥深さもある。


「コレクター」がこの世を去った後、それらを「処理」しなければならなくなるのは常に「他人」だ。その「他人」は、それを「欲しがらない」人間かもしれない。「コレクター」の死後の「コレクション」の行方を、「コレクター」本人が知る事は無いし、一方で「欲しがらない」、即ち「コレクション」に興味の無い「他人」は、他人の「コレクション」の整理という、その多くは余り面白いとは言えない「作業」に忙殺される事になり、酷い場合には、その「他人」の人生の時間と金と体力と気力が大幅に奪われる事になる。


「遺品」となった「コレクション」が、「素人目(即ち「他人」の目)」的にも「価値ある物」と思えるのであれば、或いはその煩雑な「『他人』の死」の「処理」は楽しいと思えるものかもしれない。そして「それを欲しがる人間がいるならば」、即ちすぐにも「売れる」ものならば、それはもっと楽しいものになるかもしれない。しかし「素人目」ではなく「玄人目」にも「価値ある物」かどうかの判断が付かないもの、或いは「玄人目」的にその時点で「(リセールバリューとしての)価値」が無くなった、或いは無視し得る「(リセールバリューとしての)価値」であるものについては、「他人」は自分とは関係の無い「コレクション」に対して、極めて冷酷に無慈悲になる。即ちそれの右から左への「廃棄処理」となる。映画史上最も有名なものの一つであるこの映画のラストシーンは、ケーンにとって「最上」の「価値」を持つものが、「他人」に「無価値」であると判断され(いや「判断」以前だろう)、極めてオートマチックにそれが「廃棄処理」されるというものだ。死の直前のケーンの脳内を占めていたものに対し、「それもゴミ(Throw that junk)」の言葉を発する「他人」の執事レイモンド。「コレクション」は、常にこうした「保存」と「廃棄」のタイトロープ上にある。映画のラストは感傷的なものだが、しかし、では、あのザナドゥの煙突から出る煙と化したケーンの最上の「コレクション」を残し、それを管理し続けなければならない理由は「他人」にあるだろうか。


「コレクター」が、避けようの無い自らの死に対して、「人生の引き際」イコール「『コレクター』としての引き際」と考えて「コレクション」の「生前処理(廃棄含む)」を行えば、「他人」の手を煩わせる事もゼロではないが、少なくはなるだろう。何よりも、自分の「コレクション」の「その後」を見届ける事は、幾分かは可能になる。但しそうなれば、「コレクター」の人生の後半は、「コレクション」と同居(多くの「コレクション」は「定住」を前提とした「同居」であろう)するという生活は叶わないものとなる。衰えたりとは言え、ケーン翁の場合、彼には自らの死後に、膨大な「財産整理」を委ねる事の出来る優秀な「他人」を、多数招集し使役する力を、その晩年にはまだ持っていた。しかし彼が全くの孤独な老人、或いは「他人」の「財産整理」に動ける事の可能な「他人(家族含む)」の存在が片手に余る様であれば、或いはまた、その「他人」がケーン翁の周囲の人間の様に、「コレクター」の「コレクション」に対して極めて冷淡であり、時に憎しみの対象ですらあるとしたら、その扱いは冷酷で粗略なものになるだろう。いや恐らく粗略こそが、「コレクション」を取り巻く世界のデフォルトなのだと思われる。「いらないもの」は「捨てる」。要はその「いらないもの(いるもの)」をどう解釈するかによる。それはまた、「幸福とは何か」とやらの極めてややこしいもの、そして極めて単純なものに繋がる事にもなるのだろう。「コレクション」の存在があるが故に「幸福」である場合もあれば、「コレクション」の存在があるが故に「不幸」である場合も無いではない。

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こういうニュースがあった。


Warhol foundation shuts its authentication board
http://www.theartnewspaper.com/articles/Warhol-foundation-shuts-its-authentication-board/24869


アンディ・ウォーホル財団が、ウォーホル作品の真贋判定を止めるという事だ。財団理事長のジョエル・ワックスは、「我々の資金は弁護士にではなく、アーティストの元に行かなければならない(Our money should be going to artists, not lawyers)」と語る。財団の今回のこの決定は、「コレクター」ジョー・サイモン・ウィーラン氏から起こされた訴訟が引き金になっていると言えるだろう。2007年7月のロイター日本語版記事から。


再送:米国人映画プロデューサー、A・ウォーホル財団を提訴

 [ニューヨーク 16日 ロイター] 米アーティスト、アンディ・ウォーホルの自画像を所有していると主張する米国人男性が16日、自分が所有するシルクスクリーン作品の正当性を認めず美術品バイヤーらを欺いたとして、ウォーホルの財団などを訴えた。

 ロンドン在住の映画プロデューサー、ジョー・サイモン・ウィーラン氏が、マンハッタンにある連邦裁判所に、同財団に2000万ドル(約24億4000万円)の損害補償を求める集団訴訟を起こした。

 原告は訴状で、同財団は本物のウォーホル作品に偽物のレッテルを貼ることで自分たちが所有する作品の価値を上げ、ウォーホルの作品のマーケットをコントロールしていると主張。同財団が、総額1億5000万ドル以上のウォーホル作品を人為的につり上げた価格で販売したとしている。

 財団のK・C・マウラー最高財務責任者(CFO)は、訴状を見ていないとして訴訟に関するコメントは拒否しつつも、同財団はさまざまな現代ビジュアルアート組織に資金援助をしており、作品の認証には携わっていないと述べた。


ロイター
http://jp.reuters.com/article/idJPJAPAN-26916620070717


事の顛末の仔細に興味のある向きは、下のリンク先を参照の事。


http://www.warholstars.org/warhol_self_portrait_1.html
http://www.warholstars.org/warhol_self_portrait_2.html
http://www.warholstars.org/warhol_self_portrait_3.html
http://www.warholstars.org/warhol_self_portrait_4.html
http://www.warholstars.org/richard_dorment.html
http://www.warholstars.org/richarddorment.html


「気に入っているからコレクションする」という、そうした「単純」な話ではない。これは「コレクション」の「正当性」を巡る争いであり、それはまた「作品価格」の「正当性」を巡る問題でもある。ウォーホルが生きていれば、いや生きていても、こうした「正当性」を問う声は、可能性として上がるだろう。特にウォーホルの様な作品の場合、アーティスト本人ですら、その真贋を判定する事は難しい。要するに、アーティストは、訴訟を十分に避けられるだけの「精度」をもって真贋判定を下せる程には、自作について「覚えちゃいない」のだ。


改めて「市民ケーン」のバーンステインの言葉が思い出される。


バーンステイン「いいや、彼が収集しているのは、ダイヤモンド収集家だ。どのみち、彫刻だけをコレクションしている訳じゃない(He ain't. He's collecting somebody that's collecting diamonds. Anyway, he ain't only collecting statues)」



ジョー・サイモン・ウィーラン氏が収集しているのはウォーホルだろうか。それともウォーホル収集家だろうか。


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「コレクション」は「墓場」までは持っていけない。大昭和製紙の名誉会長(1990年当時)であった齊藤了英氏は、自らの「コレクション」を「墓場」まで持って行こうとした数少ない人物の一人だ。「俺が死んだらゴッホルノアールの絵も一緒に荼毘に付してくれ」の発言は1991年5月に世界中に配信された。しかしそれは実行されず、またその釈明として発せられた、死後は日本政府か美術館に寄付するという「約束」も実行されず、「コレクション」の内、ゴッホの「医師ガジェの肖像」は、遺族によってサザビーズの非公開オークションで、アメリカのヘッジファンド投資家ウォルフガング・フロットル氏に9000万ドル(齋藤氏購入時8250万ドル)で売却された後、そのフロットル氏が10億ドル以上の負債を出す破産をして1億ドルで売却、サザビーズがそれを引き取る形になる。一方、斎藤氏と共に火葬場に入るかもしれなかったもう一つの「コレクション」、ルノワールの「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」は、119億円(7810万ドル)の購入時から大きく落として50億円で、密かに海外に売却されている。ゴッホの作品は、1990年にNYのメトロポリタン美術館から引き上げられてオークションに掛けられ、斎藤氏の手に渡った後は、一般公開されていない。


「コレクション」の「価値」が一定基準を超えてしまうと、遺族に掛かる負担は大きくなる。この斎藤氏の遺族による訴訟もまた、「コレクター」の「財産整理」に伴う「宿命」から発している事だろう。


http://www.lotus21.co.jp/data/news/0505/news050509_02.html

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映画の中の「バラのつぼみ」は、ケーンと「一緒に荼毘に」付される事はなかったが、それでも結果的に主人を追った形で焼却された事になっている。確かにそれは、炎を上げてフィルムに収まっている。しかしその「バラのつぼみ」は、現在スティーブン・スピルバーグの「コレクション」になっている。1982年のニューヨーク・サザビーズにそれは出品され、6万500ドルでスピルバーグが落札した。それは映画の名誉の為の落札であった側面もあるだろう。


http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,925482,00.html


今度の「バラのつぼみ」の算定額は幾らになるだろう。いずれにしても、「それもゴミ(Throw that junk)」と「他人」に言われない事は、確かである様な気もする。

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1941年の死亡時で「ドナテッロ」とされたケーンの「コレクション」はその後どうなっただろう。そしてそれが「ドナテッロ」ではなかったとしたら。


【続く】