スペシフィック

承前


「優れた」作品は、作品論や作家論を導き出す力があるとされる。それより前に、まずは人々の口の端に上らせる力があるとされる。


確かに「優れた」作品とされるものへの言及は多い。一方で、それが「優れた」作品であるかどうかは別にしても、「話題(有名含む)」の作品であれば、それに対して集まる言葉もまた多い。或いはもしかすると「話題」の作品は、仮にそれが毀誉褒貶のいずれであっも、それだけで「優れた」作品と言えるのかもしれない。即ち「言葉を多く集められるという能力」に於いて、それを「優れた」作品と見做し得ると言えば言えなくもない。「他人が頻繁に語っているから自分も語る気になる」作品は、既に人を「魅する力」を手にしているとも言えるだろう。


「言葉を多く集められる能力」を持つ作品と、そうでもない作品は厳然として存在する。「語るに値する」作品(それが例え「語るに落ちる」作品であったとしても)と、「語るに値しない」作品。それは当然、「優れた」作品と、「劣った」作品を意味する事もあったりはするだろう。その「優れた」が、何故に「優れた」とされているのか、その「劣った」が、何故に「劣った」とされているのかについては、ここでは問わないとしても。


「言葉を多く集められる能力」を持つ作品と、そうでもない作品は、作品そのものよりも、「副次的」なファクターで決定される事もある。例えば、その作品がどういった場所で展示公開されるかによっても、そうした差が設けられる事もあるだろう。都会の有名コマーシャルギャラリーで発表するのと、田舎の無名レンタルギャラリーで発表するのでは、両ギャラリー間に存在する様々な差が、そのまま作品の評価にまで決定的な影響を現実的に与えたりもする。当然、都会の有名コマーシャルギャラリーで発表される作品の方が「言葉を多く集められる能力」に「長けている」事は、美術者(「キリスト者」的表現)にとっては、極めて現実的な「常識」だろう。それ以前に、田舎のレンタルギャラリーでは、語られるに至る遥か以前に、広汎な人間がその存在自体を知るところまで行かない。


しかし、そうした「言葉を多く集められる能力」も、その殆どはどうやら「永遠」ならぬものであるらしい。例えば、紙が微妙に茶色くなった10年前や、20年前(30年前、40年前でも良いが)の美術雑誌を引っ繰り返してみると、当然その時々で「言葉を多く集められる能力」を持った作品は数多く存在し、その時々で「言葉を多く集められる能力」を有する作家も数多く存在するものの、しかし10年後、20年後の現在にも、そうした「言葉を多く集められる能力」が健在であるかと言えば、それは甚だ心許ない。


それが美術者の健忘症や浮気性故なのか、それともその時々の「優れた」が、畢竟、時限的に留まるものなのかは知らないが、「(あの時の)あの作品は凄い」という言葉を、懐古的ではなく、また「現在」への「橋渡し」の意味ではなく、それ自体が「優れた」価値を持つものとして語り続けられている例を余り知らない。そもそもその作品そのものが、10年後、20年後に言及される事自体が、それを「優れた」としてきた「コンテクスト」ごと失われてしまっているケースが殆どだろう。


そうした喪失は、通常「古い」と言い表わされ、例えば「あの作品(作家)はもう古い」などという形で使用される。そしてその対義語として「新しい」があり、例えば「新しい才能」などという形で使用される。それはまるで、「おニャン子」が、一時多くの言葉を集められる能力を持ち、やがてその能力が失われ、その後「モー娘。」が、一時多くの言葉を集められる能力を持ち、やがてその能力が失われ、その後「AKB48」が、一時多くの言葉を集められる能力を持ち、やがてその能力が失われる運命に逆らえない様に、「古く」なり、そして常に「新しい」ものに取って代わる。人は記憶の最前面が最も大きく見える。「過去に縛られる」者以外は。


数年前に美大を退職した(当時70歳)の「画家」が、その退職記念展の会場で、自嘲気味に言った言葉が今も耳に残る。


「君達若い人は、馬鹿馬鹿しくて古臭いと思うだろうけど、僕にとっては『アンフォルメル』が今でも最前線なんだよ」


その人の作品に対して、その内容を精査する遥か以前に、極めて冷酷に「古い」と言う事は可能だろう。しかしそうした「古い」と「新しい」の「焼畑農業」的リフレッシングがなければ、次から次へと現れる「新しい才能」の「優れた」作品に対し、「優れた」作品が座るとされる限られた数の椅子取りゲームの席を与える事は不可能になるだろう。残念な事に、大抵の美術者はそれ程多くのアーティストを、記憶の最前面に留まらせる能力を有しない。そしてその椅子取りゲームの席自体、それ程多いものではない。


ローマに750人、ミラノに500人、パリに1750人、ロンドンに1250人、ベルリン、ミュンヘンデュッセルドルフに2000人、ニューヨークに3000人、そしてそのほかの世界各地に1000人。これが美術界なのだ。八つの都市の美術社交界に限られる推定一万人——ほんのちゃちな村に過ぎないのである。


トム・ウルフ:現代美術コテンパン(原題「THE PAINTED WORD(描かれた言葉)1975
http://www.amazon.co.jp/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E7%BE%8E%E8%A1%93%E3%82%B3%E3%83%86%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%B3-%E6%99%B6%E6%96%87%E7%A4%BE%E3%82%BB%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3-%E3%83%88%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%83%AB%E3%83%95/dp/4794946694


1970年代のアメリカ人ジャーナリストによる記述であり、特に現在の「そのほかの世界各地」、即ち、日本を含めた美術の(旧)第三世界には、もう少し多くの美術業界人がいるだろう。しかしだからと言って、現在この数字が100倍にも1,000倍にもなっている訳ではなく、またそれを経済面で支えるコレクターの数(或いは買い支える側の全体的購買力)もまた、当時に比べ、微増と微減を繰り返しているに過ぎないだろう。即ち、椅子取りゲームの席は、この書から数十年経って劇的に増えている訳ではなく、相変わらず「ちゃちな村」のまま現在に至っている。


需要が青天井でないならば、多くの「優れた」作品は、やがて次世代の「優れた」作品の為に、その地位を降りねばならないのかもしれない。「アンフォルメル」を新しいと言っている「年寄り」は、「アニメ」を新しいと言っている「若者」にその席を譲らねばならないのなら、そして「アンフォルメル」の「年寄り(そしてやがて「年寄り」になる「アニメ」の「若者」)」は、「次世代」の「世界」から綺麗さっぱり忘れ去られる事を覚悟しなければならないのなら、そうした避け様の無い、記憶の「焼畑農業」的現代アートの「現実」を、これもまた時限的である様な「コンテクスト」に多くを負う様な「現代アーティスト」であるならば、知っておくべき事なのかもしれない。でなければ、自作が「美術」という人称を持たない者に説話され続ける「永遠」を信じて毎日を生きよう。そして「永遠」こそが「尊い」と夢見がちに信じよう。

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美術館で、ギャラリーで、美術者は作品に向き合う。それを舐める様に眺め、そして色々と感慨しては考えを巡らせ、作品に対して言葉を紡ぐ。例えば「評論家」が営巣するのはそうした場所だ。


美術館やギャラリーにある作品。それはドナルド・ジャッドの言葉を借りれば、それ自体が " Specific Object " だ。しかしその " Specific " は、作品(客体)にインクルードされている「材料成分」の如きものではない。" Specific " が「材料成分」なら話は簡単だ。料理に於けるスパイスの様に「作品完成の直前に " Specific " を少々振っておきましょう」や、調味料の調合の様に「 " Specific " 風に味付けしてみましょう」で済む。「醤油」を使えば和食風、「オリーブオイル」を使えばイタリアン風、「牡蠣油」を使えば中華風、「ナンプラー」を使えばエスニック風とする様な、お手軽「創作料理」系料理屋の料理みたいなものだ。当然この手で行けば、「ミニマル」な味付けならば、即 " Specific Object " 風になるのだろう。極めてお手軽な " Specific Object " の一丁上がりだ。


しかしプレクシグラス製の箱が " Specific " に見えるのは、偏に美術館やギャラリーといった「額縁」「保護区」「エンクロージャー」の内にあるからだろう。ジャッドの箱が、そのまま何かの店舗のディスプレイに使用され、しかもそこに一切のキャプション(「美術作品である」という情報含む)が存在しなければ、これは " Specific " でも何でもない " Ordinary " な箱状のディスプレイで終わる。そしてそのお役目が終われば、即解体廃棄される運命にあるものだ。


しかし一旦それが美術館やギャラリーに収納される時、それは " Specific Object " に変身する。何もそれが「ミニマル」の姿形である必要は無い。それはシンデレラ、或いはプリキュアの様にわざわざ華麗に変身しなくても、灰被り姿や中学校の制服といった普通の恰好そのままで変身する。それがアートの「額縁」「保護区」「エンクロージャー」の不思議だ。


「言葉を多く集められる能力」を持つ作品、「多くの言葉を紡がせられる能力」を持つ作品、それが「優れた」作品であるとしても、それは " Specific " 同様に「額縁」「保護区」「エンクロージャー」の内にあるからこその「優れた」だろう。ではそうした「額縁」等の内にない「美術作品」はどうなるのか。


何の気紛れかは知らないが、時々「美術」は「額縁」等の外に出ようとする。「囲い込み」は確かに息苦しい。観客も「柵の中」の美術を見るのは退屈だろうと想像される。いやそうに違いない。絶対にそう思っている筈だ。そう自分自身に言い聞かせつつ、籠から脱走したカナリアの様に「美術」は「柵の外」に出る。どこまでも続く私の空。私の空だって?そこは誰の物でもない空ではないか。


脱走したカナリアは、時に「社会」全体が、美術館やギャラリー化し、寧ろ「美術」の「柵の中」にあらねばならないとする。「社会」が「美術」を含む集合ではなく、「美術」が「社会」を含む集合になるという妄想的反転、妄想的靴下の裏返し。そこでは「社会」は「美術」の内部に入る。それを誰が新たな「柵の外」から見るのかは、まあどうでも良い。


こうして街中に「アート」は解き放たれる。それが「パブリックアート」と呼ばれたりもする一群の作品だ。街中を歩いてみれば、数多くの「パブリックアート」に出会えるだろう。駅前に「パブリックアート」、公園に「パブリックアート」、広場に「パブリックアート」、歩道に「パブリックアート」、ビルのエントランスや壁面に「パブリックアート」…。凡そ人の集まる所に「パブリックアート」、人が通る所に「パブリックアート」。そうした場所で石を投げれば、「パブリックアート」に当たる確率もそれ程に低くはないだろう。「パブリックアート」の数は、バス停とはどっこいどっこいかもしれないが、確実に駅舎の数よりは多いと思われる。


パブリックアート」。「パブリック」な場所に設置された「アート」。当然そこにあるのは「アート」でなければならない。そうでなければ「パブリック」の後が「アート」ではなく、何だか判らない「何か」になってしまい、「パブリックアート」ならぬ「パブリックサムシング」になってしまうだろう。そしてそれが「サムシング」ならぬ「アート」であるという前提を満たしたその上で、出来得ればそれは「優れた」作品であった方が良い。何故ならば「優れた」作品を置くという前提があればこそ、「パブリック」は「アート」に対してその場所を提供したのだ。何も「劣った」作品を、そこに置く事を承認した訳ではない。それは「社会」と「アート」の間に於ける一種の「契約」である。「アート」でありさえすれば、それで済むという話ではないのだ。


何はともあれ、そこ(「パブリックスペース」)にあるのは「優れた」作品である。あらねばならない。しかし現実的に言って、「パブリックアート」に対する、作品論や作家論的な意味での言及は、それ程にされる訳ではない。多くの「パブリックアート」が街中に出現する度に、美術評論を始めとする美術者達が、それを「美術館美術」や「ギャラリー美術」並みに「話題」にし、作品論や作家論的に仔細に言及する訳ではない。或いは常設されているそれら「パブリックアート」に対して、そうした言葉が常態的に紡がれる事もまず無い。多くの「パブリックアート」は、美術者からも語られる事なく、場合によっては無視される物としてただそこにある。そして現実的に美術者の視界からも潰えてしまっている。「美術館美術」や「ギャラリー美術」の如く、「パブリックアート」の前で、眉間に皺を寄せて、腕組みしながら隣の人物と芸術論に華を咲かせるといった光景もまず見られない。そしてここでも「パブリックアート」の「コンテクスト」は、常設の時間に耐え切れずに失われてしまっている。


「優れた」作品には「言葉を多く集められる能力」があるとする事を是とするのなら、「言葉を多く集められる能力」が、「美術館美術」や「ギャラリー美術」に対して「劣る」多くの「パブリックアート」は、「優れた」作品ではなく「劣った」作品であると言えるだろうか。仮にそう言えるとするならば、何故に「劣った」作品が、半永久的に街中に「アート」という名目で設置され続けるのだろうか。但しこれは「言葉を多く集められる能力」を持つ作品こそが「優れた」作品であるとする見方に則る限りに於いて「劣った」とする立場から言える事だとしておく。


現代アーティストのファイル中に「パブリックアート」が含まれる場合、そこで美術者が示す態度は、時限的な「美術館美術」や「ギャラリー美術」に比して、必ずしも芳しいものではない。それを見なかった事にするという機制すら働く事もある。「パブリックアート」には、美術者の口を閉ざさせる何かがあるというのが現実だ。美術者の無意識には、二度と見られないかもしれない「美術館美術」や「ギャラリー美術」は「優れ」、いつでも見られる「パブリックアート」は「劣る」というバイアスが存在しているかの様だ。恐らく「パブリックアート」を街中から捕獲して「美術館」や「ギャラリー」に展示すれば、それに対するそれなりの作品論や作家論が「パブリックアート」であった頃よりは期待出来るだろう。


籠から「解き放たれた」野鳥の群れの中のカナリア。しかしそこでのカナリアは、既に野鳥の中の一羽だ。野鳥は野鳥になったカナリアを特別視しない。カナリアとして生まれたカナリアが、自らが常に「言葉を多く集められる能力」を持つ存在でありたいとするのなら、帰るべき場所は「私の空」ではなく籠の中という事になる。そして美術者は、次から次へと様変わりする籠の中の「優れた」カナリアならば言葉を尽くすのだ。