序「こうして結局、かの問は……」

【序】

「呼吸器官」(organ)の「病」に犯されていた、巷間「ジル・ドゥルーズ」として知られていた「70歳」の「老人」が、フランス共和国パリ17区のアパルトマン(84 Avenue Niel)3階のベランダから自ら身を投じて生涯を終える4年前の1991年、当時「61歳」──翌年「62歳」で「循環器官」(organ)の発作により他界──の「老人」フェリックス・ガタリと著した最後の共著は、「哲学とは何か(“Qu'est-ce que la philosophie")」と題されている。

「東西冷戦構造」という「20世紀」(注1)的な「対立」の「形式」の「崩壊」(注2)を、「全世界」的に印象付けたとされるイメージの一つ、“Alle Menschen"(すべての人)(注3)に対する呼び掛けを歌い上げ、オリジナルの “Freude"(「歓喜」) を “Freiheit"(「自由」)に置き換えたレナード・バーンスタイン指揮によるシラー/ベートーヴェンニ短調交響曲が流通/消費されてから2年後に著された同書の「序論 こうして結局、かの問は……」(Ainsi donc la question…)は、以下の様に書き始められている。

「哲学とは何か」という問を立てることができるのは、ひとが老年を迎え、具体的に語るときが到来する晩年をおいて、おそらくほかにあるまい。実際、文献目録などまったく取るに足らぬものである。その問は、もはやたずねるべきことが何もない真夜中に、ひそやかな興奮に身をまかせて立てるひとつの問なのである。かつてひとは、この問を立てていた。絶えず立てていた。しかし、そのとき立てた問は、間接的あるいは遠回しにすぎ、あまりにもわざとらしく、あまりにも抽象的なものであった。そしてひとは、その問の虜になっていたというよりも、むしろその問を、ことのついでに提示し、勝手に操っていたのである。ひとは、十分に節度をわきまえていなかったのだ。ひとはただもう、哲学したくてたまらなかった。しかもひとは、スタイルの行使に関してでなければ、自らに哲学とは何かと問うことはなかった。言い換えるなら、或るノン・スタイルの地点には、すなわち、「それにしてもわたしが生涯おこなってきたことはいったい何であったのか」と最後に言いうる地点にはまだ達していなかったのである。老年が、永遠の若さをではなく、反対に或る至高の自由、或る純粋な必然性を与えてくれるようないくつかのケースがある──この必然性においては、ひとは生と死のはざまで或る恩恵の期間〔猶予期間〕を享受し、機械の部品がすべて組み合わされて、すべての年齢を貫く一本の矢〔線〕が未来へと投じられる

Peut-être ne peut-on poser la question Qu’est-ce que la philosophie ? que tard, quand vient la vieillesse, et l’heure de parler concrètement. En fait, la bibliographie est très mince. C’est une question qu’on pose dans une agitation discrète, à minuit, quand on n’a plus rien à demander. Auparavant on la posait, on ne cessait pas de la poser, mais c’était trop indirect ou oblique, trop artificiel, trop abstrait, et on l’exposait, on la dominait en passant plus qu’on n’était happé par elle. On n’était pas assez sobre. On avait trop envie de faire de la philosophie, on ne se demandait pas ce qu’elle était, sauf par exercice de style ; on n’avait pas atteint à ce point de non-style où l’on peut dire enfin : mais qu’est-ce que c’était, ce que j’ai fait toute ma vie ? Il y a des cas où la vieillesse donne, non pas une éternelle jeunesse, mais au contraire une souveraine liberté, une nécessité pure où l’on jouit d’un moment de grâce entre la vie et la mort, et où toutes les pièces de la machine se combinent pour envoyer dans l’avenir un trait qui traverse les âges :

ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ「哲学とは何か(Qu'est-ce que la philosophie : 1991)」。財津理訳

(注1)「20世紀」はまた、独立した時期としての「青年期」──しばしば「老年期」と対立する、或いは「老年期」に対立するものとして見出されたものとしての──という概念が大衆化/全面化した時代でもあり、「若くある事」が最上の価値を獲得した世紀でもある。

(注2)所謂「ベルリンの壁崩壊」は「1989年=平成元年」の出来事である。それはまた「現代美術」と同義だった「西側美術」の「勝利」の年であり、且つ様式の交代劇としての「現代美術史」という仮構上にあった「西側美術」が「終焉」した年でもある。

(注3)この時から「すべての人」の「すべて」が日常的に問われる事になる。例えば「ベルリンの壁崩壊」から12年後の2001年9月11日に、「すべての人」に対する問いの一つを我々は目撃する事になる。

自分自身も当時の彼等と同じ様な年齢になった。「66歳」と「61歳」が、共に自らをして「老年(vieillesse)」である事を主張しているのだから、それに倣って自分も「老年」であると認識して構わないという気にもなる。そして確かにこの年回りになって頭に浮かんで来るのは、「わたしが生涯おこなってきたことはいったい何であったのか(ce que j’ai fait toute ma vie ?)」という自問の形式を伴った問いである。

その問いは、「永遠の若さ(éternelle jeunesse)」なるものを未だに信じる事が出来る人達からすれば、自伝的に閉じられ、後退した印象を与えるかもしれないが、しかしそれは──1991年のジル・ドゥルーズ「老人」+フェリックス・ガタリ「老人」の問いがそうだった様に──その「老年」的な問いこそが、「機械の部品がすべて組み合わされて、すべての年齢を貫く一本の矢が未来へと投じられる(où toutes les pièces de la machine se combinent pour envoyer dans l’avenir un trait qui traverse les âges :)」ものであるに違いないという「確信」に基づいたものなのだ。

ドゥルーズガタリが同書で記した「生涯おこなってきた( j’ai fait toute ma vie)」という表現は、こと自分に関して言えば、余りに身の程をわきまえていないとしか言えないが故に、「生涯関係を持ってきた」と言い直すが、ともあれ「わたしが生涯関係を持ってきた『美術』なるものとはいったい何であったのか」という、「美術」に於ける「スタイルの行使(exercice de style)」という「習慣」から離れた「ノン・スタイル(non-style)」な問いを発しても良い「老年」になって来たと自認はしている。

恐らくそうした視点が、「ことのついでに(en passant)提示(exposait)」するもの──としてではなく、極めて「リアル」に「身に付いて」しまうのは、「現世」と呼ばれたりもする「物質」に支配された世界に留まる「時間」=「生と死のはざまで或る恩恵の期間(moment de grâce entre la vie et la mort)」が「猶予期間」である事を、「リアル」な形で認識せざるを得ない「老年」の「特権」と言える。

このフランスの2人の「老人」達が記した同書の「序章」の後半部には、ややもすれば「至高の自由(souveraine liberté)」や「純粋な必然性(nécessité pure)」に「対抗」する「永遠の若さ」(注4)をこそ至上価値とする、現下の「芸術」に言及した──同書は「哲学」と「科学」と「芸術」の連関を明らかにするものだ──箇所がある。

概念は、(歴史、科学、芸術、セックス、実際的な用途などに関する)産物や製品の紹介の総体に成り下がってしまい、出来事は、そうしたさまざまな紹介を演出する展示会や、その展示会で発生するとみなされている「アイディア交換」に成り下がってしまったのである。出来事は展示会でしかなく、概念は売ることのできる製品でしかない。(中略)一束のめん類の模造(シミュラクル)、あるいはそのシミュレーションが、真の概念になってしまい、製品や商品や芸術作品の紹介者ー展示者が、哲学者や概念的人物や芸術家になってしまったのである。

(...) le concept est devenu l’ensemble des présentations d’un produit (historique, scientifique, artistique, sexuel, pragmatique...) et l’événement, l’exposition qui met en scène des présentations diverses et l’« échange d’idées » auquel elle est censée donner lieu. Les seuls événements sont des expositions, et les seuls concepts, des produits qu’on peut vendre. (...) Le simulacre, la simulation d’un paquet de nouilles est devenu le vrai concept, et le présentateur-exposant du produit, marchandise ou œuvre d’art, est devenu le philosophe, le personnage conceptuel ou l’artiste.

(注4)20世紀以降の大半の「アーティスト」の「代表作」は、20代〜30代に掛けての制作になるものだ。今日の「美術市場」が最も重要視するものの一つは、「美術市場」に「新規参入」した「アーティスト」が単純に「若い」事であり、且つ「若い」頃に制作された「代表作」の「発展的」再生産の持続(再生産としての「永遠の若さ」)が見込めるか否かである。「市場」に組み入れられようと欲する「アーティスト」は、「若い」頃に作り上げた「ブランド・イメージ」を守り、反復する一生を過ごす事を期待される。その意味で「美術」は「ユース・カルチャー」なのである。

事実上、今日の「美術」に於ける「出来事(événement)」の全ては、「産物や製品(produit)」としての「作品(œuvre d'art)」の「紹介を演出する(ensemble des présentations)」「展示会(expositions)」(「展覧会」)で行われる。今日「美術」として認識されているものの全てが、「展覧会」での「出来事」=「展覧会/美術」である。従って「展覧会」に於ける「作品」の「紹介者ー展示者(présentateur-exposant)」こそが、今日「アーティスト(artiste)」を名乗る権利を唯一有するのである。

現在「美術」と称されているものが、「展覧会/美術」の事実上の省略形であるが故に、「近代美術」や「コンテンポラリー・アート」に関する文章の全ては、自ずと「展覧会/美術」に限定されたものになる。ボリス・グロイス(例)にしても、ニコラ・ブリオー(例)にしても、クレア・ビショップ(例)にしても、その他の「美術」を「評論」する者の殆どの誰にしたところで、彼等/彼女等の関心が専ら「展覧会/美術」に限定されている一方で、彼等/彼女等「美術」の「専門家」が「展覧会/美術」にしか言及しない事で、「展覧会/美術」がそのまま「美術」であるとする思い込みを、彼等/彼女等の「美術館」同様、自ら進んで強化する役目を果たしてしまってもいる。

今日「展覧会」と称されている「習俗」は、それが「習俗」でしか無いが故に、「歴史」的な──即ちそれは「時間」と「空間」の制約下にある──「限界」の内部にある。「展覧会」は、「習俗」を形成した定冠詞的なものとしての「歴史」の「必然」であるが故に、同時にその「習俗」を形成した不定冠詞的なものとしての「歴史」の「偶然」の産物でしか無いものだ。仮に「展覧会」内に於いて、その様な「歴史」との「対立」が見られたとしても、その「対立」自体がその「歴史」に準拠しており、その「歴史」の中に於いて「理想」あるいは「動機」として既に書き込まれている。

この地球上に、「展覧会」という「形式」が誕生したのは何時何処かという問いに対しては、様々な答えがあり得る。16世紀から17世紀に掛けての、ネーデルランドやベルギー、イタリア等の聖ルカ組合(ギルド)が、路面店等で開いた展示即売見本市がその嚆矢であるとする見方は可能であるし、サロン・ド・パリを以て、「展覧会」が「形式」として一定の完成を見たという観測も可能だ。

「展覧会」が「発明」によって生まれた「形式」である以上、「人類史」は「『展覧会』以前」と「『展覧会』以後」に分かつ事が出来る。そして「人類史」の総体に於いては、時間的にも空間的にも論理的(注5)にも「『展覧会』以前」=「『展覧会』の無い世界」の方が、圧倒的なボリュームを有している。例えば所謂「日本美術史」──それが「通史」的なものとして成立し得るとして──に於いても、僅か百数十年前までは「『展覧会』の無い世界」のものだった。

(注5)「展覧会」の「発明」以後(例えば21世紀)に於いても、論理的な「『展覧会』以前」は十分以上に存在し得る。

いずれにしても「展覧会」は、職能──「才能」を「所有」し「職業」とする者=「才能」を「肉体」内に「独占」しているとされる者──としての「アーティスト」の経済上の「身分」を保証する為に成立したものであり、その事情は現在に至っても些かも変わっていない(注6)。繰り返しになるが、今日の「アーティスト」は、「紹介」のイベント、催し(≠出来事)である「展覧会」を行う事で、初めて「アーティスト」という「身分」を得る事が可能になる。換言すれば、今日「展覧会」を行わない者を「アーティスト」と呼ぶ事は困難だ。

(注6)所謂「著作権」は、「展示」(「発表」)によって証明付けられる。「作品」を「創作」した瞬間から「著作権」が発生するというのは「無方式主義」の建前だが、実際の「著作権裁判」で常に争点になるのは「創作」が行われた時期では無く、「展示」(「発表」)の「先後」関係、及びその「展示」(「発表」)の「影響力」の「大小」である。「著作権」を「『侵害』された者」は、「著作権」を「『侵害』した者」がそれを「展示」(「発表」)によって知っていたか否か、即ち自作を「紹介」した「展示」(「発表」)の「影響力」の「大小」(この作品の存在を知らない者はいない→知らなかったでは済まされない→ググレカス)を証明するという「不毛」を常に求められるのである。

今日の「美術」が「『アーティスト』の『活動』」をしか意味しないものになり、今日の「美術」に関する言説の全てが専ら「『アーティスト』の『活動』」に関するものになり、今日言われるところの「美術史」が「『アーティスト』の『活動』史」と同義となってしまっているが故に、「美術」に「能動」的主体──「『受動』的主体としての『観客』」=「既に出来上がっているものをひたすら待ち受けている者」の対向概念──として「コミット」する(注7)為には、唯一「アーティスト」でなければならないと信憑されている。そして「『アーティスト』の『活動』」を事実上証明する唯一のものが「展覧会」なのである。従って今日の「美術」への「参加」資格は、専ら何らかの「展覧会」に参加するか、或いは自ら「展覧会」を開催する事でのみ得られなければならない。

(注7)「美術」に対する「コミット」を表す言葉で最も一般的なものの一つは、「美術史に名を残す」というものだが、「名を残す」という表現からも明らかな様に、そこで言われている「美術史」は「『アーティスト』の『活動』史」を指す。「物々交換」レベルではない、所謂「アート・ワールド」で取引される「商品」の本体は、「『アーティスト』の『活動』史」映えする「アーティスト」の「名前」であり、一般的に「商品」として信じられている「作品」は、それに付随するものとして存在する。今日の多くの「アーティスト」が何にも増して心を砕くのは、自らの「名前」の「商品」的価値の向上だ。しげしげと「鑑賞」したところで何の意味も無い「防潮扉の一部に描かれた『バンクシー作品らしきネズミの絵』」が、2019年の4月から5月に掛けて東京都庁第一本庁舎2階のロビーで「展示」されたが、そこで最も重要なものは「ネズミのイメージが描かれたステンシル作品」そのものではなく、「真贋」を問う行為を根拠付けもする「バンクシー」という「名前」である。

であればこそ、今日の「アーティスト」は、「アーティスト」即ち「美術」の「メンバー」である事の、重要且つ唯一の「身分」証明である「展覧会」の開催/参加に執着する。寧ろ多くの「アーティスト」の一義的な関心は、専ら「キャリア」を計量的な形で証明する「尺度」としての「『展覧会』の開催/参加」なのであり、「制作」はそれに準じる形で、「欲望」の「原点」──「『作りたい』から『作る』」的な「体裁」を採ったりもする──を「擬態」したものとして行われる。それが高じれば、「目標」としての「展覧会」を設定しない事には、「制作」そのものが不可能になるという「転倒」も容易に起こり得る。「展覧会」があるからこそ「制作」が初めて可能になるという、今日の「アーティスト」の大半が陥っている「転倒」した「欲望」/「動機」のサイクルはこうして生まれたのである。

「『展覧会』の開催/参加」こそが「制作」の最大の「動機」になる事で、「アーティスト」は「展覧会」単位で「作風」を揃えたり、或いはそれをごっそりと変えてみたりする。「『展覧会』の開催/参加」は、「アーティスト」の「制作」を「条件」付け、それによって「アーティスト」は「制作」そのもの──物質レベル──から疎外される事になる。今日の「美術」に於いて、「展覧会」は「形式」である以上に「アーティスト」を律する「集合表象(représentation collective)」的な「必然」性を伴った「条件」である。その「条件」下にあって、物質的なものとしての「制作」そのものから疎外された「アーティスト」が行うべき重要な仕事の一つは、自らの「経歴」に、新たな「『展覧会』の開催/参加」の項目を書き足し続ける事で「アーティスト」としての定量的ボリュームを盛り、現在進行系で「アーティスト」であり続けている事を証明する事で、「信用」との「交換」を得ようとするものだろう。「『展覧会』の開催/参加」に対して、“Congratulations" という言葉が「アーティスト」に投げ掛けられたり、文化圏によってはそのエントランスに花環や胡蝶蘭が置かれもするが、果たしてその「目出度さ」は何に対してのものなのだろうか。

2019年4月某日、興味深い見物を見物した。その見物もまた「展覧会」と自称・他称されているものであり、「美術」が「『アーティスト』の『活動』」としての「展覧会/美術」をしか意味しなくなった時代を、極めて良く「露出」させたものだった。名称は「東京インディペンデント2019」(2019年/平成31年→令和元年)というものだ。開催場所は、岡田信一郎設計の東京藝術大学陳列館という開口部の小さな容れ物である。

「無審査・自由参加・自由出品の展覧会」を謳い、「出品資格は、芸術家としての意思があるすべての人」とする、「独立」をその名称の中に持つ同「展示会」は、当初の想定を遥かに超えた数の「アーティスト」が参集してしまったという。

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2019年1月に東京インディペンデントのWEBサイトを制作し、参加表明を募った。2月の段階では30名ぐらいにとどまっていたが、4月12日の会場受付日前には300名を突破。実際300名でも大変だと考えていたが、当日持ち込みも可にしていたため、参加人数がまったく読めなくなった。受付当日13時ぐらいには400名に達し、その後は会社や学校終わりの方が受付に集まった。結果、19時の受付終了までに来場したすべてのアーティスト633名分の作品を受け入れた。

https://qui.tokyo/tokyoindependent-190427?fbclid=IwAR1f1uUaqPKLHKfu5pA9SXO_0Z_k5Bi08WWSBF4YVFxFgknj31x3uZVr0To#toc-6

恐らくこの催しを一言で言うなら「『近代美術教育』の『成功/勝利』を印象付けるもの」というところになるだろう。従って、だからこそ、これは「(日本の)近代美術教育」の「総本山」である「東京藝術大学」で行われなければならなかったのだ。ここで何が「『近代美術教育』の『成功/勝利』」なのかと言えば、容れ物のキャパシティを遥かに上回る630余名の「何が何でも『展覧会』で『作品』を『展示』したくてしたくて堪らない人」が集まってしまったという事実による。入口受付前には、630余名の名前を記した長尺のプリントアウトが垂幕となって掲示されているが、それは神社仏閣の寄進者名が書かれ彫られた銘板や石の列柱を想起させもする、「信仰」(「エルゴン」)を屹立させる「パレルゴン」だ。そして尚もここでは、みっしりと「作品」で埋め尽くされた展示空間すらも「パレルゴン」に見えて来るのである。

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そもそも今日の「アーティスト」は、「展覧会」に於いて「輝く」事が出来る存在であり、且つ同時に「展覧会」に於いてしか「輝く」事の出来ない存在である。果たして「アーティスト」から「展覧会」を奪ってしまったら、一体何がそこに残るだろうか。同「展覧会」の西原珉氏によるステイトメントには、「芸術家の心の炎を熾し、燃やし続けるための場をつくり続けること」と書かれているが、その「場」とは他でもない「展覧会」を指している一方で、「制作」の場を意味してはいない。「芸術家の心の炎」は「『展覧会』で『作品』を『展示』する事」に対してこそ「熾きる」ものなのである。

日本に「展覧会」が登場/定着したのは近代以降の話だ。江戸期まで「展覧会」なるものに全く無縁だったこの国に、「展覧会」が無ければ生きていけない、「展覧会」以外に行き場の無い「アーティスト」なる人種を数多作り出してきたのは、「美術」を「『アーティスト』の『活動』」に限定して認識させる事に「成功/勝利」した「近代美術教育」を置いて他に無い。その意味でこの会場に集まった「『アーティスト』としての意思がある」633人は、例外無く何らかの形で「近代美術教育」を経由して来た人達と言える。

果たして人は、その人生に於いて、何時から「何が何でも『展覧会』で『作品』を『展示』したくてしたくて堪らない」様になるのだろうか。小学校の図工の時間に描いた絵が、教室外の廊下に貼り出された時から、「何が何でも『展覧会』で『作品』を『展示』したくてしたくて堪らない」という「欲望」は内面化されるのだろうか。小学校の廊下での「展示」を体験した瞬間から、小学生は「『展覧会』以後」の人として「覚醒」し、それまでの「蒙」の状態が「啓」かれ、「展示」の為に「作品」を「制作」する様になるのだろうか。しかし恐らくそうではあるまい。

同ステイトメントでも引き合いに出されている「ヨゼフ・ボイス(Joseph Beuys)」は、嘗て彼の “Soziale Plastik(「社会彫刻」)" の説明として “Jeder Mensch ist ein Künstler" と言ったとされている。そのドイツ語センテンスは、日本では「すべての人間は芸術家である」と訳される事が多い。しかし翻訳には、翻訳されなかった部分、翻訳に成功しなかった部分にこそ、原文の肝要が存在するというケースが多い(注8)。そして恐らくこの「すべての人間は芸術家である」という訳文にもそれは当て嵌る。

(注8)それ故に、当ブログではブログ主が全く知らない言語であったとしても、能う限り「原文」を併記して引用する様にしている。例えば、上に引用したドゥルーズガタリに於ける “on" は「ひと」(例:「ひとは、十分に節度をわきまえていなかったのだ」)と訳されているが、“on" という単語そのものには「私達」という意味がある。「ひと」は「ひとごと(他人事)」の「ひと」ではないのだ。

例えば “Jeder" は「すべての」と訳されているが、一方でそれは「それぞれの」という意味も持つ。「すべての人」であれば、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンニ短調交響曲に於けるフリードリヒ・フォン・シラーの様に “Alle Menschen" 等とする事も可能だが、しかしボイスは “Jeder Mensch" という表現を敢えて採用した。加えて「男性名詞」“Künstler"(芸術家)の前には不定冠詞の “ein" があるが、それは「日本語文として洗練されたものにする」という日本語訳の「通例」に従って、可視的な形で訳出されてはいない。しかし例えば、日本語としての洗練度を極めて低くしてこのフレーズを訳してみれば、それは「各位はそれぞれにそれぞれの形で既に芸術家として存在する」とする事も、或いは宮沢賢治の「農民芸術概論綱要(1926年/大正15年=昭和元年)」の表現そのままに「然(さ)もめいめいそのときどきの芸術家である」とする事も可能ではある。

いずれにしても、ボイス(注9)の発言にある “ein Künstler" は、「何が何でも『展覧会』で『作品』を『展示』したくてしたくて堪らない人」としての「アーティスト」をのみ指すものではない(「部分集合」として含まれはしても)。仮に「すべての人間は所謂『芸術家』である」という意味でそれを言うのであれば、ボイスも “Jeder Mensch ist Künstler" という「冠詞」抜きの表現を取っただろう。それでも「冠詞」の持つコノテーションに無頓着な日本語の訳として、「すべての人間は芸術家である」は十分に可能であるし、それ故にしばしばその様な「(所謂)芸術家としての意思がある」人間向けの言葉として日本では理解されていたりもするが、しかしそれでは恐らくボイスの言わんとするところとは、或る意味で「真逆」の意味を持ってしまう。「人はたいてい喜んで、彼等が欲する事を信じ込む」(“fere libenter homines id quod volnt credunt")(注10)のだボイスの “Jeder Mensch ist ein Künstler" は、「『アーティスト』の『活動』」世界=「展覧会/美術」への参入を容易なものにする事とは、直接的な関わりがないものだ。そこで言われている「芸術家(ein Künstler)」は、単純に「なる」ものではなく、或る意味で「既に備わっている」ものだからだ。

(注9)他方、ヨゼフ・ボイス自身は徹底して「展覧会/美術」的な「アーティスト」と言える。彼のその「アーティスト」的な「徹底」は、「政治活動」や「環境保護運動」等すらも「展覧会」とする事に「成功/勝利」したところに表れている。その「功績」は、今日の「『芸術』の『全面』化」と一般的に認識されている状況をもたらしたものと言えるが、しかしそれは実際には「『芸術』の『全面』化」では些かもなく、寧ろ「『展覧会』の『全面』化」と言えるものだ。

(注10)このガイウス・ユリウス・カエサルの言葉は、日本では「多くの人は、見たいと欲する現実しか見ない」という「意訳」で知られている。

ボリス・グロイスは、その著書 “Art Power" に於いて「『キュレーター〔curator〕』という単語が、語源上『治療する〔cure〕』という言葉に関係するのは偶然ではないのだ。キュレーティングすることは治療することである(It is in fact no coincidence that the word “curator” is etymologically related to “cure.” Curating is curing.)」と書いている。彼によれば、キュレーターによって「治療」されるべきは、「自らの定義をもってしては現前することができないし、観者にまなざしを強いることができない(A work of art cannot in fact present itself by virtue of its own definition and force the viewer into con- templation)」芸術作品(イメージ)の、「活力、精力、健康状態(vitality, energy, and health)」の欠如という「病」であるという事であるらしい。しかしその「病」は、より深く、より深刻に「病」んだ身体の内にある。それは「治療者」たらんとするキュレーターも罹患している厄介な「病」なのだ。

宮沢賢治は、ボイスの「社会彫刻論」を彷彿とさせもする前掲書(「ボイス」に「先立つ」事、半世紀以上前)に於いて、「芸術」が「われらを離れ然もわびしく堕落」した元凶として、「美を独占し販るもの」としての「芸術家」を上げ、それに対して「一度亡びねばならぬ」と断罪した。しかし「芸術」が「『アーティスト』の『活動』」と同義であると信じている彼等/彼女等を亡びさせる必要は一向に無い。その様に信じている/信じたい者には、そう信じさせておけば良いだけの話だ。即ちそれは「信教の自由」なのである。但し「信教の自由」とは、複数の「宗教」が不定冠詞的に存在する事を原理的な前提とした上で、その中の「任意の宗教を信じる自由」という事であり、翻ってそれは特定の「宗教」による、「世界」の如何なる「独占」/「支配」をも許さないという事を意味する。

そもそも任意の「宗教」が「独占」/「支配」するには「世界」は余りにも広過ぎる。そしてそれは、「芸術」という「世界」にも言える事だ。果たして真の意味で「インディペンデント」な「めいめいそのときどき」の「芸術」とは如何なるものになるのだろうか。

宮沢賢治の「農民芸術概論綱要」には以下の記述がある。

芸術のための芸術は少年期に現はれ青年期後に潜在する
人生のための芸術は青年期にあり 成年以後に潜在する
芸術としての人生は老年期中に完成する

ここに書かれた「芸術としての人生」が、恐らくその鍵を握っているという予感がある。そしてまたしてもそれは「老年」なのだ。

【続く】