1930年代にドイツで生まれたとも言われる銀塩写真の暗室ワーク(参考:1944年3月11日に米イーストマン・コダック社が出願したパテント――ここでは「発明者」が John A. C. Yule であるとされている)である「アンシャープマスキング」メソッドは、一旦「ぼかし」の過程が挿入される為に「アンシャープ」の語が冠せられている。しかしその目的とするところは飽くまでも「シャープネス」の向上だ。「ぼかし(アンシャープ)」の過程を経なければ「シャープ」にはならない。
「平均(Average)」は「ぼかし(Blur)」であった。仮に「平均」が可逆的なものであるとして(実際にはそういう事は無い)、例えば「アンシャープ」展に於ける「段ボール箱」作品の「段ボール」部分を、どんどん「鮮明」にして「個別の要素」を明らかにして行った時(=「平均」以前に戻して行った時)、そこには「宅急便の送り状」や「われもの注意」や「高原レタス」が現れて来るのかもしれない。しかし一方で、そこに「DHLの送り状」や「THIS SIDE UP」や「Amazon.com」が現れて来るという可能性を否定する事は出来ない。あの「段ボール箱」作品の茶色という「平均」は、世界中のあらゆる(取り敢えず茶色系の)段ボール箱の上で生じ得るあらゆるパターンへと繋がっている。作者だけが知っているかもしれない「正解」は、そうした繋がりの可能的な一つでしか無い。
1. Beyond a certain critical mass, a building becomes a BIG Building. Such a mass can no longer be controlled by a singular architectural gesture, or even by any combination of architectural gestures. The impossibility triggers the autonomy of its parts, which is different from fragmentation: the parts remain committed to the whole.
2. The elevator-with its potential to establish mechanical rather than architectural connections-and its family of related inventions render null and void the classical repertoire of architecture. Issues of composition, scale, proportion, detail are now moot. The ‘art’ of architecture is useless in BIGNESS.
3. In BIGNESS, the distance between core and envelope increases to the point where the façade can no longer reveal what happens inside. The humanist expectation of ‘honesty’ is doomed; interior and exterior architectures become separate projects, one dealing with the instability of programmatic and iconographic needs, the other-agent of dis-information- offering the city the apparent stability of an object. Where architecture reveals, BIGNESS perplexes; BIGNESS transforms the city from a summation of certainties into an accumulation of mysteries. What you see is no longer what you get.
3 ビッグネスでは中心と外皮があまりにも離れ過ぎていて、ファサードは中で何が起こっているのかを伝えることができない。だからヒューマニスト的に「素直さ」を求めても無駄だ。建築の内部と外部は別々のプロジェクトとなる。一方はプログラムと形態の不確定なニーズを扱う。もう一方は情報を操作する。物体として安定していることを都市全体に伝えるのだ。建築が何かを見せて伝えるのに対し、ビッグネスは人を煙に巻く。ビッグネスにより、都市は確実性の総和ではなく、ミステリーの集積となる。もはや What you see is what you get にはならない。つまり、いま見えているものと実体は一致しないのだ。
4. Through size alone, such buildings enter an amoral domain, beyond good and bad. Their impact is independent of their quality.
5. Together, all these breaks-with scale, with architectural composition, with tradition, with transparency, with ethics-imply the final, most radical break: BIGNESS is no longer part of any issue. It’s exists; at most, it coexists. Its subtext is fuck context.
“Gud hvor kejserens nye klæder er mageløse!" (おお皇帝の新しい服は、何と比類なきものなのでしょう!)"。目には全く見えない服を褒め称える事で、社会の中の自らのポジションを維持しようと必死な大人達(「地宙船」でググれば、そうした大人達ばかりに会える)を尻目に、“Men han har jo ikke noget på(でもあの人は裸だよ)"と言ってしまえるハンス・クリスチャン・アンデルセンの "Keiserens nye Klæder(皇帝の新しい服)」の子供ならば、東急東横線渋谷駅の「地宙船」に対しても「でもここにはこんなもの無いよ」と事も無げに言えるだろう。
それからやがて1年10ヶ月が経つ。ザハ・ハディド・アーキテクツのデザイン原案を採用すると公表されてからは2年7ヶ月余りだ。未だに地鎮祭も始まってはいない一方で、何かが幾重にも終わってしまっている印象だけはある。初代の国立霞ヶ丘陸上競技場は最早地上に姿は無く、また東京に立地していない日産スタジアムは、オリンピック憲章の “The Opening and Closing Cereomonies must take place in the host city itself(開会式および閉会式は開催都市で行わなければならない)"という条件を満たしていない為に、「東京オリンピック」の開会式及び閉会式の会場となる権利を有さない。
Barnett Newman "Remarks at Artists' Sessions at Studio 35"(1950)
MIHO MUSEUM の2015年春季(3/14〜6/7)。「バーネット・ニューマン 十字架の道行き」展をメインの目的にした、2015年一回目の MIHO MUSEUM には車を運転して行った。しかしその道行きは 、JR 石山駅から帝産バスに乗って行った方が良かったのではないかとすぐさま後悔した。
車の運転は運転行為そのものに集中しなければならない。名神高速道路や国道1号線側から MIHO MUSEUM に行く場合、特に県道16号線や県道12号線には車を運転する者にとっては意地悪く現れる幅員減少の箇所が複数あり、ブラインドコーナーから現れる対向車の存在に常に神経を尖らせられる。こうした運転の為だけに費やされる精神的緊張は、この県道に慣れている帝産バスの人に往復1,640円也で任せるべきだと痛感した。それ故に「曾我蕭白 富士三保図屏風と日本美術の愉悦」/「常設展示」をメインの目的にした二回目は帝産バスに載せられて行く身になった。
道行けば次第にモバイル端末の電波は弱くなり、やがてその板状の物体は実用的なものではなくなる。電波の届く場所での板の中で人が演じているもの、板の中で人が信じている未来は、ここではすっかり背中の側に追き去りにされる。商業的なものがバスの窓外の景色から次第に退場して行き、地球上の殆どの面積を占める商業が入り込めない場所と同じになる。ここから先に貨幣が有用なものとなるのは、MIHO MUSEUM の敷地内及び帝産バスの運賃箱に於いてしか無いのだろう。帝産バスに乗る事。これは片道50分を掛けて入って行く、何かへの長大なエントランスなのである。
時にはそうした「正解」が、今日の芸術家の制作を効率的なものとするかもしれない。確かに Wikipedia に載っている様な「正解」を素材の一つにする事で制作が効率的になれば、芸術家は多くの作品を生産出来る。しかしそうした効率化され得ない悶々こそが、「圧倒する問い(overwherlming question)」である「答えを持たない問い(question that has no answer)」としての「起源の問い(the original question)」(バーネット・ニューマン)なのである。そしてこれから向かう山中の「Shangri-La」に2015年時点で保管されている数千年分のものこそは、そうした「圧倒する答えを持たない起源の問い」によって生まれたものばかりなのだ。
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「十字架の道行き(“The Stations of the Cross")」の「連作」が描かれたのは、バーネット・ニューマンがニューヨーク・マンハッタン島のイーストリバーから、フランクリン・D・ルーズベルト・イースト・リバー・ドライブ(1955〜)/サウス・ストリートを隔てた、フロント・ストリートとウォール・ストリートが交差する “100 Front Street" にスタジオを構えていた時代(1952〜1968年)に当たる。それ以前のニューマンのスタジオは、リンク先ストリートビューで奥に見える交差点を右に曲がってすぐの “110 Wall street" にあった。
1950年代から1960年代に掛けてのニューヨーク・マンハッタン島と言えば、当時のパリやロンドンや東京などとは比べ物にならない「世界の中心」だった。そのニューヨーク・マンハッタン島でバーネット・ニューマンは生まれ、彼の居住環境と制作環境は、常にその島内の西に東に南にと留まっていた。この「世界の中心」の外に出る必要性を、彼は終生感じた事は無かったのだろう。バーネット・ニューマン財団のクロノロジーを辿る事で強く印象付けられるのは、彼が紛れも無く「現代」の「都市」の人という事である。恐らくマンハッタン島よりも制作環境としては恵まれたスペースを得易いだろうロング・アイランド(Jackson Pollock & Lee Krasner の様に)ですら、彼は居住/制作出来る人では無いのだ。彼の言う「アメリカ」は、東京都世田谷区(58.05 km²)とほぼ同じ面積の――21世紀の現在ならば何処へ行っても板が有用なものになる電波が通じる――僅か58.8 km²ばかりの島と同義なのである。
I feel that I'm an American painter in the sense that this is where I love to live, was born, and this is where I've developed my ideas, and so on. At the same time, I hope that my work transcends the issue of being an American. I recognize that I am an American, because I am not Czechoslovak, and my work was not painted in Czechoslovakia or in Hungary or in India. But I hope that my work can be seen and understood on a universal basis.
脱線が長くなった。今回の MIHO MUSEUM での「春季特別展 バーネット・ニューマン 十字架の道行き」の展示は、或る意味で非常に野心的なものにも見える。それは「現代」という言葉がすっかり枯れ切ってしまったこの時代に、事もあろうに「現代美術」の入門書で取り上げられる様な「現代美術」作家の作品を、「世界の古代美術」が展示されている常設棟の一角(「南館」地下一階。通常は「中国・ペルシャ」の古代美術のエリアの一室)で展示したというところにある。
常設棟・地下一階のミュージアムショップの向かい側の、135度の角度で折り曲げられた三面の壁には、「十字架の道行き」連作の「第一留」のジップ部分が大きくプリントされ、そこには “Barnett Newman/ THE STATIONS OF THE CROSS/ lema sabachthani" (“/" は改行を表す)と書かれている。「第一留」のロウ・キャンバス部分を表してもいるだろう中央の白い壁に、展示室へと向かう入口が開口していて、その入口奥の黒い仮設壁には、バーネット・ニューマンの天地一杯のポートレートがそこに入ろうとする者を見つめている。この設えから言って、この入口を入れば「現代美術」の「バーネット・ニューマン」しか展示されていないだろうと、特に「十字架の道行き」目当てにこの「桃源郷」まで赴いて来た観客は思う事だろう。
「十字架の道行き」の14枚+1枚だけで構成される、ワシントン・ナショナル・ギャラリーを彷彿とさせる円環的構成の企画展という側面と、美術館建物の構造上の問題(南館の「南アジア」の部屋では狭く、「エジプト」の部屋や「西アジア」の部屋では、奥の小スペースがデッドになってしまう。企画展専用の北館にはそもそも円環状の「十字架の道行き」を独立した展覧会として見せられる場所が無い)という実務上の問題もあっての展示室の決定であり、且つ常設展との入口の共通化という結果になったと想像されたりもするのだが、いずれにしてもそれは結果的にバーネット・ニューマンから「現代」及び「美術」を一旦棚上げさせる事に繋がっている。即ち “I hope that my work can be seen and understood on a universal basis(私は、私の作品が普遍的な基盤の上で見られ理解され得る事を願っているのです)" という作者の言葉に対し、冷徹にも数千年の厚みを持つ「普遍的な基盤」の内に、20世紀「アメリカ」精神の所産を半ば力ずくで挿入する事で、他ならぬバーネット・ニューマンに後戻りの効かない「有言実行」性を持たせる形にしたのではないか。
同展会場入口には当館の辻惟雄館長の挨拶文が掲げてある。一読して、この文章は展覧会のみならず、他ならぬこの MIHO MUSEUM とそのバックグラウンドについて書かれたものである事が判る。不思議な事に「曾我蕭白 富士三保図屏風と日本美術の愉悦」展の挨拶文であるにも拘らず、そこには「バーネット・ニューマン 十字架の道行き」展にも多くが割かれている。
「曾我蕭白 富士三保図屏風と日本美術の愉悦」展・展示室内の作品解説文は、その多くが当館の学芸員によって書かれているものだが、これもまた MIHO MUSEUM とそのバックグラウンドについて書かれたものとも言えるだろう。そればかりか、何処かで「十字架の道行き」に繋がりそうに思える記述も幾つか見られる。
「同館の精神性と呼応するもの」。やはりこれは、川村記念美術館にあった「アンナの光」以上に、バーネット・ニューマンから「現代」と「美術」を超脱させる事を意図した展覧会だったのだ。或る意味で、ロケーションを含む MIHO MUSEUM 全館、全コレクション、そして別の企画展すら総動員してそれは行われているとも言える。
MIHO MUSEUM に於いて初めての「現代美術」の展覧会である「バーネット・ニューマン 十字架の道行き」。しかし「現代美術」作品が MIHO MUSEUM で展示されるには、或る意味で作品が「資格」を備えていなければならない。それは例えば「現代に生きる琳派」的なものでは到底追い付かないものだ。恐らくは MIHO MUSEUM に於いては、多かれ少なかれ「現代美術」作品は、「現代」と「美術」を脱がされる事になる。そうした意味での「裸」に一定以上の「自信」が無いと、とてもでは無いが「持たない」所なのだ。
「ひとりの芸術家の営みが円環的になっている(“the work of a single artist forms a circle" 保坂健二朗氏)」という一つの解が導かれたとしても、それをあそこまでリテラルな形で実線化し、或いはリテラルに俯瞰可能なものとして示してしまうのは、「小さな親切大きなお世話(white elephant)」でしかない。それは「イメージ (image)」の鎖に繋がれたスペクタクル消費としての「絵画」の発想であり、例えば「真っ直ぐな性格」を直線定規を使って描画してしまう少年漫画と同質のコメディと言える。
「大作」を作るのは「アーティスト」の領分だ。二つ煉瓦の「複合体」や「複合体(椅子とレンガ)」と、東京画廊の個展(1976年11月)やドクメンタ6(1977年7月)に於ける鉄製の「複合体」は、その意味で不連続なものだ。「ミステリーズ」展のカタログで、保坂健二朗氏が「ドローイング(works on paper)」と「絵画(oil on canvas)」の間に引いた分割線(p.225)も、それに繋がる様な気がする。
「PARASOPHIA」公式サイト英語版の “About" には、日本語版の「開催概要」では割愛されている “The exhibition will be complex and multilayered in content, drawing the intellectual empathy of specialist art audiences, with a lighthearted air that can be enjoyed by the whole family." という一文がある。飄亭の松花堂弁当にプッチンプリンも入れて、それで “complex and multilayered in content" にしてみた的なものだろうか。この “a lighthearted air that can be enjoyed by the whole family" の受け皿を、「PARASOPHIA」としては京都市美術館の「蔡國強」や「やなぎみわ」や「ジャン=リュック・ヴィルムート」辺りに設定しているのかもしれない。しかし今から行くのはどちらかと言えば “drawing the intellectual empathy of specialist art audiences" 寄りに思える京都府京都文化博物館別館である。
しかもデュアン・ハンソンの時代(20世紀中葉)の小型携帯カメラよりも、その帯同性に於いては、21世紀初頭のモバイルフォンはより高いものになっていると言えるだろう。モバイルフォンを所有する者が、モバイルフォンを持ち歩かないというのは、極めて例外的(忘れて来た、落とした等々)な事態であり、モバイルフォンを取り出して操作する事は、今や多くの人類の生活習慣の一つですらある。当然、写真撮影の習慣化もまた、所謂「カメラ」よりも相対的に高いものになる。そしてこれもまたモバイル端末がもたらした人類の習慣である SNS(場所に縛られるデスクトップ PC では SNS が成立しない)が写真撮影の習慣化を加速する。21世紀の “Tourists" 作品は、モバイルフォンの液晶画面(「覗き穴」)越しに世界を観察しつつ、そのホームボタンを押して、何処かのサーバに画像をアップロードするポーズになるに違いない。
写真(表現)史に於いて、さほど重要視されていない人物の一人に Oskar Barnack(オスカー・バルナック:1879-1936)がいる。しかし彼は、今日のモバイルフォンへと繋がる小型カメラの形式を作り上げ、写真撮影の習慣化――「覗き穴」を通して世界を見る事の習慣化――を広範な人類にもたらした(人類の眼差しに於ける新たな標準とした)点で、写真社会学的な意味に於いて最重要人物の一人である事に間違いは無かろう。
Café Little Boy is a space for reflection, communication, and exchange. Its title is inspired by “Little Boy," or the code name for the atomic bomb that was dropped on the city of Hiroshima on August 6, 1945. Your participation is an integral part of the installation. You are invited to express yourselves on the painted surfaces of this room using the chalk and erasers that are provided for this purpose. Your interventions will follow one another and intermingle as time goes by, helping to give shape to the pluralist and cllective spirit of this evolving work.
After the explosion of the atomic bomb in Hiroshima, there was nothing left of the elementary school in Fukuromachi apart from a wall with a large blackboard on which people left messages for their families and loved ones.
京都芸術センターのアーノウト・ミック。一人「PARASOPHIA」。アーティスティックディレクター氏も成し得なかった本展のキュレーションの一つとして作動する “Speaking in Tongues(「異言」)"。二つのフィクションによってコヒーレンス(可干渉性)を高められたノンフィクションから放射される極めて「有害」なレーザー光の如き光。その光に現実世界、そして「PARASOPHIA」の様々な「異言」が照らされる。
最初に「PARASOPHIA」を訪れたのは、例外的に月曜日が「休場日」ではなかった3月9日だった――以下に書くのは基本的に3月9日時点での話という事になる。雨まじりの日。自分にとってのアクセスの容易性から「京都芸術センター」を最初に選んだ。降車駅は阪急京都線烏丸駅。「PARASOPHIA」のポスターは構内に一枚も見当たらない。あいちトリエンナーレの時には名古屋市営地下鉄駅構内にトリエンナーレ会場の位置を示す大きな地図が貼られていた。それを見ながらスマホの Google Map アプリと照らし合わせる。それは町に不案内な自分にとっては必要な情報だった。
京都芸術センターではこういうものを渡される。痒いところに手が届くものを見るのは始めてだ。こういうものの現れこそが「想像力」の賜物というものである。但し次の会場「京都府京都文化博物館 別館」へは、「徒歩10分」(“10 min. walk")というたったそれだけの文字列だけを頼りに行かなければならない。「パラソフィア ハ ドコデ ヤッテイマスカ?」。これから外国人に道を聞かれても「何分歩け(“~ min. walk!")」とだけ言えば良い事を知る。そして後は「ええスマートフォン持ったはるなぁ(=そんなのは自分のスマホで調べろ)」と言えば良いのだろうか。