アンシャープ

「末永史尚『アンシャープ』」展の会場(大阪市西区京町堀1-17-8 京ビル4F GALLERY ZERO)でその作品を見てから家に帰り、早速水平器(レベル)の画像を検索した。するとこういうものが見付かった。



Fig.01


この水平器を模式図にしてみる。



Fig.02


しかし実際には、「この状態」では気泡管内の気泡はこうなる筈である。



Fig.03


明らかに Amazon のものは、「水平」状態で撮影された写真を、「重力」の及ばない場所――即ちモニタ画面上――で45度右に傾けたものだ。



Fig.04


Fig.05


この水平器を45度ずつ回転してみるとこうなる。



Fig.06


測定面の水平、垂直、45度を確認する為の3つの気泡管を備えたこの水平器の場合、「B」と「F」は、レベルや角度を測定するという目的に於いては全く「無意味」なものだ。しかしこれらは測定面を測定対象に接したままにして、水平器の裏表を逆にする事で「有意味」なものになる。いずれにしても「重力」が支配する現実空間内に於いては、水平器の角度を0.5mm(シンワ ブルーレベル 300mm の場合)でも傾ければ1、2、3のそれぞれの気泡管の気泡の位置は、一つとして同じパターンにはならないのである。

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PhotoshopGimp 、或いは Pixelmator 等のビットマップ画像の編集アプリケーションを使用した者にとって、「アンシャープ」という語からすぐさま思い起こされるのは、それらに備えられている「アンシャープマスク」というフィルタ機能だろう。


1930年代にドイツで生まれたとも言われる銀塩写真の暗室ワーク(参考:1944年3月11日に米イーストマン・コダック社が出願したパテント――ここでは「発明者」が John A. C. Yule であるとされている)である「アンシャープマスキング」メソッドは、一旦「ぼかし」の過程が挿入される為に「アンシャープ」の語が冠せられている。しかしその目的とするところは飽くまでも「シャープネス」の向上だ。「ぼかし(アンシャープ)」の過程を経なければ「シャープ」にはならない。


デジタル画像処理では―― Photoshop CC2015 の場合――「フィルター(Filer)」→「シャープ(Sharpen)」→「アンシャープマスク...(Unsharp Mask...)」の順番で「アンシャープ・マスキング(USM)」メソッドをパネルの形で呼び出し、そこで「量(Amount)」と「半径(Radius)」と「しきい値(Threshold)」の3つのパラメータを操作する事で、目的とする「シャープネス」を得るという手順を(通常は)踏む。


「アンシャープマスキング」は以下の様にシミュレートする事が出来る(以下 Photoshop CC2015 での操作例)。


1.画像を「ファイル(File)」→「開く...(Open...)」。それから「レイヤー(Layer)」→「レイヤーを複製...(Duplicate Layers...)」を2回行う。これにより「背景のコピー(Background copy)」と「背景のコピー2(Background copy 2)」レイヤーが出来る(レイヤー構造をインクルードしていない画像の場合)。



Fig.07


2.「背景のコピー2(Background copy 2)」レイヤーに、「フィルター(Filter)」→「ぼかし(Blur)」→「ぼかし(ガウス)...(Gaussian Blur...)」を適用する(作例では半径15pixel)。



Fig.08


3.ぼかしを掛けた「背景のコピー2(Background copy 2)」レイヤーの描画モードを「通常(Normal)」から「減算(Exclusion)」に変更し、そのまま「背景のコピー2(Background copy 2)」レイヤーが選択されている状態で、「レイヤー(Layer)」→「下のレイヤーと結合(Merge Down)」で「背景のコピー2(Background copy 2)」を「背景のコピー(Background copy)」と一体化させる。



Fig.09


4.一体化した「背景のコピー(Background copy)」レイヤーの描画モードを「スクリーン(Screen)」に変更する事で「アンシャープマスキング」の操作が完了する。画像の「シャープネス」が向上している事を「背景のコピー(Background copy)」レイヤーの表示をオン/オフする事で確かめる事が出来る。



Fig.10


「アンシャープマスキング」処理で、実際に何が行われているのかについての説明は、gimp.org によるこのドキュメントを参考にすれば良いだろう。


http://docs.gimp.org/ja/plug-in-unsharp-mask.html


「アンシャープマスキング」による「シャープ」は「現象」的にはこうなっている(Before/After)。



Fig.11


これが gimp.org のドキュメントの最後に記されている「黒目効果」である。「減算が負の値を生み、 コントラストのある部分に沿って補色のすじができたり、 明るめの星雲を背景に見える星のまわりに黒い暈 (ハロー) ができる」(gimp.org)。その様にして、元々コントラストが高めのところには相対的に目立つ「輪郭(線)」が「できる」事で、画像はより「シャープ」に「見える」事になる。


「シャープ」である事。それは所与的なものではない。「シャープ」は「シャープ」自体としては存在しない。「シャープ」は意識を介し、それが「シャープ」であると認める事なのである。

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「ぼかし」というのは緩やかな「平均」化であり、それは所謂「エントロピー増大」の様なものだ。上掲「アンシャープマスキング」のシミュレートの「2(Fig.08)」に於いては、「水平器」という「内部」と、その「外部」である「背景」を、「秩序」的な形で弁別する為に機能していた「色」が混じり合い、「内部」と「外部」が不分明なものになる事で、「画像」は「無秩序」の方向に向かう。


「ぼかし」をこの水平器の元画像全体に行き渡らせ、全ての画素の持つ情報を「平均」化(コーヒーフレッシュが混ざり切ったコーヒーの状態)してみる。これは Photoshop CC2015 の「フィルター(Filter)」→「ぼかし(Blur)」の中にある「平均(Average)」によって得られる。「平均」は「ぼかし」なのである。



FIg.12


流石にこの「平均」状態では、これを見せられただけで、元画像が水平器であるとは誰も判らないだろう。確かに人の官能というのは不思議なもので、醤油と味醂と酒と砂糖と塩と生姜と鰹節と昆布と水が(相対的に)「平均」化した液体を舌に乗せ、そこから「醤油」や「生姜」や「昆布」の味を弁別したりする能力が、多かれ少なかれ備わってはいる。それは、それぞれの味に関する記憶のデータベースと照らし合わせ、その差分から「平均」化された液体の中で不分明だった「醤油」や「生姜」の輪郭を浮かび上がらせる事で、それらを弁別可能なものとして認識する。即ちこれもまた、記憶をコンタクトプリントする事によって得られる「アンシャープマスキング」なのである。


しかし画像の場合は、参照するデータベースの項目が、味に比べて相対的に多過ぎる為に、この完全なる「ぼけ」にコンタクトプリントすべきものを見つけ出す事は事実上不可能だ。多くは青空や海中等の記憶をそこに重ねられてしまうだろう。

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愛知県美術館のAPMOA Projectで開催した個展「ミュージアムピース」は美術館に備わっているもの〜例えばコレクションの絵画を飾る額縁、スポットライト、キャプション〜をモチーフとした作品によって構成された展覧会でした。
あのとき意識していたのは、観る人と作品との関わり方が展示室の中で完結したものではなく、前後の展示室の展示、あるいは過去に同展示室で行われた展示との関わりによって影響を受けること、それを利用した作品の質もあり得るのではないか、ということでした。近代以降、美術作品は前後の経験から切り離された真空状態で成立しているかのように扱われすぎていたのではないか。
それと同時に、あまりにも場に依存した作品は時間的、空間的広がりを欠くものです。場を基点としつつも創りだしたものはどの場においても効果があるものであってほしい。そのための操作や判断の要は、ものを構成しているトピックは鮮明にしつつ、姿からは個別の要素を不鮮明(アンシャープ)にすることです。
本展によって「ミュージアムピース」の作品との新しい出会い方を用意しつつギャラリーでの鑑賞体験に何かを付け足す機会となればと考えています。


「suenaga fuminaoのブログ」
http://kachifu.hatenablog.com/entry/2015/07/03/205246


GALLERY ZERO の「アンシャープ」展に出品されているのは、2014年に愛知県美術館で行われた「APMoA Project, ARCH vol. 11 末永史尚『ミュージアムピース』」に出品されたピクチャーフレーム作品4点(旧作2点、新作2点)、CDケース作品3点(新作)、段ボール箱作品1点(新作)、そして水平器作品が2点(新作)である。


http://gallery-zero.jimdo.com/artists/%E6%9C%AB%E6%B0%B8%E5%8F%B2%E5%B0%9A-suenaga-fuminao/%E6%9C%AB%E6%B0%B8-suenaga-2015/


この「アンシャープ」展の作者は、自らの「創りだしたもの」に対する説明として、「ものを構成しているトピックは鮮明にしつつ、姿からは個別の要素を不鮮明(アンシャープ)にすること」と書いている。一方「アンシャープマスキング」メソッドをプロセス順に書けば、「個別の要素を不鮮明(アンシャープ)にしたものを通すことで、ものを構成しているトピックを鮮明にする」である。即ちプロセス的には全く別のものである。


これらの作品が創られる過程としては、何よりも先に「トピック」の「鮮明」化が行われる。「トピック」とは「項目」であり、従って極めて言語的なものである。先程の例でも上げた様に、その中でもまず「内部」と「外部」という二項目の「トピック」が弁別されるのだが、これは「支持体」がそのままその役目を担う。合板や木枠は鋸によって、ピクチャーフレーム(+絵画)、CDケース、段ボール箱、水平器が備えている大きさを、「秩序」のフィールドとする事で、「内部」として顕現する。


その次に来るプロセスは「内部」に於ける「トピック」の「画定」になる。当然これもまた言語を介して行われる人為である。「トピック」は「トピック」として既にそこに存在しているものではない。「トピック」は「見分け」の機制によって生じる。それは「支持体」という連続的な広がりを持つ「陸地」の内部に、「明確(シャープ)」な領域としての近代的「国境」――古来の「国境」は、城壁で「シャープ」にされてもいた「国家」の周囲に、常に「ぼかし(Blur)」が掛かった “frontier(辺境)"が存在していた――を画定して切り分けて行く様なものだ。(近代的)「国境」は「山脈」や「河川」や「森林」や「湖沼」や「海洋」等によって「画定」される場合もあれば、「条約」や「幾何」や「人種」や「民族」や「宗教」等の理由で「画定」される場合もある。いずれにしても、この作者の作品の戦略的な立ち位置としては、常に「ボーダー/バウンダリーの絵画」 なのである。


「国境」が定められれば、そこから「平均」が導き出される。例えば「国境」によって「日本国」が定められての後に「日本人」という「平均」が導き出される様に、その「国境」内の色は「平均」――多くの場合、実際には「平均」ではない。「日本人」という「平均」がそうなっていない様に――によって「単色」化される。


先の水平器の画像の場合、人間の多くが認めるこの水平器画像「内部」に於ける「国境」はこうなりもするだろう。



Fig.13


「西サイドキャップ国」、「アルミ角パイプ国」、「垂直気泡管国」、「水平気泡管国」、「45度気泡管国」、「東サイドキャップ国」、「北西サイドキャップ国」、「北西アルミ角パイプ国」、「北水平気泡管国」、「北東アルミ角パイプ国」、「北東サイドキャップ国」。


それぞれの「国」の「平均」を求めるとこうなる。



Fig.14


しかし「国境」を作成するマッピングの方法論にはこういうものもあるだろう。



Fig.15


所謂モザイクフィルタであるが、これもまた「ぼかし」且つ「平均」である。これは、アメリカの幾つかの州や、アフリカの幾つかの国や、朝鮮半島の二つの国の間の様に、「緯度」と「経度」――即ち「ビット」――でマッピングされた「国境」と言える。従ってこういう「県境」もあり得る。



Fig.16


であれば、凡そ「ビットマップ画像」というものは、ピクセルという「国境」単位で区分けられ、それぞれが「平均/アンシャープ」化されたものであると言えるだろう。それが「遠目」に「シャープ」に見える事があったとしても。


近代的「国境」の「内部」には、「分裂」や「独立」の意志が常に胚胎する事を我々の歴史は教えてくれる。「垂直気泡管国」も「水平気泡管国」も「45度気泡管国」もまた、その「国境」の「内部」は「不穏」に満ちている。

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「平均(Average)」は「ぼかし(Blur)」であった。仮に「平均」が可逆的なものであるとして(実際にはそういう事は無い)、例えば「アンシャープ」展に於ける「段ボール箱」作品の「段ボール」部分を、どんどん「鮮明」にして「個別の要素」を明らかにして行った時(=「平均」以前に戻して行った時)、そこには「宅急便の送り状」や「われもの注意」や「高原レタス」が現れて来るのかもしれない。しかし一方で、そこに「DHLの送り状」や「THIS SIDE UP」や「Amazon.com」が現れて来るという可能性を否定する事は出来ない。あの「段ボール箱」作品の茶色という「平均」は、世界中のあらゆる(取り敢えず茶色系の)段ボール箱の上で生じ得るあらゆるパターンへと繋がっている。作者だけが知っているかもしれない「正解」は、そうした繋がりの可能的な一つでしか無い。


愛知県美術館に於ける「ピクチャーフレーム」作品の場合は、その「平均」以前の「必然(正解)」が、「前後の展示室の展示、あるいは過去に同展示室で行われた展示」を辿る事で、対応関係的に特定可能に思わせてしまうものだった。歩かせる事。目をキョロキョロとさせる事。クエストゲーム。それは確かに「展示室の中で完結した」ものでは無かったものの、その一方で「美術館の中で完結した」ものではあった。


今回の大阪の展示では、「シャープ(モチーフ)」と「アンシャープ(作品)」の「同定」化が事実上不可能である為に、その3枚の「ピクチャーフレーム」に入る「アンシャープ」化された「ペインティング」は、段ボール上の「高原レタス」や「Amazon.com」の様に、「蓋然」という「ぼかし(決定不能)」の状態に留まり続ける。「ピクチャーフレーム」にはあらゆる「ペインティング」が額装され得るものの、しかしそれはその時々に於いて常に一つなのである。

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展覧会に於ける「絵画」作品は、それが洞窟ならぬ展示室の壁面に掛けられる際には、建築のフォーマットである「水平/垂直」を受け入れる事が、美術の展示室に迎え入れられる条件ともなる。それ故に展示関係者の必需品の一つは水平器になる――場合によってはレーザー墨出器の出番ともなる。


但し展示作業に水平器を使用しない方が、良い結果を生む場合もある。例えば展示室の床面の水平が、そこにボールを置けば何もしなくても転がって行ってしまう位に著しく出ていない場合、意図的に作品の水平を外した方が、床面との関係で「水平」に見えるという事もあるからだ。その場合は、作品両端の床面からの距離を一定にしたり、官能評価(見た目)で「水平」を決定する事もある。但しそれはレアなケースだろう。


多くの場合、平面作品のセッティング作業では、平面作品の上縁、或いは下縁に、水平器が上掲 Fig.06 の “A"、或いは “E" の向きで当てられ、建築へのフィッティングが進められる。「水平器」作品の展示作業はどうだったのだろう。この様な状態になっていたのであろうか。



Fig.17


こうした方法によってセッティング作業が進められていたと仮定すると、機能する水平器(以下〈水平器〉)と「水平器」作品が重ねられ、「水平器」作品を実際に水平に調整した時、〈水平器〉中央の気泡管の気泡は二つの標線の中間に位置する事になる。では「水平器」作品の「平均」化された中央の気泡管の気泡は、一体どこに位置しているのであろうか。それは隣接する〈水平器〉と同じ中央なのだろうか。或いはそことは別の位置にあるのだろうか。


気泡管が「平均」化される時、その「平均」の色の値は気泡の位置に左右されない。Fig.06 のどの角度にあっても、気泡管の「平均」は全て同じ「単色」になる。



Fig.18


「アンシャープ」から「シャープ」が不可逆の関係にある以上、「アンシャープ」化された気泡の位置を確定する事は不可能だ。しかし多くの者は、「水平器」作品が水平の状態にある時、その中央の気泡管の気泡の位置が中央にある事を、その「平均」の中に「見る」のである。


今回の展示では、「水平器」作品は「水平」状態(厳密にはそうではないかもしれない)にのみセッティングされていた。この同じ作品を「垂直」にした場合、果たして「水平器」作品の中の気泡の位置は「変化」するだろうか。それとも Amazon の「45度に傾けられた水平状態の写真」の様に、気泡の位置が張り付いたままにあるだろうか。そしてそれを見る者は、Fig.06 の “C" や “G" の様な垂直気泡管の状態をそこに「見る」だろうか。


それ故に「平均」の中の気泡の位置は決定不能である。或いは「平均」の中の気泡は永遠に動き続ける。無重力=zero gravity、且つ真空=vacuum という、その「内部」的な論理としては「重力」の軛から逃れられている筈の「絵画」作品の展示に於いて、「重力」という「外部」的な論理が働いてしまう展示室という現実空間が、この決定不能性をもたらしていると言えるだろう。仮に「観る人と作品との関わり方」が、この GALLERY ZERO の展示室内で「完結」していたとしても、その展示室自体が「絵画」の「外部」である「重力」の「内部」にある為に、この展示作品としての「水平器」作品(印刷物やモニタ上に映し出された同作品は、その意味で全く「別物」である)に於いては、歩き回らずともその「完結」が永遠に遅延させられるのである。


「絵画」という「無重力/真空」の論理が、実在物の形で「重力/空気」の場所で展示されるというのは、或る意味で矛盾である。その矛盾は、「絵画」が「無重力/真空」である限り、解消される事は永遠に無い。「絵画」の「内部」は「外部」との「平均」を拒む。仮に「水平器」作品に「本物」の気泡がダイナミックに動き回る気泡管を埋める事で、「絵画」を「重力」に従属させてしまえば、「平均」を拒む「決定不能」というダイナミズムは一瞬にして失われてしまう。


「国境」内の「平均」は常に分子が動き回る「不穏」なものなのである。

だれも知らない建築のはなし

「都市」の話。更に北半球の「都市文明」の産物である「建築」の話。従って以下の長過ぎる文章は――引用も含め――この惑星の極めて限定的な場所でのみ有効になる話だという事を断らなければならない。

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1. Beyond a certain critical mass, a building becomes a BIG Building. Such a mass can no longer be controlled by a singular architectural gesture, or even by any combination of architectural gestures. The impossibility triggers the autonomy of its parts, which is different from fragmentation: the parts remain committed to the whole.
 
1 ある臨界量を超えると、建物は「ビッグな建物」になる。そうした量塊(マッス)はもはやひとつの建築的身振りでコントロールできるものではない、いや、複数組み合わせても無理である。このお手上げ状態により各パーツは一斉に自立するが、断片化するわけではない。どのパーツも全体に属したままだからだ。


2. The elevator-with its potential to establish mechanical rather than architectural connections-and its family of related inventions render null and void the classical repertoire of architecture. Issues of composition, scale, proportion, detail are now moot. The ‘art’ of architecture is useless in BIGNESS.
 
2 空間どうしを建築的にではなく機械的に繋ぐエレベーターと、そこに関連する一連の発明により、建築の古典的レパートリーは無効となる。空間構成、スケール、プロポーション、ディテールといった問題はもはや重要ではない。ビッグネスにおいて、建築の「わざ(アート)」は用なしだ。


3. In BIGNESS, the distance between core and envelope increases to the point where the façade can no longer reveal what happens inside. The humanist expectation of ‘honesty’ is doomed; interior and exterior architectures become separate projects, one dealing with the instability of programmatic and iconographic needs, the other-agent of dis-information- offering the city the apparent stability of an object. Where architecture reveals, BIGNESS perplexes; BIGNESS transforms the city from a summation of certainties into an accumulation of mysteries. What you see is no longer what you get.
 
3 ビッグネスでは中心と外皮があまりにも離れ過ぎていて、ファサードは中で何が起こっているのかを伝えることができない。だからヒューマニスト的に「素直さ」を求めても無駄だ。建築の内部と外部は別々のプロジェクトとなる。一方はプログラムと形態の不確定なニーズを扱う。もう一方は情報を操作する。物体として安定していることを都市全体に伝えるのだ。建築が何かを見せて伝えるのに対し、ビッグネスは人を煙に巻く。ビッグネスにより、都市は確実性の総和ではなく、ミステリーの集積となる。もはや What you see is what you get にはならない。つまり、いま見えているものと実体は一致しないのだ。


4. Through size alone, such buildings enter an amoral domain, beyond good and bad. Their impact is independent of their quality.
 
4 単に大きいというだけで、建物は善悪を超えた、道徳とは無関係の領域に入る。建物のインパクトはもう質とは関係がない。


5. Together, all these breaks-with scale, with architectural composition, with tradition, with transparency, with ethics-imply the final, most radical break: BIGNESS is no longer part of any issue. It’s exists; at most, it coexists. Its subtext is fuck context.
 
5 こうしてスケール、建築構成、伝統、透明性、倫理性から一挙に離脱するということは、究極の、根本的な訣別を意味する。ビッグネスはもう都市を織り成す構成要素ではない、という訣別だ。そこに存在はする。せいぜいのところ、共存する。だが本当は、まわりの状況なんか糞食らえ、と言っている。


Bigness (or problem of the large): Rem Koolhaas(日本語訳は太田佳代子/渡辺佐智江

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清澄白河の丸八倉庫から追い出されたギャラリーの移転先となった東京渋谷区千駄ヶ谷3丁目界隈から、次の目的地である東京都渋谷区渋谷2丁目まで向かうのに、JR代々木駅を経由して行くという選択肢や、都営バス池86系統を使って行くという選択肢は、ギャラリーから出てすぐの明治通り沿いのサブウェイ北参道駅前店の向かいに、極めて魅力的に口を開けている東京メトロ副都心線北参道駅入口を目の前にして敢えなく潰えてしまった。


但し、北参道駅で乗車し渋谷駅で降車するという一見楽な選択をしてしまうと、それはそれで確実に大きな別の試練が待っている。渋谷の地上を歩くという極めてシンプルな目的を持って、副都心線が到着する東急東横線渋谷駅の最深層(B5F)から脱出する為には、方向感覚を混乱させるラビリンスに付き合わねばならない。



例えば渋谷駅で副都心線(B5F)から京王井の頭線(2F)に乗り換えるという選択は、人によってはそれだけで考えたくないものになる。それは概ねJR線をクロスして西の方向に行けば良いのだが、ここでは西瓜割りの初めに回転させられるが如く、上へ上がるのに北方向を向かされたり、南方向を向かされたり、東方向を向かされたりする。JR線が何処をどう走っているのかすら知覚出来ない新しい渋谷駅では、西瓜割りに於ける周囲の掛け声の如き、「もっと右」であるとか「もっと左」であるとか「もっと前」と、矢印と文字を盛りに盛って教えてくれる案内表示を頼りにしなければ、凡そ西の方向へと向かう事は叶わない。



東急電鉄作成のこの「東急線渋谷駅構内フロアマップ」のページにも、自らそれがラビリンスである事を隠さない隠しメッセージが存在する。そのページのソースを見れば、 「<head>」部に「<meta name="description" content="渋谷駅は国内でも有数の複雑なターミナル駅です。渋谷駅を、わかりにくさからキライにならないでほしい、そんな思いで渋谷駅フロアマップを作成しました。">」と書かれている。


このラビリンスには安藤忠雄氏も関係しているらしい。正直なところ東急東横線渋谷駅の何処が安藤忠雄氏の仕事なのかが良く判らないのだが、氏の事務所サイトの "Works" にはこの東急東横線渋谷駅(2008年)が掲載されているから、安藤忠雄氏の代表作の一つと見て良いのだろう/見て欲しいのだろう。



東急東横線渋谷駅に於ける安藤忠雄氏の目に見える、数少ない現実化した仕事(デザイン監修)の一つであるには違いない卵の殻の造作(特に目新しいものではない。参考)を、上りエスカレーターの終端付近で潜った後、渋谷ヒカリエ1改札を出た所に当駅の解説板が立っている。「地下深くに浮遊する都市文化の創造拠点=地宙船」とあり、模型の段階で人々を驚嘆させ、開業の段階で人々を落胆させた「地宙船」の在りし日の幻影を見る事が出来る。「紡錘形」が「埋め込まれて」いる事を、利用者やクライアントの途方も無い想像力で補わさせるものであっても設計料は発生する。これは全く新しい「建築」だ。通常の使用法とは全く別の意味で、これもまた「アンビルト」と言って良いものだろうか。


驚きを持って受け入れられた当初の計画とはかなり異なり、間隔がかなり開いた「点線」で表現されてしまった「地宙船」の設計を通した東京急行電鉄(株)としては、それが「実線」的なものとして存在しないとは認めたくないだろう。「東急線渋谷駅構内フロアマップ」ページにもこの解説板にも、「地宙船」が物理的に「埋め込まれて」いて、その「ビルト」された「紡錘形」こそが実際に物理的な対流効果を上げているという前提で臨んでいる。当然建築家氏の事務所も同じだ。



“Gud hvor kejserens nye klæder er mageløse!" (おお皇帝の新しい服は、何と比類なきものなのでしょう!)"。目には全く見えない服を褒め称える事で、社会の中の自らのポジションを維持しようと必死な大人達(「地宙船」でググれば、そうした大人達ばかりに会える)を尻目に、“Men han har jo ikke noget på(でもあの人は裸だよ)"と言ってしまえるハンス・クリスチャン・アンデルセンの "Keiserens nye Klæder(皇帝の新しい服)」の子供ならば、東急東横線渋谷駅の「地宙船」に対しても「でもここにはこんなもの無いよ」と事も無げに言えるだろう。


幻影の「地宙船」が「都市文化の創造拠点」であるとは御大層な上にも御大層な自己評価であり、その具体例が「心がワクワクするとか、電車に乗る以上のことを考えられる」でも「こういう考え方もあるのかという自分の生き方にヒントになる」でも「この駅、面白いな。俺も面白いこと考えよう」でも何でも良いのだが、人の心理を物理的手段によって操作/制御するゲーム制作が建築家の本懐の一つであるとすれば、或る意味でこの新しい渋谷駅の仕事は、建築家氏にとって極めて遣り甲斐のあるものだったのではないだろうか。但しそのゲームを面白がるプレイヤーがいるかどうかは判らない。

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東急東横線渋谷駅は、木の根の如くに掘り起こさない限り(そうする事で初めてあの建築模型の様にも見える)、そのスケール/プロポーション=シェイプを誰も知覚的に把握する事が出来ない。シェイプ=形態の収まりへの評価が不可能な新しい渋谷駅は、それでも部分の相互矛盾や相互対立の「統制」が可能になってしまうという点で、「建築」という「形式」をしか表さない。動物の巣穴に「『穴居』の『形式』」しか存在しないのと同様、この渋谷駅という名の「『建築』の『形式』」は、伝統的な「建築」概念に於ける「外皮」を纏わない/纏えない。従ってこうしたものでも「建築」の「形式」が可能になるという事は、「建築」という「形式」にとっては、知覚に働き掛ける「量塊(マッス)」的なものとして認識される「建物」というシェイプは必ずしも必要な条件では無い事を示している。


そもそも日本のターミナル駅はそれ自体がストラクチャーであり、他の国に殆ど類例を見ないメディアだ。米 Travel & Leisure の “World's Most Beutiful Train Stations(世界の極めて美しい鉄道駅) "では、そのファサード部分の建築的要素が「美」の評価基準になっている。しかし渋谷駅に限らず、多くの日本のターミナル駅は――東京駅の様な「導入期」のものを別にして――「ファサードは中で何が起こっているのかを伝えることができない(レム・コールハース)」どころかファサードは全く重要なものではなく、それはただ仕方無く付いていたり、ショッピングモールやホテルやオフィスビルのものを借用し、そこに鉄道会社と駅名の文字列だけが付いていたりするものでしかない。



従って日本に於けるターミナル駅は、寧ろ地下鉄駅入口の様なものだ。プラットフォームにアクセス可能な開口部さえあれば、「駅舎」は上掲画像の様なもので構わない(手前のゲームセンター建物の右端に、そこが「阿倍野駅」入口である事を示す表示がある)し、渋谷駅を含む現実の多くのターミナル駅は事実上こういうものである。そのプラットフォームに通じる開口部の前の歩道の上には「建築」の要素ともなる「屋根」が二百数十メートルに渡って施されていて、それによって複数の建物が「繋がる」事によって、見方によっては相当に巨大な「駅舎」に見える。この巨大な「駅舎」には、一体何人の「建築士(建築家含む)」が、それぞれの言語を使って関わっているのであろうか。


意志的に実行した事を問わず、その様にも見えるという一点突破のみで四の五の小煩い事を言わなければ、“BIGNESS" それ自体は極めてあっけなく実現してしまう。仮に一人の突出した才能が何かをするにしても、「その様にも見える」重視ならば多数の言語が存在する「お手上げ状態」の各要素をアーケード的に繋ぐ形で、共通言語(共通利害)である屋根を巡らす「程度」の事を実行すれば良い。ここにある歩道の屋根は調停による様々なテーゼの総合である。それが建築家という総合化の職能によるものであれば、調停のセンスは問われるものの。


Japanese Subway Stations Totally Look Like Role-Playing Game Dungeons(日本の地下鉄駅はとてつもない RPG のダンジョンに見える)」"。このリンク先のコメント(This is what happens when you let a half dozen different corporations dig different rail lines in different places over the course of several decades)にもある様に、「渋谷駅」として認識されているイデアは、複数の異なった年代の複数の異なった意志によって、日に日に「巨大」化して行く「建築」ならぬ「構造体」だ。


まだ日本に於ける駅という「構造体」の独自性に、日本人が目覚める前に建てられた東京駅丸の内駅舎(ヨーロッパ駅舎建築に対するコンプレックスの産物としてのデッドコピー)のホテルや美術ギャラリーは「建築」の内部にあるが、他の多くのターミナル駅に於けるそれらは、レゴ・ブロックの様に駅の基本構造に極めて機械的に接続する。20世紀的な「建築」的創意と無関係であったからこそ実現したメタボリズムの成功例という逆説。一体誰が渋谷駅という「構造体」の全体像をイメージとして固定化する事が出来るというのだろう。渋谷駅は、“BIGNESS" という「建築」に於ける弁証法のその遥か先を、「建築」とは全く異なる線(different rail line) を掘り(dig)つつ行ってしまうのである。

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東京メトロ副都心線のホーム階(B5F)から地上に出るには当然複数の方法が存在するが、その一つはホーム階から2階層上がった渋谷ヒカリエ1改札か渋谷ヒカリエ2改札(共にB3F)を出るというものだ。B3F の改札機に Suica を当てて有料ゾーンを出れば、そこにはサイディングを施された巨大なヴォイド管が設けられている。それは「地宙船」から続く地下空間の換気目的の為の縦坑であり、心理的に「深さ」を「高さ」に変換する装置だ。それは建築家が「建築」の大きさ(全体像)を知覚させたい欲望の現れである。


その縦坑の名称はアーバンコアという。「地方都市」のマンション等でしばしば使用される名称だ。都市の中心。こうした名称は、当事者の「こう言いたくなってしまう気持ち」を汲むべきものだ。「都市の中心」と自ら宣言しておかないと、渋谷が「都市」からも「中心」からも今すぐに外されてしまうのではないかという、当事者にとっては極めて深刻なものとして現れる不安に苛まれているという見立ては可能だ。渋谷はその不安から逃れようと、2027年までにかなりの本数の高層ビルを建てるという。最早「遅れて来た者」をしか表象しないそうした高層ビルを建てたところで、不安は一向に解消しないどころか益々膨れ上がるだろうが、いずれにしてもこうしたセキュリティ・ブランケットを必要とする現在の渋谷(ライナス)から、その名称を無理矢理取り上げてはならない。


東急東横線渋谷駅の改札を出ると、いつの間にか安藤忠雄氏の「建築」は終わっている。しかし「『建築』の『形式』」が終わる事は無い。いつの間にか安藤忠雄氏の「建築」は、株式会社日建設計・設計部門デザインパートナー・吉野繁氏の「建築」に移行している。地上に露出している「建物」のシェイプで、一人の建築家の「作品」とそれ以外を分別可能であるというのが「建築」の世界の掟だが、ここではその様にはここからここまでが安藤忠雄氏の「建築(「作品」)」であるとは誰にも認識出来ない。その株式会社日建設計・設計部門デザインパートナー・吉野繁氏の「建築」の2Fから空中回廊を行けば、それはまた別の者による「建築」にいつの間にか移る事になる。基準階平面(typical plan)という人工地盤の中にいる者にとっては、「建築」は常にワンフロア分のものとしてしか現れない。


各「建築」間を人工地盤で繋ぎまくる2027年の渋谷の――取り敢えずの――「完成」予定図を見れば、それは現在の大阪駅周辺(リンク先PDF)の様なものになりそうだ。即ち今から12年後の渋谷の様子を知りたければ、今すぐ大阪に行けば良い。そして2027年に渋谷整備計画が完成したその時、大阪はその成果(「成れの果て」とも読める)を見せてくれるだろう。



大阪ステーションシティで、JR大阪駅構内を覆う屋根/地表である「時空(とき)の広場」というストラクチャーの上には、一軒の小屋が「建って」いる。しかしこれを独立した「建築」として見る者は誰もいない。これはブースであり造作である。メタ・ストラクチャーとしての「フロア(基準階平面)」で、伝統的な地面と切り離された構築物は「建築」になる事が出来ない。地面に届かないものは「建築」にはなれない。「建築」は地面から「生えて」いるものを言う。従って、この「時空の広場」という「フロア」の上に、磯崎新が建とうが、安藤忠雄が建とうが、伊東豊雄が建とうが、ザハ・ハディドが建とうが、それらは全て人工地盤の上に「置かれたもの」でしかなく、従って「新横浜ラーメン博物館」内の「建物」の様なブースや造作でしか無くなる。



但しこの小さなブースが地表に「直接」接続し、「独自」の「基礎」を伴った構造を一つでも獲得すれば、自らの仕事を地上から浮かび上がらせている「柱」部分を自分のものの側にあると主張する、皿+棒=皿回しの様なヨナ・フリードマンの「建築」“Spatial City" 程度には「建築」になれる。「フロア」にちょこんと置かれた皿は皿でしか無いが、その皿から皿回しの棒を「フロア」を突き破って地面まで伸ばし、その棒も皿の一部であるとする事が出来れば、それが「建築」であるという「権利」を有せるかもしれない。


「真性」の「建築」である筈のサウスゲートビルディングノースゲートビルディングもまた、人工地盤である「時空(とき)の広場」という「フロア」から見ればブースや造作に見えてしまう。最早それらの「建築」全体のシェイプが退屈であろうが何であろうが、人工地盤の中にいる者にとっては大した問題ではない。やがてペデストリアンデッキという形で何層もの人工地盤=「廊下」が渋谷駅周辺の空中に張り巡らせられる時、それに接触してしまった「建築」は「廊下」から見る「部屋」の様なものになる。



「廊下」の歩行者が見るのは「部屋」の入口ばかりで、その上もその下も見る事も想像する事も無い。



渋谷駅周辺に2027年までに建つ新しい「建物」は、「部屋」の入口さえ人の目を引くものであれば、「建物」全体のシェイプは極めて凡庸で退屈なもので良い。設計者の頭の中には毛の先程も無いだろうと思われるが、街路を志向(注)しもする渋谷ヒカリエのオリジンの一つは、それ自体が街路としてスタートした中野ブロードウェイかもしれない。街路と通路が不分明な形で繋がり、中野サンモール街のアーケードで切り取られる部分のみが、「正面」のファサードとして機能するそれは、「建物」全体のシェイプが把握出来る早稲田通りから見るよりも「キャラ」が立っている。やがて、渋谷ヒカリエよりも街路である「歩行者デッキ」が地上4階の高さでその周囲を取り囲んだ時、渋谷ヒカリエ中野ブロードウェイになって行くのだろう。



(注)「街路をエレベーターやエスカレーターに置き換え、建物のファサードにみられるように用途毎のブロックが積み上がり、ブロックの間は共用のロビー空間(交差点)や屋上庭園とし、異分野の人々が交流し、シナジーを生み出し、それを街に発信することで賑わいを創出する場」
2012年グッドデザイン http://www.g-mark.org/award/describe/39247?token=toKJMoVz53


「建築」と呼ばれるものは「地面」を必要とする点で「樹木」であり、だからこそその集合は「林立」という言葉で形容されたりもする。「樹木」は北半球の西半球の理念だ。“primitive hut"(始原の小屋)が「建築」の始まりと考えられてしまう文化圏では、「建築」は相変わらず「樹木」の系統であり続けている。低木か高木かの違い。それをどういう形で剪定するかの違い。



日本。アジアモンスーン。南の国。寄生植物ばかりが繁茂する熱帯雨林の一角を整地して、剪定された樹木を植える「建築」の人達。剪定された樹木の秩序だった配置を良しとする幾何学式庭園という北半球の西半球の理念の導入。しかしそれにもすぐに寄生植物が覆うだろう。熱帯雨林に住む者にとってはその方が快適なのだ。どこまでも続く歩道の上の屋根やアーケード街というのは、気候から必然的に導き出されたものなのである。それが日本の現在の「集落」のかたちを形成する。

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渋谷駅から宮益坂を歩いて登って行ったのは久し振りだった。シアター・イメージフォーラムに映画を見に行く為にだ。


現在解体中の東横百貨店(1934年)が建つまでは、宮益坂からは正面に富士山が臨めた。宮益坂の旧称は富士見坂である。松尾芭蕉がこの大山参拝路(大山街道)筋の宮益坂から西北西方向を見て詠んだとされる句、「眼にかかる 時や殊更 さ月不二」が、御嶽神社境内の石碑に刻まれている。


東京の地名で「谷」の付く場所は実際に谷であり、渋谷もその例に漏れない。そしてその渋谷という谷は嘗ては海だった。


渋谷区には、先史時代の遺跡が30数カ所発見されていますが、現在その姿をとどめているのは数カ所です。当時の渋谷は、台地部分が海面から頭を出していた程度で、縄文時代、人々は丘の上で生活を営んでいたのでしょう。


渋谷区「渋谷区の歴史」
http://www.city.shibuya.tokyo.jp/shibuya/profile/history.html


東京の現在を標高差で表せばこうなる。



画像中央やや下が渋谷。東京有数のスリバチ。であるが故にそれは現代のスポーツ競技場と同じ形だ。渋谷部分を拡大し、そこに道のレイヤーを被せてみる。谷に張り巡らされたスロープ。



江戸時代にはその「スタンド」部分(宮益坂)に茶屋が建っていて、そこから向かいの「スタンド」(道玄坂)越しに見える富士山を、団子を食べながら眺めていた。この風景の中の渋谷に、我々が言うところの「建築」はまだ一つも存在していない。



絵本江戸土産
 


宮益坂の下の渋谷は「畑」と「田」と「百姓地」ばかりであった



「建築」が付け入る隙を与えないこの江戸の「完結」した風景には、例えばレム・コールハース中央電視台總部大樓という「建築」は全く必要無い。しかし結果的にこの風景は「文明開化」と共にその「完結」性が失われ、その結果として「建築」ばかりが建つ「完結」を拒み続ける町になった。東京の現在は「建築」を尖兵とした「教化」の後にある。


世界中の殆どの「集落」は「完結」の中にある。そして本来「景観」という言葉は「完結」の風景に対して言われる言葉ではあるのだ。「建築」とは「集落」に仕込まれる「死の種」なのである。

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映画は「だれも知らない建築のはなし」。


http://ia-document.com/


シアター・イメージフォーラムが、渋谷駅と国立霞ヶ丘競技場跡地の間に位置しているという「地の利」。加えて映画に登場するキーパーソン(磯崎新安藤忠雄伊東豊雄ピーター・アイゼンマン、チャールズ・ジェンクス、レム・コールハース)の一人であるコールハースの「S,M,L,XL+」の邦訳が、ちくま学芸文庫で登場し、また新国立競技場建設が一般的関心を呼ぶという「時の利」。従ってこの映画を、いまここで見ずしていつどこで見るとも言える。


若かりし頃の日本の姿と、その後の老いた日本の現状を映す映画を見ながら思っていたのは、これを100年後に見たらどう見えるだろうというものであった。恐らく100年後の世界からは、20世紀から21世紀に掛けての考古学的な資料としてしか見えなくなっているだろう。「建築家の苦悩」そのものが考古学の対象になる。


ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展 正式出品作品」との事だが、100年後には「ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展」そのものが存在しないか、それとも形骸的に残り続けているかのどちらかかもしれない。世界中から必要とされなかった「建築」が集まってしまった1990年代の日本がそうだった様に、21世紀初頭に新たな「建築」を欲しているのは中国であったりドバイであったりするが、100年後の地球上にそうした「建築」を欲して止まない場所が存在するかどうかは判らない。もしかしたら、人々はただそこに残り続けている「建築」と向き合わされるだけの時代になっているかもしれない。それを見る者の視線は、ローマ水道を見る現代人のものなのだろうか、それとも自由の女神像を見るテイラーとノヴァのものなのだろうか。



やがて「だれも知らない建築家のはなし」という青春の思い出のアルバムが閉じられて劇場は明るくなった。

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シアター・イメージフォーラムを出て国道246号線から外苑西通りを北東方向に20分程歩けば、そこは明治神宫外苑である。21世紀の東京地方では、珍妙な風景であっても「景観」の権利を有するらしい。元国立霞ヶ丘陸上競技場を囲む仮囲いの「建築計画のお知らせ」には、「施工者」が「未定」になっていた。



この一帯が1920年に創建された「明治神宫」の「外苑」になった(国立霞ヶ丘陸上競技場文科省の管轄)のは1926年である。それ以前は、その殆どが1886年に日比谷から移って来た帝国陸軍練兵場(青山練兵場)であり、国立霞ヶ丘陸上競技場の殆どは陸軍火薬庫(幕末時は焔硝蔵)の位置にあった。国家の最前面に「近代(陸軍)」を経て、神宫という「国体(神道)」が位置する前の幕末期には、ここは丹波篠山藩青山家、出羽山形藩水野家、日向飫肥藩伊東家の下屋敷等が犇めいていた。以来この場所では土地収用が繰り返される事になる。



1680年
 

1858年
 

1892年
 

1919年
 

2013年


明治天皇崩御の際、青山練兵場内に葬場殿(後に「聖徳記念絵画館」)が作られ、ここで大喪の礼が行われた。その時乃木希典は妻静子と共に、自邸にて殉死を遂げている。



立憲君主制」になり、東京が「帝都」=「みかどのみやこ」となって初めての天皇崩御。京都に対する東京の思惑(京都生まれの明治天皇の稜は「御幸」を境に荒廃してしまった御所のあった京都に。明治の名を関した大規模な神宮は、阪谷芳郎渋沢栄一を始めとする「東京市民」の望みにより「帝都」である東京に。これによって京都を完璧に旧都化する事に成功する)。練兵場に建てられた鳥居。そこからこの地の用途は、それまで政治意志の外にあった代々木村と同様、土地収用によって現在の明治神宫外苑になった。そして明治神宫内苑が完成した3年後、明治神宫外苑が完成する3年前に、乃木希典と乃木静子を主祭神とする乃木神社も建てられる。

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やすうけあい―うけあひ【安請け合い】
(名)スル
確信もないのに請け合うこと。また,軽々しく引き受けること。「―して後で困る」


スーパー大辞林


最終的にどの様な形になるのか依然として判らない新国立競技場については様々な事が言われている。


強いインパクトをもって世界に日本の先進性を発信し、優れた建築・環境技術をアピールできるデザイン」(2012年11月16日付)というのが、ザハ・ハディド・アーキテクツのデザイン原案に「新国立競技場基本構想国際デザイン競技 審査委員会」が掛けた願いであるとされている。


参考:「新国立競技場、「ザハ」なぜ選ばれた 審査激論の中身」
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK1602H_W4A610C1000000/


その10ヶ月後の2013年9月7日、アルゼンチン・ブエノスアイレスで開催されたIOC総会に於けるプレゼンテーションで、就任9ヶ月目の当時の内閣総理大臣――そして2015年7月3日現在も同じ――安倍晋三氏は、「ほかの、どんな競技場とも似ていない真新しいスタジアムから、確かな財政措置に至るまで、2020年東京大会は、その確実な実行が、確証されたものとなります」と、本来ならそれ自体が議論の対象になる筈の「確かな財政措置」を含めて「国際」的に「確約」をした。


それからやがて1年10ヶ月が経つ。ザハ・ハディド・アーキテクツのデザイン原案を採用すると公表されてからは2年7ヶ月余りだ。未だに地鎮祭も始まってはいない一方で、何かが幾重にも終わってしまっている印象だけはある。初代の国立霞ヶ丘陸上競技場は最早地上に姿は無く、また東京に立地していない日産スタジアムは、オリンピック憲章の “The Opening and Closing Cereomonies must take place in the host city itself(開会式および閉会式は開催都市で行わなければならない)"という条件を満たしていない為に、「東京オリンピック」の開会式及び閉会式の会場となる権利を有さない。


何が何でも現状の線で東京都新宿区霞ヶ丘町10番2号に建たせるという政治意志(注)に従えば、2020年東京オリンピックの時点では、耐用年数が10年(トラブルフリーが前提)とも言われている可動屋根(世界最先端の足場技術が必要とされるだろう掛け替え工事時には、スタジアムが数ヶ月間使用不可になる)を諦めた形で地上に現れる予定になっている。


(注)それは「日本」の「建築」の実力(但しデザイン原案はイギリス製)を世界に知らしめるという、「『日本』の建築界」という国内事情――映画「だれも知らない建築家のはなし」の通奏低音でもある――の「『世界』の建築界」に対する政治意志も含まれる。


都市インフラを大規模に刷新出来た1964年が、日本の「成長期」(人口増/65歳以上人口比率6.2%)である一方で、スタジアム一個を建てるのにすら物心両面に於ける社会のリソースの手に余る2020年が、日本の「衰退期」(人口減/65歳以上人口比率予測29.1%)である事は動かし難い事実であるし、その一方で日本の1868年体制が未だに終わらず、また15年戦争時とも全く変わっていなかったという、そうした意味での「終わっている」感もある。


加えて近代オリンピックという興行から引き出せるものも、近代オリンピック興行自体が「成熟」国家にとっては少なからず「終わっている」コンテンツ(「効き目」があったとしても、極めて限定的且つ一時的)である為に、「成長」過程にある「新興国」や、何らかの起死回生を目論む「成熟」に抗う国は別にして、前世紀に比べて現実的な旨味は薄らいでいる。それは、IOC総会で最後に残った者を、オリンピックの持つ強力な副作用によって財政面で最大の敗者にするオールド・メイド/ババ抜き」ゲームなのである。21世紀最初のオリンピック(2004年)開催地であるギリシャの今日を鑑みるに、21世紀のオリンピックは、開催国が自ら喜んで曝け出した秘孔を突く「十年殺し」なのかもしれない。2030年の日本はどうなっているだろう。

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ザハ・ハディド・アーキテクツの新国立競技場は巨大であるらしい。しかし巨大になってしまうのは、当然の事ながらザハ・ハディド・アーキテクツだけの責任ではない。


Q1 なぜ 8 万人収容のスタジアムが必要か。


オリンピック・パラリンピック競技大会のメインスタジアムの収容人員規模は、最近の開催地では、2008 年北京大会 9 万 1 千人、2012 年ロンドン大会 8 万人、2016 年リオデジャネイロ大会 9 万人規模となっています。また、東京オリンピックパラリンピック招致を実現するためには、8 万人規模のスタジアムが必須であると言われていました。現時点では、オリンピック・パラリンピック招致プランによって約束されています。加えて、ラグビーワールドカップ 2019 日本大会成功議員連盟の決議においても 8 万人規模の競技場とすることが必要であるとされています。また、新国立競技場は、今後、50 年、100 年使用することを想定しており、その間、世界陸上FIFA ワールドカップ(決勝会場は FIFA の規定により 8 万人規模)等の世界的な大規模イベントの会場となることも想定されています。


新国立競技場整備に関する日本スポーツ振興センターの考え方(案)」
http://www.jpnsport.go.jp/newstadium/Portals/0/yushikishakaigi/20140122_yushikisha4_shiryo2.pdf (PDF)


参考:FIFA “Football Stadiums: Technical recommendations and requirements"
http://www.fifa.com/mm/document/tournament/competition/football_stadiums_technical_recommendations_and_requirements_en_8211.pdf (PDF)


8万人という収容人員は、第一回近代オリンピックアテネ大会(1896年)に使用されたパナシナイコスタジアム(Παναθηναϊκό Στάδιο)に於いて既に「実現」されている。紀元前586年に建てられた(紀元前329年に大理石でリビルド)同スタジアムは、紀元140年には既に5万人収容になっており、19世紀の2回のリノベーションによって8万人収容となった(2004年のオリンピックアテネ大会を期に45,000人に縮小)。同スタジアムは、1968年には12万人(着席8万+立見4万)という観客動員数を「実現」している。


Google ストリートビューで見られるパナシナイコスタジアムである。


古代的なヘアピンカーブのトラックは、現在それに求められる仕様とは異なる為に、長辺方向から見るフィールドの奥行きは狭い。観客席も「古代」様式だ。この極めて狭くて硬い座面に両足を屈して長時間座り、中座の困難さからトイレに行く事も数時間我慢する事を観客全員が受け入れるのであれば、確かにこの規模で8万人収容のスタジアムは建つ。但し座席に HF&E(ヒューマンファクターズ&エルゴノミクス)を適用し、純粋な競技観戦以外のサービスを求めたりするのであれば、必然的にスタジアムが巨大なものになるのは避けられない。


いずれにしても、スタジアムの核となる形状は、二千数百年前の段階で既に完成してしまっている。それ以来、これまでに建てられた全てのスタジアムは、その意味で全く同じなのである。後はそのフォーマットの上に、新しげに見えるものをどう着せ替えて行くかだけが、そのスタジアムの「建築」的な特徴とされる。「建築」の側からそのフォーマットに口出し出来ないとされているスタジアム建築に於いて、それに抗わない建築家が出来る事は側(ガワ)の換装だけだ。



それは数千年前から存在するワゴンの設計と全く変わりの無い、古めかしいセパレート・フレームのフロント部分に、曳き馬の代替物である縦置エンジンを載せ、ドライブシャフト経由で後輪を駆動するという基本設計を疑う必要性を感じないままに、ボディデザインのバリエーションを増やし、年毎にそれを着せ替える事で商品的な魅力を振り撒く事に明け暮れていた1950年代の巨大なアメリカ車の様なものであろうか。スピード感を呼び起こす事で見る者の「心を打つ」テールフィン等の造形や、それだけを見れば新時代的にも見えるパワーウィンドウ等の装備が、100マイル/時に近い速度が極めて大衆的なものになってしまった社会のラディカルな構造変化への対応よりも優先される。



少なくとも二千数百年変わる事の無いスタジアムのフォーマットを共通のものにして、これまでに様々な着せ替えスキンを纏う巨大な「オリンピック・スタジアム」が建てられて来た。その中には「アーチ」が特徴的なこういうものもある。



ANZ Stadium(1999年=2000年シドニーオリンピック:507億円=以下日本円換算は竣工当時のレートに基づく。因みにオーストラリア・ニュージーランド銀行ネーミングライツ取得によって “ANZ" の名になっている)



南京奥林匹克体育中心体育场(2005年=2014南京ユースオリンピック:1,169億円)



Ολυμπιακό Στάδιο(2001-2004年に既存スタジアムに屋根を架装=2004年ギリシャオリンピック:リノベに355億円)


ANZ Stadium や南京奥林匹克体育中心体育场を手掛けた “(現)POPULOUS" は、Wembley Stadium (2007年:1,783億円)という地上高133メートルの高さの「アーチ」を持つスタジアム建設にも関わっている。スタジアムの「全長」方向に、目を引く「アーチ」の「造作」が渉っているというデザイン自体は、2010年代段階でそれ程新しいものではないとも言える。

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「いちばん」をつくろう。


日本を変えたい、と思う。新しい日本をつくりたい、と思う。
もう一度、上を向いて生きる国に。


そのために、シンボルが必要だ。
日本人みんなが誇りに思い、応援したくなるような。
世界中の人が一度は行ってみたいと願うような。
世界史に、その名を刻むような。
世界一新しい場所をつくろう。
それが、まったく新しく生まれ変わる国立競技場だ。


世界最高のパフォーマンス。世界最高のキャパシティ。世界最高のホスピタリティ。
そのスタジアムは、日本にある。
「いちばん」のスタジアムをゴールイメージにする。
だから、創り方も新しくなくてはならない。


私たちは、新しい国立競技場のデザイン・コンクールの実施を世界に向けて発表した。
そのプロセスには、市民誰もが参加できるようにしたい。
専門家と一緒に、ほんとに、みんなでつくりあげていく。
「建物」ではなく「コミュニケーション」。
そう。まるで、日本中を巻き込む「祝祭」のように。


この国に世界の中心をつくろう。スポーツと文化の力で。
そして、なにより、日本中のみんなの力で。
世界で「いちばん」のものをつくろう。


JAPAN SPORT COUNCIL「新国立競技場 国際デザイン・コンクール:コンクール概要」
http://www.jpnsport.go.jp/newstadium/Portals/0/NNSJ/NNSJ.html


果たしてどれだけの人間が、その興行を単独開催で自国に呼びたいかが定かではない(或いは明確に定かな招致の意志を持つ人間の数が定かではない)、FIFA ワールドカップ の開幕/決勝戦が要求するスペックであるところの8万人収容/常設/屋根付きのスタジアム。それはコア部分のみですら数十メートルの高さを持つ巨大さだ。あの二千年前に建てられたフラウィウス円形闘技場=コロッセウムですら地上高48メートルである(嘗ては有蓋だったので50数メートルの高さがあった。これに照明灯を付ければ70メートル近くにはなる)。



8万人が一つところに集まって熱狂するスポーツや音楽を求めるところに、巨大なスタジアムは必然的なマッスとして存在する。仮にザハ・ハディド・アーキテクツのデザイン案を捨てて、例えば「良心」的な槇文彦氏案を採ったとしても、それが「オリンピック・スタジアム」である限り巨大になる事は免れない。しかし多くの議論の落とし所は、巨大なアーチは不必要だが、巨大なスタジアムと巨大なスポーツイベントは必要であるというところに落ち着いている様だ。


世界最大級のスタジアム(15万人収容)の一つが、「アリラン祭」(マスゲームイベント)が行われる朝鮮民主主義人民共和国綾羅島メーデー・スタジアム(릉라도 5월1일경기장)であるというところに表れている様に、スタジアムという建造物を欲する欲望は、多かれ少なかれ政治意志に関係するのである。




ザハ・ハディド・アーキテクツが、あのデザインでしたかった事は何なのか。その一つの解答ではないかと思われるものを、例の露出の多い「空撮」状態のパース画ではなく、グランド・レベル近くに視点を取った一次審査時のプレゼンテーションに見た。



折り重なる何層もの人工地盤(プレート)。その奥に巨大なスタジアムが嵌っている。即ちこれは、「建築」であるというより、寧ろこういうものではないのか。



インターチェンジ(道)」の中央に、8万人収容のスタジアム(“Bowl structure")を嵌める事で、それを「高架下の運動場」にしてしまう。これは「建築」では無い。首都高速4号新宿線出口が繋がり、外苑周回路が繋がり、コンペ的には逸脱である慶応義塾大学医学部前の道がJR線を跨いで繋がり、それらから続く「道」がスタジアムのコア部分をぐるりと取り囲む。張り巡らされた脱出線で曖昧にされたスタジアム。スタジアムという巨大なマッスは、「建築」とは別の体系である「道」が張り巡らされる事で、「道」の間に「埋没」する。「道」はスタジアムを「梱包」する。所謂「キールアーチ」を含む「屋根」部分のトラス状の「造作」(それが「構造」として機能的なものであるかどうかはここでは問わない)もまた「道」を表しているものと見る事も可能だ。


であれば、これはハイウェイの如き「道」によってスタジアムを「埋葬」したものだとも言えるかもしれない。これは巨大な「円墳」なのである。ザハ・ハディド・アーキテクツの「円墳」のデザイン原案が巨大になるのは、単純にボディ(死体の意味もある)が巨大だからだ。



実際一次審査時のパース図からそれらの「道」の要素を取り去ったデザインを想像すれば、それは或る意味で平凡な巨大「建築」になる。磯崎新氏が、日建設計・梓設計・日本設計・アラップ設計共同体(JV)による修正案に対して「列島の水没を待つ亀のような鈍重な姿」と評していたが、それは「道」であったものを「建築」であると解釈してしまった事で生まれた多重的な意味での「鈍重」さだろう。


「21世紀の都市的施設として、運動競技のスピード感を呼び起こす、優れたイメージ(磯崎新氏)」的なものとして「円墳」の造形が見えるのは、「脱構築」という「騙し」のテクニックによる。支配的なドグマに戦略上乗る「脱構築」による「騙し」である為に、当然その「騙し」にまんまと引っ掛かる人達が多くいる。


スポーツやイベントが必要、そこに8万人の人間が集まって見られる施設が必要、そこには屋根が必要、芝生には日照が必要、イベントには遮音が必要、アメニティ施設が必要、加えて見た目のオリジナリティも必要、…と求められる「必要」を次々とインテグレートして構築して行けば、それは1950年代のアメリカ車の様に巨大にしかならないという誰でも判る結果を示しているのが、ザハ・ハディド・アーキテクツという形で現れた「脱構築」なのである。積もり積もった「必要」が「不必要」であると考えるのなら、「必要」を「新国立競技場」から一つ一つ取り除いて行くのは「建築家」の仕事ではない。それは本来の「施主」が考える事である。


仮に巨大に見えない、当初の予算内で収まる「良心」的なデザイン案が通っていたら、日本人の「施主」の誰もこれ程までには「必要」に対してラディカルに考えもしなかっただろう事を思うと、それだけでもザハ・ハディド・アーキテクツ案の意味はあったのではないか。それは都市計画に対してイニシアティブ(市民発議)とレファレンダム(市民投票)が条件になる社会への高い(高過ぎる)授業料なのかもしれない。それは痛い目に遭わないと判らないという「教育」の方法論の一つではあるが、しかし痛い目に遭ってもそれでも判らないという事もあるかもしれない。


現状で考えられる最もラディカルな「必要」の取り除きの一つは、オリンピック返上という事になるだろう。それに対しては「日本の信用性を失わせる」という意見がある。しかし既に現時点までに、相当に多くの「日本の信用性」は失われているのである。

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新国立競技場」の建設費は2,520億円との事だ。但し建設費の半分以上は人件費になるだろう。従ってやり方によっては「新国立競技場」は1,000億円以下で現状の計画のままで建つ。朝の7時半位からラジオ体操をし、「ヘルメット良し! 顎紐良し! 服装良し! 安全靴良し! 安全帯良し! 顔色良し! 今日も一日安全作業で頑張ろう! オーッ!」と指差し確認する人達を、明治神宮外苑造成時の様に「勤労奉仕(追記注)」させれば良いのだ。


しかし「勤労奉仕」程ではなくても、工程を圧縮したりする事で人件費の削減は行われるかもしれない。建設現場に於ける無用な緊張というのはこういう時に現れる。そしてややもすると、そうした緊張時に労働災害というのは起きる。こういうところについては「今日も一日御安全に!」を祈念して止まない。御安全が十分に確保されないのであれば、ずれ込んだ工期(全く以て現場関係者の責任ではない)に間に合わなくても一向に構わないとすら思える。その時には森喜朗氏程には大多数の日本人が注目する事も無いだろう(まさかその時にも渋谷のスクランブル交差点は大騒ぎになる/させるのだろうか)2019年のラグビーワールドカップは、秩父宮ラグビー場辺りで行えば良い。そうなれば、新国立競技場の建設現場は相対的ではあるものの非常に助かる。


新国立競技場」に関する意見の中には、他のスタジアムの建設費と単純に比較してものをいうものが多かったりするが、それはそれぞれの国の労働賃金のレートや労働環境を無視してのものであったりもする。「建築」を誰が建てるのかについて、「大工さん」と答える子供の様な想像力が、大人の議論には常に決定的に欠けているのである。


(追記注:7月17日)「日本の総力を挙げて、ゼネコンも思い切って、『日本の国のためだ』と言ってもらわないと。それが日本のゼネコンのプライドなんではないかなと思ったりするんですね。だから、ゼネコンの人たちも、もうからなくても、『日本の国のために、日本の誇りのために頑張る』と言っていただけたら、やっていただけたら、値段もうまくいくのではないかなと思います(安藤忠雄氏)」
http://www.sankei.com/life/news/150716/lif1507160028-n2.html

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メタボリズムは日本の「成長」を前提にした運動だった。だからこそ人口増加、都市の膨張と更新の高度経済成長時代の日本でそれは生まれた。20代〜30代前半の若者達が音頭を取ったメタボリズムは、様々な条件が重なる事で若い細胞ばかりを見ていられる環境にあった。メタボリズムの時代、65歳以上は例外的存在だった。しかしこれからは、日本全体の総床は減らざるを得ない。


「衰弱」の「建築」という考えが頭を過る。「衰弱」を肯定的なものに見せる「建築」。そしてその「衰弱」の中にあって尚「成長」に目を配る「建築」。「建築家」にとって、それは単純なヒロイズムを満足させないだろう。20世紀の「建築家」の20世紀の青春を描いた映画からは、やはりそれは形となって見えては来なかった。

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これを書く為に Google Earth を何度も起動した。オープニング画面の地球から、それぞれの「建築」が存在している場所へズームインする。その「点」へのフォーカスが上手く行けば良いが、大抵は「建築」が全く存在しないところへ行ってしまうのであった。

バーネット・ニューマン 十字架の道行き


[...] if you are involved in the world. you cannot be an artist. We are in the process of making the world, to a certain extent, in our own image.


... もしこの世界に巻き込まれているのなら、あなたは芸術家である事は出来ません。私達は、自分自身のイメージを以って――ある程度までは――世界を作り上げて行くプロセスの中にいるのです。(拙訳)


Barnett Newman "Remarks at Artists' Sessions at Studio 35"(1950)


MIHO MUSEUM の2015年春季(3/14〜6/7)。「バーネット・ニューマン 十字架の道行き」展をメインの目的にした、2015年一回目の MIHO MUSEUM には車を運転して行った。しかしその道行きは 、JR 石山駅から帝産バスに乗って行った方が良かったのではないかとすぐさま後悔した。


車の運転は運転行為そのものに集中しなければならない。名神高速道路や国道1号線側から MIHO MUSEUM に行く場合、特に県道16号線や県道12号線には車を運転する者にとっては意地悪く現れる幅員減少の箇所が複数あり、ブラインドコーナーから現れる対向車の存在に常に神経を尖らせられる。こうした運転の為だけに費やされる精神的緊張は、この県道に慣れている帝産バスの人に往復1,640円也で任せるべきだと痛感した。それ故に「曾我蕭白 富士三保図屏風と日本美術の愉悦」/「常設展示」をメインの目的にした二回目は帝産バスに載せられて行く身になった。


道行けば次第にモバイル端末の電波は弱くなり、やがてその板状の物体は実用的なものではなくなる。電波の届く場所での板の中で人が演じているもの、板の中で人が信じている未来は、ここではすっかり背中の側に追き去りにされる。商業的なものがバスの窓外の景色から次第に退場して行き、地球上の殆どの面積を占める商業が入り込めない場所と同じになる。ここから先に貨幣が有用なものとなるのは、MIHO MUSEUM の敷地内及び帝産バスの運賃箱に於いてしか無いのだろう。帝産バスに乗る事。これは片道50分を掛けて入って行く、何かへの長大なエントランスなのである。


帝産バスの中では「暇」そのものにひたすら浸かる。映画チケットとほぼ同額の1,640円は、「暇」になる為に払うものでもある。ローコストな無線ネット環境(2000年代)が地球上に普及して「関係」の依存症が増える前、ローコストなポータブル・オーディオ・プレーヤー(例:SONY TPS-L2:1979年)が地球上に普及して「音楽」の依存症が増える前、またはローコストなポータブル・トランジスタ・ラジオ(例:SONY TR-63:1957年)が地球上に普及して「情報」の依存症が増える前は、世界はこうした「暇」ばかりだったという記憶が自分にはある。19世紀に突如出現した鉄道旅行者という新種の人類向けに、それまでは不動産に縛り付けられた存在だった書物に代わって、ローコストなポータブル書籍(例:19世紀の yellowbacks)が印刷技術の発展と共に地球上に普及して「文字」の依存症が増える前は、世界はもっと「暇」だったのだろう。


「暇」な時に人の頭に浮かぶのは、「自分はどこにいるのか」とか、「これ以上に説明のいらないものは何か」といったものばかりで、「暇」に浸っていた数十年前の自分もまたその様な「問い」で頭を一杯にして悶々としていたものだ。しかし「暇」の駆逐を良しとする世界では、そうした悶々を電波が通じた板を通して軽々にもサーバにアップロードすれば、世界中の「暇」を持て余した人々がそれを「質問」であると勝手に思い込んで、自身で導き出した訳でもない出来合いの「正解」を親切に教えてくれる。


時にはそうした「正解」が、今日の芸術家の制作を効率的なものとするかもしれない。確かに Wikipedia に載っている様な「正解」を素材の一つにする事で制作が効率的になれば、芸術家は多くの作品を生産出来る。しかしそうした効率化され得ない悶々こそが、「圧倒する問い(overwherlming question)」である「答えを持たない問い(question that has no answer)」としての「起源の問い(the original question)」(バーネット・ニューマン)なのである。そしてこれから向かう山中の「Shangri-La」に2015年時点で保管されている数千年分のものこそは、そうした「圧倒する答えを持たない起源の問い」によって生まれたものばかりなのだ。

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「十字架の道行き(“The Stations of the Cross")」の「連作」が描かれたのは、バーネット・ニューマンがニューヨーク・マンハッタン島のイーストリバーから、フランクリン・D・ルーズベルトイースト・リバー・ドライブ(1955〜)/サウス・ストリートを隔てた、フロント・ストリートとウォール・ストリートが交差する “100 Front Street" にスタジオを構えていた時代(1952〜1968年)に当たる。それ以前のニューマンのスタジオは、リンク先ストリートビューで奥に見える交差点を右に曲がってすぐの “110 Wall street" にあった。



1950年代から1960年代に掛けてのニューヨーク・マンハッタン島と言えば、当時のパリやロンドンや東京などとは比べ物にならない「世界の中心」だった。そのニューヨーク・マンハッタン島でバーネット・ニューマンは生まれ、彼の居住環境と制作環境は、常にその島内の西に東に南にと留まっていた。この「世界の中心」の外に出る必要性を、彼は終生感じた事は無かったのだろう。バーネット・ニューマン財団のクロノロジーを辿る事で強く印象付けられるのは、彼が紛れも無く「現代」の「都市」の人という事である。恐らくマンハッタン島よりも制作環境としては恵まれたスペースを得易いだろうロング・アイランド(Jackson Pollock & Lee Krasner の様に)ですら、彼は居住/制作出来る人では無いのだ。彼の言う「アメリカ」は、東京都世田谷区(58.05 km²)とほぼ同じ面積の――21世紀の現在ならば何処へ行っても板が有用なものになる電波が通じる――僅か58.8 km²ばかりの島と同義なのである。


I feel that I'm an American painter in the sense that this is where I love to live, was born, and this is where I've developed my ideas, and so on. At the same time, I hope that my work transcends the issue of being an American. I recognize that I am an American, because I am not Czechoslovak, and my work was not painted in Czechoslovakia or in Hungary or in India. But I hope that my work can be seen and understood on a universal basis.


ここが私が住むところとして愛している場所、生まれた場所、そしてここが私が自分の考えを発展させて来た場所である等々といった意味に於いては、私は自分自身をアメリカの画家であると感じています。しかし同時に、私は私の作品が一人のアメリカ人による所産であるという難点を乗り越える事を望んでいます。私はチェコスロバキア人では無いという理由で自分を一人のアメリカ人だと認識していますし、私の作品はチェコスロバキアハンガリーやインドで描かれたものでもありません。しかし私は、私の作品が普遍的な基盤の上で見られ理解され得る事を願っているのです。(拙訳)


Barnett Newman: “Interview with Emile de Andonio"(1970)

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「『都市』ではないところ」で「活動」する「現代美術」家が往々にして陥りがちなのは、「現代美術」が「『都市』ではないところ」で自足的に成立可能なのではないかという撞着的な認識だ。しかし悲しい事に「『現代』の『美術』」としての「現代美術」というものは、どこをどう引っ繰り返してみても近代以降の「都市」文明の産物であるが故に、常に「都市」に従属/依存するものなのである。


現実に即して言えば「現代美術」を志す者は、必ず近代的な「都市」そのものか「都市」化された場所にそれを学びに行かなければならない。そして「現代」の「都市」の思考法を身に付けてそれぞれの場所に戻り/赴き、「現代」の「都市」の思考を「普遍」と言い換えてその土地土地で「宣教」するのである。「『都市』ではないところ」で行われる「現代美術」は、常に「現代」の「都市」との距離感で自らの位置を定め、且つ「現代」の「都市」に対して「宣教」の者たる自分達の存在を痛々しい程にインフォメーションする。


単なる時間的な現在性ではなく「現代」が語られる時、人は「世界の中心」という仮構をその認識の軸に常に据えている。語られている多くの「現代」から一切の「世界の中心」という観念を抜いたら、後には一体何が残るだろうか。帝産バスの窓外に展開する風景そのものからは、所謂「現代」は構築し得えず、それでもそこに無理矢理「現代」を見ようとすれば、それは必ず「世界の中心」から導き出される相対的なものとしてしか認識されない。


従って仮構としての「世界の中心」が存在しない事には、近代「都市」文明の産物である「『現代』の『美術』」としての「現代美術」も成立しない。そして仮構上ですら「世界の中心」が成立し難くなって行くに従って「現代」を語る事は困難になり、であればこそその様な意味での「現代美術」の成立も厳しいものになって行く。「現代美術」の入門書に載っている様な「現代美術」の時代は、「現代」という措定が可能だと思われていた「古き良き時代」だったのである。


「現代」という魔法の言葉が「誰得」であるかと言えば、それは一も二も無く「世界の中心」にとってのものでしか無い。今更ながらに「現代」という言葉を使える者は、多かれ少なかれ「世界の中心」の延命の為にそれを口にする。「地域アート」と呼ばれる企図の多くが何よりも最初に行うのは、あらゆる手を使って、地域に対して「現代」という仮構を受け入れさせそれに従わせる事だ。「現代」に乗り遅れるなと脅しつつ。


「現代」に於ける「問い」は、数千年前から存在し続けている様なもの(多くは「解決済み」とされている)であってはならず、常に「新奇」なものでなければならない。

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脱線が長くなった。今回の MIHO MUSEUM での「春季特別展 バーネット・ニューマン 十字架の道行き」の展示は、或る意味で非常に野心的なものにも見える。それは「現代」という言葉がすっかり枯れ切ってしまったこの時代に、事もあろうに「現代美術」の入門書で取り上げられる様な「現代美術」作家の作品を、「世界の古代美術」が展示されている常設棟の一角(「南館」地下一階。通常は「中国・ペルシャ」の古代美術のエリアの一室)で展示したというところにある。



常設棟・地下一階のミュージアムショップの向かい側の、135度の角度で折り曲げられた三面の壁には、「十字架の道行き」連作の「第一留」のジップ部分が大きくプリントされ、そこには “Barnett Newman/ THE STATIONS OF THE CROSS/ lema sabachthani" (“/" は改行を表す)と書かれている。「第一留」のロウ・キャンバス部分を表してもいるだろう中央の白い壁に、展示室へと向かう入口が開口していて、その入口奥の黒い仮設壁には、バーネット・ニューマンの天地一杯のポートレートがそこに入ろうとする者を見つめている。この設えから言って、この入口を入れば「現代美術」の「バーネット・ニューマン」しか展示されていないだろうと、特に「十字架の道行き」目当てにこの「桃源郷」まで赴いて来た観客は思う事だろう。




バーネット・ニューマンのポートレートが掲げられた黒い仮設壁の右側は、確かに20世紀に描かれた「十字架の道行き」の展示室になっている。しかしその左側はと言えば「イラン文化の東漸 唐の国際文化 イスラムに受け継がれたもの」とそれに続く「東西の楽園」の展示室になっていて、概ね5世紀〜13世紀の「現代」でもなければ「美術」でもないもの(遡行的に「美術」にも見えてしまうもの)がそこには展示されている。簡単に言えば、バーネット・ニューマンのポートレートを挟んで、右ウィングがバーネット・ニューマンによる20世紀アメリカ美術、左ウィングがアノニマスな古代東洋「美術」という会場構成だ。人によっては、それが乱暴な会場構成に見えるかもしれない。


「十字架の道行き」の14枚+1枚だけで構成される、ワシントン・ナショナル・ギャラリーを彷彿とさせる円環的構成の企画展という側面と、美術館建物の構造上の問題(南館の「南アジア」の部屋では狭く、「エジプト」の部屋や「西アジア」の部屋では、奥の小スペースがデッドになってしまう。企画展専用の北館にはそもそも円環状の「十字架の道行き」を独立した展覧会として見せられる場所が無い)という実務上の問題もあっての展示室の決定であり、且つ常設展との入口の共通化という結果になったと想像されたりもするのだが、いずれにしてもそれは結果的にバーネット・ニューマンから「現代」及び「美術」を一旦棚上げさせる事に繋がっている。即ち “I hope that my work can be seen and understood on a universal basis(私は、私の作品が普遍的な基盤の上で見られ理解され得る事を願っているのです)" という作者の言葉に対し、冷徹にも数千年の厚みを持つ「普遍的な基盤」の内に、20世紀「アメリカ」精神の所産を半ば力ずくで挿入する事で、他ならぬバーネット・ニューマンに後戻りの効かない「有言実行」性を持たせる形にしたのではないか。

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「バーネット・ニューマン 十字架の道行き」展を常設棟にして、企画棟では「曾我蕭白 富士三保図屏風と日本美術の愉悦」展が行われていた。極めて良さのあるものだ。個人的には「金銅舎利容器(13世紀)」や「石棺(年代不詳)」等は、バーネット・ニューマンよりも「泣けた」。


同展会場入口には当館の辻惟雄館長の挨拶文が掲げてある。一読して、この文章は展覧会のみならず、他ならぬこの MIHO MUSEUM とそのバックグラウンドについて書かれたものである事が判る。不思議な事に「曾我蕭白 富士三保図屏風と日本美術の愉悦」展の挨拶文であるにも拘らず、そこには「バーネット・ニューマン 十字架の道行き」展にも多くが割かれている。


曾我蕭白 富士三保図屏風と日本美術の愉悦」展・展示室内の作品解説文は、その多くが当館の学芸員によって書かれているものだが、これもまた MIHO MUSEUM とそのバックグラウンドについて書かれたものとも言えるだろう。そればかりか、何処かで「十字架の道行き」に繋がりそうに思える記述も幾つか見られる。


館内を歩き疲れたので、ミュージアムショップ横のソファに座り、「十字架の道行き」のカタログを眺めていたら、巻末付近にこの様な記述があった。


バーネット・ニューマン テクスト抄の編集について
この項では、バーネット・ニューマンの文章を下記の方針によって抄出した。バーネット・ニューマンとその作品をより深く理解するための手がかりになると考えられるもの、さらに、本展がMIHO MUSEUMで開催されるにあたり、その展示環境が生み出す新しい成果を期待し、同館の精神性と呼応するものを取り上げた。


高橋夕美恵(MIHO MUSEUM学芸員)編集
三松幸雄(明治大学多摩美術大学 兼任講師)編訳


「同館の精神性と呼応するもの」。やはりこれは、川村記念美術館にあった「アンナの光」以上に、バーネット・ニューマンから「現代」と「美術」を超脱させる事を意図した展覧会だったのだ。或る意味で、ロケーションを含む MIHO MUSEUM 全館、全コレクション、そして別の企画展すら総動員してそれは行われているとも言える。


この展覧会が、例えば六本木ヒルズの「森美術館」で行われていたら、それは全く違ったものに見えたのかもしれない。そこでの「十字架の道行き」は、「起源の問い」や「普遍的な基盤」に隣り合わされて脅かされる事無く、「現代」と「美術」に手厚く守られたものになるだろう。それによって、「森美術館」の観客は「現代」の「美術」に「描かれているもの」に対して集中出来る事で、それに関するお喋りを始めるに違いない。


MIHO MUSEUM に於いて初めての「現代美術」の展覧会である「バーネット・ニューマン 十字架の道行き」。しかし「現代美術」作品が MIHO MUSEUM で展示されるには、或る意味で作品が「資格」を備えていなければならない。それは例えば「現代に生きる琳派」的なものでは到底追い付かないものだ。恐らくは MIHO MUSEUM に於いては、多かれ少なかれ「現代美術」作品は、「現代」と「美術」を脱がされる事になる。そうした意味での「裸」に一定以上の「自信」が無いと、とてもでは無いが「持たない」所なのだ。

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帝産バスで山を降りて行くと、やがて電波を得た板の中に「現代」と「美術」が戻って来た。そしてそれは、すぐさま別の「現代」と「美術」に上書きされた。

高松次郎 制作の軌跡

国立国際美術館(大阪)の「高松次郎 制作の軌跡」展(2015年4月7日〜7月5日:以下「制作の軌跡」展)の評判が良い。


http://www.nmao.go.jp/exhibition/index.html (時限URL)


少なくとも「現代美術」に多少なりとも関わっている人間、或いは「現代美術」に多少なりとも造詣が深いという自意識を持つ人間、そして何よりも「展覧会」を見たい人間(以下「クラスタ」)の間ではそういう声が多い。確かに同展は「『良い』展覧会」には違いない。しかしその多くは、東京国立近代美術館(東京:以下「東近美」)で行われていた「高松次郎ミステリーズ」展(2014年12月2日〜2015年3月1日:以下「ミステリーズ」展)に対比させる形で「良い」としている印象も無いでは無い。それら「クラスタ」による「ミステリーズ」展に対する反発の大きなものの一つになっていると思われるのは、「影ラボ」や「高松の脳内世界を一望する『ステージ』」を含む会場構成にもあるのだろう。


東京国立近代美術館で開催された高松次郎(1936-1998)の回顧展「高松次郎ミステリーズ」の会場構成。


この展覧会では、3人のキュレーター(桝田倫広・蔵屋美香・保坂健二朗)がそれぞれ初期・中期・後期の3章を分担した。各章ごとにスタイルの異なる作品群を、関連性を追って丁寧に見せながらも、全体としてはひとつの大きな広場を散策するような、おおらかな展示空間が求められた。


展覧会の導入部となる、「影ラボ」と名付けた細長い展示空間は、体験型のインスタレーションの場とした。異なる光源で影が二重に見えたり、回転する椅子の影が投影されたりと、4つのテーマで高松の中期の作品のポイントを体感的に知ることができる。


影ラボを抜けるとメインとなる展示室にたどり着く。もともとこの展示室には、断面形状の異なる6本の柱が林立している。そこで、この6本の柱を、構造体としての存在を消しつつも、展示空間全体の風景を構成するヴォリュームとして扱えないかと考えた。近接する柱と同じ断面形状の疑似柱5本と展示什器を新たにつくり、既存柱の存在を紛らわせる計画とした。大小の白いヴォリュームが点在することで、次の展示エリアが見え隠れし、一体の展示空間の中に適度な分節を与えている。


3章の最後には、展示室の中央にある大きなステージにたどり着く。1章のエリアから視界に入っていた中央の白いヴォリューム内部は、高松のアトリエを偲ばせる木質系の表情があらわになっている。中央のステージからはこれまで見てきた作品群を俯瞰することができ、腰壁に配された高松の言説とともに、これまでバラバラに見えていた作品間の関連性に気づかされる。ステージ上は休憩のためのスペースで、晩年のスケッチから再現した形のクッションに腰を下ろして図録を読むことができる。このステージの大きさは、ちょうど高松が制作活動を行っていたアトリエと同等の大きさで出来ており、高松の制作の空間を象徴的に重ね合わせている。


約200点に及ぶ作品群を通じて高松の思考を追体験しながら、その背後にある関連性を読み解いていくようなミステリーを空間で演出したいと考えた。


株式会社トラフ建築設計事務所
http://torafu.com/works/takamatsujiro


本来ならキュレーションの一部である筈の「展覧会」の会場構成は、「ミステリーズ」展に於いては株式会社トラフ建築設計事務所への丸投げ(「トラフさんの自由にやって下さい」)だったのだろうかと疑わせる文章である。実際にそうではないのなら、同展のキュレーターはこの文章に対して「誤解を生む表現」として抗議をするべきかもしれない。この文章では、キュレーターが会場構成に於いて何も仕事をしていない様に読めてしまうからだ。


仮に、同社の公式サイトで自社の「WORKS」(=作品)として公開/宣伝されている同展の会場構成が、同社とキュレーターの間の議論の積み重ねに依らない、或いは同社の主導によるもの(同社の作品)であったとすれば、現れとしての「ミステリーズ」展は、「高松次郎」の展覧会として見るべきものではなく、「高松次郎」を使った株式会社トラフ建築設計事務所のプレゼンテーションの場と捉えるべきなのだろうか。それならそれでそうであると明示して(例えば「TORAFU ARCHITECTS MEETS JIRO TAKAMATSU」等と)くれれば、「ミステリーズ」展を「『高松次郎』の『展覧会』」であると思ってしまう多くの過ちを防げる。従ってこれもまた仮定の話として、「高松次郎」の仕事を見せる事よりも、同社の仕事を同社の作品(「WORKS」)として見せる事の比重が大きかったのであれば、確かにそれを「展覧会」の為の施設で行う必然性は皆無と言える。その様なものとしての「ミステリーズ」展に大阪巡回があるとすれば、それはインテックス大阪(例)で良いだろう。


“god's eye view" から「俯瞰」をすれば「バラバラに見えていた作品間の関連性」は見えるかもしれない。しかしそれは一方で「地上」で起きている事を矮小化してしまう危険性がある。「ミステリーズ」展の「ステージ」は、「高松次郎」を「猿山」に落とし込むという荒業である。それによってその「行動」を「動物園の観客」同様「俯瞰」的な形で「理解」可能なものとした。「影ラボ」の様な行動体験(どうぶつになってみよう)型の展示という周到の軽率/軽率の周到もある。こうして「ミステリーズ」展という名の動物園展示は、「俯瞰」による「理解」と引き換えに、「高松次郎」を「ミステリー」譚として外在化し、「消費」の対象とする事に「成功」した。しかしそれも仕方の無い事ではある。“god's eye view" に取り囲まれる建築模型による検討が設計の核となる様な発想は、しばしば「人間」を「動物」的な関数として扱うものだからだ。


「ひとりの芸術家の営みが円環的になっている(“the work of a single artist forms a circle" 保坂健二朗氏)」という一つの解が導かれたとしても、それをあそこまでリテラルな形で実線化し、或いはリテラルに俯瞰可能なものとして示してしまうのは、「小さな親切大きなお世話(white elephant)」でしかない。それは「イメージ (image)」の鎖に繋がれたスペクタクル消費としての「絵画」の発想であり、例えば「真っ直ぐな性格」を直線定規を使って描画してしまう少年漫画と同質のコメディと言える。

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「制作の軌跡」展は――結果的にではあるだろうが――それ自体が「高松次郎」作品の「平面上の空間」(以下「高松作品『平面上の空間』」)の構造を体現している様にも思える。


取り敢えず「高松作品『平面上の空間』」の「正面」からの見た目に基づく形で、その「平面」を直交座標系のそれと仮定するならば、同展には地下3階会場入口付近に架けられた1960年の「不安な英雄」という点(X0,X0)から、地下2階の1997年の「一人の男の三つの影」という点(Xn,Yn)で構成される「高松次郎」と呼ばれる限定的な「平面」上に、複数の弧線や直線=制作の軌跡が引かれていると見る事も可能ではある。そして「高松作品『平面上の空間』」の線=軌跡が時系列的な「順序」で(も)追って行ける事が可能であるのと同様、「制作の軌跡」展では「1) 1960-1963 点」「2) 1964-1966 影」「3) 1967-1968 遠近法」「4) 1969-1971 単体」「5) 1972-1973 単体から複合体へ」「6) 1974-1977 複合体と平面上の空間」「7) 1977-1982 平面上の空間, 空間, 柱と空間」「8) 1983-1997 形」という8本の弧線や直線=制作の軌跡が、時系列的な「順序」で追って行ける様に――地下3階から見始める様にと捥り嬢から指示される事もあって(それを無視して「遡行」的に見たとしても良いのだが)――ドローされている。


一人の作家をクロノロジカルに扱おうとする場合、それは(X0,Y0)と(Xn,Yn)を結ぶ一本線的なものとしてイメージされもする。だからこそ起点と終点を繋ぎ合わせて「リング」にしたり、或いは少しだけひねくれる事で「メビウスの輪」にする事が可能になると思われてもしまう訳だが、実際には芸術家の制作の軌跡/人生に限らず人の一生というものは、線=軌跡が様々なパターン(直線/弧線)を描いて行きつ戻りつ、時にはそれが軌跡の最中で互いに「交差」する事もある奥行きを持った座標系=「平面」とは考えられないだろうか。


「高松作品『平面上の空間』」の「交差」が恐らくそうである様に、「交差」は「接触」によって生じているものでは無い。それらは「コンステレーション(constellation)」として、互いに何万光年の距離を保ちながら、或る視点から見れば見た目上「交差」している――立体交差(multilevel crossing)の様に――ものである。そしてその「交差」では、時系列的――それはしばしば「作品展開」という形で解釈される――に考えれば、解釈し難い事態がしばしば起きる事が、この「制作の軌跡」というリテラルな時系列に愚直な「展覧会」は、例えば「『形』の時代」に「影」――それは「高松次郎」の「作品展開」を見せようとする展覧会では寧ろ隠されるものかもしれない――という「交差」を愚直に挟んでしまう事で示されている。


「制作の軌跡」展は「地上」で起きている事を「地上」の法則に則って見せている。「天上」の法則に観客を連れ去る事をしないし、「高松次郎」の「脳内世界」にあったとされる「天上」の法則を「俯瞰」させるという奇術も行わない。「制作の軌跡」展では観客は「地上」を歩くしか無い。世界の謎を解き明かすかの様に示される「聖なる言葉」もここには存在しない。「天上」は「地上」の「高松次郎」と同じ位置から見なければならない。

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それにしても「高松次郎」の「展覧会」を見るとはどういう事なのだろうか。物故してしまった「高松次郎」という一人の芸術家を良く理解する為にという事は当然あり得る。「高松次郎」が思弁したものが、実際の作品にどの様に「反映」されているのかの検証を行うという「謎解き」の愉悦もあるかもしれない。しかしその「高松次郎」とは一体何だろうか。換言すれば、「高松次郎」はそれを見る者の前に、どの様なものとして現れるものなのだろうか。


「制作の軌跡」展で個人的に最も感じ入ったものの一つは、地下2階のホールにインストールされた「複合体」(1972年8月)だった。「高松塾」時代のものであり、またその活動の一環にこれはある。



耐火レンガ(JIS R 2101規格の並形――230 × 114 × 65 mmのもの)を2個使用した「作品」だ。仮に「ミステリーズ」展にこれが出品されていたら、実際にどの様に展示されたかは判らない。しかし大きな可能性としては、それは株式会社東京スタデオによって新たに作られた、丁寧な仕上げの白いパネル壁と白いパネル床の間に設置されたのではないかと想像出来る。その場合、「展覧会」の「出品作品リスト」の素材記述としては「レンガ」という事になり、併せて作品寸法も「34.4 × 11.4 × 6.5 cm」の様な形で記されるだろう(出品されていた同年の「複合体(椅子とレンガ)」の素材が「椅子、レンガ」とされ、且つ「70.0 × 56.0 × 62.0 cm」と記されている様に)。



或る意味でこの「作品」を出品するのは非常に「簡単」だ。耐火レンガが二つだけあれば良いのだ。敢えて言えば、それは1972年のオリジナルの耐火レンガでなくても良い。セッティングだって「容易」だ(「糊付け」位はするかもしれないが)。出品作品点数(注)が不足気味だった感もある「ミステリーズ」展がこれを出す決定をし、株式会社東京スタデオが一辺辺り三尺程度のパネル工作を行えば、確実に一点分のスペースは「楽々稼げた」かもしれない。しかし結果的にこの「作品」は「ミステリーズ」展には出なかった。


(注)「初期の〈点〉や〈紐〉、中期の〈影〉や〈単体〉〈複合体〉、そして後期の〈平面上の空間〉や〈形〉など、3つの時期の代表作45点に加え、151点の関連するドローイング」(「ミステリーズ」展)。一方「制作の軌跡」展は「絵画・立体作品・版画約90点、ドローイング約280点、書籍・雑誌・絵本約40点、そして記録写真約40点」である。


一方、この二つ煉瓦の「複合体」が出品された「制作の軌跡」展では、その「出品作品リスト」の作品素材の記述は「引き戸、煉瓦、床」である。作品寸法は記されていない。何故に「煉瓦」だけでは無いのかと言うと、高松次郎旧邸から実際のアトリエの「引き戸」と「床」が、国立国際美術館に(引き剥がされて)「移築」され、そこにあの1972年の写真と同様に「引き戸」と「床」の間で、この「複合体」が形成されているからである。


ここでは「引き戸」と「床」は、「煉瓦」と同程度に「複合体」に不可欠な要素として認識されている。言わばそれは、現象的にはパルテノンのペディメント(pediment)に施された「彫刻」を、エンタブラチュア(entablature)、コロネード(colonnade)、スタイロベート(stylobate)ごと持って来る様なものであり、「彫刻」はそうした全体系の中のものとして存在しているとする様なものだ。確かにそれでは作品寸法を表記出来る訳が無い。コロネード(colonnade:独 Säulengänge) は、カントがパレルガ(parerga=parergon の複数形)の例としてリストアップしているものの一つだが、いずれにしてもパレルガとは「作用」であり、従ってそれは計量に馴染まない。


一方、想像される白パネル壁と白パネル床の間にインストールされた「複合体」は、大英博物館(British Museum)中のエルギン・マーブル(Elgin Marbles)の様なものになるのだろうか。サイズという形で境界画定される「彫刻」として完結した「複合体」は、トマス・ブルース(第7代エルギン伯爵)がイギリスに持って来たのと「同じ」ものになるのかもしれない。


しかしそういった事もまた、自分にとってはどうでも良い。寧ろこの「複合体」の展示で重要な気がするのは、その「気安さ」にある。つまりこの「複合体」を自分の家でやってみようと思えば、誰でも出来そうに観客が思わせられるところにそれはある。壁面と床面は世界中に幾らでもある。住居空間に耐火レンガでは些か非日常感が勝ち過ぎて大仰になるだろうから、ティッシュの空き箱や厚めの本が丁度良いだろう。或いは「積み木」が現役の家庭ではそれを使用するのも良いだろうし、引っ越しのダンボールが片付かない家庭ではそのダンボールを使うという手もある。


食卓の椅子の一本の足の下に厚めの本を挟んでみる。それは「高松次郎」の「複合体(椅子とレンガ)」と全く「同じ」ものだ。何も「違い」は無い(煉瓦と本の差異や、椅子の形の差異を無意味なまでに問題にしないのであれば)。しかもそれは展示の為にだけ存在しているものでは無いから、誰からも咎められる事無くその上に座る事すら出来てしまう。その上で座りながら椅子の上で身体をグラグラと動かしてみて、安定/不安定の間を行ったり来たりも出来る。実際1972年の「高松次郎」は「複合体(椅子とレンガ)」に座ってみたかもしれない。であれば、尚更「複合体(椅子とレンガ)」について多くを「知り」たい「観客」はそれをするべきである。



その上で、それをしてみた者がそれをした事で、「高松次郎」が「作品」に「思弁」的に「込めた」ものと周囲が判断したもの(しばしばそれは「教化」の形で観客の愚鈍化に利用される事もある)、或いは「高松次郎」自身の「主観」で意識されていたものとは全く別のものを、それに対して見られるかもしれない。敢えて言えば、「観客」はその様な形で「高松次郎」を「反復」的に「越え」なければならないし、実際に「高松次郎」を「越え」てしまう存在なのである。それが幼児であったとしても(或いは幼児であるからこそ「高松次郎」を軽々「越え」られるとも)。「高松次郎」は「ジャンピング・ボード」として有効なのであり、それ故にそれは一般的に「アーティスト」と呼び習わされている「反復」の原点(X0,Y0)なのである。


「高松次郎」の資質の現れは、その優れた仕事の多くが誰もが出来そうなところにある。「小ささ」もそうかもしれない。そしてこれは勿論「複合体」に限った話では無い。仮に国立国際美術館の「高松次郎」の前に何分間か居続けられ、且つそれから思惟を巡らす事の出来る者ならば、自分の家で起こっている「高松次郎」にも同様に接する事が可能な筈だ。「高松次郎」の「代表作」の一般的な了解が「影」シリーズであるにしても、その投影像の「消失点」であるところのものは常に「小さい」。だからこそ「影ラボ」は、東京国立近代美術館の様な展示の為の空間を必要とはしない。そうした非日常的な空間とは別の場所で、「影ラボ」は何気に行われれば良いし、寧ろそこでこそ行われるべきである。「高松次郎ならぬ者」が「観客」である事を離れた場所で「影」を見る。「高松次郎ならぬ者」が愚鈍化を免れていれば、そこに衒学好きの「高松次郎」という「主観」が、「影」と関連付けたものとは異なる(ピッタリとは重ならない)何かを見られる。


「大作」を作るのは「アーティスト」の領分だ。二つ煉瓦の「複合体」や「複合体(椅子とレンガ)」と、東京画廊の個展(1976年11月)やドクメンタ6(1977年7月)に於ける鉄製の「複合体」は、その意味で不連続なものだ。「ミステリーズ」展のカタログで、保坂健二朗氏が「ドローイング(works on paper)」と「絵画(oil on canvas)」の間に引いた分割線(p.225)も、それに繋がる様な気がする。


「アーティスト」としての「高松次郎」の「代表作」には、美術に於ける価値評価の伝統的な形式に則り「大作」が据えられている。「影」の「大作」、「遠近法」の「大作」、「単体」の「大作」、「複合体」の「大作」、「平面上の空間」の「大作」、或いは「形」の「大作」…。しかしこの「制作の軌跡」展を見ても、或いは「ミステリーズ」展を会場の「雑音」を掻き消して注意深く見てみても、「大作」になる以前にその殆どは「完結」してしまっていて、「大作」はそれらの「書き出し(Export)」によって生まれている様にも思える。それらは、電話で会話をしながら傍らのメモ紙に描いた図像/図式を、恰もそのまま「大作」化したかの印象すらある。勿論「高松次郎」には「大作」を作るに十分な理由/事情があったに違いない。しかし敢えて「大作」を作らなくても良い者もいる。それは「アーティスト」ならぬ者だ。それは或る意味で「大作」を求められる「アーティスト」よりも自由な存在ではある。


「ミステリーズ」展でも「制作の軌跡」展でも、「高松次郎」の「アトリエ」はそれぞれ別の形を伴って現れていた。「高松次郎」=「アトリエの人」という事だろうか。その「高松次郎」の「アトリエ」は、「立体」作品も作る「アーティスト」の制作空間としては狭い。しかし「狭い空間」から生まれた「高松次郎」の「作品」と「高松次郎ならぬ者」が繋がる共有のトポスは、美術館ではなくこうした「狭い空間」に於いてである様な気がする。「作品」を外在的なものとして見せる(「観客」を発生させる)事に最適化された「広い空間」は、世界にはそれ程の数は無いが、「狭い空間」ならば、「地域性」の違いを越えて幾らでも存在する。


「広い空間」がそれ自体「暴力」の産物でもあるというのは、都市デザインを見ても判るだろう。「狭い空間」を次々と潰し、「広い空間」に東京を作り変えて行く前回の夏季オリンピック市川崑の「東京オリンピック」の冒頭シーンを思い出したい)のカウンターとして、あの「東京ミキサー計画」は確かに存在していた。そうした機運の中にあった「高松次郎」の時代は、「狭さ」や「小ささ」を、「広さ」や「大きさ」によって乗り越えようとする社会的な欲望が加速化した時代ではあった。「日本万国博覧会」の「遠近法の日曜広場」と、「人間と物質」展の「16の杉の単体」は「同じ年」(1970年)のものだ。その一見「背反」的にも見えるそれぞれを、「高松次郎ならぬ者」はどう捉えるべきだろうか。いずれにしても、「高松次郎」の「大作」は、その「機運」への反転として「広さ」や「大きさ」を、「狭さ」や「小ささ」で乗り越えようとしたものの様にも見えなくはない。


“Der liebe Gott steckt im Detail" (Aby Warburg)。それは一般に「神は細部に宿り給う」とも訳されるが、しかしそれは実際には「宿る」ではなく、「生起する/通り過ぎる」(passieren) なのではないかという気もする。「高松次郎は細部(小ささ/狭さ)に生起する/を通り過ぎる」。そしてその時にこそ、「高松次郎」は闇雲な神格化(例えば「ミステリー」の答えが収斂する実体的な点)からようやく開放され、晴れて「虚点」としての「不在」となるのである。

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「高松次郎」から約20年遅れで生まれ生きて来た人間からすれば、「高松次郎」は「『ハイレッド・センター』の人」という「伝説」上の存在であると同時に、「『平面上の空間』の人」という同時代を生きた存在でもあった。70年代後半から80年代に掛けての「高松次郎」は、自分とその周囲の同じ様な利害を有する者の多くにとって「無視して良い存在」として見えていた事を、ここで告白しなければならない。「高松次郎」は老いた(40代なのに!!)、駄目になった、才能を使い果たした、時代が見えていない、無意味になった……等々。


「高松次郎」がその生を閉じたのと同じ様な年齢で見る「制作の軌跡」展は、「高松次郎」に対して全く違ったものが見えた。それは「媒質」的なものとしての「高松次郎」だった。それでようやく「高松次郎」が自分の中で「反復」可能になったのである。

PARASOPHIA(「外伝」)

有朋自遠方来 不亦楽乎


下り新幹線に乗って、横浜から旧知の現代美術家(現代彫刻家と呼ぶべきか)が、「PARASOPHIA」を見る為に京都にやって来た。その気になれば東京の自分の制作場所で幾らでも会える人物であるが、京都で会ってみるという珍しい体験をしたくなり、待ち合わせをして「立ち話」をする事にした。


向こうも旅人である。旅人がタイトなスケジュールを組んで行動をしているところに「一緒に食事でも」となれば、確実に旅人のスケジュールは乱される。その「食事」が東京では絶対に食べられないものという訳でも無く、各店に於ける「偏差」の範囲内、或いは「偏差」すら無いものだったりすると、旅人に声を掛ける「一緒に食事でも」は犯罪的ですらある。向こうは「サブウェイ 三条烏丸店(例)」で早々に済ませようと思っているかもしれないのに。


加えて、こうした場合の「一緒に食事でも」の場合に陥りがちなのは、「どうですか?京都は」の話題が多くなる事だ。それは来日アーティストに決まって「どうですか?日本は」と聞くのと同じで、従って聞かれた側がうんざりするのも同じだ。以前京都国際マンガミュージアムのアニメーション関連のシンポジウムで、事ある毎に京都のコーディネーターが「どうですか?京都は」と聞いていて、外から来たパネラーが心底うんざりしていたのを思い出す。そうした質問に対しては、相手は決まって――うんざりを隠しつつ――「ファンタスティック」的な事を返すだろうが、そうした定型を真に受けて嬉しくなったりするのは愚かの一語に尽きる。定型で膨らむ自意識(例「クールジャパン」)程に厄介なものは無い。やはり「立ち話」が良いのである。


待ち合わせの場所は、京都二日目の旅人が会場に入ったばかりの京都府京都文化博物館別館とした。そこで展示を見終わった頃を見計らっての突撃である。4歳児を連れて行く事にした。


「PARASOPHIA」公式サイト英語版の “About" には、日本語版の「開催概要」では割愛されている “The exhibition will be complex and multilayered in content, drawing the intellectual empathy of specialist art audiences, with a lighthearted air that can be enjoyed by the whole family." という一文がある。飄亭の松花堂弁当プッチンプリンも入れて、それで “complex and multilayered in content" にしてみた的なものだろうか。この “a lighthearted air that can be enjoyed by the whole family" の受け皿を、「PARASOPHIA」としては京都市美術館の「蔡國強」や「やなぎみわ」や「ジャン=リュック・ヴィルムート」辺りに設定しているのかもしれない。しかし今から行くのはどちらかと言えば “drawing the intellectual empathy of specialist art audiences" 寄りに思える京都府京都文化博物館別館である。


京都府京都文化博物館別館。随分と3月よりも変わっていて、取り敢えずこの館の前の両翼各十数メートル分だけは「パラソフィアやってます」感がそれなりに出てはいた。そこでドミニク・ゴンザレス=フォルステルを4歳児と一緒に見て、4歳児の集中力が弱まったところで部屋を出る。2分。


二度目の今回は全くそれで良いし、勿体無いとも思わない。ドミニク・ゴンザレス=フォルステルが想定する観客に、少なくともこの日本の4歳児は入っていないという事を確認出来た訳であるから。その得難い2分に1,800円である。


森村泰昌氏は端からパス。決して2度見たり3度見たりして体験が大いに深まって行くといったものでは無いし、端的に言って4歳児の興味を引くものでもない。或いは興味が引かれるかもしれないが、しかし今回は大人の方が引かれないし、その森村泰昌氏分だけ旅人の時間を奪う事にもなる。どうしても見たければ4歳児が自分で金を払って見て欲しい。但し4歳児はこの建物から一刻も早く出たい様だ。公園の砂場が待っている。


ドミニク・ゴンザレス=フォルステルを出た階段下の薄暗いスペースで横浜から来た旅人と少しの時間話す。前日からのメッセ上のやりとり同様、相変わらず「PARASOPHIA」に対して旅人から肯定的な声は聞こえない。そこでこれは肯定し難いものの肯定し難さに対する分析を通じてそれを肯定的な解釈に変換するという、見る側に対して相当に高度な要求を課せられる芸術祭(例えば彼がメッセ上で難じていた「高松次郎ミステリーズ」と同様に)なのだといった旨の事を短く伝える。短か過ぎたかもしれないが。


傍らでクッションの上で飛び跳ねていた4歳児がいきなり「くま」と言う。アジア的に珍妙でアジア的に下品な洋風建築(「重要文化財」。確かに「ちぐはぐとしての日本の文化を考える上で重要」という意味で「重要文化財」である)のクッションの滲みの中に「くま」を見つけたのである。



確かに「くま」である。非常に困った事に、それはこの館のどの展示物よりも今は面白く見えてしまう。そして痛快にも、このクッションの上の「くま」を見るにも、やはり入館料1,800円が必要になるのだ。


「PARASOPHIA」を見に行った体験。4歳児にとってはこれなのである。そして4歳というのは、何かを集中的に凝視して没入する(例えば「テレビを見る」)事では無く、世界の全体に自ら目を配り、その中で自己を位置付けて行く能力をこそ養うべき時期になる。そういった能力がすっかり固定化してしまい、今以上に飛躍的にそれが向上しない大人はその限りでは無い。テレビでも美術でも何でも凝視して、それに没入さえしていれば良いのである。

PARASOPHIA

【「PARASOPHIA(序)」から続く】


para- |ˈparə| (also par-)
prefix
1 beside; adjacent to: parameter | parataxis | parathyroid.
• Medicine denoting a disordered function or faculty: paresthesia.
• distinct from, but analogous to: paramilitary | paraphrase | paratyphoid.
• beyond: paradox | paranormal | parapsychology.
• subsidiary; assisting: paramedic | paraprofessional.
2 Chemistry denoting substitution at diametrically opposite carbon atoms in a benzene ring, e.g., in 1, 4 positions: paradichlorobenzene. Compare with meta- and ortho-.


New Oxford American Dictionary

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京都市は観光都市である。京都駅(京都市)構内で石を投げれば、相対的に高い確率で観光客に当たるだろう。


但し外国人訪問者数では、日本は世界で27位(2013年:世界観光機関調べ)――1位はフランス。日本はその1/8以下――であり、アジアでは中国、タイ、マレーシア、香港、マカオ、韓国、シンガポールという5ヶ国+2つの中華人民共和国特別行政区に次ぐ8位――日本はアジア1位の中国の1/5以下――であり、京都(府)はその世界27位、アジア8位の日本の中で、東京都51.4%、大阪府27.9%に次ぐ21.9%の訪問率(2014年:観光庁調べ:PDF)で3位に位置している。この冷徹極まり無い数字から見えて来るのは、世界は極めて広大(大世面)であるという当たり前過ぎる現実である。


それでも平凡な数字ではあっても京都市を訪れるそれなりの数の観光客の多くは、京都市に到着するや否や、30分も経たない内に観光消費――交通機関を利用する事を含め――を何らかの形で行う。事実上、京都市は観光客(国内観光客含む)がもたらすそれなりの観光収入(約7千億円:観光都市でもある東京はその7倍強の約5兆2千億円――共に平成25年)を、この町が町として存続する条件の大きな柱の一つにしている。21世紀の京都市民が日常生活ではオーラルで発する事はまず無い「おいでやす」や「おこしやす」等の文字列を看板の上に掲げつつ、時にその文字列を再びオーラルの形で反復しつつ、観光客の気持ちが消費に向かう事を紫色を纏って待ち構えている。



観光都市としてのこの町の未来が危機に陥り兼ねないと、京都市は最近になって考え始めた様だ。京都市を訪れた観光客が、その市中の何処かで必ず目にする「リニアを、京都へ。」掲示物に見られる京都市の「必死」。その「リニアを、京都へ。」――それが意味するところは「リニアを、京都市へ。」であり、決して「リニアを、京都府へ。」ではない――の前段に「日本の未来のために」とも京都市は書く。この文言に書かれた「日本」は、仮構的なものとしての「日本」だ。一方現実の日本はと言えば、北は北海道から南は沖縄県までを表すものである。



行程の大半が地面の下を飛ぶ「航空機」――想像され得る需要としてはそういうもの以上でも以下でも無い――が、他でも無い京都市の南区(「京都府の他の町」では無い)に、相対的に小さなRのカーブを描きつつ着陸する事を希求する京都市の「総合企画局リニア誘致推進室」による、紫色の出現頻度の高いウェブサイト(トップページの「ツイート」数・253/「いいね!」数・206:2015年4月23日現在)からは、その色使いも含めて隠し様も無く表れているセルフ歴史のセルフ認識を含めて様々なものが見えて来る事だろう。


http://kyoto-linear.com/


京都市の各所で多く見られる紫色は、 “noble" を意図しての選択なのだろうと思われる。しかし困った事に、紫色は “madness" をも同程度に意味するという冷徹極まり無い現実がある。21世紀に入って物故したニューヨークの某有名コンテンポラリー・アーティストから、「世界的に紫色は “madness" の色だと決まっている」という託宣を自分は直接賜った事がある。紫という色は、その意味するところの多義性故に剣呑であり、であるが故に多くの工業製品の標準的なカラーラインナップにそれが使用される事は少なく、また多くの画家がこの色を自作に使用する事を躊躇する。しかし京都では紫色に対するリミッターは完全に外れてしまっている様に思える。


紫色自体に罪は無い。ただ或る特定の色をして何かを表象しようとする企みのあるところには、色というものが持つ多義性が、自らが表象するところの意味の対極をも、冷徹極まり無くインクルードしてしまうのである。自己認識に基づいて描いた自画像が、他人からは全く別の印象を持たれる。そうした冷徹こそが “PARA-SOPHIA" という事なのだ。

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観光客は観光地に何を携えて来るのか。当然観光都市が観光客に最も期待する「金」である事は間違いの無いところだが、もう一つ上げるとすればそれは「覗き穴」である。或いはこう換言する事も出来るだろう。観光とは「覗き穴」を通して物事を見る事であると。


Duane Hanson(デュアン・ハンソン)の “Tourists" シリーズで、「旅行者/観光客」を表す「小道具」として欠かせないのは、首から下げた小型携帯カメラだ。小型携帯カメラ――退職金で買った高級一眼レフ含む――を常に持ち歩く姿こそが、今日の観光客を特徴付ける外見的な特徴になる。デュアン・ハンソンの時代とは異なり、21世紀初頭に於いては、それらの小型携帯カメラの役割はモバイルフォンの撮影機能にシフトしつつあるものの、それがレンズで集光性を高めた「覗き穴」としてのカメラ(暗箱)である事には変わりが無い。それは相も変わらぬ「カメラ・オブスキュラ」の血族なのである。


しかもデュアン・ハンソンの時代(20世紀中葉)の小型携帯カメラよりも、その帯同性に於いては、21世紀初頭のモバイルフォンはより高いものになっていると言えるだろう。モバイルフォンを所有する者が、モバイルフォンを持ち歩かないというのは、極めて例外的(忘れて来た、落とした等々)な事態であり、モバイルフォンを取り出して操作する事は、今や多くの人類の生活習慣の一つですらある。当然、写真撮影の習慣化もまた、所謂「カメラ」よりも相対的に高いものになる。そしてこれもまたモバイル端末がもたらした人類の習慣である SNS(場所に縛られるデスクトップ PC では SNS が成立しない)が写真撮影の習慣化を加速する。21世紀の “Tourists" 作品は、モバイルフォンの液晶画面(「覗き穴」)越しに世界を観察しつつ、そのホームボタンを押して、何処かのサーバに画像をアップロードするポーズになるに違いない。


写真(表現)史に於いて、さほど重要視されていない人物の一人に Oskar Barnack(オスカー・バルナック:1879-1936)がいる。しかし彼は、今日のモバイルフォンへと繋がる小型カメラの形式を作り上げ、写真撮影の習慣化――「覗き穴」を通して世界を見る事の習慣化――を広範な人類にもたらした(人類の眼差しに於ける新たな標準とした)点で、写真社会学的な意味に於いて最重要人物の一人である事に間違いは無かろう。


バルナックの制作になる金属製の小型携帯カメラが登場するまでの撮影機材のスタンダードは、13×18cm ガラス乾板と木製の大型カメラだった。何枚ものガラス乾板(数キログラム以上)と、木製の大型カメラ(数キログラム以上)と、頑丈なトリポッド(数キログラム以上)を持ち歩くのは、職業写真師であって一般観光客では無い。身体化されるまでに小型化する事に成功した「覗き穴」の登場とその大衆化こそが、今日的な意味での観光客の眼差しの在り方を決定付けた。恐らく写真(表現)史や写真(表現)論に於いても、その撮影機材(「覗き穴」)が「大型」であるか「小型」であるかの差異は大きな意味を持つに違いない。

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「覗き穴」という窃視の装置は常に何かを隠している。「覗き穴」から見えるのは「前方」ばかりであり、それ以外は見えなくされている。「正常」な人間の目の視野は片目で耳側に90度〜100度、鼻側および上側で約60度、下側に約70度と言われているし、その外側がいきなりブラックアウトしている訳でも無い。「覗き穴」はこれらの視野を極端に狭め、その狭められた視野の外部を強制的に遮光する。観光という行動もまた「前方」を見る事に専念するものであり、同時に「周囲」に目を配らない事を無意識に行う。


しかし「覗き穴」で最も隠されているものは、それを覗く「目」の背後にいる「覗く者」自身だ。「覗き穴」の眼差しを持つ者=観光する者を言い表す成句に「旅の恥は掻き捨て」というものがある。観光する者は、多かれ少なかれ自身をその地とは切断された関係にあると思っている。観光する者は、観光地で「自分は何故ここに来ているのか」とは考えず、「自分はこの地にとってどういう存在なのか」も考えない。観光する者は、「覗き穴」から「前方」を見る「目」である事だけに徹する。


「覗き穴」。それは特異な眼差しの有り様の一つだ。「前方」を良く見る(凝視する)為に、その他の全てを見る事を止めてしまう存在が観光客である。そして「覗き穴」を覗く目と化した者は、その目を持つ自分自身が何処に存在し、何処に繋がっているのかを見る事は無い。

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またもや前段が長くなった。結局のところ何を言いたかったかのかと言えば、展覧会を見る観客の多くもまた、観光客と同じ「覗き穴」から「前方」を見る「目」を持つ存在なのではないかという事なのである。


展覧会の観客は作品を集中的に凝視し、凝視した作品について考えようとする。ホワイトキューブという20世紀の発明物は、作品=「前方」を凝視する事に最適化されている。ホワイトキューブとは世界を見る視野を狭窄させる「覗き穴」の一形態なのであり、従ってホワイトキューブの「白」は「覗き穴」の「黒」と同じものと言える。明るく見えるホワイトキューブは実際には冥いブラックキューブなのである。展覧会の観客は、自分の「前方」にある作品をしか見ないが、そもそも展覧会という装置には、「前方」だけを見る様に訪れた者を仕向ける何重もの遮蔽(作品以外の何物をも見せない白い壁はその一つ)が施されている。


「前方」をしか見ない者の書く美術評論文(或いは感想文)は、常に紀行文的、或いは観光案内文的なものになる。展覧する者は、多かれ少なかれ自身をその作品とは切断された存在、即ち「前方」の作品を「観測」可能な場所に自らを位置付けている。「自分は何故これを見に来ているのか」「自分はこの作品を前にしてどういう存在なのか」「自分がこれを面白いと思うのは何故か」「自分はこの作品にどの様に関係しているのか」「この作品を見た事で自分はどうなるのか」…。そうしたものは美術評論文には書かれない。紀行文や観光案内文がそれを書く主体自身の目の後ろ=「後方」を書かないのと同様、美術評論文もそれを書く主体自身の目の後ろ=「後方」を書かない。美術評論文では、それを書く者が「前方」を見る「目」に徹する――観測者の位置に自らを置く事が「正しい」事であるとされている。実際この「PARASOPHIA」について書かれたもののほぼ全てもまた、「正しい」観光客が書く「正しい」紀行文になっている。「PARASOPHIA」を見る観客の目は、京都の町を走る観光バスの中から窓外の景色を見る観光客の目の延長線上にある。


例えば「PARASOPHIA」を「国際芸術祭の中でも最もつまらない部類」と評した浅田彰氏の「パラパラソフィア——京都国際現代芸術祭2015の傍らで」から見えて来るものは、こうした装置によって内在化した制度としての観光の眼差しから生まれている様にも見える。「この機会にぜひ訪ねたいのが崇仁地区だ」と氏が書くその時、「崇仁地区」は「訪ねる」対象=観光の対象として氏に認識されているかに見える。氏は見えない一人乗りの観光バスに乗り、窓外の「崇仁地区」の景色を眺めているのだろうか。但し最後段の「昔の小学校の校庭で8人の生徒がキャッチボールをしているのを眺めながら、私はさまざまなことを考えさせられていた」という一文に――そして「パラパラソフィア」というタイトルに――明示的では無いものの「後方」への脱出線は辛うじて(「辛うじて」でしかないのだが)引かれている。そこが「職業美術評論家=職業観光客」ではない氏の、紙一重分だけの面目躍如たるところではあるだろう。


その「崇仁地区」――「PARASOPHIA」では「河原町塩小路周辺」という婉曲表現になっている――にはドイツのペア、フランツ・ヘフナー/ハリー・ザックスによる人を喰ったタイトルの作品 “Suujin Park" がインストールされている。その “Park" (“Amusement park" のそれだろうか)の「入口」が何処になるのかは判らないが、仮にそれを塩小路の「うるおい館西棟」に面した場所であるとするならば、確かにそこには「入口」を表象する造作が施されている。開幕直後には掲示されていなかったキャプション・ボードに「6.門/鳥居の形に切り抜いたフェンス」と書かれているのがそれだ。



参考


欧米人の日本に対するエキゾチシズムの対象としての「鳥居(torii)」。ドイツ人アーティストによる「部外者としてあるいは異物としてそこに介入」(ガイドブックの紹介文)の最も端的な「表現」と言えるそれはまた、「PARASOPHIA」会場としてのこの場所を訪れる美術の観客が、何処まで行っても観光客でしか無い事を見越しての嫌味混じりのウェルカムゲートと言える。「ようこそ エキゾチックな崇仁へ――あなた方の見たいのは結局こういうものなのでしょう」。作品が放つ批判は、それを見に来た観客(=観光客)に向けられる事も多くある。



そんなヘフナー/ザックス作品を見る観客/観光客の「背後」=「後方」を、「人権標語」を車体後部に取り付けた市バスが通り過ぎる。「同じです あなたとわたしの 大切さ」。少し前には「断ち切ろう 身近な差別を わたしから」「人権の 話題作りは 家庭から」「見つけよう 一人ひとりの いいところ」「同和問題の解決は 市民一人ひとりの課題です」といった、より明示的なものも存在した。そうした「人権標語」に書かれた「身近な差別」や「家庭から」や「市民一人ひとり」から広大な「後方」が見えて来る。「同じです あなたとわたしの 大切さ」を掲げている市バスは、この「河原町塩小路周辺」だけを走っている訳では無い。それは北から南から、東から西まで京都市全域をくまなく走っている。そして「人権啓発」を目的としたこうした「人権標語」は、5年後の京都にも、或いはひょっとしたら50年後の京都にも存在していて、相変わらず京都市民に「人権啓発」を行っているかもしれない。


浅田彰氏のレビューの最後に、「四方田犬彦は直前に再訪してきた崇仁地区の現状を話題にし、『中上健次文学における『路地』(作家が自らの生まれ育った新宮の被差別部落を指して使った言葉)を語るのはいいけれど、その前に、君たちは自分の住む京都の被差別部落跡地がいまどうなっているか知っているのか』といかにも彼らしく学生たちに挑発的な問いを投げかけていた」とあるが、四方田犬彦氏のそうした立ち位置こそが広大な「後方」に目を向ける事の無い観光客のそれなのである。


或る意味で、「PARASOPHIA」の「前方」に見えるものなど、その「後方」に比べれば「大したもの」では無い。「後方」を見る想像力を持たない者――或いは「後方」を見たくない者――にとって、「PARASOPHIA」の「前方」は「つまらない」ものに映るかもしれない。「京都市美術館」のチケット売り場では、チケットを購入する際に「現代美術の展覧会となりますが宜しいですか?」と聞かれたりもする。これは「観光客/観客であるかもしれないあなたにとって、『PARASOPHIA』の『前方』はつまらないものに映るかもしれませんが、それでも宜しいですか?」とトランスレート可能な文言なのである。


パラソフィアの無料ガイドブックにも、そしてカタログにも、「京都市」が京都市民向けに長年に渉って「啓発」し続けている「同じです わたしとあなたの 大切さ」等々の、京都市民にとっては極めて日常的な存在――日常的な「後方」――である「人権標語」を、大きく印刷したらどうだっただろう。各会場の入口にそれが大きく掲げられていたとしたらどうだっただろう。それはまさしく「京都に住んだことのある者なら誰もが経験している」ものの一つではあるのだ。


折角「PARASOPHIA」というバッドセンスで「珍妙(福永信氏)」なタイトルにしてまで “PARA" を強調したかったのであるなら、京都が自らを表象するとしている、多義が “adjacent to(隣接)" する紫色をテーマカラーとし、その色に乗せる形で京都に於ける “SOPHIA" の極めて現実的な並立性を表してしまう「人権標語」=「善きもの」の数々を印刷する。次の「京都国際現代芸術祭」のガイドブックはこれしか無い様な気がする。



優れたキュレーションというのは、「前方」の中に「後方」を見る為の「鏡」(反ー「覗き穴」としての)を、多くの観客が認識可能な形で仕込む事だ。或る意味で、作家は作品を見せたら失敗である。作品を評価されたら失敗である。作品はそれを見ている者の背中をこそ見せなければならない。

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お前は並立する “SOPHIA" の「どちら側」に属している人間なのか。それは「京都市美術館」で最初に見る事になるだろうフリーエリアにインストールされたジャン=リュック・ヴィルムートの「カフェ・リトル・ボーイ」からして、観客に突き付けている問いでもある。


Café Little Boy is a space for reflection, communication, and exchange. Its title is inspired by “Little Boy," or the code name for the atomic bomb that was dropped on the city of Hiroshima on August 6, 1945. Your participation is an integral part of the installation. You are invited to express yourselves on the painted surfaces of this room using the chalk and erasers that are provided for this purpose. Your interventions will follow one another and intermingle as time goes by, helping to give shape to the pluralist and cllective spirit of this evolving work.


After the explosion of the atomic bomb in Hiroshima, there was nothing left of the elementary school in Fukuromachi apart from a wall with a large blackboard on which people left messages for their families and loved ones.


お前はこの映画セットの様なおフランス製の黒板に、「ミーもルラシオンしてみるざんす」的に何かを描けて/書けてしまう者なのか、そうではない者なのか(子供は無条件に描けて/書けてしまう側に属する)。いずれにしても、計画の或る段階までは広島、長崎に続く第三の原爆投下地に決定していた京都である。仮に計画通りに京都に原爆が投下され、ありとあらゆるものが一瞬にして灰燼に帰した京都市内に、辛うじて鉄筋コンクリート製の小学校が残り、児童や職員が多く亡くなったその場所の黒焦げの壁に、床に散らばる燃え残りのチョークを拾って「伝言」を書いて来た被爆地としての記憶が京都に強くあれば、この「カフェ・リトルボーイ(カフェ・ファットマンかもしれない)」というおフランス製の参加型作品に対する参加者のスタンスも、幾らかは異なったものになっただろうとは想像出来る。


「美術館の誕生」は当館の「接収期」の様子を見せてくれる。しかしそれは敢えて言えば戦後の話だ。大礼記念京都美術館(1952年以降「京都市美術館」)は、十五年戦争(昭和6年〜昭和20年)の最中の昭和8年(1933年)に建てられている。美術館を建てる当地の機運としては、そういうものが少なからず影響していただろうし、当然それは当館の建築様式にも当て嵌まる。その大礼記念京都美術館では、例えば昭和15年(1940年)の4月から6月に掛けて、大阪毎日新聞東京日日新聞の共催で「紀元二千六百年奉祝日本畫展」が開催されている。


紀元二千六百年の佳歳を迎えて、わが大日本帝國は國運いよいよ隆盛、まさに興亞の盟主として國威中外に輝きわたること、我々生を當代に享けた國民一同慶祝の言葉もない程の喜びである(中略)いふまでもなく東洋の藝術は西洋の藝術に比し頗る対照的な存在であり、殊に日本畫は東洋美術の中においても特異な日本的な発達である。恰かも大日本帝國の独自な存在を象徴するが如く、國體の清華を藝術に表現したとも想念され得よう。


同展開催趣旨文


自分の義母は、京都の15歳の女学生だった頃の大礼記念京都美術館の話を聞かせてくれる。それは学徒動員で大礼記念京都美術館の中で爆弾(所謂「風船爆弾」)を製造していたというものだ。バスケットコート、靴磨き店、カジノといった占領期=「されてきた事」の記憶。確かにそれも歴史ではあるが、しかし十五年戦争期の大政翼賛絵画展や爆弾製造工場等の「(自ら)してきた事」の歴史もまた、この館の生い立ち、ひいては日本の美術――例えば上掲の「紀元二千六百年奉祝日本畫展」の開催趣旨文が、今日の日本画問題に何処かで繋がってしまう――を考える為にも、「占領期」と同程度に明らかにされて然るべきだろう。それが成されれば、当館の眞島竜男氏のダイアグラム展示もまた、少しだけ違ったものに見えてくるかもしれない。


田中功起氏の映像を見ながら、これが沖縄でのワークショップだったら全く違ったアウトプットになったのだろうと会場で思った。自分もまた「砂川闘争」のあった「米軍基地」の隣町で生まれ育ったし、今も米軍機が上空を日常的に超低空飛行し、点在する「アメリカ」を路線バスが非合理に迂回する仕事場に通うが故に余計にそう感じるのだろう。子供の頃には隣町の店の看板の多くが英語で書かれていた。自宅の近くにはアメリカ軍属の娘の「キャッシー」が住んでいて、時々彼女とも遊んだ。そして彼女を乗せたネイビーブルーのスクールバスが「米軍基地」内のアメリカンスクールに向かうのを、幼稚園の園庭から毎日眺めていたものだ。果たして京都御苑が当初の計画通りにアメリカ軍の飛行場になっていて(二条城前の堀川通が実際には使用された)、今もそれが返還されていない状況になっていたらどうだっただろう。


現在の京都市からそうした日本のアメリカは遠い。同府内の袖志のアメリカすら遠い。もしかしたら世界の諸状況からも遠いかもしれない。しかしこれも困った事に、世界の政治を含む様々な状況――“para"――に「近く」ないと、「PARASOPHIA」の作品の多くが少しも面白いものに見えないという逆説がある。意識が外部に向かわない者、自分が外部と相関的な関係にあると思わない者が見る現代美術ほど面白く無いものは無いだろう。


「PARASOPHIA」の作品から見える世界の様々な事象が、自分と「後方」で繋がっているという想像力が無いところでは、それは途端に「おもしろい/つまらない」ものとして評価される観光の対象となってしまう。「国際芸術祭」が国際である意味というのは、意識の観光バスに乗って博覧会会場を移動する事なのではなく、見る者自身がどれだけ国際と関係付けられているかを捉えられるかにある。観光バスに乗りながら日本統治時代の台湾や1999年のシアトルを眺めても、得られるものは何も無い。「現代美術の展覧会となりますが宜しいですか?」。



「PARASOPHIA」無料ガイドブックの中程のページに、「PARASOPHIA MAP」なる「地図」(通常の役には立たない「お遊び」)が掲載されている。「ロンドン」「ヴェネツィア」「ソウル」「ニューヨーク」「台湾(都市名に非ず)」「イスタンブール」「ベルリン」がそれぞれ小さな「孤島」で表現され、それらの「孤島」とこの世界の中心に位置する京都市民的な心理からすれば大きな島もまた、それらの「孤島」と海で隔絶されているというものである。これを「PARASOPHIA」の自画像として優れたものと言うべきかどうかは迷うところだ。


「現代美術」でも「現代アート」でも「コンテンポラリー・アート」でも何でも良いのだが、こうした呼称の違いを議論する時間があるのなら、それが何故に「現代」や「コンテンポラリー(同時代)」と付くのかというところに幾許かでも想像力を働かせば良いのである。それらの「現代」や「コンテンポラリー」の意味するところは何か。簡略に言えば、それらは「今」を生きる者が別の「今」に接続している、或いは可能的な接続状態にある事を示す語なのであり、決して「今様」や「当世風」を表す語なのではない。そして「今」と「今」が繋がるのは「後方」を於いてしか無い。従って「後方」を見ない者は、「現代」も「コンテンポラリー」も見る事は叶わない。そうした者は、只々「現代」や「コンテンポラリー」が外れてしまった「美術」や「アート」を見るしか無いのである。

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嘗ての殖産観光イベントであった第四囬内國勧業博覧会の各縣「賣店」のあった場所を出て、昭和天皇礼記事業繋がりの鉄筋コンクリート製(こちらはフェンス網製ではない)大鳥居を潜る。さて何処へ向かおうか。


今から堀川団地は悪くない。現在見られる堀川通も堀川団地も、共に「(自ら)してきた事」の産物である。堀川通を「広げた」(広い道路を作る事を目的とした訳ではない事は、1946年10月2日に米軍が撮影した航空写真からも見て取れる。それは壊しっ放しの状態で長く放置されていた)のは「同胞」だ。そうしたものを強制的に作らねばならなくなる時代がある。そしてそれは我々の「後方」に今も存在している。



この堀川団地にも「地域」と「アート」の幸福且つ不幸な関係が垣間見える。「アート」が「地域」に頼られる存在であるかどうかは別にしても、嘗てそこは「アート」を微塵も必要としなかった場所ではあった。即ち「アート」が不在である事がこの場所の原状なのであり、且つそれが多くの場所での原状である。普通に人が住んでいたところ、普通に商売を営んでいたところに、「アート」が「流入」して来れるまでになった「流出」の原因には様々なものがあるだろう。「河原町塩小路周辺」の「流出」がそうである様に。ピピロッティ・リスト、ブラント・ジュンソー、笹本晃という「流入」は、そうした「流出」の結果(嘗てそこには人がいた)を見せてくれると同時に、住人の「流出」が意味するもの、そして「アート」の「流入」が意味するものに思いを至らせる事を束の間忘れさせてくれる。建物「疎開」の後に現在の幹線道路としての堀川通(や御池通)が「流入」し、住民の「流出」の後に「アート」が「流入」する。

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鴨川デルタ。果たして京都府議会議員選挙・京都市議会議員選挙の最中、選挙カーが候補者の名前をスピーカーで連呼していた頃のスーザン・フィリップスはどうだったのかは、その時期に当地を訪れていない為に判らないが、選挙カーよりも遥かに大きなラウドスピーカーを使用するスーザン・フィリップスの音量は、果たして選挙カーのそれに「勝てた」だろうか。そしてガイドブックの解説に従って「出雲阿国」を思い起こし、PA(public address)装置というものに無縁だった当時の河原縁での上演の様子を想像する。「信念と情熱の出雲阿国、若さと行動の出雲阿国、出雲阿国、出雲阿国、出雲阿国を宜しくお願いします」的な音量ではないそれを。「出雲阿国」のリアルを思い起こすには、選挙カーと同じパブリック・アドレス・テクノロジーの産物であるスーザン・フィリップスが鳴っていない時間の方が良いかもしれない。

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大垣書店烏丸三条店のリサ・アン・アワーバック。例えば「911」以降、極めてセンシティブに「後方」を通じて世界に接続していたら、そのニット中のメッセージに関して誰もがそれなりに至り着けるものだろうとは思う。況してや “Charlie Hebdo" や “IS" 以降にあっては。

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京都府京都文化博物館別館。森村泰昌氏の展示は「氏の到達地点がここなのだろう」という点で到達地点である。その到達地点には、親切な作品解説も含まれる。

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京都芸術センターのアーノウト・ミック。一人「PARASOPHIA」。アーティスティックディレクター氏も成し得なかった本展のキュレーションの一つとして作動する “Speaking in Tongues(「異言」)"。二つのフィクションによってコヒーレンス(可干渉性)を高められたノンフィクションから放射される極めて「有害」なレーザー光の如き光。その光に現実世界、そして「PARASOPHIA」の様々な「異言」が照らされる。


〈以下4月28日追記 〉


「異言」は「救い」を求めるところに生起する。「異言」自体は単なる「徴」でしかない。「徴」でしかないものに「救い」の兆しを見る。それは「人は自分の見たいものをしか見ない」のバリエーションの一つだ。


「異言」に登場する人物の共通点は「救い」を求めているところにある。彼等はまだ十分には「救われていない」と思い、同時に「自分は救われる権利を有している」と思っている。


アーノウト・ミックの「異言」は内側から反転した映像をスクリーンに映写する。その光源の位置から見れば、「美術」に「救い」を求めて会場に入って来た観客もまた、そこに入るや否やプロジェクターで投影された像の側に立つ事になる。ここでも作品は観客に対して牙を剥いている。お前の「後方」を見ろと。従って、開口部を設けてプロジェクター本体が収まっている内部を見せている事が、この作品では重要なのだ。

 
であればこそ、この作品は京都市美術館のセンターの位置になければならなかった。市美術館(「PARASOPHIA」のメイン)の全てが、「異言」のプロジェクターの光源から投影された像になる為に。


〈以上追記了〉

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「PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭」。国内向けの饒舌と、国外向けの寡黙の同居という「国際」感覚。英訳される事の無い「国際交流と文化の集積地・京都」という自意識。


「PARASOPHIA」の成功の浮沈を握っているものの一つは、それを開催した事で幾らかなりとも「京都」自身が変われるかどうかだ。まずは「ポストモダン」の前段階を、「古都」である事に依存し続ける京都が通過する事にこそ、それは掛かっている様な気がする。その「モダン」が「京都市美術館」や「京都府京都文化博物館 別館」的なものとして既に実現されていると言うのなら、それもまたそのちぐはぐさに於いて「後方」を見る為の一助になると言えるだろう。


【了】

PARASOPHIA(序)

【序】


美容師には「現代アート」(表記例/以下同)好きの人が少なくない。その京都のヘアサロンの人もそうだ。待合のテーブルの上には「現代アート」関連の本が置かれていて、先般国立国際美術館(大阪)にも巡回した「アンドレアス・グルスキー展」のカタログもそこに含まれていたりする。あいちトリエンナーレには行かなかったものの、横浜トリエンナーレには行ったという人だ。カテゴライズのバンドを極めて広めに取れば、「現代アート」の範疇にあると言えなくも無い数点の小作品も、店内のディスプレイとして置かれている。


3月下旬の事。その京都のヘアサロンで髪を切られながら、その「現代アート」好きの人に「PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭2015」の話を振ってみた。果たしてここから遠隔の「横浜トリエンナーレ」にも足を運ぶ「現代アート」好きのその人は、この「地元」で行われている「PARASOPHIA」のいずれの作品もまだ見ていなかった。店の極めて近傍にある「京都芸術センター」や「京都府京都文化博物館 別館」、況してや何時でも見られる「大垣書店烏丸三条店(ショーウィンドー)」すら「未見」なのである。毎日の自転車通勤でその傍を通る「堀川団地(上長者町棟)」にも足を運んでいない。


どうやら「現代アート」好きのその人は、「PARASOPHIA」の会場すらどこにあるかを良く知らない様だった。「京都芸術センター」からも、「京都府京都文化博物館別館」からも、「大垣書店烏丸三条店(ショーウィンドー)」からも、それぞれ数百メートルの位置にあるその店の周囲には、「PARASOPHIA」を想起させる何物も町中に存在しない。何かの足しになるのではないかと思い、市中では入手困難な――会場内では幾らでも手に入る――青色のガイドブックを渡した。


「始まる前は行かなければと思っていたんですけどね」


それでも低確率ながら「PARASOPHIA」を見に行く(行ける)かもしれないその「現代アート」好きの人に、一つだけ今回の展示の重要な情報を教えてしまった。それは嘗ての「ドリフ大爆笑」の「もしもシリーズ」が、「京都市美術館」では現実のものとなっているという事である。


いかりや長介が「この映像作品はどの位の長さ?」と聞くと、志村けんが「それは6時間ですよ。ご覧になりますか?」とさらりと惚けて返す。いかりや長介が「こっちの映像作品はどの位の長さ?」と聞くと、志村けんが「それも6時間ですよ。ご覧になりますか?」とさらりと惚けて返す。いかりや長介が「ここにあるの全部見るとどの位の時間?」と聞くと、志村けんが「見るだけで18時間はありますよ」とさらりと惚けて返す。いかりや長介が「開館時間は9時から17時までの8時間(注)しか無いよね。じゃあそれとそれとそれだけを少しずつ」と言うと、志村けんが「それじゃ本当に見た事にはなりませんけどね」と諭す(或いは客のいかりや長介に聞こえない様に小声で嫌味を言う)。


(注)開館時間が10時間の日もある。


この様な形に書き起こしてみれば、「京都市美術館」の展示はいかりや長介の「だめだこりゃ」で落ちて然るべきコントであると判るのであり、従って観客の心に相当に十分な余裕があれば笑うべき事態である。或いは京都の高級料亭の席にその店の厨房で出来る全ての料理がそれぞれ大皿で一度に運ばれて来て、その食べ切れない量に困惑する客を前にして、「当店がセレクトするところを見てくれれば分かる人には分かる」と一品一品がどれだけ素晴らしい料理であるかを長舌を振るって自慢気に解説する店の主人といった様な「ちぐはぐ(非合理)」な事態そのものを、「非常に珍らしいものを見せて貰った」と「有難く」思うべきものであろう。


そんなドリフのコントに「世界を一望する事は、誰にとっても原理的に不可能である」的な誰もが言えそうな付会を与えてガードを固める事は可能かもしれない。しかし「PARASOPHIA」という単なるアート・イベントの弁明の為にそれをしたところで些かも生産的なものになる訳では無いし、やはりそれはドリフのコントを体現していると思った方が余程良いのである。福永信氏のレビュー「第1回京都国際現代芸術祭のために」には、「京都市美術館」の展示に関して「詐欺」という語が複数回登場するものの、詐欺には騙すという明確な意志に基づく周到な計画というものが必要だ。しかしこれはそうした騙しを目的としたものではなく、単純に「アーティストリスト」に基づいて映像作品の時間を重ねていったら「あれれ」になってしまったという事なのだろう。


「PARASOPHIA」で観客がするべきは、「PARASOPHIA」の全イベントを通じてそこに見え隠れしている様々なフェイズの「ちぐはぐ(非合理)」を発見して行く事だ。その事によって、ひいては現実世界の様々な「ちぐはぐ(非合理)」に目を向けるプラクティスにはなるし、実際「PARASOPHIA」の多くの作品が見せよう(暴こう)とするものは、正にこうした現実世界の様々な「ちぐはぐ(非合理)」なのである。従って「あなたの芸術観が変わります!」などというのは本当にどうでも良い話なのであり、寧ろそうした口当たりが良さ気に見える「最先端の芸術に触れる」的な関わり方こそが、実際には「芸術」の持つ力を「啓蒙」の「善意」によってスポイルさせる最悪のものだと言える。



ヘアサロンでの施術が終わり、京都の町へ出る。石を投げれば相対的に美大生に当たる確率の高い京都。既に大学の春休みは始まっている。水も温む晴天の日。烏丸通に出る。「大垣書店烏丸三条店 ショーウィンドー」の向かいのエクセルシオールカフェ烏丸三条店辺りから、20分程そのショーウィンドーの中のリサ・アン・アワーバックとその前の歩道を行き交う通行人を、脳のズームレンズを広角側にズームアウトして観察していた。果たしてそこで立ち止まって作品を見る通行人は誰一人としていない。本当に誰もいない。そもそも世界の「ちぐはぐ(非合理)」をこそ見せようとするそのパネル写真を、その様なものとして認識している者もいない。


後になってショーウィンドー右脇下に美術館形式の相対的に地味なキャプションボードが貼られ、――看板や広告が生き馬の目を抜くラウドな町中でそれらの隙間に埋没して――ショーウィンドー内のパネル写真が「美術作品」である事を通行人に示す形にはなったものの、だからと言ってそれで何かが根本的に変わった訳では無い事を一昨日もその前を通って確認した。寧ろ「美術作品」であると示される事で却って見えなくなるものがある。「『美術作品』を見る」という身構えは、「それ以外の全てを見ない」という事に往々にして繋がってしまうからだ。



エクセルシオールカフェ烏丸三条店は「京都府京都文化博物館別館」の烏丸通からの「入口」でもある。そこから南に歩く事10分。四条烏丸で地下に入り、阪急烏丸駅の駅構内とその車内。その計約1時間で「PARASOPHIA」の青いガイドブックを持っている者には一人も遭遇しなかった。それは自分が見た「横浜トリエンナーレ」の時の横浜の風景とも、「あいちトリエンナーレ」の時の名古屋の風景とも大きく異なるものだった。

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要するに、お上がやるという感じを持たせるのは、それは京都ではないんですね。祇園祭などもみな町衆がつくったんです。この芸術祭も、あとから文化庁助成金を入れましたが、民間ベースで始めました。まず我々でやって、行政は後づけでやっていただくというのが本来の筋ではないかと思っています。日本人はそういうボトムアップのやり方ではあまりうまくいかないことが多いですが、市民が主体となってやった方が面白いという発想もあり得るんです。(PARASOPHIA: 京都国際現代芸術祭 組織委員会会長 長谷幹雄氏)


http://synodos.jp/culture/13599


今回の「PARASOPHIA」はオーガナイズに大いに難点がある。勿論初回で慣れていないという事はあるだろう。しかしもしかしたらそれは半ば狙ったものなのかもしれないし、或いはそれは単純に京都という町の持つ、内と外を分けたがる「城壁」的な志向性から来るものなのかもしれない。


「PARASOPHIA」は「メイン会場」の「京都市美術館」=「お上」に合わせる形で全会場の「休場日」が月曜日に設定されている。「公益財団法人」の二会場(「京都府京都文化博物館 別館」「京都芸術センター」)の「休場日」は元から月曜日だが、「堀川団地(上長者町棟)」やオープンエアの「河原町塩小路周辺」「鴨川デルタ(出町柳)」にまで「休場日」を設け、しかもそれを「お上」と同じ月曜日としたのは、実際的に「お上」を頂く形に「PARASOPHIA」があるからだろう。先述の「現代アート」好きの美容師氏は、この月曜日で横並びしている全ての会場の「休場日」に自身の店の「定休日」がぴったりと重なってしまう為に、「PARASOPHIA」に行く機会を予め奪われている。「開館時間」や「作品公開時間」もしっかり「営業時間」と重なっている。


京都市民(「城」の中にいる者)に対してその存在を広報しているのは、着物姿の門川大作京都市長の似顔絵が似合う「お上」の媒体が大半だ。市内で「PARASOPHIA」の相対的に判型の小さめなポスターが貼られている掲示板は、「お上」の息の掛かったものが大部分である。阪急や京阪や近鉄京福といった私鉄各線やバス路線が「PARASOPHIA」のポスターを掲示する事は極めて稀だが、市営地下鉄や市バスといった「お上」の交通機関は、それを駅構内やバス停留所を含めて「取り敢えず」的な掲示はしている。


最初に「PARASOPHIA」を訪れたのは、例外的に月曜日が「休場日」ではなかった3月9日だった――以下に書くのは基本的に3月9日時点での話という事になる。雨まじりの日。自分にとってのアクセスの容易性から「京都芸術センター」を最初に選んだ。降車駅は阪急京都線烏丸駅。「PARASOPHIA」のポスターは構内に一枚も見当たらない。あいちトリエンナーレの時には名古屋市営地下鉄駅構内にトリエンナーレ会場の位置を示す大きな地図が貼られていた。それを見ながらスマホGoogle Map アプリと照らし合わせる。それは町に不案内な自分にとっては必要な情報だった。


一方烏丸駅にはそうしたものは無い。四条駅にも無い。それどころかこちらへ行けという矢印も、どの出口がアクセスに便利かという掲示も無い。地図や地下鉄出口の情報が載っているガイドブックは会場に行けば貰える。しかしそうしたものは駅構内や駅周辺には置かれていない。道案内のボランティアが立っている訳でも無い。つまり最初の目的地に到着して初めてその目的地までのアクセス情報が手に入るのである。これもまた「ちぐはぐ(非合理)」と言えよう。


烏丸駅構内から「PARASOPHIA」のスマホサイトに接続し、出口22から出る事に決める。四条烏丸界隈には「PARASOPHIA」がこの近くで行われている事を伺わせる何も無い。街灯の支柱に「PARASOPHIA」の垂れ幕が下がっているといった様な、そうした「町全体で盛り上がっている」的な風景は皆無だ。実にひっそりとしたものであるし、まだ始まっていないのではないか、出る場所を間違えたのではないかという疑いすら起きる。烏丸通錦小路通の交差に矢印は無いし、錦小路通室町通の交差にも矢印は無く、ここにも道案内のボランティアはいない。付近の商店の軒先に「PARASOPHIA」のポスターを見掛ける事は殆ど無く、青色ガイドブックを置く店も無い。この界隈の道行く人を捕まえて「パラソフィア ハ ドコデ ヤッテイマスカ?」と訪ねても無駄な様な気がする。恐らく100%近くの通行人がその質問には満足に答えられないだろう(町興し的な「堀川団地(上長者町棟)」周辺だけは別)。人跡未踏のジャングルを踏破する様な、観客のアクチュアルなサバイバル能力が試されていると言えなくも無いものの、それを言う事はオーガナイザーに対して些か優し過ぎるのではないかと思い、その考えを引っ込めるに至った。いずれにしてもここに「町衆」感は欠片も無い。何処か隠れた所に「民間のお上」はいるのかもしれないが。



元明倫小学校。最初の会場。「序」であるから、展示(コンテンツ)については別稿に記す。オープンから3日目の3月9日の状態はこうだった。「PARASOPHIA」の会場である事を示す何物も無い(現在は奥の建物の壁の前の手摺に横断幕が見えるものの、会場がここである事を明確な形で伝える情報伝達力には大いに欠ける)。「PARASOPHIA」に金が無いとは聞く。この状態はそういう事情の現れなのだろうか。それとも別の理由、或いは理由にもならない理由(「ちぐはぐ(非合理)」)によってこうなっているのだろうか。


アーノウト・ミックを2時間程見て(その2時間で5人がやって来た。僅か5人である)会場を出る。この日の「展覧会ドラフト2015 PARASOPHIA特別連携プログラム」は、最初に見るべきと作家から指示されている展示が機器故障だった為に見る事を諦めた。そういう日もある。


各会場を繋ぐ横浜トリエンナーレのシャトルバス、あいちトリエンナーレのバスツアーやベロタクシーは、広報的な意味も担っていた。それらの非日常的な「宣伝カー」が市中に走り周り、その各拠点を線で結び付けるだけで、十分以上に「市民」にトリエンナーレの開催を印象付けていたが、「PARASOPHIA」にはそういうものは無い。



京都芸術センターではこういうものを渡される。痒いところに手が届くものを見るのは始めてだ。こういうものの現れこそが「想像力」の賜物というものである。但し次の会場「京都府京都文化博物館 別館」へは、「徒歩10分」(“10 min. walk")というたったそれだけの文字列だけを頼りに行かなければならない。「パラソフィア ハ ドコデ ヤッテイマスカ?」。これから外国人に道を聞かれても「何分歩け(“~ min. walk!")」とだけ言えば良い事を知る。そして後は「ええスマートフォン持ったはるなぁ(=そんなのは自分のスマホで調べろ)」と言えば良いのだろうか。



京都府京都文化博物館 別館」。ここが「PARASOPHIA」の会場である事を示すのは、入口奥の仄暗い空間に掲げられた青いボードだ。


京都市美術館」の最寄り駅、地下鉄東西線東山駅。凶暴な紫に襲われる。暴走するセルフイメージ/ナルシシズム。



改札を出ると床にこういうものが1枚だけ貼ってあった。



京都市美術館へは、徒歩約10分」。「右に行け」とも「左に行け」とも書いていない。そしてそれは日本語のみで書かれている。しかしだからと言って、ここでも “10 min. walk"で良い訳ではないだろう。「パラソフィア ハ ドコデ ヤッテイマスカ?」。


京都市美術館」へ向かう。界隈の「市民」が貼るポスターは、見事なまでに京都国立近代美術館の「現代美術のハードコアはじつは世界の宝である」(巡回展)ばかりだ。「PARASOPHIA」の「メイン会場」の「お膝元」だというのに。


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多くの美容師が現実的にそうである様に、その人もまた「美術の専門的な教育」を受けてはいない。「美術の専門的な教育」というのは、「美術の作り方」事だけではなく、「美術の読み方」を「学ぶ」事をも――或いはそれを最大の目的として――含まれる。「美術の読み方」を体系的な形で「学ばなかった」人の「現代アート」に対する興味の持ち方は、「美術の専門的な教育」を潜り抜けた者の「現代アート」に対するものとは多かれ少なかれ異なっている。言わばそれは、美術手帖(例)や大学の専門的な講義(例)、或いは「現代アート」の関係者間で成立している言説空間から入って行く「現代アート」の読み方の流儀ではなく、ヘアサロンの施術中に渡されるカルチャーマガジン――トラベルとグルメとカルチャーが一誌の中で同居する様な――に掲載されている「現代アート」紹介記事経由の様なもの、或いはミュージアム・ショップの商品越しから見える「現代アート」の様なものと言ったら良いだろうか。


2015年時点の日本で「美術の読み方」に「精通」していると自認する者が認識するべき現実は、「現代アート」の一定以上の大きなイベントに訪れる観客の「量」的な意味でのマジョリティが、こうした人達によって占められているという事だろう。四国汽船のフェリーに乗って瀬戸内海の島に「現代アート」を見に来る100万人(延べ)全てが、「美術の読み方」に「精通」している――或いは「精通」しようとする――人間であると考えるのは余りに可憐な認識というものだ。「現代アート」イベントの来場者100万人がいる一方で、民事再生法の適用申請をする美術出版社という現実がある。その100万人の大多数は、実売部数から盛りに盛った公称部数が「数万部」の美術専門誌を読む事は無い。彼等は、美術専門誌よりも相対的に「ライト」な媒体の「ライト」な紹介によって沸き起こった「ライト」な動機によって、瀬戸内海の島々に導かれて来ている。


所謂「地域アート」や「国際芸術祭」は、二つの成功によって計られるところがある。一つ目は「美術の読み方」に「精通」していると自認する者が評価する、企画面に於ける「美術」的な意味での「質」的な成功であり、二つ目は実質「美術の専門的な教育」を受けていない者がもたらす来場者数を始めとする「量」的な成功である。アートイベントが発するコードの「質」――「美術の読み方」に「精通」していると自認する者から見て――は極めて優れているが、来場者数は1,000人に届かないというアートイベント(仮定)というものが存在したとして、それは所謂「地域アート」や「国際芸術祭」として成功と言えるか否か。一方で「量」的な成功を第一の目的とする事は、しばしば「質」的な成功への道をスポイルするという考え方もある。来場者数100万人の内、99万9,000人が「誤った読み方」――「美術の読み方」を知っていると自認する者が判定する「誤った読み方」――をする観客で「膨れ上がる」アートイベント(仮定)があったとして――加えてその「膨れ上がった」状態こそが一般的に「地域アート」や「国際芸術祭」の成功の根拠とされていると仮定して――、その一方でその99万9,000人が足を運ばない/足を運ぶ気にさせない(読まない/読む気にさせない)来場者数1,000人のアートイベント(仮定)は、「良さ」の「実質」としては同じものになるのだろうか。


但し「美術の読み方」に「精通」していると自認する者の感度もまた、相互間に広い帯域幅の中にある。「最先端」とされている作品を見に行った――わあ誰某の作品だ、わあ誰某の作品だ。これを見た、あれも見た。それらを「各自の生活を美しくし(吉田健一)」たものとして、自身がこれまでに自分が見た「最先端見聞」コレクションの新たな一項目としてピン止めし、その記憶をリアクション/リプロダクションする事無く、またする気も無く、自コレクションのリストをコレクションのリストとして自慢気に披露はするものの、そのままひっそりと墓場に持って行く――という名所巡り的な演算処理が存在する一方で、その作品を見た事で自身の人生を根本からやり直そう、自身の社会への関わり方を根本から変えようとまで思ってしまう演算処理まで存在し得る。


そのいずれが「正しい読み方」であり、また「誤った読み方」になるのだろう。仮に作家が「この作品を見た者は生き方を根本からやり直して貰いたい」とか「この作品を見た者は社会への関わり方を根本から変えて貰いたい」と考えてその作品を作っているとして(多かれ少なかれ「アーティスト」にはそういうところがある)、観客が作品が様々な形で発しているコードを「正しい読み方」に従って作品に沿って読んだ上で、それでも自らの生き方を1ミリたりとも変化させない事を「誤った読み方」とする事も可ではある。或いは作家がそうした意図を持って作品を作っていないにも拘わらず、その作品を見た事で自身の生き方を根本からやり直そう、自身の社会への関わり方を根本から変えようとまで思ってしまう事を、「誤った読み方」の結果とする事も可ではある。果たして観客自らの人生がすっかり変わってしまう様な「誤った読み方」の出現の可能性は、1,000人も100万人も全く変わらないものであろうか。

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1993年の第45回ヴェネツィアビエンナーレで、金獅子賞を取ったハンス・ハーケ(Hans Haacke)の「ゲルマニア(Germania) 」を思い出している。それは彼の出身国であるドイツの「黒歴史」を扱った作品だった。しかし同時にそれはヴェネツィアビエンナーレ/イタリアの「黒歴史」でもある。1933年に政権掌握したアドルフ・ヒトラーの最初の外遊先が、盟友ベニート・ムッソリーニの待つヴェネツィアビエンナーレの会場だった。1993年の「ヴェネツィア」は、自らの「黒歴史」を扱った作品に金獅子賞を送るだけの「度量」を持っていたのである。


今回の「PARASOPHIA」開催に際して、その関係者は過剰なまでに「京都」を強調する。しかしその「京都」は例外無く口当たりの良い「白歴史」ばかりなのである。「京都」(事実上「洛中」)が「(権力の)中心」であった期間が歴史的に永きに渉るが故に、縁辺の「洛外」とその外側に広がる広大な地域との様々な非対称性から言っても、京都の「黒歴史」は千数百年分だけ存在する。しかし京都の「黒歴史」の部分になると「PARASOPHIA」の関係者は途端に口篭るか、ぼかした表現になってしまうのだ。


今回の「PARASOPHIA」では、フランツ・ヘフナー/ハリー・ザックスという二人のドイツ人が「河原町塩小路周辺」(ぼかし表現)に作品を設置した。ここは或る意味で「京都」に最も近い「洛外」の一つであり、且つ京都の多くの「黒歴史」の中の一つである。「あそこでやりたいの?(長谷幹雄氏)」という「民」のさらりとした言葉の裏にこそ、「PARASOPHIA」の観客は京都が今でも抱え持つ「ちぐはぐ(非合理)」の一つを嗅ぎ付けるべきだろう。


浅田彰京都造形芸術大学大学院学術研究センター所長:肩書)氏は「パラパラソフィア——京都国際現代芸術祭2015の傍らで」と題されたレビューの中で、「PARASOPHIA」を「国際芸術祭の中でも最もつまらない部類に入る」とした。その浅田氏が「この機会にぜひ訪ねたい」としたのも、京都の「ちぐはぐ(非合理)」が顔を覗かせる場所であるこの「洛外」だった。「河原町塩小路周辺」(ぼかし表現)が今回「PARASOPHIA」の会場の一つとなったのは、二人のドイツ人――「部外者あるいは異物」(ガイドブック解説文より)――の観察力によるものである。精神的に「洛中」の人である河本信治氏も長谷幹雄氏もそこは視界には入っていなかった。


京都には、日本の一部を背負っているという自負があるんです。未来をつくろうとするなら、まず京都が思考と創造のプラットフォームにならなければならない」と河本信治氏は言う。しかしその「日本の一部を背負っている」という「自負」は、例えば沖縄県が「日本の一部を背負っている(背負わされている)」現実とはレベルが全く異なるところで成立している。


京都は「PARASOPHIA」を開催する事で、いつかは「ヴェネチア」になりたいらしい。しかしそこまでになるには相当な「度量」が必要になる。意外に思うだろうが志村けんにはその「度量」が備わっている。志村けんはナルシシックなセルフイメージ=「白歴史」=先人の七光ばかりを語りたがる自慢ばかりの人ではない。世の中には他人から笑われる事(視点の相対化)で何かを表現しようとする「度量」というものがある。そして確かに1993年の「ヴェネチア」にはそれがあった。


これからの「国際展」を開催する都市に真に求められるのは、自己観察に基づく自己肯定という「非合理」な「ナルシシズム」ではなく、開催都市自身による透徹した「自己批判力」=「合理の力」だ。そもそもが「国際」という近代的な概念自体が、「自慢」とは相容れない「合理/合意」の形成に基づくものなのである。

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長過ぎる「序」を終了する。


【続く】