バーネット・ニューマン 十字架の道行き


[...] if you are involved in the world. you cannot be an artist. We are in the process of making the world, to a certain extent, in our own image.


... もしこの世界に巻き込まれているのなら、あなたは芸術家である事は出来ません。私達は、自分自身のイメージを以って――ある程度までは――世界を作り上げて行くプロセスの中にいるのです。(拙訳)


Barnett Newman "Remarks at Artists' Sessions at Studio 35"(1950)


MIHO MUSEUM の2015年春季(3/14〜6/7)。「バーネット・ニューマン 十字架の道行き」展をメインの目的にした、2015年一回目の MIHO MUSEUM には車を運転して行った。しかしその道行きは 、JR 石山駅から帝産バスに乗って行った方が良かったのではないかとすぐさま後悔した。


車の運転は運転行為そのものに集中しなければならない。名神高速道路や国道1号線側から MIHO MUSEUM に行く場合、特に県道16号線や県道12号線には車を運転する者にとっては意地悪く現れる幅員減少の箇所が複数あり、ブラインドコーナーから現れる対向車の存在に常に神経を尖らせられる。こうした運転の為だけに費やされる精神的緊張は、この県道に慣れている帝産バスの人に往復1,640円也で任せるべきだと痛感した。それ故に「曾我蕭白 富士三保図屏風と日本美術の愉悦」/「常設展示」をメインの目的にした二回目は帝産バスに載せられて行く身になった。


道行けば次第にモバイル端末の電波は弱くなり、やがてその板状の物体は実用的なものではなくなる。電波の届く場所での板の中で人が演じているもの、板の中で人が信じている未来は、ここではすっかり背中の側に追き去りにされる。商業的なものがバスの窓外の景色から次第に退場して行き、地球上の殆どの面積を占める商業が入り込めない場所と同じになる。ここから先に貨幣が有用なものとなるのは、MIHO MUSEUM の敷地内及び帝産バスの運賃箱に於いてしか無いのだろう。帝産バスに乗る事。これは片道50分を掛けて入って行く、何かへの長大なエントランスなのである。


帝産バスの中では「暇」そのものにひたすら浸かる。映画チケットとほぼ同額の1,640円は、「暇」になる為に払うものでもある。ローコストな無線ネット環境(2000年代)が地球上に普及して「関係」の依存症が増える前、ローコストなポータブル・オーディオ・プレーヤー(例:SONY TPS-L2:1979年)が地球上に普及して「音楽」の依存症が増える前、またはローコストなポータブル・トランジスタ・ラジオ(例:SONY TR-63:1957年)が地球上に普及して「情報」の依存症が増える前は、世界はこうした「暇」ばかりだったという記憶が自分にはある。19世紀に突如出現した鉄道旅行者という新種の人類向けに、それまでは不動産に縛り付けられた存在だった書物に代わって、ローコストなポータブル書籍(例:19世紀の yellowbacks)が印刷技術の発展と共に地球上に普及して「文字」の依存症が増える前は、世界はもっと「暇」だったのだろう。


「暇」な時に人の頭に浮かぶのは、「自分はどこにいるのか」とか、「これ以上に説明のいらないものは何か」といったものばかりで、「暇」に浸っていた数十年前の自分もまたその様な「問い」で頭を一杯にして悶々としていたものだ。しかし「暇」の駆逐を良しとする世界では、そうした悶々を電波が通じた板を通して軽々にもサーバにアップロードすれば、世界中の「暇」を持て余した人々がそれを「質問」であると勝手に思い込んで、自身で導き出した訳でもない出来合いの「正解」を親切に教えてくれる。


時にはそうした「正解」が、今日の芸術家の制作を効率的なものとするかもしれない。確かに Wikipedia に載っている様な「正解」を素材の一つにする事で制作が効率的になれば、芸術家は多くの作品を生産出来る。しかしそうした効率化され得ない悶々こそが、「圧倒する問い(overwherlming question)」である「答えを持たない問い(question that has no answer)」としての「起源の問い(the original question)」(バーネット・ニューマン)なのである。そしてこれから向かう山中の「Shangri-La」に2015年時点で保管されている数千年分のものこそは、そうした「圧倒する答えを持たない起源の問い」によって生まれたものばかりなのだ。

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「十字架の道行き(“The Stations of the Cross")」の「連作」が描かれたのは、バーネット・ニューマンがニューヨーク・マンハッタン島のイーストリバーから、フランクリン・D・ルーズベルトイースト・リバー・ドライブ(1955〜)/サウス・ストリートを隔てた、フロント・ストリートとウォール・ストリートが交差する “100 Front Street" にスタジオを構えていた時代(1952〜1968年)に当たる。それ以前のニューマンのスタジオは、リンク先ストリートビューで奥に見える交差点を右に曲がってすぐの “110 Wall street" にあった。



1950年代から1960年代に掛けてのニューヨーク・マンハッタン島と言えば、当時のパリやロンドンや東京などとは比べ物にならない「世界の中心」だった。そのニューヨーク・マンハッタン島でバーネット・ニューマンは生まれ、彼の居住環境と制作環境は、常にその島内の西に東に南にと留まっていた。この「世界の中心」の外に出る必要性を、彼は終生感じた事は無かったのだろう。バーネット・ニューマン財団のクロノロジーを辿る事で強く印象付けられるのは、彼が紛れも無く「現代」の「都市」の人という事である。恐らくマンハッタン島よりも制作環境としては恵まれたスペースを得易いだろうロング・アイランド(Jackson Pollock & Lee Krasner の様に)ですら、彼は居住/制作出来る人では無いのだ。彼の言う「アメリカ」は、東京都世田谷区(58.05 km²)とほぼ同じ面積の――21世紀の現在ならば何処へ行っても板が有用なものになる電波が通じる――僅か58.8 km²ばかりの島と同義なのである。


I feel that I'm an American painter in the sense that this is where I love to live, was born, and this is where I've developed my ideas, and so on. At the same time, I hope that my work transcends the issue of being an American. I recognize that I am an American, because I am not Czechoslovak, and my work was not painted in Czechoslovakia or in Hungary or in India. But I hope that my work can be seen and understood on a universal basis.


ここが私が住むところとして愛している場所、生まれた場所、そしてここが私が自分の考えを発展させて来た場所である等々といった意味に於いては、私は自分自身をアメリカの画家であると感じています。しかし同時に、私は私の作品が一人のアメリカ人による所産であるという難点を乗り越える事を望んでいます。私はチェコスロバキア人では無いという理由で自分を一人のアメリカ人だと認識していますし、私の作品はチェコスロバキアハンガリーやインドで描かれたものでもありません。しかし私は、私の作品が普遍的な基盤の上で見られ理解され得る事を願っているのです。(拙訳)


Barnett Newman: “Interview with Emile de Andonio"(1970)

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「『都市』ではないところ」で「活動」する「現代美術」家が往々にして陥りがちなのは、「現代美術」が「『都市』ではないところ」で自足的に成立可能なのではないかという撞着的な認識だ。しかし悲しい事に「『現代』の『美術』」としての「現代美術」というものは、どこをどう引っ繰り返してみても近代以降の「都市」文明の産物であるが故に、常に「都市」に従属/依存するものなのである。


現実に即して言えば「現代美術」を志す者は、必ず近代的な「都市」そのものか「都市」化された場所にそれを学びに行かなければならない。そして「現代」の「都市」の思考法を身に付けてそれぞれの場所に戻り/赴き、「現代」の「都市」の思考を「普遍」と言い換えてその土地土地で「宣教」するのである。「『都市』ではないところ」で行われる「現代美術」は、常に「現代」の「都市」との距離感で自らの位置を定め、且つ「現代」の「都市」に対して「宣教」の者たる自分達の存在を痛々しい程にインフォメーションする。


単なる時間的な現在性ではなく「現代」が語られる時、人は「世界の中心」という仮構をその認識の軸に常に据えている。語られている多くの「現代」から一切の「世界の中心」という観念を抜いたら、後には一体何が残るだろうか。帝産バスの窓外に展開する風景そのものからは、所謂「現代」は構築し得えず、それでもそこに無理矢理「現代」を見ようとすれば、それは必ず「世界の中心」から導き出される相対的なものとしてしか認識されない。


従って仮構としての「世界の中心」が存在しない事には、近代「都市」文明の産物である「『現代』の『美術』」としての「現代美術」も成立しない。そして仮構上ですら「世界の中心」が成立し難くなって行くに従って「現代」を語る事は困難になり、であればこそその様な意味での「現代美術」の成立も厳しいものになって行く。「現代美術」の入門書に載っている様な「現代美術」の時代は、「現代」という措定が可能だと思われていた「古き良き時代」だったのである。


「現代」という魔法の言葉が「誰得」であるかと言えば、それは一も二も無く「世界の中心」にとってのものでしか無い。今更ながらに「現代」という言葉を使える者は、多かれ少なかれ「世界の中心」の延命の為にそれを口にする。「地域アート」と呼ばれる企図の多くが何よりも最初に行うのは、あらゆる手を使って、地域に対して「現代」という仮構を受け入れさせそれに従わせる事だ。「現代」に乗り遅れるなと脅しつつ。


「現代」に於ける「問い」は、数千年前から存在し続けている様なもの(多くは「解決済み」とされている)であってはならず、常に「新奇」なものでなければならない。

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脱線が長くなった。今回の MIHO MUSEUM での「春季特別展 バーネット・ニューマン 十字架の道行き」の展示は、或る意味で非常に野心的なものにも見える。それは「現代」という言葉がすっかり枯れ切ってしまったこの時代に、事もあろうに「現代美術」の入門書で取り上げられる様な「現代美術」作家の作品を、「世界の古代美術」が展示されている常設棟の一角(「南館」地下一階。通常は「中国・ペルシャ」の古代美術のエリアの一室)で展示したというところにある。



常設棟・地下一階のミュージアムショップの向かい側の、135度の角度で折り曲げられた三面の壁には、「十字架の道行き」連作の「第一留」のジップ部分が大きくプリントされ、そこには “Barnett Newman/ THE STATIONS OF THE CROSS/ lema sabachthani" (“/" は改行を表す)と書かれている。「第一留」のロウ・キャンバス部分を表してもいるだろう中央の白い壁に、展示室へと向かう入口が開口していて、その入口奥の黒い仮設壁には、バーネット・ニューマンの天地一杯のポートレートがそこに入ろうとする者を見つめている。この設えから言って、この入口を入れば「現代美術」の「バーネット・ニューマン」しか展示されていないだろうと、特に「十字架の道行き」目当てにこの「桃源郷」まで赴いて来た観客は思う事だろう。




バーネット・ニューマンのポートレートが掲げられた黒い仮設壁の右側は、確かに20世紀に描かれた「十字架の道行き」の展示室になっている。しかしその左側はと言えば「イラン文化の東漸 唐の国際文化 イスラムに受け継がれたもの」とそれに続く「東西の楽園」の展示室になっていて、概ね5世紀〜13世紀の「現代」でもなければ「美術」でもないもの(遡行的に「美術」にも見えてしまうもの)がそこには展示されている。簡単に言えば、バーネット・ニューマンのポートレートを挟んで、右ウィングがバーネット・ニューマンによる20世紀アメリカ美術、左ウィングがアノニマスな古代東洋「美術」という会場構成だ。人によっては、それが乱暴な会場構成に見えるかもしれない。


「十字架の道行き」の14枚+1枚だけで構成される、ワシントン・ナショナル・ギャラリーを彷彿とさせる円環的構成の企画展という側面と、美術館建物の構造上の問題(南館の「南アジア」の部屋では狭く、「エジプト」の部屋や「西アジア」の部屋では、奥の小スペースがデッドになってしまう。企画展専用の北館にはそもそも円環状の「十字架の道行き」を独立した展覧会として見せられる場所が無い)という実務上の問題もあっての展示室の決定であり、且つ常設展との入口の共通化という結果になったと想像されたりもするのだが、いずれにしてもそれは結果的にバーネット・ニューマンから「現代」及び「美術」を一旦棚上げさせる事に繋がっている。即ち “I hope that my work can be seen and understood on a universal basis(私は、私の作品が普遍的な基盤の上で見られ理解され得る事を願っているのです)" という作者の言葉に対し、冷徹にも数千年の厚みを持つ「普遍的な基盤」の内に、20世紀「アメリカ」精神の所産を半ば力ずくで挿入する事で、他ならぬバーネット・ニューマンに後戻りの効かない「有言実行」性を持たせる形にしたのではないか。

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「バーネット・ニューマン 十字架の道行き」展を常設棟にして、企画棟では「曾我蕭白 富士三保図屏風と日本美術の愉悦」展が行われていた。極めて良さのあるものだ。個人的には「金銅舎利容器(13世紀)」や「石棺(年代不詳)」等は、バーネット・ニューマンよりも「泣けた」。


同展会場入口には当館の辻惟雄館長の挨拶文が掲げてある。一読して、この文章は展覧会のみならず、他ならぬこの MIHO MUSEUM とそのバックグラウンドについて書かれたものである事が判る。不思議な事に「曾我蕭白 富士三保図屏風と日本美術の愉悦」展の挨拶文であるにも拘らず、そこには「バーネット・ニューマン 十字架の道行き」展にも多くが割かれている。


曾我蕭白 富士三保図屏風と日本美術の愉悦」展・展示室内の作品解説文は、その多くが当館の学芸員によって書かれているものだが、これもまた MIHO MUSEUM とそのバックグラウンドについて書かれたものとも言えるだろう。そればかりか、何処かで「十字架の道行き」に繋がりそうに思える記述も幾つか見られる。


館内を歩き疲れたので、ミュージアムショップ横のソファに座り、「十字架の道行き」のカタログを眺めていたら、巻末付近にこの様な記述があった。


バーネット・ニューマン テクスト抄の編集について
この項では、バーネット・ニューマンの文章を下記の方針によって抄出した。バーネット・ニューマンとその作品をより深く理解するための手がかりになると考えられるもの、さらに、本展がMIHO MUSEUMで開催されるにあたり、その展示環境が生み出す新しい成果を期待し、同館の精神性と呼応するものを取り上げた。


高橋夕美恵(MIHO MUSEUM学芸員)編集
三松幸雄(明治大学多摩美術大学 兼任講師)編訳


「同館の精神性と呼応するもの」。やはりこれは、川村記念美術館にあった「アンナの光」以上に、バーネット・ニューマンから「現代」と「美術」を超脱させる事を意図した展覧会だったのだ。或る意味で、ロケーションを含む MIHO MUSEUM 全館、全コレクション、そして別の企画展すら総動員してそれは行われているとも言える。


この展覧会が、例えば六本木ヒルズの「森美術館」で行われていたら、それは全く違ったものに見えたのかもしれない。そこでの「十字架の道行き」は、「起源の問い」や「普遍的な基盤」に隣り合わされて脅かされる事無く、「現代」と「美術」に手厚く守られたものになるだろう。それによって、「森美術館」の観客は「現代」の「美術」に「描かれているもの」に対して集中出来る事で、それに関するお喋りを始めるに違いない。


MIHO MUSEUM に於いて初めての「現代美術」の展覧会である「バーネット・ニューマン 十字架の道行き」。しかし「現代美術」作品が MIHO MUSEUM で展示されるには、或る意味で作品が「資格」を備えていなければならない。それは例えば「現代に生きる琳派」的なものでは到底追い付かないものだ。恐らくは MIHO MUSEUM に於いては、多かれ少なかれ「現代美術」作品は、「現代」と「美術」を脱がされる事になる。そうした意味での「裸」に一定以上の「自信」が無いと、とてもでは無いが「持たない」所なのだ。

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帝産バスで山を降りて行くと、やがて電波を得た板の中に「現代」と「美術」が戻って来た。そしてそれは、すぐさま別の「現代」と「美術」に上書きされた。