換骨奪胎


Somebody stole my gal
Somebody stole my pal
Somebody came and took her away,
She didn't even say she was leavin';
The kisses I loved so,
She's getting now I know
And gee! I know that she
Would come to me if she could see
Her brokenhearted lonesome pal
Somebody stole my gal.


"Somebody Stole My Gal(誰かが俺の女を盗った:1918年)" という曲がある。"Leo Wood(レオ・ウッド 1882〜1929)" という20世紀初頭に活躍したアメリカのポピュラー音楽作曲家によって作曲された、恋人を奪われた男性の「悲しみ」を表現する楽曲であり、1935年(昭和10年)にはディック・ミネが「君いずこ」という題名で、自らの訳詞による歌唱でカバーしているものの、戦後日本に於いては、それをアメリカのジャズ・トロンボーン奏者 ”Pee Wee Hunt(ピー・ウィー・ハント 1907〜1979)" がディキシーランド・ジャズ風にアレンジしたもの(1954年)のみが専ら知られる事になった。


ここではその「ピー・ウィー・ハント」のオリジナルではなく、1954年の「インプロービゼーション」まで忠実に「完コピ」された2012年の「陸上自衛隊中央音楽隊」による演奏の動画を敢えて貼っておく事にする。動画を再生した瞬間から、それが多くの日本人にとって非常に「有名」な曲である事が知れるだろう。しかし日本人が受けるその楽曲の印象からは、「恋人を奪われた男性の『悲しみ』」はもとより、決して「アメリカ合衆国ルイジアナニューオーリンズ(「ディキシーランド」)」の風景も浮かびはしない。この楽曲には、「ビリーボーン楽団」によるアレンジや、「ディーン・マーティン」の歌唱等による多くの他バージョンが存在するものの、日本人にとってこの楽曲は「ピー・ウィー・ハント」のアレンジ以外であってはならないのである。



約1世紀前に作曲された「男の失恋」を歌う「アメリカ」のポピュラー音楽を、「戎橋のグリコ」から「通天閣」位までの全長1キロ程の「大阪」を表象する「ホンワカパッパ ホンワカホンワカ…(関西人による擬音化)」な「ホンワカ」音楽としてしまう「換骨奪胎」がここには存在する。「完コピ」であっても、或いは寧ろ「即興」すら律儀にトレースしてしまう「完コピ」であればある程、彼我の間に存在する非対称性を埋めるどころか、より浮かび上がらせてしまう。


陸上自衛隊中央音楽隊」による演奏が始まった瞬間から、聴衆が求めるのは「テレビのまま」であり「テレビから外れない事」である。「テレビ」から少しでも外れれば「瑕疵」と取られてしまう様な「即興」というのも辛い。恐らく「オリジナル」の「ピー・ウィー・ハント」は、レコーディング直後からその演奏スタイルに絶えず変更を加えている筈だ。「来日アーティスト」の演奏が、日本の客席が心密かに期待している「最初の音源」のものとは常に異なっている様に。しかし「完コピ」の立場にある者には、或いは「完コピ」をこそ求められる立場にある者にはそうした「裁量」を持つ権利は存在しない。カラオケでは「本物」が歌わなくなって久しい「本物そっくり」である事が求められ、日本全国の「ギター少年/少女」を始めとする所謂「ロック少年/少女」は、「オリジナル」の「最初の音源」を細部の細部まで忠実にトレースし、「1972年のリッチー・ブラックモア(例)」を反復し続ける事を良しとする。それは「典型」として永久に保存されるものの、しかしその「典型」は、「小京都」や「戸越銀座」の如き「遠隔」的「周縁」からの「観察」に基づく「解釈」の産物である。そして日本の「リッチー・ブラックモア(カタカナ)の 『スモーク・オン・ザ・ウォーター(カタカナ)』(例)」や「国技館すみだ第九を歌う会の『フロイデ(カタカナ)』(例)」もまた、何処かで「ピー・ウィー・ハントの『サムバディ・ストール・マイ・ギャル(カタカナ)』」と同程度に、コンテクスト的な「換骨奪胎」なのであろう。

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心に迫るような圧倒的な空気感に思わず息を飲む「ロイヤル セントヨーク」の大聖堂。800年以上も前から英国で愛され続けている歴史ある大寺院「ヨークミンスター」の洗礼を受けた荘厳かつ正統な場所。高さ18mの天井に高らかに響き渡るトランペットのファンファーレ、8人の聖歌隊による賛美歌、正面のステンドグラスが放つ極彩色の光に導かれ誓い合うふたり。そして全ての音が止んだ瞬間に訪れる静寂の深さ。本物だけが持つ厳粛な雰囲気の中で粛々と行われるセレモニーは、列席者の心にも深い感動を残す。


静岡ウェディング
http://www.shizuokawedding.net/rsyork.html


静岡県静岡市駿河区寿町の街並みに建つ結婚式場「ロイヤル セントヨーク」(2005年竣工時撮影)


ヨークミンスター周辺


ハウステンボス」の様に、周囲を全てヨークの街並み風に変えてしまえば、幾らかでも「滋味」は回避出来ただろうか。しかし「ハウステンボス」自体が、「ホテル挙式の牧師」の如くに極めて「滋味」の対象ではあるのだ。


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昭和40年(1965年)に大阪府門真市に本社を置く松下電器産業(現パナソニック株式会社:当時の国内ブランド名「ナショナル」)が発売したテレビ「嵯峨」は、所謂「家具調テレビ」ブームの先駆けとなった。



尺八の音に乗せて、京都府京都市右京区嵯峨野と思しき「竹林」から始まる昭和40年のテレビ CM には、「日本伝統の優雅な美しさを見事に盛り上げたナショナルテレビ『嵯峨』。ウォールナットの肌合いを活かしたディザイン。黄金シリーズの高性能。ナショナル人工頭脳テレビ『嵯峨』は通産省選定のグッドディザイン商品です」のナレーションが被せられ、「コッテコテ」に盛られた「ギャグ」の出現数を是とする「吉本新喜劇」を思い出させもする「盛り上げた」という言葉が、ここでは「ディザイン」上のプラスイメージを表すものとして使用されている。そしてその「盛り上げた」を、昭和40年の「通商産業省」は「グッドデザイン」とするのである。


大阪を始源とする「家具調テレビ」という日本独自の進化形態もまた、「西洋科学技術」の「換骨奪胎」である。襖に畳の部屋が「居間」のスタンダードであった頃のテレビは、住環境の「闖入者」的存在だった。今でこそ「和室」に「ビエラ」や「アクオス」や「ブラビア」でも全く違和感は感じないが、しかしそれは、馴致によって感覚が鈍麻したからであるとも言えなくは無い。「『和室』に『ビエラ』」を一歩「引いて」見れば、それは未だに「『静岡の街並み』の『ゴシック建築』」の様なものに見えるだろう。しかし昭和30年代にテレビが最初に日本家屋の「居間」に現れた時、確かにテレビは誰の目にも「『静岡の街並み』の『ゴシック建築』」だった。


日本に於ける民生テレビの初期の仕様には、画面の前に観音開きの扉が付いていたりもしたが、これは「仏壇」に替わる「異界」への入口として、テレビが生活の中に入って来たという経緯が関係している。テレビは「置換」の対象であり、その結果「仏壇」もまた「置換」の対象となる。「仏壇」の扉と同じ様式の扉を備えていたテレビ(昭和40年代に至るも学校のテレビにはそれが装備されていた)は、やがて劇場や映画館を彷彿とさせる「幕開け」と「幕引き」の儀式を伴う「繻子」の「緞帳」に置き換えられたが、それもまたテレビという「闖入者」を迎え入れる為の試行錯誤の一つの形と言える。


「家具調テレビ」はそうした試行錯誤のひとまずの完成形になる。テレビ受像機が像を結んでいない間、テレビは受像機である事を止め、「天童の王将駒」や「日本人形」が置かれたりもする「置台」という「家具」に「擬態」する。「家具調テレビ」は「コノハムシ」や「ナナフシ」の様なものなのである。「日本伝統の優雅な美しさを見事に盛り上げた」技術の全ては、それによって「テレビ」という「西洋科学技術」を「現す」のではなく、ひたすら「隠す」為にある。テレビ CM の中の「嵯峨」には「電源」が入れられていない。その宣伝はテレビの「家電」としての機能を決して見せず、専ら「家具の擬態」を売る為にこそ存在する。



「ゼネラル」社による「テレビはもう芸術品です」というのは、「番組」が「芸術品」である事を意味してはいない。東京(ソニー)の「テレビ」は「西洋科学技術」である「ソリッドステート」が前面に出されるが、大阪(松下)の「テレビ」では「人工頭脳」は二の次である。そして昭和40年代前半の日本の市場は、時に「ルイ14世(カナ交じり)」と「隷書」で表現された「王朝」で表されもする、「テレビの機能も備えた『置台』」である「芸術品」=「家具の擬態」を圧倒的に支持したのである。


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例え何があろうとも、関西ではその高級イメージが揺るがない「阪急」ブランドの、「阪急電車」の多くの車輌の車内は、「家具調」的「木目調」の化粧板が施された「昭和」的な「高級」が未だに残っている。その「阪急電車」の車内や駅掲示板に、2013年11月から貼り出されている吊り広告、ポスターがある。



「皇帝ナポレオンの愛と生涯を、ミュージカル化。100周年に宝塚歌劇が総力を挙げてお送りする超大作」という触れ込みの「宝塚歌劇団・星組公演/眠らない男・ナポレオンー愛と栄光の涯(はて)にー」(宝塚大劇場公演 2014/1/1〜2/3、東京宝塚劇場公演 2014/2/14〜3/29)の告知である。


当然ここから想起されるのは、「ジャック=ルイ・ダヴィッド」の「アルプスを越えるナポレオン」(1801年)と「皇帝ナポレオン1世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠式」(1805-07年)の二葉の絵画作品である。そして「日本現代美術」に些かでも明るければ、ここから即座に「森村泰昌」という名前を思い浮かべるかもしれないし、更にそこに "photo by Leslie Kee" の文字列を認め、「レスリー・キーってこういう事をやっちゃう人なんだ」という感慨のおまけ付きという物件でもある。



おまけの「レスリー・キー」はどうでも良いとしても、改めて「宝塚」にこれをされてしまうと「かなんわ」である。「人種」も「民族」も「ジェンダー」も全てすっ飛ばすというのは、100年前から「宝塚」が連綿と行ってきた事であり、しかもそれは「扮装」の段階に留まらず、「独自の解釈」で「エンタテイメント」にまで仕立て上げ、その上で365日「外国人」に囲まれて生活しているブラジル日系人が「何処から見ても外国人」と言ってしまう「完成度」の高さを誇り、しかも「ライト」「コア」を問わず、それを「憧れの対象」とする極めて多くの熱心な「ファン」の形成にまで至っている。100年の歴史を誇る「宝塚」にとって、「『ジャック=ルイ・ダヴィッド』になる」事などは極めて「通常業務」の範囲内にあり、多くの「美術」の参照先が「宝塚」も属する「エンタテイメント」産業である以上、「宝塚」の全体から引き出されるものは「美術」よりも遥かに広範で豊富であり、その点で全く「かなんわ」なのである。



「えっ 全員女性?? 宝塚歌劇団 世界の反応」ジパング
http://jipangnet.blog.fc2.com/blog-entry-26.html

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「ピー・ウィー・ハント『による』吉本新喜劇のテーマ」、「静岡市駿河区寿町の大寺院『ヨークミンスター』の形をした結婚式場」、「『オランダ』風の街並みを持つテーマパーク(ハウステンボス)」、「ホテル挙式の『牧師』」、「日本伝統の優雅な美しさを見事に盛り上げた『西洋科学技術』の家具調テレビ」、「『黄色人種』による『白色人種』劇としての宝塚」。しかし「仏教伝来」以来の日本人にとって、そうした「換骨奪胎」は「体質」的なものであるとも言え、或いは「換骨奪胎」という名の「ちぐはぐ」こそが、「日本文化」の説明原理となり得るかもしれない。

あいちトリエンナーレ 2013


名古屋市営地下鉄桜通線名古屋駅の壁面には、幅62.38メートル × 高さ2.17メートルの「高松次郎」がある。1989年制作の「高松次郎」のタイトルは、「イメージスペース・名古屋駅の人々」だ。現在は「東京三菱UFJ銀行」となった、嘗ては中京地区唯一の「都市銀行」であった「東海銀行(1941〜2002年)」の寄贈になる。



自分の血の半分は名古屋だが、名古屋に居住した事は無い。従って名古屋の住民がこの「バブル」時代の「高松次郎」をどう思っているかは判らないが、「よそ」から来た者にとっては非常に好ましい風景にも見える。その好ましさは「『高松次郎』だから」以上の理由による。


「高松次郎」は愛知県出身ではない。東京の出になる人であり、東京藝術大学卒の人であり、言わば名古屋にとっては「よそもの」である。その「よそもの」が、名古屋の「表玄関」である「名古屋駅」の壁面を独り占めしている。これが「荒川修作(愛知県名古屋市出身)」や「河原温(愛知県刈谷市出身)」であれば、その起用はまだ判らなくは無いとも言えるが、それでも仮にそのどちらであっても、「地方」の文化状況や公共デザインに多く見受けられもする、「地元」出身者の「重用」をこそ最優先するといった印象は皆無だと思われる。何故ならばその両氏は「名古屋人」や「愛知人」ではなく、現実的に言って「ニューヨーク人」だからだ。彼等はさっさと「愛知(日本)」という「地元」を見捨てて行った人達なのである。従ってその何れかに落ち着いた場合でも、名古屋市営地下鉄桜通線名古屋駅の壁面は「ニューヨーク人」という「よそもの」による作品と見られるだろう。


こうした場所に「よそもの」が存在している事は、その町が風通しの良い「都市」である事のプレゼンテーションとして非常に重要だ。「都市」的な意味での町の「レベル」を上げるには、当然「地元」の力だけでは実現不可能であり、従って「よそ」からの「人材」や「資本」の流入が不可欠となるが、それにはその町が「排他性」を持たない事が絶対条件である。「よそもの」は「地元」出身者に比べて成功のチャンスが低いとか、「よそもの」は「地元」のルールに合わせるべきであるとか、「よそもの」は「地元」の文化に同化せよとか、「よそもの」は「地元」のイニシエーションを受けろとか、「よそもの」は「地元」の刺身のツマ程度の存在であれば良いなどと、些かも思ったりしないのが「都市」というものである。


そもそも「都市」には「地元」という概念自体が存在しない。「ニューヨーク出身者」や「東京出身者」を「『地元』出身者」として優先的に「重用」する様なニューヨークや東京はあり得ない。仮にそうであれば、誰もニューヨークや東京に自らの成功を求めて行こうとしたり、ビジネスの相手として相応しい地であるとは思わないだろう。その「地」の出身者である事に、些かのメリットも与えないのが「都市」である事の最低条件だ。「地元」であるという理由でそれを「重用」し、「地元」以外のものを一切認めない「風土」ばかりであったら、「愛知」の「誇り」である「トヨタ」は、アメリカのフリーウェイ走行で、走った途端に危機的になる様な車(クラウン)を未だに作り、メッキ部品でデコレートしたそうした車を、国内(「地元」)需要向けに「高級車」と称して製造販売し続けていたに違いない。勿論「都市」を無上の価値としている訳では無い。「都市」にはなりたくない、「都市」的な「レベル」を上げたくないという選択は当然自由であるから、そうした地は「同質性(排他性)」や「自律性(閉鎖性)」を持つ代わりに、「都市」であろうとする事を捨てれば良いだけの話である。

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事実上「現代美術家」である事から離れて30年程経つ大学の同級生がいる。その人物は、2007年に「国立新美術館」で行われた「安齊重男の”私・写・録(パーソナル フォト アーカイブス)”1970−2006」展で、その仕事の幾つかが紹介されている位には「活躍」していた作家だった。


1970年代、学部生時代のその「名古屋」出身の人物の持論は「名古屋が日本で最も世界に近い」だった。曰く「東京のアーティストは、東京で一旦それなりに成功するという『予選』を突破した後に、本人にその気と余裕と才覚があれば、『決勝戦』である世界へと目を向ける。関西のアーティストは、関西でそれなりに成功するという『一次予選』を突破した後に、本人にその気と余裕と才覚があれば東京に発表ベースを移し、東京でもそれなりに成功するという『二次予選』を突破した後に、本人にその気と余裕と才覚があれば『決勝戦』である世界へと目を向ける。しかし東京も関西もそれなりに『都市』であるから、多くのアーティストは東京や関西を成功の『最終ステージ』であると見て自足してしまい、その結果、世界という『決勝戦』に中々目が向かない。しかし名古屋は違う。名古屋は極めて中途半端に『都市』である一方で、『大いなる田舎』であるから、現代美術という『都市』文化で成功する為のステージそのものが存在しない。そこに留まっていても全く意味が無い。勢いキャリア・スタートの時点から外の世界に向けて目が向く事になる。そこで見る外の世界は、東京、或いは世界という事になるが、名古屋から見れば或る意味でどちらも同じに見える。初めから世界を視野に入れているのであれば、東京での成功という中途半端を省略して、世界にダイレクトに行くという選択もされる。従って名古屋が日本で最も世界に近い」という御説であった。そしてその実例として、氏は「愛知(日本)」を捨て去った「荒川修作」と「河原温」を上げていた。

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「あいちトリエンナーレ2013」閉幕直後の2013年10月28日から29日に掛けて、「地元」の「地方新聞」である「中日新聞」に、「記者座談会」と称した記事が掲載され、関係者間で大いに話題となった。記事の末尾には「この対談は文化部・黒谷正人、宮川まどか、石屋法道、放送芸能部・長谷義隆、柳沢研二が担当しました」とあるものの、その「担当」の意味するところは今一つ不明(「担当」という日本語表現は、対談者がそれらの人物である事を必ずしも意味しない)であり、事実上この「対談」は「名無しさん@A」「名無しさん@B」「名無しさん@C」「名無しさん@D」「名無しさん@E」によるものと言え、であればそれは「対談」ではなく「放談」や「放言」と言うべきものである。


29日の「放談/放言」の結びには、「名無しさん@E」氏の発言として「よそから持ってきた現代アートなるものを集中的に縦覧させて、地元を疲弊させるだけだろう」とあるが、「よそ(strange)」であるとか「地元(native)」という言葉を不用意に用いてしまう様な「『都市』のメディア」は当然の事ながら存在しない。明らかにこの「名無しさん」による「よそ」の語にはネガティブな含意があるが、「よそ」の人間からすれば、そうした扱いを不快に思うだけだ。この記事は電子化されておらず、であればこそ「新聞紙」を購入可能な「地元」読者向けを狙っての記事であるとも言え、従って「全国」や「世界」といった「よそ」に一切気兼ねする必要の無い、そうした範囲内に収まる「公共性」の賜物であろう。


一方その記事の真下には「話題の展覧会・東西」として、「中京」地区から極めて遠く離れた「札幌」で開催されている「松井紫朗」と、「鹿児島」で開催されている「名和晃平」が紹介されている。しかしそれらはまさしく「名無しさん@E」氏が言うところの「現代アートなるもの」であろう。そうした「なるもの」というネガティブな一語で切り捨てているものを同一紙面に掲載しつつ、加えてポジティブな「話題の展覧会」との煽り文句を入れる。読者たる者が持つべきこの矛盾律への対応は、その一方は信用するに値し、もう一方は信用するに値しないとすべきなのだろうか。或いはそれは、名古屋とは無縁の「よそ」でやっていさえすれば、無矛盾という事なのかもしれない。


またその直前には、同じ「名無しさん@E」氏が「地元は日本有数の窯業や技術の産地でもある。アートと連動させる要素は探せば見つかるはず」としている。それはイタリア・ベネチアの「地元紙」が、「地元はベネチアン・グラスの産地でもある。アートと連動させる要素は探せば見つかるはず」と、「よそから持ってきた現代アートなるものを集中的に縦覧」させる「ベネチア・ビエンナーレ」に「苦言」を呈する記事を掲載する様なものかもしれない。「名無しさん@A」氏は「なぜ『愛知』で開催するかということに必然性を持たせ続けられるかが今後の鍵だろう」と発言しているが、これも「愛知」に代えて「ベネチア」や「カンヌ」を置換してみると滋味深いものに思えて来る。何故に「カンヌ映画祭」は「カンヌ」で開催されるのだろうかという「必然性」を求める問いは、果たして建設的なものとして成立するだろうか。

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「あいちトリエンナーレ2013」を見る限りに於いて名古屋は「都市」だった。そして良い意味で「大いなる田舎」だった。ボランティアの人達の構成に「偏り」が無いところも印象的だった。


約3ヶ月前の展覧であるが、幾つかの作品によって突き付けられた「問題」は、未だに自分の中に澱の様に残っている。その「問題」が、全くその作品世界と関係の無い場所で、何かの拍子にフラッシュバックしたりする。興味深いのは、その澱となっている作品の多くが、「地元」日本人の作品で無いところにある。「よそから持ってきた」ものの方が、自分にとっては「近く」感じるのだ。


「近い」が故に「遠い」という事がある。どういう例を出せば適切かは判らないが、例えば「アンパンマン」を描いた日本人の子供の絵と、「自分の近親者や友達が傷付けられている」様を描いた「内戦地」の子供の絵は、果たしてどちらが「近く」感じるかといったものだろうか。確かに「内戦地」の現実は「遠い」ものである。その一方で「アンパンマン」がどういうものであるのかは、多くの日本人なら良く知っている。従って通常「アンパンマン」の絵の方が圧倒的に「近く」感じる筈である。しかし己が人生の場面によっては、「自分の近親者や友達が傷付けられている」事の方が、圧倒的に「近く」なる事もある。しかもそれは「アンパンマン」が入って来れない「場所」まで「入って」来るのだ。


日本の美術作品が観客の中に訴求して来る「場所」というのは、比較的似通っているという印象がある。それは「アンパンマン」と「まどマギ」という「差異」の、それを見る者の中にそれぞれ訴求して来る「場所」が、「自分の近親者や友達が傷付けられている」事に比べれば似通っている様なものだ。それらの多くは、日本人が考える「美術観」や「国家観」や「政治観」を始めとした「世界観」を反映したものとして現れる為に、それを共有する者にとっては「近い」ものであるが、他方でそうした「世界観」を共有しない者には、それは全く「遠く」のものとなってしまう。


名古屋が「都市」であろうとするのなら、「あいちトリエンナーレ」には単層の「近さ」に留まらない、複層の「近さ」をもたらせる「よそ」の存在こそが必要なのである。そうした「よそ」を排除しない名古屋にのみ、「人材」や「資本」を持つ「よそ」は興味を持つ。一方「地方新聞」が思い描く様に、「あいちトリエンナーレ」から「よそ」の要素を全面排除して、瀬戸や常滑等の焼物等を前面にフィーチャーし、「地元」のリソースを遣り繰りしてどうにかするというのであれば、それはそれでそうすれば良いのである。そうした「地元」の選択を止めはしないし、「よそ」の人間であるからそれをする義理も無い。但しそうした「非・都市」的な単層の「近さ」を、「地元」の価値観だけで一方的に押し付けて来る様なイベントには全く興味が無いから、そうなった「あいちトリエンナーレ」に「よそ」の人間が足を向ける事は決して無いだろう。

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一つだけ「あいちトリエンナーレ2013」に「苦言」があるとしたら、イベントの「実際」に対する現実的な視点が、根本的に欠けているところを指摘せねばならない。自分はその日の午前7時半に名古屋入りをして、外で見られる作品を幾つか見て回ってから、午前9時半から始まる「名古屋市美術館」の展示を皮切りに、そのまま昼食抜きで19時の「クローズ」時間までフラフラになって名古屋市内を見て回ったものの、それでも全ては見られなかった。当然名古屋の中心部(例:栄)から往復するだけで2時間半以上を要する岡崎会場はパスである。見たかったものの一つである「志賀理江子」は割愛せざるを得なかった。その最大の「敗因」は、「全ての作品を丁寧に見る」という前提を守ったからだ。


勿論「全ての作品を丁寧に見る」ではなく、オリエンテーリング宜しく、「ハイ見ましたっ!スタンプ押しましたっ!映像作品の全てを見るのは無理っ!冒頭だけ見たら全編見た事にするっ!オブジェクティブ作品も写真に撮っておけば、後からそれを見て思い出せば良いっ!カタログ買ってそこへ行ったという事にするっ!インタラクティブ作品に時間は取られたくないっ!演劇はパスっ!兎に角時間が無いっ!ハイ次っ!」みたいな「はとバス観光」的な回り方をすれば、或いは事前に「これとこれはつまらなそうだから見るのを止めておくっ!」と、実際の作品を見る前から「落選者」を決めておけば、全会場を「制覇」可能だったのかもしれないが、しかしそれは果たして良い事なのだろうか。少なくとも、空間的広がりを含むこの規模を前提にするなら、チケットは何日かに渉って「再入場可」であって欲しい。でなければ、他でもない「作品」が余りにも気の毒過ぎる。果たして主催者は、一般観客と全く同じ条件で実際に回って見て、シミュレーションしてみたのだろうか。

新年

「季節を分ける」事から始まる「太陰暦の新年」とは全く異なる「太陽暦の新年」を迎えるに当たり、「太陰暦」をその「生活」からすっかり駆逐する事を選択した百数十年前に始まる「近代国家日本」で、その「国民」がやらねばならないとされている事と言ったら、それは「太陽暦の年末」の「大掃除」である。「太陽暦の旧年」中の「埃」や「垢」をこの時期に落とし、「太陽暦の旧年」をリセットする為にそれは行われる。そうした「季節」感に基づく21世紀の「大掃除」は、既に「イデオロギー」の対象と言える。


そしてまた「忘年会」である。これは「忘年」の言葉が表す通りのものであり、文字通り「太陽暦の旧年を忘れる」為にそれは行われる。恐らく「太陽暦の大掃除」も「太陽暦の忘年会」も、そして「太陽暦紅白歌合戦」や「太陽暦の『新年あけましておめでとうございます』」や「太陽暦の年賀状」に至るまで、「近代国家日本」によって推進されてきた「太陽暦」の一連の「国民」への「内面化」(大衆的「年賀状」は、当然「前島密」以降に成立した近代的「習俗」)を、百数十年前に「日本国民」となった自らが喜んで受け入れて来た構図の中にすっぽりと収まってしまう。


太陽暦の年末」に多く見られた「2013年のベスト展覧会」もまた「忘年」の一つの形かもしれない。加えて悪い事に/良い事に、「ノミネート」された「展覧会」や「作品」が、「忘年の対象」として示される事が多いという印象も無いでは無い。寧ろ個人的には、「忘年の対象」とされる事に対する「抗い」こそが見たい。

中原浩大 自己模倣

自分にとっての「中原浩大」の「出現」は、自分にとっての「谷岡ヤスジ」の「出現」と同じだった。「中原浩大」が「谷岡ヤスジ」と同じだと言っている訳では無い。それらの自分への「出現」の「意味」が同じなのだ。


そう思って改めて「谷岡ヤスジ」氏を調べていたら、Wikipedia に次のセンテンスを発見した。


私生活では女優・小西まち子と結婚、谷岡・小西の間には子もあった。谷岡の人柄は優しい子煩悩な父親で、彼の周囲の人々はみんな「善人で、人格者であった」という反面、妻・小西からは「(谷岡は)一匹狼であった」との証言もある。日本漫画界における「真に比類なき天才」だと見る向きもある。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%B2%A1%E3%83%A4%E3%82%B9%E3%82%B8


「子煩悩な父親」「一匹狼」「真に比類なき天才」…。これらの谷岡ヤスジ氏に対する評は、恐らくそのまま中原浩大氏を表す言葉にもなり得るだろう。実際そうした評も多く見られる。しかし自分の「中原浩大」や「谷岡ヤスジ」にとっては、それらの評はどうでも良い言葉である。


谷岡ヤスジ」の自分への登場は、1970年4月28日発売の「週刊少年マガジン1970年19号 5月3日号」が最初だ。中学二年の事になるが、実際に邂逅したのはその発売日直後の「天皇誕生日」から始まる連休明けの個人経営珠算塾の待合室(実際には玄関三和土)での事だったと思われる。


「週刊少年マガジン1970年19号 5月3日号」の表紙は、エジプト・ギザのピラミッド前で「少年マガジン」を読む(読まされる)ラクダに乗った観光ラクダ引きの写真が全面にレイアウトされ、そこに「あしたのジョーちばてつや)」「巨人の星川崎のぼる)」「ワル(影丸穣也)」「キッカイくん(永井豪)」「ほらふきドンドン(ジョージ秋山)」のタイトルが踊る写植によって配置され、表紙下部には「3大ナンセンスギャグ」として「秋竜山(「親バカ天国」)」「南泉寿(「泉寿白書」)」「谷岡ヤスジ(「メッタメタガキ道講座」)」の名前が載る。因みに「山上たつひこ(「光る風」)」「桑田次郎(「ミュータント伝」)」「旭丘光彦(「LET‘SGOケネディ」)」「石森章太郎(「リュウの道」)」は、「表紙落ち」している。


小学生の頃の愛読書は、1970年の「少年マガジン」で「表紙落ち」した、他でも無いその「石森章太郎」著の「マンガ家入門(1965年=石森氏27歳)」だった。同書を「再編集」した「石ノ森章太郎のマンガ家入門」の「まえがき(1987年11月記)」には、同書及び「続マンガ家入門」が「重版を続けて、現在まで併せて100版を越えて」いると書かれている。100の重版がされたという事は、同書が「マンガを読む」少年少女のものではなく、「マンガを描く」少年少女のものである事を考えると、「マンガを描く(描きたい)」昭和40年代の少年少女が、自分を含めてそれ程には例外的な存在で無かったという事なのだろう。その「漫画を描く」少年少女向けの本の「テクニック編」の冒頭には以下の様な文章が書かれ、挿絵が併せて載せられていた。


マンガは、ギャグとストーリーの、二つのジャンルに大別されています。



絵は常に或る種のイデオロギーを内包している。「マンガを描く」昭和40年代前半の少年少女にとって、この挿絵から読み取れるものは、「マンガは、ギャグとストーリーの、二つのジャンルに大別」される、即ちそれらが「異種」のものであるというイデオロギー、そしてそれぞれの類型的な形象(とその描画法)が導き出され、一種強迫的に働く「指標」として現れたりもする。但しその「指標」は、「トキワ荘」的な「類型」の範囲内に留まるものである事は言を俟たない。「石森章太郎」の「マンガ家入門」は、「トキワ荘マンガ家入門」とも言える。


1970年4月、嘗て「トキワ荘」の活躍の場であった「少年マンガ雑誌」に、「トキワ荘」の語法からは全く説明不可能な「谷岡ヤスジ」が登場する。「トキワ荘」的な「洗練」と無縁の描線。常に「ムジ鳥」の「アサー〜〜〜」から始まる冒頭部に象徴される「ワンパターン」=「工夫」への無関心。「手塚治虫」や「石森章太郎」ら「トキワ荘」のメンバー(「劇画」ですら)が終生持ち続けた「映画」や「アニメーション」といった「映像表現」に対する「劣等感」の不在、即ち「描画(表現)」に対する「図式(表徴)」の勝利。


1970年の「メッタメタガキ道講座」を、1970年の友人は「このマンガメチャクチャ面白い」と言い、それを見てしまった1970年の自分もまた、その瞬間に「トキワ荘マンガ家入門」によってもたらされた「憑物」が一気に落ちてしまう。その時の気持ちを当世風の言葉で表わせば「コレってアリですか?」だった。しかし現実的にそれは、十分に「アリ」なのである。何故ならば「このマンガメチャクチャ面白い」からだ。


その時、中二病の中二生なりに「谷岡ヤスジ」の「メッタメタガキ道講座」という「表現」がこうなるに至った「理由」を色々と想像してみた。「アンチ〜」的な幾つかの「理由」の候補が現れたものの、やがてそうした「理由」を問う事自体が馬鹿馬鹿しいものに思えて来た。そして「理由」が判らないものを「追随」の対象とする事もまた馬鹿馬鹿しいと悟った。「追随者」というのは、常に何処かで「解釈された理由を追随する者」の略であるだろう。技術的には1秒後にも「到達可能」であるものの、存在的な「到達可能」には永遠に至らない。それはまた「ギャグ」というものの「宿命」に違いない。

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埃が溜まったテレビのリモコンスイッチの電源ボタンに久し振りに手を掛けたら、画面中に黄色いダウンジャケットを着た男性が高速バスから降りて来て、いきなり両手に「拳銃」の形を作り、その「銃口」をカメラに向けていた。そして男性は得意満面の表情で言った。


「ゲッツ!」


10年振り位にテレビ画面で見るその男性の名前を思い出せなかった。15秒経っても頭の中から出て来なかったので、後で Google 先生に頼めば良いかと思い、その場は「ゲッツの人(仮)」とした。しかしその仮置き状態もまた落ち着かなかったので、Google 先生にすぐさま泣き付いた。先生は「ダンディ坂野」という名前を思い出させてくれ、尚も「他の人はこちらも検索」と「小島よしお」「ムーディ勝山」「スギちゃん」「波田陽区」「長井秀和」を差し出してくれた。誘われるままに「小島よしお」をクリックしたら、今度は「鼠先輩」「ヒロシ」「鳥居みゆき」「竹山隆範‎」「レイザーラモンHG」「コウメ太夫」「長州小力」「ゆってぃ」「はなわ」等々を横一線で並べてくれた。その多くが、21世紀初頭の日本に於ける笑いの中心的存在とされてきた人達である。


それらの「21世紀初頭の日本に於ける笑いの中心的存在」を一堂に介したテレビ番組、例えば「2003年4月19日の『エンタの神様』初回のパッケージそのままを丸々再現した番組」を想像してみた。彼等の「最強の持ちネタ」がスタジオで次々と繰り出される。但し2013年の「お茶の間」のそれらの「最強の持ちネタ」に対する笑いの総量は、21世紀初頭よりも確実に減っている事が容易に想像出来る。そして番組は「お茶の間」に冷徹な事実を突き付けるだろう。「自分はあの時確かにこれで笑い転げていた」。


勿論その様な番組が実際に制作される事は無いだろう(「正月番組」ならあり得るかもしれない)。「ギャグ」の「再展示」が「オリジナル」の受け入れられ方と寸分違わないものになるという世迷い言を、身も蓋も無い「現実」が己の立つ場所である演芸担当のテレビマンは凡そ信じない。テレビマンの誰も、「昭和の爆笑王」と称されもする「初代林家三平」の「爆笑」が「永遠」なるものだとは毛の先程にも思っていない。それは「昭和の〜」という「条件付き」の「伝説」なのだ。それを熟知した上で尚、「伝説の三平ギャグ」的な番組パッケージを、しれっとした顔で仕立て上げられるのが、「優れた」テレビマンの条件と言えるだろう。


但し「Eテレ」辺りはそうした「ギャグ」の「再展示」をするかもしれない。そして「ETV特集」的な検証番組の中の「再展示」で、視聴者は若き日の自分(或いは日本)が、今ではすっかりくすぐられもしなくなった「ギャグ」で笑い転げている過去の自分達の姿を、他でも無い過去の自分達の背中越しにぼうっと見るのである。


「ギャグが風化する」という言い方はある。しかし物理的存在ではない「ギャグ」に「風化」は無い。「風化」は「ギャグ」そのものではなく、「ギャグ」を取り巻く「環境」が「変質」する事を意味する。その「変質」を最大限利用して、「ギャグ」とその「環境」の関係を「メタレベル」から見ようとする、即ち「あの時こんな『ギャグ』で笑えていた自分や日本国民」を相対化する視点も生まれるとは言える。確かにそうした「相対化」の作業は尊重されるべきである。但しその時にそれが「笑い」の対象であったという「事実」もまた重いものである。それを否定してしまうと「笑い」そのものを否定する事にもなる。

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長くなった。「中原浩大」だった。実は、遠く「関西」の作家であった事もあって、「中原浩大」の実作をリアルタイムでそれ程多くは見てはいない。というよりもその殆どを見ていない事を、今回の「岡山県立美術館」の「自己模倣」展で再確認した。勿論印刷媒体の網点写真で幾つかの作品は「知って」いたものの、その網点写真の中の作品は今一つ心動かされないものであった事を告白しなければならない。


自分にとって最初の「中原浩大」の「出現」は、1990年に東京原宿にあった「Heineken Villedge」に於いてだった。出品作はあのレゴの作品である。当時はまだタイトルが「無題」ではなかったかと記憶する。「Heineken Villedge」の入口入って左側の部屋の白い丸柱に挟まれる様にその作品はあったが、それが置かれていた場所は、その一年前に行われていた展覧会で、自分自身が「自己模倣」に基づいて「再制作」した1984年の作品を設置した場所でもあった。「再制作」したのは、オリジナルが「加水分解」等の経年劣化で「ボロボロ」だったからだ。


「Heineken Villedge」の展示室に入るなり、頭の中に出てきた言葉は、あの「谷岡ヤスジ」と同じ「コレってアリですか?」だった。そして「中原浩大」と名指されているものが、実際は「ギャグ」である事をその場で確信した。「中原浩大」の「レゴ」は、「美術」ではなく「ギャグ」であり、その事こそが新鮮だった。従ってそうした「ギャグ」であるものを、「ポストもの派」や「彫刻」や「メディア」といった「美術」の語で表そうというのはそもそもが無茶な話であり、凡そそうした構えでは「中原浩大」から零れ落ちてしまうものが余りにも多い。それは現在の「嘔吐彗星」に至るまでそうなのだ。


岡山県立美術館の「中原浩大 自己模倣」展は、「2003年4月19日の『エンタの神様』初回のパッケージそのままを丸々再現した番組」の様にも、「谷岡ヤスジ・アンソロジー」の様にも自分の前に現れた。「レゴモンスター」や「海の絵」といった、「ダンディ坂野」の「ゲッツ!」の如き「メジャー」な「ギャグ」はそこには無かったが、それでも「自己模倣」の「中原浩大」はサービス精神旺盛だった。2013年に見るそれらの「ギャグ」の多くは、「ギャグ」としては滑りまくっていた。そしてその「滑りまくり」こそが「中原浩大」というものの持つ「可能性」なのだと確信した。何故ならば嘗て我々は確かに「ゲッツ!」で大笑いしたのだ。その事態が存在したという事実こそが最も「重要」なのである。

「人間と物質」展再展示計画

2013年の12月も28日という押し詰まりも良いところの東京の街に、斯くも多くの人がいるとは結構意想外だった。この「シンポジウム」に参加して来た。4時起きの日の18時は眠たかった。


「『人間と物質』展再展示計画」
基礎芸術が進める「再展示ドットコム」(既発表の展覧会・作品の再展示を探るウェブサイト)プロジェクトの進行状況報告を行い、「再展示」計画の可能性を話し合います。中心となる議題には、現在同プロジェクトのアンケートで圧倒的1位を獲得している「第10回日本国際美術展 人間と物質」展(1970年)を取り上げます。前半では主に「人間と物質」展出品者の方々のお話を伺い、後半では同展の研究者を中心に、「人間と物質」展を再展示すると仮定した場合の可能性/不可能性をもとに、再展示という問題を考えます。


[募集]
「人間と物質」展に関わった方/見た方はこちら(基礎芸術:contact@kisogei.org)までご連絡ください。(@を半角にして、お使いください)


出演: 田中信太郎(美術家)、河口龍夫(美術家)、堀川紀夫(美術家)、大村益三(美術家)、渡部葉子(慶應義塾大学アート・センター教授、キュレーター)、上崎 千(慶應義塾大学アート・センター所員/アーカイヴ担当)、土屋誠一(美術批評家、沖縄県芸術大学講師)、西川美穂子(東京都現代美術館学芸員)、基礎芸術 Contemporary Art Think-tank(成相 肇、粟田大輔ほか)
日時: 2013年12月28日(土)18:00-22:00(開場17:30)
※前半18:00-19:50/後半20:10-22:00
会場:森美術館展示室内
定員:80名
料金:無料(要展覧会チケット)
お申し込み:予約不要、途中入退場可
企画:基礎芸術 Contemporary Art Think-tank


http://www.mori.art.museum/contents/roppongix2013/event.html#dp_12


「人間と物質」という展覧会自体に、実はそれ程には思い入れが無い。奇妙な形でリチャード・セラの作品 "To Encircle Base Plate Hexagram, Right Angles Inverted(以下「セラの環」)"に関わったという事以外に接点は無いと言って良い。1970年5月に中学2年生だった当時の自分の中で、「新しい表現」を意味するものは、依然として「少年マガジン」や「少年サンデー」であった。また長じて美大生となってからは、「人間と物質」は限られた「白黒網点写真」と、それよりも限られた「カラー網点写真」でしか知り得ない「教養」の対象でしか無かった。その一方で日本の美術界自体がそうした「地味」な傾向に批判的になり(或いは飽き/忘却し)始め、「人間と物質」展が「先行世代」の「昔語り」になり始めていた時代でもあり、従って1978年に於ける「人間と物質」という展覧会が持つ意味は、「心ある」美術関係者にとって「乗り越える(飽きる/忘却する)べき対象」として現れていた。現代美術に於ける「8年後」という歳月はそういう事でもある。


その「セラの環」にしても、「リチャード・セラ」の作品が自分に対して現れるその中で、取り分け特筆に値するものかと言えば、これもまた正直なところを言えば、個人的にはその位置には無いと言わねばならない。セラの移設に関わった同級生の一人はセラを私淑し、その使用素材を含めて「模写」的とも言える作品を作っていたが、それは "prop" や "bullet" や "House of Cards" といった初期作品のそれであって、彼もまた「環」のシリーズには興味が無かった。その理由の大きなものの一つは "To Encircle Base Plate Hexagram, Right Angles Inverted(反転し合う直角、ヘクサグラムの基礎板を取り囲むために)" というタイトルへの依存性の高さだ。「セラの環」に於ける「ヘクサグラム」は東洋の「インヤン(陰陽)」同様「世界の二つの原理の併存性」の象徴的表現の一つだと考えられるが、しかしそれもこれも "Right Angles(=Right Angle Steel アングル鋼・L字鋼)" という「情報」が与えられて初めて判明するものである。そうした一種の「秘儀性」と、その一方でセラの言う「彫刻は、芸術は、その置かれる場所と不可分に結びつくべきだ。俺の彫刻は地面の上でなく、地面と結合している(「美術手帖」1970年7月号 東野芳明訳)」という問題とは切り離して考えるべき、それ以前にそれを見る者には「地面と結合している」(世界で一番薄い彫刻!)事しか現象し得ない。


現在の多摩美術大学の八王子校舎の中庭舗装路に「セラの環」は「物体」的に「アセンブル」されている。今「アセンブル」と書いたのは、それが上野で作者自身が行った「埋めた」行為と同じものでは無く、当作品の移設者に対するセラの仕様書に書かれている設置の絶対条件 "flush to earth=「地面と面一で」=彫刻の垂直性の消去)" を、多摩美術大学の八王子移設者が爽やかなまでに無視し、セラが最も否定し見せたくなかったものをわざわざ目に見える様にして、事実上「作品未満」としてしまっている事から来ている。即ちそれは、木枠が見える様にマーク・ロスコを展示している様なものである。



現在の「セラの環」の脇にあるステンレス製の、「セラの環」よりも高額(「セラの環」は「購入」されたものでは無い)な「タイトルプレート」もまた、同様に「小さな親切、大きなお世話」の一例と言えるだろう。余程正門守衛所の前にでも簡単な案内図を貼り出した方が、あらゆる意味で「親切」だと言えるのだが、一方で若き日のセラ自身が前述の「秘儀性」をどうしても伝えたかったのであれば、逆説的にこの作品には「タイトルプレート」の存在が不可欠なのかもしれないと思えたりもする。それとは別に、最初の埋設地である上野公園の歩道に「タイトルプレート」を設置していれば、それが掘り起こされて「ゴミ処理場送り」という事態には至らなかったかもしれない。


そもそもがこの「人間と物質」に展示された作品の多くが、会期が終わったと同時ににべも無く「ゴミ」として打ち捨てられたと思われる。誰がカール・アンドレが拾ってきた錆びた鉄筋線を現在に至るも所持しているだろうか。誰がダニエル・ビュランの貼り紙を町中から剥がしてまで持っているだろうか。ルッテンベルクのコークス粉を未だに保存している人がいたら、それは錆びた鉄筋線やヨレヨレの縞模様の紙を後生大事に保存しているかもしれない感性同様、奇特なフェティシズムとしか言い様が無いだろう。「人間と物質」の「その後」を記した記録は当然の如く皆無だが、それでも同展の会期終了と同時に、まるで「憑物」が落ちる様に、それら全てが「ゴミ」へと変わったという事は想像に難くない。シンポジウムに参加していた堀川紀夫氏は、展示を終えた石が鴨川に投げ捨てられた旨の事を話されていたが、それは1960年にカシアス・クレイがオリンピック金メダルを「(whites-only)レストランで食事をする価値すらないもの」としてオハイオ川に「不要品」として投げ入れたのとは「不要」の意味が全く異なる。


先に引用した「美術手帖」1970年7月号「これがなぜ芸術か - 第10回東京ビエンナーレを機に」で、東野芳明氏のインタビューに応えてセラ(30歳)は「俺の最近の作品はほとんど美術館からはみ出た、外の世界で生まれる。美術館というやつは、平らな床と壁でとじこめられていて、作品が持ちこまれ、まるで貿易見本市みたいなことになる。これでは、とくにその美術館の中になければならない理由はないじゃないか。俺の関心はいつも場であり、状況そのものなんだ」と語っている。その一方で「この鉄の作品を最初に都の美術館の用地に埋めようとしたとき、美術館の連中は、用地の境界外でやってくれといった。美術館の連中は、芸術の問題には興味はなくて、観客数にしか興味をもたない。それに、本当は地球上の地面には境界なんてないのだ。境界は人間がつくったものなんだ」と答えている。確かに「地球上の地面には境界なんてない」とは言える。しかし同時に「地球上の地面には中心がある」とも言える。セラが「美術館の用地」に「環」を埋める事に拘り、「用地の境界外でやってくれ」と言って来た「美術館の連中」と一悶着しなければならなかったのは何故か。


同じ「人間と物質」参加作家であるクリストが、当初予定していた「公園の梱包」を「公園」から拒否され、次善のそのまた次善の選択として「美術館の彫刻室の梱包」に至ったのとは全く逆に、セラにとってはクリストの第一希望であった「公園」こそが、「美術館(の用地)」という第一希望を叶えられなかった次善の選択になった。セラにとって「サイトスペシフィック」な「地面の中心」が「芸術」である事は疑い無い。その「地面の中心」から「芸術」が「世界」全体に広がって行くというファンタズムは、美術関係者なら誰でも持つものだ。しかし現実的に「上野公園」には別の「地面の中心」が存在した。その「地面の中心」が「芸術」を「不要品」として扱い、カール・アンドレの鉄筋線やルッテンベルクのコークス粉等から遅れる事8年で、「セラの環」を「ゴミ」にした。果たしてそのまま「ゴミ」になり、何処かへ消え失せてしまったというあり得た未来はどの様なものであっただろうか。時に奇特なフェティシズムの対象となり、また「作品未満」の状態で晒され続けている「セラの環」が、今でも存在し展示され続けているという現実は、そもそも「正しい」事なのだろうか。



或いはまた、「地面の中心」が「芸術」である事を、この世界全てが快く受け入れ、セラの最初の計画通りに「美術館の用地」にその作品が設置され、しかも如何なる土木工事に於いてもその原状の保存が最優先されていたという「最善」の展開を想像してみる。下は当時の東京都美術館と現在の東京都美術館の地図を重ねたものだが、上掲画像で知られているその「美術館の用地」は、旧館正面玄関階段の向かってすぐ左側に当たる。



しかし現在は旧東京都美術館の建物そのものが無くなっていて、当初計画されたその場所は、恐らく奏楽堂に向かう歩道上の何処かになる。「人間と物質」でクリストが梱包した旧都美術館の彫刻室跡地付近は、21世紀の上野公園では都内最大級の炊き出しの場所として有名だ。美術の場でも何でも無くなった、その日の食べ物の確保が「地面の中心」である数百人が集まるその場所に、「セラの環」が未だにあり続けているのである。(画面中央の箱は、そうした方々への「募金箱」)


(注)合成画像


「再展示」という問題についての多くはこの続編で書くかもしれないにしても、「展示」を巡る「コンテクスト」が「再展示」に於いて変質してしまうという問題は、この様に「展示」がされ続けていても起こり得る話である。


例えば「人間と物質」展の会期が、1970年から2013年までの43年間だったら果たしてどうだっただろうか。「ここが違っている」とか「あそこが違っている」といった「議論」の一切が起こり得ない、1970年のまま何も「変質」していない「完全な形」であり続ける「人間と物質」展を、2013年に見る経験は如何なるものだろう。或いは永遠の会期を持つ "When Attitudes Become Form" はどうだろうか。恐らく「再展示」の方がまだマシという事もあり得る様な気がする。

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「再展示」が意味あるものであるならば、それは所謂「アクチュアル」な意味を持たねばならない事になるのだろう。1970年の展覧会が「美術手帖」をして「これがなぜ芸術か」という見出しを書かしめたとして、それは43年経った2013年でも、相変わらず一般の観客に対しては「これがなぜ芸術か」として現れるのだろうか。それが「変わりのないもの」であったとしたら、一体この43年は何だったのだろう。「再展示」を巡る議論よりも、余程その事の方が気に掛かるのである。

反重力

名古屋鉄道豊田市駅の改札を出ると、愛知環状鉄道豊田駅に向かうペデストリアンデッキ上にある松坂屋豊田店のスターバックスが、極めて魅力的な存在に見えた。鉄路で揺られ続けた心身は、電車の椅子とは別の椅子を欲していた。そこに熱いコーヒーがあれば尚良い。しかし結局美術館での時間が不足するという懸念から店には寄らなかった。


豊田市駅から豊田市美術館に至る坂道は12%勾配である。角度にすると6.8度になる。そこを鉄路で痛め付けられた重い足で登って行くと、「反重力 - Antigravity」展に到着する前にすっかり6.8度分の「重力の斜面方向の分力」にやられてしまった。果たしてここで "The Gravity Defying Boots(反重力靴)" 69.95ドル也(日本の発明家通販サイトでは、17,800円で同等品「スーパーピョンピョン」が購入可能)を履いていれば少しは楽だっただろうか。「反重力靴」と言えば、マイケル・ジャクソンの "Smooth Criminal" で使用された "Anti-Gravity Shoes" の方がメジャーであるが、しかし二つの「反重力靴」の間には決定的に大きな違いがある。"Hammacher Schlemmer" で売られている "The Gravity Defying Boots" は、履いている者に現実的な「反重力」感をもたらすが、MJ の "Anti-Gravity Shoes" は、特許名が "Method and means for creating anti-gravity illusion" である事でも明らかな様に、それを見ている者には「反重力」感をイリュージョナルに感じさせるものである一方で、履いている MJ やバックダンサーには「重力」を克服する身体的緊張を過酷に要求する。

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今まで自分が見てきた内で最も「反重力」的なものを感じた作品は、意外にも物質的に質量の大きいものであった。それは他でも無いヨーゼフ・ボイスの "Fond" シリーズのインスタレーションである。それを見たのは、西武百貨店池袋店12階に嘗て存在していた、今は雑貨・ホビー用品チェーン Loft になってしまっている「西武美術館」で行われた「ヨーゼフ・ボイス展」(1984)の会場だった。"Fond" シリーズは、ボイスの持ち技であるところのフェルトが大量に使用されている。一辺が1メートル数十センチの正方形に裁断されたフェルト生地が、人の背丈程の高さに丁寧に積み上げられて十数本の四角柱を形成している。そのフェルトの柱に銅で作られた造作が絡み、観客はその柱と柱の間を歩いて「鑑賞」する。


この作品のフェルトや銅にボイスが「込めた」ものは、当然ボイスであるから多数存在する。その「込めた」ものをボイスの過去発言から拾い、目の前にあるものを解釈するというのも悪い話では無い。しかしその時の自分にとってのそれは、その様な秘義めいたものとは無関係に立ち現れていた。目を瞑っていてもゾワゾワと感じる膨大な量の吸音性のフェルトから発する「引力/斥力」に、引っ張られそうになりながら同時に飛ばされそうになる自分の身体。地球上の現実的存在に対して働く「鉛直」方向に引っ張られる「引力」とは別の「引力/斥力」。このまま何処かに連れて行かれてしまうのではないかという恐怖にも似た感覚。それはジョン・ケージが「4分33秒」の着想を得た無響室(ボイスには無響室的な作品 "Plight" もある)に於ける「引力」と「斥力」にも似たものだ。


「反重力(「万有斥力」)」は、「重力(「万有引力」)」に対する反定立的概念として仮構される。即ち「反重力」は「重力」に対する疑いから始まる。世界が何処まで行っても「重力」に支配されている(例:天国ですら物体が落下したり、幽霊ですら多くは頭を上にした直立姿勢で表れたりする)とされているところでは、「斥力」としての「反重力」は「存在」しない。圧倒的な質量=「時空」の「収縮」であるフェルトを傍らにして、自分というやはり同じ「時空」の「収縮」であるものが引き寄せられつつ反発する。

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反重力とは、重力に抗するとされる力で、創成時の宇宙にインフレーションを起こし、今日の宇宙を加速膨張させているともいわれています。SF作品では、宇宙飛行やテレポーテーション、空中都市の原理として、物質・物体に関わる重力を無効にし、調節する架空の技術として登場します。加速度的に非物質化していく現在の社会を反映し、私たちの身体や生活を規定してきた枠から逃れるものとして、ここに「反重力」という言葉を掲げます。


本展では、身体から解放されるような軽やかな空間性を感じ、世界を巨視的な視点で眺めて地上の価値観から離れ、宇宙的な視野を持つことを目指します。空中都市や宇宙飛行は、はるか昔から人間のユートピアに対する憧憬を誘ってきました。これまでの人間の生活の基盤から離れるとき、それは希望に向かうのでしょうか、それとも絶望に繋がるのでしょうか。「反重力」について考えることは、現代のユートピア観を考えることにもなるでしょう。


http://www.museum.toyota.aichi.jp/exhibition/2013/special/antigravity.html


「風鈴の音」を涼しげに感じる感性がある。音に気温や体温を低くさせる様な物理的特性が無いにも拘わらず、その音は夏の暑さを数度下げてくれるかの様に聞こえる。但し「風鈴の音」には冬場の気温を数度下げる冷却能力は無い。冬場の風鈴の音は単なるノイズだ。特定の環境(日本の夏)に於ける特定の音(風鈴の音)が、特定の感性を持つ耳(日本人の耳)に温度の低下を感じさせる様に、特定の環境に於ける特定の光景が、特定の感性を持つ脳に「反重力」を感じさせる事もある。「重力」を直接「視覚」で感じる事は出来ないし、況してや現実的には「概念」以上のものではない表象不可能性としての「反重力」に至っては尚更であるから、「視覚」が主役になる「展覧会」という設えの中で「反重力」を見せようとすれば、そこには「風鈴の音」という「聴覚」情報を気温の低下に結び付けるのと同様の、「視覚」情報を「重力」の低下に結び付ける何らかの変換の過程が不可欠になる。


但し日本人の耳に聞こえる風鈴の音を、即座に「反温度」とし得ないのと同様、「反重力」と見做されている全てのものは、実際には「低重力(感)」とするべきであり、或いはそれは「反−重力」という「概念」上の「仮構」を表現したものである。それは「反重力靴」の実際が「低重力(感)靴」である様なものだ。或いは「風鈴の音」が「冷却」ではなく「涼しげ」である様に、それは「涼しげ」の「げ(気)」を接尾辞に付けた「反重力げ」であろう。それは存在しないもの=「げ」そのものへ向かわせる。

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歴史と文明と文化を人類ぐるみ蔽ってしまって、そのまま寒冷でない極北と化せしめたい執念と意欲の、人間ばなれした、物質ばなれした、その恐ろしさ……。身動きできずに、立ちつくした。(宗左近「使用拒否の玩具」『芸術生活』1970年7月号)


真中に立ってみると、空間のひろがりに圧倒され、布きれが波うっているようにも、また荒寥とした砂漠のようにも思われて、一瞬ふしぎな幻想にとらえられてしまう。これは、布きれという膜を使った、一つの現存(エキジステンス)である。このばあい、美術館という機能を担わされた物体を空無化するところに表現のすべてがあるのである。(岡田隆彦「新しいことばを求めて」『朝日ジャーナル」1970年6月7日号)


私が、この会場体験で、ヘンな気分になったのは、クリストの床の包装である。ヘンなところへやってきたぞという感覚で、全身の総毛が竦っていくのがわかるほどであった。まず、そこでは、人は、足音を失うのである。自らの足音などに、人びとはふだん、めったなことでは気をつけてもいないのだが、クリストの領域に足を踏み入れたとたん、私は足音の失っているのに気づいて、ヘンになった。(草森紳一「足音を失う」『SD』1970年7月号)


「第10回日本国際美術展 人間と物質」展(1970年)のクリスト〈梱包した床〉の展評から


「第10回日本国際美術展 人間と物質」展のクリストによる〈梱包した床〉に、宗左近氏や岡田隆彦氏や草森紳一氏が「反重力」を感じたとしても、当然クリストの作品は「反重力」のみに留まるものではない。同様に、「反重力」的であるとして豊田市美術館に集められた諸作品もまた「反重力」のみには留まらない。「反重力」と言われれば「反重力」的に見えなくも無いそれらの作品は、従ってその「反重力」である事の外部をも同時に見なければならないのは当然であり、故に「反重力」とは全く別の括りで「豊田市美術館」に存在する作品を語る事も可能であり、且つそれは不可避的に重要である。


例えば同時期の中京地区で行われていた「あいちトリエンナーレ」の副題は、「揺れる大地―われわれはどこに立っているのか:場所、記憶、そして復活」であり、また同じ様に同時期開催の東京・森美術館の「六本木クロッシング2013」の副題は「OUT OF DOUBT! 来たるべき風景のために 疑うことからはじめよう」だったが、それらをシャッフルして「豊田市美術館」が「われわれはどこに立っているのか」、「あいちトリエンナーレ」が「疑うことからはじめよう」、「六本木クロッシング」が「浮遊|時空旅行|パラレル・ワールド」であっても「不可」とは言えず、従って「豊田市美術館」の「反重力」とされている作品は、同時に「疑うことからはじめよう」であり、「われわれはどこに立っているのか」であるとも言える。


それでも一旦「反重力」という括りに従って「豊田市美術館」の作品を見た場合、眼を含めた何らかの感覚器官を通して「反重力げ」に感じられる作品は確かに多い。受けた第一印象をかなり乱暴に書き連ねれば、その様態を風という外部ファクターに任せる作品、嘔吐彗星の微小重力下での生活を例示する作品、錯視によって身体の上昇を感じさせる作品、諸々の斥力を設計的に提示して反作用的に見えるものを差し出してみせる作品、素朴な光学ギミックで像を合成する事で引力の方向性を変えるかに見せる作品、小質量エレメントの集合体が物質の極限を表象しもする作品、位相的なものを含めた複数次元を画面に重ね合わせる作品、霧中の環境を提供する事で観者を「霧中」に引き込もうとする作品、ホワイトキューブ中央に置かれた極小を通じて極大を感じさせる作品、微視的なものからの投影が巨大画面を構成する逆説的状況を提示する作品、コンフォータブルな素材の属性が「重力」を忘却する気にさせもする作品、膨張と収縮を数秒の計算出力に圧縮するものと主体の同一性を不確定的なものとする作品、極超巨星の質量を持つ高密度の矮星の如き金属作品等々である。それらは現実の空間に存在する事が重要であり、だからこそ「展覧会」という空間上の出来事の中にマッピングされて初めて成立する。


他方、今ここで列挙しなかった幾つかの作品は、小さくも、軽くも、儚くも、脆くも、柔かくも、淡くも無いものであり、それらのものの持つ属性で「反重力げ」を始めとする「げ」を感覚的に感じさせるものではなく、「反重力」という表象不可能な「概念」でしかないものを、何かしらの「概念」の形で差し出しもするものであったとも言えるだろう。「多中心」の「宇宙の缶詰」とそれを語る「多中心」の視点、長くも短く短くも長い100万年と "I am still alive"の何日間、滅亡に引き寄せられる幾つもの話。それらは拡大縮小という空間性に些かも「劣化」する事の無い、「観念」の「図示」としての「ベクトル画像」の様なものであり、その「体験」は「読書」に似る(実際、文字通りの「読書」が可能な作品も存在した)。

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「反重力」="Antigravity" の接頭辞 "anti" は、例えば "anti-aging"(「抗老化」=老化への抗い)のそれであり、多くの「反-重力」は「抗重力」として表される。「抗重力」によってもたらされる「美学」は、我々が良く知り広く受け入れるところの「身体」のそれでもある。



「私たちの身体や生活を規定してきた枠から逃れるもの」としての「反重力」は、時に強迫的なイデオロギーになる事もある。



「重力」を「超越」した、銃弾(bullet)形のバストに見られる強迫性障害は、確かに「これになりたい(ここに行きたい)」という「現代のユートピア観」の表象の一つではある。「歪み」の無い「平坦」な「時空」である「反重力」的なものへの憧憬は、「重力に抗うバスト」への憧憬と相同である。「時空」の「収縮」である「重力」を一種の「悪」であると見做し、その「悪」から逃れられる様に思わせられる幻想は口当たりが良い。その一方で賢者の「反重力」は、そうした「善悪」の彼岸に存在するだろう。「われわれはどこに立っているのか」。その疑問に繋げる言葉は「それはわれわれが立っているここ」である。即ち「『ここ』とは何か」が問われるべきであり、その時「重力」こそが全く別の新しいものとして見えて来るだろう。

掲示

〈序〉


ここから東京駅に行くには、どういうルートが良いだろうと思案した。有楽町駅まで歩いて JR線で一駅行くか、営団丸ノ内線銀座駅から一駅行くか。結局歩く距離を少しでも短いものとする為に地下鉄を使用する事にした。三原橋近くまで拡張増床された三越新館前から階段を降り、そのまま晴海通り直下の地下道を丸ノ内線方向に向かう。


営団地下鉄銀座駅営団都営地下鉄銀座駅を結ぶ地下道の区間は、銀座線銀座駅から丸ノ内線銀座駅の間の区間と異なり、かなり「寂寥感」を感じるものである。荒彫石柱、チェーンフェンス、プランターで隙間無くガードされた干支石彫群は、嘗てここに「住宅街」を形成していたホームレス排除の為に急遽設置されたものだ。この石彫の「置かれ方」は、明らかに「鑑賞」の為のものでは無く、仮にこの石彫の「作者(≠業者)」がいたとしたら、ここまで酷い自作の「置かれ方」に対しても、些かのクレームも付けないという寛容な精神の持ち主であろう。



干支石彫を配置したのと同様の理由により、「地下歩行者道に明るく快適でうるおいのある空間を創出することを目的」として、この場所の「寂寥感」を払拭しようと設置されたのが、高さ130 cm 幅 360 cm の「展示スペース」13ケースで構成されている、東京都道路整備保全公社による「銀座プロムナードギャラリー」である。




身も蓋も無く言えば、それは既存の行灯広告の薄いバックスペースを、「白壁」を備えた「ギャラリー」に改造し、周囲に額縁風の紋様を配する事で「芸術」のスペースとしたものである。確かにそれは、「芸術」のスペースとして調整されているが故に、立派に近代的な文化装置の一つと言えるだろう。


「銀座プロムナードギャラリー」の前を横切る「通行者数」がそのまま「観客数」を意味するのであれば、ここは他を大きく離して日本で最も「観客数」の多い「ギャラリー」と言える。同じ「都」関連の施設である為か、使用するに当たっての「禁止事項 」は、あの「読売アンデパンダン展」対策として1962年に制定された「東京都美術館陳列作品規格基準・基準要項」に準拠している様にも思える。


ギャラリーでの展示に当たり、次の事項は禁止されます。
(1)天井から直接吊り下げる作品の展示
(2)騒音を発する仕掛けのある作品の展示
(3)床面及び壁面等を汚損・き損するような素材を使用した作品の展示
(4)電気、火気類を使用する作品の展示
(5)鑑賞者に著しく不快感を与えるなど公序良俗に反するおそれのある作品の展示
(6)展示作品の販売行為及びチラシ等による宣伝行為
(7)その他、公社が不適当と判断した作品及び行為


http://tmpc.up.seesaa.net/image/H22C5B8BCA8C3C4C2CECAE7BDB8CDD7B9E0.pdf


「銀座プロムナードギャラリー」の、「天井」「床面」「壁面」が何処を指すのかは不明だが、それもこれも「銀座プロムナードギャラリー」が「東京都美術館」に准ずるスペースであると考えれば、「小東京都美術館」である事の表現方法として、それらの語が使用されたとする解釈も、かなり無理矢理ながら出来そうだ。加えて「貸会場」であり「団体の発表会の場」であるところからしても立派に「小東京都美術館」であり、またそれをリバースすれば、「東京都美術館」は「大プロムナードギャラリー」とも言えそうである。但しリニューアル後も1926年竣工の「東京府美術館」時代から続く「壁面の穴」を「伝統」として残し続ける前川國男設計の「上野大プロムナードギャラリー」に比べ、「無孔」の純然たる「白壁」が採用されている点では、「銀座プロムナードギャラリー」は「東京都美術館」よりも遥かに「モダン」な展示空間である。曲がりなりにもそれは、1929年の MoMA から始まるとされる「ホワイトキューブ」なのだ。


この「ギャラリー」は、圧倒的に無慈悲な「無視」に晒される空間と言える。「銀座プロムナードギャラリー」の「展示」の前を通る殆どの歩行者(それを観客とするのであれば殆どの観客)にとって「展示」は「背景」でしかなく、「ホワイトキューブ」を背負った「展示」自体が「壁」の一部であったりする。「越後妻有」や「瀬戸内」よりも、信用金庫や公民館のロビー空間にも似たこの「発表会の場」=「銀座プロムナードギャラリー」というガラスの向こう側の空間で「アートイベント」を成功させる方が、現代美術にとっては遥かに困難な挑戦になるだろう。


圧倒的な「無視」を「注視」に変えるのは、「事件」という設えだろうか。しかしそれは、「事件」そのものの持つ非日常性と「アート」の非日常性、即ち「摩擦」が起きるレイヤーを混同混淆する極めて安直な方法論に違いない。少なくともアーティストがダンボールを運んで来て、そのギャラリーの前で実際に寝泊まりする事で当局とのストラグルを意識的に発生させ、最後には「これはアートだから」の一語で切り抜ける類のやり方は、悪手且つ禁手であろうし、何よりもそれはつまらない。それならば、嘗てのホームレスの「住宅街」とその前を行き交う通行者を忠実に再現した精密なジオラマを、「展示スペース」内に展示した方がまだましというものである。

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東京ステーションギャラリー」に行ったのは、「その展覧会」を見た翌日の事だった。東京駅丸の内北口改札口を出て、ピカピカに「復原」された八角形の北ドームのそのまた北側に、同ギャラリーの入口がある。ギャラリーのエントランスに設置された券売機で入館券を買う。その券売機の右側にはこう記されたプレートが嵌っていた。


「この建物は重要文化財です。創建当時のレンガ壁にはお手を触れないでください。Please do not touch the brick wall.」


「作品にはお手を触れないで下さい」ではなく「壁にはお手を触れないでください」という国内のギャラリーを寡聞にして他には知らない。


エレベーターで3階まで上がると「生誕100年!植田正治のつくりかた」が始まった。3階の展示室は、同ギャラリーの公式サイトの記述に従えば「白壁の現代的な空間」である。その3階の展示室を一巡した後、階段を下って2階へ行くと、そこは一転して「重要文化財」の「壁」を持つ空間だった。


重要文化財」に切り替わっても、「白壁」と変わる事無く「植田正治」を十分に堪能してから、ミュージアムショップを通り、出口に向かう階段を降りて行くと、そこにもまた「創建当時のレンガ壁にはお手を触れないでください」の注意書きがある。ここでの見物は「重要文化財」の「壁」だけであるから、「壁」の見物を飽きる事無く見つつ、その前日に見た「その展覧会」のステートメントを思い出していた。


本展は、「絵画にホワイトキューブは必須か?→答え:否!」という、一見すると暴力的だが、 よくよく考えると当然のことを、絵画出身の作家6名によって改めて立証しようという意図を発火点として企画された。ホワイトキューブは近代以降の美術作品展示にとって、作品展開の自立と可能性の発露であったと同時に、脆弱で安易な思考を生む揺り籠となった。ホワイトキューブの登場によって、「白」は全てを平等に受け入れ、発言や口出しをしない聖母的存在となった。 本展は以上のことに対する応答として、日々、壁に展示され鑑賞されている絵画以外の存在=ポスターや書類など情報メディアの「展示場所」である掲示版を絵画の展示空間として設定する。 作品のあり方に対して日々過激な取り組みと考察を繰り広げている絵画出身の作家6名が、ベージュ色の壁布の掲示板に挑戦状を叩き付ける。その格闘の様を通じて絵画にとっての展示とは何かを考察し、美術における「白壁教の信者」たちに喝を入れる機会としたい。


http://kabegiwa.com/news.html


ここで「壁」は「母(聖母)」に例えられている。しかし当然「壁」は「母」とは異なる。一部の画家が「脆弱で安易な思考」に陥ったとしても、その原因は「壁」による「母原病」ではない。所謂「母原病」は「子供」に対する「母」の接し方が原因とされるが、無機物である「壁」は「母」の様に画家に対して接して来る訳ではない。従って「壁」は画家を溺愛する事も甘やかす事も無い。仮に「ホワイトキューブが溺愛し甘やかした所為で、こんなに歪んだ作品になってしまった」と画家が「ホワイトキューブ」を非難したとしたら、それは全く以って御門違いというものであろう。「ホワイトキューブ」が問題であるにしても、それは「ホワイトキューブ」の側に原因があるのではなく、「ホワイトキューブ」への画家の「接し方」にそれはある。或いは「ホワイトキューブ」というのは、そうした「展示」の「場」への「接し方」の別名であるだろう。従って「壁」が現実的に白く塗られていなくても、その「接し方」が同じであれば、そこには「ホワイトキューブ」と全く同じ問題が発生し得る。「ホワイトキューブ」という「接し方」にとって、それが現実的に「白壁」である事は必ずしも条件とはならない。確かに「白壁」でなければ絶対に成立し得ない作品というものは存在する。しかしそれはまた「例外」と言うべきものであろう。

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ブライアン・オドハティ(Brian O'Doherty)は、1976年の "Artforum" 誌で三本のエッセイを発表した。後にそれが "Inside the White Cube: The Ideology of the Gallery Space" として書籍化される。(Google による「なか見」


オドハティはその中で、"A gallery is constructed along laws as rigorous as those for building a medieval church.(ギャラリーは中世の教会の如くに厳密な法則で構築される)" と語り、その法則こそ "one of modernism's fatal diseases(モダニズムの不治の病の一つ)" としている。「美術」展示に於ける「不治の病」とされるモダニズムの法則とは、「視覚」の対象としての「作品」以外の要素を極力排除する調整を行い、且つ「視覚」以外の感覚を周到に観客から奪う事にある。例えばその調整には、ギャラリー空間に窓を設けない、光源は必ず部屋の天井に設置する、自分が歩いている事を自覚化させないフラットでスムースな床にするというものがあり、そこに壁を白く塗る事も含まれている。確かに如何に壁が白く塗られていようと、部屋の光源がテーブルライトやテーブルキャンドルのみであったら、そこは決して「ホワイトキューブ」にはなり得ないだろう。寧ろ光源が天井にセッティングされ、壁面到達時にフラットな光になっていさえすれば、壁がどの様な状態であっても「ホワイトキューブ」の条件を満たし得るケースは少なくない。例えば、「重要文化財」で囲まれた「東京ステーションギャラリー」の展示空間が、或る面でそうである様に。


観客を専ら「視覚の人」にしてしまう事。それをオドハティは "cartesian paradox(デカルト主義的逆説)" と呼んでいるが、それこそが「ホワイトキューブ」という、モダニスティックな「イデオロギー」の現れの一つであろう。そして確かに「白壁」は、その「イデオロギー」を、表現者のみならず観客に対しても、内面化する事に大いに寄与したとは言える。しかし一旦その「イデオロギー」が内面化してしまってからは、「視覚の人」は「展示」の為に調整された空間であれば、何処へ行っても「白壁」の部屋にある様に「作品」を眺めるのである。


「掲示」という行為そのものは、「展示」と何処かで一線を画すかもしれない。但しそれは、「掲示」の場が「視覚」の対象としての「作品」以外の要素を極力排除する事を要求する「展示」の為に調整されていない事が前提になる。仮に「作品」以外の要素を極力排除する「掲示板」といったものが存在するとしたら、それは「掲示板」ではなく「展示板」と呼ぶべきものであろう。ステートメントには「掲示版を絵画の展示空間として設定」とあるが、果たしてそこにあった「ベージュ色の壁布」は、「掲示板」であったのだろうか。それとも「展示板」であったのだろうか。


"display" の日本語訳は「展示」であると同時に「陳列」である。「銀座プロムナードギャラリー」の晴海通りと直交する、中央通り直下の地下道壁面に穿たれた「松屋銀座」のウィンドウディスプレイは、「展示」ではなく「陳列」の場であると言えるだろう。「白壁」である事も多く、形態も含めて「銀座プロムナードギャラリー」との類縁性が高いとすれば、「銀座プロムナードギャラリー」もまた「展示」ではなく「陳列」の場であるとも言える。各作家一人一人に独占的に割り当てられた「ベージュ色の壁布」上の「掲示」の次は「陳列」を見たくなった。