中原浩大 自己模倣

自分にとっての「中原浩大」の「出現」は、自分にとっての「谷岡ヤスジ」の「出現」と同じだった。「中原浩大」が「谷岡ヤスジ」と同じだと言っている訳では無い。それらの自分への「出現」の「意味」が同じなのだ。


そう思って改めて「谷岡ヤスジ」氏を調べていたら、Wikipedia に次のセンテンスを発見した。


私生活では女優・小西まち子と結婚、谷岡・小西の間には子もあった。谷岡の人柄は優しい子煩悩な父親で、彼の周囲の人々はみんな「善人で、人格者であった」という反面、妻・小西からは「(谷岡は)一匹狼であった」との証言もある。日本漫画界における「真に比類なき天才」だと見る向きもある。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E5%B2%A1%E3%83%A4%E3%82%B9%E3%82%B8


「子煩悩な父親」「一匹狼」「真に比類なき天才」…。これらの谷岡ヤスジ氏に対する評は、恐らくそのまま中原浩大氏を表す言葉にもなり得るだろう。実際そうした評も多く見られる。しかし自分の「中原浩大」や「谷岡ヤスジ」にとっては、それらの評はどうでも良い言葉である。


谷岡ヤスジ」の自分への登場は、1970年4月28日発売の「週刊少年マガジン1970年19号 5月3日号」が最初だ。中学二年の事になるが、実際に邂逅したのはその発売日直後の「天皇誕生日」から始まる連休明けの個人経営珠算塾の待合室(実際には玄関三和土)での事だったと思われる。


「週刊少年マガジン1970年19号 5月3日号」の表紙は、エジプト・ギザのピラミッド前で「少年マガジン」を読む(読まされる)ラクダに乗った観光ラクダ引きの写真が全面にレイアウトされ、そこに「あしたのジョーちばてつや)」「巨人の星川崎のぼる)」「ワル(影丸穣也)」「キッカイくん(永井豪)」「ほらふきドンドン(ジョージ秋山)」のタイトルが踊る写植によって配置され、表紙下部には「3大ナンセンスギャグ」として「秋竜山(「親バカ天国」)」「南泉寿(「泉寿白書」)」「谷岡ヤスジ(「メッタメタガキ道講座」)」の名前が載る。因みに「山上たつひこ(「光る風」)」「桑田次郎(「ミュータント伝」)」「旭丘光彦(「LET‘SGOケネディ」)」「石森章太郎(「リュウの道」)」は、「表紙落ち」している。


小学生の頃の愛読書は、1970年の「少年マガジン」で「表紙落ち」した、他でも無いその「石森章太郎」著の「マンガ家入門(1965年=石森氏27歳)」だった。同書を「再編集」した「石ノ森章太郎のマンガ家入門」の「まえがき(1987年11月記)」には、同書及び「続マンガ家入門」が「重版を続けて、現在まで併せて100版を越えて」いると書かれている。100の重版がされたという事は、同書が「マンガを読む」少年少女のものではなく、「マンガを描く」少年少女のものである事を考えると、「マンガを描く(描きたい)」昭和40年代の少年少女が、自分を含めてそれ程には例外的な存在で無かったという事なのだろう。その「漫画を描く」少年少女向けの本の「テクニック編」の冒頭には以下の様な文章が書かれ、挿絵が併せて載せられていた。


マンガは、ギャグとストーリーの、二つのジャンルに大別されています。



絵は常に或る種のイデオロギーを内包している。「マンガを描く」昭和40年代前半の少年少女にとって、この挿絵から読み取れるものは、「マンガは、ギャグとストーリーの、二つのジャンルに大別」される、即ちそれらが「異種」のものであるというイデオロギー、そしてそれぞれの類型的な形象(とその描画法)が導き出され、一種強迫的に働く「指標」として現れたりもする。但しその「指標」は、「トキワ荘」的な「類型」の範囲内に留まるものである事は言を俟たない。「石森章太郎」の「マンガ家入門」は、「トキワ荘マンガ家入門」とも言える。


1970年4月、嘗て「トキワ荘」の活躍の場であった「少年マンガ雑誌」に、「トキワ荘」の語法からは全く説明不可能な「谷岡ヤスジ」が登場する。「トキワ荘」的な「洗練」と無縁の描線。常に「ムジ鳥」の「アサー〜〜〜」から始まる冒頭部に象徴される「ワンパターン」=「工夫」への無関心。「手塚治虫」や「石森章太郎」ら「トキワ荘」のメンバー(「劇画」ですら)が終生持ち続けた「映画」や「アニメーション」といった「映像表現」に対する「劣等感」の不在、即ち「描画(表現)」に対する「図式(表徴)」の勝利。


1970年の「メッタメタガキ道講座」を、1970年の友人は「このマンガメチャクチャ面白い」と言い、それを見てしまった1970年の自分もまた、その瞬間に「トキワ荘マンガ家入門」によってもたらされた「憑物」が一気に落ちてしまう。その時の気持ちを当世風の言葉で表わせば「コレってアリですか?」だった。しかし現実的にそれは、十分に「アリ」なのである。何故ならば「このマンガメチャクチャ面白い」からだ。


その時、中二病の中二生なりに「谷岡ヤスジ」の「メッタメタガキ道講座」という「表現」がこうなるに至った「理由」を色々と想像してみた。「アンチ〜」的な幾つかの「理由」の候補が現れたものの、やがてそうした「理由」を問う事自体が馬鹿馬鹿しいものに思えて来た。そして「理由」が判らないものを「追随」の対象とする事もまた馬鹿馬鹿しいと悟った。「追随者」というのは、常に何処かで「解釈された理由を追随する者」の略であるだろう。技術的には1秒後にも「到達可能」であるものの、存在的な「到達可能」には永遠に至らない。それはまた「ギャグ」というものの「宿命」に違いない。

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埃が溜まったテレビのリモコンスイッチの電源ボタンに久し振りに手を掛けたら、画面中に黄色いダウンジャケットを着た男性が高速バスから降りて来て、いきなり両手に「拳銃」の形を作り、その「銃口」をカメラに向けていた。そして男性は得意満面の表情で言った。


「ゲッツ!」


10年振り位にテレビ画面で見るその男性の名前を思い出せなかった。15秒経っても頭の中から出て来なかったので、後で Google 先生に頼めば良いかと思い、その場は「ゲッツの人(仮)」とした。しかしその仮置き状態もまた落ち着かなかったので、Google 先生にすぐさま泣き付いた。先生は「ダンディ坂野」という名前を思い出させてくれ、尚も「他の人はこちらも検索」と「小島よしお」「ムーディ勝山」「スギちゃん」「波田陽区」「長井秀和」を差し出してくれた。誘われるままに「小島よしお」をクリックしたら、今度は「鼠先輩」「ヒロシ」「鳥居みゆき」「竹山隆範‎」「レイザーラモンHG」「コウメ太夫」「長州小力」「ゆってぃ」「はなわ」等々を横一線で並べてくれた。その多くが、21世紀初頭の日本に於ける笑いの中心的存在とされてきた人達である。


それらの「21世紀初頭の日本に於ける笑いの中心的存在」を一堂に介したテレビ番組、例えば「2003年4月19日の『エンタの神様』初回のパッケージそのままを丸々再現した番組」を想像してみた。彼等の「最強の持ちネタ」がスタジオで次々と繰り出される。但し2013年の「お茶の間」のそれらの「最強の持ちネタ」に対する笑いの総量は、21世紀初頭よりも確実に減っている事が容易に想像出来る。そして番組は「お茶の間」に冷徹な事実を突き付けるだろう。「自分はあの時確かにこれで笑い転げていた」。


勿論その様な番組が実際に制作される事は無いだろう(「正月番組」ならあり得るかもしれない)。「ギャグ」の「再展示」が「オリジナル」の受け入れられ方と寸分違わないものになるという世迷い言を、身も蓋も無い「現実」が己の立つ場所である演芸担当のテレビマンは凡そ信じない。テレビマンの誰も、「昭和の爆笑王」と称されもする「初代林家三平」の「爆笑」が「永遠」なるものだとは毛の先程にも思っていない。それは「昭和の〜」という「条件付き」の「伝説」なのだ。それを熟知した上で尚、「伝説の三平ギャグ」的な番組パッケージを、しれっとした顔で仕立て上げられるのが、「優れた」テレビマンの条件と言えるだろう。


但し「Eテレ」辺りはそうした「ギャグ」の「再展示」をするかもしれない。そして「ETV特集」的な検証番組の中の「再展示」で、視聴者は若き日の自分(或いは日本)が、今ではすっかりくすぐられもしなくなった「ギャグ」で笑い転げている過去の自分達の姿を、他でも無い過去の自分達の背中越しにぼうっと見るのである。


「ギャグが風化する」という言い方はある。しかし物理的存在ではない「ギャグ」に「風化」は無い。「風化」は「ギャグ」そのものではなく、「ギャグ」を取り巻く「環境」が「変質」する事を意味する。その「変質」を最大限利用して、「ギャグ」とその「環境」の関係を「メタレベル」から見ようとする、即ち「あの時こんな『ギャグ』で笑えていた自分や日本国民」を相対化する視点も生まれるとは言える。確かにそうした「相対化」の作業は尊重されるべきである。但しその時にそれが「笑い」の対象であったという「事実」もまた重いものである。それを否定してしまうと「笑い」そのものを否定する事にもなる。

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長くなった。「中原浩大」だった。実は、遠く「関西」の作家であった事もあって、「中原浩大」の実作をリアルタイムでそれ程多くは見てはいない。というよりもその殆どを見ていない事を、今回の「岡山県立美術館」の「自己模倣」展で再確認した。勿論印刷媒体の網点写真で幾つかの作品は「知って」いたものの、その網点写真の中の作品は今一つ心動かされないものであった事を告白しなければならない。


自分にとって最初の「中原浩大」の「出現」は、1990年に東京原宿にあった「Heineken Villedge」に於いてだった。出品作はあのレゴの作品である。当時はまだタイトルが「無題」ではなかったかと記憶する。「Heineken Villedge」の入口入って左側の部屋の白い丸柱に挟まれる様にその作品はあったが、それが置かれていた場所は、その一年前に行われていた展覧会で、自分自身が「自己模倣」に基づいて「再制作」した1984年の作品を設置した場所でもあった。「再制作」したのは、オリジナルが「加水分解」等の経年劣化で「ボロボロ」だったからだ。


「Heineken Villedge」の展示室に入るなり、頭の中に出てきた言葉は、あの「谷岡ヤスジ」と同じ「コレってアリですか?」だった。そして「中原浩大」と名指されているものが、実際は「ギャグ」である事をその場で確信した。「中原浩大」の「レゴ」は、「美術」ではなく「ギャグ」であり、その事こそが新鮮だった。従ってそうした「ギャグ」であるものを、「ポストもの派」や「彫刻」や「メディア」といった「美術」の語で表そうというのはそもそもが無茶な話であり、凡そそうした構えでは「中原浩大」から零れ落ちてしまうものが余りにも多い。それは現在の「嘔吐彗星」に至るまでそうなのだ。


岡山県立美術館の「中原浩大 自己模倣」展は、「2003年4月19日の『エンタの神様』初回のパッケージそのままを丸々再現した番組」の様にも、「谷岡ヤスジ・アンソロジー」の様にも自分の前に現れた。「レゴモンスター」や「海の絵」といった、「ダンディ坂野」の「ゲッツ!」の如き「メジャー」な「ギャグ」はそこには無かったが、それでも「自己模倣」の「中原浩大」はサービス精神旺盛だった。2013年に見るそれらの「ギャグ」の多くは、「ギャグ」としては滑りまくっていた。そしてその「滑りまくり」こそが「中原浩大」というものの持つ「可能性」なのだと確信した。何故ならば嘗て我々は確かに「ゲッツ!」で大笑いしたのだ。その事態が存在したという事実こそが最も「重要」なのである。