反重力

名古屋鉄道豊田市駅の改札を出ると、愛知環状鉄道豊田駅に向かうペデストリアンデッキ上にある松坂屋豊田店のスターバックスが、極めて魅力的な存在に見えた。鉄路で揺られ続けた心身は、電車の椅子とは別の椅子を欲していた。そこに熱いコーヒーがあれば尚良い。しかし結局美術館での時間が不足するという懸念から店には寄らなかった。


豊田市駅から豊田市美術館に至る坂道は12%勾配である。角度にすると6.8度になる。そこを鉄路で痛め付けられた重い足で登って行くと、「反重力 - Antigravity」展に到着する前にすっかり6.8度分の「重力の斜面方向の分力」にやられてしまった。果たしてここで "The Gravity Defying Boots(反重力靴)" 69.95ドル也(日本の発明家通販サイトでは、17,800円で同等品「スーパーピョンピョン」が購入可能)を履いていれば少しは楽だっただろうか。「反重力靴」と言えば、マイケル・ジャクソンの "Smooth Criminal" で使用された "Anti-Gravity Shoes" の方がメジャーであるが、しかし二つの「反重力靴」の間には決定的に大きな違いがある。"Hammacher Schlemmer" で売られている "The Gravity Defying Boots" は、履いている者に現実的な「反重力」感をもたらすが、MJ の "Anti-Gravity Shoes" は、特許名が "Method and means for creating anti-gravity illusion" である事でも明らかな様に、それを見ている者には「反重力」感をイリュージョナルに感じさせるものである一方で、履いている MJ やバックダンサーには「重力」を克服する身体的緊張を過酷に要求する。

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今まで自分が見てきた内で最も「反重力」的なものを感じた作品は、意外にも物質的に質量の大きいものであった。それは他でも無いヨーゼフ・ボイスの "Fond" シリーズのインスタレーションである。それを見たのは、西武百貨店池袋店12階に嘗て存在していた、今は雑貨・ホビー用品チェーン Loft になってしまっている「西武美術館」で行われた「ヨーゼフ・ボイス展」(1984)の会場だった。"Fond" シリーズは、ボイスの持ち技であるところのフェルトが大量に使用されている。一辺が1メートル数十センチの正方形に裁断されたフェルト生地が、人の背丈程の高さに丁寧に積み上げられて十数本の四角柱を形成している。そのフェルトの柱に銅で作られた造作が絡み、観客はその柱と柱の間を歩いて「鑑賞」する。


この作品のフェルトや銅にボイスが「込めた」ものは、当然ボイスであるから多数存在する。その「込めた」ものをボイスの過去発言から拾い、目の前にあるものを解釈するというのも悪い話では無い。しかしその時の自分にとってのそれは、その様な秘義めいたものとは無関係に立ち現れていた。目を瞑っていてもゾワゾワと感じる膨大な量の吸音性のフェルトから発する「引力/斥力」に、引っ張られそうになりながら同時に飛ばされそうになる自分の身体。地球上の現実的存在に対して働く「鉛直」方向に引っ張られる「引力」とは別の「引力/斥力」。このまま何処かに連れて行かれてしまうのではないかという恐怖にも似た感覚。それはジョン・ケージが「4分33秒」の着想を得た無響室(ボイスには無響室的な作品 "Plight" もある)に於ける「引力」と「斥力」にも似たものだ。


「反重力(「万有斥力」)」は、「重力(「万有引力」)」に対する反定立的概念として仮構される。即ち「反重力」は「重力」に対する疑いから始まる。世界が何処まで行っても「重力」に支配されている(例:天国ですら物体が落下したり、幽霊ですら多くは頭を上にした直立姿勢で表れたりする)とされているところでは、「斥力」としての「反重力」は「存在」しない。圧倒的な質量=「時空」の「収縮」であるフェルトを傍らにして、自分というやはり同じ「時空」の「収縮」であるものが引き寄せられつつ反発する。

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反重力とは、重力に抗するとされる力で、創成時の宇宙にインフレーションを起こし、今日の宇宙を加速膨張させているともいわれています。SF作品では、宇宙飛行やテレポーテーション、空中都市の原理として、物質・物体に関わる重力を無効にし、調節する架空の技術として登場します。加速度的に非物質化していく現在の社会を反映し、私たちの身体や生活を規定してきた枠から逃れるものとして、ここに「反重力」という言葉を掲げます。


本展では、身体から解放されるような軽やかな空間性を感じ、世界を巨視的な視点で眺めて地上の価値観から離れ、宇宙的な視野を持つことを目指します。空中都市や宇宙飛行は、はるか昔から人間のユートピアに対する憧憬を誘ってきました。これまでの人間の生活の基盤から離れるとき、それは希望に向かうのでしょうか、それとも絶望に繋がるのでしょうか。「反重力」について考えることは、現代のユートピア観を考えることにもなるでしょう。


http://www.museum.toyota.aichi.jp/exhibition/2013/special/antigravity.html


「風鈴の音」を涼しげに感じる感性がある。音に気温や体温を低くさせる様な物理的特性が無いにも拘わらず、その音は夏の暑さを数度下げてくれるかの様に聞こえる。但し「風鈴の音」には冬場の気温を数度下げる冷却能力は無い。冬場の風鈴の音は単なるノイズだ。特定の環境(日本の夏)に於ける特定の音(風鈴の音)が、特定の感性を持つ耳(日本人の耳)に温度の低下を感じさせる様に、特定の環境に於ける特定の光景が、特定の感性を持つ脳に「反重力」を感じさせる事もある。「重力」を直接「視覚」で感じる事は出来ないし、況してや現実的には「概念」以上のものではない表象不可能性としての「反重力」に至っては尚更であるから、「視覚」が主役になる「展覧会」という設えの中で「反重力」を見せようとすれば、そこには「風鈴の音」という「聴覚」情報を気温の低下に結び付けるのと同様の、「視覚」情報を「重力」の低下に結び付ける何らかの変換の過程が不可欠になる。


但し日本人の耳に聞こえる風鈴の音を、即座に「反温度」とし得ないのと同様、「反重力」と見做されている全てのものは、実際には「低重力(感)」とするべきであり、或いはそれは「反−重力」という「概念」上の「仮構」を表現したものである。それは「反重力靴」の実際が「低重力(感)靴」である様なものだ。或いは「風鈴の音」が「冷却」ではなく「涼しげ」である様に、それは「涼しげ」の「げ(気)」を接尾辞に付けた「反重力げ」であろう。それは存在しないもの=「げ」そのものへ向かわせる。

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歴史と文明と文化を人類ぐるみ蔽ってしまって、そのまま寒冷でない極北と化せしめたい執念と意欲の、人間ばなれした、物質ばなれした、その恐ろしさ……。身動きできずに、立ちつくした。(宗左近「使用拒否の玩具」『芸術生活』1970年7月号)


真中に立ってみると、空間のひろがりに圧倒され、布きれが波うっているようにも、また荒寥とした砂漠のようにも思われて、一瞬ふしぎな幻想にとらえられてしまう。これは、布きれという膜を使った、一つの現存(エキジステンス)である。このばあい、美術館という機能を担わされた物体を空無化するところに表現のすべてがあるのである。(岡田隆彦「新しいことばを求めて」『朝日ジャーナル」1970年6月7日号)


私が、この会場体験で、ヘンな気分になったのは、クリストの床の包装である。ヘンなところへやってきたぞという感覚で、全身の総毛が竦っていくのがわかるほどであった。まず、そこでは、人は、足音を失うのである。自らの足音などに、人びとはふだん、めったなことでは気をつけてもいないのだが、クリストの領域に足を踏み入れたとたん、私は足音の失っているのに気づいて、ヘンになった。(草森紳一「足音を失う」『SD』1970年7月号)


「第10回日本国際美術展 人間と物質」展(1970年)のクリスト〈梱包した床〉の展評から


「第10回日本国際美術展 人間と物質」展のクリストによる〈梱包した床〉に、宗左近氏や岡田隆彦氏や草森紳一氏が「反重力」を感じたとしても、当然クリストの作品は「反重力」のみに留まるものではない。同様に、「反重力」的であるとして豊田市美術館に集められた諸作品もまた「反重力」のみには留まらない。「反重力」と言われれば「反重力」的に見えなくも無いそれらの作品は、従ってその「反重力」である事の外部をも同時に見なければならないのは当然であり、故に「反重力」とは全く別の括りで「豊田市美術館」に存在する作品を語る事も可能であり、且つそれは不可避的に重要である。


例えば同時期の中京地区で行われていた「あいちトリエンナーレ」の副題は、「揺れる大地―われわれはどこに立っているのか:場所、記憶、そして復活」であり、また同じ様に同時期開催の東京・森美術館の「六本木クロッシング2013」の副題は「OUT OF DOUBT! 来たるべき風景のために 疑うことからはじめよう」だったが、それらをシャッフルして「豊田市美術館」が「われわれはどこに立っているのか」、「あいちトリエンナーレ」が「疑うことからはじめよう」、「六本木クロッシング」が「浮遊|時空旅行|パラレル・ワールド」であっても「不可」とは言えず、従って「豊田市美術館」の「反重力」とされている作品は、同時に「疑うことからはじめよう」であり、「われわれはどこに立っているのか」であるとも言える。


それでも一旦「反重力」という括りに従って「豊田市美術館」の作品を見た場合、眼を含めた何らかの感覚器官を通して「反重力げ」に感じられる作品は確かに多い。受けた第一印象をかなり乱暴に書き連ねれば、その様態を風という外部ファクターに任せる作品、嘔吐彗星の微小重力下での生活を例示する作品、錯視によって身体の上昇を感じさせる作品、諸々の斥力を設計的に提示して反作用的に見えるものを差し出してみせる作品、素朴な光学ギミックで像を合成する事で引力の方向性を変えるかに見せる作品、小質量エレメントの集合体が物質の極限を表象しもする作品、位相的なものを含めた複数次元を画面に重ね合わせる作品、霧中の環境を提供する事で観者を「霧中」に引き込もうとする作品、ホワイトキューブ中央に置かれた極小を通じて極大を感じさせる作品、微視的なものからの投影が巨大画面を構成する逆説的状況を提示する作品、コンフォータブルな素材の属性が「重力」を忘却する気にさせもする作品、膨張と収縮を数秒の計算出力に圧縮するものと主体の同一性を不確定的なものとする作品、極超巨星の質量を持つ高密度の矮星の如き金属作品等々である。それらは現実の空間に存在する事が重要であり、だからこそ「展覧会」という空間上の出来事の中にマッピングされて初めて成立する。


他方、今ここで列挙しなかった幾つかの作品は、小さくも、軽くも、儚くも、脆くも、柔かくも、淡くも無いものであり、それらのものの持つ属性で「反重力げ」を始めとする「げ」を感覚的に感じさせるものではなく、「反重力」という表象不可能な「概念」でしかないものを、何かしらの「概念」の形で差し出しもするものであったとも言えるだろう。「多中心」の「宇宙の缶詰」とそれを語る「多中心」の視点、長くも短く短くも長い100万年と "I am still alive"の何日間、滅亡に引き寄せられる幾つもの話。それらは拡大縮小という空間性に些かも「劣化」する事の無い、「観念」の「図示」としての「ベクトル画像」の様なものであり、その「体験」は「読書」に似る(実際、文字通りの「読書」が可能な作品も存在した)。

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「反重力」="Antigravity" の接頭辞 "anti" は、例えば "anti-aging"(「抗老化」=老化への抗い)のそれであり、多くの「反-重力」は「抗重力」として表される。「抗重力」によってもたらされる「美学」は、我々が良く知り広く受け入れるところの「身体」のそれでもある。



「私たちの身体や生活を規定してきた枠から逃れるもの」としての「反重力」は、時に強迫的なイデオロギーになる事もある。



「重力」を「超越」した、銃弾(bullet)形のバストに見られる強迫性障害は、確かに「これになりたい(ここに行きたい)」という「現代のユートピア観」の表象の一つではある。「歪み」の無い「平坦」な「時空」である「反重力」的なものへの憧憬は、「重力に抗うバスト」への憧憬と相同である。「時空」の「収縮」である「重力」を一種の「悪」であると見做し、その「悪」から逃れられる様に思わせられる幻想は口当たりが良い。その一方で賢者の「反重力」は、そうした「善悪」の彼岸に存在するだろう。「われわれはどこに立っているのか」。その疑問に繋げる言葉は「それはわれわれが立っているここ」である。即ち「『ここ』とは何か」が問われるべきであり、その時「重力」こそが全く別の新しいものとして見えて来るだろう。