不在

1980年代の日本の「現代美術」が回顧される際に、それが1980年代の日本の「現代美術」として語られる事は些かも無く、しかし或る意味でその後の日本の「現代美術」に最も繋がる形で最も重要なものの一つは、赤瀬川原平氏だったと今でも思う。


1980年代の赤瀬川原平氏と言えば、雑略に言えば「尾辻克彦」と「超芸術トマソン」の時代なのだが、後者が1982年に発売された「写真時代1983年1月号」の連載「発掘写真」の「街の超芸術を探せ」の回で登場した時、それを見て単純に「やられた」と思った。この人は何でこんなにもスマートに事を運べるのだろうか。「育ち」の違いをまざまざと感じさせられた。


日本の1980年代「現代美術」に関して巷間言われるところは、相対的に「華やか」であるとかそうした類の形容であったりするが、しかしそれに対して総じて言えるのは、寧ろ「泥臭い」という事であり、また「自己承認」に対して何処かしら「物欲しげ」ですらある。所謂「1980年代の日本の現代美術」には赤瀬川原平氏の様なスマートな「育ちの良さ」は無い。所謂「1990年代の日本の現代美術」にも無いかもしれない。仮にスマートさを競おうとすれば、1980年代のあらゆる「日本の現代美術」のアーティストが束になって掛かっても赤瀬川原平氏には敵わないとすら思われる。


それ故に、この人はストンと生まれたかの様に見えるスマートな仕事にこそ、その才能が遺憾なく発揮される。やはり櫻画報よりも千円札よりもハイレッド・センターよりも、恐らくは赤瀬川原平氏は宇宙の缶詰の人なのだ。但し「現代美術(前衛美術)」の重力場の中の人であった1970年代までの氏の仕事を直接体験するには自分は遅く生まれ過ぎ、そうした「現代美術(前衛美術)」の人であった赤瀬川原平氏とその仕事は、既に「本の中の人」と「本の中の出来事」であったから、それらは自分にとっては何処かでリアルタイムのものではないし、やはりそれらはやがて氏自身が茶化しつつ離れる事になる「美術」であり過ぎる。


最早「美術」の重力圏から離れつつあった30代半ばの赤瀬川原平氏が、南伸坊氏、松田哲夫氏といった「モンガイカン」と共に、路上で「純粋芸術作品」に見えてしまう「物件」を発見する「現代芸術遊び」を行い、やがてそれは「分譲主義」という誇大妄想的な「冗談」へと繋がり、そして1972年(35歳。南氏と松田氏は25歳)に四谷祥平館に「保存」された「四谷階段」の「発見」に至った後、その10年後に「トマソン」という、これもまた人を喰った名称を付けられた「超芸術」の「提唱」へと至る。「ただそこに超芸術を発見する者だけがいる」。1982年の自分にとって、アクチュアルな意味を持つ存在としての赤瀬川原平氏は「トマソン」から始まる「ごっこ」と「冗談」と、そして「周辺」の人であった。当時「ハイレッド・センター」と「トマソン」を比べて、より「拡がる」可能性を感じられたのは後者だった。そして尚も言えば、氏は「トマソン」によって、「作り出す」事から「見い出す」事へのパラダイム転換を切り拓いたパイオニアの一人であったのではないかとも思っている。


実際、現在を起点とする通史的な意味で、1980年代の日本の現代美術に重要な存在は、実は赤瀬川原平氏だったのではないかと、例えば冨井大裕氏の「今日の彫刻」の様な「仕事」を見ているとそう思えて来たりもする。現在の日本人作家の「作らない」系譜の作品には、1970年代以降の赤瀬川原平氏という「水脈」も少なからず関係しているのではあるまいか。「美術手帖」的な史観からすれば、赤瀬川原平氏は「1960年代美術」の人でこそあれ、「1980年代美術」には掠りもしないとされているが故に、1980年代には同時代的な意味を持つ「アーティスト」としては誌面に登場しないが、しかし恐らく氏のこの「トマソン」こそが、今日に「繋がる」形での1980年代日本現代美術最大のエポックの一つなのではないかと思える。


生徒たちとじっさいに町へ出て、壁や電柱にあるビラ、ポスター、標識、看板といったメッセージ類の観察をはじめ、それが横道にそれて現代芸術遊びが生まれる。つまり路上に転がる材木やその他日常物品の超常的状態、道路工事の穴や盛り上げた土や点滅して光る標識などを見て、「あ、ゲンダイゲイジュツ!」と指でさす。これは概念となってなお画廊空間で生きながらえる芸術のスタイルへ向けたアイロニーでもあった。その延長線上で、一九七二年、松田哲夫南伸坊とともに四谷祥平館の側壁に「純粋階段」を発見し、そこから「超芸術」の構造が発掘されて、後に「トマソン」と名付けられることとなる。


赤瀬川原平路上観察学入門」


The whole city was a Thomasson. Perhaps America itself was a Thomasson.
(このサンフランシスコ市全体がトマソンだ。いや、恐らくアメリカ自体がトマソンではなのではないか)


"Virtual Light" William Gibson


そして今、1990年代の赤瀬川原平氏が自分にフィットし始めている。「美術」の人間が最早誰も注目しなくなった、あの1990年代の赤瀬川氏である。その生涯の前半の部分=「前衛芸術家」に「美術」の人の多くは赤瀬川原平氏の価値を見るだろう。しかし今の自分にとっては、後半の部分こそが重みを持っているのである。


赤瀬川原平氏はマルセル・デュシャンの正統的な系譜の上にあるという評もある。趣味に生きた1990年代以降の氏は、後半生にチェスに興じたデュシャンを彷彿とさせるかもしれない。それが当たっているか当たっていないかはどうでも良い話だが、但し赤瀬川原平氏による大仕掛けの「遺作("Étant donnés : 1° la chute d'eau, 2° le gaz d'éclairage")」は見たくない気がする。


Tumblr の "Hyperart: Thomasson /unintentional art created by the city itself"。ここは「作者の不在」によっても生き続けるものにはどういった可能性があるのかというヒントの一つを与えてくれるだろう。


http://hyperartthomasson.tumblr.com/

無人島にて

大ロンドン市(グレーター・ロンドン:Greater London)内、及びその均衡を走るロンドン・オーバーグラウンド鉄道(London Overground)の路線に、イースト・ロンドン線(East London Line:2010年からロンドン・アンダーグラウンドからロンドン・オーバーグラウンドへ移管される)がある。



そのイースト・ロンドン線にはロザーハイズ(Rotherhithe)ワッピング(Wapping)という駅があり、その両駅間はテムズ川の下を通るトンネルになっている。1843年3月25日に完成したテムズトンネル(Thames Tunnel)である。テムズトンネルは、今日の多くのトンネル工事で採用されている「シールド工法」の先駆けであり、その最初の成功例になる。テムズトンネルに「シールド工法」が採用された理由は、それ以外にテムズ川の下にトンネルを掘削する方法が事実上存在し得なかったからだ。


19世紀初め、大英帝国とその植民地の貿易のハブだったロンドン港は、世界で最も活気付いていた最大の港だった。世界中から海洋上のあらゆる危機を掻い潜り、世界中の積出港から最新鋭の大型外洋帆船で数千マイルの行程を生き延びて来た珍重すべき産品は、しかし事もあろうにそのロンドンという町の中世的なインフラによって流通の速度をスポイルされていた。物流の妨げの一つになっていたのはテムズ川に掛かるロンドン橋である。シティ・オブ・ロンドン(City of London)を最終目的地としてテムズ川に入って来た大型外洋船は、12世紀に架けられた桁の低いその橋梁に、100フィート(約30メートル)の高さのマストを阻まれる形で停止させられる。その停止線=ロンドン橋から下流側の両岸はプール・オブ・ロンドン(Pool of London、ロンドン波止場)として発展し、やがて荷揚げの中心はプール・オブ・ロンドンから下流側のドックランズ(London Docklands)に移る。


問題は市の中心部シティ・オブ・ロンドンの対岸のテムズ川南岸サザーク(Southwark:サウス・バンク=South Bank)地区からシティ・オブ・ロンドンへと至る地上交通路が、事実上ロンドン橋しか存在しなかった点にある。中世とは大きく異るトラフィックの量に、ロンドン橋のキャパシティは限界を超えて久しく、そこでは世界一の慢性的な交通渋滞が常に起こっていた。しかしロンドン橋から下流側に、世界中から集められた富を積む大型船の通行を妨げる様な低い桁の橋を架橋する訳にはいかない。とは言え、仮に固定橋で100フィートを超す高さの橋梁を作ろうとすれば、重いカーゴを引いた馬がその高さまでに登れる為の、非現実的なまでに長大な長さを持つ緩勾配のスロープを作らねばならない。一方で大型の跳開橋を実現させる技術はまだ存在しなかった(タワー・ブリッジ〈Tower Bridge〉が完成するのは1894年)。斯くして両岸をトンネルで結ぶという選択肢が浮上する。



1882年時点でのドックランズ全図。図中に橋は一つも無い。ロンドン橋は図の左外になる。


テムズ川の地質は極めてトリッキーである。それは堆積性の砂、砂利、シルト、石化した木、古代の牡蠣殻等が層を成す「半液体」になっている。蒸気機関車の発明者として知られるリチャード・トレヴィシック(Richard Trevithick)を始めとする数々の技術者と、彼等を擁したプロジェクトの数々が、「半液体」に対して硬い岩盤を前提にした鉱山掘削技術(トンネル側面と天井を木材で強化して行く)でトンネル掘削に挑んでは、深刻な出水の前に敢え無く敗れ去って行った。


フランス革命からアメリカ経由でイギリスに逃れてきたノルマンディー人のマーク・イザムバード・ブルネル(Marc Isambard Brunel)は、「半液体」を掘削するアイディアを持っていた。ブルネルは、トマス・アレクサンダー・コクラン(Thomas Alexander Cochrane)と共に、その工法=「シールド工法」のパテントを取得する(1818年)。そして1825年にブルネルは、同工法でテムズ川両岸のロザーハイズとワッピングを結ぶ水底トンネル=テムズトンネルを着工する。それは容易ならぬ工事であり、途中7年間の休工期はあったものの、最終的に1843年にテムズトンネルは完成する。


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マーク・イザムバード・ブルネルが、今日に続く画期的なトンネル掘削法である「シールド工法」を構想するヒントとなったエピソードが、広く「伝説」として伝わっている。


シールド工法の発明

1800年代初頭、英国のエンジニア、マーク・ブルネルは、フナクイムシ(注:ブルネルのそれは Teredo navalis)が木を掘ると同時に木材の膨張からどのようにして身を守るのかを観察した。これにより彼はモジュール式の鉄の枠組みを使ってトンネルを掘り進むシールド工法を発明し、テムズ川の脆弱な川底の下を通るトンネル工事を成功させた。これほどの幅をもつ可航河川の下へ潜るトンネルはこれが最初であった。その後 Greathead によって改善されたシールド工法は、現在もトンネル掘削において盛んに行われている。


(フナクイムシの)生態


水管が細長く発達しているため、蠕虫(ぜんちゅう)状の姿をしているが、二枚の貝殻が体の前面にある。貝殻は木に穴を空けるために使われ、独特の形状になっている。

海水生。その生態は独特で、海中の木材を食べて穴を空けてしまう。木材の穴を空けた部分には薄い石灰質の膜を張りつけ巣穴にする。巣穴は外界に通じる開口部を持ち、ここから水管を出して水の出し入れをする。 危険を感じたときは、水管を引っ込めて尾栓で蓋をすれば何日も生きのびることができる。



Wikipedia「フナクイムシ」(章立逆)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%8A%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%83%A0%E3%82%B7


フナクイムシにとって、海洋中の木材(船を含む)は、彼等の食糧であり同時に住居である。それは彼等がそれを食べ尽くし、住居としての用を成さなくなるまで陸地に回収されてはならないものだ。仮に彼等の食糧/住居がそのまま陸地にすっかり帰属するものとなってしまったとしたら、一転してそこに留まる事は彼等の生存を危うくするだろう。フナクイムシは食糧/住居=木材が陸地の法則に回収される前にそこから脱出し、再び海洋中の新たな木材=食糧/住居へと移る。


フナクイムシが穿孔した木材は、外から見る限り「穴」が開いている様にしか見えない。しかし透視の目でそれを見るとこうなる。



一匹のフナクイムシが、一つの木材を専有する事は無い。ほぼ例外無くそこには複数のフナクイムシがいる。それは人(L'homme)の目には寂れて(déserte)いない様に見える。しかし一匹のフナクイムシにとって、他のフナクイムシは「他者」としては現れない。「壁」を隔てて互いに声を掛け合うという事を彼等はしない。そもそも彼等は「壁」を隔てた先に誰かがいる事も知らないし、それ以前に「壁」を隔てた「横」方向に世界が存在するという「信念(belief)」を持っていない。木材の中のフナクイムシに存在するのは、木材を食べる口を備えた「前」方向と、尾栓を備えた「後」方向のみの世界だ。それ以外には、端的に何も存在しない。前進して行った先が「元いた場所」に行き当たったとしても、彼等はそれが「元いた場所」であるという認識を持たない。フナクイムシ(を始めとする巣穴生活を営む生物)は、巣穴の中に於いては自身のY軸もZ軸も欠いた観念的な意味での「一次元」の生物である。一匹のフナクイムシは、自分が木材にどの様な形で(真っ直ぐなのか、曲がっているのか)、どの様に位置しているのか(真ん中なのか、端っこなのか、縦なのか、横なのか、斜めなのか)を知り得ない。木材がすぐにでも食べ尽くされてしまうのか、それとも(自らの命が尽きるまで)それが食べ尽くされる事が無いのかをフナクイムシは見通せない。そこにあるのはただ「木材とその住人の一体性」だ。


L'unité de l'île déserte et de son habitant n'est donc pas réelle, mais imaginaire, comme l'idée de voir derrière le rideau quand on n'est pas derrière.


無人島とその住民の一体性とは、それゆえ、カーテンの裏にいずしてカーテンの裏を見ていると考えるのと同様に、現実的なものではなくて想像的なものなのである。(國分功一郎訳)


Gilles Deleuze "Causes et raisons des îles désertes"
ジル・ドゥルーズ「無人島の原因と理由」


確かに「人(L'homme)」にとって「無人島とその住人の一体性」は想像的なものである。しかしフナクイムシにとって「木材とその住人との一体性」は紛れも無く現実である。「或る島が無人であるということは、我々にとって哲学的には正常なことと思われて然るべきなのだ(qu'une île soit déserte doit nous paraître philosophiquement normal)」や「或る島が無人島でなくなるには、そこに人が住めば済むわけではない(Pour qu'une île cesse d'être déserte, il ne suffit pas qu'elle soit habitée)」(以上ドゥルーズ前掲書から。訳同)が言えるのは、「二次元」以上を認識出来てしまう能力=原罪を負ってしまった「人(L'homme)」に対してであり、フナクイムシという「一次元」の生物には妥当しない。繰り返すが、フナクイムシには「他者」がいない。従って「他者」との関係で「自己」の位置を定位する事が出来ない。フナクイムシに「自己」は成立不可能だ。言い換えれば「他者」とその反照としての「自己」は、それぞれが平面上、乃至は空間内の「別の位置」を占めると「感得」される「二次元」以上の世界に於いて初めて「出現」する。

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「他者」との関係でのみ成立する「芸術」は、それ故に「二次元」以上の世界で「二次元」以上のものとして現れる。「芸術」が「アーティスト」の「自己」、そして「観客」の「自己」と切り離せないのであれば、原理的には「一次元」の(での)「芸術」というものは存在し得ないし、それを想像する事すら出来ない。


ところで例えば下掲画像は、「彫刻/立体作品及びそれを見る人」と「インスタレーション作品及びそれを制作する人々」に見えたりもする。



しかしこれらはそれぞれ「アリの巣穴にメタルを流し込んだもの」と「ウサギの巣穴にコンクリートを流し込んだもの」である。それらをキャストしたものを掘り出して「三次元」の世界に露出させる事で、「アリ」や「ウサギ」の「営み」を人(L'homme)が「理解」するのに都合良い形に次元変換したものだ。そして「一次元」の世界に住んでいた者の「営み」の「痕跡」を、「三次元」の世界の中で「見通せる」形の「形象」にすれば、確かにそれらは「三次元」の世界に住む「人(L'homme)」からは「彫刻/立体/インスタレーション」に「見える」のである。


フナクイムシやミミズ、或いはアリやシロアリ、またはウサギやモグラよりも、「他者」認識に於いて「高度」であり、従って卓越した空間(三次元)感覚を持っている筈の「人(L'homme)」であっても、例えばこの「JR/東京メトロ京王電鉄東京急行電鉄・渋谷駅」という「巣穴」(burrow、nest、warren) の任意の場所に立った時、果たして自分が何処にいて何処を向いているのかの「感取」は、複数の「他者」の視点が総合される形で記述された「構内図」や「案内板」無しに可能であろうか。



こうした「構内図」もまた一つの「立体図」であるが故に、それは「アリの巣穴にメタルを流し込んだもの」や「ウサギの巣穴にコンクリートを流し込んだもの」の様な「彫刻/立体/インスタレーション」の「形象」を持つ。しかし、駅構内の「立体図(=「立体・図」)」は、他ならぬ駅構内の中にいる者にとっては、誰もその様には「全体」を「像」として「感取」する事は出来ない(=「壁」や「天井」や「床」の向こう側に何があるのかを知る事は出来ない)という点で、この「彫刻/立体/インスタレーション」もまた「カーテンの裏にいずしてカーテンの裏を見ている」様な、「現実的なものではなくて想像的なもの」の「抜け殻」なのである。


我々はこれらの「アリの彫刻/立体」や「ウサギのインスタレーション」をどう見れば良いのだろう。少なくとも「アリ」や「ウサギ」そのものを良く知ろうとするのであれば、それとの距離を保ちつつ腕を組みながら眺めるというアプローチとは異なるものにならねばならない。その様な態度は「人(L'homme)」がそれとして制作した「彫刻/立体/インスタレーション」に対するものだ。しかし「アリ」も「ウサギ」も、当然「彫刻/立体/インスタレーション」を作ったつもりは更々無いのである。従って「アリ」や「ウサギ」に、彼等の「彫刻/立体/インスタレーション」に関して尋ねたとしても、当然「人(L'homme)」が期待する様な回答は得られないだろう。

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無人島にて 「80年代」の彫刻/立体/インスタレーション


1980年代、オールオーバーで装飾的なインスタレーションレリーフ的な絵画、あるいは絵画/彫刻の復権といった動向とは一線を画しつつも、しかし緩やかなる同時代性を帯びた作家たちの実践があった。建畠晢は彼らの一部を「時代の状況から鋭く孤立したところにそれぞれの拠点を定めた作家」と呼んだが、「関西ニューウェーブ」が席巻し、すべてが「インスタレーション」として呼びならわされていくその過程において、彼らはどのように自らの作品と向き合ってきたのだろうか。そこにはただ60年代や70年代との切断や急激な転換の痕だけが刻まれているわけではないはずである。


「ひとつの島が無人島でなくなるためには、なるほど、単に人が住むだけでは足りない。」―ジル・ドゥルーズが残した奇妙なテクストが私たちにヒントを与えてくれる。他者なきそれぞれの拠点=無人島において、本展の作家たちは自身の日常を信じつつも反転させ、制作を行ってきた。彼らの実践は、無人島になり続けようとする不断の過程なのかもしれないが、その創造性は、これまでの80年代美術のイメージに修正を促すものだ。


断片的に語られてきた彼らの創造性をつなぎとめる係留点をつくりあげることで、本展が「80年代」を再考する一契機になるとともに、それぞれの作家の実践を現在と結びつける場となれば幸いである。


http://aube.kyoto-art.ac.jp/archives/1449


京都造形芸術大学ギャラリーオーブで行われていた「無人島にて」と題された展覧会には、「『80年代』の彫刻/立体/インスタレーション」という副タイトルが付けられている。企画者によるコンセプト文を含めて、メインの展覧会タイトル「無人島にて」を「説明」するかの如くに付された形でこう提示されてしまったら、観客は会場に存在しているものに対して、それぞれの「80年代」(しかし一体何処の世界の「80年代」なのだろう)と、「空間」が先験的な形式であるとして疑わないそれぞれの「彫刻/立体/インスタレーション」(しかし一体何処の世界の「彫刻/立体/インスタレーション」なのだろう)を意識しなければならない気にさせられる。実際この展覧会について書かれたテクストの多くが、多かれ少なかれ「それぞれの『80年代』観」と、「それぞれの『彫刻/立体/インスタレーション』観」を、何処かで巡ってのものであったりする。しかしこの副タイトルとコンセプト文こそは、恐らく極めて巧妙に仕掛けられた本展の「トラップ」なのである。会場にあるものを単純に「(もう一つの)80年代」と見てしまったらそこでゲームオーバーとなるのだろうし、また会場にあるそれらを単純に「彫刻/立体/インスタレーション」と見てしまったらやはりそこでゲームオーバーとなるのだろう。


「無人島にて」というタイトルは、企画者自らが明かしている様に、前掲したジル・ドゥルーズの「無人島の原因と理由(Causes et raisons des îles désertes)」に由来している。1953年に書かれた未発表のこのテクストは、彼によるデヴィット・ヒューム論(「経験論と主体性 ヒュームにおける人間的自然についての試論("Empirisme et subjectivité. Essai sur la nature humaine selon Hume":以下「経験論と主体性」)」1953)の前後に書かれていると思われる。「精神はどのようにして一つの人間的自然に生成するのか(comment l'esprit devient-il une nature humaine ?)」というヒュームの「問い」が、イマヌエル・カントの超越論哲学の内在平面(plan d'immanence)と対比され、最終的にそれら(ヒュームの「経験論」とカントの「超越論」)の内在平面を総合する形で書かれているのが「経験論と主体性」だが、「無人島の原因と理由」もまた、それと同じ「問い」の極めて凝縮されたエッセンスであるとも言えるテクストだ。


先般から何回か引用している「無人島の原因と理由」に於ける「カーテンの裏にいずしてカーテンの裏を見ていると考える」というセンテンスでは、「現実的なものではなくて想像的なもの」として、感性の先験的形式としての「空間」の、他ならぬその先験性を疑っている。即ち「空間」は「前提」的な「形式」としては存在せず、「他者」の存在によって初めて「構成」される様な、「想像的なもの」が「事実」化したものなのである。従って「彫刻/立体/インスタレーション」と称される「観点」(キャストされたアリやウサギの巣穴が「彫刻/立体/インスタレーション」という「空間的表象」に「見える」といった様な)もまた、「想像的なもの」である「空間」をその存在の最大の拠り所とする限りに於いて「現実的ではなくて想像的なもの」になる。


「無人島にて」展会場で配布された「資料」(リンク先 pdf書類)には、実作者の言葉の引用が非常に少ない。「インスタレーション―――1979-1997」という章では建畠晢氏、たにあらた氏の言葉が引用され、続くチャプター「彫刻―――求心的、あるいは遠心的」では中村敬治氏、峯村敏明氏が、チャプター「立体―――ロダンから遠く離れて」では三木多聞氏、石崎尚氏、田近憲三氏、藤枝晃雄氏、他にも帯金章郎氏や、篠原資明氏や、渡部誠一氏や、藁科英也氏といった人達が、「それぞれの『80年代』観」(及び「歴史」観)や、「それぞれの『彫刻/立体/インスタレーション』観」(及び「空間」観)を述べている。しかし敢えて踏み込んで言えば、彼等は「アリの巣穴にメタルを流し込んだもの」や「ウサギの巣穴にコンクリートを流し込んだもの」が、彼等のものの見方の基板である「秩序(ordre)」によって「彫刻/立体/インスタレーション」に「見えてしまう」人達とは言えないだろうか。少なくとも「アリ」や「ウサギ」の側ではなく、彼等は「人(L'homme)」としてそれらを「観察」しようとする人達だ。従ってこの「資料」は、例えば2014年という時間平面でスライスされる「情況」を記すのに、「人(L'homme)」である2010年代の「評論家」と「学芸員」の言葉のみを載せる様な「乱暴」なものにも見える。


当然ほぼ全ての実作者は、現実的な「アリ」や「ウサギ」などと違って(仮に語りたがらなくてはあっても)言葉を発する事は出来るから、30数年前であっても丁寧に掘り起こせば何処かにそうした言葉の断片位は残っているだろう。その中に「空間」という言葉が出現する頻度は、これらの「人(L'homme)」によって発言されたものに比べて如何ばかりだろうか。しかし企画者の文章の締めの部分に「冒頭のエピグラフ(注:「君にそっくりな秩序だ」=ミシェル・トゥルニエ『フライデーあるいは太平洋の冥界』より)は強い自戒である」と先回りの形で書かれている様に、この「資料」に見られるこうした「乱暴」さもまた「トラップ」の一つなのだろう。


個人的な経験的知見から言えば、括弧付きではない80年代当時の「空間的表象」に「見える」仕事をする(自分の周囲の)実作者の多くは、しかし「空間」にそれ程興味があった訳では無い様に思える。即ち「先験性」としての「空間」が一義的な制作原理の位置にあった実作者は、実際にはそれ程には多くなかったのではないだろうか。勿論「美術手帖」誌を始めとする美術ジャーナリズムを構成する「人(L'homme)」が喧伝する「空間」をそのままに受け入れて制作した実作者がいなかったと言うつもりは無い。「『空間』に広げる」事こそが関心事であった実作者も確かにいるだろう(直接問い質した訳では無いので仮定法で書く)。その事が「80年代」をして、「『インスタレーションの氾濫』と『彫刻の復権』が同時に語られていた」時代であると「人(L'homme)」から「見える」としても、しかし寧ろ多くの実作者の関心は「営み」にこそあったのではないか。そしてその「営み」が結果として「空間」に展開される形になってしまう事で、「人(L'homme)」には「彫刻/立体/インスタレーション」という「空間的表象」に「見えて」しまうという事ではないだろうか。しかしやはり、「アリの巣穴」や「ウサギの巣穴」といった「営み」を「彫刻/立体/インスタレーション」として「見る」というのは「転倒」であるには違いない。


「無人島にて」展に集められた作品を見て改めて思ったのは、この人達もまた「先験的」なものとしての「空間」を信じていない人達だという事だった。従って「彫刻/立体/インスタレーション」という(「形式」に先立つ「形式」を成立させる)「観点」も信じてはいない。彼等にもまた最初に「営み」がある。当然それぞれの「営み」のかたちは異なるが、しかしいずれも「空間」からそれらが「始まって」いない事は明らかだ。


例えば本展で最も「空間的表象」としての「インスタレーション」に「見える」のは、椎原保氏による「営み」だと思われる。ここで10月11日のトークイベントでも改めて披露された「エピソード」を、その前後を含めて「資料」から引用する。


80年代に精力的に展開された鋼鉄線と石によるインスタレーションを語る上で、椎原は次のような興味深いエピソードを記している。インスタレーションの制作で多忙を極めた椎原は頻繁に東京大阪間を車で行き来していた。深夜、ひとりで車を走らせていると、「運転席から見える目前〔ママ〕の道が、それだけの風景にとどまらず自宅までの具体的な連続したリアルな道として感じられた」という。連続した時間の流れによって一連の空間が繋ぎとめられていくという行為はしかし、確固たる主体という係留点なしには不可能でもある。錯綜し、結びついては霧散する時空間を再構成していく行為は、自分が空間と不可分でありながら、決して同一ではないという事実を自覚する営為である。


確かに「主体」を持たないフナクイムシは、木材の中で「運転席から見える目前〔ママ〕の道が、それだけの風景にとどまらず自宅までの具体的な連続したリアルな道として感じられた」といった様な認識を持ち得ないだろう。フナクイムシに「前後」の次元はあっても、それを「延長」的なものとしては把握出来ない。しかしその一方で、この「具体的な連続したリアルな道」もまた、単に「空間」に於ける「延長」的なものとしては無い。


「具体的な連続したリアルな道」とは、例えば「無人島にて」展の「椎原保作品」へと至る「道」を、「JR「京都駅」より 市バス5系統/岩倉行 『上終町京都造形芸大前』下車」の後、「59段の大階段を登り、『人間館』を入ったところで『左』に曲がり、そのまま『奥』へと進み、突き当たって『右』に曲がり、再び『右』に曲がり、それから『左』へ曲がり、突き当りを『右』方向に見ると『椎原保作品』」という、一種の「道順」として捉える様なものだろう。そうした「道順」は、駅構内に立つ者の頭の中にもあるものだ。「椎原保」の署名がされた「作品」を、「道順の記述」―――太い鉄筋線を真っ直ぐ進み、突き当りを「左」に曲がって細い鉄筋線の路地に入って暫く行き、再び「左」に曲がってより細い鉄筋線の路地の坂道を登って行くとそこに「石」の一角がある的な―――と見る事も可能だ。「道順」を含む「順序」の英訳は "order" であり、それはまた「秩序」を表す。


「空間」や「時間」ではない別の "order" の内に、この「無人島にて」展の作家はいる様だ。「道順」というのがそれであるし、「手順」もまた見受けられる。「順接」というものもあるかもしれないし、それ以外の "order" もあるだろう。それらは狭義の「彫刻/立体/インスタレーション」の様に「眺める」対象としては無い。「アリ」や「ウサギ」の巣穴に入り込んで行く様にアプローチしないとならないものだ。


否、既に観客はアプローチしているのかもしれない。観客は「椎原保作品」を「見る」為に、「椎原保」を「通って」やって来た。そして「八木正作品」「笹岡敬作品」「宮粼豊治作品」「福岡道雄作品」「殿敷侃作品」「上前智祐作品」を「見る」為に、「八木正」「笹岡敬」「宮粼豊治」「福岡道雄」「殿敷侃」「上前智祐」を「通って」やって来たのだ。


再びドゥルーズの「無人島の原因と理由」から引く。


よくよく思い巡らせば、そこで人はありとあらゆる島が、理論上無人であること、あり続けることの新たな理由を見出すだろう。(前田英樹訳)


A bien réfléchir, on trouvera là une nouvelle raison pour laquelle toute île est et reste théoriquement déserte.


そう、「ありとあらゆる島」は無人島だった。それは「彫刻/立体/インスタレーション」や「80年代」という「鳥瞰」的「処理」を拒むものである。従って同展は、これまで「彫刻/立体/インスタレーション」や「オールオーバーで装飾的なインスタレーションレリーフ的な絵画、あるいは絵画/彫刻の復権」として「処理」されて来たものをも、「営み」の「無人島」として見直してみる「始まり」となる展覧会でもあるのだろう。

ことづけが見えない


ギャラリーハシモトの「ことづけが見えない」展は「二人の展覧会」だった。それは直ちに「二人展」を意味するものではないが、しかし両者は何処かで繋がるかもしれない。


「二人の展覧会」をまず最初に印象付けられたのは百瀬文氏の作品からだった。本展の新作「The Examination」の画面に登場するのは「二人」。「医者」と「患者」である。眼科医院の一室で、「ニデック社システムチャートSC-2000」の液晶画面に映し出された「ランドルト環」を使っての視力検査を、「医者」が「患者」に対して行っている(=「患者」が「医者」から行われている)。従ってこの「二人」は「験す者(検査者)」と「験される者(被検者)」という不均衡な関係にある。そこでは「験す者」は常に「験す者」であらねばならず、間違っても「試される者」になってはならない。


視力検査には視標と呼ばれる目印を用いる。被検者は視力測定法ごとに定められた一定の距離の位置から視標を確認して判別し口頭(あるいは指で指し示す)により応答する。


Wikipedia「視力 #検査方法」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%96%E5%8A%9B#.E6.A4.9C.E6.9F.BB.E6.96.B9.E6.B3.95


「験す者」が「験される者」に対して提示する「視標」を、「験される者」がどう認識したかを「験す者」に伝える方法は、それ自体が「験す/験される」の外部にある方法論=「口頭(あるいは指で指し示す)」に委ねられる。「験される者」は、その「判断」を意味伝達性の高い「情報」に変換して「口頭(あるいは指で指し示す)」で「験す者」に送る。「験す者」は、その「判断」の「情報」を受け取る。その事で「験す者」が「験される者」になる事を避ける事が出来る。


「The Examination」では「験される」事の無い「験す者」が「験される者」になり、「験される者」は(結果的に)「験す者」になっている。ここでは「験される者」が送る「情報」は、「験す者」が送る「情報」と「近似」的に「同じもの」だ。「験す者」が上方向が開いている最大の「ランドルト環」(0.1と仮定。以下それを基準にする)を示せば、「験される者」はそれに近似した大きさと方向性を有する「記号」を「験す者」に対して視覚的に提示する形で「応答」する。続けて視力検査の作法通りに「験す者」が一回り小さい右方向が開いている「ランドルト環」(0.2)を「験される者」に示せば、「験される者」は同様にそれに近似した一回り小さい大きさと「ランドルト環」が示す方向性を有する「記号」を「験す者」に対して視覚的に提示する。


やがて観客は次第に「作品」を見ている自分自身が、作者の罠に嵌められている事に気付く(或いは罠に嵌められていると感じられる)のである。「験す者」が提示する SC-2000 の「ランドルト環」は次第に小さくなる。そして「験される者」が提示する「記号」もそれに比例する形で連動する。0.3(下)、0.4(左)、0.5(下)、0.6(右)、0.7(左)、0.8(左)、0.9(下=ここで「検査者」は目を瞬かせる)、1.0(下)、1.2(上)、1.5(上=ここで「検査者」は自身の眼鏡を掛け直す)... 辺りまで来ると、観客の目にもスクリーン上に投影された「ランドルト環」の切れ目のコントラストが失われて来る。それと同時に「験される者」が提示する「記号」も読み取れなくなって来る。


改めて思い起こしてみると、「検査者」によって「ランドルト環」が「被検者」に対して提示されるショット、「被検者」によって「記号」が「検査者」に対して提示されるショットは、全てスクリーン上に「実物大」で投影されていた。加えて観客が座る椅子の位置も、スクリーンから約3メートルの距離にあり、それは画面中のSC-2000の諸元にある検査距離「3m〜6mの間で50cm間隔で設定可能」に「準じて」いる。即ちこれらの「実物大」によって、この「作品」を見る観客もまた、「視力検査」に「験される者」として参加させられている(と感じられる)のである。


最後の最小の「ランドルト環」、及び「記号」を、画面中の「二人」は互いに読み取れない様に見える。しかし「二人」がそれを読み取れていないのかそうでないかの確信は、「験される者」として「視力検査」に参加させられた観客としての自分の視力では得られない。HDではあっても、最小の「ランドルト環」を高コントラストで解像するまでの性能を持つかどうか判らない映像ソース(レンズ性能限界も関わる)の、スクリーン投射という再現性のクォリティ的には条件の悪い画面を前にして、観客は只々途方に暮れるしかなくなる。しかも画面中の「検査者」はSC-2000に表示された「ランドルト環」の開口部の方向を知り、「被検者」は自身が手にした「記号」の向きを知っているというのに、観客は彼等に対して「優位」に立てるものなど何一つ持っていないのだ。ここでの観客は、作品に巻き込まれた覚えも無いのに、それを見ているだけでまんまと巻き込まれてしまう。


作品の最後で「検査者」は考えている。通常は「正答」率60%以上というのが「ランドルト環」による視力評価法になるが、今回はそれが「正答」であるかそうでないかの見極めが困難だ。その「正答」とは一体誰の「答え」になるのだろうか。そして「検査者/被検者」は暫く考えた後、書類の「視力」の欄に数字を書き込む。それは「正しい」数字の様にも「正しくない」数字の様にも思える。しかし観客を初めとして、だれもその数字を「正しい」とも「正しくない」ともする根拠を持つ事は出来ない。


思えばこの作家の作品は常に「二人」だった。「一人」である事も「三人」以上である事も、作品の中に於いては稀だった。「二人」。それは「社会」の最小単位であり、同時に「政治」の最小単位でもある。「社会」の、そして「政治」の最もピュアで赤裸々な諸々の構造が、そこでは「二人」の間の「差異」に沿った形で極めてラディカルな形で現出する。この作家の数少ない「一人」の作品に、横臥する自分自身の臍にシリコンを流して取り出すというもの(”To See Her on the Mountain” 2013年)があったが、しかし「シリコン(の先にあるもの)」との間にも「社会」があり(嘗て、そしてこれから)、「政治」がある(嘗て、そしてこれから)のだ。

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写真家とモデル。これもまた「二人」であろう。それは画家とモデルの関係以上に「社会」的にも「政治」的にも不均衡だ。「カメラ」の名の由来となった「カメラ・オブスキュラ」を最初に実用化したのは、10世紀から11世紀に掛けてのイスラム圏の数学者、天文学者、物理学者、医学者、哲学者、音楽学者、イブン・アル=ハイサム(Ibn al-Haytham=ラテン名:アルハーゼン)であるとも言われている。この挿絵の「カメラ・オブスキュラ」がどれだけ実際の彼のものに正確であるかは判らないが、しかし彼のこの画期的なデヴァイスが、アリストテレスプラタナスの木漏れ日や、墨子の穴の空いた衝立から一線を画すとすれば、それは「像」を結ぶエリアと、「像」の対象とする「現実」のエリアを、「秘密の箱(暗がりの箱)」という形で厳密に区分した事による。



この挿絵では、「像」を見る者は「像」のエリア=「秘密の箱」の中に入っている。「秘密の箱」が「現実」のエリアに通じているのは、光の回折効果を生むべく開けられた非常に小さな「覗き穴」だけだが、その「覗き穴」こそは「像」を結像させる役目を持つ為に、そこから「秘密の箱」の中の何者かが「秘密の箱」の外を覗こうとすれば、その瞬間に光は遮られ、スクリーンの「像」は消失してしまう。従って「秘密の部屋」の中にいる者は、常に「現実」のエリアに対して文字通り背を向けて「像」を見る事しか許されていない。


他方「現実」のエリアの側にいる者は、この「秘密の箱」の中で何が「像」として見られているのかを知り得ないし、「秘密の箱」の中にいる者が何をしているのか、そこにいるのが誰なのかを知る事も出来ない。「秘密の箱」の中の男達の好奇の「目」と、脳を介してその「目」と神経的に繋がっている男達の好奇の「器官」の存在を、「現実」のエリアを歩く女は知り得ない。「カメラ・オブスキュラ」、そしてその子孫である「カメラ」という「秘密の箱」は、言わば「暗がり」から「窃視」する為のものなのである。「撮影者」は常に「暗がり」に隠れる。或いは「暗がり」に隠れる事で「撮影者」になる。「窃視する者」と「窃視される者」の不均衡。従って最も進化した「カメラ」装置の一つは、「監視カメラ」とそのシステムと言えよう。


通常「監視カメラ」は素っ気無い外観をしている。しかし例えば、千切れんばかりに手を振りながら極めてフレンドリーに接して来るテーマパークのキャラクターの「目」の部分に「監視カメラ」が備えられていたらどうだろうか。あの「巨大ネズミ」の何処を見ているのか判らない「目」の部分に、実際には「監視カメラ」が嵌っていて、その「巨大ネズミ」の「主体」が「ゲスト」の一挙手一投足を「暗がり」で「監視/窃視」しているのである。或いは薬局の前にインストールされたキャラクター人形の目に「監視カメラ」が嵌め込まれているというのはどうだろうか。愛らしく造形されたカエルやウサギやゾウが子供の目線までしっかり下がり、現象的には子供に対して極めてフレンドリーに振る舞いつつも、しかし「暗がり」にあるその「主体」はしっかり子供を「監視/窃視」している。フレンドリーなキャラクターが「視力」を持った瞬間、「目」として機能し始めた「目」は「プロビデンスの目」と化す。



つまりこういう事だ。写真の中に人物が入る場合、「窃視する者」がどれだけ「窃視される者」に現象的に歩み寄ろうとも、「窃視」という行為に否応無く内在する不均衡は拭えないどころか、それをすればする程その不均衡は強化されて行く。「監視/窃視」とは見る相手(対象)とのコミュニケーションの外部に目的を持つ視線の事を言う。そしてそれは紛れも無く写真撮影の視線でもある。「写真家」は「カメラ」を持ったその日から、何をどう工夫しようとも「窃視する者」である事を免れない。「写真家」は常に対象に対して、自分自身の身体を見られない様に隠しつつ「シュート」する。



それは「秘密の箱」の存在が不可欠な「カメラ」の機構から否応無く決定されるものだ。そこから身を剥がすには「カメラ」を捨てる以外には無いのだろうか。



会場内で「齋藤陽道」作と署名されている写真を、「監視カメラ」によるそれと妄想してみた。途端に写真は恐ろしくいたたまれないものになった。慌てて「齋藤陽道」という名前を被せた。写真は安全なものになり落ち着いた。そして今度は貼られたテープの端をめくる様に、少しだけ「齋藤陽道」を剥がし、その小さな穴から見える世界を覗いてみた。


写真の中の人達は、何故目線(が含まれる「顔」)を「写真家」に見せないのだろうか。リーフレット中の沢山遼氏の評論文には「視線を遮断し、そして視線を奪取しようとする、ひとつの劇を演じている」とあるが、例えば「パノプティコン(全展望監視システム)」の中の囚人が、「視線を遮断し、そして視線を奪取しようとする、ひとつの劇を演じている」事を試みたとしても、一方的に「窃視(監視)されている」=「コミュニケーションを欠いた視線に晒されている」事には変わりが無い。



果たして観客はここでも罠に嵌められる(或いは罠に嵌められていると感じる)。「写真」はそれ自体が相互性を欠いた不躾な視線だ。そしてその「写真」を「鑑賞」する観客の視線もまた同様に不躾である。何故ならば写真を「鑑賞」する観客は撮影者の視線を共有するからだ。「鑑賞」する観客は撮影者と共に「秘密の部屋」の中の住人である。その目は「監視カメラのモニタを見る目」だ。即ち写真を見る観客の目は「ビッグ・ブラザー」の側にある。"Big Brother is watching you"(ビッグ・ブラザーはあなたを見守っている/見張っている)。その意味でここに展示された写真は、写真が「窃視」的である事を隠さないが故に清々しい。徹底した一人称の文章になっているリーフレットに掲載された「写真家」のコメントもまたその意味で清々しい。


そして観客は験される。「窃視」と共犯関係にある「鑑賞の目」以外に、自身は写真を前にして如何なる「目」を持ち得るだろうかという問いを伴って。

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再び百瀬文氏に戻る。仮に罠に嵌められたとしても、それでもやるせない気分にまでに至らないのは、この作品が一種の「演芸(笑劇)」になっているからだろう。実際「The Examination」を落語に翻案する事も出来そうな気もする。それを例えば五代目古今亭志ん生八代目桂文楽六代目三遊亭圓生等に演じてもらうのだ(いずれも故人なので無理だが)。想像するだけでも心踊る。


「演芸」に於ける「二人」芸=ダブルアクト(double act)は、北米(例:ローレル・アンド・ハーディアボット・アンド・コステロスマザースブラザーズバーンズ・アンド・アレンマーティン・アンド・ルイス等)、中国(对口相声)、そしてドイツ等に存在し、日本では「漫才」を始めとして、その源流的系統上にある「博多仁和加(掛け合い仁和加)」や「軽口」等が知られている。


欧米のダブルアクトに於ける「二人」は、通常「インテリ」で「常識人」である "straight man (person)" (日本の「漫才」では「ツッコミ」に相当。以下便宜上 "straight man" とする)と、「無学」で「非常識」な "funny man (person)" (同じく「漫才」では「ボケ」に相当。以下便宜上 "funny man" とする)という不均衡な関係を持つストックキャラクターに別れる。日本の「演芸」に於ける「二人」の関係に見られる不均衡性は、「ツッコミ」と「ボケ」の他にも、落語の「世間(「健常」)」と「与太郎(「障碍」)」、或いは狂言の「主(雇用主)」と「冠者(被雇用者)」、古くは「猿楽」の「京童(「都会人」)」と「東人(「田舎者」)」等の対項的関係にも見られる。


「漫才」に見られる様な、不均衡の関係にある者が「友人」であり、その「二人」が対等に対話するという場面は、現実的にはそうそうあるものではない。事実上それぞれのソーシャルは「同じ者」同士で閉じられている。例えば自他共に "straight man" と認める者が、ツイッターで "funny man" に「粘着」された時、現実の "straight man" の多くは、極めて早い段階で対話の状況自体を成立不能なものとする(例:ブロック)。或いは "funny man" と見做した者に対して「殴り付ける」事しか考えない "straight man" もいる。ダブルアクトに於ける対話の持続性は半ば以上仮構的なものだ。


そのあり得ない、しかし社会構造的には極めてあり得る「力学的に均衡・緊張する場(沢山遼氏:前述リーフレット)」を、「二人」の「演芸」は仮構の手を借りて前景化する。「眼科医」が極めて「条理」的に「ふざけないで下さい」と「患者」の「ボケ」を「説諭」してそれきりになれば、「The Examination」に於ける「力学的に均衡・緊張する場」は成立しない。しかしここでの「眼科医」はそれをする事は無い。「条理」的ではない「二人」の関係を最後まで「力学的に均衡・緊張する場」の仮構として持続させる事で、「The Examination」というダブルアクト=「験す者」と「験される者」の「演芸」空間が広がる。


この「演芸」世界での「視力検査」の法則は「ゲーム」のそれであり、従ってプレイヤーの「二人」はその「外部」に出る事は出来ない。その法則はテニスのルールの様なものであり、「二人」が互いに「同じ」テニスラケットを使い、「同じ」フォーマットのコートを走り回り、自コートに入ってきたボールを必ず打ち返さなければならない様なものとも考えられる。そう考えると、通常の「視力検査」と呼ばれているものは、来たボールを打ち返さなくてはならない者と、それを打ち返して来たボールを打ち返さなくても良い者との関係にも似る。



ノバック・ジョコビッチ」と「セリーナ・ウィリアムズ」がゲームをすれば、同じ「テニスプレーヤー世界一」であっても不均衡は存在するし、そこから見えてくるものもある。しかしその不均衡は、「テニスボール・マシン(験す者)」と「練習者(験される者)」の間にあるそれとはレイヤーが明らかに異なる。


「テニスボール・マシン」をテニスの「ゲーム」に引き摺り出し、場合によっては打ち返されたボールに届かずに「テニスボール・マシン」がコートに無様に倒れてしまう。そこには「笑い」も生まれるだろうし、実際多くの「演芸」はそうした「転倒」を通じて、「条理」に内在する不均衡を「滑稽」に思わせる「笑い」を生む力学装置なのである。


【蛇足】


「The Examination」に最も寄与したのは「眼科医」役の「眼科医・大木隆太郎」氏だろう。実に素晴らしい「役者」だった。今までのこの作家の作品中の「最優秀助演男優」と思われる。思わず池袋まで目を診てもらいに行きたくなった。

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「芸術」にはまだまだ「笑い」が足りないという印象を持つ。「アーティスト」の多くは、「インテリ」の "straight man" になりたがるか、「道化」の "funny man" になりたがるかのどちらかに集約されるが、そのどちらもがそれらに対して「本当(マジ)」に関わろうとする事に違いは無い。所謂「コラボレーション」もまた、「本当(マジ)」で結び付けられた「同じ者」同士で閉じられているケースが殆どだ。そこには他人(この場合観客)が「鑑賞」するに足る「表現」としての「社会」や「政治」は皆無であると言っても良い。「フィクション」にしないと見えてこないものというのは、現実的に言って確かに存在するのだ。


そもそも「アーティスト」自身、「芸人」の様には自らを「メディウム」とする技術の蓄積が無く、また自らを「ロール」であるとする視点も「アーティスト」間で広く共有されている訳では無い。「本当(マジ)」に忠誠を誓う「アーティスト」は自他共に求められても、「本当(マジ)」から逃げ続ける「アーティスト」は求められない。


この「ことづけが見えない」という「二人展」の全体が、本人による「本人」を演じた「二人」を見せる「メディウム」であったらどうだろうと妄想した。今以上に「本人」で、本人よりも「本人」らしい、「ロール」としての「本人」達による展覧会。両者の間には本人そのものから受け継いだ様々な不均衡のスラッシュが引かれるだろう。それがダブルアクトの「演芸」として展開されるのだ。それは通常のものとは全く別の意味での「劇場型」になる。


「笑い」は「芸術」の閉塞を救う。桓武天皇は「エスタブリッシュメント」の対極にあった「俗楽」である「散楽(笑い)」を朝廷の保護から外した(延暦元年=782年)。以来日本での「笑い」は、「社会」的にも「政治」的にも不均衡を意識せざるを得なかった「世俗」の間で自然発生的な文化として展開し現在に至る。「雅楽」的な「金持ちの為の芸術」が存在する一方で、「笑い」はそれとは別の「芸術」が存在し得る事を示す。「条理」を崩したくないレイヤーには「笑い」は生まれない。そこには「宮廷文化」のみがある。であるならば、「宮廷文化」とは別の道を行く「条理」を崩そうとする立場の者には、必然的に「笑い」という方法論が前景化されて来ると思われる。

ミュージアムピース

【枕】


私は答えた。「不明な点は幾つかありますが大筋は判っているつもりです。あなたは物質のイデアプラトン的な意味でのイデアを電送しようとしたのではないですか?」


「全くその通り。ロウソクの炎の燃焼ガスが常に変化し続けていたとしても、それでもそれは同一のロウソクの炎だ。水面上の波が移動する事で、それを形成している水が置き換わっていたとしても、それでもそれは同一の波だ。そこにいる人間を構成している原子が5年前と入れ替わっていたとしても、それでもそれは同一の人間だ。形式、形状、イデア、それこそが本質なのだ。物質に個別性を与えている振動は、音に個別性を与えている振動と同じくらい容易に、電線を通じて遠隔地まで送信可能だろう。そう思った私は、例えて言えば陽極で物質を分解し、それと同じ設計図に基いて陰極側で組み上げ直すといった装置を作り上げた。それが私のテレポンプ(Telepomp)だった。

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"It is a little misty," I said, "but I think I get the point. You would telegraph the Idea of the matter, to use the word Idea in Plato's sense."


"Precisely. A candle flame is the same candle flame although the burning gas is continually changing. A wave on the surface of water is the same wave, although the water composing it is shifting as it moves. A man is the same man although there is not an atom in his body which was there five years before. It is the form, the shape, the Idea, that is essential. The vibrations that give individuality to matter may be transmitted to a distance by wire just as readily as the vibrations that give individuality to sound. So I constructed an instrument by which I could pull down matter, so to speak, at the anode and build it up again on the same plan at the cathode. This was my Telepomp."


エドワード・ペイジ・ミッチェル「体のない男」(拙訳)
Edward Page Mitchell "The Man Without A Body"
http://www.forgottenfutures.com/game/ff9/tachypmp.htm#nobody


世界最初の「トランスポーテーション」を扱ったとされるSF短編小説、エドワード・ペイジ・ミッチェルの「体のない男」(1877年)から引いた。エドワード・ペイジ・ミッチェルは、あの「SFの父」H.G.ウェルズに先行して「透明人間」や「タイムトラベル」等を小説にした作家としても知られている。


「体のない男」は、オールド・アーセナル博物館に収蔵された「前世紀にパリでギロチン斬首された極悪な殺人者の頭部」とされる展示物と会話した一人の観客の話である。但し実際には、その頭部はグラハム・ベルに先行して「電話」を発明し、「匂いの写真撮影法、瓶詰音楽、オーロラ凍結法を発見し、世界で初めて精神をスペクトル分析した」(以上フィクション)ボストンの科学者ドゥームコープフ(Dummkopf)教授のものだった。


ドゥームコープフ教授が何故に頭部だけになってしまったのかという本当の理由は、ミイラ化して博物館の展示物と化してしまった彼の口を通じて明らかになる。それは極めてベーシックな理由によって自身の転送中にエラーが生じた事によって生じた。「蓄電池の容器に未使用の硫酸を補充するのを忘れていた為に、体の残りを物質化する電力が不足してしまった」("I had forgotten to replenish the cups of my battery with fresh sulphuric acid, and there was not electricity enough to materialize the rest of me")。あのジョルジュ・ランジュランの「蝿(La Mouche)」とはまた違った意味で、科学技術に対して身も蓋も無い警鐘を与えていると言えよう。ダウンロードファイルに他のファイルが交じってしまうというのは確率的に低いが、ダウンロード中に電池切れというのは21世紀では日常茶飯である。


「ロウソクの炎」の自己同一性を語り「水面の波」の自己同一性を語るドゥームコープフ教授は、質問者の「プラトン的な意味での物質のイデアの電送」という発言に対して「その通り(Precisely)」と答えているから、彼の着想的には「その通り」なのだろう。それを可能にする「アルゴリズム」が如何なるものになるのかについては全く想像すら付かない。しかし仮にその様な技術が可能であれば、この発明の「次」の展開は、事物を「イデア」別に分解して電送する事になるに違いない。


その場合「ロウソク」の「炎」だけを、「水面」の「波」だけを電送するといった様な実験が行われるだろう。その次に生体実験が試される。そして様々な生体実験の後に、最終的には人間を用いた実験が行われる運びとなる。手始めに「睫毛」や「眉毛」だけを電送してみる(リスク的に「安全」そうだし)。送信側で人間の身体から切り離された「睫毛」や「眉毛」が受信側に送られる。但し受信側に「毛」が電送されただけでは不十分だ。この機械は「睫毛のイデア」や「眉毛のイデア」を、「睫毛のエイドス」や「眉毛のエイドス」を用いて送るという途方も無いものなのである。従って受信機の中にあるべきは、まかり間違っても「魂の内面」にある「毛屑のイデア」を「想起」させるものであってはならない。ではどの様な「アルゴリズム」が「毛屑のイデア」ならぬ「睫毛のイデア」や「眉毛のイデア」を送る事が出来るだろう。

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顔の画像を示されて「『目』を切り取って別レイヤーにしてくれ」と誰かに指示されたとする。その指示に誠実であろうとすればする程「選択範囲」を何処に定めるのかを決め倦ねる事になるのは必定だ。果たして「目」とは何処から何処までの部分を指すものなのだろうか。「目」は「瞼」や「睫毛」、或いは「眉毛」までを含むのだろうか。それともそれらは「目」の「本質」であるだろうところの「眼球」に対する「非本質」としての「縁取り」であり、「目(ophthalmós = οφθαλμός オフサルモス)」の「傍ら(para = παρά パラ)」に位置するもの=「parophthalmós(παροφθαλμός パロフサルモス=古代ギリシャ語風造語を作ってみた)」なのだろうか。



「純粋な趣味判断のための適切な対象」である「作品」に対し、「対象の完全な表象に含まれるただ周縁的なものでしかなく、本質的な構成要素ではないもの」を、18世紀〜19世紀のドイツの哲学者イマヌエル・カント氏は「パレルガ( παρἔργα)」とした。その例として、氏は「額縁(Rahmen)」「彫刻の衣襞(Gewänder an Statuen)」「宮殿の列柱(Säulengänge um Prachtgebäude)」を上げている。但し身も蓋も無い事を言えば、「(The man)カントは言っている」は、「(A man)イマヌエル・カント氏がそう言っているに過ぎない」という事をも同時に示している。そしてこれも身も蓋も無い事を言えば、西洋社会に於ける影響力という点で、イマヌエル・カント氏はイエス・キリスト氏のレベルには無い人物である。当然20世紀〜21世紀のフランスの哲学者ジャック・デリダ氏も。


イマヌエル・カント氏が、1790年(「判断力批判」の刊行年)に「額縁」に対して「対象の完全な表象に含まれるただ周縁的なものでしかなく、本質的な構成要素ではないもの」と自著の中に記してはみたものの、しかし「判断力批判」のその該当箇所が、同書の刊行と同時に全ての画家や画商に一大パニックを起こさせ、その結果「額縁」が「作品」にとって「本質的な構成要素ではない」と見做され、即座に彼等がそれを「捨て去った」という美術史(=お伽話)は当然あり得ない。その様な「一大パニック」が可能なのは、西洋社会に於いては唯一人イエス・キリスト氏の名に於いてのみだ。極めて現実的に言えば、「流通」までを含めて(今日的な「動産」としての「絵画」にとっては「流通」こそが重要である)「額縁」が取り去られた「絵画」が「純粋な趣味判断のための適切な対象」と看做される様になったのは、イマヌエル・カント氏の「判断力批判」から100数十年経過した20世紀後半の事であるし、また現実的には未だに「額縁屋」という商売は一向に廃れていない。


イマヌエル・カント氏の時代の「絵画」の居場所の多くは、ディズニーの "Frozen(アナと雪の女王)" で子供時代のアナが、"I think some company is overdue, I've started talking to the pictures on the walls (Hang in there, Joan!)" =「ずっとひとりでいると、壁の絵とおしゃべりしちゃう(頑張れジャンヌ!)」とソファの上にダイブして歌った、ジャン・オノレ・フラゴナールが掛かるあの部屋の設えが一つの基準になる(注)。あの装飾を施された壁を持つアレンデール城の部屋に「対象の完全な表象に含まれるただ周縁的なものでしかなく、本質的な構成要素ではないもの」を外された「純粋な趣味判断のための適切な対象」のみが飾られていたら、果たしてそれはどう見えるだろうか。


(注)但しイマヌエル・カント氏の時代にはアナがアレンデール城内で乗っている「自転車=ベロシペード」は存在していない。技術史的には "Frozen" の舞台は1860〜80年代――ペダルを持つベロシペードの工業的生産の開始と、国王夫妻が乗船する帆船が同居する時代――と見たい。ディズニースタッフ的には "Frozen" の時代設定は1840年代のノルウェーであるらしいが、いずれにしても「判断力批判」から数十年後の世界である。


ここにイエス・キリスト氏の「教え」に関わる「聖なる表象」として、「聖なる自律性」(キリスト教社会に於ける重要性から言えば、「絵画の自律性」が敵うべくも無い)を有していなければならない写本の二つのイメージを上げる。



8世紀のケルト写本「ケルズの書(Leabhar Cheanannais)」(左)と、15世紀フランドルのミニアチュール画家ランブール兄弟による「ベリー公のいとも豪華なる時祷書(Les Très Riches Heures du Duc de Berry)」(右)である。前者のミニアチュールには、イエス・キリスト氏の「イメージ」の周囲に「豪華」な「フレーム」が描き込まれている。寧ろそれは「フレーム」に「イメージ」が埋もれている様にすら見える。対する後者の「フレーム」は仮縁様にも見え、或る意味で今日的(ブックデザインとしても)である。「フレーム」を描き込む事が、一種の「聖別」的な役割を果たすとして、果たしてその「儀式」は如何なる理由を以って後者に於いて「簡略可」になったのだろうか。「聖」なる「イメージ」は、「フレーム」の助けを借りる事無くそれ自体で「聖性」を有すると見做されたのであろうか。


注意すべくは、これらの「聖」なる「イメージ」は、「聖」なる「本」の中に存在している事を忘れてはならないだろう。即ち「聖書」或いは「時祷書」の中に収まっている事で、それは既に「聖別」されているものになる。「聖」なる「本」の中に収まっている「イメージ」は、それだけで「俗」から遮断された「聖」性を有する。その事に気付きさえすれば、「イメージ」に「儀式」めいた「充実」の「フレーム」は必要無くなり、それに代わって「イメージ」を取り囲む「白紙」という「空虚」が「フレーム」の役割を果たす様になる。


「白紙」の上に「フレーム」を伴わない「絵画」の「イメージ」という形式は、現在の「画集」の原型である「オークション・カタログ」にも見られる。18世紀に生まれた「オークション・カタログ」は、1880年代までは単純にテキストベースの「目録」であったが、写真製版技術の発明を経てそれは作品写真入りとなる。その最初期のものには、競売に掛けられる「絵画」が「フレーム」付きで掲載されているが、程無くしてそれは取り払われ、「絵画」の「イメージ」のみが「白紙」の上に印刷される様になる。オークションという「物神崇拝」の世界では、「価値」は「イメージ」にのみ宿るものであるからだ。そこでは「純粋な趣味判断のための適切な対象」という迂遠な定義は必要無い。「オークション・カタログ」に於ける「白紙」の上の「絵画」の「イメージ」は、単に「動産」的な「財」のそれなのである。「額縁」を必要としない「紙幣」や、「台座」を必要としない「宝石」の様に。



タブラ・ラサ(Tabura rasa=Tablet blank)=何も書かれていない書板=白紙。書物の読者は、「白紙」の物質としての特性を見る事無く読書体験の純粋性に入り込む。「オークション・カタログ」から「額縁」が取り払われてから半世紀後、ニューヨーク近代美術館MoMA)が「白壁」の「白箱」を伴って登場する。そこでの観客は、「白壁」の「白箱」の物質としての特性を見る事無く鑑賞体験の純粋性に入り込む。即ち「白壁」を持つ美術館とは、書物的空間なのである。その「白壁」という「フレーム」は、「白紙」同様の「空虚」である為に、恰もそれが存在しないかに見える。しかしその「空虚」は、時に視線を「干渉」したりもする「実在」の「額縁」よりも、遥かに強力に「絵画」を「規定」する。そして確かにそれは、周囲環境を無化する事で「絵画」を「切り離す」のである。

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APMoA Project, ARCH vol.11、末永史尚『ミュージアムピース』」(以下「ミュージアムピース」)展の作品の多くは、愛知県美術館のコレクションの幾つかの作品の「フレーム」を始めとした「パレルゴン(πάρεργον)」を抽出し、それらを「主題」とする事でより「可視」化する一方で、「エルゴン(ἔργον)」を相対的に「不可視」化する。


古代ギリシャ語である「エルゴン(ἔργον)」は通常「作品(work)」と訳される事が多いが、一方でそれには「労働(labour)」や「作業(task)」という意味があり、また「実践(deed)」「行動(action)」「実行(doing)」等をも意味する。この展覧会で「パレルゴン」を言うのであれば、恐らくそれは「作品(work)の外」ではなく「企て(project)の外」の方が適しているだろう。即ちその「企て」とは、「展示」はもとより「企画」や「広報」等をも含む「作品を作品として見せる事」全般に関わるものである。


これもまた身も蓋も無い事を言えば、21世紀に於いて幾許なりとも「同時代」的であろうとする「画家」であれば、この「ミュージアムピース」展で遡上に上げられている様な、凡そ「大時代」的としか言い様の無い「額縁」は――それを「なんちゃって」的に使う以外(或いは東京都千代田区永田町の「自由民主党本部」内「自由民主会館ホール」に掲げられている「自由民主党歴代総裁の肖像画」等で極めて「マジ」に使われる等以外)は――まず誰も使う事は無いものだ。それは余りにもオールドファッションであるが故に、オールドファッションな作品(と言うか単にオールドな作品)を21世紀に展示するという特殊ケースを除いては、時に「反動」とされる所謂「日本の団体展」ですら使用されない。


MoMA以降の「白壁」を持つモダンな美術館に於いて開催される、端的に「オールドな作品」の展覧会という、或る意味で「ファンタジー」の支配する世界に於いては、18世紀の「判断力批判」の「パレルガ」や、20世紀の「絵画における真理」に於ける「パレルゴン」が有効な分析的(そして戦略的)方法論になったりもするだろうが、しかし「同時代」的に言えば、或る意味で「時代」イマヌエル・カント氏もジャック・デリダ氏もすっかり置き去りにしてしまった。であるならば、それらを21世紀的に「翻案」する必要はあるだろう。即ち「パレルガ」や「パレルゴン」を「作品(work)の外」という牧歌的なものではなく、「企て(project)の外」として見なければならない「時代」に突入したのである。


従って個人的にこの個展の会場で一番目に止まったのは「白壁」であった。この「白壁」の上に作家が「白色」の絵具で「上描き」していたら、この展覧会はまた全く違ったものになっただろう。

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イデア」を電送するドゥームコープフ氏の "Telepomp" に、「会場照明を電送せよ」とインプットしたら、受信側にインテグレートされるのは、この展覧会に出品された「会場照明の作品」の様なものかもしれない。この「会場照明の作品」の「穴」は、まさしく「穴のイデア」である。会場内の「作品」を見ていて、これらは「イデアの電送後」の世界なのではないかと思ったのだった。

これからの写真

【枕】


應長のころ、伊勢の國より、女の鬼になりたるを率て上りたりといふ事ありて、その頃二十日ばかり、日ごとに京白川の人、鬼見にとて出で惑ふ。「昨日は西園寺に參りたりし、今日は院へまゐるべし。たゞ今はそこ〳〵に。」など云ひあへり。まさしく見たりといふ人もなく、虚言といふ人もなし。上下たゞ鬼の事のみいひやまず。その頃東山より、安居院の邊へまかり侍りしに、四條より上ざまの人、みな北をさして走る。「一條室町に鬼あり。」とのゝしりあへり、今出川の邊より見やれば、院の御棧敷のあたり、更に通り得べうもあらず立ちこみたり。はやく跡なき事にはあらざんめりとて、人をやりて見するに、大方あへるものなし。暮るゝまでかく立ちさわぎて、はては鬪諍おこりて、あさましきことどもありけり。そのころおしなべて、二日三日人のわづらふこと侍りしをぞ、「かの鬼の虚言は、この兆を示すなりけり。」といふ人も侍りし。(吉田兼好徒然草」第五十段)


京都市上京区一条通に「大将軍商店街」という商店街がある。最近では「妖怪ストリート」を自称している商店街だ。上掲「徒然草」の他にも「今昔物語集(巻十六・三十二「隠形男依六角堂観音助顕身語」、巻第二十七・四十一「高陽川狐變女乗馬尻語」)」「宇治拾遺物語(巻十二・百六十「一条桟敷屋 鬼ノ事」)」「付喪神記」等に、平安京の「一条大路(≠一条通)」にこの世ならぬものが出没するという記述が多く見られ、また「百鬼夜行」の舞台でもあるところから、「中立売通(「皇嘉門大路」近辺)」と「西大路通(「野寺小路」近辺)」に挟まれた「一条通」沿いの「大将軍商店街」(「一条戻橋」以西の「右京」側に位置する)振興策として「妖怪ストリート」と銘打たれたものだ。同商店街では「百鬼夜行」や「妖怪」に纏わるイベントを行ったり商品も売っていたりするらしい。


現在の京都の道路は、開発が進まなかった右京の「未開」(「平安京」造営から20数年後の820年=弘仁11年に早くも本来宅地であるべき右京の農地転換が認められる――「類聚三代格」)及び「衰微」、応仁の乱豊臣秀吉による都市改造(天正地割)と御土居建設、第二次世界大戦中の建物強制疎開等によって、所謂「碁盤の目」とも称される平安京条坊制とはほぼ関わりの無いものになっている。現「一条通」は平安京の「一条大路」の位置と一部は重なるもののその殆どがずれていて、しかも東西方向に「真っ直ぐ」ではない。嘗ての「一条大路」は――「延喜式」によれば――十丈(注1)程の道幅を持っていたとされているが、現在の「一条通」は道幅6メートル程の一方通行の生活道路であり、それは道幅四丈(12メートル)だった平安京の「小路」の約半分の広さですらある。加えて平安京造営当初に「一条大路」と呼ばれていたのは二丁(200メートル)南の別の大路(後に「土御門大路」≒現「仁和寺街道」)だった。一方9世紀中頃以降に「一条大路」と呼ばれる様になった大路は、元々は「北極大路」という名称だった(「延喜式」による)。


(注1)約30メートル=片側3車線の東名高速道路の約25メートルより広い。「百鬼夜行」という付喪神の「デモ行進」は現在の基幹高速道路や東京ディズニーランドのハロウィン・パレードよりも遥かに広い見晴らしの良い通りで行われていた。


今日「日本文学」とされてはいるものの、実際には「平安京内に住むアッパークラスの文学」とすら言って過言ではない王朝文学の「今は昔」が何時の頃を指すなのかは多く判明しない。しかし「怪異譚」が成立する条件として、「洛中」(「平安京内に住む者」にとっての日常領域内=「朝廷」の影響力が最大限に発揮される領域内)と「洛外」(「平安京内に住む者」にとっての未知領域)を分かつ北辺の境界線に位置していた「二代目」の「一条大路」がその「舞台」であると考えるのが「筋」ではあるだろう。同じく南辺で「洛中」と「洛外」を分かつ「羅生門(羅城門=西暦980年7月9日の大暴風雨による倒壊を最後に再建されず=「日本紀略」による)」が「怪異譚」の「舞台」である様に。


但し南北5.2km、東西4.5km(現実的にはその約半分=左京側)の小さな長方形(手本とした中国「長安城(=人口100万人)」の1/3以下)の「平安京(=人口10万人)」以外の地が全て「異界」であるというのも、「洛外」に住む当時の大多数の「日本人」(600万人〜700万人)にとっては溜まったものではないだろう――或いはどうでも良いだろう(「征伐」等をされなければ)。



「予二十余年以来、東西の二京を歴く見るに、西京は人家漸に稀らにして、殆に幽墟に幾し。人は去ること有りて来ること無く、屋は壊るること有りて造ること無し。その移徙する処無く、賤貧に憚ること無き者是れ居り。或は幽隠亡命を楽しび、当に山に入り田に帰るべき者は去らず。自ら財貨を蓄え、奔営に心有るがごとき者は、一日と雖も住むことを得ず」(「池亭記」)。「朱雀大路(≒「千本通」)」を挟んで「平安京」の西半分は、殆ど「原野」であるところにやたらに計画的な道だけを付けた、需要を見誤った故に建物が一向に建たないペンペン草ばかりの新興建売住宅地の様なものであり、また「平安京」の南西部は桂川氾濫上の湿地帯であったが為に道すら付けられていない。この狭い盆地に半ば政略的に「みやこ」を移した「朝廷」を始めとする「デベロッパー」の目からすれば、それはさぞ寒々しい風景であった事だろう。ジブリアニメ「かぐや姫の物語高畑勲監督)」で、かぐや姫が「みやこ」の小路(スケールから見て小路)を月に向かって走るシーンがあるが、右手奥に五重塔を見て「家屋敷」が立ち並ぶ「みやこ」というシーンは「平安京」では到底不可能である(実際「竹取物語」は「平城京」が舞台だ)。寧ろ実際の「平安京」は、下掲画像の様な「郊外」の風景ばかりが続くところだったのではないだろうか。この写真の奥方向へ進めば畑と塀一枚で隔てられた「内裏」がポツンと建ち、右の道を進めば新興建売住宅の様な厚みを欠いた、何処か「外国」風(「アーリー・アメリカン調」ならぬ「アーリー・チャイニーズ調」)にも見える「みやこ」が陽炎的に存在し、やがて奥に見える山で「大文字」が焼かれるのである。リアルな「平安京」は(例えば)「ホンマタカシ」氏好きのする風景であっただろう。



Stephen Shore:California 177, Desert Center, California, December 8, 1976


実質的な「みやこ」だった「平安京」の東側=「洛陽(=左京=東京)」の広さは、現在「皇居」と「三権」の中心機能が存在している「東京都千代田区」と同じ位の面積(或いは「羽田空港」と同程度)であり、「平安京」全体でも「東京都千代田区」+「東京都港区」程の面積である(「平安京」約27個分が「東京都23区」になる)。現在の東京都に「内裏」と「皇居」を合わせる形で「平安京」を重ねてみた。参考に現在の「京都の観光名所」の位置も幾つか記す。



上掲画像の平安京復元模型で明らかな様に、現実的に「みやこ」として機能していたのは、北西が「北の丸公園」近辺、北東が「神田」駅近辺、南東が「晴海埠頭」近辺、南西が「田町」駅近辺(=「羅生門」)を結ぶエリアだった。更に「池亭記」の記述に寄れば、その左京側の北半分(東京四条以北)が、実質「高き家は門を並べ堂を連ね,小さき家は壁を隔て軒をつらぬ」という「多く群集する所」となる。「妖怪ストリート」である「大将軍商店街」は「北の丸公園」から「大妻女子大学千代田キャンパス」を結ぶ線の位置(「右京」側)になるから、実質的には「みやこ」の外になる(豊臣秀吉の時代には、御土居の内側にギリギリのところで組み入れられた為に「洛中」となる)。城壁に囲まれた大陸的な「羅城」では無かった「平安京」は、その「内」と「外」が極めて曖昧だ。


王朝文学に於ける「異界」の設定は、「東京都千代田区」以外の日本の全てを「東京都千代田区民」が「異界」とする様な「乱暴」ではある。王朝文学に於ける「怪異譚」は、そのほぼ全てが「洛中」に住む者(=「東京都千代田区民」)から見てのそれであり、決して「洛外」からのものではないという無視し得ない「限界」に注意すべきだろう。勿論「東京都千代田区」のみが「日本」であり、「東京都千代田区文化」こそが「日本文化」であると解釈する「立場」もあり得る。その時「東京都千代田区」以外に住む者は「野性獣心(「日本紀略」に於ける「蝦夷」に対する記述)」であるとも言われるのである。全く以って「地域アート」の問題は坂上田村麻呂(「アート」)/阿弖流為(「地域」)の頃から始まっているのだ。

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【序】


「妖怪」という「異界」の存在(人ならぬもの)は、「日常」(人の世界)とされるものと「未知」(人ならぬ者の世界)とされるものが接するところで姿を現す。但し「姿を現す」と書いたものの、実際には「妖怪」は姿は現さない。元々それは「見えないもの」だ。


「妖怪」の本来的な種はアンコントローラブルな未知なものや不可解なものに対する「恐れ=畏れ」だった。そうした「見えないもの」としての「恐れ=畏れ」に「命名」する事で、相対的合理性に基づく説明の対象とした(注2)のが「妖怪」名であり、「対象とされたもの」を「見えるもの」として固定化したのが「絵師」というヴィジュアルの専門家だった。


(注2)記憶に新しい「広島土砂災害」に於ける「八木蛇落地悪谷」という「地名」もそうした「命名」によるものだろう。「その昔大蛇が暴れて頻繁にこの町を滅ぼしていった」という「言伝」もまた「相対的合理性に基づく説明」である。そしてそこに「気の利いた」絵師が居れば、山谷を暴れ回る「大蛇」を「大蛇妖怪」としてイラストレイテッドもしただろう。しかしその合理性(土砂災害を大蛇の仕業として説明する)そのものの効力が失われた時、その実効性は失われ、「地名」に込められた説明は風化する。そして後に残るのは「大蛇妖怪」の「フィギュア」や「妖怪ウォッチ」だけだったりするのである。


「見えるもの」としての「妖怪」のヴィジュアルが何時から描き表されたのかについては置くとして、その早い時期のものとしては所謂「百鬼夜行」や「酒呑童子」等の「妖怪」表現が上げられるだろう。ここでは既に「怪異」の特性としての「見えないもの」がすっかり捨て去られ、いずれも記号的な「見えるもの=キャラクター」として抜き描かれている。


【枕】で引用した「徒然草」に登場する14世紀(應長のころ)の京都や白川の野次馬(「出で惑ふ」者)は、伊勢から来たという「鬼」を「目撃」しようとして「一条室町」辺りに繰り出して大騒ぎ(立ちさわぎ)し、挙句に殴り合い(鬪諍)までしている。当然「絵巻物」に描かれたその様な「記号」が、現実空間に於いて「鬼コスプレ」的に「見えるもの」として現れる筈も無く、従って誰もそれを「目撃」する事は出来ない(あへるものなし)のは当然である。14世紀の平均的「都会人」は既に「見えるもの」としての「妖怪」の「記号」的ヴィジュアルばかりに関心を寄せ、誰一人として「女の鬼に成りたる」という「見えないもの」に対する想像力を持たない。正に「見えるもの」をのみ追い求めるのは「あさましきことども」なのである。


凡庸な絵師は「百鬼夜行」図の様に「見えるもの」をしか描けないし、また「見えないもの」を描こうという想像力もアイディアも技術も意欲も無い。凡庸な写真家が「見えるもの」をしか撮影出来ず、「見えないもの」を撮影しようという想像力もアイディアも技術も意欲も無いのと同じだ。21世紀の平均的「都会人」が喜ぶ、2014年の「ゴジラ」の「凡庸」がそうである様に。「凡庸」な怪獣映画は「報道カメラ」以外のカメラを持つ事が出来ない。その一方で「報道カメラ」的な映像に慣れてしまった目は、14世紀の「都会人」の様にそこから「見えないもの」を見る能力を失っている。


あの水木しげる氏が、当代切っての最も優れた妖怪絵師である事に異論は無いが、それは当代だけに限らず凡そ「妖怪画」の全史を通じても群を抜いて非凡である。その理由は「妖怪(見えるもの)」の描画が優れているという点にあるのではない。水木しげる氏の「妖怪画」の非凡はその「背景」にある。



水木しげる氏程に「背景」に力を入れている妖怪絵師を寡聞にして他に知らない。水木氏の描く「妖怪」そのものは「百鬼夜行」図に端を発する「記号」表現である。「記号」表現であるから、それをフィギュアやぬいぐるみにする事も当然可能だが、水木氏の非凡はその「記号」表現の後ろに「記号」世界とは全く別の世界を強引に併存的に描画するところにある。前面に「怪異」の「記号」、そして背面に「怪異」の「環境」という二つの世界を水木氏は同時に描く。


「漫画は記号である」としたのは手塚治虫氏だが、世界が記号で記述可能とするこの発言は、「リアルな表現」を是とする「劇画」へのカウンタートークである。しかし「手塚治虫」と「劇画」の差は、「見えるもの」をどう表現するかという方法論的アプローチの違いでしかないとも言える。仮に手塚治虫氏による「ゲゲゲの鬼太郎」があるとすれば、その背景(草木礫石含む)をも記号化するか、或いは無背景で描くだろう。一方別の形で「演者」と「背景」を同質のものとする「劇画」による「ゲゲゲの鬼太郎」は、「鬼太郎」をより「リアル」に描こうとするだろう。「劇画」による「アトム」も同様な形で想像可能(浦沢直樹氏の「PLUTO」という例もある)だ。しかし「手塚治虫」でもなければ「劇画」でもない水木しげる氏が仮に「鉄腕アトム」を描くとすれば、「アトム」のキャラクターを手塚治虫氏が描いた「そのまま」にする(水木キャラ化するにしても)一方で、その「後ろ」に「アトム」を産んだ「科学技術環境(=「見えないもの」)」を「背景」という形で緻密に描き上げるかもしれない。そしてその時「手塚アトム」は「アンコントローラブルな未知なものや不可解なもの」を「背負ったもの」としての「水木妖怪」になるのである。水木しげる氏は「記号=日常」と「環境=未知」という二つの世界の中間にこそ「怪異」が現れる事を良く知っている。即ち実際の「妖怪」は、「妖怪」として描かれた「見えるもの」の「背後」に「スクリーン」として存在する。従って「妖怪」に対して目は永遠に焦点を合わせる事は出来ない。


「妖怪」という「無意識」は視覚領域に外在化はされる事は無い。もしもそれが実証的な形で外在化してしまったら、それは凡庸且つ極めて制度的な「無意識」である「心霊写真」にしかならない。


カメラに語りかける自然は、肉眼に語りかける自然とは当然異なる。異なるのはとりわけ次の点においてである。人間によって織りこまれた空間の代わりに、無意識が織りこまれた空間が立ち現れるのである。


ヴァルター・ベンヤミン「写真小史」


そうしたものもまた確かに「視覚的無意識」ではあるだろう。このベンヤミンの一文は「心霊写真」(=カメラに語りかける自然=無意識が織りこまれた空間)の人が「我が意を得たり」と心強く思うものにもなり得たりもする。


しかし水木しげる氏の妖怪画に於いて、前景の「妖怪」として描かれている「記号」化された「見えるもの」はもとより、「背景」に幾ら目を凝らしたところで「妖怪」という「見えないもの(=潜在性)」は見えない。寧ろ「妖怪」というものは、「見えるもの」として現実化する事の無い想像的な指示作用の事を言う。それ(「妖怪」)を取り敢えず「形ではない何か(= formless - informe ≠「無形なもの」)」と言っても良いかもしれない。当然それは「見えるもの」を捉える機械=カメラ的な「高速」でも「低速」でも「拡大」でも「縮小」でも「見えて」来ないものだ。


水木しげる氏の妖怪画の前に立つ「眼球」は、鬼太郎の父親から落ちて生き延びた目玉の様に、眼前の現実世界を光学的に「見る」という機能性の軛から離れ、二つの「見えるもの」の体系とは異なる「聖なるもの(sacré)」に想像的に接続する事で「見えるもの」の二つの体系を連絡する。



アヒルの体系とウサギの体系の間に「妖怪」はある。しかしその「中間にあるもの」は、決して「アヒルウサギ」といった「妖怪キャラ」の形では無い。従ってそれ故にまた何をも「表象」する事も無い。


それにしても「目」が「頭」に、視神経が首以下の「身体」に変化(へんげ)してしまった「目玉おやじ」の「目」は何処にあるのだろうか。そもそも「目玉おやじ」には「視覚」があるのだろうか。仮に「視覚」を持たないとしたら、「目玉おやじ」が「見て」いるものは何だろうか。

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「芸術とされる写真(≠「芸術写真――Art Photography」)」と「一般の写真」という区別が存在すると仮定する。果たして「芸術とされる写真」と「一般の写真」の差異は如何なる違いから来るものだろうか。「これからの写真」展カタログの冒頭論文、同展の担当学芸員である中村史子氏の「光源はいくつもある―――写真の多義性をめぐって―――」の中には、そうした「特性」に関してこの様な記述がある。


すなわち、写真が作品として美術館やギャラリーに展示され、評価される際、その芸術としての価値は、芸術写真の言説(注3)あるいはポストモダニズムにおける写真の言説(注4)に依拠していた。(略)。芸術写真であれば、印画紙上に刻まれたイメージの妙や、それを生み出す写真家の才能、そして、その両方によって写真というメディウムの独自性を発揮する作品、という風にひとまず定義づけられよう。反対に、コンテンポラリー・アートの中の写真であれば、それら芸術写真が見逃してきた写真の社会的機能や他律的なメディウムの状態に注目したものと言える。


(注3)ここでは主にジョン・シャーカフスキー(John Szarkowski)
(注4)ここでは主にアビゲイル・ソロモン=ゴドー(Abigail Solomon-Godeau)


旧来的な「芸術観」に於いて、永く「芸術」に至らないものとされていた「写真」を「芸術」とする為に、上述ジョン・シャーカフスキーも属していたところの MoMA(=正式な形で写真部門を設置した世界初の美術館)は、初代館長のアルフレッド・バー・Jr 時代から「写真」を「美術館」に収めるのに相応しい対象である事を広く認知させようとしていた。ボーモント・ニューホール(Beaumont Newhall)が企画した1937年の「写真展 1839ー1937(EXHIBIT OF PHOTOGRAPHY 1839-1937)」は、「絵画」の語法を真似る事で「芸術性」を獲得しようとした「ピクトリアリズム」 から、「写真」の固有性を全面化した「ストレート・フォトグラフィ」に転向したアルフレッド・スティーグリッツ(例)を「正当化」する事を軸にした極めて戦略的なものだった。


旧来的な「芸術」が「手」で仕上げられて行く事が不可避的であったのに対し、「写真」は極めて即物的に「目」でしかない。旧来的な「芸術観」が、「芸術作品」を生み出した「手=身体=主体の命令を受けるもの」の持つ「能力」に多く拘るのに対し、「写真」が「目=単眼=表象の基準点=主体」である事を前面に出した事で、「手」の役割がシャッターを押すしかないところまで「後退」した「写真」は、それ故に視覚純化の形式たる地位を獲得する。そしてそこでは、「写真」の前に立つ者は「写真」の中の「見えるもの」を「見る者」(「観手」)になる。


その意味で「写真」は「視覚・文化論」の対象であり続けていた。ジョン・シャーカフスキーによる「写真」に於ける "The Thing Itself(事物自体)" "The Detail(ディテール)" "The Frame(フレーム)" "Time(時間)" "Vantage Point(ヴァンテージ・ポイント)" の「五原則」にしても、それを発展させたスティーブン・ショア(Stephen Shore)の "Phisycal level(物理的レベル)" "Depictive level(描写レベル)" "Mental level(心的レベル)" 及び "Mental modeling(心的モデリング)" の「三原則(+一原則)」にしても、畢竟それらは「見えるもの=写っているもの」をその分析の出発点とするものだ。


「写真」の「芸術」としての価値付けの根拠が「見えるもの」にしか無いとすれば、当然その様な記述は求められて然るべきだろう。しかしその一方で、少なからぬ「写真クリエーター」は、「写真」をして「見えないもの」こそを印画紙(投影スクリーンでもモニタでも良いが)の上に「表す」という「不可能事」に挑んで来たのではないだろうか。そして最も重要なものとして見られるべきそうした「アプローチ」は、アナログであろうがデジタルであろうが基本的に変わる事は無い。同展カタログの二つの論考に、何処かしら隔靴掻痒的な違和感を感じるのはそうした理由による。


「芸術とされる写真」と「一般の写真」の間を分かつのは、スティーブン・ショアの「写真の性質(The Nature of Photographs)」を引けば 「写真は一つの物として世界の中に存在している。靴箱に収める事も美術館に収める事も出来る。売買する事も出来る。実用品として捉える事も芸術作品として捉える事も出来る。写真が見られるコンテキストは、鑑賞者がそれから引き出す意味に影響を与える(As an object, a photograph has its own life in the world. It can be saved in a shoebox or in a museum. It can be bought and sold. It may be regarded as a utilitarian object or as a work of art. The context in which a photograph is seen effects the meaning a viewer draws from it)」という「作用」から全ては始まる。「美術館」に「写真」があれば――例えそれが同じ「写真」であっても――「靴箱」に放り投げ入れられているそれとは違った意味が生まれる。「美術館展示室」と「美術館化粧室」の「便器」の意味が異なる様に。但しそれは現実的な美術館で無くても構わない。「ビュアー(viewer)」が「芸術とされる写真」に美術館で見る様に他の場所でも「アプローチ」出来るのであれば、「芸術とされる写真」が見られる場所は何処でも良い(だからこそ「写真集」が存在可能になる)。


「美術館」の中では「写真」に「見えるもの」として「現れ」、「靴箱」の中では「写真」に「見えるもの」として「現れ」ないものとは一体何か。「靴箱」ではしばしば人は「写っているものとして見えているもの(被写体)」を語ろうとする。「写真」を事物の記録として見る「プラグマティズム」からすれば、それが「写真」である事は重要な事では無い。一方「美術館」であっても、例えば「あー、このピーターはよく撮れてるね」「あ、ハインツだね」で終わる様な「プラグマティック」な「ビュアー」が一定数(相当数)存在するのは確かだ。


トーマス・ルフJPEGシリーズと過去の重要な作品について」
https://www.youtube.com/watch?v=AQpLRMTJGT8


それは水木しげる氏の妖怪画を見て「あー、この百目はよく描けてるね」「あ、子泣きじじいだね」で終わる「リーダー(reader)」が一定数(相当数)存在するのと同じである。当然「これからの写真」展の会場でも、「あ、発破現場だね」「あ、スポンジだね」「あ、第五福竜丸だね」「あ、色んな東北の人達だね」「あ、どこかの古臭い部屋だね」「あ、ちんぽだね」「あ、セットみたいな部屋だね」「あ、ベニヤ板だね」「あ、日蝕だね」で終わる「ビュアー」もまた間違い無く一定数(相当数)存在する。しかしそれらを作り上げる「写真クリエーター」は、多かれ少なかれそうした反応で「終わって欲しくない」と思っているからこそ、「見えないもの」をより「見せよう」とそれぞれにそれぞれの形で「工夫」する。その「工夫」の巧拙や、「見えないもの」に対するセンス(何を「見えないもの」とするかのセンスを含む)の差というものはあるにしても。


「芸術とされる写真」と「一般の写真」の差は、直ちに「特性」として「内在」はしない。それは寧ろ「写真」の「見方」の差異なのであり、「見方」によっては「一飯の写真」とされているものも「芸術とされる写真」になり得る(その逆もあり得る)。但し現実的には「芸術とされる写真」として生産された「写真」には、「単なる再現表象として終わらない」事への「クリエーター」側からの「工夫」が相対的により見られるという事はある。しかしいずれにしても、「芸術とされる写真」の定義とは、「ビュアー」が「写真」の中に「見えないもの」を「見る」事が出来るかどうかの「能力」にこそ関わって来るものなのかもしれない。

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この展覧会に集まった「写真クリエーター」の一人一人に「『妖怪』の『写真』を制作して下さい」と聞いてみたくなった。「妖怪」の「写真」。それは「光源」が関係する世界とは別のところにある「写真」である。しかしこの展覧会にある幾つかの「写真」は、既に「妖怪」の「写真」であった。

これからの写真【プロローグ】

【プロローグ】


8月7日に愛知県美術館へ行った。「これからの写真」展の会場内、畠山直哉氏、鈴木崇氏、新井卓氏を見終わり、田代一倫氏の展示室に入ったところで、入口近くの畠山直哉氏の展示室の方から大きな話し声が聞こえて来た。後で調べてみたら、それは「愛知県美術館友の会特別鑑賞会 『これからの写真』展で、アートのこれからをみよう!」というイベントだった。同展の担当学芸員である中村史子氏の声が壁を隔てて聞こえる。「この写真の全てに写っているたった一つのものがあります。それは何でしょうか」。


「友の会特別鑑賞会」の一作家当たりに掛ける時間は平均して5分間位だろうか。比較的多めの作家もあれば、そうでない作家もある。一方当方は一作家に15分位は掛ける質なので、次第に「友の会特別鑑賞会」との距離は狭まって来る。続く木村友紀氏の部屋は、4分で立ち去る事を決意してしまったので尚更両者の距離は縮まり、遂には「友の会特別鑑賞会」が隣室の田代一倫氏まで迫って来た。


「友の会特別鑑賞会」に飲み込まれてはならないという気持ちが先走った。そこにあったカーテンをむんずと掴み次の展示を見ようとすると、監視員の方から声を掛けられた。すぐに入ってはいけなかったらしい。カーテンの前にコーションが貼り出されていた。


 次の部屋に展示されている出展作品、鷹野隆大「おれと」シリーズは、写真家・鷹野隆大本人とモデルのヌード写真です。
 性器を含む全身ヌードを撮影した写真もあり、鑑賞時、不快感を抱かれる方もおありかもしれません。鑑賞される場合は、あらかじめその旨をご承知おきください。
 また、中学生以下のみでのこの作品の鑑賞は制限します。ただし、保護者および引率の大人が展示内容をご承知の上、同伴される場合は、展示室内にお入りいただけます。


その横に並ぶ様にして「作家」を説明するキャプションが立っている。


 2000年の「ヨコたわるラフ」の発表以降、鷹野隆大は独自の男性ヌードで見る者を戸惑わせ、挑発してきました。例えば、女性のようなポーズをとる男性、上半身と下半身で分断された体、着脱される女性用/男性用の衣服が作品には登場します。鷹野は意識的に、ジェンダーやヌードの記号や規則を揺るがし解体してみせたのでした。
 その一方で、明晰なコンセプトだけには収まらないのが、「おれと」シリーズです。二つの裸体のうち、片方は鷹野自身でもう片方は撮影モデルです。明らかな目的がないまま揚げられる普通の裸体は、私たちが日ごろ目にする自分自身の裸とほとんど変わらないため、鑑賞者は作品としての距離感をもって写真と向き合いがたいものです。こうして鷹野は鑑賞者を、保守的で居心地の良い芸術鑑賞という枠組みの外部へ連れ出してしまうのです。


ゾーンの中に入った。ゾーン内の滞在時間は約2分間。作品についての言及は、この続編でするかもしれないし、しないかもしれない。滞在時間が2分間だったのは、「不快感」を持ったからとかそういう理由からでは無い。


ゾーンの外に出ると「友の会特別鑑賞会」と鉢合わせる。逃げる様に田村友一郎氏の部屋に移る。再び中村史子氏自ら「友の会」会員にコーションしているのを壁越しに聞く。数メートル先に辛うじて見える「友の会」の年齢層は高めだ。一つだけ言えそうなのは、その殆どが「現代美術の内側にいる人」ではなさそうだったという事だ。「現代美術の内側にいる人」が、しばしば揶揄的に言うところの「一般人」というのがそれに当たるかもしれない。それを見て、改めて「美術館」というものは、大部分が「一般人」で構成された「市民」のものなのだと感じた。


「美術館」という設えの誕生そのものは、「市民革命」による「市民」の誕生と軌を一にしている。嘗て「私人」の「私有財」であったものを、「市民」の「公共財」とする事で、初めて「美術館」という理念装置は可能になった。但し「美術館」という理念装置が想定している「市民」は、理念的(抽象的)な「市民」である。理念的な「市民」は、時に現実的な「市民」と重なる場合もあるが、しかし多くの場合両者は全く異なるものである。ここで理念的な「市民」を「社会契約によって形成された共同世界のメンバー(シトワイヤン)」とするならば、今日その「共同世界」こそが極めて不確実なものになっている事は否めない。極めて現実的に言って、世界各地の「人類」のレイヤーで起きている様々な事態を、西欧近代の理念的な「市民」概念で説明する事が可能だろうか。


「美術館」も「美術館」なりに「共同世界」を想定するものの、しかしその「共同世界」概念の届く範囲は、現実的に言って恐ろしく狭いものだ。そこで、「公共」であるにも拘わらずそこを「聖域」とする(=「聖域」であるのに「公共」である)という「転倒」が行われる。「美術館」では「市民」は再び「臣民」に戻り、「聖」なるコレクションを「拝見」する者になる。その「聖」を保証するものが、「王」が不在となった後は「芸術性」という事になるのだろうか。それが「王」であるという事だけで、価値が自己言及的に担保される「王」の様に。別の言い方をすれば、「王」が「王(芸術性)」と見做されなければ「聖」のバリアーは効力を失う。


Saa gik Keiseren i Processionen under den deilige Thronhimmel og alle Mennesker paa Gaden og i Vinduerne sagde: "Gud hvor Keiserens nye Klæder ere mageløse! hvilket deiligt Slæb han har paa Kjolen! hvor den sidder velsignet!" Ingen vilde lade sig mærke med, at han intet saae, for saa havde han jo ikke duet i sit Embede, eller været meget dum. Ingen af Keiserens Klæder havde gjort saadan Lykke.
"Men han har jo ikke noget paa," sagde et lille Barn.


皇帝は美しい天蓋の下、堂々と行進していました。全ての人々は通りや窓からその人を見て叫んでいました。「全く皇帝陛下の新しい服は飛び抜けて素晴らしい!何と長い裾をしているんだ!本当に良くお似合いだ!」。誰もが自分は今の仕事にふさわしくなく、馬鹿だという事(注)を知られたくないために、自分が何も見えていない事を隠していました。これまでこんなに評判の良い皇帝の服はありませんでした。
「でも、あの人は裸だよ」小さな子供が言いました。


Keiserens nye Klæder(皇帝の新しい服)ハンス・クリスチャン・アンデルセン(拙訳)


(注)アンデルセンの寓話に登場する二人の詐欺師は、「皇帝の新しい服」が「自分にふさわしくない仕事をしている人と、馬鹿な人には何も見えない布(havde den forunderlige Egenskab at de blev usynlige for ethvert Menneske, som ikke duede i sit Embede, eller ogsaa var utilladelig dum)」で作られていると信じ込ませた。


皇帝はどうすれば良かったのだろうか。一つだけ言えるのは、皇帝は「公共」の場で「パレード」をしなければ良かったのである。「聖域」の中では「裸」であっても「飛び抜けて素晴らしい服」とされていたのだから。そこは子供(Uskyldiges=罪なき者)が入ってはいけない「罪深き者」の集まる場所なのだ。

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美術館展示写真、愛知県警「わいせつ」 一部覆う


 愛知県美術館名古屋市東区)で開催中の「これからの写真」展(同美術館、朝日新聞社主催)で展示されている写真家・鷹野隆大氏の写真が、「わいせつ物の陳列にあたる」として愛知県警が12日、同美術館に対処を求めた。同美術館では13日から作品を半透明の紙で覆うなどして展示することにした。


 問題とされたのは、男性の陰部などが写った作品12点。匿名の通報があり、県警生活安全部保安課が同美術館に「刑法に抵触するから外してください」と対処を求めた。同美術館と鷹野氏は協議し、撤去でなく、展示方法の変更で対応すると決めた。小品群11点は紙をかぶせ、1点の大型パネルは胸より下をシーツ状の紙で覆った。鷹野氏は「人と人が触れあう距離感の繊細さを表しており、暴力的な表現ではない。公権力による介入を隠すのではなく見える形にしたかった」と変更を了承した。


 「これからの写真」展は同美術館で1日に開幕。写真家や芸術家ら9人の写真や映像、立体作品など約150点を展示し、9月28日に閉幕予定。

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 愛知県美術館の話 鷹野氏のブースは布で区切って入り口に監視員を置くなど観覧制限もしていましたが、作品は非常に真摯(しんし)なもので、わいせつな表現とは全く違います。性器が写ったことが注目され、興味本位で鑑賞されることは本意ではありません。表現の意図を伝える次善の方法として、作家本人の手で変更をしました。


朝日新聞
http://www.asahi.com/articles/ASG8D65H8G8DOIPE034.html


鷹野氏自身が本当に「公権力」という言葉を使ったかどうかについては判らない。こちらのインタビュー記事では、鷹野氏は一貫して「行政府」或いは「行政機関」という言葉を使っている。ここには「公権力」の語は無い。別のメディアの報道によれば、8月8日に「愛知県警(注:所轄)の方が2人来て見学」し、3日後の11日(休館日)に「“わいせつにあたる”との通告(注:電話)を受け」たと言う。そして翌12日「県警の担当官が現場を確認」し、「このまま続ければ検挙」という流れになったという事らしい。「通報」は8日の前日(自分が愛知県美術館で「友の会特別鑑賞会」に遭遇した日)辺りに行われたのだろう。「通報」の内容は、日刊ゲンダイの報道によれば「性器が映った写真を展示しているのはわいせつではないか」というものであったらしい。しかしこれもまた「伝聞」を元にして記事起こしをしているので、「通報」そのものの正確なところは判らない。


参考:「愛知県美術館における鷹野隆大の作品展示について」ユミコチバアソシエイツ
http://www.ycassociates.co.jp/jp/information/aichi-takano/


ここでこの「通報者」を A氏とする。そのA氏は「これからの写真」展の「観客」の一人であったのかもしれないし、自身は「観客」では無かったものの「観客」から展示の様子を聞いたのかもしれないし、或いは電車の中や喫茶店で「観客」が話しているのをたまたま聞いたのかもしれないし、または SNS や電子掲示板で展示されているものを知る事になったのかもしれない。


A氏の選択には幾つかあった筈だ。例えば愛知県美術館に直接「電凸」を始めとする「抗議」をするというのはその一つだろう。実際にそれは行われたのかもしれない。しかし最終的に A氏は警察に「通報」するという方法を取った。即ち A氏自身と愛知県美術館の間に愛知県警を挟んだのである。「これからの写真」展のカタログの中村史子氏による解説文「光源はいくつもある――写真の多義性をめぐって――」には、「メディウム(媒体)」という言葉が登場する。皮肉にも A氏は愛知県警を「メディウム(中間項)」とした。この「メディウム」を利用する事が、A氏の信ずるところを実現する最も「効率的」且つ「効果的」な手段である事を A氏は知っていた(或いはその時知った)。


「……それを直接言ってくれればこちらも意図を説明するなどのコミュニケーションができたのに、突然、警察への通報という形になってしまいました。警察も通報されれば無視はできない。『見えるか』『見えないか』という一線で妥協することになりました」(高橋秀治 愛知県美術館副館長)


「本当に怖いのは警察への匿名の通報で、こういう事態が簡単に起きかねないということの方」
「アート作品は言いがかりをつけようと思えば、かなりいろんな方法で言いがかりをつけやすい。これは他の問題にも当てはまり、公園の水遊び場で遊ぶ子供がうるさいから市にクレームをつけて水を出なくさせる、ホームレスを排除するためのベンチが増えていく…などが実際に起きている。社会の息苦しさを感じてしまいます」(五十嵐太郎氏)


THE PAGE「愛知県美術館『わいせつ写真に布』の波紋」
http://thepage.jp/detail/20140822-00000011-wordleaf?page=2
http://thepage.jp/detail/20140822-00000011-wordleaf?page=3


公権力」とも「行政機関(行政府)」ともされる警察が、「メディウム」である事を良く示す漫画がある。台詞を引く。


土橋
ところで中岡のおやじ いまごろ警察でたっぷりしごかれてるでしょうな ええ気味ですよ!


鮫島(町内会長)
あんな非国民はしごかんといけんのだ


土橋
まったくです ハイ


鮫島
息子の指は傷だらけにするし… あの一家はゆるせん! ちったあこらしめてやれってんで警察につきだしたんじゃ


以前から中岡みたいな大日本帝国のはじさらしは警察に調べさせんといけんとおもっていたんじゃ


土橋
殺されればいいんです 戦争に協力しないやつは


中沢啓治はだしのゲン


「警察に調べさせんといけん」「殺されればいい」。理念的「市民」ではない、現実的「市民」とはそういうものでもある。「市民」は警察という「メディウム」の「使い方」を良く心得ている。自分自身が手を下さなくても、警察がそれを代行してくれる。一方で「通報しますた」というのは電子掲示板での決まり文句だが、しかしその多くは極めて「カジュアル」に発せられている。「シリア邦人拘束」の際の「通報」(「通報者」は「通報」相手が何者であるか知らなかったらしい)がそうであった様に。「通報」は「切実」から「カジュアル」までのグラデーションの中にある。果たして A氏の「通報」はどの位置にあったのだろう。


手塚治虫の「鉄腕アトム」に出て来る「ロボット・パトカー(通称「ワンワン・パトカー」)」が「犬」の形をしているのは象徴的だ。警察は基本的に「ロボット」や「(警察)犬」の様な「メカニズム」なのである。「市民」の「通報」が「メカニズム」にスイッチを入れたのであり、今回も「通報」が無ければ会期終了まで彼等は動かなかっただろう。勿論「メカニズム」はスイッチが入れられる事を待っている。凡そ警察規制(「メカニズム」)というものは、「市民」の警察への「協力義務(「通報」)」によって初めて実行可能だ。果たして「権力」は何処にあるのだろうか。


 かつてドストエフスキーは『悪霊』のなかで「人は自由を追い求めて、ついに警察国家を組織するに至る」と書いたことがあったが、人文主義思想が自然と人間を教会の軛から解放しようとすると、魂の救いを任とする筈の教会までが警察化することは、人間というものの不可避とも言うべき悲惨さを痛感させるものであった。


堀田善衛「ミシェル城館の人」


成立史的にも、近代警察は近代的「自由」のもう一つの形だ。「アジール」というのは「聖域」とも訳されるが、元々はそこに逃げ込んで来た者(復讐や私闘の対象者)が保護され、世俗がそれを侵す事の出来ない場所という「避難場所」を意味していた。転じてそれは「庇護権」とされる。まだ強力な警察的公権力が存在しない自力救済が支配的だった頃(「中世」)の話だ。「アジール(庇護権)」は貴族や教会勢力といった中間権力者(一般住民からすれば「特権層」)の領地と同義だった。やがて「アジール」は事実上「犯罪者の隠れ家」ともなるが、中間権力者は絶対主義国家観によって失われつつある影響力を誇示するかの様に「アジール」を濫用する様になる。警察国家でもあった絶対主義国家は、こうした中間権力者の犯罪者を匿う権利を剥奪して、国家の二重権力体制の一掃に務めた。そして一般住民はと言えば、こうした中間権力者(「特権者」)の専横と犯罪者の恐怖を取り除いてくれる警察国家の伸長に喝采を送ったのである。我々に親しい「自由」は――極めてパラドキシカルではあるが――警察によってもたらされたものだとも言えるのだ。

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「これからの写真」展の鷹野隆大氏のエリアの前には厚手のカーテンが吊るされていた。上掲「警告文」が掲示され、同様の注意が口頭でもされた。この時点で「性器」が写っている事は、観客に知らされていた。「法律の専門家」である弁護士の意見を仰いだ美術館側としては、これで法的な正当性を確保したと思っただろう。しかしそれはいとも簡単に突破された。


ところで「ゾーニング」というのは一種の「規制」である。それは勿論「表現の自由」の「規制」ではない。何故ならば「ゾーン」の中では、相対的に「表現の自由」が保証されているからだ。即ち「ゾーニング」とは「公開の自由」の「規制」である。そして本展では、美術館自ら「自主規制」の形で「公開の自由」の「規制」を施した。


今回問題になっている刑法175条、及び参考として前条の刑法174条を引く。


公然とわいせつな行為をした者は、6月以下の懲役若しくは30万円以下の罰金又は拘留若しくは科料に処する。(刑法 第2編「罪」 第22章「わいせつ、姦淫及び重婚の罪」 第174条「公然わいせつ」)


第175条
わいせつな文書、図画その他の物を頒布し、販売し、又は公然と陳列した者は、2年以下の懲役又は250万円以下の罰金若しくは科料に処する。販売の目的でこれらの物を所持した者も、同様とする。(刑法 第2編「罪」 第22章「わいせつ、姦淫及び重婚の罪」 第175条「わいせつ物頒布等」)


読めば判る様に、これは「わいせつ」の「公開の自由」を「規制」するものである。「これからの写真」展の「ゾーニング」は、ここで言われるところの「わいせつな…図画…を公然と陳列」の部分を回避しようとしたものと思われ、事実上それは何らかの形で「通報→通告」を「市民→警察」から受ける、或いは記憶に新しい「会田誠 天才でごめんなさい」展に於ける「ポルノ被害と性暴力を考える会」の様な「警察」を介さない「市民」の「抗議」が及ぶ可能性を見越しての「自主規制」という事になる。しかし結果的にそれは、方法論的には十分では無かった。「ゾーニング」の中もまた「公然(不特定多数が認識できる状態にすること)」の場所であるとされたのである。「警告文」を読んで「ゾーン」の中に入ったとしても、相変わらずそこにいるのは「不特定多数」であると認識されたという事だ。


けいさつけん【警察権】
警察機関が公共の秩序を維持するため,国民に命令強制をなし,その自由を制限する公権力。その行使は法令に基づき,条理上の限界を守らなければならない。


スーパー大辞林


ここで言われる「条理上の限界」というのは以下の4原則になる。


警察公共の原則(私生活・私住所・民事上の法律関係に関与しないこと)


警察責任の原則(故意・過失,自然人・法人の別は問わないが社会公共の秩序に対する障害の発生について責任ある者にのみ発動する)


警察比例の原則(警察権の発動は社会公共に対する障害の大きさに比例しなければならず,つねに必要最小限度でなければならない)


警察消極の原則(公共の安全と秩序に対する侵害の具体的危険性があるときにそれを除去するためにのみ警察権は発動されるべきである)


平凡社「マイペディア」から「警察権」(改行挿入)
http://kotobank.jp/word/%E8%AD%A6%E5%AF%9F%E6%A8%A9


但し最近では、ストーカー規制、DV規制、児童虐待規制等に見られる様に、「警察公共の原則」が「修正」されつつある。DVや児童虐待とされるものの中には、「性的暴力」「性的虐待」の一例として「ポルノを見せる」というものもある。この場合は「家族」が「通報者」になり得る。こうしたケースでの「わいせつ」認定は、それらに「苦痛」を感じた「被害者」に任される事になる。


何はともあれ「警察権」の及ばない範囲が取り敢えず「私生活」「私住所」という事であれば、「美術館」が「アジール」であると主張するのは(「美術の内側にいる人」の「願望」は別にして)法律上から言えば無理がある。特に公立の登録博物館(「美術館」も「動物園」や「水族館」等と同様「博物館」である)の場合、その管轄は各地方公共団体教育委員会地方公共団体に置かれる行政委員会)になるからだ。


公立博物館は、当該博物館を設置する地方公共団体教育委員会の所管に属する。(博物館法 第三章「公立博物館」 第十九条「所管」)


地方公共団体は、法律で定めるところにより、学校、図書館、博物館、公民館その他の教育機関を設置するほか、条例で、教育に関する専門的、技術的事項の研究又は教育関係職員の研修、保健若しくは福利厚生に関する施設その他の必要な教育機関を設置することができる。(地方教育行政の組織及び運営に関する法律 第四章「教育機関」 第一節「通則」 第三十条「教育機関の設置」)


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E8%82%B2%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A


「刑法」等の「法」を変える、「芸術」にとって「有害」或いは「無視」し得るものであると「美術の内側にいる人」が「願望」混じりに「判定」するところの「市民」の「通報」を禁止する、「通報」が「捜査」すべきものであるかどうかを「警察」に判断させる――「これは『芸術性』があるから『捜査』するのを止めておこう(=「これは『芸術性』が無いから『捜査』しよう」)」といった、それ自体が論証不可能な「芸術性」(論証不可能という点では「猥褻性」と同じ)の判断を「警察」に一任して良いのなら――という事が現実的に難しいのであれば、寧ろこの「ゾーニング」が呆気無く崩壊したしたという事実から何かを学ぶべきなのだろう。いずれにしても今回の愛知県美術館愛知県警察の遣り取りのプロセスは、「私生活」に於いてすら(DVや児童虐待絡みで)「ゾーニング」が求められる「これから」の為にも共有されるべき情報である様な気がする。

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この件を以って、日本の「後進性」を主張したい者もいるだろうが、しかし勿論こうした事は日本に限られる話ではない。


参考:"Dirty Pictures"
http://en.wikipedia.org/wiki/Dirty_Pictures


参考:United States obscenity law
http://en.wikipedia.org/wiki/United_States_obscenity_law


いずれにせよ、仮に「わいせつ」認定に対して「芸術性」を楯にするにしても、当該「俺と」作品が「芸術領域に属している」であるとか「美術館の中にある」といった、「表現一般」の「一律(これは「わいせつ」認定側も使用する。「性器が写っていれば一律アウト」的に)」性からではなく、それ自体が「比類なき芸術作品」であると「称える」言説が必要になるだろう。しかし寡聞にして、この件に於いて最も重要である筈の、「俺と」作品そのものに対するそうした直接的言及には未だに行き当たらないのである。


【プロローグ了】

絵画の在りか


絵画の在りか」展を見た。一瞬「絵画の在りか」の「(の)在りか」を「在りや」に空目した。「絵画在りや」。勿論「東京オペラシティ アートギャラリー」の壁に「絵画」は「在る」。しかしその「『絵画』が『在る』」という事こそが曲者だ。果たして「絵画」はどの時点から「在る」のだろうか。「絵画展」の会場で、その「在りか」の方へと関心が移ってしまった。



会場やカタログの彼方此方に「┌」「┐」「└」「┘」「─」「│」が配されている。確かに狭義の「絵画の在りか」を可能たらしめるのはそういう事ではある。サボる事しか考えていなかった1970年代の自分の学部生時代、ボール紙を材料に一夜漬けで作った「┌」「┐」「└」「┘」「─」「│」を下掲の形に壁に貼り付け、課題提出の講評会でそれを「絵画」と言い張った記憶(後に「神奈川県民ホールギャラリー」のグループ展に出す)が赤面を伴って会場で蘇ってしまった。その時の評価は最低だった。



展覧会タイトル「絵画の在りか」の英語訳は、"the way of PAINTING" とされた様だ。カタログ冒頭の堀元彰氏の同名の文章「絵画の在りか」の英訳は "The Way of Painting" になっている。紹介記事の一部には "The way of PAINTING" としているものもある。これらの大文字小文字の表記の違いから来るものは大きい様にも小さい様にも思えるものの――特にその違いについて何処かに明記されている訳でも無さそうなので、取り敢えずその違いを気にしないでおくが――何れにしても "Painting(PAINTING)" が「大文字」である事は外せない事なのだと思われる。それはカタログ文「絵画の在りか」の結論部分からも明らかだ。


そうした意味で、「何か」ではなく、「どこに」「なぜ」「どのように」という疑念のあり方が、よりしなやかに今日における絵画の存在意義や使命にアプローチできる精神態度だといえるのではないだろうか。それはまた、絵画の存在そのものを自明のものとすることで、絵画とそれを外包する社会、時代、世界などとの関係を強く求める絵画制作の方法に違いない。


ここでは「絵画の存在」が「自明のもの」であるとされているからこそ、それは大文字の "Painting(PAINTING)" になるという事なのだろうか。"the way of painting" は、数ある機械翻訳の内、Google 翻訳エンジンでは「絵画の道」、BizLingo 翻訳エンジン(富士通)で「絵の道」、Microsoft Translation 翻訳エンジン、クロスランゲージ社翻訳エンジン、The翻訳エンタープライズ翻訳エンジン(東芝ソリューション)では「絵画の方法」、Java 版多言語パターン翻訳エンジン(沖電気)では「描画の方法」と訳された。堀元彰氏の "The Way of Painting" を読む限り、それぞれ相対的に「正しい」翻訳であると言える。


堀元彰氏の文章の中で、個人的にピンを刺したセンテンスは「(絵画は)絵具という物質をイメージに変換する媒体」という「部分」だった。続く「物質性(抽象)と表象性(具象)の両面性が絵画の本質」という「部分」にはピンを刺さなかった。このカタログの "The Way of Painting" 解説文はそれ自体で一種の「知恵の輪」になっている様に思えた。こちらの「部分」を無理に外そうとすれば、あちらの「部分」が絶対に外れないという「知恵の輪」の解き方は、それぞれの「部分」に必要以上に囚われず、それぞれの「部分」を「バランス良く」注目/無視する事で、初めて「外れる」様に「出来て」いる。

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取り敢えず我々が知っている最古の絵画の一つを、先史時代の洞窟壁画であると仮定する。



先史時代にもやはり「才能の差」というものがあって、この膨大な洞窟壁画の全てを限られた「絵の上手い人」、即ち先史時代の「絵の専門家」が描いたものなのか、それとも先史時代の人が最低限持つべき生活上の心得の一つとして、誰でも等しくこのレベルの絵が描けたのかは判らない。仮に先史時代の人全員がこれを描けたとすれば、その「描画能力」の平均値は現代人全体のそれよりも遥かに高いという事にはなるだろう。



文字資料に頼る事の出来ない先史時代の平均寿命の算定には極めて困難なものがあるが(埋葬人骨から推定する事になるものの、それは統計上有効になる一定以上のサンプル数が必要になる一方で、それ以前にそれがランダムサンプルである必要がある)、仮に数多存在する説の最も若年のものを取ってその平均寿命を10代後半とするならば、洞窟壁画が現代の「中高生」に相当する者の手になるものかもしれないという仮説も成り立つ。


それはさておき、しかしこれより「古い」絵画を我々は良く知っている。しかも21世紀の所謂「先進国」に於いてすら、先史時代の洞窟絵画よりも「古い」ものが日々生み出されている事を知っている。ここでソーカル事件的な危険性を敢えて犯す事にする。それは絵画に於いても「個体発生は系統発生を反復する(エルンスト・ヘッケル)」が妥当するのではないかという「反復説」的仮説である。



その「個体発生は系統発生を反復する」という仮設に則れば、21世紀日本の「絵画の在りか」展に出品した全ての作家も、レオナルド・ダ・ヴィンチを始めとするルネサンスの画家も、先史時代の洞窟壁画の描き手も、等しく反復する「絵画発生」の「胚」の過程はこれになるのではないか。



1歳児から2歳児に掛けての、所謂「スクリブル(殴り描き)」と呼ばれる時期のものだ。勿論、先史時代の洞窟絵画の描き手やルネサンスの画家達が、この「胚」の過程を辿らなかったという想定も可能だ。彼等の幼児期には「画材」が与えられていなかったかもしれない。従って「殴り描き」をしようにも「出来なかった」のかもしれない。しかしそれでも、何らかの「尖筆」を彼等が全く持たなかったという事はかなり考え難い事でもある。


例えば、ロシアのノウゴロドで1956年7月13日〜14日に発掘された白樺文書には、「オンフィム(Онфим)」という名の13世紀の「6〜7歳の少年」が描いた「絵」が含まれていた。白樺の樹皮に「尖筆」で描かれたものである。







「児童画」に於ける今日的なプログレス・ステージで言えば、これは「殴り描き」から「前象徴期」を経た「象徴期」の「絵」に当たる事から、オンフィムが「6〜7歳の少年」であると推定された。果たしてこの中世ロシアの「6歳児」の「絵」は、21世紀日本の6歳児の「絵」と「違わない」と言って良い。



少なくともオンフィム少年と同時代の大人の描いた「絵画」と、21世紀日本人の大人が描く「絵画」の間にあるものよりは。



「児童画」の「発見」は、イタリアの考古学者であり美術史家のコラド・リッチ(Corrado Ricci:1858-1934)の「児童の美術(”L’arte dei bambini (1887)”」によってもたらされたものとされている。それ以前に「児童画」を前景化する視点そのものが存在しなかったと言っても良いだろう。


例えば「絵画の起源」について、コラド・リッチの「児童画」の「発見」から遡る事1900年前に、こういう記述がされた。


fingere ex argilla similitudines butades sicyonius figulus primus invenit corinthi filiae opera, quae capta amore iuvenis, abeunte illo peregre, umbram ex facie eius ad lucernam in pariete lineis circumscripsit, quibus pater eius inpressa argilla typum fecit et cum ceteris fictilibus induratum igni proposuit, eumque servatum in nymphaeo, ......,


粘土で肖像を作ることが、コリントスの町シキュオンの陶器師ブタデスによって発明されたのは、あの同じ土のお陰であった。彼は自分の娘のお陰でそれを発明した。その娘はある青年に恋をしていた。その青年が外国に行こうとしていた時、彼女はランプによって投げられた彼の顔の影の輪郭を壁の上に描いた。彼女の父はこれを粘土に押し付けて一種のレリーフを作った。彼はそれを他の陶器類と一緒に火に当てて固めた。そしてこの似像は、ニンフたちの神殿に保存されていたという……。



ガイウス・プリニウス・セクンドゥス「博物誌」


こうした脚色芬芬たる「寓話」に「起源」を見る事を好む人達は多くいる。「粘土で肖像(魂の容れ物)を作ること」が「コリントスの町シキュオンの陶器師ブタデスによって発明された」とするのは、勿論限定された「文化圏」でのみ通用する「寓話」だ。「大プリニウス」の言う「絵画」の「起源」にしても同様である。いずれにしても「寓話」を必要以上に学的な論証の「拠」とするのは、寧ろそれを「拠」としたい者の「欲望」こそが問われる事になるだろう――ソーカル事件の様に――。


恐らく「大プリニウス」は、彼自身の時代にも存在していたであろう「児童画」の存在を意図的に無視している。先述した様に、「児童画」は「殴り描き(1歳〜)」「前象徴期(3歳〜)」「象徴期(5歳〜)」を経て「写実期(9歳〜)」に入る(解釈者によって幾つかのバリエーションが存在する一方で、ステージが上がるにつれて相対的に文化的な影響が色濃くなって行く為に、「児童画」という「発見」そのものが文化的制約の内にあるとする見方もあるが)。「児童画」に於ける「象徴期」ステージにあるオンフィム少年の「絵」を、「影」で説明する事はかなり難しいし、同じく「絵画」の「起源」とされる事の多い「痕跡(聖骸布)」や「水面(ナルキッソス)」にも「オンフィム」は遠い。



「殴り描き」「前象徴期」「象徴期」「写実期」の「後」に「ブタデスの娘」はある。「児童画」の「後」に、「絵画」の「起源」はある。「影」を「絵画」の「起源」にしたい者にとって、恋人の影をトレース出来るまで成長した「ブタデスの娘」以前の「ブタデスの幼子」には興味は無い。「影」や「痕跡」や「水面」の前に、6歳児の「象徴」があってはならない。「絵画」で説明出来ないものは「絵画」ではない。従って「児童画」は「絵画」ではない。それは「絵画」に酷似した何かである。しかし果たしてそうだろうか。


「児童画」は大文字の "PAINTING(Painting)" には成り得ない。それは誰にも一度は訪れる(=自明)という意味で、例えば誰にとっても「特筆すべきもの」でも何でも無い "infant stage(幼少期)" が、"my INFANT STAGE" の様な形で書かれないのと同じだ。或いは "breath(息をする事)" 自体が「生きている者」にとって「極めて普通(=自明)」の事であり、従ってそれが「取るに足らない(=自明)」ものであるが故に、"my BREATH" と書かれない様なものである。即ち「絵画の存在そのもの」が本当に「自明」のものであるならば、ここは何が何でも "the way of painting" と全て小文字で書くべきところなのだが、それをわざわざ "PAINTING(Painting)" と大文字で書いているというところに、逆説的にここで言われているところの「絵画の存在」が少しも「自明」では無い事を表していると言える。意識的に「大文字」で書かれてしまう存在というのは、それ自体が「自明」でも何でも無い存在である事を表している。大文字の "PAINTING(Painting)" には「大文字でありたい(小文字に見られたくない)」という「願い」が込められている。"PAINTING(Painting)" は "painting" (例えば「児童画」)の様な「取るに足らないもの」までになれる程には「自明」ではない。


"Men han har jo ikke noget paa(でもあの人は裸だよ)"。ハンス・クリスチャン・アンデルセンの "Keiserens nye Klæder(皇帝の新しい服)」の原著に於ける子供は――多くの日本語訳(「裸の王様」というタイトルに変更されている)がそうしてしまっている様に――決して「王様は裸だ」とは言っていない。原著では「あの人」呼ばわりなのだ。或いは "han" は「あのおじさん」という訳でも良いかもしれない。「でもあのおじさんは裸だよ」。「あの人」「おじさん」という「自明」。「自明」という「取るに足らないもの」。その一方でアンデルセンは、物語に登場する市中の大人達には、「自明=取るに足らないもの」の真逆にある「王様(皇帝)」――Gud hvor Keiserens nye Klæder ere mageløse!(本当に王様の新しい服は飛び抜けて素晴らしい!)――と言わせている。アンデルセンはそうした違いをきちんと書き分けているのだ。


果たして「東京オペラシティ アートギャラリー」の「絵画の在りか」に集まった「絵画」のそれぞれは、「王様」の様な "PAINTING(Painting)" なのだろうか。それとも「あの人」の様な "painting" なのだろうか。

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「影」「痕跡」「水面」といった「絵画」の「起源」の退屈は、それらのいずれもが「目」を最上位とし、且つ起点にしようとするところにある。「スクリブル」は、何よりも「手」が主導的だ。「絵」を描く1〜2歳児の「目」は、専ら自ら動かした「手」の軌跡を追う。1〜2歳児の「絵」は、何よりもまず「運動」である。ここでは「目」は「手」の「下位」に位置している。


ここでアメリカ・ミズーリセントルイス動物園に住むチンパンジーのバクハリ(Bakhari、1998〜)と、ペンシルベニア州エリー動物園に住み続けたウェスタンローランドゴリラのサマンサ(Samantha、1965〜2012)の「絵」を提示しておく事にする。



これらの絵を2012年に展示したUCL(University College London)グラント動物学博物館の館長、ジャック・アシュビー氏は言う。


Ape art is often compared to that of two or three year old children in the ‘scribble stage’,


類人猿アートは、人間の2〜3歳児に於ける「スクリブル段階」としばしば比較される。


http://www.ucl.ac.uk/news/news-articles/January2012/270112-art-by-animals


誤解を厭わずに言えば、「スクリブル」はチンパンジーやゴリラの描く「絵」と「同じ」ものである。それは「絵」に於いて「目」が最上位に位置していないという点で「同じ」だ。但し両者の間に違いがあるとすれば、上掲「2歳児 えんぴつ」の動画中にある「しんかんせん」の言葉だろう。チンパンジーやゴリラは、自らが描いた「絵」に対して、2歳児がその「殴り描き」に見た「しんかんせん」に相当する「何か」を見る事は出来ない。少なくともそれに「しんかんせん」が現れていると「言語」化する事が出来ない。


大人は「しんかんせん」の言葉を聞いて、この殴り描きの中に何とか「新幹線」の形象を見ようとするだろう。しかし恐らくその多くは裏切られる。2歳児の言うところの「しんかんせん」は、「がたんがたん」という音と共に現れる「泡箱(霧箱)写真」に写った荷電粒子の様な「運動の軌跡」の事なのかもしれないし、事実多くはそうであったりするからだ。



「児童画」に於ける「前象徴期」や「象徴期」は、字義通りの「言語」の習得と共に始まる。即ち「非・大プリニウス」的な「絵画」の「起源」に於いて、「運動」の次に来るのは「言語」の「形象」化である。「目」はその時「フィードバック装置」として働く。堀元彰氏による「(絵画は)絵具という物質をイメージに変換する媒体」という文章は、「イメージ」とされるものが他ならぬ「言語活動」の発達によって初めて可能になるという点を勘考して初めて正鵠を射ていると言える。「言語」による「抽象」の能力を持たないチンパンジーやゴリラは、決して「イメージ」を持つ事は無い。


続く「物質性(抽象)と表象性(具象)の両面性が絵画の本質」という文章にピン刺しをしなかったのは、前段の「絵具という物質をイメージに変換する」とされる「絵画(繰り返しになるがそこで言われる「絵画」は極めて限定的な文化圏に於いてのみ有効な概念である)」の成立条件に於ける「物質性(抽象)」と「表象性(具象)」が、同じロジックのステージに存在していないからだ。それ以前に「抽象」の着地地点は――「抽象」が「言語活動」の現れである以上――単純な「物質性」とは全く異なる場所に存在する。


いずれにしても、「大プリニウス」的な「絵画」の「起源」が説明するところの「目」による「観察」によっては、「系統発生」的に繰り返される「児童画」の「形象」は生まれない。彼等は「お母さん」を見る事無く「おかあさん」を描き、「新幹線」を見る事無く「しんかんせん」を描く。この時期に「目の前にあるものをそのまま描く」という「写生」を行わせたところで、「大プリニウス」を信奉する文化圏に住む大人が期待する様な結果は決して生まないだろう。

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「目」を最上位に置かず、「手」を前面化する事を意図して描かれた「(芸術)絵画」には、例えば所謂「アクション・ペインティング」から「ボクシング・ペインティング」に至るまで様々に存在した。



しかし今ではそうした試みは「廃れた」のであろうか。「絵画の在りか」展の「絵画」の殆どはやはり「目」が主役であり、全面的に「手」から発する作品は「高橋大輔」氏を唯一の例外として存在しなかった。他にも一見すると「手」が主導的に見えるものがあったものの、しかしそれらは最後の段階で「目」を調整役としてその判断を大いに仰ぐものだった。


「絵画」であるから「目」の最上位が疑われないというのは、一見確かに「仕方の無い」話である。「仕方の無い」という意味では、時に「当然」や「問答無用」という言葉を纏いもする「自明」である。ファンタスマータ(幻影)も、アレテイア(実在)も、そしてミメティケー(模倣)も、畢竟「目」に対して言われるものだ。従って「絵画」が「目」である事が「仕方の無い」話であれば、これらのファンタスマータ、アレテイア、ミメティケーから「絵画」が常に「脅かし」を受け、何らかの形でそれらに対処する事を迫られるというのも「仕方の無い」話であるという事だろうか。


毎日毎日「手」の「児童画」を見る機会が多くなる一方で、比率的に「目」の「絵画展」を見る事が少なくなっている。「児童画」を見るというのは「発生学」の現場にいる様なものだ。一方「絵画展」は「政治学」の現場にいる様なものである。様々な「絵画」が集められた「絵画の在りか」展では、様々な「ポリティクス」を見た。「他者(他国)」との距離を常に保とうとする「国家のアイデンティティ」みたいなもの(通約不可能性)がここでは重要なものの一つとされていると改めて感じられたが故に、幾つもの「同じもの」を見たという印象を持った。「表現の自由」という言葉がしばしば言われるが、その「自由」は「通約不可能性の自由」であり、「文脈再編可能性の自由」ではない。従って「政治」を欠いている「児童画」には「表現の自由」という言葉は使われないのである。

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東京オペラシティ アートギャラリー」を出て、徒歩で「HAGIWARA PROJECTS」に行く。「paintings」という展覧会だった。こちらのタイトルは全て「小文字」である。この「即物」的表記が「美術商」らしいと思った。物質的な財の分配。展覧会名に誘われる様に、壁に掛かっている "paintings" を極めて「即物」的に見てみた。「東京オペラシティ アートギャラリー」にも出品している作家の作品が全く違って見えた。


「αM」に足を伸ばした。「重ね書きされた記憶 Vol.2 岩隈力也」。カウンターに置いてあったパンフレットを開く。宮川淳とアーサー・ダントーが引かれていた。


イマージュの問題は、根源的に、ここ、イマージュがあらわす対象の存在ではなく、いわばイマージュそのもの現前、なにものかの再現ではなく、単純に似ていることにこそありはしなかっただろうか。
――宮川淳(注:「鏡・空間・イマージュ」)


It is no mean thing for art that it should now be an enhancement of human life. And it was in its capacity as such an enhancement that Hegel supposed that art would go on even after it had come to an end.
――Arthur C. Danto(注:"Approaching the End of Art")


会場には「LAUNDRY」の「制作風景」のビデオが流れていた。「絵画(同一者=鏡)」を「聖骸布(痕跡)」にする作業の様にも見えた。しかしそれは「聖骸布」的な「痕跡」の様でありながら、当然プロセス的には別のところにあるものだ。「洗浄」は「風化」を「短縮」するやり方と言えば言えるが、同時に見る者が持つ「パレイドリア効果」の助けを借りて「風化」を留めようとするという力学には置かれている。


「芸術の終焉への道(Approaching the End of Art)」とアーサー・ダントーは言う。「芸術を作るのはもう止めよう(Stopping Making Art)」とも言う。「芸術」という「自明」が終わり、「芸術」という「自明」を作るのを止めて、そして「何か」が始まるのであろうか。その「何か」はまた、やがて「終わる」ものになり、「止める」ものになるのだろうか。


一つだけ言えるのは、「絵」を描いている幼児に対して、「えはおわったよ」とか「もうえをかくのはやめようよ」と言う事は極めて馬鹿げているという事だろう。「おとなはえがおわるっていってるよ」とか「おとなはえをやめるっていってるよ」と幼児に言っても、彼等は「絵」を描く手を止めないだろう。


「絵画展」に行っても「発生学」が頭から離れない。「政治学」より「発生学」の方が面白くなってしまったのだ。