赤瀬川原平氏はマルセル・デュシャンの正統的な系譜の上にあるという評もある。趣味に生きた1990年代以降の氏は、後半生にチェスに興じたデュシャンを彷彿とさせるかもしれない。それが当たっているか当たっていないかはどうでも良い話だが、但し赤瀬川原平氏による大仕掛けの「遺作("Étant donnés : 1° la chute d'eau, 2° le gaz d'éclairage")」は見たくない気がする。
Tumblr の "Hyperart: Thomasson /unintentional art created by the city itself"。ここは「作者の不在」によっても生き続けるものにはどういった可能性があるのかというヒントの一つを与えてくれるだろう。
19世紀初め、大英帝国とその植民地の貿易のハブだったロンドン港は、世界で最も活気付いていた最大の港だった。世界中から海洋上のあらゆる危機を掻い潜り、世界中の積出港から最新鋭の大型外洋帆船で数千マイルの行程を生き延びて来た珍重すべき産品は、しかし事もあろうにそのロンドンという町の中世的なインフラによって流通の速度をスポイルされていた。物流の妨げの一つになっていたのはテムズ川に掛かるロンドン橋である。シティ・オブ・ロンドン(City of London)を最終目的地としてテムズ川に入って来た大型外洋船は、12世紀に架けられた桁の低いその橋梁に、100フィート(約30メートル)の高さのマストを阻まれる形で停止させられる。その停止線=ロンドン橋から下流側の両岸はプール・オブ・ロンドン(Pool of London、ロンドン波止場)として発展し、やがて荷揚げの中心はプール・オブ・ロンドンから下流側のドックランズ(London Docklands)に移る。
L'unité de l'île déserte et de son habitant n'est donc pas réelle, mais imaginaire, comme l'idée de voir derrière le rideau quand on n'est pas derrière.
確かに「人(L'homme)」にとって「無人島とその住人の一体性」は想像的なものである。しかしフナクイムシにとって「木材とその住人との一体性」は紛れも無く現実である。「或る島が無人であるということは、我々にとって哲学的には正常なことと思われて然るべきなのだ(qu'une île soit déserte doit nous paraître philosophiquement normal)」や「或る島が無人島でなくなるには、そこに人が住めば済むわけではない(Pour qu'une île cesse d'être déserte, il ne suffit pas qu'elle soit habitée)」(以上ドゥルーズ前掲書から。訳同)が言えるのは、「二次元」以上を認識出来てしまう能力=原罪を負ってしまった「人(L'homme)」に対してであり、フナクイムシという「一次元」の生物には妥当しない。繰り返すが、フナクイムシには「他者」がいない。従って「他者」との関係で「自己」の位置を定位する事が出来ない。フナクイムシに「自己」は成立不可能だ。言い換えれば「他者」とその反照としての「自己」は、それぞれが平面上、乃至は空間内の「別の位置」を占めると「感得」される「二次元」以上の世界に於いて初めて「出現」する。
「無人島にて」というタイトルは、企画者自らが明かしている様に、前掲したジル・ドゥルーズの「無人島の原因と理由(Causes et raisons des îles désertes)」に由来している。1953年に書かれた未発表のこのテクストは、彼によるデヴィット・ヒューム論(「経験論と主体性 ヒュームにおける人間的自然についての試論("Empirisme et subjectivité. Essai sur la nature humaine selon Hume":以下「経験論と主体性」)」1953)の前後に書かれていると思われる。「精神はどのようにして一つの人間的自然に生成するのか(comment l'esprit devient-il une nature humaine ?)」というヒュームの「問い」が、イマヌエル・カントの超越論哲学の内在平面(plan d'immanence)と対比され、最終的にそれら(ヒュームの「経験論」とカントの「超越論」)の内在平面を総合する形で書かれているのが「経験論と主体性」だが、「無人島の原因と理由」もまた、それと同じ「問い」の極めて凝縮されたエッセンスであるとも言えるテクストだ。
思えばこの作家の作品は常に「二人」だった。「一人」である事も「三人」以上である事も、作品の中に於いては稀だった。「二人」。それは「社会」の最小単位であり、同時に「政治」の最小単位でもある。「社会」の、そして「政治」の最もピュアで赤裸々な諸々の構造が、そこでは「二人」の間の「差異」に沿った形で極めてラディカルな形で現出する。この作家の数少ない「一人」の作品に、横臥する自分自身の臍にシリコンを流して取り出すというもの(”To See Her on the Mountain” 2013年)があったが、しかし「シリコン(の先にあるもの)」との間にも「社会」があり(嘗て、そしてこれから)、「政治」がある(嘗て、そしてこれから)のだ。
果たして観客はここでも罠に嵌められる(或いは罠に嵌められていると感じる)。「写真」はそれ自体が相互性を欠いた不躾な視線だ。そしてその「写真」を「鑑賞」する観客の視線もまた同様に不躾である。何故ならば写真を「鑑賞」する観客は撮影者の視線を共有するからだ。「鑑賞」する観客は撮影者と共に「秘密の部屋」の中の住人である。その目は「監視カメラのモニタを見る目」だ。即ち写真を見る観客の目は「ビッグ・ブラザー」の側にある。"Big Brother is watching you"(ビッグ・ブラザーはあなたを見守っている/見張っている)。その意味でここに展示された写真は、写真が「窃視」的である事を隠さないが故に清々しい。徹底した一人称の文章になっているリーフレットに掲載された「写真家」のコメントもまたその意味で清々しい。
"It is a little misty," I said, "but I think I get the point. You would telegraph the Idea of the matter, to use the word Idea in Plato's sense."
"Precisely. A candle flame is the same candle flame although the burning gas is continually changing. A wave on the surface of water is the same wave, although the water composing it is shifting as it moves. A man is the same man although there is not an atom in his body which was there five years before. It is the form, the shape, the Idea, that is essential. The vibrations that give individuality to matter may be transmitted to a distance by wire just as readily as the vibrations that give individuality to sound. So I constructed an instrument by which I could pull down matter, so to speak, at the anode and build it up again on the same plan at the cathode. This was my Telepomp."
ドゥームコープフ教授が何故に頭部だけになってしまったのかという本当の理由は、ミイラ化して博物館の展示物と化してしまった彼の口を通じて明らかになる。それは極めてベーシックな理由によって自身の転送中にエラーが生じた事によって生じた。「蓄電池の容器に未使用の硫酸を補充するのを忘れていた為に、体の残りを物質化する電力が不足してしまった」("I had forgotten to replenish the cups of my battery with fresh sulphuric acid, and there was not electricity enough to materialize the rest of me")。あのジョルジュ・ランジュランの「蝿(La Mouche)」とはまた違った意味で、科学技術に対して身も蓋も無い警鐘を与えていると言えよう。ダウンロードファイルに他のファイルが交じってしまうというのは確率的に低いが、ダウンロード中に電池切れというのは21世紀では日常茶飯である。
顔の画像を示されて「『目』を切り取って別レイヤーにしてくれ」と誰かに指示されたとする。その指示に誠実であろうとすればする程「選択範囲」を何処に定めるのかを決め倦ねる事になるのは必定だ。果たして「目」とは何処から何処までの部分を指すものなのだろうか。「目」は「瞼」や「睫毛」、或いは「眉毛」までを含むのだろうか。それともそれらは「目」の「本質」であるだろうところの「眼球」に対する「非本質」としての「縁取り」であり、「目(ophthalmós = οφθαλμός オフサルモス)」の「傍ら(para = παρά パラ)」に位置するもの=「parophthalmós(παροφθαλμός パロフサルモス=古代ギリシャ語風造語を作ってみた)」なのだろうか。
「純粋な趣味判断のための適切な対象」である「作品」に対し、「対象の完全な表象に含まれるただ周縁的なものでしかなく、本質的な構成要素ではないもの」を、18世紀〜19世紀のドイツの哲学者イマヌエル・カント氏は「パレルガ( παρἔργα)」とした。その例として、氏は「額縁(Rahmen)」「彫刻の衣襞(Gewänder an Statuen)」「宮殿の列柱(Säulengänge um Prachtgebäude)」を上げている。但し身も蓋も無い事を言えば、「(The man)カントは言っている」は、「(A man)イマヌエル・カント氏がそう言っているに過ぎない」という事をも同時に示している。そしてこれも身も蓋も無い事を言えば、西洋社会に於ける影響力という点で、イマヌエル・カント氏はイエス・キリスト氏のレベルには無い人物である。当然20世紀〜21世紀のフランスの哲学者ジャック・デリダ氏も。
8世紀のケルト写本「ケルズの書(Leabhar Cheanannais)」(左)と、15世紀フランドルのミニアチュール画家ランブール兄弟による「ベリー公のいとも豪華なる時祷書(Les Très Riches Heures du Duc de Berry)」(右)である。前者のミニアチュールには、イエス・キリスト氏の「イメージ」の周囲に「豪華」な「フレーム」が描き込まれている。寧ろそれは「フレーム」に「イメージ」が埋もれている様にすら見える。対する後者の「フレーム」は仮縁様にも見え、或る意味で今日的(ブックデザインとしても)である。「フレーム」を描き込む事が、一種の「聖別」的な役割を果たすとして、果たしてその「儀式」は如何なる理由を以って後者に於いて「簡略可」になったのだろうか。「聖」なる「イメージ」は、「フレーム」の助けを借りる事無くそれ自体で「聖性」を有すると見做されたのであろうか。
「芸術とされる写真」と「一般の写真」の間を分かつのは、スティーブン・ショアの「写真の性質(The Nature of Photographs)」を引けば 「写真は一つの物として世界の中に存在している。靴箱に収める事も美術館に収める事も出来る。売買する事も出来る。実用品として捉える事も芸術作品として捉える事も出来る。写真が見られるコンテキストは、鑑賞者がそれから引き出す意味に影響を与える(As an object, a photograph has its own life in the world. It can be saved in a shoebox or in a museum. It can be bought and sold. It may be regarded as a utilitarian object or as a work of art. The context in which a photograph is seen effects the meaning a viewer draws from it)」という「作用」から全ては始まる。「美術館」に「写真」があれば――例えそれが同じ「写真」であっても――「靴箱」に放り投げ入れられているそれとは違った意味が生まれる。「美術館展示室」と「美術館化粧室」の「便器」の意味が異なる様に。但しそれは現実的な美術館で無くても構わない。「ビュアー(viewer)」が「芸術とされる写真」に美術館で見る様に他の場所でも「アプローチ」出来るのであれば、「芸術とされる写真」が見られる場所は何処でも良い(だからこそ「写真集」が存在可能になる)。
Saa gik Keiseren i Processionen under den deilige Thronhimmel og alle Mennesker paa Gaden og i Vinduerne sagde: "Gud hvor Keiserens nye Klæder ere mageløse! hvilket deiligt Slæb han har paa Kjolen! hvor den sidder velsignet!" Ingen vilde lade sig mærke med, at han intet saae, for saa havde han jo ikke duet i sit Embede, eller været meget dum. Ingen af Keiserens Klæder havde gjort saadan Lykke.
"Men han har jo ikke noget paa," sagde et lille Barn.
(注)アンデルセンの寓話に登場する二人の詐欺師は、「皇帝の新しい服」が「自分にふさわしくない仕事をしている人と、馬鹿な人には何も見えない布(havde den forunderlige Egenskab at de blev usynlige for ethvert Menneske, som ikke duede i sit Embede, eller ogsaa var utilladelig dum)」で作られていると信じ込ませた。
展覧会タイトル「絵画の在りか」の英語訳は、"the way of PAINTING" とされた様だ。カタログ冒頭の堀元彰氏の同名の文章「絵画の在りか」の英訳は "The Way of Painting" になっている。紹介記事の一部には "The way of PAINTING" としているものもある。これらの大文字小文字の表記の違いから来るものは大きい様にも小さい様にも思えるものの――特にその違いについて何処かに明記されている訳でも無さそうなので、取り敢えずその違いを気にしないでおくが――何れにしても "Painting(PAINTING)" が「大文字」である事は外せない事なのだと思われる。それはカタログ文「絵画の在りか」の結論部分からも明らかだ。
ここでは「絵画の存在」が「自明のもの」であるとされているからこそ、それは大文字の "Painting(PAINTING)" になるという事なのだろうか。"the way of painting" は、数ある機械翻訳の内、Google 翻訳エンジンでは「絵画の道」、BizLingo 翻訳エンジン(富士通)で「絵の道」、Microsoft Translation 翻訳エンジン、クロスランゲージ社翻訳エンジン、The翻訳エンタープライズ翻訳エンジン(東芝ソリューション)では「絵画の方法」、Java 版多言語パターン翻訳エンジン(沖電気)では「描画の方法」と訳された。堀元彰氏の "The Way of Painting" を読む限り、それぞれ相対的に「正しい」翻訳であると言える。
堀元彰氏の文章の中で、個人的にピンを刺したセンテンスは「(絵画は)絵具という物質をイメージに変換する媒体」という「部分」だった。続く「物質性(抽象)と表象性(具象)の両面性が絵画の本質」という「部分」にはピンを刺さなかった。このカタログの "The Way of Painting" 解説文はそれ自体で一種の「知恵の輪」になっている様に思えた。こちらの「部分」を無理に外そうとすれば、あちらの「部分」が絶対に外れないという「知恵の輪」の解き方は、それぞれの「部分」に必要以上に囚われず、それぞれの「部分」を「バランス良く」注目/無視する事で、初めて「外れる」様に「出来て」いる。
fingere ex argilla similitudines butades sicyonius figulus primus invenit corinthi filiae opera, quae capta amore iuvenis, abeunte illo peregre, umbram ex facie eius ad lucernam in pariete lineis circumscripsit, quibus pater eius inpressa argilla typum fecit et cum ceteris fictilibus induratum igni proposuit, eumque servatum in nymphaeo, ......,
「児童画」は大文字の "PAINTING(Painting)" には成り得ない。それは誰にも一度は訪れる(=自明)という意味で、例えば誰にとっても「特筆すべきもの」でも何でも無い "infant stage(幼少期)" が、"my INFANT STAGE" の様な形で書かれないのと同じだ。或いは "breath(息をする事)" 自体が「生きている者」にとって「極めて普通(=自明)」の事であり、従ってそれが「取るに足らない(=自明)」ものであるが故に、"my BREATH" と書かれない様なものである。即ち「絵画の存在そのもの」が本当に「自明」のものであるならば、ここは何が何でも "the way of painting" と全て小文字で書くべきところなのだが、それをわざわざ "PAINTING(Painting)" と大文字で書いているというところに、逆説的にここで言われているところの「絵画の存在」が少しも「自明」では無い事を表していると言える。意識的に「大文字」で書かれてしまう存在というのは、それ自体が「自明」でも何でも無い存在である事を表している。大文字の "PAINTING(Painting)" には「大文字でありたい(小文字に見られたくない)」という「願い」が込められている。"PAINTING(Painting)" は "painting" (例えば「児童画」)の様な「取るに足らないもの」までになれる程には「自明」ではない。
"Men han har jo ikke noget paa(でもあの人は裸だよ)"。ハンス・クリスチャン・アンデルセンの "Keiserens nye Klæder(皇帝の新しい服)」の原著に於ける子供は――多くの日本語訳(「裸の王様」というタイトルに変更されている)がそうしてしまっている様に――決して「王様は裸だ」とは言っていない。原著では「あの人」呼ばわりなのだ。或いは "han" は「あのおじさん」という訳でも良いかもしれない。「でもあのおじさんは裸だよ」。「あの人」「おじさん」という「自明」。「自明」という「取るに足らないもの」。その一方でアンデルセンは、物語に登場する市中の大人達には、「自明=取るに足らないもの」の真逆にある「王様(皇帝)」――Gud hvor Keiserens nye Klæder ere mageløse!(本当に王様の新しい服は飛び抜けて素晴らしい!)――と言わせている。アンデルセンはそうした違いをきちんと書き分けているのだ。
It is no mean thing for art that it should now be an enhancement of human life. And it was in its capacity as such an enhancement that Hegel supposed that art would go on even after it had come to an end.
――Arthur C. Danto(注:"Approaching the End of Art")
「芸術の終焉への道(Approaching the End of Art)」とアーサー・ダントーは言う。「芸術を作るのはもう止めよう(Stopping Making Art)」とも言う。「芸術」という「自明」が終わり、「芸術」という「自明」を作るのを止めて、そして「何か」が始まるのであろうか。その「何か」はまた、やがて「終わる」ものになり、「止める」ものになるのだろうか。