ことづけが見えない


ギャラリーハシモトの「ことづけが見えない」展は「二人の展覧会」だった。それは直ちに「二人展」を意味するものではないが、しかし両者は何処かで繋がるかもしれない。


「二人の展覧会」をまず最初に印象付けられたのは百瀬文氏の作品からだった。本展の新作「The Examination」の画面に登場するのは「二人」。「医者」と「患者」である。眼科医院の一室で、「ニデック社システムチャートSC-2000」の液晶画面に映し出された「ランドルト環」を使っての視力検査を、「医者」が「患者」に対して行っている(=「患者」が「医者」から行われている)。従ってこの「二人」は「験す者(検査者)」と「験される者(被検者)」という不均衡な関係にある。そこでは「験す者」は常に「験す者」であらねばならず、間違っても「試される者」になってはならない。


視力検査には視標と呼ばれる目印を用いる。被検者は視力測定法ごとに定められた一定の距離の位置から視標を確認して判別し口頭(あるいは指で指し示す)により応答する。


Wikipedia「視力 #検査方法」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%96%E5%8A%9B#.E6.A4.9C.E6.9F.BB.E6.96.B9.E6.B3.95


「験す者」が「験される者」に対して提示する「視標」を、「験される者」がどう認識したかを「験す者」に伝える方法は、それ自体が「験す/験される」の外部にある方法論=「口頭(あるいは指で指し示す)」に委ねられる。「験される者」は、その「判断」を意味伝達性の高い「情報」に変換して「口頭(あるいは指で指し示す)」で「験す者」に送る。「験す者」は、その「判断」の「情報」を受け取る。その事で「験す者」が「験される者」になる事を避ける事が出来る。


「The Examination」では「験される」事の無い「験す者」が「験される者」になり、「験される者」は(結果的に)「験す者」になっている。ここでは「験される者」が送る「情報」は、「験す者」が送る「情報」と「近似」的に「同じもの」だ。「験す者」が上方向が開いている最大の「ランドルト環」(0.1と仮定。以下それを基準にする)を示せば、「験される者」はそれに近似した大きさと方向性を有する「記号」を「験す者」に対して視覚的に提示する形で「応答」する。続けて視力検査の作法通りに「験す者」が一回り小さい右方向が開いている「ランドルト環」(0.2)を「験される者」に示せば、「験される者」は同様にそれに近似した一回り小さい大きさと「ランドルト環」が示す方向性を有する「記号」を「験す者」に対して視覚的に提示する。


やがて観客は次第に「作品」を見ている自分自身が、作者の罠に嵌められている事に気付く(或いは罠に嵌められていると感じられる)のである。「験す者」が提示する SC-2000 の「ランドルト環」は次第に小さくなる。そして「験される者」が提示する「記号」もそれに比例する形で連動する。0.3(下)、0.4(左)、0.5(下)、0.6(右)、0.7(左)、0.8(左)、0.9(下=ここで「検査者」は目を瞬かせる)、1.0(下)、1.2(上)、1.5(上=ここで「検査者」は自身の眼鏡を掛け直す)... 辺りまで来ると、観客の目にもスクリーン上に投影された「ランドルト環」の切れ目のコントラストが失われて来る。それと同時に「験される者」が提示する「記号」も読み取れなくなって来る。


改めて思い起こしてみると、「検査者」によって「ランドルト環」が「被検者」に対して提示されるショット、「被検者」によって「記号」が「検査者」に対して提示されるショットは、全てスクリーン上に「実物大」で投影されていた。加えて観客が座る椅子の位置も、スクリーンから約3メートルの距離にあり、それは画面中のSC-2000の諸元にある検査距離「3m〜6mの間で50cm間隔で設定可能」に「準じて」いる。即ちこれらの「実物大」によって、この「作品」を見る観客もまた、「視力検査」に「験される者」として参加させられている(と感じられる)のである。


最後の最小の「ランドルト環」、及び「記号」を、画面中の「二人」は互いに読み取れない様に見える。しかし「二人」がそれを読み取れていないのかそうでないかの確信は、「験される者」として「視力検査」に参加させられた観客としての自分の視力では得られない。HDではあっても、最小の「ランドルト環」を高コントラストで解像するまでの性能を持つかどうか判らない映像ソース(レンズ性能限界も関わる)の、スクリーン投射という再現性のクォリティ的には条件の悪い画面を前にして、観客は只々途方に暮れるしかなくなる。しかも画面中の「検査者」はSC-2000に表示された「ランドルト環」の開口部の方向を知り、「被検者」は自身が手にした「記号」の向きを知っているというのに、観客は彼等に対して「優位」に立てるものなど何一つ持っていないのだ。ここでの観客は、作品に巻き込まれた覚えも無いのに、それを見ているだけでまんまと巻き込まれてしまう。


作品の最後で「検査者」は考えている。通常は「正答」率60%以上というのが「ランドルト環」による視力評価法になるが、今回はそれが「正答」であるかそうでないかの見極めが困難だ。その「正答」とは一体誰の「答え」になるのだろうか。そして「検査者/被検者」は暫く考えた後、書類の「視力」の欄に数字を書き込む。それは「正しい」数字の様にも「正しくない」数字の様にも思える。しかし観客を初めとして、だれもその数字を「正しい」とも「正しくない」ともする根拠を持つ事は出来ない。


思えばこの作家の作品は常に「二人」だった。「一人」である事も「三人」以上である事も、作品の中に於いては稀だった。「二人」。それは「社会」の最小単位であり、同時に「政治」の最小単位でもある。「社会」の、そして「政治」の最もピュアで赤裸々な諸々の構造が、そこでは「二人」の間の「差異」に沿った形で極めてラディカルな形で現出する。この作家の数少ない「一人」の作品に、横臥する自分自身の臍にシリコンを流して取り出すというもの(”To See Her on the Mountain” 2013年)があったが、しかし「シリコン(の先にあるもの)」との間にも「社会」があり(嘗て、そしてこれから)、「政治」がある(嘗て、そしてこれから)のだ。

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写真家とモデル。これもまた「二人」であろう。それは画家とモデルの関係以上に「社会」的にも「政治」的にも不均衡だ。「カメラ」の名の由来となった「カメラ・オブスキュラ」を最初に実用化したのは、10世紀から11世紀に掛けてのイスラム圏の数学者、天文学者、物理学者、医学者、哲学者、音楽学者、イブン・アル=ハイサム(Ibn al-Haytham=ラテン名:アルハーゼン)であるとも言われている。この挿絵の「カメラ・オブスキュラ」がどれだけ実際の彼のものに正確であるかは判らないが、しかし彼のこの画期的なデヴァイスが、アリストテレスプラタナスの木漏れ日や、墨子の穴の空いた衝立から一線を画すとすれば、それは「像」を結ぶエリアと、「像」の対象とする「現実」のエリアを、「秘密の箱(暗がりの箱)」という形で厳密に区分した事による。



この挿絵では、「像」を見る者は「像」のエリア=「秘密の箱」の中に入っている。「秘密の箱」が「現実」のエリアに通じているのは、光の回折効果を生むべく開けられた非常に小さな「覗き穴」だけだが、その「覗き穴」こそは「像」を結像させる役目を持つ為に、そこから「秘密の箱」の中の何者かが「秘密の箱」の外を覗こうとすれば、その瞬間に光は遮られ、スクリーンの「像」は消失してしまう。従って「秘密の部屋」の中にいる者は、常に「現実」のエリアに対して文字通り背を向けて「像」を見る事しか許されていない。


他方「現実」のエリアの側にいる者は、この「秘密の箱」の中で何が「像」として見られているのかを知り得ないし、「秘密の箱」の中にいる者が何をしているのか、そこにいるのが誰なのかを知る事も出来ない。「秘密の箱」の中の男達の好奇の「目」と、脳を介してその「目」と神経的に繋がっている男達の好奇の「器官」の存在を、「現実」のエリアを歩く女は知り得ない。「カメラ・オブスキュラ」、そしてその子孫である「カメラ」という「秘密の箱」は、言わば「暗がり」から「窃視」する為のものなのである。「撮影者」は常に「暗がり」に隠れる。或いは「暗がり」に隠れる事で「撮影者」になる。「窃視する者」と「窃視される者」の不均衡。従って最も進化した「カメラ」装置の一つは、「監視カメラ」とそのシステムと言えよう。


通常「監視カメラ」は素っ気無い外観をしている。しかし例えば、千切れんばかりに手を振りながら極めてフレンドリーに接して来るテーマパークのキャラクターの「目」の部分に「監視カメラ」が備えられていたらどうだろうか。あの「巨大ネズミ」の何処を見ているのか判らない「目」の部分に、実際には「監視カメラ」が嵌っていて、その「巨大ネズミ」の「主体」が「ゲスト」の一挙手一投足を「暗がり」で「監視/窃視」しているのである。或いは薬局の前にインストールされたキャラクター人形の目に「監視カメラ」が嵌め込まれているというのはどうだろうか。愛らしく造形されたカエルやウサギやゾウが子供の目線までしっかり下がり、現象的には子供に対して極めてフレンドリーに振る舞いつつも、しかし「暗がり」にあるその「主体」はしっかり子供を「監視/窃視」している。フレンドリーなキャラクターが「視力」を持った瞬間、「目」として機能し始めた「目」は「プロビデンスの目」と化す。



つまりこういう事だ。写真の中に人物が入る場合、「窃視する者」がどれだけ「窃視される者」に現象的に歩み寄ろうとも、「窃視」という行為に否応無く内在する不均衡は拭えないどころか、それをすればする程その不均衡は強化されて行く。「監視/窃視」とは見る相手(対象)とのコミュニケーションの外部に目的を持つ視線の事を言う。そしてそれは紛れも無く写真撮影の視線でもある。「写真家」は「カメラ」を持ったその日から、何をどう工夫しようとも「窃視する者」である事を免れない。「写真家」は常に対象に対して、自分自身の身体を見られない様に隠しつつ「シュート」する。



それは「秘密の箱」の存在が不可欠な「カメラ」の機構から否応無く決定されるものだ。そこから身を剥がすには「カメラ」を捨てる以外には無いのだろうか。



会場内で「齋藤陽道」作と署名されている写真を、「監視カメラ」によるそれと妄想してみた。途端に写真は恐ろしくいたたまれないものになった。慌てて「齋藤陽道」という名前を被せた。写真は安全なものになり落ち着いた。そして今度は貼られたテープの端をめくる様に、少しだけ「齋藤陽道」を剥がし、その小さな穴から見える世界を覗いてみた。


写真の中の人達は、何故目線(が含まれる「顔」)を「写真家」に見せないのだろうか。リーフレット中の沢山遼氏の評論文には「視線を遮断し、そして視線を奪取しようとする、ひとつの劇を演じている」とあるが、例えば「パノプティコン(全展望監視システム)」の中の囚人が、「視線を遮断し、そして視線を奪取しようとする、ひとつの劇を演じている」事を試みたとしても、一方的に「窃視(監視)されている」=「コミュニケーションを欠いた視線に晒されている」事には変わりが無い。



果たして観客はここでも罠に嵌められる(或いは罠に嵌められていると感じる)。「写真」はそれ自体が相互性を欠いた不躾な視線だ。そしてその「写真」を「鑑賞」する観客の視線もまた同様に不躾である。何故ならば写真を「鑑賞」する観客は撮影者の視線を共有するからだ。「鑑賞」する観客は撮影者と共に「秘密の部屋」の中の住人である。その目は「監視カメラのモニタを見る目」だ。即ち写真を見る観客の目は「ビッグ・ブラザー」の側にある。"Big Brother is watching you"(ビッグ・ブラザーはあなたを見守っている/見張っている)。その意味でここに展示された写真は、写真が「窃視」的である事を隠さないが故に清々しい。徹底した一人称の文章になっているリーフレットに掲載された「写真家」のコメントもまたその意味で清々しい。


そして観客は験される。「窃視」と共犯関係にある「鑑賞の目」以外に、自身は写真を前にして如何なる「目」を持ち得るだろうかという問いを伴って。

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再び百瀬文氏に戻る。仮に罠に嵌められたとしても、それでもやるせない気分にまでに至らないのは、この作品が一種の「演芸(笑劇)」になっているからだろう。実際「The Examination」を落語に翻案する事も出来そうな気もする。それを例えば五代目古今亭志ん生八代目桂文楽六代目三遊亭圓生等に演じてもらうのだ(いずれも故人なので無理だが)。想像するだけでも心踊る。


「演芸」に於ける「二人」芸=ダブルアクト(double act)は、北米(例:ローレル・アンド・ハーディアボット・アンド・コステロスマザースブラザーズバーンズ・アンド・アレンマーティン・アンド・ルイス等)、中国(对口相声)、そしてドイツ等に存在し、日本では「漫才」を始めとして、その源流的系統上にある「博多仁和加(掛け合い仁和加)」や「軽口」等が知られている。


欧米のダブルアクトに於ける「二人」は、通常「インテリ」で「常識人」である "straight man (person)" (日本の「漫才」では「ツッコミ」に相当。以下便宜上 "straight man" とする)と、「無学」で「非常識」な "funny man (person)" (同じく「漫才」では「ボケ」に相当。以下便宜上 "funny man" とする)という不均衡な関係を持つストックキャラクターに別れる。日本の「演芸」に於ける「二人」の関係に見られる不均衡性は、「ツッコミ」と「ボケ」の他にも、落語の「世間(「健常」)」と「与太郎(「障碍」)」、或いは狂言の「主(雇用主)」と「冠者(被雇用者)」、古くは「猿楽」の「京童(「都会人」)」と「東人(「田舎者」)」等の対項的関係にも見られる。


「漫才」に見られる様な、不均衡の関係にある者が「友人」であり、その「二人」が対等に対話するという場面は、現実的にはそうそうあるものではない。事実上それぞれのソーシャルは「同じ者」同士で閉じられている。例えば自他共に "straight man" と認める者が、ツイッターで "funny man" に「粘着」された時、現実の "straight man" の多くは、極めて早い段階で対話の状況自体を成立不能なものとする(例:ブロック)。或いは "funny man" と見做した者に対して「殴り付ける」事しか考えない "straight man" もいる。ダブルアクトに於ける対話の持続性は半ば以上仮構的なものだ。


そのあり得ない、しかし社会構造的には極めてあり得る「力学的に均衡・緊張する場(沢山遼氏:前述リーフレット)」を、「二人」の「演芸」は仮構の手を借りて前景化する。「眼科医」が極めて「条理」的に「ふざけないで下さい」と「患者」の「ボケ」を「説諭」してそれきりになれば、「The Examination」に於ける「力学的に均衡・緊張する場」は成立しない。しかしここでの「眼科医」はそれをする事は無い。「条理」的ではない「二人」の関係を最後まで「力学的に均衡・緊張する場」の仮構として持続させる事で、「The Examination」というダブルアクト=「験す者」と「験される者」の「演芸」空間が広がる。


この「演芸」世界での「視力検査」の法則は「ゲーム」のそれであり、従ってプレイヤーの「二人」はその「外部」に出る事は出来ない。その法則はテニスのルールの様なものであり、「二人」が互いに「同じ」テニスラケットを使い、「同じ」フォーマットのコートを走り回り、自コートに入ってきたボールを必ず打ち返さなければならない様なものとも考えられる。そう考えると、通常の「視力検査」と呼ばれているものは、来たボールを打ち返さなくてはならない者と、それを打ち返して来たボールを打ち返さなくても良い者との関係にも似る。



ノバック・ジョコビッチ」と「セリーナ・ウィリアムズ」がゲームをすれば、同じ「テニスプレーヤー世界一」であっても不均衡は存在するし、そこから見えてくるものもある。しかしその不均衡は、「テニスボール・マシン(験す者)」と「練習者(験される者)」の間にあるそれとはレイヤーが明らかに異なる。


「テニスボール・マシン」をテニスの「ゲーム」に引き摺り出し、場合によっては打ち返されたボールに届かずに「テニスボール・マシン」がコートに無様に倒れてしまう。そこには「笑い」も生まれるだろうし、実際多くの「演芸」はそうした「転倒」を通じて、「条理」に内在する不均衡を「滑稽」に思わせる「笑い」を生む力学装置なのである。


【蛇足】


「The Examination」に最も寄与したのは「眼科医」役の「眼科医・大木隆太郎」氏だろう。実に素晴らしい「役者」だった。今までのこの作家の作品中の「最優秀助演男優」と思われる。思わず池袋まで目を診てもらいに行きたくなった。

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「芸術」にはまだまだ「笑い」が足りないという印象を持つ。「アーティスト」の多くは、「インテリ」の "straight man" になりたがるか、「道化」の "funny man" になりたがるかのどちらかに集約されるが、そのどちらもがそれらに対して「本当(マジ)」に関わろうとする事に違いは無い。所謂「コラボレーション」もまた、「本当(マジ)」で結び付けられた「同じ者」同士で閉じられているケースが殆どだ。そこには他人(この場合観客)が「鑑賞」するに足る「表現」としての「社会」や「政治」は皆無であると言っても良い。「フィクション」にしないと見えてこないものというのは、現実的に言って確かに存在するのだ。


そもそも「アーティスト」自身、「芸人」の様には自らを「メディウム」とする技術の蓄積が無く、また自らを「ロール」であるとする視点も「アーティスト」間で広く共有されている訳では無い。「本当(マジ)」に忠誠を誓う「アーティスト」は自他共に求められても、「本当(マジ)」から逃げ続ける「アーティスト」は求められない。


この「ことづけが見えない」という「二人展」の全体が、本人による「本人」を演じた「二人」を見せる「メディウム」であったらどうだろうと妄想した。今以上に「本人」で、本人よりも「本人」らしい、「ロール」としての「本人」達による展覧会。両者の間には本人そのものから受け継いだ様々な不均衡のスラッシュが引かれるだろう。それがダブルアクトの「演芸」として展開されるのだ。それは通常のものとは全く別の意味での「劇場型」になる。


「笑い」は「芸術」の閉塞を救う。桓武天皇は「エスタブリッシュメント」の対極にあった「俗楽」である「散楽(笑い)」を朝廷の保護から外した(延暦元年=782年)。以来日本での「笑い」は、「社会」的にも「政治」的にも不均衡を意識せざるを得なかった「世俗」の間で自然発生的な文化として展開し現在に至る。「雅楽」的な「金持ちの為の芸術」が存在する一方で、「笑い」はそれとは別の「芸術」が存在し得る事を示す。「条理」を崩したくないレイヤーには「笑い」は生まれない。そこには「宮廷文化」のみがある。であるならば、「宮廷文化」とは別の道を行く「条理」を崩そうとする立場の者には、必然的に「笑い」という方法論が前景化されて来ると思われる。