ミュージアムピース

【枕】


私は答えた。「不明な点は幾つかありますが大筋は判っているつもりです。あなたは物質のイデアプラトン的な意味でのイデアを電送しようとしたのではないですか?」


「全くその通り。ロウソクの炎の燃焼ガスが常に変化し続けていたとしても、それでもそれは同一のロウソクの炎だ。水面上の波が移動する事で、それを形成している水が置き換わっていたとしても、それでもそれは同一の波だ。そこにいる人間を構成している原子が5年前と入れ替わっていたとしても、それでもそれは同一の人間だ。形式、形状、イデア、それこそが本質なのだ。物質に個別性を与えている振動は、音に個別性を与えている振動と同じくらい容易に、電線を通じて遠隔地まで送信可能だろう。そう思った私は、例えて言えば陽極で物質を分解し、それと同じ設計図に基いて陰極側で組み上げ直すといった装置を作り上げた。それが私のテレポンプ(Telepomp)だった。

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"It is a little misty," I said, "but I think I get the point. You would telegraph the Idea of the matter, to use the word Idea in Plato's sense."


"Precisely. A candle flame is the same candle flame although the burning gas is continually changing. A wave on the surface of water is the same wave, although the water composing it is shifting as it moves. A man is the same man although there is not an atom in his body which was there five years before. It is the form, the shape, the Idea, that is essential. The vibrations that give individuality to matter may be transmitted to a distance by wire just as readily as the vibrations that give individuality to sound. So I constructed an instrument by which I could pull down matter, so to speak, at the anode and build it up again on the same plan at the cathode. This was my Telepomp."


エドワード・ペイジ・ミッチェル「体のない男」(拙訳)
Edward Page Mitchell "The Man Without A Body"
http://www.forgottenfutures.com/game/ff9/tachypmp.htm#nobody


世界最初の「トランスポーテーション」を扱ったとされるSF短編小説、エドワード・ペイジ・ミッチェルの「体のない男」(1877年)から引いた。エドワード・ペイジ・ミッチェルは、あの「SFの父」H.G.ウェルズに先行して「透明人間」や「タイムトラベル」等を小説にした作家としても知られている。


「体のない男」は、オールド・アーセナル博物館に収蔵された「前世紀にパリでギロチン斬首された極悪な殺人者の頭部」とされる展示物と会話した一人の観客の話である。但し実際には、その頭部はグラハム・ベルに先行して「電話」を発明し、「匂いの写真撮影法、瓶詰音楽、オーロラ凍結法を発見し、世界で初めて精神をスペクトル分析した」(以上フィクション)ボストンの科学者ドゥームコープフ(Dummkopf)教授のものだった。


ドゥームコープフ教授が何故に頭部だけになってしまったのかという本当の理由は、ミイラ化して博物館の展示物と化してしまった彼の口を通じて明らかになる。それは極めてベーシックな理由によって自身の転送中にエラーが生じた事によって生じた。「蓄電池の容器に未使用の硫酸を補充するのを忘れていた為に、体の残りを物質化する電力が不足してしまった」("I had forgotten to replenish the cups of my battery with fresh sulphuric acid, and there was not electricity enough to materialize the rest of me")。あのジョルジュ・ランジュランの「蝿(La Mouche)」とはまた違った意味で、科学技術に対して身も蓋も無い警鐘を与えていると言えよう。ダウンロードファイルに他のファイルが交じってしまうというのは確率的に低いが、ダウンロード中に電池切れというのは21世紀では日常茶飯である。


「ロウソクの炎」の自己同一性を語り「水面の波」の自己同一性を語るドゥームコープフ教授は、質問者の「プラトン的な意味での物質のイデアの電送」という発言に対して「その通り(Precisely)」と答えているから、彼の着想的には「その通り」なのだろう。それを可能にする「アルゴリズム」が如何なるものになるのかについては全く想像すら付かない。しかし仮にその様な技術が可能であれば、この発明の「次」の展開は、事物を「イデア」別に分解して電送する事になるに違いない。


その場合「ロウソク」の「炎」だけを、「水面」の「波」だけを電送するといった様な実験が行われるだろう。その次に生体実験が試される。そして様々な生体実験の後に、最終的には人間を用いた実験が行われる運びとなる。手始めに「睫毛」や「眉毛」だけを電送してみる(リスク的に「安全」そうだし)。送信側で人間の身体から切り離された「睫毛」や「眉毛」が受信側に送られる。但し受信側に「毛」が電送されただけでは不十分だ。この機械は「睫毛のイデア」や「眉毛のイデア」を、「睫毛のエイドス」や「眉毛のエイドス」を用いて送るという途方も無いものなのである。従って受信機の中にあるべきは、まかり間違っても「魂の内面」にある「毛屑のイデア」を「想起」させるものであってはならない。ではどの様な「アルゴリズム」が「毛屑のイデア」ならぬ「睫毛のイデア」や「眉毛のイデア」を送る事が出来るだろう。

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顔の画像を示されて「『目』を切り取って別レイヤーにしてくれ」と誰かに指示されたとする。その指示に誠実であろうとすればする程「選択範囲」を何処に定めるのかを決め倦ねる事になるのは必定だ。果たして「目」とは何処から何処までの部分を指すものなのだろうか。「目」は「瞼」や「睫毛」、或いは「眉毛」までを含むのだろうか。それともそれらは「目」の「本質」であるだろうところの「眼球」に対する「非本質」としての「縁取り」であり、「目(ophthalmós = οφθαλμός オフサルモス)」の「傍ら(para = παρά パラ)」に位置するもの=「parophthalmós(παροφθαλμός パロフサルモス=古代ギリシャ語風造語を作ってみた)」なのだろうか。



「純粋な趣味判断のための適切な対象」である「作品」に対し、「対象の完全な表象に含まれるただ周縁的なものでしかなく、本質的な構成要素ではないもの」を、18世紀〜19世紀のドイツの哲学者イマヌエル・カント氏は「パレルガ( παρἔργα)」とした。その例として、氏は「額縁(Rahmen)」「彫刻の衣襞(Gewänder an Statuen)」「宮殿の列柱(Säulengänge um Prachtgebäude)」を上げている。但し身も蓋も無い事を言えば、「(The man)カントは言っている」は、「(A man)イマヌエル・カント氏がそう言っているに過ぎない」という事をも同時に示している。そしてこれも身も蓋も無い事を言えば、西洋社会に於ける影響力という点で、イマヌエル・カント氏はイエス・キリスト氏のレベルには無い人物である。当然20世紀〜21世紀のフランスの哲学者ジャック・デリダ氏も。


イマヌエル・カント氏が、1790年(「判断力批判」の刊行年)に「額縁」に対して「対象の完全な表象に含まれるただ周縁的なものでしかなく、本質的な構成要素ではないもの」と自著の中に記してはみたものの、しかし「判断力批判」のその該当箇所が、同書の刊行と同時に全ての画家や画商に一大パニックを起こさせ、その結果「額縁」が「作品」にとって「本質的な構成要素ではない」と見做され、即座に彼等がそれを「捨て去った」という美術史(=お伽話)は当然あり得ない。その様な「一大パニック」が可能なのは、西洋社会に於いては唯一人イエス・キリスト氏の名に於いてのみだ。極めて現実的に言えば、「流通」までを含めて(今日的な「動産」としての「絵画」にとっては「流通」こそが重要である)「額縁」が取り去られた「絵画」が「純粋な趣味判断のための適切な対象」と看做される様になったのは、イマヌエル・カント氏の「判断力批判」から100数十年経過した20世紀後半の事であるし、また現実的には未だに「額縁屋」という商売は一向に廃れていない。


イマヌエル・カント氏の時代の「絵画」の居場所の多くは、ディズニーの "Frozen(アナと雪の女王)" で子供時代のアナが、"I think some company is overdue, I've started talking to the pictures on the walls (Hang in there, Joan!)" =「ずっとひとりでいると、壁の絵とおしゃべりしちゃう(頑張れジャンヌ!)」とソファの上にダイブして歌った、ジャン・オノレ・フラゴナールが掛かるあの部屋の設えが一つの基準になる(注)。あの装飾を施された壁を持つアレンデール城の部屋に「対象の完全な表象に含まれるただ周縁的なものでしかなく、本質的な構成要素ではないもの」を外された「純粋な趣味判断のための適切な対象」のみが飾られていたら、果たしてそれはどう見えるだろうか。


(注)但しイマヌエル・カント氏の時代にはアナがアレンデール城内で乗っている「自転車=ベロシペード」は存在していない。技術史的には "Frozen" の舞台は1860〜80年代――ペダルを持つベロシペードの工業的生産の開始と、国王夫妻が乗船する帆船が同居する時代――と見たい。ディズニースタッフ的には "Frozen" の時代設定は1840年代のノルウェーであるらしいが、いずれにしても「判断力批判」から数十年後の世界である。


ここにイエス・キリスト氏の「教え」に関わる「聖なる表象」として、「聖なる自律性」(キリスト教社会に於ける重要性から言えば、「絵画の自律性」が敵うべくも無い)を有していなければならない写本の二つのイメージを上げる。



8世紀のケルト写本「ケルズの書(Leabhar Cheanannais)」(左)と、15世紀フランドルのミニアチュール画家ランブール兄弟による「ベリー公のいとも豪華なる時祷書(Les Très Riches Heures du Duc de Berry)」(右)である。前者のミニアチュールには、イエス・キリスト氏の「イメージ」の周囲に「豪華」な「フレーム」が描き込まれている。寧ろそれは「フレーム」に「イメージ」が埋もれている様にすら見える。対する後者の「フレーム」は仮縁様にも見え、或る意味で今日的(ブックデザインとしても)である。「フレーム」を描き込む事が、一種の「聖別」的な役割を果たすとして、果たしてその「儀式」は如何なる理由を以って後者に於いて「簡略可」になったのだろうか。「聖」なる「イメージ」は、「フレーム」の助けを借りる事無くそれ自体で「聖性」を有すると見做されたのであろうか。


注意すべくは、これらの「聖」なる「イメージ」は、「聖」なる「本」の中に存在している事を忘れてはならないだろう。即ち「聖書」或いは「時祷書」の中に収まっている事で、それは既に「聖別」されているものになる。「聖」なる「本」の中に収まっている「イメージ」は、それだけで「俗」から遮断された「聖」性を有する。その事に気付きさえすれば、「イメージ」に「儀式」めいた「充実」の「フレーム」は必要無くなり、それに代わって「イメージ」を取り囲む「白紙」という「空虚」が「フレーム」の役割を果たす様になる。


「白紙」の上に「フレーム」を伴わない「絵画」の「イメージ」という形式は、現在の「画集」の原型である「オークション・カタログ」にも見られる。18世紀に生まれた「オークション・カタログ」は、1880年代までは単純にテキストベースの「目録」であったが、写真製版技術の発明を経てそれは作品写真入りとなる。その最初期のものには、競売に掛けられる「絵画」が「フレーム」付きで掲載されているが、程無くしてそれは取り払われ、「絵画」の「イメージ」のみが「白紙」の上に印刷される様になる。オークションという「物神崇拝」の世界では、「価値」は「イメージ」にのみ宿るものであるからだ。そこでは「純粋な趣味判断のための適切な対象」という迂遠な定義は必要無い。「オークション・カタログ」に於ける「白紙」の上の「絵画」の「イメージ」は、単に「動産」的な「財」のそれなのである。「額縁」を必要としない「紙幣」や、「台座」を必要としない「宝石」の様に。



タブラ・ラサ(Tabura rasa=Tablet blank)=何も書かれていない書板=白紙。書物の読者は、「白紙」の物質としての特性を見る事無く読書体験の純粋性に入り込む。「オークション・カタログ」から「額縁」が取り払われてから半世紀後、ニューヨーク近代美術館MoMA)が「白壁」の「白箱」を伴って登場する。そこでの観客は、「白壁」の「白箱」の物質としての特性を見る事無く鑑賞体験の純粋性に入り込む。即ち「白壁」を持つ美術館とは、書物的空間なのである。その「白壁」という「フレーム」は、「白紙」同様の「空虚」である為に、恰もそれが存在しないかに見える。しかしその「空虚」は、時に視線を「干渉」したりもする「実在」の「額縁」よりも、遥かに強力に「絵画」を「規定」する。そして確かにそれは、周囲環境を無化する事で「絵画」を「切り離す」のである。

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APMoA Project, ARCH vol.11、末永史尚『ミュージアムピース』」(以下「ミュージアムピース」)展の作品の多くは、愛知県美術館のコレクションの幾つかの作品の「フレーム」を始めとした「パレルゴン(πάρεργον)」を抽出し、それらを「主題」とする事でより「可視」化する一方で、「エルゴン(ἔργον)」を相対的に「不可視」化する。


古代ギリシャ語である「エルゴン(ἔργον)」は通常「作品(work)」と訳される事が多いが、一方でそれには「労働(labour)」や「作業(task)」という意味があり、また「実践(deed)」「行動(action)」「実行(doing)」等をも意味する。この展覧会で「パレルゴン」を言うのであれば、恐らくそれは「作品(work)の外」ではなく「企て(project)の外」の方が適しているだろう。即ちその「企て」とは、「展示」はもとより「企画」や「広報」等をも含む「作品を作品として見せる事」全般に関わるものである。


これもまた身も蓋も無い事を言えば、21世紀に於いて幾許なりとも「同時代」的であろうとする「画家」であれば、この「ミュージアムピース」展で遡上に上げられている様な、凡そ「大時代」的としか言い様の無い「額縁」は――それを「なんちゃって」的に使う以外(或いは東京都千代田区永田町の「自由民主党本部」内「自由民主会館ホール」に掲げられている「自由民主党歴代総裁の肖像画」等で極めて「マジ」に使われる等以外)は――まず誰も使う事は無いものだ。それは余りにもオールドファッションであるが故に、オールドファッションな作品(と言うか単にオールドな作品)を21世紀に展示するという特殊ケースを除いては、時に「反動」とされる所謂「日本の団体展」ですら使用されない。


MoMA以降の「白壁」を持つモダンな美術館に於いて開催される、端的に「オールドな作品」の展覧会という、或る意味で「ファンタジー」の支配する世界に於いては、18世紀の「判断力批判」の「パレルガ」や、20世紀の「絵画における真理」に於ける「パレルゴン」が有効な分析的(そして戦略的)方法論になったりもするだろうが、しかし「同時代」的に言えば、或る意味で「時代」イマヌエル・カント氏もジャック・デリダ氏もすっかり置き去りにしてしまった。であるならば、それらを21世紀的に「翻案」する必要はあるだろう。即ち「パレルガ」や「パレルゴン」を「作品(work)の外」という牧歌的なものではなく、「企て(project)の外」として見なければならない「時代」に突入したのである。


従って個人的にこの個展の会場で一番目に止まったのは「白壁」であった。この「白壁」の上に作家が「白色」の絵具で「上描き」していたら、この展覧会はまた全く違ったものになっただろう。

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イデア」を電送するドゥームコープフ氏の "Telepomp" に、「会場照明を電送せよ」とインプットしたら、受信側にインテグレートされるのは、この展覧会に出品された「会場照明の作品」の様なものかもしれない。この「会場照明の作品」の「穴」は、まさしく「穴のイデア」である。会場内の「作品」を見ていて、これらは「イデアの電送後」の世界なのではないかと思ったのだった。