裏声で歌へ【前編】

4月某日、JR東日本東北本線(愛称宇都宮線)の間々田駅――1日乗車人員数4,000人前後――を降車した。橋上駅舎の改札機に PASMO をタッチする。1,317円がマイナスされた。

目指すべきは西口方向であると、型落ち iPhone 中の Google Map 先生が教えてくれる。遠藤水城氏キュレーションの「日本シリーズ第2戦 『裏声で歌へ』」が、東北本線の西側に並行して走る「旧日光街道」(国道4号線)沿いの「小山市立車屋美術館」で行われている。

日本シリーズ第1戦『人の集い』」は、昨年2016年の10月奈良県中部の高取町で行われた。「第2戦」は所を変えて「東日本」初の「ゲーム」になる。

日本シリーズ第1戦」は、それが「日本シリーズ」であるが故に、「日本」が「開始」された地ともされる「西日本」の奈良県中部で「スタート」しなければならなかったのだろう。果たして「日本シリーズ第2戦」が「東日本」の――決して「東京」ではなく――栃木県小山市で開催されねばならない理由は存在するのだろうか。

4月にしては相対的に気温の高い日だったので、冷房の入っていない「通勤電車」を乗り継いで2時間輸送されて来た身体が喉の渇きを覚える。改札機を通ると、改札脇10時の方向に飲料自販機があるのを認める。自販機にコイン数枚を投入して水分を購入する事にした。

ペットボトルのキャップをギリギリと開け、貨幣と交換した水分を口に含んでいると、その目の先に風になびく「赤旗」が飛び込んで来た。11年前の2006年に設置されたというグラウンドレベルと改札階レベルを繋ぐエレベーター(東口)の操作ボタンの右側にそれはあった。

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この「裏声で歌へ」という展覧会タイトル、及び告知メディアに於けるデザイン・ソースの「元ネタ」が、丸谷才一の「歴史的仮名づかひ」による政治小説「裏声で歌へ君が代」(1982年)である事は、誰にとっても容易な謎解きではあるだろう(注1)

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(注1)デザイン・ソースの「元ネタ」は、新潮文庫(1990年)版カバー(和田誠装丁)。その旗は、「台湾民主共和国」という本小説に於ける観念上の国のもの。

「風になびく旗」という形象はそれだけで「不穏」だ。「大辞泉」の「なびく【靡く】」には「風や水の勢いに従って横にゆらめくように動く」という説明に続き、「他の意志や威力などに屈したり、引き寄せられたりして服従する」という説明が記されている。

壁にピン留めされた様な静止状態にある「旗」自体は「不穏」さを些かも生じないが、それが打ち振られたり移動体に据え付けられたりなどして「なびく」時、「不穏」のゲージは一気にマックスになる。ひとたび「旗」が「なびく」状態になれば、その「旗」の「デザイン」が「合理」的な「理念の説明」(「裏声で歌へ君が代」)であろうが、「不合理」な「原始的な信仰」(同書)であろうが、丸谷才一氏が本小説の主人公である画商「梨田雄吉」なる「キャラクター」の口を通して得々と語らせている様な「差異」はいとも簡単に解消されてしまう。

「旗」は所謂「デザイン」の段階では1ミリたりとも「完成」しない。「旗」の「不穏」な「力」は「旗」の「運用」にこそ専ら依存するからだ。それが如何なる「旗」であっても、「旗」が「なびく」さまそれ自体には、「人」の心理の「なびく」を引き出す「呪術性」が存在する。「旗」は常に「スタティック」な「デザイン」を「超え」た「呪術性」の中にある――紙の上やコンピュータのモニタ内では決して完結しない。それを「不穏」と言わずして何と言おうか。

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ペットボトル半分程で身体がテンポラルに要求する水分の必要量は確保された。おもむろに西口へと向かうとそこにも「なびく旗」があった。

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階段を降りる。

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駅西口周辺で営業している店は「不二家」と「喫茶めめ」位のものだろうか。

階段下には「歴史の案内板」が設置されている。

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「乙女河岸」「日光東照宮一ノ鳥居」「違いのエノキ」「小山市立車屋美術館」「旧日光街道」「乙女不動原瓦窯跡」「小山市立博物館」「乙女八幡宮」のインデックスが並ぶこの「歴史の案内板」に於ける最大のキータームの一つは、紛う事無く「徳川家康」、転じて即ち「徳川幕府」である。

この地に繁栄をもたらした「徳川幕府」の「御用河岸」たる「乙女河岸」(注2)説明文中の「小山評定」や「日光東照宮」。「旧日光街道」説明文中にも、当然ながら「日光東照宮」は登場する。

(注2)

f:id:murrari:20110222000000j:plain五海道其外分間絵図並見取絵図(文化3年=1806年:重文)より日光道中分間延絵図。右下が「乙女河岸」。この「徳川幕府時代」の絵図の中央を横切っているのが「旧日光街道」(右:江戸、左:日光)であり、図中の「乙女村」の文字の位置に現「間々田駅」、そこから少し左の「旧日光街道」が大きくベンドしている場所に現「小山市立車屋美術館」がある。

そして「乙女河岸」で江戸時代から明治時代にかけて肥料問屋を営んでいた豪商小川家(屋号「車屋」)が、「徳川幕府」時代に於いて最大効率を誇った輸送テクノロジーである水運の衰退と共に「乙女河岸」に見切りを付け、「明治政府」時代に最大の輸送効率を誇った輸送テクノロジーである鉄道(注3)の駅に近い「旧日光街道」沿いに明治44年に移転したのが、現「小山市立車屋美術館」になる。

(注3)鉄道の時代に至り、京都から東京に向かう列車を「上り」とし、東京から京都に向かうものを「下り」とする様になる。同時に「上方」や「上洛」等という言葉は、百数十年前に有名無実化し「古語」/「死語」となる。

嘗て「乙女人車軌道」が走っていたルートを「旧日光街道」に向かって「間々田駅入口」交差点まで辿る。「中里商店」に「なびく赤旗」。

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「勇屋酒店」に「なびく赤旗」。

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不穏さはいや増す。「なびく旗」の列というこの上無く不穏なもの。口の中に極めて苦いものが貯まる。ペットボトルの水分で苦いものを薄める。果たしてこの不穏さに「乗って」いけば良いのだろうか。それ以前に「呪術性」を帯びたこの「なびく赤旗」は一体何なのだろうか。
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嘗てこの小山の地で「旗」の攻防があった。所謂「戊辰戦争」に於ける「宇都宮城の戦い」の「小山の戦い」というものだ。「明治」になる直前の慶応4年(1868年)の旧暦4月16日から17日(新暦5月8日から9日)に掛けての出来事である。

箱館戦争榎本武揚上野戦争彰義隊の「旗印」が「日の丸」であった事からも判る様に、幕末から明治初年に於ける「日の丸」は「幕府軍」のシンボルであった。

f:id:murrari:20170718131507j:plain第二次長州征伐頃の幕府陸軍

f:id:murrari:20170718131535j:plain鳥羽伏見の戦い

「日の丸」の勢力――「朝敵」/「逆賊」としての幕府勢力――を「天皇」の名に於いて「征伐」するべく薩長によって急遽「仕立てられた」のは、所謂「錦の御旗」というものである。それまで誰もそれを見た事が無かった「観念」上の「旗」は、「なびく」(ヒラヒラする)という「不穏」さを伴って実体化し、それを見た鳥羽伏見の「日の丸」の幕府軍心理的に追い詰められる。

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宮さん宮さん(トコトンヤレ節)歌:初音ミク

宮さん宮さん(みやさんみやさん)
作詞:品川弥二郎
作曲:大村益次郎


宮さん宮さんお馬の前に
ヒラヒラするのは何じやいな
トコトンヤレ、トンヤレナ
あれは朝敵征伐せよとの
錦の御旗じや知らないか
トコトンヤレ、トンヤレナ


一天萬乗の帝王に
手向ひすろ奴を
トコトンヤレ、トンヤレナ
覗ひ外さず、
どんどん撃ち出す薩長
トコトンヤレ、トンヤレナ


伏見、鳥羽、淀
橋本、葛葉の戰は
トコトンヤレ、トンヤレナ
薩土長肥の 薩土長肥の
合ふたる手際ぢやないかいな
トコトンヤレ、トンヤレナ


音に聞えし關東武
どつちへ逃げたと問ふたれば
トコトンヤレ、トンヤレナ
城も氣慨も
捨てて吾妻へ逃げたげな
トコトンヤレ、トンヤレナ


國を迫ふのも人を殺すも
誰も本意ぢやないけれど
トコトンヤレ、トンヤレナ
薩長土の先手に
手向ひする故に
トコトンヤレ、トンヤレナ


雨の降るよな
鐵砲の玉の來る中に
トコトンヤレ、トンヤレナ
命惜まず魁するのも
皆お主の爲め故ぢや
トコトンヤレ、トンヤレナ

外国の「国民国家」の船舶との区別を付ける為に、嘉永7年に(1854年)「徳川幕府」によって定められた「惣船印」としての「日の丸」――しかし「日本」はその時点では「国民国家」としてのそれではなかった――が、やはりその「徳川幕府」によって「御国総標」――事実的な「国旗」――として「昇格」(安政6年:1859年)をしたものの、その「日の丸」は幕末から明治初年に掛けての「日本」の「内戦」――「内戦」は「国民国家」を前提とする表現である――期には、「錦の御旗」――即ち「白地に赤」ではなく「赤地に金」乃至「赤地に銀」――のカウンターの位置に置かれる。「徳川幕府」によって「御国総標」の地位にあった「日の丸」は、それが他ならぬ「徳川幕府」――「東日本」の権威――によって定められたが故に、「天皇」を頂く「錦の御旗」――「西日本」の権威――の元に「征伐」されるべき「標」となった。

「錦の御旗」(西日本)に「敵対」する「日の丸」(東日本)。それが明治3年(1870年)に「日の丸」を「征伐」する「錦の御旗」を擁していた「新政府」によって、「商船規則」として事実的な「国旗」に再び「昇格」する。

明治初年前後の「東日本」の「庶民」のメディアであった「瓦版」は、「反・西日本」/「反・天皇」としての「日の丸」――それは後の「国民国家」の標章としての「日の丸」の意味とは大きく異る――と敵対する「東征」(「東日本」の「征伐」)に帯同する「錦の御旗」への反発の「感情」を隠さなかった。そうした虚々実々の捻れの中に「日の丸」はある。

TBSラジオの「全国こども電話相談室」の嘗ての名物「先生」であり、その「朴訥」な「東日本」訛の語り口で人気だった「無着成恭」氏は、「賊軍」とされた「東日本」人、特に「東北人」にとって、「賊軍の旗としての日章旗」、即ち「反・天皇」/「反・西日本」のシンボルとしての「日の丸」を国旗にするという事は「悲願」であると書いた。

毎年正月に「善男善女」によって、嘗ての「朝敵」/「賊軍」の小旗が、長和殿ベランダの前で「不穏」に「なびく」様を見るにつけ、ヒリヒリしたものに苛まれるのである。

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「間々田駅入口」交差点を右に曲がる。「芝崎輪業」に「なびく赤旗」。「国道4号線」を「日光」方面へと向かう。「小山市立車屋美術館」が近くなると、経路案内標識が現れる。

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福島」まで202km、「那須塩原」まで92km、「宇都宮」まで36km。「国道4号線」は「戊辰戦争」を辿る道だ。経路案内標識の「福島」(Fukushima)は、「中通り」北部の「福島市」を意味しているのだろうが、他方それは「会津」を意味しもすれば、2011年以降は「浜通り」をも意味するだろう。

経路案内標識から数十メートル行くと、1.5km先の「すき家」を案内する看板が見える。その下に「東京から71km」のポストが立っていた。振り返って71キロ彼方に「東京」がある。その視線のパースペクティブは、「東京」(江戸)に裏切られし者が見ているそれだ。

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数百メートル行ったところに横断歩道が見える。数百メートル戻ったところに「間々田駅入口」交差点の横断歩道がある。ここは2つの横断歩道の中間点だ。道を隔てて目と鼻の先に見える「小山市立車屋美術館」へ行く為に、幹線道路をヒョコヒョコと渡って行く田舎の爺様婆様の様に、迷わず「国道4号線」を横切った。

渡り切れば「ヘアーサロン カクチ」。そこにも「なびく赤旗」。

嘗て「なびく日の丸」に送られて戦地へ行った人達がいる。間々田駅までの道や東北線の沿線にも「なびく日の丸」の列はあっただろう。

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初音ミク巡音ルカの「裏声」的な「合唱」による「出征兵士を送る歌」(1940年)

その事を思い出させてくれたのは、「小川家米蔵」と「小川家肥料蔵」で開かれていた「裏声で歌へ」展ではなく、その後に見学した「小川家主屋」の一室に掲げられていた小さな写真額だった。

【続く】