北加賀屋クロッシング2013 MOBILIS IN MOBILI-交錯する現在-


 ネモ船長が図書室のわたしたちが入ってきたドアの向かい側のドアをあけると、そこは豪華な照明付きの広々としたサロンだった。
 サロンは角を切り落とした大きい四辺形の部屋で、幅六メートル、奥行きは一〇メートル、天井は五メートルはあったろう。繊細なアラベスク模様で飾られた光る天井から、穏やかな明るい光が、この博物館に所狭しと並べられた驚くべき品々に降りそそいでいた。そう、ここはまさに博物館だったのである。知性ゆたかな気前のいい人間が自然と芸術のあらゆる貴重品を収集して、画家のアトリエみたいに雑然と並べたかのようだった。
 壁には地味な模様のタピストリーが張りめぐらされ、統一されたデザインの額に入れられた三〇点ほどの巨匠の絵が、キラキラ光る武具飾りを挟んで掛けられていた。どれもきわめて高価な油彩作品で、ほとんどはわたしがヨーロッパの個人コレクションや展覧会で見たことのあるものだった。さまざまな流派の古典的巨匠の作品があったが、たとえばラファエロの聖母、レオナルド・ダ・ヴィンチの聖処女、コレッジョの妖精、ティツィアーノの女の肖像、ヴェロネーゼの礼拝、ムリーリョの聖母被昇天、ホルバインの肖像、ベラスケスの修道士、リベラの殉教者、ルーベンスの村祭り、テニールスのフランドル地方の風景画が二点、バックホイセンとヴェルネの海景画が数点見受けられた。また、近代絵画の作品としては、ドラクロア、アングル、ドゥカン、トロワイヨン、メッソニエ、ドービニーなどの油彩があり、さらに古代のきわめて美しい原形をもとにした、大理石やブロンズの彫像のすてきな複製がいくつか、この豪華な博物館の隅の台座に据えられていた。ノーチラス号の船長が予告していたとおり、わたしは早くも茫然自失状態に陥っていた。
「教授」と、そのとき、この不思議な男が言った。「こんな不躾なかたちでお迎えすることを、このサロンのひどい乱雑さをお許しください」
「船長」とわたしは答えた。「あなたが何者なのかはあえて詮索しないとしても、あなたが芸術家でもあると考えることは許していただけますね?」
「せいぜい芸術愛好家というところですよ、教授。わたしはかつて、人間の手でつくりだされたこういう美しい作品を、好んで収集していたことがあるんです。わたしは貪欲な収集家で、疲れを知らずに探しまわり、いくつか価値ある作品を集めることができました。わたしにとって、これは死せる地球の最後の思い出なんです。現代の画家たちもわたしにとってはすでに古いものでしかありません。どの作品も二、三千年は残るはずですから、わたしのなかでは区別がないんです。巨匠に時代はありませんからね」


海底二万里:ジュール・ベルヌ:村松潔訳

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その展覧会タイトルを頭の中で反芻しつつ、海方面に向かう地下に潜る鉄道車輌に乗りながら、数十年振りに高校時代の「物理」の期末テストを思い出していた。出題したのは K 先生。試しに K 先生のフルネームで検索してみると、果たして数百件のヒットがあった。そのリンク先の一つには、自分が高校生の時に持っていた K 先生のイメージとは全く異なる印象を持つ、「理科教育」に関する御自身の筆になる硬質な文章が掲載されていた。その文章を読んで、その時の K 先生の出題の意図するところが数十年振りに判明した様な気がした。


K 先生が出題した問題数は少なかった。問題内容の詳細は忘却の彼方にあるが、解答用紙はやたらに白い部分が多かった記憶がある。その問題内容を近似的に表せば、それはこの様なものであった。


下りエレベーターの中で、斜め下に向けてヨーヨーをしている人がいる。エレベーターが上階から下階まで移動する間に、このヨーヨーの円盤の軸部が往復運動する軌跡を、エレベーターが入っているビルが建っている地上から見てどの様に見えるかを図に表わせ。


(条件)エレベーターは上階から下階まで到達するのに10秒掛かるとする。ヨーヨーが手許を離れて帰って来るまでに2秒掛かるとする。ヨーヨーが手許を離れる角度は床に対して45度とする。
(注意)エレベーターの始動時と停止時にエレベーターの速度が落ちる事も考慮して作図せよ。


「動くものの中」にある「動くもの」の軌跡を、「動くものの中」の視点で描くのは容易い。それは「動かないものの中」にある「動くもの」の軌跡を「動かないものの中」の視点で描くのと全く変わらない。巡航速度マッハ0.78で移動するエアバスA300の座席で子供がジャンプする様を隣の座席から見る事は、空港待合室のベンチで子供がジャンプする様を隣の座席から見る事と全く変わりの無いものとして認識される。「動くものの中」にいる限り「動くものの中の動くもの」という状態は見えない。「動くものの中の動くもの」を「動くものの中の動くもの」として把握するには、「動くものの外」に視点を確保する事が条件になる。K 先生の出題の意図の一つはこれだったのではないだろうか。


この試験には1問目と対になる2問目があって、それは「下りエレベーター内から見た地上のヨーヨーの軌跡を図に表わせ」というものだった気がする。1問目で「動かないもの」とされていた「地面」が、2問目では「動くもの」になり、1問目で「動くもの」だった「エレベーター」が、2問目では「動かないもの」になる。出題文を読みながら一瞬間身体が浮遊した。机上の試験問題に向かって椅子にじっと座っている自分は、果たして何処に居るのだろうか。自分は何もしていないにも拘わらず、決して止まっているものでは無い。ここに至っては「動くものの中の動くもの」という命題は限り無く無意味になる。何故ならば「動くものの中の動くもの」で無いものなど、凡そ世界に存在しないからだ。出題のもう一つの意図するところは、世界に「動かないもの」など存在しないという事実に思いを至らせる事だったのだろう。


高校生の頭に救いだったのは、「エレベーターの中のヨーヨーの回転する円盤外周上の1点に視点を置いて、地上のヨーヨーの回転する円盤外周上の1点の軌跡を描け」や「木星の衛星イオに視点を置いて、自転する地球上の下りエレベーターの中で往復運動するヨーヨーの円盤外周上の1点の軌跡を描け」といった「3問目」が無かった事だろう。この問題が「美しいもの」として元高校生に未だに記憶されているのは、1問目と2問目が単純な形で反転構造になっているからであり、従って複雑性を増した想像上の「3問目」は蛇足でしかないと、「美」を口実にした「美」的でない負け惜しみを書いておく。実際その「3問目」は、時代的に言って "Cray-1" が担当するべき仕事ではないだろうか。


地下鉄道が目的駅に到着した。近世まで海原の真っ只中にあった駅の階段を、空が見える高さまで浮上して行く。



果たしてそこは、現在に至るも陸地の規矩に回収され切れざる、海原の真っ只中にある様な場所だった。



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タイの土産物屋で売られている「昆虫標本」は、潔癖症的な日本人の想像力の「斜め上」を行く。ここにその画像をアップすれば話は早いのだが、その手の「蟲」を「グロテスク」であるとして、受け入れを拒否する感性がこの世の中(主に野生生物と疎遠な都市部)に決して少なくない事を知っている。従って取り敢えず「閲覧注意」と断った上で、ハンドメイド製品やヴィンテージ製品を扱う eコマースである "Etsy" 内のショップ、"THAICRAFT4YOUDOTCOM" のリンクのみを記す。但しこの「豪華版」の商品は、現在扱われていない模様である。


「蟲」に付き閲覧注意
http://www.etsy.com/listing/120957665/real-multiple-insects-beetles-bat


「蟲」という漢字表示の段階でリンクを踏む事を躊躇した感性向けに字面で解説すれば、この「豪華版」の「昆虫標本」は、「カブトムシ」や「コガネムシ」や「タマムシ」や「カミキリムシ」等の所謂「甲虫目」の「昆虫」(動物界節足動物門昆虫綱)を網羅的に「標本箱」にピン止めするところまでは、辛うじて日本人の「昆虫標本」に対するイメージの許容範囲内にある。しかしそこには「セミ」や「タガメ」や「コノハムシ」や「カマキリ」といった「カメムシ目」や「ナナフシ目」や「カマキリ目」の「昆虫」が混ぜられ、加えて「節足動物」というレベルでは「同門」であるものの、それらの「昆虫」とは「分類」上必ずしも近くは無いとされる「サソリ」や「クモ」(動物界節足動物門鋏角亜門蛛形綱)や「ムカデ」(動物界節足動物門多足亜門ムカデ綱)等も招集され、更には一般的に「哺乳類」(動物界脊索動物門脊椎動物亜門四肢動物上綱哺乳綱)と呼び習わされている「コウモリ」が、唯一こちらに腹を向けた形で磔にされている。商品説明の "Materials" には、それら全ては "real insects" とされている。ここでは "arthropods(節足動物)" 一般も、羽ばたく "animals(哺乳類)" も、等しく "insects(蟲)" の名の下にある。


こうした「『昆虫』標本」に対する日本的感性による感想の中には、「『何でもいいから詰め込んどけ』的発想がどうにもチープ」というものもあったりする。しかしこの「『昆虫』標本」の制作者からすれば、決して「何でもいい」訳では無く、それなりに視覚的インパクトが得られるだろう「カニ」「エビ」「トカゲ」「カエル」「モモンガ」等はその「標本箱」にはセレクトされていない。ここでは「カブトムシ」と「サソリ」と「クモ」と「ムカデ」と「コウモリ」は「同種のもの(蟲)」として「標本箱」内に「展示」するに値する一方で、「カニ」「エビ」「トカゲ」「カエル」「モモンガ」等は、それらとは「異種のもの(非・蟲)」であるが故に、そこに「展示」するには至らないという、分類意志としての明確な「キュレーション」がこの「昆虫標本」には存在する。


「動物園」にしても「水族館」にしても、或いは「博物館」にしても「美術館」にしても、またやがて「自然と芸術のあらゆる貴重品」ごと海中に没する「ノーチラス号のサロン」にしても、その起源からすれば全てが「ヴンダーカンマー(Wunderkammer=驚異の部屋)」の末裔である。身も蓋も無く言えば、現実の「動物園」や「水族館」や「博物館」や「美術館」や「ノーチラス号のサロン」は、タイの「昆虫標本」以上に「何でもいいから詰め込んどけ」状態と言える。東京都日野市の「多摩動物公園」の例を上げれば、「コウモリ」や「サソリ」や「クモ」や「カブトムシ」等といった、タイの「昆虫標本」オールスターズが正門近くに集められ、その奥には「ライオン」や「ゾウ」や「コアラ」や「タンチョウ」等といった「珍獣・珍鳥」が同一敷地内で「展示」されているのである。


「動物園」や「水族館」の「展示」からは、タイの「昆虫標本」以上に「多様性」が見えて来るかもしれない。「博物館」や「美術館」や「ノーチラス号のサロン」にしたところで同じだろう。それらのコレクションに「多様性」を見る事自体は悪い事では無い。「動物園」や「水族館」や「博物館」や「美術館」や「ノーチラス号のサロン」や「昆虫標本」が、「多様なものの縮図」である事は説明不要であるとも言えよう。但しそればかりが見えるというのは、「動物園」や「水族館」、或いは「博物館」や「美術館」や「「ノーチラス号のサロン」や「昆虫標本」に対する関わり方としてセンスがあるものとは言えない。例えばこの「写真」を見て、(商品の)「多様性」を語る事は誤ってはいないが、しかし一定以上に意味があるものとも思えない。ここから見えて来るのは「多様性」であると同時に、「商品価格」や「商品形態」等といった「フォーム」を共有する「相似性」である。


我々は「展示」を見る際に、「そこに何がセレクトされているか」ばかりに目を奪われ勝ちだが、同時に「そこに何がセレクトされていないか」に対しても同等に気を配る必要がある。例えばネモ船長の潜水艦ノーチラス号の「多種多様」な作品が「乱雑」に並ぶ「サロン」に於いて、そこに「何がセレクトされていないか」を想像してみる。そうする事で、「地上世界」や「人間社会」に対する激しい絶望と拒否の感情を持つネモ船長という人物の「世界観」や「人間観」や「文明観」の限界も見えて来る。世界中を旅している筈のネモ船長のコレクションは、その意味で「多様」でありながら同時に「相似」なのである。

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北加賀屋クロッシング2013 MOBILIS IN MOBILI-交錯する現在-」という潜水艦は、現在「大阪府大阪市住之江区北加賀屋」に「浮上」している。その後再び「海中」に「潜り」、「東京都」の別々のギャラリーで二回程「浮上」するという。大阪の「浮上」場所と東京の「浮上」場所の空間的性格はかなり異なるから、その印象もまた大いに異なるそれぞれの展覧会にはなるだろう。特に川村元紀氏の作品は、その都度全くの「新作」になると想像される。


まずはその展覧会の「コンセプト」を引く。恐らく「多様性」を謳った別の展覧会への応答にもなっていると思われる内容だ。


 様々なものが画一的に、均一的に、またあるいは手に取りやすく、イメージを伴って立ち現れる今日、特にその様相を顕著に持つインターネットの発展。そうした動向とほぼ同じ時期を生きる私たちには、一体どのような様式があるのだろうか。この問いをめぐっては、いつもある言葉が徘徊している。「多様性」という亡霊だ。多様な表現。多様な作家。多様化する社会。


 1980年代以降の生まれの作家がギャラリーや美術館で展示する機会が増える一方で、そうした作家たちをひとくくりにできるようなことばや、傾向、流派のようなものは後景に退き、インターネットのインフラが整理されるとともに、かえって非常に見えづらくなっていることは確かに指摘できよう。また交流という面では、twitterに見られるような均一のフォームにおいてとても見せにくい状況にあるように思われる。ここに行けばあれが見られる、これに出会えるという「サロン」のような在り様、場所は減ってきており、以前よりもむしろ、能動的に生きなければならないような世界になりつつあるのではないか。情報過多なweb上で情報を整理しリリースすることにさえ、価値付けが行われているそんな社会の中で、作家は、あるいは美術は、一体何をどのように形作り、また形付けることが出来るのだろう。造形、空間、思考について。


 80年代以降の生まれの私たち自らによる考察を主眼とした本展では、安易なグループ分けや、流派といった形式を追うのではなく、そうした行為を提起あるいは批判するような様式の総覧を図り、「多様な表現」と書き記される機会の多くなった今日で、果たして我々は本当に多様なのか、あるいは多様の中にいる断片なのか、閉鎖的なコミュニティの一部分に過ぎないのか、または分断されているのかなどを展覧会という形で考える。それによって見えてくるのは、「多様な」と語られる中での世代性、世代論の中に潜在する「多様さ」といった表裏の関係であろう。このような「ありあまる時代」にいながら、様式を持つ事ができるのか。天に無数に散らばる星々を紡ぎながら、星図に新たな筆を入れる事がもし可能ならば、それを手に海に出る事も可能になるはずだ。私たち自身が私たち自身について、作品を並べ、展覧会を通して検証すること。編集し、書き込み、操作する場としての展覧会。そこでのマッピングの社会批評性の中に、自ら美術は存在していることを信じている。


北加賀屋クロッシング2013 MOBILIS IN MOBILI-交錯する現在-」Concept
http://mobilis-in-mobili.org/


同展には初日と二日目に行った。二日目に会場に赴いた時には丁度「トーク」が行われていた。人で敷地が飽和して道路まで溢れていると想像した図とは若干異なっていたが、会場にジャストフィットする観客は訪れていた。第1部は「交錯するメディウムについて」と題され、第2部は「交錯する絵画について」と題されていたが、「交錯する構えについて」という「トーク」は無かった。


「交錯する構え」の「構え」というのは例えばこういう事である。その最も大きなところを言えば、その「交錯点=ハブ・ノード」の一つは、些か不細工な言い方をすれば「単一的なものへの違和感」と言えるものになるのだろうか。会場内の作品は、それぞれ伝統的な観点からすれば「整理されていない」様に見える。しかしそれは勿論「整理されていない」のではなく、意識的に「整理しない」事によって生まれている。二つの「インスタレーション」作品は、最終的には作者の持つ何らかの「美意識」に束ねられているのかもしれないが、仮にその様なものが存在したとしても作品からそれを伺い知る事は困難であるし、また伺い知る事で目の前の造形との対応性に納得を行かせたとしても無意味な話だろう。四作者の「絵画」作品もまた同断であり、一作者の「映像」作品も意識的に多重化がされている。「写真」は「無意識」的なものが画面中に入り込む「無意識が織りこまれた空間(ヴァルター・ベンヤミン)」というメディアの特性上、それを画面から排除したり調整したりする事で、写真的「整理」というものが成立するというのが「教科書」的なテクニックになるが、この二作者の「写真」作品は、敢えて「無意識」的なものを「無意識」的なものとして残し、また「写真」の「標準」的な展示方法から逸脱する事で「単一的なものへの違和感」が示されているかの様にも見える。残る「彫刻」作品は、この中にあっては相対的に「整理されている」かの様に見えたりもするが、それでもその全体を統括的な形で語る事は難しい。


勿論「単一的なもの」とされる対象と、それへの「違和感」の表し方は作家それぞれであるから、そのアウトプットが結果的に「多様性」を帯びたとしても、不自然で無いどころか当然の事であろう。それらは「単一的なもの・への・違和感」という「ハブ・ノード」をのみ唯一共有しつつも、それぞれの「来し方行く先」は「多種多様」である。今「来し方行く先」と書いたが、この「来し方行く先」は時間的な「過去未来」をも意味する。即ちこの「ハブ・ノード」を介して、「1980年代以降の生まれの作家」も、そのずっと先の生まれの作家も、そのずっと前の生まれの作家も「クロッシング」する可能性があるという事になる。その時「交錯する現在」の「現在」の意味が変質するだろうし、従って「同時代」や「同世代」の罠からも少しは逃れる事が出来るだろう。


東京での「浮上」の後、この潜水艦が潜航した先の「浮上」場所が、ヴェネチア・ビエンナーレの日本館であったとする。その時「交錯するメディウムについて」や「交錯する絵画について」はエキゾチックなものに映るかもしれない。果たして「交錯する構え」はどうだろうか。

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作品の前に立ち止まる時間がそれぞれに長かった今回の大阪の会場の中では「百頭たけし」氏の仕事に特に刮目した。それまで氏の仕事を見ていなかった訳では無いが、今回の「サムネール表示」的な展示で、今まで見えていなかったところが見えて来た。この仕事は「写真」とする以上に「インスタレーション」と呼ぶに相応しいのではないか。実際その内の幾つかは、展覧会場で「インスタレーション」として現実化出来そうだ。但しその両者の間には大きな隔たりがある。例えばそれは「インスタレーション」の中にある垂れ下がったケーブルや散らばった釘と、「『写真』の中の『インスタレーション』」の画面の中にあるそれが全く異なっているところにある。前者は作者の「作為」の結果であり、後者は作者の「作為」の外にある。「『インスタレーション』の『写真』」と「『写真』の中の『インスタレーション』」は異なる。冨井大裕氏の「今日の彫刻」の様に、何かが「造形」として前面化されている訳でも無い。恐らく或る種の「インスタレーション」にとって、この「『写真』の中の『インスタレーション』」は嫉妬の対象になるかもしれない。しかもそれは「写真」でしか成立しないものだ。その意味でこの画像もまた、「『インスタレーション』の『写真』」ではなく、「無意識が織りこまれた空間」としての「『写真』の中の『インスタレーション』」なのだろう。


図らずも会場にはもう一点、別の意味での「『写真』の中の『インスタレーション』」が存在した。ファイルに入った川村元紀氏の「ドローイング」である。その何枚かにはまだ何も入っていない「空っぽ」の(とは言ってもこの会場の性格上、そこには既に何かがあるのだが)会場風景写真にパネルを表していると思しき線画が描かれ、その中央に「美少女」が立っている。通常は「プラン」と考えて良いものなのかもしれないが、その場合現実化した際の「美少女」は誰になるのだろうか。この「美少女」は「老若男女」全ての「人一般」を表す「建築模型」の「人物模型」の如きものと考えて良いのだろうか。仮に「美少女」がその様な「人一般」を表す「表徴」であるとして、「写真」がそうした離れ業をするには相当の工夫をしない限り不可能だ。「写真」に「美少女」の看板やフィギュアが映り込んでも、通常それは「人一般」の「表徴」とは見られない。このファイルのドローイングには「写真」が嫉妬するかもしれない。「交錯する嫉妬」。頭の中に一瞬だけ浮かんだが、すぐにそれを下げた。しかしそうした越えられない「不可能」が「種」を成立させているのであろう。だからこそ空を飛ぶものがいて、水の中で眠る事の出来るものがいる。


展覧会を「興行」する者の中には、空を飛ぶものと水の中で眠る事の出来るものを、展覧会場という実験室内で強引に掛け合わせ、その結果生じた悲惨に「新たな多様性」と嘯くショーを行ったりする者もいる。「北加賀屋クロッシング2013 MOBILIS IN MOBILI-交錯する現在-」がそれと一線を画しているのは Concept 文からも明らかだが、実際の展示もまた注意深く「種の保存」がされていたと言える。空を飛ぶものと水の中で眠る事の出来るものの間に何かを見るのに、「レオポン」や「タイポン」の様なものを作って見せてくれなくても良い。「交錯」は「想像力」の内にある。その上で、空を飛ぶものや水の中で眠る事の出来るものの能力や姿形に心動かされる様な極めて単純な「感受性」こそが、「種」に対する最大の「敬意」であろう。