4


 パネル(Panel)といっています。
 もともとの意味は、一片の布というのだそうで、なにがなんだかわかりませんが、建築用語になって、窓わく、はめ抜き、わくの中に組み合わせた抜き、などという意味を持ってくると、だんだんわかったような気になってきます。
 パネル・ディスカッションとなると4人ないし6人の対立意見者が聴衆の前で論議を交わすものという意味になり、ハハア、なるほどこんなところから……ということになります。とにかく、マンガでは、4コマないしは6コマ……のコママンガのことなのです。
 さて、4コマのかきかたですがーー、
「起・承・転・結」ということばが、すべてのマンガの基本である、ということがよくいわれます。たしかにそのとおりです。
 が、それはあくまでも基本であって、そのパターン(型)を破ることによって、新鮮なムードがだせるということは、ギャグマンガの場合、ストーリーマンガの場合、その他ありとあらゆる場合と同じです。
 しかし、なにからなにまで、いっさいがっさいを目茶苦茶に破っていいというのでもありません。既成のルールをふまえ、新しいルール、自分なりのルールをつくって、だれが見ても納得のいくパターンにしなければなりません。
「起・承・転・結」のパターンを意識して破り、ざん新な4コマをかくマンガ家に、加藤芳郎サトウサンペイ、蓮見亘らがいます。一コマと同様、またここでも児童マンガ家の中から参考にできるような人をあげられないのがざんねんですが、これもひとえに需要と供給の関係によるものでしょう。
 そのためか、児童マンガ家志望者の中には最初から大長編と取り組んで、4コマなどは見向きもしない、という人が多いようですが、むだに見えても、けっしてむだな勉強ではありません。長編マンガにいっても、4コマと同じパターン「起・承・転・結」は応用できるのです。
 起承転結、起承転結、起承……この連続が長いマンガになるのです。そして長いマンガの全体をとおしてながめた場合にも、起承転結があてはまるように構成されていることが、作劇法の重要なテクニックなのです。


 さて、それでは「起・承・転・結」というのは、どういうことでしょう。
 読んで字のごとくです。起(おこり)承(うけ)転(ころび、かわり)結(むすび)です。1コマめで事件がおき、2コマめでその事件をうけつぎ、3コマめでその事件をひっくりかえし、4コマめで、意想外のオチ結びをする……。
 この基本の型にはまったような4コママンガをかく人に長谷川町子があげられます。朝日新聞に連載中の「サザエさん」はその傑作です。
 さあ、あなたも4コママンガから始めましょう!!


「少年のためのマンガ家入門」石森章太郎


人生の最初に覚えた四文字熟語は「起承転結」だった様に思う。それを知ったのは、1965年に秋田書店から出版された石森章太郎(後に石ノ森章太郎)著の「少年のためのマンガ家入門」だった。上掲の引用は、第2部「テクニック編」の第3章「その他のマンガ」3の「4コマ」の項である。「さあ、あなたも4コママンガから始めましょう!!」と石森先生に言われるが儘に、4コママンガばかりを描いていた小学生だった。そして石森先生に言われるが儘に、「起・承・転・結」のパターンを意識して破ろうと悪戦苦闘していた小学生だった。


4コママンガについて、こちらのマンガ家のものも引用してみる。


 四コマ漫画とは、話を四つの段落に分けて表現する方法だ。こうすることによって、意外と案が出やすかったり、物語をつくりやすかったりする。
 四コマは、一番上のコマから順に、「起」、「承」、「転」、「結」になっている。
 これは中国の詩の形態から名づけられた方法で、漫画のアイデアづくりに応用すると、ゆとりのある案がつくれる。中国の長い歴史が考え出した、物語のもっとも単純なかたちだからであろう。


(略)


 話の素材は、演繹法帰納法を応用して発想する。
 演繹法を使えば、はじめの発想から、結論までの道スジを、四コマにすればできる。
 帰納法なら、「結」の部分をはじめに考え出して、残りの三コマがいちばんおもしろくなるように考えるのだ。
 四コマ漫画を面白くするには、はじめの三枚までタネを明かさないで、最後の意外性を強調するのがコツである。


「マンガの描き方」手塚治虫


手塚治虫はこの文章の直前に「日本にはもともと、四コマ漫画の伝統はなかった」と書いている。確かに石森章太郎が言う様に、マンガのコマは「パネル(Panel)」から来ているものであり、要はコマ漫画という形式もまた、そもそもは外来文化である。1900年前後のアメリカの新聞媒体で生まれた「コミック・ストリップ(滑稽な= "comic" 帯状のコマの流れ= "strip")」から、コマ漫画は始まったとされている。所謂「吹き出し(バルーン)」もその時に発明され、またナレーション等をその隙間に書き加えるといった方法論も、この頃のアメリカで誕生した。ウィリアム・ランドルフ・ハーストと販売競争に明け暮れていた、ジョーゼフ・ピューリツァーのニューヨーク・ワールド紙に掲載されていたリチャード・F・アウトコールトの「ホーガンズ・アレイ Hogan's Alley(→ イエロー・キッド The Yellow Kid)」が最初の「コミック・ストリップ」とされている。ルドルフ・ディルクス(Rudolph Dirks)の「カッツェンイャマー・キッズ(Katzenjammar Kids)」が、それだとも言われているが、これもまた、凡そイノベーションの「世界最初」の例に漏れる事無く、その同定が難しいものの一つだ。


但し日本では4コママンガが様式化し、一つのジャンルすら形成し、従って4コマ専門誌すら存在する訳だが、一方の「コミック・ストリップ」は、4コマである事に特段に拘っている訳ではない。例えば、日本では4コママンガの印象が強い、あのチャーリー・ブラウンスヌーピーの登場するチャールズ・モンロー・シュルツ(Charles Monroe Schulz)の「ピーナッツ(Peanuts)」にしても、平日と土曜の新聞には4コマが多いものの、日曜版のものは比較的長いバージョンであり、且つ平日土曜の方も4コマだけではなく、1〜5コマまでのブレがある事でも判る様に、凡そ欧米のコミックには様式としての「4コママンガ」が無いと言えるだろう。この事からも、日本の4コママンガは、「コミック・ストリップ」の子孫と言うよりは、寧ろ漢詩の詩体、様式の一つである「絶句(四句構成の今体詩。五言絶句、七言絶句)」の子孫の側面が強いという事なのだろう。それはまた、凡そ全ての日本の4コママンガは、漢詩の形に直す事が可能であるという事にもなる。「起承転結」は、元々の中国語では「起承転合(起承转合)」であり、唐までは無かったその言葉は、元になって(一説には「范紱機」が最初とも)登場している。


起承转合


基本信息


  起承转合 ( qǐ chéng zhuǎn hé )
  解 释
  ①诗文写作结构章法方面的术语。旧时诗文惯用的行文方法,后泛指文章作法。“起”是起因,文章的开头;“承”是事件的过程;“转”是事件结果的转折;“合”是对该事件的议论,是结尾。
  ②比喻说话时的过渡。
  ③比喻固定呆板、矫揉造作。
  ④亦作“起承转结”、“起承围收”、“开承转合”。


出 处


  元·范紱玑《诗格》:“作诗有四法:起要平直,承要春容,转要变化,合要渊水。”



百度百科
http://baike.baidu.com/view/169067.htm


石子順造は、「現代マンガの思想」の中で、「ぼくがここで指摘したのは、連続マンガのコマとコマをつなぐフレームの線によってできる空白の帯の部分の意味作用の論理である。連続マンガのおもしろさの秘密や、劇展開のダイナミズムは、あの空白部分にあるのではなかろうか、とぼくは考えている」としているが、他のマンガ形式に比してコマ割りが相対的に静態的である、即ち意味作用の表現としてではなく、文字通り形式としての「枠」を持つ4コマ漫画に於ける「空白の帯の部分」は、「コミック・ストリップ」のそれであるよりは、恐らく「絶句」の「行間」の意味するところに近いのだろう。例えばこういう事だ。



長くなった白髪のカット、空白、憂いの日々のカット、空白、明鏡となった水面のカット、空白、秋の霜のカット。そこにはコマ間を様々な論理で繋ぐ「因果」の法則がある。従って、1コマ目で風が吹き、4コマ目で桶屋が儲かっているでも、1コマ目でブラジルで蝶が舞い、4コマ目でテキサスでトルネードが起こっているでも良いし、「因果譚」が成立しさえすれば良い訳だから、その2つを統合して、1コマ目でブラジルで蝶が舞い、4コマ目で桶屋が儲かっている「予測可能性 - ブラジルでの蝶の羽ばたきは桶屋を儲けさせるか」も十分に4コママンガとしてあり得ると言えるし、寧ろこちらの方が、マンガとしては表現力が高いとも思えそうだ。



ここからすると凡そ「因果譚」でないものは、4コママンガとしての条件を欠いているという事にもなりそうだ。それが「やおい(「やまなし・おちなし・いみなし(駄目マンガの3要素とされる)」の意の方)であっても、それが「因果譚」でありさえすれば、条件は十分にクリア出来ていると言えるのだろう。翻って以下の様なものは、4コママンガとしては決定的に駄目という事にはなる。



しかしマンガというのは一筋縄では行かない。


このマンガの場合のコマの文法は、その繋辞の論理からいっても、劇の構造化が、映画よりいっそう受け手の側の知覚・認識との照応に基づくものであることを示してはいないだろうか。


(略)


劇としてマンガは、作家の主張が適切に伝達されにくい、ということである。


石子順造「現代マンガの思想」


マンガに於ける「劇の構造化」に、「受け手の側の知覚・認識との照応」が大きく関与するとなれば、「マイブリッジ」にしても「ウォーホル」にしても、「受け手」がそのコマ間に「劇の構造」(≒「因果」)を見さえすれば、それは十分に「因果譚」として成立するとも言える。ならば、何も3コマ目で、走狗する馬やエンパイア・ステート・ビルを、わざわざ引っ繰り返す必要性も無い訳である。引っ繰り返っていない様に見えて、実は引っ繰り返っているとすれば。「プロ」のマンガ家にならんとする少年達に向けた、石森章太郎の言う「だれが見ても納得のいくパターン」や、手塚治虫の「ゆとりのある案」は、「読者受け」の歩留まりをひたすら上げなければならない「プロ」の作法としては圧倒的に正しい。しかしそれがマンガ作成に於けるドラマツルギーの全てでもない。「見立て」によって、そこに「劇の構造」を見る「受け手」の想像力がありさえすれば、畢竟これですら十分に4コママンガ足り得る訳である。




同じ様に見えるコマでも、それぞれの空白の意味は異なっている。しかし世の中にはそうしたものを見る事の出来る想像力を備えている者は、限りなく少ないか、ゼロであろう。石森章太郎は「続 少年のためのマンガ家入門」でこう書いている。


 あなたは現在、マンガをかいていて幸福ですか?
 きっと幸福でしょうね。こんな楽しい趣味はほかにありませんからね。あなたの空想の世界が、あなたの手からーー指の間の細い小さな一本のペン先からーー少年になり、動物になり、乗り物になり、草になってーー生まれ、呼吸をし、動き、はなし……、泣いたり笑ったりしょげたりーーといった生活を始めるんですから……。
 つまりあなたはそのとき、その世界の創造主であり保護者であり、友だちでありデストロイヤー……絶対の権力を持つ破壊者でもあるのですから……。
 そうです。楽しくないはずがありません。ところがです。その世界はあくまでも、あなたひとりの世界です。あなただけが理解できれば、それで実在できる世界なのです。
 それを、ほかの人に−−読者という名まえのたくさんのアカの他人に見せ、あなたの少年を、あなたの少女を、あなたのライオンやカバやゾウを、みんなの友だちにしてやろうと考えはじめたときから、あなたの幸福感はすこしずつこわれはじめるのです。
 理由は簡単です。
 そのたくさんのアカの他人の中で、あなたのつくった世界を理解できる人が、ほんの数えるほどしかいないに違いないからなのです。
 あなたの世界を10としましょう。すると、たくさんのアカの他人の中には理解力ゼロの人(まさか、と思うかもしれませんが、いるんですヨ。なにしろ”たくさんの……”ですからネ。)5まで理解してくれる人、あるいは8まで理解してくれる人、またあるいは9まで理解してくれる人も(それもごく少数でしょうが。)いるかもしれません。しかし絶対といっていいくらい、10まで、完全に理解してくれる人はいないのです。


石森章太郎「続 少年のためのマンガ家入門」


いないのだ。

        • -


「4」という作品集を入手した。


http://www.drawinghell.com/japanese/4book_info.html


その幾つかが、作者のサイトに掲載されている。


http://www.drawinghell.com/japanese/work_4.html


この「4コママンガ集」に対して、技術的にどうの、図像的にどうの、他の作家との影響関係がどうの、発表形式がどうの、コンセプトがどうの等といった埋め草を書いても良いのだが、しかしどれを書いても本当に埋め草にしかなりそうも無いので、止めておく事にする。


そうした事柄よりも、真っ先にこれを見て自分が感じたのは、凡そ「4コママンガ」に「因果譚」を見ようとしてしまう、自分自身の抜き難い因業さであった。1コマ目から2コマ目に行く時に、どの様に2コマ目が1コマ目から「承」けているかを考え、2コマ目から3コマ目に行く時には「転」があるのではないかと探り、4コマ目は当然「結(オチ)」が付いているものと思ったりする。


しかしそれをすればする程、そうした見方が不毛である様に思えてくる。半ば考えるのが面倒臭くもなって、最早どのコマも「起」であり、「承」でり、「転」であり、「結」ではないかと思い始め、実際それこそが、この「4コママンガ」の最適な見方なのであろうと一人合点したのだった。どの馬も、どのエンパイア・ステート・ビルも、どの空白コマもそうである様に。


作者は、2日前に自身のブログの中で、「あの日からの『表現』〜《地球防衛家のヒトビト》と《ののちゃん》」と題して、2つの新聞4コママンガに触れていた。


http://blogs.dion.ne.jp/drawinghell/archives/10735293.html


あの「震災」を、積極的に自作表現の中に入れるしりあがり寿の「地球防衛家のヒトビト」と、全くその気配も無いいしいひさいちの「ののちゃん」の対比を通して、自身の4コママンガに対する考え方を表明していた様にも思える。


自分がここで書きたかったのは、あの未曾有の事態に際してしりあがり寿いしいひさいちのどちらの態度が正しかったとか、どちらがエライとか、そういったことでは全くない。むしろそういった二択的な視点の対極にあるものだ。
「震災と表現」をめぐる問題というと、とかく誰々の動きが早かったやら、何々の分野は反応が鈍かったやら、うわずみを掬っただけのトレンド観察や、自分の見知った手持ちの事象を並べていち早く「歴史化」を図ろうとするような論調が目につく。しかしそうした旧態然とした態度こそが、もっとも「3.11以前」的なものなのではないだろうか。自分はこと文化領域において「3.11」なる言葉を軽々しく使うことに抵抗を覚えるものだが、もしその言葉が使われるのならば、このような用例こそが一番相応しいと考える。すなわち「3.11以前」として。

自分があの日々の《ののちゃん》に見たのは、そういった「3.11以前」的な見かたとはちょうど真逆に位置するものである。
簡単に言ってしまえばそれは、表現とはそこに記された内容以上のものをも伝えうるということだ。
そして作品としての表現は一つの象徴である。「表現=内容」という一元的な見方から脱却した目は、この世界のあらゆるものに無限の深さを見ることができる。

「あの日」を境に世界が変わったのではない。世界はなにも変わっていない。変わったのは世界を見る自分の目なのだ。
そのことを一言で指し示すならば、それは想像力という言葉になるのだろう。
そもそも想像力を使わない限り、我々は「表現」も「世界」も見ることはできないのだから。


しかし敢えてここで石森章太郎的に言えば、「たくさんのアカの他人の中には理解力ゼロの人」、即ち、表現が「そこに記された内容以上のものをも伝えうる」ものである事が判らない人、「変わったのは世界を見る自分の目」である事が判らない人、「『表現=内容』という一元的な見方から脱却」出来ない人、「この世界のあらゆるものに無限の深さを見ること」が出来ない人、「想像力を使わない」人、「『表現』も『世界』も見ること」が出来ない人が多くいるという事にはなるだろう。そうした石森章太郎が絶望的に語る、作者の「幸福感」を壊す「理解力ゼロの人」に対して、しりあがり寿の様にアプローチするのか、それともいしいひさいちの様にアプローチするのか。しかし、しりあがり寿の方法論でも、恐らく作者の十全な「幸福感」は得られないのだし、却ってより「不幸」になる可能性すらある。


石森章太郎は、上掲引用部の直前の文で、マンガ家(表現者)を目指す少年達にこうサジェストしている。


それ(マンガ家になる事)があなたを不幸にすることはまちがいないことになるんですから……。


石森章太郎は、少年相手にここまで非情になれるのであるし、凡そ未来の表現者を導かんとする者は、ここまで非情でなければならないのだろう。


空白コマによる4コママンガ。これこそが「あの日から」に対する想像力を試される、「あの日から」のマンガであると言っても良いのかもしれない。