【承前】
以前、多摩美術大学八王子キャンパスが建つ、東京・八王子市鑓水周辺の、江戸末期から明治期に掛けての近代史を、ほんの少しだけ調べた事がある。恐らく鑓水の近代史は、横浜の近代史とパラレルであると言っても過言ではないだろう。
遣水にも歴史の光と影があり、その光にしても影にしても、横浜という近代と密接に関係していた。鑓水は江戸期から明治初期に掛けての日本の最大の輸出産業「絹」輸送の一大中継地であり、そのルートである神奈川往還(「絹の道」とも呼ばれる)は、当時の物流と情報の一大動脈であった。
神奈川往還
神奈川往還(かながわおうかん)は、現東京都八王子市周辺と同神奈川県横浜市を結んだ道。八王子八十八景のひとつ。別称として浜街道、武蔵道、絹の道があるほか、横浜側では八王子街道とも呼ばれる。経路は現在の町田街道および国道16号に相当する。
概要
従来より八王子周辺は多摩郡や甲州・武州各地で生産された生糸の集積地となっており、この生糸を江戸や多摩郡の各地域へと出荷していたが、1859年(安政6年)に横浜港が開港すると、海外への生糸の輸出のため横浜方面へも出荷が行われるようになり、浜街道と呼ばれるようになった。これにより、従来よりも多摩郡と横浜方面との往来が盛んになり、後に絹の道とまで呼ばれるほど発展するようになる。
(略)
鑓水商人
中央高地、北関東および多摩地域で生産された生糸が八王子や原町田周辺に集められるようになると、特に多摩郡由木村鑓水(現八王子市鑓水)の商人が仲買として活躍し「鑓水商人」の名で知られるようになる。この鑓水商人の全盛期には、現在の府中市付近から鑓水地区を経由して神奈川県津久井郡川尻村(現相模原市緑区城山地区)までを結ぶ南津電気鉄道(南津は「南多摩」の「南」と「津久井」の「津」の意)の敷設も計画されたほどである。東京都八王子市の『絹の道資料館』近くには「鑓水停車場」と書かれた石碑が建っている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%B7%9D%E5%BE%80%E9%82%84
横浜のアウトプットは「産品」であり、横浜のインプットは「情報」だ。当時の貿易の「要」であった遣水には、「日本最初の迎賓館」ともされる「異人館」が、横浜開港前後の幕末から明治初期に掛けての鑓水商人「八木下要右衛門」の邸内にあった。横浜居留地をベース地とするアーネスト・サトウ、フェリーチェ・ベアト、ハインリッヒ・シュリーマン等の「著名」外国人が、居留地より十里四方と定められた「遊歩区域」の北限に建つこの「迎賓館」を訪れたという話もある。しかし結局「八木下要右衛門」は「原三溪」にはなれず、「異人館」は「三渓園」や「鹿鳴館」になり損ねる。ベアトによる幕末期の遣水の写真が残されているが、その山間の風景の中には「異人館」も写っているのだろう。
http://blog.goo.ne.jp/minazukikoya/e/a5ccfc4f94ee58b961dd1ac8be14b9e2
黒船来航によって急拵えの開港地とされた、百戸に満たない半農半漁の寒村であった横浜村は、鑓水経由の「絹」の「輸出」によって旧膨張した新開地であり、また今も変わらず、江戸期から続けられてきた埋め立てによって開発され続ける人工土地だ。飛鳥田市政が立ち上げた、都心(横浜)強化策の「みなとみらい21」は、1981年にその名称が決定され、名称通りに21世紀までにその事業は完成する筈であったものの、21世紀11年目の今に至るも遊休地は目立つ。それがまた、明治期から戦前までのデベロップメントとの温度差を感じさせるものの、しかし現在「歴史的建造物」とされる旧横浜正金銀行本店や、日本郵船横浜支店の様な建物もまた、横浜という急拵えの歴史の中にあって、竣工当時は、埋め立て「間も無い」土地の上に建つ「腰の座らない」ものだったのだろう。そして「横浜美術館」も、「BankART Studio NYK」も、或いは「新港ピア」も、元は海であった場所に、日本の近代以降の「つい最近」、山から削ってきた土を被せて作った土地の上に建つ。
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横浜美術館の全ての作品に遭遇し終わり(全ての作品を「見た」と書かないのは、映像作品の上映時間全てにお付き合いした訳ではないからだ)、再び入り口の渦巻き作品の前に出ると、そこに年配の女性が立っていた。
「アンケートに答えて頂けますか?」。大体そういう内容だったと記憶する。横浜美術館の中で行われているアンケートだ。怪しいものではないという事だけは判る。受けることにした。何処から来たかを聞かれる。一瞬、東京の家からやってきた(本当)と言い掛けたが、「全国規模のアートイベント」という印象を与える為(深慮遠謀皆無)に、関西(これも本当)と答えておいた。女性は一瞬驚いた様に見えた。関西からこの展覧会に来るのはそんなに珍しい事ですかね。「外人」さんの姿もちらりほらりと見えていますよ。それからアバウトに年齢を聞かれ、アンケートの本題に入る。ここに来た目的であるとか、他に何処に行くつもりであるとか、そして、これこそがこのアンケートの肝要だと思われる質問が発せられる。
「ここまで来るのに横浜で幾ら遣いましたか?」「これから横浜で幾ら遣う予定ですか?」「ミュージアムショップで何か購入する予定はありますか?」
今回のヨコトリは、準備段階で中田宏前横浜市長の辞任劇があり、今年に入って「311(ヨコトリの記者会見予定日でもあった)」があり、また「行政刷新」によって国際交流基金が主催から抜けて、財源の柱の一つを失った事で、開催すら危ぶまれた経緯がある。結果、主催の主軸が横浜市に移り、「トリエンナーレを横浜で開催する事の意味が問われる」今回である。アンケートの質問は、当然「トリエンナーレを横浜で開催する事の意味」に結び付くものだろう。
今から考えれば、どちらの質問にも「5万円」とか「10万円」などと答えれば良かったと後悔している。「今夜は久し振りに会う友人数人と中華街で盛大に食事をする」などと言えば良かったかもしれない。なのに「BankART Studio NYK」や「新港ピア」や「黄金町バザール」などと「正直」に答えてしまったのは、まずかったのではないか。「やはりトリエンナーレに来る客は、地元経済に何も貢献していない」などと、市政批判の具にされたりするのも何だ。いやこのアンケートのペラ一枚はそれ程のものでは無いだろうが、それでも資料としてグラフ化された時に、高額の欄が空欄であるかそうでないかでは、与える印象はそれなりに異なるだろう。トリエンナーレによる地元経済効果というのは、突然に主催の主軸となってしまった横浜市にとっては、極めて意味が大きいと思われる。
アンケートに答えた「お礼」として「熨斗箱」に入った「粗品」を渡された。中を見ると「三菱マークのボールペン」だった。その瞬間、北島三郎の歌う「まっくろけのけ節」の替え歌が脳内を巡った。そう言えば、この周辺は嘗て「三菱」の場所だった。「三菱鉛筆」とは全く関係は無いが。
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「ヨコハマトリエンナーレ2011」は、10月16日に総入場者数が20万人を超えたという。慶賀の至りだろう。親しみ易さと柔らかさをより高める為にと、今回から漢字混じりの「横浜トリエンナーレ」から、オールカタカナの「ヨコハマトリエンナーレ」に名称変更との事である。雅号をオールカタカナにするアーティストもいるが、それもまた同じ様な理由によるものだろうか。因みに初回の2001年(9月2日〜11月11日)が約35万人、2005年(9月28日〜12月18日)が約19万人、2008年(9月13日〜11月30日)は約30万人という事らしい。
今回のトリエンナーレの会場には、初めて「美術館」が入り、主会場となった。それまでの「パシフィコ横浜」にしても、「横浜赤レンガ倉庫」にしても、或いは日本郵船倉庫(資料館)のリノベである「BankART Studio NYK」にしたところで、「美術」の「展覧会場」としての「純度(括弧付き)」としては低いと言える。場所によっては、「展示室」という名称よりも、「ブース」と呼んだ方が良い空間もあるだろう。そこに今回、展覧会の為に一から設計された「美術館」がメイン会場となった訳であり、それは現実的に多くの作品にとって「より良い」結果に至らせたかもしれない。
過去3回の「横浜トリエンナーレ」は流浪の芸術祭だった。カタログの中で、総合ディレクターの逢坂恵理子氏は、「定点会場がなく、開催のたびごとに会場を確定して整備するのに時間がかかり、展覧会準備のために費やすべき期間が圧縮される」と書いている。そして「現代美術の多様な表現を受け入れるには、横浜美術館のようなオーソドックスな空間だけではなく、ニュートラルな空間も必要と判断した」が故の、「横浜美術館」の主会場設定という事だ。
それにしても20万人なのである。現代美術関係者が、現代美術の観客に求める「最低基準」というものが、どういうものであるのかは判らないが、仮にそうしたものがあるとして、それが20万人(延べ)も首都圏中心にいるのであれば、何だか心強い話ではないか。古今東西の美術史に極めて精通し、作品を成立させるコンテクストと、個々の持つコンセプトを瞬時に理解し、それを踏まえた上で尚、批判的にそれを見て、言葉に出来る「才能」、掛ける事の20万倍。
しかし実際にはそうした皮算用には意味が無いだろう。20万人の内には、確かにそうした「コア」な人達も含まれるだろうが、しかしその20万人の大半は「コア」の外側にいる人達だと思われる。「コア」な人達の視点からすれば、その外側は「啓蒙」の対象であり、また多かれ少なかれ、現代美術というのはそうした「啓蒙」の対象を抜きにしては成立しないというところもあるだろう。
「人を見たら啓蒙対象と思え」なのかは知らないが、しかし20万人という「群」に対しての接し方として、そういう事もあるのだろう。今回の「ヨコハマトリエンナーレ」の最後に赴いた特別連携プログラムの「黄金町エリア」の一角のアートスペースで、そうした「啓蒙」の「御親切」に預かった。
「黄金町エリア」の一軒の狭い建物を入っていくと、そこには作者と思しき「若者」がいた。こちらを認めると、まるでセンサースイッチが入った様に「注文」が始まる。こうしてください、ああしてください。ああ、ここもまた、宮沢賢治「注文の多い料理店」の「西洋料理店 山猫軒」系の場所だ。「芸術祭」であるから、「学園祭」の様な気持ちで、その「注文」に応じてみた。
「体験」が終わり、再び「若者」の方を向くと、「これは体験型のアートです。そして見る/見られるを表現しています」と「御説明」してくれる。「御親切」である。これが「制作意図を他人に説明するのは、美術家としてやっていくなら、非常に重要だ」の好例であろうか。しかし他人というものは、制作意図を聞きたくない事もあれば、制作意図を聞いて心底がっかりする、聞かなければ良かった、自分が感じて良いと思った事と全く違う、あんた本当にそんな事しか考えてないのという事もある。他人は自分の制作意図を聞いてくれる、聞きたいと思っている、そしてそれを受け入れてくれるものだという信憑は、果たして何処から来るのかは判らない。
出来れば、ここに病院の病室にあるナースコールのコールボタンの様なものがあり、「聞きてみたいな」とか「聞いても良いかな」と思う観客がそれを押して、そこで初めて奥からアーティストさんが現れて、「御説明」の「御啓蒙」の「御親切」をするというのが理想だろう。
【続く】