おなじみ

日本政府観光局(JNTO)の調べでは、2009年の世界の国際観光客数の国別1位はフランスで、その数7,420万人。日本は例年下がり続けて昨年は33位の679万人とフランスの10分の1以下。国全体で、ルーブル美術館1館の850万人にも及ばない。兎に角「世界」からすれば、今や「ジャパン・ナッシング」となった「日本」には「出掛けてまで見るべき魅力あるコンテンツ」が無いという事だろう。日本観光の要の一つである「京都」にしてからが、観光客(主に中国人)の激減に悩み、遂には「日本」の「コンテンツ」最後の頼みの綱である「アニメ」に頼る事になった。


京都で一休み一休み… 中国で人気の一休さんが観光PR


 経済水準の上昇とともに増加している中国人観光客を呼び込み、府内の観光産業を活気づけようと府は、テレビアニメ「一休さん」を活用した観光プロモーションに乗り出す。中国では、一休さんが大人気。観光や映画関係者などと活用委員会を立ち上げ、一休さんが中国語で語りかけるアニメ制作にも取りかかる。


 「一休さん」は、中国で1983年に初めて放映されて以来、何度も再放送されているアニメ。制作会社の東映アニメーションによると、中国では多くの人が主題歌を覚えているほどの人気で、「一休さん」を見て育った世代は広がっている。2012年には、日中合作の一休さんのアニメ映画が中国全土で上映される予定だ。


 昨年末、市場調査会社インテージが中国の北京、上海、広州で実施した調査では、「一休さん」の認知度は93.7%で、「ドラえもん」(88.7%)、「鉄腕アトム」(87.3%)を抑えて日本のアニメの中でトップだった。


 こうした人気に、府などが着目。一休さんを「中国人観光客を呼び込める顔」と位置づけ、すでに1作目のプロモーションアニメ(約10分)を制作した。一休さんが現代の京都にタイムスリップし、京都の観光地をめぐるという筋立てで、今月半ば、上海市で開催された旅行博覧会で披露した。中国の旅行会社担当者からは「かわいい、かわいいと好評だった」(東映太秦映画村)という。


http://mytown.asahi.com/areanews/kyoto/OSK201011270175.html


今や多くの外国人(中国人)観光客にとっては、京都の社寺そのものよりも、アニメ「一休さん」の方が遥かに「おなじみ」だ。日本人にとってすら「おなじみ」ではない「酬恩庵一休寺」等も、アニメ「一休さん」と抱き合わせれば、「冬ソナ」ツアーの「メタセコイアの並木道」程度に、「メジャー」で「おなじみ」の「観光資源」に「昇格」するのだろう。「見せたい物」と「見たい物」の乖離。しかし「見せたい物」が敗北し、「見たい物」が勝利してしまうというのが、世間の極めて現実的な定理なのである。


閑話休題、昨日の「となりの人間国宝さん」は、高宮の「現代アート」であった。高宮というのは滋賀県彦根市高宮町である。もうここで「東京」の人間からすれば「どこの田舎町の話?」で片付けられてしまう話であり、そうした「冷淡」があるからこそ、「東京」は「東京」としてやっていける。尤もその「東京」の「アート」にしてからが、「海外」のどのアートマガジンを見ても、「orz」にしかならない「ナッシング」状態である事から判る様に、「世界のアートシーン」の視点からすれば、日本の「美術批評」も含め、日本の「アート」は「どこの田舎町の話?」と「冷淡」に「適当」に「ナッシング」に片付けられている訳ではある。ましてや「東京」以外の日本の都市については、敢えてそれに言及するまでもないだろう。


「東京」では、そもそも「となりの人間国宝さん」という、テレビ番組のコーナーそれ自体、全く知られてはいないが、関西テレビの番組(「よ〜いドン!」)公式サイトの説明を借りれば、「おなじみの円広志月亭八光が毎回とある駅から出発して、その駅の周辺をブラブラしながらのんびり散策。たくさんの人々との出会いのなかで、特に印象に残った方を『となりの人間国宝さん』に認定」する番組であり、それを関東人に判る様に説明すれば、それは関西では殆どおなじみではない、日本テレビの「ぶらり途中下車の旅」の「関西版」と言えなくもない。そしてその取材映像を囲んで、関西ではおなじみで、関東では全くおなじみではないパーソナリティやパネラーが数多くスタジオに集結し、あれやこれやと、平日昼前のまったりした時間の空白を、無為な「おしゃべり」で埋めていく番組である。


昨日の放送では、関西ではすっかりおなじみで、関東ではちょっとだけおなじみな円広志が、高宮周辺ではおなじみで、その他の地域では全くおなじみではない「墓石だけじゃない石屋さん」や「現代アートが趣味のご主人がいる板金屋さん」等を紹介していた。共に彼等の「アート」がテーマだ。


最初の「墓石だけじゃない石屋さん」であるが、そもそも石材屋というのは、最近ではその多くが多かれ少なかれ「パラダイス」と化している。ここで言う「パラダイス」とは、関西ではおなじみの桂小枝探偵の「パラダイス」である。Amazon の「探偵!ナイトスクープ DVD Vol.9&10 BOX 桂小枝の爆笑パラダイス」の説明を借りれば、「パラダイス」とは「不思議で一風変わった『アミューズメントパーク』」なのだが、「一風」どころか、子どもが喜び叫ぶ/怖がり泣き叫ぶ程の風が吹いていないと、「パラダイス」たる条件を満たさない。全国津々浦々に存在する「秘宝館」がその代表的な「施設」と言えるが、それ以外にも「パラダイス」は、日本の「アミューズメント」の基底部を形成していると言っても過言ではない。


嘗てはおなじみの都築響一が、おなじみの週刊SPA!誌上で、1993年2月から98年8月まで238回に渉って連載していた「珍日本紀行」が、そうした「パラダイス」を白日の元に晒していて、また現在では、おなじみの「ナニコレ珍百景」でも、「パラダイス」物件が時々取り上げられたりもする。或る意味で、おなじみの「ヴンダーカンマー」の末裔である「美術館」もまた、「ヴンダーカンマー」同様に立派な「パラダイス」物件であり、何故そんな「パラダイス」に桂小枝探偵がやってこないのかが全く以て不思議だが、今回はそれはさておく。


石材屋の「パラダイス」化は、まずは「地蔵」や「石化した狸の置物」が置かれる辺りから始まる。これが「石屋」の「創作欲」の最初の形だ。やがて、その「地蔵」や「石化狸の置物」が、精緻に彫り上げられた「石化観音」や「石化不動明王」や「石化金剛力士」や「石化五重塔」になったりする。「一体誰が買うんだ」的なこれらの石化像が、石材店の店頭に林立する風景は、既に日本に於いてはすっかり「おなじみ」なものになってしまっている。逆に、四角い墓石だけしか並べていない石材屋は、余程誠実なのか、余程偏屈なのか、余程商売に熱心でないか、余程「創作欲」に乏しいか、いずれかは判らないが、今ではすっかり希少な存在になってしまっていると言えるだろう。


その後、そこに「石化ドラえもん」や「石化機関車トーマス」や「石化アンパンマン」や「石化キティ」や「石化怪獣」等が登場するのは「時間の問題」であり、番組で紹介されていた高宮の石材店「田中家石材」では、砲門の一本一本まで再現された「石化戦艦大和」や、「石化彦根城」、「石化佐和山城」、「石化ひこにゃん」、「石化くうちゃん」、「石化ヘラクレスオオカブト」などという、立派な上にも立派な「パラダイス」物件が立ち並んでいた。


http://www.tanakaya-sekizai.com/chokoku/index.html


それらの「物件」の中には、「突破口」と題された、「団体展」の「彫刻室」や「箱根彫刻の森美術館」にあったとしても全く違和感も遜色も無い、非常に「立派」な「現代彫刻」があったりするものの、しかしその「突破口」という「タイトル」を記した「プレート」自体もまた石化しているという徹底した「パラダイス」振りは、そうした腑抜けな「アート作品」の追随を許さない。ここでは、触れる物が全て黄金と化すミダス王の希望と絶望に似た、全ての物が「(石の)作品」と化す事への希望と絶望すら見えてくるのだ。


先年、美術マニアおなじみの「イサム・ノグチ庭園美術館」に行った。香川県高松市牟礼町にそれはある。牟礼と言えば、香川県人おなじみの八栗五剣山山麓にあり、そこは「隣」の庵治町と共に、石の世界では「花崗岩のダイアモンド」としておなじみの高級石材「庵治石」の産地だ。高松市民おなじみのコトデンに乗り、八栗寺駅で降りて、テクテクと美術館まで歩いて行くと、道中「庵治石」の「パラダイス」が、次から次へと出現する。「イサム・ノグチ」に代表される様な「美術」まで、あと一歩、あと半歩、紙一重の物件すらそこにはあったりするが、「イサム・ノグチ」までは恐らく果てしなく遠く、実際に果てしなく遠い様に思われている。「イサム・ノグチ」と「パラダイス」の間には、「イサム・ノグチ庭園美術館」の周囲に積み上げられた石垣の如く、低く見えて高い「塀」が存在する。但し個人的には「イサム・ノグチ庭園美術館」自体、立派な「パラダイス」物件、「イサム・ノグチ庭園パラダイス」として堪能出来た訳だが。


後者の「現代アートが趣味のご主人がいる板金屋さん」は、「現代アートを購入する板金屋さん」ではない。「自ら『現代アート』を作る事をご趣味とする板金屋さん」である。当然ここで気を付けなければならないのは、「現代アート」という単語だ。テレビ局が使う「現代アート」は、「現代アート」の商売人を含めた「現代アート業界」の言うそれとは、大きく意味が異なる。そしてこの板金屋のご主人もまた、前者の意味で「現代アート」という単語を使用している。それは「何でもありの自由な表現」だ。


円広志が板金屋(「彦根板金」)を訪れると、まずはおなじみのキャロルとR360クーペが出迎えてくれる。レストアとは言い難いが、自走可能な現役ではある。但しここまでならば普通の板金屋だ。しかしそこから一転、板金屋のご主人は、「アーティスト」モードに変身する。尤も、おなじみの大久保清氏の様に「ルパシカ」姿にはならず、相変わらず同じツナギを着てはいるのだが。


ゴソゴソと工場奥の物置きから出してきたのは、恐らく自作のパネルである。高さ1m、幅1.5m位の画面はほぼ真っ黒だが、その中央少し外れた場所に小さな白い「亀裂」が入っている。これも先述の「突破口」同様、「団体展」や、気合の入っていない「ノンプロフィット」の「現代アートギャラリー」の壁面に、掛かっていそうと言えば掛かっていそうな作品だ。確かにその意味で「現代アート」なのである。しかしご主人は些か先走った発言をしてしまう。


「現代書道」


「現代美術」よりも、尚微妙な存在である「現代書道」。90年代以降の日本現代美術界おなじみの表現を借りれば、「日本・現代・書道」。それぞれをナカグロで切れば、そこには三重以上の「問題」が浮上する。


ご主人はそんな「現代書道」が「現代アート」との出会いであったと話し始める。数十年前、夫婦で京都に行き、そこで「現代書道」の作品を見る。「作品」は少しも判らないが、値段を見ると「50万円」と書いてある。むくむくと「創作欲」が湧くご主人。すると傍らの奥さんが一言。


「お父さん、描けるがなこのくらい」


一人の「現代アーティスト」がこうして誕生した。


ご主人の作品は、おなじみの「森田子龍」あり、おなじみの「山口長男」あり、おなじみの「トム・ウェッセルマン」ありと実に「多彩」である。そしてこの「現代アーティスト」が、「初」の試みであるという、(おなじみの)「アクション・ペインティング」を、円広志とコラボペインティングして取材は終わる。「現代アーティスト」と円広志曰く、「他人がまだやった事の無い作品」がこうして完成する。


「美術教育」というものが、仮に「学問」であったとして、ならば「『正式』な『美術教育』を受けていない」というのは、言わば「学問」としての「美術」的には「無学の徒」という事になる。「美術教育」を受けていれば、「それは既に誰かがやっている」という「知識」だか「知恵」だかが自然に身に付いてしまう。そうした「知識」や「知恵」を知ってさえいれば、それだけ「美術」の「世界」の数々の「おなじみ」を知る事になり、結果としてそうした「美術界」の「おなじみ」の「作品」と、自分の「作品」が決して抵触しない様に身を律する事が可能になり、従って「やって良い事」と「やってはいけない事」の「分別」がそこで付く。それが「となりの人間国宝さん」ならぬ、「本当」の意味での「現代アーティスト」だ。


結局「現代アート」とは、単なる「何でもありの自由な表現」ではなく、既知の「おなじみ」と同じに見えない様に、「自分の可能性」を徐々に潰していきながら、「人類初」の「自由な表現」に見せるという「詐術」である。


おなじみの「アルタミラ」や「ラスコー」、或いはおなじみの岡本太郎が絶賛した「縄文土器」、またはおなじみの「ピカソ」が自らの創作の「原点」とした「アフリカ彫刻」、はたまたおなじみの「ギリシャ彫刻」にしても何にしても、美術史の前半を彩る数々のおなじみの「傑作」のいずれもが、近代的な意味での「『美術教育』の『無学の徒』」によって作られてきた。


今それらの「無学の徒」の「作者」が、仮にタイムマシンに乗ってやってきて、21世紀のこの世界で、そのままの形で制作してはならないだろう。21世紀「アートシーン」の「おなじみ」を知らない「無学の徒」である彼等は、現在得られている様な「評価」を受ける事はまず考え難い。16世紀そのままの「レオナルド・ダ・ヴィンチ」が、タイムマシンでやってきてすらそうなってしまうだろう。そしてそんな「そのまんまレオナルド・ダ・ビンチ」や「そのまんまミケランジェロ・ブオナローティ」も、21世紀では「となりの人間国宝さん」や「パラダイス」等で括られて、それで「ハイお終い」なのである。21世紀の美術は、おなじみな表現で言えば、商売上の「差異=ディフェラン」にがんじがらめなのだ。


それにしても現在「人間国宝」と Google 検索すると、「フルボッコ」でおなじみの「歌舞伎役者」の名前が出てくるというのは如何なものか。しかしまあ、それもまた良しとしよう。