ch.0.6「約束の凝集 vol.1 石器時代最後の夜」

じゃん‐けん
〘名〙スル 片手で、石(ぐう)•紙(ぱあ)•はさみ(ちょき)のいずれかの形を同時に出し合って勝負を決めること。また、その遊び。石ははさみに、はさみは紙に、紙は石に勝つ。石拳(いしけん)。じゃんけんぽん。

大辞泉

 

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【承前】

 2020年9月半ば。都営地下鉄馬喰横山駅で下車する。同駅より北方向にある目的地に向かう為、経由するJR東日本馬喰町駅方面に向かって歩く。国道6号線清洲橋通りが交差する馬喰町交差点の「吉野家馬喰町ビル」は、2016年に閉店/移転した「吉野家馬喰町店」に上がる入口階段を封鎖した白フェンスの横で営業していた吉野家関連企業の「千吉」(2019年2月末日閉店)にもベニヤ板が打ち付けられていて、そこから店の名残の照明が突き出ている。嘗て3階フロアに入っていた「笑笑」や「魚民」といったモンテローザ系居酒屋、その上階の吉野家の事業部に通じる反対側の階段も封鎖され、この建物の開口部はJR東日本馬喰町駅改札(地下)に続く階段のみになった(2020年9月半ば現在)。

 自社関連も含め全てのテナントが去り、2019年6月に吉野家HDからJR東日本に売却された同ビルは、1年以上も「巨大過ぎる駅入口」以上の機能を有していない。同ビルを買い取ったJR東日本は、「コロナ禍」による利用客の急激な落ち込みによって、2020年3月期の業績予想で連結最終損益が4,180億円の赤字になると発表したばかりだ。持て余すばかりの築30年の空っぽのビルが、目抜き通りの交差点の一角に建っているというのは、それだけで町に寂寥感を与える。「どうしようもない」という諦念めいたものが同ビルからこの問屋街に漂っている。果たしてこれは、人間の自由意志の外側にある、人間とは全く別次元で動いているものとの共生によって、人間の存在が常に再設定されていく世界のスタンダードな風景を示しているのだろうか。

 「石」という文字の入ったタイトルを持つ「展覧会」に行く。予定よりも約4ヶ月遅れで始まったものだという。所謂「ビフォーコロナ」の時期に企画されていたものであり、それが「ウイズコロナ」の時世に披露されるという「タイムラグ」の中にあるものだ。人によっては「隔世の感」と感じられる4ヶ月だが、「約束」は取り敢えず果たされた。

会場風景(参考): https://www.art-it.asia/top/admin_expht/211178?fbclid=IwAR3GFbCTzjnGhe_MeL_jKV3f-bDEB7sAmGzIZK7xALCG3eIlxbZPegffSds

 数ヶ月振りに展覧会に行くと、そのマナーが随分と変わっていた。半年前までであれば、展覧会の会場に入ってすぐに作品の前に立つ事も可能だったが、今は何よりも先に受付に行き、芳名帳への記入を求められる。以前の様に、それを後回しにする事や、記帳そのものを拒むという事は出来ない。「接触」のトレーサビリティをこそ最重要視するという点で展覧会記帳の意味が全く変わってしまい、従ってそれは嘗ての様に任意のもの、任意の形式のものではなくなった。筆名であっても本名に紐付けされなければならない。嘗ての形式をそのままに、本名の属性である連絡先という新たな個人情報の記入が加わった芳名帳が置かれている。そのインストールの方法論(置かれ方)だけは以前のままだ。果たしてこの芳名帳に「マスク」は必要ないのだろうか。簡便な非接触体温計による儀式が終わる。

 記帳が終わると、大理石の筐体を持つPCからプロジェクターに伸びる、宙に浮いて観客の動線を遮っているデータケーブルを、引っ掛けない様に気を付けて欲しいという旨の指示を受付氏から受ける。これは単に技術的にケーブルを長くする事が出来なかったのか、それとも広く「構想」としての「映え」的にこうなったのかと一瞬考えてみたりした。しかしその一方で、信号元の「大理石PC」から入口ドア入って右奥の書棚方向に出ているもう一系統のデータケーブルが、床面のコンクリートに相似した色のテープによって「見えない」様に「隠されて」いた事もあり、その「不徹底」に何か意味があるのではないかと、やはり一瞬考えてみたりはした。しかし結局それを考える事は、考え倦ねるに繋がりそうだったので止めにして、その「不自由」を「不自由」のまま、「苛々」を「苛々」のまま受け入れる事にする。そうした「許容」の態度、「追跡」を何処かで断念する態度が「ポストコロナ」的という事かもしれないと漫然と思い微苦笑した。都営新宿線車内のスマホで読んでいたキュレーター氏の文章にあった、「妥協を『約束の凝集(Com-Promise)』として、途方もなく前向きに考える」という部分が漫然と頭を過ぎる。

 渡された刷り物に目を通す。2015年10月1日に書かれたとされる作家のステートメントだ。情緒を感じるそれをざっと読み、それから脇にある会場平面図の入った別の刷り物も手に取る。こちらの相対的に乾いた解説文はキュレーター氏の手になるものだ。ふと思い立って、「石」という文字がこれらの文章に幾つ入っているのだろうかと大雑把に数えてみた。不正確かもしれないが24個をカウントした。一方、日本語の文字数にしてそれ程変わりのない作家ステートメントの方は2個だった。

 「石」と何回も言われれば、ついつい「石」を中心にものを見る事になってしまうというのが人情というものだ。「展覧会」タイトルの最初の文字からして「石」だし、出品作品3点の内2点のタイトルにも「石」関連が入っている(注1)。しかし正直なところを言えば、個人的に「石」に対してそれ程興味がある訳ではない。美大に入る時に「彫刻科/石彫」という選択肢は眼中に全く無かったし、「石」のみで何かを作ろうという事を思い付いた事もない。作品内で「石」を使用しようと思った事は2度程ある事はある。それは「石」を複数の「素材」の一つ、「石」を「材料」とする「部品」として扱うというものだったが、そのいずれも構想の段階で止めた。「石」は手に余る。

(注1)映像作品のそれは展覧会タイトルにもなっている。もう一点の作品タイトルには「tuff(凝灰岩)」が入っている。

 そんな事をもまた漫然と思い出しながら、「石器時代最後の夜」という大画面の映像を見る。「石」という言葉の「呪い」に掛かっている目は、それが「石に関する映像」だと思い込み、画面中の「石」ばかりを追っている。するとその「呪い」の副作用なのか、不意にドラえもんのタイムマシン的な漫然が頭に過ぎった。果たしてリアルな「石器時代」人がこの映像を見たらどう思うものだろうか。もちろん「映像(幻影)」をもたらすテクノロジーに、数百万年前から一万年程前の人々が驚嘆し、場合によっては恐怖すら感じる事は間違いないだろう。タイムマシンで召喚した「石器時代」人の目に自分のそれを同一化してみた。すると画面から「石」がすっかり後退した。それは「衛生に関する映像」と何度も言われても、画面を横切る「チキン」しか記憶に残っていないという人達(注2)の目でもあるのだろう。

(注2)「次に生じた現象は証拠資料としてたいへんに興味深いものだった。この衛生監視員である男はアフリカ原住民の部落内にある一般家庭で溜り水を除去するにはどうしたよいかを教示するため、ごく緩りとしたテンポで撮った映画を作ったのだった。まず水溜りを干し、空きかんをひとつひとつ拾って片づける、といった場面がつづく映画ができあがった。われわれはそのフィルムを映し、そのあとで彼等がなにを見たかを尋ねた。すると彼等はいっせいに鶏がいた、と答えた。ところが、映画を映して見せたわれわれのほうは鶏の存在に全く気付かなかったのである! そこでわれわれは用心深くフィルムのひと齣ひと齣をまわして問題の鶏を探しはじめた。はたせるかな、場面の隅を横切って走る一羽の鶏が見つかった。だれかが鶏をおどかしたらしく驚いて逃げる鶏の姿が画面の下方右手に見られた。それだけだった。フィルムを製作した男が見てほしいと思ったものはいっさい彼等の眼にとまらず、われわれが詳細に調べてみるまえには全く気付かなかったような事項を彼等は認めていたのである。」

“The next bit of evidence was very, very interesting. This man – the sanitary inspector – made a moving picture, in very slow time, very slow technique, of what would be required of the ordinary household in a primitive African village in getting rid of standing water – draining pools, picking up all empty tins and putting them away, and so forth. We showed this film to an audience and asked them what they had seen, and they said they had seen a chicken, a fowl, and we didn't know that there was a fowl in it! So we very carefully scanned the frames one by one for this fowl, and, sure enough, for about a second, a fowl went over the corner of the frame. Someone had frightened the fowl and it had taken flight, through the righthand, bottom segment of the frame. This was all that had been seen. The other things he had hoped they would pick up from the film they had not picked up at all, and they had picked up something which we didn't know was in the film until we inspected it minutely."

マーシャル マクルーハングーテンベルクの銀河系」(“The Gutenberg Galaxy":Marshall McLuhan)森常治訳

 「石器時代」というのは、基本的に「石」を加工するのに「石」をもってするしかない時代の事である。「石」と「石」とのぶつかり合いのみの世界。じゃんけんで言えば「グー」と「グー」のみの世界だ(注3)。そのじゃんけんの「あいこ」と「あいこ」の間(注4)にある微妙な「力」の差で「石器」は形作られる。それが「石器時代」人の常識だ。しかし大きな幕に映し出された画面/幻影の中の「石」は、「石」ではない別の「何か」によって軽々と穴を穿たれ、割られ、切断され、溝が掘られていく。一体「あれ」は何なんだ。「石器時代」人になった自分は「神の仕業」を見せられているのか?

(注3)「パー=紙」や「チョキ=鉄」が生まれるのは、人類史に於いて「グー」よりも遥かに後だ。

(注4)果たして「コロナ禍」なる事態は、人類がウィルスに対して「負け」続けているのだろうか。或いは最終的な人類の「勝ち」へと至る道程にあるのだろうか。それとも永遠の「あいこ」なのだろうか。

 「グー」対「グー」の時代を、「三時期法(Treperiodesystemet)」中の一区分である「石器時代(Steinalderen)」と名付け、概念付けたクリスチャン・ユルゲンセン・トムセン(Christian Jürgensen Thomsen)の、「北欧の出土品」から始まる歴史観の側にいる我々は、その「あれ」、その「何か」が、トムセン言うところの「鉄器時代(Jernalderen)」以降の「鉄」、及び時に炭化ケイ素や工業ダイヤモンドを纏ったその進化系である事を知っている。確かに「鉄」の登場以降、「石」は最強の存在である事から降ろされたのである。

 従って「鉄(チョキ)」が「石(グー)」に一方的に負けるじゃんけんでは何となくしっくりこないと思っていたその時、それを見ている自分の脳内に、今度は石塚運昇氏(故人)が漫然と降臨した。「SM」中盤までの、幾つかのシリーズのアニポケのラストで「ポケモン講座(川柳付き)」を行うオーキド博士である。「石器時代最後の夜」と題された同映像が、「石」(いわ)対「鉄」(はがね)の「バトル」に見え始めてきたのだ。

 ゲーム「ポケットモンスター」の「バトル」に於ける「タイプ」間の「相性」というのは、何一つとして「最強」のものは存在しないというじゃんけんの「竦み」システムの「更新」の一つとも言えるものであり、それはこの「紙幅」で説明するには凡そ足りない複雑なものではあるのだが、こと「石」(いわ)と「鉄」(はがね)のバトルに限って言えば、「いわ」は「ほのお」「こおり」「ひこう」「むし」に対して有利にダメージを与えられる一方で、基本的に「はがね」の攻撃に対しての耐性は低く、相手に与えるダメージも相対的に低い。「ポケモンバトル」が内面化されてしまった目から見る映像作品「石器時代最後の夜」は、確かに「最後の夜」に相応しく「いわ」が「はがね」に為す術もなく打ちのめされるバトルのドキュメンタリーにも見える。

 そのスクリーンの背面側にインストールされている石彫作品 “Double Log(Washinoyama tuff)" もまた、ブッシュ・ハンマーという「はがね」タイプの強力な「わざ」によってその肌を凹凸状にされ、加えて「炭化ケイ素のいし」や「工業ダイヤモンドのいし」を使って進化した「はがね」にぐるぐる(年輪状)の溝を彫られ、それが恰も戦闘不能になったポケモンの「ぐるぐる目」(注5)の様にも見えてしまったりする自分がいる。

(注5)アニポケに於ける戦闘不能状態の定型表現。

 「はがね」の圧倒的大勝利。「『いわ』の彫刻家」は「はがね」を使って「いわ」を加工する。「『いわ』の彫刻家」の仕事上のパートナーは、「楔」や「鑿」や「アンカードリル」や「ディスクグラインダー」や「リューター」等の「はがね」(注6)やその進化系であって、決して「いわ」ではない。ほぼ全ての「『いわ』の彫刻家」は、「『いわ』の彫刻」を制作するのに、「石器時代」人が彼等の「利器」を作る様に「いわ」を使用する事は無い。「『いわ』の彫刻家」とは、「はがね」に「わざ」の指示を与え「いわ」の形を改変する「はがね」の「トレーナー」だ(注7)。それは今日「彫刻家」(注8)と呼ばれている存在そのものが、事実上「鉄」の時代(Jernalderen)──少なくとも「銅」の硬度を「人工的」に増す事に成功した「青銅」(注9)の時代(Bronsealderen)──以降に成立したものだからだ。人類史上「『いわ』の彫刻=石彫」と呼ばれているもののほぼ全ては、「はがね」の使用によって生まれている。落ちている「石」を「アッサンブラージュ」して「立体物」を作る様なものを別にして。

(注6)「ディスクグラインダー」や「リューター」等は「でんき」とのタッグでもある。その「でんき」は、そこから遠く離れた顔も知らない「各位」によって、「その為」のみならず作られている。

(注7)恐らく「鑿」や「鋸」や「チェーンソー」等を使う「『木』(「くさ」タイプ)の彫刻家」も変わりはない。

(注8)仮に「泥団子」が「塑像」の原型であるとすれば、人類史に於いて「塑像」を作る者の登場は、「彫像」を作る者のそれよりも「古い」ものではあるだろう。「泥団子」に代表される「くるくる丸める」が、人類史に於ける「造形」の最も初期にある。それは、今日のインスタレーションやパフォーマンスのみならず、音楽や文学に至るまでも支配し続ける「肉付け法」(基本構造と細部)以前の造形原理である。そして「彫刻」が「帰還」する場所の一つは、恐らく掌の上──それが「アミュレット(護符)」である必要は些かも無い──の「泥団子」──「象ること」以前としての──なのだ。

(注9)人類史に於ける「銅」の登場が、本展「石器時代最後の夜」の「設定」の一つにある。しかし恐らく「銅」単体のみでは「はがね」とは言えない。「ドーミラー」(銅鏡)にしても「ドータクン」(銅鐸)にしても、それは「銅」に「錫」が加えられた「合金」の体を持つからこその「はがね」タイプなのである。

 改めて「大理石PC」の平滑な仕上がりを見て、「はがね」とその「トレーナー」の確かな仕事ぶりを認めてから、受付を回転軸とする会場の反対側へと向かった。

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 「ハッピー・バースデー・トゥ・ユー」という楽曲が苦手だ。歌うのも歌われるのも聞くのも苦手だ。その苦手な楽曲が「展覧会」の会場にエンドレスで流れている。

 「ハッピー・バースデー・トゥ・ユー」というのは替え歌である。元歌は「グッド・モーニング・トゥ・オール」という幼稚園で歌われる歌だったという。「おはようございます、おはようございます、おはようかわいいこどもたち、おはようみなさん(Good morning to you, Good morning to you, Good morning, dear children, Good morning to all.)」というのがその歌詞だ。しかし天の邪鬼にこましゃくれた幼稚園児がいて、川田義雄の「地球の上に朝が来る その裏側は夜だろう」よろしく、「オールってなに?どこからどこまでがオールなの?地球の反対側の人は今おはようじゃないよね。じゃあグッド・モーニング・トゥ・オールっておかしくない?」と幼稚園の先生に質問/詰問するかもしれない。

 それはさておき、この19世紀アメリカ生まれの幼児向け楽曲「グッド・モーニング・トゥ・オール」は、20世紀にやはり幼児向けの「ハッピー・バースデー・トゥ・ユー」という「替え歌」になった後に世界各国に行き渡り、今では数十の言語に訳されている。例えば中国では「祝你生日快乐」として、韓国では「생일 축하합니다」として、ドイツでは「Zum Geburtstag viel Glück」として、フランスでは「Joyeux Anniversaire」として、イタリアでは「Buon compleanno ou Tanti auguri a te」として(以下略)、それぞれの土地でそれぞれの土地の言語で普通に歌われている。

 日本語訳の「 ハッピー・バースデー・トゥ・ユー(お誕生日おめでとう!)」も存在する事は存在する。「うれしいな今日は たのしいな今日は 誕生日おめでとう お歌を歌いましょう」(丘灯至夫訳詞)というのがそれだ。幼児向けの楽曲である事を踏まえた「お歌を歌いましょう」の歌詞であり、ここに丘灯至夫氏の確かな仕事ぶりを伺う事が出来る。しかしこの「お歌」を、幼少期、或いは成人になって日本語歌詞で歌った経験のある日本人は数える程しかいないだろう。

 日本で現在の様な「誕生日を祝う」習慣が一般に広まったのは、第二次世界大戦後の事だ。そもそもそれ以前の日本人の年齢のデフォルトは「数え年」であり、従ってほぼ全ての日本人の年齢が繰り上がるのは「1月1日」だったのである。日本では長きに渡って「明けましておめでとう」がそのまま「誕生日おめでとう」を意味していて、当然「バースデー・ケーキ」が出てくる幕は全く無く、「歳神」を「餅」で迎えた後に、その「餅」に宿る「魂」を分配するという「神事」の一部が日本の「誕生日」だった。今日の意味での「個人の生誕日を祝う」という習慣が日本人に内面化された切っ掛けの大きなものの一つは、事実上の数え年禁止令である「年齢のとなえ方に関する法律」(現行法;1950年1月1日施行)(注9)と言って良いだろう。

(注9)「この法律施行の日以後、国民は、年齢を数え年によつて言い表わす従来のならわしを改めて、年齢計算に関する法律明治35年法律第50号)の規定により算定した年数(一年に達しないときは、月数)によつてこれを言い表わすのを常とするように心がけなければならない。」(「年齢のとなえ方に関する法律」第1項)
「政府は、国民一般がこの法律の趣旨を理解し、且つ、これを励行するよう特に積極的な指導を行わなければならない。」(同法附則第2項)

 同法の制定理由の一つに「国際性向上」というものがある。それが言われたのは「オキュパイド・ジャパン」(連合国軍占領下)の頃だ。GHQが主導する「国際」性の前にあっては、日本の「土俗」は否定されなければならない。「祖霊」崇拝がエンペラーに繋がってしまう様な「悪習」は排除されねばならない。斯くして正月から切り離される事で、日本人の「誕生日」の概念は「国際」化される事になり、アメリカ経由のヨーロッパ式「バースデー・ケーキ」もまた、それに伴ってGHQ政策の下移入される事になる。そしてその様な「国際」の「様式」に則る事こそが、日本に於ける輸入文化としての「(日本の)誕生日」では重要になって行く。

 こうして戦後日本では、当時の日本が置かれた「政治」的な判断故に「国際」性を表す「英語」でのみ「ハッピー・バースデー・トゥ・ユー」が歌われる(注10)事になるのだが、しかしそこには大きな罠が潜んでいる。成人を含む日本人が集まり「ハッピー・バースデー・トゥ・ユー」が歌われる時、その英語は殆どの場合日本語訛りでなければならない。如何に「ネイティブ」ばりに英語が「堪能」であったとしても、そうした日本人同士の集まりで「本物」の英語で歌う事は躊躇われる。“happy" は “ˈhæ.pi” ではなく「法被(はっぴ)」、“birth" は “bɜːrθ”(US)ではなく嘗てのプロ野球阪神タイガース選手の名前の如く「バース(ばーす)」、“day" は “déi” ではなく「泥(でい)」、“to" は “tʊ" ではなく(しばしば)「通(つう)」、“You" は “ju” ではなく「遊(ゆう)」と発音せねばならない。そこでは決して「日本人の平均」から逸脱/突出してはならない。「誕生日」に於ける日本人は、周囲を見渡し「平均」の中に身を埋める様に自分を再定位し直す「賢さ」が求められるのだ。

(注10)Wikipedia 英語版の “Birthday cake" には、“though the "Happy Birthday" song is often sung while the cake is served in English-speaking countries, or an equivalent birthday song in the appropriate language of the country.”(英語圏の国ではケーキの提供と共に「ハッピー・バースデー」の歌が歌われる事が多いが、その国の適切な言語でそれに相当する誕生日ソングが歌われる事もある) 
とある。そして英語圏ではない日本に於ける誕生日ソングの「適切な言語」は事実上 “Engrish" である。

 そうしたローカルな掟を前にしては、TOEIC Speaking Test(例)も ECC(例)も何の役にも立たない。日本に於ける「国際」の「様式」の下にあっては、多くの場合 “Happy Birthday to You" を「全員が等しく同程度に日本語訛りした英語で歌う」という同質性こそが求められる。それによって同族である事を確認し合う儀式とするのだ。その「様式」的な歌唱の後に、「様式」通りに作られた「バースデー・ケーキ」に、「様式」通りに立てられた蝋燭の火を、祝われる者が「様式」通りに吹き消し、吹き消したところで周りの人間の誰かが、高島忠夫的「国際」の発音「様式」で「イェーイ!!」と言いながら「様式」通りにノッたりするところまでが、多くの日本人が考える「国際」的な「誕生日」のパッケージである。

 仮に祝われる者が実際には「ケーキ」を全く好まない人物であったとしても、祝う側は「ケーキで祝う」という「国際」の「様式」を前提に事を進めるばかりであり、また祝祭の主役となるべき筈の者も「皆に悪いから」という理由で「ケーキを好まない」事を周囲に隠そうとすらする。今日の日本の「誕生日」は、日本人が考える「国際」の様々な「様式」が支配する場の一つだ。自分が「法被バース泥通遊」を苦手とする大きな理由の一つは、こうした「様式」の専制による「空気」(山本七平)に耐えられないというところにある。自分が「帰還」するべきところはその様な場所ではない。

 1997年の「第4回ミュンスター彫刻プロジェクト」で主に撮影されたとされる作品 “Birthday Party 1965-2020" で歌われている “Happy Birthday to You" にもまた、「日本語訛りの英語」のものが少なからず混じっている。英語圏ではない人達の集まっていると思しき幾つかのテイクは、その人達の母国語で歌われているであろうバージョンも含まれているが、一方で決して日本語の「お歌を歌いましょう」が流れる事は無い。「法被バース泥通遊」の人達以外の「ノり」が多様──それこそが本来的な国際というものだ──である一方で、「法被バース泥通遊」の人達の「ノり」は「様式」に則ったものの様に見える。確かに「誕生日」というものは「個人的なこと」であるには違いない。しかしそれはまた常に祝祭の「様式」、ひいては「個人」そのものの「生誕日」を祝祭の対象とする「概念」という形で「共同体」によって規定されるものでもある。

 「誕生日」は、自分を生んだ母親に感謝する日であるとする見方もある。嘗ての日本の「誕生日」(元旦)は、祖霊──自分の生に繋がっているもの──に感謝する日でもあり、それは換言すれば自分を取り巻く周囲に感謝/畏敬するという側面を持っていた事は確かだ(注11)。「誕生日」を「個人的なこと」とするのも、既に「様式」ではあるのだ。そうして改めて同作品を「引いた」目──先程の「石器時代」人の目が残っている──で見てみれば、その中で行われている事もまた「様式」による「定型」の凝集の様にも映る。

(注11)日本では、その「自分の生に繋がっているもの」が「一族」(「『有史』以来続くとされる『一族』」含む)視され、その「一族」観の下に「法被バース泥通遊」も連なっているという側面もある。

 祝われる「個人」の名が記された食べられる「記念物(モニュメント)」としての「バースデー・ケーキ」が当人を伴って中心にあり──本来は「当人が『バースデー・ケーキ』を伴って」と言うべきところなのだろうが──、その周囲に人々が集って祝祭空間を作る。「ケーキ」を、独立した造形表現としての「彫刻」として見る者は彫刻家をも含めて存在しない。パティシエがホイップクリームの造形に幾ら工夫を凝らしても、それは建築に於ける漆喰レリーフの様にしか見做されない。ビュッシュ・ド・ノエルを、「彫刻」作品 “Double Log(Washinoyama tuff)" (注12)の様には誰も見ない。「ケーキ」はその意味で、建築の付属物からの「自立」に成功した「彫刻」の、嘗ての位置にあるものだ。

(注12)同作品が、例えば建築の破風にエルギン・マーブルの如く埋め込まれていたら、果たしてそれはどの様に見えるものであろうか。

 建築は、それによって内部と外部を生じさせる装置(注13)でもある。「通常多くの人々の心のなかで建築芸術の対象となっている」(ハーバート・リード「彫刻とはなにか」宇佐見英治訳)建築の意匠は、その外形すらその殆どが外部からの要請によるものではなく、内部の表出という形を取る(注14)。そしてその内部の表出としての建築は、原理上「公共」の空間内に建てられる。しかし「公共」空間が広大な建築空間として捉えられる様な場所、例えば都市計画の対象としてであったり、王侯の下にあるとされる様な都市にあっては、「公共」は容易に内部空間と化す。広場は広間になる。

(注13)「安全な『内部』」と「危険な『外部』」の対称性は、例えばお伽噺「三匹の子豚」にも見られるものであり、「コロナ禍」にあって「ステイ・ホーム」という形でそれが反復されたのは記憶に新しい。しかしその一方で「マスク」はその対称性を壊乱させている。自分は「伝染(うつ)される者」であると同時に、潜在的な「伝染(うつ)す者」であるという両義性がそこにある。内部と外部は共に「危険」で統一されたのだ。そして「密」になる建物の中こそが最も危険な場所(家族内感染やクラスター等)という形で、建築はすっかり反転され破壊されたのである。

(注14)内部の表出としての建築の最近のものの一例として、「景観論争」を引き起こした楳図かずお氏私邸「まことちゃんハウス」がある。同邸を訪れた竹熊健太郎氏は「建物自体がまぎれもなく100%純粋な楳図作品」とリポートしているが、多かれ少なかれ建築は内部が外部に露出する装置──時にそれは「作品」とすら呼ばれる──の一つである。因みに「まことちゃんハウス」のファサード部分にも「まことちゃん」の「彫刻」がインストールされている。

 「彫刻」は常にそうした内部に属して来たものだ。ハーバート・リードが言う様に、長く「彫刻」は現実的な建築の中、或いは上に留め置かれていて、建築と結合するしかない存在だった。やがて建築の外部だった空間が、建築概念の拡大とともに建築の内部と見做される様になると、「彫刻」は「町の中」という「家の中」に拡散する事になる。「広場/広間」に「彫刻」が林立するのは、「公共」空間の「建築」化と並行して行われる。

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 「コロナ禍」と並行して進行したとも言えるのが、2020年5月26日のジョージ・フロイド氏の死に端を発して再び大きく燃え上がったBLMを始めとした「有色人種」の権利回復運動だろう。その運動の象徴的行為として、「有色人種」に対する差別/収奪/搾取に貢献/加担した人物が象られた「彫刻」を破壊、上書きするというものがあった。そのいずれもが、それらが建つ場所──「非ヨーロッパ」(或いは「非ヨーロッパ」化しつつあるヨーロッパ)──をヨーロッパの「広間」或いは「別館」としてきた人々によってインストールされた、「バースデー・ケーキ」の如き「記念碑」だ。ヨーロッパこそが「公共」を実現する唯一無二の体現者であるとするナイーヴな信憑が、「バースデー・ケーキ」を世界中の都市(大きなおうち)にインストールしてきたのである。そして今、世界は「西暦(Anno Domini)」と呼ばれる「バースデー・パーティー」の中に参加させられている。

 「それにしても」と「石器時代」人の自分は思う。この映像に映っている人達は、誰も彼もが「老人」ばかりではないか。「石器時代」人の平均寿命は15歳だったという。「コロナ禍」にあって引き合いに出されたりもした鳥人チキン・ジョージ」氏(及び「エクトプラズム」)の「14歳で終わる」は、そのままの意味としては「石器時代」人にとっては極めて「当たり前」の話である。地球という「過酷」な環境にあって、15歳が人類の寿命の基礎部分であるとするならば、その15歳を現在の数十歳まで無理矢理ブーストさせたものの一つに、その都度の感染症を始めとした地球環境の「克服」というものも上げられるだろう。15歳(NA)で死なない我々は、スーパーチャージャーターボチャージャーといった過給器の搭載、ジェットエンジンへの換装、及び路面への松脂塗布等で、「パワー」をとことんまで稼ぐ車の様な「畸形」なのだ。

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 さてもそろそろ潮時である。このギャラリーを出て、再び町に出るとしよう。そう思い、ギャラリーのゲートを潜り抜け、地上階へと続く階段に足を掛ける。その瞬間、数ヶ月前と比べてもう一つ、最も重要な相違点があった事にまざまざと気付かされる。

 階段を上がるのがとてもキツい。

 半年前なら平気の平左と思われていた数十段の階段が、現時点の自分に於ける人生の大きな障害の最も大きなものの一つとして立ちはだかっている。「石器時代」人の数倍の時間を生きている身だから、上り階段がキツいのは当然だ。仕方がない。何とか上がった踊り場で微苦笑に次ぐ微苦笑。しかしずっと微苦笑していても何も始まらない──と言うか帰れない──ので、残りの階段をゆっくりと上がる。そう言えばこの「連載」も「老い」から始まっていたのだった。「老い」というのは、自分自身に内在している「不随意」──自分の殆どは「不随意」で構成されている──に悩まされたりするというものでもある。ここでもまた「コロナ」か。

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 別にそれを参考にする等ではなく、或いは殊更にそれとの差異を際立たせようというつもりもなく、自分と似た様な反応を発見して安堵する訳でもなく、他人はそれをどう見てどう考えているのだろうという興味から、自分が見て来た展覧会のレビューや感想をネット検索したりする。

 この展覧会が始まってから半月以上(見た日現在)も経っているから、それらが幾つかヒットするだろうと思っていたものの、検索条件を幾ら代えても以前の様にはヒットしない。ツイッタランドを検索しても、ヒットするのは当事者やその近くにいる者によるインフォメーションや報告ばかりだ。

 試しに「コロナ禍」以後の数ヶ月の間に行われた別の展覧会のものも検索してみた。結果はやはり同じ様なものだった。この数ヶ月で、展覧会の意味がこうした面でも変わってしまったのだろうか。以前に比べて相対的に「レスポンス」に欠ける展覧会が、それでも開かれる理由は何だろう。もしかしたら、そこに出口/入口の一つが開いているのかもしれない。

【続く】(石塚運昇氏のナレーションで)

ch.0.5「アホでなにが悪いんや」

※「追記」

前のエントリから半年以上が過ぎた。この間、【続く】とされたこの稿は、しかし何度も書き直される事になった。当初の段階での書き始めは「新大陸」に関するもの(「追記」注1)だった。しかし一部を除いて、それは後回しにされた。前エントリとの連続性を担保する為に「東京インディペンデント2019」展にも多くを割り当てていた。そこから所謂「美術」と称されているものより、より「広範」な〈美術〉へ至る見取図へと繋げる予定だったが、それもまた次稿以降に先送りされた。何故ならば、それを書き進めている数ヶ月間に、〈美術〉への道が、これまで以上に幾重にも「険しい」ものになると思えてしまう数々の「出来事」が次々と「起こって」しまったからだ。

(「追記」注1)「15世紀」の「探検家・航海者・コンキスタドール(征服者)、奴隷商人」(Wikipedia 日本語版の「定義」に基づく)であるジェノバ人、クリストーフォロ・コロンボ──日本では「コロンブス」として知られる──が「新大陸」を「発見」したのは、「共通紀元」に於ける「1492年」の事である。複数の政治体制を横断して「(「探検家」としての)営業活動」を行ったコロンボは、同じく複数の政治体制を横断して「(「芸術家」としての)営業活動」を行ったレオナルド・ダ・ヴィンチ(例)と同時代/「同一」文化圏の人物でもある。「レコンキスタ」の「成就」(「共通紀元1492年」)という「追手」を帆に受けたコロンボが至り着いた「新大陸」に住んでいたのは、現在の「世界基準」では「初期設定」となっている、「営業活動」(例:「『展覧会』の開催)の継続をこそ、その存立の必須条件とする「旧大陸」的な「画家」や「彫刻家」や「建築家」等といった「職業」人の存在──英語で「職業」は “occupation" であり、その別義は言うまでもなく「占領」である──とは無縁の生活を送る「古く」からの人々だった。予定稿に於ける「『コロンボ』以前」=「プレ・コロンビア(“Pre-Columbian"=“Pre-Colonial")」としての「新大陸」は、「旧大陸」の「文化」的「制度」である「芸術家」を全く必要としない──しかしそこには〈芸術〉は遍く存在している──世界の「表象」としてのそれである。

その「出来事」の一つが、昨夏の開幕以降続いた──或いはその終幕以降も尚その尾を引き続けている──「あいちトリエンナーレ2019」を巡る一連の「騒動」である事を否定しない。今では「過去」の「事件」として認識/処理されつつあるこの「騒動」は、しかし実際には所謂「表現の自由」の問題に留まらない、〈美術〉──就中〈表現〉──を成立させる「基盤」/「環境」そのものに関わる事態と言って過言ではないものであり、であればこそ、この「騒動」は一般的に「表現の自由」と称されているもの──就中「表現」と称されているもの──の本来的な意味に於ける〈表現〉とは何かという事を改めて再考させられるものだった。

今回の「騒動」にあっても、〈美術〉及び〈表現〉を「美術コミュニティ」(「追記」注2)の占有物と──意識的にせよ無意識的にせよ──見做すケースが数多く見られた。そこでは「表現の自由」なるものが、恰も「美術コミュニティ」の「自治の自由」(「統治の自由」)的なものとして扱われ、その意味で「表現の自由」は「美術コミュニティ」を構成する者の「自治権」(「統治権」)としての「権利」的「問題」として、専ら「「美術コミュニティ」とその「外部」との間に発生する「民族紛争」的な──狭義の──「政治」の中に放り込まれていた。即ちそこでは「美術」及び「表現」が──相変わらず──我々の「社会」に於ける「役割」/「階級」的な「権利」を意味するものになってしまっていたのである。

(「追記」注2)しばしば──或いは多くの場合──それは「アートの世界」や「アートシーン」などと称されたりもする。

「あいちトリエンナーレ2019」の「騒動」を招来したものの一つに、狭義の「コミュニティ(例:「民族」)」に対する「不満」や「反目」や「憎悪」の「感情」が存在した事は事実だ。それに対して、本来的に「コミュニティ」間の「利害」の平面に留まらない、所謂「世界市民(Weltbürger)」としての「人類」の概念を最終的な「理念」とする、あらゆる「属性」──性差、民族、国籍、貧富等々──の「超越」をこそ目指す事を第一義とする「近代」以降の「美術」──それが「利害」からスタートした「表現」であったとしても──が、「美術コミュニティ」に関わる利害問題としての「表現の自由」を前面に押し立ててそれに対応した事は、能動的行為としての「美術」や「表現」への「アクセス権」が、専ら「美術コミュニティ」に特権的な形で占有される一方で、「美術コミュニティ」の「外部」にいる者、「美術コミュニティ」の「構成」員としての「参加」の「基準」を満たしていないと見做されている者は、「美術」や「表現」に対して受動的に関わるしかないという、所謂「美術」や所謂「表現」に於ける「身分」制度を再補強し兼ねないものだった。

この「騒動」の最中にあって、事実上「美術コミュニティ」は「表現の自由」を「自分の権利(自分の言い分)」として主張し、その「外部」は「表現の自由」を「他人の権利(他人の言い分)」として受け取るという現下の「非対称」の構図は、そのまま「美術」に於ける「展示」と「鑑賞」の「役割」的「非対称」に由来するものだ(「追記」注3)。我々が属している「文化」的な「形式」に於いては、「表現」の「主体」は「表現」の「役割」と同一視されている。即ち21世紀に於いて(すら)「表現者」と呼ばれる存在は、「社会的『役割』」としてのそれを意味し、従って「表現」は専ら「職能」的なものとして語られる。そこでは「表現」の「生産」側に位置する「コミュニティ」=「『表現者』コミュニティ」が存在し、一方でそれを丸々「反転」した形で、「表現」を「消費」する「ひとかたまり(十把一絡げ)」としての「鑑賞者(群)」が存在するという「社会」的「構造」がベースとなっているが、言うまでもなくそうした「非対称」性は、「(可視的)表現者/(その他)鑑賞者」という「役割」を、そのまま「生産者/消費者」として「産業」的に「構造」化した事に由来する。

(「追記」注3)その「構造」をリテラルなまでに具現化/体現化していたのが、「展覧会」としての「表現の不自由展・その後展」だった。

それ故に、例えば「『美術』は『感動』を(こそ)『与えてくれる』もの(でなければならない)」という、「美術コミュニティ」外からの「美術」に対する一般的「了解」が、未だに「当然」視されている事をも、今回の「騒動」は改めて明らかにした。当然この様な「与えてくれる」という「在り方」を可能にするのは、「(専ら)与える」という「ポジション」(「追記」注4)の存在があってこそのものだ。「『美術』は『感動』を『与えてくれる』もの」という言い回しに顕著な「消費者/お客様」思考としか言い様の無いものは、「(専ら)与える」側に位置する事を前提とする現状の「美術」の「産業」的「構造」に於ける「役割」そのものから発している。「鑑賞者」という「役割」を、「見る」者は自ら内面化し、寧ろその「役割」に敢えて全面的に甘んじるのである。

(「追記」注4)その「ポジション」に立つ者の “influential(「勢力」/「影響」)" 度を示さんとする「世界」ランキングも存在する(例:“Power 100":ArtReview))。そしてこうした「ランキング」(各年末の「今年の展覧会ベスト何ちゃら」等を含む)を可能とする「価値付け」と、そもそものその「思想」的ベースに一定の「ノー」を突き付けたケースの一つが、2019年の「ターナー賞」の「顛末」ではあった。果たしてそれらの「名誉」とされる「プライズ」は、これから先の「人類史」に於いて、例えば「価値付け」の方向性に於いて相同的とも言える「ミス・コンテスト」──「魅力」的な「女性」の「ランキング」とされるもの──と、どちらが長きに渉って存続し続けていくのであろうか。

従って、仮に「『美術』は『感動』を『与えてくれる』もの」の「感動」が、例えば「考える機会」や「新たな視点」であったとしても、それが「美術コミュニティ」が「与えてくれる」もの──「美術コミュニティ」側のパースペクティブから言えば、「鑑賞者(群)」に「与える」もの──であると見做される限りに於いては何ら変わりは無い。但し今日的な「生産/消費」の現場に於ける「パワーバランス」──「お客様は神様です」)──から言って、「与えられる」者としての「消費者/お客様」は、自らが「支出」した「代価」と引き換えに「サービス」を受ける「消費者/お客様」の「権利」として、「与える」者が作るものに対してしばしば「クレーム」を入れたりする。しかしそれでも、「産業」的「構造」(「追記」注5)としての「美術コミュニティ」は、そうした「消費者/お客様」を永遠に「消費者/お客様」の儘でいさせようとする。「表現の自由」とされるものを常に脅かされる「美術」の「脆弱性」は、こうした「美術」の「社会」/「経済」/「産業」的「構造」からも存在する。「感動」を専らとする立場は、「クレーム」を専らとする立場と裏腹なのだ。

(「追記」注5)「博物館」としての「美術館」は、「珍品」のコレクション(「ヴンダーカンマー」)から始まったとされるが、それは現在の「美術館」とは様々な意味で不連続なものである。その一つに、現在の「美術館」は「産業」としての「美術コミュニティ」が為したもの以外の「珍品」には限り無く興味を持たないという点が上げられる──但し「美術コミュニティ」視点で興味を掻き立てられるものは、「名誉白人(“Honorary Whites")」ならぬ「名誉美術(“Honorary Arts")」として扱われるという「例外」は存在する。それらは現在の「美術」が押し込められているところの「博物学」的な「体系」にそぐわないからだ。近代以降の「美術館」は、「美術」と称される「産業」への貢献度を測る事実上の「産業博物館」である。「美術コミュニティ」の構成員は、その「産業史」の殿堂である「産業博物館」──或いは「産業史」そのもの──に関係付けられようと常に「プレゼンテーション(「営業活動」)」(例:「展覧会」)を行う。「プレゼンテーション」と「『プレゼンテーション』によって生まれたもの」にしか興味の無い「産業博物館」に対し、その「プレゼンテーション」が途切れる事で「産業」の「担い手」として「失格者」の烙印を押され、「美術コミュニティ」から「忘却」される事を恐れる余り、「表現者」と称されている/称されたいと思っている者は、「飼育」されているハムスターの様に回し車を回し続ける。斯くして「展覧会」/「プレゼンテーション」/「セールス・プロモーション」は自目的化するのである。

「近代」以降の「消費者/お客様」は、「作る」現場を「知らない」という以上に、そもそも自ら「作る」側に位置したことも無い、或いは「権利」的にその「地位」にある事をすっかり「忘却」してしまっている存在なのである。「近代」──「近代」の「美術」含む──に於いて「消費者/お客様」(「追記」注6)である事は、或る意味で極めて「楽」なポジションにある。「楽」なポジションであればこそ、「クレーム」を入れる事が無批判的に可能な「優位」な地位(「消費者/お客様」)に自身が位置していると思い込む。「金を貰っている側であるお前には一切の権利を認めない」という、「お客様は神様です」を信じて止まない「権力」志向の形が、「クレーム」を入れる者の「優位」性の根拠になる。

(「追記」注6)最も今日的な「消費者/お客様」は「情報」に於けるそれである。例えば日本語の「ネト〜(ネット〜)」という接頭辞は、「情報」に対して専ら「消費者/お客様」的にしか関わらない者に対して与えられるものだ。「流通」する(バズる)事に最適化された「キャッチー」な「情報」であればある程、それに「信頼」を寄せるという「消費者/お客様」的な行動様式の下では、「自らの頭で吟味熟考する」という行動は、単純に「『速さ』に欠けているもの」と見做される。今日的な「情報」に於ける「消費」的「価値」は、何よりも「速さ」に代表される「経済」性=「コスト」に支配される。「良きRe」は、「対話」としての「適格」性で測られるものではなく、反射神経を競う「テレビ芸人」的な「ノリ」の「速さ」によって生じる「廉価」感──「高コスト」に見えるものは敬遠される──こそが最重要視される。返す言葉が「瞬時」に見つからなくても、取り敢えず大ウケのフリをして大仰なまでに手を叩いておく様な「リアクション」を「Re」しておけば、その場は「全て世は事もなし」的に「和む」のである。斯くして、SNS と呼ばれる「情報」の「市場」空間は、「廉価」な「情報」の飛び交う戦場となる。

その一方で「作る」側とされている「美術コミュニティ」は、それが実際には「近代」的な「経済」概念に依拠した「共同体」である事を常にひた隠しにする(「追記」注7)。「人」という概念自体が嘗て無く揺るがされ、再構築の対象とすらなっている「21世紀」になっても尚、「『美術史』に(己の)『名』を残す」という──「ドン・キ・ホーテ」が嵌り落ちた──「騎士道物語」(「ロマンス」) 的な「成功」の形があり得るとして、しかしその様な「成功」が「成功」である為の条件は、紛れも無く「時間」と「空間」の制約の上にある「歴史」的産物としての「騎士道コミュニティ」的な「美術コミュニティ」が、この惑星の何時まで続くか判らない「人類」の「世界」に於いて、この先何百年〜何千年も続く筈/続くべきだろうという「信憑」──その「信憑」自体は「悪」ではない一方で、「誤」である可能性は存在する──に基づいている。

(「追記」注7)「美術コミュニティ」が、「経済」を拠り所とする「コミュニティ」である事を「暴き」──「周知」の事実ではあるが──、それに「批判」的なスタンスを取るものの幾つかに、「2018年のサザビーズ・ロンドン・オークションに於ける、シュレッダーで裁断されたバンクシーの『風船と少女』」や、2019年のアート・バーゼル・マイアミ・ビーチに於ける、ダクトテープで壁にフィックスされたバナナ──『コメディアン』」等といった例を上げる事も可能ではある。しかし果たしてその「批判」の「実効」性は如何なるものであった/あるのだろうか。それらの「批判」が作動した「コミュニティ」と全く関係の無い「外部」はともあれ、それらの「批判」によって、「オークション」や「アートフェア」を構成する「内部」機構が、その存続が不可能なまでに「根底」から揺らぐという事態には決して至っていないという「現実」がそこにはある。ややもすれば、そうした「批判」は「批判芸」(やんちゃなツッコミキャラ)として「批判」される側──結果として「無傷」或いは「擦過傷」の──に「商品」として回収され、それもまた「フルチョイス・システム(トヨタ)」的な「ビター味」や「激辛味」として「販売」される。「次回」の「ターナー賞」(それがあるとして)では、「今回」を上回る如何なる「やんちゃ」が起きるのだろうと、密かに/大っぴらに「期待」する「消費者/お客様」もいる事だろう。しかしそうした「消費者/お客様」の「反応」もまた「美術コミュニティ」の「商品」として組み込まれるのだ。

今回の「騒動」に於いても「〈表現〉の自由」が「美術コミュニティ」の「利害」に留まる問題ではなく、全ての「世界市民」のそれぞれにとっての「自分自身の権利」である事に目を向ける者は極端に少なかった。時に「表現の自由」論争が依拠する「設定」は、「美術コニュニティ」とそれ以外の「コミュニティ」(「追記」注8))間の「反目」を拡大するものですらあった。「〈表現〉の自由」は、確かに「美術コミュニティ」を構成する者の「展示の自由」(「追記」注9)を含むものであるが、しかしそれをのみ意味するものではない。そしてその事は「(「〈表現〉の自由」を)侵害される側」よりも「(「〈表現〉の自由」を)侵害する側」の方が良く判っている。「展示(「展覧会」)」という「産業/業界」的「プレゼンテーション」の形を取らない/取るまでもない日常的な些細な〈表現〉にまで/にこそ、これからは「侵害する」事を内面化した目は、何かに付けて「クレーム」(「追記」注10)を付けて来るかもしれない。そして真に「守る」べき「〈表現〉の自由」は、その射程でこそ捉えられねばならない。改めて強調するまでもなく、「〈表現〉の自由」は特定の「コミュニティ」に於ける「利害」の「侵害」というレベルに留まる話では無いのだ。

(「追記」注8)「貞本義行」氏の「あいちトリエンナーレ」に対する「反目」も記憶に新しい。

(「追記」注9)今回の「騒動」に於ける「表現の自由」に関する「言説」のほぼ全てが、事実上「表現の自由」=「展示の自由」とする「視点」内に留まるものだった。

(「追記」注10)「大きな船が停泊する港湾」の風景を、画帖に描き写しただけで咎められてしまう世界/社会が存在した事を、例えばこうの史代の「この世界の片隅に」は描いている。

「追記」了

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承前

【0.5 アホでなにが悪いんや】

過日、京都府京都市中京区のアーケード商店街「コンパッソ寺町(寺町京極商店街)」を歩いた。この商店街が「コンパッソ(conpasso = busssola 羅針盤:伊)」と名付けられているのは、当地の街頭放送によれば「未来に向かって正しい道を進める」様にという「みんなの願い」を込めているという事かららしい。但しその「正しい道」が、その「正しさ」の前提となる「みんな」観や「未来」観を含め、具体的にどの様なものであるのかを、この極東の島国の地方都市のアーケード商店街は明らかにしてはいないし、する事は不可能だろう。

人はしばしば、それぞれの「正しい道」を盾に、複数の「みんな」の間で「争い」や「諍い」を起こす。「人を殺してはならない」や「彼らは私達と同じ人間だ」という「正しい道」ですら、「争い」や「諍い」等の最中にある時には、それぞれの「みんな」が、それぞれの「みんな」として最も信じるべきものとする「正しい道」によって、最高位の「正しい道」でなくなる、或いは「正しい道」そのものから転げ落ちてしまう事もある。

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この商店街の両端(四条寺町、三条寺町)に、モザイクタイルとして路面に埋め込まれている「大航海時代」を表象しもする「羅針盤(コンパッソ)」──古代中国発祥の「方位」をしか示さないこのテクノロジーは、極めて当然の事ながら「正しい道」の「正しさ」の根拠となる「善悪」のパラメータを示す機械的仕様を備えていない──を「導き」の手段とする「正しい道」がもたらした歴史的事実の一つに、例えばバルトロメ・デ・ラス・カサス(Bartolomé de las Casas)の「インディアスの破壊についての簡潔な報告(Brevísima relación de la destrucción de las Indias)」を上げる事も可能だろう。歴史上の「侵略」や「虐殺」といった「悲惨」は、常に「人を殺してはならない」や「彼らは私達と同じ人間だ」よりも優先的なものとされた「正しい道」によって──2019年の現在に至るも──引き起こされて来たのだ。

「侵略」や「虐殺」をもたらす「正しい道」。それは時に、「動機」や「信念」や「邪心」や「悪魔」的意図を全く欠いた、それでいて「悪」としか言えないものとして現れる。例えば今日的な社会に於ける「平凡な人」(「一般人」/「庶民」/「小市民」=凡そ「ジョーカー」的な「怪物」や「サイコパス」とは程遠いと思われている「善人」(=「善(「正しい」道の)人」)が、「平凡」な「善人」そのままで/「平凡」な「善人」そのままであるが故に、「結婚記念日に妻に送る花束を花屋で買う」様な己の「私生活」を、己が属する組織内に於ける「出世」によって「維持」/「向上」させたいという極めて──「エンターテイメント映画」映えしない──「些細」で「平凡」な理由から、人類史に於ける最大級の「悲惨」として記憶される「大量虐殺」に容易に加担し得る事を「記録」したものの一つが、それを元に映画(注1)化もされたハンナ・アーレント(Hannah Arendt)「エルサレムのアイヒマン──悪の陳腐さについての報告」(“Eichmann in Jerusalem: A Report on the Banality of Evil")に記されている(注2)

(注1)因みにこの紫煙燻る映画「ハンナ・アーレント」(“Hannah Arendt": 2012年)では、「エルサレムアイヒマン──悪の陳腐さについての報告」が初出された「ザ・ニューヨーカー」誌の編集部に掛かって来た半世紀以上前の「電凸」も描かれている。恐らく、アーレントによる所謂「アイヒマン裁判(Eichmann Trial)」の「レポート」──の、特にナチ時代のユダヤ人指導者(「ユダヤ人評議会」;“Jewish council"/“Judenrat")の振る舞いを記述した箇所──が、少なからぬ読者(「読んでもいない者」を多数含む)に「ユダヤ人の心を踏みにじるようなもの」と受け止められたのだろう。映画の中で、「ザ・ニューヨーカー」誌編集長ウィリアム・ショーンが対応した「苦情」は、「こんな記事を出す権利などない!(“You have no right to bring these issues out in public. ...")」、「ゴミよ!(“... is crap!")」といったものである。

(注2)「アイヒマン裁判」でも明らかになった様に、アドルフ・アイヒマン自身は、「ユダヤ人」に対する「憎悪」故に「大量虐殺」に加担した訳ではない。彼にとっての「大量虐殺」は、チャーリー・チャップリンの映画「モダンタイムス」(1936年)に於いて、製鉄工場の「工員」としての「就業」中に、ネジというネジを強迫的にスパナで締め続ける主人公チャーリーに於ける「タイムカード」(“9 to 5")的な「労働」なのである。「製鉄工員チャーリー/SS隊員アイヒマン」にとっては、螺子を締める/大量虐殺する「労働」そのものが「俯瞰」(「ロング・ショット」)的に見て「善」であるか「悪」であるかは、彼の与り知るところではない。

映画「ジョーカー」(2019年)では、主人公アーサー・フレックの「行動」に、自らが持つ「憎悪」の「感情」を重ね合わせて「共感」した多くの「ピエロの仮面」の群衆が、「ゴッサム・シティ」の「秩序」を「壊乱」する──そこで後に「バットマン」になるブルース・ウェインがその「憎悪」による「壊乱」の「当事者」へと投げ込まれる──のだが、一方アドルフ・アイヒマンにとっての「ナチの制服」は、映画「ジョーカー」に於ける「ピエロの仮面」の様な意味を持たない。彼は「ナチズム」に対する「共感」故に「ナチの制服」を着たのではなく、彼にとってのそれは、「ジョーカー」でも劇中劇として映し出されていた「モダンタイムス」──「アッパークラス」の人達がそれを見て笑っている──に於けるチャーリーの「オーバーオール」の様な、「着せられる」ものとしての「職場」の「仕事着」なのだ。

アーレントの “Organized Guilt and Universal Responsibility"(「組織的な罪と普遍的な責任」1948年)の中に、ナチの「主計官(“paymaster")」に対する「ユダヤ電信局」(“Jewish Telegraph Agency: JTA)の特派員、レイモンド・A・デイビスのインタヴュー──エイヴラム・ノーム・チョムスキーの “The Responsibility of Intellectuals"(「知識人の責任」:1967年)にも、ドワイト・マクドナルド経由で引用されている──が取り上げられている。

Q. Did you kill people in the camp? A. Yes.
Q. Did you poison them with gas? A. Yes.
Q. Did you bury them alive? A. lt sometimes happened.
Q. Were the victims picked from all over Europe? A. I suppose so.
Q. Did you personally help kill people? A. Absolutely not. I was only paymaster in the camp.
Q. What did you think of what was going on? A. It was bad at first but we got used to it.
Q. Do you know the Russians will hang you? A. (Bursting into tears) Why should they? What have I done?

強制収容所での虐殺、ガス室送り、生き埋め等々に加担したかという問いに “Yes" と即答する「(只の:only)主計官」は、最後に「私が(絞首刑に値する様な)何をしたというのだ」と涙混じりに答える。アーレントはこの引用に続けて反語的に「確かに彼は何もしなかった(“Really he had done nothing.")」と書く。その “do(done)"(「する(した)」)とは何を意味するものなのだろうか。

その商店街の中程、東西座標軸(丸竹夷)の「たこ」と、南北座標軸(寺御幸)の「てら」が交差する「寺町蛸薬師上ル」にその店はある。ガシャポンやフィギュアも扱っているこの店が主な顧客としているのは、恐らくこのアーケード商店街を大きなスーツケースを引いて歩く人達だろう。濃紺の細長い軒には、「京都土産、各種イベントにおもしろTシャツをどうぞ !!」という日本語が書かれ、そのスーベニア・ショップの西側に面した店頭は、訪日外国人旅行者がエキゾチズムを感じるだろう日本文字が大書されたその「おもしろTシャツ」なるもので、みっしりと埋め尽くされている。

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その「おもしろTシャツ」の中に、この様なものを発見した。

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「アホでなにが悪いんや」。パスポートを携帯しつつショッピングに勤しむこの店の大半の顧客の便宜を測る為、「商品番号138」のこの商品にも他商品同様の英訳タグが付けられ、そこには「アホでなにが悪いんや」のトランスレートとして “I'm Fool, So What?" と記されている。これは──「理路」的には──「アホでなにが悪いんや」の「正確」な訳であると言えるだろう。

「アホでなにが悪いんや」英訳文前半の “I'm Fool(私は「アホ」である)"。これは「アホでなにが悪いんや」を発する者自らが、何らかの形で自分が「アホ」である事を「認識」しているという事を示している。「アホでなにが悪いんや」は、自分自身が「アホ」のポジションに「客観」として位置している事──他者から「アホ」として「認識」されている事を含め──を自覚するという意味に於ける「理性」を有する者のみが発する事の出来る言葉なのだ。

「アホでなにが悪いんや」は、通常は「買い言葉」(“tit")的に発せられる。その「買い言葉」が呼応している「売り言葉」(“tat")は、「買い言葉」の発話を誘発された者に対して「アホ」認定したものと想像される。即ち「お前は『アホ』である(“You are Fool")」及びそれに類する言葉が「先手」として存在し、その「攻め」に対して「アホでなにが悪いんや」が「後手」として発せられる。「アホでなにが悪いんや」は「他者」との応答関係の中で生まれた言葉だ。凡そ地球上に自分一人しかいないという様な状況で、「アホでなにが悪いんや」を発する場面そのものを想像する事は困難だ。

「他者」からの「お前は『アホ』である」に対する「応手」としては、「私は『アホ』である」以外に「私は『アホ』ではない」というものも多く存在し、しばしばそれは「私は『賢者』である」的な表現が用いられたりもする。しかし “tit-for-tat"(「売り言葉に買い言葉」)とも言われる「ゲーム」の「盤上」でしばしば見られるその様な「応手」は、大抵の場合不毛な「千日手」に陥る。何故ならば「私は『アホ』ではない」や「私は『賢者』である」が、この「ゲーム」の局面を打開する、或いは終局にまで至らせる有効な「手」となるには、それら「非アホ」の「アホ」に対する優位性を証明する「根拠」(「正しい道」)が、唯一的なものとして「ゲーム」プレイヤー間に共有されている事が前提になるからだ。

全ての人間=最大量の「みんな」(77億人余:2020年1月現在)、或いは少なくとも全ての「ゲーム」プレイヤーが、無条件に認める「賢者」という存在が可能であるとして、それは一体どの様な存在になるのだろうか。確かに世に「賢者」(「正しい道」の「エキスパート」)と称される者──その殆どはそれを自認しもする(注3)──は存在する。しかしそれらの全ては、常に「相対的な『賢者』」=「横丁のご隠居」でしかないものだ。「身体」という物理的「限界」内にある「賢者」の「賢さ」が成立する場所は、常に世界の中の何処かの「横丁」に留まらざるを得ない。「賢者」は「賢さ」に基づく思索の主体(中心)であると同時に、「賢さ」を巡る思索の対象(周辺)でもある。SNS という「77億人」的な「ツール」が白日の下に晒してしまったのは、SNS の出現前まで「賢者」とされていた多くの「知性」が、実際には「横丁」的なものに基づくものでしかなかったという事実である。「横丁」的「賢さ」の外部/傍らには、別の「横丁」的「賢さ」が常に「必然」として存在している。

(注3)「賢者」を自認する存在。その多くは自らが「賢者」として「他者」から見られたいと欲する「自己愛」が、何よりも勝っている存在でもある。その様な「賢者」の典型的な振る舞いを活写した芸能の一つに、「批判」(「俳諧」)芸としての落語の演目の一つ「薬缶(やかん)」を上げる事も可能だろう。落語(江戸小咄)「薬缶」に於ける「賢者」(横丁のご隠居/先生)は、あらゆる「詭弁」(「虚偽(Falschheit)」)を弄してでも「私はアホ(愚者)である」(「私は知らない」)と認める「勇気」を頑ななまでに持つ事を拒否する「怠惰(Faulheit)」な存在であり、寄席の客は「賢者」とされる「不精者」の「臆病(Feigheit)」を笑うのである。

重要なのは、己の「横丁」的な価値観に基づく「賢さ」の限界/制約を自覚するか否かだ。凡そ「理性」なるものが可能になるのは、「私は『アホ』である」という「認識」を有する事がその条件の全てである。全ての人間が、何らかの形で「私は(私が知っている事以外の何かを)知らない」という状態に常にあり続けている事、即ち自己が「アホ」である事を「客観」的に捉えられない「アホ」は、現在を乗り越えて行く能力である「『思考』する働き」としての「理性」から果てしなく遠く、そもそも「私は『アホ』である」という言葉を発する事すら可能ではない。

「未来」という言葉は「未だ来たらず」と読む事が出来る。それはまた「自己」の「成熟」が、絶え間無い「現在」に於いて「未だ来たらず」(「アホ」)状態に遅延されているという事でもある。「現在」の「自己」は、その死に至るまで「成熟」への途上にある。即ち人は常に変わり得る=「成熟」に近づき得る。だからこそ人は「未来」に対して「希望」を持てるし、本来「未来」とは「希望」への漸近である筈のものだ。

「アホ」である事が、全ての人間の避け難い「宿命」の一つであるならば、「お前は『アホ』である」という非難は、それを発した者にそのまま帰ってくるブーメランだ。即ちそれは「お前は『アホ』である。そして私も『アホ』である」という事であり、その順序を入れ替えれば、「私は『アホ』である。そしてお前も『アホ』である」となる。どちらの言い方がよりエレガントであるかは置くとしても、いずれにしても「理性」としての「賢さ」(≠「賢しら」)は、「アホ」な「私」と「アホ」な「お前」の間に打ち立てられる。「お前」を勘定に入れない「私」は存在せず、「私」を勘定に入れない「お前」は存在しない。そしてそれこそが、「民族」や「国民」等といった「もともと特別な Only one」の平面上に立体的に築き上げられる、概念としての「世界市民(Weltbürger)」(「世界」に共生する一人)の根本を成す原理なのである。

純粋理性批判」の刊行から3年後、「60歳」の「老人」になった「プロイセン王国(Königreich Preußen)」の哲学者イマヌエル・カント(Immanuel Kant(注4)が著した「啓蒙とは何か──『啓蒙とは何か』という問いに答える(“Beantwortung der Frage: Was ist Aufklärung?")」(1784年)(注5)には、“Unmündigkeit"(「未成年」)という言葉が出てくるが、これは恐らくその意味での「アホ」とも訳し得る語だ。

(注4)「プロイセン王国」は現在の「ドイツ」と地理的には完全に一致しない。カントの生地であるプロイセン王国の東北辺境の主要都市ケーニヒスベルク(Königsberg:王の山/独)は、現在はロシア連邦(Российская Федерация)のカリーニングラード(Калининград:ミハイル・イヴァーノヴィチ・カリーニンの町/露)である。

(注5)前稿で引用したジル・ドゥルーズ(66歳)=フェリックス・ガタリ(61歳)の「哲学とは何か」(“Qu'est-ce que la philosophie?")と、イマヌエル・カント(60歳)の「啓蒙とは何か」((“Beantwortung der Frage: Was ist Aufklärung?")には、重なり合う「同じ事」が書かれている。

極めて長文だが──訳文の「未成年」(“Unmündigkeit")等に敢えて「アホ」という「注釈」を加えた形で──その冒頭部を引用する。

 啓蒙とは何か。それは人間が、みずから招いた未成年(「アホ」)の状態から抜けでることだ。未成年(「アホ」)の状態とは、他人の指示がなければ自分の理性を使うことができないということである。みずから招いたというのは、人間が未成年(「アホ」)の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ。だから人間はみずからの責任において、未成年(「アホ」)の状態にとどまっていることになる。こうして啓蒙(「アホ」を「啓く」)の標語とでもいうものがあるとすれば、それは「知る勇気をもて(サペーレ・アウデ:Sapere aude!)」だ。すなわち「自分の理性を使う勇気をもて」ということだ。

 ほとんどの人間は、自然においてはすでに成年に達していて(自然による成年:ナートゥラーリテル・マーイヨーレネス:naturaliter majorennes)、他人の指導を求める年齢ではなくなっているというのに、死ぬまで他人の指示を仰ぎたいと思っているのである。また他方ではあつかましくも他人の後見人と僣称したがる人々も跡を絶たない。その原因は人間の怠慢と臆病にある。というのも、未成年(「アホ」)の状態にとどまっているのは、なんとも楽なことだからだ。わたしは、自分の理性を働かせる代わりに書物に頼り、良心を働かせる代わりに牧師に頼り、自分で食事を節制する代わりに医者に食餌療法を処方してもらう。そうすれば自分であれこれ考える必要はなくなるというものだ。お金さえ払えば、考える必要などない。考えるという面倒な仕事は、他人がひきうけてくれるからだ。
 そしてすべての女性を含む多くの人々は、未成年(「アホ」)の状態から抜けだすための一歩を踏みだすことは困難で、きわめて危険なことだと考えるようになっている。しかしそれは後見人を気取る人々、なんともご親切なことに他人を監督するという仕事をひきうけた人々がまさに目指していることなのだ。後見人とやらは、飼っている家畜たちを愚かな者(「アホ」)にする。そして家畜たちを歩行器のうちにとじこめておき、この穏やかな家畜たちが外にでることなど考えもしないように、細心に配慮しておく。そして家畜がひとりで外にでようとしたら、とても危険なことになると脅かしておくのだ。
 ところがこの〈危険〉とやらいうものは、実は大きなものではない。歩行器を捨てて歩いてみれば、数回は転ぶかもしれないが、そのあとはひとりで歩けるようになるものだ。ところが他人が自分の足で歩こうとして転ぶのを目撃すると、多くの人は怖くなって、そのあとは自分で歩く試みすらやめてしまうのだ。

 だからどんな人にとっても、未成年(「アホ」)の状態がまるで生まれつきのものであるかのようになっていて、ここから抜けだすのが、きわめて困難になっているのである。この未成年(「アホ」)状態はあまりに楽なので、自分で理性を行使することなど、とてもできないのだ。それに人々は、理性を使う訓練すら、うけていない。そして人々をつねにこうした未成年(「アホ」)の状態においておくために、さまざまな法規や決まりごとが設けられている。これらは自然が人間に与えた理性という能力を使用させるために(というよりも誤用させるために)用意された仕掛けであり、人間が自分の足で歩くのを妨げる足枷なのだ。だれかがこの足枷を投げ捨てたとしてみよう。その人は、自由に動くことに慣れていないので、ごく小さな溝を飛び越すにも、足がふらついてしまうだろう。だから自分の精神をみずから鍛えて、未成年(「アホ」)状態から抜けだすことに成功し、しっかりと歩むことのできた人は、ごくわずかなのである。

Aufklärung ist der Ausgang des Menschen aus seiner selbst verschuldeten Unmündigkeit. Unmündigkeit ist das Unvermögen, sich seines Verstandes ohne Leitung eines anderen zu bedienen. Selbstverschuldet ist diese Unmündigkeit, wenn die Ursache derselben nicht am Mangel des Verstandes, sondern der Entschließung und des Muthes liegt, sich seiner ohne Leitung eines andern zu bedienen. Sapere aude! Habe Muth dich deines eigenen Verstandes zu bedienen! ist also der Wahlspruch der Aufklärung.

Faulheit und Feigheit sind die Ursachen, warum ein so großer Theil der Menschen, nachdem sie die Natur längst von fremder Leitung frei gesprochen (naturaliter majorennes), dennoch gerne Zeitlebens unmündig bleiben; und warum es Anderen so leicht wird, sich zu deren Vormündern aufzuwerfen. Es ist so bequem, unmündig zu sein. Habe ich ein Buch, das für mich Verstand hat, einen Seelsorger, der für mich Gewissen hat, einen Arzt der für mich die Diät beurtheilt, u. s. w. so brauche ich mich ja nicht selbst zu bemühen. Ich habe nicht nöthig zu denken, wenn ich nur bezahlen kann; andere werden das verdrießliche Geschäft schon für mich übernehmen. Daß der bei weitem größte Theil der Menschen (darunter das ganze schöne Geschlecht) den Schritt zur Mündigkeit, außer dem daß er beschwerlich ist, auch für sehr gefährlich halte: dafür sorgen schon jene Vormünder, die die Oberaufsicht über sie gütigst auf sich genommen haben. Nachdem sie ihr Hausvieh zuerst dumm gemacht haben, und sorgfältig verhüteten, daß diese ruhigen Geschöpfe ja keinen Schritt außer dem Gängelwagen, darin sie sie einsperreten, wagen durften; so zeigen sie ihnen nachher die Gefahr, die ihnen drohet, wenn sie es versuchen allein zu gehen. Nun ist diese Gefahr zwar eben so groß nicht, denn sie würden durch einigemahl Fallen wohl endlich gehen lernen; allein ein Beispiel von der Art macht doch schüchtern, und schrekt gemeiniglich von allen ferneren Versuchen ab.

Es ist also für jeden einzelnen Menschen schwer, sich aus der ihm beinahe zur Natur gewordenen Unmündigkeit herauszuarbeiten. Er hat sie sogar lieb gewonnen, und ist vor der Hand wirklich unfähig, sich seines eigenen Verstandes zu bedienen, weil man ihn niemals den Versuch davon machen ließ. Satzungen und Formeln, diese mechanischen Werkzeuge eines vernünftigen Gebrauchs oder vielmehr Mißbrauchs seiner Naturgaben, sind die Fußschellen einer immerwährenden Unmündigkeit. Wer sie auch abwürfe, würde dennoch auch über den schmalesten Graben einen nur unsicheren Sprung thun, weil er zu dergleichen freier Bewegung nicht gewöhnt ist. Daher giebt es nur Wenige, denen es gelungen ist, durch eigene Bearbeitung ihres Geistes sich aus der Unmündigkeit heraus zu wikkeln, und dennoch einen sicheren Gang zu thun.

「啓蒙とは何か──『啓蒙とは何か』という問いに答える(“Beantwortung der Frage: Was ist Aufklärung?"):中山元

通常の「啓蒙」の理解としては、「賢者」が「アホ」を「指導」する事で「アホ」が「治る」といったものだろう。であればこそ「人々を啓蒙する」という定型文も可能になる。その様な所謂「啓蒙」に於いては、「啓蒙する」のは専ら「賢者」であり、一方「啓蒙される」のは専ら「賢者」とは真逆の位置にある「アホ」という「役割分担」が、厳格なまでにされている。しかしその「賢者」が「横丁のご隠居」だとしたらどうだろう。

カントの「啓蒙と何か」に於いて、「賢者」は「なんともご親切なことに他人を監督するという仕事をひきうけた人々(“die die Oberaufsicht über sie gütigst auf sich genommen haben.")」としての「後見人(“Vormünder"=「保護者」)」と皮肉交じりに表現されている(注6)。そして「自分を『賢い存在』として見せたくて見せたくて堪らない人」としての「後見人」は、それを頼る者を “Gängelwagen"(歩行器)に乗った「バブバブ」な「イクラちゃん」状態=“Unmündigkeit"(「未成年」)と見做し、且つそのポジション/ロールに彼等/彼女等を留め置く事で、「人々を啓蒙する」=「ワタシ啓かれる人/ボク啓く人」という構造を維持しようとする。その一方で「イクラちゃん」は「イクラちゃん」で、自ら「啓かれる人」のポジション/ロールにある事に自足する。

(注6)それは落語に於ける「賢者」(「横丁のご隠居」)の笑うべき生態でもある。チャーリー・チャップリンに倣って言えば、それは “Life is a serious drama when seen in close-up, but a comedy in long-shot."(「人生はクローズ・アップで見ればシリアス・ドラマ(「賢者」のドラマ)だが、ロング・ショットで見れば喜劇(「アホ」のドラマ)である」)となるだろうか。しかしまた「ロング・ショット」的な観点に立って物事を見る事自体を「許さない」社会=「クローズ・アップ」ばかりを強要される社会というものも存在する。

カントがこの書で言うところの「啓蒙」(「アホ」を「啓く」)は、一般に「啓蒙」と理解されているものとは根本的に異なるものだ。カントが言うところの “Aufklärung”(「啓蒙」)とは、自分自身が「アホ」である事を自覚し──事実として「アホ」の状態に陥っているにも拘らず、それを自覚すら出来ない「アホ」にも至らない「『アホ』未満」は、そもそも「アホ」の「資格」を有する事が出来ない、時に「末人」(“Letzter Mensch":フリードリッヒ・ニーチェ(注7)とも呼ばれる存在である──、自らが持てる「光(“Enlightenment")」(「思考」)の力によって、「アホ」(“Unmündigkeit")の状態から離脱しようとする終わりなき「実践」と、それを可能にする「意志」の「形式」なのである。「啓蒙」の主体となるのは、別人格として何処かにいる「賢者」ではなく「アホ」自身であり、且つ他者との関係で明らかになる自らの「アホ」を自覚している「アホ」に限られる。

(注7)「末人」の対極にあるとされる「超人」(“Übermensch")は、「アホ」を自覚する「アホ」──何故に自分が「アホ」であるかの「省察」が常に欠かせない──それぞれの「態度」をこそ表すものであり、特定の場所に現れる──空間的位置を占める──様な「スーパー・ヒーロー」的「存在」を意味するものではない。

従って、「アホでなにが悪いんや」英訳の後半部、“So What?"(「だから何だと言うのだ」) をどう捉えるかは、その意味で非常に重要である。それは「全ての人間は『アホ』である」という「宿命」自体に疑いの余地は無いという事を意味する場合もあるだろうし、その一方で「アホ」の状態にある事に満足し、敢えて「アホ」に安住し留まろうとする事を最大限に自己肯定する態度を意味する場合もあるだろう。そして──まさしく──「啓蒙」的「精神」の存在こそを、その成立の条件とする「近代」の「美術」は、前者にのみ開かれる「扉」であり、後者──況してや「『アホ』未満」である者──の前には永遠にその「扉」が「扉」として現れる事は無い(注8)。であればこそ、「美術」が自らの「意志」によって開けるしかない「扉」である事が見えない「『アホ』に留まろうとする者」や「『アホ』未満」には、〈美術〉(∋「美術」)が──「世界市民」的な意味に於ける──「公」的な「価値」を有している事──或いはそもそもの「公」の意味──そのものが「理解」出来ないのである。

(注7)「『アホ』に留まろうとする者」や「『アホ』未満」には、「展覧会」は「扉」ではなく、単なる「陳列」として見えてしまう。

〈美術〉(∋「美術」)にとって「展覧会」は必ずしも必須のものではないが、それでも「美術」に於けるそれが一定の意味を持つのは、それに接した者に、自身が「アホ」(常に何事かを知らない者(注9))である事を思い起こさせ、「アホ」の状態から自ら抜け出す「機会」となる「共有」の場だからだ。「美術コミュニティ」の中には「後見人」或いは「賢者」的に振る舞いたい欲望を持つ者も数多く存在し、彼等は彼等で「饒舌」の限りを尽くして、「観客」に対して「啓蒙」を「行って」いると思い込む可憐に陥ったりするのだが、しかし「美術」に於いて(も)最も重要なのは、「自分の精神をみずから鍛えて、『アホ』状態から抜けだすこと(“durch eigene Bearbeitung ihres Geistes sich aus der Unmündigkeit heraus zu wikkeln")」という、他でもない「展覧会」に接した者が、「展覧会」そのものによって自分が「アホ」である事を(再)認識し、「みずから(“eigene")」発動させる、「この『アホ』状態から抜けだしたい!」という「意志」の存在なのである。そして、そうした「意志」が存在しないところでは、「美術」は全くの「無意味」且つ「無価値」なものになるしかない。「展覧会」は「先を走る」とされている者の営為を「拝見」する場ではないのだ。

(注8)「自分が知っている」と思うものでも、「展覧会」では「自分が知らない」ものとして現れる。しかしそれでも尚、それを「自分が知っている」ものとしてしか見えない者は多く存在する。

所謂「アーティスト」が、単に「一般人」の「先を走る」存在であるとするのは、単純に「誤」である。寧ろ「アーティスト」(∈〈アーティスト〉」とは、「この『アホ』状態から抜けだしたい!」という「意志」を包み隠さない「アホ」なのである。「アーティスト」と呼ばれる「アホ」が「作品」を「作る」のは、それを「作る」事で、目の前にある事物を「自分が知らない」状態に敢えて変換し、それによって常に自分が「何事かを知らない者」である事を再確認し、それに「陥る」事に「快感」を持つからだ。

〈アーティスト〉が〈アーティスト〉である為の共通の「原則」はただ一つしか無い。それは他でも無く「自らが『アホ』である事を『自覚』し、常にそこから抜け出そうとする『意志』を持つ『アホ』」というものだ。それはその様な者全て──所謂「アーティスト」であろうがあるまいが──に開かれているものであると同時に、「『アホ』に留まろうとする者」や「『アホ』未満」には──仮にそれが「アーティスト」を僭称する者であったとしても──〈アーティスト〉たる「資格」は無いのである。

【続く】

ch.0「こうして結局、かの問は……」

【序】

「呼吸器官」(organ)の「病」に犯されていた、巷間「ジル・ドゥルーズ」として知られていた「70歳」の「老人」が、フランス共和国パリ17区のアパルトマン(84 Avenue Niel)3階のベランダから自ら身を投じて生涯を終える4年前の1991年、当時「61歳」──翌年「62歳」で「循環器官」(organ)の発作により他界──の「老人」フェリックス・ガタリと著した最後の共著は、「哲学とは何か(“Qu'est-ce que la philosophie")」と題されている。

「東西冷戦構造」という「20世紀」(注1)的な「対立」の「形式」の「崩壊」(注2)を、「全世界」的に印象付けたとされるイメージの一つ、“Alle Menschen"(すべての人)(注3)に対する呼び掛けを歌い上げ、オリジナルの “Freude"(「歓喜」) を “Freiheit"(「自由」)に置き換えたレナード・バーンスタイン指揮によるシラー/ベートーヴェンニ短調交響曲が流通/消費されてから2年後に著された同書の「序論 こうして結局、かの問は……」(Ainsi donc la question…)は、以下の様に書き始められている。

「哲学とは何か」という問を立てることができるのは、ひとが老年を迎え、具体的に語るときが到来する晩年をおいて、おそらくほかにあるまい。実際、文献目録などまったく取るに足らぬものである。その問は、もはやたずねるべきことが何もない真夜中に、ひそやかな興奮に身をまかせて立てるひとつの問なのである。かつてひとは、この問を立てていた。絶えず立てていた。しかし、そのとき立てた問は、間接的あるいは遠回しにすぎ、あまりにもわざとらしく、あまりにも抽象的なものであった。そしてひとは、その問の虜になっていたというよりも、むしろその問を、ことのついでに提示し、勝手に操っていたのである。ひとは、十分に節度をわきまえていなかったのだ。ひとはただもう、哲学したくてたまらなかった。しかもひとは、スタイルの行使に関してでなければ、自らに哲学とは何かと問うことはなかった。言い換えるなら、或るノン・スタイルの地点には、すなわち、「それにしてもわたしが生涯おこなってきたことはいったい何であったのか」と最後に言いうる地点にはまだ達していなかったのである。老年が、永遠の若さをではなく、反対に或る至高の自由、或る純粋な必然性を与えてくれるようないくつかのケースがある──この必然性においては、ひとは生と死のはざまで或る恩恵の期間〔猶予期間〕を享受し、機械の部品がすべて組み合わされて、すべての年齢を貫く一本の矢〔線〕が未来へと投じられる

Peut-être ne peut-on poser la question Qu’est-ce que la philosophie ? que tard, quand vient la vieillesse, et l’heure de parler concrètement. En fait, la bibliographie est très mince. C’est une question qu’on pose dans une agitation discrète, à minuit, quand on n’a plus rien à demander. Auparavant on la posait, on ne cessait pas de la poser, mais c’était trop indirect ou oblique, trop artificiel, trop abstrait, et on l’exposait, on la dominait en passant plus qu’on n’était happé par elle. On n’était pas assez sobre. On avait trop envie de faire de la philosophie, on ne se demandait pas ce qu’elle était, sauf par exercice de style ; on n’avait pas atteint à ce point de non-style où l’on peut dire enfin : mais qu’est-ce que c’était, ce que j’ai fait toute ma vie ? Il y a des cas où la vieillesse donne, non pas une éternelle jeunesse, mais au contraire une souveraine liberté, une nécessité pure où l’on jouit d’un moment de grâce entre la vie et la mort, et où toutes les pièces de la machine se combinent pour envoyer dans l’avenir un trait qui traverse les âges :

ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ「哲学とは何か(Qu'est-ce que la philosophie : 1991)」。財津理訳

(注1)「20世紀」はまた、独立した時期としての「青年期」──しばしば「老年期」と対立する、或いは「老年期」に対立するものとして見出されたものとしての──という概念が大衆化/全面化した時代でもあり、「若くある事」が最上の価値を獲得した世紀でもある。

(注2)所謂「ベルリンの壁崩壊」は「1989年=平成元年」の出来事である。それはまた「現代美術」と同義だった「西側美術」の「勝利」の年であり、且つ様式の交代劇としての「現代美術史」という仮構上にあった「西側美術」が「終焉」した年でもある。

(注3)この時から「すべての人」の「すべて」が日常的に問われる事になる。例えば「ベルリンの壁崩壊」から12年後の2001年9月11日に、「すべての人」に対する問いの一つを我々は目撃する事になる。

自分自身も当時の彼等と同じ様な年齢になった。「66歳」と「61歳」が、共に自らをして「老年(vieillesse)」である事を主張しているのだから、それに倣って自分も「老年」であると認識して構わないという気にもなる。そして確かにこの年回りになって頭に浮かんで来るのは、「わたしが生涯おこなってきたことはいったい何であったのか(ce que j’ai fait toute ma vie ?)」という自問の形式を伴った問いである。

その問いは、「永遠の若さ(éternelle jeunesse)」なるものを未だに信じる事が出来る人達からすれば、自伝的に閉じられ、後退した印象を与えるかもしれないが、しかしそれは──1991年のジル・ドゥルーズ「老人」+フェリックス・ガタリ「老人」の問いがそうだった様に──その「老年」的な問いこそが、「機械の部品がすべて組み合わされて、すべての年齢を貫く一本の矢が未来へと投じられる(où toutes les pièces de la machine se combinent pour envoyer dans l’avenir un trait qui traverse les âges :)」ものであるに違いないという「確信」に基づいたものなのだ。

ドゥルーズガタリが同書で記した「生涯おこなってきた( j’ai fait toute ma vie)」という表現は、こと自分に関して言えば、余りに身の程をわきまえていないとしか言えないが故に、「生涯関係を持ってきた」と言い直すが、ともあれ「わたしが生涯関係を持ってきた『美術』なるものとはいったい何であったのか」という、「美術」に於ける「スタイルの行使(exercice de style)」という「習慣」から離れた「ノン・スタイル(non-style)」な問いを発しても良い「老年」になって来たと自認はしている。

恐らくそうした視点が、「ことのついでに(en passant)提示(exposait)」するもの──としてではなく、極めて「リアル」に「身に付いて」しまうのは、「現世」と呼ばれたりもする「物質」に支配された世界に留まる「時間」=「生と死のはざまで或る恩恵の期間(moment de grâce entre la vie et la mort)」が「猶予期間」である事を、「リアル」な形で認識せざるを得ない「老年」の「特権」と言える。

このフランスの2人の「老人」達が記した同書の「序章」の後半部には、ややもすれば「至高の自由(souveraine liberté)」や「純粋な必然性(nécessité pure)」に「対抗」する「永遠の若さ」(注4)をこそ至上価値とする、現下の「芸術」に言及した──同書は「哲学」と「科学」と「芸術」の連関を明らかにするものだ──箇所がある。

概念は、(歴史、科学、芸術、セックス、実際的な用途などに関する)産物や製品の紹介の総体に成り下がってしまい、出来事は、そうしたさまざまな紹介を演出する展示会や、その展示会で発生するとみなされている「アイディア交換」に成り下がってしまったのである。出来事は展示会でしかなく、概念は売ることのできる製品でしかない。(中略)一束のめん類の模造(シミュラクル)、あるいはそのシミュレーションが、真の概念になってしまい、製品や商品や芸術作品の紹介者ー展示者が、哲学者や概念的人物や芸術家になってしまったのである。

(...) le concept est devenu l’ensemble des présentations d’un produit (historique, scientifique, artistique, sexuel, pragmatique...) et l’événement, l’exposition qui met en scène des présentations diverses et l’« échange d’idées » auquel elle est censée donner lieu. Les seuls événements sont des expositions, et les seuls concepts, des produits qu’on peut vendre. (...) Le simulacre, la simulation d’un paquet de nouilles est devenu le vrai concept, et le présentateur-exposant du produit, marchandise ou œuvre d’art, est devenu le philosophe, le personnage conceptuel ou l’artiste.

(注4)20世紀以降の大半の「アーティスト」の「代表作」は、20代〜30代に掛けての制作になるものだ。今日の「美術市場」が最も重要視するものの一つは、「美術市場」に「新規参入」した「アーティスト」が単純に「若い」事であり、且つ「若い」頃に制作された「代表作」の「発展的」再生産の持続(再生産としての「永遠の若さ」)が見込めるか否かである。「市場」に組み入れられようと欲する「アーティスト」は、「若い」頃に作り上げた「ブランド・イメージ」を守り、反復する一生を過ごす事を期待される。その意味で「美術」は「ユース・カルチャー」なのである。

事実上、今日の「美術」に於ける「出来事(événement)」の全ては、「産物や製品(produit)」としての「作品(œuvre d'art)」の「紹介を演出する(ensemble des présentations)」「展示会(expositions)」(「展覧会」)で行われる。今日「美術」として認識されているものの全てが、「展覧会」での「出来事」=「展覧会/美術」である。従って「展覧会」に於ける「作品」の「紹介者ー展示者(présentateur-exposant)」こそが、今日「アーティスト(artiste)」を名乗る権利を唯一有するのである。

現在「美術」と称されているものが、「展覧会/美術」の事実上の省略形であるが故に、「近代美術」や「コンテンポラリー・アート」に関する文章の全ては、自ずと「展覧会/美術」に限定されたものになる。ボリス・グロイス(例)にしても、ニコラ・ブリオー(例)にしても、クレア・ビショップ(例)にしても、その他の「美術」を「評論」する者の殆どの誰にしたところで、彼等/彼女等の関心が専ら「展覧会/美術」に限定されている一方で、彼等/彼女等「美術」の「専門家」が「展覧会/美術」にしか言及しない事で、「展覧会/美術」がそのまま「美術」であるとする思い込みを、彼等/彼女等の「美術館」同様、自ら進んで強化する役目を果たしてしまってもいる。

今日「展覧会」と称されている「習俗」は、それが「習俗」でしか無いが故に、「歴史」的な──即ちそれは「時間」と「空間」の制約下にある──「限界」の内部にある。「展覧会」は、「習俗」を形成した定冠詞的なものとしての「歴史」の「必然」であるが故に、同時にその「習俗」を形成した不定冠詞的なものとしての「歴史」の「偶然」の産物でしか無いものだ。仮に「展覧会」内に於いて、その様な「歴史」との「対立」が見られたとしても、その「対立」自体がその「歴史」に準拠しており、その「歴史」の中に於いて「理想」あるいは「動機」として既に書き込まれている。

この地球上に、「展覧会」という「形式」が誕生したのは何時何処かという問いに対しては、様々な答えがあり得る。16世紀から17世紀に掛けての、ネーデルランドやベルギー、イタリア等の聖ルカ組合(ギルド)が、路面店等で開いた展示即売見本市がその嚆矢であるとする見方は可能であるし、サロン・ド・パリを以て、「展覧会」が「形式」として一定の完成を見たという観測も可能だ。

「展覧会」が「発明」によって生まれた「形式」である以上、「人類史」は「『展覧会』以前」と「『展覧会』以後」に分かつ事が出来る。そして「人類史」の総体に於いては、時間的にも空間的にも論理的(注5)にも「『展覧会』以前」=「『展覧会』の無い世界」の方が、圧倒的なボリュームを有している。例えば所謂「日本美術史」──それが「通史」的なものとして成立し得るとして──に於いても、僅か百数十年前までは「『展覧会』の無い世界」のものだった。

(注5)「展覧会」の「発明」以後(例えば21世紀)に於いても、論理的な「『展覧会』以前」は十分以上に存在し得る。

いずれにしても「展覧会」は、職能──「才能」を「所有」し「職業」とする者=「才能」を「肉体」内に「独占」しているとされる者──としての「アーティスト」の経済上の「身分」を保証する為に成立したものであり、その事情は現在に至っても些かも変わっていない(注6)。繰り返しになるが、今日の「アーティスト」は、「紹介」のイベント、催し(≠出来事)である「展覧会」を行う事で、初めて「アーティスト」という「身分」を得る事が可能になる。換言すれば、今日「展覧会」を行わない者を「アーティスト」と呼ぶ事は困難だ。

(注6)所謂「著作権」は、「展示」(「発表」)によって証明付けられる。「作品」を「創作」した瞬間から「著作権」が発生するというのは「無方式主義」の建前だが、実際の「著作権裁判」で常に争点になるのは「創作」が行われた時期では無く、「展示」(「発表」)の「先後」関係、及びその「展示」(「発表」)の「影響力」の「大小」である。「著作権」を「『侵害』された者」は、「著作権」を「『侵害』した者」がそれを「展示」(「発表」)によって知っていたか否か、即ち自作を「紹介」した「展示」(「発表」)の「影響力」の「大小」(この作品の存在を知らない者はいない→知らなかったでは済まされない→ググレカス)を証明するという「不毛」を常に求められるのである。

今日の「美術」が「『アーティスト』の『活動』」をしか意味しないものになり、今日の「美術」に関する言説の全てが専ら「『アーティスト』の『活動』」に関するものになり、今日言われるところの「美術史」が「『アーティスト』の『活動』史」と同義となってしまっているが故に、「美術」に「能動」的主体──「『受動』的主体としての『観客』」=「既に出来上がっているものをひたすら待ち受けている者」の対向概念──として「コミット」する(注7)為には、唯一「アーティスト」でなければならないと信憑されている。そして「『アーティスト』の『活動』」を事実上証明する唯一のものが「展覧会」なのである。従って今日の「美術」への「参加」資格は、専ら何らかの「展覧会」に参加するか、或いは自ら「展覧会」を開催する事でのみ得られなければならない。

(注7)「美術」に対する「コミット」を表す言葉で最も一般的なものの一つは、「美術史に名を残す」というものだが、「名を残す」という表現からも明らかな様に、そこで言われている「美術史」は「『アーティスト』の『活動』史」を指す。「物々交換」レベルではない、所謂「アート・ワールド」で取引される「商品」の本体は、「『アーティスト』の『活動』史」映えする「アーティスト」の「名前」であり、一般的に「商品」として信じられている「作品」は、それに付随するものとして存在する。今日の多くの「アーティスト」が何にも増して心を砕くのは、自らの「名前」の「商品」的価値の向上だ。しげしげと「鑑賞」したところで何の意味も無い「防潮扉の一部に描かれた『バンクシー作品らしきネズミの絵』」が、2019年の4月から5月に掛けて東京都庁第一本庁舎2階のロビーで「展示」されたが、そこで最も重要なものは「ネズミのイメージが描かれたステンシル作品」そのものではなく、「真贋」を問う行為を根拠付けもする「バンクシー」という「名前」である。

であればこそ、今日の「アーティスト」は、「アーティスト」即ち「美術」の「メンバー」である事の、重要且つ唯一の「身分」証明である「展覧会」の開催/参加に執着する。寧ろ多くの「アーティスト」の一義的な関心は、専ら「キャリア」を計量的な形で証明する「尺度」としての「『展覧会』の開催/参加」なのであり、「制作」はそれに準じる形で、「欲望」の「原点」──「『作りたい』から『作る』」的な「体裁」を採ったりもする──を「擬態」したものとして行われる。それが高じれば、「目標」としての「展覧会」を設定しない事には、「制作」そのものが不可能になるという「転倒」も容易に起こり得る。「展覧会」があるからこそ「制作」が初めて可能になるという、今日の「アーティスト」の大半が陥っている「転倒」した「欲望」/「動機」のサイクルはこうして生まれたのである。

「『展覧会』の開催/参加」こそが「制作」の最大の「動機」になる事で、「アーティスト」は「展覧会」単位で「作風」を揃えたり、或いはそれをごっそりと変えてみたりする。「『展覧会』の開催/参加」は、「アーティスト」の「制作」を「条件」付け、それによって「アーティスト」は「制作」そのもの──物質レベル──から疎外される事になる。今日の「美術」に於いて、「展覧会」は「形式」である以上に「アーティスト」を律する「集合表象(représentation collective)」的な「必然」性を伴った「条件」である。その「条件」下にあって、物質的なものとしての「制作」そのものから疎外された「アーティスト」が行うべき重要な仕事の一つは、自らの「経歴」に、新たな「『展覧会』の開催/参加」の項目を書き足し続ける事で「アーティスト」としての定量的ボリュームを盛り、現在進行系で「アーティスト」であり続けている事を証明する事で、「信用」との「交換」を得ようとするものだろう。「『展覧会』の開催/参加」に対して、“Congratulations" という言葉が「アーティスト」に投げ掛けられたり、文化圏によってはそのエントランスに花環や胡蝶蘭が置かれもするが、果たしてその「目出度さ」は何に対してのものなのだろうか。

2019年4月某日、興味深い見物を見物した。その見物もまた「展覧会」と自称・他称されているものであり、「美術」が「『アーティスト』の『活動』」としての「展覧会/美術」をしか意味しなくなった時代を、極めて良く「露出」させたものだった。名称は「東京インディペンデント2019」(2019年/平成31年→令和元年)というものだ。開催場所は、岡田信一郎設計の東京藝術大学陳列館という開口部の小さな容れ物である。

「無審査・自由参加・自由出品の展覧会」を謳い、「出品資格は、芸術家としての意思があるすべての人」とする、「独立」をその名称の中に持つ同「展示会」は、当初の想定を遥かに超えた数の「アーティスト」が参集してしまったという。

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2019年1月に東京インディペンデントのWEBサイトを制作し、参加表明を募った。2月の段階では30名ぐらいにとどまっていたが、4月12日の会場受付日前には300名を突破。実際300名でも大変だと考えていたが、当日持ち込みも可にしていたため、参加人数がまったく読めなくなった。受付当日13時ぐらいには400名に達し、その後は会社や学校終わりの方が受付に集まった。結果、19時の受付終了までに来場したすべてのアーティスト633名分の作品を受け入れた。

https://qui.tokyo/tokyoindependent-190427?fbclid=IwAR1f1uUaqPKLHKfu5pA9SXO_0Z_k5Bi08WWSBF4YVFxFgknj31x3uZVr0To#toc-6

恐らくこの催しを一言で言うなら「『近代美術教育』の『成功/勝利』を印象付けるもの」というところになるだろう。従って、だからこそ、これは「(日本の)近代美術教育」の「総本山」である「東京藝術大学」で行われなければならなかったのだ。ここで何が「『近代美術教育』の『成功/勝利』」なのかと言えば、容れ物のキャパシティを遥かに上回る630余名の「何が何でも『展覧会』で『作品』を『展示』したくてしたくて堪らない人」が集まってしまったという事実による。入口受付前には、630余名の名前を記した長尺のプリントアウトが垂幕となって掲示されているが、それは神社仏閣の寄進者名が書かれ彫られた銘板や石の列柱を想起させもする、「信仰」(「エルゴン」)を屹立させる「パレルゴン」だ。そして尚もここでは、みっしりと「作品」で埋め尽くされた展示空間すらも「パレルゴン」に見えて来るのである。

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そもそも今日の「アーティスト」は、「展覧会」に於いて「輝く」事が出来る存在であり、且つ同時に「展覧会」に於いてしか「輝く」事の出来ない存在である。果たして「アーティスト」から「展覧会」を奪ってしまったら、一体何がそこに残るだろうか。同「展覧会」の西原珉氏によるステイトメントには、「芸術家の心の炎を熾し、燃やし続けるための場をつくり続けること」と書かれているが、その「場」とは他でもない「展覧会」を指している一方で、「制作」の場を意味してはいない。「芸術家の心の炎」は「『展覧会』で『作品』を『展示』する事」に対してこそ「熾きる」ものなのである。

日本に「展覧会」が登場/定着したのは近代以降の話だ。江戸期まで「展覧会」なるものに全く無縁だったこの国に、「展覧会」が無ければ生きていけない、「展覧会」以外に行き場の無い「アーティスト」なる人種を数多作り出してきたのは、「美術」を「『アーティスト』の『活動』」に限定して認識させる事に「成功/勝利」した「近代美術教育」を置いて他に無い。その意味でこの会場に集まった「『アーティスト』としての意思がある」633人は、例外無く何らかの形で「近代美術教育」を経由して来た人達と言える。

果たして人は、その人生に於いて、何時から「何が何でも『展覧会』で『作品』を『展示』したくてしたくて堪らない」様になるのだろうか。小学校の図工の時間に描いた絵が、教室外の廊下に貼り出された時から、「何が何でも『展覧会』で『作品』を『展示』したくてしたくて堪らない」という「欲望」は内面化されるのだろうか。小学校の廊下での「展示」を体験した瞬間から、小学生は「『展覧会』以後」の人として「覚醒」し、それまでの「蒙」の状態が「啓」かれ、「展示」の為に「作品」を「制作」する様になるのだろうか。しかし恐らくそうではあるまい。

同ステイトメントでも引き合いに出されている「ヨゼフ・ボイス(Joseph Beuys)」は、嘗て彼の “Soziale Plastik(「社会彫刻」)" の説明として “Jeder Mensch ist ein Künstler" と言ったとされている。そのドイツ語センテンスは、日本では「すべての人間は芸術家である」と訳される事が多い。しかし翻訳には、翻訳されなかった部分、翻訳に成功しなかった部分にこそ、原文の肝要が存在するというケースが多い(注8)。そして恐らくこの「すべての人間は芸術家である」という訳文にもそれは当て嵌る。

(注8)それ故に、当ブログではブログ主が全く知らない言語であったとしても、能う限り「原文」を併記して引用する様にしている。例えば、上に引用したドゥルーズガタリに於ける “on" は「ひと」(例:「ひとは、十分に節度をわきまえていなかったのだ」)と訳されているが、“on" という単語そのものには「私達」という意味がある。「ひと」は「ひとごと(他人事)」の「ひと」ではないのだ。

例えば “Jeder" は「すべての」と訳されているが、一方でそれは「それぞれの」という意味も持つ。「すべての人」であれば、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンニ短調交響曲に於けるフリードリヒ・フォン・シラーの様に “Alle Menschen" 等とする事も可能だが、しかしボイスは “Jeder Mensch" という表現を敢えて採用した。加えて「男性名詞」“Künstler"(芸術家)の前には不定冠詞の “ein" があるが、それは「日本語文として洗練されたものにする」という日本語訳の「通例」に従って、可視的な形で訳出されてはいない。しかし例えば、日本語としての洗練度を極めて低くしてこのフレーズを訳してみれば、それは「各位はそれぞれにそれぞれの形で既に芸術家として存在する」とする事も、或いは宮沢賢治の「農民芸術概論綱要(1926年/大正15年=昭和元年)」の表現そのままに「然(さ)もめいめいそのときどきの芸術家である」とする事も可能ではある。

いずれにしても、ボイス(注9)の発言にある “ein Künstler" は、「何が何でも『展覧会』で『作品』を『展示』したくてしたくて堪らない人」としての「アーティスト」をのみ指すものではない(「部分集合」として含まれはしても)。仮に「すべての人間は所謂『芸術家』である」という意味でそれを言うのであれば、ボイスも “Jeder Mensch ist Künstler" という「冠詞」抜きの表現を取っただろう。それでも「冠詞」の持つコノテーションに無頓着な日本語の訳として、「すべての人間は芸術家である」は十分に可能であるし、それ故にしばしばその様な「(所謂)芸術家としての意思がある」人間向けの言葉として日本では理解されていたりもするが、しかしそれでは恐らくボイスの言わんとするところとは、或る意味で「真逆」の意味を持ってしまう。「人はたいてい喜んで、彼等が欲する事を信じ込む」(“fere libenter homines id quod volnt credunt")(注10)のだボイスの “Jeder Mensch ist ein Künstler" は、「『アーティスト』の『活動』」世界=「展覧会/美術」への参入を容易なものにする事とは、直接的な関わりがないものだ。そこで言われている「芸術家(ein Künstler)」は、単純に「なる」ものではなく、或る意味で「既に備わっている」ものだからだ。

(注9)他方、ヨゼフ・ボイス自身は徹底して「展覧会/美術」的な「アーティスト」と言える。彼のその「アーティスト」的な「徹底」は、「政治活動」や「環境保護運動」等すらも「展覧会」とする事に「成功/勝利」したところに表れている。その「功績」は、今日の「『芸術』の『全面』化」と一般的に認識されている状況をもたらしたものと言えるが、しかしそれは実際には「『芸術』の『全面』化」では些かもなく、寧ろ「『展覧会』の『全面』化」と言えるものだ。

(注10)このガイウス・ユリウス・カエサルの言葉は、日本では「多くの人は、見たいと欲する現実しか見ない」という「意訳」で知られている。

ボリス・グロイスは、その著書 “Art Power" に於いて「『キュレーター〔curator〕』という単語が、語源上『治療する〔cure〕』という言葉に関係するのは偶然ではないのだ。キュレーティングすることは治療することである(It is in fact no coincidence that the word “curator” is etymologically related to “cure.” Curating is curing.)」と書いている。彼によれば、キュレーターによって「治療」されるべきは、「自らの定義をもってしては現前することができないし、観者にまなざしを強いることができない(A work of art cannot in fact present itself by virtue of its own definition and force the viewer into con- templation)」芸術作品(イメージ)の、「活力、精力、健康状態(vitality, energy, and health)」の欠如という「病」であるという事であるらしい。しかしその「病」は、より深く、より深刻に「病」んだ身体の内にある。それは「治療者」たらんとするキュレーターも罹患している厄介な「病」なのだ。

宮沢賢治は、ボイスの「社会彫刻論」を彷彿とさせもする前掲書(「ボイス」に「先立つ」事、半世紀以上前)に於いて、「芸術」が「われらを離れ然もわびしく堕落」した元凶として、「美を独占し販るもの」としての「芸術家」を上げ、それに対して「一度亡びねばならぬ」と断罪した。しかし「芸術」が「『アーティスト』の『活動』」と同義であると信じている彼等/彼女等を亡びさせる必要は一向に無い。その様に信じている/信じたい者には、そう信じさせておけば良いだけの話だ。即ちそれは「信教の自由」なのである。但し「信教の自由」とは、複数の「宗教」が不定冠詞的に存在する事を原理的な前提とした上で、その中の「任意の宗教を信じる自由」という事であり、翻ってそれは特定の「宗教」による、「世界」の如何なる「独占」/「支配」をも許さないという事を意味する。

そもそも任意の「宗教」が「独占」/「支配」するには「世界」は余りにも広過ぎる。そしてそれは、「芸術」という「世界」にも言える事だ。果たして真の意味で「インディペンデント」な「めいめいそのときどき」の「芸術」とは如何なるものになるのだろうか。

宮沢賢治の「農民芸術概論綱要」には以下の記述がある。

芸術のための芸術は少年期に現はれ青年期後に潜在する
人生のための芸術は青年期にあり 成年以後に潜在する
芸術としての人生は老年期中に完成する

ここに書かれた「芸術としての人生」が、恐らくその鍵を握っているという予感がある。そしてまたしてもそれは「老年」なのだ。

【続く】

不純物と免疫 04

手にしている「不純物と免疫」展の「カタログ 01」の文中の作家紹介の件には、「谷中祐輔は彫刻家」と書かれている。こう書かれたものを目にすると、無意識の内に「彫刻家」である「谷中祐輔」氏によって作られた「何やら壁から張り出したもの」を、「彫刻」として見なければならない気にさせられる「病」(注1)に陥りもする。

(注1)その「病」の「症例」には、「画家」として認識されている「フランク・ステラ」の、「エキゾチック・バード」、「インディアン・バード」、「サーキット」等のシリーズを、「絵画」として読み取らなければならない気にさせられてしまうというものもある。

仮にその「何やら壁から張り出したもの」が、一般的な「彫刻」の概念を逸脱したものに見えたとして、我々はしばしばそれを「新しい彫刻」や「彫刻の可能性」等といった視点で理解しようと試みたりする。しかし「彫刻家」が作るもの全てが「彫刻」である必要は無いという考え方もまた可能ではあるのだ。

先の「谷中祐輔は彫刻家」は、実際には「谷中祐輔は彫刻家であり、彼は世界を彫刻的思考実践から確かめていこうとする」というセンテンスの一部になる。もしかしたらここで書かれている「彫刻家」は「彫刻的思考実践家」の略なのかもしれない。そう考えれば、ここにあるものは所謂「彫刻」ではなく「彫刻的思考実践」の結果という事になる。

ところで「彫刻家」という語にも付されている接尾語「家(か)」は、三省堂大辞林では「一つの領域を専門とする人」とされている。中国思想由来の日本語である「家(か)」は、日本の「近代」化以降に於いてはしばしば西洋近代思想由来の「人称の内包」的な「人格」に結び付けられる事が多い。日本の近代化と共に登場した日本語=「彫刻家」と呼ばれる「日本(=中国)・近代・美術」に於ける「才能」は、常に「彫刻家」の「身体」のスケールに収められた、専有的「人称」へと結び付けられる。

「不純物と免疫(impurity / immunity)」展のタイトルに引かれたロベルト・エスポジトによる著作の一つ、「三人称の哲学 生の政治と非人称の思想」(“Terza persona. Politica della vita e filosofia dell'impersonale")の最後にはこう書かれている。

それは生きているペルソナである。つまりそれは、生から分離されていたり、生のなかに据えられていたりするものではなく、形と力とが、外部と内部とが、ビオスとゾーエーとが不可分となった結合体[σύνολον](注2)としての生と一致するものなのだ。そして三人称という、いまだ未確認の形象は、この唯一のもの[unicum]へと、この単数にして複数への存在へと――人格に書き込まれた非人格へと、いまだかつて存在したことがないものに開かれた人格へと――送り返すのである。(岡田温司訳)


Esso è la persona vivente – non separata dalla, o impiantata nella, vita, ma coincidente con essa come sinolo inscindibile di forma e di forza, di esterno e d’interno, di ‘bíos’ e di ‘zoè’. A questo ‘unicum’, a questo essere singolare e plurale, rimanda la figura, ancora insondata, della terza persona – alla non-persona inscritta nella persona, alla persona aperta a ciò che non è mai ancora stata. (pp. 183-184).

(注2)σύνολον【希】シノロン。アリストテレス形而上学」(Τὰ μετὰ τὰ φυσικά)にその語は出現する(例:第7巻 第10章 1035b [20]~[30])。因みに日本に於ける「アリストテレス形而上学」の事実上の決定版の一つになっている岩波文庫出隆訳の底本となっているのは、――出隆自身の表現を借りれば―― William David Ross による「英訳」=「注解付原典」である。

参考:「注解」の無い「コンパクト」なオリジナル「原典」(古希)の第7巻

ここから直接「岩波訳」にするのは、結構アクロバティックな仕事になる。

先に引いたセンテンス中の「谷中祐輔は彫刻家」に於ける「彫刻家」は、恐らくはその様な「人称」と分かち難く結び付いた、或いは「人称」を前提に成立するところの、一般に流布している所謂「彫刻家」とは異なるものである事に注意しなければならないだろう。それは「彫刻家」という「仮面(maschera)」が、「人称」を超える「法則」的な「彫刻的思考実践」という「非人称」的な技術によって、取り替え可能である事を意味しているのではないか。「仮面は、ペルソナであるからといって、その仮面を被った者の顔に必ずしも固着していなければならないわけではなく、他人の顔であっても覆うことができる」(エスポジト同書)(注3)。「彫刻家/谷中祐輔」はそうした「仮面」の名称の一つだ。しかしそこには常に「他人の顔」も存在しているのである。

(注3)原文:“Non soltanto, per essere persona, la maschera non deve necessariamente aderire al volto di chi l'indossa, ma può ricoprire anche il volto di un altro." Roberto Esposito, Terza persona. Politica della vita e filosofia dell'impersonale, Einaudi, Torino 2007, p. 104.

目の前で「鯨油」を「徳川」の「御城」に塗りたくっているのは果たして「誰」なのだろう。そうした「実践」が、世界中で「彫刻家/谷中祐輔」氏のみ可能なものでないとするならば、この「パフォーマンス」を見ている我々は、「誰」の前にいる「誰」なのだろうか。

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#ターン5

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谷中雄輔氏の「何やら壁から張り出したもの」を右手に見て次のゲートを潜ると、そこはそれまでよりも相対的に「明るい」部屋だった。

有孔ボードの「壁」の様な「遮蔽物」――有孔ボードのベニア版の褐色や、黒いゴム風船やスポンジマットも光を吸引している――が無く、見通しの良い開けた白い空間という事もあるのだろう。しかしその「明るさ」は、それだけの理由によるものではない様に思えた。

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谷中祐輔氏越しに見える迎絵理子氏のその後ろに窓がある。そこから展示室に外光が入っている。微笑する。そして真っ先に「窓」へ向かう。ヘッドホンの中の解説が、写真でしか知らない村上三郎の「紙破り」のハトロン紙の様に次々に破れて行く。「窓」から雨混じりの外の景色が見える。「全国民を代表する選挙された議員」(日本国憲法第43条)候補の選挙ポスターの前を、傘を指した人が歩いている。彼方此方のビルの窓越しに、道路の上に、様々な人の姿が確認出来る。大学、水道局、病院、工事現場、タクシー、配送車、ホッパー車……。彼等は互いに接点が無さそうに見えるものの、それでも――そしてここにいる自分も――互いに関係の中にある。そこで深呼吸をした。

このキュレーターによってこれまでに手掛けられた展覧会の多くに、展覧会に開けられた「窓」(「吹き抜け」や「屋上」含む)の存在があった。2013年に行われた「ハルトシュラ」に始まる「荒木みどりM←→mヨシダミノル」「躱す」「やわらかな脊椎」といった大阪CASに於ける一連の企画展。「MOBILIS IN MOBILI-交錯する現在-」の東京巡回展(Gallery MoMo Projects, CASHI)と金沢巡回展(問屋町スタジオ)(注4)。「Celsius」(CASHI)、「OBJECTS IN MIRROR ARE CLOSER THAN THEY APPEAR」(the three konohana:大阪)、「パレ・ド・キョート / 現実のたてる音」(ARTZONE & VOXビル)、「クロニクル、クロニクル!」(クリエイティブセンター大阪:大阪)(注5)等々。

(注4)「MOBILIS IN MOBILI-交錯する現在-」大阪展(コーポ北加賀屋:大阪)の川村元紀氏のエリアを、外に開かれた空間と見る事も出来る。その一方で、同展では2階の「窓」は塞がれていた。

(注5)「窓」の無い「クローズド」な空間で行われていたものは、「無人島にて──『80年代』の彫刻/立体/インスタレーション」(京都造形芸術大学 ギャルリ・オーブ:京都)、「すくなくともいまは、目の前の街が利用するためにある」(waitingroom:東京)等になる。

仮にそれらの展覧会が「クローズド」な空間で行われていたとしたら、それらは多少なりとも異なった印象を伴ったものになっただろう。これらの「窓」の全てが、キュレーターの展示技術的な計算の内にあったものかどうかは判らないが、少なくともこの「不純物と免疫」(impurity / immunity)と題された展覧会に於いては、「窓」の存在は不可欠なものである様な印象を持った。

再度エスポジトの「三人称の哲学」から、監訳者岡田温司氏の「あとがき」を引く。

自律的で自由なものとみなされてきた近代的な主体は、それにもかかわらず、「主体」(イタリア語のソッジェットであれ、フランス語のシュジェであれ、英語のサブジェクトであれ)という語がまさしく暗示しているように、それ自体、肉体の精神への従属関係を前提としているのであり、その限りにおいて、単一の生は分裂したままにとどまるからである。かくしてこの「主体」は「主権」の政治的カテゴリーとも接点を持つことになる。

 さらに意外なことに、一見したところ正反対のようにみえる政治や思想、たとえば徹底して人格を破壊してきたナチズムの生政治=死政治と、逆に人格を金科玉条のように祭り上げる自由主義の人格尊重とが、実は同じような前提――生きるに値する生、生の生産的管理など――を共有している点にも、エスポジトはわたしたちの注意を喚起している。生物学や人類学、言語学社会学など、さまざまな観点から人間を解明しようとしてきた近代の諸科学を根底で突き動かしてきたもの、それがこの「ペルソナ」の装置であり、ナチズムとリベラリズムは、同じ装置によってもたらされた、たがいの反転像にほかならないのである。

閉じられた部屋に穿たれた「窓」は、「他者」の存在をリアルに感じさせてくれる装置の一つだ(注6)。「不純物と免疫」は、6個の「人称」による活動成果のみを見る展覧会ではない。6個の「人称」の成果物を見て、息を浅くしたり、速くしたり、息を呑んだりする展覧会ではない。観者自身が立っている場所の座標を感じつつ、他の諸々のもの――横軸にも縦軸にも――との関係の形式の構築に思いを至らせつつ、深呼吸で終わる書物の様に、深呼吸で終わる展覧会なのだ。

(注6)同展の「沖縄」展(BARRAK 1)は「東京」展の「窓」として働き、「東京」展は「沖縄」展の「窓」として働く。そして実際に「沖縄」展の会場にも「窓」は存在していた。

「窓」を背にして「帰路」につく者の目で白い部屋を見る。「窓」から見えていたものの様に、そこにあるものが見えて来る。感情は更に穏やかになる。

「カタログ 01」には「本展の作家たちの実践は、自己免疫化した時代において、なおも不純物たろうとする態度の形式なのである。」(注7)と書かれていた。この一文で重要なのは「なおも不純物たろうとする」という箇所と「態度の形式」という箇所だろう。

(注7)公式サイトでは「本展の作家たちの実践は、自己免疫化した時代において、なおも「不純物」たろうとする態度の形式なのである。」と「不純物」が括弧に入れられていた。

事実的な存在として「不純物」であるのは、「本展の作家たち」に限らない。敢えて言えば、「不純物」という在り方は、全ての者に事実的に「備わって」いる。と言うのも、全ての者は、何かから何らかの形で「排除」されている存在であるが故に、「不純物」は一般的な属性だからだ(注8)。その上で「本展の作家たち」がその様な事実的な平面から「突出」したものとして「見える」のであれば、それは彼等が「なおも不純物たろうとする」という相対的に「意志」的な存在であるのと、「態度の形式」――或いは「形式としての態度」――に生きようとする相対的に「倫理」的な存在だからだろう。

(注8)全ての者が例外無く「不純物」であるというのは、Twitter 等の SNS を見ても判る。そこでは「純粋」なポジションを取れる者は誰一人として存在しない。とは言え、SNS を離脱すれば、メタなポジションに立てるというものでもない。

嘗て “When Attitudes Become Form" という展覧会があった。そのタイトルは日本語で「態度が形になるとき」と訳されていた。確かに “Form" は「形」と訳す事も可能だ。しかしまた “Form" は「形式」と訳す事も出来る。その場合、“When Attitudes Become Form" の可能的な訳は「態度が形式になるとき」になる。個人的な「不純物と免疫」のサブタイトルとして、このフレーズが頭に浮かんだ。

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#ターン6

http://impurityimmunity.jp/installationview/image/tokyo/0016.jpg?v=20180206

「窓」を背にして見る室内の景色は、手前に「原子核の放射性崩壊が起こるメカニズム」の「安定した原子核に変化した状態」と、それに至るまでの記録映像(迎恵里子氏)、その左から正面に掛けての奥に「日本の放射化学の父/人造宝石の発明者」である「飯森里安」絡みの絵画(佐々木健氏)、そして右奥に「鯨」の「頭骨」が突き出た「鯨油」と共にある異形の「ワゴン」(谷中祐輔氏)というものだ。

優れた映画人であれば、これらの要素を重層的に絡ませた映画を撮る事が可能だろうか。化学的な「反応」の「模式」と、「飯森里安」とそれに纏わる人々――「仁科芳雄」や、「長島乙吉」や、「草鞋履きでペグマタイトを採掘する福島県石川中学校の約180人の3年生」を前に「君たちが掘った石で爆弾を作る。マッチ箱一つの大きさでニューヨークを破壊できる」と言った陸軍将校(彼等はまた「家庭人」でもある)等――と、太平洋の高緯度から低緯度まで――北アメリカ大陸(アメリカ国がある)近海から日本列島(日本国がある)近海まで――を季節毎に回遊する「ザトウクジラ」、そして「窓」外に広がっているもの等々……。

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展覧会のキュレーションとは、映画を作る様なものなのかもしれない。少なくとも「不純物と免疫」には、映画の製作現場的な雰囲気が感じられる(注9。或いはこうも思う。何故に殆どの美術の展覧会は、映画の様にならないのだろうかと。美術の「制作」は、映画の「製作」の様にならないのだろうかと。

(注9)「沖縄」巡回展は未見だが、インスタレーション・ビューを見る限り、「キャスト」や「スタッフ」の多くが共通した別の「映画」という印象がある。

映画は「〜(監督)作」という形で語られもするが、しかし「監督」がその映画の「作者」であるとは直ちに言えない。如何に「完全主義者」の「監督」であっても、それでもスタッフやキャストの差し出すもので、「監督」の「完全」は常に揺れ動く。19世紀末に登場した(映画)「監督」という近現代的な職能は、揺るがない「完全」を期待される「芸術家」としての「彫刻家」や「画家」の様な伝統的な「人格」なのではなく、それ自体が「単数にして複数への存在(a questo essere singolare e plurale)」「人格に書き込まれた非人格(alla non-persona inscritta nella persona)」「いまだかつて存在したことがないものに開かれた人格(alla persona aperta a ciò che non è mai ancora stata)」(前出「三人称の哲学」)的な存在だ。だからこそ、キャストを始めとして、スタッフ、協力者、スポンサー等という多様な「人称」が列挙される映画の「エンドロール」は、映画が三人称的なメディアである事を示す上で極めて重要なものである。

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この「不純物と免疫」に於いては、「キュレーター」は(映画)「監督」の位置にあると言えるのかもしれない。その意味で「不純物と免疫」展は「キュレーター」の「作」であると言う事も可能だ。その上で、本展に限らず「キュレーター」という存在自体が、「作家」を始めとする「キャスト」や「スタッフ」を「搾取」しているという議論は確かにあり得るだろうし、事実、本展の批判としてその様な構図に則ったものが少なからず存在するという「事情」も知っている。

しかしそうした「搾取」を巡る議論を成立可能にする立ち位置は、西洋近代的な価値こそが最上であるという時代的な信憑に基づく事で辛うじて成立する「人格」や「人称」の顕揚を前提にした、「芸術」の「伝統」でしかないものに基いているのだ。

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先程までは「谷中祐輔」氏を通して「迎絵理子」氏を見るというものだった。しかし「窓」を背にした今、それは「迎絵理子」氏の「実践」を通して「谷中祐輔」氏の「実践」を見るというものに切り替わった。キャメラの位置が入れ替わったのである。往路での伏線が次々に解消されて行くかの様な復路を辿る。

映画の観客はヒーロー映画を見終わった後に、そのヒーローに成り切って映画館を後にするという。「不純物と免疫」の観客は、何に成り切ってこの会場を出る事になるだろう。もしかしたら、それは周囲のあらゆる存在に対して少しだけ優しくなれるという事なのかもしれない。

#了

不純物と免疫 03

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大和田俊作品の全容めいたものがほぼ見える位置に立つ。但し51%の御本尊はまだ見えていないと思われる。

ヘッドフォンの中では今見ていたばかりの仲本拡史氏作品の解説が流れている。自分の関心とのタイムラグとして現れるこの「不純物」をどうしたものだろうかと微笑してみる。その「齟齬」に対する態度を企画者に試されているのだろうかとまた微笑してみる。それを受け入れるのか、受け入れないのかと重ねて微笑してみたりもする。

その結論として、耳の中に聞こえているものに関心を示さないという形を取る事にしてみた。人は耳栓の力を借りずとも、そうした事が出来てしまうという現実がある。そして確かに共存の現実的な方法論の一つとして、無関心(注1)という選択はあり得る。「聞く」という営みは関心という脳的関数の中にある。それは目覚まし時計のけたたましいアラーム音を聞いて、起床出来る/起床出来ないという日々悶々的な事実からも明らかだ。その意味で、耳は閉じたり開いたりしている器官だ。

(注1)それは相対的に多様社会である都市生活をするに当たっての、事実上の知恵になっているものでもある。自分に対して無関心であって欲しいというのが、それぞれの都市生活者の無意識の中にある。路上生活者が、大量の無関心が往来する場所に住まう理由もそこにある。過剰に自分に関心を持たれてしまう場所では住み難いからだ。

予てより大和田俊氏という作家は、以前から音と関心との相関性、或いは関心に於ける音を作品化する人だと感じていた。石灰岩を溶かして音を出す氏の作品は、音源をマイクスタンドが矢印の如くに指し示す事で、音への関心を視覚的に喚起させていた。従って、視覚障害者にとっての大和田俊氏作品体験は、当然の事ながら視覚によって多くの情報を得る者のそれとは全く異なるものになる。

今回の破裂音への関心の喚起は、偏に受付で投げ掛けられる51%という呪いの言葉と渡される耳栓によって100%もたらされる。受付で51%の呪いを掛けられ、その言葉の意味するところを理解しなければ、この大和田俊氏作品から破裂音への関心を引き出す事はほぼ不可能だろう。呪いの言葉を理解する事が出来ない者は、51%で生じるとされる破裂音への期待/恐怖を生じる事は無い。確率というものを理解しない、確率などというものがどうでも良い蟹にとっての破裂音は、51%とは全く無縁のものとしてある。蟹にとっての音は予期に全く関わらない。

確率の呪いに掛かってしまう人間としての自分は、「さあ、もう行こう。」「だめだよ。」「なぜさ?」「破裂を待つんだ。」「ああそうか。」(注2)という、確率変動大当たり――51%よりかなり低い――を、パチンコ店の営業時間中に必ず現れるものとして待ち続けるパチンカーの実存を表したものと言えなくもない戯曲=サミュエル・ベケットゴドーを待ちながら」のもじりを、頭に思い浮かべてみたりして微笑してみたりする。午前6時台に、テレビのお天気お姉さんの口から、その日の帰宅時までの降水確率が50%であるという呪いの言葉が掛けられたとして、その50%を「雨が降る」の方に賭けて、未だ降っていない雨を有事防衛的な関心の対象とし、それに対処する為に傘を持って仕事に出掛ける人の様に、50%超=51%とされる未だ破裂していない風船に相対しようとする自分にまた微笑してみたりする。

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この日、この時間の雨雲レーダー

(注2)http://samuel-beckett.net/Waiting_for_Godot_Part1.html

そうした予期の機制とは別に、眼に最初に飛び込んで来たのは、有孔ボード壁の断面だった。

厚さ 5.5mm の2枚の合板が、垂木材をサンドする形で、その壁面が出来ている事が伺われた。しかし通常の仮設壁の工法では、こうした仮設壁の断面は、縦に渡した垂木等と突板等で覆われ隠されるべきものだ。従って仮設壁の祭典でもある見本市会場でも、この様な仮設壁に出会える事はほぼ皆無だ。構造を剥き出しにした断面を持つその壁は、壁ならぬものである事を主張し始めている。この角度に於いて、仲本拡史氏作品がハングされていた壁面が、大和田俊氏作品という形で大和田俊氏に帰属するものである事が視覚的に明らかになる。それはまさしく「複数種の生物が相互関係を持ちながら同所的に生活する現象」としての共生の図だ。

どれ程に潔癖症な人物であっても、その腸内には1000種類以上、数にして600〜1000兆個、総重量 1.0kg から 1.5kg の細菌が共生していると言われる。言わば人間の身体の数十分の一は「他者」である細菌で構成されている。人によっては、それらを良い細菌と悪い細菌に分けたがりもするものの、――しかし全く当然の事として――細菌の存在それ自体に善と悪の区別が存在するなどという事はあり得ない。20世紀末になるまで、人類はそれらとの――善玉も悪玉も含めた上での――共生を「当たり前」のものとして事実的に受容していた。それらの細菌を善玉と悪玉に分ける事に強迫的なまでの意味を見出したのは、人類史に於いて、たかだかここ数十年の話なのである。清潔という概念は、共生のレベルを下げる。そして共生のレベルを下げる事で、免疫の作動点もまたレベルが下がるという循環の最中に現在はある。

それにしても改めてこれは震撼すべき図ではないか。美術を始めとする「表現」の領域に於ける共生は、しばしば「コラボレーション」なる言葉に翻訳されたりするものの、勿論「コラボレーション」は実際には「協働」とされるべきものであり、その「コラボレーション/協働」なる概念は、紛れも無く何らかの「目的」に対する相互許諾から発している。「コラボレーション」はそれによって得られる「成功」をこそ欲する。その意味で「コラボレーション」は「契約」的なものだ。

一方共生的な関係に於ける宿主たる樹木とヤドリギの間に――或いは宿主たる人間とその腸内細菌の間に――共通の「目的」など存在する筈も無い。即ち共生という状態は、些かも「成功」を指向する――「失敗」を指向する事も無い――「コラボレーション」的ではないし、或る意味でそれは「コラボレーション」の対極にあるものだ。「合目的性」に於ける「目的」が、果たして「誰」のものであるのかという最も根本のところに無自覚な、或いはそれを巧妙に隠す「コラボレーション」は、しばしばその美しさを纏ったスローガンだけが独り歩きし、纏われた美しさの観念/題目だけが消費されるばかりとなる。

そもそもが「美術」――及びその上位概念であるとされる「芸術」――と呼ばれるものこそ、「不純物」を排除する事でしか成立し得ない極めて「政治」的な営為と言える。今日「美術」/「芸術」と称されているものの殆ど全ては、「作者」や「作品」に「不純物」が混じってしまう事を徹底的に嫌悪する。「排除」こそが「美術」/「芸術」の「作品」に於ける市場価値を決定する前提になる。その意味で、今日的な「美術」/「芸術」と称されているものそれ自体は「共存」や「共生」の対極に位置している(注3)

(注3)例えば「美術」/「芸術」の人間が、その会話の中で「一般人」という単語を使用する際、それは自分達と「共存」や「共生」の関係にあるものとは捉えていない。「美術」/「芸術」の人間が言うところの「一般人」は、「美術」/「芸術」が信じる価値的連続性に於いて、「美術」/「芸術」の人間の下位に位置させられている。従って「美術」/「芸術」の人間が名指す「一般人」は、「美術」/「芸術」への「同化」/「教化」の対象となる。本展が他でもない「東京」の後に、他でもない「沖縄」という地に巡回する事の意味を、これまでの「東京」と「沖縄」の――時に対称的な――関係を踏まえた上で考えてみたい。

大和田俊氏作品に共生する仲本拡史氏作品といったこの状況を、「コラボレーション」という微温的な名で呼ぶ者は誰もいない。人間と腸内細菌が「呼応」関係にあるなどとは誰も言わない様に、仮に両者の間に立ち上がって見えて来るヴィジョンがあったとしても、それは乾いた関係という積極的な意味でそれだけのものでしかない。仲本拡史氏作品は大和田俊氏作品と、翻って大和田俊氏作品は仲本拡史氏作品と共通の「目的」を有する事無くそこに相互侵食的に存在している。だからこそ、この周到に仕組まれた光景は、それだけで「免疫」概念である「美術」/「芸術」自体に対する極めてクリティカルな光景と成り得ている。

などという事をつらつら考えていては、足が止まりっぱなしになってしまう。足を進めよう。黒い風船の本体が有孔ボードに貼られたスポンジマットに挟まれているのが見えて来た。

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スポンジマットの凹凸が、嘗て見た内視鏡による腸内の輪状襞を思い出させた。仮にこれら風船やスポンジマットが黒色ではなく赤色であったなら、いやが上にも内蔵的な印象が高まったかのもしれない。内蔵的に存在する作品という言葉が浮かぶ。内臓は外側ではなく内側にこそその機能がある。ここから見えるのはその輪切り状態なのだろうか。

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そもそも内蔵もまた自己にとって共生的な他者だ。人は見も知らぬ他者として現れるものから摂食の要求を出され、排泄の要求を出され、睡眠の欲求を出される。人生とは排除不可能な生理という他者と常に共生する事だ。時に予期はそうした生理に対しても行われる。nヶ月後に死亡する確率がn%などという呪いの数字が宣告されたりもする。その呪いの数字を極めて意味あるものとして受け入れる時、人の身体は予期的数字に翻弄される場と化す。

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#ターン3

「不純物と免疫」の内蔵に背を向ける。ターン1で見えていたソーラーパネルと法面と屋根の大画面の写真作品と、その横に3行✕3列の9個の小作品。そしてそのまた横に再び法面とソーラーパネルが写る小作品がある(都合小作品は10点になる)。

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この会場にある百頭たけし氏の全ての写真には人間が写っていない。とは言え、確かに今回出品されている作品の中には、墓地の中に立てられた進入灯の上を、ランディング・ギアを出してその奥にある基地滑走路への着陸態勢にあるロッキード P3C 対潜哨戒機というものもある。

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当然その機体には複数の人間が搭乗している筈ではあるものの、それでもそれは相対的に高速なシャッターで撮影されている為に、4発のプロペラは殆ど停止している様にも見える。寧ろその機体は、ワイヤーで吊るされたりスタンドの上に固定されたディスプレイの如き印象すら受ける。

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それらは、突如この地上から人間が消えてしまったという SF の設定を思い出させもする風景だ。或いは人類の存在自体が、宇宙全体の秩序維持にとって有害――「不純物」――であると看做されて気化させられてしまった――不久就遭到全体气化的灭族处分(注4)――のだろうか。

(注4)張系國SF小説「星雲組曲」から「翻译绝唱」(邦題「翻訳の傑作」)の一節。百頭たけし氏は、同展の少し前に行われた個展「カイポンする / 我蓋朋」に寄せて、同小説を引く形で次の様なステートメントを記していた。

「私は風景をカイポンし、打ち捨てられた神仏や野犬をカイポンし、ヒトをカイポンする。みんなカイポンする。台湾をカイポンする。

カイポン(蓋朋):台湾SF小説の始祖とされる張系国の『星雲組曲』に収められた短編小説『翻訳の傑作』に現れる異星の言葉であり、概ね「親愛」を意味する。

太古から行われてきた食人行為の際に上げる歓声を語源としている。」

http://hyakutou.tumblr.com/

その「異星」はカイウェン族(盖文族)の星を指している。カイウェン族の言葉の多くには「カイ(蓋=簡体字で「盖」)」が接頭詞として登場する。その接頭詞「盖」(英語では “cover" )は「食人」行為を指している。

カイウェン族にとっての最上の「親愛」の形は、互いに「食べる/食べられる」というものだ。それは、食事の際に固定化した「マナー」として発せられる日本語の「いただきます(=お命いただきます)」という「エクスキューズ」に似たものとも言えるだろう。

しかし自分自身が食べられる存在となった時、それでも食べる側の発する「いただきます」という「エクスキューズ」を許容出来るか否かが、「いただきます」の世界に於いて最大の問題として存在する。そして確かに、百頭たけし氏の写真には、そうした「いただきます」に於ける相互性の「世界史」が写っている。

 その誰もいない世界の中を歩くただ一人地球に残された者――即ち観客――は、恰も「人新世」(Anthropocene)を調査分析する遥か未来の地質学者――それは人類ではないかもしれない――が、人類の営みの全てに等しくアンテナを張る様に、それらの光景に視線を投げ掛ける。そうした未来の地質学者の目からすれば、法面の様な造成/造形の一つ一つですら、ロバート・スミッソンの「スパイラル・ジェティ」の如くに見えて来る。寧ろ人類登場以降の人類居住可能な地上の全ては「スパイラル・ジェティ」で構成されているとも言える。

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未来の地質学者の目にとっては、人類の営みに於いて有為も無為も無い。有為と無為――有用と無用――の越境に関心を持つ、トマソンの意味論的な目には未来の地質学者はならない。「スパイラル・ジェティ」を無為の造成として見てしまう視点は、有為と無為の弁証法に未だに囚われている。ここにある写真が提示するものは、その様な弁証法の先にあるものだ。

これらの写真には人間は写っていない。しかし人類という枠組みはしっかりと写っている。所謂「世界史」と呼ばれる、人間の「不純物」と「免疫」の概念を巡る相克の記述は、枠組みとしての人類の一断片をしか示さない。人間の「行動」を写そうとする写真が世界中に数多く存在する一方で、人類の「活動」それ自体を写そうとする写真は極めて少ない。ここにあるのは、そうした数少ない「『活動』写真」の一つだ。

人類の「活動」は、人類と人類ならぬもの――例えばそれは蟹であり、或いはまた地質や気象であったりする――の間で規定される。それを「世界史」と呼ぶ事は可能であり、また可能以上のものでもある。これらの写真にはその様な「世界史」の入口が見えている。

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#ターン4

ここまでで既に30分を費やしている。9枚に背を向けて180度ターンする。

f:id:murrari:20180124132531p:plainソーラーパネルと法面の写真小品の右隣に、石が描かれた佐々木健氏の具象小品がある。その対面の壁=大和田俊氏「作品」であるところの有孔ボード上には二枚の雑巾がマウントされ、そして正面の壁には谷中佑輔氏の何やら壁から張り出したものが見えている。その全てを同時並行に考察出来る程の聖徳太子ではない自分は、まず雑巾作品――カタログの同作品の写真は、有孔ボードの上にマウントされていない――に目を遣る事にした。

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同展の公式サイトは、その作品の素材を “oil on canvas, wood panel" としている。日本語で記された素材説明は無い。公式サイトを表示させたスマホを前に微笑する。“canvas" のそもそもの原義は「粗野な布」だ。画布としてのカンヴァス地は「粗野な布」を美術産業的に極端に洗練――洗練は排他も意味する――したものだが、その一方で、パイル地の雑巾もまた紛れも無く「粗野な布」である。即ち雑巾(=雑・巾)は、それ自体で既に字義的に “canvas" なのだ。従ってこの雑巾作品に於ける “oil on canvas" の日本語訳は、「カンヴァスに油彩」という一般的な表現ではなく、「粗野な布(canvas)に付着(on)した油絵具(oil)」という直訳調の方が適しているだろう。

一方で英単語の “canvas" には「創造的な仕事の基底(A basis for creative work)」という意味もある。絵画制作/絵画製造の現場に於ける雑巾は、専ら筆洗の為に存在するものだ。それは――絵画が「創造的な仕事」と仮定される限りに於いて――「創造的な仕事」を成立させる下部構造的な「基底」であり、またそこに付着している油絵具は「創造的な仕事」から弾かれた「余剰」と言える。

前世紀中葉の所謂「シュポール・シュルファス」は、絵画の形式を半ば強引に社会構造とリンクさせる事で、社会に於ける絵画の「基底」と「表面」を露呈させようとした試みだった――程なくしてそれは「支持体」(例:木枠)と「表面」(例:画布)という「絵画の問題」に落とし込まれてしまった――が、この雑巾は “canvas" という語の多義性を示す事で、「基底」と「表面」の分断から始まる思考を乗り越えている。それは「基底」が描かれた「表面」であると共に、「創造的な仕事」と「非創造的な仕事」に引かれた分断線を振動させる。

絵画の下部構造であるこの雑巾には、絵画と同様に「有害」物質が染み込んでいるという。そもそも絵画にしても、彫刻にしても、陶芸にしても、ガラス工芸にしても、今日「有害」とされるもの――放射性物質すら――が、物体を通した「表現」上の「有益」の為に積極的に取り込まれて来た――「有益」/「有害」=ファルマコン――という経緯がある。鉛白やカドミウムウランといった「有害」物質でしか出せない「有益」が確かにあるのだ。

「環境へ悪影響を及ぼす」という言い方がそうした「有害」物質に対してしばしばされるものの、しかしその「環境」という言葉には「『環境』という語の発話主体は誰なのか」という前提が常に隠蔽されている。「地球にやさしい」の「地球」もまた同じだ。「地球にやさしい」の「地球」は、数十億年前のそれを指さず、数億年前のそれを指さず、数万年前のそれすら指さない。それらは紛れも無く「私たちの地球」の短縮形でしかない。従って「地球にやさしい」は、正確には「私たちの地球にやさしい」とするべきであり、またその様にする事こそが、この天体に対する唯一の誠実の形となる。そして「不純物」もまた「私たちの不純物」の短縮形であるが故に、それらを口にする者が「私たち」と「私たち」でないものをどの様に線引きし固定化しているのかを常に露呈させてしまうのである。

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小さな石が描かれた具象の小品に向き合う。どうと言う事も無い石の様に見える。絵にされなければ、それをしげしげと見る事も無いだろう石だ。具象絵画の強みの一つは、確かにこうしたところにある。どうと言う事も無いものに対しても、相対的に長時間の労働をその描画に費やさざるを得ないという具象絵画という労働形態が、そこに描かれたどうと言う事も無いものへの眼差しを、非合理な労働を媒介にする形で観者に結果的にもたらす。

具象絵画は表象の再現という事でしばしば批判の対象になったりもするが、具象絵画の持つ最大の力は表象されたものの外側――描けていないもの――にある。「画家の問題は画布の中に入ることではない。彼はすでにその中にいるからである(絵画以前の課題)。むしろ問題はそこから出ること、そうして紋切り型の外に出、蓋然性の外に出ることが問題なのだ(絵画の問題)」(ジル・ドゥルーズフランシス・ベーコン 感覚の論理学」宇野邦一訳)(注4)。一見すると表象再現に忠実に見えるこの石の絵は、しかし厳密な表象再現としては整合性の無いものだ。表象再現の訓練所である様な絵画教室で、アベイラブル・ライトのテーブルの上に置かれた小石を訓練生がこの様に描けば、中途半端な描画スキルを己のプライドの拠り所とする様な手合いから、「石が置かれている面が描けていない」――「この石は何処に置かれているのか」――などと言われて手直しを受けてしまうだろう。しかし何処にも無いものを何処にも無いものとして描くのが、具象絵画が本来目指すべきものだ。テーブルの上を現実的なテーブルの上の様に描くというのは、有用と無用/有害と無害が交差する様な場所としてそれを描く事を言う。しかしこの小石が属しているのは、そうした世界ではない。この石の絵の右隣には次の部屋へと続く開口部がある。その開口部から垣間見える数点の具象絵画もまた、そうしたものである様な予感がした。

(注4)“Le problème du peintre n'est pas d'entrer dans la toile, puisqu'il y est déjà (tâche pré-pieturale), mais d'en sortir, et par là-même de sortir du cliché, sortir de la probabilité (tâche picturale). " : Francis Bacon, logique de la sensation / Gilles Deleuze

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靴の底にぬるつきを感じる。床に目を落とす。何らかの油脂が床の上に薄く広がっている。その油脂が何処から来たものか一瞬訝しんだものの、それが谷中佑輔氏が手掛けた何やら壁から張り出したものの「樋」に溜まっているものが延ばされ広げられたものであると知るのに、さほどの時間は掛からなかった。

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オーディオガイドは、そのぬるつきの正体を鯨油であると明かしてくれた。

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04へ

不純物と免疫 02

#トレーラー

ヘッドフォンから流れる本展の概説が終わる。

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暗闇に光る明るい矩形が入口だ。その奥に、有孔ボードを背にした幼児の背の高さ程の、灰色をした一本の細長い高圧気体ボンベが見えている。緑色(液化炭酸ガス)でも黒色(酸素ガス)でも赤色(水素ガス)でも黄色(液化塩素)でも褐色(アセチレンガス)でも白色(液化アンモニア)でも無いボンベ。日本では「その他の種類の高圧ガス」に分類される灰色ボンベの中身を記した文字が、どうやら二文字であるらしい事が入口から窺い知れるものの、それが何のガスであるかを完全に読み取れるまでには至らない。

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その灰色ボンベのガス取り出し口から一本のチューブが伸び、元々穴の開いている仮設壁に新たに開けられた/広げられた穴の向こうへと消えていて、何らかのガスはその先へと送られている事が暗示されている。美術の展示室にインストールされている気体ボンベを見て、咄嗟に「む」という音が頭に出掛かってしまったもののそれは封印した。「む」のあれは酸素ボンベであり、その社会的機能から離れて、生命を想起させるメタファーとしての造形物になっていなければ、日本では黒色でなければならないものだ。しかしここにある灰色ボンベは、気体ボンベの回収/再生ネットワークの只中にあるものだろう。気体の種類を示す文字は、「む」のそれの様には消去されていない。

有孔ボードは理念的にモダンであろうとする展示空間では通常は使用されないものだ。1970年に65,000個の丸めた紙が差し込まれた旧東京都美術館はそれを採用していたが、それは実利的にモダンであろうとする態度の、余りに真正直過ぎる表れだった。典型的なホワイトキューブに改造されたこのトーキョーアーツアンドスペース本郷は、紛れも無く理念的モダンの空間だ。その理念的モダンの中に、実利的モダンたる有孔ボードが闖入している。しかしそれは床に接していない為に、壁であるよりは仕切り板的なものだ。小動物や幼児なら楽々と潜れる数十センチの隙間/境界の上にそれは浮かんでいる。その隙間から、磨かれた床に映し出された反射像が見える事によって、有孔ボードの向こうに何かしらの作品がある事が窺い知れる。恐らくそれはフライヤーで馴染みのあるそれだろう。

その他に何があるのかはここからは見えない。しかしその一方で何かが聞こえている様だ。ヘッドフォンを一旦外す。左耳と右耳に聞こえる音の差分によって、「正面」から見て左側に、そのざわついた音の音源がある事が判明する。それは「不純物と免疫」公式サイトにアップロードされているティーザーにも採用された、仲本拡史氏の映像作品「水際からの訪問者」(2017)の音だと想像された。

気体ボンベと、オンラインのティーザーに接続するざわつき音と、ノイジーな有孔ボードと、床の反射像による一幅の切り取られ=絵画。そこに入口でレクチャーされた「51%」のナレーションが重なる。ここから見える光景それ自体が、ティーザー・トレーラー――焦らしのテクニックを駆使した予告編――でもある。

矩形の光景は、映像によるトレーラー同様、本編を断片化し、それを再編集する事で予告編とする事を可能にしている。或いはこれから始まるものは、全てが予告編のみで構成された何かなのかもしれないという思いが頭をよぎった。

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#ターン1

f:id:murrari:20171119080943p:plain展示室に足を踏み入れる。灰色の気体ボンベに「窒素」と書かれている事を確認する。移動する事で、反応するセンサーが切り替わったヘッドフォンは、その窒素がこの展覧会場に於いて、どの様な因果関係の中にあるかを、鑑賞者に先回りして説明し始めた。些かネタバレ感もある。入口で封印した「む」という固有名詞が出てきた時には微笑を返した。

そのガイドで、有孔ボードが大和田俊氏に――取り敢えず――帰属するものであると知らされる。しかし今は、有孔ボードの先にあるものの全てを見る事が叶わない為に、その有孔ボードを大和田俊氏の作品に直ちに帰属させるのはまだ早いと感じ、それを棚上げしたままの状態に置く事にした。従ってこの時点では、有孔ボードはどの固有名詞にも属する事の無い、ボンベのチューブが通された単なる壁面としてある。ヘッドフォンのガイドを、聞くともなく聞く事にする。そして、恐らく、いずれ、やはり、再び、ここ――センサー位置――に回遊して戻って来る事になるだろうという予感がした。

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そこから白いダンジョンの行手方向を見てみると、通路の両側の壁に、様々な高さで3個のモニタがインストールされている。その向こう側正面の壁には、ソーラーパネル、トタン屋根、瓦屋根、法面といった複数の斜面で構成された写真が見える。

f:id:murrari:20171119081138p:plain「不純物と免疫」カタログ02 12ページより

モニタ群。それらのモニタに共通して映っているのは蟹。そして人の空間だ。人が不在の環境の中の蟹の空間でもなければ、蟹が不在の環境の中の人の空間でもない。人と蟹が接する界面がその舞台になる。

左手壁手前のモニタ(以後 “1st.")はかなり低い。次の右手有孔ボードにインストールされたモニタ(以後 “2nd.")は、典型的な映像展示の高さにある。そして左手壁最奥のもの(以後 “3rd.")は少々高い位置にある。それぞれ、相対的に大きな体を持つ者が小さな体を持つ者を見る視線、同じ大きさの体を持つ者=同類への視線、小さな体を持つ者が大きな体を持つ者を見る視線という事になるのだろうか。その一方で、映像をキャプチャしたレンズの位置は、そのほぼ全てが、蟹の目線に準じた高さに合わされている様だ。

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1st. モニタは、蟹が見るには丁度良い高さだ。1st. モニタの下端は、それが映し出している映像中の、目一杯足を広げたゴリラポッドに据え付けられたスマートフォンのレンズの、ゴリラポッドの接地面からの高さと同じ位だろうか。勿論その高さは人の側から蟹に寄り添うに留まるものではある。蟹の目は体から突き出た複眼である為に、人間の眼の構造に準じた光学機器で撮られた映像の様に世界は見えていない。恐らくその視界は、種としての生き残りの為に、全天球カメラに近いものになっているのかもしれない。いずれにしてもそのモニタ映像は、厳密には蟹が見ているものとは異なってはいる。

2nd. モニタは人の目線の高さにある為に、捕獲される蟹に対して、ウェットな感情移入が最もし易い高さとも言える。

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映画産業はこの目線を最大限に利用し、人々のシンパシーを最大の顧客とする事で、映像を一大産業までに引き上げる事に成功した。その目線は、21世紀現在も、未だに商売上最も有効なものとして活用されている。

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3rd. モニタは人にも蟹にも親しくない高さにある。その意味で、乾いた映像の中の蟹と人の乾いた関係に最も適した高さと言える。

映像中の蟹が歩き回る寝具を見て、この寝具にそのまま寝られる人と、寝られない人がいる事を想起した。蟹が歩いた寝具に直ちに潜り込めない人は、ベッドカバーから何からを、取り替えさせたり消毒させたりするかもしれない。そして確かに、2010年代の日本は、過剰な潔癖症の時代だった。2010年代の少なからぬ日本人は、過剰なまでの抗菌除菌概念に囚われる事で、過剰なまでの免疫反応を起こし、その結果過剰なまでに不純物を攻撃していた。

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蟹は癌に例えられたりもする。ヒポクラテスが癌と蟹を結び付けた。形状が似ているという、たったそればかりの理由で。それにしても蟹=癌は、誰に属するものなのだろうか。蟹=癌は内部に由来するが故に、或る意味で「不純物と免疫」のその先にある。人は決して蟹にはなれないが、蟹は潜在的なバグの形で既に人の中にある。

突然 1st. モニタから蟹が脱走するというファンタズムが襲って来た。モニタから脱走した蟹は、有孔ボード下の隙間/境界を横歩きで潜って行った。全天球カメラを2つ備えた蟹の道行きはどの様なものだろう。

Fetch でマウントされた GoPro を装着して歩き回り、動画を残した大型犬を思い出した。その動画は、犬の関心に基づく展覧会の記録だった。その犬の関心の中に、時々人の関心が現れては消える。

2017年11月発売の全天球カメラである GoPro FUSION は、蟹にとっては未だに重過ぎるものの、やがてはそれもバッテリと通信装置込みで蟹が背負える様な大きさになるのだろう。その時、蟹が蟹の関心――関心をしか伺い知れない――に基いて記録する展覧会の映像は、この様なものになるのかもしれない。

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#ターン2

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幾つもの斜面で構成された大きな写真に向かって歩く。しかし気はそぞろだ。右手有孔ボードの向こう側が気になって仕方が無い。音声ガイドが先回って説明していたものを見たい欲求が勝ってしまっている。そぞろのまま写真を見るのは気が引ける。ダンジョンの突き当りで右に回頭し、時間を掛けて写真を見る事を後回しにした。

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不純物と免疫 01

#共存

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円周上に6つの点があるとする。それらを結ぶ線の数は15本という事になる。或いはまた、円周上に24個の点があるとする。それらを結ぶ線の数は276本という事になる。それは「不純物と免疫」展というパッケージを円周と見立て/単純化し、作家数6、作品数24をそれぞれ円周上の点とする事で得られる数字である。その線を展覧会に於ける点相互の関係のメタファーとして捉えれば、それらの関係の線が描く単純な多角形ですら、それなりに多くのものとなる。

展覧会が作品を引き寄せる重力場として働くものであるならば、6つの点、もしくは24個の点は、キュレーションという重力によってその場に引き止められていると言える。但しそれらの点は、展覧会に接地しているものではなく、第一宇宙速度超で打ち上げられ、引力と斥力が釣り合っている人工衛星の様に、展覧会の上空で展覧会の地上から一定の距離を保った浮遊状態で引き止められている。従って6つ、或いは24個の点には、展覧会の重力圏を脱出し、展覧会の外部へ飛び出そうとする斥力もまた常に働いている。その斥力のベクトルは、個々の作家、個々の作品それぞれの関心が向く方向を示す一方で、それ自体が展覧会外部の複数の何かとの関係性の線でもある。

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展覧会は、引力(依存)と斥力(自立)のバランスの上に辛うじて成立しているものだ。引力が勝れば、作家や作品は直ちに展覧会へ落下しそれに従属する存在となってしまう。即ちそれは、展覧会がそれらのクライアントになってしまう事を意味する。一方で斥力が勝れば、多様性をそのままの形で多様性としてしか示し得えず、微小な差異の総和の極限値を示す積分的な開放そのもの――開放系ではなく――になってしまう。

世界は多様である。そんな事は当たり前だ。誰もが知っていなければならない筈のものだ。しかしそうした当たり前を、本来的な美的生活には必ずしも必要なものとは言えない展覧会という閉鎖系に仕立てて見せなければならない程に、我々は追い詰められ、且つ自ら追い詰まっている。展覧会が開催されなければならない危機的状況に我々はあるのだ。

展覧会は危機的な世界に於いて方便的なものとして機能する。展覧会に於ける「不純物」は方便としてそこにある。危機に陥っている者が、危機に陥っているが故に閉鎖系に於ける方便を通してしか見えないものがあるとするなら、方便は技術的な洗練を怠るべきではない。それが最終的に捨て去られる梯子であったとしても、であればこそ梯子は丁寧に作られねばならない。円周の内側、及び外側に引かれる、点と点を結ぶ見えない線は、そうした梯子の一つだ。

そして展覧会の周回軌道に新たに観客が入る。独自の関心の総体である観客もまた、それぞれの点に線を引く新たな点になる(注1)。自らが引いたものを含めた蜘蛛の巣状に張り巡らされた線の上を行きつ戻りつしつつ、基本的にスタティックなものとしてある展覧会を、相対的に高速度で動き回れる者の特権として、自らの周回軌道上の位置も変える事で、点と点を結ぶ線やその交差箇所を変化させる事が出来る。

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(注1)この文章は、新たな多角形を描く線の幾つかを列記するものだ。

共存のイメージはそこにこそ現れる。共-存=co-exist に於ける存=exist は、認識の絶え間無い移動によってこそ可能になる。その時、自分とそれ以外を隔てている国境線を跨ぐ事があるかもしれない。共存の第一歩は、その国境線を越えたところから、それまで自分が占めていたと思い込んでいた場所を眺めるところから始まる。共存の方法論としての回遊というものがある。

f:id:murrari:20171114115416p:plainツチクジラ(Baird's Beaked Whale)の分布域=回遊域

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#空中

トーキョーアーツアンドスペースの3階のフロアは、地上8メートル〜9メートル程になる。進化の過程で樹上生活者から地上生活者となった人類の歴史に於いて、その高さは長きに渉って「空中」と呼ばれ得るものだった。確かにそのフロアは原義としての「空中楼閣」的な高さを持つ。

「全国バリアフリー旅行情報」によるトーキョーアーツアンドスペースの施設紹介には、「エレベータが無いので、車椅子利用者は2階・3階の展示見学は不可」とある。車椅子利用者は同施設に於ける「展示見学」の不適格者扱いをされているものの、その一方で同施設に車椅子対応トイレが設置されていたりもする。

8メートル〜9メートルの階段を昇り降りする事が辛い人間――それは日本人の過半数を占めつつある――にとっても、それは事実上よそよそしい「空中」として存在し、場合によっては「展示見学は不可」の不適格者になる。身体という物質性のレベルに於いて、トーキョーアーツアンドスペースに於ける「展示見学」の可否は、そのまま自らが事実的な優生の側に属するか否かの踏み絵ともなる。

或る意味で、共同体の無意識下に潜む優生観――生産性の高い身体を優等とする――を体現した建造物である旧都立御茶ノ水高等職業訓練校事業内訓練教室/旧都教育庁お茶の水庁舎は、優勝劣敗的な発言を繰り返して来た元都知事による都政時代に、その前進であるトーキョーワンダーサイトとして「活用」されたものだ。

そのトーキョーワンダーサイトを自らのトップダウンで作らせたと公言して来た元都知事は、「文学界」2016年10月号斎藤環氏との対談「『死』と睨み合って」に於いて、「自分の肉体が衰えてきて、手足の自由が利かなくなってくる」と、自らが他者への依存を必要とする身体となった事を明かしている。

「不純物」は、排除されるべきものとして認識されるが故に「不純物」と呼ばれる。ひたすらに高い生産性を目指す共同体にとって、生産性の低い身体は「不純物」として現れ 、しばしばその様に目された身体を巡る事件が起きもする。しかし誰しもが年を取れば、やがては生産性の低い「不純物」になる。現時点で「不純物」側に属していない身体であっても、「不純物」になる不可逆的な不治の道を生まれながらに歩んでいる。それを「弱くある自由」と捉える事は可能だ。

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#土地

今から983年前と言えば、日本では平安時代中期の天元年間から永観年間の移行期に当たる。西暦で言えば1034年だ。当時の日本の推定人口は、諸説あるものの数百万人(450万人〜700万人)という数字に落ち着いている。日本で国宝とされるものの多くがそれまでに作られていて、それらは現在日本文化と一般に認識されているイメージの源泉の主要な一部となっている。

今から983年後は西暦3000年になる。国立社会保障・人口問題研究所の推計によれば、西暦3000年の日本の人口は石器時代(推定3,000人)よりも遥かに少ない1,000人になるという。平安時代の数千分の一の人口(注2)だ。それは西暦2014年の出生率・死亡率が、子供を生む事に対する人々の気分と共にそのまま続いた場合を想定しての推計であるものの、それでも西暦3000年までに爆発的な多産社会が何回も日本に起きない限りは、多かれ少なかれ/遅かれ早かれ現実性の高い数字と言える。仮に西暦3000年の日本が、亢進したテクノロジーによって最大限に効率化されていたとしても、人口1,000人に至る遥か以前に、国家――時に国威の前提条件ともなる――としての日本が成立不可能になっているだろう。

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(注2)今から200数十年後には、再び平安時代の人口=数百万人になる。近い将来の話としては、3年後の2020年には、日本の女性人口の半数以上が50歳以上になる。

38万km2の日本列島と呼ばれる土地に、僅か1,000人の日本人がどの様に居住するのかは判らない。極めて狭い面積に一極集中するのかもしれないし、遍く分散して暮らすのかもしれない。或いは相変わらず日本列島という土地には1億人以上の人間が住んで――その時に何という名前の国であるかのは判らない――いて、日本人はその中にあって、消滅寸前の日本語を扱う絶滅寸前の少数民族として「不純物」視されているという可能性もある。

いずれにしても、人口減少の過程に於いて、或る閾値――それが数百万人なのか、数十万人なのか、数万人なのか、数千人なのかは判らない――を越えた辺りで、日本人の領土概念、国境概念、国民概念等は変質せざるを得ないだろう。1,000人の日本人は、その1,000人には余りに広大過ぎる38万km2の日本列島が、どの様な形をしているかに全く興味が無くなっているかもしれない。日本人1,000人時代の天皇は、どの様な存在になっているだろう。

人口減少に伴う社会活力の低下は、「つくること」の低下だけではなく、「こわすこと」の低下ももたらす。シャッター通りや空き家がそのままの形で残ってしまう様に、人口が多かった時代に作られたものは、解体を担う者の不足/不在によって、朽ち果てるままにされる。国宝の維持管理ですら、1,000人の手に余るが故にそうなってしまうだろう。こうして元あった意味をすっかり喪失して単なる凹凸となったものの上を、983年後の日本人は蟹の様に歩くのだ。

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