現実のたてる音

承前

現実のたてる音を「聞き」に展覧会に行くというのは、甚だ倒錯的な行為ではある。現実のたてる音ならば、わざわざ展覧会に行かなくても、既にそこかしこに〈現実のたてる音〉として存在しているからだ。

しかし求められなければならない倒錯というものはある。「現実のたてる音」と題された展覧会を「聞き」に行き、そこでようやく現実の〈現実のたてる音〉に注意を払い、それに聞き耳を立てる事が可能になるというのが、人間の能力の極めて平均的な在り方ではあるからだ。多かれ少なかれ、展覧会にはそうした人間の平均的な能力のレベルに対する見極めが何らかの形で組み込まれている。何故ならば、展覧会は未だに優れて/劣って啓蒙の産物ではあるからだ。啓蒙であるからには展覧会は蒙である者の為にこそ存在する。キュレーターの仕事のステージは恐らくそこにしか無い。

但し啓蒙は教化と同一視されるべきではない。展覧会に於ける啓蒙が目指すものは、蒙が啓かれた先を真理として明示的に提示するのではなく、如何に自分達(これにはアーティストやキュレーターも含まれる)が蒙でしかないかを各々に各々の形で自覚化させる、いずれは捨て去らなければならない階梯なのだ。展覧会は決して親切な解答を必要とする人間向きに存在しているものでは無いし――親切な解答を作品中に親切な形で入れ込もうとする作家はいない筈だ――、また互いの答えを突き合わせてそれらを総合させて行く事も無意味だ。百の蒙には百通りの蒙がある。そしてその百の道の先に轍は無い。

全ての〈現実のたてる音〉に対して常にセンシティブであり続けていたら、場合によっては普段の生活に支障を来すかもしれない。だからこそ展覧会という普段の生活とは「異なる」、梯子を立て掛け易い倒錯の場所で、倒錯的な形でそれは顕にされなければならない。

但し倒錯の場所を離れたと同時に、再び〈現実のたてる音〉と疎遠な「使用前」の生活にリセットされるというのも寂しい話ではある。例えば「現実のたてる音」で〈現実のたてる音〉を「聞いた」のであるならば、帰家した後にも――その記憶が鮮明であれば――〈現実のたてる音〉は相対的に大きく聞こえる筈だ。誠実な人間であればあるだけ、余りにもそれが聞こえ過ぎる事で、場合によってはその者の精神を病ませる事になるかもしれない。展覧会を見るというのは原理的にはその様に危険極まり無いものなのである。

危険な場所では決して足元を見てはならない。それは自分が見なければならないと思うもの――自分の足――を見ようとして、その遥か下に広がる遠くを見てしまうからだ。そこで立っている為には、顔を上げて遠くをしっかり見る。そして意識を目で見ていない自分の足の指に集中させる。その時〈現実のたてる音〉は耳で聞かないものになる。

しかし一種の定力的なものによって得られる音の聞き分けの能力もまた蒙である。己が心臓の音が聞こえるというのはほんの入口でしか無い。金の上と、木の上と、灰の上に落ちた灰の音が異なっているという聞き分けは、センサーの感度が上がっただけに過ぎない。

何も無い 音も無い。「現実のたてる音」の英語タイトル “nothing but sounds" を捩って言えば、“nothing nothing"。その最初の “nothing" は “empty" を意味せず、二つ目の “nothing" は “silence" を意味しない。そして二つの “nothing" の間にあるのは “but" でもなければ “so" でもないのだ。

-----

勅令第八百三十五號

朕金屬類回収令ヲ裁可シ茲ニ之ヲ交付セシム

裕仁

御璽

昭和十六年八月二十九日

f:id:murrari:20151205055720j:plain

 

「大東亞戰爭終結ノ詔書」の昭和天皇による朗読録音放送、所謂「玉音放送」によって、殆ど全ての「臣民」は、事実上初めて昭和天皇の肉声を聞いた。その宮中祭祀祝詞に発する独特の節回しや、声のピッチの高さに少なからぬ「臣民」は戸惑いを隠せなかった。「臣民」それぞれの頭の中には、それぞれに「天皇陛下」の「玉音」がイメージされてもいただろうが、その殆どは昭和20年8月15日正午のラジオ放送で初めて流された裕仁天皇の肉声とは大きく隔たっていたに違いない。

御真影」なる天皇の「像」が相対的に広く行き渡っていたのに対し、天皇の「音」は「憚りあり」として長く秘すべきものとされた。しかし想像してもみようではないか。ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ(「マホメット」)、イイスス・ハリストス(「イエス・キリスト」)、ゴータマ・シッダッタ(「釈迦牟尼仏陀」)の肉声録音が残り、それぞれの肉体に「声」が帰せられてしまうかもしれない様な事態を。「声」こそが重要とされる様な世界では、それらの「声」は、それぞれの脳内に預言や経典や勅令といったエクリチュールの音声変換の形式――一種のボコーダー的な――としてあるべきであるが故に、その様な〈現実のたてる音〉(=肉声)は排除されねばならないのである。

脳内で当てられた「玉音」が「朕金屬類回収令ヲ裁可シ茲ニ之ヲ交付セシム」と言う。仮に「朕金屬類回収令ヲ裁可シ茲ニ之ヲ交付セシム」が、昭和天皇の肉声によって読まれ、それが「臣民」に勅令の内容を広く告げるという理由でラジオ放送されていたらどうだっただろうか。そうなった時、逆に京都市山科区の福應寺の梵鐘にも、3つの穴が開けられなくて済んだのかもしれない。

f:id:murrari:20151217122746j:plain

----

f:id:murrari:20151215143120j:plain

分厚い「本」が低めの彫刻台の上に置かれていた。「河原町VOXビル新築工事 竣工図」という「表紙」のこの分厚い「本」は、1981年12月時点での「河原町VOXビル」の完成形を表している。それはこのビル建設に関わった数々の人々の仕事のアーカイブでもある。

測量から始まり、床養生を剥がすところまでの工程がそこに詰まっている。建築現場というものに親しい者なら、この青焼きを見て、脳内に〈現実のたてる音〉が再生されもしよう。それは油圧ショベルのバケットがたてる音かもしれないし、結束線ハッカーの回転音かもしれないし、コンクリート打設の音かもしれないし、安全帯を足場に引っ掛ける音かもしれないし、ピータイル接着剤のヘラをコンクリート床に擦り付ける音かもしれないし、マスキングテープを千切る音かもしれないし、通電時に各種機器が上げる唸り音かもしれない。

そして尚も建築現場というものに親しければ、「気まぐれ」という店名のイタリア料理店の窓際の席に座り、そのガラスを固定しているコーキング剤を見て、それがガラスに擦り付けられる音を脳内で再生する者がいるかもしれない。

河原町VOXビル」というアーカイブ。何よりもそこに関わった/関わっている者達のアーカイブ。

f:id:murrari:20151212132249j:plain

----

If you ever plan to motor west, 

Travel my way, take the highway that is best.
Get your kicks on Route sixty-six.

“Route 66": Bobby Troup

 

アイスランドのセルフガソリンスタンドチェーン、“Olís" (Olíuverzlun Íslands hf)。そのアイスランド北西部スカガストロント(Skagaströnd)店のストリートビューである。アイスランドでは、ガソリンスタンドが外食に於ける重要な場所の一つだ。“Olís" ガソリンスタンドに併設されている同資本経営のレストラン・チェーンの名称は “Grill 66" である。この名称からも店のロゴのデザインからも明らかな様に、この “66" は1960年代にアメリカでテレビドラマにもなったアメリカの “Route 66" ――世界で最も有名な道と言われたりもされている――から取られている。

f:id:murrari:20151212132551p:plain

“ROAD MOVIE" と題された “plan to west" なムービー。現実の “HOLLYWOOD" から 6,940km 離れたアイスランドの地で、“CHICAGO" から "LOS ANGELES” までの一つ一つを「訪ね」て行く若者達。

そのムービーには、 "Grill 66" スカガストロント店の店内でブームマイクを振り回して音を拾っている人の姿が「映り込んで」いて、スタッフロールの “Sound" には “Rachel Lin Weaver" の名前もある。しかし彼等の仕事はこの展示空間の空気を震わせてはいない。音のスタッフは、聞かせる事の無い音を懸命に拾って見せている様にも見える。サウンド・ムービーのスタッフというロールを、サイレント・ムービーの中で演じる為に。

サイレント・ムービーであるが故に成立するジャンルに、スラップスティックがある。所作が音との連関性を失った時、その身体が因果の条理から外れた過剰なものに映ってしまうというのは、映画の発明期から感じられていた――歩く姿をフィルムに収めるだけでそれは過剰な所作に見えてしまう――ところのものだろう。「現実のたてる音」に於ける “ROAD MOVIE" は、正に「体を張った演技」で成立しているスラップスティックなのである。所作は音から開放され、その事で音もまた所作から開放される。

その時突然「河原町VOXビル」内に響き渡る楽器の演奏が始まった。何処かで誰かが今夜のステージのリハーサルをしているのだろうか。

----

f:id:murrari:20151212132636p:plain

“ROAD MOVIE" の左に続く仮設壁(その真裏に「福應寺梵鐘」がある)に、みっしりと隙間無く埋められている多数のものがある。それはキャンバスに描かれているところから、その一事を以ってその一つ一つを「絵画」として良いだろうか。

しかしこれは「ディスプレイ」と言うよりも「タイリング」の方法論である。「タイリング」という「仕打ち」によって「タイル」にされた「絵画」。「タイル」が埋められたこの壁は、隣の “ROAD MOVIE" のディスプレイが掛かったそれや、他の「白色」のそれとは異なり、ここだけが「黒色」で塗られているところに「仕打ち」の周到が示されているとも言える。

f:id:murrari:20151212133059j:plain

「陶壁」にも見える「タイリング」から抜かれたものなのだろうか。「陶壁」と “ROAD MOVIE" の間には、 “ROAD MOVIE" の「白色」の壁の上に1枚の「陶板」がインストールされ、再び「絵画」として「復活」しているかの様にも見える。

美術史は「タイリング」によって「物語」(=「説話」)を形成して行く事例を幾つも教えてくれる。パルテノンのフリーズ部に埋められたレリーフは、そうしたものの一例である。凡そ神話や逸話や教義を説話的な形で示す時、「タイリング」という展示のテクニックが用いられたりもする。「タイリング」によって生じる「説話」。そしてそこから弾かれた「絵画」。

1970年代後半から1980年代前半に掛けて、日本の津々浦々の新築ビルで多用された建築意匠である「螺旋階段」を登る。それを登る事で得られた視点から、見落としがちな「陶壁」上部のコンストラクションが見えて来た。

f:id:murrari:20151212133141p:plain

そして次の「見物」のコンストラクションも。

f:id:murrari:20151212133248p:plain

先程来からビル内に響いている「今夜のステージのリハーサル」の音は、この隙間から見えるコンクリート打ちっ放しの壁に投影された映像とのシンクロの加減から、その確証は極めてあやふやなものながらも、このデバイスが出力していると結論付けた。

f:id:murrari:20151212135159j:plain

----

f:id:murrari:20151112122754j:plain

螺旋階段を上がったところに架けられたその「橋」は、果たして滝壺の様な場所だった。目の高さに映像はあるものの、ここは展望台としては極めて幅が狭い。それは滝の上から観光する事にした。

----

f:id:murrari:20151212135445j:plain

ART ZONE" の本体という事になるのであろうか。扉を開けて入るとそこは極めて「騒々しい」部屋だった。

「ああ」と思った。それから同展のフライヤーに書かれていたキュレーター氏の「騒々しい」テキストを読み直してみた。

当然の事ながら、その「騒々しい」テキストには〈現実のたてる音〉が一つも書かれていない。そこにあるのはオノマトペだけである。「ドン」も、「キュルキュル」も、「ぴっ」も、「キュン」も、「ざくっ」も、「どくん」も ......、その全てが21世紀の日本に於ける「擬声語」或いは「擬態語」的な表現だ。

大鏡」には「過去聖霊は蓮台の上にてひよと吠えたまふらむ」とある。少なくとも「大鏡」が編纂された平安時代後期までの犬の鳴き声を表わすオノマトペは「ひよ」だった。彼の時代の日本人には「ワンワン」や “Bow Wow” や “نبح " などとは聞こえなかったのである。我々がこのフライヤーの文章の「ドン」の箇所を読み、「ドン」であるとそれぞれの脳内で解釈し直す〈現実のたてる音〉は、果たして平安時代にはどの様に聞こえていたのであろうかと平安京の地で考える。

長い壁と相対的に短い壁がぶつかる隅に、まるで彫刻の場所の暗さから追い立てられたかの如く複数の「絵画」――明るくなくては生きていけないもの――が固まっている。これもまた1階の「陶壁」で見た「絵画」への「仕打ち」と同じであり、追い立てられなかったものは、柱の厚み分しか無い「壁」や、エレベーターに続くドア付近の壁に「避難」している。この「絵画」の追い立てのオノマトペはどういうものになるだろう。「ジョジョ」の「ドドドドド」や「ゴゴゴゴゴ」になるのだろうか。

この部屋の「絵画」を見て観者が感じるオノマトペは「ズリズリ」であったりもするだろう。金属の塊から21世紀日本の観者が感じるオノマトペは何だろうか。

----

壁裏には〈現実のたてる音〉を掻き立て、それを拾ってアンプリファイアーするシステムがあった。音の出処は見に行けない。自宅にはこの様なシステムは置けないから、各自は努力してそこにある石の音を聞く力を養う様にしよう。

f:id:murrari:20151212135833j:plain

----

f:id:murrari:20151212140002p:plain

すこしお洒落で、すこしかっこよくて、すこしホッとする。そんな隠れ家的Bar」。良く切れる包丁が水回りの隙間に刺さっているその店内に「糸」が張り巡らされていた。

「隠れ家的Bar」の一番奥にあるシングルコーンの「スピーカー」が、様々な周波数を出力している事が、そのコーン紙の震えによって観察された。そのコーン紙が出力する周波数を、「隠れ家的Bar」の店内に張り巡らされた糸が、光の明滅による「幻影」と合わせて「可視化」している。

そのコーン紙が動く周波数の一つに 1Hz〜2Hz位のものが「ある」様に観察出来た。この周波数はまた、人間の大人の正常時の心拍数である。そして心拍数で思い出されるのは町中の交差点だ。

車のウィンカーの点滅速度、或いは歩行者信号のそれは、その「人間の大人の正常時の心拍数」よりも幾分か速く設計されている。それを見ている者の緊張を促し急がせる為にだ。人間の心拍を引っ張りだした、〈現実のたてる音〉の極めて現実的な運用例と言えよう。やんちゃな人達の乗る車のウィンカーが、メーカー製のそれよりも速めの点滅速度にチューニングされているのも、それを見ている者の緊張度をより上げより不安にさせる為にである。振動としての人間。

会場で配布されているテキストには、ジュゼッペ・ペノーネの言葉として「視覚で理解した形は、触ることで必ず修正される」とある。それに続けて「やってみて欲しいこと」として「糸にそっと触れてみる」ともある。次のセンテンスには「指をそっと近づけてみる」ともある。自分も糸に触れてみた。但し彫刻家であるペノーネが「触ること」に対して想定していただろう手(それは彫刻を生み出す場所でもある)でそれをする事は避けた。センスには、目の専制同様、手の専制というものもあるからだ。だから頬の頬骨辺りでそれに触れるとも無く触れた。触覚は決して手だけのものではない。糸は虫が羽音を立てる様にやって来た。より官能の器官である舌先で触れたらどうだろうかと思ったもののそれは自重した。

----

「隠れ家的Bar」を出ると「滝」の上の展望台である。滝をずっと見ていて飽きない人がいるのと同様、この映像をずっと見ていて飽きない人がいる。作品の音は、このビルの中にあっては、滝の音(=〈現実のたてる音〉)と化していた。

配布テキストに「私たちは窓をひとつ増やしました」とある様に、映像の左隣には「本場」ローマから 9,710km 余り離れた――即ちアイスランドの地方都市であるスカガストロントとハリウッド間よりも遥かに遠い、極東の島国の地方都市である京都の――イタリア料理店「伊太利亜飯店 華婦里蝶座」の嵌め殺しの窓があり、そのまた左隣にも緑色の枠を施された同店の窓がある。

f:id:murrari:20151112133603j:plain

一番左の窓には会計カウンターが見え、真中の窓の右奥には厨房がある。同店のウェイター氏は左の窓から真中の窓へと移り、そのまま窓の右端に消えると、再び料理を持って左側の窓の人になる。そしてまた右側の窓に食器を下げに行き、それから左側の窓に舞い戻って客の会計の相手をする。それが終わると右の窓の厨房に入る。自分はそこで、そのまま投影された映像の中に氏が登場する様な錯覚を覚えたりもした。

この「滝」は「伊太利亜飯店 華婦里蝶座」の店内から見るのが良かったのかもしれない。「伊太利亜飯店 華婦里蝶座」の窓という「滝」の裏(「ウォータースクリーン」の裏)から他の「滝」を眺め、滝壺や展望台から覗いている人達を観察するというのは中々に乙なものであろう。そしてその背後では、それ自体を映像作品にしたくなってしまう様な、行ったり来たりを延々とし続けているウェイター氏がいるのである。アイスランドの “Grill 66" の “TULSA" “GARDNER" “FONTANA" よりも遥かに洗練されている様な印象を受ける、“ENALC Hotel School" 仕込みの本多征昭氏「直伝」のピザを次々に注文し、「伊太利亜飯店 華婦里蝶座」のウェイター氏の、その勤務時間に於ける氏の全てを見届けるというのも一興ではあろう。

f:id:murrari:20151212140925j:plain

現実の滝のウォータースクリーンの背後に岩盤が見え隠れする様に、投影された映像もその背後の「打ちっ放しのコンクリート壁」を見せている。そこは展望台であるから椅子は無い。16時間を立つかしゃがむか。

----

滝の展望台から階段で屋上に向かう。ここから先は、通常「河原町VOXビル」が「関係者」以外には立ち入らせたくない場所だ。その「バックヤード」が「期間限定」で公開されていた。階段を折れ、階段を折れ、或る人にとってはとても重要で、或る人にとってはさして重要ではないものが次々と目に入る。

f:id:murrari:20151212141017p:plain

----

河原町VOXビル」の屋上に到着する。「投身自殺のメッカ」にはなり得なさそうな凡庸な屋上である。風に乗って「これはわたしのちではありません」が流れて来る。

f:id:murrari:20151212142923j:plain

小屋。SPF材が剥き出しのその作りは極めて内装的だ。これを作った人は、このオープンエアにあって、明らかに何よりも先ず内側を仕上げる事を目標にしている。シェルに囲まれていなければ成立しないものを、摘出された内臓の様に露天に置く。現実の内臓がたてる音(空腹音等)が外に聞こえる場合もある様に、この「内臓」からも音が聞こえている。或いはこれもまた一種の位相反転的な「宇宙の缶詰」なのであろうか。

「内蔵」に入る(その「内臓」の中では、最終日にポルノ映画が流れ、人々が寝ていた)。「引込線2015」で見た映像が流れていた。投影されるのは表面処理をされていないベニヤ板。映像の中に目を射抜く投影光を返すコーススレッドの点。ループするショットとショットの間にベニヤ板は現れ、映像が現れるとそれは消える。「引込線2015」とは異なり、ここにも椅子は無い。10分余りを立つかしゃがむか。

f:id:murrari:20151112131412j:plain

f:id:murrari:20151215133157j:plain

「これはわたしの血ではありません」。その時、果実から作られたものを指して「これはわたしの血である」と決然と言った――その録音は残っていない――とされる人物がいた事を思い出した。その人は穀物で作られたものを指して「これはわたしの体である」と言った――その録音は残っていない――ともされている。「わたし」の「血」を飲みなさい。「わたし」の「体」を食べなさい。『内蔵』に入れるのは葡萄酒でもパンでもないものだ。

こうして自分の中で最初の部屋の “ROAD MOVIE" にループするのである。

「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」「内臓に入れよ」。

録音可能な「音」ではない「声」がそれを言う。「これはわたしの血である」が発せられた建物の外を彷徨く犬の声は、2,000年前のエルサレムの人々にはどの様に聞こえていたのだろうか。

----

「現実のたてる音」展の作品は、数々の「仕打ち」(キュレーションとも言う)によって常に何かを「剥奪」されていた。これらの作品が「美術館」で展示される事があれば、映像作品はコンクリート壁やベニヤ板に直接投影させられたりはしないだろう。そして映像作品を鑑賞する観客には椅子が必ず与えられる。絵画作品は一点一点の間を程良い形で離され、白い壁の上に目の高さで掛けられたに違いない。一つの部屋の中に、極めて明るい場所と極めて暗い場所を同時に作るという事がされる事は無い。作品の大まかな解釈に関係が無いと思われる要素は極力排除され、作品は常に表舞台に上げられる。作品は十全な形で公開されるべきであるという「原則」がそこにはある。

「現実のたてる音」という展覧会は、こうした「原則」の逆を行く数々の「反則」で成立している様に思えた。しかし「現実」は「反則」(「原則」的ではないもの)としてしか存在しない。「気まぐれな天気」というものは原理上あり得ないのである。

「反則」を排除する事で「原則」的に成立するのが「美術」というフォーマルであるとすれば、当然逆説的にこの「反則」だらけの展覧会は極めてフォーマリスティックである。何故ならばそれはフォーマルの存在を言及的に認めているという点でフォーマリスティックであり、その上でその崩れによって〈現実のたてる音〉を見せるという話法に徹頭徹尾則っているからだ。

しかし繰り返すが、「原則」が「現実」に見えている我々が〈現実のたてる音〉を意識化する為の、それは「求められなければならない倒錯」というものなのである。

【了】