MOTアニュアル2014 フラグメント―未完のはじまり


「ファーブル昆虫記」(Souvenirs entomologiques=昆虫学的回想録)で知られる、ジャン・アンリ・ファーブル(Jean Henri Fabre:以後「ファーブル」)のブロンズ像二体である。「立像」は、サン・レオン(Saint-Léon)の生家(現 "Micropolis" 内)前に建立され、一方の「坐像」は、晩年を過ごした "Harmas"(アルマス=プロヴァンス語で「荒れ地」:現在記念館)がある南仏の村セリニアン(Sérignan)の教会横に建立されている。サン・レオンの立像は上着の襟を遮光フードにしてマツノギョウレツケムシ(松の行列毛虫=Thaumetopoea pityocampa)を拡大鏡で観察している姿であり、一方のセリニアンの坐像は切り株に腰を下ろして寛ぐ姿である。「坐像」のファーブル氏が左手に持っている拡大鏡は自身の膝に向けられていて、座るファーブル氏にとってのそれは拡大鏡として機能していない様に見える。


下掲画像は、ファーブル氏の生涯を描いたアンリ・ディアマン=ベルジェ(Henri Diamant-Berger 1885-1972)による映画 "Monsieur Fabre(1951)" のスチール写真である。



「ファーブル昆虫記」第一巻冒頭に登場する、同書の「スター」とも言える「スカラベ・サクレ(Scarabée sacré)」(実際には氏が誤同定した南仏のタマオシコガネ)を観察するファーブル氏は、極めて当然の事ではあるが、地表で動物の糞を転がすそれを仔細に観察する為に、「屈む」姿勢(映画では「立膝」にもなる)を取る。或る意味で、ファーブル氏の業績を称えるに最も相応しい彫像は、「立像」でも「坐像」でも無く「屈像」になるだろう。しかし「(西洋)彫刻」の伝統に「屈像」という「形式」は存在せず、またそれ以前に「屈む」姿を称える「美学」も存在しない。


生家に建つ「彫刻」は、「昆虫観察者」としてのファーブル氏の業績と、「立像」という「彫刻」上の「美学」との「妥協」の産物である。その「妥協」を実現する為に、「立像」にとって極めて都合の良い高さにマツノギョウレツムシが位置している。言わば造形上の「要請」であるものを、恰も「自然」に見えるものとする為に、「立木」の造形が「後付」的に「必要」とされ、その結果としてマツノギョウレツムシの位置も逆算的に且つ厳密に決定されている。この「立像」に於けるマツノギョウレツムシは、正確にその位置にいなければならない。そこから30センチ下でも上でもあってはならない。「彫刻」の中のマツノギョウレツムシは、「彫刻」という「形式」によってその「行動」を抑制される。「美学」に「現実」を合わせるという「辻褄合わせ」もまた「彫刻」の基本的で重要な技術の一つである事は、凡そ「彫刻家」であれば誰もが知っている事であり、且つ誰もが身に覚えのある事であろう。


ナダールが晩年のファーブル氏を撮影している。



「アルマス」のラボの「椅子」に腰掛けて、「卓上」に置かれた「飼育ケース」内の「微細な世界」を「拡大鏡」で覗く「観察者」ファーブル氏の姿だ。微細な世界 ⇔ 飼育ケース ⇔ 卓上 ⇔ 椅子 ⇔ 拡大鏡 ⇔ 観察者。「屈む」姿勢と同様、「微細なものとの幸福な距離感」がここにも見られる。但し「屈む」姿のファーブル氏の写真は残されていない。

      • -


"断片"や"かけら"といった小さな破片を意味する言葉――「フラグメント」。本展に登場する作家たちは、彼らの身の回りにある現実からこぼれ落ちたフラグメントを用いて、独自の世界を築いていきます。市販のプラスチックのパーツを際限なく組み合わせる、トランプカードや消しゴムに緻密な細工を施す、見慣れた風景のイメージを切り取り多層化させる・・・・・作家たちの手法は様々ですが、いずれも世界に溢れる選択肢の中から自分だけのフラグメントを意識的に選び取り、それとの接触を通して世界を捉えなおそうとする姿勢に特徴があります。
本来、不完全で脆弱な存在であるフラグメントは、どこか欠けているがゆえに見る者の想像力をかきたてるものですが、作家たちの接触が加わることにより、見る者を"ここ"からどこか別の場所へと誘ってくれるでしょう。
日々過剰に生み出される情報が錯綜し、多くの人が自らの処理能力や認知に限界を感じる今日。フラグメントを起点にした作家たちの手探りの実践は、新たな視点で世界とアクセスする手がかりをわれわれに与えてくれるのではないでしょうか。


「MOTアニュアル2014 フラグメント―未完のはじまり」展覧会概要より抜粋
http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/mot2014.html


「MOTアニュアル2014 フラグメント―未完のはじまり」展(以下「フラグメント」展)の会場内で、「6人/組」の作家の制作状況を想像してみた。映像の「宮永亮」氏は「撮影」と「編集」の状況を分けねばならないとしても、「編集」は「卓上(デスクトップ)」で行われていると想像される。その他の多くの作家も、多かれ少なかれ「椅子」に「腰掛け」て制作しているだろう事は想像に難くない。そればかりか「郄田安規子・政子」氏の一部作品(「庭園迷路」)に至っては「屈む」姿勢によって生まれているとも言える。


制作中の作家がそうであった様に、これらの作品が腰掛けたり屈んだりして見る(見なければならない)位置にあり、観客もまた腰掛けたり(「宮永亮」氏の展示室での「腰掛ける」とは異なる)屈んだりして作品を見てみたらどうだろうかと会場内で妄想してみた。例えば展示室が畳敷きで、そこに卓袱台があり、その上に「青田真也」氏の「ボトル」、「郄田安規子・政子」氏の「軽石」や「トランプ」や「吸盤」、「福田尚代」氏の「原稿用紙」や「消しゴム」や「栞」等が展示されていて、観客はその卓袱台の前に座ってそれらを見るのである。


「西洋文明」の産物である「美術館」や「博物館」は、観客に「立って見る」事を強いる「装置」である。例えば多くの「仏像」や「屏風」や「襖絵」や「巻物」がそれらの場所で展示される場合、「立って見る」事に最適化された「展示」がされる。「仏像」や「屏風」や「襖絵」や「巻物」は、台座に載せられるか、展示ケースに入れられるかされ、「立像」のファーブル氏の持つ拡大鏡の高さまで連れて来られたマツノギョウレツムシの様に、「立って見る」目の位置まで引き上げられる。それらを「立って見る」事は、それらが元々属していた場所での「座って見る」や「屈んで見る」とは全く異なる体験だ。「美術館」や「博物館」の一般的な展示の「原則」は、「初めに『立って見る』事ありき」であり、それが疑われる事は無い。この「フラグメント」展もまた、その「原則」に「忠実」であると言える。


「フラグメント」展の作家は、その制作過程に於いて、やがて作品となるだろうものが持つ「微細な世界との幸福な距離感」を以ってその手を進めているだろう。その「微細な世界との幸福な距離感」に於いては、それは「不完全で脆弱な存在」でもなければ「どこか欠けている」ものでもなく、それ自体で「全体性」を有している。ファーブル氏にとっての「飼育ケースの中の世界」が、決して「現実からこぼれ落ちたフラグメント」ではない様に。或いは「全体」であると同時に「断片」でもある様に。



腰掛けて、或いは屈んで見る「フラグメント」展の作品は、作家の「微細な世界との幸福な距離感」を共有出来る様な気持ちになれるかもしれない。「郄田安規子・政子」氏のプロジェクト《修復/東京都現代美術館》は、「スカラベ・サクレ」を観察するファーブル氏の様に観客に「屈む」事を許し、「微細な世界との幸福な距離感」を、作家と共有する事が可能に思える数少ない展示の一つだろう。嘗て京都のギャラリー「モーネンスコンピス」の「本の梯子(福田尚代・かなもりゆうこ)」展では、「福田尚代」氏の《ランボーの手紙 #00》が、プライベートな形で観客に手渡された事もあった。その時「ライトボックス」による展示では得られない「微細な世界との幸福な距離感」が、作家の言うところの「空を仰ぐと、彼らは光と言葉の粒子となり、太陽に溶け、霧散し、〈うた〉となり、此岸と彼岸を行き来」する瞬間を観客に共有させてもくれたのである。


前回の「MOTアニュアル2012 Making Situations, Editing Landscapes 風が吹けば桶屋が儲かる」展は「連関」の展覧会だった。それは「展覧会」の「外部」へと「連関」として「繋がる」ものだった。しかし今回の「フラグメント」展に「外部」は無い。「連関」も無ければ「繋がる」も無い。それは「ファーブル昆虫記」同様、「世界との関係の在り方」をこそ持ち帰る展覧会だ。その世界は「否定」的にではなく「肯定」的に現れる。だからこそ観客が何処へ帰ろうとも、何処へ行こうとも、そこでの「波」や「ボトル」や「軽石」や「トランプ」や「吸盤」や「苔」や「原稿用紙」や「消しゴム」や「栞」や「プラレール」を始めとする様々な「フラグメント」を、ファーブル氏の「スカラベ・サクレ」の様に「微細な世界との幸福な距離感」を伴って「観察」する事が可能になるのだ。