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東京:2014年1月

承前


一ヶ月以上前の続き。

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再び新宿駅に戻り、都営地下鉄大江戸線に乗って六本木に向かった。


東京都港区六本木6-6=666に建つ「ピラミデ」を下から梯子する。「タカ・イシイギャラリー モダン」「ゼンフォト」を見て、エスカレーターに乗り「ワコウ・ワークス・オブ・アート」と立て続けに「写真」を見た。


他の美術作品同様に、「写真」もまた作品を見終えた後に「来る」ものがある。寧ろ「展覧会」会場内に「展示」されたものに対してしか何も見えず、一旦「展覧会」の外に出たら何も「来る」ものが無ければ、「展覧会」を見に行く意味の大方は失われる。例えば "Car Wrapping" の写真を見た後で再びドアの外に出てみれば、「ピラミデ」という建物やそこに入っているギャラリーを含めたテナント、或いは六本木という街の表面が、"prophylactic" な "Fespa Car" 的「薄膜」と同様のもので成立している事が見えても「来る」。


その写真に対して言われるところの「多数のレイヤー」は、写真の外の「世界」こそが持つ属性に違いない。その属性は、普段は極めて「自然」なものとして捉えられているが故に、通常の目には見えていないだけの話だ。こうしてこの様な「来る」の後には、目の前を通り過ぎる全ての車のヘッドライトに「その表面にそのものの核となるものが刻まれている」事が見えても「来る」し、それはまた「昭和」の風景を撮影した「写真」にも言える。「昭和」の「写真」を観た後には、「ピラミデ」とそれを囲む街の「昭和」が見えても「来る」。或いは「展覧会」を出て歩きながら街の風景を差延的に「二度見」すれば、「二葉の写真が並べられたもの」と同じものが見えても「来る」だろう。「写真」はそこに写されたものを見せるだけでは無く、撮影者が意図しようが意図しまいが、その眼差しの在り方(ものの見方)をも見せてもくれる。


3つの「写真」の展覧会の後に、同じ「ピラミデ」のもう一つの展覧会を見る。「世界」の「あらゆる場所」から来たとされる「ファウンドオブジェクト」の集積だという。この「展覧会」を見てから「輸入雑貨店」に行けば、「輸入雑貨店」が違ったものに見えて来るだろうか。或いは「輸入雑貨店」を見てからこの「展覧会」に行けば、「展覧会」が違ったものに見えて来るだろうか。


斜向かいの「断片集-'90年代-」で、「90年代はこうだっただろうか」と「90年代はこうだったかもしれない」と「90年代であってもやはりこうだっただろう」等が無い混ぜになる。「90年代」は「村上隆+中原浩大+ヤノベケンジ」で語り尽くせる訳では無い。寧ろ「90年代」展に「ポップアート(の系譜)」や「もの派(の系譜)」が展示されていても、些かもそれは無意味では無い。寧ろそれこそが「90年代」と名状されてしまう「回顧」的なものからの脱出線となるだろう。


「大使館」の町・元麻布まで歩く。喉が渇いたのでコンビニに寄ると、レジの人はコーカソイドの人だった。カタール大使館近くのギャラリーに入る。 "scope" という言葉が頭を過る。"microscope" や "telescope" の "scope" だが、"scope" には「(行動・思考・知覚等の)範囲、領域、作用域」や「思考力、知的能力」という意味もある。"scope" を通す事で、「具象」的なものが「抽象」として現れもする。ああそうだ。カメラという機械も「(行動・思考・知覚等の)範囲、領域、作用域」や「思考力、知的能力」を変換する "scope" の一つだった。


そこからまた歩いて「白金アートコンプレックス」へ。3階のギャラリー。「千人憑依」については、作家御本人が御丁寧に説明されているのでそれで十分だろう。そういうものとして見るならば、全くそういうものだ。出来ればこの1000枚のサイン色紙(の何枚かでも)が、実は「ゴーストライター」によって書かれていたらどうなるだろうか。加えてその「ゴーストライター」が、実は「セレブリティー」御本人であったらどうなるだろうか。即ちそれは、「王貞治(例)」を真似た「宇川直宏(例)」の「ゴーストライター」が、実は「王貞治(例)」御本人だったという「何が何だか」な状態である。或いは「王貞治(例)」を真似た「宇川直宏(例)」の「ゴーストライター」が「マイケル・ジャクソン(例)が憑依したイタコ」でも良いかもしれない。そんな愚にもつかない事ばかりを考えるばかりの会場内であった。


ワンフロア下のギャラリーの「展覧会」。「人」の「界面」は「皮」でなければ何処にあるのか。「免疫」を見るまでもなく、また「意識」を持ち出すまでもなく、「人」の「界面」は不確定だ。「いないいないばあ(Peek-a-boo)」が「顔(「眼」)」を隠すのには訳がある。赤ん坊は「眼を隠す/眼を晒す」事で、「他者」を「他者」として認識し始める。「他者」の「眼」の存在を知るのは視覚から、そして「他者」の「皮」の存在を知るのは触覚からなのだろう。そうしたものを含めた「総合」的な認識が、「他者」と呼ばれるものの不確定な「形」を形作っているに違いない。


白金高輪駅から面倒臭い乗り換えをして銀座に出る。移動時間ばかりに時間を取られる。田舎町の商店街並に早仕舞いする東京・銀座のギャラリーであるから、「残り時間30分」から考えて、銀座では候補に上げた展覧会の内の二つしか見られない計算になる。


アートエッグ」と題された展覧会に行った。これは「芸術の卵」と解せば良いのだろうか。「スーパー大辞林三省堂)」では「卵」を「 将来,ある地位や職業につくために,修業中の人」と解説しているが、「アートエッグ」もまたそういう事なのだろうか。一方で "egg" という英語には、日本語にある様な「〜未満」的なコノテーションは無く、従って "art egg" は「卵による芸術表現」や「卵形の芸術表現」」を意味するものになる。そうしたものに限定したシリーズ物の展覧会を、しかも天下の資生堂が行うというのもまた良きものであり、或る意味で「資生堂らしい」ものだとは思うものの、しかし実際には資生堂は後者の「卵アート」を意図してはいないだろうから、この「アートエッグ」も「英語風」であるには違いない。


主に「写真」を使った展覧会だった。我々は例えば「化粧板」に代表される様な、「写真」が環境化してしまった世界に日常的に生きている。最近の日本家屋の室内の大半は、「木目」等の「写真」が貼られた合成樹脂板である。決して誰もそうした「写真」の現在を「見過ごし」はしておらず、寧ろ十分に認識している。そうした時代にあってのこの「写真」の展覧会という事にはなる。


残る一件の展覧会会場を間違えて行った。慌てて昭和通りを渡り直して5丁目の「ショウケース」に到着する。クローズ5分前だった。「心文一致 "Ourselves in Today’s World"」と題されていた展覧会には、一般紙に取り上げられた事もあってか「現代美術」や「美術」そのものに親しく無さそうな紳士が来ていて、「これは素敵な絵だなぁ」という大きめの声を何度も発していた。今迄に「現代美術」の展覧会場で、「素敵」という言葉をこれ程の大音声で聞いた経験が殆ど無かったので、それは新鮮な体験だった。寧ろ「現代美術」には、「素敵」と言われる事を殊更に避けようとし、しばしばそれを自目的化する事に意味を持たせているという印象を持つものも少なくは無い。そうしたものは、多くの場合「頓痴気」や「乱痴気」を纏って現れたりもする。しかし「頓痴気」や「乱痴気」もまた、「美」的スタイルの一つとしての「素敵」でしかない。「頓痴気」や「乱痴気」という「素敵」は可であり、そうでない「素敵」が不可とするのは合理性を欠くものの、それが「美的判断」に基づくものであれば、どちらを取るにしてもそこに合理性は必要無いとも言える。


それにしても思うのだ。「wwwww」は「w」よりも「より笑っている」という事なのだろうか。即ち「wwwww」はシングルの「w」よりもその「強度」が高いという事なのだろうか。「wwwwwwwwwwwwwwwwwwwww」はどうなのだろう。ニコ動の画面に被さるそれら複数の「w」を見ていて常に感じるのは、それが些かも笑っていないという事しか感じない。もう少し言えば、「顔文字」やAAを「心理」の「表現」であるという建前を常に疑わしく思っている。寧ろ何も適切な文字列が浮かばない時に、空白を埋める「埋草」として「w」は使用されるのではないか。それは「芝居じみたもの」としての笑い声であり、「この場では(笑)風のもので取り繕っておけば良い」であり、「気の利いた表現を考え付く知恵も無いから『w』のキーを連打でもしておこう」という事なのかもしれない。「wwwwwwwwwwwwwwwwwwwww」という「埋草」は、当然の事ながら些かも発信者の笑いを表現してはいない。そうした「埋草」のみが画面を埋めて行く様な場に於ける「心文一致」の薄ら寒さに、「素敵」の「毒」が初めて効いてくるというものであろう。

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その数週間後に「プライベート・ユートピア ここだけの場所 ブリティッシュ・カウンシル・コレクションにみる英国美術の現在」展を見た。相変わらず海外の作品は心和む。日本以外の世界、日本人以外の人達、日本現代美術以外のものが、世界の大部分を占めているというその事実が、自分をして心和ませる。恐らく翻ってそれは、世界の何処からは日本の美術が心和む対象として見られているという事でもあるのだろう。世界人口の数十分の一が日本人であり、その数十万分の一が日本現代美術である。自画像を見る重要性は否定しないものの、自画像ばかりでは食傷気味にも偏食気味にもなる。しかもその自画像は、やはり自分とは別の日本人の自画像なのだ。


【了】