ルシオラの居る:ガラクタと写真

承前


モンドリアンという解釈で良いのだろうか。



建物奥の階段を上がって行くと、展示室へ入る途は左右二手に分かれていた。「ここに二つの部屋があります。部屋へ入るのに短い方を選びますか。それとも長い方を選びますか」。深く考える事無く短い方を選んだ。勿論そんな事で亜門虹彦氏(例)の様な人物に「心理分析」されても困るのである。


入った部屋は入口から左右に広がっていた。ギャラリー備品を使用した「インスタレーション作品」は、入口から見て右側に固まっており、従ってその「インスタレーション作品」は、部屋に入った観客を囲繞するというものでは無い様に思えた。一方、部屋の左側半分には何も無く、室内灯さえ消されていたから、そこには「作品」が無いものとその時は判断した。その「インスタレーション作品」は、観者に「対峙する」ものとして「正面性」を伴って現れていた。


部屋の半分にだけ「作品」を置き、後の半分は消灯してブラックアウトしてしまった部屋。通常それは「展示」として「至らない」ものにも見えたりする。「美大の講評会」的な観点からすれば、ややもすると「与えられた空間全体を使え」的な「指導」がこうしたものに対してはされ、その「チキン」振りを詰られたりもするかもしれない。しかしその時、或る考えが頭に過った。「インスタレーション作品」を見ている自分の背後に広がる、何も「無い」暗い部屋の半分もまた、実は「インスタレーション作品」を構成する一部ではないのか。証拠の様なものはある。作品の位置を示す平面図に記された、作品を表す「1」の文字が、図中の部屋の真中にレイアウトされていた事だ。そんな事を考え始めたら、背中から「気配」を感じて途端に落ち着かなくなった。



部屋を出ると、案内状では画像に隠されてしまった文言が目に入った。



「〜〜」


ルシオラは、〜〜〜〜


ある「もの・こと」が芸術作品になる、というのはどういう事なんだろうか、あるいは僕らがある「もの・こと」を芸術として見るというのはどういう事だろうか。もっと詳細に言えば、芸術作品とそうでないものの境目はどのように決められ、また芸術として僕らが何かを見る時、僕らはそこに何を期待しているんだろうか。


境目は、「芸術でないもの」を生み、期待があるとき、失望が


http://shinjukuza.jp/index.html


「芸術作品とそうでないものの境目はどのように決められ、また芸術として僕らが何かを見る時、僕らはそこに何を期待しているんだろうか」。「芸術作品(=部屋の右側)とそうでないもの(=部屋の左側)」。勝手に膝を打った。誤解に基づくものかもしれないが、打ってしまったのだから仕方無い。そして「そうでないもの」に「芸術作品」を見ている背中を落ち着かなくさせられたのだから、それもまた仕方無い事なのである。


次に入場路の長い方の部屋に入った。今度は「散らかり」に囲繞された。その「散らかり」の中に、落として壊れたハロゲンランプがどうのこうのというものが床にあった。それって本当かよと思ったものの、本当と思って見る事にした。それはプロレスの設定の様なものなのかもしれない。ならばその流血は本当である。


壁を見ると、再び「チキン」を目にした。これもまた「美大の講評会」的な観点からすれば、評者によっては「何故壁に直接描かないのか」とか「もっと大きなものを描け」と指摘したくなりそうな物件である。一つの「話」を仮構すれば、壁に直接ドローイングしたら後で消すのが面倒臭いし、ギャラリーには迷惑掛けそうだしで、壁と「同じ」色の養生テープを貼り、その上にちんまりしたドローイングを書いてみました的なものに見える。


しかしこれもまた「チキン」を装った「仕掛け」である事は恐らく間違いの無いところだろう。「芸術作品とそうでないものの境目」の曖昧化を意図して壁に直接描いたとしても、それは「壁画」という「芸術作品」のスタイルに瞬間的に回収される。一方で、紙等に描いてそれをピンやテープで壁に「仮止め」したり、或いは直接「糊付け」したとしても、それらは「壁の上の作品」といういつもの「芸術作品とそうでないものの境目」に依存する。養生テープという、未だ「芸術作品」の素材として認知されず、これからも認知されないであろう「支持体」の上にドローイングを描き、それを時限的に「芸術作品」の場所であるギャラリーの壁に貼り付けてみせる。「芸術として僕らが何か(養生テープ)を見る時、僕らはそこに何を期待しているんだろうか」。しかし「チキン」な接着力をしか持たない養生テープは、意地悪な事にそれを「芸術作品」として見ようとする努力を嘲笑うのである。


それ以外の「散らかり」もまた、それが前景化するには「芸術作品」として見る以外に無いものばかりだ。或いは前景化の企みとしての限界的な「芸術作品」の様々がここにあるとも言える。「チキンハート」を徹底的に行うという「ライオンハート」。「大胆不敵なチキン芸」。そうしたキャラクターは得難いものであると、これもまた勝手に膝を打つのであった。

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世界堂の裏を通り新宿二丁目へ。昼間の新宿二丁目の見物は、やはり「ルミエール」という事になるのだろうか。その「ルミエール」の先に、目的とするギャラリーはあった。きつい階段だ。あと何年かしたら、この階段を登れなくなるだろうと思った。


「標本」の様な作品だと感じた。向い合って存在する二つの展示スペースの一つの床には「散らかり」があった。その「散らかり」もまた、先程の「散らかり」とは違い「標本」的に感じた。展覧会タイトルの「ガラクタと写真」の「写真」に写されている被写体の多く、そして「写真」が「糊付け」された「ガラクタ」が元々帰属していた場所の多くは、東京の山谷、横浜の寿町、大阪の釜ヶ崎という事らしい。果たしてこれらの町の「共通点」から、観者は何かを想起すべきであろうか。


しかし折角の「新宿二丁目」なのである。「新宿二丁目」のギャラリーで行われる展覧会で、「新宿二丁目」の「標本」が如何様に展示されるのかには興味がある。即ちそれは、熱帯雨林の真っ只中で昆虫標本を見る様な体験になるだろう。そしてそうした「転倒」が「転倒」として展示されれば、個人的にそれを好まない訳では無いのである。


【続く】