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「展評:屑」

大工道具界に於いて、永年「仕上げ」作業の頂点に君臨してきた「台鉋」の吐き出す「鉋屑」には、一定の「美しさ」があるとされる。台が極めて良く調整され、砥が完璧に行われた「台鉋」からは、部材を傾けるだけでその上を自然に滑っていき、向こうが透けて見える様な「美しい」鉋屑が出るという「伝説」が生まれたりもする。傾けるだけで削れるんなら、腕の良い大工なんかいらないじゃん。いいえ、そんな事はありません。


そうした「台鉋」の「鉋屑」は、それ自体が「大工」の「腕の見せどころ」になっている嫌いが無い訳でもなく、「こんな『鉋屑』が出せるまでに『一人前』になった」という「証」、即ち大工の「卒業証書」的な意味もある。そこでは、たった一枚の「鉋屑」を挟んで「師匠」と「弟子」が向き合い、カンフー映画風の「もうお前に教える事は何も無い」的な「求道」のテーマが生まれたりもするのだろう。


「鉋屑」の存在自体もまた、「台鉋」によって仕上げられた部材「本体」が留まる「日常性」よりも、「『木』なのに『紙』みたい」とか、「『木』なのに『鰹節』みたい」、などという「意味の越境」的とも言える「非日常性」によって、寧ろ魅力的に目に映じたりしてしまったりもする。そんな「本体」と「屑」の間に発生する、「美学」の「下克上」状態に対し、「柱」や「床板」を始めとする「部材」は、「強い者だけが『美学』を制するのだ。俺の首をかっ切ってみろ!」と「逆下克上宣言」をしたりするだろうか。


こうした「美学」の「下克上」状態はまた、町工場の前に置かれたドラム缶の中に詰まっていたりする、切削オイルまみれの「旋盤屑」にも妥当する。その工場から出荷される「製品」には全く心動かされなくても、クルクルと螺旋を描いて紐状になった、ピカピカ光る「鋼鉄」という、「旋盤屑」の「非日常性」が醸す魅力に、ついふらふらと手を伸ばした子供が、その鋭利過ぎるエッジで指先を切ったりして、血をダラダラ流しながら母親に怒られるというのもまた、下町の「風物詩」だったりするのである。


いずれにしても、こうした「切削屑」の持つ「下克上」的「非日常性」は、特に子供が魅了されるところであり、その魔法に掛かった可憐な子供の一部が、そうした「切削屑」を使って「夏休みの工作」か何かを作ってしまったりして、しかしそれは大抵、教師からは高い評価を得る事が無かったりするのが落ちだ。「評価」の世界では、それは「だってこれって『屑』でしょ」で終わってしまう話であり、その後は「次からはちゃんとした『本体』を作りなさい」となってしまう。「蓮華草」と同様、「切削屑」もまた、「やはり野に置け」なものなのであり、「野」に置いてこそ輝くものを、「野」や「新築現場」や「町工場のドラム缶」から拾い上げて「作品化」して「主題化」するというのは、或る意味で、かなりハードルの高い「冒険」なのである。ましてや「副産物」としての「切削屑」ではなく、それ自体が、求めるところの「生産物」の位置にあるのであれば尚更だ。


昨日、都内某所で、こうした「切削屑」を「作品化」したものが、「大量/少量」に展示されている展覧会を見た。「大量/少量」と書いたのは、果たして「切削屑」の「大量」と「少量」は、どこで線引きされるのかという問題に、書いていて行き当たったからだ。「大量の屑」と言えば、それはもう「グロス」換算されるものであり、その「量」は「重量」や「体積」で表される。その基準からすれば、ここにある「屑」の「総量」は「大型ポリバケツ一杯」程度だろう。それは「屑」界的な基準からすれば「ほんのちょっと」であり、週明けの「ごみ収集場」に「45L」位のポリ袋に入れて出せそうな量だ。しかし一旦それを「作品点数」と考えれば、確かにそれは、5桁の数字であったりするそうだから「無数」に見えたりはする。しかしそんな事はどうでも良い。


もう一つどうでも良い事だが、この展覧会は、その会場も含めて「Tokyo Art Beat (TAB)」には、情報が上がっていない。現在「TAB」に上がっていない「展覧会」は、即ち「この世に存在しないも同然」を意味したりもするかもしれない。因みに「Google」でもほぼ引っ掛からない。しかしそれはちゃんと都内某所で「開かれて」はいるのである。


それもまたさておき、ここにある「切削屑」は、色とりどりのプラスティックの「切削屑」であり、それはくるくると弧を描いて「円環」を形成している。その「円環」の直径は、その「太さ」や「素材」等によって、それぞれに決定されるのだろう。


実作上の話で何だが、多くの「切削屑」同様、「丸まる」には「丸まる」に至る「丁度良さ」というものがある。超絶的な「鉋屑」が丸まらずに、初心者のそれが丸まる様に、超絶的な「大根の桂剥き」が丸まらずに、初心者のそれが丸まる様に、丸まるにはある程度の「『精細』を欠く」ところがなければならない。かと言って、力の入れ具合が不均等だと、カクカクしてしまったりして、それは綺麗な「円環」を形成しない。適度な「上手さ」と、適度な「下手さ」のバランスを、常に一定に保ち続ける事が、この「作品」の技術上の重要なファクターになっている。従ってこの「作品」は、「上手いな〜/下手だな〜」といった「巧術/拙術」の「彼岸」の位置に立って見るのが、恐らく正しいお付き合いの仕方なのだと思われる。


展示は大型の「床作品」1点と、壁には「切削屑」で構成された小振りの「立体作品」が数点。「床作品」は、様々な色と様々な直径の、そのバケツ一杯の、ファニーで Cawaii 色の「切削屑」が、部屋の真ん中に、「ランダム」な上にも「ランダム」に、何処から見ても、誰が見ても、「ランダム」以外の言葉が出ない様に、細心の注意を払われて「ランダム」にぶち撒けられている。とは言え、そこにはちゃんとした、適度な高さを持つ「ステージ」が設えられていて、その範囲内に「ランダム」が収まっているから、観客はうっかりそれを踏んだりして、後味の悪い「罪悪感」に陥ったりする様な「不快」な思いをせずに、それを心置き無く「鑑賞」する事が可能だ。


作家は「装身」系の人だという。その人が、壁掛けの作品を含めて、結構「現代アート」な事を、色々とやっていたりする。しかし「作品」単位では、一つとして「欲しい」と思える物は無かった。「欲しい」を基準に考えれば、どれもが少しずつ「残念」である。それらは「現代アート」的に適度に刺激的である一方で、同時に「現代アート」的に適度に退屈であり、ここでもまた「中庸」が生きていると言える。しかしそのぶち撒かれ、或いは「オブジェ」となって壁に固定された作品を「構成」する一つ一つの「円環」は、あの「新築現場」の「鉋屑」の様に、「町工場のドラム缶」の「旋盤屑」の様に、極めて「魅力」的であり、「欲しく」なるものばかりだ。DM の写真は、その「魅力」を余す所無く伝えていたのだが。


「鉋屑」や「旋盤屑」の様に、その場では「宝物」に見えてしまうそれらを「身に付けて」帰る。まるでそこらの雑草で「首飾り」や「髪飾り」を作って、それを「装身」して帰り、そして一旦帰ってしまえば、それを無碍に捨ててしまう様に。「装身」の人の作る、この「作品」のあるべき「場所」は、「そこ」なのではないだろうか。ポリバケツだか洗面器だかを彫刻刀で削って出来るリングの「実演販売」で、「おじちゃんこれ幾ら」「1万円」みたいなそんな感じ。それを「発表場所」を深長に/慎重に「弁えて」やれば、そちらの方が「現代アート」的には今よりは面白いと思うし、それは「アート」という名の「錬金術」に思いを至らせる試みにはなるだろう。そして購入者が、それを装着して、運良く/運悪くそれで指を切ったりして、血をダラダラ流しながら帰るのも、それはそれで「現代アート」の「風物詩」ではないか。