崇高

承前


モナ・リザ」が描かれた頃(1500年)には、世界人口は4億人強だった。その内、全「ヨーロッパ」の人口は、6000万人台から8000万人台で、全「アジア」の人口は、2億人台から3億人台。「ヨーロッパ人」の世界人口に占める割合は1割台から2割台。世界人口の5割〜7割は、「アジア人」が占めていた。現在の意味での「イタリア人」は1000万人で、フィレンツェの人口は7万人。同じく現在の意味での「日本人」は1700万人だった。


明治維新」の頃(1870年)になると、世界人口が約13億人で、1500年の3倍強となり、現在の「中国人」とほぼ同数になる。その内、全ヨーロッパの人口は約3億人。全アジアの人口は約8億人。世界人口に占める「ヨーロッパ人」の割合は2割強。やはり6割強は「アジア人」だ。


夏目漱石の「永日小品」が書かれた頃(1910年)には、世界人口が17億5千万人になり、その内「ヨーロッパ人」は約4億6千万人。「アジア人」が9億7千万人。


それから100年経った現在の世界人口は、100年前の4倍にあたる69億人。内「ヨーロッパ人」は7億人強。アメリカ国やカナダ国等を足しても10億人余り。そして「アジア人」は42億人。


現在の世界人口69億人の内、「モナ・リザ」という絵の存在を「知っている」のは果たしてどれ程の割合だろうか。それを100%とするのは余りに楽観的過ぎるものの、50%では悲観的過ぎるだろう。


しかし、その一方で、この絵が描かれた1500年代の初頭に、世界全体の人口に於けるその割合を50%とするのは余りに非現実的であり、また当時の「ヨーロッパ人全て」や「フィレンツェ市民全て」という、これもまた非現実的な前提に陥るのでなければ、それが小数点以下のかなり低い数字になるという事は明らかだろう。


この「モナ・リザという絵の存在を知っている」割合を、描かれた当時の「人類全体」に於いて「無視」し得ると解釈する事も出来る、但し逆に、「モナ・リザ」を知っている人間以外は「無視」し得るとするならば話は別なのであるが、いずれにせよ、1500年代のコンマ以下の「微々」たる数字から、現在の「人類の至宝」の数十%にまで高めたのは、偏に「通信技術」や「複製技術」等の発達による。


「永日小品」に見られる様に、ヴァルター・ベンヤミンの「複製技術時代の芸術」が書かれる1935年(昭和10年)の26年前、「開国」間もない極東の島国に於いて、「モナ・リザ」の「複製画」が、「古道具屋」の棚にひっそりと並び、現在の価格にして額込み数千円で買える程には、既に「モナ・リザ」は「ポピュラリティ」を獲得している。但し登場人物である「井深」の同僚(「役所」勤めの「公務員」であるから、それなりに「インテリ」である)は、それでも「モナリサ」も「ダ ヴィンチ」も「分らない」のであるが、それにしたところで、ほぼ全ての日本人が、その実作に直接触れる事の無い時代、という事は、ほぼ全ての日本人が、その実作の持つ「アウラ」に触れる事の無い時代、しかし「モナリサの唇には女性の謎がある。原始以降この謎を描き得たものはダ ヴィンチだけである。この謎を解き得たものは一人もない」などと、その「アウラ」について軽々に書けたりするのは、これもまた偏に「複製」マジックなのであるし、そもそも「ダ・ヴィンチ」や「モナ・リザ」を「最初」に価値付けた「美術家列伝」の「ジョルジョ・ヴァザーリ」にしてからが、その実作を全く見ないで、しかしその「アウラ」を語ってしまっているのである。


現在「モナ・リザ」が所蔵されている「ルーブル美術館」には、年間800数十万人の入場者が訪れるという。それでも世界人口全体の69億人を賄い切れる事はないだろう。何せ800数十万人ですら、世界全体からすればコンマ以下の数字なのだ。


ルーブルに訪れて、彼らコンマ以下の「観光客」は、こうした状況で「モナ・リザ」の「アウラ」に触れる。



そこでは「複製画」程にも細部を観察する事は出来ないし、或る意味で、その「本物」は「『複製画』以下」ですらあるが、それでも恐らく何にも代え難い「アウラ」はあるのだろう。


本当か?


「複製技術時代」以降の「20世紀」に於いて、遡行的な形で「発見」された、「アウラ」なる「概念」は一体何なのか。