接続

承前


幼児造形教育の場に於いて主に使用されるものとしては、紙と描画材、或いは粘土等といった可塑材を上げる事が出来る。紙に絵を描いていく事を「絵画の原形」として捉えるとして、また粘土で立体物を作っていく事を「塑像の原形」として捉えるとしても、「彫り刻む事」としての「彫刻(「彫塑」の「彫」としてのカービング)の原形」は、使用工具の危険さも相俟って、幼児造形教育の場で見る事は余り無い。所謂彫刻刀の使用を大人から許可されるのは、紙やクレヨンや粘土を与えられた時から数年後になる。「彫塑」の「彫(カービング)」は、幼児造形教育では余り親しいものではない。


「彫」に変わる形で幼児造形教育に於いて多く使用されるものは積み木だろう。積み木もまた、一義的には立体物を作り上げるものだ(当然積み木による絵画=貼り絵もあり得る)。しかし積み木による造形は、「彫塑」という言葉を構成する「彫」「塑」のどちらでもない。美大のカリキュラムやクラス編成でも、「カービング」や「モデリング」はあっても、通常「アセンブリング」は存在しない。「積み木の大家」という存在はあり得ない。積み木は、人生の初期段階に与えられ、早い段階で卒業する事を望まれる造形材料と見られている印象がある。


積み木には、何処かで「(笑)」や「w」が付き纏う。「積み木(笑)」や「積み木w」にどうしてもなってしまう。1990年に中原浩大氏がレゴを使用した「レゴ・モンスター」を発表した時にも、やはり周囲の反応は「レゴ(笑)」混じりであったし、中原氏自身にもレゴを使用する事でそうした「(笑)」を狙ったところがあったと思われる。仮に中原氏が「レゴ・モンスター」と同様の形態や形状の作品を大量の粘土で作っていたとしたら、「(笑)」は決して付かなかっただろう。それはレゴが「おもちゃ」であるかどうかという問題とは異なった「(笑)」である。


造形の「自由度」という点で、積み木は、紙と描画材や粘土に譲るところがあるとは言える。その形態や形状はプリペアドされたものだ。白紙に絵を描いていったり、粘土を形あるものとして作り上げていく事を「自由意志」の現れであるとするなら、決まり切った形の積み木という存在自体、造形に於ける「自由意志」の阻害要因ではあるだろう。紙になら、その修業の成果によって、鳥を「リアル」にも、極めて可愛らしくも、或いは無上に抽象的にも、その「自由意志」によってどうにでも描ける。粘土の場合も同断であろう。しかし積み木で鳥を作ろうとすれば、その「不自由」さばかりに行き当たってしまい、どうしても「見立て」等の機制に頼る事になる。




こうした事から、積み木が造形材として「劣位」なものとして認識されている一方で、同時に「アセンブリング」という造形法もまた「劣位」の技術であると見られている。立体造形に於いて「彫」や「塑」と同列の位置に「組」は無い。確かに、工業製品のアセンブリ・ラインでの「アセンブリング」は、「創造性」に欠けた計画の遂行でしかないとは言える。しかし積み木に見られる「アセンブリング」は、決して計画遂行的とは言えない。積み木の「アセンブリング」には、計画から逸脱出来ない「不自由」があるのではなく、「自由」の「障害」が存在するという「不自由」である。


積み木は「アセンブリング」である為に、当然複数の要素を「組み合わせる」事によって造形するものである。A という要素と、B という要素を接続しようとする時、例えばレゴのダボに見られる、接続をアシストする構造を持たない KAPLA(前掲画像)の様な所謂積み木の場合、接続の際の方法論は幾つかに限られる。接続とは表面と表面を合わせる事であるから、そこには何らかの「法則性」が必要だ。即ち KAPLA のどの面とどの面を、どの位置で、どの様に合わせるのかを常に問われる。長さや高さを得る為の接続、強度を得る為の接続、ボリュームを得る為の接続、太さ(細さ)を得る為の接続、角度を得る為の接続、造形系の接続と構造系の接続等々を、重力の法則や摩擦係数等に頼りながら探っていかなくてはならない。確かにこれは「不自由」かもしれない。


紙に絵を描いたり、粘土で塑像を作るというのは、例えて言えば、平坦に整備された何も無いグラウンドで遊ぶ様なものだろう。そこで子供は「自由」に「思い切り」身体を動かす事が出来る。子供の「自由意志」を阻害する要因は、整備されたグラウンドには存在しない。その一方で、野山で子供を遊ばせるというケースもある。そこには真っ直ぐ行く事を阻む岩や木や草や川や溝がある。勾配がきつかったり足元が怪しかったりもする。行こうと思って行ける場所がある一方で、どうやっても行けない場所もある。子供はそこで「全能」的「自由」の限界を知る。そのどちらが「創造性」を「伸ばす」のにより「役立つ」かという議論にここでは与しないが、近代的工場で、平滑な上にも平滑に作られ漂白された紙や、異物を全て取り除きミルで同じ大きさの粒子に整えられた粘土に、「抵抗感」というものが不足している事は確かだ。幼児造形教育で、例えば波トタン板に絵を描かせるとか、異物や硬さの違う素材を混ぜ込んだ粘土を使わせるという事はほぼ無い。そうした「抵抗感」は、子供の「自由」を阻害するものだからだろう(飽きるという事もあるが)。その断から言えば、ゴツゴツした洞窟壁面に絵を描いた人達には十分な「自由」が無かったし、石を叩いて尖らせる事しか出来なかった人達にも十分な「自由」が無かった。工業の発達によって、極めて描き易い紙が開発され、それが人々に安価に提供されるまでに産業として成長し、精錬技術によって色取り取りの顔料が生まれ、一方で粘土生産の質が高くなり、そしてようやく人類は「自由」な「創造性」を手にしたのである。そうなのか。

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国分寺に着いたのは、ギャラリークローズ時間の20数分前という滑り込みだった。ギャラリー隣のコイン駐車場に車を入れ、そこからあたふたとギャラリーに入る。既に案内状等で馴染みのあった、ユニットの反復による「何処で切ってもそれの儘」なブランクーシの無限柱を倒した様な形状の作品が床の上に延びていた。



http://www.switch-point.com/2012/1214tomii.html


「今日の彫刻の人」でもある。


http://togetter.com/li/187926


しかしその「今日の彫刻」には、「彫刻」とは銘打たれてはいても、「カービング」も無ければ「モデリング」も無い。その全てが「アセンブリング」によって「出来上がっている」ものばかりであり、凡そ「アセンブリング」で構成された現実世界からピックアップされた、選択的「アセンブリング」の「妙」をこそ見るものである。


「今日の彫刻」は「妙」を見出す「見立て」の一種と言えるだろうが、他方でこの人の作品と呼ばれるものも、そのほぼ全てが「アセンブリング」であり、また芸風としてもやはり「妙」の系統と言えるだろうし、その上何処かで「(笑)」の系統でもあるだろう。「アセンブリング」であるから、要素間の接続の部分に気を配っている様に見える。前述した様に、接続に際しての接続の根拠が、常に「アセンブリング」には問われる。


A の上に B を置く。これが最も簡単な接続であろう。A の上に B が置かれねばならない理由(ミシン台の上に蝙蝠傘を置くだけで煩いの何の)は別にして、その場合の接続の根拠は概ね省略出来るし、大抵人はそこを聞きはしない。接続の根拠が問題化するのは、重力という強力な後ろ盾に頼れない場合、或いは頼れなくなりそうな場合の接続だ。再びブランクーシの無限柱を考えてみる。無限柱のユニット単体を単純化して10面体とすると、観客から見えている台形の8面は「造形面」と言える。そして残りの2面、即ち作品設置の際に地面と平行になる面は、擦り合わせ面としての「構造面」と言える。無限柱の「造形面」は「造形」のみに奉仕する。或る意味で、ここにトーテムポールの様な造形を施しても構わない面である。しかし「構造面」はそうは行かない。ここだけは、ユニットを縦方向に「無限」に「積み上げる」という確固たるビジョンが存在する為に、精確な平行性と面としての精度が要求される。そこにはトーテムポールでなくても、実際の無限柱の「造形面」にある微妙な三次曲線でも排除の対象になる。ユニットの擦り合わせ面に精度が要求される点で、ブランクーシの無限柱は何処かでこれと同じなのである。


http://www.kaplazoo.co.jp/record/index.html


無限柱の場合は、縦方向に積み上げるという譲れないビジョンがあるが故に、水平と平滑という擦り合わせ面の条件が、ビジョンの後から決定された。一方このジーンズ作品の場合は、ジーンズをくるくると丸めたら、あらら擦り合わせ面が見えて来ちゃいました、さてどうしたもんでしょうかねから始まっている印象がある。ここにはブランクーシの様な譲れないビジョンというものは無いだろう。接続によってジーンズは長大化するものの、その長大化の法則性は、無限柱とは逆に、ジーンズを丸める事で事後的に生起した摺り合わせ面から導き出されているという印象を持った。恐らくここにはブランクーシの様な形でのビジョンは無いだろう。あるのかもしれないが無さそうには見える。無いから悪いと言っているのではない。寧ろあったら鬱陶しい。


ドリフの「もしもシリーズ」ではないが、もしもこの「ジーンズ(笑)」が床に張り付いておらず、この摺り合わせ面を生かしつつ、無限柱、或いは積み木の様に、縦方向に積み上げたらどうだろうと会場で想像してみた。頭の中のそれは、3段位でヘニャヘニャと崩れ落ちてしまった。それが実際に10段位積み上がっていたら、単純に「おおっ」と思っただろう。バンドで包めば、少しは強度も増すだろうから、その時には15段位は行けるかもしれない。いや蛇足。


「もしもシリーズ」ついでに、壁面のラムダプリントのものを含めた作品に使用されている「衣服(笑)」が、全て無印良品の生成りだったらどうだろうと会場で想像してみた。それから只の布地でやってみたらどうだろうかとも想像してみた。当然その形態に於いては変化が無かった。それでも何処かに差があるとしたら、果たして想像の中のそれらと、目の前にある作品とのその差分とは一体何だろう。やはりハイデガーとかになるのだろうか。そう言えば、ピカソのコラージュも、日用品使用と言えば言えなくも無い。あれは一体何だろう。あの新聞の活字や柄の布地が意味するものは何だろう。いやこれも蛇足。



そうした蛇足ばかりで20分はあっという間に過ぎてしまった。この日最後の客として、クローズ時間2分前の18時28分という「丁度良さげ」な時間に会場を出た。これで月曜はお終い。翌日の火曜には月曜が休みというアートイベントを青梅に見に行く事にした。


【続く】