動物/植物

承前


ゲル (家屋)


ゲル(モンゴル語: гэр、ger)は、主にモンゴル高原に住む遊牧民が使用している、伝統的な移動式住居のこと。日本では、中国語の呼び名に由来するパオ(包)という名前で呼ばれることも多い。


テュルク語では古来から「ユルト、あるいはユルタ(يورت Yurt)」と呼ばれたもので、現在でもテュルク系遊牧民のカザフ人やキルギス人が用いるユルトはほぼ同じ形状である。緩やかな草原地帯に適しており、より乾燥し起伏の多い西アジアではテュルク系遊牧民も方形の移動式住居を使っている。


構造


ゲルは円形で、中心の柱(2本)によって支えられた骨組みをもち、屋根部分には中心から放射状に梁が渡される。これにヒツジの毛でつくったフェルトをかぶせ、屋根・壁に相当する覆いとする。壁の外周部分の骨格は木組みで、菱格子に組んであり接合部はピン構造になっているので蛇腹式に折り畳むことができる。(「マジックハンド」と呼ばれる玩具の伸縮部分と構造は同じである)木組みの軸にあたる部分にはラクダの腱が使われる。寒さが厳しいときは、フェルトを二重張りにしたり、オオカミなどの毛皮を張り巡らしたりして防寒とする。逆に、夏の日中暑いときはフェルトの床部分をめくり、簡単に風通しをよくすることができる。


内部は、直径4〜6mほどの空間である。ドアがある正面を南向きにして立てられ、入って向かって左手の西側が男性の居住空間、向かって右手の東側が女性の居住空間である。中央にストーブを兼ねた炉を置いて、暖をとり、料理をするのに使う。炉は東側を正面にするように置かれており、女性の側から扱いやすいようになっている。向かって正面はもっとも神聖な場所で、チベット仏教の仏壇が置かれたりする。頂点部は換気や採光に用いられるよう開閉可能な天窓になっており、ストーブの煙突を出すことが可能である。


モンゴル帝国の時代ころまでは車輪をつけ、ウマを使って引っ張って長距離を簡単に移動できるゲルが存在したことが、当時の旅行記の記録からわかっている。現在はそれほど大規模な移動は行われないため、移動のたびに分解してラクダの背やトラックに乗せて運ぶ。分解や組み立ては共に遊牧を行う数家族の男たちが総出で行い、数十分から1時間で終わる。


Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%AB_%28%E5%AE%B6%E5%B1%8B%29


ゲルの中は広く、思いの外快適だった。但し、ゲル暮らしを一生のものにするかどうかと考えると、定住の発想が抜け切らない者にとっては、ハードルが高いとも言えなくは無い。一昨日書いた「風呂」「便所」「水道」は元より、「セキュリティ」を始め、他にも定住生活で当たり前と思っているものが、ここには無かったりするものの、しかし意外とそういうものに慣れてしまうかもしれない。

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現在郵便物は、五ヶ所〜六ヶ所の住所のものが、現時点で年間を通じて最も寝泊まりする場所に纏めて送られてくる。この十年ばかりの間にそれだけ「引っ越し」を重ねているという事になる。当然転居通知というものは出すには出すが、しかし人は他人の転居などには大抵関心が薄い。況してやそれが頻繁であれば尚更だ。何度も転居通知を出そうが、一向に多くの郵便物の宛書が改まって来ないのはそういう事だろう。従って郵便の転送サービスは、最長の住所で十年以上更新中だったりする。郵便を送る人間は、今でも「そこの人」だと思っているだろうが、勿論既に「そこの人」ではない。


それでも日本郵政の郵便はまだ良いとして、旧住所で送られてくる宅配便(所謂「メール便」含む)は、現在どうなっているか判らない。旧番号で掛けられてくる固定電話もどうなっているか判らない。そうした「音信不通」の場合、相手にとっては「いなくなったも同然」という事であり、或いは「死んだも同然」にさえ近い。郵便、宅配便、固定電話…。これらは定住が前提のサービスであり、また銀行口座やクレジットカード等も住所登録が必要であるから、それらも定住が基本のものである事は間違いない。況してや地方銀行や信用金庫等に至っては、土地への定着が基本である。


あの車寅次郎氏がクレジットカードを所持しているかどうかは判らないが、郵貯の口座位はあるかもしれない。その際、やはりその登録住所は、東京都葛飾区柴又・柴又帝釈天の門前にある草団子屋「くるまや(とらや)」になっているのだろうか。しかし車寅次郎氏がそこにいる事は、広く知られている様に稀である。車寅次郎氏宛の郵便物や宅配便というものを想像するだに、彼は宛先が常に「気付」の人だろう。恐らく固定電話の加入権は持っていないと思われる。


車寅次郎氏を「葛飾柴又の人」という、土地への帰属に基づいた見方をする事はその意味で誤っている。車寅次郎氏ならずとも、誰でも「生まれ育った土地の人」と一生規定し続けられるのには、一定の抵抗感はあるだろう。映画の中の車寅次郎氏は、車氏とは別人格の山田洋次氏(車寅次郎氏は、山田洋次氏の「知る」範囲のそれより常に過剰であり続ける)が、常に「葛飾柴又」にカメラをフィックスし、「葛飾柴又」の目を通した「帰って来る」視点で描いている為に、車寅次郎氏その人に対してもそうした見方がされるのだろうが、車氏自身はその時々にその時々の人なのである。彼が放浪した各地を基点にフィルムを回せば、そこでもまた「くるまや」と全く同じ、「帰って来た寅さん」のシーンが撮れる筈だ。車寅次郎氏の顔付きが、まるでリチャード・ギアの様になり、着ているものがソニア・パークのコーディネートになり、名前が「TORA」になり、フランス語を喋り、「帰って来る」場所が葛飾柴又ではなく、フランスの片田舎であり、「懐かしい顔」の面々が松竹=山田洋次氏の描くそれと全く変わってしまったとしても、車寅次郎的には全く当たり前の出来事なのである。これを「リメイク」や「パロディー」としてしか見られないのであれば、それは車寅次郎氏の「〜になる」という「動物」的能力を侮っていると言えるだろう。


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遊牧民程ではないが、しかし多数回の引っ越しは、相対的に定住の意識を薄らがせる。常に何処にいても、生家を含めて「仮住まい」感覚が抜けなくなっている。「懐かしい顔」は、嘗て住んでいたそれぞれの土地にいるものの、最古(即ち「生まれ故郷」)のそれが最も優先されるものであるとも限らない。土地への帰属を最も反映するのは話し言葉だが、それとて今は何処の言葉だか怪しくなっている。


定住の意識の最も顕著なものは、物を溜め込む事だろう。定住の感覚で物を溜め込めば溜め込む程、移動の足枷になるのは確かだ。物の多さは、そのまま引っ越し費用に反映するし、それだけ引っ越し先に広い物件を必要とする。快適な引っ越しの為には知らず知らずの内に溜まっていった物を捨てる事をしなければならない。本は往時の3/4を捨てた。その中には「美術手帖」も「現代思想」もあった。今はそれらは殆ど手許に残っていない。捨てた時の記憶すら捨てた。それでも移動を基準に考えれば、まだまだ本が多過ぎる。何もそれらを持っていなくても、気の利いた図書館に行けば良いのだと考えれば、もっと捨てられる筈だ。全ての本を自炊して、データをサーバに入れ込んでおくという手もあるだろうが、しかし自炊作業自体が面倒臭いし、量的に現実的では無いのでそれはしない。


上掲のモンゴルのゲルの場合も、何から何まで溜め込む事をしていたら、「移動のたびに分解してラクダの背やトラックに乗せて運ぶ」事は難しくなる。彼等の様な遊牧の民には物を溜め込む事、即ち「蓄え」という概念が、定住者程には無いのではないだろうか。リフリジエーター(電気冷蔵庫)が発明されるまでは、凡そ人類の「蓄え」の対象に、遊牧民の生活の基盤である、生体から切り離されたと同時に腐敗が進む「肉」も「乳」も入ってはいなかった。人類史に於ける倉庫の起源は古いものだが、しかしそこに「蓄え」られてきたのは、専ら腐敗のリスクが少ない穀物だった。即ち倉庫とは、穀物生産を営む定住者のものである。ゲルの中には収納の機能を持つ構造は無いし、住まうゲルとは別建ての倉庫ゲルがある訳でも無い。彼等は動物と共に生活を営むが、定住者の様に動物を人間に合わせて「囲う」訳ではない。「動物をできるだけ自由に放任して、人間がそれにあわせることによって、かえって人間が新しい移動的生活の契機を発見したのではないか(松井健)」。一方植物である穀物生産を基点にすれば、「人間がそれにあわせることによって、定住的生活の契機を発見したのではないか」とも言えるだろう。「動物化するポストモダン」こそは「動物」なのであって、「植物化するポストモダン」とは言わない。恐らく「植物化する車寅次郎」という存在も無いし、仮にあり得たとしてもそれは放浪の人としての車寅次郎氏の終わりを意味する。奮闘努力の甲斐あって偉い兄貴になり、生まれ育った葛飾柴又で家を買って、家庭菜園に勤しむ様になり、30年の住宅ローンを組む車寅次郎氏という姿を想像するのは辛いものがある。

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ゲル(パオ)に泊まった日は寒かったが、暖房は良く効いていた。直島のゲルは高原とは違い、海岸に設置されている。一晩中フェルトの外の波の音が聞こえる。瀬戸内海であるから外海とは異なるものの、それでも荒れる日が無いという訳では無い。あの海はここまでやって来ないだろうか。やってきたらどうなるだろう。そんな愚かしい不安を、しかし完全に払拭させられる様なものは、考える事を止める事か、忘却する事位のものだろう。「今はよ 今はよ 静かな海もよ 一度荒れたら 岩をも砕く(おやじの海)」。すぐには眠れない夜に、ふとつまらない事を考えた。「天候化するポストモダン」。「動物」も「植物」も「天候」には逆らえない。しかしすぐに考えるのを止めた。考えても詮無い事だと思った。「天候」や「地質」は「化する」対象ではない。況してや「天候変動期の文化」や「地質変動期の文化」を考える事は愚かしい。


何故ベネッセは、このゲル(パオ)に「ドローイングや絵画、版画」を掛けて「ミュージアム」としなかったのだろうか。しかしそれもまた愚かしい考えではあるだろう。ゲルの「セキュリティ」は皆無に等しいし、「ドローイングや絵画、版画」を掛ける様な構造を持っていないし、フェルトの壁は美術品の「保存(蓄え)」にも適してはいない。試しにゲルに「ミュージアム」の部屋に掛かる蔡國強を掛けてみた。駄目だった。ソル・ルウィットを掛けてみた。駄目だった。どれもこれもがゲルの壁からするりと落ちてしまう。パオの壁はそういう風には機能しないのだ。


カルチャー(culture)はアグリカルチャー(agriculture)のそれだ。畢竟、カルチャーは「耕す」民のものであり、それによって生まれた生産物を「蓄え」とする民のものであろう。美術館とはまた、美術品の倉庫であるとも言える。美術品は倉庫に入れる物であるから決して腐敗しないものである。不朽のものである。短時間に腐敗するものは、倉庫に入れる資格を欠いている。そういう信憑が、定住者の美術概念を支えている。定住者の文化=穀物の文化=植物の文化=倉庫の文化(culture)は遊牧の対極にある。ベネッセハウスという、宿泊可能な文化の倉庫に隣接したパオは、そうした定住的文化の外部を示し得ていると言えるだろう。


果たして遊牧の美術は可能だろうか。アトリエ、スタジオ、ファクトリーといった、不動産に依存して生産される美術は、遊牧の美術の資格を得るのが難しいだろう。遊牧の条件は、移動に堪える生活力である。永遠に倉庫に保存される事を目的とするものもまた、遊牧的とは言い難い。円空仏や木喰仏は、遊牧の美術かもしれない。彼等が、所謂「サイトスペシフィック・ワーク」と異なるのは、地域性とやらを作品に入れなかった事だろう。遊牧民にとっての移動先は、地域性を帯びては現れない。一方「サイトスペシフィック・ワーク」は、「旅をする定住者」の視点で作られる。「サイトスペシフィック・ワーク」の作家の多くは、行く先々の「そこの人」にはならない。現在の「そこの人」の属性を移動と共に捨て、新たな地で別の「そこの人」になる遊牧民とは異なる。カルチャーである「サイトスペシフィック・ワーク」は、「〜になる」という動的生成変化の能力に欠けている。カルチャーには、帰るべきイメージとしての「葛飾柴又」が常にある。



今現在のベネッセは、ゲルとは一切の関係を持っていない。嘗てゲルとゲルの間に設置されたカレル・アペルの「かえると猫」からも、突堤の草間彌生の「かぼちゃ」からも遠い「直島ふるさと海の家つつじ荘」にそれらは移動した。思い出すだに、直島の野外彫刻とパオの取り合わせというのは、笑ってしまう位に互いに互いを必要としていなかった。野外彫刻とは言え、それは大地にフィックスされている。一方のゲルはいつでも移動の機会を伺っている。そして実際に、ゲルはアペルや草間の前から軽やかに姿を消した。一方のアペルや草間は、ベネッセに取り残されたまま、永遠にベネッセから移動する機会を失っている。


【一旦了】