風流2.0

承前


雪やこんこ 霰(あられ)やこんこ。
降つては降つては ずんずん積(つも)る。
山も野原も 綿帽子(わたぼうし)かぶり、
枯木(かれき)残らず 花が咲く。


雪やこんこ 霰やこんこ。
降つても降つても まだ降りやまぬ。
犬は喜び 庭駈(か)けまはり、
猫は火燵(こたつ)で丸くなる。


日本海側には雪が降り積もっている。太平洋側が知る由も無いスケール感で雪が降り積もっている。「雪やこんこ」などと、待望を込めて歌っていられない位に降り積もっている。そこでは「ずんずん積る」や「まだ降りやまぬ」は、単に恐怖をこそ表わす。その様なトン単位の雪では、犬も恐ろしくて外には出られない。万が一、不注意にも外に出たりすれば、すぐにもメートル単位で降り積もった雪に嵌り込んで、一瞬の内に凍死してしまうだろう。そんな雪には、犬など為す術も無く、屋内で丸くなるしかない。この唱歌は、パラパラと降る雪が嬉しくて堪らない様な犬が棲息する国の人によるものだろう。少なくともそれは、シベリア育ちの人の作でない事は確かだ。


2〜3日中に、そんな豪雪の地に行こうというのだ。ネット環境も皆無だ。スマホも切れ切れになる。スキー板を持って行くでも、スノーボードを持って行くでも無い。全く以て「酔狂」な話である。「美術館」があり、「音楽堂」があり、「博物館」があって初めて、「文化」的であると称されるのであれば、それらが皆無なその地は、「雪」と「老」しか無い「『文化』不毛の地」であるとバッサリと切り捨てて良い事になるだろう。「文化」のエヴァンジェリストを自認する様な、都会の酔狂者が大挙押し寄せて来て、田圃の中などに無償で「アート作品」でもわらわらとぶっ立てない限り、そこには「文化」は「無い」。そうした「僥倖」の到来を願うか、「ふるさと創生」や「原発誘致」みたいな何かの間違いで、いきなり地元自治体に大金が入るかしなければ、そこは「文化」は全く望めないし、そもそもが「文化」の「潜勢力」すら、「雪」と「老」のその地には「無い」。経済を含めたあらゆる「潜勢力」に於いて、「持てる者」と「持てぬ者」の、厳然たる「非対称」の元に存在するのが「文化」だ。しかしそんな「『文化』不毛の地」にも「風流」はある。


そことは別の日本海側の町に、富山県高岡市がある。人口が15万人強の立派な「市」である。内井昭蔵設計による「公共建築百選」となった「美術館」も、「大英博物館」と見紛うばかりの(いや決して見粉いません)「博物館」も存在し、そればかりか「イオンモール」すら存在してしまう。これこそが、明治以降の我々の知るところの「文化」というものであろう。立派である。Google ストリートビュープリウスは来ないが、しかしここを、間違っても「文化不毛の地」などと言ってはならないだろう。高岡は嘗て(飽くまで「嘗て」)「北陸の商都」と呼ばれていた事もあり、また「彫刻」の人にとっては、「銅(器)の街」としてつとに有名である。ブロンズ像の一つも製作しようと思い立てば、そこには必ずと言って良い程に「高岡」がある。全てのブロンズ像は「高岡」に通ずる。あのテレビドラマ「水戸黄門」の第24部(水戸光圀佐野浅夫)の第24話、「慕う坊やに娘の真心・高岡」でも、高岡は「銅器の街」として御隠居に軽く蘊蓄されている位に「銅器の街」である。


ついでに言えば、高岡は「コロッケの街」でもあるらしいのだが、だからと言って、駅に降り立った瞬間から、それを振り払わなければならない程の「餃子」攻勢に会う「餃子の街」宇都宮の様な駅前姿を想像してはならない。食いしん坊キャラのうっかり八兵衛(私見では「うっかり八兵衛」→「キレンジャー」)が「ここはコロッケの街だって聞いていたんですけど、コロッケを売っている店なんか、何にもありゃしないじゃないですか」などとぼやくと、シャッター通り前の御隠居が「助さん格さん、これは何かありそうですな」などと「悪徳奉行」や「悪徳商人」の手による「事件」の可能性を語ったりするかもしれないが、いや御隠居、そんな1時間で解決するような分かり易い「事件」なんてここには何も無いです。


それはさておき、Wikipedia の「高岡銅器」の項目には、「日本における銅器の生産額の約95%を占めている。梵鐘などの大きいものから、銅像などの細かい作品まで、その多彩な鋳造技術は全国的にも有名である」と記されている。高岡市内(「市内」としか言い様の無い場所)には、「高岡大仏」という、「奈良大仏」「鎌倉大仏」に次いで、日本三大仏の三番目の座を、他の諸大仏と競う20世紀産の大仏があるが、これも当然「銅器(以後「銅」)」である。



兎に角、日本国中のブロンズ像(「銅」)の「ふるさと」は、「高岡」であると言って過言ではない。従って、市中は「銅」だらけである。JR高岡駅に降り立てば、そこにはコロッケは全く無くても、「銅」は出迎えてくれる。



改札前には、この様な「彫刻戦隊コッパーレンジャー(勝手に命名)」が訪れた者を待ち受け、通勤通学の高岡市民に対しては、己が「銅の民」である事を常に思い出させてくれる。センターに立ち、何かの大技を繰り出しているのが「コッパーレッド」であろう。これに「風流」を感じるのも悪くはないが、しかしそれは上級者編ではある。



藤子・F・不二雄の生誕地であるが故に、市中のドラえもんも、のび太も、しずかちゃんも、スネ夫も、ジャイアンも、その全てが「銅」である。ここのマイダス王は、「金」よりも「銅」がお好きなのだ。正に「高岡大仏」同様、「金」の一番目(奈良大仏)より、「銀」の二番目(鎌倉大仏)より、「銅」の三番目(高岡大仏他)位の街なのである。市中で一番のシャッター通りにも、「店」は無くとも「銅」はある。



歩行者が余所見をすれば、衝突が避けられない場所に「銅」はある。これもまた「文化」と言えよう。「風流」である。


そうした越国から、冬便りが届いた。これから数日の天気予報を見ると、「あめゆじゅとてちてけんじゃ」的なベチャベチャしたものが天から降ってくる様だが、この日は乾雪であった様だ。雪景色が「風流」である。



その雪景色の手前の点景は、言わずと知れた、荻原守衛(碌山)作の「女」である。日本近代美術の「傑作」であるとされ、「重要文化財(原型)」でもある。螺旋を描いた上昇の表現でもあるこの「東京ロダン」な彫刻を巡っては、善男善女受けする切なそうに長々とした「物語」もまた多く語られていたりする。その「物語」からこそ、この彫刻を読み解こうとする御仁も多い。それにしても、流石は「銅の街」である。通常は幾許かの入館料を払わなければ見られないその「傑作」を、太っ腹にも市中で公開してくれているのだ。バックに見えるのは「大英博物館」である(嘘)。



雪降り積もる地の、露天に置かれた「女」。ややもすれば、悲しげな「物語」が付き纏うこの「傑作」の、黒光とされる「女」の顔部分に、事もあろうに雪が残っている。そもそも雪は、屋根を圧し潰して、その下にいる者を圧死させたりする程に「冷徹非情」なものだが、この残り方にはそれ以上に「悪意」的なものが感じられる。即ちこれに見えるのだ。



しかし雪に「悪意」など、毛頭ある訳も無い。雪は全てに隔て無く降り積もり、良きものも悪しきものも、その全てを等しく「雪景色」一色に変えてしまう。それぞれの持つ「価値」の脆弱さ、常ならぬ事を、「雪」は己が消えるまでの間、垣間見せてくれる。やがて雪は溶け、再び脆弱で、常ならぬ「価値」は、何事も無かったかの如く息を吹き返し、堅固な、常なるものとして、素知らぬ顔をする。


「社会的日常性の形を取っている世俗的価値の破壊または逆転ということが風流の第一歩である」と、九鬼周造は「風流に関する一考察」の中で述べている。古来より「雪景色」が「風流」とされてきたのは、そうした「世俗的価値」の「破壊」や「逆転(転倒)」にあるからだろう。そこでは所謂「文化」すらも「世俗的価値」の一つにしか過ぎない。ならば「風流」とは、ラディカリズムの極北にあると言えよう。雪は「『文化』の地」にも「『文化』不毛の地」にも降り積もる。それらに大した違いが無い事を示そうとするが如く。

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枕が長くなった。


最近「風流2.0」(←ダサい仮称)とでも言うべき美術作品を目にする機会が多い。凡そ美術作品というのは、「風流」を排するものが多いが、これら「風流2.0」の作品群に対しては、「風流ですなぁ」という、ラディカルに「価値破壊」「価値転倒」な言葉を投げ掛けたくなる。


一例として、冨井大裕氏の〈今日の彫刻〉などは「風流2.0」の系譜にあるのではないかと思われてならない。そこに「讃」を付けるとするなら、やはりそこには「造化にしたがひて四時を友とす。見る處花にあらずといふ事なし。おもふ所月にあらずといふ事なし(笈の小文)」という芭蕉の言葉を引きたくなるのである。


しかし「風流2.0」に歩を進める前に、「風流1.0」についてもう少し書く事にしよう。


【続く】