暴力装置

21世紀の最初の年を描いた「2001: A Space Odyssey(邦題「2001年宇宙の旅」)」は、20世紀に於ける映画の最高傑作の一つと言っても過言であるとは言えない、だろう。


その冒頭は「THE DAWN OF MAN(人類の夜明け)」から始まり、「微妙な哺乳類」をイメージしたであろう獏(Tapirus)と共棲したりする「微妙な類人猿」が、しかし「中の人」の「いい仕事」的演技振りで、「人類の夜明け」を、それなりに「的確」に表現していると言える、だろう。


その「2001: A Space Odyssey(2001年宇宙の旅)」の「人類の夜明け」には、恐らく地球誕生以来「最初」の「パブリックアート」が、「ジェルジュ・リゲティ」と同時に出現する。この映画は、十中八九、地球初の「パブリックアート」を巡る、極めて面倒臭い、極めて壮大な/卑小な「叙事詩」だ。



地球上に出現したその「最初」の「パブリックアート」は、今日の近現代美術的なカテゴライズに基づけば、何処から見ても、誰が見ても、典型的な「ミニマルアート」であると言える。後に通称「モノリス」と呼ばれもする黒い直方体。それぞれの辺の長さには深長な意味があるらしいのだが、作者が「アノニマス」であるだけに、その「コンセプト」は「観客」に対して開示されている訳ではない。


現在各地に建立される多くの「パブリックアート」と同様、「人類誕生」と同時に出現したこの地球最初の「パブリックアート」もまた、そこに「住む」多くの「一般人(一般猿)」にとって、ある日突然、日常的「生活空間」に現れてしまうものだった。何か「自分達」とは関わりのない「外部」の「存在」によって、誰も「それ」をその場に設置する事を承認許可した訳でもないのに、言わば「一方的」な、一種の「暴力装置」的な形で、目が覚めたらその場にインストールされている。人類最初の「パブリックアート」に対する、人類最初の反応は、「え゛?」的な「困惑」である。「パブリックアート」の想像し得る起源もまた「闖入」的存在である。


ここから先のシーンは、「パブリックアート」の制作者側に寄った描かれ方がされる。恐らく「一般猿」より進んでいると自認する「モノリス」の「制作者(アノニマス)」の「意図」としては、簡単に言えば「『猿』である君達を目覚めさせる」である、だろう。その為に、より「開かれた」、しかしそうは言ってもこの広い宇宙の中の「一般猿」が群れ集う、極めて「限定的(閉じられた)」な「開かれた/閉じられた」場所に「パブリックアート」は設置されなければならない。それが出現するに値するのは、決して地球の大半を占める「人跡未踏」の場所であってはならない。そしてそれはまた、現在に到るまで、「パブリックアート」という一つの「思想」の根幹を成している。


しかし一体誰が「猿」やねん。でもそれがある事で、君達は「リヒャルト・シュトラウス」をバックに、「道具」に象徴される「新た」な「智慧」を手に入れて、生来の身体能力以上の「力」を手に入れたでしょ。えっ、それって、設置した側にとって、極めて都合の良い、因果関係のはっきりしない「後付け」じゃないんですか。大体この「ミニマルアート」な「パブリックアート」は、この「何も無い」地球の風景に、本当に「似合い」ますか。可哀想に、それを見て「拒否反応」しか示さない遅れた「一般猿」め。「進んだ」我々の「文明」では、これが街中の何処にも存在する事が「文化」的「常識」なのだよ。私は君達「一般猿」の「蒙」を「啓」いてあげているんだ。

パブリックアート
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』


パブリックアート(public art)とは、美術館やギャラリー以外の広場や道路や公園など公共的な空間(パブリックスペース)に設置される芸術作品を指す。設置される空間の環境的特性や周辺との関係性において、空間の魅力を高める役割をになう、公共空間を構成する一つの要素と位置づけされる。記念碑的なものより、象徴的なもの、コンセプチュアルなもの、建築の壁画、音、風、光などを利用したものも含まれる。


(略)


パブリックアートの概要


パブリックアートの目的は、


* 一つには芸術作品を街や公園に置いて市民に身近なものにするということ、
* 一つには芸術作品の設置によってその都市・場所・住民の歴史、気概、願いを形にして、公共の福祉の向上に寄与し、街づくりに結びつけたり地域共同体の活性化に結び付けたりその都市に文化価値を付け加えたりすること


(略)


美術の公共性


パブリックアートは美術館などで鑑賞者一人ずつが体験する絵画や彫刻などの美術体験とは異なり、日常空間の中にあり、不特定多数の人々が同時に体験することができる。


ここでは作家の個人的表現や鑑賞者の個人的体験だけでなく、作家にはより公共に開かれた表現が要求される一方で、鑑賞する側も共同で体験し(場合によっては住民らが共同制作を行うことで制作の過程自体にも関与し)、その経験を交換し合うことで、新たな公共性の創造や共同体の活性化が期待されている。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%96%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88


「当たらず近からず」が皆無ではない「Wikipedia」にあって尚、この「パブリックアート」を説明した箇所に関しては「当たらずとも遠からず」と言える、だろう。「アーティスト」や「アート関係者」が言うところの「市民」や「鑑賞者」や「公共」に、「一般猿」的な認識が皆無であるかと言えば、それを否定する事は難しい、だろう。彼等の言う「一般人」や「市民」や「社会」には、常にそうした「非対称」を前提にした姿勢がある。彼等は「アート」という名の、一種の「暴力装置」に対する「シビリアン・コントロール」の存在を信じていないし、それは寧ろ「悪」ですらあると思っている。


「アーティスト」や「アート関係者」は、そこに「アート」が存在する事で、「場」が「活性化」し、「その都市・場所・住民の歴史、気概、願いを形にして、公共の福祉の向上に寄与し、街づくりに結びつけたり地域共同体の活性化に結び付けたりその都市に文化価値を付け加えたりする」と思い込んでいる。



仮にこうした風景が現出したとしても、それが些かも一種の「暴力」として見えず、逆に100%「肯定的」なものに見えるなら、その人物はすっかり「アート」の「内部」に位置していると言える。しかしそれが幾らか「否定的」に見えるとしても、その多くは「何故ロバート・インディアナのこれではなく、自分の作品ではないのか」や「何故ロバート・インディアナのこれではなく、自分が良いと思う別の作品ではないのか」辺りの「部族間抗争」や「内ゲバ」に落ち着く、のだろう。ここでは、「アート」に潜む暴力性は、常に見えないか、見えたとしても棚上げをされるのだ。