国立国際美術館B2階のエスカレーター周辺は、実は結構好きな場所だったりする。インフォメーションやミュージアムショップやレストラン等のあるB1階とB2階を繋ぐ上下線のエスカレーターの脇(そこの丸柱に所在なげな「須田悦弘」がある)、B2階展示室とB3階展示室を繋ぐ上下線のエスカレーターの脇、そして奥のトイレ沿いの壁面。そこにキュービックな椅子が並んでいて、ここを訪れた際にはいつもそれに座っている。
国立国際美術館のフロアマップを見ると、そこは「展示室」という事になっていて、その壁面や床面に作品が展示される事もある。今回の「ヴォルフガング・ティルマンス Your Body is Yours」展でも、そこは確かに「展示室」だった。壁面上には「ヴォルフガング・ティルマンス」が「ヴォルフガング・ティルマンス」的にインストールされている。床面上には資料展示の台が設置されている。
上述フロアマップのページに掲載されているB2階の写真は原状という事なのだろう。あの椅子はまだ無い。ネット上にある同フロアを撮影した画像を雑略に検証すると、それが登場したのは21世紀ゼロ年代の後半だった様だ。ここに椅子が設置されるに至った経緯は判らないし判る必要も無い。重要なのはそこに座って休める=「展示室」内で座って休むという欲望を観客に喚起させたという事であり、また明らかにその設置によってこの「展示室」の空間的な性格が変質したという事だ。
今回の「ヴォルフガング・ティルマンス Your Body is Yours」展の場合、全会場に設置された椅子は、映像の2作品と他に “Freischwimmer" “Sendeschluss" “Weed"(例)が掛けられている部屋にそれぞれ木製の低い長椅子が3つ(以上を以後「A群」とする)、そして件のエスカレーター周辺の椅子(以後「B群」とする)である。
A群とB群の椅子の性格は異なる。それを簡単に言えば、そこに座って正面に見える「ヴォルフガング・ティルマンス」に目を遣る事無く、スマートフォンを取り出して LINE や Twitter や Facebook に興じていても、そこで小説の文庫本を読んでいたり、矢庭に PC を取り出して業務メールを送ったり、世間話や名刺交換をしていたりしても、相対的に咎められなさそうな椅子がB群である一方で、A群の椅子では中々そうは行かないだろう。A群の椅子では、否応無く作品と一対一で向き合わされる。映像作品は言うまでも無いが、例えば “Freischwimmer(フライシュヴィマー:自由な泳ぎ手・自由に生きる人/初めてのスイミング・テスト)" の前の椅子に座る観客の視線は、それ程には “Freischwimmer" たり得ない。
一方のB群の椅子は、外光の通り道であるヴォイドを通して「美術館の外」を背にする事で、「展示室」の中にありながら「美術館の外」を「展示室」の中に呼び込んでいる(その意味でB3階には「美術館の外」が届き難い)。その椅子の設置の結果、元々どちら付かずだったシーザー・ペリによるこの「展示室」は、よりストリート(プロムナード=序章)的な性格を強くした。この「展示室」の壁面は半ばストリートに面したショーウィンドウ的なものだ――従って旧来的な美術館展示を難しくさせる。B群の椅子はそのストリートのベンチなのである。そこではロングシートの電車の座席で行われている様な事がそのまま行われている。
ストリートのベンチから見る「ヴォルフガング・ティルマンス Your Body is Yours」展。そこから「写真作品」を見にやって来た観客を「通行人」として暫く観察していた。電車のシートに座り、向かい側の窓の外を見る様に。作品を見る人の背中を見る。全く酷い(ひどい/むごい)ベンチだ。
1, 2 … 終わり。1, 2, 3 … 終わり。1 … 終わり。1, 2, 3, 4 … 終わり。階下のB3階で同時開催されている「他人の時間」展に出品された某作品ではないが、この「展示室」の「ヴォルフガング・ティルマンス」の前に観客が立ち、それを見ている時間を脳内でカウントしていた。一つ一つの「ヴォルフガング・ティルマンス」に15秒以上掛ける者(国籍問わず)は恐ろしく少ないというのがその観察結果だった。20分間B群の椅子に座って観察したところ、30秒以上その「展示室」の「ヴォルフガング・ティルマンス」に掛けている観客はゼロであり、大抵は5秒以内で作品の前を立ち去っている。その「5秒ルール」を見て「実にティルマンスだ」と感じた。
同展に行かれた方(現代美術に極めて通じていると自認される方も含む)は、同展の具体的な作品(「被写体」の意味に「反応」してしまった作品や、“Freischwimmer" や “Sendesbluss(放映終了)" といった「非具象」な作品や、“Truth Study Center(真実研究所)" の様な思わず読まさせられてしまった作品以外)を思い浮かべ、脳内で正確な秒針を刻みながら、自分自身がどうであったかを反芻して頂ければ幸甚である。15秒や30秒というテレビコマーシャルの時間が、多くの「ヴォルフガング・ティルマンス」の前では如何に長いものであるかを感じられる筈だ。
同展の世評は高いのだろう。カルチャー誌やファッション誌の紹介記事、SNS等を含むそれら「上」から「下」までの世評の平均値を取れば、それは「カッコイイ」や「オシャレ」や「軽やか」などという事になるのであろうか。B1階からエスカレーターで降りて来た観客の多くは、そうした世評によって膨らまされた「さぞかし(must)」(さぞかし〜であるに違いない)で頭を一杯にしているのだろうか。そして常日頃の美術館に対して臨む「さぞかし」のスタンスで、大阪府大阪市北区中之島 4-2-55 B2ストリートのショーウィンドウの「ヴォルフガング・ティルマンス」を見る。
美術館やギャラリーというのは観客の「さぞかし」を裏切らないところだと思われている。「さぞかし」という期待に対するゲインは「おみごと」だったりする。そうした「さぞかし」と「おみごと」の共犯関係は、ヴォルフガング・ティルマンス本人(以下機能名としての「ヴォルフガング・ティルマンス」と区別する理由から 以下 “WT" とする)の言葉を借りれば「想定内のルーティン(foreseeable routine)」という事になるのかもしれない。
「ヴォルフガング・ティルマンス Your Body is Yours」展の多くの観客は、自らの持つ「さぞかし」という「想定(fore/see=前もって/見る)」が次々と裏切られる事に直面させられる。時に腕を組んだりして「ジッと見よう」と臨んでいた視線が、「ヴォルフガング・ティルマンス」を前にした瞬間に「キョロキョロ見る」に変質させられて行く。元々「おみごと」なものとして作られているものを「ジッと見る」事は容易だ。しかし「ヴォルフガング・ティルマンス」を「ジッと見る」にはどうすれば良いのだろう。答えを見い出せなかった観客は、作品を「ジッと見る」事を諦め、複雑で曖昧な表情と共にその前を立ち去る。しかし「ヴォルフガング・ティルマンス」は、「『さぞかし/おみごと』への裏切り」によってドライブする。「5秒ルール」こそは「ヴォルフガング・ティルマンス」が設定している時間だろう。
1枚の写真の中に、あるいはシリーズの中に、さまざまなものが混在するのを許すことです。これに耐えることが重要です。「耐える」というのは、完全に受動的に受け入れることを意味しています。ややもすればニヒリズムに陥る危険性もありますが、多種多様なものに関心を持ちながら、投げやりになることなく、凡庸にもならず、斜に構えることなくいること。これこそが自分が挑むべき挑戦です。
イデオロギーの善悪をふりかざし、間違ったものに対して戦いを挑むことは、実はとても簡単なことで、物事の複雑さをそのまま受け入れ、耐えることの方がはるかに難しいものです。芸術言語のレトリックとしても、それは大きな困難をともなうものです。
「ヴォルフガング・ティルマンス」は「さぞかし」の空間=「植物園」に寄生する。見るべきプラントが並ぶ「植物園」に、「さまざまなものが混在する」意図的にノイジーな山出し風にされたウィード(雑草/大麻)が運び込まれ、極めて良い具合の乱雑さで適度に繁茂したりする。「インサイダー・アート/アウトサイダー・アート」の如き「インサイダー・プラント/アウトサイダー・プラント」としての「雑草=アウトサイダー・プラント」。「植物園」に「雑草」を持ち込む事。「植物園」で催されるパーティの席では、それが「カッコイイ」「オシャレ」「軽やか」と話題になりもする。
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8月某日。国立国際美術館に向かう為に、阪急梅田駅から四つ橋線西梅田駅に乗り換える。梅田地下の500メートルを歩いていると、列柱は「バズドラ嵐 Future Gaming」の写真で覆われていた。
http://matome.naver.jp/odai/2143916058721536801?page=3
34歳から32歳(2015年9月3日現在)までの5人の「男子」で構成される、ギネスブックに "the most #1 acts produced by an individual" として登録されている “boy band" プロデューサー、ジャニー喜多川氏の事務所所属のアイドルグループ。
梅田の地下通路を歩く老若男女の「通行人」の大半は、その写真の列を時限的な「環境」として遣り過ごして行くものの、その一方でその写真に写されている "boy" に対して限り無く魅了され、その前で長く佇む人も少なからず存在する。「バズドラ嵐 Future Gaming」の列柱の前に相対的に長い時間佇む――様々な性的指向=sexual orientation や性的嗜好=sexual preference を持つだろう――人達の、その写真に対する反応をネット上で追ってみれば、そこには拡大された「若くて綺麗な男性」の腕や手、或いは他の "organ" に対して、フェティッシュに魅了される人の存在の例も直ちに確認出来る。
http://ameblo.jp/ninoccori-paradox/entry-12060696273.html
それにしてもこの梅田の地下通路には、出版物等の中の極めて小さな写真、或いは道行く人のモバイル端末内やそれに繋がるサーバ上のものを含め、果たしてどれだけの枚数の写真が存在するのだろうか。何万枚だろうか、何十万枚だろうか、何百万枚だろうか、何千万枚だろうか。
(C) Google
梅田の地下街を棲家とする、或いは通りすがりの写真には、撮影を生業としている者によるものもあれば、そうでない者によるものもある。その上「撮影を生業としている者」と言っても、そこには所謂「写真作家」と呼ばれる者から、スーパーの新聞広告チラシの商品写真を一日何百枚も撮影する様な「写真技術者」までいる。
折り重なりもしているその写真のほぼ全ては、たまたま隣り合い重なり合ってしまったものばかりだ。この地下街に於ける写真の入れ子状の隣り合い/重なり合いの「たまたま」は、例えば「優美な死骸(le cadavre exquis)」といったアクティビティの結果としてのものとは全く異なる。ここは意図的に構築された写真の「植物園」ではなく、持ち込まれた写真が勝手に繁茂し増殖しライフサイクルを閉じてて行く「密林」だ。
所謂写真として認識されるものとは別に、この地下通路にあるウォールナット材や大理石に見える壁や床や柱や調度までもが、全てマイクロスコープで拡大すれば網点が見えるエンボス加工された写真パネルである。
ほぼ1メートル毎に反復されるそれらの木目等のパターンは、そのあり得なさ故に「合理」を表象する機械であるカメラのみによって得られた像ではない。それらは確かに或る時点まではオプティカルに撮影されたかもしれないものである一方で、或る時点以降は光学のストレートな結果では無い。或いはそれは、何らかのアルゴリズムが生成した、カメラを全く介しない「暗室の抽象(darkroom abstraction piece:ギル・ブランク)」に於いて完結する、ウォールナットの木目に見えてしまう様な何かなのかもしれない。これらの21世紀のトロンプルイユは、写真の「密林」の苔類や蘚類なのであろうか。
この「可愛い私の猫ちゃん」から「ISによって破壊されたバルミラ神殿」、「ガラケー」から「大判カメラ」までの「私性」と「社会性」が「混在」した、様々な生態(展示の在り方)を持つ写真の「密林」に「ヴォルフガング・ティルマンス」を入れた瞬間、「ヴォルフガング・ティルマンス」は「ヴォルフガング・ティルマンス」としては跡形も無くなってしまうかもしれない。「密林」の中では、どれが「雑草」や「雑木」であり、どれがそうでないかを同定する事に意味は無い。そこでは全てが「雑草」や「雑木」である一方で、全てが「雑草」や「雑木」ではないものだ。その様な「密林」で消え去る戦略的な「雑草」としての「ヴォルフガング・ティルマンス」。しかしそうした「消え去り」こそが、恐らく「ヴォルフガング・ティルマンス」というものの持つ意味だろう。
“WT" が “my sense of duty is that I want to make new pictures(私にとっての義務感とは、新しい写真を作りたいということにほかなりません)"(ジュリアン・ペイトン=ジョーンズとハンス=ウルリッヒ・オブリストによるインタビュー)と極めて凡庸そうな事を言う時、その「新しい写真」とは何を意味しているのだろうか。それは変化して止まない「写真の生態系」へのアプローチの更新を意味しているのではないか。
But then of course the world into which they insert this image can never totally conform, and is always a bit out of control because of all the different layers that people add to it. In cities things are constantly being layered upon each other in a way that is much more anarchic than what is first imagined by the city planner, or the architect of a building, or the advertising executive. This collage view on cities I find really fascinating because there is no master plan, or people always overwrite the master plan. I like that messiness.
とはいえ、人々がさまざまなレイヤーを付与するので、世界はもちろん挿入されたあのイメージに同調などせず、常に少しだけ制御不能のままです。都市では物事が絶えず相互に重なり合い、ある意味、都市計画者や建物設計者、宣伝担当幹部が当初想定していたよりもそれはかなり無秩序なものになります。基本計画などなく、人々が常に上書きしていく都市のコラージュ的光景はかなり魅力的なものだと思います。その乱雑さが好きですね。
http://www.art-it.asia/u/admin_ed_itv_e/j2B06EFSqdmrDZp39kMu/?lang=en
鬱蒼とした「密林」を通り、「植物園」で植栽された「雑草」のジオラマを見て、再び鬱蒼とした「密林」を通る。「植物園」の中で「ヴォルフガング・ティルマンス」という「雑草」のジオラマに、例えば「イメージから直接的に重層性をもって解釈可能な意と、イメージの裏側に潜みある種の寓意性を持ちながら解される意と、これらイメージを介した二項論的存在が見られる(同展カタログ「ヴォルフガング・ティルマンスの作品における重層性」植松由佳)」を読み取ったとしても、それらの「イメージを介した二項論」というのは、「植物園」での「雑草」ジオラマを見た後に、梅田の地下街を(或いは四つ橋線肥後橋駅等に向かう道を)「ヴォルフガング・ティルマンス」によって感度を上げられた目で見れば見えて来る事かもしれない。「『ヴォルフガング・ティルマンス』を見る」というエクスペリエンスは、――殆どの現代美術作品がそうである様に――観客自らが属しているところの環境に対する感度を上げる為のプラクティスの一つなのである。
「見るべきもの」と「見るべきもの」の間に「ヴォルフガング・ティルマンス」はある。そして「ヴォルフガング・ティルマンス」を見た観客は、「見るべきもの」と「見るべきもの」の間を見る眼差しを持ち帰るのである。